高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ジャーナリスト 20250917 TBSラジオ
1948年、国連がトルーマンの主導で、イスラエル・パレスチナを分割し、これまで2%しかなかったイスラエルが50%の領土を持つことになった。これは不当な分割案だった。宗主国イギリスは解決策を放棄していた。このため600万人の難民が発生し、ヨルダンやレバノンにも逃れた。それまでの難民は75万人だった。
しかし重要なことは、それ以前にヨーロッパから入って来ていたユダヤ系によるパレスチナ人に対する暴力が横行していたことだ。その性格は植民地主義であった。ユダヤ人はパレスチナ人に対して植民地支配者の如く振舞っていた。
シオニズム運動はユダヤ人が自発的に行っていた。その動機は宗教的ではなく世俗的だった。
シオニズム運動には、ヨーロッパ諸国にもユダヤ人を自国で受け入れたくないという事情があった。
1967年、第三次中東戦争 それまでにイスラエルは国土の8割を所有していたが、この戦争で、残りの2割も占領しつくし、その状態が今まで60年間続いている。つまりイスラエルは全土を占領してもう60年も経過し、その間植民地主義者としてふるまい続けているということだ。
それに関連して注目すべきことは、イスラエルはパレスチナの青年層のほとんど全てを逮捕し、拷問を加えているということだ。その目的は飼いならしである。抵抗しないように。手錠をかけて拷問している。
米民主党はもともと親イスラエルだった。
共和党も親イスラエルの原理主義キリスト教徒を支持母体としている。
ユダヤ系米人は今のイスラエルを批判している。親イスラエルのユダヤ人は一部の富豪ユダヤ人にすぎない。
1993年のオスロ合意は「いずれ」二国家にしようというもので、イスラエルによる占領状態は続いた。
2007年、ガザが完全に封鎖され、コンクリートも入らなくなった。水の浄化もできない。停電ばかりで、1日4時間しか通電しない。ローソクで火事がよく発生した。ゆっくり殺される状態が継続している。
西岸は完全に制圧された。
ピースボートでガザにホームステイした。
イチゴの輸出でもメイドインガザをメイドインイスラエルに変えられてしまう。
DVがある。占領により男のストレスが多い。収容所で暴力を受けたからだ。
パレスチナには子どもが多い。
8、9割は非○○
利用して○○だけ
高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507
感想
著者の生年月日は不明だが、「学生時代から30年経った」とあるから50代くらいか。
ガザはハマスが選挙で勝利したことを受けて、ハマスに資金や物資が渡らないようにという目的で2007年からイスラエルによって封鎖され、今年で16年になる。そのため、人々はイスラエルで出稼ぎできなくなり、支援物資に依存することしかできなくなった。またイスラエルは塀の上や空や海から銃撃を続け、多くの死傷者が出ていた。それがこの16年間のガザの日常であった。だからハマスが2023年10月7日にイスラエルに攻撃を仕掛けたのは何等不思議なことではない。
039 「テロ」という言葉は使わない。ハマスの側には「テロ」という言葉を用い、イスラエルの側にはそれを用いないのはおかしい。「テロ」ではなく「戦争犯罪」や「攻撃」という言葉を用いる。前者は非武装の民間人への暴力・攻撃を、後者は兵士や軍隊への暴力・攻撃を意味するものとする。
054 イスラエルが最初の4か月間2023.10-24.1にガザに落とした爆弾の量は、ロシアが2022年から2年間にウクライナに落とした爆弾の量の2倍以上だという。いかにアメリカがイスラエルに応援しているかが分かる。しかもガザの面積はウクライナの面積の1/1600しかないのだ。
063 イスラエル植民地主義者の暴言集
「人質解放のためなら、ガザの200万人の住民を飢えさせることなど正当かつ道徳的である。」(スモトリッチ財務相2024/8/5)
「ガザを完全に包囲しているので、電気も食料も水も燃料もなくなるだろう。我々は人間動物と戦っている。」(ガラント国防相2023/10)
「あの民族全体が有罪だ。民間人は知らなかったとか、関与していないというのは、全くでたらめだ。」(ヘルツォグ大統領2023/10)
「パレスチナ、もしくハマスの旗を掲げるものは、誰一人として地上に生存し続けるべきでない。ガザへの原爆投下は選択肢にある。(エリヤフ エルサレム問題・遺産相2023/11)
「我々は怪物と戦っている。これは文明の蛮人に対する戦いなのだ。」(ネタニヤフ首相2023/12)
感想 2025年10月1日(水)
ひどい。これまでひどい、ひどいと聞いていたが、この本*を読んでいて本当にひどいということが分かった。正に21世紀における南アのアパルトヘイト、かつてのアメリカでの黒人への虐待、日本の朝鮮(堤岩里教会焼却虐殺事件)や台湾(霧社事件)そして満洲(平頂山事件、南京事件)での虐殺事件など、優越的地位に立って下等な植民地人を蔑視するという「文明人」による蛮行が、今現在でも行われているということだ。
一例を示そう。東エルサレムのシルワン地区にある女性団体シルワン・アットゥーリ女性センターAWCで働き、息子3人と娘1人を育てている母親のマナールさん。家の隣には入植者が住んでいる。嫌がらせや暴力が日常のことである。(2024年10月末インタビュー、*高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507)
106 「私たちの生活はずっと問題にさらされてきました。入植者から殴られたり、物を投げられたりするのはいつものことです。子どもが外で遊んだり、買い物をしたりするだけでも、入植者がからんできて、もめごとになります。そうなると、軍や警察は殴ってきた入植者ではなく、パレスチナ人を逮捕します。現在15歳の三男は、5歳の時に補導されました。理由は自転車で遊んでいるときに入植者に少しぶつかったからです。道路で遊んでいたら5000シェケル(21万円)の罰金を払わされたこともあります。遊ぶ場所が家のまわりの道路しかないので、それからは遊ぶ場所にも困りました。
入植者は、人々が買い物に出るたびに、子どもを殴ります。私たち家族も何度も巻き込まれています。今24歳の長男が15歳の時、入植者からマシンガンで頭を殴られ、9針を縫うけがを負いましたが、警察はいっさい動きませんでした。22歳の次男が14歳だったとき、学校からの帰りに警察に逮捕されました。石を投げたという容疑でしたが、デタラメです。トラブルに巻き込まれないよう、私はほぼ毎日、学校に送り迎えしていたので。でも息子は、警察から「やったといえば出してやる」と言われ、こわくてウソの自白をさせられました。この時も5000シェケルの罰金を払わされました。警察には11日間拘束されたあと、10日間の自宅軟禁を言い渡されました。軟禁の間は、監視役として母親も家にいなければいけません。仕事や買い物にも行けずに大変でした。また遊び盛りの14歳の男の子を10日間も狭い家に閉じ込めておくのは、お互いにすごくストレスでした。私たちはただ安全に暮らしていきたいだけなのに、その安全を手に入れることさえできません。」
096 「アウトポスト」が問題。これはイスラエルでも違法とされていて、政府の許可なく勝手にパレスチナの村に入り、家を建てて住みついてしまう。過激で暴力的な人が多く、イスラエル社会の中でさえ恐れられてきた。
西岸ヘブロンのパレスチナ人の住む地域の道路にはネットが張ってあった。入植者が嫌がらせでうんちやおしっこをつめたペットボトルを上から投げ込むから、それが落ちてこないようにしていたのである。窓に石を投げられて割れたガラスで5歳の子どもがけがをした。入植者が梯子をかけて屋根に上り、「早くここから出て行け!」と怒鳴り散らしたり、銃撃したりすることもあった。他にもパレスチナ人の車を破壊したり、オリーブの木を倒したり、火炎瓶を家の中に投げ込んで放火したりと、違法な入植者による犯罪は後を絶たない。イスラエルの警察に訴えても、捜査も逮捕もしない。
メモ
129 世界人権宣言1948.12.10までは、白人や成人男性以外には基本的人権が認められていなかった。その基本的人権とは、思想や表現の自由、拷問の禁止、人間らしい生活をする権利などである。
135 2025年3月24日、ノー・アザー・ランドの監督ハムダン・バラルは、入植者のグループにリンチされて大怪我をし、救急車で運ばれるときに、さらにイスラエル軍に拘束され、翌日、治療もされることなく、手錠をつけられたままの状態で軍事基地の中に放置された。
146 国民国家の時代になっても、キリスト教徒は長年の差別感情から、ユダヤ人を同じ民族だと認めなかった。
153 スローガン「土地なき民に、民なき土地を」のごまかし、「民なき土地」などあるはずがない。ましてやパレスチナは「民なき土地」などではない。
144 歴史
パレスチナにユダヤ人が集まった理由はいくつかある。
一つは、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われていたことである。ヨーロッパ人は15世紀~18世紀には*ユダヤ人をゲットーの中に閉じ込め、国民国家形成時にはユダヤ人を仲間として迎え入れなかった。
*ナチスもユダヤ人をゲットーに閉じ込めた。164
ドレフュス事件1894とシオニズム運動の開始 ユダヤ人のドレフュス大尉がドイツのスパイだとして仏軍の中でいじめられた(裁判で有罪とされた)。その惨状を見ていたユダヤ人のテオドール・ヘルツルは、聖書に書かれている通り、パレスチナはユダヤ人の土地なのだから、ユダヤ人はパレスチナに移住しようというシオニズム運動を起こした。彼はユダヤ人が迫害されないためにはユダヤ人が多数派である国をつくるべきだと考えた。
ユダヤ人はそれ以前にアメリカにも大勢が移住していたのだが、アメリカが移民を制限する1924ようになり、シオニズム運動は盛んになった。
165 パレスチナ大反乱1936~1939 人口が増えたユダヤ人は、パレスチナの村を襲い、村人を追放した。パレスチナ人はユダヤ人の移民を止めないイギリスに抗議して反乱を起こしたが、イギリスはシオニストと協力してこれを鎮圧した。
第一次世界大戦時にイギリスはアラブ人に対しては、トルコと戦えば「中東に」アラブ人国家を認めると約束し、ユダヤ人に対しては、パレスチナに民族的「郷土」を支持するとした。(1922年、パレスチナがイギリスの委任統治領になる。)
ところが第二次世界大戦後、イギリスは上記の約束を放棄し、その後はアメリカ主導の国連が担当した。国連は1947年に2国家分割案を示したが、それは領土的にユダヤ人にとっては非常に有利な案だった。アラブ人は怒り、1948年5月に第一次中東戦争となり、イスラエル側は苦戦したが、結局、アラブ側が敗れ、パレスチナ人の領土はさらに狭くなった192。そして西岸はヨルダンが領有し、ガザはエジプトが領有した。イスラエルは国家として承認されたが、パレスチナは国家として認められなかった。(1948年イスラエルが建国される。パレスチナ難民が発生(ナクバ))
第一次中東戦争の前にも、ユダヤ人は「圧倒的にユダヤ人の比率の高い国」を求めていたため、イスラエル建国宣言以前にパレスチナ人を追い出そうと虐殺を始めた。ユダヤ人は戦争以前に戦争以後と同数のパレスチナ人を追放した。これは国連決議案に違反する。(ナクバ法2011はナクバの日5.11を追悼することを禁じている。)
残念ながらユダヤ人はパレスチナに来た当初から大人しくしておらず、パレスチナ人に対して排外主義的で攻撃的だったようだ。
1956年10月29日~11月6日、第二次中東戦争(スエズ戦争)エジプト対英仏イスラエル戦争。以英仏の軍事介入が失敗し、国連の介入で停戦。スエズ運河の国有化に反発した以がエジプト侵攻し、シナイ半島占領。10月31日英仏軍が介入し、スエズ運河を占領。国際世論の非難に会って、国連が停戦決議。英仏軍は12月に、以は翌年3月に撤退。
1967年、第三次中東戦争ではイスラエル側が不意打ちして6日間で大勝し、シリアからゴラン高原を、エジプトからシナイ半島を領有し、西岸とガザを占領し、そこで入植活動=ジェノサイドを開始した。壁や道路封鎖などで西岸の閉鎖=ガザ化が進行した。
1973年、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)では今度はエジプトとシリアが奇襲攻撃し、イスラエルは苦戦したが最終的に勝利した。1978年、米の仲介で和平したが、エジプトはイスラエルとはもう戦争しないと約束してシナイ半島の一部を返還してもらった。この時パレスチナ人のことは何も触れられなかった。*(このころイスラエルは核兵器を持った。石油輸出国機構が石油価格を釣り上げてオイルショックが起った。)
*キャンプ・デイビッド合意 1978年9月、カーター米大統領がエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を、米大統領の山荘であるキャンプ・デイビッドに招待し、1979年3月、エジプトとイスラエルは平和条約を結び、イスラエルはシナイ半島の一部を返還したが、パレスチナ自治については決裂した。アラブ諸国は猛反対し、サダトはジハード団によって暗殺された。(エジプトとイスラエルとの単独和平)
1982年6月、レバノン戦争(第五次中東戦争) イスラエル軍はパレスチナ・ゲリラのテロ活動拠点と看做したレバノンに侵攻し、レバノン南部にとどまらずベイルートも爆撃し、多数のアラブ市民を殺害した。この時イスラエル軍はクラスター爆弾を使用した。ベイルートは瓦礫と化した。これはウサマ・ビン・ラディンが9・11犯行声明で示した怒りの源の一つである。民兵組織ヒズボラもこの時生まれた。またイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派の民兵組織ファランジスト(ファランヘ党)は、ベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプの民間人を虐殺した。イスラエル軍はシリア空軍も攻撃した。同年9月、PLOはベイルートからチュニスに本拠を移し、武装闘争を放棄した。
アラファト1929-2004はもともと難民であった。
1956年、アラファトはクウェートでファタハを結成し、1963年、シリアに迎えられ、1966年、ヨルダンからイスラエル軍兵士を地雷で殺害した(サム事件)。エジプトのナセルからパレスチナ問題の全権に委任され、1969年、PLO議長となった。ヨルダンから追放され、レバノンに移る。1983年、レバノンから追放され、チュニスに移る。1985年、ヨルダンと和解。1988年、ヨルダンがパレスチナ領有権を放棄し、アラファトは同年11月、パレスチナの独立を宣言した。1989年、大統領に。2000年9月、(第二次)インティファーダ運動が起こり、自爆攻撃が続く。2001年、イスラエルによりアラファトのいるラマラのパレスチナ議長府が包囲された。2003年3月19日、米以の圧力の下で、和平推進派のアッバースを初代首相に任命するも、9月6日、アラファト支配下の安全保障部門を譲渡されないアッバースが辞表を提出。アラファトはポロニウム210で毒殺された。
アラファトはヨルダンやレバノンでイスラエルに対するゲリラ活動を行った。イスラエルはそれを「テロ」だとし、その仕返しにパレスチナの村々を襲った。一部のゲリラ組織はハイジャック事件を起こし、国際社会からも「テロ」とみなされた。
1987年、インティファーダ(第一次)という抵抗運動が起こった。子供までがイスラエル軍の戦車に石を投げつけた。第一次インティファーダは1993年(オスロ合意)まで続いた。イスラエル軍は子どもを銃撃し、子どものひじの骨を折り、逮捕・拷問した。この間に1000人以上が死に、逮捕者は数万人に上った。世界の人々の目はイスラエルからパレスチナに向けられた。そういう抵抗運動の中からハマスが軍事部門を創設した。当時の武器は火炎瓶だった。PLOはチュニジアにいたが、ハマスはパレスチナで頑張った。
1992年、ラビンはイスラエルの首相になった。
1993年、ラビンはクリントン米大統領の仲介で、オスロでPLOのアラファトと和解し、一部領土(ガザと西岸のA地区)を返還したが、ベギンはその後暗殺された。
アラファトはチュニジアからパレスチナに戻り、自治政府を作った。1996年の選挙でアラファトは初代大統領となった。自治政府は西岸を拠点とし、「暫定」自治を始めた。
しかしこの和解は、アラファトが交渉相手と認められただけで、パレスチナ人にとって実質的な利益は何もなかった。国家承認もされず、土地の権利も認められず、占領は継続され、難民問題、入植地問題、エルサレム問題は放置された。
西岸にABC区域割ができたのもこのころだった。A区域は西岸の18%に過ぎなかった。ガザとA区域を合わせた面積は、1948年以前のパレスチナ全体の4%にすぎない。
さらに悪いことには、自治政府はイスラエルの下請けとなってパレスチナ人の抵抗勢力を取り締まった。
またイスラエルは自治政府に対する国際社会からの運営資金を仲介し、不都合な時には自治政府の公務員給料などを止めた。
西岸では(パレスチナ人の居住区域)エリアが(高く長い壁と道路封鎖バーで)分断され、検問所や入植地が増えた。
194 1993年にラビン首相がガザと西岸のA地区を返還したことに対して、イスラエル人は怒り、和平に反対した。
第三次中東戦争1967以降、狂信的宗教右派が台頭した。彼らは「戦争の勝利は神の意志であり、ゴラン高原やシナイ半島や西岸やガザなどの占領地の獲得は、かつて神がユダヤ人に与えた土地を返してもらったのであり、それは占領地ではなく解放地であると考えた。そういう考えのもとにイスラエルは西岸での入植地を増やしていった。そしてラビンは神に対する裏切者だとして、1995年、宗教右派の青年に暗殺された。
196 2000年9月、右派政治家のシャロンがエルサレム旧市街のイスラム教聖地を訪問し、ここはすべてイスラエルのものだと宣言した。怒ったパレスチナ人の若者はイスラエル軍に投石し、それに対してイスラエル軍は発砲した。こうして第二次インティファーダ2000.9-2005が始まった。
2001年、シャロンは首相になった。
2001年9月、アメリカで「同時多発テロ事件」が起き、ブッシュ大統領は「テロとの戦い」と称して、アフガニスタンやイラクを攻撃した。そのためパレスチナ人の抵抗への世界の共感は広がらなかった。
そういう中でハマスはイスラエルのバスや町中で自爆攻撃を始めた。2002年、イスラエル軍はパレスチナの町に戦車やヘリで攻撃し、多くの一般市民を逮捕・殺害した。第二次インティファーダでのパレスチナ人死者数は3000人以上で、その多くは一般市民だった。一方イスラエル側の死者は1000人だった。
2005年、ガザ地区全域でのイスラエル軍の駐留と全イスラエル人8500人による入植を止めて撤退した。ただし、ガザ地区の制空権と制海権は維持した。また西岸の小規模な入植地も解体された。
これはシャロン首相の決断によるものであった。シャロン首相は2004年2月、ガザ地区の全21か所、西岸の4か所の入植地(カディム、ガニム、ホメシュ、サヌル)の解体方針を示した。シャロンはインティファーダや自爆テロに懲りていた。
しかしシャロン自らが党首を勤める右派のリクード党はそれに反対した。ネタニヤフ元首相が反対した。入植者も反対した。
2004年5月2日、ガザでイスラエル人入植者の母子5人がパレスチナ人の男に殺されたが、ちょうどこの日、リクード党の党員投票が行われ、60%がシャロン案に反対した。しかしイスラエル世論はシャロンを支持し、シャロンはシャロン案を閣議決定し、国会を通過させた。入植者には補償金を出した。
ネタニヤフは閣僚を辞任した。8月10日、テルアビブでシャロンの方針に対する大規模な反対集会が開かれたが、イスラエル国防軍IDFは1週間かけて入植者を強制排除した。
イスラエル人の合計特殊出生率は2人強であるが、パレスチナ人のそれは6人から20人で、いずれパレスチナ人の人口がユダヤ人よりも上回ることになる。
ユダヤ人入植者数はガザでは8500人であり、西岸では23万人で、これに東エルサレムを加えると40万人である。シャロンはガザを捨て、西岸の6大入植地を維持したのである。シャロンは入植地の拡大ではなく再開発だとしている。
シャロンやオルメルトはリクード党を離党し、カディマという新党を作った。
2006年6月、ガザ侵攻。7月、レバノン侵攻。
西岸のホメシュでは入植者は排除されても戻って来た。また地主のパレスチナ人(ブルカ村)は立ち入りを禁止された。
2022年12月、ネタニヤフ政権は西岸やゴラン高原での入植拡大方針を打ち出し、2023年3月、クネセト(国会)で、シャロンの2005年の撤退計画を改め、西岸の4入植地の再建を可決した。これに対して欧米は批判し、パレスチナ大統領府も「全ての入植地を違法とする国連安保理決議2334に違反する」と非難した。
しかしネタニヤフ政権は2023年5月18日、ホメシュ入植地の再建に着手した。軍は建設工事を違法としたが、ガラント国防相やスモトリッチ財務相はそれを認めた。そして軍も結局それを認め、裁判所もそれを認めた。
2024年6月17日、「ユダヤの力」党の党首イタマル・ベン・グヴィル国家安全保障相は、ガザでの再定住推進議員連盟を結成し、「ナハラ運動」のダニエラ・ヴァイスは民族浄化の遂行を要求した。
200 2006年1月、ガザと西岸で自治政府の総選挙が行われたが、世界やハマス自身の予想に反してハマスが過半数の議席を取った。ファタハによるオスロ合意は不人気だった。ハマスは難民の多いガザでは人気があった。オスロ合意は難民問題を先送りし、パレスチナ国家の創設を優先したからである。(上述ではそれでも国家承認されなかったとあるが。)
ところが欧米以はハマスをテロ組織に指定し、欧米はハマスの政権への関与を認めず、パレスチナ支援を止めた。そして米はファタハに武器を供与し、ハマスと戦うよう仕向けた。
2007年、ファタハが西岸を支配し、ハマスがガザを支配することで住み分け、自治政府は分裂した。イスラエルはパレスチナが分裂していることを和平交渉ができない口実とした。イスラエルはガザを軍事封鎖した。軍事封鎖は集団懲罰であり国際法違反であるが、アメリカはこの封鎖を支持した。エジプトもガザの南部の封鎖に協力した。
202 封鎖後の2008年、2009年、2012年、2014年、2021年に、イスラエル軍はガザに対して大規模攻撃をしかけ、子どもを含む多数の犠牲者が出た。
2018年、ガザで「帰還の大行進」という非暴力デモが毎週行われるようになった。数千人から数万人のガザ市民がイスラエル近くの塀の近くに集まったが、この平和的なデモに対してイスラエル軍は狙撃した。2018年5月14日のイスラエル建国記念日には50人以上が殺害され、2700人以上が負傷した。行進は2019年まで2年近く行われた。若者は絶望していた。しかし国際社会は沈黙していた。
2023年10月7日、ハマスは壁を乗り越えてイスラエル側を攻撃し、1200人の民間人を殺害し、251人を人質にした。
感想
パレスチナの歴史を読んでいて、ウサマ・ビン・ラディンの9・11攻撃の犯行声明も、レバノンの民兵組織ヒズボラの結成も、ガザのハマスの結成も、皆イスラエルのアラブ人に対する攻撃が根源となっていたことが分かりました。
ウサマ・ビン・ラディンはその反抗声明の中で9・11攻撃の理由の一つとして、1982年、イスラエルがベイルートを激しく空爆して瓦礫と化し、多数のアラブ市民を殺害したことを挙げているし、民兵組織ヒズボラの結成もこれが原因であった。そしてハマスもイスラエルによるパレスチナ人の追放、閉鎖、銃撃への抵抗運動の中で生まれたものであった。
その根をさらにたどっていけば、それは欧州国民がユダヤ人を排斥したことであった。また日本の明治以降の周辺民族に対する侵攻だって、欧州列強の東洋侵攻に恐れをなしたことが原因であったから、本当に欧州人は罪深い人たちだ。文明や文化の発展はろくなことがない。金ずくめできらびやかな欧州の王宮は、植民地主義罪悪の結晶である。何とも情けない限りだ。
以上
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