2020年11月30日月曜日

北満の十二月八日 宮田重雄 1942年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

北満の十二月八日 宮田重雄 1942年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 

 

筆者は非常に情緒的だ。

一億狂気の集団ヒステリー。なぜなのか。異論を封殺してきた結果か。一旦対米戦争に突入すると後戻りできずそれに突き進むという心理もあるかも。恐ろしい。

 

 

要旨

 

編集部注

 

1942年1月、東条内閣は内閣告諭を発し、毎月8日を大詔奉戴日として、戦争完遂のために国民の総意を高めようとした。これは対米英開戦の12月8日を記念したもので、この日学校では宣戦の大詔奉読、必勝祈願が、そして各家では国旗掲揚が義務づけられた。筆者は医学博士で画家。

 

本文

 

533 「今日は第11回目の大詔奉戴日である。(1942年12月8日か)感激のあの日(1941年12月8日)からもう1ヵ年の歳月が流れた。一億国民の去年の今頃の暗澹たる気持ちと、快然たる今日とに思いを致すとき、皇恩のありがたさと、英霊や前線の将兵・戦友への感謝の祈りは深いのである。」

 私は北方の護りについていて、あの日(1941年12月8日)を迎えた。

 昨年(1941年)の夏、私は再度の御召に応じて入隊した。南か北かが将兵の関心事だった。1941年6月22日の独ソ戦開始に続いての招集であり、防諜のために、目立たぬよう、見送りなどなく、軍服も着用しないで入隊せよという。

 (南部)仏印進駐1941の後であったから、(北部仏印進駐は1940)すでにABCD包囲網でわが国を締め付けているときだった。

 

 同じ兵営に入隊したいくつかの隊が、胸に赤、白、黄、青などの色布で赤組、白組などと呼ばれた。

 赤組その他の組は北満方面らしかったが、私たちの白組だけは行き先が不明だった。

534 ○○港を出帆して、開いてみた命令には行き先として「大連」と書いてあった。大連入港前日、船のラジオが仏印サイゴンに皇軍が平和進駐したことを告げ、その華々しい状況を報じた。

 

 私たちは汽車で3日3晩、北満の果てに近い高原の小駅に着いた。

 生活は平静で拍子抜けした。8月末、そこからさらに国境に近い丘の上の兵舎に自動車で移駐した。

 新しい兵舎でも平静で、鉄道線路敷設の応援や演習などで日が暮れた。

 兵舎や病院だけで、遊びに行くところはなかった。時々慰問映画か、黒河の芸妓たちが祝祭日に来て踊りを見せてくれた。

 幸いわが隊は、酒保(兵営内や軍艦内で日用品・飲食物などを扱う売店)用品として、内地を出るとき六球スーパーのラジオを数台買ってきていたので、それを本部、酒保、各中隊に配った。夜の演芸放送の後、ロシア語や支那語の音楽などが遅くまで入ってきた。

 内地からの手紙や新聞が一週間以上、一番早く手に入る満洲の新聞が5日もかかっていたので、ラジオのニュースを何よりも先に聞くようになった。

 

 国内の情勢は日に日に逼迫していった。(ルーズベルト大統領あての)近衛メッセージの回答はなかなか来なかった。(実は右翼による近衛の暗殺計画9/18が、在京米大使館員襲撃計画10/2が発覚し、不穏になり、首脳会談ができなくなった。加藤陽子『戦争まで』400ABCD包囲網の横暴は、我々を苛立たせた。独ソ戦の戦況もはかばかしくなく、陥ちると思ったモスクワも容易に陥落しなかった。

 夜の話題は部隊長も交えて対米英の問題が多くなった。帰還のデマもあった。帰還のデマは出征につきものの兵隊の遊びだ。事実ポツリポツリと部隊がいなくなった。移動命令が来たが、同じ土地の東方の兵舎に移転するだけだった。

 

535 すぐ雪が降ってきて、ペチカの火を絶やすことができなくなった。孫呉熱という出血性紫斑病に似た疾病が流行し、死者も出た。

 会計検査があり、酒保が数台もラジオを持つことはできないことになり、部隊長以下希望者に原価で分けられた。私も中隊長と共同で買った。

 

 日米会談を応援するために来栖(三郎)大使が飛行機で渡米した。(1941年11月27日、来栖大使は野村大使とともにルーズベルト大統領と会談した。)われわれは心の一方では平和的解決を望みながら、他方では到底解決しそうもないのにこんなにまでしなければならぬのかと、不甲斐ない感じがして、わが国は米英を相手にする実力がないのであろうかと気持ちが沈みこむのであった。夜は対米英の作戦を語って気焔を上げた。香港、マレー、シンガポール、ジャワ、フィリピン等は簡単に打ち負かすことができるという結論にたどり着くのであった。内地の友人の手紙も日米会談のことが多く、悲憤の思いがこもっていた。

 

 ラジオが近衛内閣の瓦解と、東条内閣1941.10.18—1944.7.22の成立を告げた。われわれも何かと色めき立ち東条首相こそこの局面を何とか打開してくれるであろうと話し合った。

 

 丘を下りて(鉄道)沿線の元○○隊がいた兵舎への移動命令が来た。その部隊はどこかへ移駐したとのことだ。11月30日、零下30度、吹雪の中を移駐した。そこは低い丘陵地帯でやはり軍関係以外の建物はなかった。

 そこでは将校たちは一般の兵隊の兵営の下の官舎に住むことになり、私は中隊長と一緒に一つの官舎に起居することになった。毎朝隊から貨物車が一台我々を迎えに来た。

 ラジオは毎晩日米会談の模様を伝えた。野村・来栖両大使は辛抱強く米国の回答を待っているように思われた。

536 兵隊たちはスキーやスケートで体力を練っていた。

 

 12月8日朝、食卓についてラジオを聞くと、「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋における米英軍と戦闘状態に入れり」というアナウンサーの声が入った。当番兵は「いよいよはじめたか」と言った。

 私は中隊長を呼んだ。遂に来るものが来たという思いと、胸中のモヤモヤが一度に吹き晴れて行く清々しい感じであった。

 将校たちに話すと、驚くと共にそうあるべきだと話し合った。(本心か)部隊長は兵を集合させた。兵隊も皆亢奮していた。

 部隊長の訓示「本日暴戻なる米英に対して宣戦の詔勅が降った。隠忍自重堪えがたきを堪えあくまで平和的解決を望んだわが国の意志を、実力の過小と評価した彼らに対する神罰が降ったのである。真に肇国以来の大戦であり、亜細亜における英米勢力を一掃する聖戦である。無敵皇軍の征くところ必勝は期して待つべきであるが、我々もまた北辺警備の任にあって、この日を迎えた光栄を感銘し、われらが北辺を守るゆえに、南方の戦友たちは、存分に働けるのであるという誇りを持って、各自一層任務に精励せよ」という意味の訓示であった。

 部隊長の声も亢奮に高く、それを聞く兵の顔にも逞しい緊張があった。終わって東方を拝し、祖国に、南方戦線に、響けよとばかり、聖寿万歳を三唱した

 既に英艦の撃沈と、米艦の拿捕が報ぜられた。部隊長は隊のラジオが部隊長室と酒保にしかないから、次々に報道される戦果を兵全体に知らせる方法をとるように私に命じた。私は酒保に行き、T軍曹と相談して各中隊から速記の兵を出させ、ニュースの時間ごとに酒保に集合し、速記した記事を各中隊の適当な場所に張り出させることにした。

 

 11時、大詔の奉読があった。酒保に来会したI主計中尉とT軍曹と私と、防寒外套を脱ぎ、不動の姿勢をとって拝聴した。

537 畏れ多いきわみながら「豈朕が志ならんや」と語らせ給う大御心に、止めどない泪が頬を流れ落ちた

 

 やがてハワイ真珠湾攻撃の大ニュースが入ってきた。兵隊はワアッとばかりに歓声を上げて酒保に殺到した。私たちは真珠湾の大略の地図を描いて張り出した。

 一挙真珠湾を空襲しようなどとは、われわれの夢だに想像しなかったことであり、その輝かしい戦果に雀躍を禁じえないのである。

 兵隊たちは理性において先刻部隊長の訓示にあった、北方を護ることの意義を識っていても、感情においては南方の戦友たちに羨望を感じているようであった。(これ本心なのだろうか。熱病に冒されているのではないか。)

日米が戦えばソ連はどういう態度に出るか、たびたび我々の座談に上ったが、予想通り極めて冷静であった。(2年前の1939年5月から9月にかけてノモハン事件が起きているのに。)

 

 ラジオから連続して流される軍艦行進曲も古い軍歌も、不思議に我々の心に乗って、何か凛々たるものが体に溢れるようであった。夕食後は将校たちとニュースを聞きながら万歳を唱えた。この生涯の記念すべき日にわれわれ草莽の覚悟を手紙に書いて妻や子供や友人に送った。書きながら今日ほど一億の心が一つの焦点にピタリと合った日はないと思い、涙を落とした。(非常に情緒的)

 友人たちと手を取り肩をたたいて、きょうの感激を語りたい思いに堪えかねた。

 

以上 20201129()

 

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