2020年8月28日金曜日

近親に送る手紙 滝川幸辰(ゆきとき) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史第一巻1988 要旨・感想

 近親に送る手紙 滝川幸辰(ゆきとき) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史第一巻1988

 

 

感想 2020827()

 

 滝川さんは法律論だけで問題を処理しようとしているように見受けられるが、自分の何が当局に問題視されたのかについて、彼は理解していたのだろうか。それと関連して、滝川氏に対する右翼の暴力を恐れることはないという手紙をもらってほっとしたとのことだが、戦いに敗れてもう用無しになった人を右翼が追及するはずがないということを理解できないのだろうか。政治感覚が鈍いのではないか。

 

メモ

 

・国家権力は国民の意識を操作しようとした。満州事変が軍による国民意識の操作を目論んだデマだとすれば、滝川事件は、文部省による同種のデマである。文部省による、滝川の自主的辞職ないし総長による休職命令という作戦は、文部省と小西京大総長とのその件に関する会見以前に、マスコミにその件についてのデマを流すことから始まった。リークである。そのリークの一翼を担ったのが、右翼思想団体(蓑田胸喜の原理日本社)である。188

同様に、小西総長は文部当局との会見で、滝川への辞職勧告や休職命令を諒解したのではなく、逆に反対したのに、新聞には、一致したというデマが流された。190

・右翼系議員(宮澤裕)が滝川の「刑法読本」を危険思想だとして議会で追及し、滝川の罷免を要求した。188これがこの事件の決定的原因なのではないか。

・滝川の「刑法読本」と「刑法講義」が発禁処分にされた。189

・「国家」による言論統制・操作は、出版での伏字や発禁処分、講演会での演説中止など、明治以来の新聞紙法1909(新聞紙条例1873)、出版条例1869、集会条例1880などの規制がこの時も続いていた。

 

要旨 

 

編集部注

 

 1933年、昭和8年4月、(内務省は、滝川の『刑法講義』と『刑法読本』を発売禁止処分にし、)滝川幸辰京大教授の講演や著書が危険な内容を含み大学教授として適格でないとして、「国家意思の統一」を目指す文部省は、(5月、)小西重直総長に、(滝川の)辞職を要求した。これに対して法学部教授会は、大学の自治、学問の自由を侵すと反対した。

 

 

本文

 

186 パンフレット「京大問題の真相」、「先輩の見た京大問題」や、日出新聞社「滝川教授事件――京大自治闘争史――」に経過が書かれているが、その後の経過については、7月11日、佐々木、宮本(脩)、宮本(雄)、森口、末川、滝川の6教授の免官と、7月25日、田村、恒藤両教授の免官となり、末広、中島、山田、鳥賀陽、牧、渡辺、田中の7教授は留任を声明した。残る人事問題は、9人の助教授と、9人の講師・助手・副手の進退であるが、その多数は、総長に、辞表の進達、解職願・辞職願の受理を要求している。

 

187 4月21日午後2時ごろ、大毎、京都の日出、日日などの新聞社から「辞表を出したのか」と電話があったが、私には訳がわからなかった。大朝記者のTが、「文部省は滝川を罷免にすることを決定し、小西総長の上京を促した。『思想と行動に関して種々の批判がある』という理由である。」と説明してくれた。大毎記者のMも同内容のことを話してくれた。

夕刊に「滝川教授を処分、突然京大に嵐」(大毎)と載ったが、大朝は夕刊に載せることを控えた。

 

 その後、宮本(法学部)部長は「数日前に小西総長から概要を聞き、22日午前中に総長が文部当局と会見する予定になっている」と私に語った。

 

文部当局は総長と公式の交渉を始める前に、問題を外部に漏らした。各新聞社の夕刊記事は電通社から受け取った。電通社は原理日本社という右翼の思想団体からニュースを受けたことが後日大毎の調査で判明した。

 

 昨年1932年12月初旬、文部省は、同年10月の中央大学法学会での私の講演「トルストイの復活と刑罰思想」が不穏当であると当時の新城総長に告げた。宮本部長と文部当局との話では、議会の質問に備えるための答弁を出して欲しいという要求に過ぎなかったとのことだ。そして、議会ではその後、質問が出ずに済んだ。

 1933年3月上旬、司法省の某氏から宮本部長に、「滝川教授に高等試験委員になるのを遠慮してもらいたい」とあった。「滝川が中央大学の講演で、裁判官を罵倒し、そういう人が司法科の試験委員では困る」という理由とのことだ。私は試験委員を断ることにした。

 1933年3月中旬、東京のKから手紙があり、それには、Kが政府委員として予算委員会に出席している時、某代議士(宮沢)が「京大教授の刑法読本…のごとき危険思想を大学で講ずるのはけしからぬ。文相はそれらの教授を罷免せよ」と質問したとあった。

189 1933年4月10日、私の「刑法読本」と「刑法講義」を発禁処分に付した。「刑法読本」は10ヶ月前に出たもので、「刑法講義」は一昨年1931年に絶版に付していた。

 

 1933年4月22日、小西総長は文相官邸で文部当局と会見した。文部当局は小西総長に「刑法読本、刑法講義に書いてあることが、学生や社会一般に悪影響を及ぼすと認定したから、滝川教授に辞職するように、もし辞職しないならば、休職を命ずるように、取り計らわれたい」と要求した。

 

 戻って3月10日ころ、宮本部長が文部省の伊東学生部長と会見したとき、伊東は私の客観主義刑法論が問題で、唯物論とかマルクシズムではないと言明していたが、これは私への批判根拠の変遷を暴露するものだ。

 

 総長はこれに対して、「大学教授の学問的見解を問題にして地位を動かすことは大問題だ。辞職勧告や休職手続を取ることは、今の大学の情勢ではとてもできない。文部省のこのような処置が適当であるか疑わしい。私も大学の情勢について考慮してみるが、文部省も慎重に考慮願いたい」と返答し、文部省の要求を婉曲に拒絶した。

 

 4月22日の夕刊は、「滝川をして教授の椅子を去らしむることに両者(文部当局と総長)の意見が一致し云々」と報道した。これはデマの始まりである。

 小西総長は新聞記者の質問に何も答えなかった。(何か密約でもしていたのではないか。なぜ新聞報道を否定しないのか。)

 

 4月24日、法学部が教授会を開き、部長が経過を報告した。私は私に関することなので、会議室から退場した。

 

 5月上旬、東京のKから手紙が数通届いた。その内容は、文部省は、教授が総辞職する前に、私に辞職させようとしている。Kが文部省の菊沢秘書課長に事情を聞いたとき、「辞職は滝川にとっても、大学にとっても得策だ。なにしろ○○○○がやかましい時代だから、あまり頑張るとご本人にとって非常に不幸な結果になるかもしれない」と言ったというものだった。

Kが私を訪ねてきたとき、ラジオのニュースは、「滝川教授の親戚K商工書記官が辞職勧告のため京都に行きました」と伝えた。(何かしら仕組まれているに違いない。)

 

 文部省が私に辞職を勧める理由は、官制違反の責任を避けたいということもあった。官立大学の官制には、教授の進退に関して総長が文部大臣に具状すべきと定めている。学問研究のために学問に無理解な外部の干渉や圧迫により教授の地位が動かされてはならない、学問に理解のある大学当局が適当に教授の進退を決定する必要があるという理由で、大学の統率者としての総長に教授の進退について具状権を認めた。文部大臣は総長の具状に基づいてのみ、教授の進退を決定すべきであり、総長の具状に反して教授の進退を行うことや、具状がないのに教授の進退を行うことは大学官制の違反である。

 

 新聞紙には斎藤首相や鳩山文相の意見として、文部大臣は学校関係の人事についての最高官庁であるから、総長の具状に関わりなく教授の進退を行えるとあるが、それは俗論で、行政官庁の権限の分配に関する行政法上の原則を知らない。文部大臣は、制度上総長を監督するという意味では上級官庁であるが、そのために総長の職権を無視することはできない。官制違反の点は、美濃部さんや佐々木さんが突っ込んでいた。

 

 休職に関する分限委員会がある。分限委員会の某委員が官制違反について問いただすと、文部当局は、「法制局が差し支えないという。具状がないのは、消極的な具状である」と答えた。これは子供だましの答弁であり、法制局に相談しなかったに違いない。これもデマだろう。

 

192 分限委員会が全会一致で(私の)休職を可決したと新聞は言うが、委員が官制違反を鵜呑みにするはずがない。委員中には、大審院長、行政裁判所長官がいる。司法裁判や行政裁判の首脳が、官制違反を是認するはずがない。私は新聞報道を信じたくない。

 

 京大の他学部の人たちの中には、私が辞任すべきだと考えていた人が多い。それらは以下の通りさまざまだ。事を大きくしたくない、私一個の損得問題、時勢が時勢だから長いものには巻かれろ、研究の自由、大学の自治は破壊されたが、いつかはきっと回復する、総辞職では本も子もない、何の自由も何の自治もないが、形骸だけでもないよりましだ、法学部が閉鎖になれば総合大学の一角が崩れる、小西総長のようなりっぱな人がこの問題でやめると、総長になり手がいなくなる、法学部の教授は大学令の保障する職責を無視し、大学の使命の遂行を阻害する、それでは講義も研究もできないなどである。理論はとにかくまあまあというのでは話にならない。

193 大学教授が生命線を守って戦っているところへ、親戚のような無関係の人の出る幕ではない。(排外主義的では)

 私は辞職を勧告されても、辞めるべきでないと思った。

194 私が辞めても、多数の同僚が戦うだろうと思った。私が最初に辞めれば、私は、最初に文部省の弾圧に屈した裏切者になるだろう。教員が大学を去り、学生が大学を去ろうとし、1600人の学生が迷っている。私が屈服しても同僚は大学を去っただろう。

 

 大学に復帰しないという硬派と、法学部存続のため妥協後に復帰するという軟派とがある。また、宮本英脩は理由のいかんに関わらず残るという。硬派は、法学部の声明通りに行動するという意味で正論派でもある。

 早くから免官となった人や、免官洩れは心外として追っかけて辞表を進達し目的を達した田村、恒藤などは正論派だ。

 6月末訪れたKによれば、文部当局は、佐々木、宮本英雄、末川の三人に先ず辞めてもらいたいという意向を持っているとのことだ。東京の出版業Oの手紙によれば、佐々木がいると京大が「おさまらぬ」という官吏もいる、なお、「おさまらぬ」とは、文部省の命令どおりにならないという意味とのことだ。

 20年前の1913年、私の学生時代に沢柳事件*が起った。大正2年1913年夏、教授側は沢柳総長と大学の自治樹立の交渉を続けていた。この年の暮れから学生が教授側を支持し始めた。1914年2月、教授一同が声明を発表して事件が落着した。しかし佐々木先生だけは、4月になっても講義をしなかった。それは佐々木先生の良心的潔癖から出た行動だった。佐々木先生は最年少の教授だった。今回の問題でも佐々木先生は「独楽の心棒」と新聞紙に評されている。

 宮本部長は正論派だ。末川も正論(強硬)派だ。田村・恒藤両君は、松井総長の解決案を批判した共同声明書によって正論派と言える。誰が何派かは学生や新聞記者が一番よく知っている。

 

 5月7日の東朝、大毎の夕刊は、「文部当局は法学部教授の総辞職も止むを得ない、その時は、法学部を閉鎖する覚悟である」と報じた。その背景には法学部の結束が危ういという事情があった。文部当局はその欲しないことをその方針であるかのように放送することがよくある。法学部閉鎖の覚悟など嘘だ。それが本当なら、こんなに問題が長引くはずがないし、7教授の留任によって法学部の命脈を保つなどという醜態を暴露するはずもない。鳩山首相自身がそれ(総辞職容認)を否定している。

 

 5月18日までは文部当局と法学部との声明戦の期間だ。文部省曰く、「学問研究の自由には、研究の自由、教授の自由、発表の自由があり、大学教授の自由は、研究の自由だけ」で、研究の結果を教えることも、書くこともできないというのだ。そしてこのことは「頭の中で思索するだけの自由なら、大学教授でなくても、およそ頭を持つ者は皆持つ」と言論界で批判された。

 

 5月18日、小西総長は、滝川教授に辞表提出を勧告するとか、休職手続をとるとかはできない、と文部省に提出することに決定し、そのことを宮本部長に通告してきた。

 京大の内規では、総長が文部省による教授罷免の要求を不当として拒絶する場合は誰にも相談する必要はないが、文部省の要求に応ずる場合には、その教授の所属学部教授会の承認を得ることが必要になる。

 これで大学の態度が決まったから、私は18日から休職発令まで教授会に出席した。

197 しかし、文部省は、総長の回答は最後的のものと認めがたいと称して再考を促してきた。24日、総長は文部当局と会見し、文部省の要求を拒絶し、最終的回答だと念を押した。

25日、分限委員会による休職決定、26日の休職発令、同日の法学部職員一同の総辞職となった。

 

 私の休職理由は、6月7日の伊東学生部長の非公式の発表――新聞紙掲載を制止した――によると、私の基本思想が、マルクシズムだという点である。「悪影響」から「マルクシズム」へのこの重点の変化は、分限委員会が(私の書籍の)内容の調査をやらないことに基づくのだろう。(「マルクシズム」の方が斬り捨て易いということか。)

 岸書記官が持参した京大の最後回答を、文部省が最後的なものと認めず、再考を促してから、小西総長が上京するまでの3、4日間に、策動教授や陰謀教授が活躍した。この期間に、私に辞職勧告をするように某教授が「あなた」に頼んだり、鳩山文相が大阪に来たりした。

 そして「文部省が総長を処分(休職命令)するかもしれない、そうすると全学に問題が波及し、全学教授の総辞職になりかねない」という人達も現れた。

198 20日、評議会が開かれ、その決議によって問題を解決しようとした。法学部の評議員は、宮本部長と田村、末川である。京大の内規では、教授の進退は所属学部の教授会が決定することになっており、評議会の関与する問題ではないと法学部評議員は述べて、大学自治の破壊を食い止めた。

この間に、評議会のお膳立てをするために、法学部長を抜きにした学部長会議が開かれたり、さまざまな工作が行われたりした。

 某教授は、宮本部長の手にまとめてある法学部教授の辞表の中から、宮本部長と私の辞表を抜き出して総長に提出するように宮本部長に懇願した。

 

 法学部教授は学部の助教授に自由行動を求め、学生には自重を求めた。しかし、助教授は独自の見識から、学生は制止にも拘わらず、(私たちと)ともに立ち上がった。しかし、他学部の(教授の)態度は、法学部の邪魔者でしかなかった。

 経済学部のS教授は、私の友人だが、5月末の学生大会で、某学生がSを策動教授と批難したが、その学生は経済学部長や学生主事に「𠮟られた。」(意味不明)

 

199 5月26日午後5時過ぎ、宮本部長は田村、末川両評議員とともに総長室に赴き、法学部職員一同の辞表を提出した。法学部教授は会議室で休職発令の公報の到着を待った。暫くして宮本部長が総長室に行くと、休職発令*が来ていた。なぜ早く伝えてくれなかったのか不可解だ。(*誰のか。全員のか、それとも滝川だけのか。恐らく滝川だけの休職発令なのだろう。)

 

 学生大会に臨み、決別の言葉を述べた。1600人の学生は拍手で迎えてくれた。学生大会の議長は渡辺貞之助である。宮本部長が法学部教授一同の発した声明書を読み上げ、学生諸君の最善の処置を切望した。

 学生は、子弟の情宜という純真な動機で結ばれ、思想的傾向を超越して行動した。20年前の沢柳事件当時の学生運動は、感激性に富み、農民の武装蜂起のようなもので、演壇に駆け上がってお山の大将のように幼稚だったが、このたびの学生運動は統制が取れ、すべて平等に一平卒として働いた。

200 休職発令後、私は研究の自由陣営から離脱した。これは致し方のない運命だ。宮本部長から必要な連絡がある。官立大学を追放された学者は、私が大学に奉職してから10名以上いる。

 

 研究室の書物は、私の復職要求を掲げていた学生の反対で、しばらくそのままにしておいたが、天気のいい日に引き揚げた。学生から小言を受けた。

 

 私の身辺に危害が加わる恐れがあるという噂があったが、それはデマに過ぎなかった。5月20日ごろ、数名の警官が私の家を警戒しているとラジオが放送した。脅迫めいた郵便物が日に4、5通来たが、6月になると来なくなった。

201 見知らぬ人からおもしろい(励ましの)手紙を貰った。「右翼団といえど、利害関係のないところでやたらに暴力は振るわない。ストライキのリーダーに右翼団が暴力を加えた例を調べると、裏切者が暴力団を買収してやっている。(滝川が運動に敗れたのだから、もはや滝川には用はない。従って)暴力問題の起る余地はないから安心せよ」という内容だった。

 

1933年、昭和8年9月号

 

以上 2020827()

 

ウイキペディアより

 

京大事件(滝川事件) 思想弾圧事件

 

1932年10月、中央大学法学部で京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑罰思想」の内容が無政府主義的だとして、文部省司法省内で問題化したが、この時は、宮本英雄法学部長が、文部省に「釈明」し、問題にならなかった。

 1933年3月共産党員とその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法赤化事件」が起り、蓑田胸喜(後述)ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会)ら国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった瀧川を非難した。

 

 1933年4月内務省は瀧川の著書『刑法講義』と『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として、出版法第19条により、発禁処分を下した。翌5月、齋藤内閣の鳩山一郎文相が、小西重直京大総長に、瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会と小西総長は、文相の要求を拒絶したが、同月5月25日、(鳩山文相は)文官高等分限委員会に(瀧川を)休職に付する件を諮問し、その決定に基づき、翌5月26日、文部省は文官分限令により、瀧川の休職処分を強行した。

 

 瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は、教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出したが、大学当局と他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月松井元興総長が就任し、事件は急速に終息に向った。

 松井総長は、辞表を提出した教官のうち、瀧川佐々木惣一(後に立命館大学学長)、宮本英雄森口繁治末川博(後に立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授だけを免官とし、それ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で、「瀧川の処分は、非常特別のものであり、教授の進退は、文部省に対する総長の具状によるものとする」という解決案を提示した。

 この結果、法学部教官は、解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した中島玉吉、末広重雄、牧健二などの残留組と、辞表を撤回せず、解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に、恒藤恭田村徳治の教授2名と、大隅憲一郎、大岩誠ら助教授5名加古裕二郎ら専任講師以下8名が辞職して事件は決着した。

 

 京大法学部の学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出し、他学部の学生もこれに続いた。6月、学生集会で、浪曲師酒井雲が招かれ、『駕籠幽霊』を演じた。東京帝大など他大学の学生も呼応し、7月、16大学の参加による「大学自由擁護連盟」、さらに文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成された。

 『中央公論』『改造』などの総合雑誌、『大阪朝日』などの新聞は京大を支援し、文部省を批判する論説を多く掲載した。しかし、大学の夏季休暇で学内の抗議運動は終息し、大学自由擁護連盟も弾圧されて解体した。学芸自由同盟も翌年1934年には活動を停止したが、中井、久野などこの運動に参加した学生の中から、『学生評論』『世界文化』『土曜日』など反ファシズムを標榜する雑誌メディアが生まれた。

 

 瀧川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などとして移籍し、瀧川自身も立命館で講義をした。立命館への受け入れは、立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ、元京大法学部長で立命館名誉総長だった織田萬と相談して行われた。

 京大の残留教官が説得し、黒田覚、佐伯千仭ら6名が京大に復帰した。

 戦後GHQの方針により瀧川は京大に戻ったが、他の辞職組は戻らなかった。瀧川を法学部長にする密約が交わされ、黒田法学部長が解任され、佐伯ら復帰組教官らも辞職した。

 

立命館が戦後GHQににらまれた時、末川博を総長に据えて大学の民主化を図って切り抜けた。

 

リベラル派の河田嗣郎が学長の大阪商科大学に講師として再就職した末川恒藤は、教授人事の承認権を握る文部省の拒否に遭い、講師採用後7年を経過した1940年まで教授への昇任が許されなかった。1942年に河田が急逝すると、後任学長として末川の名も上がっていたが、文部省に対する遠慮から、右派的な本庄栄治郎が学長に就任した。1946年、恒藤が、新制大阪市立大学の初代学長に移行した。

 

蓑田胸喜(むねき)1894.1.26—1946.1.30  首吊り自殺

 

1917年、東京帝国大学法科大学入学。同文科大学に転学。同法学部に学士入学。東京帝大在学中、上杉慎吉(穂積八束(ほづみやつか)に師事。憲法学者。君権学派神権学派。天皇機関説を批判。)指導の国粋主義学生団体興国同志会に入会。三井甲之(こうし、歌人。右翼思想家。)を私淑。

1922年4月、慶応義塾大学予科教授。

1925年11月、三井とともに原理日本社を創立し、雑誌『原理日本』を刊行。国粋主義の観点から、マルクス主義的・自由主義的な学者・知識人を批判した。

1932年、国士舘専門学校教授。

美濃部達吉、瀧川幸辰、大内兵衛らを大学から追放する大学粛清運動の理論的指導者であり、津田左右吉の古代史著作発禁事件も蓑田の批判論文が元となった。

1937年4月、平沼騏一郎、近衛文麿らが顧問を務める国際反共連盟が結成され、その評議員となり、『反共情報』に寄稿した。

 

以上 2020828()

 

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