保阪正康講演会「救国の宰相・鈴木貫太郎」20251015
感想
保阪正康は「歴史的事実だけでなく、心情を理解せよ」、「歴史学者は心情を理解していない」というが、それは言い過ぎではないか。歴史学者も民衆の心情を念頭に歴史を見ていると私は思う。また保阪には政治を動かす民衆という視点、それを治安維持法で弾圧するという権力批判の視点がない。上層部で取り仕切る政治のレベルしか見ていない。
保阪は現状の体制の肯定に基づき、現状の枠組みを与えられたものとして肯定する。より広い人権理念の枠組みが欠けている、ように感じた。現実的ではあるが。だから本会のような地域の名士鈴木貫太郎を顕彰することを目的とする商工会議所主催の郷土史的な集会(大河ドラマ「鈴木貫太郎」を実現する会発会式)の講師として選ばれたのだろう。
講演 司会 横倉 講師 保阪正康
鈴木貫太郎は慶応3年1867年12月24日(新暦1868年1月18日)から昭和23年1948年4月17日まで、80歳まで生きた。
本講演のテーマを3点に絞る。
1 なぜ鈴木貫太郎のような海軍軍人が天皇の側近(宮廷の官僚)になったのか。
2 鈴木貫太郎は天皇側近として終戦が一番の出来事であった。その悩みと歴史。
3 鈴木は本心を隠していた、芝居をしていた、ということを理解すべきである。つまり鈴木は現実的に対応した。自分の考えだけではやっていけない、軍をどう抑えるかに腐心した。鈴木の二枚舌を理解することが、歴史を知ることだ。
人間の心理を見ず、自分の政治的野心のために歴史を利用とする悪者がいる。それは歴史の冒涜だ。歴史を馬鹿にしている。皇国史観ではだめだ。教訓・知見を歴史から学ぶ必要がある。
1 昭和天皇の側近には海軍出身者が多い。斎藤実(まこと)、…。陸軍軍人はほとんどいない。その理由は海軍が国際的な目を持っていたからだ。
昭和5年1930年のロンドン軍縮条約で、日本の海軍は英米の7割を要求した。しかし海軍出身の天皇側近は、「それは日本の国力からして無理だ」と言った。「6.91でも高い数字である。」しかし軍令部の強硬派はごねて、それを天皇に上奏しようとした。軍令部の加藤寛治(かくじ)がごねて、天皇に帷幄上奏しようとした。それに対して鈴木貫太郎はそれをやめさせた。(加藤は)それを統帥権干犯だといった。当時鈴木貫太郎は侍従長だった。日本は英米を仮想敵国としていた。
この昭和5年1930年から11年1936年の2・26事件までの6年間に、浜口雄幸襲撃事件1930.11.14から始まり、既遂・未遂を含めて15件の暴力事件が起こった。鈴木貫太郎はそれに抵抗した。鈴木は天皇の側に立った。しかしこの事件以来海軍は人事で和平派を追放した。山本五十六は例外である。山本五十六は軍縮に賛成したが、残った。
鈴木貫太郎は口を挟めない立場にいた。鈴木は「侍従長とは男(おとこ)女中である」と言った。天皇の日常の世話をする仕事である。鈴木は昭和11年まで侍従長を勤めた。
鈴木は2・26事件で撃たれたが、命拾いした。「君側(くんそく)の肝(かん)を殺せ」と言われていた。妻の鈴木たか(1915年、鈴木は足立たかと再婚)が貫太郎の体に覆いかぶさり、軍人がとどめを刺すのをやめさせた。たかは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)付属幼稚園の先生で、昭和天皇の教育係だった。足立たかは天皇にとって母親同然だった。
明治天皇は「日清戦争は私の戦争ではない」と主張したが、伊藤博文が説得し、表向きは「天皇の戦争」にした。日露戦争の開戦でも明治天皇は泣いたという。また大正天皇は漢詩が好きで、「渡り鳥は自由だ」と歌った。つまり自分は自由でないと言いたかったのだ。大隈重信内閣は「天皇名において」ではなく、日英同盟を口実に第一次大戦に参戦した1914.8.23。そして昭和天皇も平和を望んでいた。
2 昭和20年1945年4月7日、小磯國昭が首相をやめた。当時は重臣が首相を決めていた。鈴木は「もう77歳だからできない」と言った。鈴木は「軍人は政治に関与しない」と書かれた軍人勅諭1882に忠実だった。それは政治家の中に軍人強硬派が出て来る恐れがあるからだ。それで鈴木は断った。しかし天皇から「もう他にいない。頼む」と言われ、鈴木は引き受けた。軍は戦争を継続したがっていた。天皇は鈴木に首相を押しつけた。
昭和20年5月、ルーズベルトが死んだ。鈴木は米にメッセージを送った。「偉大な指導者だった」と。
7月26日、ポツダム宣言が公布された。軍はそれに反発した。鈴木は「ポツダム宣言を黙殺する」と連合軍に答えたが、それは本音ではなかった。しかしその「黙殺する」が「拒否する」と英訳された。「一考する」としたら軍が黙ってはいなかっただろう。そうなったら殺されるかもしれない。「拒否する」と訳されたことが原爆投下の原因と結びつけられる説もあるが、原爆投下は米の規定の方針だった。
8月9日、第一回御前会議。軍は断乎戦うというが、平沼らはポツダム宣言を受け入れるという。鈴木はそれに賛成するとは言えなかった。賛成すれば4:3になるのに、言わずに3:3とし、天皇に裁可を求めた。鈴木は天皇に「東郷外相の意見に賛成だ」と言わせた。もし、鈴木自分がポツダム宣言受け入れに賛成だとして4:3にすれば、クーデターになっていただろうからだ。
昭和20年4月からこれまでの間、天皇と鈴木との間には視線による関係―黙契があったと私は思う。それは活字にはなっていないが。
8月10日、国体護持について問い合わせた。
8月12日、それに対するバーンズ回答。「天皇と日本国政府の国家統治の権限は、降伏の瞬間から、連合国最高司令官の制限下subject to(従属するor制約される)に置かれる」
8月14日、御前会議を天皇が開いた。異例である。天皇はポツダム宣言を受け入れるべきだと言った。天皇は国体護持に自信があった。その根拠はないが。
8月15日、鈴木貫太郎は玉音放送が行われた後、天皇に内閣総辞職を奏上した。鈴木の長男の鈴木一(はじめ)によると、天皇の「鈴木ありがとう」の言葉に、79歳の鈴木は泣いたという。鈴木は一番の忠臣だった。
平成天皇にまつわる話
私はジャーナリスト半藤一利とともに雑談をしに皇太子(平成天皇)の所に行った。雑談は午前(or午後)7時から11時30まで続いた。天皇には雑談する相手がいないのだということが分かった。
天皇は私に質問した「満州事変の時に「戦線を拡大するな」と軍に言ったのに、なぜ軍は戦争を拡大したのか」と。
学者は資料しか見ない。鈴木貫太郎をドラマにして欲しい。
私は85歳だ。
調べるとどんな人でも好きになるものだが、東条英機は違う。軍には合理的な面と、生死しかない面とがあるが、東條には後者しかなかった。それに東条英機は他者を懲罰した。1941年、東條首相のために高齢の40歳にもなるのに、東條を批判した松前重義(しげよし1901-91)とともに2000人が召集されて戦死した。松前に懲罰したいがために2000人を道連れにした。松前は二等兵として召集された。軍人は天皇に嘘の報告をしていた。
ルーズバルトが「この(日本に対する)戦争に講和はない、この戦争で独日を民主主義に変える」と言ったところ、某米軍人は「政治で話がつかないときには軍が出るが、日本の潰滅は軍の仕事ではない。軍は政治に従属する」とルーズベルトに言った。
東條英樹「負けたと思ったときが負けだ」とは、絶対負けないという意味である。つまり死ねということだ。
以上
0 件のコメント:
コメントを投稿