2025年9月23日火曜日

井上久士『平頂山事件を考える』

 

井上久士『平頂山事件を考える』新日本出版社2022

 

 

感想 2025921() 

 

平頂山虐殺事件がどのようにして明るみにされるようになったのかという144頁辺りを読んでいるのだが、この平頂山事件が日本人に知られるようになったのは、中国人平頂山被害生存者による被害報告からだったということである。つまり、加害者・実行者である日本の関東軍はその虐殺の事実を交戦過程における偶発的な事件だとして隠蔽し、日本の外交官や満洲国の責任者も、関東軍のこの隠蔽作文を鵜吞みして国際社会(国際連盟)に応接した。平頂山事件は当時も国際社会で論争の種となったのだが、日本による否定と戦闘の拡大によってうやむやにされ、真実が明らかにされたのは、戦後の東京戦犯裁判においてであった。しかしそれが日本の民衆の間に知られるようになったのは、ごく最近のこと、つまり本書においてであったのではないかと思われる。これは日中相互理解という点で、非常に憂慮すべき事態ではないか。本書は日中相互理解という点で、また現在の対米従属や、いや増す軍拡を阻止し、東アジアの平和を維持し、日本の外交政策を転換する上で、日本人必読の書ではないかと思うのだが。是非本書を購読されたい。

 

 

第一章 撫順炭鉱襲撃事件

 

 

1 撫順炭鉱と満鉄

 

「満蒙分離論」とは、中国本土から中国東北部を分離し、南京国民政府1927.4-の統治が及ばないようにしようとする日本側の策動であった。満蒙分離論は政友会の松岡洋右、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾、河本大作高級参謀らの考えだった。021

 

これはワシントン会議の結果としての、中国に関する米英仏伊日中蘭ベルギー・ポルトガルによる九か国条約を反映するものと考えられる。同条約は「中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重と、門戸開放・機会均等」を確認した。また南京国民政府も「全中国の政治的・軍事的・経済的統一」と「反帝国主義」を掲げていた。020

 

 

石原莞爾は「満蒙問題私見」1931.5.22の中で「満蒙は正しく我国運発展の為最も重要なる戦略拠点である。満蒙問題の解決策は満蒙を我領土とする以外絶対に途なきことを肝銘するを要す。」「国家の状況之れを望み難き場合にも、若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに於ては、謀略により機会を作成し、軍部主導となり、国家を強引すること必ずしも困難にあらす」「支那人が果して近代国家を造り得るや頗る疑問にして、寧ろ我国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するを彼等の為幸福なるを確信するものなり」022

 

石原は軍事的・侵略的であることを隠そうともせず、それと同時に中国人に対してあからさまに侮蔑的である。

 

ここで想起されることは先日の新聞報道です。

 

「日本政府は2025824日に、各国の首脳や要人に対し、中国が93日に開催する抗日戦争勝利80周年記念行事と軍事パレードへの参加を見合わせるよう、在外公館を通じて働きかけを行いました。日本政府の狙いは、中国寄りの歴史認識が国際社会で広がるのを抑え、記念行事が反日的な色彩を濃く持つと説明した上で、参加は慎重に判断すべきだと各国に伝えたものです。」

 

中国の93日の抗日戦争勝利記念日に参加しないように日本政府が各国に「働きかけた」ようですが、日本政府は今でも対中戦争が侵略的であったと反省する気がないようです。またこれはひょっとすると日本独自の外交方針ではなく、米の入れ知恵or押しつけがあるのかもしれません。

 

 

2.満州事変と反満抗日部隊

 

関東軍参謀長が各地の司令官に裁判権を付与したことが、平頂山事件のような惨事が起る原因だったと思われる。つまり関東軍司令部は参謀長の名の下に、隷下各部隊に「厳重処分」という安易な処刑権を許可する通達を下した。これにより、第一線の部隊長は匪賊、抗日分子と見なし次第「厳重処分」に付す権限が与えられた。19323月下旬、関東軍参謀長三宅光治少将は、「厳重処分とは、兵器を用いる儀なりと、承知相成度し」と通牒した。この通牒により、隷下憲兵隊は「厳重処分」を「即死刑」と解釈して実行し、司令部はこれを黙認し、次第に普遍化していった。028

 

「兵力を某一地に集中し徹底的に討伐を行い」「包囲し之が殲滅を期す」という通牒・通達に示される方針が、「みせしめ」や「報復」のために幼児まで含めた住民を皆殺しにするという大虐殺事件(平頂山事件)を引き起こす要因であり背景であった。029

 

 

感想 2025831()

 

「平頂山事件」は単なる「事件」ではなく、無差別虐殺であった。

日本の学校で教える日本歴史は中国側の反発や抵抗のことは何一つ教えないが、当然ながら存在していた中国側の反発を無視してはいけない。このことは朝鮮史についても言える。「朝鮮併合」については教えるが、それに抵抗した義兵の存在は教えない。

 

 「満州事変」がでっちあげだったとは言うが、そのことで被害を蒙った中国側による抵抗の前史も知らねばならない。帝国主義列強に対する反発である北清事変1900があり、日本による21箇条の「要求」に反発した54運動1919があった。でっち上げ事件である満州事変1931.9.18に中国の民衆は怒った。反発する民衆が大勢いた。それが撫順炭田襲撃事件であり、平頂山事件はそれに対する見せしめの無差別虐殺であった。

 

 日本史で中国や朝鮮の反発の歴史を教えないのでは相互関係や全体状況がつかめない。中国側の反発運動の一つに馬占山1931.11事件*があるが、日本ではそれは教えない。中国側で反発した人々はこのほかに大刀会(だいとうかい)、紅槍会(こうそうかい)など在地武装集団があった。撫順襲撃事件を起こしたのも大刀会などであった。

 

撫順炭鉱襲撃中国軍の構成(佟(とう)達)総数2300人。034 「遼寧民衆自衛軍」034と名乗った。

 

東路 第14連隊と王彤(とう)軒の太刀隊100人、李海峰の部隊の200人。計700人。

南路 二個連隊と予備隊一個連隊 1200人。

西路 一個連隊 400人。

 

この前の96日、中国側幹部が一斉検挙された。「大刀会と張学良の便衣隊0327日に撫順を襲撃し、中国側幹部が抗日義勇軍と通じて公安大隊を率いて寝返る」032と猜疑された。

 

 

1931918日午後1020分頃、関東軍独立守備隊第二大隊は中国東北軍北大営を攻撃したが、その時第二中隊の川上精一中隊長もその中にいた。川上は午前3時半に攻撃に参加し、6時に占領が完了した。

 

026 満洲国が傀儡であることの証左。

 

027 不抵抗を決めていた東北軍の一部である、黒竜江省の馬占山は、1931.11、日本軍と戦って戦果を挙げた。(張憲文主編『中国抗日戦争史』南京大学出版社2001

住民の反日感情を背景とした自然発生的な武装抵抗を、大刀会(だいとうかい)、紅槍会(こうそうかい)など在地武装集団が起こした。

 

028 唐聚伍1898-19391932421日、桓仁県師範学校で抗日誓師大会を開き、「遼寧民衆自衛軍」を宣言した。総兵力20万余。(『東北抗日義勇軍史』上、黒竜江人民出版社1987

 

028 日本はこれらの人々を「匪賊」というが、それは1932年春に30万人いた。

 

 

013 日本は平頂山事件に関する書類を焼却した。今残っている書類は「絶対口外するな」という書類だけである。

 

 

 

感想 202592() すばらしい。大作。よく丹念に史料を調べた。

 

 

「平頂山事件」1932.9.16をご存じでしょうか。「平頂山」という撫順炭田の労働者村の、子女を含む全村民が、日本の守備隊(軍隊)によって、背後が崖になった窪地に集められ、機関銃掃射され、焼却され、埋められ、2700人が犠牲となり、立ち入り禁止とされ、家屋もすべて焼却されたという、その後の日本軍による中国各地での民間人に対する虐殺事件を予想させるような、非人道的虐殺事件です。

 

 

中国国民党政府は非人道的な大問題として国際連盟に訴え、日本側は「匪賊」=義勇兵との交戦という自衛のための偶発的な事故だと嘘をついていたのだが、その後国際連盟で満洲国の存在自体が問題視され、日本が国際連盟を脱退1933.3し、中国の熱河省へも侵攻し始めて1933.2.23-5.31、戦乱に忙殺され、日本敗戦後の中国側による東京裁判での問題提起までお蔵入りしていた。

 

 

この平頂山事件のような日本人の過ちの元は、「問題」解決を現地軍の恣意に任せるという「審判」のあり方ではないかと思う。つまりその「問題解決」とは、武器使用を許し、「法」に縛られることもなく、現地の司令官の恣意に任されるというもので、そのため大勢の無辜の民衆を殺すという非人道的行為までやってのけてしまうことが可能になったのではなかったか。本事件は南京事件やその他の中国での民衆虐殺事件に通じている。

 

 

さらにその原因を考えてみるならば、民権運動の弾圧後に、君主が大日本帝国憲法を発布し、教育勅語で教育を統制する戦前の日本では、無理やり神話を信じ込まされ、法や人権といった意識が希薄で、自由で科学的で、個人を重視する発想や思想が失われていたことから生じた国民性が原因だったのではないか。

 

 

井上清一中尉の妻の自殺にはびっくり仰天した。中尉が出征すると決まると、中尉が「後顧の憂いがないよう御奉公するように」と、妻は白装束で自殺したという。これは当時の日本では美談とされたというのだから、恐ろしい限りだ。そして中尉は妻の葬儀に出ることもなく中国に赴任し、危険な作戦をすることで部下に疎んぜられ、そういう中尉の評判をもとにして、中尉は平頂山事件の首謀者に仕立て上げられ、首謀者の川上精一大尉は当時いなかったとされた。本書の著者はその誤りを中国に現存する日本の当時の新聞や雑誌の記事をもとにして暴露する。

 

 

産経新聞など「歴史戦」を主張する人々が言うところの「歴史」は、客観的証拠を積み上げて構築する歴史学ではなく、「戦前の日本を良しとしてそれを今に復活させたい」という結論が決まった夢物語である。

 

戦後の瀋陽裁判1948.1.3の不十分さ。それは日本の民間人を処刑し、軍上層部は不在で東京裁判に依頼したが、逮捕されることはなかった。それは国共内戦で国民党の配色が濃く、時間がなかったことも遠因する。

 

 

 

メモ

 

 

 

序章 平頂山事件の闇

 

1.撫順からの帰国者でも知らなかった平頂山事件

 

008 平頂山事件19323年後の1935年に生まれ、撫順で生活し、1946年に引き揚げてきた松戸市の本田了(さとる)は、平頂山事件について何も知らなかった。

1928年生まれの松本辰夫も、1011歳ころ(193839年ころ)撫順で過ごしたが、平頂山事件については耳にしたこともなかった。

1920年生まれの山口淑子(李香蘭)も、12歳の頃の「撫順襲撃事件」=楊柏堡(ヤンパイプ)事件で、憲兵に拷問されて殺された中国人(苦力頭011)のことを覚えていたが、翌日の平頂山事件については知らなかった。

事件は13年間(1932年~1945年)封印された。

山口淑子は自民党の参院議員となり1978年に中国を視察で訪問した。中国側に撫順の「平頂山殉難同胞遺骨館」に案内され、初めて平頂山事件のことを知った。011

 

2.被害者であることを隠して生きて来た王質梅さん

 

010 王質梅さんは事件当時11歳で、両親と弟を殺され、自分も背中を銃剣で刺されたが、栗家溝で匿われた後に撫順市内のおばさんに引き取られ、12歳のときおばさんといっしょに新京(現・長春)に移り、日系の丸善で働いたが、身の安全のために決して平頂山事件のことは話さなかった。姓もそれまでの李からおばさんの王に変えた。

 

3.消えた歴史資料

 

012 19968月、莫徳勝、楊宝山、方素栄の三氏は、日本政府に対して、一人2000万円の損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こした。三人は平頂山事件で家族全員を殺された。

私は弁護団から資料調査を依頼され、防衛省防衛研究所(当時防衛庁)、外務省外交史料館、国立公文書館、国会図書館などを調べた。アジア歴史資料センターのサイトはまだ準備中だった。

 

012 陸軍関係の文書は、防衛研究所の『陸満機密大日記』『陸満密大日記』『陸満普大日記』『満受大日記』などにあるはずだが、19329月前後の資料はほとんどない。唯一「千金堡事件に関する件」があり、これは次官から関東軍参謀長宛ての電文がある。それは「虐殺の事実は根本的に否認する」ようにという指示文書だ。013

 

013 『独立守備隊満州事変戦闘時報第一号』に、916日の「楊柏堡」の戦闘が記載されていて、それは「戦闘詳報を以て報告したるもの」に分類されているが、その詳報は存在しない。

 

 最後の満鉄総裁である山崎元幹(もとき)「戦争に負けたからといって、やけくそに書類を焼くなんて卑怯なことはありません。私は満鉄関係の書類は戦後は一切保存して焼いたりなんかしなかった」「戦時中は焼いた。…重要な書類も焼いた」(1968年、久保孚(とおる)没後20年追悼会、久保孚は1948419日、中国で処刑された。166

 

当時リットンによる追加調査の噂があった。それは実際は行われなかったが。

 

 

第一章 撫順炭鉱襲撃事件

 

 

1.撫順炭鉱と満鉄

 

016 遼寧省撫順市は省都瀋陽(旧奉天)の東45キロにある。

清朝末期の1901年、撫順で採炭が許可され、炭鉱会社ができた。

満州=東三省=東北地方(遼寧、吉林、黒竜江)

日本はロシアの中国での権益を条約で引きついだが、それは中国人にとっては面白くないことだった。

 

1897年、ロシアが東清鉄道(中華民国時代は中東鉄道)会社設立。遼東半島南部の租借権を獲得。東清鉄道南満支線(ハルビンから旅順・大連まで)の敷設権を獲得し、1903年に完成。撫順炭鉱経営。

 

1905年、日本が遼東半島南部(関東州)の租借権と、長春から旅順・大連までの東清鉄道の経営権と炭鉱を獲得。

1906年、満鉄(南満州鉄道株式会社)設立。安奉線(安東・奉天間)などの支線も経営。大連港、撫順炭鉱、鞍山製鉄などを経営。総裁・副総裁は政府が任命。鉄道付属地の行政権も与えられた。

撫順炭鉱は満鉄の一部門として、19074月、陸軍から満鉄に引き継がれた。

 

昭和1926初期は不況だった。

 

018 日本は遼東半島南部の租借地を獲得し、ここに関東州を設けた。その根拠はポーツマス条約と日清満洲善後条約である。

 

1905.9、関東総督府(総督・大島義昌陸軍大将)は軍隊の統御と一般行政を担った。軍隊の構成は駐箚二個師団約1万。駐箚とは内地に本籍がある駐留である。2年交代。ポーツマス条約追加約款によって1kmにつき15名までの守備兵を置くことが認められた。

 

1906.8、関東都督府(総督・大島義昌陸軍大将)(改称)

1907.4独立守備隊六個大隊を新設し小部隊に分散した。駐箚師団は一個師団となった。(一個師団減少)

 

1919.4、関東庁(長官・林権助)長官は文官となり、関東都督府の陸軍部は分離されて関東軍となる。(関東軍司令部条例)初代司令官・立花小一郎中将。

 

019 関東軍司令部条例

 

1 関東軍司令官は陸軍大将または中将を親補し、天皇に直属し、関東州の防備及び南満州にある鉄道線路の保護に任ずる。

2 (関東)軍司令官は、軍政と人事は陸軍大臣、作戦と動員計画は参謀総長、教育は教育総監の区処(指揮)を受ける。

3 事が急で関東庁長官の請求を待ついとまがない時は、兵力を以て便宜処置できる

 

関東軍は統帥権独立を名目に国外にある天皇の直隷軍としてかなり自由に行動できた。

 

満鉄、関東州、関東軍などは「満蒙特殊権益」と呼ばれた。日本はこれらの権益を条約によって得た正当なものであると信じていた。

020 しかし当然のことながらこれらの権益は中国の国家主権を侵害していた。またこれらの特殊権益は日本の排他的な権益だったから、欧米列強との摩擦を内包していた。

 

アメリカは民族自決と門戸開放を要求し、日本の排他的権益に批判的だった。

第一次大戦後のワシントン会議は、アジア太平洋地域の国際秩序を議論し、その結果1922、中国に関する9か国条約が調印された。米英仏伊日蘭ベルギー、ポルトガル、中国の9か国である。同条約は中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重と門戸開放・機会均等が確認された。

 

1919年、五四運動は対華21箇条の廃棄を要求した。

1920年代半ば、軍閥(軍人政治家)が握る中華民国政府(北京政府)に反対し、三民主義に基づく新しい中華民国政府を作ろうとする国民革命運動が高まった。その中心は孫文が率いる国民党だった。孫文1925に死去し、その後を蒋介石が継いだ。19274、南京に中華民国政府(南京国民政府)が成立し、全中国の政治的・軍事的・経済的統一と、反帝国主義を政策理念とした。日本の満蒙特殊権益は維持しがたくなった。

 

021 南京国民政府の影響力が中国東北地方にまで及んでくると、これに危機感を抱いた日本の一部の軍人や指導者のなかに、同地方を中華民国から切り離し、日本の直接支配下に置こうとする満蒙分離論が強まった。政友会の松岡洋右、関東軍の石原莞爾作戦主任参謀、河本大作高級参謀などである。

 

192864日、関東軍の河本大作高級参謀らは、北京から奉天に引き揚げる途中の張作霖を奉天近郊で爆殺した。張作霖は北京政府の要人であり、東北の政治的・軍事的指導者であった。日本は張作霖に代わって東三省を日本の直接支配下に組み入れようとしたが、張作霖の生死がしばらく不明だったので関東軍が出動の時機を失してその計画は失敗した。

 

張作霖の死後、息子の張学良が東北三省保安総司令に就任し、東北地方の指導者になった。張学良は南京国民政府への合流方針をすすめ、192812、易幟(えきし)を行い、国民政府の青天白日旗に替えて合流した。

022 張学良は満鉄と競合する新線の建設に着手した。

 

日本は張学良が日本の正当な権益を脅かし、日本を満洲から追い出そうとすると、被害者のように認識し「満蒙の危機」を喧伝した。

 

関東軍作戦主任参謀の石原莞爾1931522日の「満蒙問題私見」のなかで、

 

「満蒙は正しく我国発展の為最も重要なる戦略拠点である」「満蒙問題の解決策は満蒙を我領土とする以外絶対に途なきことを肝銘するを要す」「国家の状況之を望み難き場合にも若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに於いては謀略により機会を作成し、軍部主導となり、国家を強引すること必ずしも困難にあらず」「支那人が果たして近代国家を造り得るや頗る疑問にして寧ろ我国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するを彼等の為幸福なるを確信するものなり」

 

023 関東軍ばかりでなく陸軍中央も、建川美次(よしつぐ)参謀本部第二部長を中心に「満洲問題解決方策の大綱」を1931619日に作成し、張学良政権の「排日」方針の緩和に成功しない場合は、「軍事行動の已むなきに到る」と武力行使の必要性を主張した。

 

 

2 満州事変と反満抗日部隊

 

023 関東軍の板垣征四郎高級参謀、石原莞爾作戦主任参謀らは、謀略によって軍事行動を開始する計画を立て、それを決行した。

 

 1931918午後1020分ごろ、奉天(現・瀋陽)から東北7.5キロの柳条湖の満鉄線上で爆弾を爆破させ、これは中国東北軍の仕業であり、自衛のためだとして、中国東北軍の兵営・北大営を攻撃した。

 

 19648月、米軍はトンキン湾内の米駆逐艦がベトナムの魚雷艇に攻撃されたと発表し、北ベトナムへの爆撃を開始し、アメリカ議会もこの軍発表を支持したが、その後これが米軍のデッチ上げだったと米報道が明らかにした。

 2003年のイラク戦争でも「イラクは大量破壊兵器を保持している」という情報の下にイラク攻撃を開始したが、これが偽情報であったことが後に分かった。

024 20222月、ロシアはルハンスクとドネツクの「人民共和国」の独立を承認し、「民族虐殺にあっている人びとを守るため」として「特別軍事作戦」を始めた。またウクライナの「非ナチス化」を実現するとも言っているが、ウクライナのネオナチ勢力によるロシア系住民に対する虐殺があったとは証明されていない。

 

 中国東北軍の北大営を攻撃した部隊は、関東軍独立守備隊第二大隊であり、平頂山事件を起こした第二中隊(川上精一中隊長)もその中にいて、川上は撫順からかけつけ、午前3時半、北大営攻撃に参加し、他の中隊とともに6時頃に占領した。

 

 柳条湖事件は国際連盟の一員であり主権国家の中華民国の一部を武力で占領するという侵略行為であった。日本政府は不拡大方針を掲げはしたが、関東軍の行動を自衛のためと正当化した。また2日後の921、朝鮮軍(林銑十郎軍司令官)が満洲へ独断越境を行うと、若槻禮次郎政府はそれを事実上追認した。関東軍は兵力使用が認められていた満鉄線だけでなく、戦線を南満州全域に拡大し、翌年193225ハルビンまで占領し、東三省の主要都市と鉄道線を支配下に置いた

 

025 満蒙領有という関東軍の当初の計画は、陸軍中央の反対にあい、また自衛という名目にも反するので、「独立」という体裁を整えることになった。1931102、関東軍は「満蒙問題解決案」をまとめ、「満蒙を独立国とし之を我保護下に置く」と決定した。中国政府が日本の軍事行動を国際連盟に提訴していたから、さすがに占領はできなかった。

 

 しかし独立国といっても、

 

「政治は日支(蒙古を含む)同数の委員に依り之を行い」

「国防は之を日本に委任する」

 

とし、到底独立国とは言えなかった。

 

国際連盟のリットン調査団が現地に到着(193112月設置、19322中国と日本を訪問)する以前に既成事実をつくるために、日本は満洲国の建国を急ぎ、清朝最後の皇帝溥儀を執政にして193231満洲国の建国を宣言した。

 

 リットン報告書(193294作成、102発表)は「19319月以前に於いて聞かれざりし独立運動が日本軍の入満に依り可能となりたることは明らかなり」「現在の政権は純粋且つ自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」

 

 それどころか張学良政権は1920年代末から南京国民政府に合流し(192812月、易幟(えきし)を行い021)南京国民政府との統一化を進めていた。

 

026 1932310日付「満洲国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡」によれば、

 

一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し、その所要経費は総て満洲国においてこれを負担す

二、弊国は貴国軍隊が国防上必要とする限り、既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理ならびに新路の敷設は、総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す

三、弊国は貴国の軍隊が必要と認むる各種の施設に関し、極力之を援助す

四、貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任じ、その他中央および地方各官署に貴国人を任用すべく、その選任は貴軍司令官の推薦に依り、その解職は同司令官の同意を要件とす

 

つまり軍事も行政も日本に握られていた。この書簡は同年1932915日の日本による満洲国の正式承認(日満議定書調印)の際に再確認された。これで関東軍は、従来の関東州と満鉄沿線から、今後は満洲国全域で自由に行動できるようになった。

 

 南京国民政府は国際連盟に提訴したが、建国からまだ4年しか経っておらず、国力がまだ充実していなかったため、軍事的には日本への不抵抗政策を取った。また中国が国際連盟に提訴したことは、国際連盟が日本のこの侵略行為を第一次大戦後の国際秩序を破壊するものとして許さないことを意味した。

 

 1931923「(中華民国)政府は公理による解決を待っている。日本軍との衝突を避けるよう厳命する」と国民に命じた。(満州事変1931.9.18の直後)

027 当時中国共産党が反政府活動を強めていて、江西省の瑞金に「中華ソヴェト共和国臨時中央政府」をつくる動きがあった。また反中央政府的な地方勢力も完全に一掃されていなかった。蒋介石は国内の安定と経済の発展を優先する「安内攘外政策」を採用した。張学良も主力を関内に移動させた。

 

 国民政府の不抵抗政策にもかかわらず、上海や南京などの都市では抗日の集会や抗議運動が広がり、東北軍の中でも一部の部隊は関東軍に抵抗し、黒竜江省の馬占山193111、日本軍と戦って戦果を挙げ、抵抗の象徴的存在となった。

 また東北地方では住民の反日感情を背景に、自然発生的な武装抵抗=ゲリラ戦が起こされた。その構成は張学良の東北軍の残存部隊や、大刀会、紅槍会などの在地武装集団など雑多であった。中国共産党系の抗日勢力は、満洲国時代の初期には少なかった。日本はこういう反満抗日武装勢力を匪賊と呼んでいて、関東軍の見積りでは1932年春の時点で30万人いた。

028 こういう自然発生的な抗日部隊を中国では抗日義勇軍と呼んでいる。その構成は中国側の資料1985によれば、愛国的な農民が50%、以前の盗賊が20%、元東北軍の軍人・警察官が25%、知識人・労働者・商人が5%とする。義勇軍の農民は大刀会や紅槍会に所属する人が多かった。

 

 撫順がある遼寧省東部の東辺道一帯は、東聚伍(とうじゅうご、1898-1939)が総司令となり、1932421、桓仁県師範学校で抗日誓師大会を開き、「遼寧民衆自衛軍」の成立を宣言した。東聚伍は元東北軍の地方指揮官だった。同年193278月、総兵力20万となった。帝国日本は柳条湖事件から半年で満州国をつくることに成功したかに見えたが、中国住民の反発と抗日義勇軍は健在だった。

 

 関東軍司令部は参謀長の名の下に隷下各部隊に「厳重処分」という安易な処刑権を許可する通達を下した。これにより第一線の部隊長は、匪賊、抗日分子と看做し次第「厳重処分」に付する権限が与えられた。19323下旬、関東軍参謀長三宅光治(みつはる)少将は、「厳重処分とは、兵器を用うる儀なり、と承知相成り度し」と通牒を発した。この通牒により隷下憲兵隊は、「厳重処分」を即処刑と解釈し、実行した。そして司令部はこれを黙認し、それが普遍化した。

 

029 抗日武装闘争が予想外に拡大したため、関東軍は19329以降「在満皇軍の兵力寡く、到る処に積極的討伐を実行すること不可能なりしを以て、各師団の任務を限定し、節約し得たる兵力を某一地区に集中し、徹底的に討伐を行い、爾後逐次これを他の地域に及ぼす策に出づること」と各個撃破方針を採用した。

 

 武藤関東軍司令官は東辺道討伐について193296、「抗日反満兵匪特に唐聚伍を頭目とする兵匪団を通化、桓仁の地区に包囲し之が殲滅を期す」と指示した。

 満洲国建国後の関東軍の任務はもっぱら治安作戦、掃討作戦が主たる任務となった。

 

 『戦闘綱要』19292月の綱領第五に「凡そ兵戦の事たる、独断を要するもの頗る多し。然れども独断はその精神に於いては決して服従と相反するものにあらず。常に上官の意図を明察し、大局を判断して、状況の変化に応じ、自らその目的を達し得べき最良の方法を選び、以て機宜を制せざるべからず」と、独断専行を容認・奨励している。白石博司防衛研究所戦史部室長2001「このような典則の下に軍人の思考方式、行動様式が形成されて行き、『…為さざると遅疑するとを戒める』空気の中で、現地司令官による独断の占める位置が益々強化されていったのである」と指摘している。逸脱が許される気風が関東軍では強かった。そして「通敵」住民と看做せば、無抵抗の一般住民を虐殺した。

 

 

3 撫順炭鉱襲撃事件1932.9.15

 

030 関東軍は19329月、満洲全体の匪賊を21万、東辺道だけでは「義勇軍、大刀会匪賊等合計25千」と見積もっていた。

大刀会は民間の秘密宗教団体であり、東辺道では1920年代、馬賊(騎馬武装集団)対策に、山東省から大刀会の指導者を招いた。銃や槍、青龍刀、棍棒などで武装していた。紅槍会も大刀会と同様であり、大刀会は紅槍会の一組織であるという説もある。大刀会は「保国衛民」をスローガンにしていた。

 

031 撫順襲撃は8月から流布していた。『満洲日報』によれば、「大刀会匪約千名が瀋海線の営盤駅を占領し、駅舎を焼き払い、撫順襲撃の機を狙う。日満官憲が厳重に警戒中。偵察隊を出して徹宵。」

『撫順新報』によれば、「1932831日、67百人の抗日部隊が本渓湖を襲撃し、市街戦となった。」

91日、炭鉱事務所で川上守備隊長、小川憲兵隊長、前田警察署長、大橋防備隊長、宮沢庶務課長らが緊急防備会議を開催し、要所に武装人員を配置し、警戒を強めていた。

 

032 憲兵隊が「大刀会と張学良の便衣隊が7日に撫順を襲撃する」との情報を得て、96日、(満州国の)中国側幹部を「公安大隊反乱計画」の廉で一斉検挙した。撫順の杜司法科長、劉第九分局長(千金寨警察処長)、蘆警察局長、田行政科長、林総務科長、趙督察科長等を取調べ、一斉検挙した。『撫順新報』によれば「杜司法科長以下は先月2930日の2日間にわたり、相当な大金を大刀会匪を通じて張学良より支給されたことは事実で、(翌日)7日の撫順襲撃と同時に公安大隊を率いて寝返る段取りであった」

 これが「五族協和」の実態だった。

 

96日、撫順県県長の夏宜は住民向けに布告し、住民に密告を奨励し、県公署(県庁舎)の前に密告用の投書箱を設置し、「投書した人の実名と住所を記入しないと無効」とした。そして「私憤を晴らすため、事実を捏造したり、匪賊と通じたりしていることが発覚した場合、厳重なる方法で罰し、容赦はしない」とした。

 

96日、武藤関東軍司令官は「抗日反満兵匪特に唐聚伍を頭目とする兵匪団を通化、桓仁の地区に包囲し、之が殲滅を期す」と指示した。(満州事変作戦経過の概要(二))

 

 「楊柏堡襲撃刹那の匪賊団」の写真は、915日午後、撫順襲撃直前に撮影されたものと思われる。「遼寧民衆救国会」名義の紙幣(軍票)も見られる。

 

034 915日夜、大刀会を主力とする「遼寧民衆自衛軍」千名or千二百名or二千名が撫順炭鉱を襲撃した。(日本側資料)

 

 佟(とう)達氏は襲撃部隊総数を2300人とする。その構成は、

 

東路 第14連隊と王彤(とう)軒の太刀隊(大刀会)の100人、李海峰の部隊の200人。計700人。

南路 二個連隊と予備隊一個連隊 1200人。千金堡から平頂山を通り、楊柏堡採炭事務所を襲撃・放火。

西路 一個連隊 400人。

 

『撫順新報』によれば、「915日、午後1150分、突如西龍山に現れた大刀会匪(一百乃至五百と称するも数不明)はまず楊柏堡火薬庫を襲い、次いで東郷採炭所楊柏堡社宅華工宿舎を襲撃、楊柏堡採炭所事務所、東ヶ丘採炭所事務所、老虎台採炭所事務所や住宅に放火し、日本人に十数名の死傷者あるいは戦死者を出した。火炎、銃声、砲声、良民の阿鼻叫喚の声、兇匪の上げる喧噪の声、軍警防備隊の喊声など、極度に凄惨を極める夜を明けた。」

「右の情報一度到るや、守備隊は川上隊長指揮の下に全員出動、まづ栗家溝の敵と衝突、之を楊柏堡方面に追跡、茲に於て敵は楊柏堡採炭所に據(よ)り、頑強に我に交戦した。守備隊は之を包囲総攻撃をなし、敵二十余名を斃し、逃走する敵を急迫して、井上部隊は千金堡に掃蕩し、また川上隊長は楊柏堡華工宿舎に東ヶ丘に転戦し、敵を四散せしめて午前五時守備隊に引き揚げた。」

 

 写真「撫順楊柏堡採炭所安全燈室焼却の惨状」036は、916日の早朝5時頃の撮影と推定される。

遼寧民衆自衛軍は、採炭所事務所、社宅、警察派出所、社宅市場、倉庫、測量室、安全燈室などを放火した。

 

当時の日本語雑誌『月刊撫順』193210月号は井上中尉の談話をまとめた。

 

「当時守備隊の在営兵力は僅々五十余名で、他は全部瀋海線撫順城方面に出勤中にて兵力不足のため、積極的行動に出でて敵の機先を制することは不可能であった。でやむを得ず、来襲せし敵を片っ端より撃破する作戦を採り、トラックを徴発し、何時にても出動できるよう準備して時機の到るを待った。」

 

(一方)守備隊(の主力)は午後7時から8時にかけて情報を収集・分析し、(撫順)襲撃の可能性が高いと判断し、

 

「川上隊長は直ちに意を決し、防備隊員の召集を命じ、春成特務曹長をして、午後八時、小銃一ヶ分隊、重機関銃一ヶ分隊、公安隊三十名の一ヶ小隊を指揮せしめた。

 大橋防備隊長の意見具申により、川上隊長は午後十一時から十二時頃まで山砲の威嚇射撃をこの方面に行いたるに効果覿面(てきめん)。

 零時三十分「大刀会匪、楊柏堡採炭所を襲撃中」との報に接し、中隊は直ちにトラックに分乗して出動した。即ち守備隊営舎前の道路を直進して東郷採炭所に来ると、楊柏堡の方面に当たって、火焔天に冲(ちゅう)し、銃声喊声轟き、悲鳴耳をつんざくが如く、その様ものすごかった。

 時あたかも午前一時春成小隊は新楊柏堡より発電所に向かって襲撃中の敵約七百名を認め、「好敵御参なれ」と、重機関銃、小銃の一斉射撃を浴びせかけたので、敵は死体を収容する遑(いとま)もなく、算を乱して楊柏堡方面へ潰走した。

 腰節子(ようせつし)に至れば、六十米突(メートル)前方の家屋焔々として燃え盛り、右往左往する避難民、槍を翳(かざ)して之を追ふ刀匪、残殺される良民、放火撹乱(こうらん、撹は乱す)中の敵影は、火焔を背景に槍の房毛まで数えられる様だ。

 午前三時頃千金寨、青草勾(こう)の両方面に呼子の笛、馬の嘶(いなな)きしきりに聞こえ、敵は集結中らしい。たまたま大津上等兵飛んで到り、中隊長命令、「井上小隊、帰れ」と。乃ち兵を集結して黎(れい)家溝栗家溝)を後にして引き揚げた。中隊の主力は四時頃、華工社宅、楊柏堡、東ヶ丘付近一帯の掃蕩を完了して、楊柏堡にて井上小隊と合し、東天ほのかに白む頃守備隊に凱旋した。

 

 『満州事変戦闘時報』によれば、日本軍の負傷者は2人で、楊柏堡で負傷した守備隊の土屋特務曹長と山田上等兵であった。炭鉱職員では渡辺寛一楊柏堡採炭所所長など4人が死亡、2人が重傷、職員家族では1人が死亡、重症2人だった。

039 関東軍司令部(916日発表)によると、「敵の遺棄死体五十捕虜三」とある。(『満洲日報』9/17

 

遼寧民衆自衛軍の撫順攻撃の戦術は稚拙だった。1982年の『撫順文史資料』の中の「三千同胞死難記―撫順平頂山惨案始末」(撫順市政治協商会議)は、遼寧民衆自衛軍の撫順攻撃について、

 

1軍事行動が筒抜けで、

2指揮が統一されず、

3情報収集ができず、地元の中国人住民との結びつきも弱く、

4武器が旧式で、都市攻撃の経験もなく、大声を出して進軍して敵に覚られた。

 

と総括している。

 

これは絶望的抵抗だった。その後、関東軍が討伐し、義勇軍は解散したり、(関東軍に)帰順したり、殺されたりした。

 

 

第二章 平頂山住民虐殺事件

 

1.決断

 

043 1932916日午前、(関東軍)撫順守備隊が中心となり、平頂山集落を包囲し、住民を家から追い立てて一か所に集合させ、住居に放火し、機関銃で掃射の上刺突し虐殺した。これは計画的である。なぜならば相当数の要員を必要とし、輸送車両や機関銃、ガソリンor重油など事前の準備が欠かせないからだ。

 

 これに関する日本側の資料は残されていないが、満洲時代に日本側に協力した中国人(戦後「漢奸」(裏切者)と呼ばれた)が取り調べられたときの証言がある。

 

044 (漢奸の一人である)于慶級(うけいきゅう)は、当時撫順県政府外事秘書で通訳だった。以下は于慶級の1956年の供述調書による。

 

916日の午前6時、小川一郎憲兵分遣隊長から県政府に電話があり、「迎えの車を出すからすぐ来い」と言われ、県長の夏宜(かぎ)に伝えた。夏宜は指名されなかったので同行しなかった。」(これは6時前から夏宜県長も于慶級も県庁舎にいたことを示している。)

 

「小川憲兵隊長の執務室で会議があり、出席者は川上精一撫順守備隊長、小川一郎憲兵隊撫順分遣隊長、山下満男撫順県公署参事官と于慶級の4人であった。川上守備隊長が会議を主宰し、「昨晩大刀隊が栗家溝などの村を通って撫順鉱区に侵攻した。村民は大刀隊の通過を知っていたが、派出所に報告しなかった。そのため我々は大きな損害を被った。彼らが匪賊と通じているのは明らかだ。この村の処理問題について相談したい。」山下参事官「どう処理しますか。」川上「徹底的に殺(や)り、焼き払う。」

045 山下参事官「やりすぎではないでしょうか。」川上「当然のことだ。」川上は于慶級にも意見を求めたが、于慶級は「何もありません。」川上は小川憲兵隊長には意見を求めなかった。

 

虐殺地点は栗家溝(平頂山)で、殺害と家屋焼却は守備隊と憲兵隊が担当し、通訳を二人ずつ三組、計6人を手配した。最後に川上守備隊長が「8時半に会議」と結んだ。于慶級は7時前に車で県公署(県庁舎)に戻り、夏宜県長に報告した。(この「四人会議」は620分から40分くらいと推定できる。)

 

8時半、川上隊長が主宰し、炭鉱事務所会議室で「責任者会議」が開かれた。炭鉱事務所は撫順守備隊から500メートルのところにある。出席者は、前記4人に加え、前田信二警察署長、鎌田光次憲兵、久保孚(とおる)炭鉱次長、宮沢惟重庶務課長、高久肇土地系主任、園田慶幸県副参事官、佟(とう)世勲県警務局長、立田寅太県警務局指導官、趙某県警務局通訳、夏宜撫順県長の計14人であった。

 川上隊長「今回の攻撃は、大刀会が栗家溝、千金堡などの村を通ってきた。この三つの村は事前に大刀会が来るのを知っていたが、派出所に報告しなかった。そのため炭鉱と日本人は大きな損害を被った。この村を処分する。処分とは殺害し、焼却し尽くすことだ。そうでなければ治安を維持する方法がない」とまくしたてた。

 

046 撫順炭鉱のトップ久保孚炭鉱次長「通敵の事実があったとしても、全員を殺害し、焼き払うべきではない。やるなら主要人物だけにすべきだ。」小川憲兵隊長「川上守備隊長に賛成する。」前田信二警察署長は無言で落ち着いていた。宮澤庶務課長と高久主任も無言だったが、驚いた顔をしていた。夏宜県長は意見を求められたが、不安そうな声で「私は特に意見がありません。」川上隊長「自分が守備隊の隊長である。この地域の治安の責任は、全部自分が負っている。今後何かあったら自分が責任を持つ。」

 

最後に川上隊長が、「村民の銃殺は独立守備隊と憲兵隊が行う。殺害の現場は平頂山東山腹とする。平頂山村はすべて焼き払う」と述べ、これが決定された。」

 

 四人会議と責任者会議について触れているのは于慶級だけである。夏宜県長はこの会議について供述していない。夏宜の供述によれば、

 

「虐殺が行われた後に、小川憲兵隊長から初めて知らされた。それは四、五日後のある日の朝七時ころ(1951年)、平頂山事件の当日(19533月)、平頂山事件の翌日(195312月)(と揺れている)であった。自分は平頂山虐殺事件を全く知らなかった。平頂山という地名さえ知らなかった。小川(憲兵隊長)から(事件後の)平頂山の救済措置を要請された。小川(憲兵隊長)からさらに他の17カ村でも虐殺すると聞いたので取りやめるように、久保炭鉱次長と一緒に川上隊長の家を訪ねて要請した。川上隊長はそれらの村は攻撃しないと言った。」

 

 久保孚炭鉱次長もこの会議について触れていない。久保は戦後死刑判決を受けた後に書いた194828日付の申辨書(しんべんしょ)の中で「翌16日、引き続き炭鉱事務所におり、昨夜の被害に対する善後処置に繁忙を極め、一歩も事務所以外に出でたることなし。」「平頂山の虐殺は、16日早朝以来炭鉱事務所に於て昨夜来の襲撃被害に対し善後措置を講じつつある午後3時頃報告に接したるものなり。」

 

 これは死刑判決「被告久保孚は守備隊、憲兵隊及び警察と共に平頂山事件に参画し、其の上自動車に乗じて現場に臨み、残虐なる行為を命じたり。因って主犯の一人たるを免れず」への反論であった。

 

048 久保孚申辨書「炭鉱次長の職にある者が、如何にして炭鉱工人の殺戮に左袒し得べきや。自分は炭鉱労働者の撫順炭鉱への寄与・貢献をよく知っている。彼らに親愛の情を抱いている。」

 

 王長春(憲兵隊通訳)の1957年の供述調書

 

「小川一郎憲兵分遣隊長は、炭鉱事務所から憲兵隊に戻ってすぐ会議を招集した。おそらく9時台であろう。兵力は主に守備隊で、憲兵隊はその援護が任務である。虐殺の実行、住居の焼却、死体の処理などはすべて守備隊が担当すると告げた。憲兵隊は8人が現場に行くことになった。それは小川隊長、鎌田、武田、島峰、貴田(亀田か)、王長春(通訳)、金子守一(朝鮮人)、牟(ぼう)文孝(憲兵隊情報工作員)であった。

 牟文孝「平頂山の住民のほとんどは炭鉱労働者だから、彼等を集めようとするなら、大衛門(炭鉱事務所)で用事があるとでも言わないと無理だろう。」結局「昨晩は大刀会が襲撃してきたが、幸い平頂山の住民には一人の負傷者も出なかったので、大衛門はみんなの無事を祝って記念写真を撮ることにしたと伝える」ことに決まった。小川隊長はその後炭鉱事務所に向かい、その他の憲兵隊員は、武器と着替えを用意して車に分乗して守備隊に向かった。」

 

 

2 出動

 

049 呉長慶は当時9歳だった。915日の夜は銃声が続いて眠れず、床にしゃがんだまま朝を迎えた。父親は炭鉱労働者で、母、祖母、叔母の5人家族だった。夜が明けた6時か7時ころ、用たしに外に出ると、山に日本兵が完全武装で、草の蔭に身を隠し、立ったりしゃがんだりしながら村の様子をうかがっていた。家族は呉長慶を除いて全員虐殺された。

 

050 これは早朝の四人会議で川上隊長が「彼らが逃げ出さないように今から村を全部監視しよう」と言っていたことと符号する。

 

 責任者会議の終了後、守備隊のうちの出動部隊が平頂山に向かった。

 

 関東軍独立守備隊の出動規模諸説 王長春(憲兵隊通訳)048の証言によると、出動したのは六個小隊180名とし、これに基づいて中国側の歴史書も、守備隊八個小隊のうち六個小隊190名が出動したと記述する。日本側でもこれに依拠する書物もあるが、撫順守備隊は四個小隊編成であり、井上清一中尉小隊長107が率いる一個小隊40名と憲兵隊8名が正確ではないか。これは小林実氏も『リポート「撫順」1932』の中で指摘している。

 

 このことは記念写真050から推測できそうだ。この写真は奉天新聞社撫順支局『撫順事変記念写真帖』に掲載されている。この写真には「撫順独立守備隊の勇姿」という説明文がある。この写真は守備隊宿舎前で撮影された。この宿舎は20179月現在でも現存していた。傳波・撫順市社会科学院元院長が私を案内してくれた。傳波氏の説明によれば、この写真の右側が東で、日光は東南から照らしていて、人の影や9月中旬という時期から判断して、撮影時間は午前9時半ごろとする。

 

051 写真後方の旗には「遼寧民衆自衛軍第十一路」と書かれている。抗日部隊からの戦利品の旗も見える。撮影時期は戦闘が終わったばかりと思われる。

 この写真には40人が写っている。(村の監視のために早朝出動した)先遣部隊以外の撫順守備隊の一個小隊である。この部隊が写真撮影後、平頂山の惨劇を引き起こしたと思われる。

 川上守備隊長の姿も見える。井上中尉小隊長と思われる人物もいる。川上隊長の左隣で軍服でない人物は、防備隊の大橋頼三隊長031,038である。写真の中で守備隊兵士でないのは彼だけである。

 

052 「撫順襲撃事件に際し終始活躍せる憲兵隊の勇姿」という説明文のある写真がある。これも朝の明るい光の下で撮影されている。王長春(憲兵隊通訳)048の供述によれば、責任者会議後、小川憲兵隊長主宰の憲兵隊会議が開かれ、8名が平頂山に行くことになったというが、この写真にも8名が写っている。小川憲兵隊長と無帽の王長春も写っている。鉄兜を被っている4人が、王長春が供述するところの鎌田、武田、島峰、貴田(亀田)であり、朝鮮人の金子守一と牟(ぼう)文孝(憲兵隊情報工作員)と思われる人物も写っている。

053 この写真も平頂山に出動する前に撮影されたものと思われる。分遣隊の看板や軽機関銃も見える。

 

 「昭和七年九月十六日朝刀匪撫順襲撃に於ける撫順署員討伐より帰着」という説明文のある写真がある。この写真も明るい日差しの下で撫順警察署の前で撮影されたが、「帰着」は疑問だ。時間が遅すぎるし、服装も整っている。平頂山への出動前に撮影されたのではないか。

054 署員90名が写っている。撫順警察署の署員数は、小林実氏050200名とし、田辺氏は250名と推計する。(090田辺敏雄『追跡 平頂山事件』図書出版社1988)それから判断すると署員の4割、つまり90名を平頂山に送り込んだものと思われる。

前田信二署長と思われる人物も見られる。前田署長はこの写真撮影直前に炭鉱事務所で責任者会議に出席し、署に戻ってから署員に出動準備を指示したものと考えられる。

 重機関銃一挺と軽機関銃六挺が見える。警察所有のものだろう。

 

 防備隊の一部も虐殺に加わっているので、平頂山の現場に向かったと推察される。田辺氏が聞き取った某一等兵は、虐殺現場に「十数人か、そんな見当」の防備隊員がいたこと、射撃命令を出す前に井上中尉が防備隊員を後方、それも相当遠くまで立ち退かせたこと、服装が守備隊兵士と違うので、防備隊に見誤りはないことなどを証言している。

 守備隊の集合写真には、川上守備隊長の隣に大橋防備隊長が写っている。大橋防備隊長は撫順襲撃のあった15日の午後5時ころから守備隊に詰めていて、情報収集し、打ち合わせや指示を出していたと自ら述べている(『月刊撫順』193210月号)。彼が翌朝も守備隊にいたのは不思議でない。

 防備隊の役割は守備隊の補助であった。周辺警備と事後の死体処理などが主要な分担任務だった。

 

 守備隊が兵営を出発するに際し、井上小隊長は守備隊員に出動目的を伝えている。小林実氏が聴き取りをした元守備隊員は、「全村の殲滅を伝えられた」と証言している。また村民を混乱なく集合させるために、写真撮影を準備して出発したともいう。また田辺氏も前記の元兵士の証言として、「午前9時前後、あるいはもう少し遅かったかもしれないが、井上小隊長が隊員を前に、『これから工人部落に行き、全員抹殺する』との明確な指示を与えた」と証言している。これは計画性と組織性のある行動であり、突発的な判断ではなかったことを示している。

 

3 出撃

 

 056 関東軍独立守備隊第二大隊第二中隊の井上中尉が率いる小隊約40名と憲兵隊8名は、数台の乗用車とトラックに分乗して平頂山に向かった。時刻は9時半前後と思われる。

 守備隊はこの時トラックを持っておらず、前夜もトラックを徴発していた。「零時三十分『大刀匪、楊柏堡採炭所を襲撃中』との報に接し、中隊は直ちにトラックに分乗して出動した」(井上中尉『月刊撫順』193210月号)

 トラックの徴発先は「国際運輸」か「山口タクシー」かあるいは両方であったと推察される。

 田辺氏は撫順育ちの寺西文男氏から聞き取りしている。寺西文男氏の父寺西圭之(けいし)氏は当時撫順地方委員議長で、文男氏は父から聞いた話として、「山口タクシーの主人が虐殺現場を撮影し、映写フィルムもあった」と父は某氏から聞いているという。

057 守備隊の中でトラックを運転できるものは一人か二人だったという証言があるから、トラックの徴用は運転手込みだったのではないかと田辺氏は想像している。山口タクシーの社長は平頂山虐殺計画を事前に知っていたのではないか。

 

 写真「青年団員の勇姿」 青年団員は山口タクシーのトラックの荷台に乗っていて、カメラ目線でそれぞれがポーズを取っている。道の向こうに中国人らしい人も見える。荷台には20名弱が乗っている。

058 青年団は民間人の武装組織である。青年団の他の写真には軽機関銃も見える。防備隊が炭鉱職員の組織であるのに対して、青年団は炭鉱職員以外の民間人日本人で組織されていたようだ。写真集には萩野満次郎団長の写真が掲載されている。トラックに乗っている隊員は、ワイシャツにネクタイ姿や軍服風の者など統一されていない。彼等も平頂山警備に向かったと思われる。

 

 午前10時ころトラックに分乗した守備隊、憲兵隊などが平頂山近くに到着した。平頂山の住民がそれを目撃している。

 

 奕(えき)立成は当時数え年20歳で、916日朝、日本兵のトラックが栗子溝(りっしこう)駅の洋灰(かい)洞に来たのを見た。奕は炭鉱で働いていた。幌のあるトラックと、ないトラックとがあり、来てすぐ行ってしまうトラックもあった。

 

 莫(ばく)徳勝は当時7歳で、平頂山集落の西側の小高い所で見ていると、鉄兜をかぶり銃剣で武装した日本兵を満載したトラックが何台もやってきた。トラックは牛乳屋の近くで停まり、兵士が続々と降りてきた。

 

059 楊宝山は当時9歳で、外で遊んでいると、10時過ぎころ千金寨方面から四台のトラックで日本兵がやってきた。三台は牛乳屋の所で停まり、一台は南の方へ行った。

 

 夏廷沢は当時27歳で、お昼を食べている頃、外でトラックの音がした。四台のトラックから100余りの日本兵が降りてきた。夏は、本田勝一記者の取材を受けたときには、第一陣で兵士が乗った三台のトラックが来て、間もなく第二陣として六台のトラックが来た、機関銃は第二陣に積まれていたと証言している。他にも四台のトラックが来たと証言する被害者が多い。

 

 以上から言えることは、午前10時ころ、まず三、四台のトラックが守備隊と憲兵隊を運んできた。これに防備隊と警察の一部も同行したかもしれない。その数は60人から80である。

 

 楊宝三によれば一台は南に向かったというが、それは千金堡へ行ったかもしれないし、平頂山の南に行ったかもしれない。

 

060 夏廷沢によれば、第二陣でトラックが六台来たとするが、それは虐殺の補助や周辺を警備する警察や防備隊、青年団などの百数十人らしい。

 

 于慶級・撫順県政府外事秘書で通訳0441956年の供述

 

川上隊長と現場に行った。炭鉱事務所での責任者会議が終わると、川上は私に「俺の車で一緒に行こう」と強い口調で言った。断れなかった。私は助手席に乗り、後部座席に川上隊長と小川憲兵隊長が乗った。車中は終始無言だった。栗家溝に近い警察の派出所に停まった。他に三人の警備隊中尉と多くの日本兵、十数人の警察と数人の中国人便衣がいた。警察(巡査)と三人の憲兵と通訳(王長春)もいた。川上、小川と私が派出所に入った。川上隊長は「準備はできたか」と尋ねてからこう言った。「君たち三人は各々憲兵一名、通訳二名、兵士30名を連れ、三隊に分かれて各集落に行き、住民に東の窪地に集合して守備隊隊長の話を聞くように伝えろ。住民を老若男女全員来るように、来ない者については縛ってでも連れてこい。各集落には10人の兵士を残しておき、命令を待て。私は東の窪地の近く(約700メートル)の道路で報告を待つ。」

 再び車に乗り、指示した窪地から700メートルの場所まで行った。小川隊長はそこから歩いて現場に行き、川上隊長は車外であたりを見回していた。私は耳鳴りがして立ち上がる気力もなかったので、座席に座ったままだった。

 

061 916日早朝、栗家溝付近の警察派出所が前線本部であった。川上隊長はまず派出所に向かい、現場指揮を取った。「三人の中尉」とは于慶級の誤りだろう。ただそのうちの一人は井上中尉だったかもしれない。

 川上隊長が「三隊に分かれて各集落に行け」と命令したということは、平頂山、栗家溝、千金堡を意味しているとも、平頂山で三隊に分かれるという意味ともとれる。一分隊30人とすると、三分隊で90人ということになる。守備隊と憲兵隊、憲兵隊付き通訳だけでは足りないから、これに防備隊の一部が加わった可能性がある。(記念写真に写る大勢(90人)の警官054は加わらなかったのか)

 

 まず平頂山が封鎖された。ある平頂山の住民が大官橋に住む友人を訪ねようとしたが止められた。

 

 

4 決行

 

062 平頂山集落の住民を追い立てて一か所に集めるために、数人ずつの実行部隊がいくつか編成された。それに通訳二人と私服の中国人・朝鮮人も加わったが、その人数が限られていたので、全ての部隊には配置されなかった。また他の兵士は住民の逃亡を防ぎ、住民を現場に向かわせ、無人となった家屋を放火した。

 

 午前10時過ぎから追い出しが始まった。立ち退かせる口実では「写真を撮る」「匪賊の襲撃から住民を守る」が多かった。拒否したり逃げようとしたりした場合は容赦なく暴力が振るわれた。

 

 方素栄(女性、当時4歳)の証言 家に二人の日本兵がやって来て「写真を撮る」と言った。日本兵の一人は裏庭から逃げようとした父親に発砲した。父親は射殺されたと推定される。

 楊玉芬(ふん、女性、当時7歳)の証言 朝食後二、三人の日本兵がやって来て、父に片言の中国語で「皆さんを守るので南の方に集まって」と言った。父親から「日本兵が写真を撮ってあげる、大刀会から守ると言っている」と言われた。

 董(とう)興財(男性、当時25歳)の証言 12時前に朝鮮人がやって来た。話し方から朝鮮人と分かった。彼は私服で、髪を左右に分け、帽子は被っていなかった。(著者の注:背後に守備隊員がいたと思われる)

063 また「砲撃演習を行う」と言われた例もある。日本兵は平頂山地区の南西に位置する崖下の窪地に追い立てた。それには2時間以上かかったと推定される。

 

 平頂山集落だけでなく、栗家溝、千金堡の住民も平頂山に集められた。張栄久は栗子溝(栗家溝)の住人で、事件後北平(現北京)に逃れ、当時の中国紙にその体験談が掲載された。以下は張栄久の証言。

 

 日本兵と通訳が16日の朝、一家(張家)がまだ朝食をとっているときに村に現れた。日本兵は「集落で演習するので平頂山に直ちに行くように」と命令し、食事中にも拘わらず、無理やり追い立てた。平頂山の崖下に着いた時には平頂山の人々はすでに集合していた。人々は「日本軍が演習する」とか「宣統帝(満州国執政・溥儀)が欽差大臣(清の皇帝が臨時に差し遣わす大臣)を派遣して義捐金を渡す」というようなことを口にしていた。

そのうちに子どもを抱いた女性や人に支えられた七、八十才くらいの高齢女性を含む六、七百人の千金堡の農民が到着した。その中に佟(とう)二哥という私(張栄久)の親戚がいた。暫くすると日本兵が「いま陛下がお前たちにお金を下さるから、みな跪いて感謝するように。まず写真を撮ってから渡す」と説明した。布に覆われた三脚の上の写真機は、実は機関銃で、それから虐殺が始まった。(『申報』19321226日)

 

064 栗家溝や千金堡の人々が平頂山の窪地に集合したのは12時を大きく過ぎたころだった。

崖の北側、東側、南側と崖の上に日本兵が配備されていた。(李鳳琴の証言『申報』)

065 現場の窪地は「牛乳屋」の南で、幅150メートル、奥行き200メートルだった。本書64頁の図は、本多勝一記者が19716月に夏廷沢を取材したときにつくられたものである。

 

 虐殺が始まる直前、群衆の中にいた朝鮮人は救われた。田廷秀(男性、当時17歳)の証言「王軍義という通訳と何人かの日本人が何回か叫んだ。何を言っているのか分からなかったが、十数人の朝鮮人が群れから出た。」

家から追い立てる前にもあらかじめ朝鮮人を呼び出して、集合場所に行かせなかった。分裂支配の法則である。

 

田廷秀証言の続き「一人の日本兵が一声大きく叫ぶと、機関銃が鳴った。父は撃たれて私の体の上に倒れ込んだ。」「一人の日本兵」とは井上中尉である。守備隊の元兵士も、「中尉の『撃て』のピストルの合図により、カバーを外し重軽機の射撃となった。」(田辺敏雄『追跡 平頂山事件』090)虐殺が開始された時期は午後1時ころであったと思われる。

 

066 田廷秀は腰のあたりを撃たれたが、幸い致命傷にならず、守備隊が引き揚げてから這い出した。他の家族5人は絶命した。

 

一瞬にして大混乱となった。脱出しようと後方の崖によじ登る人もいた。しかしその二十数人は撃たれて倒れた。

 機関銃の数についての諸説 六挺説。韓樹林(男性、当時12歳)「父が『あれは何だ。六個もあるぞ』と言った。他に四挺説や二挺説もある。

067 田辺氏が聴き取りした元兵士は、「守備隊が重機一、軽機三を持っていた」とする。

 

機関銃掃射開始後の様子の諸説 機銃掃射が始まると、住民は銃弾を受け、前列から次々に倒れた。田廷秀「機関銃はまず上の方に向けて撃ち、それから次第に下に向けて撃ってきた。」苗長青(男性、当時17歳)「機関銃は最初は遠いところから撃ったため、機関銃から近いところの死者は少なかった。」李鳳琴(女性、当時22歳)「東の機関銃が山をよじ登る人を撃った。」

 

元兵士から聞き取りした田辺氏「重機は分速五百発、軽機は2025発の連続発射が可能である。だが弾丸は重機用で2千発持って行ったにすぎない。銃弾は貴重品である。」重機関銃は中央に設置された。

 小林実氏(『リポート「撫順」1932』)が聴き取りした重機の銃座に座った元兵士の証言「ひどかった。本多勝一記者が聞き取った中国人被害者の言う通りであった。」

機銃掃射は二回行われた。一回目の掃射が終わった後、生き残った人たちが立ち上がって逃げようとしたので二回目が始まった。以下は李鳳琴の証言。

 

「銃声が鳴ると私は怖くなり、風呂敷を頭にかぶり、地面に伏せた。最初の連射は東の機関銃が行った。私には当たらなかった。皆が伏せたためか弾はうまく当たらなかった。それで一回目の連射が終わると、日本軍は住民を跪かせた。皆が跪くと、南の機関銃が鳴った。今度は多くの人が死んだ。祖父もその時に撃たれて死んだ。(著者の注:長時間(李鳳琴、一時間以上)の機銃掃射でも半数以上がまだ息があった。)銃声が終わると、山上の日本軍が「まだ生きている奴がいる」と叫び、銃剣で刺し始めた。銃剣刺突は東から始まって西へ進み、一人ひとりを検査して刺した。銃剣刺突が終わると虐殺現場は完全な静寂となった。ついさっきまで聞こえていた人々の鳴き声、叫び声、鶏や犬の鳴き声はすべてなくなった。」

 

069 多くの犠牲者は銃剣で亡くなった。多くの生還被害者「機関銃の後に銃剣で刺さなかったら、あれだけ多くの人が死ぬことはありませんでした。」刺突で絶命した幼い子どもたちが大勢いた。乳幼児や子どもたちは小さいうえに親が自分の身体の下に庇護するから、機関銃掃射による死亡率は大人より低い。

 

 いつ自分の所に来るのではないかと息をひそめながら横たわっていた恐怖と緊張感は計り知れない。 過去の記憶は薄れるものだが、皮膚の感触や味覚は長時間経過しても残る。

 

楊宝山012,059「私は母親の下に伏せていた。二回目の掃射で母親が亡くなった。私は『お母さん』と呼んだが返事はなかった。何かが母のところから流れて来て私の頭の後ろを伝わり、口に入ってきた。それを舐めると塩辛かったので、これは母の血だと思った。その時の血の感触は今でもかなり鮮明に覚えている。」これは20002月の東京地裁での本人尋問であるが、私はその法廷に同席していた。

 

070 虐殺開始の直前から平頂山集落は放火され始めた。その煙を見て住民たちが騒ぎ出した直後に機銃掃射が始まった。

 

 機銃掃射や刺突を行ったという守備隊員の証言はほとんどない。以下は田辺氏が受け取った某上等兵の手紙の一部である。

 

「翌日(916日)楊柏堡であろう場所に私はいました。しかも61日付で上等兵になり、日浅いのに分隊長となり、兵7名位を従え、現地に恐らく先頭に居たはずです。守備隊の兵力は一ヶ小隊かそれ以下のようでした。何時住民が一か所に集められたものやら、200人くらいの住民がウツ伏せており、前面は切り立ち、後ろは平地の様でした。昨夜匪賊の襲撃を受けた折、その手引きをしたのでミナゴロシにするのだという。私は無抵抗の人間を殺すのかと思いながら、分隊長の責任において…」撃ての命令に従った。

 

071 田辺氏は戦友会の名簿から元守備隊兵士に照会の手紙を送っている。田辺氏「『上官の命令は絶対であった』と書いて寄こした隊員は他にもある。」

 

 機関銃を担当した兵士よりも刺突を行った兵士の方が数が多いはずだが、小林氏や田辺氏の調査でも、この証言は全く出てこない。生涯話せない黒い記憶だったのだろう。

 

 虐殺の現場には防備隊員もいた。田辺氏は「憲兵隊や警察はまったく虐殺に関与していない点で証言は一致している」という。ところが王長春の供述は、憲兵隊が守備隊の「援護任務」を担当したが、それは実際は虐殺に直接関わっていたことを示している。

 

 王長春は憲兵隊の通訳として川上隊長と小川憲兵隊長と三人で自動車で現場に向かった。虐殺現場の西北方面で守備隊を援護するはずだったが、守備隊と合流して住民を撃つことになったという。歩兵銃か拳銃を使用した。小川憲兵隊長と牟文孝(憲兵隊の情報工作員)は、銃以外に銃剣で、王長春より大勢を殺していた。王長春「前後合わせて私は十四、五人を殺しました。」その後小川憲兵隊長と共に川上隊長のいた場所に戻った。川上隊長に「援護任務は終わった、後はこっちがやる」と言われ、彼等は先に憲兵隊に帰ったという。

 

守備隊兵士は少なかったので、憲兵隊が逃げ出そうとする住民を殺害したのである。

 

072 防備隊と同様警察も周辺警備を担当した。小林氏「警察官も、数は明らかでないが、現場に出動したという証言がある。」派出所にいた警察官と53頁の写真の警察官を合計すれば100人くらいになる。

 

防備隊も10数人ということはなく、ずっと多くが動員されたはずだ。小林氏は「平頂山村の外周を包囲していたのは防備隊であった」という元防備隊員の証言を紹介している。

 

 青年団も動員され、防備隊と同様の任務に就いただろう。

男子学生も動員された。撫順出身の松本辰夫氏の知り合いの当時撫順の中学五年生(現在の高校2年)だったS氏は、916日、撫順の中学校、工業学校の高学年生も軍の命令で守備隊に協力することになったという。

 

S氏たち中学生は、学校備え付けの歩兵銃を手にし、市の郊外にある浄水場の柵に沿って待機した。浄水場は平頂山から市内に通じる道の途中にある。

「平頂山のほうから逃げて来る者があったら、誰でも構わないから射殺するように命令されていましたが、誰も来ません。平頂山で一人残らず始末されたということですね」とS氏は言った。

 その次の日、S氏は同級生と連れ立って平頂山へ行ってみた。集落の家は一軒残らず、屋根と内部は焼け落ちて灰となり、土壁だけが古い時代の遺跡のように立っていた。住民の姿は見えず、動くものはねぐらを失った豚と鶏だけ。」

 

 脱出を防ぐ目的で動員されたのは、警察、防備隊、青年団、学生であった。数百人いただろう。これは周到な計画が必要である。「一将校の激昂によって引き起こされた」などとする説明は、事実と乖離している。

 

 

5 虐殺の後

 

073 機銃掃射とその後の銃剣による刺突には2時間以上かかった。楊宝山「守備隊は午後3時から4時ころ平頂山を去った。雨が降り始めた。車の音が聞こえなくなると、絶命していなかった人々が這い出した。彼らは南の千金堡を目指した。私はコーリャン畑で夜を明かした。」楊玉芬らも千金堡に向かった。

西方の高台に逃げた人もいた。数十人が逃げたが、途中で力尽きた人もいた。

 

守備隊の一部は平頂山から千金堡に向かった。これは周辺警備を担当していた軍人と推測される。その時機関銃は使われなかった。

 

田辺敏雄「あの後よその部落にも行ったのですか。」元兵士「行けるわけありませんよ。血で汚れていますもの。」(090『追跡』1988

 

074 千金堡と平頂山との距離は23キロある。千金堡の某住民は、千金堡から平頂山に向かったが、平頂山の火炎と銃声を聞き、逃げ帰った。金貴祥(男性、当時18歳、平頂山での虐殺が始まる前と思われる)「韓保栄という(千金堡の)村人から『大変だ、平頂山は日本兵にすっかり囲まれてしまっている』と聞き、千金堡の多くの人々は逃げ出した。」

 

趙徳福(男性、年齢不詳、千金堡在)「千金堡は河西、腰街、河東の山集落からなり、合計710戸である。河西が最大で、三集落合わせて平頂山と同規模である。平頂山は炭鉱労働者が多いが、千金堡は農民が多い。周辺はコーリャン畑である。午後4時ころ日本軍が(千金堡に)来た。日本軍は住民を一か所に集めず、住民を見かけ次第発砲し、家屋に放火した。河東集落から始めた。最大集落の河西の住民はこの動きを知って逃げ出した。」

金貴祥(既述)「死んだのは七、八十人だった。河西で死んだのは一人だけである。」

 

076 井上中尉は夕方、千金堡から帰隊した。

渡辺寛一・楊柏堡採炭所所長の息子・渡辺槇夫(当時小学3年生)「井上中尉が通夜に来て、母と姉(女学生)に『御主人のあだはとりました。』(後に)母は『村民皆殺しだとは思いもしなかった。あんなむごいことを。あんなことまでしてほしくなかった。』父は戦闘の場にステッキ一本を持って出て行った。裏をかかれて日本人を殺されたからと言って、非戦闘員の婦女子まで皆殺しにするのは、人間の良心が許さなかった。その母も7年前に死んだ。」(朝日新聞『戦争』朝日ソノラマ1987、戦後だからこんな良心的なそぶりができるのでは。)

 

 翌917日、守備隊は平頂山の現場に戻った。朝鮮人が、逃げ出したが途中で力尽きた死体を集めて積み重ね、重油をかけて焼却した。趙文泉(千金堡在)「平頂山の死体の処理は全て、雇われた朝鮮人が行った。朝鮮人の多くは糧桟街に住んでいた。」

077 董興財(生存者)「私は東ヶ丘の畑に隠れていた。守備隊のトラックがドラム缶を積んで行ったり来たりしていた。昼の12時ころ、虐殺現場から黒い煙が立ち上り、強く長く燃え続けた。ガソリンで焼いていると思った。」

久米庚子(戦後起訴後無罪)「当時私共日本人(撫順炭鉱)社員も、この事件について「軍も困ったことをしてくれたものだ」と密かにこぼしながら、防備隊員の手で死体に重油をかけて火葬にし、崖の上に火薬を仕掛けて土砂を崩して葬った。」(久米庚子「平頂山事件とその始末」『撫順炭礦終戦の記4版』満鉄東京撫順会2004)防備隊員も多数出動していたことが分かる。

ダイナマイトで土砂を崩して遺体を隠すのには中国人炭鉱労働者を使った。韓凱(西露天掘りの労働者でダイナマイト爆破のための穴掘り職人)「炭鉱につくと『今日は向こうで仕事だ』と言われ、トラックに乗せられて目隠しされ、平頂山の虐殺現場に着いた。二十数個の穴を掘り、ダイナマイトで爆破した。その後、死体が覆われていない所をスコップで埋め、暗くなってから戻された。」傅(ふ)少孟「平頂山に行ったのは4人だった。事件から10日ほど過ぎたある日のことであった。」45日後という証言が多い。

078 久野健太郎(防備隊員)「死体を覆い隠すために守備隊の命令で在郷軍人が多数召集され、ショベルで土砂をかけ隠蔽作業を行った」(久野健太郎『朔風挑戦三十年』謙光社1985

久野健太郎「部外者が入れないように高電圧の鉄条網で囲った。私は責任者だった。採炭所から電気工50人を動員し、六尺の坑木と碍子で電柱をつくり、一夜で完成した。」(田辺、松本前掲書)

 

山下貞(撫順炭鉱職員)「匪襲9/15から三・四日後、私は総括駅長・佐藤隆二(山形県出身、53歳)と僚友藤沢一雄君の三人で、線路巡視方々新戦場と平頂山の現場を見に行った。…焼けた平頂山部落は土壁だけが残り、例外なしに焼き尽くされていた。ただ一つ関帝廟か何か知らぬが、お堂が無事に残り、その壁にクレヨンで描いた仏画が貼ってあったので、はぎとって持ち帰った。仏心でお堂には放火しなかったらしい。

 N中尉(井上中尉)が大量虐殺したところへ行くと、人の焼けた臭いと重油のにおいが鼻をつく。埋めた死体の上を歩くと、何段か積み重なっているので、プカプカと足が浮き上がるように感じた。あちらこちらに硬直した脚や腕が土の上に突き出ていた。死体の数は750人から1000人であろうと計算した。

 いずれも非戦闘員である。あるいは強制されて匪賊を案内した者もあったろうし、極少数の内通者がいたかもしれないが、この村、この崖下の惨状を見て、とんでもない大虐殺をしたものだと唖然としてこの惨劇現場を去った」(山下貞『手記・敗戦地獄 撫順』私家版、1982、戦後だからこんな反省じみたことを言っているが、戦中はどうだったか。)

 

山下氏が現場を訪れたのは重油で焼いてから爆破の間であった。防備隊や朝鮮人作業員によって土が雑にかけられていたが、遺体はほとんど露出していた。

 

 焼け落ちた平頂山の集落の土壁も、その後取り除かれた。李玉芳(生存者、女性、当時31歳)「10月に自分が住んでいた平頂山へ密かに戻った。何もなかった。瓦礫が散乱しているだけだった。牛乳屋は残っていたが、その中は死体が積み上げられており、野犬に荒らされていた。」

苗長青(男性、当時17歳)「陰暦11月(新暦12月)に虐殺現場に見に行った。死体を埋めたときの土は、犬によって掘り返され、死体や衣服がそこかしこに散らばっていた。」

 

 

6 善後処置

 

080 平頂山事件後、炭鉱の労働者が撫順から逃げ出した。これに対応するために、918日(柳条湖事件からちょうど1年目、平頂山事件の2日後)、撫順炭鉱長と守備隊長から一般満州人宛てにそれぞれ布告が出された。

 

炭鉱長布告

 

「流言に惑わされて人心は動揺しているが、撫順は軍隊、警察隊、防備隊その他が厳重に守備し、しかもこれらは良民に対しては断じて保護の任にあたり、不法をなすものではないから、華工(中国人労働者)は安心して業につくべし。」(『撫順新報』9/20

 

 川上大尉守備隊長布告

 

「従来満洲の民衆は軍閥の暴政苛求に言語を絶する苦痛に喘(あえ)いでいたが、我撫順は炭礦事業によって礦区内の住民は勿論付近の住民も非常な利益を受け、農工商ともに栄え、今日の隆盛を見たのである。今や満洲国成立し、共存共栄安楽郷ならんとする時、大刀会匪徒は迷信に惑わされ騒擾破壊を敢えてし、しかも撫順附近の部落をこれらの刀匪が通過するとき、あらかじめ刀匪と通じ種々の便宜を与え、或いは誘導すると頗る不穏不法の行為があるので厳重なる方途に出でたのである。ここに於て日本守備隊は厳行剷(さん、削る)除をなした。乍併(しかしながら)日本守備隊は敢えて不法をなさざるものに厳罰を科せるものにあらず。よくこれを保護し、誘掖(えき、助ける)するものであり、徒に恐怖することなく安んじて業につくべし。(『撫順新報』9/20

 

081 撫順新報は「かくして一時人心頗る動揺の兆しがあったが、順次平穏に帰しつつある」と締めくくった。

 

また撫順新報9/23

 

「居住民は断じて安心して業につくべし。軍隊の保護で安全である」

「刀匪の襲来以来種々人心動揺の兆があるが、撫順は最早や何等動揺する必要はない。

 外部からの襲来に対しては日本守備隊、憲兵隊、警察、防備隊、自警団、新たに編された公安隊等の厳重なる守備、警備があり、刀匪一度来襲せんか万全を期した守備と警備とも以て領(鎧の間違い)袖一触(がいしゅういっしょく、鎧の袖にちょっと触れただけでも相手を簡単に打ち負かせる)敵匪が侵入することはない。

 それに元来日本守備隊を始め日本の軍隊、防備隊、自衛団等は、無辜の住民に対しては何等危害を加える事なく正義に向かって闘うのみで、一般官民は絶対的の保護を加うるのであるから、無条件に信頼して業に安んずるが至当である。

 一二撫順附近の部落民が大刀匪と通じて襲来に援助を与え、策源地(敵の攻撃の発端となる拠点)となったが故に、その不法な行為を厳然として処断したのであるが、一般に対しては絶対の保護に任ずるのであるから、撫順から避難する必要は断じてない。一般良民はつとめて動揺せず、もし、近隣知人が付和雷同して同様の徴があれば、よろしく鎮撫すべきが至当である。

 軍警の保護に信頼し、敵匪の来襲には充分の備えがあるから、一般市民は安心して可なりである。今にして避難するが如きは郷土を愛せざるものである。よろしく落ち着いて業につくべきである。

 

083 奉天総領事・森島守人「撫順警察から、炭礦の苦力が職場を棄てて集団的に引き揚げている、徒歩で線路伝いに華北に向かっているとの報に接した」(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』岩波新書1950

 

 当局はその後「集落の復興のため」として救済金支払いの措置を取った。「奉天省は千金堡の避難民救済策として五万元支払う決定をした」と報道されている。(『撫順新報』1932923日、事件1週間後)

満鉄も二万五千元の救済費を提供した(小林の前掲書)。外務省は、武藤満洲国大使の説明に基づき、「虐殺は千金堡での自衛行為である。…尚事件後軍側においては奉天省当局と連絡し、罹災民には手厚き救済を為すとともに、部落の復興その他の善後処置を尽くし、事件は無事に落着せるものなり。」

 

084 李晋清(当時鉱務局の日本語通訳)は、土地係であり、戸籍管理を担当していた。平頂山の救済金分配も彼の手で行われたという証言がある。

楊占友(男性、当時31歳、生還者)「(事件の)一か月後、日本の炭鉱当局は布告を発し、それは死亡者に一人五元、生存者に一人三十元、煉瓦造りの家には一軒二十元、藁ぶきの家には一軒十元を賠償するという内容だった。私の記憶では48人が村長の栗広枝のところに申し込みに行った。」

 

 (満州国)撫順県公署「撫順県勢一覧」1933「(守備隊ではなく)大刀会が19329月に市内に侵攻して放火、殺人を行ったので、残された人々の生活を救済するために救済支援金を支払った」(『罪行』)

085 その対象は県内7か村、1720世帯、8048人、予算は6万元で、この資金は遼寧省から35千元、撫順炭鉱(満鉄)から25千元だった。

 支出内訳 最も多いのが千金堡、次いで多いのが平頂山、栗家溝(栗子溝)で、平頂山と栗家溝は炭鉱区にあったので「炭鉱の救済」と注記し、「他の炭鉱区の土地に移動再建」とある。(しかし実際は死者が多かったからそれは不可能であった。)平頂山、栗家溝への支出は14900元であり、千金堡への支出18500元である。「栗家溝集落復旧費」はあるが、平頂山にはそれがない。平頂山は二度と復旧されなかった。

 

 

7 平頂山事件犠牲者数の問題

 

086 『撫順県勢一覧』には前述のように、救済対象が県内七カ村1720世帯、8048人とあるが、その内訳は書かれていない。

 

 『満洲日報』1015日には村別の人口と死者数が掲載されている。

 

        人口    死者

千金堡  2,791   86

大東州  1,288   37

小東州    794     7

東州河   920     8

寨承濟    896   75

平頂山  1,369   400

楊柏堡     28   13

 

      8,058   620 これは計算ミスで、以下が正しい。

        8,086   626 それはともかくとして、

 

平頂山の死者数400は大雑把な見積りだろう。戦闘での死者数と同様である。端数がない。

 

087 平頂山の歴史は浅い。平頂山は撫順炭鉱の拡大に伴う旧坑道埋め戻しのための採砂場所であり、平地となったところである。平頂山には1926年から撫順各地の炭鉱労働者や商売人らが住み始め、人口が急増した。地価も高くなかった。

1932年夏には400余世帯、人口3000となったと考えられる。

平頂山には単身者はおらず家族がほとんどで、独身者には栗家溝に独身者用の宿舎があり、平頂山とは鉄条網で仕切られていた。人口密度の点から、平頂山は「村」ではなく、「鎮」と呼ぶべきだと傳波氏はいう。鎮は人口密度が高い。千金堡は村である。

 

088 田辺氏は満洲日報の数字が正しいとし、元兵士からの聞き取りを考慮して、死者は400名から800名とする。

 

 しかし董興財(平頂山の生存者)

 

「私の記憶では平頂山は474世帯か475世帯。それは商務会の常さんの家に戸籍簿があり、私が尋ねたら、彼がそう言ったからだ。当時はもっとも小さい世帯でも45人はいて、10人前後が普通で、多い場合は230人だった。だから、平頂山の人口は少なくとも27002800くらいいたに違いない。それ以外に平頂山には他の村から来た人たちもいた。」

 

 平頂山の人口は400世帯、3000人が妥当な数字だ。犠牲者数は3000人だ。

 

089 1932年の新聞報道でも、早い段階で、死者3千余人と伝えられた。エドワード・ハンターの取材報道や中国外交部などは死者2700人とする。

 

これに対して撫順の日本人の間では、久保孚(とおる)炭鉱次長が申辨書で記述したように、700から800と伝えられていた。

 

 撫順の平頂山事件記念館は、犠牲者の姓名の判明調査を続け、行政文書や親戚知人の聞き取りなどの結果、現在では2300名余の名前が確定している。それから見ても死者700人説はすでに否定されている。

 

 

 

第三章 川上隊長不在説と井上神話

 

1 川上精一守備隊長は虐殺の日、撫順にいなかったのか

 

096 撫順の「平頂山惨案遺址紀念館」に展示されている遺骨は、平頂山村の虐殺の事実を雄弁に物語っている。

 

097 中国の研究や歴史叙述は、川上守備隊長が事件当時撫順にいて謀議の中心となり、虐殺実行の首謀者であったとする。

これに対して田辺敏雄は「川上不在説」を唱える。田辺敏雄は当時の守備隊員の証言に基づいて、「川上大尉は914日夜、第二大隊第二中隊の主力120名を率い、密かに討伐に出動し、17日夕刻撫順に帰った」とする。この説によれば、虐殺の実行責任者は井上清一中尉ということになる。川上精一大尉は田辺敏雄の岳父であり、田辺は「義父がもしいわれのない非難をうけているのであれば、それを取り除いておきたいと思った」とする。

 

098 この問題は平頂山虐殺が日本軍による組織的・計画的行為だったのか、それとも激昂した一現地指揮官による例外的な行為だったのかという問題や、さらには中国大陸における日本軍の行動全体にも関わってくる。

 

川上不在説への反論

 

 小林実「撫順が襲撃されることは確実だと言われた日に、守備隊長自らが(よそに)出動していたのなら、よほどのことでなければならない。そしてそれを裏づける資料はない。」

 石上正夫「事件は井上中尉の独断専行よったものかは謎である。川上中隊長の事件当日の在・不在説は揺れていて、確証を得るに至っていない。軍部による事件隠蔽工作に加え、…」

099 高尾翠は不自然な川上大尉の不在、虐殺の計画性、当時の新聞・雑誌資料などから総合的に川上首謀説を妥当とする。

 

ところが歴史学者大江志乃夫や江口圭一は田辺敏雄の「川上不在説」を復唱する。

 

 私は20085月、中国の大連図書館で、当時撫順で発行されていた日本語新聞や日本語雑誌を読み、川上首謀説を確信した。

 

 

2 くずれる川上不在説

 

100 『撫順新報』は当時撫順市とその周辺の日本人を対象とした日本語の新聞であった。19214月の創刊で、発行部数は2100部、発行人は窪田利平、編輯人は土屋文蔵であった。同紙916日の号外

 

「大刀会匪突如襲来、守備隊、警察、防備隊奮戦撃退、敵の死体五十余発見」「九月十五日午後十一時五十分突如西龍山に現れたる大刀匪は(一百乃至五百と称するも数不明)まづ楊柏堡火薬庫を襲い、次いで東郷採炭所楊柏堡社宅華工宿舎を襲撃、燎原の火の如き勢いを以て楊柏堡採炭所事務所東ヶ丘採炭所事務所老虎台採炭所事務所を阿修羅の如き形相をもって各採炭所事務所或いは社宅に放火し、日本人に十数名の死傷者を或いは戦死者を出さしめ、未曽有の大事件を惹起せしめるに至った。炎々として燃ゆる採炭所の火炎、段々として轟く銃声、砲声、良民のあぐる阿鼻叫喚の声、兇匪のあぐる喧噪の声、軍警防備隊のあぐる喊声俟って極度に凄惨を極むる夜をあけた。」

「右の情報一度到るや守備隊は川上隊長指揮の下に全員出動、まづ栗家溝の敵と衝突、これを楊柏堡方面に追跡、茲に於て敵は楊柏堡採炭所に據(よ)り、頑強に我に交戦した。守備隊は時を移さず、これを包囲総攻撃をなし、敵二十余名を斃し、逃走する敵を急迫して、井上部隊は千金堡に掃蕩し、また川上隊長は、楊柏堡華工宿舎に東ヶ丘に転戦し、敵を四散せしめて午前五時守備隊に引き揚げた。」

 

101 「守備隊追撃徹底的撃滅」「敵匪掃蕩を終わるや、一度守備隊に引き揚げたる川上隊長は、老虎台煉瓦工場に逃走したる匪賊の片割れ千金堡に逃走せる敵を徹底的に撃滅するべく、休息の間なく出動

 

以上の通り川上は守備隊を指揮し、みずからも栗家溝、楊柏堡、東ヶ丘と転戦していた。

 

日本語の月刊誌『月刊撫順』は、月刊撫順社の発行で、発行人は城島徳壽(舟禮)、編集人は月野一霽(さい、はれる)、発行部数は4700部、定価は通常号20銭だった。

 

『月刊撫順』193210月号(107日印刷、10日発行)の「防備の辛苦誰か知る」の執筆者は、山本朝光防備隊員、井上中尉、大橋頼三防備隊長、土生琢介同副隊長の四人である。

 

山本朝光は、千金牧場方面で警戒に当たっていて、抗日義勇軍と交戦状態になり、その後、伝令として楊柏堡へ移動して夜を迎えた。「夜明けも近づいたころ、応援の防備隊機関銃隊、及び第〇中隊第〇小隊が○○少尉の指揮の下に、楊柏堡露天掘りを通過して、筆者等の居る所に登ってきた。この応援により、一部警戒に当たり、他は全部安全燈室の消火に従事した。そのうちに守備隊も来た(また守備隊が来たのか)。(川上大尉)隊長は「敵を掃蕩したので附近には敵影を見受けぬから、安心するように」と慰めの言葉を述べられた。」

 

102 井上中尉「守備隊が午後七時から八時にかけ情報を収集・分析したところ、襲撃の可能性が高いと判断した。川上隊長は直ちに意を決し、防備隊員の召集を命じ、春成特務曹長をして、午後八時、小銃一ケ分隊、重機関銃一ケ分隊、公安隊三十名の一ケ小隊を指揮せしめた。」「大橋防備隊長の意見具申により、川上隊長は午後十一時から十二時ころまで、山砲の威嚇射撃をこの方面に行いたるに効果覿面(てきめん)。」「午前三時ころ千金寨青草勾(こう)の両方面に呼子の笛、馬の嘶(いなな)きしきりに聞こえ、敵は集結中らしい。たまたま大津上等兵飛んで到り(川上)中隊長命令『井上小隊、帰れ』と。乃ち兵を集結して黎家溝を後にして引き揚げた。中隊の主力は四時ごろ華工社宅、楊柏堡、東ヶ丘付近一帯の掃蕩を完了して、楊柏堡にて井上小隊と合し、東天ほのかに白む頃守備隊に凱旋した。」

 

 土生琢介防備隊副隊長「守備隊(の命令)に(よって)残された防備隊の予備隊は、川上守備隊長に『時の至るを待っていてくれ』とくれぐれも注意され(てい)たのだったが、同僚が盛んに交戦しているのを見ては腕が鳴って気が気でない。中にも熱血に燃ゆる真鍋小隊長(東郷は)、とうとうしびれをきらし、これが待っておられるものかと、部下一個小隊を率い、白鞘の日本刀を抜いて第一線に乗り込み、大いに奮戦力闘した。」

つまり防備隊に対しても川上は指示をしていたのである。

 

103 『月刊撫順』11月号「防備の辛苦誰か知る(続)」には、鹽川白麻防備隊第三中隊長黒田徳治防備隊第二中隊長真鍋好雄防備隊第〇小隊長が登場する。

真鍋好雄防備隊第〇小隊長は、既述の「熱血」真鍋であるが、「楊柏堡事務所の敵を潰走せしめた後、その南方において川上守備隊長と会い、爾後の行動のために連絡を取る。」

この引用の直前に、抗日義勇軍を捕らえたエピソードがある。

 

「逃げ遅れた一人を捕らえて『突け突け』と命令してもなかなか皆突かない。面倒だとばかり拳銃を二、三発ぶっ放してまた『突け突け』と云ったら一人が突いた。一人が突くと、我も我もと、三、四人でとうとう突き殺してしまった。それから後はどんどん突く。もう命令不要だ。紅槍会匪とか大刀会匪なら恐るるに足らぬ。大分要領を会得したように思う。否、ある自信ができたのだ。今一度来てみよ。今度こそはだ」

 

川上大尉は915日に最初から撫順にいた。ただし、井上中尉「当時守備隊の在営兵力は僅々五十余名で、他は全部瀋海線撫順城方面に出動中にて、兵力不足のため、積極的行動に出でて敵の機先を制することは不可能であった」とあるように、中隊の多くが撫順にいなかったのは事実だろう。

事件前後の『撫順新報』や『月刊撫順』の記事の中に、川上と井上以外の将校は登場しない。(撫順中学配置の岡田大尉は報道されているが)第二中隊には他に角田市朗中尉と後藤秀乾中尉がいた。出動中だったのだろう。

 

 

3 報道から透けて見える虐殺

 

104 平頂山住民虐殺事件の立案・計画の証拠は、その会議に参加したという于慶級(当時撫順県公署外事秘書兼通訳)の証言しかない。川上不在説をとる人々は于慶級証言を作り話とする。

 

 一つの集落を抹殺する為には、兵員の動員、移動手段の用意、住民誘導の方法、複数の機関銃の準備、民家焼却の役割分担など、事前に合議・決定する必要がある。

 

 16日の平頂山事件そのものについて『撫順新報』など現地各紙は何も報じていないが、撫順を後にする炭鉱労働者は続出した。

105 奉天(現瀋陽)で918日に創刊した関東軍系の190日本語新聞『大満蒙』921日付紙面に、撫順支局発「撫順駅大混乱」では、「千金寨支那町の方面には匪賊来襲の上焼打するとの流言蜚語流布せられたものの如く、十九日早朝より約二千数百名の避難民撫順駅に殺到大混乱におちいりたり。」とする。

 また第二章で述べた918日の撫順炭鉱長や守備隊長の布告080や、923日の『撫順新報』の布告081に「不穏不法の行為に対する厳然たる処断」とある。

 

105 田辺によると、川上大尉は自らを「銃殺にしてほしい」と申し入れたという話が伝わっているという。田辺「これは大隊本部に対してと思うが、義母に後のことを託す話が残っている。」これは一週間後に奉天の大隊本部が事件の調査に来たときのことかもしれない。これが事実とすれば、川上中隊長は非武装・無抵抗の住民虐殺が戦争犯罪であることを十分認識していたことになる。

 19466月、連合軍の憲兵と警察署員が川上精一元中隊長を戦犯容疑者として拘束すべく宮城県の一漁村を訪れたが、川上は署員を待たせている間に青酸カリで自殺した。

 

4 戦前からあった井上専断説

 

106 川上大尉不在、井上中尉独断説の由来

 

 元奉天総領事の森島守人083は戦後最も早く平頂山事件について記述した。

 

「新聞掲載を禁止していたため公にはならなかったが、昭和71932年の109月)、撫順でも目に余る満人婦女子の大虐殺事件があった。…同地守備隊の一大尉(中尉の間違い)が、匪賊を匿うたとの廉で、部落の婦女子を集めて機関銃で掃射鏖(おう、みなごろし)殺したとのことであった。」「この事件のあった少し前、内地の一新聞に満洲へ出征した一大尉(中尉)の夫人が、夫君に後顧の憂いなく御奉公をするようにとの遺言を残して白装束で自害したとの記事があり、戦時婦人の典型だとて評判になっているむねを伝えていたが、件(くだん)の大尉(中尉)こそこの夫人の夫であった。」

 

 森島守人の回想録には外交官として戦争を止められなかったという反省の心情が随所にみられる。当時奉天にいた森島は、井上清一中尉を虐殺の実行者として記憶していた。

 

107 この記憶は、戦後処刑された当時撫順炭鉱次長であった久保孚が瀋陽の軍事法廷に提出した申辨書の中にも現れている。

 

「平頂山殺戮には井上中尉が専断を以て遂行し、川上大尉は事件後現場に臨みたることは、その後一週間の後、奉天大隊本部より事件真相の調査に来たりしとき、明白に知りたり」

 

この文書は久保が平頂山事件には一切関わっていないことを主張するために書かれた。

 

108 戦後戦犯として拘留され結局無罪になった久米庚子(こうし)は

 

「守備隊はちょうど隊長K大尉が留守で、兵力も少なかったという不意を突かれ、留守を預かるN中尉(井上中尉)としては耐えられぬ不覚をとったことは事実である。」

 

久米は満鉄社員で実際に虐殺には関わっていない。久米は「集落の捜索をしたところ、前夜の襲撃現場からの盗品が発見されたので、住民を尋問したが、白状しなかったので虐殺した」とするが、それは不正確である。そして久米は、「虐殺は井上中尉の独断行為であり、それはこのN中尉が深刻な神経の持ち主で軍務に対して厳しい人だから」と記述する。

 

 同じく満鉄社員だった久野健太郎も「一軍人の判断による、部落皆殺し事件」とし、井上中尉の単独判断で実行したとする。

 

109 田辺の本の中の撫順関係者はみな井上中尉が虐殺を実行したと証言する。瀋陽裁判で処刑された山下満男の親友は「あの当時、川上さんがやったという人は一人もいませんでした。皆、井上中尉だと言っていた。」また193212月に撫順の守備隊に入隊した元兵士は「川上さんが不在かどうかは知りません。ただ井上中尉が興奮して出て行ったとは聞いています。」

 

 田辺は井上専断説を川上不在説に強引に結びつけた。

 

 

5 「井上神話」と平頂山事件の語られ方

 

109 井上中尉は平頂山で住民を虐殺したが、それはその場の激昂による独断行為であったのか。

 

110 井上中尉の妻の自殺については、澤地久枝が『昭和史のおんな』(文藝春秋1980)の中で「井上中尉夫人『死の餞別』」として取り上げた。夫人の自殺は出征前夜のことである。「私の御主人様、私嬉しくて嬉しくて胸が一杯で御座居ます、何と御喜び申し上げてよいやら、明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります」と始まる遺書を残して自殺した。さらに「御国の御為に思う存分の働きを遊ばして下さい。願う所は只こればかりです」と夫を唆した。

 

井上中尉は「こうなった上は、自分は妻の分まで、国のためにうんと働いて来る」(『大阪毎日新聞』19311214)と言って、亡き妻の葬儀にも出席せずそのまま出征した。この事件は軍国美談に仕立てられ、「ああ、井上中尉夫人」(日活)や「死の餞別 井上中尉夫人」(新興キネマ)などに映画化され、戦争熱高揚のために利用された。

 

 井上中尉は19322月下旬、撫順守備隊に配属された。

 

111 久保孚はその申辨書の中で「尚、井上中尉の心性について一言する必要あり。井上中尉は此の事件(出征前夜の妻の自殺)によりて些か自暴に陥りたる如き傾向あり。撫順守備隊を率い各地に戦闘するに際しては殆ど無謀に近き作戦を行い、兵卒を困却せしめたりと聞けり。多分軍人としては戦死を以て能事(のうじ、為すべき事)果ると考え、沈着深謀を欠く如き心情にありたることが、平頂山の暴挙を敢行せる一因とも考えらるる所なり。」

 

 山下貞078『手記・敗戦地獄 撫順』私家版、1982)は満鉄社員で、当時古城子駅の構内助役であった。915日はマラリアで欠勤し、東郷坑社宅街の自宅で休んでいた。彼は翌日の虐殺現場を見ていない。16日夜、同僚と万達屋駅警備の為に、東郷採炭所事務所から電車に乗ると、楊柏堡方面(平頂山方面)で黒煙が濛々と上がるのを見たという。また襲撃事件から三、四日後、総括駅長や同僚と三人で虐殺現場を見に行った。

 

 「人の焼けた臭いと重油のにおいが鼻をつく。埋めた死体の上を歩くと、何段か積み重なっているので、プカプカと足が浮き上がるように感じた。あちらこちらに硬直した脚や腕が土の上に突き出ていた。」

 

112 山下貞も、虐殺は井上中尉の独断によるものと聞いていた。彼は当時の流言によるものだとした上で、

 

「守備隊のN中尉(井上中尉)は、あの匪襲の翌十六日、憤激して平頂山工人部落を一屋も残さず重油をぶっかけ焼き尽くし、逃げ惑う住民を西側山砂採取跡崖下の平地に避難と思わせ集め、重機関銃で防備隊員に射殺を命じた。住民の中には機関銃手の職場での部下が居り、○○さん助けてッ、と手を合わせて拝むのが居てどうしても引き金が引けない。怒った中尉は、「防備隊は駄目だッ」と自ら崖下の満人目がけて機関銃で掃射皆殺しにした。」

 

とするが、これは伝聞に基づく。

 

久米庚子077,108も「このN中尉(井上中尉」は深刻な神経の持ち主で、軍務に対しては極めてきびしい人であったと聞いている」と、久保孚や山下貞の評価と一致する。

 

このような井上中尉像が撫順の日本人の間で共有され、井上専断説となって定着したようだ。

 

113 193211月後半以降、平頂山事件は中国紙に報道され、その事実が中国以外に知られるようになり、国際連盟で日本は中国から抗議を受けた。その際日本側はこう説明した。

 

915日夜、約二千の兵匪及び不良民は、撫順市外を襲撃し、且つ各所に放火せるのみならず、我が独立守備隊を襲えり。これ等兵匪及び不良民の徒は、千金堡及び栗家溝を根拠とせるを以て、井上中尉の率ゆる小隊は、16日午後1時、千金堡に至り、部落の捜索に着手せる処、却って匪賊の発砲を受け、我が軍は自衛上迫撃砲を以て之に応戦せり。交戦約30分後、村落の掃蕩を終えたるが、村落は交戦中発火し、大半消失し、又匪賊及び不良民約350名仆れたり。

 右は支那側が大袈裟に宣伝するが如き多数無辜の民に対する残虐行為に非ず。我が軍の自衛処置に過ぎず。」

 

この文章は関東軍が作成し、1228日に武藤信義満洲国大使によって、国際連盟の日本代表と東京の外務大臣などに送られた。

この文章には二つの狙いがある。第一は、虐殺は否定するが、虐殺と誤解されるような若干の軍事衝突があったことは認める。第二は、「井上中尉の率ゆる一小隊」が行った偶発的な出来事であるということである。

 この作文には、井上中尉に責任を押し付けて川上大尉より上には責任が及ばないようにする狙いがあった。その代わりに井上中尉は(日本軍の)内部的には責任を負わないことにして、11月末、彼は撫順を離れて奉天の独立守備歩兵第二大隊付きになり、その後一切の処分をうけないどころか、2年後の1934年、「満州事変論功行賞」で、功五級金鵄勲章まで授与された。

 

114 事件から一週間後に奉天の大隊本部が撫順に調査に入った時、虐殺は井上中尉の独断によるものだと説明されたと推察される。193211月末、これが関東軍司令官を兼任する武藤信義大使から外務省に伝えられ、日本側の正式な立場となった。

 

 

第四章 エドワード・ハンターの平頂山事件報道とその影響

 

 

1 平頂山事件の伝えられ方

 

121 平頂山事件から2か月後に中国紙が初めて事件を報じた。脱出してきた被害者と事件を知る人が情報源である。

 

19321126日の『大公報』は、東北外交委員会委員の王卓然による中国政府外交部あての報告を掲載した。「同委員会は委員を現地に派遣し調査させ、千金堡、栗子溝、平頂山の状況を報じた。916日、撫順守備隊二百余人が機関銃十余挺を準備し、平頂山に行った。日本軍は住民を平頂山西南の窪地に集め、掃射した。犠牲者は2700人余に達した。東北外交委員会は国際慈善団体による徹底調査を要請した。(これは結局実現しなかった)」

 

19321130日、アメリカ人ジャーナリストのエドワード・ハンターが、外国人として初めて平頂山事件の現場を取材し報道した。その後現地を取材した人は、第二次大戦終結後までいなかった。

 

2 エドワード・ハンターとは

 

122 エドワード・ハンター Edward William Hunter 1902-1978は、第二次世界大戦時にOSS(米戦略情報局)で働き、戦後はCIA(米中央情報局)と関係し、反共主義活動に従事した。中国共産党による洗脳を批判的に取材・論評した Brain-washing in Red China, 1951(邦訳『洗脳:中共の心理作戦を解剖する』法政大学出版局1953)を出版した。ハンターは戦後は平頂山事件については語らなかったようだ。

 

 日本の記録によれば、ハンターは1926819日に来日した。警視総監太田正弘から内務大臣浜口雄幸などに宛てた文書によると、ハンターは、ジャパン・アドバタイザー社の記者として横浜に上陸。高校卒業後、アメリカで『フィラデルフィア・ブレティン』The Philadelphia Bulletin、『ニューオーリンズ・アイテム』The New Orleans Item、サンフランシスコ・ブレティンThe San Fransisco Bulletinなどの記者をしていた。

 

123 ハンターは1931年の満州事変直後に中国東北に渡ったらしい。彼は当時インターナショナル・ニュース・サービス社の特派員として行動した。

 

 私は20122月、エドワード・ハンターの子息ロバート・ハンターに面会した。ロバートによると、エドワード・ハンターは高卒の学歴しかなかったので、苦労した末に記者になった。不安定な地位だったので、スクープを追いかける傾向が強かった。ジャパン・アドバタイザー社やインターナショナル・ニュース・サービス社の特派員という肩書は、記者としての資格をとるためのものであり、実態はフリーのジャーナリストだったようだ。

 

 日本側の記録によれば、ハンターは19322月初めに一時行方不明になった。ハンターは23日夜、(関東軍124)軍司令部参謀の紹介名刺を持って奉天を出発し、翌4日、長春発双城行きの日本の軍用列車に便乗後、行方不明となった。

 森島奉天総領事から外務大臣宛ての文書(193227日)によると、彼は新進気鋭の記者で、以前にも勇敢に危険地帯に立ち入ったことがあり、ハーストHearst系通信員は日本に好意的な記事を多く書き、ハンターは日本軍との関係が非常によく、軍は彼に便宜を与えているとある。

 

124 日本当局はハンターを監視し続けた。彼は19327月、安東(現丹東)に行き、海関(税関)接収問題を取材した。ハンターが奉天からロンドンの国際通信に送った記事は、関東庁警務局長から拓務次官などに報告された。

 

 19329月、ハンターは英国人拉致事件の取材のために、牛荘(現営口)にいたようだ。924付の武藤満洲国大使から内田外務大臣宛ての電報によれば、ハンターはロンドン・デイリー・テレグラフのゴルマン記者と先日来牛荘に滞在中であったが、一両日前奉天に帰ってきた。(ハンターが)牛荘の郵便局から記事を送信するのが不便であったようだから、奉天郵便局から牛荘へ局員を派遣すべきことを考慮すべきだ、と武藤は述べている。

 日本側は外国人記者の通信原稿も監視していた。日本側は平頂山事件の報道まではハンターを危険視していなかったようだ。

 

3 ハンターの平頂山取材

 

125 19321130、ハンターは平頂山事件取材で撫順を訪れた。1126日の中国紙『大公報』の報道から4日後、事件発生9/16から610)週間後である126

 

アメリカも1125日付『シカゴ・デイリー・トリビューン』に、ジョン・パウエル記者の「満州における日本人遂行の2700名の殺害を中華民国が非難」という記事を掲載した。パウエル記者は当時上海にいて、1126日付の中国紙『大公報』の報道に基づいてこの記事を書いた。(日にちの前後関係が合わないが時差によるものか)

 

 ハンターの記事12/1撫順発、12/2付『シアトル・ポスト・インテリジェンサー』

 

「今日私は自宅に中国人兵士を匿っているのではないかという疑いから、日本軍部隊によって機関銃で殺害された2700人の中国人男女、子どもたちが横たわっていた場所から戻って来た。私が自身の目で確認し、避難民や住民の口から聞いたことに疑いの余地はない。信じがたいほどの大虐殺が行われたのだ。私は虐殺の行われた一角の丘の斜面に立っている。不幸な農民の男女、子どもたちが着ていた服の切れ端が、血に染まってあちこちに散らばっている。虐殺者たちは、自らの蛮行の証拠を急いで隠したため、多くのものを隠し忘れた。数百もの死体は、数インチ埋められただけでは、腐臭を漂わせないわけにはいかない。」

 

126 ハンターは平頂山だけでなく、千金堡や栗家溝などの周辺集落にも足を運び、そこで出会った住民から話を聞いている。「先に進むと、道行く人が立ち止まり、撫順大虐殺の事件を話した。誰もが自分のことを話した。」

 

翌日122日発ハンターの第二報「記者が身の毛もよだつ大虐殺の話を伝える」「これは村人たちへの報復行為であった。」

 

当時日本側はこれは虐殺ではなく、匪賊討伐中の戦闘行為であり、自衛処置であると主張し、国際連盟でもそのように説明していた。

 

127 中国メディア『申報』も1223日にハンターの報道を掲載した。

 

日本側(関東軍参謀長から参謀次長宛て電報1932.12.5)は、ハンターの記事について「ハンターが千金堡事件調査の為1130日撫順に到り、僅かに一牧師の言を聞きたるのみにて、直に捏造誇大の報告を作り…」

 

当時撫順の平頂山からさほど離れていないところにキリスト教会があり、アメリカ人牧師がいた。奉天にもこの系列の教会があった。ハンターはこれらの教会に立ち寄ったものと思われる。

 

128 ハンターはこ(れら)の記事12/1,2を書き上げてすぐに山海関へ行き打電した。日本側の妨害をおそれたのだ。山海関は当時はまだ完全に日本側の統制下になかった。

上述の関東軍参謀長から東京の参謀次長宛ての電報12/5, 127に「ハンターは直ちに捏造誇大の報告を作り、秘かに山海関に至りて打電」「ハンターは昨秋以来屡々(しばしば)此の種『ニュース』を捏造し、個人的性向亦極めて下劣にして、外人記者は勿論一般外人より対手にされ居らず。」

 

 ハンターは(山海関から)奉天に戻り、奉天の郵便局から国際連盟出席中の中国大使にもこの虐殺の真相を直接打電しようとしたが、郵便局は記事を差し押さえた。(岡田周造山口県知事から山本達雄内務大臣等宛て電報「要注意外国通信員に関する件」19321212日)

 

 ハンターの121日撫順発の記事は、122日と3日の『シアトル・ポスト・インテリジェンサー』に掲載され、大反響を起こした。ロンドンの『デイリー・エクスプレス』(122日)にも掲載された。それを受けた在シアトル内山清領事の122日付内田康哉外務大臣宛て電報は、

 

122日当地『ハースト』系『ポースト・インテリジェンサー』紙第一面に「日本人が二千七百名を虐殺したる修羅場発見さる」との大見出しを掲げ、「エドワード・ハンター」のUS通信を長文に渉り掲載したるが、右は支那兵を隠匿せりとの嫌疑を以て日本軍が無辜の支那人男女二千七百名を銃殺したるものなりとて、其の現状視察談並びに目撃者の談話を挿入し、前信報告の支那外交部の発表を裏書きし、且つ我が方の否定を反証するの頗る不利なる報道振りをなし居れり。」

 

 

4 ハンターの「満洲」脱出

 

130 前述の関東軍参謀長から東京の参謀次長宛ての電報12/5「軍は近く適法により彼の行動に大なる拘束を加える考えである」

 

 東京裁判でのジョン・パウエル(『シカゴ・デイリー・トリビューン』記者125)の証言

 

「私が北満の哈爾浜(ハルビン)へ旅行しようとしまして、自分の電報発信証を委託してある郵便局に参りまして、之を受け取って表に出ようとした時に、郵便局員の一人が私に付いて参りまして、彼は「私(あなた)の電報を皆受け取った。私(あなた)の送った電報について賛成である。異議はない」というようなことを申しました。そしてさらに「しかしながらあなたはご注意なさい。そうでないと誰かがあなたを殺すようなことがあるといけないから」というようなことを言いました。」(裁判速記録)

 

124、ハンターは満州国脱出するためにハルビンに行った。彼は以前にハルビンにいたことがあり、そこでロシア人の妻と出会った。モスクワ転勤を口実にそこからモスクワに行くつもりだったようだ。しかしソ連政府からビザが出なかったか、発給に時間がかかるようだったので、日本経由でアメリカに戻ることにしたようだ。

 

131 127午後11時、ハンターは妻と共に奉天を出発した。その理由はインターナショナル・ニュース・サービス本社がロンドン転勤を命じたというものであった。

 

 森島守人奉天総領事は「(ハンターのロンドン転勤の理由は、)当方面外人記者に於ける同人(ハンター)の不人気、及び今日の撫順事件に関する同人の誇大なる報告が在満官憲に与ふる影響を考慮した結果であろう」との外国人記者の見方を紹介している。(内田外務大臣宛て電報1932128)しかしハンターの外国人記者の間での不人気が、ロンドン転勤の理由とは結びつかない。ロンドン転勤は平頂山事件の報道の結果であった。

 

 武藤信義満洲国大使から内田外務大臣宛て至急電報1932.12.8「元来『ハ』は小心の三流記者にて撫順問題の報道も、要するに『ハースト』系新聞に歓迎せらるる『センセイショナル』の特種記事を電報せるに過ぎざる様にも思われ、本人も内心、我方に対し頗る恐縮し居る模様なるに付き、本邦に於いて寛大なる態度にて適当善導せらるるに於いては或いは効果あるやも知れず、其の辺然るべく御配慮あり度し」と、ハンターの奉天脱出が報告されている。

 

武藤はここでハンターを拘束すると却って日本批判が拡大することを恐れたのかもしれない。武藤は平頂山事件が事実無根で、中国の全くの捏造であると完全に否定する立場ではなく、討伐中の戦闘で350人が死んだという虐殺と誤解されるような出来事はあったという筋書きを主張した。(この筋書きは関東軍が作成し、1228日に武藤信義満洲国大使によって、国際連盟の日本代表と東京の外務大臣などに送られた。113)それは現実的な対応であり、ハンターの帰国についても、あからさまな言論弾圧を避けるべきだと判断したのだろう。

 

132 しかし武藤信義は「ハンターが米国に於いて我方に不利なる情報を流布せしめざる様予め『ハ』に対し、考慮を払い置く必要ある」(同上12/8)とも警戒している。

 

 ハンターは奉天から朝鮮を経て1210午前7時、関釜連絡船で下関に到着した。11時、下関を出発し、列車で東京に向かった。(山口県知事から内務大臣等への電報「(ハンターの)視察中特異の点なし」)

 

ハンターは13、横浜発プレジデントグランド号でサンフランシスコに向けて出発し、無事アメリカに到着した。

 

 この間ハンターは東京で外務省の報道官と陸軍省の新聞班長本間雅晴中佐(原文はMasakura Honda)に取材し、それが1212付のサンフランシスコの『コール・ブレティン』The Call Bulletinに掲載された。「日本当局、中国人虐殺を認める」(在サンフランシスコ若杉要総領事から内田外務大臣宛て電報「所謂支那人虐殺に関する新聞切り抜き送付の件」1932/12/6 時間の前後関係が合わないが)

 

 その記事の内容は「日本側は当初、私が、『同地(撫順)教会にて僅かに一牧師の言を聞きたるのみにて、直に捏造誇大の報告を作った』12/5としていたが、これに対して外務省の報道官は、『松岡はあなたがこれらの村で個人的な調査を行っていないとは述べていない。彼(松岡)は此の事件に関する情報が、撫順に滞在する牧師によってもたらされたことについて、自分の意見を表明したに過ぎない』と説明した。」

また「本間雅晴新聞班長は『十万人以上の匪賊が満洲に跋扈している。衝突に際して村を焼き払うことは珍しい出来事ではない。しかし一度に2700名もの人を殺害することはあり得ないと私は言いたい』と語った。」という新聞の内容だが、これは日本側が平頂山の虐殺を認めたということを意味していない。ハンターは「日本は、私が伝えた話についてはこれ以上争わないことを明らかにした」と書いているが、日本がハンターの書いた事実を認めたわけではない。新聞の見出しは大袈裟である。ハンターは部分的にも日本側が自分の報道を認めたと言いたかったのだろう。

 

5 ハンターの記事の反響

 

134 ハンターの記事がアメリカで報道されて以後、日本側は在外公館を通してハンターの記事の否定に務めた。122、在米大使は「支那側が大袈裟に宣伝するが如き多数無辜の民に対する虐殺行為にあらず、我軍の自衛処置に過ぎず」という声明を発表した。(在シアトル領事から外務大臣宛て「撫順附近に於いて日本軍の支那人虐殺に関する新聞報道振りに関し報告の件」1932.12.2

これに基づいて、在シアトルの内山領事は各新聞社に「あなた方の刊行物の読者に対して真実が伝えられ、中国の宣伝による誤った印象が是正されるならば、このことは高く評価されるだろう」という書簡を即日送った。(出典は同上)そしてロンドンの日本大使館も『デイリー・エクスプレス』紙に対し、日本の発表した真相の説明とハンターの記事の取り消しを要求した。(加藤代理大使から内田外務大臣宛て1932.12.2

 

日本側の申し入れを受け、『シアトル・ポスト・インテリジェンサー』(12/3、東京発ジェームス・R・ヤング記者)は、日本当局発表の内容を掲載し、『シアトル・デイリー・タイムズ』と『シアトル・スター』は、日本領事による「真実」を掲載した。(在シアトル領事から外務大臣宛て「撫順附近に於ける日本軍の支那人虐殺打消し方に関する件1932.12.5

 

しかし『サンフランシスコ・クロニクル』12/8のチェスター・ローウェルの論評は、

 

「日本は戦闘行為の事実を認めたが、虐殺を否定している。自分は満州でハンターと共に行動し、彼をよく知っているが、彼は虚偽を報道するような人物ではない。彼が目撃聞知せりと報ずる処は傾聴に値するものなり。これに反し日本側の報道は仮令(たとえ)公式のものと雖も、必ずしも正確なるものにあらず。…軍人が軍事乃至一切の事件を掌握する今日、非戦闘員を虐殺してその然らざる旨を報告するも、政府としては唯々諾々之をそのまま世界に伝達するに過ぎず。本件に関しては厳正不偏の調査を行うべく、これがためには第三国の外国人を以てすべし。」

 

ローウェルは日本軍部の報告は、過去の事例から見ても信用できないものであるから、平頂山事件についても、第三者による厳正不偏な調査の必要性を訴えた。

 

135 1933113、サンフランシスコの『コール・ブレティン』は、ハンターがピュリツァー賞候補に推されたと報じ、その理由は「撫順における日本軍の中国人虐殺事件に関して最も迅速な報道を行い、ジャーナリストとしての功績をあげた」というものであった。ハンターはピュリツァー賞は逃したが、このことは彼の報道がアメリカで注目されていたことを物語る。

 

 ハンターの記事は中国の国際連盟での主張に根拠を与え、平頂山事件の国際的調査の気運を盛り上げたが、虐殺を否定する日本の姿勢に阻まれ、戦後まで封印された。

 

 

第五章 平頂山事件隠蔽の構造

 

139 新聞報道をきっかけに、中国政府は国際連盟で平頂山事件を取り上げた。これまでの(日本の)歴史研究では平頂山事件は殆ど取り扱われなかった。臼井勝美『満洲国と国際連盟』1995も全く触れていない。

 平頂山事件に関する資料を軍は意図的に抹消したが、外交文書は残っている。当時の日本の新聞は全く報道していないが、外国の新聞は報道した。

 

1 明るみに出た平頂山事件

 

140 事件直後は中国人の間の口コミだけで、新聞報道はされなかった。そのため他地域に伝わるには時間がかかった。

 

 最も早い報道は、事件の約1か月後の1019付の中国国民党機関紙中央日報』である。「瀋陽通信」のクレジット(発受信通信社名)があるので、これは瀋陽(当時は奉天)からの情報である。「東北で日本軍、わが同胞を容赦なく虐殺」「撫順方面で先ごろ一大惨案が発生した。」(事件の日時は特定されていない。)「この三事件は最近数日内に起った大惨案である」とあるから、事件発生の916日から間もなく書かれたものが、約1か月後に天津か北平(北京)に到着し、それが南京に打電されたらしい。

「(虐殺は)義勇軍が撫順の千金寨を襲撃した後に起り、日本の川上守備隊長が鬱憤を晴らすために命じたものである。虐殺は千金堡(平頂山)村で行われ、集落に放火し、機関銃で掃射し、死者は千余人、負傷者は400人。さらに付近の村落の村民700余人を殺害し、梨樹溝(おそらく栗家溝)に放火し、小川憲兵隊長が付近の村に放火し、死者は1000を越えた。」(人数が輻輳して分かりにくい)

 

141 1020付の『山東民国日報』には「天津1019午後12時特電」と「北平1019午後12時特電」の二つの記事が報道されているが、この二つの記事は見出しが同じで「日本軍、瀋陽近郊の村落で放火虐殺。千金寨の住民二千余名虐殺される。運河以南の村落の住居完全に消失」となっている。これらは既述の1019日付の『中央日報』と同じソースかもしれない。

 

11月後半になると平頂山事件の報道が増加した。

 上海発行の『新聞報』は1115日付で、「撫順の村民、全員虐殺」「撫順の千金堡、栗子溝(栗家溝)、平頂山の三村の住民3000人が、全員日本軍によって虐殺された。人びとを演説と騙して平頂山西部の窪地に集合させ、300名の日本軍が包囲。逃げ出した者130人余り、生存者40人余り。住民の遺体は焼かれた。」

 

 同日1115日付中央日報』(南京)「日本軍の残虐、人道なし」既述の1115日付『新聞報』と同内容だが、さらに「原因は東辺道の義勇軍三人が当村で偵察していたため」が追加されている。

 

 『申報』(上海)も「千金堡、力子溝(栗子溝)、平頂山の住民530余戸、3000人が義勇軍に通じているということで虐殺された。」とある。情報源は前者と同じだろう。

 

142 1124付『中央日報』は「虐殺現場から逃げ出した者130余、逃げ出したが重傷で死亡した者670人、その他の2700人が殺された」とする。

 

 1123付『新聞報』と『中央日報』は、「馮(ひょう)占海、李海清、唐聚伍ら義勇軍幹部が、国際連盟に、日本軍による無辜の撫順民衆3000人余りの虐殺に対して制裁を下すよう求る電報を発した」と報じた。

 1126付『大公報』(天津)や『中央日報』などは、東北外交委員会が撫順の虐殺について国際連盟に訴えるよう中国外交部(外務省)に求めた23日付電報の内容を報じた。この電報は初めての現地報告であった。

 

「被害を受けた村は千金堡、栗子溝、平頂山の三か村で、撫順から約10華里(5km)から16華里(8km)、農家総数500余戸、人口3000人余りである。916、東方から来た大刀会義勇軍3名が、平頂山で道を尋ねたことを日本人に探知された。同時に日本人は隣村の千金堡と栗子溝も(義勇軍と)連絡のあることを疑い、撫順から機関銃十数挺を携行した軍隊200名を派遣した。平頂山に至り、三カ村の村長を集めて大刀会の行方を尋問した。また三か村の村民に対し、義勇軍を匿っていないか、反動的証拠を隠していないか、を検査した。『無事検査を終わった者は全て良民と認め、褒美をやる』などと言い渡した。そこで三か村の老若男女3000余名を平頂山西南の窪地に集合させた。まず『全員検査を待つように』と地面に座らせた。同時に機関銃十数挺をその側面780の場所に配置した。配置が終わると皆銃を背にして跪かせた。一部の者が危惧の念を懐き、立ち上がって逃走しようとすると、日本軍は機関銃を一斉に発射し、猛烈に掃射した。たちまち老若男女は必死で逃げ惑い、悲鳴は数華里離れたところまで達した。軽傷で逃げられた者はわずかに130余名。重傷で途中で息絶えた者は、670名。残りの老若男女2700余名は皆命を落とした。中には乳児や幼児もいた。弾丸に当たらなかった者や当たってもまだ生きている者で、血だらけの死体の中少しでも動いている者は、日本軍に刀で一人ひとり刺し殺された。事件後日本人は死体を積み重ね、油をかけて焼くとともに、三か村の家屋もまた灰燼に帰せしめた。」

 

これは面接のうえつくられたものと思われる。

 

ジュネーブの国際連盟理事会で中国政府代表顧維均1124、平頂山事件を取り上げて日本を非難した。

 これより前の102、リットン調査団の報告書が公表され、その報告書を審議する国際連盟理事会が1121に開催されていた。

144 1124、顧維均はリットン報告書について述べる前に、平頂山事件について言及した。日本側の記録によれば、顧維均は「揚子江沿岸の住民と満洲住民とを比較し、『後者を以て幸福なりと謂うは事実を誣(し)ふるものにして、現に支那代表部は満洲住民の惨状を示す証拠を有す』とて、別電第49*の如き電報を披露し、『次いで本論に入る』と断りたる後、『91816日)の事件は、日本の自衛行為にあらず…』と演説を始め」、「満洲住民の惨状」の例として初めて平頂山の虐殺を取り上げた。

 

 この別電第49号*というのは、ジュネーブの日本代表部が、顧維均が国際連盟理事会で述べた内容をそのまま日本の外務省に伝え、実際それがどういうものだと日本政府は把握しているのか問いただすために照会した電文である。

1124日の国際連盟理事会の席上、支那代表は別電第50及び往電第39(三)の情報を披露し、満洲の事態を批議したる処、右情報の実否回電を請う」11/26とあり、平頂山事件は別電第50号に出て来る。顧維均に「満洲住民の惨状」を指摘されて、ジュネーブの日本代表部は、平頂山事件について、東京の外務省に正式に照会したのである。(入り込んでいて分かりにくい)

 

 別電50916朝(場所の説明なし)3名の義勇兵来たり、道を尋ねたるを口実とし、200人の軍隊及び機関銃を具備せる日本官憲はTsion Chin Pao(千金堡)、Son The Kow(栗子溝か)及びPin ting shan(平頂山)の山(三)村の村長を呼び出し、義勇兵を隠匿援助せりとの理由の下に、之を訊問したる上、村民全体をPin thing shan(平頂山)山上に追い上げ、跪座せしめ、背後に機関銃を布き、恐怖し立ち上がりたるものを銃殺せる結果、死者700余名、重傷者670名、軽傷者約130名を出せる上、右山(三)村は焼き払われたり」11/26

 

 これは前記の1126日の『大公報』の記事と内容が同じである。(犠牲者数が700余名は2700余人の誤記だろう)東北外交委員会が現地調査した上中国外交部が提出した文書をもとに顧維均はスピーチを行った。

 

 

2 ハンター記事の衝撃と中国の追及

 

145 平頂山事件が国際連盟で取り上げられ11/24ている時の1130日、エドワード・ハンターは虐殺現場を取材し、その取材は121日撫順発の122付の米紙に掲載された。ハンターは立ち入り禁止の虐殺現場を勇敢に取材した。彼は腐臭漂う虐殺現場に外国人ジャーナリストしては初めて立ち入った。

 中国の東北外交委員会の現地調査では、虐殺の原因を、「義勇兵3人が平頂山で道を尋ねたことを日本側に探知されたため」としているが、ハンターは「前夜の襲撃に対する報復行為」としてとらえている。ハンターは守備隊にも取材したようで、「日本当局でさえ義勇軍の中にその村の出身者がいなかったことを認めている」と書き、報復行為であったと明確に述べている。

 

146 1222付の中国紙『大公報』は北平(現北京)に逃れて来た張栄久の体験談を報じた。

張栄久は1121日に北平に到着していた。この記事は25日付の『中央日報』や26日付の『申報』にも転載された。張栄久は平頂山の近く(北隣)の栗子溝(栗家溝)の住人であった。

 

916日の朝、日本軍がやって来て、この村を借りて戦闘演習を行うので村民全員平頂山の麓に避難するように命じ、全村民を家から退去させた。その後集合した3000人余が機関銃で掃射された。私は運よく銃弾に当たらず、暗くなってから死体の中から血まみれで這い出て、龔(きょう)家溝の親戚の家に逃げて、一命をとりとめた。親戚の人は私が血だらけで鬼(亡霊)のような姿だったので、全身が震えていた。日本軍が探しに来たら親戚も巻き添えになると思い、翌日古い服と少しの旅費をもらって東北を出る旅に出て、約二か月後11/21に北平に着いた。」

 

 1221付『大公報』の社説「嗚呼撫順惨殺事件」は、東北外交研究委員会(東北外交委員会)の声明、ハンターの記事、日本側の説明などを紹介した後に、次のように述べている。中国人の気持がよくわかる。

 

「しかしここで注意すべきことは、日本の言う所謂匪賊とは、多くは中国人にとっての愛国の義士であるということだ。彼らは抗日に奮起し、正義を貫き、死ぬことをも度外視して、身を殺して仁をなした。もともと私怨からではないし、今回の残虐事件の場所から来たのでもない。義勇軍が通過した場所というだけで、殺され焼かれた農民たちは、みな無辜の受難者であって、思いもかけず巻き添えになった人たちである。彼らがどうして凶暴と言えるだろうか。一歩下がって述べても、果たして日本側は当該村落を敵の集合している地と考えていたのだろうか。さらに調査をすべきだったのではないか。それを一律に殺してしまい、それも巧妙に騙して女性や子どもも逃れられなかったのだ。手段の悪辣さを見るに、どうして文明の世界と言えるだろうか。中国の歴史上、揚州十日、嘉定三屠*、異民族の殺し合いなど多くの前例があるにしても、国家の強弱は不変なものではなかろう。民族の盛衰は定まるところがなく、兄弟が争っても反動もそれだけ激しくなる。天下の事物は極めれば必ず復する。因と果は循環する。日本人に人道の思いがあるのなら本件は徹底的に調査すべきである早急に善後処置を取るべきであるもしそうしなければ、外交上方法がなくても、軍事上抵抗し難くても、民族の遺恨は永久になくならず、中国四億の人間が生きている限り、必ず制裁と報復の日が来るのである。日本の有識の人士が深く思いをめぐらされんことをひそかに願う。」

 

*揚州十日 16454月から5月にかけて清のヌルハチの十五男のドドが、南民の史可法と戦闘し、揚州で80万人を殺戮した。『揚州十日記』

*嘉定三屠 清は揚州に続いて嘉定の民衆を徹底的に虐殺した。

 

 

3 「事実無根、皇軍の名誉を毀損」

 

148 1124、顧維均が国際連盟理事会で平頂山事件について言及したのに対して、日本の松岡洋右代表は、「顧(維均)の読み上げたる電信(別電50号)に付いては未だ真相を知らざるに付き、判明次第必要と認むれば書面にて通告すべし」と答えた。

 

 一方、同日11/24東京の外務省報道官は「南京の報道では撫順附近の三か村で2700人の住民が日本軍によって惨殺されたと言っているが、この間から撫順附近は平静であり日本軍がいないだけでなく土匪もいない。この報道は全く根拠がなく、田中上奏文*と似たようなもので、ジュネーブを扇動するのに利用しているのだ」と、外務省は十分な事実調査もせずに、全面否定した。

 

*田中上奏文 田中義一首相が1927年に対中国政策を決めた東方会議の結果を昭和天皇に上奏した文であり、「中国の征服には満蒙の征服が不可欠」としている。日本側はこれを偽書としている。(しかし実際の日本軍の行為はその通りだったのでは)

 

 1126、外務省は中国外交部に「皇軍の名誉を毀損するもの」として抗議した。つまり、中国外交部からの抗議に対して、外務省は「在支有吉公使は、1126付公文書を以て、右記事は事実無根にして皇軍の名誉を毀損せんとする悪意に出でたるものと認めざるを得ざるを以て、斯かる反日的通報に対し厳重なる取締りを加えんことを(中国)外交部に要求せるが、外務省に於いても直に本件支那側報道は、事実無根なりとして打ち消したり。」有吉公使が中国側に正式に抗議したのである。

 

 これに関して当時の奉天総領事だった森島守人は『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』岩波新書1950の中で、以下のように電報で虐殺の真相を南京の総領事館に打ったと述べており、それは本省(東京の外務省)にも打電するのが一般的であったから、それは当時起こったことの真相を日本政府間で共有していたことを示唆している。しかしその守島の電報やその存在を裏づける他の文書も今のところ見つかっていない。もしこの電報の打電が前記の1124日以前のことだったとしたら、日本の外務省は堂々と嘘をついていたことになる。つまり

 

「私は苦力が河北や山東へ着くころ、問題化すると考えていたが、はたして一か月ばかりたつと、撫順の大虐殺事件として中国新聞を大々的に賑わした。南京の総領事館は、私からの電報で真相を通じていながら、かえって中国新聞の大虐殺として外交部に正式に抗議していたが、公の問題とならない以上、成るべくこの種の事柄は、闇から闇に葬ろうと考えていた当時の心境を考えて、慙愧の至りに堪えないし、こんな考え方がけっきょく日本を毒したものであった。」

 

 ジュネーブから東京に事実関係の照会が来た。これに対して外務省の内田外相は、1125、在ジュネーブの沢田国際連盟事務局長宛てに「撫順方面における日本軍の虐殺行為に関する報道について」と題し、「中国政府外交部の公表したものは、1115日上海『新聞報』掲載の北平通信を焼き直したるものにして、(張)学良側の宣伝と認められ、何等根拠なき虚構の報道なること勿論なり」

 

 

4 「事実無根・虚構の報道」から「自衛措置」へと強弁することに変更

 

150 ジュネーブからの電報に接した武藤信義満洲国大使・関東軍司令官は、その3日後の1128、内田外相宛てに事情を説明した。

 

「本夏高粱繁茂期に入るや瀋海鉄道沿線各地に匪賊出没し、村落の掠奪を行い、良民を苦しめ居りたるが、915日夜、約2000の兵匪及び不良民は、撫順市外を襲撃し、且つ各所に放火せるのみならず、我独立守備隊を襲へり。これ等兵匪及び不良の徒は、千金堡及び栗家溝を根拠とせるを以て、井上中尉の率ゆる一小隊は、16日午後1時、千金堡に至り部落の捜索に着手せる処、却って匪賊の発砲を受け、我軍は自衛上、迫撃砲を以て之に応戦せり。交戦約30分後、村落の掃蕩を終えたるが、村落は交戦中発火し、大半消失し、又匪賊及び不良民350仆れたり。

 右は支那側が大袈裟に宣伝するが如き多数無辜の民に対する残虐行為に非ず、我軍の自衛処置に過ぎず

 尚事件後軍側に於いては奉天省当局と連絡し、罹災民には手厚き救済を為すとともに、部落の復興その他の善後処置を尽くし、事件は無事に落着せるものなり。」(下線部は嘘)

 

 武藤関東軍司令官は、おそらく関東軍司令部が守備隊に聴き取り(現地調査)をした上で、住民に対する虐殺行為ではなく、討伐中攻撃を受けたための自衛措置であると東京に説明した。

151 武藤は結果としてであれ、中国の村落に被害を与えたことを認め、事実無根を否定した。

 

 武藤の電報を受けて上海有吉公使は、同日1128日、内田外相宛てに、

 

「当方に於いては南京宛て往電第472号(の)(中国)外交部宛ての抗議文の趣旨に依り、事実無根の宣伝として一蹴し、何等弁解がましき発表を為さざる次第なるが、…当方面に於いては差し当たり、冒頭の電報(武藤大使の上記電報)の如き事実を発表することなく、飽くまで事実無根として打ち消すことと致したり。」

 

 この有吉の電報に対してジュネーブの日本代表部は反論し、

 

「本件は…1124日、国際連盟理事会公開会議上、顧維均により指摘せられたる関係上、このまま何等実情を連盟に通告せざるに於いては一般よりいかにも我方に後ろめたき事情が潜みおるかのごとく邪推せらるる恐れあり。なお松岡代表よりいずれ実情判明次第書面にて申し入るることあるべき旨声明し居る関係もあり。旁々在支公使発閣下宛て電報第1361号(有吉公使の上記電報)の次第はあるも、之をうやむやに葬り去るも面白からずと存じ…」

 

 外務省本省と武藤信義満洲国大使・関東軍司令官はこれらの電報を受けて悩んだ末、結局外務省と参謀本部との談合で、武藤の説明の線で行くことに決定した。

 

 121付武藤大使・関東軍司令官から内田外相宛て電報

 

「本事件は匪賊討伐及び共産党のため、当然の処置として軽く説明するを以て足れりと思考するも、在上海(有吉)公使が事実を全然否定し機微の関係を生じたるが、然るべく辻褄の合うよう壽府(ジュネーブ)に於いて説明することに談合纏まれる旨、建川(美次参謀本部第一作戦部長)少将より当地(関東)軍側へ電報越せるところ*、欧米新聞の我方に有利なる取扱及び有吉公使の抗議文の発せられたる今日となりては、事実無根の方針にて進むより外致し方無かるべきやにも思考せらるるが、また他方外国通信員の往来繁き当地*としては、将来にわたり事実覆ふことも困難なるにつき、陸軍中央部(本件は当地軍側より詳細書面報告されあり*)とも篤と御研究の上、本件対案然るべく御決定の上何分の儀御回電ありたし。 (陸)軍(中央)側と打ち合わせ済み」

 

 この電報より前のおそらく1129に、建川参謀本部第一部長*から(武藤)関東軍司令官に、「虐殺は否定するが、千金堡での自衛のための軍事行動の件は説明する」旨の「然るべく辻褄の合うよう」にしようとする電報があったと思われる。また「外国通信員の往来繁き当地」*というのは、ハンター記者の取材11/30(報道12/1)情報を得ていたと思われる。

153 「詳細書面報告」*とは正直にすべてを報告したのか、それとも1128日付の武藤関東軍司令官の電報150程度だったのか。「詳細書面報告」はまだ発見されていない。

 虐殺事件の1週間後、奉天の独立守備隊第二大隊本部の担当者が、事件の真相解明のため撫順を訪れ、川上大尉とともに平頂山の虐殺現場に行っている(久保孚1948.2.8)から、関東軍司令部は住民虐殺を知っていたはずだ。参謀本部も武藤の説明から住民虐殺についてある程度は知っていたのではないか。

 同日(12/1)関東軍は「虐殺の事実は根本的に否認するを要す。但し千金堡方面における当時の我軍の討伐行為は関宣電第253号に基づき、事実の説明方可然(しかるべし)と思考す。右外務側と協議済み」013と指示した。(千葉副官へ 次官から関東軍参謀長宛て「千金堡事件に関する件」013

 

154 1130、ジュネーブの日本代表部は国際連盟事務総長に書面を提出した。

 

915日夜、撫順に隣接する村々に身を隠していた非正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊が、撫順の町に奇襲攻撃をかけ、多くの建物に火を放ち、そこに駐屯していた日本軍部隊に攻撃すら行った。翌日、日本兵の一中隊が、千金堡村に彼らの捜索のために派遣されたが、同村に入るや否や襲撃され、30分間の戦闘が生じた。奇襲者達は村から追い払われたが、戦闘中、その場所の大半が炎により壊滅した。日本軍司令部は奉天省政府の協力を得た上で、罹災者の救済と村の再建に必要なことを検討している。以上の事実が意図的に中国政府により誇張され、無辜の人々の虐殺として発表されたというものである。」

 

 同時に外務省は在外公館を通して、撫順での住民虐殺を否定する同様の文書を流した。(例えば、12/2付、内山清在シアトル領事の米各新聞社への書簡)

 

 中国外交部は126、改めて南京の日本公使に厳重抗議を提出した。

 

「本年916日に日本軍は平頂山、千金堡、栗子溝の農民を集めて、機関銃で掃射した。死者は2700人まで達した。女性、子どももこの難を逃れることができなかった。全ての死体は焼かれ、各村の住宅にも火がつけられ、一つも残らなかった。この件について確実な証拠がある。従って否認して責任を逃れることができない。」

155 「人類歴史上稀に見る残忍な事件である。中国人民の怒りが極みに達しているばかりでなく、世界の人々で驚愕しない者はいない。」

「今日本が行うべきことは、軍隊を、迅速に、不法占拠した東北三省から撤退させ、占領した土地を中国政府に返すことである。」

「(中国政府は)本件に関する一切の権利を留保するとともに、ここに厳重に抗議する。貴公使が直ちに本件を調査するように貴国政府に打電することを望む。」

 

 日本は「事実無根」は取り下げたが、中国の報道が「皇軍の名誉を毀損した」とする1126日付の中国外交部への抗議は撤回しなかった。

 中国政府の「厳重抗議」に対して、日本の外務省は、「我が方は別に之に回答せざることとせり」と無視した。

 

 

 国際連盟では19人委員会(構成は日中両国を除く、12理事国と総会選出の6か国と総会議長)でリットン報告書の審議が続けられた。1215、リットン報告書の採択と満洲国不承認を内容とする決議案が作成され、翌193324、その受諾を日本に勧告した。1933年に入ると関東軍は熱河省への新たな作戦を開始した。21419人委員会はリットン報告書に基づき、報告・勧告案を採択した。224日、国際連盟総会は19人委員会の報告・勧告案を表決した。賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)であった。松岡代表は退場し、日本はその後正式に国際連盟を脱退した。

 

156 日本軍は熱河省や河北省への侵攻作戦を開始した。平頂山事件は日本の敗戦まで封印された。

 日本側はその後も(戦後もということか*)虐殺を否認し続け、本格的な調査も、原因と責任の所在も究明しなかった。

 

  012 19968月、莫徳勝、楊宝山、方素栄の三氏は、日本政府に対して、一人2000万円の損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こした。三人は平頂山事件で家族全員を殺された。

069 東京地裁2000での楊宝山の証言

 

Wikiによれば、日本での裁判1996-2006で、虐殺の事実は認定されたが、賠償は「国家無答責」で蹴られた。日本政府の対応はどうだったのか。

 

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』岩波新書1950

本多勝一『中国の旅』1972

 

 

 

第六章 瀋陽裁判と平頂山事件

 

1 東京裁判で事実認定された平頂山事件

 

159 

0 件のコメント:

コメントを投稿

井上久士『平頂山事件を考える』

  井上久士『平頂山事件を考える』新日本出版社 2022     感想  2025 年 9 月 21 日 ( 日 )     平頂山虐殺事件がどのようにして明るみにされるようになったのかという 144 頁辺りを読んでいるのだが、この平頂山事件が日本人に知られ...