盧溝橋事件 ウイキペディア 感想・要旨
感想 2020年10月25日(日)
「条約に基いて」、「中国側は条約を破ってばかりいる」などという言い回しに、日本人が書いた文章の中のあちこちで接する。しかし、そもそも、その条約は対等な関係で結ばれたのか、不平等な内容は含まれていなかったのかをまず問題とすべきではないか。外交権を剥奪し、無理やり結ばせておきながら、それが「合法的な併合」だったと日本側は今でも嘯いているが、それでは相手側は収まらないのではないか。日本が幕末から明治にかけて結ばされた不平等条約はどうなったのかを考えてみよ。結局その不平等性は解消する方向に進んだではないか。相手の立場に立って物事を考えよ。
追記1 2020年10月26日(月)
「日本の善意が悲劇を招いた」「不遜な態度」などの表現の中に、自己中的態度を読み取ることができる。それでは相手に好かれることはないだろう。
追記2 2020年10月26日(月)
最後まで読んでみると、日中戦争を拡大したのは中国側の責任であると読める。日本が中国に示した「寛大な」和平条件は、満洲国問題を除外し、共産党排除を前提とするというものだが、その寛大な条件を蔣介石は蹴ったとウイキペディアに書いた人は言う。そして、その背景には、蔣介石が中国の民衆に押されて戦争を続行せざるを得ない立場にあったということがあるらしいが、それではその民衆の気持ちとはどんなものだったのかについては、全く触れていない。
日中間の細かい応接にこだわり、歴史の全体の流れを見ようとしない。共産党はアプリオリに除外である。共産党はこの地球上の人ではないのだろうか。
中国版や英語版ウイキペディアではどうなっているのだろうか。
追記3 2020年11月2日(月)
義和団事件後に締結された条約の遵守よりも、なぜ義和団事件が起ったのかを研究することのほうが、歴史を理解する上で大事なことではないか。同様に盧溝橋事件の直接の原因(最初の一撃はどちらか、行方不明の兵士問題)を微細に追求することよりも、日中戦争に全面展開していかざるを得ない歴史的背景を研究することの方が重要ではないか。
要旨
1937年7月7日夜、豊台に駐屯する(北京議定書違反)(日本の)支那駐屯軍の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊が、中華民国の北京(北平)西南の盧溝橋近辺の河原で夜間演習中、(中国国民革命軍第29軍から)実弾を打ち込まれ、兵士一人が(20分間)行方不明となった。その後(中国側から)散発的に射撃があり、翌朝、第三大隊は、中国軍が駐屯する宛平県城を攻撃した。
その後小規模の戦闘があり、9日、事実上停戦状態となった。
中国では七七事変と呼び、英語名を直訳してマルコ・ポーロ橋事件とも呼ばれる。
事件の概要
1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)と歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロの盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習について日本軍は7月4日夜、中華民国側に通知した。
これに対して中国側は許可を出さなかったが、(北清事変後の)北京議定書(辛丑(しんちゅう)条約、1901.9.7)では、駐留軍には演習権が認められており、中国側の許可は不要だった。(やりたい放題)また第3大隊は北京議定書に示されていない豊台に駐留していた。
第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃、永定河(盧溝橋がかかる川)堤防の中国兵が、(日本側の)第8中隊に対して実弾を発射した。その前後に宛平県城と堤防の中国兵とが懐中電灯で合図をしていた。
清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派して、大隊長の一木清直少佐に状況報告し、部隊を盧溝橋東方1.8キロの西五里店に移動させ、7月8日午前1時頃に到着した。
7月8日午前0時頃一木大隊長は報告を受け、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊を一文字山へ出動させ、夜明け後、宛平県城の営長との交渉を命じた。
日本軍北平部隊は、森田中佐を(豊台に)派遣した。宛平県庁・王冷斉と冀察外交委員会専員・林耕雨も森田中佐に同行した。
これに先立ち、豊台部隊長は、盧溝橋の中国兵を難詰し、同所からの中国兵の撤退を要求した。その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近や永定河西側の長辛店付近の高地から、集結中の日本軍に(中国側が)迫撃砲や小銃射撃で攻撃した。日本軍も応戦し、龍王廟を占拠し、盧溝橋の中国軍に武装解除を要求した。この戦闘で日本軍の死傷者は10数名、中国側は死者20数名、負傷者60名以上だった。
8日午前9時半、中国側の停戦要求により一旦停戦した。(分かりにくい。)
(中国側は)北平の各城門を8日午後0時20分に閉鎖し、午後8時に戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられた。市内に日本軍歩兵の一部が留まり、日本人居留民を保護した。
北平部隊の森田中佐は、8日朝、現地(盧溝橋)に到着し、(中国側と)交渉した。(中国側の)外交委員会は、日本側の北平機関を通して、両軍の原状復帰を主張して(交渉に)応じなかった。
9日午前2時、中国側は午前5時までに盧溝橋にいる部隊を永定河右岸に撤退すると約束した。しかし午前6時になっても撤退しなかった。それどころかさらに兵力を増強し、監視中の日本軍に銃撃を行った。日本軍がこれに応戦すると、中国側の銃撃はやんだ。
日本軍は中国側の協定不履行に抗議した。中国側は9日午前7時、旅長と参謀を盧溝橋に派遣し、中国軍部隊の撤退を督促した。中国側は午後0時10分、同地の部隊1小隊を残して永定河右岸に撤退した。残った1小隊は、保安隊到着後に交代させることになった。しかし、中国側は永定河西岸の兵力を増強した。
この日9日午後4時、日本軍参謀長は、幕僚と共に、交渉のため天津を立ち、北平に向った。
永定河対岸の中国兵は、10日早朝以来、時々、盧溝橋附近の日本軍監視部隊に射撃を加えた。同日10日夕刻、衙(が)門口方面から南進した中国兵が、9日午前2時の(休戦)協定を無視して、龍王廟を占拠し、盧溝橋附近の日本軍を攻撃した。牟田口部隊長は逆襲し、10日午後9時頃、龍王廟を占領した。この戦闘で日本側は、戦死者6名、重軽傷10名を出した。
11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主力は盧溝橋東北方約2キロの(西)五里店付近に集結した。当時砲を持つ7、800(人)の中国軍は八宝山とその南方地区にいて、長辛店と盧溝橋で兵力を増強し、永定河西岸と長辛店高地の端に陣地を設備し、兵力を増強しているようだった。
日本軍駐屯軍参謀長は、北平で冀察首脳部と折衝したが、中国側は強硬で、交渉が決裂しそうだったので、11日午後、北平を離れ、飛行場に向った。冀察側は日本側が官民共に強固な決意であることを察知すると、11日午後8時、北平に留まっていた交渉委員・松井特務機関長に、日本側の提議*を受け入れ、29軍代表・張自忠と張允栄の名で署名し、日本側に手交した。
*日本側の提議
・中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件を起こさないようにすること、
・盧溝橋と龍王廟から兵力を撤収し、保安隊に治安維持をさせること、
・抗日各種団体を取り締まること
事件前の状況
コミンテルンの人民戦線と中国
1935年7月25日から、第7回コミンテルン大会が開かれ、ドイツと日本を「目標」とすることが宣言された。同時に世界的に人民戦線を結成すると決議し、中国での抗日戦線が重要だと主張し始めた。中国共産党はこの方針に沿って、翌8月、「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、抗日人民戦線を完成した。
コミンテルンによる中国の抗日運動の指導は、5・30事件に始まる。抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく、対日戦争の準備だった。(外務省1936 p.28、当時の外務省の判断か。)1935年11月の中山水兵射殺事件、1936年8月24日の成都事件、同年9月3日の北海事件、9月19日の漢口邦人巡査射殺事件、9月23日の上海日本人水兵狙撃事件などの抗日運動を続発させた。(それなりの理由があるからでしょう。)さらに1936年12月の西安事件におけるコミンテルンの判断は、蔣介石の殺害ではなく、人民戦線に「引き込む」ことであった。(外務省1937d p.16)西安事件翌月の1937年1月6日、中華民国南京政府は、国府令として、共産軍討伐を任務とする西北剿(ショウ=滅)匪司令部を廃止した。
中華民国による中央集権化と抗日の動き
1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定によって戦闘行為は停止されたが、中華民国の国民党政府は、満州国も、日本による満洲占領も認めていなかった。1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき、南京政府は国内統一を進めた。山西省の閻(エン)錫山に対しては、民衆を扇動して反閻錫山運動を起こし、金融問題によって李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ、四川大飢饉に対する援助と引換えに、四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し、宗哲元の冀察政府には、第29軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた。
南京政府は1936年春頃から、各重要地点に、対日防備の軍事施設を用意し始めた。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し(自国なのだから勝手ではないか)、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態は軍隊と変わらないことを(日本側が)抗議したが、中国側からは「誠実な」回答が出されなかった。(『東京朝日新聞』1937.6.26)また南京政府は山東省政府首席・韓復榘(ク)に働きかけ、対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させた。(『東京朝日新聞』1937.6.12)梅津・可応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去された後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第29軍に入り込ませ、抗日の気運を徹底させた。(『国際写真新聞』同盟通信社1937.8.5)
第29軍
第29軍は1925年以来、西北革命軍として、馮(ヒョウ)玉祥の下に中華民国の北伐に参加した。(第29軍は)1928年、宗哲元が陝西省の主席に就任したとき陝西に入った。1930年、蔣介石と戦って敗れた。1932年、宗哲元が察哈(コウ)爾省主席に就任した時に、(第29軍)全軍が河北省に移動した。1933年、(第29軍は)長城抗戦で日本軍に敗れた。1935年6月、中央軍撤退の際に、(第29軍は)河北省に進出して、北京・天津を得て、兵力10数万となった。(『支那事変実記第1輯』1941)
長城抗戦の時期に、中国北部を蔣介石直系軍(中央軍)の支配とするため、宗哲元らの非中央軍は、雑軍整理のため、日本軍と対峙させられ、日本軍・満州軍からできるだけ打撃を被るように仕向けられ、敗走すれば中央軍に武装解除された。
宗哲元は日本から張北事件*の責任を追及されたとき、南京政府によって察哈(コウ)爾(チャハル)省政府主席を罷免された。
*張北事件 第1次 1934年、内モンゴル調査行中の日本軍将校が張北で中国軍に暴行された事件。第29軍長の宗哲元が謝罪して解決。第2次 1935年、関東軍の特務機関員が張北で中国軍に数日間監禁された事件。日本軍はこれを口実に、責任者の処分、チャハル省内における日本側の行動の自由、宗哲元軍の長城線以北からの撤退などを認めさせた土肥原・秦徳純協定を結んだ。
チャハル(察哈爾)は近世以降のモンゴルの有力部族集団の一つ。清朝は、モンゴルを、八旗蒙古、内属蒙古、外藩蒙古の三種に区分したが、チャハル部は、清朝皇帝に直属する「内属蒙古」とされた。
一方、梅津・可応欽協定*により、蔣介石直系軍が河北省から撤退し、その後の河北自治運動が、宗哲元自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に、(宗哲元が)中国北部に新政権を樹立する行動をとると、宗哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蔣介石は、宗に「中央の意思に背くようなことがあれば断乎とした措置を取る」と警告された。それに対して宗哲元は、「中国北部の自治を要求する」と返事をした。
*梅津・可応欽協定 1935年6月、華北駐屯軍司令官梅津美治郎と中国国民政府軍事委員会北平分会代理委員長の可応欽との間の協定。河北省内の中国軍の撤退、国民党機関の閉鎖、排日活動禁止を中国に押し付けた。1935年5月2日夜、天津の日本租界の反蒋介石・親日・親満州国の新聞社社長2名(中国人)が暗殺された。藍衣社によるものであった。
可応欽が北平に派遣され、中国北部の新政権は南京政府の支配下に置くという腹案のもとに(宗哲元と)交渉した。すると宗哲元は一切の官職を辞して、天津に退避し、可応欽に北平からの退去勧告を出し、1935年12月18日、冀察政務委員会が成立した。
この政権の目的は、「河北の民衆による自治と防共」「外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限の中央からの分離」とされた。(姫野徳一『冀察・冀東問題』日支問題研究会1937.8.20)日本との提携が強調され、翌年1936年2月、土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局はこれに応じた。
なお、日本は華北分離工作において、軍事圧力を用いて宗哲元に自治を要求したが拒否されたという説もある。(現代社会文化研究No.21 2001.8 満鉄の華北への進出)
盧溝橋事件の前に、第29軍は、コミンテルンの指導の下で中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い、国民政府からの中堅将校以外に、中国共産党員が活動していた。副参謀長・張克侠や参謀処の肖明、情報処長・靖任秋、軍訓団大隊長・馮(ヒョウ)洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は、第29軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により、張友漁は、南苑の参謀訓練班教官の立場で、兵士の思想教育を行っていた。(安井1993)
第29軍は盧溝橋事件の2ヶ月前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面で兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に抗日抗戦の態勢に入っていた。(坂本夏男「盧溝橋事件勃発の際における牟田口廉也隊長の戦闘開始の決意と命令」『芸林』42(1), 1993-02)(どうしてこんなことが分かったのか。)
日本軍
日本軍北支那駐屯軍は、中国側の戦力を警戒し、天津に主力を、北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつおき、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のために、連日演習を続けていた。北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は、北清事変最終議定書(北京議定書)と1902年7月の天津還付に関する列国との交換公文に基くもので、1936年には、従来の2000名から5000名に増強されていた。この増強は、長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを日本陸軍が重視したことと、日本居留民増加のための保護にあたる兵力の不足が痛感されたからである。(それはこじつけではないか。)また関東軍の干渉を封ずる目的もあった。
豊台は、北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれたが、陸軍自身の調査により、「豊台には日本軍の法的根拠なき」との結論が出されている。その上で「とりあえず、一部隊を臨時形式に派遣し、時日の経過とともにこれを永住化する」とし、中華民国の反対を押し切って、1936年6月に豊台駐留が行われた。(強引)豊台にはもともと中華民国第29軍第37師の一部隊が駐屯しており、そこへ日本軍が駐屯し、第一次、第二次の豊台事件が起き、中国軍が撤退した形で収束した。
共産軍の山西省攻撃と支那駐屯軍増強
中共軍は江西根拠地から大西遷を行い、1935年秋、陝西省に移ったが、主力の集結を待たずに、2万余の全兵力で、1936年2月17日、山西省内に進出した。
陝西の中共軍に対して、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍、閻錫山の山西軍が第一線に立ち、後方に准中央軍、中央軍が配置された。
中共の巧妙な工作により、東北軍、西北軍は中共軍に対して戦意がなく、中共軍の攻撃は専ら山西軍に向けられ、1ヶ月で山西省の三分の一を占領した。共産軍は討伐軍との戦いの経験を積んでいて、作戦・戦術が山西、綏(スイ)遠などの地方軍に比べて優秀で、脚力・行動力があり、弾丸に余裕がないために射撃に無駄がなく、優れた腕前で、斥候の偵察状況判断が的確で、住民との連絡が完璧で、主力部隊との交戦を避け、敵の意表をつき、各個撃破の作戦はパルチザン式により高効率で、時と場所、情勢に即して宣伝が巧みだった。
一方、山西軍は、山西モンロー主義の中、長年産業道路の建設に使役され、銃を取って戦線を駆け回ることが難しく、共産軍の宣伝上手により、寝返りの危険が全線に蔓延した。
山西軍の閻錫山の計画経済、土地国有も、巧みに擬装された山西省の省民搾取の手法だと暴露され、山西省の民を取り込む共産軍側の宣伝材料にされた。
宗哲元は、山西省共産化の危機増大に鑑み、河北省や察哈(コウ)爾(チャハル)省への共産軍の進入を防ぐため、第29軍の一部を省境に配置し、保定に赴き、数日間、河北省南部の縣長会議を招集し、防共のための指針を与え、(1936年)3月29日、察哈爾省主席・張自忠から察哈爾省の防共情勢を聴取して協議を行い、午後天津に赴き、多田・駐屯軍司令官、松室・北平特務機関長、今井・北平武官らと会見し、北支防共に関する会議行った。
3月30日、多田・駐屯軍司令官と冀察綏靖主席・宗哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ、「協同して一切の共産主義的行為の防遏に従事する」ことを約したと言われる。(戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」)
翌3月31日に調印されたという細目協定の要旨は、
(一)冀察政権は(山西省の)閻錫山と協同して共匪の掃討に従事する。このために閻錫山と防共協定を結ぶことに務める。閻錫山がこれを反対するなら、適時独自の立場で、山西に兵を進め、共匪を掃討する。
(二)共産運動に関する情報交換。
(三)冀察政権は防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じて防共協定を結ぶことに務める。
(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要な援助を行う、
と決めた。(戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」
「東アジア全体の安定のために」、日本側から提議された、北支、外蒙古における「赤化」に対する日支共同防衛に関して南京政府と協議する件について、南京政府にその熱意はなかった。(『大阪朝日新聞』1936.4.11)共産軍の迂回行動に当たって、その進路を示したのは蔣介石であり、蔣介石の意思は、共産軍の進路を決定する一要素であった。蔣介石は「剿(ショウ)匪」の名の下に(共産党)討伐の指揮を執りつつ、軍事行動を利用して中央の威令の及ばない地方勢力に対する中央政権の拡大強化を行い、(共産党)討伐の戦略も、殲滅作戦ではなく、共産軍を駆逐し、それを追撃した。
1936年4月17日、廣田内閣は閣議で支那駐屯軍の増強を決定した。軍は6月上旬、編成を完了した。軍司令官は田代皖一郎中将であり、軍司令部、支那駐屯歩兵第二連隊、軍直諸隊は天津に配置し、歩兵旅団司令部、支那駐屯歩兵第一連隊を北平と豊台に、その他の一部の歩兵部隊を塘沽、灤(ラン)州、山海関、秦皇島などに配置した。
なお、参謀本部には、増強された支那駐屯部隊の一部を通州に駐屯させ、冀東を防衛するという案もあったが、梅津美治郎・陸軍次官から、「外国軍隊の北支駐屯を定めた、北清事変最終議定書の趣旨に照らし、京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできない」と反対があり、豊台に一個大隊を置くことになった。
豊台は、北寧鉄路*の沿線だが、北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれた。陸軍の調査でも「豊台に法的根拠なし」との結論であり、法的根拠なしに「臨時に」部隊を置き、これを永駐化する方針だった。豊台駐兵は、中国外交部の反対があった。また中国軍兵営とも近く、盧溝橋事件の遠因となった。東京裁判でも問題となった。盧溝橋事件の現場に居合わせた今井武夫・北平武官によれば、豊台は、北寧、平漢*両線の分岐要点であり、(豊台駐留は)北平の戦略的遮断の意図と「誤解」され、豊台事件を惹起した。(今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964)
*北寧鉄路 北京と山海関とを結ぶ。元は京奉鉄路で、北京から奉天までだったが、満州国の成立で、山海関までとなり、北寧線と呼ばれ、山海関と瀋陽(奉天)間は、奉山線と改称された。
*平漢鉄路 北平と漢口とを結ぶ。
中村粲によれば、「梅津・陸軍次官は、国際条約尊重の立場から、通州駐屯に反対したが、豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、そして、多数の日本居留民が虐殺された通州事件が、通州における『日本軍不在を狙って計画された』ことは、『日本の善意が悲劇を招いた』事例である」としている。(通州駐留でも同じ結果になったのではないか。)
北支における日本陸軍の作戦計画要領
日本陸軍の北支作戦計画策定の基礎としての「1937年度、昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領」(訓令)
一 帝国陸軍北支那方面に作戦する場合における作戦要領を概定すること、左の如し。
1 河北方面軍(支那駐屯軍司令官隷下部隊のほか、関東軍司令官及び朝鮮軍司令官の、北支那方面に派遣する部隊、並びに、内地より派遣せらるる部隊を含む)は、主力を以て平漢鉄道に沿う地区に作戦し、南部河北省方面の敵を撃破して、黄河以北の諸要地を占領す。この際必要に応じ、一部を以て津浦鉄道*方面より山東方面作戦軍の作戦を容易ならしめ、また、情況により、山西及び東部綏遠省方面に作戦を進むることあり。
*津浦鉄道 天津と南京対岸の浦口とを結ぶ鉄道。
2 山東方面作戦軍は、青島及びその他の地点に上陸して敵を撃破し、山東省の諸要地を占領す。
二 帝国陸軍(が)北支那に作戦する場合における、支那駐屯軍司令官の任務は、左の如し。
作戦初頭、概ね固有隷下部隊を以て、天津及び北平、張家口、為し得れば、済南等の諸要地を確保し、北支那方面に於ける帝国陸軍初期の作戦を容易ならしむ。爾後に於ける任務は、臨機にこれを定む。
三 右の場合における作戦初期の支那駐屯軍(の)作戦地域は、独石口*以東満支国境以南の地域にして、山東方面作戦軍との境界は、臨機之を定む。(これ、りっぱな侵略証明書ではないか。)
*独石口 河北省張家口市の地名。
第29軍との緊張
事件発生前、盧溝橋付近での第29軍の動静には「不穏な」動きが日増しに顕著になっていた。「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」は次のように記している。
事件発生前、盧溝橋付近の支那軍は、その兵力を増加し、かつその態度は頓に「不遜」となれり。その変化の状況左の如し。
一 兵力増加の状況
平素盧溝橋付近には、(苑平県)城内に営本部と一中隊を、長辛店*には騎兵約一中隊を駐屯せしめありしが、本年5月中・下旬に至る間において城内の兵力には変化なきも、盧溝橋城(宛平県城)外に、歩兵約一中隊を、盧溝橋中の島に、歩兵約二中隊を、それぞれ配置せり。六月には、長辛店に新たに歩兵第219団の約二大隊を増加するに至れり。
*長辛店 北京市内の地名。地図では北京市中心部の南西方向にあるが、文意と合わないようだ。
二 防禦工事増強の状況
長辛店北方の高地には、従来高地脚側防のために、機関銃陣地を永久的に2箇所構築しあり。また高地上には、野砲陣地を構築しありしが、6月に入りて、新たに散兵壕を構築し、盧溝橋付近においては、龍王廟より鉄道線路付近に亘る間の堤防上、及び、その東方台地の既設散兵壕をも政修増強し、しかも、従来土砂を以て埋没秘匿しありし「トウチカ」(従来より北平方向に対し進出掩護又は退却掩護の意図を以て、盧溝橋を中心とし、十数個を橋頭堡的に永定河左岸地区に構築しありたり)を掘開す。(主として夜間実施せり)
三 抗日意識及び我に対する不遜態度濃厚となり、盧溝橋城内通過をも拒否す。盧溝橋城内通過に関しては、昨年豊台駐屯当初においては、我が部隊の通過を拒否することありしを以て、これに抗議し、通過に支障なからしめ、特に豊台事件*以後においては、支那軍の態度大に緩和し、日本語を解する将校を配置し、誤解なからしむるに務めし跡を認めしも、最近に至り、再び我軍の城内通過を拒否し、その都度交渉するの煩瑣を要したり。
*豊台事件 1936年6月26日、第一次豊台事件。日本兵の豊台駐屯開始を確認したニュースが報じられてから、わずか5日後に、豊台で日中両軍の最初の小競り合いが起った。第二次豊台事件は、1936年9月18日である。(支那駐屯軍増強と豊台事件 内田尚孝、同志社大学)
四 演習実施にする抗議
盧溝橋付近一帯は、北寧線路用砂礫を採取する地区にして、荒蕪地に適する落花生等の耕作物あるに過ぎず。したがって夏季(の)一般に高粱の繁茂する時期においては、豊台駐屯部隊にとり、この地は唯一の演習場なり。
然るに、最近においては、我演習実施に際しても、支那軍は畑への侵入を云々し(抗議するのは当然ではないか。)あるいは、夜間演習についても、事前の通報を要求する如きの言を弄し、あるいは夜間実弾射撃を為さざるに、之を実施せりと抗議し来る等、逐次その警戒の度を加えたり。(当然の要求ではないか。)
五 行動区域の制限
従来龍王廟堤防及び同所南方鉄道ガードは、我行動が自由なりしが、最近殊に之を拒否し、我兵力少なき時は、(銃弾の)装填等を為し、不遜の態度を示すに至れり。
六 6月下旬より、(中国側は)龍王廟付近以南の既設陣地に配兵し、警戒を厳にす。殊に夜間はその兵力を増強せるものの如し。一文字山付近には、従来全然警戒兵を配置しあらざりしが、夜間我軍にて演習を実施せざる場合には、該地に兵力を配置し、黎明時(に)、之を撤去せざるを見る。
北平附近支那軍の状況は、本年春夏の候より、相当戦備を進めありたるを看取せらる。本年6月に至り、北平城各門の支那側守備兵が増加せられ、かつ、警備行軍と称し、特に夜間において、北平市内及び郊外を行軍しある部隊をしばしば目撃せり。
一方、盧溝橋付近の日本軍の状態について、前述の戦闘詳報(「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」)に次のように記されている。
駐屯軍は、我行動を慎重にし、事端を醸さざらんことに務むる(偉い!)とともに、「本然の任務」達成に遺憾なからしむるため、鋭意訓練に従事し、特に夜間の演練に勉めたり。しかして、盧溝橋附近は地形特に耕作物の関係上、豊台部隊のためにも演習実施に恰(コウ)適の地なり。盧溝橋附近の支那軍の増強は、他の各種の徴候より判断し、彼等(の)全般的関係ないしは南京側の指令によるものと判断せらるるも、仮に我部隊の動静が彼らの神経を刺激したりと思惟せらるる事項を挙ぐれば左の如し。
一 豊台駐屯隊の中期(5月ないし6月)にして、その間中隊及び大隊が教練を昼夜を論ぜず実施せり。
二 豊台駐屯隊に対する軍の随時検閲を、5月下旬、この地において実施せられ、軍幕僚の大部(が)一文字山に参集する。(した)
三 連隊長の行う、豊台部隊に対する中隊訓練の検閲を、該地において実施するごとく計画せり。したがって補助官はたびたび該地一帯を踏査せり。
四 旅団長・連隊長は、該地付近において実施せる演習を視察せり。
五 本年6月及び7月上旬に亙り、歩兵学校教官千田大佐の新歩兵操典草案の普及のための演習を盧溝橋城北方において実施し、北平及び豊台部隊の幹部多数が之に参加せり。
連隊長は支那側の全般的の動静が何となく険悪を告げ、情勢が逐次悪化し、抗日的策動が濃厚となりあるを看取し、部下一般に注意を倍徒し、彼らに乗ぜられざると共に、出動準備を完整しおくべきを命じ、特に豊台駐屯隊に対しては、「トウチカ」発掘及び工事増強について注意すべきを命じたり。
第29軍の対日抗戦準備
第29軍は、馮(ヒョウ)玉祥が率いた西北軍が改編されて中国国民党の地方部隊となったため、抗日精神が強かった。第29軍は、1935年12月ころ、日本軍を仮想敵として、作戦計画を立てた。1936年12月の西安事件後、抗日民族統一戦線の形成が促進されると、1937年4月から5月にかけて、第29軍の幕僚は、対日抗戦の具体的作戦計画を研究・作成した。この計画は、第29軍10万の兵力を数個の集団に編制し、天津、北平、察哈(コウ)爾(チャハル)の三戦区に分け、保定地区*を総予備隊集結地区とし、戦区内の日本軍を壊滅し、その後戦況の進展に応じ、全力で三海関に向って前進し、華北の日本軍を一挙に撃滅するというものであり、中国共産党の同意を経た後、軍長の宗哲元に報告された。宗はこの計画に基いて準備を促進するように張克侠に命じた。また宗哲元は、第29軍全軍に対して、華北の日本軍を標的とする軍事訓練を命じ、同軍は5月から6月にかけて軍事演習を実施した。(坂本夏男「再考・盧溝橋事件における日中両軍衝突時の一検証」『皇學館論叢』33(4), 1-17, 2000-08)
*保定市 河北省の地級市。河北省の旧省都。カトリックが多い。北京市の南西、石家庄市の北東。
第29軍は、盧溝橋一帯の守備態勢を強化した。宛平県城内に、歩兵1個連(中隊)と、盧溝橋守備のための営(大隊)本部が駐屯した。また、盧溝橋西南6キロの町、長辛店には騎兵1個連が駐屯した。5月下旬に、(宛平県)城外に歩兵3個連(中隊)が増駐され、6月には、長辛店に、第219団(連隊)所属の歩兵2個営(大隊)が新たに駐屯した。長辛店には機関銃陣地と野砲陣地が構築されていたが、その北方の高地に、散兵壕が新たに構築され、永定河左岸の10個のトーチカが掘り出された。また盧溝橋附近の砂礫地帯と宛平県城の北側、東側、西側の警戒が厳重になり、夜間には歩哨所が増設された。永定河の堤防上には鉄道橋付近から龍王廟にわたり、一連の散兵壕が完成しつつあった。(清水節郎他「芦溝橋事件」『アジア研究』3(4), 1957-03 アジア政経学会)
7月6日、第29軍第37師第110旅長の可基灃(ホウ)は、盧溝橋一帯を守備している第219団に対して、日本軍の行動に注意して、監視するように要求し、「もし日本軍が挑発したら、必ず断固として反撃せよ」と命令した。第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連に対して戦闘準備を整えるように要求し、「日本軍が我陣地100メートル以内に侵入したら射撃してもよい、敵兵が我軍の火網から逃れられないように」指示した。7月7日、保定に常駐していた第37師長の馮治安は、急遽北平に帰還し、可基灃と協議し、対日応戦準備を手配した。
張克侠(1939年共産党に入党)、可基灃、金振中は、1948年11月から1949年1月にかけて江蘇省徐州附近の淮(エ)海戦役の初期に、国民党軍から共産党軍に「寝返った。」(坂本夏男「盧溝橋事件勃発についての一検証」『芸林』40(1), 1991-02)
北平付近に展開されていた各国兵力
中国国民党国民革命軍
第29軍兵力編成表
司令:宗哲元、副司令:秦徳純、参謀長:張樾(エツ)亭(一部省略)
河北省、察哈爾省にある、第29軍以外の部隊(7月上旬、一部省略)
総兵力 153000名
日本陸軍
支那駐屯軍 総兵力5600名(一部省略)
天津部隊、北平部隊、分遣隊(通州、豊台、塘沽、唐山、欒州、昌黎、秦皇島、山海関)、他に陸軍機関(特務機関)が、北平、通州、太原、天津、張家口、済南、青島にあり、また北平駐在武官補佐官(今井武夫少佐)、陸軍運輸部塘沽出張所があった。
列強兵力(一部省略)
英国 1008名
米国 1227名
仏国 1823名
伊国 328名
事件の経緯
7月7日
日本側
予定されていた戦闘演習検閲のため、北平守備隊主力は、北平の牟田口廉也部隊長の下、北平の東の通州で、また、豊台駐屯部隊の一部は、豊台の西2kmの盧溝橋の北側で夜間演習を行っていた。
・第8中隊は、中隊長・清水節郎大尉の指揮により、予定を変更して午後7時30分、龍王廟付近から東に向かって演習を開始した。永定河の堤防上に200名以上の中国兵が作業していた。
・盧溝橋付近に駐屯していた国民革命軍第29軍に属する第37師(師長は馮(ヒョウ)治安)第219団の一部は、盧溝橋の北1kmの龍王廟に陣を構えていた。日本の第8中隊は午後10時30分ころ、前段の演習を終え、各小隊と仮設敵に演習の中止・集合を伝令によって伝達した。午後10時40分、仮設敵が軽機関銃の空砲を発射した。中国軍が日本の第8中隊の背後から数発、散発的に実弾を発射した。日本の仮設敵は空砲射撃を続けた。清水中隊長が集合ラッパを吹奏させた。中国軍が(永定河の)鉄道橋に近い堤防の方から10数発発砲した。これらの発砲の前後に、宛平県城と永定河の堤防上とで懐中電灯らしきものが明滅した。
・中隊で人員の点検を行った。第1小隊の伝令・志村菊次郎二等兵が行方不明であった。中隊長は志村を捜索するとともに、状況を一木清直大隊長に報告するため、岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵を乗馬伝令として豊台へ急派した。志村二等兵は20分後に発見された。用便をしていたという。このことは大隊長に報告されなかった。(なぜなの。混乱の元ではないか。)清水中隊長は、部隊を撤収し、盧溝橋の東1.8kmの西五里店に移動し、7月8日午前1時に到着した。
・一木大隊長は午前0時ころ急報を受けた。一木は警備司令官代理の牟田口廉也連隊長(牟田口はこの時、通州にいたのか)に電話した。牟田口は、豊台部隊の一文字山への出動と、夜明け後に宛平県城の金振中第3営長との交渉を命じた。
・午前2時過ぎ、一木大隊長は、西五里店西端で清水中隊長と会い、やがて到着した第3大隊主力を掌握し、午前3時20分、一文字山を占領した。
・①豊台の部隊長(一木大隊長か)は、部下と共に現地に赴き、中国軍に、無法な行為について詰問・抗議すること、②事件を知った牟田口部隊長は、部隊で演習に参加しなかった者を北平の東側に集合させ、森田中佐に、冀察政務委員会代表を現地に同行させ、謝罪、事実確認などの交渉を行わせること、などが決められた。(分かりにくい文章)
・7月11日、現地での交渉で、中国側は日本側の要求を受け入れ、現地協定が調印された。
通州方面で演習を行っていた北平部隊は、集結命令で現地に急行しようとしたが、事件発生とともに通州街道につながる北平朝陽門は、中国軍によって閉鎖され、部隊の移動が阻止された。中国軍は、北平郊外南苑(北京南方で、飛行場がある)の、日本・中国間の連絡飛行に使用する飛行場を占拠した。豊台・天津間と、豊台・北平間の日本軍用電話線が切断され、北平・天津間の一般電話も不通となっていた。(『東京日日新聞』1937.7.9)日本政府(第1次近衛内閣の閣議決定)や新聞報道では、事件が計画的に行われたとする。
ニューヨーク・タイムズによれば、事件までの3ヶ月間にわたって緊張が高まっていたから、日中の衝突は驚きではなく、前の週に北平警察は、治安の混乱を起こそうとした300名の扇動者と便衣の共謀工作員を逮捕した。また29軍に属する様々な部隊は、不測の事態に備えて、ゆっくり北平の周辺に集結していた。(ニューヨーク・タイムズ紙、1937.7.8)(だからと言って日本の行為が正当化されるわけではない。)
中国側
「民国26年7月7日夜11時、豊台駐屯の日軍の一部は、宛平城外盧溝橋付近において夜間演習を名目として、日兵1名が失踪したのを口実にして、日軍武官松井は、部隊を引率して宛平城内に進入し、検査することを要求した。当時わが盧溝橋駐在部隊は、第37師第219団の吉星文部隊の一営である金振中の部隊であった。
時に深夜で将兵は熟睡中だったので、日軍の要求を拒絶した。日軍は直ちに盧溝橋を包囲した。その後、双方は、代表を現地に赴かせて調査することで合意した。ところが日本が派遣した寺平輔佐官は、依然として日軍の(宛平県城への)入城と捜索を要求した。我、承諾せず。日軍は東西両門外にあり、砲撃を開始した。われ反撃を与えず。日軍の攻撃が本格的になると、わが守備軍は正当防衛の目的で抵抗を開始した。双方に死傷者あり。暫時、盧溝橋北方において対峙の状態となった。」(辭海編輯委員會、ed(1989). 辞海、上海辞書出版社)
7月8日
<現地の動き>
・3時25分 龍王廟方面から3発の銃声があった。乗馬伝令として豊台に派遣された岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵は、練習場に戻ったが、所属中隊が移動したことを知らずに、探し回った。それを中国兵が狙撃した。内田一等兵は馬の右側手綱の約三分の二を射抜かれた。現地では既に黎明で、相当の距離でも彼我の識別ができた。一文字山でこの銃声を聞いた一木大隊長は、「今や支那軍の対敵意志が確実であることは一点の疑いもなし」と判断した。
・4時00分 日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐、赤藤庄次少佐、桜井徳太郎少佐*、寺平忠輔補佐官、他に通訳2名、1個分隊の護衛兵、中国側は、王冷斎・宛平県長、林耕宇・冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐と寺平補佐官らは、宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。*以降少佐、中佐と表記が割れている。
・4時20分 一木大隊長が牟田口連隊長に電話で再度の銃撃(岩谷兵治と内田市太郎に対するものか)を報告。これを聴いた牟田口連隊長は、戦闘開始を許可した。一文字山を占領していた一木大隊は、龍王廟方面に向って攻撃前進した。途中、一木隊長は、桜井徳太郎中佐から、「城外にいるやつに対しては、その29軍たるとなんたるとを問わず、日本軍が攻撃しようと、討伐しようと、一切日本側のご自由にお任せする」と、秦徳純*が言ったことを聞いた。また「宛平県城には一般住民もいるので、同城の攻撃は猶予して欲しい」と要望されこれを(桜井が)承諾した。一木大隊長は宛平県城を攻撃しない方針と、永定河の堤防の方へ進撃することを命令した。
*第29軍の軍長となった宗哲元の下で総参議を務めた。
・5時すぎ 一木大隊長は、永定河の堤防の陣地に多数の中国兵がいるのを目撃したので、歩兵砲の砲撃を命令したが、牟田口連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐(連隊長代理として来着。連絡はどうなっているのか。)の命令によって砲撃は一旦中止された。
以下は、支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報による。
(牟田口)聯隊長は午前4時ちょっと過ぎに第3隊長(一木大隊長か)から電話を受けた。「午前3時25分、龍王廟方向で3発の銃声があった。支那軍が2回も発砲するのは純然たる敵対行為なりと認める。いかにすべきか」
ここにおいて(牟田口)連隊長は、「支那軍が2回までもするのは純然たる敵対行為である。断乎戦闘を開始して可なり」と命令した。時はちょうど午前4時20分だった。
ここにおいて、第3大隊長は、支那軍への攻撃に関する決意を固めた。ところが一文字山に向う途中、第29軍の顧問である櫻井徳太郎少佐(30期)と、西五里店(盧溝橋東方1800メートル)西方本道東側畑地において会見し、左の件を知った。
・1 櫻井少佐が馮治安(秦徳純の誤り)と会見し、盧溝橋不法射撃を訊したところ、馮曰く「馮の部下は絶対に盧溝橋城外に配兵しない。支那軍ではないだろう」と。また、
・2 「城外に配兵されているとすれば、攻撃は随意であり、恐らく馮の部下ではないだろう、また馮の部下であるとしても、城外ならば断乎攻撃してもいい。」そして馮は「城外にいるとすれば、それは匪賊だろう」と付け加えた。
右は全く馮治安の欺弁である。つまり、責任を回避しようとする支那要人の常套手段であり、心事の陋劣唾棄すべきものあり。
・安保喜代治(当時第8中隊第2小隊第4分隊長)によると、
「午前5時30分、攻撃命令で発進、…壕の外から日本軍の前進を監視していていた敵の将校が、中隊に対して停止を呼びかけ、野地少尉は「演習だから通して欲しい」と言いながら前進した。敵前20メートルの地点で、監視中の敵将校が壕内に跳び込んだのと同時に、敵銃火による一斉射撃を受けた。」(安井1993、この安井は次の安井三吉のことか。)
安井三吉は、「日本側の攻撃姿勢が明確になる」とし、その理由として「午前5時30分頃攻撃命令が出ていたこと、中国軍から日本軍に対して停止の呼びかけがあったこと、野地少尉が演習だと言って通過しようとしたこと、中国側の発砲は、日本軍が20メートルの地点まで接近した時点であったこと」などをあげている。(安井1993)
・2時間後、激戦は一旦収束した。以降15時30分頃戦闘が再開したが、一時的であり、概ね小康状態で推移した。そして、北平と盧溝橋城内で停戦に向けた交渉が行われた。
<日本の政府と軍上層部の動き>
・早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着した。以降中央では、これを機に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派と、不拡大派とのせめぎあいが行われた。(拡大派のような人が実際にいた。)
・18時42分 参謀本部より支那駐屯軍司令官宛に「事件の拡大を防止するため、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と、指示する総長電が発せられた。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。
7月9日
<現地の動き>
・2時00分頃 日本側の提案「日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸へ」という「兵力引き離し」の提案*を中国側が呑み、停戦協議が成立した。撤退予定時刻は、当初5時00分だったが、中国側の連絡不備から、その後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃となった。
*中国軍はこれまで永定河の堤防、竜王廟、宛平県城にいたのだから、永定河の西岸へというのは譲歩になるのではないか。
・5時 中国側から砲撃が行われた。
<日本政府と軍上層部の動き>
・8時50分頃 臨時閣議開催。陸相より3個師団派遣等の提案がなされたが、米内海相などの反対で見送りとなった。
・夜 参謀本部から支那駐屯軍参謀長宛の通達電文が、次長名をもって発せられた。「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするようにというものだった。
7月10日
<現地の動き>
・前日の次長電を受け、橋本群・参謀長は、中国側に対して「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出した。以降、この内容を軸に交渉が継続された。
・日本軍の将校斥候に向けて迫撃砲が撃たれた。(「日中戦争の展開 塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで」岩谷將・防衛研究所主任研究官)
<日本の政府と軍上層部の動き>
・午前 参謀本部第三課と第二部が、「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内に異論はあったが、最終的に石原莞爾も同意し、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが派兵に影響したと言われる。
7月11日
<現地での動き>
・20時00分 「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・龍王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した。(松井・秦徳純協定)
<日本の政府と軍上層部の動き>
・11時30分 五相会議で、陸相の「威力の顕示による中国側の謝罪及び保障確保」を理由とした、内地3個師団派兵等の提案が合意された。(世界情勢を知らない、うぬぼれ)
・14時00分 臨時閣議で北支那派兵が承認された。(反対者はすでにいなかったのか。)
・16時20分 近衛首相が葉山御用邸に伺候し、北支派兵に関して上奏御裁可を仰いだ。
・18時24分 「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表した。
・21時00分 近衛首相は、政財界の有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一(統制)のために協力を要請した。以降、有力紙の論調は、強硬論が主流となった。(いともあっさり決まる。不思議。)
事件は現地での停戦交渉の成立をもって終息に向うはずであったが、日本政府と中国政府は、停戦協定と併行して大兵力を動員した。このことは主戦派や強硬派を勢いづけ、以降の事件拡大の大きな要因となった。(秦1996)
7月12日以降
7月13日、北平の大江門で日本軍トラックが第38師によって爆破され、日本兵4人が殺害された。(大江門事件)
7月14日、日本軍騎兵が惨殺された。
7月18日、日本軍偵察機への射撃が行われた。
7月19日、蔣介石が「最後の関頭」演説を公表し、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。
7月19日、宛平県城内から日本軍へ砲撃が行われた。(中国軍は停戦協定7/11によって宛平県城から撤退したのではなかったのか。それとも、撤退したのは永定河の堤防上にいた中国人部隊だけか。)
7月20日、宛平県城内から日本軍への再砲撃と、日本軍の報復攻撃が行われた。
7月25日、郎坊事件*、
7月26日、広安門事件*
7月28日、北支における日中両軍の全面衝突が開始された。
*郎(廊)坊事件 25日~26日 北平近郊の廊坊駅での日中軍の武力衝突。廊坊付近の中国軍兵営内を通過する(日本軍の)軍用電線が故障し、その修理に向った支那駐屯軍の通信隊とその護衛隊(第20師団麾下の歩兵第77連隊第11中隊(中隊長:五ノ井淀之助))に対して発砲された。
*広安門事件 北平城内に日本軍の広部大隊が入城する途中で門が閉められ、分断されたところを攻撃された。同日停戦成立。
共産党の「策動」
7月8日、共産党中央は全国に通電し、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要があれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては、直接日本と衝突することを、各級党部に司令した。(大久保泰『中国共産党史』アマゾン1818円)
7月11日、周恩来は廬山国防会議に招かれ、15日、共産党の合法的地位が認められた。11日、周恩来・蔣介石会談で、周恩来は抗日全面戦争の必要性を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織・統一綱領を決定すれば、共産等は抗日の第一線に進出すると約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で、国民政府に即時開戦を迫り、7月15日、朱徳は、「対日抗戦を実行せよ」と題する論文を発表し、「日本の戦力は恐れるに足らず、抗戦は持久戦になるが、最後の勝利は中国側にある」と説いた。
南京政府と冀察政務委員会が、日本側と妥協しようとしたため、共産党中央は、7月23日、「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調し、(1)日本提出の三条件(冀察政務委員会の日本への謝罪、29軍の永定河以西への撤退、抗日運動の停止)の拒否、(2)29軍に即時大軍を増派し、全国の軍隊を総動員した抗戦の実行、(3)大規模に民衆を動員・組織・武装した人民抗日統一戦線の設立、(4)全国的対日抵抗の実行。和平談判を停止し、日本人全ての財産を没収し、日本大使館を封鎖し、すべての漢奸・特務機関を粛清すること、(5)政治機構の改革。親日派、漢奸分子の粛清、(6)国共両党の親密合作の実現、(7)国防経済と国防教育の実行、(8)米英仏ソ諸国と各種の抗日に有利な協定の締結、の8項目の提案を発表した。
関東軍の動き
関東軍司令部(軍司令官・植田謙吉大将、参謀長・東條英機中将)は、8日、「ソ連は内紛などのため、乾岔(ちゃ)子事件*の経験に照らしても、差し当たり北方は安全を期待できるから、この際冀察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へ「北支の情勢に鑑み、独立混成第一、第十一旅団主力と航空部隊の一部を以て、直ちに出動し得る準備をしている」と報告した。(参謀本部と独立して行動しているのか。)
*乾岔(ちゃ)子事件 1937年6月19日に黒竜江流域の黒河下流の乾岔(ちゃ)子島と金阿穆(ぼく)河島で起きた、ソ連と満州国との国際紛争だが、実際は日ソの国境紛争。最初ソ連側が侵入し、外交で解決したかに見えたが、武力対決に発展した。結局、ソ連側が撤収した。
関東軍は8日、独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ、満支国境線に推進させた。この旅団は9日夕方までに、主力を以て承徳市(河北省の地級市、古北口の東、北京の北東)と古北口(北京の北方長城沿い)の間に、また一部を山海関に集結した。関東軍飛行隊主力は、錦州(遼東半島の西の遼寧省の地級市)、山海関地区に集結した。
支那駐屯軍は、8日午後、弾薬、燃料、満鉄従業員、鉄道材料などの増派・援助について関東軍と協議した。
同日8日18時10分、関東軍は、「暴戻な支那第29軍の挑戦に起因して、今、華北に事端が生じた。関東軍は多大の関心と重大な決意を保持しつつ、厳に本事件の成り行きを注視する」という声明を出した。これは所管外のことであり、異例だった。
関東軍は支那駐屯軍に連絡し、また幕僚も派遣し、強硬な意見を述べた。9日、(関東軍参謀部付の)辻政信大尉*が天津に到着し、両軍が連帯して中央に意見を具申しようと申し入れたが、支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、またソ連が出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を軽く見ていることなどに不安を感じてその申し入れを断った。
*辻政信 7月末支那駐屯軍への転出を自推した。8月、新たに編制された北支那方面軍参謀となった。戦後裁判を逃げて逃亡した。自伝『潜行三千里』
朝鮮軍(軍司令官は小磯國昭中将*)は関東軍と同様、「北支事件の勃発に伴い、第20師団の一部を随時出動させることができる態勢を取らせた」と(中央に)報告した。これは年度作戦計画訓令に基く応急の措置であったが、小磯大将は「この事件を契機に、支那経略の雄図を遂行せよ」という意見であった。
*小磯國昭は東京裁判で終身禁固。
国民党中央軍の北上
7月9日、蔣介石は徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に、11日夜明けからの河南省境への進撃準備を命じた。蔣介石は宗哲元に、電報で、「平和談判をしても戦争に備えることは忘れずに」と命令した。そして、第26軍の孫連仲には、2個師を保定*・石家荘*へ鉄道で運送し、宗哲元の指揮に任せるように指示した。7月10日、200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃を再開した。7月16日、中国北部地域に移動した中国軍兵力は、平時兵力を含めて、30個師団に達し、蔣介石は、19日までに30個師団を北支に集結させた。
*保定は河北省の地級市。北京の南西。石家荘は保定の南西。
1発目を撃った人物
秦郁彦1996は、(盧溝橋事件の原因は)「中国側第29軍の偶発的射撃」とする。
安井三吉は、「日本では秦郁彦『現場大隊長が明かした貴重な証言』(「中央公論」1987.2)や、江口圭一『盧溝橋事件』(岩波ブックレット)のように、第一発の発砲者を中国国民革命軍第29軍の兵士とする見解が有力で、日本側発砲説*はほとんど見られない。」「意図的計画的になされたのではなく、演習中の支那駐屯軍第一聯隊第3大隊第8中隊の軽機関銃の発射音に驚いた第29軍兵士が、反射的に発砲したものであろうという解釈が一般的である」とする。*
*1 日本側発砲説 中西功・中里龍夫『中国共産党と民族統一戦線』大雅堂1946、井上清「侵略の100年」(朝日市民教室『日本と中国』朝日新聞社1971)、信夫清三郎『聖断の歴史学』勁草書房、1992など。
*2 安井三吉は『盧溝橋事件』1993で、「第一発について現段階では依然不明としておく外しかない。」としていたが、『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』2003では、「盧溝橋事件の発端は偶発的なもので、日本軍計画説は正確ではない。」とした。
坂本夏男は、第29軍が盧溝橋事件の数ヶ月前から対日抗戦の用意を進め、盧溝橋付近の中国軍は、7月6日、戦闘準備を整え、7日夜から8日朝にかけて、日本軍に3回発砲し、(最初の発砲の前後には、宛平県城の城壁上と龍王廟*の辺りで懐中電灯で合図していた)、また、中国共産党は、7月8日に、全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないとする。(坂本夏男「盧溝橋事件勃発についての一検証」『芸林』40(1), 1991-02)
*竜王廟ではなく永定河の堤防ではなかったか。
中国側研究者の中には、「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者もいる。(背景からは日中戦争は避けられなかったようだ。だから、両者の「陰謀」なのである。また背景論を中心に考えるべきであり、どちらが先に手を出したかを論じることは、的が外れているのではないか。そしてどちらが先かは、それほど重要な問題ではないのではないか。)
現場の大隊長で、後に中国共産党に転向した金振中は、一貫して堤防への配兵を否認してきたが、1986年に出版された『七七事変』(中国文史出版社)の中で、部下の第11中隊を永定河の堤防に配置していたことを認め、さらに部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地100メートル以内に侵入したら射撃せよと指示していたことを明らかにした。(秦郁彦『昭和史の謎を追う』上)(日本人研究者は日本側に責任がないことを示す事実を見つけ出そうとして必死だが、目先のあれこれよりも、長い歴史の流れを見なければならないのではないか。)
中共軍将校としての経歴を持つ葛西純一*は、中共軍の「戦士政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基いて実行した」と書いてあるとする。(葛西純一「新資料・盧溝橋事件」)しかし秦郁彦はこれを葛西が現物を示していないから事実として確定できないとする。
常岡滝雄は、当時紅軍の北方機関長として北京にいた劉少奇が、青年共産党員や清華大学学生らをけしかけ、宗哲元の部下の第29軍下級幹部を扇動し、日本軍に発砲させたもので、そのことを1954年、中共が自ら発表したとする。(常岡滝雄『大東亜戦争の敗因と日本の将来』1969)(これはありうるかも)
サーチナは、広東省の地元紙・羊城晩報の論説の中で、中国共産党陰謀説は「荒唐無稽な説」としながらも、「劉少奇が盧溝橋事件を起こし、劉少奇が盧溝橋で日本軍と戦ったという記述は、共産党支配区域で配られたパンフレット『戦士政治読本』に書かれている」とし、さらに、「これは中国共産党のプロパガンダのための嘘の戦功であり、我々中国人の伝統的ないい加減さを指摘する論旨である」とする。(「『中国対日観』“いい加減”だから日本にやられる(1)」サーチナ、2009.5.15)(ウイキペディアはこんな記事まで載せて日本を擁護したいのだろうか。)
今井武夫少佐は当時北平大使館付武官補佐官だったが、次のように述べている。
最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。その放火者が何者かは今でも判定できない。ただし、私は絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方(恐怖心にかられた中国兵の過失に基く発砲騒ぎ)は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることだった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じて発作的に発砲したのが、他の同輩を誘発したとしてもあり得ないことではない。
しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、なぜ連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。(これは要点を突いているのではないか。)
中国共産党北方局による抗日工作が、第29軍内に浸透し、軍内の過激分子が事件を引き起こしたとする説もある。また戦後、中共軍政治部発行の初級革命教科書の中で、「盧溝橋事件は中共北方局の工作である」とする資料があるらしい。
「北方特務機関日誌」の7月16日の記事に、「北支事変の発端に就いて」として、次のような記述がある。
北支事変の発端についての冀察要人の話は左の通りである。「事変の主役は、平津*駐在の藍衣社第四総隊であり、この隊は軍事部長が李杏村、社会部長が齋如山、教育部長が馬衡、新聞部長が式舎吾という組織であり、その下にさらに西安事変当時西安にいた第6総隊の一部を参加させ、常に日本軍が最も頻繁に演習をする盧溝橋を中心に、巧みに日本軍と第29軍とを衝突させようと画策したものであり、第37師は、全くこの術中にはまったものだ」と。なお北寧鉄路には戴某という者が潜入していて工作中であると言われている。
*平津(へいしん)とは、北平・天津のあたり一帯を指すようだ。ウイキペディアに「平津作戦」があり、それによると、「平津作戦は日中戦争初期における戦闘」とあり、それに続けて「日本軍は平津地方の占領に成功し、やがて本格的な戦争に突入した。」「30日までに北平・天津地域を占領し、総攻撃は中止された。」などから推測できる。
兵1名の行方不明について
第8中隊長は、8日2時過ぎに大隊長と会い、行方不明の兵が復帰したことを報告した。
大隊長や連隊長は、最初事件の報告を受けたときは、暗夜の実弾射撃よりも兵1名行方不明の方を重視し、部隊出動を決意したが、その後の中国側との折衝でも、兵が既に復帰したのだからそれを問題にしていない。*
しかし、中国側は「故意に」兵1名行方不明及びその捜索を、盧溝橋事件とその拡大の原因とし、不法射撃の件は不問にしている。東京の極東軍事裁判での秦徳純の供述、蔣介石の伝記「蔣介石」あるいは「何上将軍報告」も同様である。「抗戦簡史」も次の通りである。
民国26年7月7日夜11時、豊台駐屯の日軍の一部は、宛平城外盧溝橋付近において夜間演習を名目とし、日兵1名が失踪したことを口実にして、日軍武官松井は、部隊を引率して宛平城内に進入し、捜査(失踪兵の捜索)することを要求した。*当時わが盧溝橋駐在部隊は、第37師第219団吉星文部隊の一営・金振中部隊であった。時に深夜で将兵は熟睡中で、当然日軍の要求を拒絶した。日軍は直ちに盧溝橋を包囲した。その後、双方は、代表を現地に赴かせて調査することで合意した。ところが日本が派遣した寺平補佐官は、依然として日軍の入城、捜査を要求した。我は承諾しなかった。日軍は東西両門外で砲撃を開始した。我は反撃しなかった。日軍の攻撃が本格的になると、わが守備軍は正当防衛の目的で抵抗を開始した。双方に死傷者が出た。暫時、盧溝橋北方で対峙の状態となった。
右の文章は昭和12年7月8日の中国側新聞「亜州新報」の夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。当時この新聞を読んだ寺平大尉が、発行人の林耕宇を難詰したところ、林は記者の創作であると白状して謝罪した。しかしこれは単なる記者の創作でなく、秦徳純の当時の政府発表によるものではなかろうか。*(これはウイキペディアの地の文か。)
*それでは、どうして一人の日本兵が失踪したことを中国側が知っているのだろうか。日本人がそれを口にしなければ知るはずがないのではないか。「創作」という批判は当たるのだろうか。
中国中央放送局の9日19時の放送は下記の通りである。
「日本軍は近来盧溝橋を目標として演習をしている。8日朝、たまたま日本軍が前進して来たのを、わが方は盧溝橋(宛平県城)を奪取されるものと考えた。そしてこれによる衝突が、事件の発端である。」(北平陸軍機関業務日誌)
事件直後の延安への電報
平尾治は元日本軍情報部員であるが、1939年(1937年の間違いでは)頃、中国共産党が盧溝橋事件を起こしたと読み取れる電文を何度も傍受した。そのことについて上司の情報部北京支部長・秋富繁次郎は平尾に次のように説明した。(1939年では2年後のことではないか。)
盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しているのを傍受した。「成功した」と三回連続して送信した。通信手は数日後、盧溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功したと報告したのだと分かった。
平尾が戦後青島で話した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部)でも傍受した。盧溝橋事件は中共の陰謀だ」と語った。(『産経新聞』1994.9.8夕刊)(さも産経らしい記事だ。)
これに対して安井三吉2003は、以下の理由で、平尾の回想(録)を以て中共計画説の根拠とするのは飛躍があると結論づけている。
・この電報は、秋富自身が受信したものでないこと
・このような話は当時の軍関係者の回想・文書の中に全く出てこないこと
・支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用していたことだろうが、そうしたことがないこと
・1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること
・事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学との間の連絡方法が不明であること
・午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、「成功した(成功了)」などと言えないこと
・『歴史叢書北京治安戦』383頁で、横山幸雄少佐が、「中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、1941年、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した」と述べていること。
中国の中学校教科書には以下のような記述が見られる。(入門中国の歴史「中国中学校歴史教科書」、明石書店、2001)
団結して抗戦する
7月8日、中国共産等は抗日の電報を各地に発し、全国人民に団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者を中国から駆逐せよ、と呼びかけた。17日、蔣介石は談話を発表し、抗戦の備えがあることを示した。
中共の抗日を呼びかける電報
北平が、天津が、華北が、中華民族が、危急の時を迎えている。全民族が抗戦を実践してこそ、われわれの活路は開ける…
武装して北平、天津を防衛し、華北を防衛せよ。日本帝国主義に寸土たりとも中国を占領させてはならぬ。国土防衛のため、最後の一滴まで血を流せ。
今全国の同胞、政府と軍は、団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者の侵略に抵抗せよ。
現地軍の折衝
寺平忠輔『日本の悲劇 盧溝橋事件』や、児島襄『日中戦争4』に、冀察政務委員会と支那駐屯軍らとの折衝が記述されている。例えば、
7月18日、宗哲元は、香月清司中将と、天津宮島街の偕行社(上海市長・呉鉄城から譲り受けた洋館建ての倶楽部)で会見を行った。宗哲元は、張自忠、張允栄、陳中孚、陳覚生等を連れてきた。軍司令官は、橋本参謀長、和知、大木、塚田ら参謀を伴って来た。宗哲元は、停戦協定条文の第一項、日本軍に対する遺憾の意を表明した。
7月21日、航空署街の秦徳純邸に、中島弟四郎、笠井半蔵と、29軍参謀長の張越亭、保安隊第1旅長の程希賢、交通副処長の長永業、軍参謀の周思靖などが来て、37師の撤退を議論した。そして「今日の撤退は、宗委員長の自発的な意志に基づくもので、松井機関長、今井武官、和知参謀と協議の上のものであり、実行することになった。撤退の完了をお願いしたい。」と(日本側が)言った。
しかし幾度も衝突が起り、結局開戦となった。
停戦協定と和平条件
7月17日、陸軍は停戦協定を出したが、中国軍の陳謝・更迭と、北京からの撤退、非併合・非賠償という条件であった。これらの停戦協定は、後の第1次、第2次トラウトマン工作、汪兆銘工作、桐工作の和平条件より「(中国側にとって)易しい」条件であった。(中国軍が撤退する内容であるのに易しいのか。)また、陸軍内の対中強硬派の杉山元・陸軍大臣、梅津美次郎・陸軍次官なども、外交官や現地軍の交渉に反対しなかった。
同時期、宗哲元が香月清司と、張自忠は橋本群と、広田弘毅は日高信六郎を介して王寵恵と交渉した。
しかし、中国軍兵士の抗日感情が高揚して、日中両国政府・外務省・軍中央などの方針を無視して、何度も日本軍に対して散発的な(敵対)行為を行った。
7月11日、停戦協定の細目を、現地軍が妥協してまとめたが、近衛文麿が派兵を発表して、現地解決は困難になった。
1.第29軍の代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任を以てこの種の事件の再発を防止する。
2.中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊を以てする。
3.中国側は、抗日団体の取締りを徹底する。
支那駐屯軍は増援決定を喜び、1937年7月13日の段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして撤退が受け入れられないことを予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。7月17日、東京で、杉山元・陸相が中国側との交渉期限を7月19日にしたいと、五相会議で提案したが、(交渉期限を設定することは、戦争を開始する決意があることを意味する。)広田弘毅外相は、北京や天津の現地交渉に期限をつけるのはよいが、南京での国民政府に対する外交交渉に期限をつけるのはまずい、と反対した。米内光政・海相、賀屋興宣・蔵相は広田外相に同調し、杉山陸相もそれに同意した。
しかし、広田外相の提案の意味は不鮮明だ。(意味不明)
同日、7月17日、陸軍中央部は停戦協定の実施細目として次のように提案し、この要求が容れられないなら、現地交渉を打ち切り、第29軍を膺懲するとの方針を決定した。
その要求は、中国側の謝罪すべき当事者やその方式を指定せず、また責任者の処罰も特定の人を指名せず、宗哲元の裁量に任せるという現地交渉担当者の考え方に比べると、過大な要求であり、宗哲元に対して、蔣介石から離れて明確な屈服の姿勢を示すように迫ろうとするものだった。
日本側(陸軍中央部)は、抗日的な人物を責任ある地位から退け、中国軍や国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することを目指しており、塘沽協定、梅津・可応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていた。
1.宗哲元の正式陳謝
2.馮治安(第37師長)の罷免
3.盧溝橋北方や北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退(八宝山の部隊の撤退)
4.7月11日の協定への宗哲元の調印
また、日本軍は、北京や天津で、7月11日に調印された停戦協定の実施を迫っていた。
冀察政務委員会の指揮下にある第29軍の宗哲元は、やむなく、共産党の徹底弾圧、排日色の強い人物の、冀察政務委員会の各機関からの追放、蔣介石の秘密機関の、冀察からの追放、排日運動・言論の取り締まり等を約束した。
その夜(いつの夜か、11日か。)、第38師長兼天津市長・張自忠は、支那駐屯軍参謀長・橋本群に、「翌日、宗哲元が司令官・香月清司中将に、謝罪訪問をする」と伝え、次のような解決案を提言した。これは支那駐屯軍の7項目要求をほぼ全面的に受諾するものだった。
1.盧溝橋事件の責任者の営長(第37師第110旅第29団第3営長・金振中)を処罰する。
2.将来の保障については、宗哲元が北京に帰ってから実行する。(以上の二項は文書にする)
3.排日要人も罷免するが、文書にはしない。
4.北京には宗哲元直系の部隊だけを駐留させる。
しかしこのような状況の中、7月13日、大江門事件で日本兵4人が中国兵に爆殺され、14日に、も団河付近で日本軍騎馬兵が中国兵に殺害された。
7月17日、日本政府は、南京駐在の日高信六郎参事官に、国民政府外交部長・王寵恵に対して次のように要求させた。
「帝国政府は7月11日声明の方針通りに、あくまで事態不拡大の方針を堅持すると言えども、その後における国民政府の態度に鑑み、左記を要求する。
1.あらゆる挑戦的言動の即時停止
2.現地両国間に行われつつある解決交渉を妨害しないこと。
以上概ね7月19日を期し回答を求める。
広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は、王寵恵・外交部長を訪ねて公文を渡し、「日支間の平和を維持するためには、7月11日の現地停戦協定を実行して、事件の拡大を阻止することが最緊要である。現地における日支両軍の兵力は、日本側が比較にならないほど少ない(支那駐屯軍5774名)から、事件の勃発以来、居留民の保護を十分にし、また駐屯軍の安全のためにも、増援部隊を送る必要がある。このようなときに南京政府が北支に増援することは、事態拡大の危険性を含むものだ。現在盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた。(『廣田弘毅』廣田弘毅伝記刊行会1966)これ(訓電か、それとも日高の発言か)は英訳して在南京の英米大使にも送られた。
これに対して南京政府は、日本側の要求を真っ向から拒否した。(ここでウイキペディアの熱がこもる。)
7月17日夜、日高が、現地協定の実行を阻害しないように、中央軍の北上を速やかに停止して欲しいと申し入れたのに対して、19日午後、国民政府外交部は、「中国側の軍事行動は、日本軍の平津一帯での増兵に対する当然の自衛的準備に過ぎない」と反論し、(当然でしょうね)日本政府に対して、次のことを要求してきた。
1.期日を定めて同時に軍事行動を停止し、武装部隊を撤回すること
2.今回の事件に対しては、誠意を以て外交手段により協議すること
これは日本側の「現地解決主義」を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については、次のように強調した。
「なお、地方的性質を有するからとして地方的に解決を図ろうとしても、どんな現地協定も、中央政府の承認を得なければならない。」
中国側でもこれ以上日本の言いなりになるわけにいかないという気運が盛り上がっていた。7月17日の蔣介石の演説は、日本の新聞にも次のように報じられた。
1.中国の国家主権を侵すような解決策は絶対に拒否する。(当然)
2.冀察政権は南京政府が設置したものであり、これの不法な改廃には応じない。
3.中央の任命による冀察の人事異動は、外部の圧力で行われるべきものではない。(当然)
4.29軍の原駐地に制限を加えることを許さない。
以上4点は、日支衝突を避け、東亜の平和を維持するための最小限の要求である。
「要するに中国は平和を求めるが、やむを得なければ戦いも辞さない。」(東京朝日新聞7月20日)
7月19日、橋本群と張自忠と張允栄は、停戦協定第3項を研究し、次のような取り決めが成立し、円満調印した。
1.共産党の策動を徹底的に弾圧する。
2.双方の「合作」に不適当な職員は、冀察において自主的に罷免する。
3.冀察の範囲内に他の方面から設置した各機関の、排日色彩を有する職員を取り締まる。
4.藍衣社、CC団のような排日団体は、冀察においてこれを「撤去」する。
5.排日的言論、及び排日的宣伝機関、学生、民衆等の排日運動を取り締まる。
6.各属、各部隊、各学校の排日運動を取り締まる。
中華民国26年7月19日
第29軍代表 張自忠 印
第29軍代表 張允栄 印
19日に中国側は、日中同時撤兵と、現地ではなく中央での解決交渉を求めた。(外務省外交史料館特別展示 盧溝橋事件の発生)
日本側は、停戦協定が締結された際に、7月28日までに何も攻撃していない。停戦協定が締結されているのに中国側に戦闘をしかけたら、陸軍刑法第36条の「司令官が休戦又は講和の告知を受けた後理由なく戦闘を為したときは死刑に処す」により、香月清司は死刑の対象になる。
こうした中国中央の動向に対して、日本の外務省は、7月20日、「事態悪化の原因は、南京政府が現地協定を阻害する一面(一方で)、続々中央軍を北上させた事実にある。この際南京政府において翻然(急に心を改めて)反省しないのなら、時局の収拾は全く望みがなくなるだろう」という声明を発して、交渉を打ち切ってしまった。
このことは、現地解決主義自体が争点化したこと、盧溝橋事件が拡大の第三段階に突入したことを意味した。
ところが同日7月20日、橋本群は、「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり」と打電し、内地軍派兵に反対する意見を起草した。
同日、7月20日、蔣介石は、宗哲元軍長を説得するために、熊斌(ヒン)参謀次長を北京に派遣した。
(日本の)参謀本部は同日朝、部長会議を開き、武力行使を正式に決定した。陸軍省はかねてから準備を進めていた第二次動員を直ちに実行することを決意した。
同じ頃、陸軍省、海軍省、外務省の三局長会議が開かれ、動員について話し合った。海軍軍務局長、外務東亜局長は動員に反対し、会は解散となった。同日7月20日10時、閣議が開催され、杉山陸相は、直ちに内地師団を動員すべきことを提議したが、閣僚から、3個師団もの動員は、中国側を刺激し、不拡大方針に差し障ると反対意見が出され、また、17日、19日に、現地で停戦協定が成立し、さらに中国側で37師の撤退を始めているのに、武力行使を行うことに対する疑問が出された。最終的に、同日に南京で行われていた外交交渉の結果を待つことになった。
しかし南京では、停戦方法、日本側が示した停戦条件について日中の意見の相違があり、話は纏まらなかった。
7月20日14時半ごろ、日中双方で銃砲撃が開始された。さらに八宝山方面の中国軍の一部が前進を始め、現地部隊はこれを撃退した。その後も砲撃は21時まで続き、双方に死傷者が出た。7月20日午後、日本政府は閣議を開催した。停戦交渉は進捗せず、現地で戦闘が開始されたことから、紛争は不可避と判断した。事態が好転すれば即座に復員するという条件つきで(こんな条件はうそ)内地から3個師団の増援を行うことが決定され、奏上された。
7月21日、これまで北支に派遣されていた参謀本部参謀が帰庁(朝)し、現地情勢を報告した。それは、支那駐屯軍の兵力は十分であり、内地師団の派遣は必ずしも必要でないとした。さらに駐屯軍参謀長から参謀本部への報告もあった。それは、29軍が陳謝し、関係者を処罰し、37師の撤収を行い、多少の小競り合いはあるものの、事態は収束に向いつつあるとした。
参謀本部内でも内地師団の派遣について慎重論が強まった。依然として強硬論も多数あり、議論は纏まらなかったが、翌22日、参謀本部首脳は方針を決定した。つまり、日中の全面紛争に発展しない限り、内地師団の動員をしばらく見合わせることにした。
7月23日、石射猪太郎外務省亜細亜局長は、陸海外三局長会議で、事変の完全終結を見越して、次の3点を提案し、了解を得た。
1.不拡大、不派兵の堅持
2.中国軍第37師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊の撤収
3.次いで、国交調整に関する南京交渉の開始
石射の当時の日記によると、以下の通りである。
「現地から帰来した柴山課長の意見上申もあり、また天津軍からの援兵無用の来電もあり、軍は動員をしばらく見合わせることになったという。陸軍大臣から外務大臣にもその話あり。東亜局第一課はこれによって大いに活気づき、今後の和平工作を練る。」(石射猪太郎『外交官の一生』)
陸軍から現地協定の内容とその実施状況についての発表があった。それは事件の円満解決が近いという話であった。
7月23日の夜、陸軍省は華北の状況を次のように発表した。
「支那駐屯軍の報告によれば、『冀察側が責任者の謝罪・処罰の外、今次事変の原因は藍衣社、共産党その他の抗日系各種団体の指導に胚胎するところ多きに鑑み、将来この対策・取締りを徹底すると協定した。つまり冀察側がこの実行のため、7月19日の文書によって、左記の事項を自発的に申し出た。
1.日支国交を阻害する人物を排す。
2.共産党は徹底的に弾圧する。
3. 排日的各種機関・諸団体及び各種運動並びにこれの原因と考えられる排日教育を取り締まる。
また別に、冀察側は、今回日本軍と衝突したのは主として第37師に属するから、将来双方の間で予想外の事件が起るのを避けるために、同師を北平から他へ移駐するむね通告してきた。昨日22日午後5時以降、列車によって逐次南方に移動中である』とのことだ。そして駐屯軍は今この実行を監視中である。」(東京朝日新聞7月24日)
7月23日、宮崎龍介は近衛文麿の密書を持って蔣介石に会うべく南京に向った。蔣介石には暗号電文で知らせ、歓迎の返事も来ていた。しかし、近衛は戦線拡大を唱え、(宮崎の)南京行きを妨害した杉山元に密使派遣を漏らした。
7月24日、宮崎は神戸港の船上で逮捕された。
同日7月24日、(南へ向っていた中国軍)部隊の移動は停止し、逆に第132師を北平に進入させただけでなく、付近にも増兵を始めた。そのため駐屯軍は29軍に参謀を派遣して折衝を行わせ、また事態の急変に対処するため準備を始めた。
7月25日、南京での日高・高宗武会見で、国民政府も現地協定の解決条件を黙認する意向であることが明らかにされた。しかしその後突如として前線の中国軍兵士が暴走して日本軍へ戦闘を起こし、廊坊事件*と広安門事件*が起きた。不拡大主義者の石原莞爾も7月26日午前1時に田中新一に、「内地師団を動員するほかない。遷延は破滅だ。」と言った。
*廊坊事件、7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が、国民党軍から銃撃された。
*広安門事件、7月26日、北平在住の日本人を保護するために、事前通告の後、日本軍の一部が城内に入ったところ、城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が、北平城内外の日本軍に放火を浴びせた。
支那駐屯軍は、26日午後、29軍に対して、「28日までに第37師(抗日意識が強い部隊)の撤退を行わない場合、武力行使を行う」との最後通告を発した。
宗哲元は、屈辱的な条件の受諾よりも抗戦を選ぶ、と中央政府に告げた。
7月27日、日本政府は内地3個師団の派遣を承認し、
7月28日、日本軍は国民党軍第29軍に対して総攻撃に出た。
8月8日、関東軍によるチャハル作戦*が参謀本部から認可された。
7月29日、蔣介石が談話を発表し、日本軍に対して徹底抗戦をする意思を示した。蔣介石の時局声明は、改めて時局解決の為の4条件*に触れ、「日本が侵略をやめ、4条件をのむなら交渉に応じる用意がある」とほのめかし、「日本が軍事行動を中止しなければ、勝算はなくても日本に抗戦する」決意を表明したものだった。しかし、南京政府内部では、事態の拡大を望まず、早い停戦を求める声が優勢だった。
*4条件
1.中国の国家主権を侵すような解決策は絶対に拒否する。(当然)
2.華北やチャハルの行政組織への不法な変更は許さない。
3.中央の任命による冀察の人事異動は、外部の圧力で行われるべきものではない。(当然)
4.29軍の原駐地に制限を加えることを許さない。
この事態に対して石射東亜局長が提案する解決試案が、7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられた。これは日中戦争の全期間を通じて最も「真剣」で「寛大」な条件による政治的収拾案だった。石射持論の全面国交調整案と平行してこれを試みることになった。その原動力は石原莞爾作戦部長だったと推定される。天皇も同意し、陸海外三省首脳協議を経て、8月4日、四相会議で決定された。(ある程度柔軟だったとも言えるか)
この停戦協定案は、国民党側からも信頼されていた元外交官・実業家の船津振一郎を通して働きかけられた。(船津和平工作)
1.塘沽停戦協定、梅津・可応欽協定、土肥原・秦徳純協定を解消する。
2.盧溝橋附近に非武装地帯を設定する。
3.冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政。
4.「増派」日本軍の引き揚げ。
また、国交調整案は以下の通りである。
1.満州国の事実上の承認。
2.日中防共協定の締結。
3.排日の停止。
4.特殊貿易・自由飛行の停止。
感想 これは最も「寛大」なのだろうか。
別に中国に対する経済援助と治外法権の撤廃も考慮された。(考慮されただけではだめ)
この両案は日中戦争中の提案としては、「思い切った譲歩」で、満州国の承認を除き、1933年以後日本が華北で獲得してきた既成事実の大部分を放棄しようとする条件であった。
8月7日、船津振一郎元総領事が上海に到着した。9日、高宗武と会談し、華北問題を局部的に解決することが「得策」だと説得した。高は同日午後、川越茂大使とも会談したが、同日夕刻、上海で大山事件*が発生すると、事態が急変した。8月13日、上海で日中両軍の交戦が始まり(第二次上海事変)、14日、全面衝突に発展した。王寵恵*は、対日宥和政策を放棄して、抗日に転じる旨の声明を発表した。
*大山事件 1937年8月9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が殺害された事件。
*王寵恵 政治家・法学者。王が率いる国民政府外交部はそれまで「不抵抗政策」と揶揄されてきた対日宥和政策を放棄して、抗日に転じる旨の声明を発表した。
日中間の戦闘が激化する中、日本はソ連の動向に強い関心を示した。8月21日、中ソは不可侵条約を締結した。中国外交部はその旨を東京の中国大使館に通報し、「もし日本が国策を変更して、日中間に同様の条約を締結する意思があるならば、中国は歓迎するので、日本政府の意向を打診するように」と電報で命じた。しかし、日中間の不可侵条約は進められることなく、29日、中ソは不可侵条約締結を公表した。
日本政府のこれまでの基本的な立場は、日中間だけの問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものだった。しかし9月に入り、長期戦の様相を帯びると、軍事目的の達成に応じて、第三国の好意的斡旋を活用する和平も視野に入った。
9月中旬、新着任のロバート・クレーギー駐日英大使は、仲介について広田外相に打診した。広田は和平条件を提示した。それは、華北に非武装地地帯の設定、排日取締と防共協定を条件に、華北政権の解消と国民政府による行政の容認、満州国の不問(認めろ)などであった。これらの条件は蔣介石に伝えられたが、蔣介石は国際的な(日本に対する)圧力や制裁に期待し、受諾に否定的だった。この時国際連盟はでは、中国政府から提訴を受け、9月中旬から日中紛争を審議中であった。(戸部良一『ピース・フィーラー支那事変和平工作の群像』)
同年11月2日に日本が出したトラウトマン工作は、「華北の行政権は南京政府に委ねる」と記載され非併合・非賠償の条件だった。(満洲はどうなるの)これは船津工作を踏襲した。「これだけの条件でなぜ戦争をするのか!?」と言われるほどの(寛大な)条件だった。
「戦争を継続すれば条件が加重される」と(日本側は)警告していたが、蔣介石は、「事変前の状態に復帰するのでない限り、どんな要求も受諾できない」と和平条件を拒絶した。(何か条件が追加されていたはずだ。)蔣介石は、ブリュッセル会議の対日制裁に期待し、和平条件を1ヶ月引き伸ばした。
1937年12月13日、南京が陥落し、日本政府は、トラウトマン工作を賠償を含む厳しい条件に変えた。近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本政府はトラウトマン工作を打ち切った。1940年の桐工作*が行われるまでの時期の和平条件は極めて過酷だったため、2年半近く、日中関係は最悪だった。
桐工作 1939年12月から1940年9月まで水面下で行われた。今井武夫大佐と宗子良(蔣介石夫人宗美齢の弟)との交渉。満州国、(満州国を含めた)中国国内での日本軍の駐留、汪兆銘政権の承認、宗子良スパイ説、「国民政府を対手とせず」発言などの問題点があった。日本側が中止した。
このように7月19日に停戦協定が締結され、日本の現地陸軍関係者(橋本群、今井武夫、池田純久)、若しくは外務省関係者(廣田弘毅、石射猪太郎、日高信六郎など)が、中国側の関係者(宗哲元、張自忠、高宗武)と停戦の努力をし、日本政府若しくは参謀本部に現地情勢を打電して、不拡大方針を採っていたが、中国側が廊坊事件や広安門事件などの散発的な戦闘を起こしたために、7月27日、日本政府は何度も見送っていた内地3個師団の派遣を承認し、28日、日本軍の総攻撃が行われ、これまで参謀本部が却下し続けた、関東軍によるチャハル作戦も8月8日、認可された。石射猪太郎曰く「陸軍部内の強硬派にとって思う壺の事態がここにできあがった」(石射猪太郎『外交官の一生』)
結論として、日中戦争は、第二次大戦の始まりのナチスドイツとソビエト連邦のポーランド侵攻のような不可侵条約を破棄した一方的な侵攻や、日本海軍による真珠湾攻撃とは異なる。停戦協定を破り、「執拗に」日本軍に攻撃して、その後、上海の租界に総攻撃した中国側にも責任がある。(背景を考えなければ片手落ちではないのか。)日中両国とも1941年まで宣戦布告をしていない。「蔣介石が中国の世論を無視して、抗日戦争を開始しなければ、中国軍の支持を失って失脚していただろう」との指摘がある。(『盧溝橋事件・上海事変・南京攻略:日中戦争の序章』鳥飼行博研究室)
盧溝橋事件から第二次上海事変の直前まで両国の紛争が行われていた間、両国の外交官による外交交渉が平行して行われていた。日高信六郎と王寵恵・高宗武との交渉、高宗武と船津振一郎・川越茂との交渉である。これは太平洋戦争とは異なる。(そんなに違いがあるのかな)松本重治は、「日中戦争は和平の努力をやりながら戦線を拡大した。日中双方の「心ある人々」が戦火の中でどれだけ平和への努力を払ったか、知って欲しい。」(松本重治『昭和史への一証言』)(こういう交渉担当者は、大局的な歴史をどれだけ把握していたのだろうか。)
和平条件は盧溝橋事件の段階で「中国側の負担にならない」「第29軍の陳謝」「第37師の移動」など「軽い条件」であったのに、中国側がこれを「一蹴」し、同年11月のトラウトマン工作の時も、日本は南京政府に、華北の行政権を「委ねる」と約束したのに、蔣介石はこれを「即座に」受諾せず、回答を1ヶ月も引き延ばした。1940年以降の桐工作も、領土要求はせず、中国本土での日本軍の「防共」駐屯権利の要求だった。(中ソ不可侵条約に抵触しないのか)だから、日本は一貫して「中国侵略を企てていなかった」という主張もある。(誰だ)しかし、満州国承認という(中国による)中国領の放棄を、正式項目ではなくとも協議事項として日本は要求している。
以上 2020年11月3日(火)
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