2020年11月15日日曜日

東大粛学問題と私の心境 蠟山政道 1939年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

東大粛学問題と私の心境 蠟山政道 1939年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

・蠟山政道 1895.11.21—1980.5.15

蠟山は、戦前は近衛文麿(昭和研究会)の、戦後は民社党のイデオローグ。

戦後丸山真男は蠟山をGHQによる公職追放措置からの解除を要請(嘆願書)したという。

日米安保条約を擁護。

 

 

・田中耕太郎1890.10.25—1974.3.1は東大法学部長1937の時、蠟山によれば、河合栄治郎の免職(休職)に関与したらしい。

戦後は最高裁長官となり、砂川裁判では、下級審を飛び越して(跳躍上告)最高裁判決を下し、その判決以前に結果を米側に保証していた。第一審の米軍基地違憲判決(伊達判決)の転覆である。

 また戦前1941当局から雑誌への寄稿を禁じられたという一面もある。

 

・河合栄治郎1891.2.13—1944.2.15はマルクス主義を批判するが、ファシズムも批判した。

 

・平賀粛学1939.1-2に関する論文(『文芸春秋』1939.3)で、一人清沢洌(きよし、1890.2.8—1945.5.21)が正しい。432

 

「僕らのような革新陣営*以外の立場からは、学者に限らず何人でも、自己と意見の異なる者を、学問的討議の方法によらずして、『非国民』とか『売国奴』とか『マルクス主義シンパ』とか、社会的圧力のある方へ追い込んで身動きのできぬようにする方法はきわめて卑怯だと考えられる。」433

 *「革新」陣営とは、大東亜共栄圏・昭和維新を唱える右翼や軍部等を言う。

 

清沢は、大杉栄を殺した憲兵隊の甘粕正彦憲兵大尉を批判する小説を書き、東京朝日新聞退社を余儀なくされた。1929

清沢ら数人(矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳ら)は権力(情報局)から総合雑誌への投稿を禁止された。1941.2.26

 

以上 20201115()

 

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