2020年8月2日日曜日

満州新国家の建設 大川周明 1932年、昭和7年3月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

満州新国家の建設 大川周明 1932年、昭和7年3月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 202081()

 

 初読の時はすごく感心したのだが、要旨をまとめていると、これはよくできた扇動的な文章だと気がついた。これにごまかされた人は多かったのではなかろうか。彼は肉体的にマッチョであったかどうか知らないが、精神的にマッチョだった。調子がよすぎるのだ。その時々の状況に合わせられる八方美人だったに違いない。満州国の民衆が「半意識的」でさえも望んでいるとする満州国の特徴を列挙しているところで、彼の本性が暴露される。112ウイキペディアは褒めすぎではないか。

 

感想

 

構成がしっかりしていて論理的な本小論とウイキペディアの大川周明の項を読んでみて、今まで私は大川周明を誤解していたことに気がついた。大川周明はいわゆるマッチョな「右翼」ではない。その思想が行動に出ないではいられないような思想家というべきか。

大川は「アジア主義」者だと言われるが、この時代にあって、大川が反西洋的なアジア中心主義の考え方をしたのは、自然ななりゆきだったのかもしれない。それに大川は最初からアジア主義ではなった。西洋の学問も知った上での「アジア主義」であった。

 本小論は、大川が南満洲鉄道に勤務し、関東軍の板垣征四郎と親しかったせいか、満州国の正統性を論理的に分かりやすく説く説得力のある論文である。満州人は横暴な張学良から救われなければならない、満州国は生まれたばかりでまだ弱いから、利害の一致する日本と提携するのがよいというストーリーを展開する。大川にとって、これは一種の小説なのかもしれない。大川はこういう内容の文章を書けと言われたら、それを巧みに雄弁に物語る能力があるようだ。その意味で本小論は一種の御伽噺なのかもしれない。

戦後の軍事裁判で大川は精神異常とされて裁判から除外されたが、実は精神異常ではなかったのかもしれない。実際一旦は精神障害と診断されたが、その後の精神鑑定では異常なしとされた。しかし大川は裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。大川は入院中に、コーランの日本語訳を完成した。彼にとって東京裁判などどうでもよかったのかもしれない。

 

 

ウイキペディアによると、

 

大川周明 1886.12.6—1957.12.24 思想家。

 

1918年、満鉄東亜経済調査局・満州調査部勤務。その傍ら、1920年、拓殖大学教授を兼任。1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長。

 近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義ないし統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。

 

酒田市出身。医師の家系。第五高等学校(熊本)卒業。東京帝国大学文科大学卒(インド哲学専攻)。

荘内中学時代に漢学を身につけ、西郷隆盛の遺訓である『南洲翁遺訓』を読む。五高時代、入試不正事件の栗野事件で活躍。大学時代、キリスト教に救いを求め、「道会」に加入したが、後にキリスト教から離れ、マルクスに接近。その後マルクスからプラトンの国家論に接近。エマーソン、ダンテ、ヘーゲル等を経てインド哲学に向った。

 

 英語、フランス語、ドイツ語、サンスクリット語に通暁し、中国語、ギリシャ語、アラビア語も習得した。(韓国語はやらなかったのか。)

 

 大学卒業後、ラース・ビハーリー・ボースやヘーラム・グプタを自宅に匿い、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』1916を執筆した。日本が日英同盟を重視してイギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えた。

 1918年、南満洲鉄道に入社したが、これは初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことによる。満鉄東亜経済調査局の編輯課長を努める。

 

 イスラム教に関心を示し、亜細亜主義の立場に立った。『復興亜細亜の諸問題』1922では、欧米からのアジアの開放や「日本改造」を訴え、『亜細亜建設者』1941では、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝を紹介し、「三重国家論」では、ルドルフ・シュタイナーの社会三重化論を紹介した。

学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をし、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東條英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。

 

『日本精神研究』1924では、日本精神復興を唱え、佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ、『日本二千六百年史』1939では、日本史を概観した。これはベストセラーとなったが、当時賊徒と見なされていた、北条義時、北条康時、足利尊氏・直義兄弟を賞賛したため、改訂を余儀なくされた。

 

 大正、昭和期に北一輝、満川亀太郎(みつかわかめたろう)らと親交がある。普通選挙運動が盛んだったころ、「日本改造」を実践する猶存社、行地社、神武会などを結成。貴族院議員の徳川義親公爵と親交が深く、徳川は大川ら日本改造主義者に資金援助した。三月事件、十月事件、血盟団事件などほとんどの昭和維新に関与し、五・一五事件では、禁固5年の有罪判決を受けて服役した。

 

 満州事変では、首謀者の一人板垣征四郎と親しく、在満邦人と満洲人民を政治的横暴から救うと考え、満州国の建国を支持した。日中連携の上に北守南進を主張した。日中戦争勃発時、大川は獄中にいた。太平洋戦争については、準備が整うまで戦争を引き伸ばそうとし、1940肥田春充と共に、日米戦回避のために奔走した。戦時中、大東亜省の大東亜共同宣言の作成に携わった。

 

 1947年4月9日、オーストラリアのウエッブ裁判長は、大川を精神異常と判断し、裁判から大川を除外した。米軍病院から東大病院を経て、松沢病院に転院した。主治医の内村祐之は、梅毒による精神障害と診断したが、その後、異常なしとされた。裁判には戻されず、松沢病院で入院していた。入院中、念願のコーランの翻訳を完成した。東京裁判終了後間もなく退院した。東京裁判で起訴された被告人の中で、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物だった。公職追放になった。

 

 その後、神奈川県中津村の自宅で過ごし、瑞穂の国を築くための農村復興運動に取り組んだ。

 

以上

要旨 

 

編集部注

 

111 満州事変は、1932年、昭和7年2月、「成功裡」に終了した。満洲を朝鮮のように日本の領土にすべきだという関東軍の意見は通らず、満洲独立国案が日本の国策として決まった。本文は、このような情勢を踏まえて、国家主義運動の指導者である筆者が描いた新国家案である。本文が発表されて間もなく、1932年、昭和7年3月1日、建国宣言が発せられ、「王道楽土」「五族協和」をスローガンとする新国家が誕生した。

 

本文

 

 現在の奉天市長の趙欣伯*博士は、昨年1931年12月中旬、奉天において以下の演説を日支両国語で放送した。

 

 「世界文明国の国民たる諸君、今日まで東北四省の政権を握っていた張学良(張作霖の長男)は、人民の膏血を搾って自分一人のための歓楽に供していた。(金あるいは外国の貨幣と)交換できない紙幣を発行し、この紙幣で、農民が苦労して働いて作った糧食を強制的に買い占め、これを外国の価値ある紙幣に交換して、自らの私有財産にした。また、人民が負担できないほどの税金を強制的に徴収し、それを、鉄砲の弾を買い入れ、数十万の同胞を虐殺する軍隊を養い、自分の勢力を増進するための手段にした。そして部下の美顔の妻女を犯し、万悪の爪牙(そうが)で良民を虐げた。

112 彼は関内(函谷関以西の地、陝西省)に入り、自分一人の発展向上を求める。(満州事変が起った時、張学良は北平=北京にいた。)彼一人の欲望を満足させるために、東北三千万民衆の生命財産の安全が犠牲に供される。彼が東北四省の軍民の首脳者になってから4年になるが、人民は損害を蒙るばかりである。

 彼が英国や米国の執政者ならば、英国や米国の国民は、彼をその地位に置かないだろう。東北民衆にはただ二つの道がある。一つは忍んで死を待つか、或いは立って彼に反抗するかである。張学良は数十万の軍隊を持つが、民衆は武器を持たない。

ところが幸いなことに、張学良が東北の民衆を圧迫する手段で、隣国日本の人民も圧迫したため、9月18日の事変を「惹起」した。9月18日の事変は皆、張学良と彼の一党が起こしたことであり、(論理が合わない。この論理の流れからすれば、日本が起こしたことになるはず。)東北三千万の民衆が受けた損害や苦痛も、彼とその一党が招いたものだ。日本の軍隊は、張学良とその一党に対してだけ怨みはあるが、東北人民に対して怨みはない。東北人民も、張学良とその一党を怨むが、日本軍隊は怨まない。さらに日本軍隊が張学良とその軍隊を殲滅して、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して感謝している。(その根拠を示せ。)吾等は、民族問題として、明るく生存する途を開拓しようと思って、ここに新政権を立てた。…」(相当論理が飛躍している。)

 

 趙博士が説明しているように、9月18日事変(満州事変)は、満州史の一画期となった。張学良政権は醜悪な苦悶の後についに解消し去らざるを得なかった。郷紳と地主とを上層に戴く満洲農業社会は、彼等を圧迫してきた政治的・経済的勢力から解放され、ここに彼等自身の判断と利害に従って、新しい統治機構を創造することのできる機会が与えられた。(日本によって)この「革命的」な機会に遭遇し、満州の民衆は、意識的に或いは半意識的に、当然以下の希望を描き始めた。第一に、彼らは二度と軍閥の支配下に立ちたくないと考えた。第二に、満洲を争乱果てない支那本部から絶縁させたいと考えた。第三に、この目的のために、国民党勢力ならびに共産党勢力の侵入を防がなければならないと考えた。第四に、それらの希望を達成するためには、新満州国を建設する必要があると痛感し始めた。(おせっかいで勝手な憶測だ。)

113 満蒙民衆のこの意識は、いろいろな機関または個人を通して、あるいは部分的に、あるいは全体的に表明された。例えば干沖漢氏は以下のように言明した。

 

「旧軍閥の覇道政治が亡んで、東北には真に政治革命の時期が到来した。今や我等は民意を基調とする善政主義を実行しなければならない。そしてその新旗幟は絶対的保境安民主義であり、そのためには旧軍閥政権や南京政府と完全に絶縁した新国家を建設することが必須の条件である。」と。

 

 さらにまた12月8日の東北日報は、「東北新国家の組織」と題して、以下のように述べた。

 

「東北に新国家を組織する利点は、すでに人々が熟知するところだが、その緊要な点を述べれば、例えば米国が英国本土から離脱して平和の新国家を建設したように、吾らは中国から分離し、平和の新楽土を建設すべきである。(不適切な対比)ところが現在諸列国の間にあって別に国家を建設しようとしても、外交・国防・経済の独立は極めて困難である。ここにおいて吾らは日本と協約を締結して、国防及び外交の権勢を保ち、その陸海軍の実力を「利用」し、これを背景として、外交上の後援を得て、もって国防を堅くしなければならぬ。経済的には日本と経済同盟を結び、日本の資本と科学とを利用して、実業の発展と産業の開発とを図れば、決して憂うところがない。吾らにおいては何ら詐謀を用いず、誠意を持って共存共栄の道を講ずるならば、東北は必ず世界の楽土となるだろう。スイス、オランダ、ベルギーの繁栄と隆昌とは、諸強国を利用して勝ち得たものに他ならない。(本当か)かくして新国家を成立せしめた後、おもむろに武器を整え、教育の普及を図るならば、世界の列強と比肩する日も決して遠いことではない。」

 

114 干沖漢氏の保境安民主義は、新しいイデオロギーではない。この政策は、張作霖の下に奉天省の長であった王永江によって、理論的・実践的に展開されたが、張父子の野心は、この政策の実現を阻止してしまった。この政策は満洲民衆の最も歓迎するものであるから、張学良政権が崩壊した後、干氏はこの政策の復活を主張し、これを新国家の旗幟とすることを提唱した。それは機宜を得たものだ。満洲民衆の大多数はこれに共鳴し、少なくとも反対する者はいないだろう。こうして保境安民を目的として、新国家建設運動が急速にしかも順調に進展してきた。

 

*「保境安民」は、満洲国が国民政府と断絶するのに都合のよい思想のようだ。ウイキペディア「干沖漢」参照。

 

 満洲民衆の要求とこの要求に伴う建国運動は、幸福なことに、日本国家と国民の満洲問題に対する要求と一致している。(日本の)満洲問題の恒久的解決は、満洲に独立国家を建設した後で初めて可能となる。我ら(誰のことか。大川を含む日本人か。)は衷心よりこの建国運動を喜び、その実現の速やかなることを祈る。

 

 満洲国家の組織と性質がいかにあるべきかについて以下に述べる。

 新国家の領土は、奉天・吉林・黒竜江・熱河の四省と、フルンベイル*を含む、面積7万方里*の地域であり、人民は満・蒙・漢・鮮・日の五民族、およそ3千万人である。

 

*フルンボイル 中国、内モンゴル自治区北東部の地級市。東は黒竜江省、西はロシア連邦に接する。ハイラルが市政府所在地。満洲里も管轄代行する。

*方里とは縦横各1里の面積。

 

 新国家は第一に、国防を安全ならしめ、第二に、治安が維持せられ、(軍事・警察優先国家だということが分かる。)第三に、租税が軽減され、生活が保障され、産業が開発せられ、福利が増進せられ、文化が向上することを望む。(バラ色の国家像で人を欺く。)この目的のためにいかなる統治機構が適宜であるか。

 満洲民族の大多数、全人口の九割以上は、農業牧畜を営んでいるから、新国家は農業国家である。農業社会の合理的な統制は、「分極的自治国家」(これ何)であるから、近代的中央集権制をとってはならない。満洲社会に適用されるべき自治も、近代法治国の地方制度のような自治制度の「直訳」ではない。支那社会の伝統的自治を助長し、成全するものでなければならない。顔習斎*、李恕谷*に思想の流れを汲む北方支那の村治学派*の主張は、満洲分権自治の理論的根拠として最も適切である。現に干沖漢氏を委員長とする自治指導部は、上述の方針の下に自治組織の整理・建設に努力しつつある。

 

顔習斎(顔元)習斎は号。1635—1704  兵農礼楽などの実学と労働を尊ぶ。

李恕谷(李塨)恕谷は号。1659.5.14—1733.2.14 清代初期の中国の学者。実用を尊ぶ。

 

115 支那における国家及び社会の構成単位は家庭であるが、この原則は新国家においても存続させねばならない。(当然では)支那農村では、家族が拡大して宗族となり、そのいくつかが集まって自然部落をなし、それらの部落が経済的条件に応じて聯荘を構成している。都市においては、地域的に構成された前述の組織の他に、職業的に構成された(ほう)つまり、同業組合がある。自治指導部は、その自治組織を基礎とし、これを拡大して、を中心とする自治体を建設し、ついで県自治体の連合としての、省の連合としてのを建設しようとしている。

 この新国家が、日本と特殊の関係に立つべきは言うまでもない。(どうして)新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟経済同盟が結ばれることによって、国家は満洲を救うとともに、日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大な貢献をするだろう。

 

1932年、昭和7年3月号

 

以上

 

 

ウイキペディアより

 

趙欣伯 1890—1951.7.20 中華民国、満州国の政治家・法律家。北京政府、奉天派の政治家で、後に満州国、汪兆銘政権に参加。

 

清末、禁衛軍の衛兵。省立天津北洋大学で学ぶ。辛亥革命後、北京文明新劇団で旦角(女形)を演じた。国民党に加入。1913年、二次革命(第二革命)に参加したが、袁世凱に敗北し、大連に逃げた。劉笑痴と改名し、日本人への中国語教師をつとめた。

 1915年、日本へ留学。明治大学法科を卒業。陸軍大学校で中国語講師。1924年、東京帝国大学大学院で法学博士号を取得。1926年帰国。東三省巡閲使署法律顧問に就任。これは、公使館付陸軍武官だった本庄繁が張作霖に推薦したものとされる。翌年1927年7月、北京政府外交部条約修改委員会委員。1928年6月、張作霖が爆殺されると、奉天省に戻る。法学研究会を組織して会長となり、雑誌『法学研究』を刊行。

 

 1931年9月18日の満州事変後、奉天地方維持委員会の組織に参画。9月28日、袁金鎧・闞朝璽らと協議し、奉天地方維持委員会で遼寧(奉天)省政府の機能を代行することに決定した。10月18日、土肥原賢二(死刑)の後任として、奉天市長に任じられ、その後、最高法院東北分院院長。1932年2月の建国最高会議で、臧式毅、張景恵らを支持して、立憲共和制の採用を主張し、張燕卿ら帝政採用派と対立。

 同年1932年3月9日、満洲国が成立。翌10日、初代立法院院長1933年3月、憲法制度調査委員を兼任。同年1933年5月、憲法制度調査のため来日。1934年7月、満州国監察院が趙の「綱紀問題」の調査を開始。同年1934年10月、下半身麻痺の神経痛と腎臓炎を患い、同年1934年10月30日、立法院院長と憲法制度調査委員を「罷免」された。立法院は機能を停止し、準備機関に格下げされ、秘書庁だけの組織となった。(その結果、秘書長の劉恩格が立法機関のトップになった。)(このあたりの事情はどうなっているのか、怪しい。)

 

 1937年9月27日、趙は宮内府顧問官に任命されたが、間もなく辞任し、家族と共に来日して、東京に居住。1939年帰国して北平(北京)に入り、汪兆銘政権成立後に華北政務委員会法律顧問

 

 戦後漢奸として国民政府に逮捕されたが、1948年から病状が悪化して入院。1951年7月20日、病没。享年62。

 

感想 日本が彼を使いたいときは使われ、要らない時は捨てられたのかもしれない。

 

 

干沖漢(うちゅうかん) 1871(清同治10)--1932.11.12 中華民国、満州国の政治家。北京政府、奉天派の政治家で、後に満州国に参加。字は雲章。別号は逸園。

 

清朝の官僚。日本に渡り東京外国語学校で中国語教師を勤めた。

中華民国の官僚。張作霖の外交顧問。日本へ特使として赴いた。王永江亡き後、袁金鎧とともに奉天文治派の双璧と称された。張学良が張作霖の後継となってからは、旧派として疎外され、政治的影響力を失っていった。

満州事変のとき、関東軍の支持により、奉天地方維持委員会副委員長奉天地方自治指導部部長に任ぜられた。後者の地位において、満州国建国の理念を宣伝することに努めた。後に石原莞爾は、干を満洲国建国の最高の功労者と絶賛した。それは干が、絶対保境安民・不養兵主義という理念を掲げたことが、国民政府との断絶や満州国建国をなす上で大きな武器となったからである。

1932年(大同元年)3月9日、満州国が成立すると、翌10日、干沖漢は初代監察院院長に就任した。同年11月12日、病没。享年62。

 

 

王永江(おうえいこう) 1872.2.17--1927.11.1 清末民初の政治家・教育者。北京政府、奉天派。奉天省長。(中国の)東北大学(創立1923)初代校長。字は岷源、号は鉄龕。祖籍は山東省蓬莱県。

 

漢方薬店運営。日本人が創設した南金書院(学校)で漢文の教員。1907年、遼陽で、租界の日本の警察行政を調査。

 遼陽で警務学堂を創設。遼陽警務所長。辛亥革命では革命派を討伐

 

 中華民国成立後、各地で税務部門を担当。1915年、奉天省税務局長等に昇進。1916年、全省警務処長。その後、代理奉天省長。

 警察・税務・実業などの行政で手腕を発揮した。奉天派内部で文治派の首領と目された。

 1920年7月から張作霖が北京政府中央の政治闘争に介入しようとした際、王は民力休養を唱えて反対し、張から次第に冷遇された。1922年4月、第一次奉直戦争で張が敗北し、張は失敗を悔悟して王を奉天省長に任命した。1924年4月、東北大学が創設されると、王は初代校長を兼任した。

 張がまた北京政府中央に介入しようとすると、王は反対したが、1924年10月、奉天派が第二次奉直戦争に勝利した。その後、王は黄郛臨時内閣の内務総長に任じられたが、間もなく同内閣が崩壊し、王も辞職した。1925年2月、善後会議議員。

 

1926年2月、王は各職を辞任して故郷に帰ったが、その後も張作霖の武断政治を諌める文書を奉呈し続けた。張も王の政務復帰を望んだが、王は固辞した。王は晩年、詩作、易経・管子の研究、医学などの著作を著した。

1927年11月1日、金州にて病没。享年56(満55歳)

 

以上 202081()

 


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