2020年8月18日火曜日

荒木陸相に物を訊く座談会 1932年、昭和7年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 一部削除 要旨・感想

 荒木陸相に物を訊く座談会 1932年、昭和7年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 一部削除

 

 

感想 2020817()

 

 荒木貞夫は論理的でない。短絡している。日本における地震多発から戦争必要論・経済否定論を導き出す。むちゃくちゃだ。

 

感想 2020816()

 

 ウイキペディアの空閑昇(くがのぼる)の項を見ると、当時の日本人一般の非妥協的な好戦性が明らかになる。何と、世論は、捕虜となって生きのびた空閑に、死ねというのだ。実家に石をぶつけ、罵る人もいたという。そして空閑が自殺すると、今度は、新聞、映画、小説を始め世論は、彼を英雄扱いしたそうだ。日本人は戦争を好んでいたのだ。

 

 

初読後の感想

 

この時代の状況が細部に渡ってつかめず、全てが分かりよかったわけではないが、気づいた点を箇条書きしてみる。

 

・この間の上海戦争(事変)での将校の戦死率は高かった。それは青年将校の意気込みを物語る。彼らは中国人に「侮辱」されてなるものかという気持ちに燃えていた。

・戦争での忌語は「退却」である。それと同じ意味で、「捕虜になるな」ということだ。また経済封鎖など恐れぬ、「武士は食わねど高楊枝」の精神が重要だ。

・混沌から理想的な国をつくるという日本国の神話のように、日本人は多発する災害に慣れ、災害と共に生活してきた。そしてそれと同様に、日本人は戦争と共に生きて行かなければならない。ほっとした気分になれば、戦争を続行したくなくなる。軍隊におけるそういう道徳教育を、日本国民全体に普及し始めたが、まだうまくいっていない。

・ソ連の軍隊の強みは、ブルジョワを倒し、プロレタリアートのための理想郷を築くのだという強い信念である。しかし、それが土壇場でどこまで通用するかは分からない。土地の分配を求めて戦線を離脱して帰郷した者もいたとのことだ。

 

要旨

 

編集部注

 

141 五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣として、昭和7年5月26日、齋藤実を首班とする挙国一致内閣が成立した。陸相には荒木貞夫中将(のち大将)が留任した。荒木は人事でその意をほしいままにした。皇道派の全盛時代である。その結果、陸軍部内で分裂を助長した。またこのころから国策樹立の急務が唱えられ、日本の強硬な方向付けが決定されていった。

 

本文

 

出席者

 

荒木貞夫 1877.5.26—1966.11.2

古城胤秀(本文中の記者らしい)

直木三十五

菊地寛

 

菊地 今度の上海戦争では、将校がみな第一線に出たということを聞きましたが、日露戦争と比べてどうなんですか。

142 荒木 青年将校が非常に奮闘し、絶えず第一線に出た。満洲(事変)でもそうだ。今までの戦史上で見ることのできないほど、将校の戦死率が高い。(第一次)世界戦争と比較してみても、戦争の状態は異なるが、総括的に見て将校の戦死率が高い。空閑大隊*では(戦争の)後から腹を切った。それは普通ではないことだ。昨年1931年の何月(十月)事件の将校は、第一線で大活躍した。

直木 将校の戦死率が高いのは「時局」のせいか。

荒木 危急存亡の時期であるという気持ちが、士気を高めている。満洲でのあの事件(満州事変)が起る前の軍人も、(上海事変では)士気が高まった。一見乱暴とも見えるが、「支那人から侮辱を受けていては支那で仕事はできない」という思いが強い。今までは国際的関係から穏忍を重ねてきたが、支那人の日本人に対する圧迫に対する反発力が強まってきた。

 

 あの事変(満州事変)の一年前、満洲の奉天で、ある下士が軍服を着て、煙草を吸うべからずという制限があったまぐさ倉庫付近で、「気づかずに」煙草を吸っていた。支那の兵隊がやって来て「侮辱」を加え、結局謝罪させられ放免された。下士は内地から行く時、国際関係を紛糾させるようなことをしてはいけないと言われていた。下士は、喧嘩をして日支の関係を悪化させてはいけないと思い、「そのまま」帰ってきたが、兵営へ来てそのことを訴えた。

独立守備隊の中尉が、「下士の軍服を着ていて、支那人に「引き摺られて」謝るということは、今後に対しても棄てておけない。これから交渉に行く」と木剣を持ち、その下士と兵隊若干を連れて支那兵のところに行った。「今の兵隊を出せ。」「いない。」首実検をし、垂木の下に隠れていたのを発見した。営兵司令部以下全員を並べさせて、さっきの下士を前に立たせ、支那兵全員に叩頭九拝させた。「今後こういうことをすると承知しない」と木剣でこつこつやった。

 今度は支那側が支那の兵営へ電話をかけ、日本の兵営に交渉にやって来た。日本の独立守備隊は機関銃を並べ、それで話が済んで支那側は帰って行った。

 

 独立守備隊は鉄道守備をして、いつも匪賊や馬賊に襲われている。隊の将校以下、下士や兵卒にいたるまで、士気旺盛であった。支那に対しては、民族的態度から、負けてなるものかという気持ちが強く、無理をして死傷が多いという一面もあった。

 

記者 欧州戦争(第一次大戦)の時、荒木大臣は戦線を視察されたのか。

荒木 観戦ではなく、連合国側に立って、従軍していた。捕まれば捕虜になる。観戦武官は捕まっても先方で観戦できるが。

 

 欧州大戦中に得た一番の教訓は、決して退却しないということだ。退却を考えると戦は負けだ。退却は全軍の士気を衰えさせる。日露戦争でもその例がある。もう一つは、捕虜になることは恥辱であるということだ。空閑少佐のように、捕虜になったら自決するという思想が大事だ。それは武人としての鉄則だ。

 

 ロシア軍とルーマニア軍とが、トルコ、ドイツ、ブルガリアの軍隊と対抗した。「聯合側(ロシア・ルーマニア聯合軍)が負けるはずがない。計画どおりに攻撃し、勝ってコンスタンチノープルまで行こう」と思っていた。ところがルーマニアが負けて、引き下がった。二日行程の13、4里後方へ下がった。

144 夜に退却し、昼は陣地に着く。それを2度やった。ダニューブ川まで2日行程か1日行程のところまで引き下がった。兵隊は負けて退却していると思っている。6、7万の兵隊がいて、橋は2本しかない。心細い。

そこで(私は)背水の陣を考えた。「ここで死ぬという気になれば逃げない。橋を壊したらどうだ」と提案した。すると軍団長は「それは駄目だ。後ろへ行けなくなれば、今度は前へ手を上げて降伏する。先方が収容してくれる。生活は多少窮屈かもしれないが、生命に別状はない。」

 我々日本人なら、捕虜にはならず、前に向って死ぬが、捕虜になっても生きたいというのではどうにもならず、結局2週間で負けた。

 

 空閑少佐の場合も、退却の観念が起ると錯覚が生じる。今の操典も退却を許しているが、それはだめだ。

 

145 これに対して良い例は、例のロッジ*で、ドイツの25軍団が、敵に囲まれ、後ろからロシア軍がやって来る。これに対して軍団長は、同じ道を通ると退却の観念が生じるので、もと来た道より少し東の道を進んだが、上手く行かず、結局元の道を戻ったが、退却とは言わず、前進すると言った。

 

 退却と捕虜は日本軍隊ではまずない兵隊に退がるという感じを与えないこと、ただ命令に従ってキリキリやればいいんだという気持ち(精神主義)が、戦場での重要な心理だ。

 そして、最後まで我慢することが重要だ。くたびれてやれやれ、一落着、一寝入りしよう、一杯飯を食おうという気分では、動くのは困難になる。我慢できる者が勝つ。

 

菊池 今のソビエトの軍隊の実力はどうですか。

荒木 詳細は分からないが、戦争の趣旨を教えている。どんな戦争をするかという観念がある。そこが強みだ。ブルジョワ国家に対するプロレタリア国家の戦いである。ソビエトが、帝政や資本主義国家に対する戦争をやるんだという、信仰的な教育をしている点が、ロシアの強みだ。

しかし、人間が生死の間に立つ時は理屈を超えるものだ。社会主義思想は戦争を否認している。戦争は馬鹿馬鹿しいと理屈づけると、戦場で死なずにすますことになる。しかし、戦争では、非常な悪戦苦闘に陥った時、最後まで堪えることができるかが重要だ。プロレタリア対ブルジョワの枠組で、死んでもやる、理想や信念のためにやるということは強みだが、そこまでは行っていない。前の帝政ロシアの兵隊も同様、自分の信念となっていない。早く帰らないと土地を分配してもらえないから、戦線を逃れ帰ってくる。また上下の関係が奴隷以上である。

 

146 直木 張学良の征伐は可能ですか。国際連盟に波及する恐れはないですか。

荒木 国際連盟には最後の幕を閉ざして、「何と言っても駄目だ」と決めている。(一方的自己中的発想)平津(へいしん、日中戦争が始まった北支の一地方らしい)地方まで出て行くのは考え物だが、満州事変の対象は張学良であり、張学良の勢力圏は満洲問題の解決場所だから、張学良が平津地方を治下におけば、そこも満洲国家とみればよい。張学良がいるところは、我々の兵の動くところと定めている。

直木 張学良だけでなく蔣介石も出てくれば、どうか。

荒木 それは19路軍*との関係と同じだ。蔣介石との停戦条約ができている。

*1930年、河南で国民政府によって討逆第19路軍として編制された。

直木 国際連盟は日本に不利な決議をしますか。

荒木 見当がつかない。「独立支那の宗主権を認める」という昨日の新聞報道は、電報(に基づく報道)ではなく、こちらの想像だ。やるだろうか。(意味不明)

直木 経済封鎖をやるでしょうか。

荒木 やるだろうが、やりきれないのではないか。日本は、我慢しなければならない。「封鎖されても経済的に少しも困らない、我々は覚悟している」と私は言った。飯が食えなければ、粥を食え、粥が食えなければ、重湯を吸え、それを吸えなかったら、武士は食わねど高楊枝でいく。その覚悟があればいい。

147 直木 これから非常時は3年かかると(荒木さんが)言われたが、この3年とは今の満洲問題についてのことか。

荒木 3年というのは国際関係の行き詰まりの時点、つまり、ロンドン条約(ロンドン海軍軍縮会議1930)(の執行情況の確認)の問題が顕現する時期で、その頃は万事ことごとく輻輳してくる。この問題を解決するためには少なくとも3年は必要だ。満洲でそろそろ甘い汁が吸えるようになると考えるのは甘い。今は大変な状況だ。その苦労を放り投げては元も子もない。今の状況を抜け出すには少なくとも3年はかかる。(恐らくロンドン条約を破棄して軍備を増強することを意味しているのだろう。)

直木 1936年になると世界的葛藤がもっと深刻になるということでしょうか。

荒木 賠償金問題がある。*その間に不慮の出来事が起るかもしれない。(だから軍事的に解決するための武力を増強しておけということか。)

 

直木 将来日米戦争が起こり、そしてそれに負けたとき、民衆ががっかりして内乱が起るのではないか。

荒木 内乱が起ったら片づけるしかない。泣き言を言っても仕方がない。湊川に行って*斃れる。為政者は内乱に対処する方策を事前に考えておくべきだ。

 

*湊川の戦い 南北朝時代1336年7月5日、延元元年・建武3年5月25日、摂津国湊川(現・神戸市)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦。

 

直木 日本の今の問題は、満洲問題ではなく、一般生活、一般経済問題が大きい。軍部の主張通りに行動していって、経済的方面に悪影響を及ぼすことについてはどうか。

荒木 戦争の場合にですか。

148 直木 現在の満洲問題、張学良を討つというとき、アメリカなどと紛糾して経済問題がもっと悪化して来た場合の責任問題です。

荒木 我々は経済ばかりのために生きているのではない。今の粥で食っていく、その意気地がない国民なら、軍隊を引き上げて、経済的発展をしていくより仕方がない。(恐ろしい考え方だ。)国民としての考え方が、(戦争が)いけないというのなら、戦争をしない。戦争が起ると社会問題が起こる。経済的に発達して、国民精神を安楽にしておけばよい。戦争を止めて少しの労力でやる。しかし、それはいずれ滅びるだろう。親父の金をもらって代を継いでも、自ら奮発心がなければ体力も気力も衰える。

 我々は日本人として生まれてきた。神話が我々に教える。神話は一番その国の特性・民族性を現している。神話に理想が示されている。それは我々の人生を意義あるものにする。それは科学的でなくてもよい。日本の創造神話を採用して、人生を送るべきだ。

 我々は努力する国民・民族である。(努力せよ)混沌から理想的な国を作る。それは我々が理想とする使命だ。日本の地震、暴風雨、波涛、山嶽などは、世界の他に見ない。これらは非常な試練を与える。ここに住むことは日本人に与えられた責任である。我々は地震と戦わねばならないが、同時に我々は地震の兄弟でもある。地震は恐れるに足りない。愉快だ。火事は江戸の花という。江戸の人は火事を覚悟していた。火事があっても江戸は滅びずに進歩した。(火事がないに越したことはないのでは)我々は地震に負けるのではなく勝つのだ。日本人は生易しい考えでは生きていけない。コンクリートの家でも大きな地震では倒壊する。紙の家のほうが地震には大丈夫だ。地震とともに転がる家を作ったらどうだ。奮闘と哲学(意気込み)がなければ日本には住めない。泣き面はしない。それが日本人の性情だ。混濁から理想をつくる。豊葦原瑞穂国をつくる。国難、国難と言わないで、難は友達と考えるのだ。ヨーロッパには地震がないので、呑気でのんびりしている。イタリアには地震はあるが、暴風雨はない。恵まれていることは試練を受けないことだ。楽をしようと考えている。日本がそのまねをしたらやっていけない。

150 いずれを選ぶべきか。我々は戦争をあえて辞せず、好みはしないが、恐れないそれは日本の精神だ。ヨーロッパ人の戦時の残忍さはひどい。欧州大戦を体験してヨーロッパ人は文明人だと思わなくなった。ヨーロッパ人は、形は文明だが、他民族を冷遇する。それに対して日本人は、立派だ。朝鮮人に対して社を造り、神として霊を祭っている。熊本では、加藤清正、もう一人の日本人、そして朝鮮人の三座をお神輿にしてお祭りをしている。それを人々は礼拝し、お賽銭を上げる。日本人は血を好む国民ではない。(実際はそうならなかった)

 しかし死を恐れては生活できない。「国体」の全てはそれだ。

しかし、国家総動員して国民間の戦争をすれば、世界戦争になる。相手国の全てを潰さないと承知しなくなる。残忍だ。バクテリアを研究し、飛行機などでペスト、超チブス菌などのバクテリアを飛散して、相手国を潰す。そういう傾向がヨーロッパに見られる。我々には思いもつかないことだ。(実際やったではないか)戦争は限定的でなければならない。戦争は戦闘員の戦争であって、非戦闘員には害を及ぼしてはならない。もし国民間の全面戦争になれば、戦後処理や文明の維持が大変になる。(しかし実際はそうなってしまった。)

 

直木 いつか新聞に出ていたが、陸軍は、あなたの考えのようなことを国民や在郷軍人に教育する方針とのことだが。

荒木 今やろうとしているが、なかなか実行に到っていない。それに対して、軍隊は道徳実行の機関だ。最後の断末魔で道徳を実行する戦場は神聖である。それが軍隊教育だ。日本道徳の実行だ。戦場で血を見るときはさらにその精神が燃え上がってこなければならない。そうすれば掠奪はあり得ない。気が立っても、精神は乱れない。平時の教練でも、畑を荒らすことは、日本国財産を荒らすことであり、陛下の赤子(農民)が粒粒辛苦して作り上げたものを荒らすことである。生死の巷を出入することを訓練するから、止むを得ず荒らすこともあるが、申し訳ないという気持ちでやる。「われらの畑で」調練(訓練)すると考える。菜っ葉の一本でも踏みにじれば、元の通りに起こしてやる。

兵営内でも神聖化教育をしなければならない。兵営の外では泥棒しても、兵営内では泥棒できない。兵営には幣(ぬさ)が立ち、しめ縄が張ってある。

しかし、今まで外での教練のとき、損害は賠償すればいいから、踏み潰してしまえ、賠償金を払えば済む、二、三完全なもの(野菜)が残っていても、それも踏み潰してしまえというような打算はいけない。兵営内で行われている「陵辱」は、60年間、ドイツやフランスその他から来た職業的傭兵制度がもたらしものだ。

かつて兵隊で自殺する者がいた。私は、軍服を着たままで自殺してはならないと言った。自殺は神聖ではないから、自殺するなら軍服を脱いでやれ。軍服を着たままて泥棒をするなと言った。そしたら熊本の兵隊が軍服を脱ぎ、肌着で鉄道自殺をした。実に涙が出る感じ。死ねというわけではなかったが。

60年間(ヨーロッパの軍事制度に基づいて)養ってきたことは、(軍人)勅諭によって精神が高められたとはいえ、各種制度によって精神が高められていない。それはヨーロッパの兵制のせいだ。

 

菊池 それではこのくらいで――どうもお忙しいところをありがとう存じました。

 

1932年、昭和7年9月号

 

以上 2020817()

 

 

ウイキペディア 荒木貞夫 1877.5.26—1966.11.2  真崎甚三郎とともに皇道派の重鎮。

 

1897年、陸軍士官学校卒。日露戦争に従軍して注目を集めた。1907年、陸軍大学校を首席で*卒業し、恩賜の軍刀を拝受した。第一次大戦中、ロシア従軍武官。*陸大の「首席」は眉唾だ。

 1929年、陸軍首脳は、「青年将校を扇動する恐れあり」という理由で、第1師団長の真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやった。その時荒木も左遷される予定であったが、教育総監の武藤信義が、荒木を教育総監部本部長に栄転させ、東京に残った。武藤は反宇垣一成であり、統制派の独裁を嫌っていた。この当時の荒木の人気は大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れた。

 1924年、平沼騏一郎が、司法官僚や陸海軍の高級軍人を集めて組織した国粋主義団体の国本社で、荒木は宇垣一成と共に理事をしていた。荒木は平沼に心酔していた。憲兵司令官時代から大川周明、平沼騏一郎、北一輝、井上日召らと交流を持ち、1931年の十月事件で、陸軍軍人・右翼の橋本欣五郎から首相候補に担がれたが、荒木自身が反対した。

 1931年12月、教育総監部から犬養内閣の陸相に就任。これは陸軍の一夕会1929永田鉄山鈴木貞一らの働きかけによる。参謀総長に閑院宮元帥を担ぎ出して、ロボット化し、参謀本部の実質トップである参謀次長に、真崎を台湾軍司令部から呼び戻して就任させた。荒木は自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を、東京の第1師団に集めた。この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派といい、それに対抗する勢力を統制派というようになった。荒木の人事は「清盛の専横」と呼ばれた。しかし、荒木は、過激青年将校や下士官に自重を求めたため、人気が落ち、青年将校を制御できなくなった。1934年、荒木は病気を理由に陸相を辞任した。後任に真崎を希望したが、閑院宮に反対され、挫折した。

 

 1933年、大阪でゴーストップ事件が発生したが、その時荒木は陸相で、内務省と対立した。1933年10月、外国人記者団との記者会見で「竹槍300万本あれば列強恐るるに足らず」と言った。

 

 1936年の二・二六事件で、青年将校達を裏で支えたのではと疑われたが、荒木は原隊復帰を呼びかけた。しかし、その後の粛軍で予備役に退かされ、軍人としての第一線から消えた

 石原莞爾は荒木を嫌っていた。石原は皇道派でも、統制派でもなく、荒木の無責任と無能を嫌っただけだった。二・二六事件のさなか、陸軍省で荒木と遭遇した石原は「お前みたいな馬鹿な大将がいるからこんなことになる」と罵倒した。石原は真崎のことも嫌っていた。

 

 1933年12月、法政大学顧問に就任。1937年7月、法大予科の修身科講座の講師になり、「自由と進歩」を誇る法大に軍国色の学風を浸透させた。

 1938年5月26日、第1次近衛内閣の文部大臣に就任し、「皇道教育」強化を打ちだした。国民精神総動員の委員長を務め、軍部による大学・学園への弾圧が強まった。人民戦線事件平賀粛学1939東京帝国大学総長の平賀譲が、河合栄次郎、土方成美を休職にした。)など思想弾圧が行われるようになった。

 

東京裁判で、文相時代が問題視された。大内兵衛は、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を、「1938年、荒木貞夫文相のとき、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された。」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するように要求があったが、この時は東大は拒絶した。しかし、1938年、荒木さんが文相になったときは、軍事訓練が強制的になった」と証言した。(偉い!)

 検事から、「荒木は侵略思想を宣伝し、教育鼓吹した」と指摘されると、荒木の弁護人の菅原裕は「荒木が宣伝したのは、侵略ではなく、皇道であり、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と否定した。(詭弁)

 

戦後

 

A級戦犯に指名された。裁判では堂々としていた。非常に饒舌で、無罪を主張し、熱弁を振るい、ウィリアム・ウエブ裁判長から注意された。巣鴨プリズンでのアメリカ憲兵の不遜な態度に反発し、親ソ的態度を取った。当初アメリカ人憲兵はA級戦犯に対して、大らかな姿勢で対応していたが、荒木らの態度が尊大になるにつれ、厳格化したという。

 

東京裁判では終身禁固刑の判決を受けた。木戸幸一、大島浩、嶋田繁太郎らと共に、11人中5人が死刑に賛成するという1票差で、死刑を免れ、終身刑の判決を受けた。

1955年、病気のため仮出所し、その後釈放となった。間もなく健康を回復し、以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための資料調査を行った。

 

1966年10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で講演したが、同年11月1日、同村で心臓発作を起こした。「五箇条の誓文を達成することで全て足りる」という遺言を当時の佐藤栄作首相宛てに口述し、翌日11月2日、死去した。翌年の1967年11月、十津川村は荒木の碑を建てた。その碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。遺族は恩賜の軍刀を村に寄贈した。

 

荒木は「国軍」という呼称を「皇軍」と言い換えた。

 

以上 2020817()

 

ウイキペディア 空閑昇(くがのぼる1887.12.8—1932.3.28)陸軍軍人。

 

1910年陸軍士官学校卒。青島守備、シベリア出兵。1925年5月、陸軍歩兵学校甲種卒。

 

1932年、第6旅団隷下の第7連隊として上海事変に出征。2月19日、江湾鎭正面の敵を攻撃したが、立ち往生。20日、軽装備で夜襲。三方から十字砲火を受け、南北に分断され、北側の尾山豊一大尉は21日、大隊長戦死という幻覚を見て、午後10時、撤退。残された空閑は22日朝、重傷を負い、人事不省。鈴木中尉が指揮を代わったが、突撃を受けて戦死。13名だけになった。松本予備少尉が撤退を具申すると、空閑は、「退却はいかん…」とつぶやき、意識を失った。22日午後8時半、松本予備少尉ら残存部隊は撤退を開始。仮死状態の空閑は戦死と誤認され、松浦曹長によって、遺品として軍刀とピストルが抜き取られ、浅く土をかけられて埋められた。12名は負傷者を助けながら(23日)午前5時、連隊本部にたどり着いた。25日夜、第二大隊生還者の選抜兵10数名で捜索隊が組まれ、松浦曹長の案内で遺体の回収に向ったが、空閑を発見できなかった。この日、空閑を捕虜にしたという記事が中国側の新聞に報じられた。連隊長の林大八大佐は「死んでいてくれればいいが、万一にも…」とつぶやいたという。

23日朝、空閑は国民革命軍によって収容され、真茹19路軍司令部野戦病院で、司令部附きの情報軍官・甘海瀾少校と少尉の看病を受けた。空閑は捕虜となったことを恥じ、自決を考えたが、甘少校は再起を説得する。甘は3年間日本への留学経験があった。3月16日、日中捕虜交換によって、西尾甚六少尉とともに上海兵站病院に移された。

しかし、空閑に対する世間の風当たりは強く、軍は空閑の生還を秘密にして一室に収容し、軍法会議を開くが、無罪となった。植田師団長は、満洲で余生を送らせようとした。また空閑本人は3月21日、「次の戦争には一兵卒として従軍させて欲しい」という願書を師団参謀長の谷実夫に出した。同日、(歩兵7連隊の)尾山大尉が自殺未遂を計り、参謀本部庶務課の牟田口廉也中佐ら22期同期生が「潔く自決せよ」と電報を打った。連隊拠点の金沢では情報統制があったにもかかわらず、一般人の間に噂が広まり、夫人が留守を守る川岸町の自宅に怒鳴り込んだり、投石を行ったりする者もいた。(日本人は怖い。)空閑は、辻政信大尉(第1大隊中隊長)に「同期生の誰彼から自殺せよと勧めてくるが、死を恐れる僕だと思っているのだろうか。部隊の戦闘詳報と功績調査が終わるまでは、どんなに苦しくても死ねないよ。死に勝る苦痛を偲んでいる僕の心も分からず、色々罵倒しているんだね」と言った。

 

部下らの戦没57日忌にあたる3月28日、師団が提供した自動車で、自らの部隊が奮戦した地点へ戻り、林連隊長の戦死跡を弔った後、付き添いの兵を退け、程近い野原で拳銃により自決した。歩兵第3連隊では、ある中隊長が、「捕虜になりながら自ら死に切れず、忠告を受けてやっと死んだが、それも切腹ではなく、拳銃自殺とは、武士にあるまじき卑怯者」と罵倒した。

そのころは、爆弾三勇士ブームが下火になりつつあったときで、その死は4月2日、東京日日新聞号外を皮切りに美談としてもてはやされ、映画や小説にされた。国民から陸軍に戦死者として優遇せよという陳情が殺到し、困惑した軍当局は公務死として勲四等へ昇叙、その後1934年4月、靖国神社に合祀された。(誰がそれを決めたのか。) 

ともに捕虜となった西尾少佐は12月、自宅で自決し、「第二の空閑少佐」と美談になった。

 

日露戦争でも村上正路大佐など捕虜となった者はいたが、処罰されることはなく、金鵄(し)勲章を授与されることもあった。しかし彼らは民間人から白眼視される傾向にあり軍部も、捕虜を否認する民衆の観念が職業将校団と同じほど強烈であることを認識し、これ以降、日本軍で捕虜をタブーとすることが次第に習慣化していったようだ。

 

以上 2020818()

 

 

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