2021年5月5日水曜日

三 歴史を貫く冥々の力1928.2 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 要旨・感想

三 歴史を貫く冥々の力1928.2 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 202155() すごく挑発的な言辞だ。青年は天皇と国のために戦って死ね、教員はそのために力を尽くせと言っている。

 

感想 202152()

 

・文献学、記憶力、それは素晴らしい。それが筆者の専門である。しかし、それは円周率を覚えるに等しい。

・時代に合った変質。立ち回りのうまさ。国粋主義に傾く。特に第一論文がそうだ。扇動的でさえある。だから本書を記述年代順に構成しなかった。記述年代順にすれば、純学問的で、神仏習合を奇想天外と評する第四論文が最初に来るはずだが、敢えてそれを避け、時流に迎合する姿を見せたかったのだろう。第四論文に次ぐ第二論文から忠君の論調が増えてくる。その次が華々しい第一論文、そして本論文である第三論文へと続く。

・愛国忠君思想は時代を貫いていると言う。

・時代の変化をもたらす要因は何か、という視点が全く欠落し、歴史はある一つのテーマ(神話)の繰り返しに過ぎない、と考えているようだが、それは神話を重視することからくる必然的結果なのだろう。

・扇情的。これが彼のトレードマーク。これも時流にかなったスタイルなのだろう。

・好戦的。

・自らが福井県出身のせいか、福井県出身の人を取り上げる場合が多い。

 

 

要旨

 

030 橘曙覧(あけみ、1812—1868.10.13、幕末期の歌人、国学者)は、幕末の福井の歌人である。その恬淡(てんたん、あっさりして)飄逸(ひょういつ、世俗離れした)生涯は、高雅清閑な作風の上によく現れているが、次のような歌もある。

 

国を思い寝られぬ夜の霜の色

ともしび寄せて見る剣かな

 

(全集に載っている歌はこれと大分文句が違っている。ここに掲げた歌は、昨年1927青山会館に陳列された曙覧自筆のものによった。)

 

この歌に漲っている精神は、普通に知られている彼の、酒壺の楽や、簡素な生活の楽を歌った歌だけを見ている人には驚異に価するだろう。この世の栄辱を度外に置き、閑に自らの魂を養い、月に歌い、花に吟じた歌人が、凛凛たる志士の気魄を持っているとは、実際誰が予期したであろう。

031 とくとくと壺からあふれてくる酒に相好を崩して喜んでいた風流の詩人は、実は秋霜烈日の気概を禁じ得ず、深夜燈火に剣を撃つ国士であったのであります。まことに一個の大なる驚異ではないか。

 しかるにこの驚異は当時福井に磅礴(ほうはく、広がり満ちる)せる憂国の精神を理解することによって必ずしも驚異ではなくなるのであります。

その憂国の精神は、20歳を出たばかりの橋本佐内1834--1859を駆り、井伊大老の厳重酷烈な圧迫に屈せず、火の如き熱と鉄の如き力とを以て尊王論を説き、幕府に賢君擁立を策し、日露同盟論を唱えしめた。左内は26歳の秋に安政の大獄で処刑されたが、囚禁されたのはその前年の25歳であった。それは驚天動地の大活躍であった。

 その同じ精神が詩人橘曙覧をして霜夜に剣を撃ち国家の将来を憂え、その和歌をして鏗然(こうぜん、金石の鳴る音)金鉄の響きあらしめたのであります。

032 彼の精神を発生せしめたものは、吉田東篁(とうこう、儒者1808--1875)である。東篁は当時福井藩に重用された漢学者であり、数百人の生徒を教え、その門弟には、鈴木主税、橋本佐内、由利公正等の越前の名士がいる。東篁の名は、字は子行、通称は悌蔵と言い、春嶽公に用いられ、学校の教授となり、侍読(じどく、主君に書を講ずる人)を兼ねた。明治8年、1875年5月2日、68歳で病没した。東篁門下の古老八田海軍大佐によれば、東篁先生は山崎闇斎(あんさい、1618--82、江戸前期の朱子学者。神道の「つつしみ」に朱子学の「敬」を重ねた垂加神道を創始した。)の流れをくむ学者であり、平生生徒に「汝ら学問をするにあたって、愛国ということを忘れてはならない。これを忘れては学問が学問でなくなるぞ、と言って度々繰り返し諭されたとのことだ。

033 東篁先生が崎門(山崎闇斎の門)の人であることは、門人村田氏壽(うじひさ、1821--1899、武士、明治時代の政治家・官僚)が撰した遺愛帖の次の抜から分かる。

 

「(東篁先生の)学は伊洛(伊洛の学とは、中国の伊川・洛陽地方の学問で、程顥(こう)、程頤(い)が開き、朱熹がそれを継承した。)を以て宗となし、四書六経、近思録(中国の儒学書。宋の朱子と呂祖謙の撰。1176刊。)など精習せざるなし。嘗て曰く、我が邦でよく聖道を伝える者は、独り山崎闇斎あるのみと。遂に闇斎に私淑し、詞章を喜ばず、その経を解するや、兼ねてその説を用い、以てこれを発明す。本末秩然、鑿々(さくさく、あざやか)叙(順序)あり」

 

 闇斎が熱烈な愛国者であったことは、「孔孟来襲の時如何」と設問した逸話でも明瞭である。すなわち闇斎はある日弟子を集めて質問した。「今もし支那から孔子を大将とし、孟子を副将とし、数万騎を率いて我が国に攻め寄せて来るとすれば、我々孔孟の道を学ぶ者はどうしたらいいか。」一座の門人は答えることができず、どうしたらいいか闇斎先生に質問した。その時闇斎先生は次のように答えたと伝えられている。

 

「不幸にしてもしこの厄に会えば、我が党は、身に堅を被り、手に鋭を執り、これと一戦して孔孟をとりこにし、以て国恩を報じよう。これがすなわち孔孟の道なり。」(好戦的)

 

034 従ってこの山崎闇斎の流れをくむ吉田東篁が頻りに愛国を鼓吹するのは何の不思議もない。吉田東篁が深く山崎闇斎に私淑したことは、八田翁が「吉田東篁先生は学生を導くにあたり、常に近思録を教本とされた」と言うことからも知られる。山崎闇斎が近思録を尊んだことは、垂加文集の中の「近思録を読む」という次の詩から明瞭だ。(この詩は難解で意味不明。)

 

世遠人亡道統空 維天新命濂(れん)翁

一心常泰顔淵楽 大志正任伊尹功

河洛宗誠脩(しゅう、おさめる)己敬 横渠先礼律身恭

六経四子四賢訣(秘伝) 都(すべて)在近思一帙(ちつ)中

 

 この結句の「六経四子四篤賢の訣」、「全て在り近思一帙の中」によれば、聖賢の要旨は近思録に網羅されていると考えられていた。この近思録を尊び信じるという山崎闇斎の考えが吉田東篁の中に生きているように、愛国心の熱烈さも、山崎闇斎の愛国心が吉田東篁の中に伝わっている。(愛国心伝播についての推論が弱い。)

 

035 山崎闇斎は天和2年、1682年9月16日に亡くなり、吉田東篁は文化5年、1808年に生まれており、その間に120余年を隔てているから、この二人が直接会うことはなかったが、山崎闇斎の熱烈な精神は、死後120年の間、脈々と伝わり、いたるところにその継承者・共鳴者を作った。

 

 さて山崎闇斎の精神はいかにして生まれたのか。山崎闇斎の精神は二つに分けることができる。一つは近思録を尊重する精神、つまり儒学、特に宋学の精神であり、もう一つは愛国思想、つまり純日本的精神である。

 金思録尊重の精神 山崎闇斎は初め僧侶となり、妙心寺に入り、次いで土佐の吸江寺におり、絶蔵主と言われていたが、寛永19年、1642年、25歳の時、儒書を読んで深く感悟し、遂に僧衣を脱いで儒門に入った。この変化の因縁は何か。

036 鎌倉末期以来、主として禅宗の間で、宗門外の書物を講読する風があった。太岳周崇*は蘇東坡の詩を研究して翰苑遺芳*を著し、また屢漢書を講じて、これを門下の竺雲等連に伝え、竺雲等連は史記*や漢書*を講じ、萬里集九は蘇東坡の詩を抄し、天下白を著し、桃源瑞仙は史記や三体詩を抄し、その学問は蘇東坡や周易に及んだ。ことに中巌円月、義堂周信、岐陽方秀、了菴桂梧、桂庵玄樹等は、宋学の伝統の中で、動かすべからざる地位を占めた。我が国に宋学が入り、盛んになったのは、五山*を主とする禅宗僧侶の尽力によった。この伝統の力が次第に盛んになり、近世の初めに儒学が独立した。近世儒学の開拓者である藤原惺(せい)窩(か)、林羅山は、いずれも五山の僧侶であった。山崎闇斎もこの潮流の人であった。仏門から儒学に転ずる因縁は、以上のような長い歴史的背景がある。

 

037 次に山崎闇斎の愛国思想・純日本的精神について 山崎闇斎の祖父・淨泉は少年のころから古筆の三社託宣の一幅を秘蔵し、朝夕これを誦し、これを掲げて拝する時、必ず謹んで盥嗽(かんそう、手顔を洗い、口をすすぐ)し、袴を着け、礼を恭しくたという。また山崎闇斎の父・淨因も幼時のころから日々託宣の文を誦したという。

三社託宣とは、天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神の三つの託宣を一緒に書いたもので、それらの託宣は鎌倉時代から一般に信じられ、室町時代に入ってからこの三つを併記して尊信する風が盛んになった。天照皇大神宮(伊勢の内宮)の託宣は、

 

「謀計は眼前の利潤であるが、必ず神明の罰に当たり、それに対して正直は一旦(ある日の朝)の依怗(いちょう、依:寄りかかる、怗:しずか、従う。「一旦の依怗」とは「一朝の頼み」の意か。)にもならないが、最後は日月の憐れみを受ける。」

 

八幡大菩薩の託宣は、

 

「鉄丸を食べても、心の汚れた人から物を受けず、銅の焰(ほのお)を敷いて座っても心の穢らわしい人のところには行かない。」

 

春日大明神の託宣は、

 

「千日の注連(しめなわ)を曳くとしても、邪見の家には行かない。立派な重々しそうな服を着ていても、慈悲の室に行くべきだ。」

 

山崎闇斎の家庭では神道的雰囲気が濃厚であった。山崎闇斎の愛国思想はその萌芽をここで養われた。

 

038 また時代の空気も愛国思想の渙発に寄与した。近世初めの山崎闇斎が生きた時代は、南朝に対する感激が灼熱する時代であった。林羅山は慶長9年、1604年に、楠正成伝を作り、名和正三は元和年間1615--23に太平記を注し、榊(さかき)原忠次は寛永20年、1643年、関城書を発見し、由井正雪は正保1644--47・慶安1648--51のころ、楠氏の後裔と称して兵法を教え、前田綱紀や朱舜水は「桜井駅訣別の図」を賞賛したが、その賞賛の言葉は、

 

「忠孝天下に現れ、日月天に麗しく、天地に日月なければ、すなわち晦蒙(かいもう、暗くて見えない)否塞(閉じ塞がる)し、人心が忠孝を廃すれば、すなわち乱賊が相次ぎ、乾坤は反覆する。」

 

という文章であり、これを後になって水戸光圀が元禄5年、1692年、湊川で「嗚呼忠臣楠氏之墓」を建てた時、碑の裏にこの賞賛の文章を刻した。山崎闇斎はこのような時代の雰囲気の中で楠公に感じ、南朝に感激した。山崎闇斎は楠正成庭訓*の図を賞賛して歌を歌った。

 

*庭訓(ていきん)家庭内教育。孔子が庭を走る子を呼び止めて、詩と礼を学ぶべきことを教えた。論語―李氏の故事。

 

植植楠丈夫、その庭訓は丹腸(赤心)を吐き、

その籌略(ちゅうりゃく、計略)はかつて無敵であり、長年その英気が香る。

 

 明暦元年、1655年に山崎闇斎が作った「伊勢大神宮儀式の序」に、建国の初めの天壌無窮の神勅が力強く掲げられている。あの神勅が力強く宣伝されるようになったのは、北畠親房の神皇正統記に始まるから、山崎闇斎の愛国思想には、北畠親房や楠正成が働いているといえる。

 

 見よ、歴史を貫く冥々*の力! 北畠親房や楠木正成の魂は300年の後に山崎闇斎を動かし、その山崎闇斎の精神は百数十年後に吉田東篁を動かし、その吉田東篁の感化について藩主春嶽公は「藩中の士気を振起し、礼儀を知り、学問が一変するようになったのは、この先生の功にあり」と言ったが、その吉田東篁の感化によって二十余歳の青年橋本佐内は身を挺して国事に奔走し、遂に獄中に囚禁されたが、次のように歌った。

 

*冥々 外界に接して自然に心に感じること。

 

040 私の26年間の人生は夢のようだ。平昔を顧みて思うとき、感じて知ることが多い。

天祥(天のきざし)大節の時、心折を甞(な)める。土室(牢屋)でもなお正気の歌を吟ずる。

 

 この雰囲気の中で歌人橘曙蘭は、楠木正成を思いつつ次のような歌を歌った。

 

湊川御墓*の文字を知らない子供でも、

膝を折り伏せて「嗚呼」と言うようだ。

一日生き、一日の心を大皇の

御ために尽くすことは、我が家の枷(かせ)だ。

 

*建武3年、1336年5月、神戸市の湊川で楠正成が尊氏に敗れて自殺した。

 

 また橘曙蘭は国家の将来を憂え次のように歌った。

 

国を思って寝られない夜の霜の色、

ともしびを寄せて剣を見る。

 

弱腰になまものを着る蝦夷人よ、

我が日本の太刀を拝み見よ。(挑戦的)

 

041 以上のように橘曙蘭は声高らかに吟じたが、そこには吉田東篁の影響がある。ここに、時や所が違っても、前後に相引く力、歴史を継承し、歴史を創造する冥々の力を感じる。この冥々の力を感得することこそ、歴史を真に理解するための第一の要件だ。これを感得できず単に表面的な事件の羅列に留まっていれば、歴史は無意味な年代記となり、その精神は死滅する。

この冥々の力を感得することは、歴史を理解する上で必要なばかりでなく、真に教育の意義を理解する上で欠くことができない。偉大な教育家山崎闇斎の力が没後200年に吉田東篁を打ち出し、その優れた教育家吉田東篁が一藩の気風を変えたことを知るとき、それ(冥々の力)が教育家にとっていかに心強い響きを与えることか。教育家も歴史を継承し歴史を創造して初めて真に生きがいを見い出すのだ。

 

昭和3年、1928年2月

 

感想 すごく挑発的な言辞だ。青年は天皇と国のために戦って死ね、教員はそのために力を尽くせと言っている。

 

以上 202155()

 

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