愛国百人一首 下村海南 1943年1月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
メモ
ウイキペディアによれば、
下村宏(海南)1875.5.11—1957.12.9
海南は号で本名は宏。官僚、新聞経営者、政治家、歌人。東大卒。拓殖大学第6代学長、内閣情報局総裁。
東大卒業後、逓信省入省。台湾総督府民政長官1915、同総務長官。朝日新聞社入社1921、貴族院議員1937、日本文学報国会理事1942、日本放送協会会長1943、国務大臣(内閣情報局総裁)1945.4.7。
戦後、戦犯で一時拘留。公職追放。東京商業学校(一橋大学)の運営に関わりながら、1953年参院選に出馬・落選。
感想
退屈、つまらないの一語。
「一億一心大東亜戦を完遂し…」「大東亜新秩序の建設に邁進しつつある今日…」「大東亜の指導民族としての時代…」「革新の気」「国体の明徴」等々。表現はもったいぶっているが、内実は全くない。
1941年の日米交渉の葛藤を経て同年12月の対米戦争開始を境として、日本人は一億総狂気の時代に突入したようだ。この一文には、忠君愛国精神溢れる、幕末以前に亡くなった人の歌を集めて忠君愛国精神を助長するカルタ(百人一首)を新たにつくり、国民の全体主義化を進めていく様子が書かれている。また次の一文では、1942年1月、東条英機内閣が大詔奉戴日を毎月8日に設定して、各家庭での国旗掲揚を義務化し、学校では大詔奉読・必勝祈願の記念行事を行わせるようになる1年前の出来事を振り返りながら、1941年12月8日の対米開戦・ハワイでの戦勝の様子を満洲でラジオを通して聞き、その時の感激を語る。恐ろしいことだ。国民は率先して忠君愛国に突き進んでいったようなのだ。
キーワードは国体明徴。国体明徴とは天皇に忠誠を尽くすことを義務化することだ。
この一文も、天皇への忠誠が話題の中心で、明治以降の死者を選考から外したが、吉村虎太郎の母親が明治以降死んだため、天皇に対する忠心を歌った彼女の歌が選から洩れたことは惜しいとか、実朝が天皇への忠誠をテーマに歌い、それは今のような国体が明徴されている時代では月並みだが、当時の幕府跋扈の時代では稀有なことだとして、批判もあったが入選にしたなど、全て天皇に対する忠誠が話題の中心となっている。以下、それぞれどんな歌か一首ずつ上げる。
吉村虎太郎の母の歌
四方に名をあげつつかへれかへらずは
おくれざりきと母にしらせよ
吉村虎太郎は幕末の勤王の志士だったらしい。*「前の侍従中山忠光を擁して義旗を南和(大和国)に挙げ(天誅組)、文久3年、1863年、9月26日、大和鷲家口で屠腹して果てた*」とある。歌の意味は、「虎太郎よ、あちこちで戦い、名を挙げて帰って来い。もし戦死して帰って来れないならば、他人に遅れることはなかったと私に知らせておくれ」という意味なのだろう。
*吉村虎太郎 1837.5.22—1863.9.27 土佐藩の志士。
*八月十八日の政変 西暦では1963年9月30日に当たる。孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力が、攘夷親政(攘夷戦争)を企てる三条実美ら尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデター。堺町御門の変、文久の政変ともいう。
実朝の歌
山はさけ海はあせなむ世なりとも
君にふた心われあらめやも
意味は「山が割け、海が褪せるような今の世の中でも、私は天皇に対して忠誠を誓わないような心は抱きたくない」という意味か。
「鎌倉時代は武家が跋扈する時代で、上も下も皆口をつぐんで尊皇愛国の歌など口にできない時代だった。北条一族が包囲する中を、実朝は敢然と詠んだ」とある。
このような状況はどんな精神構造をもたらすか。そこからは個人の尊厳や主体性や責任は生まれない。一個人は一人の愚かな使われる者に過ぎず、全ての責任は天皇にあり、全て人任せという発想が生まれる。自らが責任を持って時代を切り開いていくという精神に欠ける。2020年11月28日(土)
編集部注
日本文学報国会なるものが1942年2月につくられ、1942年11月、内閣情報局の後援で、戦中の愛国精神を高揚するために、新たな百人一首をつくった。選者は、筆者を含めて、佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、北原白秋ら12人。「祖先の情熱に接し、愛国精神を高揚」するため、万葉歌人から幕末の志士までの歌を選んだ。
以上 2020年11月27日(金)
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