2020年11月21日土曜日

平和への戦い 岩畔(くろ)豪雄(ひでお) 1966年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

平和への戦い 岩畔(くろ)豪雄(ひでお) 1966年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

疑問点

 

・独ソ開戦はなぜ日米交渉を無意味にする505のか。 米は国内の戦闘態勢が整わないので、ソ連への戦線拡大を遅らせようとして日米交渉を日本側に提起したが、ドイツがソ連に参戦したので、日米交渉はもはや無意味になったということか。日米交渉の目的は、ドイツのソ連への参戦を阻止することだったのか。(後述)

 

・米はなぜ英独和平を望まなかったのか。 英独の和平を認めることは、それまでドイツがヨーロッパ大陸で打ち負かしたフランスなどの国々のドイツによる獲得を承認することになるからなのだろうか。

 

・日米交渉が成立しかけたが、日本が急に対米参戦に傾いたのはなぜか。 松岡の妨害・足の引っぱりという一件もあるが、もともと対米和平はありえなかったのではないか。しかしなぜ交渉が成立しかけたのか。

 加藤陽子『戦争まで』によると、7月24日、ルーズベルトのイニシアティブで、日米首脳会談が提案された。7月(岩畔29)(加藤25)日の日本資産凍結、8月1日の石油全面禁輸の前である。

8月7日と9日、近衛首相がルーズベルト大統領に会いたいという訓令が豊田外相から野村大使に送られ、さらに8月26日、近衛からアメリカ側にダメ押しのメッセージが送られた。

しかしこれを野村がアメリカで洩らし、マスコミで報道され、それが日本にも伝わり、当時63万人と言われる右翼を刺激し、米迎合と思われた政治家、宮中、財閥が突き上げられ、日米首脳会談は危険だとアメリカ側(ハル)から野村に指摘され10/2、結局首脳会談は流れた。

岩畔がアメリカを立ったのが7月31日、日本に帰国したのが8月15日だから、すでにその前から首脳会談の流れは進んでいたが、岩畔はその点については触れていない。

 

 

感想

 

日米和平案はアメリカ側の作戦だったのかもしれない。提起したのはアメリカ側である。米国では反戦世論が強かったために、時間稼ぎをする必要があったのではないか。交渉の過程で譲歩を含めて様々な駆け引きが行われたとしても。

 

戦後の米国覇権の時代だから、筆者は日米和平に貢献したと、自慢話ができるのではないか。「君等の命は保証してやる」と米側に言われたことを筆者は自慢話のように語っている。

本書「『戦陣訓』はこうして作られた」の白根孝之によれば、岩畔豪雄は戦陣訓の作成を指導した492というから、この岩畔の平和主義者面と大いに矛盾している。

 

 

ウイキペディアより

 

岩畔豪雄 1897.10.10—1970.11.22

 

1938年、後方勤務要員養成所(後の陸軍中野学校)を創設。

1942年、兵器を研究開発する登戸研究所を設立。

1944年、スパイと商売とを兼ねた昭和通商を満洲に設立した。

1965年、京都産業大学を設立。

 

 

追記

 

加藤陽子『戦争まで』によると、日米協議の開始は反共が目的だったとあるが、355これは、当面はドイツが問題であり、反共は当面の問題ではなく、背景としてあったということらしい。

 

独ソ開戦と日米交渉終了に関する問題解明 加藤陽子『戦争まで』383--387によると、イギリスは対独戦において、米ソに依存していた。日本は米ソに対する影響力を持っていたので、ドイツは人種問題を差し置いて、日本と三国同盟を結び、アメリカが望んでいなかったことである、ソ連に対する攻撃をドイツは開始した。

アメリカは日米協議を通じて、日本に譲歩して、日米関係のうまみ*を提示して、日本をドイツよりもアメリカにひきつけ、ドイツによるソ連攻撃開始を阻止したかったのかもしれない。

 

*1941年4月16日にハルから野村に渡された日米諒解案の中には「満洲国の承認」がある。(加藤陽子『戦争まで』336, 340

 

関連する個所を本文より要約 498, 499

 

この案はカトリックのドラウト牧師、井川忠雄君、私(岩畔豪雄)の三人で作成したが、井川君は通訳だった。4月2日から4月5日にかけてほとんど徹夜で作成した。作成後ドラウト師はウオーカー氏を訪れ、同氏を通じてルーズベルト大統領の内覧に供し、私は、野村大使に提出した。

直ちに、野村大使司会の下で、若杉公使、磯田三郎陸軍武官、横田一郎海軍武官、井川君との6人で審議した。暫くして条約担当の松平康東書記官も参加した。試案の大綱に異論を挟む者はいなかったが、多くの字句の修正をした。

やがて米国側からも、いくつかの修正条項が提出された。我々3人は4月7日から日米双方の意見を参酌しながら、第二試案の起草に取り掛かった。遅々として進まなかったが、4月9日に一応の成案を得た。しかし、この案もその後、修正意見が出て、4月16日の朝に、ようやく最終案がまとまった。

そしてその日(4月16日)の午前中に、国務長官ハルが野村大使と会見し、「この3人の試案を基礎に日米交渉を始めてみたらどうか」と提案した。

外務省宛の暗号電報は若杉公使が起案した。その際、この日米諒解案が米国政府の起案にかかるかのように変更された。4月17日の朝、電送し終わった。(岩畔豪雄「平和への戦い」498, 499

 

 

要旨

 

編集部注

 

 岩畔豪雄は陸軍から派遣され、ワシントンで日米交渉に当たった陸軍少尉である。

 

本文

 

 日米交渉に参加した人は、アメリカ側では、ハル国務長官、バレンタイン氏、ウオルシュ牧師、ドラウト牧師、日本側は、野村吉三郎大使、井川忠雄君、若杉要公使と私である。

 1940年11月末、カトリック僧のウオルシュ、ドラウト両牧師が突然日本を訪問したことが、日米諒解案の発端である。

495 1940年9月日独伊三国同盟が成立し、アメリカは対日輸出制限を強化し、ABCDラインによって日本封じ込め政策を顕わにした。一方日本は、ドイツのヨーロッパでの軍事的大成功を見て、ドイツと協力すれば「対米英戦も恐れるに足りない」の気運が国中に盛り上がり、「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行するようになっていた。

 

*加藤陽子『戦争まで』266--273は、バス乗り遅れ論は政策立案者の考えではなく、実際に政策を立案する課長級の人たちは、ドイツのアジアへの進出を恐れていたので、アジアでの日本の権益を守るために三国同盟を結んだという。

 

 ウオルシュ、ドラウト両牧師は、ストローズ氏(後の米国原子力委員長)の紹介状を携えて、日米関係を改善しようとして、農林中央金庫理事の井川忠雄君を訪ねてきた。

 井川君は両牧師と初対面だったが、すぐさま両牧師の構想――日米国交調整案――の虜になった。両牧師は井川君の配慮で、近衛文麿総理、松岡洋右外相、池田斉彬(しげあき、三井財閥)氏などの有力者と会見したが、その構想に異論を挟む者はほとんどいなかった

 井川君は近衛総理の勧告に従い、陸軍の意向を打診するために、12月初め、私を訪問し、二人の牧師を陸軍省首脳部に引き合わすように依頼した。

 私は武藤章軍務局長に伝えた。武藤少将は軽く引き受けてくれた。翌日武藤少将は両牧師を官邸に迎え、彼らの構想に原則的に同意した。井川君によると、彼らの構想にはルーズベルト大統領も原則的に同意しているということだった。

 両牧師の「日米国交打開策」の骨子は、「ルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋沿岸(アラスカ又はハワイ)で会見し、日米両国間の懸案を一挙に調整すること」を目的とし、その前提条件として「ヨーロッパ戦争に対する両国の態度」、「日支事変解決策」、「日米通商問題」などの問題に関する両国の意見を調整するというものだった。

 当時日本国内の世論はアメリカに対してやや硬化しつつあったが、政界、陸海軍の首脳部の間では国交調整を希望する者がまだ残っていた。政府は当時欠員となっていた駐米大使に、海軍大将野村吉三郎を選んだ。

 1940年末、野村は赴任に先立ち、陸軍省の阿南惟幾次官と参謀本部の杉山元総長を訪れ、日支事変の経緯に精通している将校を駐米大使特別補佐官として希望し、私が2月5日にその任についた。

496 それは陸軍省事務局御用掛という職名であった。

 井川君が喜んだ。私が抜擢されたとき、井川君も両牧師に渡米を促されてアメリカに行こうとしていた。私は井川君に通訳を依頼した。

 井川君は1941年2月上旬、新田丸で渡米した。それ以前の1月下旬に、野村大使と若杉公使以下の外務官僚は渡米していた。

 

 私は渡米前に松岡外相に会った。松岡は「日米国交を是非とも正常に戻さなければならない。しかし、三国同盟を締結したから、その地固めを優先するために独伊を訪問し、帰途モスクワに立ち寄り、日ソ不戦条約を結び、その後に私は日米国交の回復に努力するつもりだ。君はそのための準備工作をしておいてくれ」と自信満々に言った。

 私は次に前外相で貴族院議員の有田八郎氏に会った。有田は「米国は日本陸軍を好戦的と見ている。君が戦争をしないと先方に諒解させることができれば、日米国交回復は成り立つだろう。」と言った。

 貴族院議員の青木一男氏(後の大東亜相)は、「井川は通訳として不適任である。井川は高橋是清に可愛がられ、傍若無人の振る舞いをして同僚の指弾を受けて大蔵省を去った」と言った。

 

 陸軍、海軍、外務の各省事務局の主な人々は日米和平を唱え、主戦論を唱えた者は一人もいなかった。しかし、個人的には和平論者でも、多数集まると、少数の主戦論者に押し切られ、会議の結果が主戦論に落ち着くことが少なくなかった。1941年初頭の世論の大勢は、まだ和平論だった。主戦論を明確に打ち出していたのは一握りの右翼にすぎなかった。

私は3月6日渡米した。3月30日、ニューヨークに着いた。

3月31日、私はウオルシュ、ドラウト両牧師と会見した。私が彼等に会見したのはこれが初めてだった。私が「三国同盟がすでに存在している。同盟諸国を裏切ることはできない。あなた方が三国同盟脱退を前提条件にするなら、初めから打開の可能性はない」と言うと、両牧師は私の主張を承認した。

 

4月1日、ワシントンの大使館に行った。私は情報担当の寺崎書記官を知っていた。

498 野村大使を除いて、若杉公使以下は井川君を邪魔者扱いにした。

 

4月2日、ドラウト師がワシントンに到着し、私たちと同じワードマン・パーク・ホテルに投宿した。そしてその夜からドラウト師、井川君と私はほとんど徹夜で「日米諒解案」の試案起草に当たった。案の内容は、ドラウト師と私との論議で決め、井川君は通訳をした。

3日後の4月5日に試案を、纏め上げた。われわれ3人は数時間の仮眠を取ったに過ぎなかった。作成後ドラウト師はウオーカー氏を訪れ、同氏を通じてルーズベルト大統領の内覧に供し、私は、野村大使に提出した。

直ちに、野村大使司会の下で、若杉公使、磯田三郎陸軍武官、横田一郎海軍武官、井川君との6人で審議した。暫くして条約担当の松平康東書記官も参加した。多くの字句の修正をしたが、試案の大綱に異論を挟む者はいなかった

やがて米国側からも、いくつかの修正条項が提出された。我々3人は4月7日から日米双方の意見を参酌しながら、第二試案の起草に取り掛かった。遅々として進まなかったが、4月9日に一応の成案を得た。しかし、この案もその後、修正意見が出て、4月16日の朝に、ようやく最終案がまとまった。

そしてその日(4月16日)の午前中に、国務長官ハルが野村大使と会見し、「この3人の試案を基礎に日米交渉を始めてみたらどうか」と提案した。

外務省宛の暗号電報は若杉公使が起案した。その際、この日米諒解案が米国政府の起案にかかるかのように変更された。4月17日の朝、電送し終わった。

私たちは日本政府の速やかな返事を求め、その旨を追記するとともに、野村大使の懇請に基き、私は武藤軍務局長と田中新一参謀本部第一部長に、海軍武官の横山大佐は海軍省に、その旨の電報を打った。

500 アメリカ側も返事を急ぎ、ハル長官は野村大使に数回催促した。なぜそんなに急ぐのか、その時は分からなかった。日本からは何の返事もなかった。*どういう意味か。松岡のことか。

 帰国後私は近衛総理、杉山参謀総長、武藤軍務局長から話を聞いて事情が分かった。

 

 4月18日、政府は挙げて諒解案に狂喜した。近衛総理(当時は外務大臣を兼摂)、外務、陸軍、海軍とも諒解案に同意し、字句の細部にこだわらず、同意の旨を野村大使に訓令しようとする意見が有力だった。

 ところが近衛総理はすぐ打電せず、外遊中の松岡外相の帰朝を待って処理することにした。

 指令に基き、松岡外相は4月22日に帰朝した。松岡外相は、独伊との提携強化と日ソ不可侵条約という二つの輝かしい外交的成果に酔い、自らを英雄と信じ、周囲の人々を問題にしなかったそうだ。

 近衛総理が日米交渉の経緯を松岡に説明しようとすると、「今そんな暇はない。これから日比谷公園で開かれる国民大会に出席しなければならない」と言ったため、近衛総理は大橋忠一外務次官を松岡外相の自動車に同乗させ、説明させた。

 ところが、その話を聞いていると松岡外相は「この諒解案は陸軍の謀略だ」と偏見を抱くようになった。

 近衛総理も外相を兼任していたのだから、即答できたはずだ。

501 私は1941年8月中旬に帰国して以上の事情を知った。

 

私は野村大使の賛同を得て、井川君とニューヨークへ行き、東京の松岡外相に電話した。松岡は「了解した。野村にあまり腰をつかわぬように伝えておけ」と言った。

 私は松岡の無礼な態度に鉄拳を見舞ってやりたかった。私は「全責任はあなたが背負うことになる」と言った。

 

 帰国後、近衛総理、杉山参謀総長、武藤軍務局長、佐藤賢了軍務課長から話を聞いた。それらを総合すると、閣議の席上、松岡外相は東条陸相に対して、「日米交渉は陸軍の謀略だ。岩畔(私)は俺の子分だが、今や陸軍の手先になって、おれに煮え湯を飲ませた」と言ったそうだ。

 

502 5月1日、ニューヨークからワシントンに帰り、松岡との電話内容や、フーバー前大統領との会見内容を野村大使に報告した。

 

 松岡外相は日米諒解案に対する返事を故意に遅らせた。5月12日、ようやく日米諒解案に対する日本政府の見解が到達した。請訓以来24日目だった。

 意見の中に「日米両国共同して英独戦争を調停する」という一項が入っていた。米側はこの問題に触れないように要請していた。この問題を取り上げるなら日米交渉は行わないと最初から言っていた。(そのことを岩畔は日本に連絡しておかなかったのか。)

 松岡はこの問題を主張していた。

 

 野村大使は、日本政府の修正意見を緩和して、「日米共同して独英戦争を調停する案」を日本政府の強硬な主張とせず、あまり重要でないという説明を加えて、米側に手交した。(これはまずいのでは。実際どういう表現にしたのか不明だが。)

 それに対して米側は回答せず、ハル長官と野村大使との会談を重ねた。会談は数十回に及んだ。5月中旬から6月下旬にかけての会談には、野村大使、井川君、私、ハル長官、バレンタインが参加した。

 

 米側は英独戦争の調停案に激しく反対した。会議を重ねるごとに、松岡外相に対する不信の態度が露骨になり、「日米交渉の内容がドイツやイタリアに漏れている」と指摘されるようになった。

 このようなハル長官の言動から、我々は、松岡外相では日米交渉を進捗できないようだ、また外務省の暗号が米国に解読されているようだと判断した。

 

 野村大使の要請に基き、井川君から近衛総理に、陸軍武官から陸相に、海軍武官から海相に、松岡外相更迭の必要を具申した。近衛総理はこれに基いて松岡更迭のための内閣改造を決意した、と帰国後総理から直接聞いた。

 

503 しかし暗号解読の件には何ら対応せず、戦後になってから、外務省の暗号が解読されていたことを知った。我々は道化役者を演じていたことになる。

 

 私はハル・野村会談に8回立ち会った。以下、印象に残る2回について記す。

 その一回は、5月下旬。ハル長官はいつもと違って無愛想な表情で我々をハル長官の私室に招じ入れた。「諸君との会談はおそらく今夕が最後になるだろう。東京の諜君からの情報によれば、東京政府は日米国交打開に熱心でないようだ。しかし、あなた方三人は熱心で誠実だった。日米の関係がどう変化してもあなた方の身柄だけは保証する」とハル長官は述べた。

 野村大使は「この交渉を断念すればただちに最悪の事態が訪れるだろう」と述べた。

 それに対してハル長官は野村大使の言うことが分からないらしく、再三質問をしたが、それでも納得できないようだった。

 ハル長官は「東京の諜君によれば、日本政府はこの交渉での重要な3点、①自衛権の解釈、②門戸開放・機会均等の原則、③日支事変終了後の(日本軍の)駐兵問題について、我々と根本的に異なる見解を抱いていることが分かった」と言った。

504 それに対して私は、「自衛権については、いままで言明したとおり、日米間の食い違いはない。門戸開放・機会均等の原則については、日本側も同意している。この原則は支那だけに限らず、西南太平洋や米大陸、地球全体に公平に適用すべきである。日支事変終了後の駐兵問題については、日本政府も当初の案よりはるかに譲歩している。妥協できるかもしれない。」と述べた。

 この言を受けてハル長官は会談を続けることにした。

 

 ハル長官が我々にハッタリを試みた意図は何か。「東京の諜君」とは何者か。これは暗号が解読されていたことを意味していた。

 この会談の時期は、松岡外相からドイツ側に伝えた日米交渉の内容を、駐日ドイツ大使が本国に打電した時、そして、日米交渉に関するドイツ政府の意見が、(駐独)大島大使によって東京に打電された時とほぼ一致していた。

 

 もう一回は、確か6月21日であった。ハル長官は「独ソ開戦に関する見通しはどうか」と尋ねた。

 意外な質問だった。日本大使館内では独ソ開戦に関して意見が二つに分かれていた。またこれに関してどこからも情報を得ていなかった。野村大使は「情報を入手していない」と答えた。

 ハル長官は期待はずれの表情をし、また、もはや話すべきことはないというそぶりをした。

 

 その2日後(6月23日、ウイキペディアでは6月22日)、ドイツがソ連に進撃した。その(ハル長官との会談の)翌日の晩、大使館員に対して野村大使が、独ソ開戦に関して質問したが、館員の意見はバラバラで、非戦論が大勢を占めていた。しかし私だけが独ソ開戦必然論を唱えた。(私には先見の明があったろう。えへん)

505 散会後、テレタイプ室でテレタイプが独ソ開戦を伝えていた。

 

 6月22日、23日のころ私はこう思った。アメリカは時間稼ぎのために交渉を継続するだろう。交渉が急速に成果を得られる可能性は少なくなった。日本側が交渉を妥結に導くには、これまでの案より要求を下げる必要があるが、日本側も無制限に要求を下げることはできないから、交渉は長引き、最後は決裂し、戦争になる可能性が増すと思った。その予想は的中した。(どんなもんだい)

 

 事態は悪化した。陸軍は関東軍特別大演習を名目に満洲に大部隊を集中した。さらに7月28日、陸軍は南部仏印に進駐した。

 翌日、米政府は抜き打ち的に予告もなしに、在米日本資産を凍結した。(加藤陽子『戦争まで』によれば、これはある程度予想していて、預金残額を減らしていたとある。)

 

 私は滞米が無意味だと思い、井川君と協議し、帰国の決意を固め、陸相に申請した。許可の電報があった。

 7月31日、ワシントンを去り、8月15日に帰国した。

 

 日米の国民の戦争気分は対照的だった。アメリカではルーズベルトを始め政界の首脳は早くから戦争突入の決意を固めていたようだが、一般の民衆は「戦争気分」(対日好戦的気分)はなく、反戦的気分が濃厚で、援英法案は戦争に引き込まれる可能性があるとして、リンドバーグたちは反戦演説会を開き、反戦デモが連日行われた。また反戦映画『徴兵に捕まった』が上映されていた。

一方、私の横浜入港以来、日本人は思いつめたように真剣な表情で、戦争突入の運命から逃れられないと観念しているように見えた。

当時の新聞・雑誌も主戦論記事で満たされていた。

 

日本の指導者とマスコミが戦争熱を煽った理由は、ドイツの強力な軍事力に便乗しようとする計算と、大和魂を過大に評価し、天佑神助があるという妄信であった。

ドイツ便乗主義者は「バスに乗り遅れるな」と言い、彼等は議会、軍部、マスコミを支配した。

大和魂の過大評価は、「精神を鍛錬すれば、技術や兵器は論ずるに足らず」という弊風をもたらし、そのため「物量のアメリカ恐れるに足らず」という結論を導いた。

また、天佑神助の「迷信」が大手を振って罷り通っていた。

 

8月15日から8月29日まで、私が滞米中の件に関して説明するために歴訪した、陸軍省首脳部、参謀本部、海軍省、軍令部、外務省、宮内省、近衛総理、連絡会議などでも同じ印象を受けた。

 8月16日、東条陸相は米国の実情と日米交渉に関する私の経過報告に関心を示さなかった。武藤軍務局長は私の説明を真剣に聞いた。「日米交渉妥結の際は、自分が近衛総理の随員に予定されている」と言った。

507 私の後任の軍事課長眞田穣一郎大佐は「陸軍部内では親米的意見は歓迎されないから注意せよ」と忠告してくれたが、私自身も、陸軍省や参謀本部が反英米的になっているのを感じた。

 参謀本部で私は講演したが、参謀本部は対米交渉よりも南方作戦に熱中していたようだ。

 参謀本部第二部の某課長は、「今や日米戦争は必死だ」「勝ち負けの問題ではない」と言った。

 しかし、英米関係の情報担当の杉田一次中佐は日米戦争を恐れていた。

 海軍省では30名を前に報告した。海軍の首脳部は対英米戦争に慎重であるはずだった、そして上級者は私の説にさも同意するようなそぶりを見せたが、私の報告が終わると、軍令部の某部長が立ち上がり、「ABCDラインは完成に近づいている。時間を無為に過ごすのは自滅を意味する。この情勢を打開する唯一の道は、対英米戦争決行しかないと信じるが、貴君の意見はどうか」と言った。

 私は「まだ日米交渉を継続すべきだ」と答えた。(無駄だと思って帰国したのではないのか。)

 豊田貞次郎外務大臣、天羽英二外務次官、寺崎太郎アメリカ局長ら外務省首脳部は糠に釘だった。

 近衛総理はまだ日米交渉成立に熱意を示し、私に今後もこの日米間の問題解決に専念するように懇請した。

 二度目に近衛首相に会ったとき、日米交渉好転のための具体案を井川君も交えて研究した。私が「日米交渉の成立を望むなら、仏印から撤退すべきだ」と言うと、総理は「私も同感だが、陸軍が承知しないだろう」と言った。

 総理に日米交渉を進める決意はないようだ。

 私は「米国が今日まで日米交渉を問題としてきたのは、日本が三国同盟を結んだからだ。日本が孤立していたら日米交渉はなかっただろう」と言うと、総理は「同感だ。しかし、自分が昨年三国同盟を結んだのは、対米問題と対支問題を片づけるためだった」と言った。深山で人に会ったような思いであった。(どういう意味か。総理はお迷いですかということか。)

 連絡会議は最高決定機関であった。私は主戦論を交渉論に転換するつもりで望んだ。(本当か)1時間半、日米戦力の比較を数字をあげながら説明し、日米交渉を成立させるための条件緩和についても話した。

 東条首相はこの前私の話をろくに聞こうともしなかったが、今回は熱心に聞き、質問もし、「今の講演内容を筆記して提出せよ」と私に言った。

509 ところが翌日8月24日、私が東条首相のところに行くと、私は仏印駐屯の近衛歩兵第五連隊長として転出することになっていた。

 東京の「良識」は失われていた。

 8月28日、私は東京駅を出発した。その時私は、生きて帰れれば、東京の焼け野が原を見ることになるだろうと想像していた。(私の予想が当たった)

 

1966年8月号

 

以上 20201120()

 

 

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