ネット「狭山事件と救援会」1995年3月 日本国民救援会中央本部 zir.sakura.ne.jp
概要 石川一雄が解同や中核派などに扇動され、中田直人弁護士らを公然と批判するようになり、中田らは弁護活動から手を引かざるを得なくなった1975.2らしい。だからそれまでは解同と中田弁護士らは、共に石川一雄を支援していたことになる。本書掲載の日記が書かれたころ、1965年66年と1969年70年は、65年は中田らだけが支援していた時期であり、69年は、両者と国民救援会も加わって三者が支援していたことになる。
救援会中央本部の難波英夫会長は、解同東京都連会長でもあった006。1968年3月、川越市での「狭山事件の真相を聞く会」に難波英夫が迎えられた。その後「守る会」1968.3も各地に生まれるようになった。002
年表
1968 1963年の5年後に国民救援会が石川支援を開始。
1969.3 解同が石川裁判を(単に冤罪事件ではなく)「差別裁判」と規定し、石川事件に対する方針を変更。それまでは「本人が自白を維持している」と中田からの支援要請を拒否していた。そしてこの1969年3月の解同全国大会で、共産党代表の挨拶を拒否した。
1973 石川が中田弁護人を拒否。
1974.11.22 八鹿高校事件
1975.2 救援会や守る会は石川支援から手を引いた。そのまま現在に至っているのだろうか。
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