守島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950
感想 2025年10月23日(木)
戦前といえど各人各様。全く軍国主義的ステレオタイプの人たちばかりではなかったようだ。
その中でも関東軍は突出していた。関東軍は若手「右翼」思想と結託していた。関東軍参謀長・板垣征四郎(1885-1948、1931年当時46歳)は1931年当時大人だったはずだが、若手(石原莞爾1889-1949、1931年当時42歳。板垣とさほどの年齢差はないか。)「右翼」と迎合していた。
「右翼」とは何か。他人の意に介さない自己中でしかも暴力的だから、全く手に負えない人たち。
一方著者は官僚だった。外交官である。著者も戦前的思考という大枠の中で育ったという制約があっただろう。しかし関東軍の連中程自己中ではなかったようだ。本書が戦後の著述だからそうなのかもしれないが、著者は物事を客観的に見る人だったようだ。戦後1950だから言える自己保身的自慢話かもしれないが。
要旨
はしがき
001 私は終戦当時リスボンにいたが、昭和21年1946年4月、マッカーサーの命に基づいて帰朝して外務省を去った。
私の外務省生活はワシントン会議1922の随員を振り出しに、30年間続いた(24年間では)。この20年間、東京とベルリンでの短期間勤務を除いては、奉天を振り出しに、ハルビン、北京、上海と続き、昭和14年1929年、ワシントンとニューヨークへ、そして戦争中の3年半をリスボンで過ごした。その間、満州事変、華北事変*、太平洋戦争など重要な場面に際会し、対外的折衝に当たった。
昭和21年の夏、検事の召喚により極東軍事裁判で証人台に立った。
002 この20年間は日本の興隆から没落に至る過程だった。日本の針路は平和的な通商的発展に向かわず、帝国主義的で政治的・領土的発展に向かった。また総じて軍部の支配下に、本当の意味の外交は姿をひそめ、日本の外交なるものは、要するに、事務的外交の域を出なかった。時には対米・対ソ国交の調整の試みはあったが、大体その時々の外相の個人的思いつきに出たもので、政府の全体としての確定的方針かどうかは疑問であり、外交方針としての統一性と継続性に欠けていた。
チャーチルは「近代生活に対する民衆の影響」と題して、
「偶然が人生や国民の歴史を変える。偶然の命令、攻撃、馬の転倒、列車との遭遇などが運命を変える。またそれによって他の人達の運命も変える。だからより剛い人たち、例えば大思想家や大発明家、軍司令官の周辺に起る偶然の出来事は、大きな影響を与えるに違いない。」(昭和24年1949年3月号「心」)
003 日本政府の取った無造作な決定や、出先(軍隊)の専断的行為が、日本の運命に至大な影響を与えた。私ら外務省に勤めたものは、より強く、より正しかるべきだったと、過去を顧みて自責の念に堪えない。
私自身のメモ等すべて処分済みだが、記述した事実は事件が事件だけに、今なお私の脳裏に深刻な印象を印しているので、その正鵠なことは確信している。
昭和25年1950年1月 森島守人
一 田中外交の全貌
001 当時の国民は幣原外交を軟弱・追随だと批判し、南京事件*や満洲での排日事件に刺激されていた。国民は国際事情に疎く、(政府が)強がりさえ言えば(政府を)礼賛していた。
*南京事件1927.3.24 蒋介石の国民革命軍が日米英の施設を攻撃した。
首相となった田中は「東方会議」を開催した。世人は積極的強硬外交に転ずるだろうと、田中の自主政策を謳歌していた。田中首相や森恪(かく)政務次官の経歴や人となりから、大陸政策推進だと人々は了解した。
田中は満蒙での静謐=治安の維持を目指し、満蒙を中国本部から切り離そうとした。
二度の山東(済南)出兵1927、1928は権益擁護を目的としたものであった。政友会内では出兵論が強硬で、強気な森次官が陸軍と呼応し、内外の反対を押し切って出兵した。しかしその結果は中国全土に抗日風潮を激成した。
田中の満蒙での治安維持政策 田中だけでなく、日露戦争後の「日清善後会議」でも小村は「満洲における施設の改善、治安の確保に関する保障」を議事録の中に確保した。ウイルソンもメキシコに出兵した。この措置は国際法上「干渉」として認められているが、田中の方針はそれから外れていた。出兵は臨機的措置であるべきだが、田中は最初からそれを外交の原則とし、初めから内政干渉を前提としていた。満蒙の治安は中国の内政事情に左右されないと田中は考え、その恐れがある時は何時でも出兵すると予め宣言した。
田中義一は、満蒙(東三省)を中国本部とは異なる政体と看做した。張作霖は東三省の独立を唱えていたが、張学良は中国本部との結合を唱えていたのだから、張学良の時代になっても田中が満蒙を独立したものとみなし、それと条約を結ぼうとするのは間違っていた。
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