2021年8月22日日曜日

大日本国民史7 皇政維新時代 森谷秀亮 太陽閣 昭和12年1937年5月20日  第十五章 「前期欧化時代来る」 感想・要旨(一部) 

大日本国民史7 皇政維新時代 森谷秀亮 太陽閣 昭和12年1937年5月20日

 

 

森谷秀亮(もりやひですけ、1897-1986)東大国史学科卒。1922年、三上参次の推薦で維新史料編纂官補、1945福島師範学校(福島大学)教授、1950-1963、新潟大学教授。1962-1975、教科用図書検定調査審議会委員として家永三郎の歴史教科書を批判した。東京家政学院大学教授1963-1966。駒澤大学教授1966-1975、その間の1969年、皇太子に明治維新史を進講した。1968-1986靖国神社百年史編纂。Wikiより。

 

 

感想 2021821()

 

 筆者は史実を引用しながら淡々と語り、あからさまに国家主義を前面に出さないが、明治維新以降の日本の思想の流れを国家主義に導こうとするように感じられる。これは当時の世界の帝国主義的傾向を考えてみるとき理解はできるが、それを突き破って前進し、諸国が共存する世界観を世界に提言する能がなかったとも言える。当時の帝国主義的世界の中でも、日本人も欧米の人々も全ての人々が国家主義者ばかりではなかった。*ところで今日でも帝国主義的世界に存在していると考えているのか、自国の軍事的利益ばかりを追及する人が極右にいるが、それは今では通用しない時代遅れの考えではないか。

 

*『「文芸春秋」にみる昭和史』第一巻の座談会「満蒙と我が特殊権益座談会」1931.10に現れる東京帝国大学助教授法学博士神川彦松*の発言がそれを示しているし、幣原喜重郎のように第一次大戦後の国際協調を考えていた政治家もいた。国際連盟の提言や不戦条約調印1928.8なども歴史の先を見る考え方であろう。

 

Wikiによれば、神川彦松はその後の1940年、皇紀2600年を記念して、大正製薬創業者・初代社長の石井絹治郎らと共に国粋主義的な名称の皇道文化研究所を設立し、戦後の1947年にはGHQ公職不適格とされ東大を去り、一時的に1950年まで教育界から追放されている。神川のこの10年間1931-1940における変転の経緯の詳細は分からない。しかし神川はこの座談会で一人、満蒙問題の帝国主義的解決と対比した国際主義的解決を述べている。

 

感想 2021815()

 

 Wikiによれば筆者は維新史編纂に関わったとあるが、その筆致は淡々としている。また本書のどこにも筆者が歴史観を語った部分が見当たらない。凡例に編輯方針が書かれているが、それは編輯者の考えであり、それが筆者の考えと一致しているかどうかは分からない。編輯方針は皇国史観そのものであるが、それを筆者が忠実に守ったかどうかも分からない。*ちなみに編輯方針は、以下の通りである。

 

 「『大日本国民史』全十二冊は、我が国現時の情勢に鑑みて、国体明徴、日本精神宣揚の立場から、一般国民に平明かつ興味深く記述した叢書である。

『大日本国民史』は内容上、各般の史的経過を公平に叙述してあるが、殊に皇室中心主義の立場に立ち(公平ではないのでは)、世界無比のわが国体を宣揚し、国体擁護の観念を高調して、日本国民の忠誠勇武と尊皇愛国心との発露に力点を置いた。」

そしてこの叢書に影響を及ぼした人物を挙げている。本叢書の立案・編輯に高須芳次郎、顧問に近衛文麿、皇典講究所長佐々木行忠、海軍大将加藤寛治、陸軍大将荒木貞夫、文学博士三上参次、貴族院議員徳富猪一郎、國學院大學長河野省三である。

 

*再読してみると、筆者が国家主義の立場に立っているらしいことが分かる。(後述)

 

感想 2021816()

 

「第十五章 前期欧化時代来る」を読む。英米が功利主義で、仏が自由主義、独が国家主義で、米はキリスト教主義419だといい、また加藤弘之は「国家主義」で、福沢諭吉は「功利主義」であるとするのだが、まず、その主義の定義をしていないし、国家と人物を一つの主義に固定することに違和感を持つ。それは荒っぽい論理ではないか。あるいは個人と主義との連結は、その個人が留学して学んだ元の国から来ているのかもしれないが。

 

 

人力車403の場合など、例証は面白いのだが、それは通俗的な笑いで、それだけに終わる。

加藤弘之の変節は興味深いが、それについての説明は不十分で分かりかねる。なぜ180度の転換をしたのだろうか。その政治的背景を知りたい。*

 

*再読してみると少し説明があった。国学者や漢学者から反対された422とある。「板垣退助が民選議院設立運動を起こすと加藤は意外にもそれに反対して尚早論を唱え、自らのこれまでの著書『真政大意』と『国体新論』を絶版にして『人権新説』を著した。かれはバックルの『英国文明史』やダーウィンの進化論を読み、自然科学に一致しない従来の持論は空想に過ぎなかったと反省している。422

 

功利主義即ち法制と言えるのか疑問。417

 

功利主義、自由主義は改進党と自由党に採用され、国家主義は帝政党や官僚に採用されたとある。410

 

 

第十五章 前期欧化時代来る 

 

 

第四節 明治初期の新聞

 

412 江戸時代の読売りは市井事(三面記事)に関するニュースに限られていたが、幕末になると、長崎出島のオランダ商館長から幕府に献上した外国ニュース和蘭(オランダ)風説書』が、各藩の間に伝写された。開国の後オランダは『和蘭風説書』の代わりに、本国とオランダ領バタヴィヤで発行する新聞を献上した。幕府はその主要な内容を翻訳し、文久2年1862年、『官版バタビヤ新聞』と題して発行した。同年、この種の翻訳が『官版海外新聞』『海外新聞別集』など新聞の型で発行された。

413 文久年間1861-1863、新教の牧師が南支那で発行していた漢字新聞の翻刻『官版中外新報』『官版六合叢談』『官版香港新聞』『官版中外雑誌』などが発行された。

 

 やがて国内に攘夷の風が吹きすさぶと、これら海外ニュースを専門とした新聞は発行できなくなり、(幕府も弱い)幕府の洋書調所に属する洋学者は目先を代えて、外国人の見た国内ニュースを主として取り扱わなければならなくなった。その結果生じた筆写新聞には、『横浜新聞』『日本交易新聞』『日本貿易新聞』『日本新聞』などがあり、文久3年1863年から慶応元年1865年まで横浜発行の欧字新聞がその材料となっていた。一般開国論者の要求は、当時治外法権区域であった横浜で外国人が発行する邦字新聞で僅かに満たされるに過ぎなかった。『海外新聞』『万国新聞』『倫敦(ロンドン)新聞』の三種がそれである。

 

413 佐幕勤皇両派の新聞紙 鳥羽伏見戦争1868.1後の官軍東征のころ、幕府側の洋書調所(しらべどころ)の人々は、それまで「会訳社」を組織して筆写新聞(筆写とは横浜の外国語新聞の翻訳らしい)だけを発行していたが、慶応4年1868年2月、それを活字新聞として『中外新聞』と改題した。

414 1868年4月、5月、東京、横浜に佐幕派の『江湖新聞』『中海新聞画外編』『遠近新聞』『もしほ草』など七種の新聞が発行された。

勤皇派も、1868年2月、京都で新政府の機関雑誌『太政官日誌』を発行し、続いて『都鄙新聞』を、大阪でも『各国新聞紙』や『内外新聞』を、長崎では『崎陽新聞』を発行した。

 

 佐幕派の新聞は官軍が江戸に入る1868.4と発行を停止された。同年6月8日、政府は太政官布告官許以外の新聞を禁止した。その布告に「なお且つ陸続上梓いたし候趣につき」とあるように、官許以外の新聞が発行されていたようだが、政府の官報『鎮城府日誌』と広報『市政日誌』以外の新聞は市井に見られなくなった。

 

 明治2年、1869年2月、政府は「新聞紙印行条例」を発布して諸新聞の発行を許したが、「凡そ事の世に害なき者は皆記載すべし」とし、「政治は妄りに批評を加ふるを許さず」「妄りに教法を説くことを許さず」としたため、各新聞は時局に触れず、遠回しに民衆の思想の向上を図る外なかった。官許以外の東京の新聞は、その時代の政治を批判できなかったので、政治の理想、新文明の樹立、開化思想の宣伝などの方面に力を尽くした。

 

新聞紙がニュースと共に政治問題に「眼を移した」(どういう意味か)のは、明治6年以後のことである。(自由民権運動のことを指しているのか)

 

416 新聞紙礼賛 

 

感想 新聞紙を礼賛する『東京開化繁昌誌』からの引用は、新聞による政治批判禁止の隠蔽が目的か。これは政権を擁護する筆者の内心の現れか。加藤弘之の思想的変節でも現政権を擁護すると思われる表現が見られる。「わが国憲政の先覚者(加藤弘之)は、ここに時代に即し、(他の連中は転向しなかったが)珍しくも思想的に一転向をしたのである。」422

 

 

第五節 精神文化の欧化

 

417 江戸時代は医学の他は一切の西洋学は国禁であったが、明治新政府は開国進取の国是の下に、泰西文明の輸入を奨励した。そのため功利主義、国家主義、自由主義、キリスト教主義が入って来た。

 

 最初輸入された思想は主として英米の功利主義を根本とした文明で、時代が要求するままに法制に関する書物が訳出された。明治6年1873年の『共和政治』(ギルレット著、中村敬宇訳)、『米国政治論略』(オルデン著、錦織精之進訳)、明治8年1875年の『代議政体』(ミル著、永峯秀樹訳)、『万国政体論』(ホプキングス著、箕作麟祥訳)、『英国議員章程』(村田保訳)、明治9年1876年の『民法論綱』(ベザンム著、何礼之訳)などである。

 

418 功利主義の後にドイツの国家主義思想が官僚の間に広まった。功利主義の宣伝者は福沢諭吉であったが、国家主義思想の紹介者は加藤弘之、津田真道、海江田信義などで、彼らはドイツのシュタイン、ビーデルマンらの思想に拠った。加藤弘之は明治5年にブルンチュリーの『国家汎論』を、明治8年にビーデルマンの『各国政体起原史』を訳出した。

 

 これに次いで自由民権思想が次の時代を風靡した。明治3年の『自由之理』(ミル著、中村敬宇訳)、明治6年の『自由新論』(高橋達郎著、ルソーの説を紹介した)、明治9年の『万法精理』(モンテスキュー著、何礼文訳)、明治10年の『民約論』(ルソー著、服部徳訳)などである。

 

 紹介された思想は大部分が政治思想に関するもので、哲学や文学に関するものは少なかった。

419 イギリスの功利主義とフランスの自由主義は改進党や自由党の綱領に取り入れられ、ドイツの国家主義思想は帝政党や官僚のイデオロギーの根底をなした。

 

 これら外来思想の三大分野以外にアメリカのキリスト教派とでも称する一小分野があった。新島襄は明治7年2月にアメリカから帰朝し、明治8年11月、京都に同志社を創立し、万難を排してキリスト教精神を宣伝した。政府は条約改正の準備上、明治6年にキリスト教を黙認していた。同志社は多数の知識人を社会に送り出し、明治中期のキリスト教飛躍の基礎を作った。

 

 

第六節 時代の先覚者

 

420 国家主義の加藤弘之、自由主義の中村敬宇、功利主義の福沢諭吉、キリスト教の新島襄らは時代の先覚者であった。(定義をしない「時代の先覚者」とはどういう意味か。よく分からないが、何か偉い人のようだ。またあっさりと個人を主義に直結させることに違和感を覚える。)

 

加藤弘之*は憲政政治学の「先覚者」である。加藤弘之は『隣草』(文久元年1861年)の中で立憲政体を説いた。当時西洋の地理書の和漢本も議会政治を紹介していた。加藤は『隣草』の中で、これは中国の話だとしながら、議会政治の必要を説いたが、当初幕府は攘夷論者を憚って公刊しなかった。しかし、幕府は慶応3年1867年、『西洋各国盛衰強弱一覧表』を公にし、その中で、ヨーロッパ諸国が強大なのは、政体に由来するところが多いとした。加藤は明治元年『隣草』を修訂し『立憲政体略』と題して刊行した。それによれば、

政体には君政と民政とがあり、君政は君主擅(せん、ほしいまま)制、君主専治、上下同治に分けられ、民政は貴顕専治、万民共治に分けられる。この五政体のうち最も理想的なものは上下同治と万民共治の二政体だけで、これを立憲政体という。立憲政体は憲法を基礎とし、三権は分立し、国民一人一人が公私の二権を有するとした。

 

1868.12.12(新暦)加藤は幕府の政体律令取調御用掛であった。翌年1869新政府に出仕し、外務大丞などに任ぜられた。

 

421 加藤は『立憲政体略』に続き明治31870真政大意』を書き、近代政治の精神を通俗的に示した。加藤はその中で、各人の持つ権利・義務の概念、各人平等天賦人権主義を説き、政府は結局臣民のために存在するのだから、民の心で民を治めることが肝要であり、公議輿論を採り、憲法を制定し、臣民の生命・権利・私有の三つを保護し、干渉がましいことを行ってはならないと説いた。

当時会計官権(ごん)判事であった加藤は、この理由から前年の明治21869、公議所に「非人穢多御廃止之議」を提出していた。

 

 加藤は明治7年、1874年『国体新論』を著し、アリストテレスの「人は必ず相結びて、国家をなすべきの天性を備えたるものなり」を真理とし、国学者の説く神政的国家を旧式だと非難し、天下の国土は一君主の私有ではないと極言した。

422 加藤のこの説は民権主義者の賞賛を浴びたが、国学者や漢学者の反対が多く、物議を醸した。これは加藤がやがて天賦人権説と対立する国権説に移った原因の一つである。

 当時、板垣退助らが民選議院設立運動を起こすと、加藤は意外にもこれに反対し、尚早論を唱え、『真政大意』と『国体新論』を絶版1881.11.22にし、『人権新説1882.10を著した。かれはバックルの『英国文明史』やダーウィンの進化論を読み、自然科学と一致しない従来の自論が空想に過ぎなかったと反省し、自らの思想の一転化を諭明した。

加藤はかつて『国体新論』の中で「我が邦の如きは、古来絶えて革命なきをもって、君民の情誼最も深厚なるの理なれば、数年の後開明進化の日に至らば、必ず立憲君主政体を立て、もって君主国の基を固うせんを要す」と書いていた。加藤のこの転向は、君主至上権を説いたブルンチュリーの『国法汎論』を訳していた(明治51872)彼の一面が大きく全面を蔽ったものといえるだろう。「わが国憲政の先覚者」(加藤)は、ここに「時代に則し」、珍しくも思想的に一転向をした。(訳の分からない人だが、当時は混乱の時代で、個人も変節しやすかったのかもしれない。しかし、民権主義から国家主義に転向した人を称えるような筆者の態度は、時代の流れを忖度しているのかもしれない。)

 

 西周助(後に周、あまね)と津田真一郎(正直、真道、まみち)は、政治や法律の研究のために文久2年1862年6月から慶応元年1865年12月まで海外(オランダ)生活を送った。帰朝後、幕府の命を受けて、洋行中師事したライデン大学教授フィセリングの口授を翻訳し、西は『万国公法1868を、津田は『泰西国法論1866を公にした。これらの法律生活を説いた書物は従来全くなかったので、一部の人々に強い刺激を与えた。

 

423 中村敬宇(けいう、正直、1832-18912491-2551)は、慶応2年1866年、幕府の留学生取締になって渡英し、明治元年1868年に帰朝した後、スマイルスのセルフ・ヘルプを『西国立志編』という題で出版した。

中村は明治4年1871年、ミルの自由論を『自由之理』と題して出版した。これは社会が個人に及ぼす権限を論じたもので、社会の干渉を排斥して個人の自由を尊び、個性の力は自由意志の下にのみ発展・進歩すると論じた。その荘重な訳文は当時の青年に感激を与え、民権拡張運動を盛り上げた。

 後年自由党の河野広中は明治6年1873年3月、「帰途馬上ながらこれを読むに及んで、これまで漢学、国学にて養われ、ややもすれば攘夷を唱えた従来の思想が一朝にして大革命を起こし、人の自由、人の権利の重んずべきを知り、また広く民意に基づいて政治を行わねばならぬと自ら覚り、心に深き感銘を与え、胸中深く自由民権の信条を描き、全く余の生涯に至重至大の一転機を画したものである。しかもその変化が不思議と思われるほどの力を奮い起こしたことは、今さらながら一大進境の種たりしを思わざるを得ない。『自由之理』を読んで心の革命を起こせしは、その年の三月のことだ」と記している。

 

424 中村はまた明治6年1873年、同人社を開いて子弟の教育に尽力したが、これは慶應義塾と並んで二大私塾と言われた。また加藤弘之、西周、津田真道、神田孝平、福沢諭吉、森有礼、西村茂樹、箕作(みづくり)秋坪(しゅうひょう)、箕作麟祥らと当代新知識の総和と言われた『明六雑誌』(明治7年1874年3月から明治8年1875年11月の間に43号発行した。)を発刊し、憲政思想の急先鋒となった。

 

 福沢諭吉は万延元年1860年、文久2年1862年、慶応3年1867年と三回洋行した後、芝の新銭座に慶應義塾1868を設けて教育刷新事業に従事するとともに、著作を通じて西洋文明を説いた。『西洋旅案内』1873、『西洋衣食住』1867、『訓蒙窮理図解』1868、『万国一覧』1869、『世界国尽』1869、『西洋事情』慶応21866-明治21869wikiでは1870、『学問のすすめ』明治51872から91876まで、wikiでは1872、『文明論の概略』明治81875などを著した。

 

425 『西洋事情』は欧米諸国の銀行法、郵便法、徴兵令、選挙法などの制度、国民の持つ権利義務の観念、性の区別なく教育を受けなければならぬことなどを説いた。25万冊売れた。

 『学問のすすめ』の中で福沢は「本篇は余が読書の余暇、随時に記すところにして、明治52月、第一篇を初として、同911月、第17篇を以て終わり、発兌の全数今日に至るまで凡そ70万冊にして、その中初篇は20万冊に下らず。これに加ふるに前年は版権の法厳ならずして、偽版の流行盛なりしことなれば、22万冊とすれば、これは日本の人口3500万に比例して、国民160人中の一人は必ずこの書を読みたるものなり」と手記に記したが、これに従えば、70万冊を売り尽くしたことになる。平易な文章で誰にも分かり易く、またその内容は時人の求めるところと一致した。

その内容は(一)「天は人の上に人を知らず、人の下に人を造らず」との西諺(げん)の如く、万人の権利が平等であること、(二)実際の世の中には貴賤貧富の別があるけれども、その原因は天性の賢愚よりも、学問の有無に求められること、(三)故に国民としては権利と自由とを知るために、個人としては栄達富貴のために、学問が必要であり、しかもその学問は実利の学問に限ると強調した。

時に論は斬新に走り過ぎ、楠公(なんこう)の殉節を権助の死と同一視して、我が国固有の美談を無視したらしく思われる欠点がないではなかったが、それだけに旧習打破に努めたといえる。

 

426 福沢は欧米の諸設備を賞賛したが、「祖国日本を忘れるほど非日本的」ではない。「日本を愛すればこそ」欧米の長所を輸入し、小日本を建設する熱意に燃えていた。彼は後年、朝鮮、支那の大陸問題に注目したし、明治8年に公にした『文明論の概略』の中で次のような国防論を唱えたと言える。

 

「また一種の憂国者は攘夷家に比すれば、少しく所見を高くして、妄(みだり)りに外人を払はんとするには非ざれども、外国交際の困難の有様を見て、その原因をただ兵力の不足に帰し、われに兵備をさへ盛んにすれば、対立の勢を得べしとて、或は海陸軍の資本を増さんと言い、或は巨艦大砲を買はんと言い、或は台場(砲台)を築かんと言い、或は武庫を建てんと言う者あり。その意のあるところを察するに、英に千艘の軍艦あり、我にも千艘の軍艦あれば、必ずこれに敵対すべきものと思うが如し。畢竟事物の割合を知らざる者の考えなり。…今日本にて武備をなすに砲艦はもちろん、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。或は我が製造の術未だ開けざるがためなりと言うと雖も、その製造の未だ開けざるは、即ち国の文明の未だ具足せざる証拠なれば、その具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざるべし。」

 

ここで福沢は国防論者の面目を発揮し、国防と文明とを関連付けたようだ。広義国防の立場から彼は前記の諸著述を公刊し、明治9年の『分権論』や明治11年の『通俗国権論』*などを草した。(著者の意図が国防にあることが分かる。著者の結論は国権論だ。功利主義に分類していたはずの福沢諭吉も最後は国権論者に変貌する。)

 

*『通俗国権論』 氏族の反乱、自由民権運動、国会開設運動、条約改正問題など噴出する政治的課題を官だけに依存するのではなく、一身独立した民の力を高め、その調和によって解決していこうと説いた。福沢諭吉の政治論集。ci.nii.ac.jp/ncid

 

 

第七節 国粋主義の台頭

 

428 森有礼の欧化主義 

 

イギリス、アメリカの功利主義、ドイツの国権主義、フランスの自由主義及びアメリカ系のキリスト教主義と、明治初年にわが国を支配した諸思想は、ほとんどすべてが欧化時代の反映であった。科学にも、文化にも、経済にも、政治、法律、風俗にも、一として外国思想の洗礼を受けぬものはない。甚だしいものに至ると、森有礼のごとく、国語を排し、英語を採用する説を立て、エール大学総長ホイットニーから「余はたとい、そがいかに日本(「日本」の読み方を知らない人はまずいないと思われるのに、著者は「にっぽん」とわざわざルビを付けている。)の開化を進歩せしむる上に効力ある方法なりとしても、先ず祖先の国語を改良し発達せしめて、以て開化の進歩に伴うようになす方法にあらざれば、断じて賛同する能わざるなり…一国開化の発達は、必ずその国語によってせざるべからず」と非常識を戒められた例もある。」(これも筆者の愛国主義の観点からの引用と思われる。)

文明開化は時代のモットーであったが、なかにはその余りに極端な「脱線ぶり」に我慢できず、これを非難した人もいた。佐田介石は明治13、14年頃に出したと言われる『馬鹿の番付』で欧化礼賛者を馬鹿者に比している。

 

勧進元(発起人)              国の命を売り縮める舶来物品商。

東        大関       米穀を食わずして、パンを好む日本の人。

              関脇       結構な田地をつぶし、茶桑を作りて損する人。

              小結       輸出入の不平均を論じて、西洋料亭に懇会を開く議員。

西           大関       国産の種油、魚油を捨てて、舶来の石炭油を用いる人。

              関脇       従来の商業を捨て、会社を結び、それが為め身代限りする人。

              小結       ペロペロと洋語で国家の経済を論じて、我が身を修め兼ねる演説先生。

 

 「文明開化」の傾向に反対する人々の多くは、未だ封建思想から脱しきれず、新しい社会の風聞を理解できないため、「文明開化」が旧道徳を破壊する一面だけを強調したようだ。

しかし「文明開化」は西洋模倣と旧道徳の破壊だけを意味しない。新日本の建設に西洋模倣は必要だった。欧化時代の必要性を認め、その上に立って「日本精神」と「文明開化」との交渉に論を進めるのが正しい。しかしそれはこの時代には行われず、次期の国粋保存運動*を待たねばならなかった。

 

*国粋保存運動 国粋主義という言葉は、1880年代後半に三宅雪嶺志賀重昴(しげたか)ら政教社1888年組織)の雑誌『日本人』が、明治維新後の文明開化、直接的には条約改正と関連して政府が推進した欧化主義に反対し、「国粋保存主義」を唱道したのに始まる。コトバンク

 

 

感想 2021818()

 

ここでも最後には国粋保存運動は「正しい」と言っているように、筆者は、功利主義とされる福沢諭吉の場合もそうだが、最後は読者を国家主義へ導き、それを唱道しているかのようだ。その意味で、淡々と学者然として語る筆者もやはり本叢書のねらいどおりの執筆をしていると言えるようだ。

 

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