2020年8月23日日曜日

松岡洋右縦横談 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988 要旨・感想

 松岡洋右縦横談 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988

 

 

感想 2020823()

 

 松岡は饒舌でアイデアマンで面白いのだが、日ソ中立条約を結んだ直後に対ソ戦を主張するなど、独ソ戦が始まり、自らが構想していた四国連合案が潰えたからといっても、思想的に無節操ではないか。しかしそういう無節操な松岡でも、若い頃アメリカで10年も生活しただけあり、ライバル視はするものの、アメリカを特別に考え、対米戦だけは避けたかったのではないかと思われる。

 

感想 2020822()

 

本文とは直接関係がないが、五・一五事件に関する新書版*を読んでいて、藤井斉が北一輝の思想に傾倒していたらしいと分かり、愕然とした。なんであんなファナティクな思想に傾倒するのだろうか。そしてそれを実行に移すために、時の首相まで殺害するのか、信じられない。

 すごく思い上がっている。自己中もいいところだ。それを本文の松岡は、方法はともかく、支持しているのだ。支持する民衆も信じられない。

 

*小山俊樹『五・一五事件』中公新書

 

感想 2020820()

 

巧みな文章だ。言葉に裏があり、額面どおりに信用できない曲者、政治家、扇動家である。

情緒的。その情緒のもとを日本人、皇室、神話に求める。欧米世界の中で孤立していた当時の情況を反映しているのかもしれない。

吉田松陰、藤田東湖の水戸学、霧島山などに精神的支柱を求める。173

血盟団事件や五・一五事件を、その方法では非難するが、心情では擁護している。174

戦略的には満洲一点に焦点を絞る。「満蒙は日本の生命線」を主張する。175

 

感想 2020820()

 

ウイキペディア「松岡洋右」を読んで、再考。私は、松岡は東大卒かと思っていたが、東大を目指して準備した時期もあったが、東大の教育内容を見て飽き足らず、独学で外交官試験を目指し、トップで合格したとのこと。

また苦学し、1893年、親戚が既に渡米して成功していたことなどから米国に渡り、東洋人だと差別され過酷な労働を強いられながら、1900年、アメリカのオレゴン大学法学部を卒業した。松岡は英語が非常に上手になった。アメリカで松岡が得た教訓は、「力に力で対抗することによって初めて真の親友になれる。」ということとのこと。またアメリカ時代に、キリスト教に入信1893したように、松岡は最初から日本主義者ではなかった。1902年、母の病気もあり、9年ぶりに帰国した。

 日本に帰ってから明治法律学校(現・明治大学)に籍を置きながら東京帝国大学を目指したが、授業内容が物足りず、独学で外交官試験をめざし、1904年、外交官及領事館試験に首席で合格し、外務省に入省する。

領事館補として中華民国上海、関東都督府に赴任。このころ満鉄総裁の後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。1919年のパリ講和会議に随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして活躍した。その後中華民国総領事を経て、1921年、外務省退官。…以下、松岡に関するウイキペディアの記述は延々と続く。それだけ松岡が外交を中心とする政治の舞台で活躍したということだ。本文を執筆した時期、つまり国際連盟の席を蹴って退場した時期の松岡は、次第に日本主義に転身したようだ。また、彼は饒舌で自信過剰であったため、周囲の者からだけでなく昭和天皇からも嫌われ、松岡を外相から外すために、内閣が総辞職するということまで行われた。戦後松岡はA級戦犯に指定されたが、判決が出る前に結核で死んでしまった。さらなるウイキペディアの要約は、後に回す。

 

要旨

 

編集部注

 

171 1933年、昭和8年2月24日、外交努力もやったが、満州国不承認が、国際連盟の特別総会で、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で可決された。このとき松岡洋右は日本全権を務めた。松岡は、「もはや連盟に協力できない」と述べ、席を蹴って退席した。3月27日、日本は正式に国際連盟から脱退した。国民は、帰国した松岡は英雄として迎えた。

 

本文

 

 私は今誰にも会いたくない。(嘘)私のやった仕事を偉大だとするのは、世間の人々の感傷である。私は私に与えられた役割を果たしたに過ぎない。日本人としての私が当然なすべき仕事をしたに過ぎない。(宣伝文句)私は世間の人々の記憶から忘れられたい。(これも嘘)

172 鹿児島の駅頭は、私を出迎える人々で溢れた。(宣伝文句)私のまぶたには熱い涙が湧いた。人々は純情素朴だ。私は鹿児島での歓迎会を辞退しきれなくて出席したが、私は盛大な歓迎を受ける資格などないと述べた。

 私が故郷の三田尻に帰ったとき、そこでも歓迎会を開く準備をしていたが、私は応諾する勇気がなかった。私は申し訳ないとは思うが、誰とも面会しない。東京や満洲から訪れる人とも面会しない。会えば朝から晩まで私の時間の全部がそのために塞がれてしまい、(饒舌家)何のために田舎に引き込んでいるのか分からなくなる。

 

 私は毎日沖へ釣りに出かけた。しかし私は適当な時が来れば口を開くつもりだし筆も取ろう。

 新聞が私の鹿児島への旅程を事前に報道したため、至る所の歓迎で実に迷惑した。私の南九州への旅の目的は、霧島山を訪れ、皇祖発祥の地を親しく拝観することだった。そして薩州勤王の史蹟を訪ね、南洲西郷隆盛翁を偲ぶためだった。

173 薩摩では南洲翁の遺愛の品々、遺墨の数々を親しく目の当りに見て、感慨にうたれた。皇祖発祥の地霧島山を登攀した。ここは一生に一度は訪れねばならないところだ。それは日本人として当然のことだ。

 皇祖発祥の地という高千穂峰は、日向に三ヶ所あるそうで、宮崎県知事は、皇祖発祥の地は霧島ではなく高千穂峰だと私に勧めた。しかし、私は皇祖発祥の地が日向に三ヶ所あることを知らず、すでに霧島に決めていたし、(日向は)旅程にも組んでいなかったので、断ってやめた。(頑固)

 

松陰神社にも最近参拝した。時が時であるから、いっそう印象深かった。松下村塾を訪れ、松陰先生の教訓を思い起こし、感慨深かった。

 ジュネーブに向って出発する際、徳冨蘇峰先生から、松陰先生が書かれた碑文の石摺りを戴いたが、その石摺りの村碑の、先生の御筆跡にも目の当りに接し、新しい感銘を受けた。(このあたり、日本主義の宣伝)

 私は今水戸を訪れたいと思っている。水戸学を研究したい。

174 明治維新の勤王の根元は水戸ではないか。理論的基礎は水戸であり、その実行的運動を薩長がやった。防長の勤王は水戸に淵源するのではないか。松陰先生も水戸学の影響を受けておられる。藤田東湖等の傑物の出た水戸を是非訪れてみたい。

徳川家の一門、御三家の上席、天下の副将軍をもって任じた水戸の徳川家が、その本家の徳川幕府を倒し、天皇親政の明治維新の根元・導火線をなした。

 

 血盟団事件、五・一五事件等々の最近の大事件を考えてみても、水戸学がその根底に流れていると思われる。

 最近のこれらの大事件の関係者の動機において、日本人として誰しも異議のないところだろう。私も充分その心情を是とする。けれどもその実行の方法は、厳重に非難されねばならぬ。いざ実行となると、なかなか正しい路を行くことは難しいものだ。*

 

*松岡は1930年、満鉄を退職し、2月、山口2区から立候補(政友会所属)して初当選。議会で幣原外交を批判して、国民から喝采を受けていた。

 

 日本は今澆季(ぎょうき、末世)ではない、非常時ではない。私はジュネーブで感傷的ではなかった。 私は最初に日本の地を踏んだ時、涙が自から双頬につたわるのを禁じえなかった。それは、この松岡に対して、路傍の労働者たち、その妻子たちが、帽子を取り、働く手を休めて敬礼してくれたからだ。敬礼されたからうれしかったのではない。私がその人々の偽りのない純情と素朴さに心打たれたからだ。この純情がある限り日本は非常時ではない、澆季ではない、決して滅ぶべきではないと私は思った。

 こうした中流以下の人々の純情に、その後あらゆる機会にぶつかった。特に田舎に入るにつれ、一層深く感じた。

 日本の中流以下の人々の中には、この国を思う純情が失われていない。中流以上の人々の中には、功利的、実利的になり、これを失っている者があるようだ。田舎よりも都会で失われている。とはいえ都会の人々は経済的圧迫を直接に受け、脅威にさらされているから、あながち責めるわけにいかないだろうが。

175 私は感傷から立ち直り、沈思し、南洲先生、松陰先生の旧蹟を弔い、修養につとめることにした。世間の人々は感傷的になっている。私は世間の人々が理性を取り戻す日を待つ。

 

 幣原さんが外務大臣のとき、幣原さんは忠誠であった。忠誠ならずして国家の仕事に当たれない。しかし幣原さんと私とは方針が異なり、立場が異なる。幣原さんは支那を知らない、実際に支那を見てきた人ではない。支那問題に関係している日本の人々の考え方は一方に偏している。全体の支那を見透かした対支政策を立てていない。

 私は最初上海に入った。それから満洲に入った。私は支那全土を歩いた。ただし福州まで行ったが、遺憾ながら広州に行かなかった。

 幣原さんは満蒙問題も、中支の揚子江沿岸の対支貿易も両方とも上手くやっていこうとした。国家から見れば満蒙は実に生命線であり、また主にこれは大阪方面であるが、対支貿易も国家的見地から見れば重要だ。幣原さんはこの二つを共に調和して上手くやろうとした。しかし、二兎を追うものは一兎をも得ずの道理で、支那問題は行き詰まった。私は満蒙問題だけに没頭して、一意専心努力し、南支、中支貿易は、止むを得なければ犠牲にしてもよいと考えている。10年間満蒙問題にわき目も振らず努力すれば、支那に関するあらゆる問題は解決する。

 ロシアと満蒙とは数千里境を接しており、その境界線ははっきりしておらず、どこからでも入ってこられるようだが、入り口は三ヶ所しかない。東支鉄道の口からと、外蒙古から張家口に抜ける道からと、天山北路伊犂(いり)からの途である。満蒙に強固な独立国ができれば、ロシア問題は解決する。

176 北支の匪賊が騒ぐ時だけ止むを得ず実力行使に出ればよい。しかし喜んでなすべきものでなく、深入りを避けねばならない。(自信過剰)

 満蒙が日本の生命線であることは、世間の人々にはっきり認識されたようだ。

 杉村陽太郎が政友会で講演した。杉村は、「満蒙だけを生命線というのはケチだ、我々は南洋に生命線を認めねばならない」と言った。

 私も南洋の重大さは10年前から認めている。しかし私は、もっとも正確に、もっとも厳密に考えて、満蒙を日本の生命線とした。生命線とは急所を意味する。その急所に致命的一撃を受ければ、国家はその存立を全うできなくなる。

 英国の生命線はエジプトであって、インドではない。エジプトが他国に領有されれば、スエズ運河は扼され、インドは英国の手から離れ、豪州やカナダはどこかへ行ってしまうだろう。そうなれば英国は国家的存立を主張できなくなる。

 米国の生命線はカリブ海だが、今はそれがパナマまで延長されている。ハワイや東アジアではない。

 国家の生命線は、国家が大きくなるに伴って拡大する。

 南洋経営も重要だが、今後10年間は、日本は満蒙に専心努力しなければならぬ。それは一切を好転させる。支那問題も、南洋問題も自ら上手く行くはずだ。

 満蒙問題の解決は、東洋の永遠の平和の鍵である。

177 世間の人々は、このことをまだ充分に飲み込めていない。

 宗子文*や顧維均*や張学良が欧米で活躍しているが、そのことにいらぬおせっかいをしないで、満蒙を固めることに専心すべきだ。

 支那は広いから統一が完成しないため、始終ごたごたしている。そういう国が借りた金を必ずはっきり返す見込みがあるはずがない。支那人は弁舌が達者だ。宗子文等も、後で払えなくなっても、うまく欧米諸国を引っ掛けようとしている。欧米各国も、経済的苦境から脱却するために、支那市場に目をつけているが、欧米諸国が簡単に支那の話に乗ってくるとも思えない。

 支那は信用できない国であり、金を貸したら回収できない。最初に欧米諸国が、支那は亡国であるという認識を持った。欧米諸国が手を引いた後で、日本が支那に金を貸した。愚かな西原借款*が最後の幕となった。

 

*西原借款 1917年1月から1918年にかけて、寺内正毅首相の大蔵大臣勝田主計が主導し、寺内の側近西原亀三が交渉に当たり、中華民国の段祺瑞政権に対して行われた、総額1億4500万円の、西原個人によるものとして行われた借款である。(列強との協調のため、外交ルートでは行われなかった。)また、3208万円の武器供与も行われた。

段が1920年に失脚し、ほとんど償還されなかった。鉄道・鉱山・森林を名目としていたが、実際は段祺瑞派軍閥の軍費に使われた。中国を円経済圏に取り込む目論見があった。

 

 欧米諸国ははっきりとした利益追求を目的としている。米国は支那の小麦市場を開拓しようとしている。

 私はジュネーブからの帰路、米国の上院議員外交委員長のピットマンと会談した。彼は私の言に屈服して一言もなかった。彼らははっきり利益・打算を考えている。

米国が支那に放資するにしても、軍艦が横付けできる、実力行使ができるところにしか資本を投下していない。上海でも軍艦がすぐ裏口までつけられる電話局を握っている。

 支那の、欧米諸国との借款成立はなかなか容易でない。欧米諸国は、よい条件の利益や確保できる利益を交換条件とするに違いない。日本のように「国策のため」などの美しい表看板を掲げない。

 

178 ジュネーブの国際連盟で働いている日本人は、もう日本人でなくなっているようだ。あれでは日本人たるの精神を持っているはずがないし、日本人としての自信も持っていない。

 ジュネーブで私は外務省子飼いの外交官たちの無力さ、無知に驚くと共に、新聞記者たちがよく事情を知り、事理を弁えていることに驚いた。外務省育ちの外交官たちは、煙草を吸い、漫談を続けて、適当な時日を経れば、一段ずつ昇進してゆく。彼らは苦労もせず、勉強もしない。それに対して新聞記者は、毎日苦労している。欧米の有名な外交家は、外報記者や新聞記者出身の人が活躍している。私は帰朝して大毎の歓迎会の席上で、重役たちに、海外特派員をもっと活躍させるために、もっと多額の金を送るように促した。彼等に自由に知名人士と交際できるようにさせたら、もっと効果が上がるはずだ。

 

 私は沈黙を続ける。新聞も読みたくない。近頃は漢籍を読んでいる。私はひそかに来るべき日に備えている。来るべき日の計画に心を砕いている。今は沈黙する。虚名の松岡は滅びて、真実の松岡がいつか日本の表面に現れるだろう。時が来れば私も再び世間の人々の面前に出るだろう。

 

1933年、昭和8年9月号 

 

以上 2020822()

 

ウイキペディア「松岡洋右」1880.3.4—1946.6.27  外交官、政治家。「弐キ参スケ」*の一人。

 

*東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右。この「参スケ」は、「満洲三角同盟」とも言われ、いずれも山口県周防地方出身で、互いに姻戚関係がある。

 

廻船問屋の四男。洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し、1893年、親戚が既に渡米して成功していたことなどから、留学のために渡米した。メソジスト監督教会の牧師メリマン・ハリスMerriman Colbert Harrisの庇護の下、日本自由メソジスト教会の指導者となる河辺貞吉から洗礼を受けた。寄宿先で仕事をしながら、学校へ通った。東洋人だと差別された。このころに松岡が得た教訓は、「力に力で対抗することによって初めて真の親友になれる。」ということだった。

ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学した後、1900年、オレゴン大学法学部を卒業した。またオレゴン大学と併行して早稲田大学の法学講義を取り寄せて勉学した。

1902年、母の病気もあり、9年ぶりに帰国した。松岡は終生アメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいた。

 

 日本に帰ってから明治法律学校(現・明治大学)に籍を置きながら東京帝国大学を目指したが、授業内容が物足りず、独学で外交官試験をめざし、1904年、外交官及領事館試験に首席で合格し、外務省に入省した。

領事館補として中華民国上海、関東都督府に赴任。このころ満鉄総裁の後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)の総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート。

1919年のパリ講和会議に随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして活躍した。この時、同じく随員であった近衛文麿と出会った。帰国後、中華民国総領事を経て、1921年、外務省退官。

 

退官後、山本条太郎が、松岡を南満洲鉄道の理事として引き抜き、1927年、副総裁。撫順炭鉱で石炭液化プラントを指導した。

1930年、満鉄を退職。2月、衆議院議員総選挙に山口2区から立候補(政友会所属)し、初当選。議会で対米英協調路線と対支内政不干渉方針の幣原外交を批判し、国民から喝采を浴びた

但し松岡は、満州事変による武力行使には反対で、民政党との協力内閣を主張したが、民政党の若槻内閣が拒否したため、その後一転して、満州国の早期承認を主張するようになった。(変わり身が早い)

 

1931年9月21日、中華民国政府は日本の軍事行動に関して国際連盟に提訴し、連盟理事会は1931年12月10日、リットン調査団の派遣を決定した。1932年10月、リットン報告書が連盟に提出された。それは2ヵ月後に始まる連盟総会の審議の基礎データとなった。報告書は日本の満洲での特殊権益を認めたが、結果的には満洲を国際管理下におくことを提案し、満州国を認めなかった。日本国内の世論は硬化し、日本政府は、報告書提出直前の9月15日、満州国を正式承認した。

 

1932年10月、日本政府は、首席全権西園寺公望、全権牧野伸顕、全権松岡洋右を連盟総会に派遣した。派遣に当たり、日本政府と外務省は、松岡に訓令を発した。脱退を規定路線として赴いたのではなく、できるだけ脱退を避ける方針で臨んだ。

1932年11月21日、連盟理事会で日中紛争に関する審議が始まり、日本政府全権の松岡と中華民国全権の顧維均が演説した。

12月8日、総会が開かれ、松岡は1時間20分、原稿なしで大演説を行った。「十字架上の日本」とでも題すべきもので、会議場では絶賛の拍手が渦巻いた。連盟総会での対日批判の急先鋒は、中華民国、スペイン、スイス、チェコスロバキア、オランダ領東インドだった。

松岡の演説後、「リットン卿一行の満洲視察」という満鉄広報課作成の映画が上映され、600人が観覧したが、これまで日本に対して反対の立場だったチェコスロバキアの代表ベネシュは、日本の満洲開発の姿勢を絶賛した。

1933年2月20日、日本政府は閣議で、リットン報告書をベースにした勧告が連盟総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定した。2月24日、総会で勧告案への採決がなされ、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択された。松岡は宣言書を朗読し、退場した。

 

 2月25日、読売新聞は「我が代表席を蹴って退場」「松岡代表堂々反対宣言」と報道し、東京朝日新聞も「連盟よさらば!遂に、協力の方途尽く」「我が代表堂々退場す」などと、新聞各紙はすでに連盟脱退を支持していた。英雄として迎えられた松岡は「今こそ日本精神の発揚が必要」とインタビューに答えた。

松岡は帰路ロンドンに立ち寄った際、市民から「日本は賊の国だ」と罵られた。

3月8日、日本政府は脱退を決定し、27日、連盟に通告した。

 

松岡は「言うべきことを言ってのけた」初めての外交官として、「ジュネーブの英雄」として国民から凱旋将軍のように大歓迎された。言論界も清沢洌など一部の識者を除いて、松岡を支持した

 

帰国後松岡は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年、政友会を離党し、「政党解消連盟」を結成して、議員辞職した。全国遊説し、政党解消連盟の会員は200万人となった。松岡は「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などとファシズム的論調を展開した。

1935年8月、満鉄総裁として着任。(1939年2月まで)この間、1938年3月、ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎は、満鉄総裁の松岡の了承をとりつけ、独逸の抗議にもかかわらず、シベリア鉄道のオトポール駅(現ザバイカリスク駅)に逃げてきたユダヤ人を、アメリカの上海租界まで逃がしてやった。(ヒグチ・ルート)

 

 1940年、近衛文麿が大命降下(天皇が組閣を命じる行為)を受け、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があった。松岡は「軍人に外交の口出しはさせない」と言ったが、陸軍大臣予定者の東條英機陸軍中将は、直後に外交案件を提案し、松岡の言を無視した。7月22日、第2次近衛内閣が成立した。

 松岡は、就任したばかりの重光葵駐英特命全権大使以外の主要な在外外交官40数名を更迭し、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し、「革新派」外交官白鳥敏夫(日独伊三国同盟推進)を、外務省顧問に任命した。松岡は有力な外交官を外務省から退職させようとしたが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否した。松岡は公の場で外交官を罵倒した。

 当時、日中戦争は泥沼化し、日米関係は険悪となっており、陸軍は三国同盟を主張していた。しかし、松岡は、日米両国による平和のための協力を唱えていた。

 松岡は重慶の国民政府と汪兆銘の政権との合体工作を行った。(香港工作)しかし汪兆銘政権を支援していた陸軍が反対して頓挫した。松岡は汪兆銘政権を正当な中国政府として承認した。松岡は「満州国だけを確保して中国から全面的に撤退するのが一番よいが、それが少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた。

 松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきだと考えており、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏(この言葉は、松岡がラジオで使ったのが、公人としては初出)の完成を唱えていた。ブロック形成によりナショナリズムを回避し、やがて世界国家に至る、そのためには指導国家同志の協調が必要だと松岡は考えていた。

 松岡は、ドイツ人は信用できないと考えていたが、武藤章は、松岡に三国同盟を勧めた、というより承諾しなければ内閣を潰すと脅した。松岡は三国同盟に傾斜していった。

 松岡は、独逸の軍事力優勢の観点から、西欧ブロックが独逸の指導下に形成されると考え、1940年8月頃から三国同盟を検討するようになった。

中国問題をめぐって日米、日英関係が悪化していた。ドイツは松岡に日中和平の仲介をすると働きかけた。外務省のOB小幡酉吉、松平恒雄、吉田茂などを含む外務省の一部は、日独提携に反対した。三国同盟推進派の白鳥敏夫は、松岡に決断を迫った。松岡はこの時期暴漢に襲われた。外務省顧問の斎藤良衛は、それを陸軍や右翼の指示と考えている。

 松岡は伊藤博文の影響もあり、親ロシアを唱えていた。松岡はソ連にパキスタンやインドへの進出を認めれば、ソ連の東進は防げると考えていた。松岡は、軍部の反対を抑えながら、独逸の斡旋による日ソ関係構築を考えていた。

 1940年8月13日、松岡はドイツの使者ハインリヒ・ゲオルク・スターマーと会談した。ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップも、ソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想し、日ソ関係の仲介を提案した。松岡は、日独の提携で、アメリカの西欧や東亜への介入を防げると考えた。そしてアメリカの反感は楽観的に考えた。

 1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟が成立した。しかしその後独ソ関係は悪化し、四国連合樹立や日ソ関係の橋渡しとしてのドイツに期待できなくなった。ソ連は、四国同盟への参加条件として多数の領土要求をドイツに出していた。

 1941年3月、松岡は独伊を訪問した。その時ドイツから対英軍事的圧力の確約を求められたが、「私は日本の指導者ではないから確約できない」と逃げた。往路と帰路二度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日日ソ中立条約を電撃的に調印し、相互不可侵を確約した。チャーチルはこの時松岡に、「ヒトラーは近い内に必ずソ連と戦争をする」というM16(英情報機関の一つである秘密情報部SIS)から仕入れた情報を渡したが、松岡はそれを無視した。

 

 松岡が外相であるのに、上述の外遊中に、松岡を抜きにして、日米交渉が進展していた。駐米大使・野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルとの会談で、日米諒解案が合意され、それは日本に4月18日に伝達された。同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵と引換えに、米側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力することなどが盛り込まれ、三国同盟の事実上の死文化は含まれていなかった。

 この諒解案は、日米の民間人が共同で作成し、野村・ハル会談で、交渉の前提として合意されたものであった。しかし、日本側はこれをアメリカ側の提案だと誤解し、交渉開始に賛成した。*1

 4月22日、松岡が帰国し、この案に反対し、静養と称して閣議を欠席した。松岡の自尊心が傷つけられたのだ。松岡は諒解案が本当かと疑い、野村に英文の原文の送付を求めた。諒解案はアメリカの提案ではなく、野村は松岡に前文しか送れなかった。*2

 5月3日、(松岡は)アメリカに日米中立条約の申し入れをした。

 松岡修正案を仕上げ、5月8日、それを大本営政府連絡懇談会に提出した。松岡はアメリカが参戦すれば戦争が長期化し、アメリカに参戦させないことが必要だと唱えた。陸軍参謀総長・杉山元は「外相独舞台の感あり」としており、松岡は、軍部から批判的に見られるようになった。

 松岡修正案は、陸軍に配慮し、満州国の承認と、防共のための駐兵が組み込まれた。米側の対応には暫く時間がかかった。その間、松岡はさらに提案を修正して米側に渡した。近衛や東條は、松岡がアメリカに言いがかりをつけ、交渉の決裂を期待していたと言う。しかし、顧問の斎藤良衛は、松岡がアメリカと戦うべきだなどと一度も言っていないと言う。

 6月22日、ハルは松岡修正案への回答を行った。松岡はこの回答に反発し、受け入れなかった。6月21日の米提案は、満州国承認が消え、汪兆銘政府の否認、アメリカの欧州参戦を否定せず、日米は太平洋での領土的企画を持たない(南進の否定)など、厳しい条件となった。*3

 

*1、2、3 加藤陽子『戦争まで』によれば、野村・ハルの「日米諒解案」をアメリカの正式な提案ではないと解釈するのは間違いで、れっきとした正式な提案であったとのことだ。335

その後の1回目の松岡修正案5/12における問題点は、米が汪兆銘政権を認めること、つまり日本が中国本土から撤退しないということを米に求めたことではないか。米側がそれに反対6/21し、松岡がそれを大筋で認めた2回目の修正案7/15を提出した直後、松岡は更迭され7/16、その返事を見る前に、日本側が7月に南部仏印への進駐を断行した7/23ことが、決裂の決定的な原因ではないかと私は思う。

 

 6月22日、独ソ戦が始まったため、松岡のユーラシア枢軸機構・四国連合案は潰えた。松岡は、ドイツ訪問時、リッベントロップから、独ソ衝突があり得ないとはいえないと言われ、また、ヒトラーからは、独ソ国境に150個師団を展開したことを明かされたが、松岡は閣議でこれを報告せず、独ソ開戦を否定し続けた。(本当か。個人プレーではないか。)スターリンも独ソ戦情報が信じられず、開戦時に大きな損害を被った。

 独ソ開戦により三国同盟の目的がなくなったとして三国同盟の破棄を主張する閣僚がいた。(鈴木貞一、平沼騏一郎ら)松岡は、締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソ連をドイツとともに挟撃することを主張し、南部仏印進駐に反対した。政府首脳や世論は北進論に否定的で、独ソ戦でソ連の脅威が消滅したとして、南進論が優勢となった。

松岡は陸軍と対立し、閣内で平沼騏一郎ら反ドイツ主義者と対立し、日米交渉の継続は不可能であると主張した。昭和天皇が松岡解任を主張し、近衛文麿首相が松岡に外相辞任を迫ったが、松岡は拒否し、7月16日、近衛は内閣総辞職し、松岡を外して第3次近衛内閣を発足させた。そして南部仏印進駐が行われた。

 

 松岡は、対英戦争は不可避と考えていたが、対米戦争は望んでいなかった。松岡は、英米一体論を批判し、ドイツと提携してもアメリカとは戦争にならないと考えていた。

 

 1941年12月8日、松岡は、日米開戦の報を聞いて、「三国同盟は一生の不覚であった」と号泣したという。

 しかし、松岡は、緒戦の勝利に興奮したが、対米開戦は外交上の失敗であり、日英米の国交処理をいつかはしなくてはならないと徳冨蘇峰宛の手紙に書いた。

 その後結核に罹患して痩せ細った。1945年、旧友で終戦工作中の吉田茂から、和平工作のためのモスクワ訪問を依頼され、松岡は乗り気だったが、ソ連が拒否した。

 

 敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、出廷したのは一度だけで、1946年6月27日、駐留米軍病院から転院した東大病院で死去した。

 

以上 2020823()

 

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