2020年12月27日日曜日

負けに乗じる 長谷川如是閑 1945年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ

負けに乗じる 長谷川如是閑 1945年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

 戦後、政府、自治体、官僚、業界、教育界では、大まかな方針が占領軍から出されているのに、なかなか重い腰を上げず、占領軍からの司令を一々待っていて、自発的に取り組もうとしなかったようだ。彼らは、負け惜しみが強かったと長谷川如是閑は言っている。716

 一方、ジャーナリズムは、それまで「危険思想家」と看做されていた人達、社会主義者、共産主義者、自由主義者、民主主義者などを、戦後すぐに担ぎあげたようだ。714

 

以上 20201227()

 

 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 も本稿が最後だ。

 

兄・文麿の死の蔭に 近衛秀麿 1952年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・メモ

兄・文麿の死の蔭に 近衛秀麿 1952年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想・メモ

 

 近衛秀麿1898.11.18—1973.6.2は指揮者・作曲家。本文を読んでいて、気風の良さそうな印象を受ける。本人もそれを自認している。

近衛家は代々政治家型と学者型とにはっきり別れていて、秀麿は政治家型・実行型だが、兄の文麿は学者型、思想家型で、政治家には向いていなかったのかもしれない。687

 兄文麿については、自分との関係であちこちで述べられるが、兄自体についての記述は、最後の方で、その自殺に関して僅かに触れられるだけで、本文全体としては、秀麿本人の自伝である。

 

 1937年6月、兄が首相になったが、その年の夏、秀麿はロスアンゼルスやハリウッドで公演してから日本には戻らずドイツに向った。そこでドイツのオファーを断ったために、冷や飯を食わされた。ドイツ敗戦頃にベルリンを脱して、アメリカ軍の捕虜になり、1945年12月6日に帰国した。

 アメリカから日本に帰国しなかったのは、自身の音楽教育政策の提案(若手起用や放送協会の利用など)が、日本の音楽教育者に受け入れられなかったことがある。694

 ドイツでは歌劇の指揮者になった。ドイツ宣伝省が政治宣伝に自分を利用することは、自分や日本のためにならないと思って辞退した。そのためドイツの宣伝大臣と駐独日本全権大使の激怒を買った。659

 12月6日、日本に帰ったが、朝日新聞で、兄を筆頭に7人がA級戦犯として巣鴨に出頭を命じられたと知った。696

 兄は秀麿に言った。「生きている間は人からどんな型でも表彰を受けないほうがいい。」

敗戦直後、売名的に辞爵を叫んだ華族は、その後変心し、進んで辞爵したのは、自分を含めて3人くらいしかいなかった。697

兄は巣鴨への出頭日の前夜、12月16日の夜に自殺した。

 

近衛家は、頭山満、内田良平ら、大勢の「大陸浪人」=右翼と関係がある。685

父は20歳の時、第一回議会の初代代理議長を勤めた。684

兄は社会主義について語ってくれた。「飯の食えない人が大勢いるのだ」687

兄とは腹違いの兄弟であるが、兄の母は加賀前田家の娘で、兄の産後亡くなり、秀麿の母は、その妹である。

兄弟とも学習院で学んだ。

「私が中学に入ったとき、乃木大将が院長だった。私が喧嘩して怪我をして医務室にいたとき、乃木院長は自宅に帰らず、私に日露戦争の時の話をしてくれたが、乃木院長は話をしながら涙ぐんだ。乃木院長はその2ヵ月後に自殺した。」689

 

母は1945年8月15日正午に息を引き取った。695(自殺か)

マッカーサー司令官が兄に憲法改正の草案起稿を委嘱したと、米軍の捕虜になっているときに、ヨーロッパの新聞で読んだが、それを後になって公式にその事実はないと(マッカーサーに)声明された。兄はその時に自殺を覚悟したと思われる。695

 

以上 20201226()

2020年12月25日金曜日

帝国満州の最後を見て 古海(ふるみ)忠之 1964年7月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

帝国満州の最後を見て 古海(ふるみ)忠之 1964年7月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 「五国協和」=満州国は「夢」だったという。この認識は不可解だ。このことと「満州国建国は侵略だった」という告白とは矛盾しないか。天邪鬼か。*

 

「同時に、最近の若い人々の考え方の変化にも驚いている。現実的で合理的になったことは、私たちの時代より進歩であることは認めるが、反面どこにも『夢』がない。すべて、数字、そろばんで割り切り、自己の利益や楽を基にし、『祖国あるいは民族といった点で、どうも一本筋金が抜けているようにも感ぜられた。

 満州国建国の際、当時の若い人々は、満州において、理想の国家を作ろう、各民族が協和合作する理想の国家を作ろう、という夢を持ち、熱情を傾けて、その実現に努力したことを思い出す。」

 「私は満州国の経営の基礎は、日本の権益を守り、日本の経済的利益を図る意図があったことを否定しない。また、関東軍の主権者的存在から、侵略性のあったことも認めざるを得ないであろう。」

 「これら当時の世界史的趨勢(帝国主義・植民地主義の時代ということか)の中にあって、民族相協和する楽土を作ろうという、日本民族の間に生まれた夢と、それを実現しようとする努力は、たとえそれが失敗に終わったとはいえ、最近の世界的良識の先駆として認識すべきではなかろうか。」(満州国が帝国主義時代におけるユートピア国家だと考えているらしい。)675--676

 

 

 敗戦後満州国の日系官吏は満州国を廃止し、その後満州人によって治安維持会がつくられたが、ソ連によってつぶされ、満州人はソ連軍によってどこともなく連行された。

 

 8月17日深更、満州国の最後を決める緊急参議府会議が大栗子で開かれ、18日の午前1時過ぎ、満州国の解体と皇帝の退位を決定した。665

 満州国の首脳部は直ちに新京に帰った。

 8月19日、新京にソ連軍が入ってきた。

 8月20日、暫定的な行政機関として東北暫時治安維持会が結成された。会長は前満州国総理・張景恵、副会長は臧(そう)式毅、その他、呂栄桓蔡運昇らであった。

 8月22日、ソ連軍が治安維持会を解散させた。666

 

 満州国日系官吏外交官の中から、武部総務長官、下村外交部次長、大津樺太庁長官と(古海)の4人を除き、他は1946年7月に日本に帰された。670

 

 ソ連で下村外交部次長と私(古海)は最後まで取調べを受けた。取調べの内容は、ソ連に対する調査特務をやったかどうかというものだった。私は助かったが、下村君は25年の刑を受け、ソ連の監獄に入れられ、そこで亡くなった。670

 

 この取り調べて、ソ連で処罰する者、中共へ渡す者、日本へ帰す者に分けられた。671

 

追記 20201225()

 

 古海がこの一文を書いたのは1964年5月か6月頃と思われる。それは古海が日本に帰国1963.3してから1年しか経っていない。古海は異邦人だ。戦後の日本を知らない。だから古海は戦前の価値観を純粋に引き摺ったまま戦後の日本に現れたと言える。

古海は戦後日本の東京裁判、公職追放・解除、朝鮮戦争、サンフランシスコ条約、労働運動、安保闘争などを、身を持って体験したことがない。古海が戦後日本に違和感を抱き、戦前の価値観を主張するのも頷ける。

 

古海忠之 1900.5.5—1983.8.23  大蔵官僚、満州国官僚、実業家、東京府出身。

京都一中、三高を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年、大蔵省入省。

1932年10月、満州国国務院総務庁理事官・総務庁主計処総務科長兼特別会計科長。

1937年、満州国協和会指導部長と人事処長(局長)を兼任。満州国で、石原莞爾と対立。古海は星野直樹、岸信介、甘粕正彦、関東軍などから味方され、石原は1938年12月、舞鶴要塞司令官に左遷された。

石原は関東軍参謀長東條英機とも不仲だった。石原は野人的・理想家肌で、東條は官僚的・現実的だった。

甘粕総務部長、古海指導部長の二頭体制となったが、石原との均衡上、関東軍の介入で、古海は指導部長を解任され、ナチ党党大会など欧州視察に出された。

敗戦後まで武部六蔵総務庁長官の補佐役として実質的な副総理格として満州国の政策決定に関与した。

 1945年8月16日朝、甘粕は自殺前に古海と関屋悌蔵を招いた。

ソ連では、民主運動・反軍闘争の中で、日本人下士官や兵隊らから「おまえなんか、シベリアの白樺の肥やしにでもなれ」と言われた。(古海忠之『忘れえぬ満州国』)

中国の撫順では、認罪など自主的な思想改造学習(洗脳)を課された。

満期を残して1963年3月帰国できたのは、古海が岸信介ら保守右派と近く、中国が、高度経済成長途上の日本との関係改善に古海を利用するためだったと古海は述べている。

 

 帰国後は中帰連に加わり、日中協会の役員を務め、日中友好活動に携わった。岸信介の世話で1965年の参議院議員選挙全国区自民党候補として立候補したが落選した。

1966年2月、大谷重工業副社長。

1968年5月、東京卸売センター社長。

1978年2月、同会長、のち、テーオーシー相談役、ニューオータニ取締役。

 

 

メモ

 

編集部注

 

古海忠之は元満州国国務院総務庁次長で、満州国建国以来、経済建設面を指導した。古海はソ連と中国に18年間捕虜として捕らわれた。

 

本文

 

664 1945年9月27日、私は満州国日本系官吏としての使命を終えた。朝10時頃、将校2名がソ連兵数名を連れて私を逮捕に来た。

 

 ソ連軍侵攻以来、満州国の満系要人、総理・張景恵ら各大臣が逮捕され、飛行機でどこかへ連行された。私は逮捕されるのを待っていた。私は、私の従弟の橋爪義雄根本竜太郎君(現・代議士)と一緒に生活していた。

 

私が二人は私の部下だと言ったことや、二人の服装があまりにもみすぼらしかったせいか、二人は逮捕されなかった。関東軍の命令で妻と小学校6年の息子は、敗戦直前に無蓋貨車で安東(慶尚北道中部)に送られていた。

665 従弟の橋爪義雄は満州国経済部の役人、根本竜太郎君は、建国大学助教授・満州国総務庁参事官だったのだが(逮捕されなかった)。

 司法部理事官・岡崎格君(現最高検察庁検事)はまだ課長だったが、一緒に住んでいた満州国最高法院次長・司法部次長・斎藤朔郎君(現最高裁判事)と共に逮捕された。

 この日、総務庁長官・武部六蔵以下満州国日系首脳者達が逮捕された。

 

 私は大蔵省第一次移民団の一員として渡満し、王道楽土の建設や経済5ヵ年計画に取り組んだ。

 

 8月15日、敗戦に際して満州国の処理と満州国皇帝の処遇が問題となった。あくまでも満州にたてこもり抗戦しようとする動きも多数あった。満州国政府を盛り立て、大同学院、建国大学を率いて頑張ろうとする人々もあった。

 だが、天皇の放送の趣旨に従って行動すべきだと決した。「日本と満州は一体の国家である、と性格上はなっている。日本が負けた以上、満州国が存続するのはおかしい。解体すべきだ。」と考えた。

 17日、満州国解体の草案を作り、武部総務長官が通化へ行き、皇帝や閣議に諮った。

 皇帝以下の満州国要人はソ連軍侵攻と共に、関東軍の命令で、通化からさらに朝鮮国境に近い臨江に移っていた。敗戦の時は臨江近くの大栗子にいた。

 8月17日の深更、満州国の最後を決める緊急参議府会議が、東辺道開発株式会社大栗子鉱業所の社宅の食堂で開かれた。

 18日午前1時過ぎ、満州国の解体と皇帝の退位とが決定され、満州国を解体する詔書が、皇帝の名で出された。

666 退位式が終わると、満州国の首脳者たちは新京へ引き揚げた。

 彼らは外国放送で、日本が負けることを1年前から知っていた。蔣介石と連絡を取っている者もいた。

 

 私たち満州国首脳部は、満州を焦土としてはいけないと考え、諸施設を中国側に引き渡す方針を決め、五ヵ年計画で作られた第二松花江の豊満ダムを、現地の日本人が破壊すると言ってきたが、止めさせた。

 

 19日、ソ連軍が入ってきた。

 20日、暫定的な行政機関として、東北暫時治安維持会が結成された。会長は満州国総理だった張景恵、副会長は臧(そう)式毅、その他、呂栄桓蔡運昇らであった。日本人は含まれなかった。

 22日、治安維持会の委員全員がソ連軍司令部に呼ばれ、その解散を命ぜられた。

 ソ連軍は中央政府を作らず、その権限をソ連軍自身が握った。新京など地方機関は、ソ連軍が任命してやらせた。

 

 自殺者が多数出た。大杉栄を殺害した甘粕正彦大尉(当時満映社長)も自殺した。徹底抗戦を唱えていた人たちも日が経つうちに落ち着いてきた。わずかに通化で事件を起こした程度だった。*

 

 関東軍の家族が一番先に引き揚げた。その次に満鉄の家族が、一、二等寝台で引き揚げた。次は満州国政府の家族が引き揚げろと命令が出た。

 一般居留民はほっておかれ、市民はおもしろくなかった。私どもは居留民優先を鉄則で引き揚げに当たった。(どうして自分の家族は敗戦直前に帰ったのか。)

667 新京を目指して各地から居留民が集まった。開拓団の人々は悲惨だった。開拓団はソ連との国境近くに入植させられていた。関東軍も開拓団の処遇をいちおう審議したが、軍の機密が漏れるからと、開拓団はそのまま見殺しにされた

 満州では男は軍隊に取られ、年寄りと女・子供が残されていた。関東軍は前線から引いた。ソ連軍が追撃し、原住民が迫害された。

 私は満州で政治を担当した。

ソ連兵は掠奪した。ソ連兵の生活程度は低かったに違いない。ソ連兵はブルジョアのものを取り上げるのは当然だと教育されていたにちがいない。

 強姦も多かった。

 私ども官吏はソ連軍から権限を奪われているからほとんど何もできなかった。大使館の上村公使宅で相談し、居留民団をつくり、民間人の満州重工業の総裁・高碕達之助氏(後・代議士)に満州全国居留民団長になってもらった。

 人々は職を失っていた。

668 武部総務長官を始め、我々満州国日系官吏は、旧外交部大臣・謝介石の公邸の地下室に連行され、取調べを受けた。私はそこに10月27日まで拘禁されていた。

 

*どういう経緯で満州はソ連から中国に手渡されたのか。ヤルタ会談で、満州は中国の主権が認められていた。ただし、そこでソ連の満州での利権が言及されたが、それは蔣介石の承認を必要とするとされていた。(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』pp. 35—36

 

 私たちの名目は抑留(インターン)であった。そしてソ連に対する侵略行為が明らかになれば、処罰されることになっていた。

 関東軍は捕虜になった。軍以外の者もシベリアに連行された。50万人の押送抑留は、戦後の復興事業に当たらせるものだった。

 物資も奪った。五カ年計画で我々が作った工場の施設や機械などを持って行った。

 我々の受け入れ準備はできていなかった。ソ連自体が食糧不足だった。

 バタバタ死んでいった。ビラカンは零下50度から60度で、小便がそのまま凍りついた。我々は兵舎にぶち込まれ、蒲団もなく、床に直に寝かされた。

 私は赤痢にかかった。便所はない。医者はいない。薬はない。48日間苦しみ、骨と皮になった。生命の危険を感じた。

 5カ国の人がいた。ドイツ大使の夫人ワグナーさんがいた。風呂にも何十日入れず、毎日シラミ取りをした。

 元来、労働は捕虜取扱規定に準じなければならない。(日本軍は捕虜規定を無視していたが、こんな時は捕虜規定などに言及する。)将校以上は本人の承諾がなければ労働させることができない。しかし、将官は別にして、下級の将校は承諾書を無理やり書かされた。インターン(抑留)もそれに準じた。私は将官の取り扱いを受け、初めのうちは労働をさせられなかった。

669 1948年ごろ、民主委員会を作らされ、反軍闘争をさせられた。幹部は兵隊に格下げされ、将校以上は軍国主義と看做され、批判された。

 1949年、私古海と外交部次長の下村信貞と大同学院長の井上忠也、参議の高橋康順7名が、将官ラーゲリ(収容所)から一般ラーゲリに強制的に移され、労働をさせられた。捕虜規定違反ではないかと言っても受け入れられなかった。「労働をさせてはいけないとはどこにも書いてない。労働をさせるのは俺たちの権利だ。」と言われた。

このハバロフスクのラーゲリでは随分いじめられ、一日中吊るし上げされた。労働もいやなところに回され、貨車から石炭を降ろしてトラックに積む、材木やレンガを運ぶなどだ。

 高橋さんはその時55歳くらいだったか、過労で足が立たなくなった。痛いと言うと労働忌避の言い訳だと看做された。高橋さんは杖にすがって、びっこを引いていた。びっこはついに直らなくなった。

 私もジャガイモの入った80キロの麻袋を倉庫から出してトラックに積み込む労働をさせられ、夕方一度座ったら立てなくなった。私もびっこをひくようになった。翌日私がどうしても行けないと言うと足を使わない軽労働に回された。

 ソ連人は荒っぽい。(日本人はそうでないのか)

670 私たちがチタからハバロフスクへ行かされたとき、零下40度でも、貨車にはストーブ一つがあるだけだった。(汽車に)石炭の準備はなく、駅に停まった時、石炭を持ってきて使う。石炭車があればそこからもらってくる。駅近くの民家から木を貰ってくることもあった。

 

 ソ連人は縦系統の指示ばかりで、横の連絡がない。(日本はそうでないのか)

 満州国日系官吏や外交官の中から、武部総務長官、下村外交部次長、大津樺太庁長官との4人を除いて、残りを1946年7月に日本に帰した。

 その帰された人の中に満州公安局(秘密警察)の人もいた。それも縦系統の指示の結果だ。

 

 ソ連人は嘘をつく。(日本人は嘘をつかないのか)それは軍人、官僚、党員を通じて顕著だ。

 新京からシベリアに送られるとき、収容所長は日本に帰すと言った。シベリアから中共に引き渡す時も日本に帰すと言った。

 中共へ引き渡す前日、収容所長は私に、「明日お前たちを日本に帰す。ついてはソ連における抑留生活や取調べについて感想を書け」と言った。翌日私は玄関で銃剣に取り囲まれた。(感想文で篩い分けしたのではないか)

 

 外交部次長の下村君と私は、最後まで取調べを受けた。ソ連に対する調査特務をやっただろうと追求された。私は助かったが、下村君は25年の刑を受け、ソ連の監獄で亡くなった

 この取調べで、ソ連で処罰する者、中共へ渡す者を区別し、残りは日本へ帰した。

 

671 1949年10月1日、中共政府ができた。その直後に武部総務長官を呼び、「中共政権をどう思うか、論文を書け」と言われた。

 中共に渡されたのは主として華北にいた連中だった。華北は日本軍が八路軍とやりあったところだ。39師団、59師団などである。

 

 八路軍は小部隊の日本軍の3倍の規模で攻めて来る。友軍をやられた日本軍は仇討ちだと一村を皆殺しにした。

 1020名が中共に渡された。1950年7月21日の夜、撫順に着いた。

 八路軍は日本軍を日本鬼と呼んで恐れていた。

 八路軍の工作員や指導員は「日本人に人情はないと思っていたが、君たちが家族に書く手紙を読み、人間味を感じ、再認識した。」と言った。

 八路軍と交戦した地域で日本軍がいかにむちゃなことをしたかが分かる。

 

 撫順に着いた時には朝鮮戦争が始まっていた。アメリカの爆撃が、朝鮮国境の水力発電所や間島*国境を越えて敢行された。9月、私達はハルビンに移され、そこで3年間過ごした。

 

*間島 吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯。中心都市は延吉。

 

 その間、取調はなかった。日課も簡単で、箱を張ったりする軽作業だった。

672 運動時間は、朝30分、昼30分、あとは読書三昧。6畳くらいの部屋に4人が入れられた。

 私は看守と喧嘩ばかりした。便所の使用回数で喧嘩をした。私は無期刑を覚悟した。

 監獄には(日本で)戦前出版された左翼系の本が多かった。無期になって読むものがなくなると困るので、「資本論」を写した。全部写し終わるのに2年半かかった。3巻3000ページである。「資本論」の次は羽仁五郎の「ミケランジェロ」にとりかかった。

 

 1953年、撫順に帰った。1955年から取調べが始まり、同時に独房に移された。写本も取りあげられた。取調べは1年かかった。

 第一回目の取調ではりっぱな乗用車で迎えに来た。検事長の少将の自宅で調べられた。柔らかいソファーに座らされた。少将はいきなり「お前はいつから侵略に来たのか」と言った。私は「侵略に来た覚えはない。満州国政府から政治経済面をやってくれと言われたから来たのだ。」と言った。

 翌日から木製の硬い椅子に変えられた。相手は私の言うことに反駁しなかった。言いたいことを書かせ、事実と違ったり、ぐあいが悪かったりすると再考を促された。

 自白、反省を促された。説教もされた。

673 ソ連では脅しが普通だった。拷問も正式にはできないが、それに近いこともあった。中共ではそれはなかった。

 定期的に批判会が開かれ、自己の錯誤を自己批判し、他人に批判を加える。やりきれない気がした

 

 第二の方法は、集団的な方向性をつけて指導する方法だ。

 

私たち指導者は戦犯としては罪が重いはずなのに、将軍には米を主体に、兵隊にはより粗末なものを提供した。煙草は月200本。酒はないが、不自由はない。こっちが決まり悪くなる。「一般と同じにしてくれ」と要求する。5度目に、本心からと思われると、待遇を同一にした。

 

1955年、選挙で委員を選ばせた。委員会が案をつくり行政を行う。労働、学習、運動、生活等である。指図はない。委員会の委員は12名くらいで、委員長、副委員長と、学習、体育、文化、生活、創作部とあった。

674 最初、委員会で創作(劇)をやらされた。自分のやったことを基礎として劇を作る。これ(劇)を全員で取り組む。半年やった。これは反省の機会になるし、調査の資料にもなった。

 

 労働は、養鶏、畠づくり、花壇づくりを主とし、作ったものは全部我々にくれる。

 配給は肉が1ヶ月に3キロ。労働の成果もくれるから、自分たちの食べたいものをつくるなど、労働に積極的になる。

 

 1956年5月、中共は、「日本人戦犯処理に関する件」という法律を出した。

 その骨子は「日本との間はかつて非常に悪かったが、現在は非常に仲良くなりつつある。戦犯一同も非常に反省している。だから日本人戦犯に対しても寛大に処置すべきである」というものだ。

 1956年8月、この処理規定に従って、44人を残して、微罪は不検挙として、(残りは)全員釈放された。

44人は裁判を受けた。太原組と撫順組とに分かれた。撫順組は私などソ連から引き渡された組で、太原組は敗戦後、太原を日本の一つの根拠にしようとして、親日軍閥閻(えん)錫山と組んで、八路軍と戦って捕虜になった人たちだ。

 私の裁判には、皇帝の溥儀以下、満州国大臣が全員出廷した。本来なら総務長官の武部さんが法廷に出るはずなのだが、ソ連から中国に引き渡されて2年目に、脳軟化症で倒れた。

 

 中国政府は日本軍から被害を蒙った国民に納得してもらう必要があった。裁判はそのためにも必要だった。(それを古海は「法廷は一つの儀式でもあった。日本軍国主義者をかくのごとく処罰した、という国内的な大きな宣伝である。恨みに思っている人民たちへの方策として必要なわけだろう。」と表現する。)

 国際的に言えば、満州の政治責任を、どう戦争犯罪に結びつけるのか、疑問であるが…(どういうことか。満州国建国が戦争犯罪ではないと言いたいのか。)

 薄儀以下全証人の映画を取り、全国へ回した。題は「寛大なる裁判」であった。

 帰す者は帰したというPRである。残された私らにしても、処理規定六項に、「表現がよかったならば、刑期のいかんに関わらず、いつでも釈放する」とある。

 早く帰りたいのは人情だ。そうなると表現をよくする競争が始まる。(ひねくれ者だ)「資本主義は悪いに決まっている。社会主義は良い。(単純化しすぎではない。)中国の悪口を言ったり、日本を誉めたりしちゃ表現が悪いことになる。学習はマルクス主義のものに限る。労働も一生懸命やらなくちゃならない。発言もやはり唯物弁証法的な形式において発表したほうがいいに決まっている。」

 こうして中共が狙っている線に自然に則ってくる。中共にいた連中が帰ってきて、洗脳されたというものの、大体はこれなのだ。(穿った見方だ)

 このことは日系戦犯ばかりでなく、いっしょに入っていた満州系戦犯、蔣介石系戦犯についても言える。彼らに対しては、「従善改悪」といって、悪を改めて善についたならば釈放される。

 「中共の職員は嘘を絶対につかない。中共軍の規律は非常に厳正である。したがってソ連は面白くないが、中共はいい」ということになる。

 「諸君の人格と健康と生活の三つは完全に保証する」と明言する。(日本の)若い人たちは、学校を出るとすぐに兵隊にとられ、支那戦線に長いこといて社会を知らない。理論構成として唯物弁証法は魅力もある。だから洗脳と言われてもやむを得ないことになる。(原文は「仕儀といえる」)

 また、帰るときは中国各地を旅行させる。元の支那を知っているから、五カ年計画後に良くなっているのを見ると、感心してしまう。

 しかし、日本に帰ってしばらくすると、再考するのだが。

 私は帰国前三ヶ月間、中国各地を旅行した。私は工業その他各方面の発展と生活程度の急上昇を見て驚いて帰って来た。

 ところが日本に帰ってみて、農工業の発展、社会施設、国民生活の向上に眼を見張った。それは中国の比ではない。敗戦の廃墟の中からよくここまできたものだ(彼は日本の敗戦時のことを知っていないのではないか。)と感嘆すると同時に、つくづく日本民族は優秀であるとの感を深くした。(これはどういう意図か。恥ずかしい。)

 同時に最近の若い人々の考え方の変化に驚いている。現実的で合理的になったことは、私たちの時代より進歩であることは認めるが、反面どこにも夢がない。すべて、数字、そろばんで割り切り、自己の利益や楽を基にし、祖国あるいは民族といった点で、どうも一本筋金が抜けているように感ぜられた。(自民族中心主義)

676 満州国建国の際、当時の若い人々は、満州において、理想の国家を作ろう、各民族が協和合作する理想社会を作ろう、という夢を持ち、熱情を傾けて、その実現に努力した。

 私は満州国の経営の基礎は、日本の権益を守り、日本の経済的利益を図る意図があったことを否定しない。また、関東軍の主権者的存在から、侵略性のあったことも認めざるを得ないであろう。(よくわかっているじゃないか)

 これら当時の世界史的趨勢(帝国主義時代ということか)の中にあって、民族相協和する楽土を作ろうという、日本民族の間に生まれた夢と、それを実現しようとした努力は、たとえそれが失敗に終わったとはいえ、最近の世界的良識の先駆として認識すべきではなかろうか。(彼が戻ったのはいつ1963.3か。彼は戦後の日本を知らない。満州国は帝国主義の産物ではないと言いたいのか。)

 満州でこうした体験をもった私達は、今度は祖国日本のために、その熱情と努力を再現しなければならない、と思わずにいられない。(また五族協和を唱えるのか)

 

1964年7月号

 

以上 20201224()

 

痛恨! ダレス第一電 藤村義朗 1951年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想

痛恨! ダレス第一電 藤村義朗 1951年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 「わしは戦中でも米国にそして日本のために尽くしたんだ」ということが言いたそうな感じを受ける。後付の話は信用できない。米内光政は対米協調主義者として信用できるのか。それでは海軍はなぜ対米戦争に加わったのか。矛盾している。

筆者の、朝鮮や台湾の領有が日本の利益になると考えには違和感を覚える。カイロ宣言で朝鮮の戦後の方向性が決まっていたということもさることながら、この海軍武官は、満洲での間島事件や、台湾での霧社事件などを知らないのだろうか。恐らく知った上での発言なのだろう。アメリカのニューメキシコ領有をその正当化のために使う。20201220()

 

戦争医学の汚辱にふれて 平光吾一(ひらこうごいち) 1957年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想

戦争医学の汚辱にふれて 平光吾一(ひらこうごいち) 1957年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 20201220()

 

 米は空襲によって無辜の日本の民衆を殺した、だから無差別爆撃を行って捕虜となった米軍パイロットを殺してもいいと筆者は言うが、それは時代錯誤の喧嘩と同じではないか。米軍パイロットも好き好んで日本の上空に来たのではあるまい。日本が米国に戦争を仕掛け、それに対応するために米国民は徴兵や志願を通して軍隊に入って、部隊の一員とされ、任務を与えられて来たのではないのか。だから戦争にもルールがあり、それが陸戦規定ではないのか。

また、民間人を巻き込んだ無差別空襲は、別個に問題とされなければならないが、日本も米軍の空襲以前に、重慶で無差別爆撃をやっている。

 米が神であるとは言えないことには同意する。人肉試食がでっち上げだったことは確かなようだが、だからといってこの戦争の問題を、勝つか負けるか、勝てば官軍負ければ賊軍という問題に還元できるのだろうか。それは短絡であり、論理の飛躍ではないか。

筆者は戦争に負けたことによって、日本は主権を否定されたと言うが、日米には全く同等の正義があったのだろうかという問題はないのか。例えば、どちらが先に戦争を仕掛けたのかというも問題や、民主主義か、それとも軍国主義・全体主義(自己中排外主義)か、という政治制度の優劣の問題もあるのではないか。

 

 日本空襲を担当した米軍パイロット8人627の生体解剖を行った九州大学医学部教授にとって、このことはとばっちりだったようだ。場合によってこの生体解剖が一民間病院(佐竹外科病院630)で行われていたかもしれないのだ。そこで断られたために発案者の偕行社病院詰見習軍医・小森卓が、九州大学医学部の恩師である石山福次郎教授に、「軍(佐藤参謀大佐630)の命令だとして」引き受けさせたと読める。当の教授は監獄の中で自殺した。

 

 筆者は医学の進歩のために生体解剖を容認するかのようだが628、私は、戦争という非常事態であれ、生体解剖を肯定・賛美する考えには賛成できない。非人道的だ。人類福祉630のためになるというのは詭弁だ。

 

医学の進歩は、その歴史を省みる時、このような(ドイツのブラントや、イギリスのハーヴェーなど)戦争中の(生体解剖の)機会を利用してなされていることが多いのだ。生体解剖それ自体の行為はもちろん許されるべきではない。しかし、その許されざる手術をあえて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも遺しておいてくれたら、医学の進歩にどれほど役立ったことだろうか。犠牲者の霊も幾分なりとも浮かばれたであろう。」628

 

 石山さんは死んでもいいから記録を残しておいてくれ、医学の進歩のためなら、死んだ米軍捕虜の霊が浮かばれる、と読める。命の尊厳を無視した医学進歩至上主義、ドラキュラ博士ではないか。

 

 

木の葉のごとく 菊田一夫 1964年8月号 オール讀物 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想

木の葉のごとく 菊田一夫 1964年8月号 オール讀物 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 20201221()

 

 戦後になってから戦時中のことに関して文を書く人に共通する点は、自己保身である。菊田一夫もその例に洩れない。菊田一夫が言いたいことは、自分はいい人だ、戦時中は当然なすべきこと、日本を勝たせるために書いたに過ぎない。それが悪いと言うなら、どうにでもしてくれ、ということだ。

菊田が演劇を書き続けても良いかどうか、米軍将校に訪ねに行ったときのことを記す以下の文章にそのことがよく現れている。

 

「9月20日 『明朗新劇』の脚本執筆に取り掛かる。しかし、やっぱり気が重い。このまま書くのは自分を騙すような気がする。

放送会館内に設置されたGHQ民間教育情報部演劇課に、担当将校のキースを訪ねる。通訳を通じて用件を申し述べる。

『私は劇作を業としている菊田一夫です。戦争中は東宝株式会社に所属し、…など、数多くの敵愾心昂揚脚本を書きました。私は日本国民として、日本に勝って欲しかったから、誰に強要されたのでもなく、それらの脚本を書いたのです。今でも悪いことをしたとは思っておりません。聞くところによれば文士も戦犯として捕らわれ、処刑されると聞きました。私は脚本を書くことによって生活の糧を得ているものです書かねば食えません。いま、あるところから脚本を頼まれているが、それは書いてもよいのかどうかの質問をしに参りました。』

キースの返事は、『菊田さんに罪があるかどうかは占領軍のその担当者が調べることだ。私が菊田さんの釈明を聞く必要はない。しかし、アメリカの法律では、犯罪者は捕らわれ、裁かれ、そして有罪と判決されるまでは無罪である。』

キースはさらに『自分は占領進駐以来この職務を担当しているが、自ら名乗り出て、戦争中の仕事を告白したのは菊田さんだけである。グッドラック』と言った。

私は涙がこぼれて来た。」

 

 

 戦時中、菊田ら演劇界で役職をもっていた人は、多くの会員に戦争協力を強要した責任を取るべきだと日本演劇協会総会で批判され、会長以下役員総員が辞表を提出した。それでも自らの正当性を主張したいのか「あれだけ一生懸命にやったのになあと悲しくなるが、誰もが戦争中の私たちがやったこの協会の仕事を批難しているのでもないことがわかり、じっと眼をつぶった」と言う。649

 共産党が菊田を含めて、戦時中の行為でマークすべき戦犯文士9名(武者、山本、火野等*)を名指しして進駐軍に提訴した、と記しているが、これは共産党に対する挑発ではないか。

 

 戦争が起り、誰にもその戦争の責任がないのなら、また戦争が起る。

 

*武者小路実篤1885.5.12—1976.4.9 トルストイ主義(個人主義・反戦思想)から一転して、1941年、日本文学報国会劇文学部会長。1946年9月、公職追放。

山本周五郎1903.6.22—1967.2.14

火野葦平(あしへい)1907.1.25—1960.1.24

 

 

感想 びっくり。8月14日の東北線宇都宮駅や、8月 日の岩手県岩谷堂町の光景。

 

・軍人ども(一人の陸軍将校と二人の兵士)は、汽車の中で特権的・暴力的に、食堂車の厨房を改修した広い座席空間を占領している。筆者が窓から入ろうとしたら、「馬鹿。貴様等の乗るところではない。」などと怒鳴り、筆者が投げ入れたリュックサックを顔に投げつけた。641

・宇都宮駅で、汽車に乗っている、恐らく東京方面からの乗客は、ホームの乗れない乗客が窓から入ろうとするのを阻止すべく、窓を閉めてしまう。東京人の自己中。641

・岩手県岩谷堂町の農民は、疎開先の旅館の裏側の空地でも、所有権を主張して貸さない。菊田が耕し始めたら、「こら泥棒」と大声で叫びながら近づいてきた。ケチ。644

 

以上 20201221()

原爆下の広島軍司令部 松村秀逸 1951年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想

原爆下の広島軍司令部 松村秀逸 1951年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 20201221()

 

軍人の精神構造はどうなっているのだろうか。命令で動く機械のように律義な人間か。戦いのプロが、何と平和主義者に様変わりなのだ。以下を見られたし。

 

「(8月15日の天皇の)御放送の中に『忍びがたきを忍び、堪えがたきを堪え…万世に太平を拓かん』との御言葉があった。万世に太平を拓く、永遠の平和は、いつ来るであろうか。戦争なき世界が、いつ現実の日程に上るであろうか。…かくて人類は、原爆の脅威にさらされながら、平和の彼岸に向って進みつつあるのではなかろうか原爆の威力を身をもって体験した私は、恒久平和への希求において、人後に落つるものではない。…」663

 

 筆者は当時広島軍司令部の要、陸軍少将で中国軍管区参謀長であった。鬼畜米英ではないのか。

 戦前は、天皇や軍首脳に、そして戦後は米軍に律義に忠誠を尽くすということか。

 

追記 20201222()

 

 日本人には他者との関係によって鍛えられた思想がないのかもしれない。狭い自己中の日本の歴史を通してしか世界を見ることができない。今のトランプ支持のアメリカの民衆が自己中であるのと同様だ。

 

2020年12月19日土曜日

敗戦日記より 玉川一郎 1945年11月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

敗戦日記より 玉川一郎 1945年11月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 20201217()

 

 多くの日本人は国際感覚に乏しく、自分自身が政治に関与しなかったから、敗戦の際には鬱屈した批判ばかりをして憂さを晴らしたのではないか。この一文(日記)を読んでそう感じた。編集部注によれば玉川はユーモア作家とのことだが、ユーモアどころか陰鬱な不平・不満の連発である。

 

 

メモ

 

編集部注

 

 敗戦後資源物資が枯渇し、生産力が失われ、インフレが続いたが、「リンゴの唄」などどこかに明るさもあった。これはユーモア作家の日記である。

 

玉川一郎1905.11.5—1978.10.15 東京外国語学校仏語部卒。作家。ラジオのとんち教室1949--に出演。

 

本文

 

698 1945年8月15日の朝、熊谷が空襲された。熊谷市民の多くは(玉音放送を)信じなかった。

 午後3時ころ宮城に行く。泣きはらし、脚を引き摺る男女が帰ってくる。人々は土下座したり、佇立(ちょりつ)したり、悲痛の声で「聖寿万歳」を奉唱したりしていた。南京陥落やシンガポール陥落の時の人の波や旗・提灯の海を思い浮かべて、感無量(無念、悔しい)。

 8月16日~18日等 朝から海軍機がしきりに飛んできて、戦争続行の意思を表示する、横須賀航空隊や皇軍などの署名があるビラを撒いた。また電柱にも貼布する。「バドリオ*を仆せ」などと書いてある。「皇軍は健在なり。工員諸君よ工場に帰り、作業を継続せよ。」と書いてあるが、工員は動かない。工場の多くは8月15日正午以降操業を停止している。

 

我が飛行機の乱舞、喧嘩過ぎての棒ちぎれ、六菖十菊の感強し。温存の無意味を語る人多し。

 

*バドリオ1871.9.28—1956.11.1 

1919年、陸軍参謀総長に就任。

1943年7月、ムッソリーニ失脚を主謀し、臨時政府の首相兼外相となる。

1943年9月8日、連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワーが、イタリア側の了承なしにイタリアの無条件降伏を発表すると、ドイツがイタリアに宣戦布告し、幽閉されていたムッソリーニを担ぎ出し、北部にイタリア社会共和国を樹立した。

1943年10月13日、バドリオはドイツに宣戦した。

1944年6月、連合軍がローマを占領したとき、バドリオはローマに戻ったが、夜逃げ同然に首都を放棄したことで国民の支持を失っていたため、首相の座をイヴァノエ・ボノーミに譲り、政界を引退した。

 

 8月15日から「日本人として恥ずべき」掠奪同然の、官公署・軍需会社の物資分け取りが始まった。砂糖1貫目、メリケン粉3貫目、水飴石油缶に1缶、そして缶詰・乾パンは当然のように、各人に分配されている。鶴見では海軍部隊が通行人に食用油をただ同然に与えたという。トラックで持ってくるらしい。鎌倉方面では、海軍将校が白米1俵を1600円の闇値で売っているらしい。

 部隊により、服装1式と毛布1枚のところもあるが、背負いきれず、米を捨てる場合もあるらしい。それらは皆、国民に帰すべきものだ。

700 軍は情況において同情すべきとしても、官公署・軍需会社は言語道断だ。百姓はこれを見て、もう供出はやめた、と怒ったという。末端の官吏が言った。「戦争中は生産の隘路(ネック)となり、敗戦後は盗賊となるおまえらを、今後はあらゆる方法で筆誅を加えてやるぞ」と。

 

 女子駅務員の姿が次第に少なくなった。これだけは敗戦による朗報だ。女子役務員は、戦う生産人に、朝から不快感を与えた筆頭だった。将来その履歴書に駅務員の経歴のある女子には一切の便宜や好意を示すまいと私は決意した。同感者多数。(どういうことなのか。威張っていたということか。)

 

 8月17日、私に対する軍需監理部の採用通知の顛末

 

4月中旬、履歴書提出

5月末、催促

6月29日、発令

7月24日、附の辞令

8月12日、附の速達

8月17日、入手

 

 これでは戦争に勝てるわけがない。もちろん私は出頭しない。(人事の仕事がのろいということか。)

 

 9月4日、疎開先の掛川の在で、農村学童らは親の意志を反映するのか、疎開児童に「早く帰れ」等の悪口を言い、残忍な私刑を加えるとのことだ。農業会の者たちも、米の配給等で「これからは疎開者も自作自給で行くだ」と放言する。田舎者の頑迷不霊は言語に絶する。戦災に遭遇することもなく、ただ自分の分け前を削られたように考える無知は、今後重大な問題をもたらすと思う。自作自給するための土地があれば、彼らごときに叩頭する必要はない。農民はヤミ値でなければ物資を出さない。ヤミ値で売りながら、買う側を暗に罵り、わずかに自己の良心?の呵責を糊塗しようとする心理は唾棄すべきだ。土地の再分配が考慮されるのももっともだ。

 

 軍需会社による物資の不当分配 工員たちには僅かしか与えないのに、事務員以上には莫大な量を与える。

 末の妹が中島製作所でもらった物は次の通りだ。

電球10個、鉛筆10ダース、蒲団皮3枚、下駄3足、鼻緒5本、戦闘帽2つ、ゲートル1足、靴下2足、軍手2足、焜炉・土瓶各1個、蜂蜜3合、酢1升、竹フォーク半ダース、アルミフォーク半ダース、藁半紙多数、インク大瓶1個、砂糖・メリケン粉少々。

退職金460円

 

 以上が本給60円で、僅か1ヶ月間勤務の女子事務員に与えた、国民からの掠奪品だ。

 

701 教育部の清水君が復員して帰社した。清水君「特攻斬り込み隊として川越で待機していたが、銃がなく竹槍だった。ゴボウ剣(銃剣)も人数分なく、外出の時は無帯剣証明を持たされた。飯盒もなく、竹を割ったもので飯を食べた。聯隊長は、「武器は敵から分捕る」と言った。

 

 東條元首相が自決し損なうと、非難が起こった。

イ、しくじってはまずいと思って切腹せず短銃を用いたが、それでも失敗した。

ロ、そのピストルは米飛行士からの鹵獲品で、玩具に等しいものであった。(米紙報道)

ハ、米憲兵が(東條家に)やって来るまでは、「法廷で所信を述べるつもりだから、幾度か自決を奨められたが、退けていた」と言っておきながら、卑怯にも自決の真似をした。

ニ、女房子供を、離婚または分家して、後顧の患いを除いていたこと。

ホ、米兵から輸血された。

ト、食欲旺盛。缶詰の果実を要求。

チ、米軍医中将にお礼として陣太刀を贈呈。

 

 東條が首相の頃、官邸の台所の調理台に、飴玉の材料である、砂糖で作った巨大な黄色の塊があったという。当時、砂糖はすでに配給制で、街には甘味が途絶え始めたころだった。

 

702 8月28日、厚木に米軍が始めて進駐した。新聞記者によれば、米軍の飛行機のエンジンは、日本の飛行機とは違って、油漏れがなかったという。

 1944年1月、海軍報道部員T中佐と会食したとき、中佐曰く。「工場で使われる米軍の捕虜は非常に能率がよく、手順がいい。彼らの日記に『日本人労働者はだらだら動き、機械を理解せず、いたずらに機械を酷使する。勝利は我らにありと固く信ずる』とあった。この間の観兵式で代々木上空を750機の陸軍機が飛ばされたが、陸軍の守っているラバウルには、陸軍の航空基地は一つもなく、海軍航空隊に助けられている。あの飛行機をラバウルに送れば良いが、現在の技量では三分の一が着けば良いほうだ。」

 

 田舎の青少年で復員くずれが、一番気風が悪い。「今はぶらぶらしているだ。」と言って、頭髪を伸ばし始め、煙草だけは一人前の手つきで喫ってみせる。

 9月下旬、元大蔵省跡に二台のブルドーザーが現れた。たちまち平地にして翌日は天幕を張った。これを昨日まで応徴士らしいカーキ色のボロ服にゲートル、カバンを提げた男が多数いつまでも馬鹿面している。私はこれを見て、ジャワのバンドンの広場で、高射砲の操縦をしている兵を現地の人が弁当もちで一日中見ていたのを連想した。このような人々が国民酒場で一番口やかましく国事を論じ、在営中は初年兵を殴り、くだらぬ刑罰を工夫し、戦災に遭えば右往左往し長期欠勤し、暇を無理に作って買出しやヤミをする。そして東條の笛に踊りながら、一番口やかましく、産業戦士などと命名され、そのつもりになって上せている。こいつらがインフレに仆れ、正気づいて閉口頓首した時、初めて再教育すべきだ。

 

 戦争中、米国の新聞紙上に黒竜会のことが載ったと外電で知ったが、疑問に思った。黒竜会は内田良平が作ったらしいが、我々インテリは右翼暴力団に興味がなかった。この際、彼らを摘発し、永久に撲滅することを望む。(自分自らが撲滅すべきではないのか。)

703 敗戦直後、頭山満の倅に放送をさせた。放送局は戸惑っていたのだが、滑稽だ。「国士」頭山に正業はあったのか。彼についての記憶は、小料理屋や待合にギャング避けの額を書いたくらいしか私の脳裏にない。明治大正昭和の多くの青年が彼らによって道を踏み間違えさせられた。頭が悪いのに豪傑のジェスチャーでカムフォラージュした馬鹿どもに国を誤られたのだ。

 

 米兵は将校に会っても敬礼しなくていいが、日本兵が欠礼すれば公衆の面前で殴打される。敗ければ掠奪をやり、脱営逃亡する。兵隊生活を謳歌したという人の話を聞いたことがない。無知と傲慢の塊のような田舎の土百姓と職工上がりが、一日半日の年功?を嵩(かさ)に威張り散らす。それを厳たる皇軍の秩序と称す。

 

 (流行歌手の)霧島昇は、変質的海軍軍人の玩弄物になった。霧島は乱視2度で、右眼はほとんど失明に近かったが、横須賀海兵団副長のI中佐は、霧島のファンで、体格検査もいい加減にして彼を水兵にして副長附とし、「愛染かつら」を歌わせ、また自作の歌詞を軍楽隊に作曲させたものを霧島に歌わせた。しかも朝の3時頃従兵に呼ばれて(霧島が)行って見ると、夜中に自分が作った歌を歌ってみてくれという。臨終のとき「雪の進軍」を聴きながら瞑目したという大山元帥の話と大きな隔たりだ。

 

 海軍報道部の腐敗は外部の誘惑が大きいが、それに乗った海軍も浮ついている。1944年10月頃から憲兵隊が米山嘱託と石川兵曹の事件を暴いた。アル中で半馬鹿の米山が、活動屋丸出しでフィルムを密売し、日映に対して腐れ果てた温情を示し、石川兵曹が海軍報道部名で買い上げた食料品をヤミで売った。

 

 インパール作戦が失敗し、(それに参加した)古関裕而*と火野葦平*が帰還した。

 火野葦平談「インパールが駄目になったときシンガポールに来たボースが寺内に会ったが、そのとき寺内がボースに、『東條なんかの言うことを真に受けているからそんな(日本の戦力の現実)ことになる』と言ったところ、ボースはびっくりしたそうだ。」

 

*古関裕而1909.8.11—1989.8.18 1944年4月、古関は作家の火野葦平や洋画家の向井潤吉と共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われているビルマに派遣された。古関のクラシックと融合した作品は、哀愁を帯びた切ない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。

1989年8月18日、古関は脳梗塞で死亡したが、その秋ごろ国民栄誉賞の授与が遺族に打診されたが、遺族は辞退した。

 

*火野葦平1907.1.25—1960.1.24 早稲田大学英文科に進学した。1928年、レーニンの訳書を持っていて、軍隊を降格除隊された後、労働組合を組織したが、1932年、検挙されて転向した。

1937年、日中戦争に応召し、その後報道部へ転属し、軍部との連携を深めた。戦地から送られた1938年の『麦と兵隊』は、徐州会戦での兵隊の人間性を描いた。英訳もされ、パール・バックに賞賛された。戦時中は兵隊作家と言われ、1939年、中野実らと「文化報国会」を結成して、従軍作家として戦争に協力した。

戦後は公職追放1948--1950された後、文筆活動を再開し、自らの戦争責任に言及した『革命前後』など多数の作品を書いたが、1960年1月24日、安保発効の5日後、自殺をした。53歳だった。このことが遺族によりマスコミを通じて公表されたのは1972年3月1日の13回忌の時だった。

妹の息子がペシャワール会の医師中村哲である。

 

704 フィリピン、ジャワ、スマトラ、マレー、ビルマ、インド(タイは除外)の諸民族に日本民族は心から陳謝すべきではないだろうか。

 一億の整理のつかない成り上がり者が、10億の指導者に何でなれよう。思いあがりだ。(為政者は民衆に)かわいそうな夢を与え、そして潰した。

 

 東部軍(東日本を管轄)のラジオ情報の発表が現実より遅れることが多かった。当時東部軍附のAK*の長浜君に聞いたところ、東部軍の参謀の一人が原稿の検閲に際し、自分の手がふさがっていると、5分も待たせたそうだ。だから投弾後に注意したり、高射砲をたくさん撃った後で、これから高射砲を撃つからと注意したりした。

 1942年頃、赤坂高樹町の鉄道次官邸には毎日全国から小荷物が届く。送迎の自動車が来るが、空車で来たことがない。次官氏は毎晩酔いつぶれて帰宅した。

 

8月13日 静岡新聞

 

老農夫の歌

 

一、孫の二人は戦争で死んだ

わしは馬鹿から瞞されました

負けて今さら愚痴ではないが

鍬を持つ手に力が入らぬ

 

二、白い手をした役人様が

ソロバン弾いて勘定しても

野良の仕事はお天気様の

機嫌一つで雨風あらし

たんととりたいさつまも稲も

今年どうやら悪出来だ

 

三、内閣変わり選挙だ闇だ

何が何やらわしゃわからんが

たった一つのお願いごとは

わしが作った今年の米を

しぼりとらずに幾分なりと

のこし下されオエライ方よ

 

四、国の同胞(なかま)が餓えると聞けば、

米の供出渋りはせぬが

孫を騙して命を奪って

金を儲けた憎い野郎の

くらう米ならわしゃ出すものか

 

五、よくもこれまでおいらの汗と

涙で納めた貴い米を

うぬらばかりがたらふく食って

島の兵士を飢え死にさせた

 

六、どうじゃ県下の百姓衆よ

おらが県ではオエライ方に

エライ頭をひねってもらい

も少し仕事にはげめるように

やってもらわず なァ皆の衆

(立花史郎寄)

 

1945年11月号

 

以上 20201219()

2020年12月14日月曜日

東京大空襲・救護隊長の記録 久保田重則 1972年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ・感想

東京大空襲・救護隊長の記録 久保田重則 1972年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

感想 20201213()

 

この人は戦前でもいい人だったようだ。*困った人の助けになれる医者でよかったという。608救護活動を報告した上司の医者(陸軍軍医学校校長)もそのように言った。609

当時筆者は28歳。604大学を卒業して満洲で3年間軍医をして、東京の陸軍軍医学校に勤めていたとき、3月10日の東京大空襲に遭遇し、救護活動に当たった。

 

 *追記 20201214() しかし、筆者は詳細には触れず、生物兵器を生産する工場の教官をしていたと軽く触れるだけだが、これは大きなことだ。598

 中国の浙江省や湖南省常徳市石公橋鎮桃源県で、日本軍はペスト菌やコレラ菌を撒いた。1940—42(宮内陽子『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』217)その加害に関与したのが筆者自身だった。筆者はそのことに触れない。ただ日本人の被害と自らの救護活動のみを強調する。戦後30年近く経過しているのに、中国の被害を知らないはずがない。生物兵器の使用は、国際法違反である。

 

戦争は人を自己中にさせる。筆者はそれを物語る事件に二件遭遇した。一件は、鉄筋のビル(本所国民学校の講堂)に最初に避難した人達が、後から逃げてくる人たちを中に入れてやらなかった。もう一件は、隅田川に最初に逃げて浅瀬にいた人が、後から川に入ってくる人に深みに押し出され、溺死した。609

 

悲惨な光景 折り重なる死体の山はどうしてできたのか。僅かの空き地をもつ学校など、2、3階建ての木造の建物の中に避難していた人々が、建物もろとも焼かれ、木質部は燃えて風で吹き飛ばされたが、死体だけが残されて積み重なった。600

 

おいしい乾パンが不味い乾パンに変質。 自分たちがやっと食事にありつけたとき、何も食べない避難民がドアの隙間から羨ましそうに見ていた。607

 

戦争を告発する文章があちこちで見られる。

 

604 それなのに、戦争はどうであろう。一人の生命を救うための医師の努力をあざわらうように、一度に何千、何万の生命が葬られていく。しかも、積極的に、計画的に、ますます残酷な手段で、大量殺戮が繰り返されている。

 

610 このような呪わしい戦争を絶滅して、人々の生命を守りぬくための方途を、どこに求めたらよいのであろう。私たちが長い間信奉してきた科学は、はたしてどのような役割をつとめることができるのであろうか。疑問はいくらでも湧いてくるのだった。

 

憲兵批判 普段は大きい態度を取っていた憲兵が、この時はいやに人懐っこそうに私に話しかけてくる。608

 

 

メモ

 

編集部注

 

597 マリアナ基地からのB29による本土爆撃は1944年11月29日に始まった。初めは軍需工場への精密爆撃だったが、1945年3月に都市の無差別爆撃に変わり、夜間に低空から焼夷弾を落とした。3月9日深夜から10日未明にかけて、東京下町の市民が最初に犠牲となった。死者数8万4千人とも10万人とも言われる。

 

本文

 

 1945年3月9日午後10時30分、警戒警報のサイレンが南関東一帯に鳴り響いた。10日の午前零時15分、B29三百機が東京の空に殺到した。浅草、本所、深川、城東、向島など、東京の下町の人口密集地帯が、焼夷弾2000トンの絨毯爆撃を受けた。

 約2時間20分、熾烈な波状攻撃が続いた。(2時35分までか。)東京の40%、27万戸が焼失し、死者は8万人を超えた。

598 その日の風速30メートルの強い北風にあおられ、合流火災による高熱の猛火に遮られ、人々は逃げ場を失い、折り重なるようにして死んだ。

 隅田川にも炎が渡った。

 罹災者は100万を越え、大半は火傷や外傷を受けた。

 

 陸軍軍医学校は救護班を準備していた。第一救護班は人員24名とトラック4台で、都内全域を担当した。第二救護班は皇居担当で、人員16名とトラック3台だった。(いかに一般人が軽視されていたかが分かる。)

 当時私は軍医大尉で、第一救護班の班長だった。

 

 陸軍軍医学校は牛込戸山町にあった。陸軍の軍医と衛正下士官の教育、軍陣医学の研究、傷病兵の診療にあたった。内科、外科以外に、軍特有のいくつかの機関を持っていた。

 防疫研究所もその一つである。校内の広大な一角が高い塀で区切られ、出入を厳重に規制し、細菌・昆虫兵器の研究と製造が極秘に行われていた。(国際法違反)

 このような生物兵器の運用や防疫の要員を教育するために、丁種学生隊が設けられ、学生には、全国から選抜された優秀な衛生下士官があてられた。

 私はこの丁種学生隊の教官で、これらの学生に特殊な防疫教育をした。また救護班長として、都内救護の企画や班員の教育を続けていた。

 

 3月10日、午前3時30分、(空襲終了の1時間後)第一救護班に出動命令が出され、3時45分、24名がトラック4台で軍医学校から一ツ橋の東部軍管区司令部に向った。

 下町方面の空は全体が一つの大きな火柱となって大空に吹き上げていた。

 司令部に到着し、「本所、浅草、深川方面の負傷者救護に任ずべし」という命令を受けた。

 民間医師の大部分は召集され、医療機関の多くは疎開していた。残りの大半も壊滅に近かった。

599 午前4時40分、司令部をあとに本所区役所(現在の墨田区役所)に向った。

 (惨状の描写は情緒的。)

焼けただれた工作機械が象のように並んでいる。これだけ膨大な工業力*の再建が、空襲下ではたして可能であろうか。不安は深刻に襲ってくる。

 

*早乙女勝元『東京大空襲』岩波新書の中で記述されている米空軍グアム司令部によれば、東京の工業力の50%が粉砕された。

 

 本所区役所で、亀沢町4丁目の本所国民学校に救護班を設置することが決まった。午前6時、区役所を出発した。人間の黒焦げ死体が山のように積み重なっていた。群衆は僅かな空き地をもった学校などの建物に火を避けて集まり、三階までぎっしりつまったが、建物が焼け落ち、木材は燃焼して火災の旋風で吹き飛ばされ、その後に人々の死体が残ったのだ。

 

 本所国民学校は関東大震災にも耐えたコンクリート三階建てである。講堂で救護所を開いた。塵埃や煤(すす)が眼に入り見えなくなった人が多かったという。

601 「軍医さんお上手ですね」と感謝と賞賛の言葉をもらった。破傷風の血清を夕方までに使い果たした。

 

カール・バーガー『B29』サンケイ新聞社によると、この夜、焼夷弾2千トンと普通の爆弾8発が投下された。

 

602 講堂の外壁に数多くの死体が並んでいた。最初に講堂に逃げ込んだ人たちが、後から逃げて来た人たちを入れてやらなかったのだ。曰く「外の人の命と私たち何百人の命とはかえられません。」

 彼らを責めることは無理だろう。道徳の限界を越え、自己保存の本能だけが作動する窮地に彼らは立たされた。罪は、そのような窮地に彼らを追い込んだ戦争そのものにある。(戦争を許した人の責任ではないのか。戦争は人間ではない。)

 

603 ここに避難している人達が、再び家を持ち、楽しい家庭を作って、元気に生業につくのは、はたしていつの日であろうかと、深夜の静寂の中で私は考えた。

 

3月11日早朝、往診の依頼を受けた。道中母親が生後何ヶ月目かの男の子をかばうようにして四つんばいになったまま裸のまま死んでいた。強烈な母性愛。これでも戦争は続けられなければならないのだろうか。たとえ勝ったとしても、その栄光とこの人たちの生命をかえることはできるのだろうか。(これは今思っていることか、それとも当時思ったことか。)

 病人は半座位で横たわっていたが、死んでいた。私は今まで一度も死亡診断を下した経験がなかった。

 

604 私は為政者をはじめ全ての人が、他人の(貴重な)生命に対して、この(生命の)厳しさをもって臨むべきだと考える。

 戦争はどうか。一人の生命を救うための医師の努力をあざわらうように、一度に何千、何万の生命が葬られていく。しかも、積極的に、計画的に、益々残虐な手段で、大量殺戮が繰り返されている。

 人類は、とくに権力者は、もっとも貴重でもっとも尊厳なものであるべき人間の生命を、彼らの目的を達成するための手段として遠慮なく利用してきた、ということが言えないだろうか。(これも今の感想か、それとも当時の感想か。)

 

 負傷者の列が途切れたので、区役所と協議して、午前10時、次の救護所を開設すべく吾妻橋近くの大日本ビールに向った。二階の調理室で救護所を開いたが、狭かったので付近の二、三の建物に班員を分散して診療に当たった。

破傷風の血清が補充された。

606 「兵隊さんに治療していただけるんだよ。」と母親が、国民学校に入ったくらいの男の子を説得する。

夜になった。今夜は交替で休むことにした。

 大学を出てすぐに軍隊に入り、歩兵連隊付軍医として三年間、北満洲の草原に馬を飛ばした。未経験の手術が多い。

 夜12時過ぎ、出動後初めて班員そろって夕食を始めた。乾パンと缶詰。ビール会社からサイダーの差し入れがあった。

607 隣のホールにあふれて避難していた人達が、中間のドアのガラスの破れ目から顔を押し当てて私たちの食事の様子を眺めていた。乾パンが喉につかえた。

 老警官が娘を連れて来た。青壮年の警官は全部召集されていた。娘に乾パンを与えて欲しいという。ガラスの破れたドアの向こうからのぞいている。婦長が娘を階下に連れ出して乾パンを食べさせた。娘は一部を食べずに父のために懐に入れた。

 

3月12日の朝、軍医学校に薬品や包帯材料を取りに山田中尉を長として向わせた。道路は昨日と一変して人通りが多くなっていた。肉親探しや焼けた家の様子を見に来た人たちだ。

608 憲兵将校も歩いている。「軍医殿はいいですなあ。この状況の下で打つ手(仕事)を持っておられるんですからね。我々憲兵にはまったく打つ手がないのですよ。」

自嘲的に寂しげに語る顔に、日頃の傲慢な憲兵の姿とは打って変わった裸の人間の姿がうかがわれた。

 私は医師でよかったとしみじみ喜びを噛みしめた。そして今こそ私たち衛生部員が庶民のために全力をあげて闘うべきときだとその使命を感じた。(自己宣伝か)

 

 正午ころ、軍管区司令部から伝令が来た。次の作戦準備のため軍医学校に帰還するようにとのことだ。心残りだった。午後2時、大日本ビールの建物を後にした。

 

三日間の診療結果の概要 患者のべ数1953名、うち死亡5名。救護所内の人が930名、救護所外から来た人が500名だった。二箇所の救護所に避難していた人は1500名だったから、これから類推すると100万人の罹災者の半数50万人が何らかの負傷をしたことになる。実際に治療を受けられた人の数は少なかっただろう。

 

 司令部に報告し、3月12日午後3時30分、軍医学校に帰着。学校長の井深軍医中将に復命した。 井深校長「軍医学校が軍の為にも民衆のためにも、お役に立つときが来た。人々の命を守っていこう。」 人間味のある井深中将の言葉が、27年後の今も私に何かを語っているように思えてならない。

 

 丁種学生隊の某婦人職員は夫とともに大火災の中を逃げ回り、隅田川の中に飛び込んだ。あとから入ったので「よかった」らしい。後から入った人は前から入っていた人を川の深みに押し出し、そのため数千、数万の人が溺死した。

610 戦争は敵に対するばかりでなく、味方同士の間でも残虐だ。

 このような呪わしい戦争を絶滅して、人々の生命を守りぬくための方途をどこに求めたらよいか。科学はどのような役割をつとめることができるのか。

 

 3月18日(1週間後)、天皇が突然本所や深川一帯の最も大きな被害を受けた被爆地域を視察した。天皇は視察を自ら発意した。まだ死体の片付けも済んでいない広大な下町の廃墟を親しく見られた。* これは当時としてはまったく異例のことであった。(当時はそう報道されたのだろう。)

 

*これには疑問があるようだ。天皇が視察する前に死体は片づけられたそうだ。

 

深川八幡境内陸海軍統帥権者昭和天皇の視察(写真)
空襲報道と天皇-「日本ニユース」第248号を巡って 川村健一郎著


 ……とくに死体処理については、死体が放置されていると戦意の低下につながるという配慮から、三月十日の午後には着手されたが、空襲下で救護活動にあたっていた久保田重則の回想によれば、あまりにもおびただしい数のために……「あらゆる機関を動員しておこなわれた」。巡幸路は「昼夜兼行」で優先的に死体をとりのぞかれ、「三月十七日の夜までかかって、天皇の目につくところだけは、なんとか片づけた」という。……不動尊、八幡宮周辺は昔から深川公園(旧永代寺境内)という平坦で広大な土地があるのです、ましてや取り扱の難い炭化した遺体を階段上の石の玉垣を巡らした場所に運び込むのは不自然です。やはり、天皇の目から空襲の真実!犠牲者の遺体を隠蔽したとしか思えません。!

 

1971年、当地を再訪した。当時焦土の中に残っていた国技館は日本大学の講堂に、本所区役所は墨田区役所に、本所国民学校は堅川(たてかわ)中学校に、大日本ビールはアサヒビヤホールになっていたが、いずれも当時のままだ。

 

1972年3月号

 

以上 20201214()

 

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...