第18回 伊勢崎多喜二祭 20250907 ナルセグループ伊勢崎市民プラザ多目的ホール
司会 長谷田春香
事務局長 長谷田直之「治安維持法100年と多喜二奪還事件」
戦前治安維持法下で逮捕・拷問を受けた
・菊池邦作(婿になり小林→また菊池にもどる) その娘が平山とも子弁護士。
・山田寿子(としこ、長谷川) 戦後共産党の粕川村議を勤めた。息子が京都府議の原田完。
伊勢崎での講演会に参加した中野重治、小林多喜二、村山知義が逮捕され伊勢崎警察署*に連行されたが、100人の民衆(全農青年)が警察署に押し寄せ乱闘となり、伊勢崎警察は裏口から中野、小林、村山の3人を自転車に乗せ、太田警察署に送った。それを「多喜二奪還事件」と言っている。逮捕者は出なかったという。
*現在平和保健センターの駐車場になっている。
1928年の治安維持法改正で、目的遂行罪は禁錮2年「以上」(○○年以下ではない)
2025/10/26 1:30-4:00 山田寿子の息子の原田完の講演会 前橋総合福祉会館
ミニコンサート 斉藤悟 「かざぐるま」のメンバー
特攻花、あの夏のまま…、犠牲、クスノキ~500年の風に吹かれて、赤旗の歌*
*「卑怯者去らば去れ」「富者に媚びる卑怯下劣の奴」という表現が気になる。日本でつくられたと思ったら、ドイツ民謡。
11/1、2pm- 新前橋 群馬県社会福祉総合センター ハンセン病 講演会
記念公演14:40-16:10 窪島誠一郎「絵のこと、戦争のこと~今、『無言館』が伝えるもの~」
レジュメがなく、固有名詞等、聞き間違えて正確でない恐れがある。
1941年、東京の生まれ 84歳
S54年1979年、里山の頂上に信濃デッサン館をつくった。
1920年ごろ、パンデミック(流行性感冒、スペイン風邪)で多くの画家が亡くなった。私はその人たちのデッサンだけを集めた。そういう画家の一人に村上槐多(かいた、槐=えんじゅ)がいる。大正8年、村上槐多は22歳で亡くなった。19歳~21歳ころ、村上は上田を放浪した。
大正8年 関根彰司 福島県生まれ
松本俊輔は桐生の大川美術館館長で、スーパー大栄の副社長であるが、デッサン画が好きな点で私の同好者である。
(私は)絵描きになりたかった。両親と2歳と9日で別れた。捨てられた。山下よしまさ、しすが夫妻(学生結婚)が私を預かった。アパート住まい。世田谷の明大近くで、二人は靴磨きをしていた。私も将来は靴の修理屋になろうと思っていた。
熱血先生宮崎(脇)たつお先生が現れた。39歳でなくなったが。先生が…
靴店は5・25の空襲で全焼した。その時親子3人で宮城の石巻に疎開して命拾いした。S20年9月、東京に戻った。宮崎先生が家庭訪問し「誠一郎君は絵や詩、本を読むのが好きだから、高校だけは上げさせてくれ」と言ってくれた。当時は学区制があり、世田谷の明大前は第2学区であった。同学区のトップは新宿高校で、坂本龍や中村敦夫などである。第二学区には都立高校が13校あり、私が受験した桜水高校は下位であったが、不合格だった。先生は新大久保にある、月謝も比較的安い私立高校の第二次募集を勧めてくれた。海城高校という。幸い37番で合格した。
海城高校では美術部顧問の利根山光人(とねやまこうじん)先生に会った。メキシコに留学し、オロスコに師事した画家だった。私は部長になった。先生の言葉「ゴッホと、ゴッホを見て涙ぐむ人とは同じである。同じく芸術家なのだ。」この言葉が私が美術館を開く原動力になった。徳光和夫は同級生である。
私は高校卒業後、定職につかなかった。それまで貧乏を舐めてきた。おかずは生卵を親子で分け合い、焼きのりの粉だけでもご飯を一杯食べた。時には玉川上水でシソを取って来て食べた。義父母は64歳だった。父はしげる、母ははつと言った。私は父母を養ってあげたいと思った。10の職業を転々とした。貧乏を恨んだが、貧困の原因や戦争、1500万人が亡くなった戦争のことは当時は考えなかった。何も考えていなかった。親を罵ったこともあった。
職業転々
1当時は「東亜」という名前の店が多かった。S30年代、渋谷に婦人服専門の「東亜」という店があった。スカートやカーテン生地を売っていて、私はレジをやっていた。3年8か月やった。一番長かった。
2中央線の新宿御苑と○○駅との間にあるラブホで番頭をした。お客の顔を見ずにスリッパを出すのがコツである。「カエデ荘」という。今もある。部屋のトラブルがあるとトンカチ、ねじ回しを持って修理に駆けつけ、チップを100円もらうこともあった。ぼろかった。
3そろばん学校の手伝い
4電球売り 電球を500円で売った。詐欺まがいだった。原水爆禁止運動に署名した人に電球を買わせた。3か月でやめた。
飲み屋を開店した。儲かった。1965年11月15日、私が23歳の時、世田谷の明治大学の近くで、当時は居酒屋ではなくスナックと言っていた。店名は「塔」(とう)という。
日本画の先生の横山みさおの谷中寺の三重の塔の絵が好きだった。
7amに開店し、明治大学の部活の学生が朝練のジョギングを終えた帰りに寄ってくれた。繁盛した。モーニングサービスを提供した。学生は6時からジョギングしていた。半熟のゆで卵や、食パン、レタス、ハム、トースターを提供した。半熟の理由は、食べ残しをまた焼いて出すことができるからだ。東亜では月給5000円だったが、モーニングサービスは7時から10時まででその5000円を超える収入を得た。10人しか座れないのだが、学生は甲州街道の道路わきのガードレールに腰かけて食べてくれた。
夜はバーを開店した。渋谷の深夜喫茶「マリンバ」ではカクテルを180円で出していた。かわいい女の子「みっちゃん」は彼女のバーが終業した後で私のところに寄り、カクテルのつくりかたを教えてくれた。カクテルのネーミングに凝った。「深海の恋」とか「もう一人のあなた」とか。
当時は酔っ払い運転に甘かった。1964年10月10日に東京オリンピックが始まったころだ。いかりや長介が私の店の常連で、路肩に車を斜めに停めてやって来た。警官が来た。いかりやは酔っていたが、警官は「ちゃんと真直ぐに停めておきなさい」と言っただけだった。
記憶障害
おもしろいように儲かった。店を自分で建設した。妻は別居。コンクリート、カウンターは斜めになり、水平でなかった。トイレは下水がないから、甕がトイレで、終業後川の土手にぶちまけた。二往復する時は儲かったときである。国立の音大生の水木一郎が最後までいてくれてその仕事を手伝ってくれた。
4年で4つの支店を出した。6年で豪邸をつくった。銀行も融資してくれた。東京オリンピックのマラソンのとき、甲州街道を自転車でおにぎりを売った。円谷が出場した。2キロで完売した。
私は「全ては金だ」と思った。400字原稿用紙1枚の原稿料は3000円にしかならない。それにチェックが入り、校閲もある。
ジュークボックスも稼げた。100円中30円が店の儲けになる。私は原発のことを知らなかった。
S54年1979年6月30日、スナックで貯めた金を使って、信濃デッサン館をつくった。今私は癌にかかっている。転移がないと分かった。デッサンは命のはかなさを感じさせる。デッサンは消しゴムで消える。当時デッサン館をやる人はいなかった。私がデッサン館を開館してそれを朝日が報道するとあちこちでデッサン館ができた。デッサンは商品にはならなかった。そしてその19年後、分館として無言館をつくった。
村山海太(かいた)の集会「かいた忌」 村山は102歳で亡くなった。13年目になる。4回目のとき
「のみやまぎょうじ」と黒柳徹子がその集会に来た。黒柳は村山の従妹である。そのとき「のみやまぎょうじ」が言った。「才能があっても絵描きになれなかった人もいる。」私はその1週間後「のみやまぎょうじ」の練馬のお宅を訪ねた。私は言った「絵描きになりたくてもなれなかった画学生の作品を僕が集めます。」私は戦争のことは分かっていなかった。「先生のところに届いた手紙を渡してください。」そして3年8か月間戦没画学生の絵を全国を歩いて集めた。意外と沢山絵が集まった。しかしその絵は下手だった。未熟だった。99%が下手だった。S18年を境に戦況が悪化し、文系の学生が兵隊にとられた。私は信州の6畳で暮らしていた。トイレから帰る時、集めた絵がしゃべった。「生きたい。描きたい」と、しゃべっていた。その絵は、
他人に依頼されたからではなく、自分が描きたいから描いたのである。
周囲の人に対する感謝の気持ちを描いたのである。
生きることが芸術だ。植物に水をやること、猫に餌をやることも芸術だ。
無言館に入って感じる静けさはその一途さである。無言館を反戦・平和の道具にしないでください。彼等は幸せなのだろうか。それは生き方を教えてくれる。
2歳4か月で私を捨てた父は水上勉という。母親とはたった1回だけ会った。母は81歳で、2001年6月に自殺した。
実の親について話さなかった養父母に私は「ありがとう」と言えなかった。
石巻つるおか渡波(わたのは)は私の命の恩人の故郷 空襲の疎開でお世話になった恩返しをしたかった。
2012年3月11日、華北新報新聞社石巻支社を通して無言館の石巻展を開いた。無料。1か月で1800人が集まった。津田さんは3か月間に3回来訪した。水産加工業の社長。「何もかもなくなった。」津田さん「津波がなかったら会えなかった。絵を見て生きて行こうという気になった。」
時の不条理(戦争や津波)を感じる。
以上
感想
窪島誠一郎さんの壮絶な人生はまるで小説のようだ。窪島さんの言いたいことは、無言館は反戦や平和のための美術館ではなく、「生きたい、描きたい」という生命の叫び声を体験する場所であり、人に生きる力を与える場所である、ということではないか。
一晩寝て再考
窪島さんは無言館が反戦平和主義とは無関係というが、関係性を持って欲しいな。
窪島さんの「金が第一」という考えは、参政党支持者の心性に通じる。思想や主義よりも金が第一なのだ。今回の入場料1700円は高いと思った。普通なら500円。窪島さんは主催者とギャラで交渉したらしい。それを主催者は「要請が届いていなかった」とするのだが。
窪島さんの生き方は底辺の生き方である。底辺にこだわった北村透谷を想起した。
窪島さんの本音は画家になりたかったのだが、貧乏のためそれがかなわなかった。その窪島さんの貧乏という苦境は、信濃デッサン館のスペイン風邪で病死した画家や、徴兵で絵描きになれなかった画学生の苦境に通じる。つまり、貧乏、病気、戦争と、自らの行く手を阻むものの形はそれぞれ違うが、それらのために絵描きになれなかったという口惜しさでは共通している。
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