2021年6月18日金曜日

十二 日本精神 昭和5年、1930年3月下澣(旬)、於香取丸 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 要旨・感想

十二 日本精神 昭和5年、1930年3月下澣(旬)、於香取丸 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 2021617()

 

 橋本佐内の能力重視の人材登用の提言、後進国にとっての国際的同盟関係の必要性、国際連盟の展望などの考え方には納得できる。後進国のナショナリズム(尚武)は認めるべきだと私も思う。

 しかし国是に関して、いきなりまた先験的に、日本独特の神武天皇以来の万世一系の国体、天皇に対する忠義が出てくる。この宗教的依存、差別的な世襲身分制の肯定、旧弊を変革するという良い面を持つはずの革命の否定など理解できない。

 それに国是に関してこれ以上議論する必要はないと視野を狭めているのも問題だ。「今さら論ずるまでもないこと」258

 

 吉田松陰は父親、将軍、天皇への尊敬の念から忠孝二徳の一致へと進み、日本人は日本が万世一系の神国だということを認識せよと言う。さらに吉田松陰の言う尚武とは、死を手段化することだ。それは暴力的でさえある。そして筆者平泉澄はそれこそ「日本精神」だという。しかしそういう武力観は当時の国際社会でも失敗しただろうし、実際日本は諸外国に対する武力的対応を軌道修正した。またそういう日本精神に基づく昭和の戦争も結局失敗に終わったではないか。平泉澄は危険で自滅的な武力的対外政策を提唱している。

 

感想 2021614()

 

 橋本佐内は格式・伝統ではなく、能力に応じて任官するよう提言したとのことで、これは従来の慣例重視のやり方を打ち破る新たな考え方かなと感心したが、(神武)天皇だけは例外とし、その差別・服従構造は認めるという不徹底なものであったようだ。

 一方吉田松陰には橋本のような先進的な提言はなく、橋本の否定的側面、つまり天皇制差別構造に依拠した論理構成であるようだ。

 筆者の言う日本精神とは、その天皇制差別構造そのものを言うようだ。

 

 

要旨

 

242 日本精神は、日本国家が依って立ち、日本歴史が依って成るものである。すなわちそれは日本国家を支え、日本歴史を貫くものであるから、幕末維新の時など国難の時に最もよくそれが現れる。幕末維新の当時だけでなく、国史を通じた偉大な英俊として、私は橋本景岳(左内)と吉田松陰(寅二郎)を挙げる。

 吉田は世間に衆知しているが、橋本のことはよく知られていない。

243 安政の大獄1859は今から70余年前のことであり、橋本、吉田の両人はこの時殺され、もはや過去の人物のように思われがちだが、実は橋本は私たちと同時代の人間である。

この大獄で倒れた時の年齢は、安島帯刀が48歳、梅田雲濱が44歳、頼三樹三郎が35歳であったが、吉田松陰は30歳、橋本佐内は26歳であった。西郷南洲(隆盛)は橋本佐内より7歳年長で、文学博士の重野安沢は西郷隆盛と同年同郷の生まれである。橋本佐内は現在でも生きているとすれば、今96、7歳である。

 

244 橋本佐内は26歳で殺されたが、その前年の秋から禁錮されていたので、実際の活動は25歳の秋までであった。橋本は若くして亡くなったので偉業の事実がないが、当事の一流の人物は橋本を高く評価している。

橋本は藤田東湖に心服していたが、「鈴木主税)も小拙(私)も、心服する人は水府(水戸藩)の藤田である」と言っている。一方、藤田の方は橋本が偉器であることを看破し、橋本を抜擢するように越前藩の鈴木主税に勧めた。

245 西郷隆盛は「私は先輩として藤田東吾に服し、同僚において橋本佐内を推す。この二人の才知、学問、器量や見識(才能と卓見)を私はまねができない」と言っている。

安政5年1858正月14日、橋本佐内は、幕府の有司(官吏)で豪邁卓識の川路左衛門尉聖謨(ぼ)を初めて訪ねたが、橋本の手記に、川路は「傲然として『何用でお出で候や』と申した」とある。しかし、対談の結果、川路は「橋本の言論は剴到(がいとう、適切で行き届くこと。「剴」は切るの意)であり、私の半身は殆ど彼のために切り取られた気がした。今まであのような人に会ったことがない」とある人に語ったとのことである。

246 ただし、橋本佐内の「身長は五尺しかなく、色白で繊細あでやかで、婦女子の様であり、性質も穏やかで控えめで、人と争わなかったが、中心になって事を行うときは強く正しく屈服せず、人もその誠意に感じ、心腹を許した」と重野安沢博士243は碑文の中で語っている。

 

 橋本佐内の学問は、国学、漢学、洋学の三方面にわたっている。まず国学では本居宣長の学風を受け、その「敷島の大和心を人問はば」に基づき、自らを「桜花春暉(き、輝く)樓(楼、ろう)」と号した。

 漢学は吉田東篁(こう)に従った。吉田東篁は山崎闇斎の門流(崎門)に属し、大義名分を主とし、その学風は慷慨(意気盛ん)激越だった。橋本佐内は山崎闇斎の門人浅見綗(けい)齋の著した靖獻(せいけん)遺言を愛読した。

247 洋学は大阪で緒方洪菴に学び、後に江戸で杉田成卿(せいけい、玄白の孫)に学んだ。橋本佐内が当時学んだ「メカニカ」の手訳本は今も残っており、橋本の手になる「器学原始」という訳題がついている。杉田成卿が「濟生三方」を訳したとき、杉田は橋本に訂正を依頼したという。

 

 橋本は世界の大勢を洞察し、開国の必要を主張した。その詩の中で

 

「洋学禁止が寛解することは、遠い将来でないことを知っている。

要挂(けい、掛ける)春帆颿(はん、帆、走る)太平」

 

と言い、また、

 

「疇向羅巴(ヨーロッパに向かい)、大義を宣べる。

高く大旆(はい、旗)を揚げ、皇威が耀(輝)く。」

 

248 など、開国進取の説をうかがうことができる。しかも橋本は洋学を究めても洋学の弊害に陥らず、安政4年1857藩に洋学を興すことについて布令を発する時、その原案を作ったが、

 

「洋学の義、筋合正しく相開き候時は、その利夥(おびただし)くあるが、万一杜撰になるときは、その害言うべからず。この天地の間有力優偉の者についても皆そうだ。…凡そ大いに人を利するものは、また必ず大に人を害する弊害がないわけにいかない。(折衷論的)だからこの学の開闡(せん、開く)始めにおいて丁重用心致すべし。

 

と戒め、洋学を開くのは西洋の科学、工学等を学び取って、わが精神を補助するためであり、決して従来の和漢学の外に洋学という一派を開くのではないと注意した。

 

橋本佐内の経歴

 

 橋本佐内は安政2年1855、22歳の時までは医学研究生であったが、水戸の藤田東吾が(福井藩の)鈴木主税に勧め、その鈴木の推薦で同年10月、医員を免ぜられ、御書院番となった。これは抜躍の準備であった。鈴木は翌年安政3年18562月に死亡したが、中根雪江がその志を継ぎ、4月に橋本を福井藩の学校明道館の幹事とした。

橋本佐内の明道館幹事としての業績は、第一に、洋学を開いたこと、第二に、学問に実用を尊んだことである。従来の学風は、いたずらに空想を談じ、世道に益がなかったが、橋本佐内は実際実地の活用を心掛けさせた。第三に、教育に人材を登用することを主張した。当時は家格を重んじ、先例を主としていたが、橋本はこれに反対し、人物本位に改めようとした。橋本は世間の迂論(うろん、実用にならない世間知らずの説)を嘲り、

 

「このように(前)例だけを言えば、今日から屁一つも放つことができなくなる。」

 

250 と警句を吐いた。

 

 橋本佐内は福井藩(越前藩)一藩だけのことを考えてはいなかった。安政3年18564月、家老中根雪江に次のような手紙を送った。

 

「私は生まれつき病気がちで、昼夜間断なく(憂鬱)病が起きる。困ったものだ。最近も閑に任せ、よく診察してみたところ、これはよほど難しい病であることが分かった。憂国〇(忄と念)君という病である。四百余病は薬石を以て治せるが、ただこの病は薬石が及ばないものであり、扁鵲(へんじゃく、戦国時代の鄭の名医)も匙を投げるということだ。執事も同じ病にかかり、最近はおそらく陽気によって(病気が)発動しているのだろうと思う。呵々(笑い)」

 

橋本佐内は重大な時局を憂い、憂国病にかかった。

しかし、蟄龍(ちつりゅう、隠れている龍)は遂に池を脱した。安政4年18577月、橋本佐内は藩主春嶽に召され、江戸に出て、その侍読となり、また枢務にも関わった。つまり秘書官として、いやむしろ参謀長として、軍師として越前藩を指揮し、国家の大事に当たった。否、日本国の指導者としてその大識見を以て大計画を立て、大改革を断行しようとした。

251 第一に橋本佐内は西力東漸の恐るべき形成を洞察した。

 

「我が神州が世界の第一等国にならなければ、インドのようになるだろう。」

 

と言い、彼(西洋)を制して世界の一等国になるか、そうでなければ、彼に制せられて、その属国になるか、国家の運命は今や極めて重大であることを橋本は察知した。そしてそのいずれの道を辿るかは一に我が覚悟によって決定される。凡そ先んずれば人を制し、後れれば、人に制せられる。従って、当時の急務は、彼がやってくるのを待っているのではなく、我から国を開き、世界の競争場に乗り出し、力を尽くして彼を凌ぐ他にない。安政4年18579月、松本佐内が村田氏壽に宛てた書状に、

 

252 「万国形勢の沿革に従い、我朝においても御趣向を換えるべきである。万国に普通(開国交際)し海外へ出かけること、交易すること、兵制を改めること、彼の(開国を迫る)国書を待たずに我から発露すべきことなどを、最近の為政の大綱領とすべきだと思う。」

 

 橋本佐内の開国論は井伊大老等幕府当局のそれと異なる。幕府の開国論は、外国の強迫によって、やむを得ずその要求に従うというものであるが、橋本佐内の開国論は我から進んで世界各国と交際しようとするものである。この点について橋本佐内は幕府の姑息卑屈の態度を罵った。

 

「強いて(開国を)辞退すれば、兵端にもなるから、やむを得ずこれを開いた、彼(あれ)も許したということになれば、これは尽く一世を愚弄される手段だと私は思う。」

 

 日本は我から進んで世界の真っただ中に乗り出してゆかねばならないが、世界の形成や将来の趨勢はどうか。この点に関して橋本佐内は国際連盟の成立を予言しているようである。

 

253 「最近の勢いはゆくゆく五大州が一図に同盟国になり、盟主を立て、四方の干戈は休むだろう。その盟主は先ず英魯のいずれかになるだろう。」

 

将来必ず国際連盟が成立し、戦争を止めるようになり、英露両国のいずれかがその国際連盟の盟主になるという。その間に処する日本の方策に関して、

 

「偖(さて)日本はとても独立が難しい。独立するには、山丹(シベリア、沿海州)、満洲の辺り、朝鮮国を併せ(併合し)、かつアメリカ州、あるいはインド地内に領地を持たないでは、とても望みのごとくならないが、これは最近ではとても難しい。その訳は、インドは西洋に領せられ、山丹辺はロシアが手をつけかけている。それに今は力不足である。」

 

 ここで言う独立とは孤立の意味である。世界各国が連盟する時、日本だけが孤立することができようか。もし孤立してそれでも他を制するためには日本は朝鮮半島や満洲、シベリアを併合し、かつアメリカまたはインドに植民地を持たねばならない。もしこれを領有すれば、独力で他を制することができるだろうが、これは今日では不可能である。インドは既に英国に取られ、シベリアはロシアが占領し、日本の現勢は余りにも無力である。

254 ここで日本が取るべき方策は他のなんらかの強国と提携同盟するしかない。その強国は英国かロシアであるが、国民性の類似や地理の近さから言えば、英国よりもロシアと結ぶのがよい。(日露同盟論)

 

 このように世界に雄飛するためには国内の政府当局を改革しなければならない。幕府の大改革である。幕府をすべて人材本位とし、天下の英俊を網羅し、挙国一致内閣を設ける。その第一は将軍に賢明の人を立てることである。将軍は朝廷の御委任を受けて天下の政務を総理する。責任内閣の首班である。第二に、将軍の下に国内事務宰相と外国事務宰相を置く。

255 つまり大臣である。その国内宰相には水戸の烈公、越前の春嶽公、薩摩の島津齊彬公を推し、外国宰相には肥前の鍋島齊正公を推す。そして外国宰相の下にいわば外務省の局長として、川路左衛門尉、永井玄蕃頭、岩瀬肥後守を置く。その他天下有名達識の士は、その身分の如何を問わず、自由に挙げ用いる。京都の守護は尾州家と鳥取の松平家に命じ、その指添として井伊掃部頭と戸田妥(た)女正等を挙げる。また蝦夷には宇和島の伊達遠江守、土佐の山内容堂等を総督とする。その他小名でも力のある者はそれぞれの向きによって登用する。

 このように天下の人材を活用すれば、国家の現状が振るわないとはいえ、活路を切り開けるだろう。そのうえ、ロシアやアメリカから学者、技師を50人ばかり招聘し、学校を起こし、産業の振興を計る。教育によって人材を作り、天下の人物を活用する。乞食雲助の類でも組にして、頭を立て、相応の賄いを与えて、北海道に派遣し、これを開墾させる。こうして全日本人をすべて活用し、最高最大の能力を発揮させることができる。

256 人間自ずから適用の士あり、天下何か為すべきの時なからん。(人間は何か役に立つものを必ず持っているものだ。)

 橋本佐内は鎖国攘夷の時代における不出世の英雄であった。

 橋本佐内はこの趣意を以て春嶽を説き、越前の藩論を一定し、天下の有力者を遊説した。朝廷の三条実萬(万、さねつむ)公(三条実美の父)はこれを聞いて膝の進むのを覚えなかったといい、幕府の川路左衛門尉はこれを聞いて半身を切り取られたように感じたという。

 

 ところが橋本佐内は忽ち禁獄され、斬首され、その大計画はすべて失われた。

257 橋本佐内は人材本位の立場から将軍家茂の後継として賢明の誉高き慶喜を推した。家茂将軍は病身で子がなかったからである。ところがこれに大奥が反対し、別に紀伊家から推すことになり、井伊掃部頭がその派閥の中心となり、頭目として画策した。井伊が大老に挙げられると、反対の諸侯諸士を排して幕府を乗っ取り、政治を独裁し、天下の賢才英俊の士はすべて処分し、殺したり、斥けたりした。その最も有力な反対者として橋本佐内は安政6年185910月7日、傳馬町の獄で斬られた。

 

 橋本佐内を幕末維新の最大最高の人物と評することは不公平とは言えない。

258 橋本佐内の日本精神 橋本佐内は安政3年18564月、藩から抜擢(ばってき)の内命を受けた時、家老中根雪江に答えて意見を述べたが、その中で日本精神の特質を説いている。

「藩に於いて国是の論があるとのことだが、それは論ずるまでもない。国是は国体を本とする。諸外国のように革命が頻繁に行われ、国体が絶えず変化する所では、その時々の相談によって国是を決定する必要がある。ところが我が国はそうではない。(私はこの固定的な考え方には反対だ。意見を戦わせて国是を決めるべきだ。)

 

「元来皇国は異邦と違い、革命と申す「乱習、悪風」がないため、今でもすぐにでも、神武天皇の御孫謀(子孫のためにする計画)や御遺烈(先人の功績)を御恪守(謹んで守る)御維持遊ばされ候て然るべき義と存じ奉り候」

 

258 我が国には革命という「悪習」がないから建国以来「一つの精神」(架空の空論!)が貫いている。だから国是は神武天皇以来既に決定しており、今さらとやかく議論する必要はない。ただし、これは保守頑固の説ではない。(ふむふむ)

 

「時代の沿革がある場合、これが神皇の御意に法(のっと)ることが肝要であるが、その作為制度における些少の換改や潤色がなければいけない。」(曖昧で不統一な論理)

 

 従来の制度をそのまま踏襲することは、擔(担たん、かつぐ)板漢の迂愚である。時代の進運に伴い多少の改革を加えることは「固より」必要である。建国以来国是が決定しているとはいえ、その表面的な末を見ないで、その「根本の精神」を考えて継承しなければならない。(曖昧)そして神武天皇以来の御精神とは、

 

「神皇の御孫謀・御遺烈とは、人が忠義を重んじ、武士が武道を尊ぶことである。これが我が皇国の国是である。(単純、曖昧)これが皇国の皇国たるところであり、支那の華靡(び)浮大、西洋の固滞暗鈍と比べたら雲泥の差である」(狭小な自己中)

 

260 建国以来決定して動かない国是であるところの日本精神の特質とは、人が忠義を重んじ、武士が武道を尊ぶこと、つまり忠義の精神と尚武の気象である。これが日本の日本たる所以であり、支那と明暗相異なり、西洋と雲泥相違する所以である。だから我らの期するところは、この日本精神の発揮でなければならない。

 

「決して唐様を慕うにも及ばず(不必要)、オランダのまねをするにも及ばないと私は思う。」

 

 他国の文明を採用するのは良いが、追随すべきではない。

 

「器械芸術は彼に取れ、忠義仁義は我に存す。」(話題の転換)

 

 物質文明は彼の長所を採用しなければならないが、それは自主的態度による採長補短であり、盲目的に模倣追随すべきではない。(敢えてそうしなくても実際そうなるのではないか。)我が特質、我国是である忠孝仁義(武道は?)の日本精神を厳然として保たねばならない。(強調にエスカレート)

 

「忠・実の二つは万世の亀鑑(模範)、百行の根本であり、これは寝ても覚めても忘却すべきでない。」

 

261 忠義、尚武は忠・実に帰着する。これは一切の根本原理であり、千歳万世にわたる指導原理となる。

 

国是の論はこの他に一言も言うべきことがない。」

 

 国是の根本、日本精神の特質はこの数言につきる。

 

 国史三千年を通じて稀に見る大天才橋本佐内の日本精神は以上の通りである。

 

 次は吉田松陰

 

 吉田松陰に関する伝記は早くから世に出回っている。吉田松陰の世界的知識、世界的経綸(国家統治策)、全国的計画、その全国的実行などは、橋本佐内に遠く及ばないが、日本精神についての深い理解、明確な表現、熱烈な鼓吹の点では、橋本佐内を凌駕する。橋本佐内は政治家であり、吉田松陰は教育者である。

262 吉田松陰の日本精神 松下村塾の規則 松下村塾は吉田松陰が罪を獲て実父杉氏宅に禁錮されていたとき、密かに門下を教導したところである。この塾で学んだ門人は後に長州の中心勢力として維新回天(時勢を一変すること)の大事を決行した。この塾の規則、吉田松陰の根本精神、指導原理は次の五条から成る。

 

 一 両親の命には必ず背いてはならない(必ずの一語に千鈞(鈞は目方の単位)の重みがあり、非常の力があることに注意せよ。(どういう点でか。))

 一 両親へ必ず出入りを告げるべきだ。

 263 一 晨(しん、あした、朝)起盥(かん、たらい、そそぐ)梳(そ、くしけずる)のとき、先祖を拝し、御城に向かって拝し、東に向かって天朝を拝すること。たとい病に臥すとも怠るべからず。

(先ず先祖を拝し、次に藩主を拝し、最後に朝廷を拝することは、近いところから始めて、根本的なものに遡ることである。たとえ病に臥すとも怠るべからずに、忠孝の精神の熱烈な発露を見る。)

 一 兄はもとより、年長又は位の高い人には必ず順い、敬い、無礼なことはせず、弟は勿論、品が卑しい年下の者を愛すべし。

(ヒ首(ひしゅ、短剣)を揮って老中を斬り、爆弾を投げて幕府を瓦解させようとする風雲児(事変を利用して才能を現す人)が、その実いかに恭順和敬の人かを見よ。)(暴力愛好家、こわ)

 一 塾中でのすべてのことで応対と進退とを(大)切に、礼儀を正しくすべし。

(豪宕(ごうとう、豪放)の士が実は礼節の人であることがここに明らかである。)(無関係では。)

 

 この五箇条は吉田松陰の赤心である。橋本佐内の忠実を吉田松陰はさらに痛烈に説いた。

 

264 士規七則 士規七則は乙卯(安政2年1855)正月5日の作である。これは前年18543月、吉田松陰が26歳の時、米国に渡ろうとして捕えられ、幕府によって藩の獄に幽囚されたが、その獄中での作である。

 第一条 「凡そ生まれて人となるかぎり、人が禽獣と異なる所以を知るべし。人に五倫(儒教での基本的な五つの対人関係。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友。そこで守られるべき道は順に、親・義・別・序・信である。)があるが、その中でも君臣と父子を最大とするから、人の人たるゆえんは、忠孝を本とする。」

 人がもし動物と異なることがないというならやめよう。もし動物と異なるとすれば、その相違は倫理道徳の一点にある。倫理道徳は人の人たるゆえんである。しかもその道徳に於いて最も重いものが忠孝の二徳である。故に人の人たるゆえんは忠孝を本とする。

265 第二条 「凡そ皇国に生まれたからには、宜しく我が宇内(天下)の尊い所以を知るべし。けだし、皇朝は万葉(万世)一統であり、邦国の士夫は禄位を世襲し、人君は民を養い、以て祖業を継ぎ、臣民は君に忠にして以て父の志を継ぐ、君臣一体、忠孝一致、唯我国だけが然りとなす。」

 人と生まれ忠孝を重んずべきことは、前条で説いたが、次に日本人として生まれたものは、日本国の本質、その特殊の国体を知らなければならない。日本の特質は、朝廷の万世一系であり、臣民が百代これに仕え、祖業を継ぐ点にある。この故に日本では革命がない。(吉田松陰は革命がないとは言っていない。)

 革命がないために忠孝の二徳は常に一致する。人として心得るべきことは忠孝の二徳であるが、日本人として更に心得るべき点は、日本においては忠孝の二徳が常に一致することである。

266 尚武の気象 第三条「士道が義(天皇に対する忠義)より大きいことはない。義は勇に基づいて行い、勇は義によって長い。」(吉田松陰の論理構成は弱い。吉田は論理の人ではなく情念の人だ。)

 第七条「死して後に已めるというが、この言葉は簡略で、その義(意義)は該(ひろ)い。堅忍果決、確乎として抜くべからざるもの、これを捨てて術はない。」(命知らずで命を粗末にする。暴力的。)

 これは「最も壮烈」な表現である。

 吉田松陰は一死を分(本分)として少しも恐れず、命を惜しむ者を罵る。

 

「十七八の死が惜しければ、三十の死も惜しい。八九十百になってもこれで足りたということはない。草虫水虫のように半年の命のものもあるが、虫はこれで短いとは言わない。松柏(かしわ)のように数百年の命のものもあるが、これで長いとはしない。…何年生きたら気が済むのか。先の目途でもあるのか。浦島武内も今は死人である。人間は僅か50年で、人生70は古来稀である。何か腹のいえるようなことをやって死なねば成仏できないぞ。」

 

 吉田松陰はこう「喝破」したが、死を恐れぬ日本男児の尚武の気象を歌って痛快を極めているではないか。(恐ろしく暴力的。)

 吉田松陰が最も憂えたことは日本人が太平に慣れ、臆病になったことである。吉田松陰はこの臆病を打ち破るために、自ら死んで民衆を励まそうとした。(バカ。三島由紀夫)

 

「人は私が乱を好むと言うだろうが、草奔(ほん、走る)崛(くつ、そばだつ)起の豪傑がいて、神州が墨夷の支配を受けぬようでありたい。…私が死を求めるのは、生きて事をなすことができる目途もなく、死んで人に感じさせることに一理があるのではないかいうことだ。この度の大事で一人も死ぬものがいないということは、余りにも余りにも日本人が臆病になりきったか、むこいから一人であっても死んでみせたら、朋友や故旧(旧知)、生き残った者どもも、少しは力を致してくれようかというまでだ。」

 

268 吉田松陰の理解した日本精神はこういうものだった。それは橋本佐内の日本精神と一致する。(違うのではないか。)両者とも忠孝の精神、尚武の気象を中核とするからだ。この二つがあって初めて日本は日本である。日本の国家はこの精神によって立ち、日本の歴史はこの精神で貫かれている。この精神が存する限り日本は永久に栄える。(見事に失敗したではないか。)我らが務めるべきことは、この精神の継承であり、その発揮、その鼓吹でなければならない。

 吉田松陰曰く。

 

「私は聞く。近世海外の諸蛮、各その賢人智者を推挙し、その政治を革新し、駸々然(すみやかに)として上国を凌(りょう、しのぐ)侮する勢いであると。我は何を以てこれを制することができようか。他にはない。私が先に論じた我が国体の外国とは異なる所以の大義を明らかにし、闔(こう、閉じる)国の人は闔国のために死に、闔藩の人は闔藩のために死に、臣は君のために死に、子は父のために死ぬ。そういう志が確乎としていれば、諸蛮を恐れることはない。願わくは諸君とともに従事したい。」

 

昭和5年19303月下澣(旬)、香取丸にありて之を稿す。

 

以上 2021617()

 

2021年6月13日日曜日

十一 江都督納言願文集(ごうととくどうげんがんもんしゅう)発刊の由来 昭和4年、1929年2月1日 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収  要旨・感想

十一 江都督納言願文集(ごうととくどうげんがんもんしゅう)発刊の由来 昭和4年、1929年2月1日 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

説明文

 

本論文は文献学者平泉澄の真骨頂と言うべきものだ。

茨城県(常州吉田郡六段田村、現在では水戸市六反田767)に六蔵寺(現在では六地蔵寺)という室町時代永享元年1429創立以来の古い寺があるらしい。(本寺はそれ以前から六段田村の地蔵堂であったから、歴史はこれよりも古い。)平泉は神皇正統記がこの寺にあるはずだと、群書類従掲載の神皇正統記が六蔵寺のそれを出典としていることから知り、またもともと平泉の関心は神皇正統記であったから、是非それを六蔵寺で探してみたいと思いつき、学生10名余を連れて六蔵寺を訪い(修学旅行)探してみたのだが見つからず、結果的には、この寺の三代目恵範が書いたり、書写したりさせたりした書物や、恵範以前の書物を整理することになった。そしてその記念として水戸市で講演会や展示会を開き、また本寺に伝わる「江都督納言願文集」という平安時代の大江匡房の願文集を出版することになった。

 ところが本論文では本願文集の内容説明が殆ど全くない。それは山崎誠『江都督納言願文集注解』塙書房の宣伝文書によれば、本願文集が漢文で書かれているため、今でもまだ全部解読できていないせいのようだ。

 

 文献学者にとっては、内容よりも古ければ古いほどいいのかもしれない。

 

 また、本論文では皇国史観論者の水戸光圀(義公)が六蔵寺の蔵書保存に寄与したらしいことについても述べられている。

 

以上 2021613()

 

 

感想 2021612()

 

 「江都督納言願文集」の名称をタイトルに使用しているが、タイトルにもある通り、本論文はその発刊の由来を記したものであって、「江都督納言願文集」の原文そのものを示した部分は、本論文の最後の最後で引用されたわずか一二句の断片に過ぎず、それも原文の内容の流れに沿った抜粋ではなく、筆者平泉澄が本願文集校閲の折たまたま父親が亡くなり、その悲しみや父親に対する恩義を述べる際に、この願文集の中から同様の悲しみの表現を見つけて、それを紹介しているに過ぎない。だから「江都督納言願文集」が一体どういう内容なのかについては、おかしな話なのだが全く説明がないのだ。平泉が「今後の研究を待つ241」と言っているのは、本論文で本願文集の内容の説明がないことをカバーする意味なのかもしれない。

 

追記 2021613()

 

 筆者平泉澄がなぜこの願文集の内容を紹介しないかが分かった。この願文集は漢文で書かれているため、その内容がまだ解読されていないということだ。(山崎誠『江都督納言願文集注解』塙書房 954頁、20103月発行、26,400円の宣伝文書*)平泉は本願文集に誤字や、返り点、送り仮名の間違いが多いと言っているが、実は内容が分からなかった可能性が高い。その点を明らかにせず、自らが無謬の権威であるかのように装うことは不誠実ではないか。

 

*この宣伝文書を書いている人自身が本願文集のことを「大江匡房の著作の中核」、「院政期文学の最高峰」と評するのだが、内容が分からずにどうしてそんなことが言えるのか。

 

感想 202164()

 

著者の文献学者としての真骨頂が発揮された論文である。これを本書の最後の方に持ってきたのはなぜか、執筆順か。もっと前に持ってきてもよかったのではないか。彼が情熱家であることが文章によく現れている。

 

追記 202166()

 

「江都督納言願文集」は平泉澄が六蔵寺で発見した文書の一つで、この大発見を記念し、印刷して各位に配られたものである。六蔵寺で発見された文書のメインは真言宗の宗旨(仏書210)だが、その解説をすることは専門家に任せる230というほど、文書群が大部だったのだろう。

「江都督納言願文集」は平安時代の大江匡房の著作である。六蔵寺のものはその奥書にあるように、六蔵寺関係者になる1435年の書写である。238

 

感想 202166()

 

 奥書の解説をしているだけで、本文の内容(真言宗の宗旨など210)を解説したものではない。奥書の解説も些末な内容が多い。生年を推定する221とか、人物の別名を解読する218などである。

そして最後には必ず皇国史観の水戸光圀を過大に褒めちぎることを忘れない。

 

 論理よりも、古ければよいという考え方の域を出ていない。

 

 

コトバンクより

 

「江都督納言願文集」(ごうととくどうげんがんもんしゅう)は唱導(説教)作品集で、全六巻。大江匡房が1061年(康平4)から1111年(天永2)にかけて作った願文編を、帝王、仙院、后妃、大臣、諸卿、(欠)、女人、尼公、上客、庶人に部類して収録する。六蔵寺本は今日全六巻のうち巻四を欠き五巻で、永享7年(1435)の奥書を持つ古写本である。中に天永2年12月18日の故匡房四十九日願文(匡房生前の擬作か)を収める。匡房の死後に身辺の人が編集したか。白河院の金峯山願文に<洞雲を履(ふ)んで嶺風に攀(よ)づ>が見える。

 

 

要旨

 

194 一 六蔵寺文書発見の顛末

 

 「江都督納言願文集」は水戸市六蔵寺の秘蔵である。

 私は六蔵寺に相当の蔵書があることを地誌によって知っていた。またここにかつて住んでいた恵範という学僧の文藻(文章)は、以前その著述「諸草心車抄」を大和の長谷寺で一見していて知っていた。しかし私がこの寺に最も心が惹かれたのは、その神皇正統記の古写本を伝えていたからだ。

 神皇正統記は我が国において最も重んずべき史書である。その記述の内容、その撰述の由来、その後世における感化など、実に重大なる価値を持つ史書である。しかし、その中世における古写本は、足利全盛の世においては殆どまれであり、わずかに永享年間1429--40の古写本が石川県の白山比咩(ひび)神社にある外は今に伝わっていない。ところが六蔵寺に大永8年1528書写の神皇正統記があるはずだ。というのは群書類従に収められている本がそれであることが、その奥書によって知られるからだ。そこで私は大正15年1926の秋、東京帝国大学国史学科の修学旅行の際に六蔵寺に立ち寄ることにした。

 大正15年、1926年10月28日、私と学生たちは六蔵寺を訪れた。六蔵寺は廃頽零落していた。住職はじめ檀家総代の人々が本箱を掃除していた。本箱の数は多く、そのほとんどが中世の古写本や古版本であったので驚いた。

196 しかし目当ての神皇正統記はなかった。私はその晩水戸の宿で、神皇正統記を発見したい、また他の古書についても調査したいと思い、翌日再び寺を訪れ、学生と分担して本箱の中の書籍の目録を作り一覧した。

 帰京後一行(いっこう)のノートをカードに作ったが、やはり神皇正統記がないことを知った。

 そこで私は神皇正統記のさらなる探索と、その他の古書の顕彰のために、完全な整理・調査をすることにした。

 

197 そのころ水戸の飯村丈三郎翁が事情を伝聞し、費用援助を申し出てくれた。

 第一回の調査を昭和二年1927の三月に行った。原田文学士他10名の学生が私を助けてくれた。四、五日の間に整理・分類・配列し、番号をうち、目録を作り、奥書を写した。461部、カード813枚、全体の半分を完成したところで残りは次回に回した。私は帝国大学新聞に以下の通り報告した。

 

土龍*(どりゅう)と木食*(もくじき)

 

*1土龍とは日本ではモグラ、中国ではミミズのこと。

*2木食とは、火食や肉食を避け、木の実や草だけを食べる僧の修行。弾誓1552--1613は木食の開祖である。

 

常陸の六蔵寺には主として室町時代の古写本が45箱、2000冊あるが、従来人が顧みることなく、蔵の二階に仕舞われていた。私どもが行ったこれら古書の整理と調査がどんな寄与を学会にもたらすか分からないが、以下三つの感慨を持った。

 

 六蔵寺の古書の多くは同寺三代の住持恵範法印と関係がある。恵範法印の著述、その筆写、法印が他に命じて写させたもの、法印が先師その他から伝領したものなどである。恵範の伝記は今日明らかにすることができないが、諸書の奥書を総合すると、寛正(かんしょう)3年1462の生まれになる。寛正3年は応仁の乱1467の5年前である。生まれはおそらく常陸付近と思われるが、17歳で受戒し、四国の伊予の安養寺や、讃岐の聖通寺に学び、また奈良の東大寺、近江の三井寺に遊び、30歳のころ常陸に帰り、栗崎の仏陀院に住んでいたが、39歳のときまた旅に出て、山城の醍醐に学び、翌年帰寺した。晩年は六蔵寺に閑居し動かなかったようだ。

 

 

 恵範の存生は天文6年1537、76歳の時まで跡づけられるが、それ以後は何も残っていない。そして天文15年1546、弟子の恵潤が先師恵範法印の幽魂を弔うために、弘法大師絵巻を写しているから、恵範は、天文6年の暮から7年の初めに亡くなったと思われる。(どうして天文8年から15年までは切り捨てるのか。)

 

 200 恵範は老いて益々著述筆写を倦(う)まなかった。若いときにも著作や書写が多く、39歳から40歳にかけて醍醐に留学したとき、謄写筆録が最も盛んであった。その後40代、50代は殆ど何もやらなかったが、60代になると急に活動が始まり、開蔵鈔心車、金剛界心車鈔、開解鈔心車、開秘鈔心車、指心抄心車、俱舎頌疏心車再記などを著し、76歳まで間断なく続けた。

 高齢のため目が不自由だったようで、「老眼霞の中の花の如し」と言って嘆いている。また当時は戦国動乱の時代で、兵馬が東西に馳せていたが、彼はひとり浮世の騒ぎに背(そむ)き、静かに研究に耽っていたようで、「世事を捨てて鼔(太鼓)の妙音を思わず、ただ私に対するものは雲雀(ひばり)の雛だけだ」と言っている。また後世の人も「上人は六蔵寺にいた時、土の穴の中で著述に専心した」と記しており、また、文鏡秘府論の奥書にも、彼自らが土龍(もぐら)恵範と署名している。矢叫びの音が絶えることのない戦国の時代に、この世の動乱をよそに土龍のように土穴に隠れ、ひたすら真理を探究した。(第一の感激)

 

 

木食(もくじき)興範

 

202 明治維新後、寺は朱印黒印などすべての田地を失い、住職は帰農した。興範は明治6年、25歳にして六蔵寺を再興すべく五穀を断って木食し、大般若経六百巻を書写する願を立て、もとの朱印黒印の田地全部を買い戻したが、その翌年の明治7年11月7日死亡した。墓碑に「その志をもたらして寂す。享年二十有六」とある。

 明治初年は思想上でも経済上でも寺に不利であったが、六蔵寺の宝庫に二千冊の古書が今日まで保存されたのはこの人の再興の力による。(第二の感激)

 

 

203 私たちが初めて六蔵寺を訪ねたのは去年(大正15年1926)の10月28日であった。12名の学生は各自部署を定めて目録を取り、大半を完了した。題目と奥書を500枚のカードに取った。

 さらにこの3月1927その整理を企画し、第一次整理を行った。前回の一年生は、今回は二年生になっていた。一日を配列に費やし、一日を番号記入と収蔵に宛て、中二日に目録をとり、奥書を写し、大型カード813枚になった。ここに恵範の伝記が明らかになった。(第三の感激)

 

204 その1927夏の8月13日、飯村翁197が東京で自動車事故で死亡した。76歳であった。 いばらき新聞社の本多社長が飯村翁の遺志を継ぎ、援助を申し出てくれた。

 

 昭和3年19281月7日、第二回の整理を始めた。原田学士197以下23名の学生が手伝ってくれた。整理は数日で完了し、1月11日の夕方に終了した。カードの数は前後を通じて2074枚となった。しかし神皇正統記は現れなかった。

205 結局神皇正統記は現れず、私たちの努力は結果的に恵範大徳の顕彰ということになった。六蔵寺の蔵書の大部分は恵範の著述か、その書写か、その伝領したものであった。そこで私は恵範大徳の霊を祭り、その遺書がこの世に現れたことを報告しようと思い立った。六蔵寺に恵範大徳の墓がなかった。あったと思われるが、今はその所在が分からない。私どもは昭和3年1月11日、彼の墓を立て、供養を遂げ、懇ろに菩提を弔い、遺書を整理したことを告げた。(弔辞省略)

 

206 次にこの完成を故飯村丈三郎翁197に報告すべく、昭和3年1月13日朝、行李に一枚のカードを墓前に供え、香華に代えた。(弔辞を省略するが、その中で、次のことをメモしておく。)

 

60函(はこ)2000冊に整理した。

義公(ぎこう)とは徳川光圀1628—1701の諡号(しごう、諡は「おくりな」)

調査に妨害もあったようだ。

 

208 今後の保存 茨城県の官民各位に今回の整理の事情とその経過を報告し、六蔵寺の蔵書の性質とその価値を説明し、今後の注意を乞うことにし、昭和3年1月13日午後1時、水戸の公会堂で講演会と展覧会を開催した。

209 会衆八百数十名、森岡知事も好意を寄せられ、出石学務部長と立田警察部長が来場された。

 

講演の順序

 

開会の辞                                市村甚三郎

日本刀の信仰                         岩崎航介

歴史における涅槃と復活         小林健三

義公と恵範                            原田亨一(「原田学士」とはこの人のようだ。)

六蔵寺古書整理の意義          平泉澄

閉会の辞                                本多社長

 

翌朝出石学務部長が六蔵寺文庫の現状を視察され、私は同氏に後事を託し、その日の午後学生諸君と共に寺を辞した。

 

二 

 

210 六蔵寺の古書の大部分は真言宗の仏書である。そしてその主要なものは恵範の著述である。恵範の苦心の様は玉篇の奥書によって推察できる。

 

「右この本両帖、全部ではないと雖も、年来競望していたから、求めることができた。すぐに打裏修復した。これは末代にわたって常住物となすべきものだ。

 

享禄(きょうろく、1528—1532)庚寅夷(かのえ)則27日  恵範 六十九」

 

 恵範は年来玉篇を求めて容易に之を得ることができなかったが、69歳のになって漸く一本を手に入れて珍重したが、それも全三冊のうち中下の二冊だけで上巻は欠けていた。

211 また浄不二鈔を求めたが、これも得難く、その求得を神仏に祈願した願文がある。

 

「世澆(ぎょう、そそぐ)季に至り、有情の業力は熾(し)盛にして、ときどき兵皷(こ、つづみ)を鳴らし、尅(こく)々に角笛を吹く。あるいは兵火のために漢陽三月の紅となり、あるいは雷火のために梅雨五月の雲に伴う。今の有余(勉強の時間)、往昔の十のうち一にもならない。浄不二鈔は唯し第一第六があるが、その他の軸(巻物の本)が全くない。また妙印鈔は空しくその名字を聞いても未だにその外題を開かない。」(原漢文)

 

「仰ぎ願わくは大山の阿広尾儞(じ)耶羅惹、奉仕修行者(自分のこと)の元誓を誤らず、四大八大の童子を供奉して、武相豆三州の際に、二部の疏鈔を求得せしめ給え。殊に三島の大明神、大通智勝の羅因を忘れず、十六王子を前後して、垂迹(せき、あと)の慈雲、伊豆箱根の高嶺に曳いて、二部の聖教を得せしめ、常州の仏法を続いて、遠く龍花の春に至り、客花奇香を得せしめ給うべし。雪山は半偈(げ、けつ)に身を投じ、萎政は五字に床となる。その他一市に啼哭するなど、計ふるに勝ふべからず。仍(よっ)て今法のためには身命を惜しまず、いわんや世財においておや。然りと雖も三衣の裙(すそ)が破れて補うことができない。一鉢底虚しくしてさらに治すことが難しい。ただ願わくは聖教御所持の耆(き)年、粉身の志を顧み候て、恩借に預かり候はば、生々の師と仰ぎ奉り、世々の慈願と重んじ奉るべきものなり。常州吉田郡六段田村七十老質恵範誠惶(こう、おそれる)謹言」

 

212 これは恵範が70歳、享禄4年1531のことである。そして翌年の享禄5年、その念願がかない、恵範は浄不二鈔を入手できた。その次第が浄不二鈔第二巻の奥書にある。

 

「右この抄は、伊豆宥祥上人の御記なり。しかる間、この抄は、当流自家の珍書であり、余流超過の財であり、このような書は他にない。しかし、当門徒の内尋を求めたが、名はあるが、その本がないとのこと。競望しつつ年を過ぎること40余年、去年享禄4年1531辛卯、相州大山寺から希客(下山掃部助)が隣の村に来たので、この抄のことを尋ねたところ、「俗家がどうして仏家の書籍を知ることができようか」と言い、「大山寺普賢院に一宇の経蔵がある。先師が明匠の誉を受け、当住碩学の聞こえがある。もしくはこの経蔵にその抄があるはずだ」と言う。そこで坂戸の源宗房を賓客に添え、遠路山川を凌いで、有無の実否を問い奉るのところ、「相違なくこの抄があり、剰(あまつさ)え不二記も若干ある」とのご返答により、歓喜踊躍(ようやく)し、次の年1532壬辰2月14日、俊長房、陽南房、深衆房、宗印房、識吽(いん)房の五人を相州に登山させ、下山掃部助殿は宿舎を筆者の座席とし、浄不二抄を若干軸、並びに不二記を書写し終わり、3月26日、当寺に下着した。ここに恵範怡(い、よろこぶ)喜の至極、夢幻の如し。誠にこの書は別して当流の骨髄であり、総じて一宗の心肝である。秘して秘すべく、守って守るべき頂上の髻(けい、もとどり、髪を頭上で束ねたもの)珠なり。

天文(てんぶん)二年1533癸(みずのと)巳雅夷則10日 恵範 72歳」(原漢文)

 

 恵範は前掲の願文を大山寺の普賢院に送り、その同情を訴えたものと思われる。恵範は願いが叶い写本を手に入れた。上人自らは高齢のため大山寺に上らなかったが、代理として遣わされた五人の僧が書写している間、毎日仁王般若経を二部または三部ずつ読誦し、その成功を神仏に祈った。浄不二鈔第八巻の奥書によれば、

 

214 「享禄第五暦壬辰15322月14日、五人を相州に遣わし、3月26日、数軸を愚庵に得たり。まことに聖教書写の間、仁王般若経を毎日三部(二月中)あるいは二部(三月全)読誦(どくしょう)を怠らず。都合121部。当国神祇、幷日光宇都宮冨士大権現、二所(権現、伊豆権現と箱根権現)、三島大山不動明王、鎌倉若宮八幡宮、武州鷲大明神、日本の大小当所有勢無勢(の神仏)に法楽(読経)し奉る。かの冥顕の力によって、路次の上下や山野に賊の難なく、河海に漂流の災いなく、希代の勝事を成就せるなり。よって老眼を拭いて一覧し、幷に点を加え終えた。願わくは足疲手疲の功求法の大願を酬い、五僧は意のごとく法燈を龍花の下に掲げ、愚老は一部披覧の間、深文を意樹の梢に達せん。  恵範 71」(原漢文)

 

 浄不二鈔第二十巻の奥書によれば、常州六蔵寺から相州大山寺まで9日間かかったとあるが、その道中の危険であったことやこの書を写して帰ることが容易でなかったことは、この文によって分かる。

 

 恵範が浄不二鈔を熟読してみると、その中に安然が著した教時義は、天台のものであるが、真言宗の徒も必読の書であるとあったので、どうしてもこれを一見しようとし、遂に天文3年1534これを入手した。同書第三巻の奥書に、

 

「右浄不二鈔を開いてみると、真言宗の徒も、安然が作った教時義は、最も一覧すべきと記している。よって台家(天台宗)の人に尋ねてみたところ、正直か惜しんでか「この書はない」とのこと。天文1532--54甲午暦閏正月の下旬、水戸明神の拝殿で17日祈願の旨あり、諸衆群衆談話の後で、花蔵院が所持されているとのこと。よって借用して写し終えた。筆者智順。

                                                                                      持主 73老 恵範」(原漢文)

 

 上人が土中に穴居して研学したことは、延寶2年1674、六蔵寺の宥密俱舎頌疏心車抄の跋に、

 

216 「ここにおいて当寺に帰り、穴窖(こう、あなぐら)の中に座して、この疏鈔を著す。」

 

 という。また同じころに書かれた断簡(切れ切れの書き物)で俱舎頌疏心車抄について、

 

「聞いた話だが、範師は当書の撰述の最中に、寺の中の土穴の中に居て、草案したとのこと。」

 

 上人自らも享禄4年1531、大疏第一愚草第四の奥書に朱書して、

 

「七十老眼廬(りょ、いおり)校した」

 

 また、大疏第二愚草第二の奥書に朱書して、

 

「七十老眼廬の中で廬校了」

 

 上人は自らを土龍と号した。土龍の号は文鏡秘府論の奥書に見える。

 

「右この論真言宗文体の龜(き、かめ)鏡、貴かな吾が大師。ただ釈種(釈衆、仏教徒)霊苗となすにあらず、またこれ孔門の玄関なり。哀しいかな、その流派をなし、いまだ波瀾を凌がず。悲しい至りだ。不如之耳。よってこれを写す。土龍 恵範 59」

 

217 六蔵寺が蔵する恵範の著作

 

俱舎頌疏聞書(長亨2年148827歳)

梵網経古迹心車鈔(明応7年149837歳)

水戸真寿寺勧進疏(明応8年149938歳)

稲荷遷宮表白(文亀元年150140歳)

開蔵鈔心車(大永元年152160歳)

金剛界心車(大永3年152362歳)

開解鈔心車(大永4年152463歳)

開秘鍵心車(大永5年152564歳)

指心抄心車(大永8年152867歳)

指心抄心車再記(大永8年1528から天文2年1533、67歳から72歳)

俱舎頌疏心車再記(天文元年153271歳)

伝法潅頂心車鈔

論名目心車

前方便心車

浄不二鈔心車

切韻反音抄心車

三大種子等事心車

御遺告心車

経惟供養表白

光明真言表白

遷宮表白

入仏表白

 

218 心車とは恵範の二字の扁(へん)と旁(つくり)を取ったものである。

 

 六蔵寺に当然あるはずのもので六蔵寺に伝わっていないものに、諸草心車抄がある。これは上人の文集であり、全部で六冊、主として、表白、願文、勧進疏、諷誦等を収めている。これらはいずれも諸寺からの依頼で恵範が作ったもので、当事の世相をうかがえるものだ。これは他所に幾部か遺っていて、上人の著述の中ではかなり多く世に出たものである。

 

219 これらの著述の中で上人が最も力を入れたものは、俱舎頌疏の研究と、大疏指心抄の注釈である。これらは巻帙(かんちつ、ふまき、和綴じ本を包む覆い)が浩瀚(こうかん、広い)であるが、上人はこの研究に多くの年月を費やした。

俱舎頌疏は27歳の時に聞書の述作があり、明応6年149736歳の時、その世間品心車鈔五巻を著し(船橋水哉、密宗学報第百九号)、70歳を越えてからさらにその修訂に着手し、大部の俱舎頌疏心車再記を作った。延寶2年1674、六蔵寺第二十世沙門宥密はその跋を作って次のように言った。

 

「俱舎頌疏、その義は深遠で、歴世これの注釈を作る者、異域(中国)では遁麟、恵暉(き)の二人であり、本朝(日本)では北林房と先師恵範上人だけだ。上人は若いころから心を俱舎に潜め、研覃(たん、長い、深い)累年、初めは二十有一歳で、園城寺の座主や阿州大龍寺上人を叩き、討論細議、その妙秘を得た。ここにおいて、当寺に帰り、穴窖(こう)の中に座してこの頌疏を著し、以て俱舎心車と名づけた。」(原漢文)

 

220 恵範は篤学であったが世に現れなかった。世間一般の章疏録などの仏書目録から洩れ、僧伝にも載せられていない。

 

三 六蔵寺は、その寺伝によれば、永享元年1429に創立され、宥覚が開山し、宥実が第二世で、恵範は第三世である。諸草心車鈔に収められている宥実第三回忌の願文は、永正4年15078月8日の日付であり、宥実13回の諷誦が、永正14年15178月8日の日付であるから、宥実は永正2年15058月8日に入寂したと思われる。釈論聴抄の奥書によれば、宥実は寛正(かんしょう)7年146636歳とあるから、その享年は75歳になる。この宥実に従って恵範が仏門に入った年は、享禄5年1532の浄不二鈔の奥書に「夏﨟(ろう、仏門に入ってからということか)55年71歳」とあるから、それから逆算して、文明10年1478、宥実48歳、恵範17歳の時であったと思われる。翌年の文明11年1479に恵範は、宥実から金剛界(大日如来の知徳面)と胎蔵界(大日如来の理の面)の両部の印可を授けられ、三宝院伝法潅頂血脉(みゃく)を授けられた。

 恵範の入寂年は明らかでない。天文6年1537には筆蹟が少なくなり、その8月以降は絶えて見えないから、おそらくその年の秋か冬に示寂したのではないか。そうすると享寿76歳になる。

 恵範の後は恵潤、宥海、宥津、宥応、宥義、宥算、宥純が続いて住持した。このうちの宥義は、字は玄音といい、徳川家康の知遇を受け、その推薦で本山の能化(のうげ、僧侶社会における長老、学頭)職となり、また長谷寺小池坊に移住し、三百石の朱印(家康のお墨付き)を受け、長谷寺法度(処罰)を受けた。(罰せられたのか。)本光国師日記によれば、宥義は慶長17年1612の夏、小池坊へ移住したが、家康はそのことを聞いて、「一段御機嫌よろしく御座候」と記している。長谷寺所蔵の諸草心車抄はこの宥義が持っていた本である。

 

222 恵範の後には恵範ほど熱心な学僧は出なかったようで、恵範の数多くの遺書を利用することも十分になされなかったようだ。しかし、六蔵寺の蔵書が他者によって利用された事例がある。

 第一に、大疏愚草(大日経疏愚草)は、頼瑜(ゆ)の著述であるが、それを恵範は享禄4年1531、弟子に写させ、恵範自ら土窖(こう)の中で校正し、それが六蔵寺に伝わっている。

天正13年1585、豊臣秀吉の紀州征伐により、新義真言宗の本山根来寺が全滅し、それ以後本書を見ることができなくなった。それから60余年を経て、智積院の隆長僧正が、それを求めて各地の寺院を捜索したが、見つからなかったが、六蔵寺に古写本が伝わっていると聞き、借覧を求めた。

223 六蔵寺は当初惜しんで拒んだが、隆長僧正が翌年水戸藩主頼房に訴え援助を乞うたので、六蔵寺も貸与した。智積院はこれを元にして諸方の零本(れいほん、一そろいの大半が欠けている本)を参照し、承応3年1654、遂にこれを印刻し、世に流布した。近世において大日経疏愚草(大疏愚草)が完全に伝わったのは六蔵寺本があったからであり、また恵範の余沢(後の世に残る先人の恩沢)に帰する。その事情は六蔵寺の版本大疏愚草の跋に、

 

「根嶺(根来寺)が廃圮(ひ、敗れる)して以来、この書は磨滅し、世に行き渡らないことが長く続き、その全本を持つものは少なかった。ところが常州水戸六蔵寺の書庫にその整った本が有ることを聞き、千里借りることを懇請し、まさにやって来ようとしたのだが、その本はまた虫に食われ、損傷する所がかなり多かったので、その二三策、七八軸、類聚成数部などを、広く諸方に探索し、ここにおいて数子が往復校訂し、ほぼ全本となし得て、遂に上梓した。(中略)承応甲午仲冬日、東山寓客尊宜等が謹んで記す。」

 

224 第二に、同じく頼瑜の著述である十住心論愚草がある。これも根来山滅亡以来、世にその影を没したものだが、六蔵寺には恵範のその遺書があった。天文3年1534、恵範の門弟恵深が根来寺で写したものである。万治年間1658—60、智積院は六蔵寺にこの本が伝わっていると聞き、その書写を乞うたが、六蔵寺はこれを容易に許さなかった。再三懇望の末、開版しないという約束の下で許した。

 六蔵寺がこのようにその蔵書の公開を惜しんだのは、保存を厳重にし、みだりに寺外に出さないことが代々の掟になっていたからである。その書籍を秘蔵し、愛惜し、厳重に護持しようとする精神は、文禄5年1596の起請文に見える。

 

起請文之事

梵天(インド)帝釈四大天王が惣(そう、総)じる(総合する)ものを、日本国中の大小の神祇、王城鎮守、東西八幡、醍醐の清龍権現、八代祖師奉掛などが御照覧候。六蔵寺代々の御執心御聖教を、他寺他院へ借用候ども、貸し申しまじき候。このことを偽り、貸し申し候者は、現当二世の所願を空しく申し候べく、よって起請事如件、

文禄5年1596丙申十月吉日六日

宥応法印進上

 

宥算

宥純  宥岳

宥延

 

(宥応は六蔵寺第七代の住持で、宥算(九代)、宥純(十代)、宥岳(十一代)、宥延(十二代)は次々にその後住となった。)

 

 このように京都の本山智積院が六蔵寺の大疏愚草や十住心論愚草などを懇望したことを、修史に熱心な水戸光圀が聞き及び、六蔵寺の蔵書に注意するようになった。義公(光圀)は寛文元年1661六蔵寺を訪ね、十住心論愚草を一見し、大経師に命じてそれを修復させた。同書について寺僧が記録するところによれば、義公はこのとき具(つぶさ)に六蔵寺の古書を点検して保護したようだ。当時義公が貴重書の副本をつくらせたことは、延寶2年1674住持宥密の跋で明らかである。

 

226 「方今(現今)水戸参議源公は古を好み廃を起こし、邪を黜(ちゅつ、斥ける)し、正を挙げ、この書が湮滅(いんめつ)することを恐れ、工費若干金を辱賜され、これを補修し、かつ一通を別に写して、副本を備えた。」

 

 義公が副本を作られたもので、恵範の著述は、

 

 俱舎頌疏心車鈔十七巻

 指心鈔心車再記十六巻

浄不二鈔二十巻

大経要義鈔七巻

 

 以上四部であったろうと、宥密の跋に見える。宥密は大経要義鈔について次のように言っている。

 

「本鈔は城州(山城国、木津市)の中川実範上人が撰述し、恵範先師自らが書いたものである。文字は雄建であり、千歳が経過しているが、手澤(しゅたく、故人の愛用物)は新である。」

 

227 義公はさらに文庫を改築した。文庫は法寶蔵と呼ばれているが、これは心越禅師が命名したものと思われ、今も心越禅師が書かれた額がかかっている。心越禅師は明の人で、延寶5年1677来朝し、義公に招かれ水戸に来た高僧である。この蔵は後に大破して修復に悩んでいたところ、明治42年修復を加えようとしたら、図らずも床下から慶長小判30枚その他の小判6枚を発見し、これによって修復を完成できたという。これは義公の深慮に出るところだろうと思う。惜しいことに後の人は義公の志を継がず、彰考館(水戸藩が『大日本史』編纂のために於いた修史局)の多士をもってしても、一人として法寶(宝)蔵に注意する者がなく、六蔵寺の珍籍は永く死蔵された。

 

228 ただし塙検校の群書類従に、六蔵寺の蔵書が二部収められている。一つは神皇正統記であり、次の奥書を伝えている。

 

「大永八年1528戊子6月23日これを書く。恵潤23歳」

 

 恵潤は恵範の弟子であり、師の跡を継ぎ、六蔵寺第四代の住持となった。私は専らこの原本を求めたのだが、遂に今日の六蔵寺でこれを発見できなかった。

 

 群書類従に収められた六蔵寺のもう一つの蔵書は、六蔵寺過去帳であり、これはすっかり散乱したが、とにかく現存している。その中に恵範の取り上げ母(産婆)妙安禅尼、恵潤祖母の妙勢、恵潤亡母の妙中禅尼の名が見える。

 

 恵範上人が示寂してから今までの400年間、六蔵寺の蔵書で学者の注意を引いたものはこれだけである。つまり公刊され広く天下に知られるようになったものは、大疏愚草223、神皇正統記と六蔵寺過去帳の三部だけである。

 

四 私どもの今回の整理は、図らずも義公の志を継ぎ、恵範上人の徳を天下に彰わすことになった。おそらくこの法寶院の徹底的整理は今回に始まると言ってよいと思う。

 

 昭和3年1月14日、六蔵寺を引き上げようとしていた日の朝、前日の展覧会に出陳した天正18年1590の銘のある笈(おい、書物を入れて背負う竹製の箱)を蔵に仕舞うとき、うっかり手を外して下に落としてしまった。板が一枚外れ、その中から恵範関係その他十数通の古文書が現れた。殊に延文3年1358の寄進状、嘉慶3年1389と永享10年1438の譲状が現れ、六蔵寺は寺院としては新しく、恵範が第三代であったが、それ以前に六段田村地蔵堂としての古い由緒をもつことが分かった。

 

230 六蔵寺法寶蔵の秘書の研究はそれぞれの専門の学者の討究に待つ。義公が副本を作った大経要義鈔は恵範自筆の本だが、今日では見ることができない。また近く群書類従に収められた神皇正統記の恵範書写の本はどこかへ失せてしまった。

法寶蔵の秘書を保存するために印刷して広く世間に分つべきである。私はその一部でもこの機会に印刷して学会に提供したいと思った。

 

231 島津住職や檀家総代諸氏は日夜困難を共にしてくれた。茨城県の官民各位は同情を寄せてくれ、殊にいばらき新聞を主宰された飯村翁やその後任の本多社長の援助と義心は我らを感激させた。そのおかげで我々は実数8日間で二千余冊の古書を整理することができた。また戦友原田学士と以下の学生諸君の好意に感謝する。その芳名は次の通りである。(省略)

233 いばらき新聞記者の小林文華氏や宮田氏をはじめ数多くの水戸人士、恵範上人の墓碑を彫刻した石工、その祭文を額に仕立てた経師などに感謝したい。中には徹夜した人もいた。

 

 私は法寶蔵の中の一部の古書を印刷して同志に分ち、その労を慰せんと思った。私と会ったことはなかったが知っているある人が、印刷費を喜捨してくれた。私は六蔵寺法寶蔵の中から江都督納言願文集を選んでこれを印刷し、関係者に贈るとともに、学会に提供して世に彰わそうとした。

 

 

234 六蔵寺の蔵書で珍貴なものは、恵範上人の著述は勿論、浄不二鈔、大疏愚草などの写本、正嘉2年1258の性霊集、建治3年1277の続性霊集、建治年間1275—77の大日経疏などの高野古版本、性霊集抄、和漢朗詠集私註、周易、論語などの古写本などがあるが、私は先ず、江都督願文集を選び、これを印刷に付した。

 

 江都督願文集は(平安時代の)一代の碩学、希世の文人、大江匡房(おおえのまさふさ、1041—1111.12.7)の著作である。匡房は大江成衡の男(息子)として、長久2年1041に生まれ、天喜4年1056文章得業生に補し、治暦3年1067に東宮学士に任じ、翌年後三条天皇の受禅の日、蔵人に補し、中務大輔に任じ、その後、美作守、左中弁、左大弁などを歴任し、寛治2年1088に参議に任じ、嘉保元年1094権中納言、承徳元年1097大宰権師を兼ね、康和4年1102権師をやめたが、嘉承元年1106再びこれに任じ、天永2年11117月大蔵師となり、その11月5日、71歳で亡くなった。

 その文名は世に鳴り、中右記の記者はその薨去を聞き「才智過人、文章は他に勝り、誠にこれは天下に明鏡なり」と称賛し、「朝(政治)の簡要は文の燈燭なり」(意味不明)と歎じている。

235 白河院の御代に高麗国から名医を求めた時、匡房が返諜を作り、「双魚*が鳳池の波に達することは難しい。*扁鵲(しゃく、かささぎ)がどうして鶏林の雲に入るだろうか。」(意味不明)と言ったことは有名だ。

 

*双魚とは二尾の鯉の腹の中から手紙が出てきたという故事から、手紙。

*この句は十訓抄1252にある。精選版日本国語辞典。

 

匡房の文章は続本朝文粋朝野群載本朝無題詩などに僅かに散見するだけで、詩文集は伝わっていない。その詩文集はかつて存在したようで、少なくとも匡房が晩年その編纂に勤めたことは、その暮年記から察せられる。暮年記は匡房が晩年に編纂した詩文集の序と思われる。匡房は晩年に詩文集や願文集などの編纂をしたと思われるが、いずれも散逸亡失し、世に伝わったのは、願文集の一部だけである。続群書類従に収められている江都督願文集がそれであり、それは全六巻のうち、第三巻だけが伝わっている。

236 ところが今回初めて第四巻を除いてほぼ完全に近い本が六蔵寺から現れた。その中に百余篇の願文が収められ、早い時代のものは、康平4年1061、匡房が21歳の作であり、遅い時代のものは天永2年1111、71歳で死亡する年の作まで集めている。(第三巻に天永2年12月18日の日付があり、その年11月5日に亡くなったことと一致しないようだが、これは彼が生前に擬作しておいたものを、没後に子息が用いたものだ。)

 ただし、多くは晩年の作であり、寛治4年109050歳を境とすれば、それ以前の作は30篇だけで、それ以後は80篇を越えている。匡房の暮年記は、彼が少年のころから詩文に関して先達名儒の知遇を受けたことを記している。

 

前肥前守時綱朝臣は深く詩心を得たり。私の前大相国の表や源右相府室家源二位の願文を見て、彼が言うには、「ほとんど江吏部の文章に近い」と。

故伊賀守孝言朝臣掃部頭佐国は、(私と)文において提携し、(文の)道に浮沈した。思うに、後進の領袖なり。私の円徳院の願文や前大和国関白第三の表を見て深く感嘆せり。

故式部大輔実綱朝臣は、文章に深くないとはいえ、なお感激しないわけにいかない。私の高麗の返諜を見て心伏した。

右中弁有信朝臣はすこぶる詩心を得たり。私の文章を見て泣いてこれに感じた。

ここに頃年(けいねん、近年)以来、この人達が皆物故し、文を知る人が一人もいなくなった。司馬遷はこう言う「誰がためにこれを作り、誰をしてこれを聞かせようか。」と。思うに聞くところによれば、「匠石は斧を郢(えい)に止(や)め、伯牙は絃を鐘子に絶つ」と。いかに況や風騒(文章)の道で、識者は少ない。巧心拙目は、古人の傷む所である。寛治以後の文章は敢えて深思せず、ただ翰(筆)墨(作文)の責を避けるだけだ。」(原漢文)

 

この願文集の大部分を占めている寛治以後の作は、匡房の知己がすでに凋落した後であり、彫琢(文章を磨くこと)が漸く粗なる時に成ったものであるが、匡房の唾咳は自ずから珠玉であり、その吐気も虹となる。匡房の源右相府室家の願文や円徳院の願文など、寛治以前の傑作は三十篇ある。本書はこの一代の名儒の文才を偲ぶ、その名が一世を覆いその作の多くが伝わらなかった大江匡房卿の貴重な文集の一つである。

238 その文は当時の名流のために作ったもので、歴史的色彩が鮮やかであり、世俗的関係と共に当時の宗教思想を現し、歴史家を益する。(本願文集の内容に関する平泉澄の注はこれだけ。)

 

 本書と恵範との関係 六蔵寺に伝わる江都督願文集は、その第三巻と第五巻の奥書が示すように、永享71435の書写である。(永享7年は恵範生誕の27年前である。)その後恵範がこれを伝領し、第六巻の表紙に恵範自らが題名を記し、署名しているから、これは恵範の手沢(愛用)本であるといえる。

 

239 本書と義公との関係 これに関する記録はないが、本書の原本を査検したところ、恵範時代は特別の表紙をつけていなかったようで、今は厚い黒表紙がつけられ保護されている。これは義公の考えであったと思われる。製本に際して表紙の内側に用いられた紙が、公卿の日記を謄写した反故(書き損じて不用になった紙)であり、その筆跡が元禄(1688—1703、光圀1628—1700)前後と推察されることによって想像した。このような反故は修史家でないと用いない。そして六蔵寺に関係した修史家には、前には義公があり、後には塙検校だけである。ところが塙検校の続群書類従は、江都督願文集を収めながら、僅かに第三巻の零本(不揃いの本)を知り、この六蔵寺本を知らない。だから本書を繕装したのは義公だったと思われ、本書公刊は義公の志を成す。

 

 六蔵寺の秘籍を調査整理できたのは飯村翁の義心による。ところがこの業がまだ完成しないうちに翁は災厄に禍せられた。本書の公刊は翁の菩提を弔うものだ。

 

240 今春印刷に着手したが、遅々として進まないうちに、図らずも父が喪に服し、「億劫(ごう、おびやかす)を経て報ずると言えど、尽くすことができないのは甘露(天から与えられる甘い不老不死の霊薬)育養の恩、一生を送って忍ぶと言えど、忘れるべからざるは長夜窀穸(ちゅんせき、墓穴、埋葬)の別れ」と言い、また「慈顔永く隔てぬ。いずれの日か、再び晨(しん、あした)昏(朝夕)の情を致さん。哀涙乾き難し。何れの時かまた撫養の徳に答えん」*という文に涙を誘われながら、喪中校正を続けた。

 

*これらの引用は江都督願文集からの引用と思われる。前の引用は精選版日本国語大辞典にある。

 

 本文は原文のままとし、多くの誤字、返り点、送り仮名の誤りを改めなかったが、ちょっとだけ私勘を鼇(ごう、おおがめ)頭(本文の上の空欄)に註した。本印刷は研究の資料として出版したものだ。

 

241 六蔵寺に関係して4年になる。関係各位の厚情に感謝する。

 

昭和4年9月10日朝擱筆(かくひつ、筆を置く)

 

以上 2021612()

 


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