近衛文麿論 阿部真之介 1937年、昭和12年7月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨
感想 2020年10月19日(月)
再度読み返してみると、筆者が社会主義的な見地に立っているように思われた。「大衆が目を覚まし、自らの力を信ずるまでは、政治の難局を解決することはできないだろう。」「大衆や大衆の力を無視した政治形態は、究極のものとはいえない。」とさりげなく長文の中に挿入している。そして「左への逆戻り」とは、ちょっと前の社会主義が盛んだった頃への逆戻りを意味し、筆者はそれへの郷愁を感じつつ、時代のファシズム化を憂えているようだ。また、一見白けたように見える筆者の文体は、ファシズム化が進むどうにもできない時代への反発・反感があるからではないだろうか。
感想 2020年10月19日(月)
・文体が変 白けた(クールな)口ぶり 時代の影響か、それとも筆者固有のものか。
・近衛の特権的立場=身分 政治経験がなくても総理大臣になれる。その程度の政治。
・国民の愚民性 近衛称賛 国民は何を見ていたのか。その国民とは誰か。一部の特権階級ではなかったのか。
要旨
編集部注
近衛文麿は、二・二六事件直後に組閣を命ぜられたが辞退した。その後も出馬が期待されていたが、1937年、昭和12年6月、総理大臣となった。近衛の才能も知らずに国民は歓呼をもって近衛を迎えた。このころ日本の情勢は重苦しくなる一方で、国民は情勢の好転を近衛に期待したのだった。しかし組閣1ヵ月後に盧溝橋事件が始まった。(軍部は政治を知らない貴族を望んだのだろうか。)
本文
近衛公が所在する社会的位置が、彼の価値を高めている。安井文相は大阪府知事から大臣になったが、近衛公は全く官歴も持たずに、総理大臣になった。近衛公の方が跳躍振りが大きい。
371 安井の躍進は近衛の学友だった関係からということだ。近衛は公爵だから総理になれたのであって、彼が偉大だったからではない。
近衛内閣を信頼していない人もいる。
近衛は幸せであると同時に不幸だ。近衛は同じ人間として生まれたが、育ちが違った。近衛は労働する平民と全く違った人種になった。高雅な気品、おうようで迫らぬお殿様の気品に人々は圧倒される。これは彼の奇妙な人気の一因だ。
近衛は生存競争の外にある。勅選議員になるには何十年の勤労奉仕を必要とするが、彼は大学生で既に公爵になり、貴族院議員になった。公爵は一定の年齢に達すると、貴族院議員の資格を得るが、それは生存競争を必要としない加齢という過程だ。
近衛は50歳にならないのに、苦労もせず、大宰相になった。羨ましいかぎりだ。しかしそれと同時に、痛ましいとも思う。第一に、彼の精神力と体力は、非常時という凶暴な波風に耐えられるのか。彼に自信があっても、彼の取り巻き連中は、困った時には逃げるような人たちだ。彼が大事な国政を行う時、周囲の者から子ども扱いされたら、聡明な彼には耐え難いだろう。
372 彼の親近者は、彼が政界に深入りすることを憂えているとのことだ。彼らは彼をできるだけ早く内閣から引退させ、宮中に入れ、西園寺公が百年間やってきたことを継承させようと目論んでいる。彼が政治的に致命傷を負う前にそうさせたいと彼らは考えている。理想的には次の普通議会開会前である。近衛内閣短命説はそこから来る。
しかし親近者の中にも近衛が政界に進出するのを望んでいる者もいる。これが新党運動である。彼は親近者の中の自重派と積極派との間で身動きが取れない立場に置かれている。
消極派は実は消極的でなく、世論の要望を上手くつかんでいるようだ。組閣者奏薦の方式は天下の難問だ。これは政党主義没落以後の政治方式の問題である。もし彼が筋書き通り内大臣になり、組閣者の御下問に奉答することになれば、彼の立場は重大になる。彼に政治運動は似つかわしくない。ボロを出すよりは、内大臣のそういう役目が彼にとってうってつけの役回りかもしれない。しかし、近衛はうぬぼれて、かなり政治家意識に燃え立っているとのことだ。
373 彼がいつ政党組織に載り出すかは分からない。有馬伯邸はかつて新党運動の密会の場所だった。ここに林大将、永井柳太郎、中島知久平らも謀議に加わった。林大将は新党組織に失敗し後退した。謀議に参画した有馬、永井、中島の三人が入閣したところから見ると、近衛の、新党に対する思い入れの度が分かる。彼が新党の陣頭に立つかどうかは未確定だが、彼が陣頭に立たないと望みは薄い。
新党についてさらに詳しく述べる。新党運動は広田内閣の頃から始まり、政党の革新運動と称しているが、実は政党の降伏運動でもある。政党は現状のままでは立ち枯れるだろう。
世界的にみても、政党政治は弱くなってきた。英米のような政党主義の国々でも、その制度を補修している。日本では政党政治の日が浅く、その功罪は相半ばしているから、政党政治の行く末は危うい。だから、議会政治を否認する思想、議会政治を容認しながら、政治を否認する思想、議会政治を容認しつつ、政党を排撃しようとする思想、議会政治の権限を極端に局限しようとする思想などが実際行われつつあり、しかも新党運動はこれらの勢力と協調するから、自らは後退し、恭順で、命だけはお助けというのだろう。
近衛内閣が組閣されてからの第一の声明は、国家の各層の摩擦を緩和するということだった。(近衛の)新党運動は降伏・帰順であるから、摩擦を皆無にすることを意味するだろう。近衛は新党の総裁になる決意がまだできていない。広田外相を新党総裁に押すという説もあるが、日本人は家柄について迷信を持っているから、広田総裁では受けがよくない。由緒ある家柄の末裔を擁して一旗挙げることは、勇ましく殉教的であると伝統的に思われている。
374 人々には、関白太政大臣の家柄の若くて聡明な公達が、何となくありがたいのだ。
人々は、貧乏人の子が欠食児童になるのは当たり前だが、大名の若殿が欠食児童となるのがたまらなく憐れなのだ。
仙台の東北振興会社で東北(の民衆の)救助の仕事をしていた吉野信次が、その救助の作業を中止して近衛内閣の大臣として参加した。今出羽奥州の何百万人もが飢えている。吉野が会社をやめたのは、出羽奥州の何百万人を見捨てたということだ。近衛はこれをどう考えるのか。それは政治的不道徳ではないか。
大衆が名君思想に跪く意気地なさを、私は情けないと思う。大衆が目を覚まし、自らの力を信ずるまでは難局を解決することはできないだろう。大衆や大衆の力を無視した政治形態は究極のものとはいえない。その意味で近衛内閣は、我らの内閣ではない。しかし暫定的な意義をこの内閣に認めることは、不可能なことではない。
この内閣をファッショ政策の最後の障壁だとみる人もいるし、ファッショ勢力に達するための最後の飛び石と見る人もいる。両者の見解は正反対だが、同じ的を射抜いている。もし近衛内閣が林内閣よりも一歩でも左へ逆戻りしたかに考える人は、政治的見方が間違っているか、先入観を脱せない人だ。
近衛は進歩主義的と看做されていた。彼の一本槍とも言える貴族院改革が、その進歩主義を表すと考えられた。階級闘争の論議が行われる時代に、貴族階級に属する者は安心していられないはずだった。彼の提案が平民の心を和らげる意図を持つ意味から、彼も平民主義者であるかのように思われた。
近衛は右から左まで交友が広い。近衛はよく他人の意見を聞き、自ら語ることは極めて簡潔で、言葉に含蓄が多いから、――反対に言葉の表現が曖昧だとも言える――それぞれをそれぞれの立場で、近衛が自分の味方だと思い込ませてしまう。しかし時勢の変化につれて、彼の表現にも多少の変化は免れない。十年前左翼が華やかだったころ、彼は自由主義よりもっと左に見えたが、今では時代と共に右へ移動し、自ら国家社会主義者と公然と名乗るようになった。世の中が(左に)後戻りしたなどとはとても言えない。
新聞は彼を「科学的ファッショ」と呼んでいる。それは実行性のないファッショの風刺だ。ファッショは元来実行者だ。実行したあとに取ってつけた理論が、すなわちファシズムである。近衛は先に理論を考える。ブルジョワはファッショを恐れているから、近衛の出現を歓迎している。彼の実行性のないファシズムを見抜いているからだ。
376 実生活を知らない者が空想的・理想的になるのは自然のなりゆきだ。彼の同僚の有馬農相もそうだ。有馬伯から悪い印象を受けることはまずない。それは華族ならではの善良さだ。
有馬伯が日比谷公園で草を刈った。自分の庭園は植木屋に任せておいて、公園の草を刈るのは矛盾している。そこに気づかない「いっこくさ」(頑固さ)は、貴族社会ならではのものである。だからそこに好感が持たれる。有馬は文部大臣の椅子を割り当てられたが辞退した。それはほんのわずかの品行上の問題があったためだ。普通の政治家ならそんなことは気にしない。
このような善良さや良心的なことは貴族の特徴であるが、その半面実行力は欠けている。食いついたら離さないような執念は彼等にはない。近衛内閣への人気のもとも「何かを為すだろう」という積極性ではなく、「悪いことはしないだろう」という消極性である。
近衛内閣の第一の仕事は保健省の設置だった。陸軍省の調査によると、国民体位の低下は年々驚くべきものがある。
377 近衛の健康状態を問題にして、近衛内閣が短命だと言う人がいる。かれはひどい不眠症に悩まされている。
以上 2020年10月19日(月)
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