教育修身研究『現代教育教授思潮大観』春季臨時増刊 日本教育学会 分担執筆者 平塚盆徳、生井武久、三木壽雄、宗像誠也、佐野朝男、山田彌、白井今朝晴各学士 昭和7年1932年
第六章 現代の新学校
第一節 イギリスにおける新学校
一、アボッツホルムの学校Abbotsfolm
感想 表面的な説明でいまいち性格がつかめないが、この学校の特色は実生活や生徒の自発性を重視し、自治的な団体生活を行っていることのようである。
説明が表面的なのは第六章全体が当時有名だった欧米の学校を紹介するパンフレットを取り寄せてあるいは訪問してそれに基づいてまとめたからと思われる。
273 起源 アボッツホルムの学校は英国のマンチェスターとバーミンガムとの中間にあるダービーシャイアーのアボッツホルムにある。ここでは新教育が施行されている。設立者はセシル・レデーである。1881年から経営されている。
新教授法 この学校の新教育方法の特徴は次の通りである。
1.在来の英国の学校は「第二国民」として健全な精神と健全な身体を持って実力のある英国中堅国民を養成することを第一の目的としていたが、その方法はあまりに「保守的」であり、「近代青年」の発展を少なからず妨げる憂いがあった。この点にレデーは反対し、「新時代」が要求する人物を養成すべく新教育法案を考案した。
274 2.レデーは精神上の教育法として、「現代世界の思潮」に従い、学生が実際社会の有用人物になれるためには、学校生活が社会生活と一致していなければならないと考えた。また身体的方面から健康的であるこの地を選んだ。
新教育方法の目的
1.精神的方面の目的 これは人格養成を意味し、道徳方面にも知的方面にも完全無欠な人物を養成することを目的とする。その教育方法は以下の通りである。
ア、道徳方面の教育は宗教教育と結びつけられ、朝夕生徒を会合させて神に祈りをささげさせ、彼らの心を敬虔かつ正義・博愛にさせる。また彼らを美しい情操の持ち主にさせて「悪い思想」を除くために音楽教育を行っている。また自治の精神を養うために自治制を励行し、生徒自身に管理をさせている。
イ、知的方面の教育では外国語の教授を重んじ、また科学、地理学、歴史学等を教授し、各方面で生徒自身の自発的研究を重視している。即ち理論を後回しにして実験を重視し、自由な研究を奨励し、発見発明の基礎である研究心の発展を計っている。文学方面の教育も奨励されている。外国語教授の目的は独語や仏語を教えて、大陸の文化発展と平行させることである。語学では英語を重視しているが、従来軽視されていた話し方や書き方、読み方を最も奨励している。数学教育では実際的のものを教育している。即ち代数学や幾何学等も実社会に活用できる測量や製図等を重んじている。自然科学、地理学、歴史学等でも実生活に関係するものだけを教育している。
275 2.身体的方面の目的 身体的方面の教育方法は知的・道徳的方面の教育と密接に関係していて、体育的でかつ精神上好ましいものを課している。第一にスポーツである。そして手工作業を理想の訓練方法としていて、手工作業を体験させることによって、協同動作や相互扶助の精神を涵養し、努力の結果と精神の集中の結果の偉大さを知らせている。またこの地は平野部にあるため、広い牧場や美しい河川をいつも味わうことができる。そして園芸や農業を通して自然に親しませ、牧畜の利用法や飼育法を知らしめている。また芸術によって精神の美化を計っている。音楽教育の外に、手工作業と関連して図画装飾や彫刻を行わせ、詩歌の鑑賞もさせている。
以上がアボッツホルムの学校の教育法である。ここの教育は人格養成を第一としているが、その教育は宗教や道徳、知識、体育の訓練を習得させることによって、自然と自己を信頼し、社会の適材となるように指導している。
この学校は学校というよりもむしろ家庭的生活を行っている団体であると言った方が適している。即ち自治を行い、全生徒の共同作業、朝夕の会礼、集会、旅行などによって共同生活の真価を味わっている。
二、ニールNeillの学校*
感想 素晴らしい。この時代が理想とする教育の世界標準は、本文で述べられるような生徒の自由と自発性と自治とに基いた教育であり、日本でもそう考えられていたようである。
*Wikiによれば、
In 1927, A. S. Neill
relocated Summerhill School from Lyme Regis to Leiston. This was
the first major "free school" – referring to freedom in education.[5]
Children are not required to attend classes and discipline is meted(割り当てられる) by pupil
self-government meetings. Summerhill has inspired a large "free
school" movement and more recently, democratic schools in several
countries. The school occupies the former mansion of Richard Garrett, owner of
Leiston Works.
創立と特徴 本校は1925年ニールによって創設された新学校であり、ロンドンの北東百里(90マイル、145km)のレイストンLeiston(人口5508人、2011年)にある。この学校は英国だけでなく、実に世界教育界における最新教育を施行している新学校である。この学校の特徴は自由教育を施行していることである。学級を区別せず(英文では授業出席不要)学課も規定せず、生徒各自の研究によってそれ(学課)を完成すべく、その進歩を教師が進めている。全生徒は学校に寄宿し、男女共学である。
276 教育目的 この学校の教育目的は生徒の研究心を自発的に起こさせることであり、また強制的に教授せず自由に研究させることである。この学校では午前中は学術、午後は体育となっているが、これらは全て自由に研究し実行することを許している。自由の中で生徒は自律的精神を涵養し、自己の人格を修養するために努力している。学術では生徒は自己の好む学課を選び、その教師について研究する。この学校では生徒には自由が与えられているが、教師には自由な時間がない。教師はただ生徒の助言者に止まっている。
幼年者には手工教育が重視されていて、上級生にも手工教育が含まれている。これは体育に属していて、実験室や手工室が特別に設備されていて、金属類から陶器製作まで熟練を要するものも一科目として課せられている。(全くの自由ではなく課せられている科目もあるようだ。)
この学校は自由を尊ぶことから自治を重視している。職員生徒が会合して学校自治について協議し、それを維持している。課業が強制的でなく、試験や宿題がないから、生徒は何ら妨げもなく学び、生活を楽しんでいる。教師はその自由を与える上で真の自律的精神が生まれてくるように努力している。創立者ニールの教育の根本原理は、生徒を信じて自由を認め、自由の発展を奨励し、自律的人格を養成することである。この実施と主義において現代この学校に比較するに値するものはないだろう。ニールは、道徳的国民として自他ともに許している英国の(在来の)教育法が、社会へ送り出す生徒を、その発展すべき個性に対して命令・禁止を以て強制的に教授しているのを非とし、この新教授法を考案した。
277 「生徒自身には断じて悪の精神があるものではない。悪い精神が生じて来るのは、彼らの自由を束縛する「社会的な教育」を施すからである。児童の心理に対して両親も教師もあまりに無知である。両親は敢えて自由を与えない厳格な学校を選んで子弟を入学させようとする。このように児童に対して抑圧を加えれば、あらゆる児童の発達に対して障害となる。児童を強制すれば外面的には服従するだろうが、内心から服従するかは疑わざるを得ない。ここで強制を加えれば、その反動が断じて良い結果を得るものではないことは明らかである。学校における規則や家庭における禁止は、児童の自由を束縛し、その束縛は児童を次第に悪化させる直接の原因となる。その悪化の原因を取り除き、児童に自発的に道徳精神を呼び起こさせ、研究心を向上させるためには、彼らを自由の中で生活させなければならない。
彼らを自由の中で生活させ、人格者として社会に送り出すとき、彼らは自由によって得た精神を実行し、人を指導し、社会全体を改革するだろう」とニールは考えた。
要するにこの学校の新教育法の目的は、現代教育の欠点に対抗する方法を行い、将来社会を不言の中に改革できる人物を養成することである。
三、セント・クリストファー学校St. Christopher
感想 ダルトン・プランに基いているとあるように、この学校も生徒の自主性を尊重している。進路指導を重視しているようだ。劇化や演出を重視しているとのことだが、イギリスではそれが一般的なことなのだろうか。
創設と特徴 本校はハートフォード州のリッチワース*にある。ビトライス・エンサー夫人とこの学校の最初の校長だったアイ・ビー・キング嬢を推戴する学会が創設した学校である。教授の目的は生徒が卒業後自分で勉強できるように、また現在は発揮されていない技量を出現させるために援助してそれを実現することである。生徒がどの方面に進む頭脳や技量を持っているかを知るために努力している。生徒は各自の進むべき行程だけを専心努力することができるが、15歳以上になると課程も広まり、これに続いて専門科目が課せられる。多くの進歩した学校で紡績、印刷、裁縫などの諸課目が筋肉や精神に有用であるとして課せられているように、この学校の主要課目とされているものは、芸術や劇化や演出である。現代語学の研究は特に奨励されている。また修学旅行や交換留学を奨励している。
278 教育方法 教育方法の準備としてダルトン・プランが使用されている。全生徒は運動場で作業に従事する。生徒は校規の管理を分担し、自治の精神を尊ぶ。
*(レッチワースがリッチワースと同じかどうか分からないが、両者ともハートフォード州にあるから、同一かもしれない。Wikiによれば、)レッチワースLetchworthは、エベネザー・ハワード1850—1928が提唱した田園都市の理念に基づいて設計された最初の田園都市であり、ロンドン郊外のハートフォードシャーにある。渋沢栄一、渋沢秀雄父子らがこれに基いて田園調布を開発した。1922年に分譲が始まった千里山住宅地はレッチワースをモデルとして開発され、千里山駅前のメインストリートはレッチワースロードと名づけられている。
校舎はコンクリート建築である。英国で最初の公園とされるリッチワース園を見晴らす丘の上にある。校舎の隣に劇場があり、そこで市民と生徒が会することができる。教室は小さいが、非常に明るい。
できる限り課目は野外で教授する。寄宿生は二軒の寄宿舎で生活しているが、各舎に男女生徒がいっしょになり、各組に分かれている。ここに小さな礼拝堂があり、生徒は各自毎朝神に祈りをささげている。学校の常食は菜食主義である。
四、フレンシャム・ハイツ学校Frensham Heights
所在と特徴 本校はサレイSurreyのフレンシャムにある新学校であり、数年前にビトライス・エンサー夫人(セント・クリストファー学校St. Christopher参照277)によって建てられた。この学校は美しい森林地帯の原野の80エーカーの土地に建てられている。校舎は大きな邸宅を実験室や教室に分けて作られている。ビトライス・エンサー夫人は、この学校の副校長でセント・クリストファー学校の校長であるキング嬢と共に現代教育の趨勢を研究し、その長い体験の後に彼女たちが達することのできた全ての結果をこの学校の組織に実現しようとした。その教育主義は他の諸学校のそれと全く違ったものではないが、複雑な組織が特別な方法で教育されている点で独特である。
教育方法 全生徒に協力して作業させ、運動させ、学校を統制させ、芸術や劇を通じて創造力を養い、学校庭園の作業、公共奉仕、ダルトン・プランによる自己教育を行っている。生徒をモンテスキュー年齢に入学させ、高等学校やその他の専門教育を受けるまでの間教育する。全生徒は小団体に分割され、各団体は参事官の監督を受ける。各学習課程は6か年間教授される。生徒は必要課目と自分に応じた個人個人の時間表で課程を進める。各生徒の研究は奨励するが、幼年者の専門研究は奨励されない。
日曜日も生徒は両親と共に教会に行って修養に努める。この学校の特色は英国や欧州大陸の名所旧跡の見学旅行を毎年1回行うことである。ここでは軍事教練は課されず、その反対に少年少女が一緒になって音楽、芸術、劇、ダンスなど全て自己表現を促す機会を与えられ、感情的方面の訓練に力を入れている。
この学校の作業については皆確実な意見の一致を見る。即ちそれは新教育界において、この教育方法が最も効果があり、最も経験を持った組織を持っていることが有利であることを、この5、6年間の経験によって、また少数ではあるがこの学校の卒業生によって証明されていることである。
280 本校は、現校長パウル・ロバートの指導による、最新・最善な(教育)思想の労働(教育)と学術教育を誇る完全に進歩した学校として将来が期待されている。
第二節 アメリカにおける新学校
一、フェアホープの学校
感想 この学校はルソーの思想に基いた、自由で、作業を重視した、生徒中心の教育を行っている。
Wikiによれば、1907年、教育者Marietta
Johnson夫人がフェアホープに有機的教育学校School for Organic Educationを創設し、それがジョン・デューイの『明日の学校』Schools for Tomorrow 1915によって称賛された。デューイとジョンソンは進歩的教育協会Progressive Education Associationの創設時のメンバーである。19世紀の後半に始まったこの進歩的教育Progressive educationは、ヨーロッパで新教育運動New Education Movementとなった。
感想 このフェアホープの学校に関連してデューイやルソーが出て来るが、1967年ころの京大教育学部の鰺坂二夫教授1909--2005のことを思い出す。大学に入学当初教育学部の推薦図書としてルソーやアリストテレスが示されていたが、それとこのアメリカの新学校と何かしら関係があるのかもしれない。
設立者 フェアホープ学校案はジョンソン夫人によって創案された。ジョンソンは米国南部アラバマ州フェアホープにこの教育案を実施したが、その後アメリカ教育界に一大センセーションを巻き起こし、この学校案に倣って同種の学校があちこちに創設された。
新教育の主張 ジョンソンの教育法はルソーの思想に拠り、それは二つの原理に大別される。
一、児童は児童として意味のあることを体験するが、それは一方で大人の社会生活に入るための準備もしている。
二、児童は大人の世界でうまく生活できるように成長しなければならないから、児童の精神と身体を完全に発育させることができるような自由な教育方法でなければならない。
281 ジョンソンはこの教育原理に基づいてその教育的見解を展開した。元来児童は教室に閉じ込められて狭い机に向かい、複雑な事柄を静かに勉強するようにはできていない。児童は活動性に富んでいるから、続けざまに幾時間も窮屈な姿勢を保たせることは無理である。学校はどんな時間でも児童に運動させなければならない。課業の時でも遊戯の時でも一緒に動き回り、どんなことでも模倣し、自分で様々なことを工夫するようにさせなければならない。児童にとって自然界も人の世界も皆知識の源泉である。だから児童は興味深く注意を向ける。ところが普通学校ではこの機会を与えず、児童を狭い教室に押し込めて無理やり静粛にさせる。だから児童の求知心は次第に鈍くなり、課業に飽き、教室から一刻でも早く出ようとし、知識を獲得する第一の出発点で却って逆の効果を作ってしまう。
新教育法 ジョンソンの新学校案は次のように大別できる。
イ、学齢
ロ、組織法
ハ、訓練法 a、学習法 b、体育訓練法
ニ、会話、児童劇の課程
ホ、幼年者に対する数学教育
へ、手工作業
282 この新学校案の主義は以下の通りである。
幼児者が初めて入学した時、今まで自由な家庭で自分の好きなことだけを知り、聞いてきた。これら幼少な児童に対する学校教育の主点(要)は、児童の以前の生活と同じように自然に物事を理解させる必要がある。児童がその理解力によって文字を覚え書物を学ぼうとする欲が出てくるのは8歳から9歳のころである。それよりも幼少な時分から敢えて教えなくても、この時分になれば書物に対する理解力が増し、知識を得るためには書物によらなければならないという観念が生じてきて、児童は課業に対して自分の知識欲のために熱心に研究するようになる。知識欲を満足させようとする心が生じてくる時分までは頭脳の成長を待ち、直接に事物を観察して得られる以上の知識を得たいという時代になって初めてその要求に応じて教育を授けるべきである。
生徒の組分けは発育に基づく。8歳と9歳との間に相当する発育を見せている者を第一生活級とし、11歳と12歳との間にあるものを第二生活級としている。この第二生活級では各年齢に応じた知識、精神、体育の発達上必要な作業を設けている。この学校の特色は試験や種々雑多の課目を課さないことである。それは生徒が学習を嫌ったり、教科書を信じなかったり、教師の教授法さえ信用しないなどの悪弊を絶無するためである。そしてこの方法によって生徒は十分に教育されているのである。
訓練法は学習方面と体育養成方面とに分けられる。先ず学習方面の訓練法について述べる。生徒は課業に対して自由であり、自由に活動する機会が与えられている。自由を児童教育法の根本原則としている。児童に対して道徳観念を抱かせるために普通に行われている強制、禁止、命令は、却ってその学業・作業に対する児童の興味や愛好心を失わせその進歩を妨げる。それに対して自由を与えて課業を行えば、児童は興味を以て従事し、自発的に学習する。これは積極的に道徳的観念を抱く所以である。児童の学習法は前述の生活級や生徒の進歩状況に応じてその特徴を本位として教育を進めて行く。一般に行われている試験は児童に自己の欠点や失敗を意識させ、その精神上の刺激によって身体を害する。児童がどの程度まで教科書を吟味しているかという方面から教科書の記事を議論し(させ)て記述させることを以て試験としている。そして児童は課業に熱心に当たり、自己の力を知り、学習欲を以て課業に没頭する力を以て全ての作業に従事するようになる。
次に体育方面の訓練について述べる。形式による体育課目でなく、児童の自然的発育に従うことを原則としている。自然に親しみながら十分に筋肉を動かして発達させる。即ち自然に親しむように自然の研究を戸外で行う。また主にこの学校では戸外教授を主張している。自然研究では、動物学、植物学、鉱物学、地質学等の材料が眼前に得られ、野外で地理学を教授すれば向学心を向上し、観察力が鋭くなる。児童は教師の説明を聞きながら、河川の作用、気候と産業との関係、海運業と人生との関係などを深く研究し、完全に覚えて行く。
次に「会話」と児童劇は文学に親しみ鑑賞して文学的知識を習得する上に必要である。「会話」とは童話を幼少の時分にはこれを聞かせ、相当な年齢の生徒にはこれを話させ、これを以て教科書を学ぶ代わりとすることである。児童劇は生徒にその文学を味わせる上で大切である。幼少期でのこのような学習法は真に文学を味わおうとする心を生じさせる上で必要である。
284 次に数学教授は実際に当たって数を知らしめ、その後で符号による数字を教授する。
次に手工作業は身体訓練と共に筋肉運動を調整して学習を進歩させる課目である。幼少な児童でも目的物を自ら製作すればその成功を喜び、また何かを工夫して作ろうとする心が生じてくる。ここに自発的に研究心が生まれ、それが各方面に活用される。その基礎が手工作業である。発明力を持つ児童は、それを製作する上で継続した考案力と忍耐力を必要とするから、(手工作業は)児童の頭脳をより鋭敏にする上で役立つ。
以上の通りフェアホープの教師は生徒の性質、知識、身体を知って指導しているから、生徒の自然的発育が期待される。
二、チャイルド・センタード学校Child-Centered School
この新学校は1896年にアメリカでこれまでのソーシャル・センタード教育に対して新教育主義の学校として創設された。チャイルド・センタードとは児童を中心として教育する主義であり、ソーシャル・センタードとは社会を中心とした教育法案である。その教育原則は前者では児童を中心として、児童の成長に応じてその進歩・発展・向上を図ろうとするものであり、後者では社会が要求する人物を養成するものである。
285 この新教育法の最初はシカゴ市での小規模なピアースC.S.Peirceの実験学校である。この新教育法とは児童を中心として児童の個性を肉体的、知的、道徳的の全ての方面に成長・発達させる方法である。児童の活動が教育課程の中心であり、児童の経験や個性が教授の指針であり、その最大の目的は自己表現である。
*Charles Sanders Peirce1839—1914アメリカ合衆国の哲学者、論理学者、数学者、科学者。プラグマティズムの父と呼ばれる。
ピアースに次いで教育改革の新主義を主張したものはメリー・デューイMary Dewayである。「彼」の創設した実験学校は児童を第一とし、児童に自由に活動させ、児童が自発的に研究する主義をとった。1902年この学校はシカゴ・ユニバーシティの教育部に編入された。
これに次ぐ新学校は1904年に創設されたミズーリ大学のメリアムJ.L.Meriamの実験学校である。
今世紀における新学校の沿革は次の通りである。
創設年 学校名 所在地 創設者
1912 パーク・スクール ボルティモア スミス
1913 プレー・スクール ニューヨーク プラット女史
1915 ウオルデンスクール ニューヨーク ノーム・ダーク
1916 オーク・レーン・
カウンティデー・スクール フィラデルフィア フレーリッヘル
1917 インスティテュート・フォア
クリエイティブ・エデュケイション カリフォルニア ウイリアム
1919 進歩的教育協会 合衆国各地 自由教育家
1923 オジャイ・バリー・スクール カリフォルニア エドワード・ヨーマンス
1924 ローズメリー・スクール クラップ
新教育主義 新教育主義の根本原則は次の通りである。
一、自由 新教育法の第一主義は児童に自由を与えることである。強制的教授、教室、時間、学課、学級等、児童に対して抑圧となるものは避ける。その目的は自由の中で自然的発達、自律の精神を養成することである。
二、活動 活動は新学校の主義の一つである。その理由は、活動を児童に推奨することが、児童の肉体的、智的方面で、また精神の統一、協力、忍耐、服従の精神を修養して道徳的観念の基礎を築くためにも最も理想的なものであるからである。
三、自主・独立 自由を与え、活動を奨励する時、自発的に(教育者が児童の)将来を(に)要求するものは、自主独立の精神である。(本校の教育者は)自由と活動を児童に付与し、児童の団体を自治によって統治させ、団体生活の基礎を学ばせると同時に、自己統制の精神と独立の精神の養成に努力している。この習慣は将来児童が社会的生活で大いに役立つ修養でなければならない。児童には活動的精神と独立の精神が備わり、自分たちの課目を企図し、実験し、独創し、発見・発明する基礎を一歩一歩固めて行く。
四、自己表現と協力 新学校が誇りとすることは、自己表現・創造力の養成と社会的人物の養成である。児童は前述の習慣を形成される過程で独創力や自己表現において偉大な力を発揮する。自由に自己の好む芸術などを選択してそれに専心努力し、自己の特性をあらわす。このように新学校は児童の内部から自発的に独創力が出現するように奨励する。また社会的人物の出現は協力の精神を養成することに基く。社会中心教育とは根本的に異なる。社会が要求する人物とは社会に出て社会生活の完全な力を持つ児童である。その養成のために新教育は協力を主張する。従って協力を必要とする団体運動、劇、音楽、体操等を課目として選んでいる。
五、児童の特性と課程 児童の課程は在来の学術的研究とは異なる。児童の特性に応じて、それを中心にして課目を定める。児童の要求や趣味を取り入れて、児童の実生活と同じにしようとする。新学校は人間生活の根本原理を興味を持って児童に知らせ、社会生活の基礎を築く。
新教育法 新学校での課目の選定は児童の興味を基礎とする。創作、実験、工作、自由討論会、演劇会などは皆児童の興味を中心としたものである。フランス語、音楽、作業などの時間、責任、自律、協同などの精神を修養する時間、工作の時間などがある。これらは在来の学校とは全く異なった組織による。従来の学年別組み分けには全く反対している。その目的は児童に共同生活を経験させるためである。学年は9月に始まり6月に終わる。落第がなく、進級の資格がない者には特別な個人指導を行う。在来の学校のような厳重な区別をしない。
288 新学校の教授課目の特徴は、児童の興味を中心とした、模擬都市や機械の研究、一般自然科学、社会生活の研究など、実際的教授法を行うことである。
道徳精神の涵養のために自治会によって学校を統治している。その管理を通して児童に責任感を生じさせ、その活動を促し、努力を要求する。このように新学校は学校生活を社会的に利用している。
新学校の教授課目は幼年級と高年級とに大別され、幼年級では、手工、音楽、図書、算術、読み方、童謡の会、演劇などの興味をそそるものが選ばれている。高年級では遠足による地理学の研究、例えば地形、地質、灌漑、園芸、農業、鉱山業、交通、都市の形成などの実際的見学、アメリカ地理学、アメリカ史、協同運動などや、図書館の管理、学校新聞などの実際の作業を行わせている。
(ここで筆者の否定的見解)以上がアメリカの新学校のおおよその内容であるが、その組織、教授法について今のところ「完全な成功」を収めているとは言えない。即ち教育の実際が「極端に偏って」いることは「個人主義」の現われであり、児童の興味、発達だけを考えて、その課程と発達概念とに欠けている。
新学校はその経験と理論においてまだ発展途上にある。新教育の成功は児童を中心とした教育理論と児童の発達に対する方法を確立することにかかっている。
三、ミズーリ大学付属小学校
289 設立者と場所 ミズーリ州のミズーリ大学付属小学校の新教育法を創案したのはミーリアム教授である。*
*ジェー・エル・メリアム020か
新教育の主張 ミーリアムはジョンソン夫人020と同様に在来の学校があまりに児童に対して大人の事柄を教えすぎ、学科課程を組織化することに注意し過ぎ、児童の要求を無視していると考える。学校は児童にとって楽しい場所でなくてはならない。教師は児童と共に働き、児童がどのように学び作業するのかを学ばなければならないとする。
新教育法 学課の編成方法では、児童が学校教育を受けない場合にどういう方面にその頭が進むのかという問題を根本としている。教育法は学課と体育に分かれ、学課では学習、手工、観察、会話の四つの方面と、地理的実際教育とがある。体育では生徒が興味を持つ遊戯を生徒自身に行わせている。
先ず学課について述べる。
1、学習 学習の主眼は地方社会の研究である。物価の高低を知るために市場に出かけ、食料品、日用品、家具類などの物価、地方の習慣、住居状態、風俗、交通の状態、交通通信機関の組織などを実際に研究する。この教育法は、この研究と共に、児童の読書、数学、国語の正確な使用などで教育的価値がある。
2、手工 児童は一般に創造力に富む。児童に対して各自の計画を実行させている。幼年者は簡単な手工器具の使用法や製作を学び、年齢が長ずるにしたがって複雑なものを独創して造ることが奨励される。これは単に生徒の「自頼心」の養成だけでなく、美と効用の観念を養成する上で重要である。
290 3、観察 観察は各方面の研究に資する。毎日継続して児童に(観察)研究させる。観察の時間は長時間や短時間など様々である。その際教師は生徒の解決に助力する。例えば、商業状態や産業状態の研究では計算方法を練習し、自然の観察を通して博物学や地理学を研究する。観察力が増せば研究心も増し、生徒の頭脳を整理し、学術に適した頭脳を作ることができる。
4、会話 会話は児童の文学的頭脳と記憶力とを養成する。教師は生徒に興味を持たせ、また社会的に善導する上で必要な修身課方面の話をし、生徒にも物語を語らせる。生徒は学校の図書室で物語を覚え、話し方を練習する。学校の図書室は教育的で文学的な良書を所蔵している。読書は文学的頭脳を養成し、「悪思想」を斥け、将来必要な習慣をつくる。児童は読書力が増加するに従ってこれを劇化し、演出するようになる。また音楽教育もこの中に含まれていて、児童を愉快にさせ、思想善導の上でも大切である。唱歌の教授は重要課目とされている。
5、地理学実際教育 これを通して、生徒の学級に応じて、地文・人文の二方面であるところの地勢、産業、都邑(村)、政治、軍事、交通などを研究させる。即ち戸外で山岳の状態、河川の変遷、海岸線の長短の利害、地形と気候・人生との関係、産業と気候との関係、農業の実際教育、地方の産物の特色、工業の状態など、また都邑では都会の繁栄・衰微の原因、風俗、習慣、政治など、地理学では政治・制度や経済など、軍事教育では陸海軍の編成などを教育する。各学級で同種目の学課でも、その程度に従って歴史や物理学の方面の研究も含んでいる。この教育は地理学の学習だけでなく、いろいろの学科を含んでいるので重視されている。
291 補足 会話は幼年者に対する課程であるが、上級生徒の教育でも唱歌を課して音楽の教養と文芸の学習とを主眼点としている。学課教授で課目は独立せず、各方面の研究を含んでいる。
学校は作業をするところであるから、家庭での宿題(作業)は当を得たものではないとする。学校での作業は興味を持たせて行うべきものであるから、規則的に窮屈に教授すべきでなく、自由に研究させ、自発的に興味を感じさせる教授を方針としている。
この教授法による教育効果は個人に対しても社会に対しても大きい。生徒は小学校の課程を終えて中等課程に進み、更に大学の課程に入るが、その間の教育によって築かれた習慣は、彼らの将来を貫徹し、社会全体にも貫徹し、彼らを善導することができる。生徒自身を善良で、有為で、より幸福な人格者とするのがこの教育の目的であり、学校生活を通して与えられた体育や熟練した技量、日常生活における作業の楽しみの習慣、学問的智識の活用などは社会的利益となる。
(体育についての記述がない。)
四、フランシス・パーカー学校
Wikijp.orgによれば、
*フランシス W. パーカー・スクールはジョン・デューイとフランシス・ウエイランド・パーカー大佐の教育的哲学に基づき、コミュニティと市民権を強調する。1901年に設立された。最初の公式の保護者会と、学生が作成、植字、印刷した最初の学校新聞の一つであるパーカー・ウイークリー1911で有名である。
本校は以前にSchools: Studies in
Educationを発行した。これは全国の教育者と学生の物語と分析の反映を特集した全国的な教育ジャーナルである。
202 新教育の主張 フランシス・パーカー学校はシカゴにある。この学校の主張は遊戯と劇化を中心としてフレーベルの主張に復帰しようとするものである。
フレーベルが高調したように、遊戯には教育的価値がある。競技や、人形製作のような遊戯的動機に基づく製作などを正規の課程として児童の遊戯本能を利用することは、児童の生活に自然であり、児童生活の大部分である。遊戯の題材は兵隊遊びやお医者さんごっこなどのように大抵大人の業務の模倣である。遊戯の楽しみは生活に必要なものを見出して造ることにあり、遊戯の教育的価値もそこにある。彼らに遊戯を通じてどう生活すべきかを教えることができる。それはやがて彼らが社会生活をするときに必要な作用や過程について知ることができる。
また遊戯は変化に抵抗する力を児童に教える。児童の習慣や注意・思考の傾向も遊戯を通して与えられる。家庭遊びの中で親たちの良い点や悪い点をそのまま模写するので、ひいては社会生活全体についてよく注意し、記憶し、それを表現する。
学校は善良な目的を持った遊戯によって、児童の思考や判断の方法を学ばせることができる。
新教育方法 新教育法は非社会的教育である教科書本位の教育を斥ける。生徒に協力させて自頼心を起こさせるために、作品を発表させ、劇的想像力を発展させ、その力を社会的に養成させる。例えば歴史教授は文学教授を含み、逆に文学教授は歴史教授と相まって教授される。歴史教授ではその時代的思潮やその時代の風俗建築などを知らせるために劇的に教授し、生徒に演じさせ、面白くかつ十分に覚えさせる。文学教授ではこれ(文学)を劇化させ、その深い味わいを味合わせている。この演出は全体社会に対しては生徒の協力を引き出し、個人的にも全体社会的にも、その作業が価値あることを知らせることができる。
この学校は各自の作品や研究の発表をさせる時間を生徒に与え、文学、数学、芸術、地理学などの研究発表や図画、統計、地図などの作品発表を奨励している。
要するにこの新教育法は、劇や実地旅行などにより、その真味を直接児童に知らせようとする方針である。
第三節 ドイツにおける新学校
一、生産学校
感想 沿革、規約、二人の学者による生産学校の概要説明、筆者の感想という構成になっている。いまいち内容がつかみにくいが、筆者も言っているようにこの生産学校が発展途上にあり、内容がまだしっかりと定まっていないからなのかもしれない。
ドイツでもアメリカでも自由・自主ということが新教育のテーマとなっていたが、それが世界標準だったのかもしれない。日本でもそれに影響されたようだが、本流とはならず、教育勅語・国体教育という国家主義に埋没していった。
204 生産学校とはドイツにおける某文化改革団体がその学校改革上の理念として掲げた新学校の、主として方法上の原理(生産)に基いて呼ばれた名称である。この団体は、教育学が既に将来に予言しながら実際は遅々として進行しつつあったドイツの学制改革を促進させるための「徹底的学校改革者連盟」である。その前身は、1919年の夏、パウル・エストライヒ084を指導者として生まれた「大学出身教師からなる徹底的学校改革者連盟」である。
1918年の革命の直後に政権を握った社会民主党は、文化問題に関して孤立無援であったため、当時再び台頭した「予備教授団」が社会民主党の後援団体として召集されたが、この「予備教授団」が「大学出身教師からなる徹底的学校改革者の連盟」である。
エストライヒが1919年9月18日に「大学出身教師からなる徹底的学校改革者の連盟」を結成した当時は、プロシャの中等学校の2万1千名の職員の中で24人がこの連盟に加入しただけだった。1919年10月4日、5日、ベルリンの上院の跡で「大学出身教師からなる徹底的学校改革者の連盟」の第一回総会が開かれた。当時の社会主義者のプロイセン文相コンラッド・ヘーニッシュの妥協政策と、エストライヒの急進的文化政策とは衝突して論争を展開したが、総会で確立されたエストライヒの「連盟」の方針は微温的だったと言われている。
翌月1919年11月、「連盟」は文部省の提議を受け学制改革方針を確立しようとした。1919年11月5日、「両親指導係の活動に関する文部省令」が公布されたが、それは「連盟」の改革方針に影響されたものである。当時の「連盟」の改革条項の中で「可動性の上部構造を持ちつつ分化する統一学校」が力説されている。それは「労作学校として、知的、作業的、芸術的性能を同程度に評価し、(その性能を児童に)開発させなければならない」という。これは主知主義からの転向であり、従来の学習学校を否定し、労作学校を以てそれに代えようとする意図があった。
同様の思想が当時1919年1月創刊のベーゲを主幹とする雑誌「新教育」にも現れている。これは最初「連盟」と関係がなかったが、その後漸次「徹底的学校改革者達(連盟)」は「新教育」を自らの機関誌として利用するようになった。
295 1920年1月、下院議員ハインリッヒ・シュルフは「連盟」が全国学校会議にその主旨と報告を提出するように要求した。それに対してベルリンのカルゼン教授が、病気のエストライヒに代わって報告し、「連盟」が要求する学校は体験学校であると述べたが、ベルリンのギムナジウムの校長ゴルドベックは、体験は「有意的、方法的」に実現不可能である、カルゼンの説は芸術的人間だけを主眼とするものだと反論した。
1920年前半における徹底的学校改革者は「根本的には」芸術的・創造的なものを理念とし、1920年3月31日から4月2日までベルリンで開かれた民間全国学校会議の演説録にも、「創造的教育」という名称がつけられている。創造的教育によって技術練習の機械化が避けられるとしても、カヴェラウの言うように、主観的快楽や個人的な感情・意志の表現となる危険があろう。(筆者は「連盟」に批判的)
カルゼンは当時高等教育会議長としてリヒテルフェルドで幼年学校指導に当たっていたが、この会議後間もなく「連盟」を脱退した。またエストライヒは或る公の「両親」の会合で「凡てに優るドイツ国」を主義とする仲間から除名された。(何を言いたいのか)
1920年6月11日から19日まで開かれた政府主催の全国学校会議で、エストライヒは「連盟」の活動を指導した。エストライヒはその会議で、体験学校を放棄し、新たに生活学校を主張した。「生活学校では生活をあらゆる方面に及ぼし、逆にあらゆる方面から生活を潤沢にする。学校は生活に満ちた農業経営でなければならない。労作学校と生活学校、青年生活としての学校、生産学校としての学校を実現したい」とする。この考え方はその後の徹底的学校改革者の学校理念を指示している。
296 ドイツ社会民主党の学校政策は「連盟」の影響を受けて両者の関係は一時緊密であったが、その後相容れないこともあり、「連盟」は社会民主党の不徹底な学校政策を批判した。また元来超政党的の「連盟」はその組織が拡大膨張し、各地に地方組織をつくった。1920年4月、ベーゲと共に新たにカヴェラウが雑誌「新教育」の主幹となり、「新教育」は「連盟」の機関誌となった。「連盟」は学者の連盟から一般的国民連盟となった。つまり各種学校の教師、あらゆる方面の男女青年が「連盟」を組織するようになった。
1920年の秋、ベルリンのランクウイッツで「連盟」の総会が開かれたが、そこで生産学校が研究され、「生産」という語が採択された。また「学校地」に関する問題が開明され、都市の郊外や森林が解決策とされた。また資本主義によって破壊されない共同作業がやがて共同社会を創造するだろうと考えられた。歴史教授に関する教育学的労作は、フランツフィルケルの「生活学校」と、パウル・エストライヒが指導する「徹底的学校改革の実際」という二つの叢書に収められている。
生産学校の思想は1921年の耶蘇昇天祭と秋の2回にわたるベルリン総会で研鑽された。
297 翌1922年1月1日、連盟の機関誌「新教育」もベーゲに代わってエストライヒが主幹となり、その学校政策を宣伝した。
次に「徹底的学校改革者連盟」の規約を掲げる。
A、「連盟」の目的
一、徹底的学校改革者連盟は青年運動の精神に基づき、また社会的な生活の把握と新しい生活形式とに邁進する文化的発展を精神とし、教育陶冶の制度改革に協力する全ての人々を糾合しようとする。
二、連盟の一員になろうとする者は、自由な平民国家の理念と、社会的でかつ人類を包括する共同社会の精神とを徹底的に信奉することを要す。
三、連盟は階級や職業の利害を代表するものでも、教会や政党の利害に関するものでもない。教育理論の要請を自由に実現することを絶対的使命とする。
B、「連盟」の根本方針
四、平民教育団体としての新学校の課題は、青年が肉体的に完成され、精神的には自由であり、意志と感受性が強く、社会的意思を持って平民社会・人類社会の一員となるように教育することである。
五、新学校の生活形式を通じて、青年をその自己価値において発展させ、正しい指導を十分に行う。新学校の基礎は、生徒、両親、教師の教育共同体とし、その指導的綜合は学校委員に任せる。父兄代表、学寮、生徒自治は教育社会の機関である。
六、連盟は新学校の建設にあたり次の事項を要求する。
298 1、経済的条件の制約を受けない自由主義的学校教育。即ち内面的な、つまり天賦の方向と程度に基いて分化された「可動性(的)統一(的)生活学校」による教育。それは一般的かつ社会的に段階づけられた学校によって保持される。(意味不明)
2、一面的な知識の陶冶を主とする従来の学習学校を、あらゆる青年の力を覚醒する生産学校に代える。生産学校は知的、技術工芸的、芸術的天賦を同等に評価して進展させ、肉体と衝動生活を陶冶し、社会的意識を発展させる。
3、教師は各人の特殊な教育上の得意に従って組織・完成し、階級や価値(富)による区別をしない。教育者として天才のある者は広く国民の中から抜擢する。
4、(従来の)教員の内部での上下関係は、各人対等の研究団体に代える。
5、教育上の諸施設は、主として教師、両親、後見人の指導を受ける。
C、連盟の組織
七、連盟は地方ごとに地方団体に分かれ、必要のある場合は教区団体にも分かれる。地方団体は、中心となる教区団体が指導者としての条件を満たすことができる場合に組織される。各会員はベルリン本部に登記された地方団体または教区団体と関係していることを明らかにする必要がある。
八、すべての有能な団体は、通常の例会で選挙された場合、連盟の指揮を任ぜられ、その任期は2年とし、再選も可能である。
通常の例会は2年目ごとに10月1日に開かれる。通常の例会で連盟総務部の活動状況が発表され、(その後その総務部は)解散され、新しい本部が選挙される。会員100名、乃至最小限度200名からなり会員の資格を持つ団体が動議を提出した場合、4週間以内に本部は特別総会を招集する必要がある。
209 総会で投票権がある者は団体から選抜された代表者に限る。代表投票(権)は、連盟中央金庫の(から)寄金が返却された会員25名ごとに一つ宛与えられる。団体内部の少数(派)は比例選挙法によって参酌される。投票を委任しまた委任されることは、連盟内部の同志会員に認められる。
九、連盟総務部は本部総務の中から選ばれた5人の会員と、時には地方支部または地方支部に加入していないが100人以上の会員がいる教区団体の代表者から成る。
十、継続的な妥当性を形式化する際に、時間の許す限りあらゆる会員の意見を、一定の場合、地方団体の媒介によって明確にする必要がある。(以下略)
徹底的学校改革者連盟の目的、綱領、組織の主なものは以上の通りであるが、その目標に関してエストライヒは1921年の初めに次のように述べている。
「連盟の努める目標は、古い思想と感情の世界にかろうじて支持された文明ではなく、爛熟した時代から創造され、労働と精神との融合に立脚し、社会心と同志の共同労作とから展開される文化にある。連盟は軍国主義精神を欲せず、民族、人種、宗派の扇動を行おうとしない。人品、人間尊重、民族の品位、民族の尊重を維持することを欲する。各人と民族の交際における平和的な思考と行為とを欲する。
連盟は『力の自由な演技』や『生存競争』の名の下に『強者』が理解する『弱者』の残忍な抑圧という誤った信念を排撃する。外面的強制を行う警察規則(規制)国家と闘い、自らが形成する平民社会の形成に邁進する。それによって建設の因子として要請されるものは、各個人及び団体の相互補助、共同意志、原本的創造力であり、それによってつくり出されるものは、それらの内面的生活に適した形式と秩序である。
200 連盟は以上の全般的態度に基き、時代の(古臭い)僧院学校や、あらゆる生徒を同様に(一様に)扱う枯渇した強制学校を排し、あらゆる真の発展の自由を含む(保証する)統一学校を要求する。選択が弾力的で自由な課程によって、共通の最小限度の必須の教授から一歩を進め、人間形式(形成)や自己発見のためのあらゆる個性に適切な学校を要求する。連盟は、偏向する影響や陶冶を与える機械的学習学校や教授専売的学校を排し、生活学校、自由と自立を原則とする労作学校、文化財の挙示に参与し『連帯経済案』で体制づけられた青年社会(生産学校)、男女両性による両性に共通な教育を行う生活社会、そしてあらゆる力、つまり家庭、庭園、工場等で、肉体的・芸術的で自由に形態せる(自由な形の)教育価値の作用、に対して質的・量的に実際的な家庭、庭園、工場における作業を目的とする。(極めて観念的!)それによってのみ初めて人格の発展を期待することができる。連盟は自己の民族の統一に関する信条に基き、現在、憲法上の侮辱としていまなお行われがちな『宗教的強制』を排撃する。なぜならば連盟が意図する真の宗教心は、自由で献身的な勤労と精神の寄与をする教師の模範から生じるからである。
このような学校が生まれなければならないとすれば、連盟の目標は次の通りである。教師の(宗教的)隷属と(生徒に対する)優位を廃止し、階級的暗黒を促進する各種教員カテゴリーを廃止・制限し、教員資格を試験した専門家や同僚が協力し、『自己規定』(自称)の指導者や教師としての統一性など、あらゆる素質ある者を国民の中から教員として抜擢し(この部分意味不明)、幼稚園から高等学校までのすべてを包括的・自律的な国民教育共同体として学校を再建することである。
301 連盟はあらゆる国民同胞を糾合し、ペスタロッチやフィヒテの精神で以て漸次現実化されつつある教育によってドイツ国民の浮揚と再建に(向けて国民を)赴かせようとする。それは即ち生活から生活のために、生産によって生産主義に、体験された道徳によって国民共同社会の一員としての技能にまで(国民を)教育することである。」
このエストライヒの説述から徹底的学校改革者連盟の新学校案の全貌を窺うことができるが、さらに「生産学校」を主題として1923年の秋のベルリンでの連盟総会で、フランツ・ヒルケルは次のように述べている。
「徹底的学校改革者の生産学校思想は、広くて包括的な意味での一般的人間陶冶の課題を解決しようとする。時代の難局から生まれた生産学校の思想は、自然的で自由な人類を、機械と産業の時代の、特に社会経済的条件の下で、その自然的で自由な条件を発展させようとする。それによって生活、学校、労働の無意味な混迷を整頓し、また民族的結合と超民族的自由において、人間の現実的社会を準備しようとする。生産学校は両親の保護が社会に委ねられた場合、青年男女を、肉体的・心的・精神的・活動的生成のあらゆる発展段階を通じて、その自己規定まで導く。そしてさらに成人の国民的同胞が発展し、人格を豊かにして深くするための機会を与える。こうして生産学校には、託児院、幼稚舎、基礎学校、実験的中間学校、専門学校、国民高等学校等が含まれる。そこではあらゆる学齢の者も、あらゆる天賦を持つ者も結合され、先ず社会的普通教育が施され、さらに一層自己陶冶に資するよう分化される。また全体的な人間の特殊天賦に基いて心身の全体性を発展させ、知的な者には技術的・技巧的なものを、労働者には知的なものを付与し、それぞれが円滑を期して人間的深さに欠けないように結合させる。理性的な社会体制に支持されて、内面的特異性の分化は社会的職業への道程に導き、また逆に職業は人間生活の内容となる。このような包括的な学校は、学科目や時間割による教授や学習ではなく、また命令と服従における反抗的な接木細工でもない。むしろ生々しい日常の生活と作業であり、人格の特性を自ら発見し、幼時からの洞察と習慣によって社会における自らの限界を自覚する所である。こうして自己の認識から生ずる道徳的人格、強固な意志、喜んで自己の責任に任ずる精神が養われる。
302 生産学校は民族共同社会の学校である。
生産学校は人間を、他人のために、社会のために、陶冶するのだから、社会の精神的・経済的・道徳的規定に貢献する。また生産学校は生活の理性的な進路を示し、作業と享楽との有意味な均衡を獲得させ、社会感情と社会意識を呼び覚まし、母体からの自然的発生を促し、あらゆる人間の区別と偶然的限界を超越し、あらゆる種族に属する人間だけでなく、生きとし生けるものは全て、宇宙的結合として包括し、宗教心としての超合理的な影響を与える。」
徹底的学校改革者連盟の学校政策の根本方針である生産学校案は、ハンブルグのリヒトワルク学校108、ベルリンのノイケルン区の園芸学校などの新教育運動に影響を与えたという。しかし徹底的学校改革の理念に基づく新学校である生産学校は一つのユートピアである。首脳者の一人カヴェラウ295が言うように、昨日のユートピアは明日の現実かもしれない。またエストライヒが言うように、彼らの新学校は絶えず実現されつつあるユートピアであり、ユートピア論者の現実政索とも言える。徹底的学校改革者たちは独自の政策によって絶えず理想の実現に努力しつつある。(三木寿雄)
二、オーデンワルド学校The Odenwald School
*オーデンワルドはドイツ南西部の低中山地
*Wikiによれば、オーデンヴァルトシューレDie Odenwaldschuleは、ヘッセン州ヘッペンハイムにある。20世紀初頭に労作学校として開校し、パウル・ゲヘープとエディス・ゲヘープ夫妻が運営していた。
*ゲーテの生誕地はフルンクフルト・アム・マイン、ヘンデルはハレ、シラーはマールバッハ、フィヒテはランメナウがそれぞれの生誕地である。
303 オーデンワルド学校はドイツの新学校である。この学校は理想主義を高く掲げ、自由でしかも統制が取れている。創設者はゲヘープ博士である。彼は6歳から20歳までの少年少女と共に一つの大きな家庭のように楽しく生活できるように学校を作った。この学校の精神的指導者はゲヘープ博士の外に、ゲーテ、ヘンデル、シラー、フィヒテらである。(オーデンワルド学校の取り組みによって)これらの人々の住んだ家は有名になり、彼らの誕生日には毎年特別の学校祝典をしている。彼らは学校生活の中に生きていて、精神的影響を生徒たちに及ぼしている。
この学校は別々の異なった細胞、即ちその中に先生と20名の年齢の異なった少年少女から成る円満な一団いわば小家庭の集まりである。この学校の教育目的は、各員が自分の属する一団に尽力することはもちろん、何事もできるだけ早く行い、社会に対して献身する精神を培い、この社会奉仕から責任観念を起こさせることである。全職員生徒は共に通常会議に会合し、最年少者から最高老者まで各等しく投票権を持っている。校長でさえ、彼の優れた経験と智能、指導上の人徳だけで統御するしかない。
この学校は非常に自由であるが、命令や学校の規則に対して従順でなければならない。生徒は家庭的団体指導者と共に会議に出て、1か月の1期間のために与えられる科目の行程(例えばダルトンプランのような課目)を選択する。生徒は一度に二(三)つ以上の主要課目を取らず、少なくとも一か月間はこの二つの課目だけに集中する。月の終わりに全校の特別会合が開かれ、生徒は完成したものについて説明する。理論的課目は演説や記述の報告で行い、実践的科目は目的物の製作について、また彼が作った物つまり1か月間に製作した物によって説明する。説明者の成績の等級は、それから特別な記録帳に記入される。
この学校には規則だった学級教室がなく、作業室は小さな博物館であり、実験室である。修業すべき課目は大工、手工作業、製本、仕立、裁縫、料理、美術などの作業が含まれている。
304 理論的行程に関するものも、実験的行程に関するものと同価値である。前者は午前中に、後者は午後行われる。この学校では人種、主義、顔色の区別をしない。ユダヤ人も、外国人も共に円満に満足して働きかつ遊ぶ。実に一つの学校楽園である。
三、シャルフェンベルグ学園School Farm Scharfenberg
*シャルフェンベルク島学校農園Schulfarm Insel Scharfenberg (Inselは島)
Wikiによれば、この学校はベルリンのテーゲル湖に浮かぶシャルフェンベルク島にあり、1922年にヴィルヘルム・ブルーメによって設立された。
(第一次世界)大戦以後創設された学校の中で最も成果を収めた新学校とされている学校が、シャルフェンベルグ学園である。この学校はベルリン市郊外にあるテーゲル湖上の約100エーカーの島にある。この島は生徒たちによる連絡船運転によって本土と連絡されている。この島にはかつてアレクサンダー・フォン・フンボルト*の家があったが、彼はそこに珍しい木を植え、それが今では成長して珍しい美と興味の場所となっている。
*アレクサンダー・フォン・フンボルト1769—1859 博物学者、探検家、地理学者、近代地理学の金字塔『コスモス』を著した。
この学校には15歳から19歳までの約50名の生徒が、農業を含めて全ての彼ら自身の仕事をし、芸術を学び、大学入学準備の教育を受けている。
この学校の創設者や教師は今日の成功を見るまでに幾度も困難に遭遇してきた理想主義者である。
殆どが生徒によって建築されたわずかの質素な建物が島のあちこちに散在している。生徒は質素である。質素で公益に尽くす者だけがこの学校に入ってくる。生徒は学校維持のために自分の分担を行う努力をしなければならない。公益のための努力において彼らは兄弟のように団結している。
全生徒は一週の中の1日の午後は2時から7時まで農場や作業場で作業をする。生徒は自分が好む仕事を選択できる。これ以外の他の日の午後の2時間、他の命じられるかもしれない生徒から仕事を頼まれるが、これは食事や洗濯以外のほとんどすべての雑役の外に課せられる。1週間に1日の午後と毎日1時間半は自由に遊ぶ事ができる。
305 この島の学校は行政委員の会議に組織されている。各委員は学校のことに関して意見が一致している。学校に関する全てのことに関して各週ごとに、夜、職員と生徒が会合して話し合い、諸般のことを審議する。その記録は生徒によってまとめられている。
この学校では教授について厳格な階級の分隔がない。生徒は15歳までは専門的のことは第二の仕事とされている。それから学校の課程を専攻する。教授の特色は、一週間連続した語学週間、修身週間、科学週間、数学週間など、ある課目だけを教授する。これによって生徒は他の学科に進む前に課目の難しい部分に彼の全時間を注ぐことができる。この学校では音楽や芸術の教育も尊重していて、「音楽の夕べ」や「シェークスピアの劇」が時々催される。
以上のように本校は同胞愛の結合から成り、郷土的な綜合的新教育が行われている。将来が期待される。
四、ハンブルグの学校The Hamburg Schools
1919年以降にハンブルグで経営された学校の中には新教育界で最も興味のある学校がある。ドイツではハンブルグほど旧法に反対した反動が起こったところはない。全国が財政困難に陥り、教育費の補充や建築費を支払うことができなくなった時、ハンブルグではこの(新)学校教育が起こり、少年たちは自分こそ責任ある市民であるとし、新民主主義国家の第二国民として中堅に立たねばならないと固く信じ、働いて得た金を寄付してこの学校を維持し、教育を充実させようとした。一般市民も新学校を建築すべきだと決議し、最初は実験的に一つの小学校が開校され、その後4校が続いて開校された。こうして社会思想を主とする学校教育が実行された。課業はできる限り生徒個々人を基礎とし、生徒自身の性質・才能の程度に従って教育されている。
学校当局、教師、父兄は教育を分担し、父兄会が設立され、次のような主旨が一致可決されている。
一、共同教育によって生徒の風紀を自発的に起こさせる。
二、教師・生徒間の友人的関係によって自頼心と相互扶助の精神を懐かせる。
三、同胞愛・国際親善の精神を懐かせる。
四、倫理宗教教育(ただし、宗教教育は特別の限度なく教授する)
五、性教育、酒精・煙草の害毒に関する教育
六、観察を基礎とする。実験、製図、模型製作等の実施的教育。
七、音楽教育、口述、筆記作業、人格的表情を表す肉体運動
後年この教育主旨に基いて小部分であるが、さらに必要な変革が加えられ、爾来その実施も改正された。新学校は旧学校に並行して建てられてきた。
五、リーツの学校The Lieiz* Schools
*Lietzの間違いか。
*リーツ Hermann Lietz 1868—1919 改革教育学者、田舎教育舎運動の創始者。
307 リーツはドイツで新教育を実行している。リーツの学校は総計6校あり、いずれも新教育を行っている。殊にその中の2校、ビーベルシュタイン(城)学校とエッテンブルグ学校は、小山の多い田舎の美しい森林や野原の中央にある古城の趾にある。
ここでの生徒の生活は非常に単純である。ビーベルシュタイン学校は上流階級の子弟だけを入学させ、エッテンブルグ学校は中流階級の子弟も入学させている。これらの新学校では低学年は「共同教育」を受ける。生徒全体は一日2時間作業に従事する。一週4日間は、午後の時間を、受け持ちの仕事か作業場かのどちらかで、一般の実務に従事することが2回、各自の選択作業に従事することが2回ある。他の2日の午後は自由に遊べる。1年に1回全てのリーツの学校がエッテンブルグ校に会して相互に運動競技会を行う。
生徒は6時に起床し、1哩(マイル)走り、ある時間働いてから朝食をとる。それから朝の余暇の勉強をする。ほとんど多くの田舎の公立小学校では朝食前に走る習慣がある。これらの学校では声楽と器楽の音楽教育を重視している。ある学校では、一哩走って冷水浴をした後に、毎朝朝食前に集会室に行き、20分間音楽操法や古典音楽の講義を聞いている。
六、リヒトワークの学校The Lichtwark School
*アルフレッド・リヒトヴァルクAlfred Lichtwark 1852—1914, ドイツの美術史家、美術館長、ハンブルクの美術教育者、ドイツにおける美術館教育と芸術教育運動の創設者の一人。Wikiより
新教育思想は現今では小学校だけでなく中等学校でも行われている。その一つがドイツのハンブルクのリヒトワークの学校であるが、それは在来の教育法には不要な知識を積むという害悪があるとする。
308 「活動的教授」では文芸の思想を補足するだけであるが、その反面生徒は自分たちの課業を通じて自己の責任と「自己判別」(自己認識)を知る。生徒に現代的市民として教育ある立派な生活をさせることを目標としている。その準備としてDeutsche Oberschule(高等学校)の方法をとっている。即ち博物、芸術、手芸などの課目を重視し、生徒は各組を作って一課を研究する。教師は各組に研究の主要点を示して考えさせる。各組異なった課目を同時進行で行っている。プロシャの学校では様々な課目がなく、根本的作業を野外で行っている。
本校は生徒に責任ある生活をさせるという目的を持っているから、未来にその性格を作るよりも現在からその性格を実現させようとしてその課定を行っている。教育には「決勝点」に達するような「限度」(制約)がないから、(生徒の)研究過程は生徒の個々の能力に応じて進められている。
要するに本校の教育の目的は「(各生徒が)第二国民として、将来国民を指導するために、また国民の中に公共団体の有用な生活資力を作るために、また各個人が公共生活の中に自らの最高価値を得てそれを運用するために」である。生徒は作業に従事し、音楽や体操も行う。
本校では男女生徒600名が学んでいる。本校の一番の主眼点は、文学の劇化とその演出である。宿題は生徒によって異なる。
第四節 フランスにおける新学校
一、ローシュの学校L’ecole des Roches
感想 本校に限らず20世紀の始まり前後に欧州各国で創設された新教育の学校が今でも存続していて、中には日本からの留学生も受け入れていることを知り、なぜか驚いた。
L’ecole
des Rochesは当時斬新とされた教育理念を掲げて1899年に創立された。現在では共学の私立学校で、広大なキャンパスに12軒の寮を含む学習とレジャーの設備が完備し、エリートレベルの教育を提供している。在学生の半数は50か国から集まった留学生である。パリから車で2時間のノルマンディー地方にある。Wikiによる
309 創立者と特徴 本校は1899年10月にジョセフ・エドモン・ドウモーランによって創設された。
ドウモーランは従来のフランスの学校は保守的であり、強制的に授業をし、形式的に教育し、不健康の地にあって、体育を顧みずに教育しているのを非とし、その欠陥を補って新教育を創めた。
自然に親しむためにまた健康のために学校は平原の中にあり、生徒は野を耕し、牧畜を行い、水流に遊び、筋肉運動を行って精神を鎮める機会が常に与えられている。生徒は教師を中心として幸福な家庭的生活を営み、愛情と信頼の下に生活している。
新教育方法 次に本校の教育訓練方法を知育と体育とに分けて紹介する。
1、知育
310 学術教授に道徳も含まれている。本校は機械学、工学、商業等の実用的学科を強調する。
外国語の教授では実用主義の下に生徒を留学させる。古典語では講義だけに力を入れ、仏語の羅訳や希訳等は不要として現代語を重視している。
社会科も本校の特色であり、ドウモーランが強調した学科である。ドウモーランは実物直観の直接教授を行い、植物や動物、鉱物などに関する博物学の教授では戸外で自然を直接観察研究することを主張した。地理学では各地の地勢、産業、人文について、野外での直接の生きた教科書を使用した。
数学教育も実際問題に帰着する方針を取り、社会生活に憂いのないようにした。
以上の野外教授では教師の指導の下に自転車旅行を行い、博物学の研究、農工商業地の実地視察等を遠足を行いながら行っている。
音楽教育も生徒の美的情操の涵養に必要であり、唱歌や音楽の教科が設けられている。この教育によって音楽が普及し、生徒のオーケストラや唱歌隊があり、祝日などには生徒の主催で音楽会や演劇会が講堂で催され、父兄も出席している。芸術教育も奨励され、絵画や彫刻などの製作品の陳列とか教室の装飾とか各種の方法で奨励されている。
本校の特色の一つは道徳生活である。本校では拘束も監視もなく、生徒を信じ、生徒が義務を自覚した人格者であると認めている。このような教育法の中で育てられた生徒は、個人的だけでなく社会的にも責務を遂行する習慣が身につく。そのために家庭と学校とが関係を結ぶように努力している。また生徒の創造力を高めるために作業を課して徳育の発達もはかっている。作業を課する際にも、生徒の自由に任せ、手工、園芸その他の芸術品を製作させている。
311 宗教教育は道徳教育と共に全生活の中に含まれていなければならない。宗教教育は二人のカトリック教師が指導している。
以上が本校の知育方面の教授法であるが、これらは常に社会的であることを目的としている。社会的であるためには基礎・根柢において家庭的でなければならない。本校の学校生活が全て家庭的なのはそのためである。
2、体育
本校は一般のフランスの学校と違って体育を重視する。創設者ドウモーランはイギリス流を奉じてスポーツの奨励に努めた。スポーツは体育の発達だけでなく、協同精神、忍耐、服従、自主独立などの精神を涵養する。本校の競技の主なものは、フランスの国技である撃剣(剣を使う技)とフットボールとクリケット(英国流)である。
本校は体育と共に保健衛生にも留意している。生徒をフランス中堅国民として恥じないものとし、それでもって国防の堅実を計る第一歩としなければならないからである。体育は愛国的のものである。
ローシュの学校は後年フランス教育界に反省を促し、特にスポーツはフランスの各学校やフランス国民に反省を促した。
312 ローシュの学校の特色はイギリス教育界の特色を採用し、フランス教育の短所を捨ててフランスの伝統の美風を補い、フランス第二国民の幸福を保とうとする愛国主義である。
創設者ドウモーランはフランス新教育の創設に生涯をささげた。雑誌「社会科学」は彼の所説で満たされた。しかし彼はその事業の完成を見ずに55歳で他界した。
二、ビュール城の学校Le Chateau de Bures
所在と特徴 本校は米国人プラインス・ホプキンス博士が数年前(1927年頃)に設立した現代的学校である。本校はパリ市に近い古城の中にある。この学校は荒廃した原野を利用して地面を世界地図に象り、平面的な世界の模型を作り、模型の山脈や水路、海洋、平地が出来ている。海岸線はセメントで作られていて、海洋に象られた部分には水が満たされ、生徒はボートを浮かべて、地理的輪郭に従ってヨーロッパ州、南北アメリカ大陸、太平洋方面と漕ぎまわり、それによって世界地理を学んでいる。
教育方法 この教育方法は視察研究の模範である。しかし費用がかかるから歴史や地理の教育を安上りにする点では難点がある。最近この学校はドイツのオーデンワルド学校302やイギリスの某新学校と同盟し、三校の生徒を次々と交代して教育しているとのことである。
313 これら最新教育思想が実行されている二、三のフランスの私立・公立の学校の例から判断すると、ドイツのいくつかの学校とは根本的に教育方法が異なっていることが明らかである。またドイツの私立学校とは違ってフランスの最新教育思想の学校は、これまでのところ、フランスの官立諸学校に対してほとんどあるいはごくわずかしか影響しなかった。
三、ノルマンディーの学校Collège de Normandie
ノルマンディー学校はフランスでは最も進歩的であり、フランスの少年の間では「最も主要である」と評価されている。(しかし)この学校の特色は、イギリスの新学校や(ドイツの)The Landerziehungshein(m)学校と比較した時、小さなイギリスの公立小学校より全く保守的であるということである。(褒めているのではなく、けなしているのでは)
四、レコル・ド・リル・ド・フランスL’Ecole de L’l(i)le de France
*Ile-de-France 地域名。セーヌ、オワーズ、マルヌの三つの川に囲まれた地域。昔の州名。パリを中心とするフランス中枢部。Ileは島の意。
本校はパレソーにあり、国際親善思想の教育を強調している。大戦当時彼らの父兄を結合させた国際連合の精神を永続させることを教育目的としている。学校長は生徒の間に「国際連盟」を創設した。フランス人少年の中にイギリス人少年を加えて教育することは、英仏間の親善を振興することは明らかである。
五、ドゥクロリーの学校(これはフランスではなくベルギーの学校)
感想 「秩序」「社会」「団体」という言葉を著者はどういう意味で捕らえているのだろうか。
*オヴィド・ドクロリ1871--1932 ベルギーの神経内科医、教育学者、心理学者。ブリュッセルの精神科病院に勤務した。1921年、フランスのカレーに世界(国際)新教育連盟を設立した。
ちなみに谷本富(とめり1867--1946)は日露戦争直後に欧米の新教育を日本に紹介してその必要性を説き、教育界に波紋を引き起こした。
所在 本校は1907年にオビド・ドゥクロリーがベルギーの首府ブリュッセル郊外に創設した学校である。男女共学であり、社会生活を根本原理とし、生徒の特性に従って教育している。
教育方法 児童を自然に親しませるべきであるとし、男女共学で、児童の研究心を中心とし、児童の知育の発達程度に応じて、児童を一団として教育している。児童に自由を与えて自律的精神を向上させ、自治を行わせている。家庭と学校当局とを結びつけて児童の生活に当たっている。講話会を開き、語学や、独創力など精神的向上をはかっている。学校の所在地は大自然の景色を児童に提供している。本校はポプラの茂る平野と男性的な風車の姿を見る河川の多い地方にあるから、生徒を自然と快活に健康に伸び伸びとさせることができる。一級を少人数にしているから、教師は児童の頭脳の発達程度や性格などを知る事ができ、それに基づいて教育している。児童の研究心を中心として、団体による共同動作や個人個人の研究をしている。教師は児童の研究課目に対して各方面から観察してその研究に助言しているから、生徒の研究心は次第に深くなり、興味によって努力して完成しようとする。学課では時間割も強制的教授もない。
各自の研究は共同して研究することになっている。本校に時間割がない理由は、各課目を一緒に(同時に)やるからである。一課目と連関して(その中に他の)各課目を含みながら教授する。例えば自然科学の研究をやろうとする生徒に、その課目に止まらず、各課目も含めて観察させる。それには算術も国語も地理も歴史も動植物学も鉱物学も含まれている。またこれは時間内に止まらず、朝夕の気象の変化や、登校の際や遠足旅行において地形の有様、動植物の生活繁茂状態を常に観察する。
315 この観察習慣は次第に各方面に渡る研究心と経験とを広めて行く。直接観察できないもの、例えば歴史を研究する時は、古代の文化つまり当時の生活、衣服、芸術品などを知るために当時の実物を見る必要があるとき、当時の土器など簡単なものを作らせ、また絵や写真や実物によって経験や知識を広げて行く。
これらの自己研究や協同研究によって得た経験や知識を発表することになっている。それは手工や図書、文章、演説などによって説明・発表し、相互にそれを研究することになっており、(他人の研究でも)ノートブックに書き止める。
学課に対してだけでなく運動方面でも教育的に遊戯などをして、読書も算術もその基礎を面白く覚えさせている。
講話会は研究発表会と密接に結びついていて、歴史関連の伝説や旅行談など学術的・体育的な話をお互いにしあうことになっている。
本校は児童の自由を認めているが、児童に対して秩序ある生活も望んでいる。生徒は自治会を開き、教室の清掃、装飾や風紀、校内の動植物の世話を受け持っている。学校は共同社会の縮まったものである。児童を実社会に出すとき、生活に差があっては学校教育の目的を遂行したとは言えない。(なぜ)社会的道徳心を懐かせるための訓練の基礎として自治会がある。生徒が協力して行動する時、社会生活の意義を理解する機会を得て、責任を重んじ、協同動作に慣れ、道徳を重んじる精神を養成できる。
316 教育そのものの目的は社会有用の人物を養成することであるから、学校における児童の生活の根本的要素は、社会生活の真意義を味合わせることである。児童の幼年時代に家庭的生活を味合わせ、それから社会生活へと範囲を広げて教育している。
この学校は自由主義教育であり、基礎教育で確実な効果があり、教育的な運動を行い、興味の中に学問の概念を覚えさせている。このことは参考に値する。
以上
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