稲垣真美『兵役を拒否した日本人』岩波新書1972, 2016
感想 2025年2月24日(月)
「鬼畜の時代」 私は1928年ころから1945年までを「鬼畜の時代」と呼びたい。というのはこの時代は、今の時代ではとても想像できないことだが、まさに鬼畜同然の人間が、自らを鬼畜だとも自覚せず、市民権を持って存在できたからである。共産党員や宗教家(ワッチタワー)、民主主義者(横浜事件)に対する特高の拷問を見よ。彼ら特高は、「お前らの一人や二人を殺しても構わないと言われている」と、上からのお墨付きをもらってやっているんだと暴言を吐きながら、鬼畜のような拷問をさんざ加えていたのである。恐ろしいことである。
その鬼畜的暴力を正当化した根拠 特高設置(内務省)、思想係設置(司法省)、憲兵(軍)=共産党弾圧から始まり、戦中の国民学校=軍人養成学校下での、四六時中の天皇教発狂時代。伊藤千代子も安倍晋三も「天皇陛下万歳!」この時代は階級や身分差別を絶対的前提として成り立っていた。
ことの始まりは明治初年の自由民権運動への弾圧から、無政府主義、震災時朝鮮人弾圧・殺害事件、共産党弾圧へと進む。そのとき一般の日本人にも、共産主義や無政府主義の文献ばかりでなく、自由主義的西洋文化も入って来ていて、知識人の意識は高まっていた。だから鬼畜弾圧下の戦時中でも、自由主義的な発言や、発言に至らないまでも、自由主義的な思いが、人々の心の中に残存していたことは注目に値する。
富者の恐怖心 今のトランプが声高に雄叫びをあげ、イーロン・マスクはドイツのための選択肢に声援を送っているとのことだが、その雄叫びや示威行動は、彼らの内心の恐怖心が反映されたものと見ることができる。戦中の内務省、軍、右翼も同様であり、彼らの強がりは、彼らが社会主義的・民主主義的思想の流入に恐れをなしていたことの反映だと解釈することができまいか。今の自民党保守派が夫婦別姓に、選択的であっても反対するのは、古い日本の伝統が消滅したら、日本人としてのよりどころを失ってしまうと危惧するとともに、進歩的な海外生まれの慣習に反発しているのだろう。そして改革派が声を上げれば上げるほど、彼らはいきり立つのである。元名古屋市長で現保守党の衆議院議員の河村たかしなどもそうではないか。
感想 2025年2月23日(日) 読了
戦争(に兵隊として行くの)は嫌だ、という気持ちを筆者も持っていたが*、それを口にすることはできなかった。筆者曰く「1945年8月上旬、19歳の勉強半ばに入営することになったとき、これに類する気持を持っていた。」戦争を忌避するという話は聞いたことがあるが、戦争を拒否するということには勇気が要る。誰にでもできることではない。
しかしこういう見方もある。つまり恐れているのは、当局の方ではないか。たった一人でも、その巨大に見える国家権力に立ち向かうことができる、という考え方だ。それはそうだろうが、口では言えても実行はなかなかではないか。195
*大正デモクラシーの力はすごかった。この戦中の1945年当時でも、その残り火は消えていなかった。細川嘉六のあの激しい文章、『世界史の動向と日本史』も1942年に出版されていたではないか。非戦・反戦・厭戦気分で「世界国」の理想を説くH. G. Wells “The Outline of History”, 1920『世界文化史体系』(昭和2年6月20日、綜合自然史学研究会出版刊 北川三郎訳(宇宙の誕生から人類の誕生までを記した歴史書))が、筆者の少年時代に出回っていて、筆者は軍隊のない国を夢見たという。
共産党員(春日庄次郎・竹中恒三郎)は優しい。明石順三に聖書を手配するように刑務所当局に働きかけてくれた。また共産党員の情報網は速かった。日本の敗戦をつかんでいた。敗戦時ころから浪曲が房内放送で流れだしたという。178, 180
食糧事情の酷さ。蛆虫まで食べたという。175
感想 2025年2月22日(土)
自身の子どもへの体罰や輸血禁止などで知られる「ものみの塔・エホバの証人」ですが、もともと「ものみの塔」はアメリカ生まれで、戦前の1920年代ころ1926/4、明石順三という滋賀県出身の人が、日本に持ち込み、日本や朝鮮、満州で、リヤカーに荷物を積んで布教活動をしていたのですが、順三の息子真人は「殺してはいけない」という教えに従い、徴兵1週間後に銃を上官に返納したという。
ところが不思議なことに真人は体罰を受けることもなく、動揺したのは上官の方だったという。結局軍法会議で懲役2年の判決が下ったのだが、他にも2人、兵役を拒否する信者が出たせいなのか、この判決の1週間後に、当局は、すでに全国の布教状況をつかんでいたらしく、全員を検挙したという。
それからの特に順三に対する拷問はひどく、横浜事件での拷問同様、まさに鬼畜のような拷問が加えられた。本書のその部分を写真で載せました。卒倒しないでください。
この拷問が加えられた1939年ころは、日中戦争1937年が始まってすでに2年経過していたころであり、軍部=政府=内務省の幹部某々は、「殺しても構わない」という弾圧方針を決定していたに違いない。しかしそういう政策を決定した当局者の名前は出て来ませんね。森友文書改竄や学術会議任命拒否などを指示した人がいるはずなのに、それを誰が指示したのかが明らかにされないのと同じですね。日本政府が慰安婦や徴用工などに対する謝罪や補償を拒否してしらを切っているのと通じる問題かもしれません。
以上、思いつくまま。
疑問
明石順三はワッチタワーにどのように接近し、どのように傾倒したのか。明石が日本に出張・帰国した理由は伝道とされるが、その伝道に抜擢された経緯や理由はどんなだったのか。その頃の明石のワッチタワーに寄せる思いはどんなだったのか。最初の妻からワトソンという人物を紹介されたとある。009
本書で紹介されるワッチタワーの著書は、米国の著書の翻訳である。明石順三の著書ではない。093
本書に出て来る『神の竪琴』『政府』『預言』などは全てラザフォードの著書であり、明石順三がそれを翻訳した。Wikiによれば、
J. F. Rutherford 1869—1942 ラザフォードは「ものみの塔聖書冊子協会」の2代目会長で、チャールズ・テイズ・ラッセル以後の「ものみの塔協会」の宗教を推進した。冊子The Golden Age, 1919--, 『黄金時代』誌(後にConsolation, 1937, 『慰め』、現在の『目ざめよ!』)を創刊し、「エホバの証人」という名称を使用した。
多数の著書の中から、本書に出てくるものは、
Harp of God, 1921, 『神の竪琴:臨在さるる栄光の王平和の君なる主イエスに捧ぐ』明石順三訳、万国聖書研究団(会)1925 (The Harp of God, 1928. 1, Watch Tower Publicationという記述もある)
Government, 1928, 『政府』明石順三訳、万国聖書研究会1930
Prophecy, 1929, 『預言』明石順三訳、万国聖書研究会1931
Charles Taze Russell, 1852—1916, チャールズ・テイズ・ラッセルは「エホバの証人」を設立した米人。「聖書研究会」を開く。1879年、『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』誌を創刊。「シオンのものみの塔冊子協会」を設立。
本書では米人ラザフォードによるこれらの著書の一部が、明石順三の翻訳を通して紹介されているが、私の感想は、キリスト教の教理はともかくとして、その内容が極めて左翼と似ているということである。
つまり1920年代当時のアメリカでは、左翼思想が相当の広がりを見せていたと想像できるのである。戦争で儲ける資本家、資本家の利益を代弁する政治家034、投票の買収034、愛国心で騙されて戦争に向かわされる民衆039、死ぬのは民衆であって、資本家は安全地帯に隠れている039、抑止武装論037、資本家によるマスコミ掌握035、…である。
明石順三の第一回目の逮捕1933=任意出頭は、4日で出獄されているから、当局はそれほど大物とは見ていなかったのかもしれない。049
第Ⅲ章 明石順三の長男・明石真人の兵役拒否の話を読んでの感想
戦争は嫌だ。人は殺したくない。私は明石順三の息子明石真人のように戦争を忌避・拒否できただろうか。
それでも今戦争は着々と準備されている。
軍隊のリンチは非合理的で、その時の気分次第で、何の理屈もなかったようだ。私的リンチである。
兵役を拒否する異端の息子明石真人に対して、正統派カトリックのクリスチャンが暴力を振るおうとしたという。083
このあたりを読んでいると、灯台社の兵役拒否は、組織的な取り組みではなく、個人的判断に任されていたようである。明石順三の長男・明石真人は、育った環境から自然と、人殺しを嫌い、力むことなく「銃器をお返しします」と申し出た。080
予想外の1939年の灯台社に対する大弾圧を「当局」が敢行、而も新聞報道もしないから民衆には分からない、まさに夜と霧。
当局はそれまでに弾圧計画を練っていたはずだ。何年も前から。尾行し、内偵していたはずだ。
日本の政治の特徴は、誰が政策を決定したのかが不明確なことだ。終戦直後は公文書(証拠)を焼却処分して隠蔽した。現代の森友文書の改竄指示は誰がしたのか、学術会議6人の任命拒否は誰がしたのか、戦前の共産党や横浜事件で、「お前らなど何人殺してもいいのだ」と思わせる鬼畜のような拷問処分を認可したのは誰なのか。
灯台社の第二次弾圧は1939年6月21日の一斉検挙から始まった。1939年6月14日の時点では懲役2年093で済んだが、6月21日にはひどい拷問と獄死者も出した。そういう政策決定を発案し、認可し、出したのは誰なのか、が見えてこない。
感想 2025年2月22日(土)
人間はここまで鬼畜同然になれるのか。
灯台社関係者の話ではないが、東海地区で検挙した左翼の女性二人を、裸にして、逆立ちにし、陰毛をろうそくの火でもやしたという。127
1944年12月のある寒い日に、村本一生を裸にして後手に縛り、水浸しのコンクリートの床に仰臥させて鼻腔から水を注入して、気を失うと、蘇生させ、蘇生すればまたやったという。拷問の理由は非国民だから。熊本県の某刑務所の看守ら10数人の仕業。152
そのDNAが今の日本人に残っている。埼玉県でクルド人を苛める男。
メモ
はじめに
ⅰ 十五年戦争下の民衆による反抗・抵抗が存在したことは、戦後しばらくは一般に知られていなかったが、近年、官憲側の秘密資料が発掘され、その抵抗の実在が明らかになった。思想問題担当の判検事に配布されていた『思想月報』『思想研究資料』『思想資料パンフレット』は、いずれも司法省刑事局部内の極秘文書であり、治安対策の特高警察関係者に配布されていた『特高月報』は、内務省警保局の極秘文書であった。(「発掘された」と筆者は言うが、これらの文書がどういう経緯で発掘されたのだろうか。いずれにせよ、司法省や内務省の関係者は、その悪行の限りを国民に対して隠していたのである。)
Ⅰ 明石順三と灯台社
明石順三の渡米
002 明石順三は彦根中学を2年で中退し、1907年、渡米を志して、島貫兵太夫が東京で主宰していた力行会に入り、渡航の準備をした。島貫兵太夫は(キリスト教系の)東北学院の一回生で、プロテスタントであり、海外雄飛を苦学生たちに推奨していた。
003 明石順三が渡米したのは1908年2月、18歳のときであった。
ワッチタワーとの出会い
010 チャールズ・テイズ・ラッセル1852—1916
015 ジョセフ・フランクリン・ラザフォード1869—1942
第一次大戦下、二十数人の若者が、現在の国家制度を悪とするワッチタワーの教説に影響され、徴兵を拒否した。
016 ワッチタワーは牧師をつくらず、そこで洗礼を受けた者を、聖書に示されたエホバの目的を証する人間という意味で、「エホバの証者」又は「エホバの証人」Witness of Jehovah と呼び、1931年、それを正式の呼称とした。
ラザフォードらは(ペンシルバニア010)州の裁判で20年の刑を言い渡されたが、信者らの釈放・無罪の請願運動の結果、翌1919年3月、最高裁は釈放を命令し、1920年、全員無罪の判決を言い渡した。ちなみにラサフォードは20年の刑を言い渡されたとき「今日は私の生涯で最も幸せな時である。なぜならば、自分が信じる宗教のためにこの世から罰を受けるのは、人類の持ちうる最大の特権の一つであるからだ」と語ったという。
灯台社の創立
Ⅱ 灯台社の思想と最初の受難
灯台社の思想
灯台社文献にみる戦争批判(すでに触れたが、以下はいずれもラザフォードの著作で、明石順三が訳したもの。1920年代ころのアメリカ資本主義の事情を描写している。)
034 『神の竪琴』294頁「工場や製造所等に関する労働状態を見るも、従業者や職工の労銀は雇主の手で益々削り取られるばかりか、雇主側は容赦もなく解雇手段を執り、今や、何百万という失業者をして喰うに食なく、妻子を養い得ざる悲惨なる状態に陥れ、しかも彼ら資本家側は不義の栄華を楽しんでいるのである。一方、富める者より僅かな労銀を得て彼らにほとんど生死の権を握られている労働階級の人々の心には、益々悲哀の念が刻み込まれて行く」
『政府』16頁「良心の全く腐れ果てたる暴利資本家は、虚偽と巨額の金を以て政府当局と民衆の投票権を腐敗せしめ、己が悪行為を盛んに継続している。これら貪婪なる悪しき暴利資本家こそ、黒幕の中にあって、政府の実権を握るものである。この故に政府の実権は、金を以て神と崇むる極く少数者の手に全く掌握されているのである。」
035 『政府』357頁「今日において最も強欲の徒は、その強大なる財力と権力、勢力を用いて、社会の報道機関なる新聞雑誌を自由に支配し、…」
037 『預言』308頁「政権者は〝平和″を叫ぶ商業権者によって支持されつつなお莫大巨額の金銭を費やして戦備を整えている。彼らの主張するところは、″戦争を回避しうる唯一の方法は、互いに戦備を充実するに在り″というのである。」
038 『政府』26頁「欧亜の諸国はいずれも陸軍・海軍・空軍の戦備充実に熱中している。世界大戦休止後十数年、国際連盟の組織後すでに十数年の今日に於いて、諸国はその政治家達の吐き散らす平和演説とは全く反対に、その武装を益々厳重にしている。即ち大資本家が軍備撤廃を許可しないのである。次の大戦に対する各国の戦備は着々と進行中であって、民衆はいよいよ甚だしくなる重税の負担下に益々苦悩す」
最初の受難
044 1928年6月、治安維持法の最高刑が死刑に改悪され、同年7月、思想取締のため内務省に特別高等警察課(特高)が新設され、憲兵隊にも思想係が設置された。
047 内務省に特高課が置かれたのにつづいて、1932年6月、警視庁や各道府県警察部に特高課が置かれ、全国的に特高網が敷かれた。
明石順三の手記『灯台社事件の弾圧と虐待顛末報告書』は、1949年3月の、国会図書館調査立法考査局による、戦時下宗教圧迫に関する調査依頼に答えたものである。
049 「昭和8年1933年5月、千葉県特高課の手にて灯台社の一斉検挙が行われ、全国に於いて百余名の文書伝道者が検束された。折柄支部長(明石順三)は満鮮地方の巡回講演中であったが、奉天(瀋陽)にて同検挙の新聞記事を見、直ちに千葉県特高課と電話連絡、京城経由帰京して(5月22日)千葉県庁に任意出頭した。即日市川署に留置され、特高課長及び高乗部長の厳重取調を受けた。この結果、過去6年間を通じて合法的に発行頒布しつづけて来た書物冊子及び印刷物全部は発売禁止処分され、その残存品数百部が押収された。支部長は留置4日後(5月26日)虱4匹を土産として釈放された。」
050 「昭和8年1933年5月、不敬容疑を以て、千葉県下に在りて活動中なりしパイオニアの検挙事件が勃発したるが、波紋は拡大して東京市の灯台社本部を始め、全国に及び、宣伝文書は悉く押収せられ、且取調の一段落まで布教の中止を厳命された。この第一次検挙事件は『黄金時代』34号、66号を除く全刊行物の発売禁止処分を以て終幕となった。」(司法省刑事局『思想研究資料』特輯96号、207頁)
051 米国のワッチタワー本部が第二次大戦後に刊行した機関誌や『エホバの証者』関係の資料によると、「ドイツには1933年1月当時1万9268人のエホバの証者がいたが、同年4月、ワッチタワーの印刷工場や集会所が警官によって占拠されて集会も禁止となり、以後地下活動を余儀なくされたが、ヒトラーはさらにエホバの証者を絶滅しようとして、ナチス秘密警察によって検挙・投獄を繰り返して各地の強制収容所に送り込み、逮捕されたワッチタワー関係者は、1934年から1945年までに1万人以上に及び、監獄や強制収容所で言語を絶する過酷な扱いを受け、約2千人の信者が拷問と虐待の中に生命を落とした。」と記している。
052 1933年6月17日、京城の灯台社事務所を警官が襲い、単行本や小冊子を含む文書5万部を押収し、荷車18台に及ぶ灯台社財産の撤去を命じ、また8月15日には、平壌のエホバの証者の朝鮮人宅を手入れし、3万3千部の文書を押収した。
しかし灯台社に加わった朝鮮人の信仰は固く、第二次大戦下、獄につながれながら非転向を貫いた文書伝道者の玉応連や崔容源らが育ち、後に多くが獄死しても、聖書信仰の立場を変えなかった朝鮮人が生まれた。
Ⅲ 村本一生と明石真人の軍隊内兵役拒否
再建灯台社の活動
060 明石順三の心意気「日本の対支行動は絶対に侵略行為であって、この結果は日本を亡ぼすこととなる。天皇は人間の一人であって神に非ず。この人間天皇を擁して全アジア否全世界を征服せんと企図するがごとき計画は、悪魔に踊らされる軍国狂徒の誇大妄想である。故に、真に日本と日本人を愛する者は斯かる狂徒の妄言に惑わされるな」
村本一生の入信と応召
明石真人の兵役拒否
078 明石真人は1939年1月10日、東京世田谷三宿の野砲第一連隊に二十歳で現役入隊した。
085 警察捏造文書 『昭和十六年中に於ける社会運動の状況』(1942年12月、内務省警保局)は真人の軍隊内での兵役拒否について記述している。
「上官に対し、〝宮城遥拝、御真影奉拝のごとき偶像礼拝行為は絶対に為し能わざる″旨、および〝天皇は神エホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔サタンの支配下にある地上的一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇に対し忠節を誓う等の意志は毛頭なき″旨の不敬言辞を弄し、さらに上官より馬術教練に出場すべき旨、命令を受くるも、〝馬術は戦闘行為の演練にして、右命令に従うことは、取りも直さず神の教旨に背叛することとなる故、絶対其の命令に服すること得ざる″旨、抗言する等の所為を敢行したるため、直ちに憲兵隊当局の取調を受け、…」
086 真人は乗馬のことなど言っておらず、これは憲兵の作文である。「聖書の教えに悖るから銃を返したい」と言っただけである。真人は不敬・抗命の罪名で起訴され、その年(1939年)の6月14日、東京青山の第一師団での1回だけの軍法会議の裁判で、懲役3年の刑を受け、代々木の陸軍刑務所(衛戍監獄)に収監された。
村本一生の兵役拒否
093 村松一生は明石真人と同日の1939年6月14日に、場所も同じ青山の第一師団の別の軍法会議法廷で、懲役2年の判決を受けた。司法省刑事局『思想月報』66号(1939年12月)に、後に村本が書いた獄中手記とともに、村本に対する軍法会議判決全文が載っている。
灯台社関係の軍隊内兵役拒否者は、明石真人、村本一生、三浦忠治(四国の善通寺師団管内)の3人であるが、明石真人と三浦忠治の軍法会議記録は発掘されていない。
093 村本一生に対する軍法会議判決書 罪名は「不敬抗命」である。
Ⅳ 特高の弾圧と灯台社の抵抗
101 明石順三著『富』1938年7月より抜粋。
102 1939年6月21日午前5時、警視庁と荻窪署の武装警官約50名が、荻窪の灯台社を包囲・襲撃した。このことは軍当局と特高警察との連携を物語り、3人の軍隊内抵抗者が軍法会議で処断されてから僅か1週間後のことであった。
同じく1939年6月21日の払暁、文書伝道者の隅田好枝は、奉仕者の15、6歳の少女と共に、渋谷署の特高2人に寝込みを襲われ、懲役3年の刑に処せられた。控訴中に肺疾に罹り、危篤となって入院するまで外界に出られなかった。隅田好枝は、後に明石家の養女となった。隅田好枝に聖書を奨めた広島県灯台社の藤田澄三は獄死した。
新聞はこの灯台社の全員検挙について報道しなかった。東京本部で30人近くが、また全国では百数十人が検挙され、武装警官隊まで動員されたのにである。
104 鬼畜特高 明石順三は『灯台社事件の弾圧と虐待顛末報告書』の中で、特高による拷問について書いている。
「荻窪署の看守たち(村越某・村上某)は、些細なことで妻子(妻静栄53、二男力20、三男光雄18)を口汚く罵詈・嘲笑し、殴打・暴行を加えた。」
そして順三51だけは8月末に、荻窪署から尾久署にタライ回しされ、それ以後7か月間、警視庁特高二課宗教班長木下英二警部、取調主任吉成源五警部補、金森・岩瀬両課員らの極めて意地の悪い取調べを受けた。
105 検挙は治安維持法違反、不敬を名目に行われた。取調べにおける拷問は、供述の強要手段というよりも、拷問のための拷問、彼らの(勝手な)口実を設けた悦楽にすぎず、どす黒い欲求のはけ口としての歪んだ悪の性質に充ち満ちていた。
「木下班長は時々取調状態を見回りに来たり、時には本庁の同僚を同伴、常に支部長に対して揶揄、嘲笑の態度を持し、或る時の如き暴力団の如き肥大なる一壮漢を同伴して来るが、この壮漢柔道の達人とかにて、〝柔道を教えてやる″と称して支部長の矮躯(わいく、背丈の低いからだ)を手玉にとって投げ飛ばした上に、両椅子の中間に支部長を俯け(うつむけ)に橋渡しし、背中の上へ靴のまま飛び乗って、〝これはいい橋だ″と興がって踏みつけた。木下班長はその傍らで煙草を吸いながらニヤリニヤリ見物していた。吉成主任は支部長の前頭部を逞しい手で鷲づかみにし、〝石壁とお前の頭とはどちらが固いかを験してやる″と言いながら、ゴツンゴツンと打ち付けて喜んだ。」
107 明石順三と一緒に荻窪署に留置された幹部の赤松朝松自身は拷問を受けなかったらしいが、順三が拷問のために顔が変貌しているのを目撃して胸を痛めたという。
赤松はそれ以外にも同房の、共産党関係の容疑で逮捕された青年が、夜中に呼び出されて刑事部屋か武道場へ行くと、しばらくして餅でもつくような音が聞こえ、まもなく特高係の腕に支えれたその青年が、半死半生の状態で房へ戻されてきて倒れたのを見た。水を飲まされてやっと息がつけるようになったその青年に聞いてみると、裸にされて滅茶苦茶に殴られたり蹴られたりしたという。部屋に社会科学関係の本があっただけでしょっぴかれたのだと青年は話したそうである。(1939年の話である。)
一方的裁判による重罪判決
111 以上の警察による「取調べ」は当局の既定方針で、東京刑事司法裁判所が、警察の取調べを指揮した。同裁判所の検事西ヶ谷徹は1940年5月に司法省で開かれた「思想実務会同」で、以下のように語っている。同会同は治安対策と言論・思想・信仰を取り締まる全国の地裁・控訴院などの判検事の会議である。この会議の議事録は『思想研究資料』特輯79号(1940年8月、司法省刑事局極秘資料)に記録されている。(この部分は上述のような鬼畜の拷問をなぜ当局が許したのかという根拠ではなく、有罪とするために、治安維持法第一条の「国体変革」のための「結社」を根拠づけるものである。)
西ヶ谷検事は語る。
「警視庁はかねてから灯台社の結社の実態を内偵してきたところ、明石真人、村本一生、三浦忠治が軍隊内で銃器を返納するという抗命・不敬事件が発生した。そしてこの三人の思想信条が、灯台社を構成する「エホバの証者」の全員に通じることが確認できた。現時局においてこの結社の存在は一日も許されず、一斉検挙を断行した。
「被疑者等の陳述によれば、灯台社が、現在の悪魔の組織・制度である世界各国の支配統治機構や社会・宗教・経済機構等の全部を破却一掃し、神の聖意による統治組織である「神の国」をこの地上に実現しようとする神エホバの目的を自己の目的とする結社であるということが判明した。そしてその教理は国体の変革と天皇制の打倒を目指すものである。
「灯台社の教理は以下の通りである。万物の創造主である唯一至上の神エホバが地球と人類を創造した目的は、神の意志に絶対服従する正義の人類で地上を満たそうとすることだったが、最初の人類アダムは悪魔ルシファーの邪道により、神の律法を破り、以後の人類は生存権を持たない罪人として生まれた。悪魔ルシファーはもともと神エホバが全人類の賛頌を受けるのを嫉み、人類を神から離反させ、みずからが人類を支配しようという野望を懐き、イブを欺いてエホバの律法に反逆させ、自己の意志を地上に代行させるために、独裁的偽善的国家組織や資本主義的経済機構、ローマ法王教権を中心とする宗教制度を組織経営した。そのために世界の全人類は戦争、圧制、貧困、疾病等の不幸不快な状態に苦しんでいる。
「国家は悪魔の組織制度であるから、これから離脱してその統治に服さないことが正義であり、国家の制度も近い将来神の手によって必ず崩壊されるべきものとなる。
「神によって撃滅一掃されるべきものは、悪魔だけでなく、悪魔によって組織され、悪魔によって利用され、悪魔の意思を代行している国家組織などの悪魔の組織制度を含み、我が皇室も、現在の世界各国の統治組織も、その撃滅対象となる。
113 「当然我が皇室も悪魔の組織制度に屈し、神の国の実現の暁には、皇室の御統治も変革される。皇室が灯台社の真理を入れ、神エホバの聖意に服する場合でも、天皇は個人としては祝福されるが、その国家統治権は存続されず、(天皇は)一般国民とともに被統治者の地位に就くなど、誠に恐懼すべき信念を持っている。」
「灯台社は現在の悪魔の組織制度は近い将来ハルマゲドンという空前絶後の一大災禍によって撃滅一掃されると説く。ハルマゲドンとは、イエス・キリストが指揮する天軍が、悪魔の組織制度を撃滅する戦いであると灯台社は説く。若し我が国の主権者や国民の全部が神の側につけば、我が国はハルマゲドンの災禍を免れて神の国に移行すると灯台社は説く。
「灯台社のその証言・宣明行為は、国体の変革を目的とし、その手段として遂行しつつあるものであり、また一般に、この証言を全部受け入れることは事実上期待しがたく、したがってハルマゲドンの到来はやむを得ないということになる。
「ハルマゲドンの際には神の側に立たない者は全部殺戮されてしまう。また証言や宣明行為だけで国体変革の目的が達成されない場合でも、エホバの証者は証言・宣明行為によって、神の国に服従する善意者と大勢の群衆を獲得し、これによって悪魔の組織制度の内部に混乱・動揺を誘発し、その組織を部分的に崩壊させる。そしてハルマゲドンの際に神の国に服従しなかった者が撃滅されるのと呼応して、(灯台社は)神の側に獲得した善意者を保護し、その信仰の強化を図り、さらにハルマゲドン後は、生き残った者を指導して、神の国の建設任務に従事させるのだから、これら一連の行為は、灯台社が国体変革の目的を以て為す手段であると認めるのに十分である。」
検察側は大審院検事局と協力し、1933年5月の第一次検挙後に明石順三が信仰の強固なものだけを糾合して運動を再組織したときに新たな結社が組織されたものと一方的に決めつけた。
「灯台社教理に依る世界支配体制変革の一環として我が国体を変革し、所謂地上の〝神の国″を建設することを究極の目的とし、同教理に基く証言宣明行為に依りて我が国民の国体観念を腐食せしむると共に、現存秩序の混乱動揺を誘発せしむることを当面主要の任務とする結社なり」
115 第一審、第二審ともに傍聴禁止の秘密裁判だった(『灯台社事件の弾圧と虐待顛末報告書』)が、その第一審の公判記録の一部が、内務省警保局関係秘密資料『昭和17年中に於ける社会運動の状況』1183頁以下に残っている。122 控訴審判決文(裁判長判事藤井五一郎)の一部。(司法省刑事局極秘『思想月報』103号)
122 第一審では、明石順三と明石静江はともに懲役12年、他の灯台社関係の起訴者は懲役5年から2年の判決をうけ、転向者は執行猶予付きにされた。多くが控訴し、第二審では、順三は懲役10年、静江は3年6か月の判決を受け、上告は棄却された。
あいつぐ殉難者たち
127 女性に対する鬼畜の拷問 灯台社関係者ではないが、東海地区で検挙された左翼関係の2人の女性は、全裸にさせられ、特高2人の目の前で倒立することを強要され、蠟燭の焔で体毛を焼かれた。拷問は官憲の嗜虐的な欲望のはけ口となっていた。
128 明石静江は1944年6月8日、病名もはっきりしないまま、58歳で獄死した。そのころ明石順三は宮城刑務所の独房にいて死に目にも会えなかった。検挙以来夫妻が公判廷で顔を合わせたのも一、二度しかなく、ずっと音信不通のままに置かれていた。
129 灯台社の検挙者のうち他にも拷問で不具となったり、大病を患ったり、廃人同様になって獄死したりする者が出た。
隅田好枝は、未決で巣鴨の拘置所に移されてから肺結核となり、1942年の一審で懲役3年の判決を受け、その控訴中に病状が悪化して喀血し、呼吸困難・危篤状態となって板橋の病院に運び出されて入院した。公判中断のまま病院で3年過ごし、1945年秋に検事免訴となった。戦後も療養を続け、鹿沼市の病院で1970年ごろまで、通算30年近くの療養生活を送った。
130 田辺とみは旧灯台社員から手紙を受け取っていたというだけで、1941年12月、熊本県下で検挙され、2年後懲役3年の刑を受けて栃木刑務所へ送られ、1944年に獄死した。
村田芳助は秋田県横手の駅長だったが、第二次一斉検挙の際に仙台で検挙され、最後は宮城刑務所で服役し、6年間の獄中生活を送った。50代での拷問は厳しかった。1945年9月、敗戦後の措置で出所はできたが、1か月後に衰弱死した。
朝鮮人青年玉応連は中学時代にキリスト教に入信し、1938年4月から灯台社の奉仕者になり、朝鮮の黄海道や平壌で機関誌『幸福の道』を配布し、24歳の時に一斉検挙で明石順三とともに検挙され、1942年5月、懲役4年の判決を受け、控訴もせずに豊多摩刑務所で服役したが、発狂して獄死した。
信仰は自らの内心の問題である。転向は却ってその自由を失わせる。
132 国家権力は異人種に対しては有無を言わせぬ圧制に出た。1938年6月ころから朝鮮におけるエホバの証者の逮捕が始められ、1939年6月21日の日本での第二次一斉検挙に続き、朝鮮でも同年6月29日、京城の灯台社支部の朝鮮人エホバの証者の全員30人以上が逮捕された。神社に対する拝礼を拒んだとして投獄され、某女性信者は獄中でつねに深々とお辞儀した姿勢のまま2年間以上鎖で石につながれた。
133 崔容源は玉応連とともに東京の本部で検挙され、懲役5年の判決を受けたが、これは不当に重い刑だった。崔は控訴をやめて宮城刑務所で服役した。崔は京城中学を中退し、逮捕当時は24才だった。
明石順三によれば、第二次一斉検挙後、台湾東部海岸の僻地の池上部落などの高砂族の男女270余名の同信者が大量検挙され、男子は南洋諸島へ日本軍飛行場の建設に奴隷として送り出され、若い婦人は警官によって森林内に拉致され、素裸にされて針金で樹木に縛られ、〝キリストの洗礼の代わりに俺たちが洗礼してやる″と言われ、バケツの水を浴びせられた。池上部落周辺の高砂族(山地人)は温和でやさしい人たちだった。
1940年8月、灯台社は内務大臣による強制閉鎖命令によって解散させられ、明石家の住居兼本部の建物は1942年の内務大臣命令によって強制売却され、それには転向者が対応した。淀橋署で灯台社再建の容疑で再逮捕されていた三男の明石光雄は、家屋売却直後に釈放されたが自宅がなく、江東の鉄工場で住み込みの工員となった。
Ⅴ 非転向者・転向者の明暗
村本一生の獄中の反戦手記
138 陸軍刑務所長は獄中の村本に手記『シナ事変の真相』(1939年8月18日完成146)を書かせて灯台社の思想を把握するのに利用した。この手記は陸軍省法務局通達文書として司法省刑事局に送られ、部内極秘資料として『思想月報』66号(1939年12月、司法省刑事局)に掲載された。「本手記は彼の抱持する思想を赤裸々に表白していて興味あり、かつ目下各地の検事局に於いて捜査中の所謂灯台社事件の取調等に関し参考になると考え掲載した」と付記されたものが現存する。
140 「盧溝橋事件を発端とする日華事変はいまや戦線拡大を重ねる一方であり、事変のため諸外国の対日感情も悪化し、国際的にも日本は孤立無援の状態に陥った。しかもこの難しい局面について、民衆は何一つ知らされないまま、徒に感情的刺激的な軍部の宣伝文字を羅列満載する報道などによって戦争に駆り立てられ、巷には殺伐な軍国絵巻が繰り広げられる。」…
141 「第一、この事変は、戦争としての大義名分もまことに不分明で、なぜ日本が戦争をしなければならないかという理由が、国民にはまったくわからない、戦争勃発の原因すらわからない。」
ドイツやイタリアでナチスやファシストの独裁支配が実現した過程
一、社会不安が増大するにつれて共産党の勢力が強まり、議会における議席も増えると、〝悪″の支配層によって輿論操作が行われ、無産党の脅威が国民に吹き込まれる。
二、一方、ファッショの反動勢力が要請される。
三、時期を見て無産党への資金供給源が絶たれ、逆に反動ファッショへの豊富な資金供給がなされる。
四、国民の反動化の波に乗ったファッショは、多額の運動資金とあいまって急激に勢力を拡大し、急速に委縮した無産党をひと思いに潰滅させる。イタリア共産党もドイツ共産党もこの方式によって顛落させられた。とくにドイツではナチスが国会議事堂に計画的に放火し、その責を共産党に帰するというやり口で一挙に葬り去った。
五、悪の体制下の報道機関は、この反動ファッショの指導者たちを〝救国の英雄″と賛美・宣伝させられる。ヒトラーもムソリーニもこうして〝つくられた″英雄にすぎぬ。
六、しかし衆愚化されている国民は〝つくられた輿論″に無条件に服従する。国民は〝英雄″を批判する能力もなく、独裁者が登場させられたからくりも知らない。
七、政府もまた、こうして登場させられた反動勢力に対してまったく無力で、やがてその政権を投げ出して、憐憫を乞わざるを得なくなる。
軍部将校による〝直接行動″と称するテロ、即ち五・一五事件、相沢中佐事件、二・二六事件、さらには〝天皇機関説事件″などの一連の事件は、日本が抜き差しならぬファッショ化の泥沼に踏み込んで行くのを示していた。中でも東京市民はじめ全国民を不安と恐怖に陥れた二・二六事件を契機として、政治・経済の面でも次のような情勢転換が見られた。
一 旧財閥系統の重臣ブロックの決定的崩壊とそれに代わる新興ファシズムの台頭、及び旧財閥の萎縮とカトリック系新興財閥の躍進。
二 軍部内における穏健派の後退と、〝日本主義″と称する急進ファッショの制覇。
三 政党政治・議会政治即ち立憲政治の実質的没落。
四 その他あらゆる方面におけるファシズム原理の採用。
こうして加速度的に日本のファッショ化は進み、もはやファッショ的人物にあらざれば総理大臣たり得ずとの不文律さえも打ち立てられてしまった。二・二六事件で新聞社が襲撃されて以来、新聞論調や言論機関も大転回させられた。この所謂〝日本主義″〝国粋主義″と名付けられたファシズムへの日本の転向は、果たして日本に益をもたらすのであろうか?否!
144 日華事変の背後にもファシズムの悪意と、戦争で利益を得る資本家の両方がいる。…体制の御用学者らの名で「共産党が日本と中国を戦わせている」と書いたものを見たが、その宣伝のなんと悪辣なこと、かかる者こそ〝亡国不遜の学匪″というべしだ。…日本は前に「中国に領土的野心なし」と言明した。それでいて「大陸新秩序の建設に邁進」し始めたら、諸外国は日本の過去の言明を楯に食ってかかってくる。…子供だまし的宣撫工作などではとても追いつかぬシナ民衆の徹底的対日憎悪あり。…(すごい分析力。驚嘆。)
146 司直は灯台社関係者を、「邪教を信じる異端の非国民」として印象付けようとしたが、それは悪意に満ちた見当違いである。147 村本の上記の手記は、明石順三の考えも反映している。
148 軍刑務所での制裁 村本は軍刑務所に服役後も宮城遥拝を拒み続けた。皇紀2600年を祝う1940年2月11日の紀元節の際、軍刑務所は、受刑中の兵たちも刑務所の庭に整列させ、宮城遥拝の儀式をさせたが、村本は頭を上げたまま立っていた。村本は監督の下士官にさんざん殴られても、その非を認めないと、両手を背中に緊縛されたまま、暗い懲罰小屋に監禁され、殴打され、塩と麦飯と水だけの食事という減食処分と戸外運動禁止処分を2か月間受けた。
また所長に「銃器返納を撤回しないと、教科学校に送る」と脅された。教科学校は姫路にある軍の機関で、逆さづりにしたり、竹刀で突いたり、ぶちのめしたりすると聞かされていた。
149 ただし、軍刑務所は民間の刑務所ほど酷くはなく、独房で軽作業させられ、古事記や国体に関する本を読まされた。
1939年5月から8月にかけて、満洲ノモハンでのソ連との戦闘で、彼がハイラルで所属していた第23師団の将兵が大量に戦死したと『刑務所新聞』で知り、神の恵みを信じた。
150 1940年11月ごろ、2年の刑期を満たずに釈放された。満州の彼の補充部隊の原隊が召集解散となったためだった。村本は11月下旬、民間の多摩刑務所に移され、12月16日釈放された。三男光雄が出迎えに来た。
151 郷里の阿蘇に帰った。陸軍刑務所より苛酷な、憲兵、特高思想警察、民間刑務所などの迫害を受けた。
釈放翌年の1941年8月、熊本市での補充兵簡閲点呼の際、宮城遥拝を拒否すると、臨場の憲兵の伍長と上等兵の二人が、村本に付き添って来た父親の前で、1時間半にわたって殴る蹴るの暴行を加えた。父が止めに入ったが無視された。村本は半死半生で気を失った。父は村本に何も責めなかった。
彼はその年1941年12月1日、灯台社再建の罪で、熊本県下で、田辺トミ(後獄死)、寺井幹彦(翌年1942年9月獄死)とともに検挙された。それは予防拘禁も兼ねていた。1943年、熊本地裁で治安維持法違反で求刑通りの懲役5年の判決を受け、熊本刑務所に下獄した。
152 熊本刑務所での処遇は言語道断であった。1944年12月、厳冬の某日、非国民を理由に看守部長他10数名の獄吏が、彼を裸にして後手に縛り上げ、水浸しのコンクリートの床の上に仰臥させ、鼻孔からバケツで水を注入し、気絶すれば手当して蘇生させ、また繰り返した。村本はその後腰などにひどい神経疾患に悩むことになった。便器に腰かけると腰が上がらなくなった。
戦後村本は当時を振り返り、「やりたいようにやらせておけと思い、痛いとも感じなくなった」と語っている。
明石真人の場合
153 明石真人も、村本一生と同日の1939年6月14日、村本より1年長い懲役3年の刑を受け093、同じ渋谷宇田川町の陸軍刑務所に服役した。真人も村本同様に、1940年皇紀2600年の紀元節の日に頭を下げず、半坪ほどの小屋で、両手を縛られたまま、塩と水と麦飯の軽屛禁という懲罰を受けたが、軍医による診断を受け、入浴もした。また村本は使役に出されなかったが、真人は昼間は図書室の図書係の仕事をし、本を読むこともできた。そして1940年紀元2600年の11月10日の祝祭日付の恩赦で、6か月減刑された。
154 真人は軍属の刑務所看守と急速に親しくなり、また転向の気配を濃くした。
155 真人は図書館勤務の間に二・二六事件の被告たちの書き込みのある古事記や日本書紀、徳富蘇峰の近世日本国民史などを読んで感動した。古事記や日本書紀、蘇峰の国民史は、獄中の左翼が転向するための必読書だった。
真人は獄中で転向宣言をし、1941年11月3日、仮出所を許されたとき、銃器返上の申し出を撤回し、世田谷の原隊に復帰した。
真人は陸軍刑務所を出所するとき、転向理由を明らかにした手記を書いて、それを当時未決が多かった旧灯台社関係者に郵送することに同意した。その手記は当時の官憲資料に全文が掲載されている。(『思想月報』89号、1941年11月、「元灯台社員明石真人の手記」)
156 手記の中で真人は、
「自分はこれまで国家に対する義務や責任、人間的な名誉や権利、現生に生活することを否定してきた。自分のみ精神的満足を得ようとするのは、自己中心の独善主義である。自分は聖書信仰という夢の中で眠っていた。
「父順三がルサフォードの説に反対して独自の教理を案出しているとの知らせを聞いた瞬間から灯台社の教義に魅力も興味も希望も感じなくなった。自分の信仰は宗教的なものではなく、父を前提としていた。…
「灯台社は神の国の具体的構造を示していない。ハルマゲドンの時に神によって救われることを知らない民族もいる。シベリアや蒙古、チベットなど、灯台社が伝道に行っていない住民は、ハルマゲドンのときに襲撃されてしまうのか。だとすれば不公平な神だ。
「灯台社は「光が変わった」と称してその教義に変更を加えるが、全能の神ならば変更するはずがない。灯台社の信仰はルサフォードが聖書をひねくりまわして都合のいい教義を作り上げたものによっていた。自分はもはや聖書を絶対的と認めることができなくなった。
158 「最も正しく生きるためには、完全な日本人としての意識をもつことが必要である。日本の偉大さは実は一君万民の世界無比の国体があるからである。その国体の観念のないところから、天皇機関説という日本人としての直観に乏しい理屈が飛び出して、民心の激昂を買う醜態を演ずるに至る。古事記や日本書紀を読むと、原始日本人の国体に対する偽りのない感情の記録として実に貴重なものであることがわかる。この古典の国体観を生かすことが日本人の責務であろう。自分は今真の日本人に復活し得たことを幸福に思う。今後は皇軍の一員として最善を尽くしてこの罪深き一身を天皇陛下に捧げ奉り、国家を守護すべく清く死ぬ心算(つも)りであります。」
159 国体思想は戦死を美化する巷間に流布した通俗的見解である。それは内面の自由や永続的な平和の希求などから平然と離れ、単に銃を取ることを可とする世俗の機構に無条件に身を委ねるという姿勢しかないのではないか。
160 東京地裁検事局の担当検事は、明石真人が問題視する明石順三からルサフォードに対する反論に関して、それが「『神が新しいエルサレムの建設地つまりイスラエル王国の都として東京を選定した』というものではないか」と、『明石真人の手記』(真人が1941年11月3日仮出所を許される前に書いた)の前書きの中で述べている。もしそうだとすれば、それは順三の獄中での新見解となる。その新見解は、1941年の秋の初め頃に(灯台社の第二次弾圧は1939年6月21日の一斉検挙)他の獄中の灯台社関係者に配布され、陸軍刑務所内の真人や、すでに出所して熊本に帰っていた村本に届けられたようだ。(しかしこの文書は官憲側の資料の中には発見されていない。)
しかしその新見解は、当局によって捏造された可能性もある。
161 村本一生と隅田好枝の記憶によれば、「(明石順三の新見解とされるものは)従来の教説と少しも変わっておらず、獄中でもパパ(順三)の信仰は揺らいでいないのが分かって心強かった」と言っている。
また、1940年8月9日付の、検事局での19回目の最終検事聴取書に、順三が当時の心境と将来の方針を語った陳述書がある。(『思想資料』パンフレット、司法省刑事局極秘、1940年11月)それによると、
162 「今では証言(預言)が世界中に行きわたっているから、証言するという仕事はすでに終わり、次の第二章について、私が過去1年余の拘禁中に考えたところ、私に新たに示されたものがあるが、今はそれについて申し上げることは許されない。」
また、1942年4月9日(開廷168)の灯台社事件一審第三回公判で、裁判長が「教義上の変化があったのかどうか」質したのに対して、順三はこう語った。(『昭和17年1942年中に於ける社会運動の状況』)
「裁判長 イエスの再臨(や)悪魔の悪霊者の問題について考えを変えたようだが、神が指示する真理は斯くも変わるのか。
順三 それは私の心に与えられた真理です。変わったわけではありません。益々新しい光が増し加わったために、私が斯く考えるようになったのであります。昨年度の凶作は神の警告です。
裁判長 聖書はそれを読む前に国民的感情を基礎とすべき修養の書ではないのか。
順三 聖書は人類に与えられた神の啓示の書であり、国家等を考える余地はありません。
裁判長 先ほどの言うておった、新しい光によって変わった真理は、日本の国体に添うようになるのではないか。
順三 絶対にそうはなりません。現在の光が最後です。
164 この公判は真人が父順三の思想に変化があったとする手記(真人が1941年11月3日仮出所を許される前に書いた)を書いた後に行われた。
原隊に戻った真人は戦車隊に入り、一等兵で帰還した。弟の力は兄真人の勧めで軍属になり、南方で戦病死した。
165 父順三は転向した長男真人と戦後になっても1965年に死ぬまで一度も会おうとしなかったという。
Ⅵ つらぬかれた非戦の立場
一億対五人の戦い
168 1942年4月9日に開廷された灯台社事件一審第三回公判の最終陳述で、明石順三は久しぶりに妻の静栄、隅田好枝、二人の朝鮮人青年崔容源(日本名、佐野要三)、玉応連(日本名、玉井両介)らと被告席に並んだ。その時の5人の発言が裁判記録にある。
検事が論告求刑し、明石順三は無期、明石静栄は懲役6年、崔と玉は懲役5年、隅田芳枝は懲役4年の求刑をした。
明石順三「私の今までの行為は法律に違反していない。聖書は公刊書であり、私が出版したものは検閲を受けている。現在私の後について来ている者は4人しか残っていません。私と共に5人です。一億対五人の戦いです。どちらが勝つか、近い将来に立証されることでしょう。」
法廷には傍聴人がいなかった。
171 1942年4月の時点で、非転向者は東京にこの5人、熊本に村松一生、仙台に村田芳助、広島に三浦勝夫など僅かしか残っていなかった。
「灯台社関係検挙者状況一覧」(『思想月報』77号、94号)によれば、起訴者52人中の大半が転向・脱落し、執行猶予付きの判決を受けた。
幹部の赤松朝松は転向しなかったが、一審で懲役5年の判決を受け、控訴中に病気、保釈同様となり、民間企業に勤め、戦後も信仰に戻らなかった。
むしろ、地方の女性の中に、軍需物資や軍事慰問品の供出を拒む人がいた。『昭和17年中に於ける社会運動の状況』(内務省警保局)によれば、新潟県灯台社関係の女性について、
「灯台社再建運動検挙 …派出看護婦葉フミイ当32年は、大正15年頃灯台社に入信。…昭和9年頃高知県下を伝道中、現在の夫葉国燕(台湾人にして同じくエホバの証者、日本名山本)と結婚。去る昭和14年1939年6月の一斉検挙に際しては、夫国燕と共に石川県特高課に検挙されたが、転信を誓って警察限り釈放せられたり。(葉国燕は起訴猶予処分を受け、昭和15年1940年5月釈放)しかるに、本名(葉フミイ)は、昨年1941年6月ころ以降、釈放当時の誓約を無視して再び旧邪信に復帰し、…新潟県特高課は、本省並びに検事局と打ち合わせ、本年昭和17年1942年5月19日、治安維持法違反として検挙取調べの上、8月7日送局したるが、11月10日付起訴(予審請求)せられたり」(注、葉フミイは現在吉沢姓。敗戦まで栃木刑務所の独房に拘禁された)
獄外にいた明石順三の三男の光雄は、灯台社再建の容疑で淀橋署に再逮捕されながら、非転向を貫いたが、1942年入隊。それは父の方針で兵役拒否をしなかった。軍隊は彼を要注意人物とマークし、殴られることもなく、演習にも参加させられず、内務監視の居残りをさせられた。光雄は銃は一度も取らなかった。
宮城刑務所の明石順三
173 明石順三は二審で懲役10年の刑を受け、1943年11月末、巣鴨拘置所から仙台の宮城刑務所へ移送され、入所翌日から独房で荷札に針金をつける作業をさせられた。指先は霜焼けで腫れてひび割れした。「網走刑務所の方がよほど楽だ」と某懲役囚が語った。網走には囚人を凍死させないだけの暖房設備があったが、宮城刑務所には暖房がなかった。
174 明石順三は非転向の思想犯であることを示す赤衣を着せられた。スフの肌着一枚と、薄紙を合わせたようなスフの袷の上下、綿入れとは名ばかりのチョッキ、夜着も薄い掛け布団と敷布団が一枚ずつ、それを欅板の床の上に直に敷いた。寒くて洗面用の小布を当てがったら、看守に見つかって廊下に呼び出され、往復ビンタの制裁を受けた。作業材料の軍手をこっそり太ももや尻の下に敷いたところ、看守部長に見つかり、60近い老体の順三は廊下に引き出され、往復ビンタを何回も見舞われ、30分余り直立不動の姿勢で説諭を加えられた。
175 赤衣の思想犯など一日も早く死ぬがいいという扱いを受けているとしか思えなかった。というのは刑務所規則で最低定められているはずの特典の全てが剥奪され、食事は最低限が支給されるだけであったからだ。重労働の囚人には一号二号の大きな型飯が与えられるが、独房の赤衣思想犯は、五号という野球のスポンジボールほどの麦の型飯にしかありつけなかった。そしてその型飯も、満州産の高粱(「赤飯」と呼んでいた)が混じるようになり、やがて麦も消えて大豆が入り始め、次には大豆が豆粕に変わった。それは大豆の搾り粕を型で抜いたもので、中には長さ2センチの蛆虫の死骸が無数に炊き込まれていた。最初は蛆を取っていたが、後には口に入れた。飢餓だからである。焼き大福の夢ばかり見た。塩分も欠乏し、涙が水のように辛くなかった。
飢餓以外の地獄 喧嘩口論が絶えず、さらに血なまぐさい騒ぎが起こった。それは食色をめぐる争いだった。また色情による争いも深刻で、囚人同士の奇怪な姿を見た。
176 青衣の雑役が、毎日のように五、六人の囚人が裏門から死んで出所していると教えてくれた。栄養失調と厳しい寒さのために持病を悪化させたのだ。戦時下で医薬品も入手しがたく、獄中では手当も十分に施されなかったからである。順三自身も瘭疽(ひょうそ)の手術を受けたが、医官はいきなり金属棒を指の爪と肉の間に突っ込んでこじり、鋏で、浮き上がった爪を切り裂いた。また大小便を所かまわず垂れ流す病囚が半年以上放置されていると聞いた。
思想犯だけでなく刑事犯も懲罰的に独房に入れられることがあった。20日前に拘禁された中学卒の強盗放火犯が、独居房での孤独に耐えかねて首つり自殺した。自殺は珍しいことではなかった。狂気も珍しくなかった。「看守さぁん、天皇陛下に会わせてくださぁい」と細々と叫ぶ声が聞こえてくる。「うるさい、ド気ちがい、死ね」と雑居房から怒鳴り声が応じた。強盗殺人囚が独居房に入れられたことのなれの果てであった。
177 明石順三はここで二冬を越した。強盗、殺人、窃盗、放火等々の「凶悪犯」と散歩等で顔を合わせると、みんな平和で大人しい人たちばかりだった。彼ら凶悪犯が、青衣を着た思想犯転向組を憎み、赤衣の非転向者を密かに尊敬していることもわかった。
初めての冬を越した春先の某日、刑務所の庭で雑草の花をつまんでいると、某凶悪犯が「はこべの花だよ」と教えてくれた。また散歩の最中に赤衣の崔容源が声をかけてきた。崔は赤衣の共産党の人達を明石に紹介した。市川正一、春日庄次郎、竹中恒三郎らである。市川正一は1929年以来の獄中生活で、他の共産党関係者も順三より四、五年から十年も長かった。明石順三が戦後書いた『同房記』1960によれば、
「どの顔を見ても栄養失調の影が極度に濃い。その蒼白い顔、顔、顔が身体を前かがみにして黙々と歩いている。その中に元気そうに胸を張り、両腕を振って歩く囚人を見た。…何かしらその全身に強い気魄というようなものが漲っているように見受けられた。」
これは春日や竹中のことである。
178 春日や竹中らは刑務所側に順三の希望どおりにするよう働きかけてくれ、順三は英文の聖書を手に入れることができた。また雑役の囚人が竹中の私物の書籍を言付かって来ることもあった。
順三が入獄以来耳にすることができなかった外部の情報も、共産党関係者が教えてくれた。1945年に入って間もなく、竹中は散歩中に「ルーマニアが共産陣営に参加した。日本の敗戦ももはや時間の問題だ」と教えてくれた。敗戦の気配は獄内でもはっきり感じ取ることができた。
8月半ばの某日、刑務所側がラジオの浪曲を房内放送で囚人に聞かせた。次の日は中村吉右衛門の『石切梶原』の舞台中継も聞かせた。それはかつてないことだった。共産党関係者が敗戦の事実を調べ出し、直ちに刑務所内の解放に着手した。順三も呼び出されて刑務所の中央ホールへ行くと、春日、竹中ら十数人の共産党関係者や思想犯など赤衣グループが集まってにぎやかに談笑していた。その時の情景を順三はこう記す。
「これまでは威張りかえっていた看守や青服たちの顔や姿が小さくなっているし、殊に青服の連中の羨ましそうな視線が春日さんらのグループに注がれている。「とうとう我々の勝利です」と竹中さんが言った。「8月15日に全面降伏したのです。マッカーサーの命令で我々はすぐに出所することになりました。それまではこの所内にいて自由に行動して差し支えないことになっています。」(『同獄記』)
180 赤衣の非転向組は赤衣を青服に着替え、独房も錠をかけられずに出入り自由となり、食事も大型飯に改められた。それでもなお政府は釈放をのばしのばししていたが、1945年10月9日、進駐軍命令によって、順三は共産党関係者らと共に釈放された。三男の光雄や非転向者村田芳助130, 171の娘リツ子に迎えられ、光雄とともに、栃木県鹿沼で歯科医を開業していた村本一生の弟ひかるの家に身を寄せた。そこで村本と7年ぶりに再会した。
村本一生は1945年5月、熊本の刑務所で空襲に遭った。防空壕は看守など官憲側が真っ先に入り、囚人は外にいて、焼夷弾を浴びて火だるまになった。村本は辛うじて難を逃れ、赤い獄衣のまま縄つきの姿で汽車で福岡の刑務所に移った。
福岡の刑務所では久留米絣(かすり)を織る作業をさせられた。課された作業量は1日一疋のところ、7月になると材料不足で10日に一疋がせいぜいとなった。(疋とは長さ23メートル、幅9寸5分=30センチの布)村本は欠食状態と長年の虐待とで衰弱が甚だしく、全身にむくみができ、長時間の作業は無理だった。
181 8月15日、福岡の刑務所は囚人に敗戦の事実をすぐには知らせなかった。天皇の放送も聞かされなかった。しかし8月15日の午前中までは米軍の爆撃機が来たが、午後からはぴたりと止まった。そして8月15日以降、房内放送で浪曲が流され、囚人たちも敗戦の気配を察知した。そして3日ぐらい後になって、敗戦の事実を確認した。
衰弱死一歩手前の村本は、鹿沼の弟の所へたどり着いた。そこで再会した順三は「おもしろかったね」と言った。村本は「そうでしたね」と返した。村本は獄中の苦しみはただ神から与えられた試練だと考えていた。
いつわりの平和を排す (日本は武器を輸出していながら、「平和憲法」(憲法9条)があるから「平和国家」であるなどと諸外国に向かって誇らしく言えないのではないか。)
182 戦後明石順三と村本一生は栃木県の鹿沼市に住みつくことになり、灯台社の伝道ももう一度始まるかに見えたのだが。
敗戦の翌年、アメリカのワッチタワー総本部の文書伝道者が占領軍と共に来日し、鹿沼の明石順三を尋ね、新たな伝道のための物質的援助を申し出て、戦時中や戦後に発行されたワッチタワーの文献や機関紙などを提供した。
しかし順三はその文献に失望して怒り、七箇条にわたる長文の批判書を会長のN・H・ノールに送り、その弁明を要求し、関係を絶つことも辞さなかった。
183 その批判書の全文は灯台社が戦後発行した機関紙『光』の1947年7月15日付号外3号に掲載されている。七箇条とは、
「一 少なくとも過去10年間にわたり、聖書真理の解明に進歩の跡が見られない。
二 現在における神権政府樹立と、その国民の獲得運動を躍起するという主張とは、聖書的観点から見て一致していない。
三 神の国証言運動を督励する方針は、ワッチタワー協会会員の獲得運動にすぎない。
四 総本部の指導方針は、忠良なクリスチャンを聖書の示す唯一の標準から外れさせ、安直な自慰に安住させつつある。
五 種々の対人的規約や規則の作成は、イエスから真のクリスチャンに与えられた自由を奪い、ワッチタワー総本部に対する盲従を強いつつある。
六 総本部は信徒に対して、この世との非妥協を教示しているにも関わらず、総本部自身の行動はこの世に対する妥協を実証しつつある。
七 ギレアデ神学校(ワッチタワー本部が1942年に設立)の建設は、聖書の示すところと背反している。」
184 順三は上記七項目に関してその理由を詳細に論述している。例えば、第六項について、
「ワッチタワーは従来国家権力に妥協してはならないとして、国旗礼拝を禁じて来たし、エホバの証者で国旗に対する敬礼を拒否して検挙・投獄された者がアメリカで数千人もいたと聞いていたが、近著のワッチタワー機関誌の写真を見ると、1946年8月のクリーブランドで開催された大会では、舞台いっぱいに掲げられた星条旗を背景に大会が行われ、大国旗の前で会衆による讃美歌合唱や祈祷が行われているが、それは、国権に対する妥協によって組織温存が図られている証拠ではないか。
今次大戦中に本会(ワッチタワー)の指導下に神とイエス・キリストの神命に忠実になろうとして多くのクリスチャンが殺害・暴行・投獄・監禁その他のあらゆる迫害を蒙った。ところがブルックリン総本部部員で、大戦中に検挙投獄された者はほとんどいないと聞いている。もし「本会は地上における神の組織制度である」という本会の主張が事実だとすれば、組織体の末端の大部分(日本の支部)が敵側によって莫大な苦難を受けたのに、中心の総本部がほとんど無疵(きず)の状態で無事に過ごせた理由が見つからない。今次大戦中にドイツその他の諸国のエホバの証者に対する迫害事件が大きく報道されているが、総本部に対する迫害の事実はほとんど見出されない。」
185 第七項の神学設立問題に関して順三は、
「もともと学校教育は定められた標準に従って一定の規格品をつくり出すだけのものであるから、学校教育によって真のクリスチャンを製造することはできない」と反対し、「徴兵制の敷かれているアメリカでは、牧師職にある者には兵役義務が免ぜられるという特典があるが、ワッチタワーの神学校もその特典を利用するための一機関に堕することになりかねない」とする。
ここで兵役拒否の問題に関して、最初に信教や真理への愛があっての拒否であり、兵役逃れのために信仰に入るという本末転倒は断乎として排するという順三の潔癖さがにじみ出ている。
186 以上のとおり、明石順三は、「ワッチタワー本部は宗教本来の目的をなおざりにし、宗教を手段として組織の拡大を図るという世俗的営利集団への道を歩き出しているのではないか」と批判する。
「余は我らの主イエス・キリスト以外の何者の追随者ではない。従って今日まで、ラッセル兄やラザフォード兄の、またワッチタワーの追随者であったこともない。」
ワッチタワー本部は、この順三の不服従の態度を表明する質問状に一言も弁明せず、ノール会長名で、明石順三を高慢で不謹慎と決めつけ、即刻除名をした。それ以降日本では「ものみの塔聖書冊子協会」が新たにワッチタワー支部となった。
167 付言 第二次大戦下のアメリカで、ワッチタワー関係者の兵役拒否者がいたことは事実である。徴兵を良心的に拒否した者の2/3はエホバの証者であり、3500人余の若い信者が、特別収容所に閉じ込められたという記録が、エホバの証者関係の文献に残っている。「この世の諸権を象徴する国旗に対する礼拝は、クリスチャンとして拒絶する」は、協会の基本的主張の一つであった。
戦時下の日本でも、大きな組織を持った各宗各派は、キリスト教の諸会派も仏教の諸会派も、国家の侵略の悪を黙認し、ときには協賛さえした。組織の温存拡大するために、国家権力や体制に妥協・順応した。
189 村本一生と隅田好枝は明石順三の以上の方針に同調した。
明石順三は鹿沼市で静子夫人1914—と再婚し、西鹿沼で読書と執筆に静かな歳月を送った。聖書を研究するばかりでなく、浄土三部経、歎異鈔、万葉集などを読んで仏典の研究もした。そして本願寺体制や浄土真宗の本質をついた『浄土真宗門』や、『彼』(創造篇、智恵篇、権力篇)、宗教小説『道』、戯曲『運命三世相』などを執筆した。
190 生前の明石順三が戦後に発表した唯一のものは『四百年の謎』である。それはカトリック(イエズス会)の本質を究明しようとしたものであり、在米時代の友人・翁久允が編集する雑誌『高志人』の1962年2月号から連載され、1965年11月14日に執筆途中の順三が亡くなるまで405回続いた。
191 晩年の明石順三は、渡米時代の友人である長沼重隆や翁久允らとの交友を楽しんだ。
村本一生は鹿沼市内ある教員寮の管理者となった。隅田好枝は明石家の養女となり、鹿沼の病院で戦後も長く闘病し、1970年6月に退院し、明石順三の未亡人静子とともに暮らしている。
192 明石順三は死の4か月前に、『高志人』(1965年7月)の中の「四百年の謎」の中で、日本の平和憲法や再軍備、兵器製造に関して厳しく指摘している。
「憲法9条で日本は「今後戦争は絶対に致しません、従って軍備一切は全廃します」と全世界に向かって声明したことになる。…それを以て一かど日本が世界における唯一の平和国家であると自発的に宣言し、範を全世界に垂れたもののように考えている者がいれば、それは余ほどの大馬鹿者である。平和国家など存在しない。それは「世界における唯一の平和国家」を標榜する日本が、戦力排斥を主張する憲法九条をひん曲げ、警察予備隊だ保安隊だ、防衛だ自衛だと、あの手この手の口実や詭弁を弄し、遂に今日の強力な陸海空三軍の実践力を作り上げた事実を徴しても明白である。さらに、自国防衛のための兵器軍需工業の埒を越え、他国に輸出して暴利を稼ぐとなる事態は全く異なる。武器兵器は殺人と破壊のための道具であり、絶対に許されない。」
193 明石順三は、朝日新聞(1965年5月26日付)や、NHKラジオ(1965年5月27日)などが、日本の大企業による、朝鮮戦争以来の、兵器や軍事物資の、米国、タイ、オーストラリア、イスラエル、国府(台湾)などへの輸出を報じたことに関して、
「いま日本は国ぐるみで死の生産者となり、死の商人となろうとしている。」
と日本のいつわりの平和の現状を暴くとともに、核兵器による全人類の滅亡を警告した。
194 また象徴天皇制についても、
「廃位されるべきであった天皇に、このように一見空虚な称号を与えることによって、支配体制側はなおも天皇の二番煎じを存続させ、日本の民衆の統合支配をはかる道具として利用しようとしている。」
以上は1965年、順三が77歳の最晩年に書かれたものである。
あとがき
195 福永武彦は『葦の花』の中で、反戦を思いつつも孤独な無力さや憲兵政治の恐怖を語っているが、かつての私の気持もそうだった。私は1945年8月上旬、19歳の勉強半ばに入営した。戦前のこの時期は軍国主義一色と思われがちだが、学生仲間では反軍国主義や非戦反戦思想の志向も決してないではなかった。
196 私は戦中の少年時代に、H・G・ウェルズの『世界文化史体系』の中の、第一大戦後の世界で武器のいらない世界国の理想を読んだ。
しかし我が物顔の軍人たちは「百年戦争」などと平気で唱え、軍に支配された天皇国家は我々に死を強制した。学生もいざ入隊となると一人一人がばらばらにされ、抵抗を口にできなくなった。
入隊直前の僕の詩
兵営という名の刑務所
死刑の待っている――
そこへぼくは行く
197 私ははっきりと兵役を拒否すべきだった。当時そういう気持ちを抱かないでもなかった。軍隊内で抗命した学徒兵が銃殺されたという話も耳に入っていた。それは故意に流された噂だったのかもしれない。生死を賭してまで抵抗する勇気はなかった。
恐怖と脅しに満ちた巨大な軍隊機構に対して、なおかつ兵役拒否を成し遂げた人があり得たとしたらという願望が、自分にそれができなかった贖罪の意識とともに、戦後の私のこころに残っていた。戦後になって、戦中の徴兵逃れや徴兵忌避の話は聞いても、正面切って兵役拒否の記録に出くわすことはなかった。私は自分なりに戦時下レジスタンスの世界を創作の形で描き出そうと試みた。
ところが一昨年1970年、阿部知二氏が『良心的兵役拒否の思想』1969を岩波新書から出し、それから戦前の日本のキリスト者集団のひとつである灯台社関係の三人が、軍隊内で兵役拒否をしたことを知って、私は驚いた。
198 牢獄国家日本の、明治以来国民皆兵の下に厳しい軍紀で律していた帝国軍隊のなかで、而も戦時下で、兵役拒否が実現されたことを思い、少年期にその時代を知る私にはそれが奇蹟に思われ、その勇気は特筆に値すると思った。
『良心的兵役拒否の思想』に資料協力した山口俊章氏(現神戸大学助教授)から資料を教えられ、そのうちの『戦時下抵抗の研究』Ⅰみすず書房1968の中の佐々木敏二「灯台社の信仰と抵抗の姿勢」の一章から、明石順三が晩年栃木県鹿沼市で過ごしたことを知り、そこで1970年9月末、村本一生と巡り合えた。
村本は某教員寮の管理人としてひっそりと暮らしていた。「あたりまえのことをしただけなので、それについて人に話すのはこれが初めてです」と村本は語った。
それからの三年間、隅田好枝さんや明石家の遺族、旧灯台社の関係者を何度も訪れ、その記憶を忠実にまとめようとした。明石家に残されていた資料や海外などに散逸していた戦前の官憲側秘密資料などを、専門研究者小森恵氏の教示で網羅でき、この書が成った。
村本一生は「過去の自分に全く無関心である。自負も感慨も反芻もない。」という。
200 個人こそ最も自由な立場で闘い得るのであり、実は孤独な個人の確信乃至内面の自由こそ、国家の一見巨大に見える権力でも冒すことのできない抵抗の核があったのではないかと思う。
民衆・個人と、権力体制との闘いで、実際に怯えたのは一見巨大に見える権力の側であった。権力の機構を強大視すること自体が、実は長年支配体制によって仕向けられてきた個人の内なる思い込み虚妄にすぎないのではないか。(集団に依存するまえに、個人の働きかけが出発点であるということか)
201 村本一生氏は1985年1月死去された。晩年は遠隔地出身中高生のための寄宿寮の寮長として英語や数学を教え、病床の夫人を看護していた。
以上