2025年1月29日水曜日

鎌田慧『狭山事件の真実』岩波現代文庫 巻末の年表を読んでの感想

 

鎌田慧『狭山事件の真実』岩波現代文庫 巻末の年表を読んでの感想 2025129()

 

狭山事件の応援団はものすごい。共産党、解同(不幸ないさかいはあったが)はもとより、学者、物書き、国連1998、市民…。運動の盛り上がりもすごい。大阪・奈良の小中学生1万人の同盟休校1976、巨大な11万人集会1974、寺尾無期判決抗議デモに13千人1974、ハンスト1976、巨大な署名数100万筆2007

 

それに対して、裁判所や東京高検は、頑なに門戸を閉ざし、再審請求や証拠開示要求にその都度応じず、事実調べもせずに情け容赦なく棄却(高さ3メートルにも及ぶ証拠1999の中のごく少数の証拠開示(「被害者の悲鳴は聞いていないし、人影も見ていない」というO証言1981、遺体を逆さづりしたという芋穴でルミノール反応はなかったという報告書1988)はあったが)。何かすごい意地になって絶対無罪にはしないぞという権力側の傲慢さが感じられる。

 

そんな一般社会からの大規模な批判を前にして、牢屋にいつまでも置いておけないと察したのか、また父19851987の逝去もあったからか、仮出獄1994という形でお茶を濁そうとしたのではないか、と勘繰ってしまう。そして今でもネットでは、冤罪視が多い中で、冤罪を疑うようなサイトも散見される。

 

そうした中で心強く感じられたのは元警官の証言である。D元刑事は、「第1回家宅捜索では鴨居に(第3回目の家宅捜索で発見された)万年筆はなかった」1992と証言している。

 

ネット「狭山事件と救援会」1995年3月 日本国民救援会中央本部 zir.sakura.ne.jp

 


ネット「狭山事件と救援会」19953月 日本国民救援会中央本部 zir.sakura.ne.jp

 

概要 石川一雄が解同や中核派などに扇動され、中田直人弁護士らを公然と批判するようになり、中田らは弁護活動から手を引かざるを得なくなった1975.2らしい。だからそれまでは解同と中田弁護士らは、共に石川一雄を支援していたことになる。本書掲載の日記が書かれたころ、196566年と196970年は、65年は中田らだけが支援していた時期であり、69年は、両者と国民救援会も加わって三者が支援していたことになる。

 

救援会中央本部の難波英夫会長は、解同東京都連会長でもあった00619683月、川越市での「狭山事件の真相を聞く会」に難波英夫が迎えられた。その後「守る会」1968.3も各地に生まれるようになった。002

 

年表

 

1968 1963年の5年後に国民救援会が石川支援を開始。

1969.3 解同が石川裁判を(単に冤罪事件ではなく)「差別裁判」と規定し、石川事件に対する方針を変更。それまでは「本人が自白を維持している」と中田からの支援要請を拒否していた。そしてこの19693月の解同全国大会で、共産党代表の挨拶を拒否した。

1973 石川が中田弁護人を拒否。

1974.11.22 八鹿高校事件

1975.2 救援会や守る会は石川支援から手を引いた。そのまま現在に至っているのだろうか。

 

 

2025年1月24日金曜日

鎌田慧『狭山事件の真実』岩波現代文庫2010 及び 『石川一雄 獄中日記』三一書房1977

 

鎌田慧『狭山事件の真実』岩波現代文庫2010 その1 2025124()

 

本書や『石川一雄 獄中日記』三一書房1977を読んだ後で、私がまとめた、石川一雄さん無実の証拠

 

・本人の日記や書簡 袴田さんの日記や書簡が真実を物語っているように、石川さんの日記や書簡も真実を物語っている。無実であることは本人にしか分からない。それが文章の中に現れている。

 

・法廷向けの所謂証拠

 

1 インクの成分 被害者が殺害された当日に書いたペン習字浄書のインクにはクロムが含まれていたが、石川さん宅の鴨居から発見された万年筆のインクにはクロムが含まれていなかった。(徳島新聞2025112日、同紙はさらに「鴨居の上から発見された万年筆で数字が書かれた紙が53年後に証拠開示された。」と無罪につながる証拠開示の遅れを指摘する。)

これも袴田事件と同様に警察の捏造と考えられる。鴨居の万年筆は3人の捜査員による3回目の家宅捜索でわずか20分後に「発見」された。前2回の家宅捜索では、捜査員10名以上が、2時間以上捜索したが発見されず、しかもその2回目には、鴨居付近でネズミの通り道の穴を捜査員が見ている。その時、その近くに万年筆があれば、見落とすはずがない。291, 292, 296

 

470 万年筆 脅迫状に書かれた「中田江さく」の文字や訂正した文字は、鴨居の上から発見された細字の万年筆で書かれたものではなく、中字の万年筆によるものだった。

 

2 筆跡 犯人が書いた脅迫文の筆跡と、石川さんが殺人を否認する、最初に書いた供述書の筆跡とは明らかに異なる。文字の最後の筆致で、脅迫文は軽やかに跳ね伸びるが、石川さんは初心者のように、たどたどしくしっかりと力を入れて止めている。私が石川さんの書いた供述書を見る限り、小学校1年生にも達していないのではないかと思われる。

また、脅迫文は漢字をふんだんに使うが、石川さんは漢字がほとんど書けず、供述書の最初のタイトル部分は警官に指導されて漢字を書く(録音テープ)が、タイトル以降の本文は、ほとんどひらがなばかりである。そして脅迫文で頻繁に用いられる漢字の当て字は、豊富な漢字の知識を必要とするが、石川さんは小学校の3年生くらいまでしか登校せず、それも欠席が多く、ほとんど漢字の知識がない。

 

3 再逮捕後の川越署で、外部との接触を絶たれた上に長時間監禁・詰問された後に、心理的に参っていた石川さんにとっては仏のように見える、昔なじみの関さん(警官)に会わされた石川さんは、関の誘導に負けて「自白」してしまうが、その際、ボス警官長谷部梅吉警視の甘言「10年で出してやる」が、石川さんの自白判断の根拠となっていた。(『獄中日記』246

 

そして一旦自白すると、その後は悪夢のような、強引でデタラメな「取調べ」つまり、被害者の鞄や腕時計、万年筆、そしてスコップや地下足袋などが発見された場所と、石川さんの供述とが合致するように、警官の言う通りに、誘導されながら、供述調書が作られ、それに指印をさせられた。(『獄中日記』247

 

321 筆圧痕発見 1967101日の第29回控訴審公判のころ、最終弁論を準備していた中田直人弁護士は、石川一雄が犯行現場などを描いた自供図画の線に沿って、鉄筆状のものでつけられた溝があるのに気付き、控訴審の最終弁論は中断された。

そして1114日の第30回公判で、弁護側は被告に尋問し、石川が、あらかじめつけられていた筆圧痕をなぞって現場を示す図面を描いていたことを明らかにした。なんだ、描かせられていたのか。

鞄が発見された場所に関する、一回目の描画6/21と二回目6/23のもの307とはまるで出来栄えが違う。また二回目の描画には警官の文字も見える。「この辺で自転車を俺が〇っと〇〇け取った」とある。

そして石川は法廷でその筆圧痕をなぞって図面を描かされたと主張し、自白が誘導・強制されたものであることを明らかにした。

ところが、これに対して警察側は、「カーボン紙で地図の写しを取ったために、あとから筆圧痕がついた」と反論し、裁判官もそれを認めた。しかも警察側はこのように重要な証拠に傷をつけても平気である。

ところがまた、「写しをとるためについた」とする警察側の主張する筆圧痕より、さらに前につけられていた、より薄い筆圧痕を弁護団が発見し、弁護側は、鉛筆線と筆圧痕の前後関係を解明するための分析・再鑑定を求めている。

 

4 死体を埋める前に一時死体を隠しておいたとされる野菜収納穴に、縄で死体を逆さに吊るしたとされるが、その死体には擦り傷がない。454

手で首を絞めて殺したとされるが、医者の判断は、幅の広いもので首を絞め殺されたとする。

 

 

 

警察の陰謀 マジックミラーつきの部屋で、殺人行為の自白を誘導する

 

・弁護士 再逮捕される前の1963年昭和3862日ころ、弁護士と称する人物がやってきて石川さんに面会し、自白を誘導する。『獄中日記』256

・市長 その23日後の196364or 5日ころ、狭山市長・石田求助と名乗る人物が訪れて石川さんと面会するが、その人は実は市長ではなかったことが後日(昭和4010月)判明する。『獄中日記』256

 

・ボス警官の長谷部梅吉警視は「殺人を認めれば10年で出してやる」と言っておきながら、公判ではその警官は、そんなことは言っていないと開き直る。280

 

・再逮捕後の川越署で、外部との接触を絶たれた上に長時間監禁・詰問された後に、心理的に参っていた石川さんにとっては仏のように見える、昔なじみの関さん(警官)に会わされた石川さんは、関の誘導に負けて「自白」してしまうが、その際、前述のボス警官の甘言「10年で出してやる」が、石川さんの自白判断の根拠となっていた。(『獄中日記』246、再掲)

 

・そして一旦自白すると、その後は悪夢のような、強引でデタラメな「取調べ」つまり、被害者の鞄や腕時計や万年筆などが発見された場所と、石川さんの供述とが合致するように、警官の言う通りに、誘導されながら、供述調書が作られ、それに指印をさせられた。(『獄中日記』247、再掲)

 

 

 

ミステリー 被害者宅の近所で、重要容疑者として取り調べを受けた被害者宅の元作男が、事件直後に自殺しています。それも自らの結婚式を目前に控えながらです。さらに参考人として取り調べられた2人が自殺し、遺族の2人も自殺している。456

 

被害者の家族が、被害者の身分証明書の入った脅迫文を受け取った時、「警察に連絡したら娘の命はない」と脅迫文に書かれているのにもかかわらず、家族間で全く相談するでもなく、即座に警察に連絡している。それはすでにそれ以前に、有線放送か何かの手段で脅迫されていたのではないか、脅迫文に同封された身分証明書は、「誘拐は冗談ではないぞ」という犯人のメッセージではないか、と鎌田さんは指摘しています。

 

その他

 

468 手袋をはめたという石川の自供がないのに、各証拠に指紋が発見されていない。おかしい。

 

468 目撃証言の捏造の疑い 「声が似ていた」という「耳撃証言」の非信用性。

 

「被害者宅の所在地を教えてもらいにやって来た石川さんを、事件当日に見た」という、被害者宅の近所の人の証言の嘘 警察の目が被害者宅の近所から部落に向けられると、途端に石川さんを見たと証言する人が現れた。

 

311, 312 石川一雄に51日の晩に会ったという目撃証言 6/21供述調書によれば、

 

中田家の側に住んでいた内山幸一(仮名)は、事件発生から1か月以上も経ち、容疑者が逮捕されてからも10日以上も経った64日に、51日の午後7時半ころ「中田栄作さんのうちはどこです」と、自分の家を訪ねて来た男がいた、と警察官に証言した。

しかしこれは報道されていない。「菅原四丁目の人達は団結して大勢で押し掛けてくることがあるので、届け出たことを秘密にして欲しい」と内山が強く要請したというのだが、匿名でも報道できるし、報道に値する情報であるはず。また内山の住む堀兼地区に刑事がそれまでに何度も聞き込みに来ていたのに、その時は刑事に話していない。そして内山はミラー室で容疑者に面通しされる前から、「菅原四丁目の人たちは押しかけて来る」と言う。

内山は5か月後の浦和地裁で、狭山署での首実検を踏まえて、「大体顔かたちで似てると思いましたね」と証言した。さらに、被告席の一雄を見て「そうです、そうです、この人です」と断定した。

ところが、それから2年半後の1966531日、東京高裁で、内山は「この人に会ったことはありません」という。

 

 

470 封筒に残された(中田栄作宛の)文字の「にじみ痕」は、犯行時以前に書かれたものだから、被害者を殺害現場に連行する途中で、「父親の名前を聞いた」という自白は嘘となる。(意味不明)

 

471 車 死体の運搬には車が必要だが、石川さんには車がなかった(未確認)。犯人は、顔見知りによる殺人を、誘拐事件に偽装する必要があったのではないか。

 

 

197 萩原佑介は右翼の闘士 弁護士解任(『獄中日記』250)の原因を作った男。

 

457 仮出獄後の人権問題 保護観察官との面会月1回、保護司との面会月2回、長期旅行や転居の際に保護観察所の許可が必要、選挙権や被選挙権がない。

 ただし、一般的に仮出獄に際して被害者に対する謝罪文を一筆書かされるとのことだが、石川さんは実情を理解してもらったらしく、それを免れた。

 

 

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