2020年8月7日金曜日

血盟団秘話 井上日召 1954年、昭和29年7月号 臨増昭和 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

 

血盟団秘話 井上日召 1954年、昭和29年7月号 臨増昭和 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想

 

 人は慣れると怖い。慣れると感じなくなるからだ。中でも人殺しに慣れることが最も怖い。しかしそれが戦前の文化だったようだ。

日本は、日清戦争以来10年毎に戦争を繰り返してきた。その結果が、関東大震災時の朝鮮人、中国人、社会主義者の虐殺であり、対中国戦争での「三光」である。中国各地での、ゲームのような殺人の現実を見よ。このような、戦争と殺人に対する慣れによって、本文に見られるように、日本国内においても、政治家の暗殺が平然と行われ、それを何とも思わない状況が生まれたのではないか。本文中に現れる以下の記述を読まれたい。人殺しを嬉々として行おうとする様子が見て取れる。

 

117 「急遽帰京して、代々木の隠れ家へ着いてみると、古賀清志(五・一五、海軍中尉)と四元義隆(帝大生、元の安岡門下)の目がギラギラ光っている。これより先、私は十月事件*で頭山邸に遁れ、その後、代々木の権藤成卿氏の長屋に潜んでいたのである。

 

*十月事件 1931年10月決行を目標として、陸軍中堅幹部によって計画されたクーデター未遂事件。別名錦旗革命事件。外務大臣・幣原喜重郎の、満州事変の不拡大・局地解決方針に不服だった。

 

 さっそく両人を別室に呼んで、「きさまたち、何か決心してるな」と問詰めると、はたして私の留守中に、日本の最高指導者二十名を暗殺する、テロ計画を立て、実行寸前であることがわかった。」

 

 

また、「あれは簡単に死にすぎた、あれは中々死ななかった」などと、人の死を語るのに遊び気分なのだ。そしてこれから人殺しをしようとするのに、ニコニコしているのだ。恐ろしい限りだ。

 

118 「人間の運命というものは、不可思議なものだ。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない、池田成彬が助かり、そう早くはいかぬだろうと思った、団が案外あっけなく殺されている。池田を狙ったのは古内英司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。…

 井上の時は、二月八日の夕方、小沼がにこにこして、権藤長屋に現れた。「先生、拳銃下さい」「見つけたな」と言ったら、「ええ、大丈夫です」「そうか」といって。拳銃と小遣いを五十円渡した。そうしたら、翌日すぐやってしまった。」

 

井上日召は日蓮宗の坊主だった。理論はない。あるのはムードだけだ。

ウイキペディア「血盟団事件」によれば、血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂は、現在もなお、正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残り、境内には「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがあるとのことだ。

 

井上日召 1886.4.12—1967.3.4 とあるから、本文を執筆したのは、68歳のころである。また、1956年、右翼活動から引退し、黒幕三浦義一*から経済的援助を受け老後を過ごす、とあるから、本文を執筆した1954のは、引退する2年前となる。

 

*三浦義一1898.2.27—1971.4.10は、戦時中に日本金銀運営会の利権を掌握した右翼。

 

補記 要人暗殺は、思想的には、アナーキズムの影響もあるかもしれない。ターゲットは、恐らく第一次大戦後の国際協調派の政治家に違いない。

 

補記 戦後も池田内閣政府要人の暗殺を計画した三無(さんゆう)事件があったとは知らなかった。1961年、昭和36年、河南豊作らが池田内閣の政府要人の暗殺を計画した。(クーデター未遂事件)これは1970年の三島事件(三島由紀夫)にも影響を与えた。

 

補記 血盟団事件では、海軍関係者は不問にされたという。関与した海軍側関係者からは逮捕者が出なかった。これは暗殺を容認する、海軍や警察という国家権力の意志を示すものではないか。それに特赦放免も早い。1940年特赦放免だから、わずか8年で無期懲役の解消である。

 

要旨

 

編集部注

 

 前蔵相・井上準之助(二月九日)、三井合名理事長・団琢磨(三月五日)の暗殺事件は、軍隊決起の先駆となったが、この事件は、「君側の奸を除かねば日本の前途は暗い」とする、井上日召が盟主の血盟団員の仕業だった。彼らは宮中・政界・財界の要人十三名を「一人一殺主義」で暗殺する計画を練っていた。

 

本文

 

 私は7歳の時、「なぜ桔梗は紫で、女郎花(おみなえし)は黄色いのか」ということに疑問を持った。その時から全ての天地間の現象に懐疑を抱き、無限の闇黒世界を彷徨した。人生の真とは何か、善とは何か、これの解決に死以上の難行苦行を続けた。

 1921年、大正10年の春、中国の革命運動から日本に亡命するような恰好で帰国し、郷里の群馬県川場村の三徳庵で修業した。1924年、大正13年5月に開悟し、7歳の1893年の時からこれまでの30年間の疑問が一瞬にして氷釈した。

116 1924年7月、私は天の声を聞いた。「9月5日を期して東南に向って進め」というのだ。これが、私が日本革新運動に立ち上がる第一歩だった。三徳庵から東南は東京に当たる。(天地の全現象の解明と東京、そして東京と「日本革新運動」とがどうつながるのか。)

 浅草妙教寺野口日主上人がいた。野口は、頭山満翁や大連の金子雪斎翁*と気心が知れた関係で、国家革新の気持ちを持っていた。ある日私は、野口を訪ねたが、ちょうどそのとき雪斎翁もいて、その時次のように野口日主上人と金子雪斎翁から私に話があった。

 

*金子雪斎は大連で振東学舎を経営。『泰東日報』の日本人社長。アジア主義者。

 

 「井上君、「かねての案」を実行したい。喋ったり、書いたりして気運をつくる方はわれわれ老人が当たるから、君には実施を引き受けてもらいたい。」

 その内容は大変だ。かねての案とは、野口日主上人と金子雪斎翁が練り上げた国家改造の具体案で、純然たる非合法である。その中には日本の支配階級と準支配階級、6000人の殺戮がある。

 

 私はいやおうなく承諾したが、実は非合法には反対だった。私は当時、同志倍加運動によって革新ができると信じていた。それは5人の同志が毎月1人ずつの同志を獲得し、新しい同志がまた毎月1人ずつの同志を獲得するというやり方で、無血革命を成就しようとするものだったが、この考えは甘かった。

 国家革新の源流として、北一輝大川周明満川亀太郎*が思い出されるが、それらの錦旗革命派*の他に、金子雪斎、野口日主らの革新計画もあった。しかし世間の人はそのことを知らなかった。金子雪斎の振東学舎の幹部の本間憲一郎でさえそのことを知らなかった。(秘密にして公表しなかったのだろう。)

 

*満川亀太郎は、北一輝や大川周明と猶存社を結成したアジア主義者だが、社会主義者やデモクラットらとも幅広く親交を結んだ。

 

 革新とか革命とかいくら騒いでもそれはできない。根本は(それを実行に移す)人だ。私は、まず計画を実行できる人間をつくっていかなければならない。昭和の初め、私は茨城県の大洗の近くの立正護国堂を本拠として、青年を錬成した。集まった者は主として茨城の青年で、古内栄司、菱沼五郎、小沼正ら20余名であった。これに海軍の藤井斎(斉)、古賀清志らが合流し、後に、安岡正篤大川周明西田税らによって養成された陸海軍青年将校や民間青年が集まって来た。

 安岡や大川や西田は革新を説き、青年を扇動したが、先頭には立たなかった。そこで和尚(私)ならやるだろうとし、私の元に青年が集まって来たのだ。

 1930年、昭和5年、私は「時勢の急迫をひしひしと感じ」、護国堂を去り、東京に出た。翌1931年、昭和6年の十月事件*に民間側(殺人を実行する民間人)の実行を(私は)引き受けたが、軍人側が不発に終わり、「うやむやのうちにけりがついた。」当局は私が臭いと睨んで、追及が厳しくなった。当時私は、小石川の今泉定助翁*の屋敷にやっかいになっていたが、刑事の踏み込む一瞬前に、かねて用意しておいた海軍大佐の正装で、自動車で、渋谷の頭山邸に至り、1週間匿ってもらった。

 

*今泉定助1863.3.27—1944.9.11は東大卒の神道思想家。神宮奉斎会会長、日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。

 

117 十月事件*のころ、私が掌握していた同志は、陸海軍の若い連中と民間人とで、40数名いた。これらの連中は、十月事件のていたらくを見て、まなじりを決して立ち上がった。

 「あいつらは革新だ、国家のためだと言いながら、あるのは名利(名誉と利益)だけではないか。天下国家を売り物にする連中は、もはや相手にしない。革新は俺たちがやる。」

 苦悶した挙句、死のうとした連中だ。何も慾がない。生きていることがつまらないどうして死のうかと、そればかり考えている者どもだから「堪らない。」

 その時上海事変1932.1.28—1932.3.3が起ったが、(仲間の)陸海軍の連中は、誰も出征しようと言わない。彼らは「死なばもろとも(一緒に)と誓った同志だ。成敗を度外視して、一挙に決起しよう。」と提案したが、私は、「馬鹿なことを言うな。お前たち軍人が出征しないでどうするか。お前たちは前線で死ね。国内のことは俺たち民間が引き受けた。」

 こう言って出征させた。1932年、昭和7年1月下旬、私は体調が悪く、1ヶ月の予定で田舎に静養旅行に出かけた。茨城県を回っている時、異変を直感し、急遽帰京して、代々木の隠れ家へ着いてみると、古賀清志(五・一五、海軍中尉)と四元義隆(帝大生、元の安岡門下)の目がギラギラ光っている。

これより先、私は十月事件*で頭山邸に遁れ、その後、代々木の権藤成卿氏*の長屋に潜んでいた。

 

1931.10決行を予定した陸軍中堅幹部によって計画されたクーデター未遂事件。

*権藤成卿1868.4.13—1937.7.9 農本主義思想家。古代中国の社稷型封建制を理想とし、共済共存の共同体としての社稷国家の実現と農民・人民の自治および、東洋国家の原始自治を唱えた。

 

 両人を別室に呼んで「きさまたち、何か決心してるな」と問い詰めると、はたして私の留守中に、日本の最高指導者20数名を暗殺する計画を立て、実行する前であることが分かった。私も、一蓮托生、2月に行われる総選挙期間を実行期間として、同意を与えた。

 実施者の人選に取り掛かった。相手は、西園寺(公望)、牧野(伸顕)、団(琢磨、三井合名理事長)、井上(準之助、前蔵相)ら政財界の巨頭20人として、これを10名で担当する。一人一殺で、各人に第一目標、第二目標を与え、同志相互の横の連絡は一切厳禁、誰が誰を狙っているのか、知っているのは私と本人だけとした。

118 武器として使うピストルは、決行前日まで渡さないことにした。私は40数名の同志の中から、10名の最精鋭を選定し、右の次第を堅く申し渡した。

 ピストルはかねてから用意しておいた。前年1931年の秋、上海の空中戦*で死んだ、藤井少佐*が大連へ往復飛行を試みた時、大連で購入を(私が)命じたものだ。海軍の飛行機に積んで、本人が持ってくるのだから、税関もクソもない。それを箱に入れて、浜勇治*(五・一五、海軍中尉)の家の、玄関の下を掘って埋めておいた。

 これより先、支那に行った者に手紙を託して、南京から内地にその手紙を出してもらった。能率のいい日本の特高は、ちゃんと手紙を検閲して、日召はどこか支那をうろついていると思っていることだろう。万事上手く行くはずである。

 2月9日の夜、小沼正が蔵相井上準之助を斃したとこが、翌朝、大場海軍少尉*から報告された。そこへ四元が来て、「今権藤長屋に(私が)いるが、権藤成卿氏に迷惑がかからないように」と言うので、私は渋谷の頭山邸に向った。

 

人間の運命というものは、不可思議なものだ。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない、池田成彬が助かり、そう早くはいかぬだろうと思った、が案外あっけなく殺されている。池田を狙ったのは古内英司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。

 古内は謹直そのもので、寝食を忘れて、附いていた。池田の別荘、本邸を突き止め、吸盤のように吸い付いていた。(古内)本人は麻布一聯隊の営内に居住し、大蔵中尉*のところで寝起きしている。警察の手の絶対届かぬ場所にひそんで、寝食を忘れて、つけねらっても、駄目な時はだめなのだ。

 

 井上の時は、2月8日の夕方、小沼がにこにこして、権藤長屋に現れた。「先生、拳銃下さい」「見つけたな」と言ったら、「ええ、大丈夫です」「そうか」といって。拳銃と小遣いを五十円渡した。そうしたら、翌日すぐやってしまった

 

 だいたい拳銃というものは、素人は三間離れたら当たるものではない。よほどの度胸と腕のある奴でない限り、当たらないものだ。そこで射つ時に、相手の身体にこちらの身体をしっかり押し付けて射てば、間違いない。度胸ある者でも緊張すると震えるものだ。身体ごとぶつけて射たないと失敗する。これをよく教えておいたが、二人ともちゃんとその通りやった。

 

119 2月9日、本郷の駒込小学校の駒井重次の政談演説会に、(井上準之助が)応援に来て、車から降りたところを(小沼正が)やったのだが、そこで袋叩きにされて、半殺しになった。すぐ警察に引っぱって行かれ、またひどくやられた。それでも小沼は痛いとも痒いとも言わなかった。後で警察の者が、「あれだけやっても音をあげないとは、呆れたものだ」と言ったが、死ぬ決心をしてるのだから、口を割るはずがない。

 

 いくら叩いても端緒がつかめないうちに、1932年3月5日、菱沼五郎をやった。この時(3月5日以前の話)私は頭山翁の家の武道場の二階に潜んでいた。五郎の奴がにこにこしてやって来て、パッと服を脱いで、新しいワイシャツの背中を向け、「先生、お題目を書いてください」「見つけたな」と言ったら、黙って後ろを向いた。背中に南無妙法蓮華経と書いてやり、拳銃と50円を渡した。

 「行って来ます」まるで銭湯にでも行くようすだ。しかし、それまでの彼の苦心は大変だった。彼はまず円タクの助手になり、東京の地理と団琢磨の車の番号を覚えた。それから新聞雑誌を買いあさって、片っ端から団の写真を切り抜いた。

 それから三井本館の玄関口が一目に見える三越の休憩室に座り込み、毎日見ていると、いつも午前11時になると、写真と同じ顔の男が、調べておいた番号の車に乗って、きちんきちんと判で捺したように出勤してくる。それを突き止めておいてから、翌日玄関のところで待っていると、例の車が11時にピタリと停まる。老紳士が出てくる。たった一発でおしまいだ。

 

 その時の情況を後で、警視庁の者が来て、あんな恐ろしかったことは生涯に初めてだと話していたが、その話によると、三井の急報ですぐ駆けつけたら、犯人が玄関のところへしゃがんでいる。そばへゆくと、ひょいと頭を上げて、にこにこして手を差し出した。その掌の上に黒光りする拳銃が載っている。差し出した拳銃を受け取らぬわけに行かぬし、取りに行って射たれたら、それっきりだ。

 周りに三井の銀行員がたくさんいるので、勇気を出して拳銃を掴もうとしたが、手が震えてどうしてもうまく、拳銃が掴めなかったと述懐していた。

 

 小沼井上を暗殺した時、警視庁は、総選挙の折、政友会と民政党の党争が苛烈を極めていたので、政友会関係のテロと見込みをつけていたが、そのうち三井のが暗殺されたので、見込み違いに気づいた。事件の真相を知ったきっかけは、金鶏学院安岡正篤が、時の警保局長・松本学に密告したのだ。事件には、元安岡の門下生だった四元とか池袋が参画している。安岡はおのれに累が及ぶことを恐れ、「あれは井上日召がやらせたことだ。井上さえ捕縛すれば、事件は終息するだろう」と示唆した。

120 この(安岡の密告の)ことは当時秘密だったが、後に警視庁の役人から直接聞かされた。安岡が内務省の機密費から5万円受け取っていたことも知った。

 私が頭山邸に隠れていることがばれた。頭山亭は警官隊によって包囲された。私は「軌って軌って斬りまくり、その上で切腹するから、お前は俺の首を斬れ、そしてそれを風呂敷に包んで『日召を連れて来た』と警視庁に放り出せ」と、本間憲一郎に頼んだ。(警官が踏み込んで来るのだから、そんなことをするゆとりはないのでは。)

 後事は古賀らに託してある。「5月になると陸海軍の連中も凱旋するので、そうしたら一挙に立って、わしのし残したことを完了せよ」と言いつけてある。

 

 そこへ天野辰夫*が現れて、慙死の不可なることを論じ、「警視総監が、『国士の礼をもって(井上日召を)待遇する』と言っているから、一緒に行ってくれ」という。(すでに特別扱い)

 

*天野辰夫は神平隊事件1933.7.11の首謀者。神平隊事件はクーデター未遂事件。刑は免除された。

 

 頭山亭に連日浪人の巨頭が集合し、頭山翁に迷惑がかからぬように、日召を追放しようとしたが、翁がうんと言わない。私が出頭することに決めると、翁は「本人が出るというなら、よろしい」と許しが出たので、一同はほっとした。

 

 私は1934年、昭和9年、無期懲役の判決を受けて入所した。その間、減刑や大赦があり、1940年、昭和15年に出所した。頭山邸に行き、「先生、私は今日から先生のことをお父さんと申し上げます。亡父の遺言に、『わしの死んだ後は、頭山先生をこのわしだと思って仕えてくれ』と言いつけられております」と挨拶した。

 するとコップに葡萄酒を一杯ついで、私にくれた。私は飲み干して「お父さん、この盃をお返ししてもよろしゅうございますか」と言ったら「うん」と頷いたから、一杯ついだ。そうしたら目を細くして飲んでしまった。その盃を貰って、一緒に行った橘孝三郎*や他の若い者に、お流れとして飲ませたが、頭山翁から盃を貰ったものは、おそらく私だけではないかと思う。(論理なし、儀式とお付き合いと儀礼があるだけ。)

 

橘孝三郎1893.3.18—1974.3.30 農本主義思想家。アナキスト。第一高等学校中退。五・一五事件で、勤労学校愛郷塾生7人と共に、東京の変電所を襲撃した。茨城県常盤村(現・水戸市)出身。

 

121 と言うのは、翁は酒が嫌いで、若い時から一滴も飲まないのだ。翁一代の間に、酒を飲んだのを見た人は、おそらくあるまい。翁自身も飲んだことはないと言っている。

 ある時私が聞いた。「御父さん、あなたは全然酒を飲んだことがないとおっしゃるが、若い時には若者同士の交際というものがある。好き嫌いは別として、お祭りなどで、勧められて一杯ぐらいは飲んだことがあるでしょう。」

 すると、翁が気難しいことを言う時にする、ちゃんと目を据えて、じっとこちらの顔を見つめ、「好かんことはせんじゃった」と断言した。一語千鈞の重みのある言葉である。(下らない)

 

 こちらが血盟団と命名したのではない。木内検事(元最高検次長)がそう呼んだ。この事件は表面的には二人の若者が二人の要人を暗殺したことに過ぎないが、裏面では国家革新のあらゆる源流支流が、ある一ヶ所に集中して爆発したものだ。そしてこの血盟団事件1932.2-3を基点として、五・一五1932.5.15、神兵隊*1933.7.11、二・二六1936.2.26等の事件に繋がる。

122 人物のつながりも広くて、深い。この裏に田中光顕伯*が関与していたことは誰も知る者がいない。

 

田中光顕1843.11.16—1939.3.28 土佐藩士。官僚・政治家。

 

 1927年、昭和2年の春、私は駿河の原の松陰寺で、玄峰老師*について参禅修業をしていた。同志の高井徳次郎*が寺に来て、「田中伯が(私に)会いたい」と言う。

 

玄峰老師は山本玄峰。1866—1961 禅僧。静岡県三島市龍沢寺の住職。松陰寺は埋葬地。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後は象徴天皇制を示唆した。遺言により葬儀はなかった。

高井徳次郎は水戸藩士。田中光顕伯の秘書。

 

 その前に、私と高井は、日本革新についての具体策を作っていた。下総の鹿野山を開発して、資金を作り、道場を建てて、そこに30人の修業者を集め、これを二組に分け、一日交替で、一組は唱題修業*に専念し、一組は百姓したり、托鉢したりして自活の糧を得る。修業期間は一ヵ年として、所定の期間を修了した者を逐次全国に分散配置して、次第に日本革新の同志を獲得し、勢力を拡大してゆくという案だった。

 

*経の題目を唱えること。特に日蓮宗で「南無妙法蓮華経」と唱えること。

 

 二千円金を作って、それを手付けとして、高井が(鹿野)山の持主の真言宗の和尚と交渉した。「土地借入の当事者は誰か」と問われたので、高井が一存で(断りもなく)田中光顕伯であると言った。和尚は大変喜んで応じてくれた。(詐欺)

 私は田中伯に初めて面会し、「国家のため、まげてご承引を願います」と懇願した。伯「何をするつもりだ。」私が「謀反します」と言ったら、伯は書類を持って引っ込んでしまった。これが(明治)維新の生き残りの志士か、罵倒してやろうと思っていたら、書類に「八十三翁伯爵田中光顕」と署名し押印してあった。「わしは八十三だが、この節男の子も一人できた。まだ、三人五人を叩き斬る気力は持っているつもりだ。あんたはまだ若いんだ、しっかりおやり」

 

 高井と二人で田中伯にまかり出ると、茨城県に明治天皇の尊像を建て、明治記念館を作って、伯が陛下(明治天皇)から拝領した記念品を収めておく。一方に日蓮上人の銅像を建て、一宇(一棟)の堂を建立して、ここで青年の指導養成を行うという、国家革新の根拠地建設計画だった。この計画は、現茨城交通の竹内勇之助氏の協力を得て、実現した。私がこもって青年子弟を訓育した立正護国堂はその施設の一つだ。

123 護国堂での修業

入門志願の青年に、まず一週間の断食を命じた。非常な意気込みで断食を始めるが、三日も経つと悲鳴をあげ、四日目にはたいてい降参する。断食の苦しさは3、4日目が峠だ。これを通り越すと楽になるのを知らない。死んでしまうと考える。それくらいなことで降参する人間に、大事が託せるか。何度も何度も死んだ人間でないと、決して大事は成らないものだ。鉄の扉に頭ごとぶつかろうというのに、ちっとやそっとの修業でできるわけがない。血盟団の実行部隊として私が選び出した人間は、皆鼻歌でいろいろな難行苦行を突き抜けた者ばかりだ。

 直接行動(暗殺)は悪いに決まっている。(とぼけ)私は政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を実現したいものだと思っている。

 

感想 空論。そんな桃源郷はあり得ない。あり得ないことを夢想している。それとも当時は恐慌で生活苦にさいなまれ、そういう夢を頼りにするしかなかったのか。

日露戦争で得た権益を次第に否定され、自己の活動範囲を狭められているのに、国際協調派の政治家はそのことに配慮しない、という不満が「日本革新」の正体か。

 

1954年、昭和29年7月号 臨増昭和

 

以上 202085()

 

ウイキペディアより

 

井上日召 1886.4.12—1967.3.4 宗教家、政治運動家、テロリスト。

 

近代日蓮主義運動(宗教の枠を超えて、政治や社会に展開する運動)に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体「護国団」の指導者。本名は井上昭。

 

医師の家の三男。早稲田大学、東洋協会専門学校(現:拓殖大学)いずれも中退。

1909年、南満洲鉄道入社。諜報活動を行う。

1920年、帰国。

1925年、護国聖社に入る。

1928年、田中光顕の援助で、茨城県大洗町の日蓮宗寺院・立正護国堂の住職となる。

その後、海軍の過激派・藤井斉中尉や、五・一五の首謀者の一人、愛郷塾長・橘孝三郎らと知り合い、国家改造のためには暴力的行動以外にないと説得され、テロ計画を計画した。

1932年、右翼団体「血盟団」を結成。「一人一殺」主義を掲げ、「要人」暗殺により国家改造の実現を計画し、血盟団事件を引き起こし、無期懲役。

1940年、特赦を受けて出獄。

1941年、三上卓*、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立。近衛文麿邸に寄食した。これは日米交渉の進展によっては起りえるテロを恐れた近衛が「用心棒」として(鬼に餌をやって鬼にかまれないように)雇っていたものだった。

 

*三上卓1905.3.22—1971.10.25 海軍中尉。五・一五。戦後の三無(さんゆう)事件(クーデター未遂事件1961.12.12

 

1947年、公職追放。農村青年に講演して廻る。

1953年、右翼団体維新運動関東協議会の参与。

1954年、佐郷屋嘉昭*、小島玄之*らと護国団を結成し、初代団長になる。

1956年、右翼活動から引退し、黒幕・三浦義一から経済的援助を受けて老後を過ごす。

1967年、脳軟化症で死去。

 

佐郷屋嘉昭(留雄) 1908.12.1—1972.4.14 玄洋社系の愛国社党員。濱口雄幸首相暗殺未遂犯1930.11

小島玄之 1908.8.12—1966.2.8  1933年、昭和8年、検挙後、社会主義から右翼に転向。戦後、護国団員。1961年、昭和36年、河南豊作らの池田内閣の政府要人暗殺計画・三無事件に関与。

 

 

血盟団事件 1932.2-3 井上準之助と團琢磨が暗殺された。

 

井上日召は大洗町の立正護国堂に近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。

「紀元節前後を目途として、まず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、続いて海軍内部の同調者が、クーデターに踏み切れば、天皇中心主義に基づく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。(単純至極)

 井上日召は政党政治家・財閥重鎮・特権階級など20余名を「ただ私利私欲のみに没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わない、極悪人」として標的に選定し、配下の暗殺団メンバーに「一人一殺」を指令した。暗殺対象として挙げられたのは、犬養毅、西園寺公望、幣原喜重郎、若槻禮次郎、團琢磨、鈴木喜三郎、井上準之助牧野伸顕らなどだった。(国際協調の政治家が多い。)

 井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎ら陸軍側に提案したが断られ、1932年1月9日古内栄司(大洗町の小学校訓導)、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や、海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城らと協議し、2月11日の紀元節に、政財界の反軍事的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉(海軍軍人、五・一五)ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日に、第一次上海事変が勃発し、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日、海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まり、先鋒は民間が担当し、一人一殺を直ちに決行し、海軍は、上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することに決定した。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。

 

・池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(大洗町の小学校訓導)

・西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部学生)

・幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部学生)

・若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部学生)

・徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生)

・牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部学生)

牧野はパリ講和会議に次席全権大使として参加。1919

井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正農業、大洗町

伊藤巳代治(枢密院議長)(後に伊藤に代えて、元検事総長の鈴木喜三郎、さらに鈴木に代えて、三井合名理事長の團琢磨)を菱沼五郎(農業、大洗町)

・團琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二(農業、大洗町)(後に黒沢に代えて、菱沼五郎が壇琢磨を暗殺した。)

・犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二(京大法学部学生)

 

井上準之助暗殺事件

 

1932年2月9日、前大蔵大臣で民政党総務委員長の井上準之助は、選挙応援演説で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、大洗町の農業・小沼正が近づき、小型モーゼル拳銃を懐中から取り出して、井上に5発の弾を撃ち込んだ。

井上は、浜口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁とデフレ政策を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれ、日本経済は大混乱(昭和恐慌)に陥った。また、軍縮のため予算削減を進め、日本海軍に圧力をかけた。小沼はその場で逮捕され、井上は病院に急送されたが、絶命した。

 

暗殺準備

 

四元義隆は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹二郎(とこなみたけじろう、政友本党総裁、内務・鉄道・逓信大臣。田中の目標は、若槻禮次郎だったのではないか。)、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。

第一次上海事変で藤井斉が戦死し、井上は大川周明を加えようとした。2月21日、海軍の古賀清志が大川を説得し、大川はしぶしぶ肯いた。

2月27日、(海軍の)古賀清志と中村義雄は、西田税(みつぎ、陸軍軍人)を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった。

 

一方井上日召は、井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として、政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は、鈴木が2月27日に、川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。

 

團琢磨暗殺事件

 

翌日2月28日、菱沼は再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は、三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。三井財閥はドル買い投機で利益を上げ、労働組合法の成立に反対していた。菱沼は3月5日、東京日本橋の三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺し、菱沼もその場で逮捕された。

 

逮捕・裁判

 

小沼と菱沼は黙秘していたが、両人が茨城県那珂郡出身の同郷であることや同年齢(22歳)であることから、警察が付近で聞き込みをし、背景に井上を首魁とする「奇怪な」暗殺集団の存在が判明した。

井上は一旦は頭山満(とうやまみつる、アジア主義者の巨頭。玄洋社総帥。1855.5.27—1944.10.5)の保護を得て、捜査の手を逃れようと図ったが、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では、井上日召、小沼正、菱沼五郎の三名が無期懲役、四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍関係者は逮捕されなかった。(おかしい)四元は公判で動機として就職難をあげた。

 

五・一五事件

 

3月13日、海軍中尉の古賀清志と中村義雄は、血盟団の残党を集め、橘孝三郎(一高中退、アナキスト)の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明、本間憲一郎、頭山秀三*の援助を求め、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数ヵ月後の五・一五事件を起こした。

 

*頭山秀三 1907.2.24—1952.7.21 頭山満の三男。1931年、昭和6年、天行会結成。1932年、昭和7年、五・一五で武器を調達。戦後も右翼運動を継続していたが、交通事故で45歳で死亡。

 

西田税が陸軍側を説得し、参加を阻止した。海軍側はこれを裏切りと見なし、(西田の)暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は、西田の自宅を訪問し、短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗した。

また、事件当日、血盟団員の奥田秀夫(明治大学予科生)は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み、爆発させた。

 

関係者のその後

 

1940年、井上、小沼、菱沼、四元らは恩赦で出獄した。

・小沼は戦後、出版社「業界公論社」社長。右翼活動を継続。

・菱沼五郎は右翼活動から一線を引いたが、結婚して小幡五郎と改名し、1958年、茨城県議会議員に当選。県議会議長も務めた。

・四元義隆は、井上日召と共に、近衛文麿の「勉強会」に参画。近衛文麿の「書生」や鈴木貫太郎首相1945.4.7—1945.8.17「秘書」。1948年、農場経営。1955年、田中清玄の後継として、三幸建設工業社長。戦後政界の黒幕。細川護煕政権の陰の指南役と言われた。

・川崎長光は保育園を経営。

 

井上日召「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」「一殺多生」

立正護国堂は現在もなお正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残り、境内に「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士の墓」などがある。(恐ろしい)

 

三井財閥の池田成彬は、世間の反財閥感情を減ずるために、社会事業に寄付を行う三井報恩会を設立し、株式公開、定年制の導入など「財閥の転向」を演出し、三菱財閥もそれにならった。

 

以上 202086()

 

 

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