西村桜東洋「私の獄中記」要旨・感想
001 西村桜東洋1905.4.10-1983.9.3が心筋梗塞で急逝した。78歳だった。9月3日に福岡市の農民会館で全日農福岡県連の農民組合葬が行われ、山本菊代理事が労働運動研究所を代表して参列した。
桜東洋は水野・是技などの解党主義者や、佐野・鍋山などの裏切者たちに対して、強い憎しみをもっていた。戦後の日本共産主義運動で極左冒険主義的偏向が支配したときも、それに同ずることなく、農民組合運動、基地反対闘争などの大衆運動に力をそそぎ、農民会館を建設し、板付基地反対闘争を勝利に導いた。また、プロレタリア国際主義者、革命的民主主義者として、活躍した。
002 その大きな明るい人柄をしたわぬ人はいなかった。(『労働運動研究』1983年10月、No.168号)
003 山本菊代によれば、西村桜東洋は一九〇五年四月十日、佐賀県鳥楢市に生れ、1983年八月二十四日、福岡市の千鳥橋病院で心筋梗塞のため七十八歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。
山本菊代が桜東洋に会ったのは、彼女が清家としと共に日本女子大を卒業し、一九二七年四月から労働農民党の書記局員として実践活動に入ってから間もなくのことで、一九二七年七月、勤労婦人や進歩的なインテリ婦人によって婦人の政治自由獲得のための組織、関東婦人同盟が結成されたが、その第一回中央委員会に彼女が清家としと共に出席したときであった。もっともその前に労働農民党で顔を合わせたことがあったかもしれない。書記長は田島ひでだった。
004 四・一六で投獄された時、桜東洋も山本菊代も、原キクエや伊藤千代子と共に市ケ谷刑務所の病舎の監房にいたが、原が保釈され、伊藤は松沢病院に入院し、一時二人だけになった。
桜東洋は鳥楢市から福岡県の久留米高等女学校に通学するのに、汽車に乗らないで鉄橋を渡って通った。
005 桜東洋は戦後最大の闘争である十八年間にわたる板付基地の土地補償闘争を闘い、それを『怒りの席田』にまとめた。
桜東洋は「私の非合法時代こそ、私の生きた時代である。あの若く青々した時代の苦難と華麗な経験がなかったら、今の私はなかったであろう」と『私の獄中記 非合法時代の回想』に書いている。
運動史研究家の鈴木裕子が、四、五年前1978年、1979年に山本菊代に関東電気労組時代の活動を聞きたいと打診してきたが、鈴木はその時話に出た桜東洋の取材にもその後出かけている。
この桜東洋の手記は一九二八年から三二年頃までの天皇を頂点とする日本帝国主義と日本の労働者・農民の階級闘争の歴史でもある。
西村桜東洋「私の獄中記」
◇三・一五から四・一六へ
感想 2023年2月28日(火) 桜東洋さんのこの文章を読んでみて、彼女の性格が淡白で強いという印象を持った。この「私の獄中記」がいつ書かれたのかは本論文に見当たらないのだが、かなり高齢になってから書かれたものと推測できる。というのは聞き書き取材に訪れた鈴木裕子に、聞き書きされるほど耄碌していない、自分で書けると豪語したと言うことだからである。それは今(1983年11月ころ)から4、5年前、1978年、1979年以降ということだから、桜東洋さんが73歳か74歳以降から78歳で亡くなる1983年までの間に書かれたものと推測できる。
要旨
本文は「あの青春の情熱の日々の思い出が、今日までも激しく胸に去来する」という強烈な文章から始まる。
一九二八年(昭和三年)に三・一五事件、翌二九年(昭和四年)に四・一六事件という日本共産党弾圧事件が起った。ロシアは一九一七年十月に革命に成功したが、直ちに資本主義国家十四カ国が介入した。しかしそれもロシア全軍と全人民の総反撃に逢いもろくも崩れ去り、一九二三年、ソ連邦の結成が完了し、始めて地球上に社会主義国家権力が存在した。中国の革命闘争も進行中であり、日本では対支非干渉同盟が結成されて日本帝国主義の中国侵略と闘っていた。
田中義一内閣(陸軍大将)は、一九二八年(昭和三年)二月二十日、国民の世論に押されて男子だけの普通選挙を行ったが、この時はまだ労働農民党が公然と存在していて、労農党の名の下に十一名の共産党員がこの普選に立候補し、全国で十九万票を獲得した。労農党は京都で山本宣治と水谷長三郎の二人を当選させた。労農党党首大山都夫は香川県から立候補(落選)し、私の恩師であり農民運動の敬愛を一身に集めていた重松愛三郎は、福岡県筑後から立候補したが、惜しくも落選した。徳田球一は九州の北九から、杉浦啓一は静岡から立候補した。この第一回の普通選挙で日共の候補者は共産党を公然化した。(ビラ配布を意味するのだろう)
田中義一軍事内閣は総選挙と引きかえに、それから一カ月も経たぬ1928年三月十五日に、日本共産党の大弾圧を強行し、全国で一六〇〇人余を逮捕し、五三〇人を起訴した。そして、四月十日には、労働農民党と労働組合評議会を解散させ、東大新人会(四月十六日)も解散した。*
*Wikiによれば、東大当局は3・15の弾圧を受けて新人会の解散を決議し、それ以後新人会は地下活動に移り、翌1929年11月22日に「日本共産青年同盟」への発展的解消を宣言して解散したとある。ここで「四月十六日」というのは1928年4月16日であり、東大当局の解散決議の日を言うのだろう。
当局は1928年四月十八日に京大の河上肇*を、4月23日に大森義太郎を、4月24日に九大の向坂逸郎、石浜知行、佐々弘雄の諸教授を大学から追放した。
*Wikiによれば、辞職を迫られ「依願免官」した。
日本帝国主義は天皇制絶対権力を背景に、中国の山東へ第二次出兵1928/4/20, 4/26し、中国を各帝国主義の争奪戦場と化して行った。(日本では)対支非干渉同盟が生れた*が、桜東洋さんはそれを「当然であったろう」と確信的に述べている。
*世界大百科事典によれば、1927年に対支非干渉同盟の全国組織が出来たとある。
中国の反帝闘争も進行中であり、二八年十月八日蒋介石は国民党首席に就任し、十一月十五日には、イタリーではムツソリーニのファツシズムが政権についた。
田中義一内閣は、二八年六月二十九日、治安維持法の改悪を企み、最高刑十年を改めて死刑とすることを緊急勅令によって非民主的に断行したが、緊急勅令は一年以内に国会での批准を必要とし、翌年一九二九年三月五日、治安維持法改悪の緊急勅令案が山宣一人が反対する中で可決された。山宜はその後行われた大阪の農民組合の大会で演説した。
「山宣一人孤塁を守る。だが私は淋しくない。私の背後には幾十万の大衆がいるから」と。
この言葉ほど当時の私達、全国の青年男女の血をほとばしらせた言葉はなかった。
山宣は虐殺された。山宣は神田の旅館で右翼の一人に刺されて虐殺されたが、二階の階段をころげ落ちながら抵抗した。山宣は政獲(政治的自由獲得)労農同盟の東京市会議員候補者・中村高一の応援演説を済ませたのち、旅宿光栄館に帰って一風呂あび、夜食の膳に向う直前を襲撃された。
渡辺政之輔(日本共産党委員長)は二八年十月十六日、汎太平洋会議出席の帰途、台湾のキールン埠頭で警官に射殺された。
三・一五の一年後を記念して「渡政・山宣の労農葬」を東京・京都の両市で開催するが、その時一〇〇〇人が逮捕された。こうした弾圧にもめげず、三・一五事件後の1928年三月二十五日に「ナツプ」*が結成され、1928年五月には機関紙(文芸雑誌)『戦旗』が創刊され、1928年四月七日には解放運動犠牲者救援会が結成された。
*ナップ 全日本無産者芸術連盟、全日本無産者芸術団体協議会の略称とその機関誌名。ナップはエスペラント語でNippona Artista Proleta Federacioの頭文字NAPF
解散された労働農民党は、二八年十二月二十二日、「新労農党」として結成大会を行ったが、この大会は当日即時結党を禁止された。委員長大山郁夫は「百度解散すれば百一度結党する」と絶叫する。
人が困難と苦悩に直面したとき、世に残る名言が生れる。「板垣死すとも自由は死せず。」これは一八八二年(明治十五年)四月六日、民権運動家である板垣退助を、体制内の小学校教員・相原尚文が刺殺しょうとした時に板垣が叫んだ言葉である。
「最後に笑う者が最もよく笑う者である」は、ロシアのアレクサンドルがナポレオンの冷たい態度に怒った時に発した言葉であつた。
三・一五事件の記事解禁は翌年の四月十日であり、これは四・一六事件の六日前である。狂悪な犯罪者の如く顔をならべ立て、マスコミは党員に対する恐怖心をそそり上げた。
私はその新聞をよんだ。首脳部は逮捕されているが(徳田球一(徳球)は1928年2月26日に逮捕されていた)、まだ多くの人は逮捕をまぬがれていた。渡政、鍋山、三田村、佐野学、福本和夫、佐野文夫、国領、山懸、浅野晃などである。――この人々のことはずっと後で知った。
福本和夫は1928.6に、国領五一郎は1928.10に、また浅野晃も、三・一五後の中間検挙で逮捕された。
市川正一は1929年四月二十六日に、佐野学は1929.6に、鍋山貞親は1929年に、三田村四郎は1929年に、いずれも四・一六の後で検挙された。
逮捕時期で分類すると、
・はしり逮捕 1928年の3・15の前にすでに逮捕されていた人 徳田球一1928.2.26
・1928年の3・15
・中間検挙 1928年の3・15と1929年の4・16の中間に逮捕された人たち
・1929年の4・16
・1929年の4・16後に逮捕された人たち
三・一五事件後、私が耳にした話では、徳球は逮捕され取調べられた時、その特高をふるえ上らせたという。
三・一五事件当時は、東京では拷問の話は聞かなかったが、小林多喜二は「三・一五事件」という小説の中で恐るべき拷問の事実を書いた。多喜二がスパイ三船留吉に売られて逮捕されたのは、一九三三年(昭和八年)二月二十日であり、三・一五事件の五年後である。築地署で特高中川は小林多喜二に「お前の書いた『三・一五』の小説通りに拷問してやる」と言って遂に虐殺した。多喜二の『三・一五事件』の惨虐な拷問がそのまま行われたに違いない。只当時の私達は知らなかったに過ぎないだろう。
◇非合法活動の一駒
日本共産党はコミンテルンの一支部として一九二二年七月十五日に結成された。四・一六事件の一九二九年、世界の金融恐慌がはじまり、日本の資本主義もその波をもろに受けて失業者が町にあふれた。「大学は出たけれど」という言葉が流行した。中国では毛沢東の井岡山からの遊撃遠征がはじまっていた。
私は三・一五事件の後レポーターの時期を過し、翌一九二九年(昭和四年)一月頃入党を許可された。そして直ちに浜松町車庫細胞に所属し、伊藤保氏の指導を受けて、四、五人のオーライ嬢*と細胞準備会を結成し、細胞新聞「ハン子」を発行した。
*オーライ嬢とは女車掌の俗称。「発車オーライ」のかけ声からきた。
そのため一月の末から伊藤保氏と定期的に連絡をとっていた。四・一六事件が起きた時、私は未だそのことを知らず、宮城(皇居)西側の土手の連絡場所で伊藤氏を待った。五分待った。五分が待ち時間という規律を守らねばならなかった。私は何処ともなく行き、もう一度同じ場所に戻って待った。五分である。しかし、とうとう二度目も伊藤氏は姿を現わさなかった。私は上部との連絡が断ち切られて仕舞った。
当時私は浅草を過ぎた千束町の髪結さんの二階の六畳間を貸りて住んでいた。食事は外食である。それ以前は、清家齢さんが住んでいた、やはり千束町の浅草切っての高橋組の暴力団の親分の、高張り提灯が入口にずらり並んでいる夫婦の家に「一時あずかってくれ」と頼んで厄介になっていた。どうして高橋組などに厄介になったかというと、その理由は次のようなものであった。
三・一五事件の当日、私と齢さんは検挙があったことを知らず、その夜は、芝愛宕山下の秘密のカクレ家に住んでいた私の家に齢さんは泊っていた。そして二人で労農党本部にいつものように出掛けて行ったのだが、門は閉鎖され、警官が四、五人で見張っていて、当時は二人とも入党していなかったが、すぐ捕まってしまった。そして日比谷署の大広間に押し込まれた。大広間の中には三十人余りの、知った顔や見も知らぬ顔の男女が立ったり座ったりして押し込まれていた。
中食時間になっても食事を食わせない。腹が減る。何故こう多勢の人々が押し込まれているか、聞いても皆不安がり、不思議がっていた。これが三・一五事件の弾圧の余波であった。野坂鉄の妻君の竜子さんの実兄である材木商もここにいたらしい。(後日野坂竜子さんが私に言った。)「西村さんが大声で『メシを食わせろ』と何度も叫んだ。それで皆で騒ぎ出して、メシを、メシをと合唱するように叫んだ。『西村さんは勇敢な人でした』と兄が言っていました」とほほ笑んだ。
一人一人呼び出され、(私も)衿の所に白い布に「西村桜東洋」と書かれて写真を取られ、指紋を取られた。釈放された人々が大勢であった。私もその日に釈放された。だが清家齢さんは五日か六日の拘留となり、浅草署に留置された。この浅草署に齢さんがいた時、高橋組の親分の妻君が手形のサギで同室にいた。彼女(清家齢のことか)は頑強に否定し続けた。清家齢さんの人物に引かれてすっかり仲よくなって、出署したら遊びに来るようにとのこと。
私は一九二九年一月末入党した。住所のない私を齢さんが一時高橋組の親分宅にあずけた。この夫婦は私の事情については何も聞かず、私の名を勝手に「チーちゃん」と呼んでいた。食事も食わせるし、時には料亭に連れて行って御馳走をしてくれたりした。この妻君が、同じ千束町の髪結さんの二階を(私に)世話してくれたのである。そして時々遊びに来るし、私も立寄って食事の御馳走になったりした。
私は上部との連絡が切れたので、不安で居たたまれなかった。妻君は私のあせりを感じて、「苦しい時はいらいらして出掛けたりするもんじゃないよ。落付いてじっと我慢しなけりや」と諭す。しかし私は若気のあやまちから、どうしても誰かと逢わねばならない。いらだちにじっと我慢し切れなかった。
四・一六の弾圧の嵐は吹きまくつていた。私は弾圧の全体の様子がわからない。我が親身の姉妹である清家齢さんに逢わずにはいられなかった。戸塚町の関根氏の母親の家に寄寓していた齢さんを訪ねて見ようと思った。
私はレポーターの時期に着用していた黒衿の着いた着物に、矢ガスリ前掛を付け、大きな針箱を持って出掛けた。夕方である。「御免下さいませ」と言って戸を開けて入る。入口玄関の三畳の間に奥から三人の私服が出て来た。ああしまった!でも、ここであわててはいけない。私は「小母さんは?」とたずねる。そして上りカマチに腰かけた。胸は高鳴っている。「あんたは誰だい?」「縫物のことでたずねて来たけど、小母さんは居ないの?」と私。そして「小父さん達はどなた?ここの下宿人?」と私。「小母さん達はね、今風呂に行っているんだよ」と言う。「そう!そんならここで待たしてもらうわ」と私は腰を上げなかったが、心はおびえ切っていた。「仲々帰って来ないよ」と彼ら。そこで私は仕方ない風に立上って「帰ってらしたらよろしくね」と家の外に出た。そして一目散に近くにある風呂屋に行った。丁度関根氏の母は湯から上って着物を着ている処であった。小母さんは驚いて私を見つめ、「まあ!」と言う。「あのねェおとよさん、大変だったんだよ、今朝からいきなり特高が何人も踏み込んで来て、齢さんを逮捕して連れて行ったよ。その後小山宗さん(中間事件、第二無新関係)が連絡にやって来て、特高が居るのを見てびっくりして下駄もはかずに逃げ出す。三人の私服が後を追ってとうとう捕まって、手錠をはめられて連れて行かれてね。まあまああんたはよく逃げ出したね、早く逃げなさい」とせき立てられた。ここでの逮捕を免れた私の度胸は、レポーターの時期に身についたたじろがぬ戦術のおかげであったろう。
感想 2023年3月3日(金) ここで桜東洋さんは何が言いたいのだろうか。
・暴力団関係者の所で居候したこと。
・警察で「メシを食わせろ」と豪語したこと。
・徳田球一が逮捕され取調べられた時、その特高をふるえ上らせたこと。
・私服が張っている、清家齢さんが寄寓していた関根氏の母親の家へ行って、きわどい処で逮捕を免れたこと。
・後090で出て来るが、山懸を逃亡させるための資金とメモを私服の眼を盗んで届けたこと。
これらはみな法螺ともとれるし、革命はいかに警察をごまかし、力で対決するものなのだということを言いたいともとれる。
◇遂に逮捕される
私は千束町の髪結さんの自室に帰った。この部屋は入党以前から、杉本文雄氏から預かった党の印刷物を私がガリ版で切り、印刷して杉本氏に手渡していた処で、印刷機を置いていた。私はすべての書類を火鉢で燃し、印刷機は窓の外にかくした。
そして高橋の親分宅に出向いて、妻君に言った。「万一私が帰らなかったら、一切の持物を処分して下さい」と。高橋の細君は「それはいいけど気をつけなさい。動き廻ってはいけない」と再び注意してくれた。しかし私は聞く耳を持たず、着物をかりて変装しょうと思い、女子大の社研の同志、岡田大将の娘の下宿先の青山に急いだ。そしてそこに張り込んでいた私服に逮捕された。
警察が張り込んでいないか、二、三度二階建ての(岡田さんの)家の前を行ききして見たが、家は静まりかえっている。思い切って「御免下さい」と門の戸をあけた。玄関には屏風がそなえ付けてある。「ハイ」と言って出て来た奥さんは、私を悲しげな表情で見つめた。「岡田さんはいらっしやいますか」 と聞いても、うつむいている。変だなあと思ったとたん、次の間から二人の私服が出て来て、逃げる暇も与えず、私を座敷に引ずり上げた。「逮捕されることは裏切りである」とは党の規律である。何とか逃げようとしたが、警官は私の帯をとき、身体検査を始めた。
私は薄い帖面と、出し損ねた報知新聞社の記者をしている兄宛の金を無心するハガキを持っていた。薄い帖面には浜椅町車庫細胞員の出勤時間が書かれていた。身体検査をした二人の私服は、その二つの品物を読みもしないで私に返した、青山署まで私を中にはさんで連行して行った。二人は先に立って歩いたり、振り返ったりした。私は懐に入れている二つの品が気にかかっていた。丁度途中で大きなトラックが前から走って来た。私服は二人とも私より先を歩いていた。私は突然そのトラックの下に二つの品を投げ捨てた。「早く歩け!」と警官が、後にいる私に怒鳴った時、私は心の重荷が取れて明るくなっていた。あのトラックが私を救ったと、その時は思わずホッとした。
しかし青山署に着いてから、恐怖の日々が続く。上司の前で二人の私服が再び私の身体検査を始めた。「お前に渡した書類はどうした、どこにかくした?出せ!」
「知りません、あなた達が友人宅で取り上げたじゃあありませんか」
「馬鹿言え!返したじゃあないか!」
「いいえ私には返しませんでした」と言い争いが続いた。
「何処に住んでいる?名前は何と言うか?」と責め立てた。
「私の名は〇〇です」何と言ったか、今は思い出せない。住所は、ずっと前一寸たずねたことのある、上田茂樹の逮捕後一人で留守を守っていた前川さんの住所を言った。
警察というものはす早いもので、二十分も経たぬ中に、「そんな処にはお前は住んでいないことがわかった」「うそつきが!」と散々ケチラかされ、頬をなぐりつけられ、私は二間位も横に吹き飛ばされてころげた。
痛さをこらえながら、私は否定し続けた。
「それでは留置所から岡田を出して来い、名前を確認する」と上司は命じた。
岡田さんが姿を現わすや否や、私は走り寄り、「ああ岡田さん、私は〇〇でしょう、覚えていらっしゃいますでしょう!」と叫んだ。
岡田さんは一寸たじろいだが、やがてうなずいて、私は「〇〇」ということとなる。
「まあ大したしろ者ではあるまい。大崎署に今夜は留置しろ」との上司の命により、夜も暮れかけた頃、一人の私服が、市村と言ったと思うが、青山署を出て、大崎署まで歩いて連行することとなる。
私ははれ上った顔の痛みをこらえて、今、どうしても逃げねばならぬと思った。
何という川であろうか。相当な幅の川が流れていた、その川ぶちを市村が私に寄り添うようにして川ぶちの方を歩いている。
「こいつを川に突き落して逃げよう!」「つき落せ!」と私の胸は激しくせき立てる。「今だ!」「今だ!」と私の心臓は鳴った。しかし、私はどうしても力をこめて彼を突き落すことが出来なかった。逃げることも出来なかった!
市村という私服は、大崎署の暗い廊下を留置所に向って歩きながら言った。「君は大したこともないのですぐ釈放されるだろう。そしたら僕は毎朝九時、六本木の市電の停留所にいるから、そこにお出で… 色々と話もあるのでねェ」と甘く囁く。
そして両腕で私の両肩を抱きしめ、口びるをもって来た。私は力一杯その顔をはねのけ、腕をはずし、「大声を上げるぞ」と言った。
今にして思えば、土臭い田舎者の私をスパイに仕立て上げようとの工作ではなかったか。
◇大崎署での死闘
大崎署での取調べと拷問は、思い出すだに身の毛がよだつ。この署には多くの労働者や婦人の一般の嫌疑者が入っていた。私は、扉の一番近くの房へ「万引きの婦人」と同室させられた。
二、三日したら中川という警部が来て ―― この中川は先にも書いたが、小林多喜二を虐殺した死の商人ならぬ死の警部であった ―― この中川が私を取調室に呼び出して、一枚の写真を示した。「オイ、西村オトヨ君!これが君の写真だ!」と言う。見ると三・一五事件の日、先に書いた通り釈放の日、白い布に名前を前衿に書かれて写真を撮られた、まさにその写真であった。私はここで私の本名を認めざるを得なかった。
翌日から中川は三人の拷問係を連れて取調べを始めた。質問の内容は、入党しているのであろう、誰によってか、どういう人々と連絡をとって活動したのか、ということであった。
拷問係の手を見た時、その大きさ頑強そうなのに驚いた。中川はまず入党の事実を確かめるために、私が否定するたびになぐる、ケル、三人が私を仰向けにころがして、頭であろうと顔であろうと、腹、足まで踏みつける。
朝から夜十二時頃まで、食事も水も与えずに続けられた。忘れてはならぬことは、中川は「天皇陛下の名のもとにお前を取調べる」と言ったことだ。
私は拷問を黙って受けなかった。殴られけっ飛ばされるたびにわめき散らした。胸や腹にクツのまま乗られる度にヴギアーツと叫んだ。夜中まで、あらん限りの力を出して、ヒー、ヒー、ギヤア、ギヤアと叫んだ。
何を聞かれても知らぬ、存ぜぬと答え、声が出なくなると首を振った。その度に殴る、転がす、踏みつける、そして私は叫ぶ。
私が夜中にかつがれて留置所に叩き込まれる度に、ここにいる総ての人は騒ぎ出して、「殺されているのか」「まだ生きているのか?」と総立ちになって騒いでいる声を覚えている。
四日目の拷問の夜中、大崎署の署長がやって来た。そして「こんなひどいことをして取調べ、万一死に到らしめたら大崎署としても困る。何とか方法をしかるべくして貰い度い」というようなことを申入れた。
それで、私は、この恐怖と死の拷問から逃れたのである。
私の叫びは留置所内にも、警察の署長室にさえ聞こえたのであろうか!
私の左の足の中指は、この時の拷問で斬られた。この指はずっと痛み続けた。その後十二年間の結核養生中にも痛んだが、いつとはなしに、手当もしないまま痛まなくなっていた。
ついでながら敗戦後農民運動に飛び込み、日共五十年問題の後の農民会館建設の時、各組合を歩いて廻って集金活動に熱中していた時、(電車もバスも仲々来なかったし、一銭の金も農民からの金だったので使用出来なかった)急にはれ出し、うずき出し、うめいていたが、夜中に小川淘が私を自転車に乗せて天神町あたりの各薬局を叩き起そうとしたが、仲々戸を開けてはくれず、ようやく福岡薬局が起きて来て、抗性物質の注射液と注射器を買って来て、小川が注射をしてくれ、一夜ぐっすり眠って明方見ると、敷布は血とうみでべっとりして、そして徐々に治った。左の足の中指は今は骨もなく小さくグニヤグニヤとなっている。
私は十数年前偶然手に入れた「統一」という新聞で内野壮児氏の「全協のころ」(20)の記事を読んだ。
「――東京金属労働組合の主力山本鉄工所(一〇〇人余)…委員長小松原君は親分肌の快男子で、四・一六事件で検挙されたが、拷問はすざまじく、特に惨虐な拷問に頑張り通し、一ケ月後に出て来た。彼の口から伝えられた大崎署に留置された同志に対する拷問に屈しなかった婦人同志西村オトヨさんの頑強な抵抗は大きな感動をよんだ。」と書いてあった。私はびっくりした。
なるほど、あの時多勢いたあの労働者達は、東京金属の労組の人々であったのか!あの人々が釈放される時財布をはたいて私に金を差入れて下さった。そして皆さんは私に頭を下げ、礼をつくして出て行かれた。その人々の名は知らされもしなかったが、ここで感謝の意を表明したい。――こう書きながらも、当時の同志愛の深さに涙流るる。
この時私は、五銭か六銭しか持たなかったのに、急に金持ちになった。しかし留置所では金を使うことは出来ない。
私の獄中記(2)ー非合法時代の回想ー 西村桜東洋 労働運動研究 1983年12月 No.170号
解説 山本菊代
前号、彼女が三・一五事件直後、日本共産党の中央レポーターとして活動中、警察官に監視されながら病気療養していた山本懸蔵氏にレポを届けたことが書いてある。そのレポによって山本懸蔵氏は日本を脱出し、ソビエトに亡命したのであるが、その山本氏の亡命について、風間丈吉氏が「雑草の如く」で次のように触れられている。
風間氏がソ連から帰国するとき、山本氏は国外脱出の成功について「誰か一人くらいには真相を話しておきたかった」と前置して、「三月十五日(昭和三年)、自分は病気で寝ていた。私服警官が乗り込んできた時、肺病第三期で絶対安静だと抗弁したところ、すぐ警察医が来て診察し、そのことを確認した。見張りは昼夜の別なく厳重だった。自分の吐いた痰の中には正真正銘の第三期結核菌が入っていた。それは馬島燗氏が東大病院から持ってきてくれたのである。こうして時を稼いでいるうちに外部と連絡を取り、脱出計画を進めていた。着物を着が.え、二階の窓から飛びおりた。長い間寝たきりだったので、腰が立たなかった。もうおしまいかと思ったが、どうやら立てたので、しばらく歩いてから待っていた自動車に乗って逃げた。銀座の庄司理髪店に行って髪形をととのえ、そこから小林武治郎氏経営の料理店(芸妓屋?)に隠れ、さらに国外へ逃れ出た。自分にとって馬島医師は命の恩入だから、恩返しのつもりで日本に不足している薬(サントニンだったと思う)を手に入れ、海員に頼んで送り届けてもらっている…云々。」
ところが第二次大戦後、馬島氏の書いたもの(文芸春秋社発行)によると、まったく違っている。同医師は、「『山本の病気は大したことはないから』と内務省の保安課員に何回も注意したにもかかわらず、(内務省の保安)課員が警視庁に電話したら、『確かに重病だ』と言っているとの口実で、私の言をとりあげなかった」と書いてある。馬島氏は山本懸蔵氏を逃がしたのは警視庁の某警部だと主張していると受け取れる書き方をしている。そしてその文章の最後に「一九三二年秋にドイツへ行った時、ドイツにいた東崎氏*を通じて片山潜氏に以上のことを書き送った」と書いている。(山本菊代)
*東崎氏は国崎氏の誤りか(山本菊代)
◇看守の温い配慮
拷問は四日で済んだが、私はすっかり体を悪くした。便所に行くにも足や腰が立たず、這って歩かねばならなかった。そういう時、看守は私を抱えて便所に連れて行った。「上司が時々見廻りに来るが、その時は教えるから寝ていてもいいよ」と言った。そして時々、キャラメルを投げ込んだり、夕食の時には、他にうどんを一皿付けてくれたりした。襦袢をぬぐと、シラミがゾロゾロとわいている。私は同室の「万引事件」の婦人と、シラミの取りくらべをして、並べたりして日を暮した。ここのその看守は、同室の婦人に「西村は着る物が一揃いで冬物ばかりだから、君一枚位美しいユカタをやってはどうか?」と相談して、彼女から白地に青色の花柄のユカタをもらってくれた。風呂など入ることは出来ないのに、湯をたらいに汲んで来て、「ここの隅で身体を洗いなさい」と湯あみをさせてくれた。
大崎署での二十九日間の留置期間が切れる日、彼の看守は「君は時計をもっているが自分にあずけさせてはくれまいか?」と相談した。私はこの先どういう運命が待ち受けているかわからないので、心よく承知して留置の戸棚から取り出してくれるように頼み、彼に与えたのである。後、日が立ち、私が市ケ谷刑務所から死の直前保釈になって下落合の兄の近くに家を借りて横たわっている時、彼の看守は忘れもせず尋ねて来て見舞い、「あの時借りた時計です」と言って返したのである。私はその時はすっかり忘れていたのに。こういう看守もいる。やはりこの看守は人間である。
大崎署から次の警察署に廻された。そこは何処であったか覚えていない。日は一日一日と音もなく過ぎ去って行く。再びあの恐ろしい拷問があるなら、今度は堪えられるであろうか、その恐怖心で留置所のトビラが開く度に私の胸はふるえる。ところがある日、特高の取調べがまた始まった。「お前は天皇陛下の誕生目を知っているか?日本共産党は天皇制を打倒するという国賊だが、お前は知っているか?」という。現在の私は知らないが、その当時は知っていた。しかし私は言う。「自分の誕生日でも忘れているのに、天皇の生れた日なんか知るもんか!」と怒鳴った。「ようし、そんなこというなら、不敬罪に引っかけるぞ」と言う。痩せ衰えてよろよろしている私を見て、これ以上彼はこのことについて言わなかったが、次に正に重大な事実を彼は語ったのだ。「おい!西村!この菊地克巳の調書を読んで見ろ!」と部厚い調書を私の前のテーブルの上に置いた。菊地克巳?私はそんな名前は知らない。ところが特高が指で示した数行を読んだ時、私は呆然となった。「西村桜東洋を紀之国坂の途上で入党させたこと、松山という党名を与えた」と書いてあるではないか!私は怒りとくやしさに、はふり落ちる涙をこらえるのがやっとであった。ああ紀之国坂!この栄光ある紀之国坂の名をどうして生涯忘れることが出来ようか!杉本文雄氏からの指示で「何時何分紀之国坂を上って行き給え。そしたら新聞紙を折り畳んで坂の上から下りて来る人がある。その人と話しなさい」
◇入党の思い出
それは一九二九年一月の中頃ではなかったろうか?私は二十三歳と八カ月。私は杉本文雄の言う通りに実行した。やはり男の人が(坂を)下りて来た。彼は言う、「一カ年間君の活動振りを注目していたが、党員になる資格が十分であることを中央は認めた。入党を許可する。」そしてまた言う。「党の方針に従うこと、細胞に所属して労働者の中で党を建設すること、そのためには別の人が君を援助するだろう。万一逮捕された時には、死をもって秘密を守ってくれ、党名は『松山』である。」「御健斗を祈る」と言って彼は坂を下って行った。彼は少しやせて、中位の体位で、着物と羽織姿であった。
私はふるえる様な感動を覚えた。身体は喜びにふるえた。空は青く澄んでいる。寒い一月であったのに私の胸は燃えた。天にも昇る心地とはこの事ではなかろうか!労働者階級の前衛党の日本共産党。天皇制の惨虐体制を打倒し、搾取と圧制から人民を解放する共産党。ソ連の革命と連帯し「万国の労働者団結せよ、失うべきは鉄鎖のみ、得るものは全世界である」とマルクス・エンゲルスの共産党宣言を実行に移す日本共産党。まさに、あこがれ、さがし求めていた日本共産党に私は今、この日、ここで入党したのである。私は紀之国坂を上った。坂の向うには平たい道があって、左側に「うどん屋」があった。私はそこに上り込み、いつもの「すうどん」ではなく、肉やテンプラの入った上等のうどんを注文して、心から我が身の幸せを一人で祝った。
この紀之国坂の入党の事実を知っている者はたった一人しか居ない、あの男が菊地克巳であったのか?私に秘密――不必要なことに対しては、見ざる、聞かざる、言わざるの秘密――(ホーチミンもそう言っている)に関して、「党の組織上の秘密のためには死んでくれ」と教えてくれたのは、まさにこの菊地克巳であった。彼の住所は水戸市となっている。私は彼の調書を見せられても入党を否定した。菊地などは知らぬと主張した。私は長い孤独な留置所の中で約四カ月(一一六日)水戸市を呪った、菊地克巳を呪った。裏切り者めが!万一命あって世に出たなら、水戸市に行って、殺してもあき足らぬと、キリキリして独房で泣いた。
ずっと後で聞いた処によると、彼は四・一六の前の三月十八日に検挙されている。その十日後三月二十八日、党中央事務局の間庭末吉が検挙され、彼のアジトから党員名簿、暗号名、赤旗の配布図などが敵の手に渡っていたということである。彼は一九三八年に死亡している。当時菊地克巳は、東京都の指導部に属していたとのこと。
私はこの入党の事実や党名まで明らかになったのに未だ起訴されず、三回目に品川署に転署された。 六月になっていた。暗い留置所の中でも時々汗ばむ様な日もあった。六月十日に母が死んだ。その後私はふと病身の母を思い出し、突然胸のつまる思いに落入った日があった。しかし張りつめた私は、まだ前途に横たわる無限な困難と悲惨な日々と闘う決意が、あわれな母への思いを断ち切って行った。
品川署の留置所は廊下が広く、向う側の留置所の一室に西村祭喜氏がいられたことを知った。同じ西村という姓のためか、看守が来て、「夫婦か?」と言って祭喜氏のいることを知らされた。彼は夜眠られぬと言って、いつも狭い部屋をグルグルと歩いて廻っている。「子供のことが思い出されてね」と看守に言った声を聞いた。この西村祭喜氏から血で書いたレポを雑役から受取った。「警視庁の特高に昨日私が取調べられた時、彼らは『西村オトヨは実に不敵な奴だ、生かして出すわけには行かぬ』と言っている。」―だから白状して生きていてくれ―と書いてあったかどうか、この点はわからない。血で書かれたこのレポを私は一度読んで便所に行ったとき、ちぎって棄てた。この品川の留置所は、便所でも開けっ放しで看守が見守っている。だからそこは巧妙に捨てねばならなかった。「生かして出すわけには行かぬ」私の様なチンピラ党員をこんなに高く評価しているとは、むしろ名誉である。私はパリーコンミュン(一八七一年)の「自由か!死か」のスローガンを思い出し、多くの死の防塞の中に死んで行った英雄のこと、そしてその後で作られたインターナショナルの歌を心に歌った。
「起てうえたる者よ 今ぞ目は近し 覚めよわがはらから 暁は来ぬ 暴虐の鎖絶つ日 旗は血に燃えて 海をへだてつ我ら かいな結びゆく いざ闘わんいざ 振い立ていざ! ああインターナショナル 我らがもの!」
情熱にもえたぎっているこの若き肉体と精神には、西村祭喜氏の言葉でも何の動揺も与えなかった。私はこの品川署で四、五度取調べられた。私の組織の関係は、浜松町車庫細胞準備会の三人と「パンチ」という細胞新聞。指導した伊藤保氏。それから杉本文雄との党の出版物の印刷のこと、佐野文夫、浅野晃、岩田義道との連絡のこと。私についてこれらの人々は何一つ言っていない。最後まで私について何一つわかったことはなかった。
この品川署での取調官は、実に丁寧に私に接した。何という名であったか忘れたが、私のために下着、腰巻を白い木綿で縫ったものを持って来て着換えさせ、「女房に縫わせたらヤキモチをやかれたよ」と言って笑ったりした。四月中旬に青山で捕まり、五月、六月になって暗い留置所の中も汗ばむ日が続いた。だから白の木綿の下着は、死出の旅路に着るものとしても心地よかった。特高の取調官は、「婦人の取調べにかけては、一人と言えども白状させなかったことはないベテランだ」と自慢して見せた。「もう君には拷問などという手は使わない」などとも言った。そしてとりとめもない雑談を始めた。私も雑談に応じて声高に笑ったりした。「何か食いたいものはないかね」と言うので、「チャーシューワンタンメン」を注文した。この支那料理は、私が労農党で雑役ばかりしていた時に、会計の佐野さんが、時々おごって下さったものである。それを思い出したからだ。「焼き芋を食いたい」とも言った。「今頃焼き芋なんてあるもんか」彼は言いながらも、署の小使を方々に走らせて買って来たものだといって持って来た。そしてある取調べの日、彼は「実は兄さんが来てね、差入れの金をおいて行ったんだよ」と言った。
後で聞いたところによれば、私の母は、福岡市の九大病院で胃ガンの手術をし、退院して、千代の松原添いに家を借りて、姉弥生が一人息子の洵を背負って看病している中に、胃と腸を継いだ所が切れ、血が流れ出し、大量の出血の直後、心臓発作で死亡したとのことであった。その日は六月十日。兄はそのため、この品川署をたずねて、私を葬儀に出席させるため懇願に来て、許されず、金を置いて「頼む」と言って至急、母の葬儀のため九州福岡に向ったのであった。
(注) ここに出ている「洵(ひとし)」は、いま日農福岡県連で活動している小川洵氏のことである。桜東洋さんはお母さんの病気について私に次のように話していた。「三・一五のあと佐賀に帰り、東京に帰るとき駅に行く途中、近所のおばさんが、『桜東洋さん、あんたがお母さん看病をしなかったらお母さんば死んでしまう。残って看病してあげなさい』と言われたのをふりきって東京へ帰った」と。多分三・一五後レポーターの仕事が終ったあと、党員としての活動をするまでの中間のことと思う。(山本菊代)
婦人取調べのベテランと自称するこの特高は、雑談ばかりしているのではなかった。時にはテーブルを叩いて厳しく私を追及する。私はもう何も彼も運動上、組織上のことで語ることはなかった。すべては忘れた、只黙しているだけであった。「問題の点になると、石の地蔵のようにだまってしまう。そうはさせないぞ!」と言う。
私の父は儒教学者で、村内の多勢の子弟を二階で教育をしていて、その素読の声をよく耳にしていた。父は私の小学校二年の時、政治的対立抗争のため刀で切られ、それが原因となり死んだのであるが、よく佐賀の「葉隠れ」のことなど、夕食の時話をした。「忠義とは死ぬことと見つけたり」と度々言う。「お前に桜東洋という名を付けたのは、桜の花はパッと咲いてバッと散る。死すべき時に死さざれば恥多しだ」と百度も聞かされた。この品川署の親切ごかしの取調べに、恥をうって生きるより、「葉隠れ」を逆手に解釈して、「党に忠誠を尽して死ぬことと見付けたり」と思った。これが父が私に残した教ではないかと思ったりした。
◇最後の留置所上野署
四回目の「たらい廻し」をされたのは上野署。ここではあきらめたのか、取調べというほどのことはなかった。取調官も代って、一度呼出され字を書かされたことがある。そこで私は、うろ覚えの「南欧の革命歌」の一節「我ヴェルテルにあらざるも紅の恋のながらんや」と下手クソの字で書いた。ざまあ見やがれ!という心意気をこめて。彼は言った。「君はローカルだね。(田舎者だね。)是枝操君は、実にインテリだったよ」と。「清家齢がね、『西村オトヨの様なあんな無知無能な人間に何が出来るもんですか』と言っていたよ」と薄笑いしながら私をながめている。ああ、齢さんよ、あなたはこうして私をかばってくれている。何の取り柄もない私を無二の親友として、生活の面倒を見、地下にもぐった私が飢えて髪の毛は赤くなり身動きも出来ないでいる時尋ねて来た時、私の姿にたまげて時計や羽織を質に入れて、パンや牛乳、バナナを買って来て、「生きて闘おう」と励ました同志、この温かさに、私は心に泣いた。彼女は先に書いた様に、すでに逮捕されていた。齢さんはどうしているのであろうか?それともあの頑丈な人だけに、今でも拷問に堪えているのであろうかと、彼女を思うに切なるものがあった。
私が留置された上野署は、一番入口でわり合いに明るい。日々は音もなく流れ去る。間もなく浅野晃氏が二、三人の私服に連れられ、私の部屋の前の廊下に立っていられた。着物姿であった。私はびっくりして立上って彼を見た。二人は無表情で声もなく、しかし無限の思いをこめてちょっとみつめ合った。やがて手錠をかけ、刑務所へ送るためであろうか、連れ去られた。浅野晃氏は労働農民党の輝ける裏の書記長として、(表は細迫兼光書記長)一年余り同じ事務所で顔を合わしている。時には学校時代、渡辺多恵子さんらに連れられて、四、五人で自宅をたずねて個人的な教えをうけたこともあった。三・一五事件で逮捕をまぬがれた浅野氏は、当時ラジオ放送局のあった芝愛宕下のガケ下に、日共の非合法会議の場所兼私達の住居を尋ねて来られ、私にレポを命じられた。それから約半年間の私のレポーター時期の苦闘が始まるのである。その浅野晃氏が、思いがけなくも私の前から手錠をかけられ、刑務所に引かれて行った。
七月中頃には、ここでの二十九日の留置が満期となり、いよいよ私も人並みに市ケ谷の未決監に送られることとなる。留置所生活一一六日間が終った。私は世にいう四・一六事件で逮捕されたのであった。三・一五事件で逮捕をまぬがれていた幹部は、ほとんど全員、三三九人が起訴されている。
◇市ケ谷刑務所へ
自動車は真夏の陽光をうけて輝きわたり、みどりしたたる木々の中を日比谷公園にある検事局へと走った。自然とはかくも美しいものであったのか!そぞろ歩く人々の顔の輝きと、美しい装い!検事局の地下室にしばらく待たされ、呼出されて、何階かの階段を上.る。その時、私は息切れして上れなかった。名も知らぬいかめしい検事が、私に拇印を押させた。その書類は、私の名前と、私の原籍、佐賀県三養基郡大字旭村字儀徳三〇四八番地しか書いてなかった。現住所も入党のことも、黙否したため書いてなかった。私は誰か一人につきそわれて、午後、車は市ケ谷刑務所に向った。刑務所の大きな門をはいって、そこで車から下りた。風呂敷包を一つぶら下げている。私を受取ったのは中年の婦人、黒い上衣と黒い袴をつけた上田看守長であった。
◇色々な出来ごと
上田看守長は、私を従えて狭い布団部屋を通り抜け、未決の女囚ばかりいる古い建物(明治八年に建てられたとのこと)の一室に連れ込み、型通りに身丈を計り、体重を計り、裸にして身体の特徴を裸身の画に書き込んで行った。それが終ると、青い木綿の未決囚の筒袖の着物を着るように命じた。腰巻も帯紐も同じ青いものであった。それでも、よごれて腐った様な着物から洗い立ての未決囚の着物は心地よかった。私は廊下の一番端の部屋に入れられた。ここは元は病室ということであったが、三・一五、四・一六事件で婦人の未決囚が増えたので、一般に使用するようになったとのこと。私は廊下をよろよろとガラス窓の壁につかまって歩いた。そして二畳の畳と一畳の板の間、薄い青い布団の一重ね、手洗いと便器の置いてある部屋に入れられた。「十二番」が私の呼名となる。とうとう刑務所に来た。
多くの婦人同志もここにいるに違いないという安心感にぼんやりしていると、夕食が運ばれて来た。入口の扉の下に四角い穴が開いている。赤い着物の既決囚の婦人が、看守に付きそわれて食事を差出した。私はすり寄ってそれを受け取った時、メシ茶碗の底に付けてあった小さな小さな紙包が、ぽとりと落ちたのである。私は食事をそこのけにして、あわててその紙を開けた。齢さんからのレポである。「君がやつれ果て、よろよろしながら歩いている姿を、小さな窓のすき間から見て涙が流れる。とうとうやって来たね。君のその姿から拷問の激しさを思った。自分もひどい拷問に堪えた。殺されずに生きてここに来たことが何よりだ。ここには多くの同志がいるよ。どうか一緒に頑張ろうではないか!」と書いてあった。私はこの言葉を終生忘れない。血肉を越えた同志愛!鉛筆の心がニセンチ位入れてあった。私は齢さんのこの温かい言葉を心に聞いた時、はふり落ちる涙を押えることが出来なかった。緊張し切っていて、母の重病や死を予知した時も、涙を振り切ったのに、どうしてこうも涙が全身をうるおすのか!
少し落着いて、ふと壁を見ると「ウエルカム・ニシムラ」と鉛筆でうすく書いてある。私は驚いて何度も見直した。「西村がここに来ることを歓迎する?」誰だろう。いつ誰が書いたのだろう。ぼんやりと、夕食が済んで座っていると、コツコツと壁を叩く音が聞こえて来る。私は立上って壁に耳を当てたり、あっちこっち動き廻ってうろたえた。「窓に立ちなさい!」とひくい声が聞こえた。窓は病舎だから密閉されてなく、鉄の棒が縦に何本か立ててあって、その間から見ると廊下も見えるし、前の広場も、その向うにある作業場も見える。青い(赤い)着物の既決囚の働く姿も見えた。私はその窓に立った。声が聞こえる。隣室には一つ部屋をへだてて伊藤千代さんが居た。その声は千代さんの声である。「今、見廻の取締りが向うに行ったのよ。だから話をします。おとよさん、あなたが中々来ないので、とても心配した。殺されたのではないかと思ってね、『ウエルカム・ニシムラ』とは私が書いたの。あなたの今居る部屋は、手紙を書く部屋になっていたのでね、ではまたお話しするわ」と言った。取締の足音が聞こえたらしい。伊藤千代さんは、ここの同志のことを一々私に話してくれた。だから私も大体のことがわかったのである。
◇朝の点検のこと
朝は六時頃にボーという音がして、既決囚が起き出すことになっている。七時頃には、今度は大きな音でボーと鳴る。そしたら未決囚が起きることとなる。十分もしたら、男の刑務所長か部長が洋刀を下げて、婦人の看守が連きそい、帳面を広げて、一人一人を確認するためとびらの錠前を開ける。未決囚は、座って頭を下げて、私なら「十二番でございます」と挨拶することとなっている。翌日からこのことを実行することとなった。私は、知らん顔をして後を向いていた。婦人の看守は驚いて、「十二番、あいさつしなさい」と言う。所長か部長も「こら、ここの規則を守らんか!」と叱るのである。しかし、私は、絶対に、彼らに頭を下げて、かしこまることなど屈辱的なまねはしまいと思って、後を向いたままであった。あきらめたのか、私のこの小さな反抗を彼等は無視してか、とうとう一度も頭を下げることはなかった。
◇お取締様のこと
私がもう一つ驚いたことには、女看守に対して「お取締様」(トシマサマ)と同志までが言っていることであった。このことは、私を不快にした。私はここでも高慢な反骨性をむき出しに、「看守」と大声で叫んだ。そして看守!という言葉は、最後まで続けた。隣りの部屋に放火犯としてしばらくいた二十歳位の彼女は、「オトヒメサマ」と呼ぶので、私はその度に苦笑する。
ここの未決監には、つぎの人々がいることを教えたのも伊藤千代さんである。ずっと後になって、ナップの機関紙「戦旗」を入手した時に、正確に知ることが出来た。
○三・一五事件
①志賀多恵子(志賀義雄夫人)ー私が入監した時は病気にて保釈中。②波多野操ー是枝恭二夫人。出産のため保釈中。二人は東京女子大学卒。③原キクエ(菊枝)④今野トシ
○中間検挙
①丹野セツ(渡政(渡辺政之輔)夫人)
②野坂竜(野坂参三夫人)
③田口つぎ
④下田富美子(野呂栄太郎夫人)
⑤森田京子(三田村四郎のハウスキーパー)
〇四・一六事件
①清家齢(清家敏住(中間検挙)の夫人)、のち寺尾五郎夫人。
②橋本菊代(のち山本正美夫人)
③西川露(私と齢さんより二級下)日本女子大
④高橋よき(市電関係)労働者
⑤伊藤千代(東京女子大、浅野晃夫人)(三・一五ではないのか)
⑥大谷みつよ(市電関係)
⑦西村桜東洋(市電関係)
⑧田中うた(取調べの関係で一時)(注)
○田中清玄時代
①内山ちとせ
②国松てる
③立見よしえ
④中本たか子
私が市ケ谷刑務所に入所するちょうどその後、一九二九年(昭四年)*七月十四日に、いわゆる武装共産党という田中清玄達が検挙された時であった。
(注) 田中うたさんは(1929年)四月十六日早朝茨城県の助川署に検挙され、そこに四、五日いて、水戸刑務所に回され、水戸刑務所に一年いて、市ケ谷刑務所に送られたと牧瀬菊枝編『田中ウタ』に書いてあるから、市ケ谷刑務所には一九三〇年四~五月頃に護送されてきたことになり、一九二九年七月中頃には市ケ谷にはいなかった。
田中清玄の検挙は一九三〇年七月十四日で、中本さんはその時検挙。内山、国松、立見さんはいわゆる二・二六事件(1936年?)といわれる期間に検挙されているから、おそらく三人とも一九三〇年?の春頃来たように思う。したがってこの四名は桜東洋さんよりずっと後である。(山本菊代)
私の獄中記(3)―非合法時代の回想―西村桜東洋 労働運動研究 1984年1月 No.171号掲載
◇兄姉からの手紙
兄の丁一は当時報知新聞の記者であり、私へ手紙をくれた二年後の一九三一年九月十九日、いわゆる満州事件が発生し、満鉄の柳条溝鉄道爆破事件があり、日本軍は蒋介石政権を支持し*、軍の大量の出兵となるが、兄はその従軍記者となり、満州をかけめぐった。
日本政府は、天津から廃帝薄儀を連出すという事件1931/11/10がおこった。兄は上海での十万余の抗日大集会(1931年か)などの記事を日本に送っていた。翌年1932年三月一日に、日本帝国主義は満州国建国宣言を発表する。
*蒋介石は当時抗日よりも共産党との内戦に力を入れていて、張学良の国民党東北軍はほとんど抵抗せず、日本軍は一気に満洲全土を支配した。(世界史の窓)
西村桜東洋の「日本軍は蒋介石政権を支持し」という表現は、日本共産党が、当時国民党と対峙していた中国共産党を支持していたからではないか。満州事変1931年9月19日の時点は、第一次国共合作1924--27と第二次国共合作1937--45の中間であり、国民党は共産党と戦っていて、第二次国共合作の契機となった西安事件が起こるのは、5年先の1936年12月12日であった。
日本帝国主義はますますその狂暴性をむき出しにして、(「同じ」でなく翌)1933年三月27日、国際連盟から脱退する。
この会議はジュネーブで開催され、松岡洋右外相が日本代表であったが、兄はこの外相と共にジュネーブに行った。日本のファッシズムの激流に押されて、ジャーナリストもその先兵となって行った。そういう兄であった。
その兄の手紙には、「天網恢恢疎にしてもらさず*、とうとうお前も国賊として逮捕された。母は六月十日に死んだ。兄姉、親戚一同相集ったが、お前だけはとうとう姿を見せなかつた。品川署にお前がいる時、葬儀への参加を懇願したが、許されなかった。母は死を前にして『オトヨが来てくれないのは何故か、この母にはよくわかる。子供四人の四本の指の一本が痛む。その痛いオトヨの指だけが気にかかる。何をし出かしていようとも、お前達兄姉が、後々になるまで面倒を見てくれまいか。よろしくたのむよ』と言った。お前のやっていることは、大海に投げる小石にも価しないよ。しかし、亡母の頼みもあるから、三越呉服店に布団や着物類を届けるよう頼んだ。返事は要らぬ。家庭の紛争は避けたいからだ。」という様な意味のことを、新聞記者らしい語り口で書いてあった。私はこの母の言葉にまた涙をしぼる。死んだ母に対しては不幸な子であるかも知れぬ。お母さんは何もわかっていない!しかし許して下さいと泣いた。
*天の網は広く、その目は粗いようだが、悪人を漏らすことなく捕らえる。(老子‐七三)
次には、私と二つちがいの姉弥生から差入れが届いた。「私はあなたを信じている。母の葬儀は故郷の儀徳村で行った。名古屋に帰る前、親しい人々に、獄中にいるあなたへのカンパで廻ったが、皆びっくりした顔で一人も応じてくれなかった。名古屋で親しい友人からカンパを頂いたから、少しだが送ります。段々寒くなるので、寒さしのぎに綿の木綿のチヤンチヤンコにうんと綿を入れて作ったので、これを着て下さい」と書いてあった。
名古屋にいる長姉からも手紙が来た。「お前は道を誤まった。儒教の教えには、中庸の道という言葉があるではないか。しかし若し父が生きているなら、何と言うのであろうか。只死をかけて信ずる道を歩くお前をほめたかも知れません」という風に書いてあった。
同じ父母の子として生れながら、それぞれ違った考えを持つものだと思い、なるほど「人間は環境と教育の産物である」というマルクス、エルゲルスの言葉を思いおこしたものである。
まだ病舎にいた頃、変名の女の名で花の差入れがあった。私はすぐ気が付いた。これこそ最も貴重な贈物である。浜松町車庫細胞の同志からである。
ああ無事でいるのか!
◇獄中同志との連絡
清家齢さんから鉛筆という武器を入手したことは全く力強かった。入手の経過については、彼女の名著「伝説の時代」(一五四頁―一五五頁、一九六〇年六月二日発行、未来社)に詳しく書いてある。
西川露子さん――私と齢さんより日本女子大で二級下であった――は、婦人囚の雑役「二番」をうまく使って細心・大胆な方法で(鉛筆の芯を)入手し、それを全同志に配っている。私にも齢さんが二センチ位の「芯」をくれたことは、その後のレポの交換や国際・国内情勢の把握等に役立ち、全同志の思想・行動上の団結にその役割を果したのである。
最初は運動を許された三十分間を利用して、桜の木の幹に「タワーリシチ」(同志、ロシア語Товарищ)と刻み込んだあとを見た。
私達政治犯が運動する時には、一人の取締りが見張っているけれども、時には用事でちょっと居ない時もある。だから指定された場所に行き、レポを取り出し、自分のものをそこにおく。発見されると、板壁のすき間に変更した。次はダリアの木の根本にある石の下に変えた。
私が入所する前一九二九年七月二日に田中大将内閣は総辞職。その理由は、張作霖の爆破事件は日本の関東軍の陰謀であるとの野党の追及に敗れたためであった。そして七月三日、私が上野署にいる時には浜口雄幸内閣に代っていた。
市ヶ谷刑務所で私が運動に出る時、若者風で太り気味のあでやかな三十歳位の年増美人と一緒になったことがある。きらびやかな着物を着て、ふところから桃色地の美しい花柄のハンカチを取り出してちょっと額をふいていた。私はハンカチは木綿の白とばかり思っていたので、不思議な思いでながめた。全く(私は)「ローカルだね」032だ。開いている部屋を見たら、豪華な布団が重ねてあった。どこのどいつだろう?そこで散歩しながら、口を聞いてはいけないけど、私は聞いて見た。「あなたはどなた?」「小川平吉鉄道大臣のかこい者ですよ、ホホ‥‥と笑った。なるほど、妾というものは、こんな美人であでやかな芸者がなるものかと思ったものだ。後でわかったことだか、小川鉄相が不正事件で逮捕されていた時である。
清家の齢さんは一日一食は外からの差入れ弁当を食べていた。夫君の清家敏住氏は中間検挙で捕まり、保釈になって四国の愛媛県宇和郡に一時帰り、また東京に来て齢さんへの差入れをして、金はたっぷりあったのだろう。私達はあの見るもけがらわしい様な麦八分に白米二分、漬物と、汁だけのミソ汁。死刑があった時にちょっと魚が着くというのだから、刑務所というのはまか不思議な所である。齢さんは時々私のために金を宅下げ*して、私に渡る様に配慮するのである。それでも私は時々キャラメルとかチョコレートを買う位なものであった。
*「宅下げ」とは被疑者から弁護士以外の者が物品を受け取ること。
私は佐賀県の生れで、「肥前もんの歩いた路には草も生えん」というほどの、鍋島藩の搾取と圧制の中に暮した百姓の祖先をもって生れた。「美食は悪なり」と教えられて育った。
入所して間もなく八月となる。私の病舎は西日が当ってとても暑い。衰弱している私は堪えがたかった。すみの方に引下っても西日は照りつける。しかし私は気は少しも衰えなかった。運動場は東側にあって、高い窓がある。便器の上に昇って同志の姿を眺め、ある時は声をかけ、ある時は手まねで合図する。一度下りる時便器をひっくりかえして大さわぎして片付けたことがある。これは二、三人の同志が、私同様ひっくり返したと言っていた。
◇狂い行く同志たち
佐野、鍋山の転向問題はずっと後になって発表されるけど、転向問題が発生したのは、一九二九年の十月頃からであった。この転向問題を私はレポによって知った。三・一五事件の大幹部佐野、鍋山の外、水野成夫、村山藤四郎、三田村四郎、南喜一、浅野晃なども転向を始めたのである。
伊藤千代さんは浅野晃氏との長い間の恋愛が実を結び、結婚し、共に日共の組織化のために闘い、身を捧げて二人とも獄中にあった。最も信頼した夫浅野晃は自らの転向意見書を千代さんと読む事の許可を求められたらしい。千代さんは度々網笠をかぶって出廷されるようになった。彼女は私より大柄で、顔はまるで観音様を思わせるような静かな深い眼差しである。長野県出身で早く父母に死別し、祖父母に育てられたと私に語った。何度目か読みに行ってから、帰って来て彼女は私に言った。「今、日共中央部は敵と大きな取引きをしているのよ」と。
清家齢さんは著書「伝説の時代」一五九頁に、「過日私達が転向派を攻撃したとき、伊藤は、それは敵のデマだと言って夫浅野晃を弁護した」と書いている。彼女はデマであれかしと思ったに違いない。
獄中の暗い音一つない朝も未だ明け切れぬ空気を破って、突然彼女は私の隣室で叫んだ。「天皇陛下万才―」と。その声はひびきわたり、長くいつまで続くかわからぬほど長かった。私も、そして全同志のすべては驚愕した。「お母さん―」とも叫んだ。「ああ狂った狂った」と踊り上るようにはじあいだ(はしゃいだ)声が聞える。上田看守長がかけつける。取締がバタバタとかけつける。次の日から、彼女は着物をぬぎすて全裸になって狂い廻っているらしい。そして、「チッチッチーのチパッパ」「パッパッパーのチッチッチー」とリズムカルな調子で独房中をおよぎ廻った。私は隣の部屋だったから一番よく聞える。
ついでながら再び言うが、私達政治犯は一部屋おきに入室していた。隣であれば壁を叩いて暗号で連絡することが出来るし、ひそひそと話も出来るだろうとの隔離政策からか ―― そんな政策はすでに述べたように失敗しているが――私と千代さんの間には、放火の疑いで入所している二十歳位の婦人がいて、「オトヒメサマ」と言って、いつも私を苦笑させた人のいた事はすでに書いたが、彼女は千代さんの激励によって無罪放免となっていた。千代さんとはこういう心温かい思いやりの深い同志であった。
千代さんは、十日も隣々室で狂い廻った。夜もなく、昼もなく、「チッチッチーのパッパッパ」に続き、色々とリズミカルの音を発し続けた。私はうろたえ、胸は迫り、食事ものどに通らなかった。保釈にもならぬし、引き取り手もなかった。同志よ!どんなに苦悩しただろう。誠実であり純心そのものであり、日本共産党を信じていただけに、夫浅野晃の転向が彼女を引き裂いたのだ。私はどうしていいかわからない。婦人の看守が私の房をのぞいて、「夜眠られぬだろうから、昼も寝ていていいよ」と言ったりした。年取った看守は私の房に来る時、急ぎ足で「タツタツタ―のチッチッチ」と千代さんのリズムをまねたりして来た。私の神経は一つ置いた隣りの千代さんの動きに集中した。彼女は食事もしなかった。便もたれ流しであった。時々看守が来て、水で身体をふいたり掃除をしたりして大騒ぎをしている。日に日にやせ狂い果てて行く彼女を、音に思い、その声に思い、私も日々に衰弱して行く。
十日も経ってから彼女の房の扉が開いた。看守が三人で彼女を何処かに連れ出すらしい。キヤツキヤツとはしゃぎながら、千代さんは私の部屋の前に立った。「おとよさ――ん」と叫んだ。私は思わず、窓に走り寄って彼女を見た。顔は青ざめ、目はつり上って、彼女の元の面影はどこにもなかった。その異様に光る目を見た時、私は思わず飛びのいてふるえた。「おお、この鉄の棒の呪いの扉があったからよかった。若し無かったなら、彼女は狂気のまなこで、私に飛びつき、かきむしるに違いない」との恐怖心が、私を飛び去らせたのだ。彼女が看守達に抱きかかえられるようにして連れ去られたあと、私は泣いた。何という非情な私の態度であろう。何という耽知らずな同志に対する裏切りであろう。どうしてこの時、鉄の棒のはめこんだ窓の間から手を差しのべ、「しつかりしてね」と彼女の手を握りしめなかったであろう。彼女は私の名を呼んだのではないか!
松沢精神病院におくられた伊藤千代さんは、この年の冬肺炎になり、死の直前に夫の浅野晃氏が許されて二、三回面会が出来た時は正気に返っていられたとの事を、数年経ってから風の便りで聞いた。しかし、とうとうそのままそこで死んで行った。
私が千代さんに対してとった残忍な態度に生涯の悔を残した。狂い行った千代さんのことについて寺尾齢は(当時は清家齢)その著書「伝説の時代」に書いている。一六〇頁。
「彼女はハアハア息をはずませながら、私の房の前に立ち止まり、ドンドンドンとはげしく戸をたたいて「清家さん、頑張ってね、しつかりやって項戴」と早口に言ってまた走り去った。必死になって彼女の投げたこの言葉!狂った中にもなお一すじ残る正気!満潮の中にまさに没し去ろうとする岩角にも似た最後の正気!私は泣いた。飛び出して抱きしめてやりたかった。一緒に泣いてやりたかった。そうすれば正気をとりもどすことが出来たのではあるまいか?私は今でも残念に思っている。これが彼女から聞いた最後の言葉であった。」
齢さんの温かさ!誰に対しても大きな心をもって温かく迎え入れる人格が、誰からも「清家のおばさん」として慕われた。私に対してもこの深い愛情が、労農党時代、そしてレポの時期、入党してからの細胞活動の時期、いやその前日本女子大の四年間、親身の姉であり、血肉を分けた同志として私をかばい、いたわり、面倒を見させてしまったのである。
伊藤千代さんが病院に移ってから、隣室に橋本菊代さん(現在山本正美夫人)が引越して来たように思う。
(注)私は最初から病舎におり、伊藤千代さんとは発狂前、転向問題についても話を交わしている。(山本菊代)
橋本菊代さんは低い声でこう言った。「おとよさん、若し私が狂ったら、『あんた狂っている、駄目じやないか!』と叱って項戴」千代さんの壮絶とも言うべき狂いかたが、どんなに大きな衝撃を全婦人党員に与えたかが、日頃頑強な菊代同志にさえこういう言葉を吐かせている。
◇齢さんとの始めてのけんか
私は度々清家齢さんとの同志的愛情のことにふれた。学校時代、労農党時代、いつも二人は揃って歩き、人を訪問する時も連れそって歩いた。「齢子さんはいつもお供を連れている」と冷かされたりした。齢さんの意見にはどんな問題にも従った。口答えなどした事はなかった。まるで王様の前の従者の如きものであった。ところが、もう年も押しせまる十二月の末頃、齢さんから「レポ」を受取った。そのレポには、まことに納得のゆかぬ事が書かれている。
「君は何もかも黙否している。そのために吾々の予審は進まず、保釈願を何度出しても却下されるばかりだ。君のような態度は、公式主義というものだ。(警察や検察に)大きな事は言うべきではないが、小さな問題については言って貰いたい。君は一度も予審廷にも出されず、教かい師もたずねて行かない。吾々は予審を早くすまして、一日も早く保釈になって再び闘いの隊列に参加すべきである」と。
こういう理論はどうであろうか。今から考えるなら、これこそ柔軟な戦衛であったかも知れない。しかし私は、納得しなかった。「大きい問題とか小さい問題とは何処で分けるのか。皆一つに関連している問題ではないか。君の言う事は、納得が行かない。君は亭主が保釈になっているので、早く出たいばっかりに、そういう馬鹿な事を言っているのではないか」と返事を書いた。
彼女は怒った。「よくもよくも言ったものだ。問題をあらぬ方にゆがめて、人の真意を少しも汲もうとしない」と返事が来た。しかし大らかな彼女は、その後は私の硬直な態度にあきらめたのか、その事にはふれず、よくやさしい「レポ」を寄こした。
◇私の転房
連絡と団結の武器である鉛筆の心を入手してから、私は調子に乗って毎日書いて散歩の時、ダリアの木の根本の石の下においた。伊藤千代さんが転向問題で心を引裂かれて狂い、病院に連れ去られたから、転向に対して激しい怒りに燃え、「転向のあるべからざる理由」を書いた。天皇制の問題が転向の重要な観点であると聞いたから、「天皇制打倒」の正しさについて書いた。その理論たるや魂の叫びの情感だけで、全く幼雅な理論であったに違いない。血で書くべきだと思った。品川署にいた時、西村祭喜氏が血のレポを下さった事を思い出したからである。そしていつものように、ダリアの石の下に埋めて、知らぬ顔して運動の時間を終え、房に帰ったのである。しかし、どうした事であろうか? 私はその日の夕方、厳重な室内の検査をうけた。「手を見せなさい」と。かみ切った指のキズが決定的な証拠となって、すぐ転房になった。なぜこのレポが看守に発見されたのか、そのなぞは今でも解けない。レポの事については看守達は、何一つ問わない。不思議なことである。しかし私はレポを取られた事を感得したのであった。それは上田看守長の温情主義、クリスチャンである彼女は上部にもらさず、自らの責任において処理したものであろう。私は看守らのたむろしている机の近くの大きな部屋に移された。天井は大い丸太が数本走っており、畳は十二畳位であった。廊下を隔てた同じ大きさの房は、五人とか七、八人の雑居房であり、一般の既決囚がいて、ガヤガヤと話し声が聞える。その度に看守に怒鳴られていた。
思い出すがここにいる時、同じ四・一六で逮捕され、秋田の刑務所にいる、郷里鳥栖市出身で、彼の早稲田時代からの私の友人である安原謙市から幾度か親愛なる手紙を項いて、私も返事を書いた事がある。
またある日面会があるというので面会所に出たら、与田徳太部氏の妹さんという事であった。そう言えば、私が大崎署での惨虐な拷問に耐えていたとき、与田氏も同じ大崎署にいて、ソ連のクートベ*から帰って間もなく逮捕されたと彼は私に話した。ちょっと小ほどの色の白いまだ若い青年であった。彼は私に対して温かい目差しで便所に行く度に合図してくれた人である。この彼が妹を私に面会に寄こして下さった。何と感謝していいかわからない。
冬が近づいて来た。刑務所の冬位つらいものはない。朝から夜までガタガタとふるえた。この房に移ったら、遠くの方から「東京行進曲」のラジオの歌が聞える。世界恐慌はニューヨークのウォール街から始まり(いわゆる暗黒の木曜日 十月二十四日)世界の資本主義をゆるがしている。日本では大山郁夫氏が再び新労農党を柴協調会館で結成したが(十一月一日~二日間)、日本共産党は、コンミンテルンの一支部として、社会民主主義はファツシズムであるとして、反対声明をしたという事を知った。
*クートベKUTV Kommunisticheskii universitet
trudyashchikhsya Vostoka 東方勤労者共産大学。1921年スターリンの発意で、アジア諸国の労働者・被抑圧民族解放のための共産主義運動の指導者を養成する目的でモスクワに設立され、1932年まで存続した。日本人も数十名が学んだ。
◇森田京子さんのこと
大部屋に移ってから間もなく、一つ隣りの入口に面した部屋で泣き声が聞える。ああ森田京子さんだ。東京女子大出身、一体どうしたというのであろう。
京子さんと言えば、レポーターの時期に逢った時、チリメンの美しい訪問着を下さった。「どうせ金に困るだろうから、その時はこれを売って運動費の足しにして項戴」というのである。そして付け加えて「私の家は大きい商家で金があるから、こんなものをどしどし送ってくるの。そして『これを着て写真とって送って寄こせ』と言って来ます」と言う。私は着たこともない目のさめるような着物を貰った。そしてやがて金に困り果てた後、彼女の意志通りに金に替え、メシを食い、旅費に使ってしまったのである。
その京子さんが、党の大幹部三田村四郎のハウスキーパーになっていた事を獄中で知った。毎夜シクシクと泣き、「四郎さん、四郎さん」と言う声を聞いて、何ともたまらない。齢さんの「伝説の時代」一六二頁、三頁には、森田京子さんの事について次のように書いている。
「『ここの方が松沢(病院)よりどんなにいいかわかりませんわ』聞き覚えのある声に私は耳をそばだてた。看守に話しかけているのは森田京子である……『四郎さんに逢わして下さいな』と看守にたのんでいる声を聞いた時、事情をよく知る私はほんとに辛かった。彼女が三田村に信頼と愛情を傾けて仕えていることは、街頭で時々逢った私にはよくわかった。だから検挙されたのちも、野蛮な拷問によく堪えて、頑張れたのである。
三田村に久津見房子という妻のあることを全然知らなかった彼女が、捕えられてのちにそれを聞いてどんなにおどろきかつ悲しんだかは思って見るさえ切ない。口惜しさと屈辱にもだえぬいた森田が、誰に訴えようもない苦悩の底でなお断ちがたい三田村への愛情に一人でのた打ちながらじめじめとふさぎこんでしまった。
『四郎さんはどうしているでしょうね』か細い声が独り言をするのを私は度々聞いた。」
森田京子さんのことについては、この「伝説の時代」の齢さんの記述に尽きる。間もなく京子さんは市ヶ谷刑務所を出て行った。その後の消息は今日になっても聞かない。只風耳によると、教かい師によってある保護司と結婚したというが、真偽は定かでない。
◇風呂の中でのレボ交換
私は血のレポが看守に取られてから、運動時には厳重な警戒がなされた。運動時でのレポ交換は無理だと考えるようになった。どうしたらもっと確実にレポ交換が出来るか頭をひねった。その結果、私は思いついたのである。そうだ風呂場がある。風呂は一日置きに入浴する。経験では浴漕の中のすみに木の栓があり、それが布で包まれて、その布はヒラヒラと栓の周りに浮いている。これを利用しよう。レポはチョコレートを買って銀紙に封じ込め、タオルの糸を抜いて巻きつける。レポは石験箱の下において風呂場に行き、湯に入った時ヒラヒラの布にまきつける。
勿論一人の看守が見守っているのである。レポを持って行く度に渡すべき人の房の前でセキを一つする。「今からレポを置きますよ」との合図である。次の人がそれを無事に入手した時は、セキを二度する。「成功々々」との合図である。この事を私は詳しくレポに書いて、全員の同志に伝えることが出来た。
齢さんの「伝説の時代」には、この方針を考え出したのは「西川露」となっている。この本の発行された(一九六〇年六月十日)のち、私は齢さんに逢うためにわざわざ福岡から上京した。「伝説の時代」という題は、出版社の未来社が付けたと言った。その時このお風呂でのレポの考案者は「おとよさん、あんただったね」と言った。その時は(齢さんは)寺尾五郎氏夫人となっていた。
◇ロシア革命記念日
いよいよ十一月七日が近づいて来る。風呂に行く方向に中本たか子さんがいた。山本菊代さんによると、下田富美子さんではないかと強調するが、今となってはよくわからない。私は彼女に決行と時間とを連絡したら、数日おいて返事が来た。「勝利した兵士よりも敗れた兵士を、母はこよなくいとほしむ」から始まる文学的な名文を今も忘れない。「そしてデモには参加しない」と結んであった。デモは起床のサイレンを合図に決行することにしてあった。前にもちょっとふれたが、服役者の起床のためのものは小さく、大きなサイレンは未決囚への起床の合図である。これが決行の時間である。ところが最初の小さなサイレンが静かに鳴った時、どこかの部屋でかすかに歌声が聞えた。あつ!まちがえている!しかし放ってはおかれない。こうした情勢の中にレーニンの教えをすぐ思い出した。「戦艦ポチョムキン」の反乱に対してとったレーニンの方針であった。レーニンはポチョムキンの反乱は敗北することはわかっていても、それを支援したではないか!間違えた彼女だけを放っておいてはならぬ。共に立ち上って参加しなければならぬと思った。そこですぐ窓に立ち上って、出来る限りの大声で私も革命の歌を和した。全同志が満身の怒りをこめて和した。
①同志よ固く結べ 生死を共にせん
いかなる迫害にも あくまで屈せず
我らは若き兵士 プロレタリアの
②惨虐の敵すべて 地に伏すまで
真紅の旗を前に 闘い進まん
我らは若き兵士 プロレタリアの
この「ワルシャワ労働者のうた」の文句のように、惨虐の敵の前に同志が固く結び生死を共にする以外、真紅の旗を押し立てて進む以外に吾吾は打ちひしがれるばかりである。何というすばらしい精神的な高揚と感激。ロシアの革命の戦士たち、全世界のプロレタリアも、今日この日切り開かれた社会主義を祝っているに違いない。吾々は胸を張り、足をふん張って歌う。そして
日本共産党万歳、ロシア革命記念日万歳
と全員で絶叫した。そしておこる一斉の拍手。この歌は全館をゆるがし、遠く離れている男子の監房にまで聞えたとあとで聞いた。(以下次号)
私の獄中記(4)―非合法時代の回想ー(遺稿)西村桜東洋 労働運動研究 1984年2月 No.172
◇ロシア革命記念日(続)
吾々は目的を果した。全同志の団結と意気高揚、獄中でくじけないで最後まで闘う決意の目的を果したのである。私が革命歌を絶叫している時、あわただしく一人の男子の看守が剣をふりかざし、扉を開けて浸入し、「止めないか!」「止めないか!」と迫って来た。私は広い部屋を逃げ回りながら、歌声を止めなかった。全同志も私同様にやられたとのこと。敵といえども団結の力にはかなわない。亢奮の中に、やがて朝食が済んだら、一人一人廊下の戒護主任の前に呼出されて、懲罰を言い渡された。最初に清家齢さん。「何故やった。悪と思わぬか、規律違反だ」との声が聞える。それに抗議している齢さんの声も聞える。彼女は首謀者と目されて「懲罰読書禁止三十日」と一番重い。西川露子二十五日、西村、橋本二十日。あとはそれぞれ十五日、十日位であった。
西川露さんが言い渡された時「読書禁止二十五日西川露」と大声で叫んだ。それから後は西川さんにならってそれぞれ叫んで房に引上げたのである。この点について齢さんは「伝説の時代」の一八六頁に、「このことは予定の行動である」と、まるで最初から打合せたかのように書いているがそうではなかった。その時の瞬間の彼女(西川露子)の創意ある模範的な行動であった。
言渡しが終ると、看守が雑役を連れて書籍類と机を持ち去った。勿論覚悟していた事であったが、懲罰は案外に軽かった。減食とか懲罰室に叩き込まれる事もなかったから。当時私は、ロシア語を勉強したいと思って本を買い、ロシア語の初歩から勉強し、小学校六年級位の本を読んでいた。兄が差入れた林芙美子の「放浪記」の初版を差入れたものも持っていた。そんなことを覚えている。
思えばこのロシア革命記念日のデモの中心は、四・一六事件の人々が中心であった。三・一五事件の渡辺多恵子、波多野操、野坂竜、田口つぎさん達は、それぞれの理由で保釈になっていた。野坂竜さんについては思い出がある。彼女は私が入所する時は、この今私のいる大部屋に入れられたが、間も無く保釈出獄された。一度私が運動中、(野坂が)窓から顔を出されて、言葉を交わした事がある。レポーターの頃、中央部のレポーターは、この竜子さんと喜入虎太郎の弟(当時帝大在学中)と私の三人であったから、とても印象に残っていた。竜子さんは、私より前の三・一五事件後の中間検挙といわれる事件で検挙・留置されていた。竜子さんとは三・一五事件後、竜子さんは夫野坂参三さんへ、私は夫関根悦郎へ差入れのため、市ケ谷刑務所近くにあった救援会の事務所に行った時、六木本で電車で下りて歩いていた途中、偶然同行した。歩きながら竜子さんは、私の白足袋が黒くよごれている足元を見て、「白足袋ならいつも清潔に、真白にしてはくものですよ」と注意され、私は赤面した。それほど竜子さんは、私に親しみを感じて注意なさったのではなかろうか。やがて保釈出獄されてから、誰も同じ道であるが、苦難な道がよこたわる。参三さんと敵をだましてソ連に逃れ、参三さんが中国革命を支援して延安に行かれた時は別れ別れに過し、日本の敗戦後ようやく虐殺された岩田義道氏*の愛娘ミサゴさんを連れて帰国され、再び日本共産党の戦線に復帰された。闘いの人生は全く平坦な道ではない。
*岩田義道1898.4.1—1932.11.3, 1932年10月30日特高に逮捕され、拷問によりその4日後に死亡した。
この市ケ谷刑務所にいる婦人同志達の前途は苦難に満ちていた。私は革命記念日の闘いが終り、読書の時間を取り去られたため、ただ風呂の中でのレポに専念した。私の身体はあの悲惨な拷問に弱り、ここの獄中の寒さにふるえ、日に日に衰えて行った。運動に出ても目まいを覚えるようになり、かがみ込んだ。風呂に行っても、一度はいきなり倒れて人事不省となり、見張りの看守から水をかけられて気がついたりした。何もする事がなければ思いは自ら過去に溯る。折られた左の足の中指はまだ痛み続けた。セキが出て、熱が出た。しかし気分だけは未だ十分であると思っていた。死など考えても見なかった。齢さんからも時々血を吐いているという便が来る。田口つぎさんが保釈される前、私が風呂に行く途中、扉が開いて看守が二人ばかりいるので、ちょっと見たら洗面器に多量の血がはいっていた。ああ田口さんも結核でこんなに血を吐かれたかと驚いた。この人は群馬県出身と聞いていたが、その後どうなったのであろう。
私は静かに反省する。栄光ある日本共産党に入党し、天皇制の権力を打倒して人民がその荷ない手になるには、このような度重なる弾圧に党が壊滅状態になったのは何故だろう。私は未だ「二十七年テーゼ」など読んでいなかった。読んだ処で正しく理解できるほどの革命的理論は幼稚であった。私は労農党時代、レーニンの「国家と革命」を夜通し眠らないで読み終えた際ひどく感動し、世界の革命方式や、世の中が解明されたように思って朝明けの空をながめた事がある。またスターリンの「レーニン主義の基礎」は必読の書と言われて読んでいた。しかし何程のことであったろう。若い燃えさかる心があっただけであった。
私の反省はつづく。そして私は一体何をやったのだろう。何の組織的能力もなく、理論もとぼしく大衆も知らない。まだ浜松町車庫細胞も準備会で、一人も入党させ切ってはいない。この人達を守るため、上部を守るため、党の方針に従い、死を覚悟で闘ったのみである。婦人同志の中にも脱落者が出、男子の指導者の中にも転向者が相次いで出ている。私の夫である関根悦郎も、水野成夫によって転向し、すでに保釈で出所していた。山宣も殺され、小林多喜二も虐殺されている。渡政もキールンふ頭で殺された。日本共産党の栄光に包まれて死んでいった。私もまた治安維持法のために命を落そうとしている。思いもかけぬ光が私を包んでいる。若し生命あって世に出ることがあったなら、今度こそ労働者や農民の中にどろんこになって共に闘おう!共に闘おう!と私は何度も思い自らに誓った。
◇私の保釈
齢さんは「伝説の時代」に書いている。
「私たちが市ケ谷に来てもう一年と数カ月が過ぎた。二度目の新年が目前に迫ったとき突然西村桜東洋が病床に倒れた。やはり結核である。病勢の進行がとても早く、暮には危篤の状態に陥った。そして十二月の終り1930年12月に保釈で出所した。私には学生時代から苦楽をともにして来た西村である。『どうか死なないでくれ』と祈らぬ日はなかった。」(一六八頁)。
私は運動に出たとき急に目まいがして倒れた。身体がとても熱い、驚いて看守は私を房にかかえ込んだ。「熱は四〇度あります」と体温計を見て看守はいい、すぐ医者が来て診察した。看護人として既決囚の三十歳位の婦人が、水で私の頭を冷している。何度も何度も水をかえ手拭を頭にのせてくれた。この婦人は姦通罪で半年の刑でここで作業していたといって、詳しくその事情を話した。
私はもう息をするにも苦しかった。食事ものどに通らなかった。ところが十日も経たぬ中に、外から小川博士という人がやって来た。兄が頼んだらしい。「二カ月は持たぬ」との診断で、急に翌日保釈となった。
動けない私を、両方から看守が抱え込んで門口に待っている自動車に乗せた。私は苦しいがタオルで鼻と口を包んでいた。そして小川病院へ入院だと同乗していた兄が言ったが、私はクビをふり入院はしないと言う。仕方なく兄は下落合にある借家の離れ座敷に私を寝かせた。
医者が来た。注射をされる。薬をのまされる。しかし私は吐く息の苦しさ、すい込む息で胸が張り裂けるようだった。
「ああ、どうかして頂戴、苦しい苦しい」とかすかにうめいたが、どうすべき方法もなかった。私は静かに息を吐き、静かに息を吸って、ああ一つ終った。そして一日胸の裂ける苦しみと高熱にうなった。もううなる力もなくなっていたかも知れぬ。
こんなに苦しみながら「死」を一度も考えなかったのは不思議である。毎日医者が来て薬を置いて注射をして行った。
十日も経ったら兄と関根は近くに借家のあるのを見付けて、私をそこに移した。そこには関根とその母と救援会から派遣されて来たという田中うたさんがいた。
私はここでも高熱が去らず、三日おきに私を抱えて次の新しい敷布団に移すのだが、高熱のため畳がじっとりと黒くぬれていた。私はうなされ、息ができぬほどの胸の痛みはここでも続いた。
◇安田徳太郎博士
私の吐く息つく息の苦しさを今思って、健康であることの幸せを、空気のあることの幸せを、一番知っているのは私かも知れぬと思い、時々人に話すこともある。
この家で、安田徳太郎医学博士が救援会から派遣されたといって診察をされた。そして処方センを書いて、薬局で買いなさいといわれた。そして言われる事には、「私は共産党員を診察し治療することはとても名誉と思っている。私は未だかつて、診察した患者を一人として死なした事はありません。あなたは私の手にかかった事は幸いです。必ず全快しますよ」と。何という仁術であろうか、まさに医は仁術である。しかし私の病状は少しもよくならなかった。
ある日兄は、漢方医のやせた威厳のある老人を連れて来た。この医者は生きたマムシを新聞紙の上に箱から取り出し、メスで切り裂き、心臓を取り出して水で飲みなさいと言う。マムシを逆さにして血をコップに出して、水で薄めて飲ました。そしてヘソの両端にマムシのドクを注射した。殺したマムシは「二寸位に切って火鉢の火であぶって串に刺して干してよくかんで食べなさい」と言って帰った。関根の母は火を起してあぶっていた。二、三日したらまた来て、今度は同じ事をし、ヘソの上下に注射した。「これで大丈夫でしょう」と言って帰った。
二、三日したら私の高熱は次第にとれ、胸の苦しみもなくなり、息もできるようになった。何という不思議さであろうか。兄は私の回復して行く姿を見て、「兄さんの月給の二カ月は支払ったよ。新聞社の同僚が、『妹さんが死んでから葬式などで金を使うより、僕が紹介するから生きている中に試したら後悔しないよ』と言ったので頼んだ」と話した。
ちょうど四十日目に私は床の上に起きて座ることができた。安田博士はその後も診察に来られたが、私が回復して行くのを大変喜ばれた。勿論、マムシの注射の話はかくしていた。
ついでに安田徳太郎博士の事にふれる。敗戦後私は、徳田・志賀両氏のいる自立会館に行った。そこで安田博士と再会する。十五年と七カ月が経っている。安田博士は私を見て非常に驚かれ、次のように話をされた。「西村さんを診察したとき聴診器にラッセルの音が今まで聞いた事もない位激しく響いた。あの時位驚いた事はなかった。あ、もうこりゃいけないと思いました。あれから何十人の死亡診断書を書いたかわかりませんよ。あなたはよく生きましたね」と、私は厚く感謝の意を述べた。
明けて一九三〇年となる。ようやく温かい日射しになった頃、私は起き上る事ができ、車の通らぬ平たい道に春の陽光を楽しんだ。その時伊東光次さんが兄の家によって、私の家に見舞に来られるのに出会った。「お!オトヨさん」といってぽんと肩を叩かれた。名古屋にいる姉の弥生が、私が死に直面している事を知らしたので、見舞に来たという事であった。佐賀県の鳥栖市轟木からわざわざ見舞って下さった。そして「金も入ろうからと思って、土地を少々売って持参した」といって関根に渡された。その金額はいくらであったか、彼は私には語らなかった。
伊東さんは私の兄丁一の早稲田大学の後輩で、関東の大震災(1923年九月一日)の少し前の五月に、早稲田の軍事研究団の発足に反抗して退学になり、直ちに郷里へ帰って日農佐賀県連合会を結成し、重松愛三郎を会長として迎え入れ、あの有名な基山の大小作闘争を闘った勇士であった。一カ年半の刑を終えられ、そして私を見舞って下さった。その後の友情は、彼が八十二歳で一九八二年三月二十八日に死ぬまで続くのである。
是技恭二氏が見舞って下さった。三・一五事件で逮捕され、結核になって保釈になり、これから郷里の鹿児島に帰るという事であった。「なーに、結核なんて胃病と思っていればいいんですよ」と笑っていられたが、帰郷されて数年の後死亡されたと聞く。
*三・一五事件で逮捕された是枝恭二氏が結核で保釈になり、郷里の鹿児島に帰って数年後死亡したとなっているが、事実は、是枝氏は三二年1932年保釈を取消され、その後下獄して獄死している。
◇清家齢さんの保釈出獄
一九三一年六月中旬頃、齢さんは保釈出獄して私を見舞った。この事については、齢さんの「伝説の時代」一八一頁に次のように書いている。
「自分の体に自信ができた私は、下落合で病気を養っている西村桜東洋を見舞うことにした。(電車を下りてから―筆者)歩いて三十分ほどで行けるので、ボツボツ歩いて行く。私の顔を見るなり関根の小母さんが「マア清家さん!」と信じられぬような顔をした。座敷で寝ていた西村もおどろいて、「とし子さんは相変らず強引だナア」といいながら、うれしくてたまらぬ表情、「桜東洋さんの体とは出来が違うよ、だが要は精神力さ」と私が一寸得意な恰好をして彼女の手を固く握った。火ばしのようにやせた腕が痛々しい。西村はまだやっと床の上に坐る程度の容態なのだ、二度も危篤に陥ったのだから無理もない。話は一別以来のことではずむ……」
ここに寝ていた頃は世界がゆれ動いていた。中国革命は進展し、「李立三」の批判が展開されていた。インドのガンジーの無抵抗運動などが私の耳にはいって来る。私が保釈になったちょうどその頃、一九三一年一月十二日は、いわゆる「非常時共産党」が風間丈吉を中心にして岩田義道・紺野与次郎の指導で、最大な党組織が闘争を展開していた時であった。そして齢さんが初めて私をたずねて来た頃(1931年五月十七日)には、風間委員長が「日共アッピール」を出して「一万人党員獲得のために大胆に大胆に、もう一度大胆に!」と呼びかけられた。
私の獄中記(5) ―非合法時代の回想― (遺稿)西村桜東洋 労働運動研究 1984年3月 No.173号
◇松尾茂樹氏が関根との離婚を(私に)迫る
関根はその当時○○とかの新聞社につとめていた。そして僅かな月給をもらっていたに違いない。松尾茂樹氏は時に顔を出した。私が床に起き上っていた時、松尾茂樹氏は私の近くにすり寄って、「関根君は、水野成夫にすすめられてすっかり転向している。関根君と君とを結婚させたのは自分である。結婚後一週間も経たぬ中に三・一五事件がおきて、二人の結婚生活は浅い。転向者と結婚していることは、共産主義者として恥ずかしいと思わぬか。もう離婚しなさい」と迫った。
私はいう。「今こんな病気である。関根もその母も一生懸命に私を看病してくれている。離婚したとて何の効果もない」とはねつけた。松尾氏はだまって帰った。
齢さんも転向した夫、清家敏佳との離婚が迫っていた。私は今にして思うには、どうしてこの時松尾氏の説得を承知しなかったのだろう。この時きっぱりと決意さえしておけば、十二、三年後におこる関根との確執と悲劇と苦痛、人々からのザンボウ(讒謗)に堪え難い苦悩を味あわずに済んだものを!人は勇気ある決断が必要である。
三・一五、四・一六の合同公判は、(1931年か)六月二十五日から開かれることとなっていた。その前、検事は書記を連れて下落合の私の寝ている部屋にやって来た。その時は私はまだ声も出ず、熱もあった様だ。検事は聞く事に頭を振ったりうなずいたりするだけでよいと言って色々と聞くが、私は入党していた事実だけは認めた。そして次の様に(私は)書いた。
「余命いくばくもない命、今後は養生専一にして、もはや運動などはいたしません」と。
この事は後から齢さんからも、同志のH氏からも、「転向だ」と叱られるはめになるのである。(しかし)齢さん(自身も)は保釈になった理由について、正直に次のように書いている。(一七九頁)
「保釈を決意した。戸沢検事あてに上申書を提出した。
一、私は今後数年間運動に携わらぬ。
二、出所後は母と共に郷里に帰って静養するつもりである」と。
熱海事件がおこった。(一九三二年十月三十日) 松尾茂樹さんは多くの同志が逮捕されたといって、下落合の私の寝ている前の縁にうつ向いて考え込んでいた。私はおろかにも「誰が検挙されたの?」と聞いたら、「君は知らぬ人ばかりだ」と言った。関根は彼が帰ったあとで、「松尾君はやっている仕事が重荷なのだろう」と一人言を言っていた。
この松尾茂樹氏に、田中清玄時代の婦人活動家の片山政子さんを紹介し、結婚させたのは私である。それから湊七郎氏と、田中清玄時代の国松てるさんの仲人をしたのも私であった。そしてこの二組の夫婦も、苦悩の道、人世をわたって行く。
一九三三年が明けると、私の病気も少し落ちついて来た。名古屋の長姉知和は私より十歳年上であったが、三重県四日市の手前富田ケ浜にある霞ケ浦という海水浴揚に別荘があるので、そこでゆっくり養生するようにと申込んでくれた。私は喜んで感謝し、齢さんは郷里宇和島に帰って清家氏と逢い離婚することになるだろうからというので、(齢さんと)二人で東京駅から汽車で出発した。時に私服が二人ついて来た。まだ監視の必要があるのか?
数日間名古屋にいた。その間次姉弥生は夫小川友助氏に頼んで、名古屋の医大に二人で私の病状を診察するために連れて行った。診察の結果がとても治癒の見込みがないという事で、小川夫婦は心を痛めて「どんな馳走でもする」からと言って、大きなビフテキや色々と注文して並べられても、私の食欲は少しもなかった。
名古屋の百人町の長姉の家に帰って私は「一ケ月位しか命はなかろうと言われた相な」と言って涙を流した。長姉は「一ケ月の命があれば、又一ケ月生きられる、一生懸命に養生しなさい」と言った。次姉の弥生は「山川菊枝さんはあと一日しか命がないと言われながらとうとう病を克服して、今も元気で生きていられるではないか!私は小川が僅かな給料で金がないので、この身体であんたの介抱をしよう」と言った。そこで小川夫婦と一人息子の洵(ヒトシ)がようやく四歳位になっているのを連れ、清家齢さんと五人で富田ケ浜の姉の別荘に向った。
◇私の闘病生活
姉はすぐ農家に頼んで厚い藁布団を作り、その上に私を寝かせ、心から温い看病をしてくれるのである。齢さんはすっかり元気になって、小川兄と二人でよくツリに出かけたりした。間もなく、彼女は宇和島に帰って行く。この間のことは、(「伝説の時代」の)一八四頁から一八六頁に詳しく書かれている。私が大崎署で受けた拷問の後遺症は、こうして十二年間(1929年から1941年か)の肺結核との闘病生活として続けられた。中国への日本帝国主義の侵略戦争は、いよいよ本格的になり、前文でも書いた満州事変(1931年九月十八日)がおこる。ここに養生中にも、四日市署の警官が一週に一度は様子を見に来た。その当時は結核の薬などはなかった。自然療法といって、空気、安静、食生活の三つが示されていただけである。
私が海岸を散歩し、カキをくだいて食い、早朝漁師が引いた網の目からこぼれ落ちた小魚を拾ったりするようになった頃、一年もすぎて姉夫婦と洵はもう一人でも大丈夫と言って名古屋に引上げて行った。私は一人になって、ショーロホフの「静かなドン」とか、レーニンの本を読み続けた。そして孤独感に一度も落入ることはなかった。名古屋の三菱商事会社につとめている義兄の松本からは、風呂に炊く石炭が一トンも送られて来たし、「スッポンのスープ」など送って来た。長姉は一ケ月に二回必ず見舞に来た。両手に持ち切れぬ程の食糧を持ち、電柱の一つ一つで休んだと言って、「もう桜東洋は今度こそ一人で死んで、死かばねとなっていると思ったりして来たよ」と言って、各部屋を掃除し、洗濯をして、帰って行った。そして毎日、雨の日も風の日も、新聞を送ってくれた。一日も絶えることはなかった。こうした規律性(規則性)と辛抱強さが、この姉にはあった。
ここにいる当時は関根は下獄中であった。明けて一九三四年(昭和九年)の二月となった。ここで新聞で皇太子の生れたことを知った。私はようやく外にあるポンプ井戸で洗濯しようとしていたとき、隣りに竹ガキのかこいがあって、広い家敷の中に一家があり、桃の木の手入れをしていた老人がいて、○○会社の重役との事であるが、この老主人も「御目出度いことですね」と言ったことを覚えている。そして翌月三月一日、日本帝国主義政府の斎藤実内閣は、満州国を正式に承認し「満州国は日本帝国の生命線、国防の第一線」などとほざいていた。(1932年3月1日、満州国建国宣言、1934年3月1日、皇帝溥儀が即位)
◇兄丁一の死
一九三三年三月二十七日、日本帝国主義の斎藤実内閣の外相松岡洋右は、ジュネーブの国際連盟で日本の満州からの撤退を要求されて国際連盟を脱退し、その記者として兄丁一はジュネーブに報知新聞の報道記者として行った。この事は先にも書いた。日本の満州にいる関東軍は直ちに中国の万里の長城を突破して河北省に侵入する。いわゆる日本帝国主義の「十五年戦争」は三年目となった。日本におけるファッシズムはいよいよ露骨となり、1933年四月に滝川京大教授の逮捕事件がおこり、日本共産党を粉砕するため治安警察当局は内部にスパイ政策を取りはじめた。*そして六月九日(1933年6月10日)、佐野(学)、鍋山(貞親)の転向声明(共同被告に告ぐ)が、マスコミに大々的に発表された。
*(注) 自由主義の法学者滝川幸辰教授は「赤化教授」として京都大学を免官になったが、逮捕はされなかった。
また日本共産党に対する治安当局のスパイ政策が、一九三三年ごろからはじまったとするのも筆者の誤解である。前年三二年十月末にはスパイMによる「熱海事件」がおこっている。
私はこうした事を姉のおくる新聞で知った。兄は四月中旬ジュネーブより帰国した。私を看病していた姉弥生も名古屋市にいる姉知和も、名古屋駅で兄の帰郷の汽車をホームでまって無事を祝ったのである。帰宅した姉弥生は、片手一杯の色とりどりの宝石を兄から土産にもらったといって、私にも半分分けてくれたが、その宝石はどうしたか全然覚えていない。
過労のため兄は尿毒性にかかり、それがだんだん重くなり病院に入院したが、シャックリがはげしく、口から血を吐き「苦しい苦しい、殺してくれ」とわめきながら、三三年(昭和八年)十月十四日死亡したのである。享年三十七歳。私とは八歳多かったので、私は二十九歳となっていた。四・一六事件から四年が経っている。
私は兄の死んだまさにその夜、兄が「おとよ!」と呼んだ声に目を覚ました。朝、戸を叩く音で起き出て見たら、「兄死す」との電報を手にした。私は急いで上京した。入棺が終ったばかりで、親戚一同、新聞社の人々が多勢いた。私は兄の棺の前で泣き伏した。名古屋の姉が寄って来て私を抱きおこした事を覚えている。火葬のために皆が立って並んでいた時、外相松岡洋右が弔問に訪れた。そして姉弥生を未亡人となった敏子と間違えて丁寧に頭を下げてなにかと弔辞を述べたので、姉は指で敏子未亡人を示した。多くの人々は火葬揚に行ったが、私は兄の新聞記者の同僚の家に行って、その夜はそこに泊めて貰った。
翌日は親族会議が行われるという事で私も参加した。姉知和、夫の松本駒吉、姉弥生、夫の小川百助、そして私。亡母トワの弟の本庄の叔父、そして敏子未亡人とその兄、それから多くの新聞記者が座敷に円を作って座った。私は姉弥生のそばに座っていた。敏子未亡人の兄が「今から親族会議を開きます。というのは桜東洋さんの事です」と言った。私はちょっと驚いた。敏子義姉は直ちに続けた。「おとよさんを西村家から除籍したいと思います。国賊ともいう恐ろしい人間は、ここにいる小さい娘たち二人(まだ五歳と三歳位の女の子がいた)の将来のためになりません」と言い出した。最初に口を開いたのは本庄の叔父である。「親族会議といっても、こんなに多数の他人がいるではないか。これは親族会議とは認められない」と。姉弥生は怒って言った。「妹のおとよがこんなに病身でようやく死地から抜け出していまここにいる。兄は西村家の財産を一人で相続している。一人の男子が親の財産を相続するという事は、姉妹が不幸になった時は、その面倒を見るという意味がある。西村家の財産はまだ多くある。おとよのために、それの一部を売って今後の養生のために尽すのが人の道ではないか」と喰ってかかった。そして私を突いて、「あんたも言いなさい!」と言う。しかし私はうつ向いて何も言わなかった。この時松本の義兄が進み出て言う。「おとよのことがそんなに迷惑なら、私にまかして欲しい。必ず元通り元気なからだにして見せましょう。おとよも自分の考えた道を歩いているのだから、他からとやかく言うものではない。それでは引き上げよう!」と言って、さっさと座を立った。その時、朝日新聞社の記者熊本の細川隆元氏がいたようだ。彼は言った。「おとよさんは元気になればいいんだ」と。私達は亡兄の家を出た。すぐ松本の兄は自動車二台を呼び、「箱根へ」と言った。車は二台、松本夫婦、小川夫婦、私の五人を乗せて、箱根の十石峠に向った。車中姉弥生はひどくよって、車中吐いたりした。十石峠でしばらく休み、熱海の青木旅館に夕方に入ったのである。初めてこんな立派な広い旅館に泊った。大きな湯船があった。そして翌日、名古屋に帰り、私は再び一人で富田ケ浜の義兄の別荘で養生する身となった。
齢さんは上京後私との約束通り再び日本共産党に参加し、私に『赤旗』をブル新の中に入れて送り続けた。そして一九三五年(昭和十年)五月六日、姉の送ってきた新聞に、清家齢さんの逮捕の記事を読んだ。「女闘士、愛人のひざに泣き崩れる」とあって私は呆然とした。
追記 私の裁判と刑の言い渡し。
三・一五、四・一六事件の人々は、それぞれ刑を言いわたされて下獄した。合同公判がすんでから七年が立った。その頃まだ私の病は全快はしていなかったが、散歩出来、買物に行ったりしていた。そしてその頃東京にいた。判事が来て「最早や七年が経過した。裁判を受けていない人はあなたと水野成夫だけだ。あす裁判を開きたいので、医者、看護婦をつきそってでもよいから出廷して欲しい」との事で、私は関根と共に公判に行った。「すでに関係者は出獄している。本人は重病でもあったので、二年の刑、二年間の執行猶予とする」と言渡された。
◇おわりに
「私の獄中記1ー非合法時代の回想」を書くに当って、永い間私は躇躊して来た。なぜなら自らの活動を書くとなれば、どうしても主観的にならざるを得ないし、自らを美化したがるものである。それでは後世の教訓にはならない。「自分のことを、自分で書くべきではない、自分への評価は共に闘った人々、その時代に生きた大衆がなすものだ」という先達の教えもある。それにもかかわらず、私はあえてこれを試みた。私の非合法時代こそ、私の生きた時代であるからだ。あの若く、青々した時代の苦難と華麗な経験がなかったなら、私の今日はなかったであろう。私はよく親しい友人に語った。「あのたった四、五年の闘いの時代は、百年も生きたような気がする」これはいつわらぬ実感である。私が生きたと称する時代、そしてここに書いた時代は、昭和三年(一九二八年)のあと、いわゆる三・一五事件の一年経った四・一六事件と、獄中生活から出獄までの時代である。若き女性が共産党員としてどのように行動したか、考えていたかを再現して見たかった。この事が若き共産主義者への、ささやかな参考となるならば幸せである。ちなみに清家齢さんの「伝説の時代」の名著から参考し多くの引用をさせて貰った。亡き齢さんに感謝する。
一九八○年六月
解説 山本菊代
西村桜東洋さんの遺稿の掲載も今月号でおわる。戦後彼女から折にふれ聞いたことや、牧瀬菊枝女史の聞き書き『田中ウタ―ある無名戦士の墓標l 』(一九七五年刊)を読むと、彼女がこの遺稿を深刻な思いで書いたことがよくわかる。私は牧瀬女史とは一面識もなかったが、何年か前のこと「『田中ウタ』の本の中の西村桜東洋さんに関するところは事実と違う」と(牧瀬に)お節介にも申し上げたことがあった。牧瀬女史からは「西村さんもお書きになったらよいでしょう」という返事をいただいた。その後桜東洋さんは「自分の生れ育った環境や社会的背景などにもとづいて書いている」といっていた。今もなお生きていたら戦中・戦後のことも書いたであろうに。それを果たさないで彼女は亡くなった。お節介かも知れないが、誤解というか、それとも理解されていないと思われる二つの点について、生き残っている友人として書くことにする。
彼女は、死の一年ぐらい前だったが、突然電話で「私はやはり松尾茂樹から関根との離婚をすすめられた時、別れるべきであった」としみじみと語った。また一九七〇年九月、私が福岡市に彼女をはじめて訪ねた時に、彼女は「菊代さんアンタは私が関根と別れたわけを知っておるのか」といった。私は「知らない」と答えた。すると「なんでそれをきかぬか」と叱りつけるように言って次のことを話してくれた。
「関根は一国社会主義派に転向していた。一九三八年京浜グループ事件で(関根が)検挙された時、戦後社会党から立候補した代議士の某(実はその時私は名前を聞いたが今思い出せない―山本)から、『関根君は獄外にいる治安維持法違反者の状況を軍(予備役の真崎大将か―山本)に提供していたから、その人を訪ねて釈放を頼みなさい、すぐ釈放されるから』と(私は)言われた。私は寝耳に水で目の前が真暗くなり、その場に倒れそうになった。すぐ離婚をと思ったが、その時私は関根の母と二人ぐらしで、私が裁判所のがり切りをして生活していた。この母を捨てて出ることはできなかった。関根が出獄するまで待つことにした。ところが関根は獄中で仏教を信仰するようになり、出獄すると「夫唱婦随だ、お前も夫の私に随って仏教信者になれ」という。それを拒否したら、「それなら今すぐこの家から出て行け」といって私を追い出した。私はルックサック一つ背負って家を出た。うしろから関根の母が追いすがってきて、「私も一緒に行く、連れて行ってくれ」とせがんだ。けど「自分も行き先もない。どうしたらよいか判らないのだから少し待って下さい。落ちついたら迎えに来るから」といって家を出た」
と当時の模様を話してくれた。それから彼女が何処へ行ったかは聞いていない。だが彼女の死後、親類の人の話によると、丹沢山の大地主で強欲な婆々様のいる家に住み込み、女中として敗戦までそこにいたということだ。その後内野竹千代氏と(桜東洋さんと)の恋愛関係があったのであろう。二人で飛行機で朝鮮に行ったことを(西村は私に)話していた。敗戦後の共産党本部で二人の恋愛が問題にされたこと、内野氏が離婚して桜東洋さんと結婚するといっていたこと、「こういう問題で女だけがなぜ責任を問われなければならないのだろうか」と、疑問を私に投げかけていた。
関根氏は敗戦直後の一九四五年十月に再入党している。その関根氏の過去を今頃殊さらに取りあげる必要はないのだけれども、前記『田中ウタ』の二八一頁で、山代巴女史は、「無類に善良な夫(関根氏のこと―山本)と良妻の名も高いUさんの奥さん(内野竹千代夫人―山本)の目をかすめて(西村桜東洋が内野竹千代とあいびきした)……」と書いている。前述のように当の桜東洋さんは、関根氏の階級的背信行為によって奈落の底につきおとされた思いをさせられていたのである。私は山代女史とは正反対に、犠牲者は関根氏ではなく、桜東洋さんだと思う。それを言いたかったのだ。
二番目の問題は、桜東洋さんの亡姉の夫即ち義兄と田中ウタさんの結婚の仲介を(桜東洋さんが)したことから起った、田中ウタさんと桜東洋さんの関係である。
田中ウタさんは刑期を終え、前進座に勤めていた。その職場へ保護司(戦前は治安維持法違反関係者は刑期終了後も保護観察法によって監視されていた―山本)がしょっちゅう来て、「女は転向しても結婚せねば本物とはいえない」と長時間へばりついて居座られて困っていた。それを聞かれた桜東洋さんは、亡姉の中学生の遺児が、父親の再婚に片端から反対していたのに、桜東洋さんと田中ウタさんが一緒に写っている写真を父親から見せられて、「おばさん(桜東洋さん)の友人なら来て貰ってよい」という手紙をよこしたので、保護司につきまとわれるよりはましだろうと考え、仲介の労をとったそうだ。ウタさんもはじめは迷っていたが、空襲がはげしくなり、いつ死ぬるかわからない、またウタさんの姉さんも「落ちつけるのならそのほうがよい」とすすめたので、結婚する気になり福岡市に行った。それは一九四五年三月のことである。同年八月十五日、日本帝国主義の敗北により終戦、連合軍の日本進駐、治安維持法も廃止されて獄中の共産党員全員が解放された。共産党の活動も自由になり、活発に展開されるようになった。実にめまぐるしい変化の時代となった。ウタさんの夫になった前記の人は小川百助氏で、その子供もその時すでに中学四年で仮卒業し、十月には農民運動家の伊藤光次氏に頼んで佐賀県の大地主八坂家に作男として住み込んだ。この人が現在の福岡県の農民運動家小川洵氏である。一九四六年十一月、ウタさんは家庭の主婦業に終止符をうって離婚し、上京された。これは十七歳の時から社会問題に関心を持ち、十八歳ですでに政治研究会に参加し、三・一五事件の前に共産党員豊原五郎氏と結婚し、その後非合法活動に参加して来た彼女としては、当然のことと思う。しかし、それだからこそ私は、桜東洋さんが内野氏との恋愛をごまかすために、子どもの手紙まで仕くんで、彼女(田中ウタ―山本)を利用したという怨嵯に満ちたことを臆面もなく本に書くのはおかしいと思う。また山代巴女史は、このことについて「桜東洋さんが才智にたけているので、ウタさんが桜東洋さんとの交友の中で、自分で物事を考えることをやめ、桜東洋さんの言うことを聞いて、てっとり早く判断する癖を身につけたのではないか」と前記の本に書いている。(しかし)そのときウタさんは三十九歳という分別盛りで、しかも豊原、袴田氏という共産主義者との結婚の経験もあり、彼女自身も長い間共産主義者として活動して来た人である。それにしては、余りにも自主性がなさすぎると思われる。桜東洋さんは前記『田中ウタ』を読んで、「ウタさんのためにもその方がよいだろうと思って結婚をすすめた。(私はウタさんに)腹の立ったこともあったが、鼻もちのならない傲慢さが私にあったのだろうと今恥じている」という自己批判を含めた手紙を私によこした。
とにかく桜東洋さんは、戦後の農地解放の時、身内の誰にも話さずに自分一人の判断で農地だけでなく、家屋敷などすべてを解放した人である。義兄とウタさんとの結婚仲介でも、「ウタ子さん、それなら小川と結婚したら」ぐらいのことは言ったであろう。しかし、そのためにうその手紙を仕立てたり、自分の恋愛をごまかすために人に結婚をすすめるようなたちの悪い人間では絶対にないことをはっきりしてあげることが、友人としての私の勤めではないかと考えてこれを書いた。(山本菊代)
感想 女は細かい。2023年2月21日(火)
「レポーターのころ」―非合法時代の回想―(遺稿)西村桜東洋 労働運動研究1984年6月No.176号
西村桜東洋さんの遺稿「私の獄中記」の完結ま近いころ、福岡の遺族から「レポーターのころ」と「労働農民党のころ」が送られてきた。「私の獄中記」とは前後逆になったが、今号と次号に分けて掲載することにした。なお、桜東洋さんの生い立ちのころの父母兄姉について書いたものもあるが、これは本誌の性格上割愛した。
この「レポーターのころ」の前半(「山本懸蔵へのレポ」まで)は、一九七六年十二月二十日付の『風雪』(九州の風雪の会機関紙)第一四四号に載ったものであるが、ある事情で一回きりで連載が打ち切られ、後半は一九八三年六月二十九日付で、未発表のまま書き残されていた。(編集部)
私は三・一五事件の朝、労働農民党事務所の玄関前で逮捕され、その日に釈放になり、数日後に中央レポーターに任命された。(レポーターは)野坂参三夫人の竜子さん、喜入虎太郎の弟(帝大在学中)(と私)の三人という事を知らされた。誰にどこで任命されたか、その記憶はないが、恐らく労農党の輝かしい書記長と言われていた浅野晃氏ではなかったか?逮捕をまぬかれた浅野晃氏が芝の愛宕山の崖ッ渕にあつた私の借家に尋ねて来られた事があったから。この家の二階は非合法の会合に使われていた。
レポーターになってからは私は大衆団体や人の集まる場所に近よる事を禁ぜられた。勿論労働組合評議会、共青、婦人同盟その他も解散になり、わが労農党も新労農党として事務所も代って混乱の中に新しい活動を始めていた。
レポーターという仕事位神経を消耗し金のかかる仕事はない。身体も神経もクタクタに疲れ果てる。次次に与えられる連絡、場所、時間、連絡事項、これらはメモをしてはいけなかった。頭の中に詰め込まなければならない。
目的地に達するまでには二度乗物を換えねばならない。時間は五分とおくれず早めてもいけない。相手の名前も顔も知らない。一つの特徴を教えられるだけだ。例えば右手に新聞を持った男の人とか、草履をはいた中年の女の人とか、それだけであった。敵の包囲の中にあって、この様な極度の警戒心は当然の事である。このレポーターの任務を一日に、ある時は四回も五回も命ぜられた。その間私は幾度虎口を脱する思い、必死の三段飛びをする思いでこの仕事をやり遂げたことか!
こういうことがあった。三・一五事件の直後、渡部義通氏と偶然田村町あたりで出合った。この事については、彼の著書「思想と学問の自由」の冒頭に書かれている。彼は私から検挙の様子などについて色いろ聞いたが十分にわからないので、もう一度会うことを約束して日時・場所を指定してわかれた。確かにそうだった。しかし私は行かなかった。行けなかったのだ!私は疲れきって眠った。「ああ今朝は義通さんと会うことになっている‥‥‥朝八時だ。場所は?‥‥‥私は大急ぎで義通さんと会った‥‥話している…‥歩いている‥…」そして眼をさました。私はまだ床の中でうなっていた。 まもなく彼はつかまった。彼の逮捕は私のせいではないかと、私は申しわけなさに長い間心苦しめた。四十年経って改築前の旧福岡農民会館で(渡部義通と)再会したとき、礼子夫人も交えて私はその折の事情を話して心からお詫びをした。私が昭和四年1929年二月はじめ入党し、細胞活動をはじめるようになって、レポーターを解任された。そのレポーター時代、われながらよくも果したと今も鮮やかに残る記憶の一つがある。
山本懸蔵へのレボ
山本懸蔵は三・一五事件では重い結核で病床にあると言う理由で逮捕をまぬかれ、自宅で「絶対安静」という事情にあった。この辺の事情を文春『日本共産党研究5』の立花論文は次の様に書いている。
「モスクワではこの年の七月からコミンテルン第六回大会が開かれることになっていた。この大会には、佐野の他に市川正一、山本懸蔵の二人が日本から参加することになった。
山本懸蔵は生え抜きの労働者出身幹部の一人だったが、おりから結核を患っていたために三・一五検挙に際して、自宅監視の身になっていた。当時の警察にとって、病人を引っ張るくらいのことは朝メシ前だったが、相手が結核となると話はちがった。特効薬がなかった当時、結核は不治の病であり、第一級の伝染病であったからである。
山本の主治医はそのころ本所で労働者診療所をやっていた馬島僴(戦後、日中・日ソ国交回復国民会議事務総長)だった。馬島の協力で軽症の山本は重症とみせかけることが出来た。馬島は用心深く、自分だけの診断では何ともいいがたいから、警察医が診断した上、警察側で喀痰検査をしてはどうかと提案した。その結果山本は身動きもできない末期症状の結核患者と判定された。それというのも結核専門医でない警察医は、馬島が教えこんだ重症結核患者の諸症状を教科書通りに演じてみせる山本にコロリとだまされ、検査に供される喀痰のほうは、馬島が東大細菌学教室から手に入れてきた重症(ガフスキー五度)のものとすりかえて渡されたからだった。
山本の家に常時張り込んでいた三人の特高たちは、山本は重症であることを信じ切っており、二階からときどききこえてくる咳の音と食事や大小便の便器を持っては二階から上がり下りする細君の姿を見るだけで満足し、あえて二階に上がろうとはしなかった。特高たちも結核の伝染を恐れていたのである。」(一四九頁)
山本懸蔵へレポを持参する様指示したのは誰であったろうか?当時私が直属していた中尾勝男氏ではなかったかと思う。「大変重要な任務です。おそらく山本宅は警官が見張っているでしょうし、附近にも私服が張っていると思ぅ。そこを何とかして渡して下さい」と言われた。レポはカプセルに包まれていた。彼はもう一つ厚い封筒を私に渡した。「これは金です。万一の場合、これは処分しなくていい。このカプセルだけは、のみこんで下さい。」行先は今度ばかりは山本懸蔵宅である事を知らされたのである。若い時代というものはいいものだなあ―と私は当時をふりかえる。私には何のためらいもなかった。恐れもちゅうちょもなかった。「ハイ」とうなずいてその任務を引き受けた。勇気と情熱は青春のものだから。私は早速髪結いさんに行って娘らしく桃われ髪*にゆい上げ、着物に黒い衿を付けた。赤いセルロイドの針箱を買い求め、その中に新聞紙、雑誌の中から、天皇や皇后の写真を切り取って大切そうに納めた。お針物を習いに行く娘らしく美しい前掛も買った。仕立物は帯にして、持っていた帯をときアイロンをかけた。万事整えて私は夕方になって出掛けた。
*桃割 後頭部にまとめた髪で左右二つの輪に結う。桃の実を二つに割ったものに似ている。十六、七歳の少女が結う。桃割イチョウ
場所はどこであったろうか、本所か深川か、遠い田舎じみた処であった。夕陽が沈みかけていた。右手に土手が連なり防風林の様でもあった。一面広い赤土の原があり、その中に小路があるが、歩きにくい粘土路である。そこを通って左に折れれば、小さな家並みが建ち込んでいる一画がある。目的の家は路に面した三軒目である。
私はまるで下町の娘にでもなった様にシヤラシャラして歩いて行った。予知された様に、まず原ッぱの土盛の処に二、三人の私服らしい人がいて煙草の火が光っていた。私は近寄って、「こんばんは! このあたりに‥…」と用意した言葉を言った。彼等はじろじろと私を見ながら「わからんねー」という。「それじあ」といって私は目的の家に進んで行った。山懸の家は二階家で、同じ様な家が十軒余りものきを連ねていた。三軒目のこの家には、表に二人の私服が立ってブラブラしていた。
私はおずおずして聞いた。「あのう……この辺に〇〇さんというお針のお師匠さんの家はございませんか?お教え下さい。」私服「さあ聞いた事ないなあ。そんな家はないだろう、もう暗くておそい、若い娘が一人でうろうろしているとあぶない、帰りなさい」そして「ああん、お前さんどこから来たのかねェ」と言う。
私「どうしても今夜中に縫って貰わねばならぬものがあるんです。私困ります。聞いて来ました。たしかこの辺に〇〇さんちがあるという事を‥‥‥教えて下さい」と私は私服に身を寄せて聞く。私服は少し後にさがる。すかさず私は目的の家に目を付け「この家に聞いて見ましょう」といってさっさと格子戸を開け「御免下さい、お尋ねいたします。あのう‥…〇〇さん宅この辺にあると聞いて来ましたがお教え下さい!」と大きな声を上げ、後の私服を振り返って笑ってうなずいて見せた。
二階から足音がして、トントンと一人の中年婦人が下りて来た。この婦人こそ山懸の賢夫人の名の高いセキ夫人(関マツ)であった。セキ夫人とは救援会事務所で何度か会い、そのテキパキした姉御振りにかねがね尊敬していたものだ。私はドキツとしながら、さっと、レポと金包みを渡して、前回の用件を繰り返した。お互に目と目でしめし合い、喜びと信頼の万感あふれる熱い視線をかわし合いながら。
私の目的はかくて達せられた。セキ夫人は私にどう答えたであろうか?覚えていない。しかし彼女の頓智と機転は、私がさり気なく立ち去り、何の疑いも私服に与えぬ様納得させる術をもって処置されたであろう。私は私服にも礼を言い、その場を立ち去って行った。
重要な目的を果し得た喜びはたとえ様もなかった。革命運動の苦難な中にはその小さな一つの成功さえ無限の喜びがあるものだ。この革命への夢とロマンこそ、おびただしい若い命が捧げられた根源である。
『文春』の例の引用を再び続け様。(一四九頁-一五〇頁)
「ある日馬島が往診に行くと、山本はそれまでのヒゲぼうぼうのやつれた顔をきれいに剃り上げ、彼の人相の最大の特徴であった顔のホクロは白粉でかくして、きちん座って、『長い間お世話になりました。もう一里半くらい全力疾走できるでしょう。次の往診は二日ずらして水曜日にしてください。先般家内がゆくりなく百円札なんぞもらいましてね、ごらんください。壁には新しい服、杖。は、は』と逃走をにおわせた。案の定、次の日早朝、三人の特高が眠りこけているところを、彼は新調のりゅうとした竪縞の背広に、握り太の藤のステッキ、キッドの靴という堂々たる紳士のいでたちで逃げ去ったのである。
それから三日間、山本の細君はいつもと同じ様に三度三度の食事を二階に運び、便器を上げ下げし、その上、山本の代りに咳をしたり、一人で“会話”をしたりしてみせて、見事に特高たちをあざむきとおした。そして四日目に、外出から戻って二階に上るや、『うちの亭主を誰がしょっぴいたんだ!』と大声で怒鳴り、いあわせた特高にむしゃぶりついて、泣き叫んでみせたので、誰もことの真相を知る者はいなかったという。もちろん、この三日間に山本は国境を越えていたのである。」
私はレポーターの任務は重要な革命的仕事の一つだと考えている。特に非合法時代、機智と勇気に富んだ死を恐れないレポーターなくしては困難な事業は遂行されないだろう。ある人が私にさり気なくいったものだ。「西村さんは昔何していた人ですかと聞いたら、ああ西村か、あれは東京でレポ係やっていたらしい、と聞きましたよ」レポ係か!当時はビラ一つ張るにしても、または印刷所にビラを取りに行く事さえ命がけであった。そのために逮捕され、入獄し、獄死した人も多かった。レポーターとは、敵に包囲された指導部の活動を守って援助する組織化のためのベルトである。革命の事業は有機体であって、大小はない。
神田橋のどこであったろうか?今になっては場所は明白ではない。私はいつもの姿で神田橋の橋ゲタに寄りかかっていた。川の向う側から歩いて来るだろう党の重要な人に、レポを渡す任務を帯びていた。もう夕暮れである。橋に寄りかかって流れ行く川をながめた。少し時間が早やすぎた様だ。そしたら突然肩を叩かれた。振り返って見ると正服を着た警官が二人いる。私の胸は轟いた。レポは手に持っている。どうしてこの場を逃げ出すことが出来ようか!警官はいった。「君ちょっと警察まで来てくれないか?」「何故でしょう、私は用事の途中で美しい川の流れをちょっと見ているだけなのに」そして付け加えた。「警察?ちょっと見ておきたい気もするわね」と言った。平静!平静!おくすることなかれ!!しかし私の心臓は波打つ。あたりを見ると近くに公衆便所があった。私は手に抱えていた荷物、前に書いた大きな針箱と帯のはいった風呂敷包を「便所に行きたいからこの荷物を持っていて項戴」と警官の手の中に渡し、便所にかけ込み、レポを足袋の下にかくした。後で考えると、これは失策である。警察に連行された場合は、髪の毛の中、しりの穴まで調べられるのだから。私は便所を出てから「どうもありがとう」と言って包を警官から受け取った。私が便所にいる間に、警官は私の荷物を詳細に調べ上げたらしい。そして言うには「警察に行く必要はない。早く帰りなさい!」というではないか!私はホツとして、深く頭を下げてその場を立ち去った。警官二人も立ち去った。私は少し行って橋を渡り、向う岸に渡り、予定の時間に来た中央の人―勿論名前は聞かされていない―にレポをわたし、私の任務を終えたのであった。青春の日々の大胆さと、恐れを知らぬ機智、党を守ろうとする必死の努力!なつかしい思い出である。
前にも書いた様に、レポーターの任務ほど疲労するものはない。緊張の連続である。しかし私は何十回となく、一つの失敗もなく、危機をくぐり抜けてその任務を全うした。ここに述べているのは平安な中に遂行した事ではなく、危機を脱した若き日の思いであり、忘れ難い記憶である。
私はレポを手の中に握りしめて電車に乗っている。途中の停留所で下車し、指定された場所で指定された人に手渡さねばならぬ。そしてその人から新たなレポを受け取ってまた次の人に手渡さなければならぬ。私は疲れ切って電車の中でうつらうつらと眠った。時には深く眠ったかも知れない。下車すべき停留所を通過し、電車は終点についた。車掌が「もしもし終点ですよ!」と注意したので、ハッと目を覚してあわてて電車を下りた。ところが見れば手にしていたレポがない。電車の中に落してしまったのだ。私はドギッとした。中央レポーターという重要な任務、党の信頼を一身に負っていると自負しているのに、何という裏切りであろうか。どうすればよいのだろう!泣いても、もがいても始まらない。もう私の乗っていた電車は引返して走り去った。私はタクシーを拾った。そしてその電車を追いかけた。ある停留場で追い付いて、すぐその電車に飛び乗り、私の掛けていた席の下を見たらレポがあった。ああレポがあった。何という幸せな事であろう!私は次の停留所で下り、再びタクシーで予定の場所に行って予定の人に渡し、任務を遂行したのである。
神田には古本屋がずらりとのきを連ねていた。そのある一軒の古本屋(名は忘れた)で岩田義道氏をある重要な中央幹部と逢わせるという役目を与えられた。私は予定の時間にその本屋に行き、本を買うために一冊一冊見ている風をして眺めて歩いていた。そこへ予定の時間に岩田義道氏が現われた。二人でここで五分待った。しかし相手は現われなかった。そこで岩田氏と私はそれとなく左右に分れて、五分後に同じ本屋に現われて待った。しかし相手はとうとう姿を見せなかった。どうしたのだろう。岩田氏も私も気もそぞろに心配した。そしたら別れぎわに岩田義道氏は私をにらみ付けて言った。 「君、相手を売ったのじゃないだろうね」と。今の私なら、どんなに怒ったか知れない、「よくもまあ私を裏切り者呼ばわりするなんて」と言っただろうが、純心むくな若い私は、「いいえ」と言っただけで、そう腹も立たなかった。そして二人は別れ去った。連絡は切れたのだ。
私はその後も何十回とレポの任務を完全に遂行して行った。日々が過ぎ行く歳月は悲惨な足あとを成して私の上にものしかかった。私は「獄中記」の中で書いている様に、四・一六事件で逮捕され、痛苦と栄光の歳月が過ぎ去った。死を前にして保釈されたのは一九三一年の末であり、下落合の兄の家の近くに生と死のはざまにただよいながら、ようやく床の上に起き上れる様になった頃、岩田義道氏の使いだと言って婦人の方が訪問された。手に大きな風呂敷包をもち、その中から取り出されたのは電気温水治療器であった。「岩田がくれぐれも西村さんによろしくとの事でした。これで全身マッサージすれば、快方を早めるでしょう。岩田が使っていたものです」と言って、使用法など詳しく説明して帰られたのである。私は静かに過去に思いをめぐらした。岩田義道氏は今も健在に活躍していられるのだ。「君!売ったね!」と言った彼の言葉を、遠き日の思い出として思い出したものだ。あの言葉の謝罪の意味で、わざわざこの治療器を贈られたのではあるまいか?間もなく一九三二年十一月三日、岩田義道氏は熱海事件があり、スパイMに売られ、逮捕され、虐殺された。山本宣治、小林多事二、そしてこの岩田義道氏も、英雄的な革命戦士として死を遂げ、永遠に人民大衆の胸の中に生きている。ついでだが清家齢さんは、私がまだ下落合に静養中、三・一五、四・一六の合同公判の準備(一九三一年六月七日から殆まる)に多忙を極めていたが、時々やって来ては小さな声で私にささやいた。岩田義道氏と連絡をとっているということ。ある大きな旅館で連絡をとった時、彼は「いつ逮捕されるかわからぬから、最初にしっかり握手をしておこう」と言って、話をする前に別れの握手をしたと言った。私は神田の古本屋で彼と会ったのが最後で(一九二八年の十月頃か?)あり、その面影は今も強く胸に生きている。
「労働農民党のころ」 (遺稿)西村桜東洋 労働運動研究 1984年5月 No.175号
私が目白の日本女子大を四年生で卒業したのは、一九二七年(昭和二年)の四月であった。ちょうど二十二歳が終り、二十三歳になろうとしていた青々とした歳月である。
在学中は東京女子大の渡辺多恵子さん、波多野操さんの指導、早稲田大学、帝大の石田英一郎氏などのマルクス・レーニン主義の講義を受けたりした。そして社会科学研究会を日本女子大にも清家齢さんを中心に組織した。
福本主義が全国の学生、インテリまたは労働者階級をもまき込んで、山川均の統一戦線理論を粉粋していた。私の幼稚な頭には、福本和夫氏の難解な理論は何度読んでも理解出来なかったが、ただ「前衛党」を作らねばならぬという事だけは理解出来た。
一九一七年十一月七日のロシアの大革命は日本の労働運動に大きな影響を与え、一九二二年七月十五日に日本共産党がコンミンテルンの一支部として創設されたその歴史を学ぶことは、幼稚な私に感動を与え、労働者階級こそその前衛党の指導の下に資本主義の権力を打倒し社会主義を成功させるのだという理論は、たまらないほどのみりょくであった。
学校を卒業したら、一刻も早く労働者として働きたいと願っていた。私の生地の佐賀県の基山では、全国に鳴り響いた基山の大小作争議がおきて、地主宅の焼打ち事件に発展し、指導者の多数が検挙投獄されるという(一九二四年十一月五日~六日)事件も私に大きな影響を与えた。
卒業してから間もなく松尾茂樹氏が逢いに来られた。松尾さんは私達の社会科学研究会にも援助され、ちょうどそのころ「政治研究会」の仕事や「対支非干渉」の運動などをしていられた。そして「労働農民党で働いて見ないか」と(私に)申し出られた。私は「早く労働者階級の組織で働きたい。学校にいる時の三年生の冬休みや夏休みにも、大阪の柏原の織物工揚に、清家齢さんの兄さんが管理職であったから、お願いして働きに行ったことがある。女工になることには慣れているから」と申し出たが、彼は「まだ君達はインテリ臭から抜け切っていない。労働者をして働く前に労働農民党で働いて、その中で大衆の気分を知る事が大切だ」と言われた。「それもそうだなあ」と思い、ようやく承知した。
労働農民党は、一九二六年(大正十五年)十二月十二日、十三日に結党大会を開催した。評議会などの労働組合の左派が中心で、委員長大山郁夫、書記長細迫兼光であった。書記として大勢の人が働いていた。小林直衛、大間知篤三、福富政雄、長島又男、宮原省久、橋本省三、杉本文雄、小柳賢一、金子、秋笹政之輔、伊藤隆吉、佐野宏三(会計)。この人々は京大、早稲田大学、帝大の人々が多かった。浅野晃さんは輝ける裏の書記長と教えられた。
労働農民党は内幸町の和合ビルの二階の大広間にあり、その広間の端々日農の事務所が、フスマで仕切ってあって、日農の書記長と、同じ佐賀県鳥栖町出身の安原謙三氏が書記として勤務していた。
清家齢さんは学生時代からすでに清家敏住氏と結婚され、私より四歳年上であった。清家敏住氏は、早稲田を卒業後、報知新聞社に勤務されている。私の兄も関東大震災の前年から報知新聞社に勤務していた。齢さんは(労農党の)政治部に、私は調査部に所属させられた。調査部の責任者は井汲卓一氏であったが、時々顔を出されるに過ぎない。当時出版された左翼の本を整理したり売ったりすることと、大きな日本地図を作製して、それを壁にかけて、労農党の支部のある処に小さな旗を立てる仕事などした。労農党に婦人が働くという事は始めてであった。齢さんが「伝説の時代」七一頁の労農党時代に書いているように、彼女はやがて政治部を解任され、雑用や受付けに回る事となる。私も調査部の仕事のあい間に、そして大部分の時間を、雑用に従事した。掃除をしたり謄写版をすったり封筒を書いたりした。時には郵便局まで労農党の機関紙「労農新聞」などの大包を背負って行ったり来たりした。「雑務を軽視する者は共産主義者に非ず」と教えられていたので、齢さんと二人で夜おそくまで、帰りは赤電車の終電車か、その一つ前の青電車で帰宅したものである。若さというものが日々の私の雑務労働を支えたものだ。
私や齢さんには月々の給料とか手当とか一銭もなかった。電車賃さえ支給されなかった。私は学校を卒業する時は、母は「おとよが卒業したら、いい処に就職して一緒に住みたい」など言っていたが、私は就職する事など考えなかった。だから清家夫婦の温かい配慮の下に、雑司ケ谷の借家の二階に居すわって、ゆうゆうと暮していた。齢さんは着物や羽織を私に買ってくれた。洗濯までしてくれた。「何日間洗濯物を干しているね。たまには取り込みなさいよ」と注意したりした。私は料理をする事が出来なかった。齢さんは料理が上手で、一切引受けて一人でやった。「お皿や茶わん位並べなさいよ」と時々叱ったりした。それほど私は生活の事をかまわす、ただ齢さんに甘えていた。
労農党の雑務の時期は楽しいものであった。新聞を折り、発送の準備の時など、皆、男の書記は全部で折り、革命歌を歌いながら、いそがしく立ち働いたものだ。そして私ととしさんの二人の婦人に対して、何ら差別的な態度や言辞を使われたことはなかった。
会計の佐野さんという年輩の人がいて、齢さんと私に時々近くにある支那料理店で、チャーシューワンタンメンという高価なものを御馳走して下さった事を覚えている。
一九二八年(昭和三年)三・一五事件の前であったが、山本懸蔵氏が会合のためであったか、姿を見せられた日があった。「あれが山懸だ!」と言われ、私は音に聞こえた山懸と聞いて驚いて仰ぎ見た。彼は着物姿でステッキで身体を支えていた。病身の様であった。彼は大きな声で言った。「これから会議を開く。お前達女どもは下に行っていろ!寝る時はいつも女は下ではないか!」 私と齢さんは驚いて、あわてて一階下の事務所にかけ込んで、二人で顔をしかめたものである。後になって山懸の労働者らしい口の利きかたを理解することが出来たが、その当時は婦人に対する侮辱としか受け取れなかったものだ。のちレポーターの時期に、私は山本懸蔵宅にレポと一〇〇円の金を届けて、三段飛びのような危機を犯して(脱して)、彼をソ連に逃亡させる役割を果すのだが、のちスターリンの弾圧により、彼はシベリアであわれな姿で死亡するのである。私が山本懸蔵という労働者出身の優れた指導者の姿をこの時見たのが初めてでまた最後であった。
豊原五郎さんが労農党の新聞編集のため一時来られた事がある。私に、ある工場の労働争議の記事を書いてごらんと言われたので、一夜苦心して何度も書き直して、原稿用紙何枚かに書き上げて渡した時、彼は笑って「大分苦心したようだなあ」と笑ったので、思わず私は顔を赤らめた。一九二八年二月二十日は第一回普通選挙の投票日となるが、この年の二月ごろ、豊原さんは九州の北九から立候補する徳田球一氏の応援に行くと私に言われた。私の故郷九州へ行かれる事は嬉しいことである。その時彼は次のような事をそれとなくつぶやくように言われた。「九州人はとかく感情的である。ちょっとした金銭の問題や、男女の問題をさわぎ立てる欠点がある。大局を忘れたがるでねエ」私はその時はただそんなものかなあと思って聞いていたが、ずっと後になって彼の言葉が身にしみるようになった。
私は豊原さんが出発された後、突然、静岡県から立候補される労働者出身の杉浦啓一氏の応援に行くよう命ぜられた。私はこれまで時々演説をすることがあったが、いつも警察の監視があって一文句言うたびに「中止」などされるので、まとまった演説などしたことはなかった。いつか婦人達の会場で演説することになったが、私の前に小見山富枝さんが斬髪の髪の毛を振り乱しながらの熱弁にすっかり聞きほれ、次の私の時には意気消沈して、早く弁士中止があればよいと思うが、仲々中止されず、ほとほと困り抜いたことがあった。こんな風だから応援に行けと言われても、気は滅いるばかり。静岡に行って見ると、東京からもぞくぞくと指導的なオルグや弁士がはいり込んで来た。私はいつも杉浦氏につきそって前座をつとめるのだが、まことに下手な演説で、何度も杉浦氏から「もっと具体的に話すように」と注意を受けた。杉浦氏は落選されたが、私は落選の手伝いをしたようなものではなかったか?
清家齢さんの「伝説の時代」には、労農党時代の国内情勢の分析と労農党の政策や第二回大会の情勢について、情熱を傾けて語ってある。(七十六頁)そして「当時演説のうまかった西村桜東洋は引っ張りだこで、各地に応援に出掛けた」など書いているが、中止、検束を当てにしての演説であったから、一口激しい階級的な言辞を言うだけで足りたものだ。秩序立てて諄々(じゅんじゅん)と大衆が納得行くように説き明すという術もなく過ぎた。
そしてこの総選挙で始めて日本共産党の存在が明らかになったのである。演説会場に多く?共産党のビラによるスローガンがまかれたのである。労農党にはいったのは一九二七年六月ごろ、三・一五事件は一九二八年三月十五日だから、労農党の時期は九カ月位のものであったが、何となく何年もいたような思いがする。三・一五事件の朝は齢さんが私の家に泊ったので、二人で労農党の事務所に出掛けた。そして事務所の前に警戒していた私服に逮捕されて日比谷署に連行された。私達は二、三十人がやがやはいっている大きな広間に入れられた。そして私は夕方になって、衿(えり)に白い布に名前を書かれ、写真と指紋を取られて帰されたのであるが、齢さんは小石川署に送られて五、六日してから帰って来た。
これが三・一五事件であった。大山委員長、細迫書記長、会計の佐野さんなどは逮捕されなかったが、多くの書記達はとうとう帰って来なかった。小柳、大問知の二人は、一年志願兵として入隊していたので憲兵隊に捕まり、橋本省三、杉本文雄、福富政雄らは検挙された。浅野晃、宮原省久、秋笹氏らはまぬかれ、小林直衛、長島又男両氏は病気中で検挙をまぬかれた。思うにこの人達は労農党時代に勝れた活動家であり、私達婦人を少しも差別しなかった。私や齢さんの雑務を手助け、実に誠実であった。共産党員というものはこのような人達であったのか!私の浅はかな共産主義理論より、まず一人一人の共産党員の献身性と誠実さ、その人格が私の胸を打った。齢さんと二人で早く共産党に入党して、献身と情熱をもって大衆と共に闘いたい、どこに党はあるのであろうか?どうすれば入党出来るのであろうかと、二人は話し合ったものだ。
一週間余り、愛宕山の放送局の崖下に二階屋を借りて関根と結婚生活にはいっていたが、関根もとうとう無産者新聞に出勤して逮捕され、帰らなかった。
これから私のレポーターの時期がはじまる。ついでながら労働農民党の書記の人々についての思い出を書いて見たい。
大間知篤三氏について 彼はいつも窓ぎわの机について何か書いていた。中々話すという機会はなかったが、新聞発送の時、早く早くと言って折りたたんでいた時、私の横で仕事をしていられた時、私は聞いた。「あなたの御郷里は何処ですか?」と。そしたら彼は、「僕は加賀百万石の城下生れだ」と言われた。そう言えばいつか渡部義通氏に同じことを聞いた時、「会津若松だ」と言われた。その当時はそのような表現をしたものである。
秋笹政之輔氏について 埼玉県の土豪(醤油・味噌・酒屋)の息子というが、労農党の時期は冬になると石炭ストーブを使用していた。不用な紙などを燃すこともあった。秋笹氏がストーブにあたっていられた時、私が「この不用な紙ももやしましょうか?」と聞いたら、彼は「君は田舎者だね、東京ではもやすなど言わないよ、もすと言うんだ」と言われた。「そうかなあ」と一つ東京弁を教えられた。歳月は流れ去った。痛苦と悲惨と栄光の日々は音を立てて過ぎて行った。一九三三年(昭和八年)十二月二十四日、東京都渋谷区幡ケ谷の秋笹氏の二階で、中央委員の小畑が、いわゆる「リンチ共産党事件」があり、小畑が死亡するという事件があった。一九三八年、いよいよ日本帝国主義は中国への侵略性にキバをむき出して行った。私の病気も次第に回復して、東京の中野あたりに住んでいたころであった。袴田里見氏の裁判があるから一緒に傍聴に行かないか、と袴田の妻君の田中うたさんからすすめられて、日比谷公園横にある裁判所に傍聴に行った。その時私は秋笹政之輔氏と何年振りかに対面した。平野謙著「リンチ共産党事件の思い出」を繰り返し読んだが、私の傍聴した当時の情況は載っていない。この著は、袴田の第一回公判(一九三五年(昭和十年)十月十四日)から第三回公判(一九三九年(昭和十四年)七月二十九目)までの分が記載されている。だから私が傍聴したのは一九四〇年以後となる。冬であった。宮本百合子さんは傍聴席の一番前に陣取り、足の下にコタツを置いていられた。そして原稿紙を前に広げて速記の用意をしている。傍聴人はほんの数人で、宮本百合子さん、田中うたさん、それに私と神山茂夫氏であった。これを書いている時点では、これらの人々は私を残してすでに故人となっている。ふと右横の後を見ると、老齢な夫婦がいる。秋笹氏の親御さんとの事である。やがて袴田氏と秋笹氏が網笠に手錠で入廷された。袴田氏は入るなり、起立している私達に網笠を上げてちょっと手を上げられ、ほほ笑まれた。私達も思わす頭を下げた。二人の被告は網笠と手錠をここではずされ、まず袴田さんからの訊問が始められた。その時の訊問を私は昨日のように覚えている。裁判長のうしろには大きな地図が張られて、色々と○や部屋の見取り図が書き込まれていた。問題となったのは、小畑をここで殺して、それからこの二階から下の六畳間に運んで、畳をめくって、その土をシャベルかスコップで掘って死体を埋めるくだりであった。小畑は大男だったので、最初は二人で、一人は頭の方を抱え、一人は足の方を抱えたが、死体は重くてダラリと下ったので、もう一人が背中を抱えて階下にハシゴを下りて埋めたというくだりであった。裁判官は棒で後の地図を示して、ここに死体があったんだね、という風に訊いて行った。その時秋笹氏が裁判長につめ寄り「袴田はスパイだ」と大声で叫んだ。私は秋笹氏を見た時ギョッとした。労農党で見た秋笹氏はほっそりした小男であったのに、すっかり太って髪は真白な白髪であった。思わず私は熱い涙がこぼれた。苦悩と悲惨な獄中の歳月が、こんなにも一人の人間を変えてしまったのか!私はふり落ちる涙をそのままにして、右うしろにいる両親を振りかえった。両親共ハンカチを顔に当てて泣いていられた。秋笹氏は叫び続けた、「袴田はスパイだ、スパイだ」と。警司は秋笹政之輔氏を黙らせるのに骨折っていた。おそらく退廷させられたのではなかったか!その時はすでに秋笹氏は狂い始めていたのであろう。やがて彼は獄中死するのである。党に身を捧げた人が何十人死んで行ったのであろう。ついでながら書いておきたい。袴田氏の訊問中、休憩になった。私は法廷を出た処で私服に捕まった。「君の名は何と言うか?」「何のために来たのか」としつこく訊問する。そこで私は昔の気骨をよみがえらせて「この裁判は公判ではないか。誰が傍聴しようと勝手だろう」と押し問答をしている処に、神山茂夫氏が寄って来られて「まあまあ刑事さん、やかましく言いなさんな。この人は有名な西村オトヨさんですよ。」そして「さあさあ一緒にお茶でものみましょうよ」と言って私服を抱え込むようにして下におり、喫茶店でお茶をふるまっていられた。私と百合子さんと、うたさんは、木の下にあるチンに腰を下して、やはりお茶を注文してのんだ。百合子さんは「神山さんて妙な人ね」と言われた。私達三人は色々な雑談をしたが、百合子さんは話された。「私がまだ財産があると思って警察では調べに来るのよ。でも私は宮本への差入れや、こうして調書をとって複写して宮本に送るので、すっかり金は使い果して生活するのがやっとなのよ」と言われた。やがて休憩が終って公判が再開された。終了して帰りぎわに、神山茂夫氏は私に言われた。「ああいう処置をとったのは、君を逮捕させぬためであったから了承して欲しい」と。当時は傍聴さえ家族以外は警戒されていたおそろしい時代であった。
ぬれ髪お露さん 西川露さんは学校時代、私と齢さんより二級下の人である。「父は台湾で妾と生活しているので、母の故郷の東京に子供達三人と共に住んでいる」と、私に学校時代話した事である。そして途中で学校を退学して、よく労農党の事務所に遊びに来て、私達の雑務を手伝ってくれた。髪は真黒で、それに油をつけているので、ぬれたように光っていた。顔も丸顔で、キビキビした態度で、労農党の青年諸君の注目をあびていた。服部之総氏も時々労農党に来られて、「ぬれ髪お露さん」と命名されたので、皆笑いながらも、そういう名を付けて呼んでいた。やがて四・一六事件で逮捕されるのだが、獄中でも勇敢に闘い、革命記念日の闘いで「懲罰二十日=西川」と叫んだのは彼女からであった、だから次々に彼女にならって叫んだのである。全く創意工夫の達人であった。(西川露が)出獄した後、病身な同志と結婚して間もなく、夫の同志は死亡した。その後彼女はどうなったのであろうか!たずねるよすがもない。
以上
久保田敏「西村桜東洋女史のこと」 読者便りから 労働運動研究 1984年6月 No.176号掲載
本誌に故西村桜東洋女史の「獄中記」が連載されている。私が初めて西村さんに会ったのは一九二八年の四月だから五十六年も昔のことだ。同年三月頃私は上京、仕事もなくぶらぶらしていたが、友人の紹介で新党準備会の機関紙の発送を手伝うことになった。
事務所は内幸町の裏露路のどん詰りにあった。事務所といっても普通のしもたやで、一坪位いの土間があって、畳敷きの部屋が三つか四つあった。上村進弁護士の貸家ではなかったかと思う。
玄関のすぐ左隣りの四畳半に机が二つあって、私の他に二人の青年が機関紙の帯封の宛名書きをした。機関紙は週刊で、帯封は三千枚位あった。毎号‟発禁”が予想されたので、発送はアジトを転々とした。しかも一まとめにして出すと差押えられる心配があるので、三人で手わけして、街頭のなるべく目立たない裏通りのポストに五部、一〇部と投函した。芝から浅草、新宿方面と、五、六㌔の道をポストを探がすようにして歩きまわるのが普通だった。
朝九時頃事務所に出かけると、私と同年輩位の女性が割烹着に姉さんかぶりをしてバタバタと掃除をしているのによく出合った。美人とはいえなかったが、眼のくるくるつとしたどことなく純朴な親しみのもてる婦人で、事務所にいる人たちは、みんな「おとよさん」と呼び、人気者だった。
私は二カ月ばかりで新党準備会をやめたので、「おとよさん」と直接話したこともなく、どういう経歴の女性かも知らずじまいだった。
五年前山本菊代女史の心配で、私はソ連旅行のツアーに加わり、出発直前、松戸の山本さんの宅に二晩ご厄介になった。そのとき山本女史から西村女史を紹介された。それでも西村女史が新党準備会の「おとよさん」とは気がつかなかった。山本女史が「おとよさん」を連発するので、どこかで聞いた名前だと思いながら、夜寝床のなかで旅行のことなどいろいろ考えているうちに、ふと新党準備会時代の「おとよさん」を思い出し、翌朝山本女史に尋ねると、同一人物であることがわかった。
ソ連旅行中も西村さんとはあまり話す機会もなく、もちろん彼女の経歴など知るよしもなかった。私が西村女史の経歴を知ったのは、彼女が昨年八月、福岡市の農民会館で亡くなり、その告別式に列席して、彼女の闘争史「怒りの席田」(単行本)の記録を読んでからのことである。(広島 久保田敏)
杉山保「事実を正確に」 読者便りから
西村桜東洋氏の自伝、運動史の一級資料としてたいへん貴重なものでした。それだけに事実は正確であってほしいと思います。昔のことですから筆者の思い違いもあるでしょうし、編集部の注記があればと、二、三感じた個所があります。五月号の「労働農民党のころ」でいうと、「秋笹政之助氏」は「秋笹政之輔氏」「千葉県の醤油屋の息子」は「埼玉県の」醤油もみそも酒も造っていた土豪の息子。二月号の「私の獄中記(4)」で、三・一五事件で逮捕された是枝恭二氏が結核で保釈になり、郷里の鹿児島に帰って数年後死亡したとなっているが、事実は是枝氏は三二年保釈を取消され、その後下獄して獄死している。(東京 杉山保)
以上