色川大吉『新編明治精神史』中央公論社 昭和48年1973年 色川大吉1925-2021
疑問
色川大吉さんは「逆徒やテロリストの心を理解できないような人間に、どうして革命のことを語る資格があろうか」062と言われる。その背景として、松方不況下の農民の借金・倒産・放浪(身代限り)、金貸しへの怨嗟、自由民権ののろし、…などが考えられるが、自暴自棄、自滅の観なきにしもあらず。しかし黙して大人しく死ぬよりはましか。
丁度この時期に朝鮮で日本の軍隊や国旗に対する「侮辱」があった(甲申の変1884)として、民権活動家が、それまでの自滅的な蜂起から方針転換して、朝鮮「征伐」に蹶起したというのだが、いったい朝鮮へ行って何をするつもりだったのだろうか。刺し違えて果てるということか。その無謀さ、無計画さにとまどう。大阪事件082
「日本を侮辱した」というが、本書にもあるようにそれ以前に日本政府は朝鮮に600騎の軍隊を駐留させていたようだ。朝鮮を開国させ(江華島事件1875)、不平等条約「日朝修好条規」1876を結ばせたのも、日本の仕業だったのではなかったか。この帝国主義的行為と民権主義者とはかみ合わないはずなのに、どうして民権家は朝鮮征伐をするのだろうか。民権主義者は優勝劣敗の帝国主義に反対していたらしいのだが、なぜその主義に徹しなかったのか。
メモ
生糸暴落、養蚕農家倒産・身代限り・放浪・暴動
加波山事件、秩父事件、福島事件、各地での同様の暴動
大阪事件 「国家の為」を口実にした強盗。論理の飛躍、組織内の腐敗、だらしなさ。
大矢正夫 大阪事件で服役 国家主義者に変質
北村透谷 大阪事件を拒否 25歳で自殺
石坂公歴 事件後アメリカに逃げ、一時は日本政府批判の新聞を発行して日本に送ったが、貧窮の中を結局アメリカの収容所で死亡。
8 放浪のナショナリズム――石坂公歴1868-1944.8
三 海を越えた連帯行動
153 勝本清一郎 北村透谷の評論家か。173透谷の一切の文書を保管していた。革命家?
156 堀越英子(ふさこ-1964) 石坂公歴の姪、北村透谷の一人娘。
野津田は石坂公歴の故郷。
四 晩年の精神構造
160 公歴の美那子宛書簡1938
「我国の外交は今日現時に至りて始めて自主外交と相成り真に一大国の姿容を確保する事と相成り 我等国民は衷心の欣快とする所 維新以来の大国是を現実し来たりて歓喜雀躍を禁ずる能わず 将来千歳の後に歴史を読むもの日本人たるものは皆等しく 如此(かくのごとき)観想を抱くなるし」
162 近衛内閣の「東亜新秩序建設」声明1938.11.3は、欧米の干渉を排除した新秩序建設=対中国占領宣言だった。
162, 174 富樫新三郎医師は、最後まで石坂公歴の面倒を見た。
167 渡瀬とし子は石坂公歴の妹。公歴は渡瀬信武を石坂家の後継者にしたいと考えていた。
六 石坂公歴の最期のこと
174 堀越英子の次女の西城千鶴子は、石坂公歴の消息を記した富樫新三郎の書簡を私に見せてくれた。
176 堀越英子の長女は三恵子
注
179 ナショナリズムとは、民族国家形成時代に発生し、民族・国民の伝統的な文化意識や郷土愛や幻想上の運命共同体意識(一体感や危機意識)に根ざす愛国的感情に支えられた、独立・自主・繁栄をめざす超個人的で非階級的な集団意識とそれに基づく対外志向である。それは「階級的な虚偽意識」をもつ。日本のナショナリズムでは、国家は、国民とは切り離せない。分かったようで分からない文章。
7 栄光のナショナリスト――村野常右衛門
一 国士型人間の肖像
182 森久保作蔵 明治の終わりごろ、森久保作蔵は東京市政を支配し、村野常右衛門は政友会を統率する幹事長となった。
二 伝統思想の基調
188 磯吉 村野常右衛門の幼名は磯吉といった。
三 三多摩壮士団の組織方法
195 村野常右衛門が大阪事件に関与し3年の刑期を終えてから組織した三多摩壮士団は、刀(仕込み杖193)を持参する暴力組織だった。「三多摩の壮士三千」とされるが、実際は1500人くらい。193壮士団は代議士や県会議員、町村長、村会議員を組織していた。それが政治に関与し、194星亨はそれを利用して憲政党を乗っ取り、東京市会を占領した。
壮士団の当初の目的は専制政府打倒、吏党撲滅、民権伸長であったが、後には閥族政府打倒を叫ぶ民衆に殴りこむようになった。
それは村野常右衛門が晩年引き受けた大日本国粋会会長の統率力につながるようだ。
大正2年、大衆のデモに向かって、村野常右衛門が指揮する三多摩壮士団は暴力で躍りかかった。
原敬は国会内から脱出するために騎馬巡査に命じてデモ隊に斬り込ませた。
1960年6月、大野伴睦は国会から脱出するために「三多摩壮士団を呼べ」と叫んだ。
四 政友会幹事長
196 (立憲)政友会1900.9.15は、立憲政治や政党内閣の実現の壁198となる明治憲法を作った宿敵伊藤博文を総裁にして、結成された。星亨(憲政党1896.6.22-1900.9.13)は伊藤博文を利用して政党内閣の実現を急ぎ、大勝した自らの憲政党を解散して伊藤博文の新党(政友会)に合流した。幸徳秋水はそれを揶揄し、199「新党結成を祭文で祝福した。」
198 政友会は「伊藤は朝鮮を翼下におさめた英雄だ」と宣伝し、村野常右衛門も25年間で豹変し、伊藤博文が進めていた朝鮮併合を祝賀した。
196 しかし山縣有朋はそれを望まず、軍部大臣現役将官制や、貴族院、陸軍、内務官僚を側近で固め、中央集権的な天皇制国家を維持しようとした。
五 政党内閣実現の目標成る
203 地主や資本家を支持基盤とする政友会は、大正9年1920年7月、憲政会、国民党から提出された普選法案を否決した。
205 村野常右衛門は大正9年5月10日、八王子の選挙区で、若冠40歳の無名の新人候補に敗れて落選した。政友会は農村部では大勝したが、都市部では惨敗した。政友会で、東京府内12の都市部選挙区で当選したのは鳩山一郎だけで、残り11名は憲政会と国民党に独占された。
六 大日本国粋会会長
大日本国粋会は、大正8年1919年10月10日結成され、やくざや博徒を労働運動の弾圧(「労使斡旋」)に用いた。
207 それ以前に、大正赤心団があり、同団は「国体の尊厳を危うくするすべての思想に対して、その撲滅を期する」とし、政友会の院外団の代わりをし、社会主義者や民本主義者への攻撃を主にしていた。
「大日本国粋会静岡県伊東支部規則」や「同朝鮮本部規則」
第六条 一 講演及び文書其の他適切なる方法に依り、皇室の尊厳及び我が国体の宇内に冠絶する所以を説き、其の精華を発揮し、国威の宣揚に努むること
210 政党内閣を実現したとされる原敬は、1919年大正8年、仮借ない政府批判の論陣を張る『大阪朝日新聞』を圧迫し、主筆鳥井素川や長谷川如是閑、大山郁夫らを退社に追い込み、1920年1月、東大助教授の森戸辰雄の『クロポトキンの社会思想の研究』を、朝憲紊乱の罪で告発した平沼検事総長から報告を受けた際に、「厳重の措置」をとるように指示し、1921年7月31日、山縣有朋を訪れて、「労働問題については断乎たる処置をとる決心」を披瀝した。そして翌年1922年、高橋是清は、原の方針を受けて議会に「過激社会運動取締法案」を提案した。(反対で中止)
215 大衆運動蔑視 大日本国粋会長村野常右衛門は「鶴見事件を顧みて」の中で「徒に小生意気で、屁理屈許り云って居って、社会の道徳を無視し、国家の秩序を乱すやうな輩が続出すると、吾輩の会といへども何んな風に変化し実働を為す(暴力行為)やも知れぬ」
これは労働運動の指導者に向けられた挑発的な言葉である。
8 草の根の民主主義――深沢権八と千葉卓三郎
深沢生丸(名生、1841-1892)は深沢権八の父親。
深沢権八1861-1890
千葉卓三郎1852-1883
三 民衆憲法の創造
230 明治13年1880年11月、全国24万人の署名者代表が結集した国会開設期成同盟大会は、各地方ごとの憲法草案を作成して次期大会までに持ち寄ることを決定した。
231 千葉卓三郎は元老院蔵版の『法律格言』を読み替え、天皇主権を否定している。
232 千葉卓三郎の五日市憲法で、「極」とは制限するという意味であり、「皇極」とは天皇の権限を制限することである。王権がその規範を犯したら「顛覆の政変を致す」(『尚書』(『書経』)としている。
234 いつの時代も権力者の発想は同じ。明治14年7月、(小学校教員だった)千葉卓三郎は、小学校教員政治活動禁止政令が発せられると、五日市を飛び出して山梨方面に出かけたり、奈良橋村の鎌田喜十郎宅に寄留したり、9月には狭山村の円乗院に移ったが、このころ結核を発病していた。
四 創造の「場」――開かれた共同体
感想 色川大吉さんはずばり自分の意見を言うが、やや違和感。
同じ「民権」運動でも、豪農と底辺庶民とでは利害が異なっていたようで、それが後世には、豪農側が底辺庶民を弾圧することになったようだ。大正時代の労働運動の源流は、この明治17年ころの民権運動での庶民の暴動ではないか。群馬事件、加波山事件、秩父事件、武相困民党事件、…
豪農の民権家・深沢権八がお上の税金取り立てに対して、へこへこと頭を下げるような文章を書いたと色川さんは指摘する。それは土地所有者である豪農が、底辺庶民とは違うのだと言いたいのだと色川さんは指摘する。241
238 民権家は被差別部落の人達を快く迎えていた。山上卓樹、山口重兵衛、柏木豊次郎らである。彼等被差別民は、カトリックを通して部落解放に進み、その後民権運動に参加した。秩父の風布(ふうぷ)や石間など、部落内の貧富差別の解消にまで進んだところもある。
242 今戸倉村の大上田氏起草の、神奈川県令沖守固宛嘆願書(1884年明治17年11月9日付)は、毅然とした民権家としての姿勢によってではなく、奴隷の言葉で書かれている。これは困民党、小作党を暴徒して扱う彼らの姿勢と無縁ではない。豪農層は小作人や貧農層を、自分たちの存在を脅かす危険として意識し、明治政府を頼りになる後ろ盾として自覚していたに違いない。
243 明治19年1886年の「協立衛生義会」は、政府が明治18年1895年、衛生行政を地方自治体の民撰の町村衛生委員の手から奪い取って警察官の手に移したとき、それに抵抗する形で形成された形跡がある。なんとなれば本義会の対象をはっきり一般人民とし、創立委員には、深沢権八ら民権家が多かったからである。
9 伝統型の文人思想――秋山国三郎
一 透谷との邂逅
246 秋山国三郎は川口村の豪家の主人で、自由党を支援し、老政客、畸人であった。
二 民衆の中の土着文化
252 「自由党梁山泊」として関東一円に名の聞こえていた名家内山安兵衛の邸宅は、勧能学校のすぐそばにあり、その書庫は千葉卓三郎起草の「五日市憲法草案」を蔵していた。
三 「三日幻境」の評価をめぐって
254 「三日幻境」は北村透谷の死の2年前ころに書かれた。またその当時に透谷は「徳川氏時代の平民的理想」を書いた。
10 開明型の生活思想――平野友輔
感想 2025年7月25日(金) 平野友輔1857.2.3(旧暦1月9日)-1928.4.3
神奈川県藤沢市に生まれ、民権家としては主に八王子で活躍した、医師・政治家の平野友輔の愛国論280*には圧倒される。これは日清戦争の前(某年4月23日付、透谷に婚約者を奪われた1888年11月以降、安田鐙(藤)と結婚する1892年までの間)に書かれた、後に妻となる恋人あての書簡なのだが、その中で愛国論を披露している。
平野友輔は生涯愛国主義者を通したのではなく、日清戦争後、内村鑑三の反戦論に共鳴した一時期もあったが、日露戦争前後は徳富蘇峰の愛国主義に引き戻され、その思想は変転した。
その点、平野友輔は幸徳秋水とは異なる。同様に大逆事件で刑死した奥宮健之の、人力車夫のための「車界党」結成1882も興味深い。奥宮健吉・健之兄弟も、平野友輔同様に、八王子の政談集会に弁士として参加していた。明治17年1884年のことである。
私自身は愛国主義ではなくインターナショナリズムの方に与するが、戦前の多くの人は、明治維新や日清戦争、日露戦争、対中国戦争、太平洋戦争など、戦争という「国家的」危機のときに、愛国心を燃え立たせたようだ。
メモ
一 在村活動家型民権家の二つの軌跡
260 ここで「二つの軌跡」としているもう一つの軌跡は、次章の細野喜代四朗を指す。
二 開化型民権家の生誕
263 名家の長男平野友輔は、藤沢の小笠原東陽の耕餘塾に入塾して漢学を学んだ。
266 明治17年1884年5月16日、八王子の「本三座」での「自由政談演説会」で、平野は「同情論」を第一席に講じた。第二席の木内伊之助の「尚武論」のとき、臨監の警官に中止を命令された。平野と木内は八王子警察に連行され、平野はその日の夜の12時に釈放されたが、木内は5日間拘留された。聴衆者500名。奥宮健之と細野喜代四郎が、その後で演説することになっていたが流れた。
5月20日に木内が釈放されると、平野は直ちに「本三座」で23日から連日「政談演説会」を強行した。東京から奥宮健吉が駆けつけた。*奥宮健之と奥宮健吉とは兄弟で、勤労階級に「関心」が深く、人力車夫のための「車界党」を組織した。295 奥宮健之は明治15年1882年「車界党」を組織して都市無産者に対して初めて組織工作を行った。健之は健吉の弟。健之は明治18年1885年、名古屋事件で無期徒刑となり、明治44年1911年、大逆事件で刑死した。しかし、平野はそのことについて触れていない。
270 神奈川県自由党は大阪事件(明治18年1885年)に加わり、逮捕者を多数出した。山本与七、村野常右衛門、森久保作蔵、難波惣平、大矢正夫、水島保太郎、天野政立、武藤角之助らである。
翌明治19年1886年、山口俊太、石坂公歴、粕谷義三らはアメリカに亡命した。
明治19年1886年10月24日、「三大事件建白運動」の「全国有志大懇親会」が浅草の井生村楼(いぶむらろう)で行われ、「地租軽減」「言論集会の自由」「外交政策の挽回」(済民・自由・独立)を要求し、建白が翌明治20年1887年にかけて、県庁経由で元老院に提出された。
271 父の石坂昌孝も二人の仲を許し、平野友輔の婚約者だった長女ミナと北村透谷は明治21年1888年11月3日に結婚した。
三 平民主義の実行者
279 徳富蘇峰「平民の道徳」(明治25年1892年10月)「今や我邦を観るに、社会は既に平民的社会に進みたる。看よや維新の革命は、封建社会を転覆し、士の常識を解き、士民の別を廃し、封建的君臣の区別を除き、率土の浜、普天の下、一君万民の制となり、上に一君を戴き、下に万民平等の社会を組織したる」(天皇の下での国民の平等)
四 勤労哲学の伝統の上に 平野友輔の愛国心論*
286 平野友輔など多くの民権家は、民権運動の敗北後も政治の改良進歩に絶望しなかった。
五 挫折を知らぬ生涯
289 日清戦争を「正義の戦争」「国民戦争」「文明の勝利」とする見解は、徳富蘇峰、福沢諭吉、内村鑑三に共通していた。
平野の長男は明治26年に生まれ、36年に夭折した。
290 明治33年1900年、旧自由党は嘗ての仇敵伊藤博文の設立した政友会に合併合同した。この合同を演出したのは星亨であったが、星は翌明治34年1901年、東京府会の汚職を攻撃され、内村鑑三や木下尚江らの激しい筆誅を浴び、6月21日、刺殺された。
平野友輔の夫人は「藤(子)」 「安田貴妹」(「貴妹」は名前ではなく尊称)275 安田鐙(藤、とう)275, 284
292 平野友輔は日清戦争後、思想的に徳富蘇峰を離れ、内村鑑三の「戦闘的民主主義」に傾倒していたが、日露戦争の是非をめぐって、「絶対非戦論」を説く内村に賛成できず、蘇峰に接近したようだ。
294 色川大吉が説く明治の豪農の5つのタイプ 中央指向型、在村活動家型、後方守備型、殖産企業型、放浪者型
296 平野友輔には5人の娘がいた。康子、恒子、正子、武子、英子である。
二女の平野恒子は、児童福祉の社会事業家で、『白い峰』を出版。横浜女子短大を設立し、学長となった。四女の武子(田村武子)は、白百合女子大学教授。
徳富蘇峰の夫人は静子。
11 明治の豪農の精神構造――細野喜代四郎と須長漣造
感想 豪農は口では薩長独裁に対する民権を唱えながら、出自からして保守的で、最終的に権力側に与する。細野喜代四郎は「民権家」とされるが、下層の小作=困民党の立場には理解を示さない。そして細野は最後は警察のスパイにも堕した。一方同じ豪農でも須長漣造は違い、困民党に与した。
しかし困民党に与するような民権主義者は数少なく、殆どが、困民党零細小作農家を、無学だと馬鹿にし、その窮乏叛乱を弾圧する側に回った。自由民権運動の主流は、地主・土地所有者・資本家・財閥の陣営に入った。それが政友会となり、今の自民党となっている。
一 農民演説家の生誕――東洋的革命家像
300, 309 細野喜代四郎 安政元年1854年6月1日―大正13年1924年10月27日
300 細野喜代四郎関連文献として「南村誌稿」308と覚書(メモ)がある。
301 細野喜代四郎の蔵書
明治7年版 加藤弘之『国体新論』
明治8年版 ビーデルマン著、加藤弘之訳『各国立憲政体起立史』(英国の部)
明治10年版 英国ミル著、中村正直訳『自由之理』
明治11年版 フランス言師ロベルト・リプマン著、渋川忠二郎訳記『仏国民法・契約篇講義』
明治12年版 司法省蔵版『仏国政法論』
購入年月
明治13年2月 三宅虎太編纂『日本国会纂論』第壱篇
明治13年3月 福城駒多朗編次『国会論』(福城=馬城、駒多朗=憲太郎…色川大吉注)
明治13年4月 米国リーベル著、林薫訳『自治論 一名人民の自由』
明治13年6月 三宅虎太閲、山岸文蔵編『国憲論』
明治13年10月 中村欽吉郎著『法律要論』
306 明治17年1884年7月5日、明治政府は戸長を、小村単位の民選から、政府任命による連合村戸長制度に切りかえ、細野喜代四郎も新戸長に任命された。細野が民権運動に奔走していたころである。
2か月前の5月16日、24日、26日と、平野友輔を会主に、細野が協力し、奥宮健之、木内伊之助を招き、4人で八王子自由政談演説会を開催し、二度も警察の弾圧を受けながら、学術演説会に切りかえて強行した。
二 伝統的な美意識と儒学の意味
313 「細野詩稿録」に「心 皇国をして英国を凌がしめん意 神州をして米州を駕せしめん」とあるように、そこでは中国が我が文化伝統の母国として親しく扱われており、西欧は警戒の念と若干の敵意をもって扱われている。
「細野政談演説草稿」の中の鎌倉郡瀬谷村での教育討論会での演説からの要旨抜粋
314 「開明された欧州諸国の人民は、自治・自由・権理を持ち、国は富み、民は栄え、人智は進歩し、他国からの妨害を受けることもなく、己の生命を保全し、己の身体を自由に使用し、己の所有物を自由に処分し、出版、著書、論弁みな自由でないものはない。学問は天文から地理にまで及び、機械は兵器から日用品まで、技術の精を尽くし、農業や商業では会社を作り、商業や農業に税金を賦課するが、野蛮・半開の地方ほど苛酷ではない。」と欧州諸国を褒め称える。しかし米国については、「その文明では五大州でも最高であるが、政党が過度になり党派争いをし、国家の利害を顧慮しない」と批判されている。
317 細野喜代四郎「不平均言論」(明治16年3月3日)の一部
三 その日常生活と精神伝統――明治の豪農の教養(1)
323 豪農の特権的地位 「名主は勿論、年寄組頭の門前は、乗馬にては通過するものなく、且つ途上を放歌し来るところの田夫野郎も、これら村役人の庭前に至れば声を潜むるに至りぬ。蓋(けだ)し当時の名主以下村役人は、皆官任にして数代世襲なるものありたり。」(『南村誌』)
このような豪農に対する周囲の特別の目は、細野の選ばれたものとしての指導者意識、志士意識を生み出し、村民に対する地主意識、豪農意識となって現れた。「村民概ね文字を識らず、風俗野蛮鳥魚の如し」「鳥魚に劣る」
324 豪農の現実の美化や理想化の傾向は、皇室に対するとき極端になる。「二千余歳辛酸なし 皇統連綿宇内に冠たり … 我国帝威大東に輝く…」
325 明治5年、「紀元節」が布告され、記紀に基づく神話的歴史が国家の名で公認された。
郷校である「小野郷学」の都講(教師)のほとんどが、現職の区長、戸長、副戸長、学区取締役などの村落の指導者だった。
326 小野郷学は自発的に創設されたが、明治政府は、明治初年に神祇官を、5年に教部省を設置し、教導職に地方名望家を任命した。このとき小野郷学の設立者藤井盛恭と井上遯老は、「学区取締役」に任命され、この二人は、明治6年12月、学舎訓導に対して以下の文書に署名捺印させ、「確乎と誓約を結び、洋教を拒絶し、愛国敬神の本旨を保護する」ことに努めさせた。
327 著者色川大吉が「後方守備型」というのは、「自由民権運動の昂揚に押されてそれに参加したが、その根本的な思想や心情には変化は起らなかった民権家」をいう。
四 梅花グループの文人たち――明治の豪農の教養(2)
五 豪農層の思想の分裂――農民騒擾の渦中であらわれたその諸側面
333 「細野覚書(メモ)」後半部分の全文から 困民党の蹶起と逮捕
明治17年8月10日、困民党騒擾が頂点に達した。相模国高座郡上鶴間村の渋谷彦右衛門と渋谷彦兵衛が困民党のリーダーだった。
336 9月1日、県令は法律を盾にして借金棒引きの仲裁を拒否した。
本文中に現れるゴシック体の人命は自由党員であり、その多くが困民党の弾圧側に回った。
隣村下鶴間村戸長長谷川彦八「この事件の人民は国事犯人として鎮圧する他策なし」341としたが、自由党員だった。8月12日の書簡。340
8月20日、仲裁役を自らに任じた細野は、民権家に向かわず、郡役所を訪ねた。
民権家の仲裁人は同じく民権家の債主=金貸・銀行に「懇願」した。
338 8月24日、板垣総理が来訪し、多摩川の納涼遊船会で遊説、八王子で一泊、8月25日、青梅、駒木野を来訪し、獅子吼(ししく、大声で演説)したが、困民党の応援に来たのではなかった。この時駒木野のすぐ近くの梅沢村では、全戸数26戸のうち13戸が公売処分を受けていたというのに。民権家板垣の仕事はただ演説することであった。
338 細野喜代四郎「富者は親で貧者は子だ」と、「儒教の仁政観念」や、「擬制化した共同体的理念」を治者的=治者然として利用した。その「慈悲心」(親心)や「済民」観念には、「特権集団」や「欺負詐偽の徒」に対する批判精神はなかった。
341 さらにひどいのがこれも「仲裁者」の長谷川彦八で、長谷川彦八は「困民党はブッタクリ党であり、人民は下民、愚民であるとし、(愚民には)とても説諭は無効であり、(愚民を)国事犯人たる尺度を以て鎮撫する以外に策はない」と豪語した。ここに豪農民権家の治者意識、支配者意識、有産階級としての保身本能と愚民観が如実に現れている。
結局この困民党騒擾事件は、9月1日、警官が困民党指導部を急襲し、八王子警察署へ押しかけた200余名を総逮捕したが、三多摩、高座、津久井の困民党は再結集し、第二の九月危機となった。仲裁人にたちに仲裁を乞われた県令は「多数人民の集合の危険を除け」と指示した。
342 仲裁人薄井盛恭は、9月21日付細野宛書簡の中で「成内穎一(えいいち)氏(東海貯蓄銀行頭取で明治14年以来の最古参の自由党員)は、利子の猶予に反対し、谷合弥八氏(同銀行取締役)も、当惑致し居り候」と述べるように、債主側は強気な態度に変じた。
石坂昌孝も9月23日の細野宛書簡の中で「八王子銀行の株主等は、明治政府のあるかぎりは、借金減却を施すなど思いもよらないこと」とし、「成内の言うように、政府の威力を借り、全収するの意に暗合している」と述べている。
343 このように八王子の私立銀行成内の念頭には、明治政府―裁判所・警察―地方当局―資本の保護が一直線につながっていた。
一方、豪農須長漣造は20町歩を所有する矢野村一の豪農だったが、成内や伊藤治兵衛や武蔵野銀行などによって土地の大半を失い、村民の多くとともに破産に瀕していた。
344 須長の遺文「私立銀行金貸会社においては、これまで窮民を圧迫する甚だしく、その返報としては(一時に来す土崩瓦解は、この手のひらを返すに似たり)一夜の基に建造物は灰燼となし、一時の中に斬に処し、骸(むくろ)は街の梟首(きょうしゅ)にかけ、遺体は原野に鳥獣の腹を肥やし、その心地よきを見て初めて懐腹の志霊を起こすものなり。」
345 須長は嘉永5年1852年、平凡な農家に生まれ、32歳まで村内から出ず、穏和な村世話役であったが、その後勤労者になった。須長は「人民の痛心を和らげるために法律の正面は曲げても細民救済をしてくれ」と述べている。
346 私(色川大吉)は内偵(警察のスパイ)側の一人に、自由民権家・細野喜代四郎の名を発見した。
347 武相困民党の設立委員だった、上小山田村の中島小太郎、下小山田村の若林高之助、由木村の佐藤昇之輔の三人を、細野喜代四郎が官憲に売り渡したと思われる。警察分署長の山本一智は、細野喜代四郎宛の書簡の中で「御噺(はなし)の三名之義に付き、取り押さえ取調べ方、八王子警察署へ通知致し置き候間 手配方これあるものと存じ候」と述べている。
須長漣造は、上記三人とは違って、最後まで地下組織の責任者として匿されていた。
細野喜代四郎は上記若林高之助とは、明治15年以来の自由党の同志だったのにそのかつての同志を警察に密告している。
六 豪農意識の構造
350 明治10年代の豪農の一般的傾向は、自然に順応し、小作人に依拠し、質朴、勤労、節倹に生き、外界につつましく順応し、禁欲的に生きて行こうとする心的態度が主であった。つまり近世以来の心境鍛錬主義、老農主義、精農主義は明治10年代の不況期から再興し、富士講、丸山教、報徳社の運動が東日本の豪農層の間に広がった。
注
353 三多摩はかつて神奈川県に所属していた。
354 自由民権思想の全国的普及に貢献した都市ジャーナリズムには主に四つのグループがある。「嚶鳴社」「共存同衆」「国友会」「交詢(じゅん)社」の四つである。そのうち「嚶鳴社」は改進党に、「国友会」は自由党に接近し、「交詢(じゅん)社」はその中間に位置した。
この四つの他にも、立志社から地方新聞記者として出た植木枝盛、『東洋自由新聞』、中江兆民の仏学塾系、政府に近い福地桜知の『東京日日新聞』系などがあった。
358 細野の国権意識
細野は不平等条約に対しては「国権蹂躙」と言って国家間の平等を主張しつつ、朝鮮に対しては明治初年以来不平等条約を押し付け、「韓奴のまなじりを攪破し、日東皇国の光を輝かせ」と主張し、その主張に一貫性がない。
第二部 歴史的展開
1 和魂洋才の道――草莽(もう、草むら)の目ざめ
感想 本章は矢島忠左衛門の娘たちの物語。西洋近代思想はキリスト教と相まって、それまでの実学的儒教的封建制を打ち破っていったようだ。
360 三家(竹崎律次郎・茶堂、徳富、横井小楠)を繋ぐ一家・矢島家出身の女性たち。徳富蘇峰はこの矢島家+徳富家の家系である。
矢島忠左衛門は熊本県上益城郡津森村の豪農で惣庄屋(村役人のトップ)。その父は弥平次。矢島忠左衛門・鶴子の間には9人の子がいた。
嫡子・源助は、横井小楠の弟子、
5番目の子竹崎順子の夫は伊倉の豪農竹崎律次郎・茶堂、
6番目の子久子は水俣の惣庄屋徳富家に嫁し、蘇峰・蘆花の母、
7番目の子津世(つせ)子は横井小楠の後妻で、横井時雄の母、
8番目の子矢島楫子(かじこ)は林家に嫁ぐが家出し、女子学院院長、日本婦人矯風会会頭。
361 竹崎律次郎・茶堂とその妻順子は、熊本の本山村で、洋風の経営手法を取り入れた和魂洋才の実学党で、律次郎は小学校令の公布以前に、私塾日新塾を経営していた。
362 源助は横井小楠の塾に通っていた。
順子の夫の竹崎律次郎は、伊倉の木下家の出である。木下家は木下順二の祖先である。竹崎律次郎は米相場で破産し、一時行方不明となり、順子は家に戻されたが、2年別居後再び同居するために1884年弘化元年20歳の順子は夫のいる布田に向かった。夫婦はそこで塾を開いた。義母・義弟と同居。夫は横井小楠の塾へ通った。(順子は晩年81歳で死ぬまでの18年間、熊本女学校の校長を勤めた。)夫婦は1860年万延元年、有明海の横島に開拓農園をつくるために転居した。大農園だった。10年間続けた。
横井小楠宅には坂本龍馬や吉田松陰が訪ねてきた。
363 明治3年に竹崎律次郎と義弟・徳富一敬(久子の夫、蘇峰の父)とがつくり、実学派の藩知事・細川護久(もりひさ)に提出された肥後・熊本の改革案(意見書)の驚くべき先進性。
一、お城は取り壊すべきこと。
一、雑税はすべて免除にすべきこと。(この結果人民の税負担は三分の一に軽減された)
一、狩場はすべて解放なされること。
一、役人は村役人もすべて公選にすべきこと。
一、政庁には上下二院をもうけ、下院には四民の区別なく比例制よって公選されるべきこと。等々。
しかし明治6年、明治政府によって擁立された熊本の保守党は、県政の実権を握り、特権的な政商と結んだ。
364 明治10年代、徳富一敬らは自由民権運動に加わった。
明治4年、肥後藩は米国人を招いて医学校や洋学校を開設した。そこから医学の北里柴三郎、宗教の海老名弾正、小崎弘道、言論の徳富蘇峰が生まれた。また竹崎律次郎は熊本洋学校で和魂洋才の精神教育を施した。
竹崎順子は私塾日新堂(明治5年~9年)で夫ともに教育した。徳富蘆花はその生徒の一人である。
矢島楫子は明治5年単身上京し、桜井女学校を発展させた。明治政府が開設した女学校は2校に留まる。東京女学校(明治5年)、東京女子師範学校(明治7年、後のお茶の水女子大)であるが、それは良妻賢母養成学校だった。
近代的な女子中等教育は、キリスト教宣教師によって開設された。ヘップバーン(ヘボン)夫妻は横浜に慶応3年1867年女学校を開いた。その後グラハム女学校(女子学院)、神戸女学院、同志社女学校、立教女学校が開設され、それは1880年代には地方都市に広がった。そして福沢諭吉、森有礼、植木枝盛らはその教育運動を助けた。
桜井女学校を発展させた矢島楫子だけでなく、順子は日新堂を、久子と順子は熊本女学校を設立した。(明治20年)
矢島楫子は夫の林七郎との間に三子を産んだが、幾度も家出しては引き戻されたが、明治元年最後の家出をした。明治5年、単身上京し、キリスト教に入信し、女学校を開き校長になり、明治19年、日本基督教婦人矯風会をつくり、その会頭になった。同会は『女学雑誌』の支持を受け、明治23年、婦人を政治から締め出す反動立法に対して反対運動を起こした。
365 明治9年、熊本洋学校の生徒が大量にキリスト教に転向した。竹崎茶堂は日本の魂を失うな、西洋の術だけをとれ、と教えていた。「堯舜孔子の道を明らかにして、西洋器械の術を尽くせ」と教えた。しかし若い俊才たちは西洋文明のうちに近代思想を発見し、実学=半封建的論理に叛逆した。
母つせ子は息子横井時雄に(キリスト教から)回心しなければ自刀すると脅し、母久子は息子の徳富蘇峰、蘆花の信仰に手を焼いた。しかし二人ともキリスト教に入信し、残されたのは順子だけだったが、その順子も、明治10年、夫を失い、明治20年にはついに(キリスト教に)入信し、再び熊本女学校の舎監・校長に復帰した。しかし、竹崎順子は、富国強兵・良妻賢母の実学派的理念から抜け出せないまま明治38年に亡くなった。
2 豪農民権への展開――徳富蘇峰の思想形成
感想 本章は徳富蘇峰・猪一郎1863-1957論 その明治19年ころまでを扱う。蘇峰が言論家として自立するまでの間である。やはり蘇峰も豪農の出身。下層民の下剋上を認めようとしない。板垣退助が自由党を解党したのも、明治17年の下剋上(群馬事件、加波山事件)に反対だったことによる。385
はじめに
366 徳富蘇峰1863-1957は水俣の大庄屋の家に生まれ、94歳で亡くなった。その著書は『近世日本国民史』『蘇峰叢書』を除いて、150余種、編纂書は13種ある。
蘇峰の日記・書簡・草稿等の一部は非公開である。
蘇峰の人生を4期に分ける。
第一期 明治19年1886年に『将来之日本』を出版し、一家が上京するまでの思想形成時代。
第二期 輝かしい『国民の友』の時代。
367 第三期 明治29年1896年の松隈内閣*に参加して変節を非難され、日露戦争では政府支持に転じ、大正デモクラシー時代に国民から投石を受け、桂太郎の死とともに政界を引退した政治家としての時代。
*第二次松方正義内閣に進歩党の大隈重信を外相として迎えた。
第四期 大正2年1913年から満州事変開始まで、文筆活動に復帰し、『近世日本国民史』を書き、皇室中心主義者として政府の戦争政策を鼓舞した時代。戦後の12年間は公人としてなきがごとき存在だった。
歴史家大久保利鎌は、明治20年代の思想家として、三宅雪嶺、陸羯南(くがかつなん)、徳富蘇峰を論じ、当時の蘇峰を「下からの産業ブルジョアジーの思想的代表者」とし、「初期蘇峰の平民主義は『将来之日本』が示すように、日本のブルジョア的発展を反映するブルジョア民主主義であった」とする。丸山眞男も「下からの平民主義」と評価している。果たしてそうか。
家永三郎は「徳富は福沢精神の継承者であり、その民友社思想運動は、福沢イズムの歴史的展開である」とし、「徳富等民友社同人の平民主義とは、福沢の啓蒙主義の歴史的継承者・発展者である」とする。
明治初年代10年代は、福沢諭吉、植木枝盛らの啓蒙主義、つまり明六社や自由民権の時代とし、明治20年代は、徳富蘇峰、三宅雪嶺らの平民主義、国粋主義の時代とし、30年代を幸徳秋水、安倍磯雄らの初期社会主義の時代とされる。
368 蘇峰の変節 大久保氏は「そもそも蘇峰は変節したのか」とし、「蘇峰の『国民の友』は初期社会主義へ橋渡しをし、明治34年1901年の「社会民主党宣言」は、民友社の平民主義の論理的極致である」とするが、私はそうは思わない。
明治25年1892年、26年1893年ころの蘇峰の思想と政治行動との矛盾は蘇峰の思想の特質を明らかにすることによって得られる。
一 実学党の世界
368 蘇峰の祖父・徳富美信1798-1885は、1822年文政5年、肥後藩主から津奈木総庄屋兼代官に任命された。
369 父の一敬1822-1914は横井小楠の高弟で、横井を財政的に支えた。一敬の兄弟、一義、高廉(かど)も小楠の門下生だった。
一敬は義兄の竹崎律次郎とともに開国論者横井小楠1809-69に傾倒した。小楠の暗殺後は藩政・県政に参与し、一敬・久子は横井小楠の甥の横井太平や左平太を渡米させるために資金援助した。明治4、5、6年、熊本洋学校を開設し、蘇峰も明治6年、8年に同校に入学した。
370 蘇峰の母方の伯父・矢島源助(直方) 矢島家は上益城郡津森村の豪農で、総庄屋で、源助は横井小楠の弟子であった。
1870年、蘇峰・猪一郎の父一敬は熊本市の近郊大江村に移住したが、そこで武士の子弟は豪農の息子猪一郎を「軽輩」とか「在郷兵衛」と罵った。
蘇峰は兼坂諄次郎の兼坂塾で学んだ。兼坂は(熊本)洋学校では漢学を講じていたが、維新後武士から帰農し、蘇峰にとっては「平民主義最初の師」となった。蘇峰は兼坂から「人は誰でも天下の志士になれる」と教えられた。
そこ(兼坂塾)では『四書』『五経』『左伝』『史記』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑綱目』を教えた。蘇峰は『絵入三国志』を読んだ。父一敬は『日本外史』の愛読者だった。蘇峰は少壮のころ儒教主義を批判した。横井小楠も朱子学を攻撃し、自らの儒学を批判した。
371 明治19年1886年の『将来之日本』や明治26年1893年の『吉田松陰』そして晩年の『近世日本国民史』では、儒教主義の克服がテーマとなっている。
二 思想準備時代
371 蘇峰は明治6年1873年兼坂塾を出て熊本洋学校に入学したが、年少のため一時退学させられ、明治8年1875年再入学した。蘇峰の熊本洋学校への入学は、父の勧めと、米国帰りの横井左平太(伊勢時治、ときはる)369の帰朝談の刺激がある。
熊本洋学校は実学党であったが、米人教師ジェーンズに一任され、近代的科学教育とプロテスタンティズムが生徒を次第に感化し、生徒たちは実学党の根本命題「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くし、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布(し)かんのみ」という根本命題を打ち砕き、明治9年1876年1月、花岡山での奉教誓約事件*を起こした。
*1876年1月30日、熊本市花岡山で、熊本洋学校の生徒35人が、ジェーンズの影響を受け、奉教趣意書に署名し、プロテスタント・キリスト教に改宗した。その集団を熊本バンドという。
蘇峰もこれに名を連ねたが、それは横井時雄や金森通倫とは違って、「烏合の衆」であり、実学党の殻から踊り出すために」すぎなかった。
蘇峰は明治9年1876年上京し、親類の藤島家にあずけられ、開成校の予備門である東京英語学校に入学したが、これには父が蘇峰を熊本の仲間から隔離するという目的があったらしい。しかし蘇峰はそこを止めて父に叛逆し、金森通倫を頼って京都の新島襄の同志社に向かった。また親戚には慶応義塾に関係する人がいたが、蘇峰は当時流行の福沢諭吉には向かわず、中村正直の同人社にも向かわなかった。
蘇峰は同志社のアメリカ式教課に興味がなく、新聞を読み始めた。キリスト教については、新島の手で受洗し、明治9年12月、金森らについて畿内の伝道に向かうが、パンフレット配布を手伝ったくらいだった。またこの時、明治9年1876年12月19日に、三重県で起こった大一揆は、植木枝盛に影響を与えたが、蘇峰は関心がなかったようだ。
373 このころ西南戦争が起こり、郷里の熊本も戦場となり、蘇峰は新聞を読んだ。蘇峰は『東京日日新聞』の福地桜痴が凱旋し、天皇に拝謁したことに感激した。
蘇峰は神戸の『七一雑報』や『大阪日報』に投稿した。『朝野』『報知』も読んだ。蘇峰の読書傾向は『唐宋八家文』『南総里美八犬伝』『カーライル文集』そしておそらく『学問ノススメ』をさすと思われる「福沢の文章」であった。家永三郎によれば、徳富蘆花の自伝小説『富士』の中で、「彼(蘇峰)は福沢の写真の裏に『君こそ我が畏友なり』と書き、『学問ノススメ』が出るたびに買って読んだ」という。
明治10年1877年、蘇峰は明治天皇を京都で拝し感激している。
374 明治13年1880年、蘇峰はクラス合併問題から同志社を退学し、湯浅吉郎、河辺久治と三人で歩いて上京した。
蘇峰は『東京日日新聞』の日報社社長の福地桜痴に向かったが結局会えなかった。福地桜痴は当時東京府会議員であり、東京日日新聞社は「太政官記事御用」と書かれた看板を掲げていた。他に銀座には『東京曙新聞』『読売新聞』『東京横浜毎日新聞』があり、『郵便報知新聞』だけが両国にあった。
蘇峰は福地桜痴に会うのを諦めて在京の名士を訪問し始めた。
蘇峰は漢学者岡松甕谷(かめたに)の塾・紹成書院の寄宿舎に入った。
375 明治13年1880年3月、愛国社の第四回大会が開催され、政府は集会条例で切り返した。蘇峰はその集会条例を作った渡辺洪基宅を訪問して議論をしかけたが、逆に「それはルソーのコントラ・ソーシャル(社会契約論、Contract Social, 1761)の受け売りではないか」と切り返された。
蘇峰は明治13年1880年11月、熊本に帰着し、郷里の新聞にマコレーのエッセイやクロムウェルの伝記を訳載した。蘇峰はコントラ・ソーシャルを経典としていた当地の民権党系の「相愛社」に接近した。
三 豪農民権家としての自立
376 明治13年1880年11月に蘇峰が故郷熊本の大江村に帰ったころ、徳富家の経済状態はあまりよくなかった。父は退官し、4人の子女には学費がかかり、中地主程度の小作料は祖父の隠宅費用に充てられ、母や姉の農園経営(桑の苗木づくりや養蚕)に依存した。蘇峰も家塾を開いた。父の一敬は娘婿の河田精一と絹織物手工業を始めたが、結局失敗した。
蘇峰の学問志向は哲学よりも実学であった。「史学、文章学、経済学、それ以外の読書は無用。詩作は性情を養うため時々なら可。新聞は時勢を知るために時々読む」とする。
377 蘇峰は中江兆民からロックの「ヒューマン・アンダースタンディング」を贈呈されたが、「哲学には興味はない」として元良勇次郎にそれを上げてしまった。また北村透谷から、「人間の問題を軽視する傾向がある」と批判された。蘇峰は人間論、主権論、自由論、国家論などの本質的な問題には関心がなかった。
そのころの熊本には三つの政社があった。第一は政府系の旧学校党で、これは熊本県令に支援された保守派の同心学舎を根城とし、県政を握り、安場保和などを通じて、岩倉・井上の中央政府とつながっていた。第二は共立学舎の実学党で、一敬ら横井豪農派の改良的地主ブルジョワ党。第三は急進的な相愛社で、旧士族インテリや民権派小豪農からなり、反政府的な戸長層。これは明治15年、自由党とつながった。第二の実学党と第三の相愛社とはその後連合した。
蘇峰は相愛社の遊説に参加した。相愛社の領袖松山守善の自伝によれば「当時遊説は珍しかった。遊説に、徳富猪一郎、月田道春と同道。下益城郡東砥用村字土喰で演説し、野田某方に一泊。演説内容は『奇矯過激』だった。徳富も私も今日のように皇室主義者ではなかった。」とする。おそらく地主・豪農商層を相手に、士族的・郷士的演説をしたのだろう。
また蘇峰は『東肥新報』の発行に参加し「革命的・啓蒙的」文章を発表した。
378 明治15年1882年、同心学舎派は紫溟会(しめいかい)を組織し、民権派と対立した。一方、実学党(立憲自由党)は相愛社と提携し、明治15年3月、大同団結し、九州改進党を結成した。そのため蘇峰は板垣退助と面会でき、明治15年秋の自由党本部の緊急集会に九州代表の一人として招かれたのだろう。
明治15年は蘇峰にとって重要な年だった。大江義塾を設立し376、二度の上京で自由党幹部と交際し、『自由新聞』やコブデン、ブライトとめぐり逢ったことである。大江義塾は明治15年3月に開講式を行い、盛時は生徒数100人に達した。
大江義塾での蘇峰の講義用教材は、マコレーのエッセイや英国史、ギゾーの文明史、同志社ラーネット教授の講義を元にした経済学、福沢諭吉の著作、プルターク英雄伝、トクビル『アメリカ民主制論』、吉田松陰「幽室文稿」、『史記』『戦国策』『二十二史箚(さつ)記』などである。また父の一敬は『論語』『孟子』を講じた。
379 蘇峰は大江義塾での講義用パンフレットを元にして「明治23年後の政治家の資格を論ず」明治17年1月、「自由、道徳及び儒教主義」明治17年12月、「第19世紀日本の青年及びその教育」明治18年6月などを出版し、さらにそれらに基づき、『将来之日本』明治19年10月としてまとめ、有名になると、大江義塾を閉塾して、上京した。
蘇峰は明治15年、二度上京した。その目的は板垣退助に会うことだった。板垣はその年の4月に刺されて却って有名になり、「自由党は旭日昇天の勢い」を持っていた。蘇峰は事大主義者だった。
蘇峰は(上京の途中)大阪で大阪新報記者で民権家の本山彦一を訪ね、京都では新島襄宅に泊まり、その後、新島襄や従兄の横井時雄、湯浅吉郎と徒歩で上京した。
蘇峰は上京後新島の添書を持って自由党本部の寧静館に板垣を尋ねるが断られて会えなかったが、遂に岩崎邸で板垣に会え、さらに箱根の芦の湯の旅館に避暑中の板垣と同宿し、護衛の壮士たちとともに板垣と話すことができた。
380 その会見は明治15年1882年8月2日夜、3日朝、3日夜、4日朝と、少なくとも4回行われた。板垣は、土佐派に牛耳られる自由党に不満をもつ九州改進党の動きが気になっていた。明治15年3月に九州改進党が結成されていた。
8月4日「(板垣は)九州と自由党と親和すべきことについて段々と陳述せり。」
8月2日夜、板垣は立国に関する蘇峰の質問に答えて、「干渉主義、強兵は止めにして、道理をもって立つ国にしたい。予は未だ共和論(天皇制廃止)を主張したこともなく、今後しようともしないが、英国政体においても、平民的分子が第一余計ならん」と、人民主権(天皇制廃止)でない平民主義だと答え、蘇峰もそれに共感し、「代議の政府をつくるのに、もっとも平民的分子あらざるべからず」と答えた。
381 8月3日朝、蘇峰のこれからの時勢についての質問に、板垣は「民権自由の議論は決して摩滅することはないだろう。しかし政府は全く平和主義を捨て、あくまで与論に抗敵しようとする。(明治)23年*までどんなに弥縫しても、国家は一大壊乱をきたす。これは自然の勢いである」と答えた。
*明治14年1881年、政府が明治23年の国会開設を約束(勅諭)した。
8月3日夜、蘇峰の質問に板垣は「反対党の帝政党は私党であり、必ず滅びる。福地源一郎(蘇峰が憧れた『東京日日新聞』の福地桜知)、丸山作楽(さらく)、水野寅次郎らは節操のない僻邪の小人である。真正の守旧党は改進党であり、その綱領は、老人・富者の好むところを求めて作為したものである。尊王党は生まれないだろう」と答えた。
382 蘇峰は板垣の主張に同調した。板垣の共和主義否定、平和的道義立国論、内事先決主義に基づく国民や国家の独立論、漸進的政体改革などである。従って蘇峰は自由党内の左派である大井健太郎や中江兆民、植木枝盛らと思想的に結びついていない。
板垣は蘇峰の憲法や施政の質問に「一局議院で普通選挙することを宜しきこととす」と答えた。
明治15年6月25日から自由党は「自由新聞」を発刊し始め、その社説を馬場辰猪や田口卯吉が書いた。
馬場辰猪に言わせれば、板垣は思想的には支離滅裂な人だったらしい。馬場は板垣を「奇妙な愛国主義と道義論の混合物」と評している。ところが板垣は維新の元勲で著名人だったので蘇峰の信望をつないでいられた。
馬場辰猪は演説会「共存同衆」や、啓蒙活動「国友会」で活動していた。
383 蘇峰は馬場から(自由貿易を唱える)サー・ロード・モルレーの『コブデン伝』とビーコンスフィールドの評伝を貰ったが、馬場の真意を十分に理解できなかった。
蘇峰が馬場を通して、自由貿易を唱えるマンチェスター派のコブデンとブライトに巡り合えたことは、蘇峰の『将来之日本』につながった。
馬場は蘇峰に他に『日本条約改正論』と『日本文法論』を与えた。
蘇峰は田口も訪問した。田口は『日本開化小史』明治10年、『自由貿易日本経済論』明治11年を刊行し、『東京経済雑誌』(明治12年創刊)の主筆で、福沢や政府の保護主義、政商本位の特権的な産業資本育成に反対していた。
蘇峰は田口の「時勢論」(明治15年7月14日以来13回連載、『自由新聞』13号以降は社説)に感服し、自作を田口を通して世に出してもらった。
384 一方福沢諭吉は官民調和や強兵富国論を称えていた。
板垣外遊問題で自由党内は紛糾した。馬場は板垣の誤りを指摘して『自由新聞』を追い出されたが、蘇峰は板垣に感奮している。蘇峰はその感奮を元にして「明治23年後の政治家の資質を論ず」(明治17年1月)を書き、それを田口卯吉に認められた。
四 主体性の確立――板垣及び自由党との決別
385 明治17年、蘇峰は上京した。当時自由党は党勢維持の党主流と、武装蹶起の急進グループとに分裂し、党主流は9月から10月にかけて解党を打ち出した。
明治17年5月の群馬事件、9月の茨城・福島の自由党員による爆裂弾加波山事件で自由党は動揺した。蘇峰は自由党有一館の壮士たちに失望し、急進派グループを否認した。蘇峰は明治17年10月19日、21日、22日の『自由新聞』の解党の社説を支持した。その社説はクロムウェル流の革命路線を否定し、コブデン・ブライト流の改革路線を良しとし、解党の露払いをした。自由党は10月29日に解党した。注36
これを基にして蘇峰は『将来之日本』を構想した。
386 それは板垣的な自由党であり、共和的分子の排除であった。
蘇峰は故郷に帰り、明治17年12月第二作の「自由、道徳及び儒教主義」を書き、自由貿易論や自由交際論を主張した。
第三作の「第19世紀日本の青年及びその教育」(明治18年6月)は第二作の夢物語から確信に変わった。それは「第19世紀の欧米社会の進歩の大潮流」を「時の大勢」とし、生産主義、平民主義、平和主義を唱え、『将来之日本』につながった。政府・反動を「復古主義」とし、福沢を「偏知主義」とし、横井小楠から西村茂樹までを「折衷主義」と断じ、自分の立場を「純乎たる泰西主義」として「知識世界第二革命」を論ずる。
この第三作は田口卯吉が主筆を勤める『東京経済雑誌』に掲載されて成功し、蘇峰は勇気を得た。蘇峰の『将来之日本』は、「横井小楠の世界平和思想」「スペンサーの進化説」「ミルの功利説」「コブデン、ブライト等のマンチェスター派の非干渉主義や自由放任主義」、新島襄、福沢諭吉、板垣退助、馬場辰猪、田口卯吉らの思想的感化など、「それ等のものによって、予一個の見識を打ち立てたもの」として現れた。
387 明治19年1886年の夏、蘇峰はこの草稿を最初に板垣に見せるべく、高知に向かった。板垣が蘇峰に同志にならないかと誘ったが、蘇峰は10箇条の条件をつけた。
「明治19年7月26日、板垣退助先生閣下に、高知客舎に於いて大江逸生」
第一 「私は板垣先生個人は信じるが、その他の自由党の同志は信じていない。政治上の行動を共にすることに関しても同様である。」(蘇峰の事大主義=無定見)
第三 「自由主義のためだとしても、上天と自己の良心に申し訳ないような拙鄙奸悪(加波山事件、名古屋事件、静岡事件などでの強盗行為や、秩父事件などの武装蜂起)には与したくない。」
蘇峰は豪農・地主層の利益と一致する地租軽減や民撰議院設立の要求から政府転覆への変化を喜ばない。
388 第四 「私は天下の一志士であり、九州の一志士として扱われたくない。私の一人の議論と看做して欲しい。」
第八 「私の『将来之日本』について欠けるところがあれば指摘して欲しい。これは私の将来の政治上の主義を語っている。それに共感する人は私の朋友であるが、賛同しない人は敵である。」
第九 「先生の主義が変節するなら、先生との関係を絶つつもりである。」
389 蘇峰は板垣に失望して上京した。田口卯吉は東京経済雑誌社から『将来之日本』の出版を約束してくれた。そして横浜毎日新聞社社長の島田三郎に面会し、多くの知名士への紹介状をもらい、自由党関係者とは異なる改進党関係者とも面会した。大隈重信、河野敏鎌(とがま)、矢野文雄らである。また外務省の陸奥宗光とも面会した。
蘇峰は郷里の大江義塾を解散して家財を整理し、明治19年12月1日、一家4人と同志十数人を伴って上京した。
392 注36 『自由新聞』の社説「志士の責任を論ず」の論調は、国会開設に関して、庶民の力に借りるのではなく、上からの聖旨の翼賛であった。「庶民は立憲政体の被治者としての資格に欠ける」ととらえ、聖旨に沿った志士の責任を論ずる。385
3 日本近代化の構想――典型的日本モダニズムの一例
感想 2025年8月6日(水)
色川大吉1925-2021さん あまり歯切れはよくないが、本書が出版されたころ1973、日本共産党の自主(外交)路線が決定されてから久しいころの状況を反映してか、戦中の日本共産党を、「うぶ」なソ連べったり政策だったとちょこっと批判しつつ、蘇峰の平民主義は、ブルジョア民主主義的と規定しつつ批判し、一方では北村透谷や幸徳秋水らが内包する共産主義=底辺民衆の立場の擁護を推奨するというスタンスをとっているように思われる。
本書418頁で色川大吉は「蘇峰が外来「理論」を日本の現実へ、日本の現実の十分な分析を経ずに「超越的に適用」したことは、昭和のマルクス主義やモダニズムの先蹤(せんしょう)であった」としているが、それは昭和のマルクス主義が、日本の現実を十分に分析せずに超越的に適用されたという意味である。しかし果たしてそう簡単に言えるものなのだろうか。翻っていまの日本共産党の対外政策は成熟していると言えるのだろうか。
色川大吉の歴史考察方法の特長は、(徳富蘇峰という)個人史を土台としているようだ。個人史に基づいて、家永三郎の、徳富蘇峰が福沢諭吉を受け継ぐという説を批判しているように思われる。福沢諭吉ではなくむしろ新島襄を受け継ぐとする。397
一 「精神の第二革命」
394 徳富蘇峰『新日本之青年』(明治20年3月刊行、8月再版)は、発行部数数万を超え、1歳下の二葉亭四迷を魅了した。蘇峰は二葉亭四迷を、翌年の明治21年に『国民之友』の寄稿家に加えた。
もともとこの『新日本之青年』のパンフレットは、明治18年1885年に5月起稿され、6月に完成していた。当初は自費出版だったが、後に大江逸の筆名で『東京経済雑誌』に転載され、明治20年3月に「新日本之青年」という一章を加えて『新日本之青年』と改題して公刊された。これは姉妹編『将来之日本』(明治19年10月)に先行するものである。
395 本書は総論と第一回から第八回までで構成されている。
総論 「新日本之青年」
第一回 社会の後継者としての青年
第二、三回 維新前後の学問教育 封建教学としての儒学の没落と新学問の台頭
第四回 現時の教育主義として、復古主義、偏知主義、折衷主義。復古主義を反動主義として批判。
第五回 折衷主義の批判と泰西主義の推奨。
第六回 偏知主義の批判とその克服。
第七回 六項目の実践課題。知識世界の第二革命を提唱。
第八回 第十九世紀の文明世界の大勢に基づく革命の可能性と日本の青年の心構え
396 蘇峰は維新前後に生まれて明治期に青年になった自分たちの世代を「明治の青年」とし、福沢諭吉や板垣退助など天保生まれの世代を「天保の老人」として対立させる。第一回は「青年こそ進歩の朋友であり、青年だけが先登者となる」とし、「総論」で明治の青年を擁護している。
「天保の老人」が旧弊な武士意識・貴族意識に捉われ、経済観念の発達した「明治の青年」を功利的・打算的と非難するとき、蘇峰はそれを「我が青年が平民社会に闖入(ちんにゅう)してきた徴候なり」とし、「自営自活の社会」に生きる新しい世代を擁護し、士族意識を時代遅れとする。そしてこの傾向は数年後の「中等民族論」や「田舎紳士論」に変遷する。
しかしまた一部青年のなかには軽薄な分子もあり、町人的投機主義や卑屈な立身出世主義などを「叩頭学」として批判し、独立自尊を尊ぶべきだとする。
「平民社会の人民が快活な理由は、終生人に対して膝を屈せず、人に憐れみを乞わなかったからだ。これを「自由の天民」という。「自由の天民」は自己を恃むだけだ。」(総論)
確かに家永三郎が指摘するように、蘇峰は福沢の継承者であるが、蘇峰には福沢とは異なる点もある。
蘇峰曰く「もし青年が政治家を望むなら、正を踏んで恐れないブライトを見よ。改革家となりたいなら、人より先に憂うるコブデンを見よ。事業を学ばず、心を学べ。物質の現象ではなく精神の現象を見よ。泰西外形の文明は金で買えるが、その内部の文明は涙で買うべきだ。それが独立の人民だ。泰西表面の文明である物質的知識は福沢君によってもたらされ、泰西裏面の精神的道徳は、新島君によってもたらされた。」(『国民之友』)
蘇峰が物質よりも精神を重視する源泉は、福沢よりもむしろ新島のほうだった。
また蘇峰は生産主義を唱え、産業資本主義への共感がある。
維新後復古主義、折衷主義、偏知主義が強まり、それが社会の進歩を妨げ、青年を混乱に陥れている。
第一に蘇峰は復古主義を批判する。
398 「今や旧世界の反動はその極点に達し、彼らは論孟(論語・孟子)、靖献遺言*(せいけんいげん)、古事記、令義解(りょうのぎげ)*等を、チンタル、ダーウィン、マコレー、スペンサーらの著書の代わりとし、封建時代の旧古に恢復しようとしている。この現象は人口の三分の一を占める老人や封建的頑民によって引き起こされ、改進自由に抗敵してそれを迫害する。我々はこれを打倒しなければならない。」
*靖献遺言 尊王思想。儒学者浅見炯斎(あさみけいさい)が1684-87に書き、死後の1748年に刊行された。中国の忠臣・義士の行状を扱う。
*令義解 833年、淳和天皇の勅により、右大臣清原夏野らが著した法解釈書。
第二に蘇峰は偏知主義を批判する。その代表者は福沢諭吉である。蘇峰は福沢が儒教主義を排撃し、妄信を撃破する点は評価するが、「福沢は青年を卑屈な生活主義、物質主義、大勢追随主義に陥らせ、また批判的精神だけを強め、青年を懐疑的世界に陥れた。そのため青年は道を失い、懐疑自棄するものが多く現れた。」
第三に蘇峰は折衷主義を批判する。これは復古主義と偏知主義との中間をとり、知育は泰西の新主義に拠り、道徳は東洋固有の旧主義に頼る。その支持者は老人のうちでもやや開明した人々や青年であり、それは現在の支配者の過半を占め、文部省の主な役人もこの中に含まれるだろう。(第五回『折衷主義を駁ス』)
蘇峰はこの「和魂洋才」が明治政府の文教政策であることを、前文部少輔九鬼隆一の各県学校長宛ての示諭を引いて示し、その教学の階級的性格を非難する。
「東洋の学問は秩序的学問であり、その大主眼は、人々を治者・被治者、主人・奴隷に分け、その階級間に「平均」を得て、秩序を保とうとする」ことである。「東洋の学問は専制命令的、秩序的、守旧的、専制的である。一方西洋の学は自由尋問的で、活動的・進歩的であり、東洋の学と基本質において両立しない。」
蘇峰は横井(小楠)流の折衷主義を用いる政府の文教政策の最終の目的は、従順な臣民をつくることであるとし、「泰西的学問世界となすに尽きる」とする。
399 それが蘇峰の「精神の第二革命」*である。「我が社会は生活的、政治的、学問的等において、泰西の新主義を輸入しないものはなく、泰西的社会になろうとしているのに、泰西的道義法だけを輸入しないのはなぜか。小学、近思録*の道徳に代わる自助論や品行論を採用せよ。」蘇峰はここで横井小楠を越えた。
*蘇峰にとって明治維新は政治上・社会上の第一革命であった。
*小学 初学者課程の書。劉子澄が朱子の指導を受けて編集。1187年成立。作法、修身道徳、忠臣孝子の事績を集めた。
*近思録 宋の朱子・呂祖謙撰。1176年刊。国家形成の理論と方法を示す。宋学。
400 蘇峰は「我新政府は泰西的政府であるが、その泰西化は不徹底で、精神面・文化面で第二革命を必要とする」とする。
蘇峰は透谷や二葉亭四迷の煩悶や思想的混乱・懐疑を憂慮した。
「今日自由を愛するというものは必ずしも自由を愛していない。政府関係者も真に政府の忠臣ではない。唯物説、進化論、宗教などは皆蝉躁蛙鳴(ぜんそうあめい)の好題目で、民権も官権も二つとも可とし、「人類の祖先は猿だ」とするものと、「上帝が創造したものだ」とする説が両立する。真理の存在と不存在とが両立し、安心できる論理が存在せず、不信仰と不安があるだけである。かつては習慣や先例が人の思想を束縛していたが、今は何もない。(第三回)」
この懐疑は冷笑に変わる。蘇峰はこれが折衷主義や偏知主義の害毒であるとする。大江義塾の塾生・宮崎虎蔵(滔天、宮崎八郎の弟)は蘇峰のことを「名利の徒、詐欺漢」とする。懐疑分子・デカダン分子が現れた。二葉亭四迷も蘇峰を見捨てた。ところが蘇峰は道理の世界即ち自由の世界の到来を信じていた。
二 純乎たる泰西主義
401 蘇峰は「偏知主義者の教育の目的は、生活を得る道を教えるもの」として福沢諭吉の実学主義を批判し、「人間には人としての職分を尽くして幸福を得る大目的がある。そのためには官能能力を発達する必要がある。それが教育の目的である。スペンサーが「自分を完全にするように努力することが教育の本務である」と言うように、人性を完全善美にする教育を日本人に普及すべきである。」と言う。
これは明治4年に中村正直(まさなお)が直訳したミルの『自由之理』よりも新鮮である。
402 ただし、西欧型市民の根本原理――自由の権利、自我の自覚、個性の開化と創造を至高の価値とする個人主義原理――は、蘇峰の思想の根拠とはならなかった。蘇峰は「職分を尽くして」人性を完全善美にするとか、人性を完全善美にすることを「教育上の目的」とし、「上からの責任感の喚起や憂国慨世の熱情」に基づくことを求めた。
蘇峰は偏知主義を「徳育を等閑視する」と批判し、「人性を完全にするには知徳一途の教育によらなければならない。それは徳も人間自然の感情だからだ」とする。彼は偏知主義を生活的、偏知的、懐疑的偏向だと批判し、自らは人性主義(ヒューマニズム)、知徳一致、真理捜索的だとした。
このパンフレットは明治18年「4月16日大江義塾第三学期開業の席上に於いて演説したる者」をもとにした論文である。宮崎滔天『三十三年の夢』明治35年刊によれば、大江義塾では十二三の鼻垂れ坊主まで演壇の弁士となったという。
403 精神の第二革命実現のための教育上の六提案(蘇峰)
第一 スペンサーも言うように、原因・結果の応報を熟知させる
第二 自尊自愛の気象を発揮させる
第三 自動の教育に従わせ、自治の精神を発揮し、自家をして自家の裁判官たる資格を具備させる
第四 己を推して此れを人に及ぼす忠恕(思いやり)の念を育てる
第五 泰西の自由主義の社会に流行する道徳法を輸入する
第六 唯知徳一途の教育法に準拠し、自由の主義を以て純粋自然なる性格を開発する私立学校を建設し、真理を求め、真理に従い、真理を行わせる人物を陶冶する。
蘇峰はこの六提案を提出した後に、明治18年当時の状況を語り、激しい民権的弁論が抑圧されたあとでの教育の重要性を提唱している。
「4、5年来演説で飛電の眼光を閃(ひらめか)かして千百の聴衆を鼓舞・激昂させた弁士の声は今や聞こえない。勢い勇んで記事を書いた新聞記者も、今では時々不平を語るだけになった。政党熱心家も、政党の首領も、政党も、暗黒の幕中に退隠した今日、威勢よく社会の注意を惹くものはただ教育だけだ。政党の時代は去り、教育の時代が来た。その理由は分からないが。」(第七回)
「第十九世紀日本の青年及び其の教育」が書かれた明治18年は、自由民権の中核だった豪農層が脱落し、自由党は解党し、改進党もそれに続いた。そして群馬、加波山、飯田、秩父、名古屋では相次いで敗北した。明治18年、加波山、飯田、高田事件の被告の公判と処刑が行われていた。
405 この時蘇峰は在野士族や小ブルジョワの反政府運動を拒否して精神革命に向かった。
「第十九世紀日本の青年及び其の教育」の最終章で蘇峰は語る。「今の青年の前途には困難が横たわっている。封建的な老人層が青年の行く手に立ちふさがっている。また生産水準の低さが文化・社会生活の低さをもたらして学問教育の発達を妨げている。また経済界の今日の不景気は、農を苦しめ、工商を耗(へら)し、資本家・労働者を問わず苦しめている。また似非学者が思想界を混乱させ、青年を懐疑の中に迷わせている。」
「しかし青年よ絶望するな。世界の空は文明の勝利に輝いている。坤輿の大時勢よりしては必勝の位置に立っている。」(この語り口はその後の進歩主義者に共通する)
「第十九世紀は始めて人類に物質世界の皇帝としての権理と威勢とを博取させた。そして一部の階級が主人となり、一部の階級は奴隷となり、その境域には敢えて越えられない鉄線を画す千古不朽の秩序を乱すことができない専制を転覆して応分の快楽幸福を享有する自由世界とした。第19世紀の文明は人類が造化に勝ち、自由が専制に勝ち、真理が習慣に勝った。」
406 「今や我が邦は第19世紀文明の大気運の中心に囲まれ、明治維新もそれによって勝利した。我国の時勢を一変し、以て知識世界第二革命を成就しよう。青年は進歩の朋友であり、改革家である。第19世紀末と第20世紀初頭は、進展する時代である。」
これは革命の時代から資本主義の実現へと向かう楽天的歴史必然論である。
三 『将来之日本』の分析
『将来之日本』は明治19年の夏、蘇峰が24才の時に「当時有する総ての思想、一切の知識、凡有(あらゆ)る学問を傾倒し尽くした」力作であった。
407 そして蘇峰の『国民之友』(民友社)は、その後の明治20年代を率いた。
総論「一国の生活」 「一国の生活は武備機関と生産機関の二つの要素で保たれている。武備機関が発達すると生産機関が圧迫され、政権は少数者に帰し、貴族的・専制的・軍国主義的となり、多数の人民は抑圧される。一方、生産機関が発達すれば、武備機関が縮小され、多数人民は力を得て、生産的・平民的な社会となる。」
「我が国はこの二つの道のうち主体的にはどちらを選んだらよいか。次に客観的には我が国はどの道に進む条件があるか。それを解く方法として蘇峰は次の課題を設定する。
第一 我が国を取り巻く世界の状勢を究明する。
第二 必然的な世界史的潮流である社会自然の大勢を明らかにする。
第三 世界における我が国の特別な位置・境遇を明らかにする。
第四 我国内部の過去から現在に及ぶ情勢を究明する。
408 第一、「外部社会四囲の境遇」 「今は表面的には絶望の時代である。産業革命を経過したのに、ベンサムが「最大無類の禍害的」とした戦争が後を絶たない。この半世紀に11の戦争が起り、人命と貨財を殺した。軍事費は各国とも増大の一途であり、腕力主義は頂上に達した。またビスマルクの「国家専制法」は議会を骨抜きにし、ロシアのツアーリズムとともに、残忍な専制を強めている。そして欧州人の牙は我が国にも及んで対馬に迫り、インドやアフガニスタンでは英露が対立し、特にインド、ビルマ、ヴェトナムと、列強のアジア分割は進み、弱肉強食そのものである。中国や朝鮮の前途は如何。
蘇峰はこの東洋の危機感を大井健太郎や志賀重昂*のように行動には走らず、「裏面より論ずれば」として、国際情勢を平和世界と認めて楽観していた。
*志賀重昂(しげたか)1863-1927地理学者、評論家、教育者、衆院議員。
「コブデン曰く「戦争はおのずから廃滅する性質をその中に含蓄する」と。生産機関が発達すれば必然的に武備機関は縮小される。第19世紀は生産主義と武備主義との一大戦場となっているが、欧州人民は幸いなことに、経済世界の新主義を説法する救世主アダム・スミスに遭遇した。アダム・スミスは「貿易主義と戦争主義とは相いれず、貿易主義は自他とも利する」という真理を唱えた。この破天荒の真理を説いた福音書は、スミスの『国富論』1776である。」
「産業革命の結果、第19世紀の欧州は生産機関のための一大共和国になった。生産力は政治世界の割拠を打ち破り、武備機関を顛覆し始めた。英国では武力を以て君臨していた国王すら、製造人、職工、商業家、貿易者、農夫等に向かって膝を屈し、その鼻息を窺わなければならなくなった。」
「アダム・スミスが言うように、高い生産力を持たない国は高額な武器を作れないので戦争に勝てない。一方、富は兵においては維持できない。現象的には欧州は腕力の世界のように見えるが、裏面では富の世界が存在する。富は第19世紀を支配する一大勢力である。」
平和主義 「生産の増大は貿易の繫栄をもたらす。自由貿易は利益を相互交換するから、必然的に国際間に友情と平和をもたらす。アダム・スミスは「貿易の法則は、人情の法則であり、宗教の法則であり、愛情の法則である」とし、真正の平和主義を説いた人である。真の平和主義は自愛主義と矛盾しない。」
410 蘇峰が傾倒したコブデンやブライトは、アダム・スミスの正統として、一世紀後の今日、イギリスで平和主義・平民主義の勝利を収めている、と蘇峰は言うが、それは誤認であり、幻想であった。
蘇峰はリチャード・コブデンを引用する。「余は、自由貿易主義は道義の世界に必然的に影響を与え、人類を一か所に吸引し、種族、宗教、国語等の相反・敵対する関係から抜け出させ、無極の平和の靭帯で一致させるだろうと信じる。余はこう推測し、夢想する。千年後の将来におけるこの(自由貿易)主義の全勝の結果はどうなるだろうかと。政府は変わるだろう。帝国が版図を張り、威力を広げ、雄壮な陸軍を設け、偉大な海軍を備え、即ち人の生命を惨殺するために、勤労の報酬である財産を滅ぼすために用いる器械を備えようとする願望はなくなるだろうと信じる。人類が一家族となり、互いにその同胞とともに自由にその勤労の結果を貿易することができるようになる日には、このような凶器は無用となり、それを用いる必要はなくなるだろうと信じる。」
蘇峰はこれに加えて言う。「私はこのコブデンの言葉が夢想ではないことを希望し、かつ信じている。欧州の将来において、帝王や宰相を狼狽させる一大革命が起こるだろう。その革命は、商業主義が腕力主義に抵抗してそれに勝ち、最後の目的を達する一大革命である。我が四隣の境遇とはこのようなものである。」
411 第二、「社会自然の大勢如何」 「平民主義は、今日世界の一大勢力になっており、言論の自由、思想の自由、政治の自由、信仰の自由などは皆、富が進歩した結果である。アメリカの独立革命、フランスの大革命、イギリスの憲法革命、穀物法撤廃運動(自由貿易)などは、貴族社会に対する平民の勝利であり、生産で得たものを政治に拡大する運動であった。平民主義の運動は地球を覆い、生産の必要は人びとを駆り、社会を駆り、如何なる国体をも平民的世界にしようとする。これは第19世紀の大勢である。この勢いに従うものは栄え、逆らうものは滅びるだろう。」
第三 「我が邦特別の境遇より論ず」 一、気候。二、地味(物産)。三、形勢(地理)。四、位置。
「日本は島国であることとその位置が商業に絶好であり、東洋貿易の中心市場としての条件を備えている。自由貿易主義に則り、耕地や山腹・水涯を皆桑畑や茶畑にし、養蚕・生糸産業を起せば、繁栄するだろう。干渉保護をやめて関税を減じ、内地雑居を許し、外国の人民、資本、貨物を自由に輸入すれば、我国の百工が興隆するだろう。」
412 蘇峰は当時の日本が関税自主権を奪われていたことや遅れた農業国であったことについては考えていない。その点福沢諭吉の方が現実をとらえていた。福沢は明治初年には自由貿易を唱えていたが、やがて保護主義に転じ、明治26年、日本の紡績業の発展後には、再び自由貿易を唱えた。
第四 「我国現今の形勢より論ず」 蘇峰は過去の日本と現今の日本とを比較し、「過去の日本」では封建武士階級による人民に対する支配を痛撃し、「大野蛮大圧制の社会」とし、それは「武備機関が膨張した自然の結果である。封建社会では軍隊組織は強迫の組織であり、人民には職業選択の自由がなく、分業の自由もなく、生産物を一方的に収奪された」とする。
「現今の日本」(第十四回、十五回) 「明治維新は第一革命であり、資本主義への発展の道を開き、武備社会を生産社会にし、貴族社会を平民社会にする基礎を築いた。その主たる原因は外圧である」とする。そしてその主導力は福沢同様、「武士の革命」とする。
413 「武士が武士社会を転覆し、政府と社会を改革した原因は、維新の元勲が、武士の制約を越えて公明正大の政略をとり、謹厳端正な米国の創業者をまねたからである。つまりそれは世界の大勢である。世界(宇内)の生産的環境と平民主義の大勢は、幕府を駆り、横井小楠翁を駆り、薩長を駆って維新革命を遂行させた。その結果生じた新日本こそ、吾人の現今の日本である。」
ここで蘇峰は、幕末維新における、豪農・豪商・農民・都市貧民による御一新や世直しを求めたエネルギーを無視している。
四 蘇峰の現状分析と預言
「現今の日本」(2)で蘇峰は、政商=紳商が封建時代の御用商人と性質が同じだと批判する。その点で福沢の「御用商人」攻撃(明治20年)や、三宅雪嶺の『偽悪醜日本人』(明治24年)批判とも共通する。
権力の束縛から独立した在野の産業資本が、勢力微弱なために政府の保護干渉に頼る傾向を、福沢は絶望して富豪本位の資本主義に向かうが、蘇峰はそれを痛惜して中産階級に期待する。
414 明治政府の国権主義に対する態度でも蘇峰は福沢と異なる。「国権主義論者は加藤弘之ら御用学者を含めて、「内に一尺の民権を伸ばそうとするよりも、外に一寸の国権を広げるほうがいい」というが、リーバルもウルジーもミルもスペンサーも言うように、国家の目的は一己人民を保護することにある。国権を拡張して外国を侵略しても、一己人民の権利を蹂躙すれば、国家の目的は何処にもない。」
福沢は政府に批判的だったが支持もしたが、蘇峰は政府に反対した。
「富国を強兵と同時に進行せよというもっともらしいが詭弁である。国が富めば、兵は強くなるが、兵が強ければ国は富むか。今日の世界は、富は兵を支配するが、兵は富を支配しない。武備と生産とは両立しない。」
福沢は『脱亜論』(明治18年)以来公然とアジア大陸への侵略論へ移行した。
大久保利兼は「初期蘇峰の平民主義は『将来之日本』によってわかるように、日本のブルジョワ的発展を反映するブルジョワ民主主義」とするが、明治19年頃の日本で産業資本主義が発展していたかどうかは疑わしい。実際蘇峰は日本の産業資本の未成熟を意識していた。ところが偶然にも本書の刊行直後に日本で産業資本が勃興した。明治23年の第一次恐慌にかけて企業熱が起った。そしてそれによって蘇峰の本書は歓迎された。
415 蘇峰の自由民権派に対する態度 「吾人が朋友・味方と思う頼もしい自由の弁護者、民権の率先者、天下の志士を任じて慷慨悲歌を発言する正義の諸君子の自由主義は、封建的自由主義である。」
これは明治17年の甲申事変の際の土佐の立志社などの動揺や、翌年の大井健太郎らの大阪事件を指しているようだ。
「かの諸君子は平生は諤々として単純な自由民権主義を論弁するが、隣国に事あれば、「速やかに長白山頭の雲を踏破して四百余州を蹂躙せよ」という。しかし一旦外国と戦端を開いたら、政府の権力は愈々増大する。政府の権力が増大すれば、一己人民の権力は愈々減少する。武備機関が膨張すれば、生産機関は収縮する。常備軍の威勢が良い時は、人民の権理は地に落ちる。諸君子は人民の利害を軽視し、ただ開戦論を主張してそれを実行しようとし、義捐金を集め、従軍を嘆願し、猛激粗暴な檄文を発出し、詭激無謀な策動を行って怪しまず、却ってそれを志士の本色とする。また傍観者はこれを排斥せず喝采鼓舞する。何だこれは。」
蘇峰は人民の権理利害を重視する。
416 しかしここで蘇峰は西洋の論理を借りただけである。また蘇峰は単純に国権主義を封建社会の旧主義の変相とした。
『将来之日本』(第十六回)まとめ
417 蘇峰はジョン・ブライトの説をそのまま自説として主張する。「吾人は我が皇帝が尊栄と安寧とを保ち給わんことを欲し、我国の隆盛ならんことを欲し、我が政府の鞏保ならんことを欲する。その至情は天下の人士の後にあらざることを信ず。」(ブライト「大英帝国において、今まで誰も私ほど帝冠や王政を不敬の語で語りたくなかった者はいないだろう。しかし人民多数の愉快、満足、幸福が公平に分配されなければ、かの金冕(ベン、かんむり)、鉄冠、天蓋、勲章も、…雄巨なる帝国も、私の眼中には一毫毛にも過ぎない。」)
蘇峰「しかし国民は茅屋(ぼうおく)の中に住み、もしこの国民が安寧と自由と幸福が得られないときは、国家は一日も存在し得ないと信じる。」(ブライト「国民はどんな国でも茅屋の中に住んでいる。ただ私が意を注ぎ、いつも忘れられないことは、私と共に生活する人民である。」)
蘇峰「そして茅屋に住む人民にこの恩沢に浴させることは、日本の社会を生産的社会にし、その必然の結果として平民社会にするだろうと信じる。」
蘇峰のように、外来思想を日本の現実へ「超越的」に適用する明治の近代化論は、昭和のマルクス主義やモダニズムが外来思想を「超越的」に適用する先蹤であったが、ともかく蘇峰の近代化論は明治20年代の初期に広く受け入れられ、実際『国民之友』運動として一大思想力として機能した。
五 近代化論の論理構造
第一 蘇峰の「生産主義」
感想 著者は蘇峰の生産主義理論を批判するのだが、よく分からない。
資本主義発展の初期段階であるブライトの「マンチェスター主義」は、明治10年代の後進資本主義国日本には適用されないとか、蘇峰が『コブデン伝』に書かれている土地問題、つまり土地収奪=不在地主問題(アイルランド問題)を扱っていないとか指摘するのだが、よく分からない。
420 また著者は蘇峰が後年、ブルジョア民主主義思想も放棄するのも、蘇峰の生産主義理論が、日本の現実を無視した机上の空論だったからとする。
そしてそれでも蘇峰が世に受け入れられたのは、当時まだ帝国主義戦争が始まっていなかったことや、国会で「民力休養」の主張があったからだとする。つまりマンチェスター主義が適用される余地があったということか。
第二 蘇峰の「平和主義」
蘇峰は底辺の民衆を見ていない。蘇峰が当時民衆を敵視していない点を過大評価してその皇室擁護・妥協を見逃してはならない。
蘇峰は「平民」を、貴族=武士に対する農工商、「武備主義」に対する「生産主義」の主体、又は透谷の言うところの「個人」としてとらえている。
蘇峰の「平民」は、透谷の「平民」と違うし、幸徳秋水や片山潜らの階級性もない。ところが家永三郎はそのことに気づいていない。
422 蘇峰は国家主義者に転向したあとの明治後期から大正期にかけて「平民主義を内に行い、帝国主義を外に施す」とも言っている。つまりその「平民主義」は帝国主義と共存している。明治30年代以降の蘇峰は、明治維新、自由民権、平民主義、帝国主義を同一のものと(一直線に)捉えている。
蘇峰は自由民権に敗北した透谷などを「冷笑者流の輩出」とした。
一方、透谷は「政府の欧化主義が人民の自由を踏みにじった」と感じた。「明治の文明、実に其の表面には量る可らざるの進歩を示せり。然れども果たして多数の人民之を楽しむか。」(「慈善事業の進歩を望む」明治24年25年ころ)
蘇峰は後に透谷らのこういう考え方を「不健全」「陰鬱」と評した。
423 蘇峰の皇室観 「平和主義を採用し、商業国・平民国とすることは、国家の生活を保ち、皇室の尊栄も、国家の威勢も、政府の鞏固も、以て遥々たる将来に維持するの最も善き手段にして、国家将来の大経綸なる者は、ただこの一手段を実践するにあるを信ずるなり。」
蘇峰はここで「国家や政府が人民に幸福を与えてくれるもの」と考えているが、それは解党直前の一部自由党幹部や『自由新聞』論説が主張していた近代化のコースであった。
第三 蘇峰の「平和主義」
蘇峰の平和主義は横井小楠の世界平和思想からというよりも、アダム・スミスの国富論に淵源をもつ。
425 その平和主義は、自由貿易下における資本主義の永遠の繁栄と平和共存であり、国家間の友情を深め、人類全体に平和と繁栄をもたらすという考えに由来していた。
それはキリスト教的人道主義的な平和ではない。自由民権や国権確立の要求に基づきアジアの連帯と平和をもたらすという思想でもなかった。
それは抽象論だったので転向した。それは戦争有害論を説くミルらの功利主義に基づき、利己主義・自愛主義と一致しない平和主義は存在しないと説いた。しかしその平和主義が資本家的利益や生産主義と矛盾するようになると破綻した。
蘇峰の平和主義には、ブルジョワ民族主義や帝国主義を否定しない膨張主義が潜伏していた。1890年代後半に資本の平和共存的発展の幻想が崩れると、彼の平和主義は動揺し、国家的正義と利益のための、武力による膨張主義・帝国市議に変貌する。否それは蘇峰の変節ではなく、彼の思想の内部にもともと含まれていたのである。蘇峰は優勝劣敗の歴史観をもつ社会ダーウィニストであった。
426 「吾人は実に断言す。文明なる者は実に武力の胎内に孕産(ようさん)したものである。」
「いかにして偉大な帝国が生じたのか。いかにして器械技術が発明されたのか。それは皆腕力の結果である。」
「野蛮の民を文明の民に進めようとするときには、抑圧者が必要だ。」(『将来之日本』第八回)
歴史は腕力、武力、実力によって進歩してきた。闘争こそ文明の母である。蘇峰においては古い江戸時代の思想と外来の思想とが併存する。
また蘇峰は説明できない因果関係に対して「造物主の深慮遠謀」という俗物解釈を用いることがある。
コブデン・ブライトらの平和主義がクエーカー教徒の宗教的信念に基づくものだということに蘇峰は気づかない。
明治20年代の『国民之友』の時代になると蘇峰の矛盾が露呈する。第6章参照。
4 三つの未来モデル――中江兆民の方法
感想 2025年8月12日(火) 中江兆民1847-1901 丸山眞男が解説する「三酔人経綸問答」(明治20年1887年5月刊)を読んだことがあったが、それよりも色川のこの解説が分かりやすかった。兆民の政治的スタンスは「三酔人経綸問答」では一見平和協調主義者と軍事膨張主義者との折衷派のように思われるが、実は前者の理想の人だった。
兆民は明治憲法が発布されたときその内容に失望した。そこで兆民は国会議員として憲法を改正すべく、議会の弾劾権、出版・集会の自由権の拡大、行政裁判所の設置による官吏の横暴の掣肘などを含む憲法改革案を議会に提出したが、それは議会で一顧もされず、兆民は失望し、議員を辞めた。その後兆民は文筆や思想から去り、実業に手を出して失敗したこともあったらしいが、晩年癌になり、余命1年半と医者に宣告されてから『一年有半』1901を病床の中で書き上げ、その出版を幸徳秋水に託したという。
兆民の「世界政府、武力放棄」の考えは、戦後の宰相幣原喜重郎の憲法9条案に引き継がれたのではないかと思われる。
堺利彦、内村鑑三、幸徳秋水は兆民の門下生。
一 洋学博士と東洋豪傑君の構想
430 「三酔人経綸問答」が出版されたのは明治20年5月、そのころは憲法発布1889.2.11を間近に控え、条約改正と三大事件建白運動*で沸き立ち、世界が帝国主義時代*に突入するころだった。
*三大事件建白運動 片岡健吉が1887年10月に元老院に提出した建白書がきっかけになって起こった政治運動=自由民権運動。1、言論の自由の確立、2、地租軽減による民心の安定、3、外交の回復(対等な立場による条約改正の実現)を柱とした「三大事件建白」書を片岡が提出した。
*帝国主義時代 1870年から1914年までの間に、アジア、アフリカ、オセアニア(太平洋)では独立国がほとんどなくなり、清やオスマントルコ帝国は不平等条約により半植民地可していた。帝国主義の時代の終わりをレーニンは1914年とする。
431 洋学紳士君曰く「我国を民主国家・文化的道義国家にすべきである。我国を民主・平等・道徳・学術の実験室にしたい。君相専壇の制(君主制)は、自ら誤りを覚らず、立憲の制はその過ちを知りながら半分を改めたに過ぎない。ところが民主の制はどうか。君主も人なり、我も人なり。福利は自己の自由の権に頼りて得るものであり、上から与えられるものではない。しかるに立憲制下では君主に頼って自由を得る制度である。これは理義に反している。」
「我が国は軍備を全廃し、戦争を放棄し、永久中立の平和国家にならなければならない。兵を戢(おさ)め、和を敦(あつ)くし、地球上の万国を合して一家族とし、一大連邦を組成する。これは民主の制の下ではじめて可能である。これは人類歴史進化の必然の法則である。進化の理であり、弱肉強食の現実に耐えて生きる弱小国のとるべき道である。
日本のように領土が狭小で人口が少ない小国では、理義によって自らを守らなければ他にどんな頼むべきものがあるか。我が百の武力をつくる間に、彼らは千の武力を用意するだろう。凶暴の国があり、我国を侵略して来たとき、我らは無抵抗で彼らを抑え、彼らの無礼無義を責め、速やかに去れと叱咤してひるまない。だが、なお侵してくるなら、我は弾を受けて死ぬだけだ。別に優れた方法はない。」
この軍備全廃・戦争放棄後の「万国共議政府・無上憲法」による平和保障構想には前史があった。明治政府の強兵富国論に対抗して、1881年頃、板垣退助らは「道義立国論」を唱え、明治16年1883年12月、絵入自由新聞社から、板垣の発論、植木の敷衍・筆記による『通俗無上政法論』として出版された。その編集人和田稲積(いづみ)は「例言」の中で本書出版の意義について「今日世上国権を説くも、未だ民権の原理を説かず、一身の自由を唱ふるも一国の自由独立を思わず、一国の独立を図るも、世界の平和を図るを知らざるなり」と国権、民権、世界平和の三者を統一的に把握する上での参考に供したい」とした。
また同書中で植木枝盛は「「宇内無上憲法」を実現不可能な夢だと言う人がいるが、彼らは目先だけを見ていて、天地間の万物が皆悉く常に変遷するものであり、やがてはそれが実現する時が必ずくるということを覚らない」と反駁した。
「宇内無上憲法」は、今日では構想されていない「国連憲法=人類憲法」のようなものであろう。当時は私擬憲法草案を自由に起草できる自由な時代だった。
433 これに対する豪傑君の考えは、実利主義的で覇道に執着する。「紳士君の意見は空論にすぎない。英仏独露が百余万の兵と百余隻の堅艦をもってアジアに牙を向けているとき、区々として(ぐずぐずと)自由平等の義を唱え、四海兄弟の情を述べるがごときは愚の至り、愚でなければ狂である。現実に日本の進むべき道は、軍備拡張による侵伐の方向しかない。今の機会を逃さず、アジアのある大国を侵伐して、その三分の一を割(さ)きとり、我国を大国にすることだ。――今ならばまだ余地がある。こうする以外に日本が欧米帝国主義に対抗してゆく道はないではないか。」
しかし冷静に彼我の戦力を比べれば、この当時の我国の国力からは、それ(対英米戦争勝利)を予測できる状況はなかった。中江兆民はその頭注で「一部の実地経済策、異日必ずここより生ずべし」と予言していた。
この外征の策による大陸侵略コースは、当時の日本の最右翼の構想であった。このコースはつとに明治政府が、欧米との条約改正の手前遠慮していたとはいえ、志向していた道であり、特に明治17年1884年の甲申事変をきっかけに、福沢の脱亜論などにも鼓舞され、対清開戦論として世間に顕在化してきた。そして大井健太郎ら自由党の一派もその危険な役割を担った。
434 南海先生は「共に現在に益す可からず。皆おそらくは架空の言たるを免れず」と両論を批判するが、特に豪傑君の論は「昔の英雄が千年に一度功名を博し得たであろうが、今日ではとうてい実行できない幻戯であり、外交上の過慮に基づく一種の神経病である。いかに今日の世界が弱肉強食の時代のように見えようとも、欧米諸国の間には一定の国際法があり、またそれぞれの国内には世論の掣肘もあるから、そうやたらに無法な侵略を行えるものではない。豪傑君の論は西欧の圧迫を過大に憂慮した神経病的な排外主義であり、アジアの大国への侵伐策は、その焦燥感の裏返しにすぎない。」
「むしろアジアの大国に対しては、相共に結び、兄弟国となり、緩急救い合うのがよい。中国は産業上の一大市場として我が国にとっては尽きることのない利源になりうる国である。いたずらに争いを構えることは、僕、最も其の非計を見るなり。」
さらに南海先生は「恋旧元素と好新元素」の二要因を析出し、「革命的恋旧元素」(自由党系壮士のそれ)を批判した。「革命的恋旧元素」とは、革命的な言辞を弄しながら、内実は保守主義であるという意味である。
二 南海先生の座
435 南海先生は「日本の民衆の現状を見よ」という。歴史的制約がある。民衆の要請がある。
南海先生は英仏流の下から闘いとった「恢復的民権」に対して、日本では「恩賜的民権」を唱え、「恩賜的民権下」で民心を革新してから「恢復的民権」を勝ち取っていくとする。
436 南海先生は「一歩一歩理義を実現して行くのがよい」とする。
しかし南海先生が紳士君の理想論を批判しつつ擁護していたことは、明治34年1901年に書かれた『一年有半』に書かれた「理義に殉じてゆく」という兆民の決意をみれば分かる。
紳士君の理想 「民主平等の制を建立し、人々の身を人々に還す」ための綱領として、軍備の撤廃、世界共議政府による集団安全保障の樹立、平和国家、道義・文化国家への決意の表明。一院制の国会と、貧富・男女の差別を排した完全普通選挙の実施。県知事から郡長、戸長に至るまで民選による地方自治の完全な施行。裁判官の民選。義務教育の徹底と授業料の免除。死刑と保護関税の廃止。言論、出版、結社の自由。人民の基本的人権、自由権の保障等をかちとることを目標としていた。
一方南海先生は、「立憲制を設け、上は皇上の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両院を置き、上院議士は貴族を当て、世々相承けしめ、下院議士は選挙法で取る、これのみ。…外交は、勤めて好和を主とし、国体を毀損することのないかぎり、決して威を張り武を宣(の)ぶることなく、言論出版規定は漸次寛にし、教育の務め、工商の業は、漸次に張る」などとした。
兆民の妥協が考えられる。筆者はそれを「苦渋」という。
三 近代主義と国粋主義批判
437 兆民は「三酔人経綸問答」(明治20年1887年5月刊)の中で、当時の左派として徳富蘇峰の『将来之日本』1886を想定し、右派としては志賀重昮(しげたか、「日本人」1884)の『南洋時事』(明治24年1891年4月出版)を想定していたのではないか。(志賀の場合は年代が合わない。)そして南海先生は二人について、世界各国の「実形」と「虚声」を区別していないと批判した。
紳士君は西欧モデルという「虚声」とその現実(帝国主義的な厳しい「実形」)とを区別せず、理論の「慶雲」を日本の現実に及ぼそうとした。
一方、豪傑君は当時の南洋諸島の植民地化という「実形」から、今すぐ欧米諸国が日本を侵略するという「虚声」を導き出した。
438 兆民は明治憲法を「通読一遍苦笑あるのみ」とし、その恩賜的民権にがっかりし、第一国会で奮闘した。
明治23年1890年2月13日、兆民は大井健太郎、新井章吾、石坂昌孝らと自由党を再興した。その党議草案には、「国会に上請し、憲法を点閲する。議会に弾劾権を与えるよう要求し、出版集会の自由権の拡大、行政裁判所の設置による官吏の横暴の掣肘、警視庁の廃止、知事・郡長らの民選、地租軽減」などを列記した。
これは3年後(1893年、日清戦争前夜)の状勢の変化を反映する。
439 兆民のこの請願は第一回国会では議論にも取り上げられず、同志からも「詭激の言」として退けられた。議会は予算削減問題をめぐって政府と民党とが妥協して終わった。兆民は国会を「無血虫の陳列場」だとする弾劾文を叩きつけて国会議員を辞職し、「自由は取るべきものであり、貰うべき品にあらず」と確信した。
その後兆民は国権論へ傾斜(そういうものか)した反面、民権にも執着した。(意味不明)兆民は奇行にはしり、実業で失敗した。
しかし『一年有半』(1901明治34年)は、兆民の真の理想を語っている。
感想 兆民が国権論に傾斜したというのは残念。なぜなのか。興味深い。
5 「内部生命」の世界――北村透谷の創造
感想 透谷の自殺の原因は何だったのだろうか。よく分からない。
透谷の半生を振り返ってみる。自由党(有一館)の活動に参加し、明治18年の困民党=下層民の暴動(騒擾)に心を動かされつつ、自由党行動隊による強盗的資金集めは拒否した。その時透谷は後ろめたいと思ったらしい。髪をそり落とし杖を引いて、仲間の誘いを断ったという。そして下層民との接触。明治18年の富士旅行など。
熱烈な恋愛結婚(明治20年)とキリスト教入信という昂揚期を経て、これからは文筆家として生きて行こうという希望を見出す。
そして再び底辺層に眼を向け、当時の文壇を批判するのだが、この時の批判の内容が私には分からない。その言葉が理解できない。
そして自殺。享年27歳。
一 透谷における原体験の意味
440 島崎藤村の透谷に宛てた告別の言葉。
明治17年秋、加波山事件。
442 明治20年、石坂美那子との恋愛とキリスト教入信。
明治17年1884年、松方財政下の不況、明治政府による言論・集会・結社への弾圧、清仏戦争による対外危機感の高まり。
透谷の民権運動への情熱。小間物の行商人の姿で多摩地方を回る。その法被には「土岐・運・来」(ときめぐりきたる)と染め抜かれていた。
しかしその挫折直後の透谷による「哀願書」には、「自分は国家と国民を救うために日夜寝食を安うせず、努力してきたが、世運遂に奈如(いかん)ともするなき。人心未だ以て吾生の志業を成すに当たらざるを知る。」とある。
443 透谷は加波山事件には感動していた。
「富士山遊びの記憶」の中には、雲井龍雄など反政府志士への感銘が読み取れるが、後年透谷はこの志士的精神を封建的だと批判する。つまり事大主義で、権力欲、生命軽視、民衆蔑視、非合理・非論理性、倨傲などの理由で。
明治23年、透谷は評論活動を開始し、民衆への共感と権力者に対する怒りを表明した。明治23年2月27日の日記では「政治家や宗教家は民衆の実態を知らない」と批判した。
透谷は、壮士や博徒、行商人、車引きなど底辺の人々と交際した。左の腕にザクロの入れ墨をしていた。明治16年、富士山への一人旅では、富士講の行者と生活を共にし、機職女工に同情した。透谷は底辺の窮乏を「時代の罪」と言う。
富農の集団自由党は解党したままで無為だったが、透谷はそれに代わる指導性を発揮できなかった。
二 内面世界の新領域
445 明治19年、透谷は無為に過ごしたようだ。
明治20年1887年の夏、透谷は本郷竜岡町の石坂昌孝の別邸に出入りし始め、その長女美那子と激しいプラトニックな恋をした。透谷は過去の一切を否定して入信し、政治を退け、壮士意識を否定し、シニシズムに陥ったが、生命と愛と恩恵の世界に向かった。
446 明治21年1888年、「横浜県会騒動」をきっかけとした「壮士攻撃」が始まったが、透谷は無関心だった。石坂美那子と結婚し、文学者になろうと考え始めた。
明治21年、22年ころの作と思われる『楚囚之詩』には透谷の「退潮」傾向が見られるが、その後の明治22年の秋、クエーカー派の牧師と地方伝道に出かけ、同年11月、「日本平和会」の創立に参加し、同年暮れには水戸で伝道演説をした。
明治22年、憲法発布、明治23年、議会開設。経済恐慌、米価高騰、貧民問題の続発。
明治23年1月1日、透谷は社会批判、政界批判、文壇批判、宗教界批判を開始した。当時の文壇では尾崎紅葉、山田美妙らの硯友社や、幸田露伴、森鴎外、坪内逍遥、饗庭(あえば)篁村、福地桜痴(おうち)らが活躍していた。
透谷は彼らの文学を「歓楽者文学」とし、「今は得意の時代ではない、歓喜に時代ではない。今は慷慨する時代だ。彼らには涙がない、時代を見ていない、国家を見ていない」と批判した。
447 明治23年3月の「時勢に感あり」や、明治23年4月の「泣かん乎笑はん乎」にそれが現れている。
そして「慈善事業の進歩を望む」(明治24年or 25年)では資本制社会における階級矛盾を指摘し、格差社会の中を「貧民が国家を守っている」とする。その点で透谷のナショナリズムは、陸羯南や徳富蘇峰らのそれとは異なる。
448 また透谷は硯友社文学の疑似元禄文学とは区別される徳川時代の町民文学の人民観、平民の声を発見し、それを明治の民権思想と結びつけた。「地底の大江」、「徳川時代の平民的理想」(明治25年7月)
これは山路愛山や徳富蘇峰らの民友社の平民主義との論争の結果である。その結果透谷は「内部生命論」にたどり着いた。透谷は、蘇峰の「平民的道徳の率先者」や、植村正久の「社会改良の先覚者」、中江兆民や植木枝盛らの「政治的自由の唱道者」などの「地平線的思想家」を乗り越え、それらを「生命の思想」にまで高めようとした。その点で透谷は「唯心派」とか「高踏的」とか批判される。透谷は「ただ社会を改良するだけではだめだ」と言う。「国民と思想」、「内部生命論」
『蓬莱曲』(明治24年)、「我牢獄」「各人心宮内の秘宮」(明治25年)、「内部生命論」(明治26年)、などを通じて透谷は「個人の尊厳と近代的個人」を獲得した。
しかし『蓬莱曲』で透谷は「己を捨てる」という。
450 そして「慈航の海」では「死を望む」という。
「明治文学管見」では「精神の自由」を語り、「平民的虚無主義に込められた自由への悲求」、「民権の中の個人的精神」を発見した。
「国民と思想」…意味不明
明治26年1893年暮、透谷の病は重く、12月27日自殺未遂。明治27年1894年5月16日未明、月明かりの林の中で縊死。
明治26年1893年8月下旬、花巻にいた透谷は妻美那子宛ての書簡で「世と戦おうとした」が「世に容れられない」と語った。
6 明治二十年代の思想・文化――西欧派と国粋派
感想 2025年8月19日(火) 色川大吉さんはやはり共産党に入っていた。マルクスに言及し、民衆を重視した歴史観462, 464だと感じていたが、やはり。学徒動員から復員後、苦学しながら大学(東大文学部)卒業後、中学の教員になったが1年で辞め、共産党に入った。決断が早い。「ある昭和史」の中で、「天皇制は廃止されるべし、こうした精神構造が変わらない限り、日本人の終局的な天皇権威からの解放はありえないだろう」と述べている。
7 明治三十年代の思想・文化――明治精神史の断層
感想 2025年8月20日(水) すばらしい。明治時代の文学・思想史の概説。この時代にはまだ論争が成り立っていた。その意味でその後の治安維持法による思想弾圧の日本の思想や民衆運動に対する悪影響は大きい。しかし日本には下層民衆思想が日清戦争後育って来た。その元となった明治初期の民権思想の影響も大きい。
色川大吉さんの多読家ぶりにただ感嘆するばかりだ。
6 明治二十年代の思想・文化――西欧派と国粋派
一 歴史的架橋
453 明治20年代は、幕末以来欧米文化に圧倒されていた状況を破って日本文化が復興した時代だった。徳富蘇峰の用語に従えば、この時代は1860年代生まれの「明治青年の第二世代」が担当した。
454 明治20年代に豪農層の果たした役割は大きい。彼らは民権運動の挫折後も地方の政治を担った。民権運動がなかったなら、憲法発布後の初期議会での激しい民党運動はなかっただろう。また平民主義や国粋主義が政権を批判することもなかっただろう。
455 在野的ナショナリズム(国民的愛国主義)は、民権運動がなかったならば、国民的に広がらなかっただろう。自由民権運動での学習会は朝鮮問題や「清国の開戦をいかに想うや」などをテーマとしていた。透谷も「憐れむべき東洋の衰運を恢復すべき一個の大政治家になりて…万民のために大に計る所あらんと熱心に企てた。」
豪農意識の変遷
456 ①幕末の豪農は儒学を学び、尊攘運動では一部が志士として維新の政争に参加した。
②維新後、豪農は新政権と下層農民との板挟みになり、地租改正反対一揆や地方民会の先頭に立った。このころ米価高騰で彼らは儲かった。
③民権派や士族知識人から影響を受け、豪農の間で民権思想が発芽した。
④豪農が民権思想を下層農民に啓蒙した。
457 ⑤豪農は自らを支えた古い思想と葛藤するようになった。
⑥豪農は民権運動の衰退に伴い、体制イデオロギーに包摂された。
⑦明治20年代の前期、一部豪農は初期議会で民党を支持し、彼らが選出した議員が初期議会の過半を占めたが、下層農民の要求を失った。
⑧日清戦争=挙国一致運動後、豪農は民主的性格を失い、在野的ナショナリズムも体制の国家主義と融合した。
⑨⑥の民権運動の挫折から、透谷のように民権思想を深めた人もいた。
458 ⑩民権運動の挫折の中でも、最底辺の無産者・疎外者、例えば、秩父事件の井上伝蔵、武相国民党の須長漣造がいた。
二 基底の視覚から――方法試論
――エリートたちの視座
460 明治の第二世代には、当時の政府の鹿鳴館政策に反対するナショナリズムが共通している。
蘇峰はヨーロッパの生産主義を提唱して人々を挫折感から解放し、志賀重昂(しげたか)や三宅雪嶺らは、対外危機感から生じるナショナリズム「純乎たる日本旨義」「中等民族」「真善美日本人」などを提示して人気を博した。
また、坪内逍遥は『当世書生気質』の中で立身出世を語り、政治小説『佳人之奇遇』1885の著者東海散士(柴四朗)や、獄中の壮士大井健太郎らは英雄視された。
461 一方、時代を先行する内面的に苦悩する人間像も提示された。二葉亭四迷『浮雲』1887の主人公内海文三や、鴎外『舞姫』1890の太田豊太郎らである。
――基底(底辺)の視角
以上はエリートたちが考えた日本人像であった。他方、庶民はどうだったか。
思想史は一般民衆(世論)に基づくべきだ。
民衆思想は底辺層にばかりでなく中間層や知識人の中にもあり、豪農民権家も含む。それは楽天主義や虚無主義であり、非政治的な傍観者・敗残者であり、「人民ニヒリズム」や不屈の抵抗としてとらえられる。マルクスとエンゲルスは彼らを「最終的な階級」に析出した。
中間層や地域指導層は成り上がり者であり、天皇制支配の最も忠実な地域的支柱となった。
464 彼らを理解することなくして、天皇制を打倒することはできない。
――思想状況の大観と重層構造
後藤靖によれば、明治10年代は自由民権運動と天皇制イデオロギーとの戦いであり、それは人民主権論・憲法論にまで及び、天皇批判は農村にまで浸透したとする。
ところが明治23年を境にして、政府は在野進歩派の公然とした存在を許さず、しだいに彼らを体制内改良派として組み込んでいった。これは欽定憲法・教育勅語体制である。一方、明治22年の憲法発布までは、国家構想のビジョンを提出できた。陸羯南の国粋主義でさえ「自由政体」を期待して公にしていた。
465 立憲制の実施以前は国会論や憲法点閲論が存在したが、それらは憲法体制の発足とともに崩され、国粋主義派は「皇室=国体論」*で昏迷し、大井健太郎など左派も、対外問題で体制との対決点を失い、民友社の平民主義も同様であった。
初期議会で「民力休養」を唱えていた民党勢力も、明治26年2月の第四議会での「建艦詔勅」への屈服後、自由党は政府と野合し、次いで改進党も「日本協会」など右派に引きずられ、国家主義に合流した。
「挙国一致」の名の下に日清戦争は政府と民党を融合し、下からの「人民ナショナリズム」も国家のそれに合流した。そして第四階級(プロレタリアート)はまだ萌芽の状態だった。北村透谷はこのような明治27年に自殺した。
また進歩派のほとんどは明治政府を革新的とし、反動とか保守とは見なしていなかった。
466 中江兆民は例外として、当時の民権派もジャーナリズムも、憲法発布・議会開設に期待していた。その「オプティミズム」はキリスト教系で進歩的な『女学雑誌』の社長巌本善治の憲法発布を前にした社説(明治22年2月6日)の中に現れている。
「私は憲法発布のために闘って死んだ人々に感謝するが、今度の憲法はそれらの人々によってつくられたのではなく、畏れながら仁慈の陛下が御下賜なされたものである。幽冥の人も今は陛下に謝しているであろう。私たち全国三千九百万国民は、あげて陛下への謝念のもとにこの日を迎えねばならない。」
また、憲法発布直後の陸羯南の新聞『日本』の社説は、
「日本の皇室は建国以来日本臣民の奉戴せる皇室なれば、日本臣民たるものは万世不易に之を奉戴するの懿徳(いとく、懿=よい)を守らざるべからず。日本の臣民は皆な建国以来皇室に忠愛なる臣民の子孫なれば、日本の皇室は現在及将来に向かって此の臣民を扶養し、一視同仁決して恩仇の別を為すべからず。日本の政府は万世一系の天皇の勅命を奉じ、万世自由の人民の委信を受けて存立すべきものなれば、民望を利用して皇権を蔑如すべからざると同時に、皇威を檀仮して民権を軽侵すべからず。これ等は皆な日本の国民精神より自然に出づべき政義にして、帝国憲法の本文如何に拘わらず朝野共に確遵すべきの大綱なり。日本の立憲政体を扶持して鞏固ならしめんには、必ず此の大綱を明らかにせざるべからざるなり。」
以上の巌本善治や陸羯南ら知識人の「自由政体」への期待は、天皇制という枠内に限られたものであることを示していて、その点兆民は異なる。
当時の思想状況は一対一という固定的な対立関係ではなく、「重層的」な構造であった。また前時代の支配思想も生き残っていて、それが外来の新思想と接合したり、補強し合ったり、無関係に累積されたりした。そのことは後進国ロシアに関してだが、エンゲルスのブレハーノフ宛書簡が示している。
日本では上層による欧米・日本思想の接ぎ木と、それと隔絶した下層の思想とが雑居していたが、時代の変遷をよく見ていくと、思想の内発的発展の法則も認めることができる。
三 新思想主体の出現
469 蘇峰は民権運動の挫折を自らの頭で考えなかった。「思想的検討をしなかった。」
蘇峰は壮士を批判した。蘇峰の「精神の第二革命」の「六つの方案」は兆民の東洋豪傑君の対局である。その壮士の欠点とは、一見粗野な破壊的行動、合理的な学習や計画性・事務能力の欠如、志士気質、日常的な市民生活や経済価値の軽視、儒教的な政治観、封建的なモラルなどである。(そう批判したという意味では蘇峰も民権運動の反省の上に立っていたのでは)
民党は政治変革という根本問題から離れて私的利益を要求し、蘇峰はそれを代弁した。福島(大石嘉一郎)や多摩では、豪農指導下で反政府デモが行われた。
470 しかし蘇峰の「進歩主義」は豪農の意識からかけ離れていたため、その後の豪農の運動はグラグラした。
当時の景気の回復傾向と蘇峰の「生産主義」とが合致した。蘇峰は「隠密なる政治上の変遷」で「田舎紳士」論を提唱した。
471 明治19年1886年以降、景気が回復し、養蚕業組合が設立され、製茶も行われた。明治15年1882年の不況を抜け出した。
蘇峰の田舎紳士を構成する二つの要素 一つは「村役人クラスの豪農」であるが、当時の現実は寄生地主が増えていた。もう一つは独立自治できる中農層(地租5円以上15円以下、地価200円~600円、1町歩から2町歩)であるが、この層も実際は没落傾向で、明治14年1881年から23年1890年までの10年間で、地租5円以上10円未満、所有地8反から1町6反の中農は、100から70へ激減した。(地層10円以上も14%減少した。)政府の法律顧問P・マイエットは、自作農は明治20年からの24年間で消滅するだろうと予測した。蘇峰は予測を間違っていた。
蘇峰がその田舎紳士理論の根拠とした身近な人である相州の豪農小宮保次郎の収入源は、寄生地主による地代収入が主であり、養蚕業も倍増したが、収入源のメインではなかった。また中農も養蚕企業熱は盛んだったが、実態は零細家族経営で、副業にすぎなかった。当時の現実は資本の集中が進んでいたのである。蘇峰はそれに気づかなかった。
蘇峰はこの田舎紳士の没落傾向に気づいたが、その原因は精神的な堕落だとした。その没落先は「地方紳商、三百代言(もぐりの代言)に化し、産を失い、警部、巡査、政治ゴロ、壮士などに転落した」とした。
474 蘇峰は田舎紳士が産業発展の中心になるだろうという予見の失敗を中農の道徳的な堕落に帰したが、道徳的に堕落したのは中農ではなく寄生地主となった豪農であった。ここに蘇峰の思想家としての失敗がある。しかし鹿野政直氏は蘇峰を高く評価している。
国粋主義 志賀重昂は1863年文久3年、岡崎に生まれた。蘇峰と同年である。自由な札幌農学校で学び、福島事件の公判に上京し、河野広中の陳述を傍聴した。明治19年1886年2月から海軍練習艦に便乗し、ニュージーランド、オーストラリア、サモア、ハワイを見て、西欧文明国への幻想を捨てた。イギリスなど先進欧米諸国の残忍苛烈な植民地掠奪を見た。
明治20年1887年、志賀重昂が帰国したときの日本は条約改正で朝野が沸き返っていた。明治20年4月彼は『南洋時事』を出版した。彼は、
476
「日本今日の急務は立国の根本を確定するにあり。先ず民力を培養し、貧弱を救拯(じょう)するにあり。日本立国の帰本は実に貿易製造にあるものにして、その根本は商工にあり。商工の事業を尊敬し、商工者を敬愛し、人生最第一の所望たる栄誉面目は信(まこと)に商工の事業に帰する観念を子弟に涵養するにあり。民間の資産家は私財を捐(えん、すてる)して、百般興産の資本を投ずる」ように訴えた。
志賀重昂の国粋主義は、政教社の杉浦重剛、今外三郎、三宅雪嶺、菊池熊太郎らとも共通し、その主義は国家の独立、国民の精神的統一、国粋保存旨義、藩閥政治批判、殖産興業、その限りでの民権の主張であった。
これは蘇峰の平和主義と対立した。蘇峰も国家の独立を唱えた。両者は政府の構想を批判し、資本主義化を唱えた。
477 一方羯南・雪嶺の『日本』『日本人』も当代文界を蘇峰と二分する希望の星だった。岡倉天心、幸田露伴、正岡子規らは国粋派である。両派の性格をまとめてみよう。
(一)資本主義の構想 両派とも政府による「特恵資本優先」に反対し、中等階級の利害を代表した。ただし蘇峰の民友社がこの構想に全てをかけていたのに対して、国粋派は他の選択肢を持っていた。
民友社は資本主義の担い手を中農層や小豪農としたのに対して、国粋派は漠然と「地方商工者」としたが、実はそれは寄生地主=商人資本家であった。両者とも愛国的・民主的意味づけを与えた。
(二)民権の擁護 両派とも自由民権運動の遺産を受け継いだ。蘇峰は変革者的態度を捨て、体制内改良的進歩主義に移行した。それに対して羯南らは「国粋」を軸に改良的保守主義を「定立」した。
478 「国粋」の概念は多様で、左は志賀重昂、右は島地黙雷であるが、その共通点は「国粋とは帝室に対する国民の感情」(菊池熊太郎)である。そしてこの概念は合理性を阻み、体制側のイデオロギー「天皇を基軸とした国体論」によって自立性が脅かされた。
これに対して民友社は政府の伝統的発想を鋭く批判し、「民力休養」「民権拡充」を訴えた。イギリス的立憲制を理想としたが、憲法発布後は、天皇制改良的修正派として監視・批判した。
(三)思考様式 蘇峰の理論信仰は大勢順応に堕することにもなる。他方、国粋派は伝統に価値基準を置き、思想的持続性はあったが、近代的ではなかった。
蘇峰もその反儒教主義を徹底させなかった。国粋派も同様であった。
(四)国権の確立 蘇峰の平和主義は国際危機が迫ると簡単に破滅し、数年後には大井健太郎や陸羯南と「対外硬」の運動に走った。
明治10年代のナショナリズムは、20年代の国粋主義や平民主義に媒介されて、その後の天皇制国家主義を支えたのではないか。
明治10年代の自由民権運動の反政府的在野精神は、20年代の平民主義や国粋主義に導かれて天皇制国家主義に転じたのではないか。そして日清戦争は、官民和合・一致協力をもたらし、その後の三国干渉後の臥薪嘗胆から侵略主義に積極的に突入したのではないか。
松田道夫氏は志賀重昂ら国粋派が「国民を統一し、生産に集中させ、近代化に貢献した」と評価するが、そんな単純なものではない。
四 分裂の時代へ
480 明治20年代は圧倒的な西欧文明の影響下にあったが、それでも日本的文化が開花した。
思想や文化は民衆や民族の体験を通して生み出され、内発的にしか創造されない。その民衆の「未発の契機」を探求しなければならない。エリートは底辺を知らなければ、擬制に陥る。
日清戦争後の思想・文化は分裂と孤立の時代に向かった。
島崎藤村は透谷を継いで国民に立脚した文学をつくり、近代的自我の探求に向かったが孤立した。与謝野晶子は自我を追求し、秩序の攪乱者、社会の敵とされ、日露戦争後はその反戦思想のために非国民と排撃された。
481 内村鑑三は自分こそ愛国者だと確信し、「詐欺師に類する」支配階級に向かい、市民主義・民主主義を守ったが、非国民とされた。高山樗牛は内村に「国法の保護を与える必要はない」とまで極言した。その樗牛は権力の側に立ち、国家主義・愛国主義を呼号し、反民主主義や帝国主義の代弁者となり、その後自我との矛盾に悩まされた。樗牛は晩年三転して「自我主義」に立ち返り、野獣的主我・本能主義に堕した。
近代的生産主義に固執した福沢諭吉や蘇峰は、往年の民主主義から遠ざかり、帝国主義の後見に変身した。
幸徳秋水や田岡嶺雲は反社会的とされ、孤立した。民主主義の旗を掲げる者は、社会主義者やクリスチャンしかいなくなった。
7 明治三十年代1897-1906の思想・文化――明治精神史の断層
一 国民教化の三十年
487 国民大衆の意識は国家の側からの国民教育として現れる。
明治政府はその成立直後、学習院を再興し、皇祖大神社を建設し、平田神道や国学の神官・武士を重用し、天皇崇拝・尊王愛国を鼓吹したが、当時の民衆は天皇について何も知らなかったし、封建武士も新支配者の権威を認めていなかった。
1870年明治3年「神道と皇道による大教宣布」は、天照大伸を天皇の祖先とし、天皇を現人神だと告諭した。島崎藤村『夜明け前』では、平田の門下生が「いよいよ私たちの時代がやって来ました」と、木曽の青山半蔵のもとに御一新の到来を知らせた。また江馬修作『山の民』に現れる飛騨高山の新知事・梅村速水は皇道主義者だった。
488 人民は政府による神道イデオロギーの押し付けに反発した。民間では実学が勃興し、文明開化・啓蒙主義教育が行われた。
これに対して政府は明治5年1872年8月、学制を頒布し、義務教育を実施した。その天皇制イデオロギーは政府によってその後ずっと維持された。
政府は「和魂洋才」の名の下に反動学者を追放することまでした。
明治7年1874年、愛国公党本誓「天の斯の民を生ずるや、之に付与するに一定動かすべからざるの通義権理を以てす。斯の通義権理なるものは、天の均しく以て人民に賜ふ所のものにして人力を以て移奪する得ざるものなり。」これは天賦人権論であり、人民主権を内包し、国家に向かって宣言するものであった。「民撰議院設立建白書」が発表された。
489 これに対して明六社の中の官僚学者・加藤弘之は反論して政府を擁護した。
明治8年1875年、政府は新聞紙条例や讒謗律を発令した。西郷も敗れた。しかし立志社は農山村に広がっていてすぐにはつぶれなかった。
一方政府部内では意見が対立し、天皇の侍講元田永孚(ながざね)は「儒教を国教として民心を統一せよ」としたが開明派官僚の伊藤博文は明治12年「教育議」を著して対抗した。
結局儒教国教論は退けられたが、元田は天皇の名によって「教学大旨」を発表した。政府は明治12年1879年、学制を廃止して「教育令」を公布し、地方教育の主体性を奪い、画一的な統制を強めた。
明治13年1880年、愛国社第4回大会は24万人の国会開設の請願を政府に突きつけた。
それに対して政府は集会条例(「官公立学校の教員、生徒、農業・工芸の見習生は之に臨会し又は其の社に加入することを得ず」)を発し、明治14年1881年、「小学校教員心得」(「政治及宗教上に渉り執拗矯激の言語をなす等のことあるべからず」)を発し、明治15年1882年「軍人勅諭」公布して民権運動を弾圧した。
北村透谷や正岡子規、二葉亭四迷の幼少期は、自由民権運動の影響を受けていた。革命思想と人民主権の仏学塾は門下生2千を越え、『自由新聞』『朝野新聞』『東京横浜毎日新聞』は政府を攻撃した。
490 政府は開明政策を引っ込め、元田永孚ら保守派官僚による文教政策が具体化され、開明派の井上毅すら、「儒学とドイツ国家学によって天賦人権思想を打ち破らないと、大勢ひとたび去って、その後を善くすべからず」と直言した。(明治14年1881年11月7日)
そして明治15年1882年、政府の御用学者・加藤弘之は『人権新説』を著し、最新流行の進化論によって国家有機体説を説き、天賦人権論や人民主権論に対抗したが、馬場辰猪、大井健太郎、植木枝盛らによって反論された。当時の教科書は自由主義的な外国倫理書の直訳教材が多かった。
明治12年1879年9月、政府は「教育令」を発令していたが、明治13年1880年3月、文部省は編輯局を設置し、教科書の編纂を始め、教科書取調係が民間の教科書を調査し、その適否を公表し、検定を始めた。
明治14年1881年5月、「小学校教則綱領」によって尊王愛国の教育方針を指令した。初代編輯局長に新儒教主義者の西村茂樹が起用され、仁義忠孝主義による修身教科書「小学修身訓」(明治13年1880年)を発刊し、民間の教科書を検閲し、箕作鱗祥訳『泰西勧善訓蒙』や、福沢諭吉『通俗国権論』は禁止された。明治13年1880年、民間教科書171種中の56種が、明治14年1881年、163種中の20種が、明治15年1882年、54種中10種が禁止され、元田永孚『幼学綱要』が、天皇勅撰修身書として全国の学校に配布され、このころ神宮皇學館や皇典講究所が設置された。
明治17年1884年、自由党が解党し、天皇制が完成した。元田永孚など反動政策が退けられ、伊藤博文らの開明派が復活したが、それは民主化を意味しなかった。
このころは欧化主義の時代であったが、新文部大臣の森有礼も欧化主義学者だった。森有礼は明治18年1885年12月、新内閣制度の初代文部大臣になり、学校令を発布し、天皇主義・国家主義に基づく学校制度を確立した。その小学校令は「小学校の教科書は文部大臣の検定したものに限る」とし、「国体、法令を軽侮する意を起させる恐れのある書」を排除した。また森は生徒に兵式体操(軍事教練)を課した。
政府の政略的欧化主義は、風俗改良や文学革新、演劇改良、美術革新を呼び起こし、その一つが、三宅雪嶺、陸羯南らの国粋主義と、徳富蘇峰らの教育革新運動であった。
蘇峰は封建主義や軍国主義、国権主義を批判した。明治20年代はキリスト教が健在だった。
政府は明治23年1890年、元田永孚とプロイセン主義者の井上毅に教育勅語をつくらせ、さらに明治24年1891年、ドイツ哲学者の井上哲次郎に『勅語衍義』を書かせた。井上は神話的国体と随順の倫理を合理化し、この著書は全国の教育関係者に大きな影響を与えた。
492 その流れの中で明治24年、1891年、内村鑑三が追放された。
明治25年26年1892年1893年に起きた「教育と宗教の衝突」論争の結果、キリスト教は教育勅語とは相いれないものであるとされ、キリスト教は大きな打撃を受けた。これは神儒仏ら国家主義者と民主主義者との論争であったが、民主主義者の論調は概して大人しかった。
教育勅語は民主主義を死滅させた。そのことを高山樗牛は「明治思想の変遷」(明治31年1898年)の中で語り、野田義夫は『明治教育史』(明治43年)の中で「教育勅語によって西洋主義と国粋主義との衝突は最後の宣告を受け、国民道徳の標準は之(教育勅語)を以て確定したり」としている。
明治30年代1897年~1906年は、この成果の上に、日清戦争勝利後の国民的な国家主義熱を利用して天皇制が圧倒的優勢に立った。国民教育が完成に向かい、教科書検定制度は国定制度に押し進められ、義務教育は4年から6年に、就学率は明治27年1894年の62.7%から明治36年1903年の93.2%にまで上昇したが、その内容は日本主義だった。
坪内逍遥『国語読本』(明治33年)は、蘇峰『新日本の青年』の中の「教育の目的は人性ヒューマニチーの完成にあらざるべからず」を継ぐものであったのだが。
二 国民文学と社会文学
感想 この章は漠然としていて分かりにくい。
高山樗牛は「国民文学」を雑誌『太陽』で提唱した。高山樗牛は文壇のえらいさんだった。「国民文学」とは日清戦争での勝利を自覚した=うぬぼれた日本人としてのプライドを表現するものだった。そして高山は一貫して底辺層を蔑視した。田岡嶺雲は底辺の思想の観点から高山樗牛を批判したが、かき消された。
493 高山樗牛は明治28年1895年から明治35年1902年まで、文壇の批評家として、当時最大の総合雑誌『太陽』(明治28年1月創刊)で活躍し、各界の代表者に論争を挑んだ。
『国民文学』論の背景 明治20年代の文壇を代表する尾崎紅葉ら硯友社は、没世間的で「遊民的」で「戯作風」=娯楽風であり、それが批判された。例えば、「国民詩人よ出でよ」(『国民の友』社説)や、「何故に大文学は出でざる乎」(内村鑑三、『国民の友』明治28年7月号)、「国民文学の革新時機」(弁来悌四郎、『太陽』明治29年10、11月号)などである。
494 硯友社の美意識は粋・侠を理想とし、前近代的で、早くから透谷や内田不知庵によって批判されていた。透谷の「内部生命論」や「国民と思想」などである。
高山樗牛は「国民文学」を提唱した。明治30年5月「日本主義」が宣言され、その翌月に樗牛は「我邦現今の文芸界に於ける批評家の本務」や「明治の小説」などを発表し、坪内逍遥の『小説神髄』の写実主義=現実離脱を批判した。
樗牛は日本人の性情を礼賛し、その性向は功利主義的だったので、早稲田派から批判された。(綱島梁川「国民性と文学」明治31年5月)
国民文学論は明治20年の二葉亭の「リアリズム」を継承せず、そこには民衆が存在しなかった。
495 樗牛は生涯民衆への反感、侮蔑、敵意を持ち続けた。それは高校時代に内村鑑三事件(明治24年)を非難した時から始まる。樗牛は「所謂社会小説を論ず」(明治30年7月)の中で、
「今の所謂社会小説は、貧弱者に訓ふるに服従を以てせずして、反抗を以てす」
「吾等は社会進化の過程に於て、其の勢力の不平均なる分配を受けたるものが、彼の強力に対して応分の服従を示すを以て、彼らの幸福を享受せむが為の当然の要務なりと思料す」
樗牛は自然界における進化の法則を乱暴に人間社会に適用し、民衆を弱者ときめつけ、底辺におけるリアリズム発起の可能性を退けた。
一方、田岡嶺雲は透谷を継ぎ、日清戦後に激化した社会矛盾をとらえた。「嗚呼文士涙なき歟」(『青年文』明治29年4月号)、「紛々たる所謂文学者を如何かすべき」(『青年文』明治29年12月号)などである。しかしその声は樗牛らの罵声によってかき消された。
また内田不知庵は政治小説『文学者となる法』(明治27年)で硯友社の戯作性を批判し、『暮の二十八日』(明治31年)や『社会百面相』(明治35年)で社会小説を試作した。
木下尚江は二葉亭や透谷を継ぎ、島崎藤村は20年代の『文学界』から出発し、紅葉『金色夜叉』(明治30年)や蘆花『不如帰』(明治31年)はその中間に位置する。
三 明治精神の分裂
日清戦争後の日本主義は帝国主義礼賛であった。それに対して内村鑑三や幸徳秋水、中江兆民らは帝国主義を批判した。
496 明治時代のナショナリズムは日清戦争の前後で意味が異なる。それ以前は国民を考慮していたが、その後は国家主義的になった。
日清戦争以前は、立志社や愛国公党の宣言(明治7年)、『将来之日本』(明治19年、徳富蘇峰)の愛国主義や、『真善美日本人』『偽悪醜日本人』(明治24年、三宅雪嶺)の国粋主義などは、民利・民権と矛盾しない国民的国家主義、愛国主義だった。そこには欧米列強による支配の危機から祖国と人民を救うという気持ちがあった。透谷も蘇峰も鑑三も秋水もそうだった。ただし、井上哲次郎や加藤弘之は異なり、権力の代弁者であったが。
ところが日清戦争後、民権と国権とは両立しなくなり、国家主義・帝国主義と平民主義・社会主義に分裂した。
内村鑑三は「時勢の観察」(『国民之友』夏季付録、明治29年1896年8月号)で、幸徳秋水は『帝国主義』(明治34年1901年)でその立場を明らかにした。
内村鑑三は同書の中で「日清戦争を国民戦争、アジア解放の聖戦と見誤り、この罪悪に積極的に加担した」ことを慚愧した。この書は一世を聳動し、内田不知庵、坪内逍遥、田岡嶺雲らはこれを激賞したが、当時の民衆と知識人は冷水を浴びせられた。
497 それに対して高山樗牛は、当時『太陽』文芸欄主筆を辞めて仙台の第二高等学校の教授になったころだったが、折から執筆中の『新編中等倫理教科書』(井上鉄次郎との共著)の中に内村に対する反論を盛り込み、その「皇室に対する本務」という章の中でこう断言した。
「我国は大なる一家なり。――従順は実に臣民たるものの第一の本務にして、又、最大の美徳なり」「男子生まれて皇室の為に一命を犠牲に供するは、実に千載一遇の名誉と謂ふべきなり」
樗牛は明治24年1891年、内村鑑三事件に憤慨し、「百年先の国民道徳の危機」を憂えていたが、その5年後の今日、明治29年1896年、その危機が到来した。反国家意識が再発し、国体に対する国民の忠誠が迷わされている。
「吾人不肖の身を顧みず、同志先輩と共に敢て日本主義の運動を興起し、聊か為に一臂の力を惜しまざる所以のものは、実に民心を統一し、以て社会道徳の乖離を救済せむと欲するの微衷に出づ」(明治31年1898年4月、「倫理教育問題」)
樗牛は二高騒動*を幸いに辞職し、日本主義の宣言書をひっさげて『太陽』に復帰した。当時の天皇制政府は日清戦争後のブルジョワジーの進出による民主主義的風潮の攻撃に心を痛めていた。樗牛は『勅語衍義』の著者井上哲次郎の門下生であった。
*1897年、校長排斥運動が起った。
樗牛の日本主義は彼がその『明治思想の変遷』の中で述べているほど、雪嶺や羯南の国粋保存主義とは関係なく、むしろ羯南が唾棄した明治20年代の御用学者井上哲次郎の国体主義の影響を受けている。また彼の「科学的考究」や「歴史的はた比較的研究の学的態度」は衒学的である。彼は「自我の満足とそれによる人生の幸福」の理念を、神話的な「国体観」に結合しようとした。彼は明治20年代の井上哲次郎よりもはるかに反労働者・反農民的であった。
樗牛の日本主義は資本家的な優勝劣敗主義を階級間や民族間の問題に無慈悲に適用し、反人民的な国家主義・植民地主義、帝国主義として猛威を振るった。その影響は深刻であった。明治30年代の小学読本である学海指針社編『新訂帝国読本』や、第一次国定読本には、優勝劣敗観や日本主義流の道徳観、国体観が、樗牛の文章と同じ表現で至る所に現れている。
498 坪内逍遥は国民教育の前途を憂え、1896年明治29年から1902年明治35年まで、実践倫理の研究と教育事業に没頭し、反軍国主義、反封建主義、平民主義の『国語読本』を編纂した。
樗牛は坪内逍遥に論争をしかけて圧迫したが、その攻撃の中心はキリスト教的民主主義であった。社会主義者についての敵としての評価は低かった。
樗牛は日本主義の宣言を発した1897.5翌月に「基督教徒の非国家主義」(明治30年1897年6月)を発表し、「内村のような非国民には国家は法律の保護を与える必要はない」と極論した。次いで7月、「世界主義と国家主義」、9月には「キリスト教徒の蓬迎主義」を書いて攻撃し、翌明治31年1898年11月には、「内村鑑三君に与ふ」を書いた。
内村鑑三もこれに反撃した。明治30年1897年からの『万朝報』『世界之日本』『東京独立雑誌』には彼の憤怒、絶望感、抵抗の精神が見られる。樗牛が「国家至上主義に対する吾人の見解」(明治31年1898年1月)の中で「自我の充足による幸福」という「人生の目的」と国家至上主義との一致を弁じると、内村は「詐欺師に類する行為」と批判し、また樗牛が「家族国家観」を披瀝し、「我国体の精華」を云々すると、内村は「上に無能、貪欲、薄情なる貴族が存し、詐欺師に類する紳商、博徒に類する実業家が跋扈して人民を苦しめ、互いに猜疑しあっている現状であるのに、何が「家族的国家」か」と痛撃した。(「国体新説」『万朝報』明治31年1898年2月18日号)
また内村は幸徳秋水らと「万朝報理想団」(M34年1901年~M36年1903年)を結成し、鉱毒問題、普選問題、平和問題、言論問題で団結した。
499 明治31年1898年、樗牛は内外共に危機に直面したと誤解した。一つは国内の隈板内閣の出現(1898年明治31年6月)である。彼はこれを愛国公党の再来、人民主権勢力の勝利だと看做した。「悔悟の時機来るや晩し」(明治31年1898年9月)もう一つは、欧米列強によるフィリッピンの占領や中国分割という帝国主義的侵略が日本にも迫ったとし、「アールヤ人種の東漸」と看做した。(「二十世紀に於ける非アールヤ国民の運命」明治31年7月)
樗牛は自由民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌い、仇敵の如く憎んだ。樗牛曰く、
「ああ今の政党なるものは畢竟25年前の愛国公党の仮装せるもののみ。『是の政府は人民の為に設けたる政府として見るの外なかるべし』との公言は、今日に於いても尚依然として其の精神たる也」「民主思想はそが如何なる仮面を被り来るを問はず、須臾(しばらく)も我国体と相容れざる也」「我国にありては、文明の進歩は民権の発達にあらずして寧ろ臣民の義務を明確に理会するにあり」(「悔悟の時機来るや晩し」(明治31年1898年9月))
かれはやがて美的生活論者に転向した。
樗牛はアーリア人種の東侵を「人道の敵」とか「国家的罪悪」として批判していたが、(「罪悪の一千八百九十八年」明治31年1898年11月)、彼の根本的な態度は「剣には剣を」であり、その剣はアジア諸民族が同盟してアーリア人の侵略に対抗するためではなく、同じアジア人、植民地化された台湾人民、朝鮮人民に向けられた。樗牛曰く、
「吾人の所謂帝国主義とは、属邦、若しくは植民地に於ける異人種若しくは異民族に、本国人と同一の権利を与えず、飽くまで権力関係によりてこれ等異邦人と本国人との間に、本支主従の差別を規定する主義の謂也。――是の如き帝国主義を強行せざる国家は、他邦を征服することによりて却って自ら滅びたり」「論じてここに到れば、我が日本民族が其の領土たる台湾に対する政策如何の如きは言はずして明なり」(「帝国主義と植民地」明治32年1899年3月)
500 また彼は「我邦人が其のアングロサクソン的帝国主義を遵奉して敢えて違はざらむことを希望せざるべからず」とし、彼自慢の「歴史的研究の方法」を駆使し、「我が日本民族が由来いかに植民的、征服的、はた航海的民族なりしか」を証明した。(「植民的国民としての日本人」明治32年1899年3月)
この時期帝国主義論が流行思潮となった。幸徳秋水は『廿世紀の怪物・帝国主義』(明治34年1901年)の中でこの時期の国家主義を「国民的帝国主義」とはせず、「少数の軍人、政治家、資本家の帝国主義」としてとらえた。「しかも彼少数の軍人、政治家、資本家は、憐れむべき国民多数の生産を妨碍し、その財産を消糜(び)し、その生命をすら奪ふて以て大帝国の建設を試みつつある也」
病身の樗牛はこれに対して沈黙した。文壇は「明星派」の浪漫主義運動の全盛期となり、それに合わせて樗牛も転身した。
1901年、日清戦争後孤立していた各派民主主義者が戦線統一し、迫りくる戦争の危機と重大化した鉱毒問題、普選問題のために統一行動した。社会民主党が結党宣言1901.5.18を発し、万朝報理想団で内村らキリスト教民主主義者と幸徳ら唯物論的社会主義者が協力した。
幸徳、内村、堺利彦らがほとんどの大新聞に平和と人道と民主主義のために論陣を張った。そのために日露戦争の際に平民社等の反戦運動が強力に闘えた。また柏木義円の地方教会運動も評価できる。
501 『太陽』までが社説で「社会の腐敗」(明治34年1901年2月)、「憲政の一大危機」(明治34年3月)、「政党の死亡」(明治34年6月)を掲げざるを得なかった。
中江兆民の『一年有半』はベストセラーになった。国民は民党に裏切られていた。兆民曰く、
「民権是れ至理なり、自由平等是れ大義也。――百の帝国主義有りと雖も此の理義を滅没することは終に得可らず。帝王尊しと雖も、此理を尊重して茲に以て其の尊を保つを得可し」「山県は小黠(かつ)、松方は至愚、西郷は怯懦、余の元老は筆を汚すに足る者莫し、伊藤以下皆死し去ること一日早ければ、一日国家の益と成る可し」(「一年有半」)
四 浪漫主義の意義
感想 分かりにくい。
白馬会の裸体画の出展に、滑稽な騒ぎを演じて、漫画家ビゴーに皮肉られた当時の日本では、与謝野晶子や鉄幹の新抒情歌は革命的であった。「やは肌の熱き血汐に触れもみで、さびしからずや道を説く君」「春みじかし何に不滅の生命(いのち)ぞと、力ある乳を手にさぐらせぬ」(与謝野晶子、明治33年1900年)
この叛逆的な歌を旧派は秩序の壊乱として攻撃した。三浦孤剣、田中狂庵らは、明治34年『文壇照魔鏡』を出版し、「不徳罪悪十六箇条」を数え、「死ね!鉄幹」と公開状で迫った。大町佳月も『太陽』明治34年4月号で執拗に批判し、政府もしばしば『明星』を発禁にした。
502 この感覚革命は明治40年代に自然主義として文壇を支配するのだが、明治34年の終わりごろから周囲の抵抗を避けて、物のあわれやみやびという中世的美意識の世界に没入して行き、批判性を失って唯美主義へと後退した。
樗牛はこのころ「文明批評家としての文学者」(明治34年1901年1月)や「美的生活を論ず」(明治34年8月)で再度文壇に旋風を起こした。半年近く湘南の海辺で療養がてら、ニーチェの『ツァラツストラ』やイプセンの『ボルクマン』、ゴーリキーの『チェルカッシュ』などを読みふけり、自分をニーチェやボルクマンの高所に置き、日本の文壇を「無学、無思想、無気力、愚劣」と罵り、「この人を見よ」と訓戒した。
樗牛は明治33年1900年以来の明星浪漫主義を無視した。その批判は一部の作家には警告となったが、無視された鉄幹は反発した。とはいえ樗牛は明治30年代の浪漫主義に一石を投じたことは確かだ。
樗牛の「美的生活を論ず」は、「絶対的利己主義」の上に立った「本能の解放」を提唱した。石川啄木はそれを「「魔語の如く」当時の青年を動かした」と言っているが(石川啄木「時代閉塞の現状」明治43年1910年8月)、樗牛が「権力の問題を回避している」と批判した。
一方自然主義の田山花袋は「樗牛が人間を性欲的に扱うという点で、後の日本の現実暴露的な自然主義の方向に影響した」と認めている。
503 文学史家や思想史家の中には、樗牛のニーチェ主義や「美的生活論」を「明治30年代の個人主義の代表」と言う人もいるが、それは間違っている。樗牛は自らの日本主義を批判していない。そして「古の忠臣義士、孝子烈婦の遺したる幾多の美談は、道徳の名によりて伝われりと雖も、実は一種の美的行為のみ」と問題をすり替えて擁護している。
樗牛の快楽主義、「個人主義」は規範性のない主我的衝動にすぎなかった。
「人生の至楽とは貧を卹(あわれ)み、孤を助くる時、快は則ち快ならむも、佳人(美人)を携えて芬蘭*の室に慿り、陶然として名手の楽に聴く時と孰(いず)れぞ」(「美的生活を論ず」)
*芬蘭フィンランド?「芬」は「良い香り」の意。
この樗牛の立場を坪内逍遥は「馬骨人言」(『読売新聞』明治34年35年)で批判したが、正宗白鳥はこの坪内を「悪語・俗語」としている。ただし、白鳥自身は「自分が学校を出たじぶんは、酒を吞むことをニイチェイズムを実行しようと云ったりしていた」と認めている。(正宗白鳥「日本文学に及ぼしたる西洋文学の影響」及び『坪内逍遥』)
幸徳秋水は「今日の憂いは実に個人主義の弊毒其の極点に達せるに在り、利己主義の盛んなるに在り」(幸徳秋水「修身要領を読む」)このころ幸徳や内村は足尾の災害地を奔走していた。
坪内逍遥は樗牛の日本主義に痛めつけられた。坪内は樗牛を「人道の敵」と罵り、「再び帝国文学記者に答えてニイチェを論ずるの書」(明治34年12月)の中で、登張竹風*を批判した。(ここは意味が取りにくい。)ただし、坪内の中に樗牛が批判するところの「道学先生」がなかったわけではない。(坪内「大和魂の精髄」明治34年)坪内は進歩主義者だった。坪内は樗牛の中に帝国主義ブルジョアジーの頽廃的恣意性をかぎ取り、民衆侮蔑でつらぬかれた醜悪な利己主義を直感し、「差別的な帝国主義」=美的生活論の原理は「真の個人主義」ではなく、「それを一国家に運用すれば、直ちに国家的利己主義――国家至尊説」(日本主義の原理)に通ずる」と批判した。
*登張竹風(とばりちくふう、1873-1955)ドイツ文学者。ニーチェ研究者。
504 樗牛のニーチェ主義=明治30年代的自我主義は、解放性とともに、民主主義や社会主義に対する敵対性を含んでいた。鴎外は樗牛の旧社会に対する破壊力を「牙のないニーチェ」(「心頭語」)と評したが、当時の文士は樗牛を過大に評価した。
明治35年樗牛は「愛の福音」(姉崎嘲風宛て書簡)を求め、「観心修証」を唱え、日蓮主義に傾いた。鉄幹は「共に伴に手を携えて菩提の門をくぐらん」と呼びかけた。(「高山樗牛に与ふ」『明星』明治35年2月)
浪漫主義運動は行き詰まった。それは現実を逃避し、孤立し、歓楽を追い求めた。当時、思想問題が叫ばれ、自殺者が増加し、清沢満之*の精神主義や、綱島梁川*の「悲哀の高調」(明治35年1月)が流行した。晶子はそれをとらえて「せめてもの憂ひの酔(えい)もやがて消えん眼はわだつみをひろくさまよふ」うたった。
第三部 方法と総括
感想 色川さんが要約する含蓄ある言葉の意味がつかめない。
1 精神史とはなにか
思想史と精神史との違い。思想史は上流思想家のエキスであるのに対して、精神史は庶民のための歴史ととったがどうか。
512 ここに引用されたエンゲルスの言葉は難解で分からない。1893年7月14日、エンゲルスからメーリングへの手紙。
512 色川さんは戦後、言葉の意味を失った。古代史から近現代史に移行した学友もいたらしい。これは色川さん自身が戦前の歴史学に対する批判を戦前にはできなかったことを示すのだろう。
「日本史学のむなしさを骨身にしみて感じた。ほとんど虚無に近い感情で、この傷だらけの、無慚な、ひからびた学問を取り上げ、自分を託する事業とすることに悩み抜いた。死んだ同窓の逸材だった青村真明までが、古代史を捨てて近代精神史に転回して来た事情には、やはりその思いがあったことを否定することはできない。」513
「現実の土崩瓦解の体験によってクリオの顔を垣間見た私たちには、これを逃れるすべのない定めかもしれない」513
2 歴史叙述とはなにか
文学と歴史学との相違
気になる文献
トルストイ『戦争と平和』517
マルクス『ルイボナパルトのブリュメール十八日』517, 518
E・H・ノーマン「詩神の苑にたって」『クリオの顔』岩波新書、昭和31年。ノーマンは自殺した。514,
528
森鴎外「山椒大夫」524
3 明治精神史の方法と課題――旧版への批判にこたえて
感想 色川さんは戦前の桎梏から脱却するためにマルクス主義に入ったようだ。
色川さんの言う「モダニズム」とは、西欧近代市民社会をいい、それに対してマルクス主義的上部・下部構造論があるようだ。539
一 構成上の問題
530 1960年安保を境として私の問題意識が変化した。1960年以前は「日本人の近代化」を問題としていたが、それ以後は「底辺」に関心が移った。
532 私の論文を批判した人々。
二 頂点的思想と底辺意識
よく分からない。
三 モダニズム批判
540 1960年以前の私の問題意識は天皇制からの脱却であった。1947年の卒論で「明治精神史」上下二巻を書いた。私は天皇制からの脱却のためにマルクス主義を受け入れた。私は「モダニズム」と長い間格闘した。
日本人が近代化するためには洋行は必須か。
541 民権運動は外国文化の影響により生じたもので、日本の文化には独創性がないというのが通説だった。
私はその通説に反発した。底辺の研究が足りない。その観点から私は透谷をとらえた。これはモダニズム的発想であり、その発想は1960年後も残った。透谷は藤村、漱石、啄木、多喜二に受け継がれた。
542 透谷の「天界意識」「汎神論的宇宙観」と底辺民衆との矛盾をどうとらえるのか、とひろたまさき氏や平岡敏夫氏から私は批判された。
四 人民信仰と底辺の視座
551 須長漣造をはじめ、獄中で落命した困民党の指導者小池吉教(よしのり)や、出獄して「井戸塀」すら失い、自らは天理教に救いを求めて離村した塩野倉之助らは、その後村人によって報いられることなく、却って嘲笑され、その業績は抹殺された。これは皮肉であるが事実である。
「内縛の論理」(自発的ではなく他者から強制された自己規制)や、それを包み込んでいた天皇制思想の強力さを過小評価するような「民衆信仰」に陥ってはならない。困民党に参加した人民の抵抗運動は、須長や小池らの村では、大正期の小作争議の際も、昭和敗戦後の農地改革の際も、民衆の伝統としてよみがえることはなかった。そして日本の民衆は、部落民を差別し、関東大震災時には朝鮮人を虐殺している。
553 勤労や倹約を極度に厳格に実践しようとする禁欲主義的方向が、石門心学以来の長い民衆思想史の中に一貫していた。民衆的思想である石門心学や後期国学は「情欲の解放」とは反対の方向に向かった。石坂公歴のような豪農の中に「情欲の解放」を見つけ出そうとしたのは間違いだった。安丸良夫は「情欲解放の伝統として民衆の儒教思想としての陽明学がある、という色川の言及は間違いである(よく理解できない)」と指摘した。
五 支配思想と民衆意識
557 支配思想 マルクスが『ドイツ・イデオロギー』の中で解説する「支配思想」
六 評価と課題
559 1966年、鹿野政直は戦後20年間の日本歴史の名著として次の三冊を挙げ、四冊目に私の『明治精神史』を推薦した。
石母田正『増補中世的世界の形成』
北山茂夫『万葉の世紀』
遠山茂樹『明治維新』
以上
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