2021年5月22日土曜日

六 中世文化の基調 昭和3年、1928年12月 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 感想・要旨

六 中世文化の基調 昭和3年、1928年12月 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 2021522()

 

 互いに何を言っているのか分からないのに分かったふりをするのを禅問答と言うのでしょうか。筆者平泉澄は古典の原文を引用するのだが、その内容については殆ど解説しない。分からない人はどうでもいい、分かる人だけが分かればいいということなのか。当時の大学の学問や一般に学知は、民衆には分からなくてもいいという非民主的エリート主義だったのか。それはともかく以下の古典原文の意味、分かりますか。江戸時代前期の近松門左衛門の浄瑠璃「源氏十二段長生島台」の原稿です。

 

「女房達は後ろより、扨々まだるや便々と、それは昔の忍びの段、今此粋な世の中に、何かは入らぬ是々と、冷泉十五夜しかたにて、もどかしがれば、」

 

私の解釈は以下の通りです。

 

「女房達は後ろより、さてさてまだるや(じれったい)便々(だらだらしている)と、それは昔の忍びの段、今この粋(いき)な世の中に、何かは入らぬこれこれと、冷泉十五夜しかたにて、もどかし(じれったい)がれば、」(意味不明)

 

 ご意見をお寄せください。

 

ヒントは中世のこれと同じ内容(浄瑠璃御前第八段枕もんだう(問答))で、義経が浄瑠璃御前を口説くとき、その恋愛は宗教的承認を必要としていたが、近世ではその必要がなくなり、宗教的弁証を襲用しても、それを直ちに打ち消したという説明の後にこの文が続きます。

 

 

感想 2021519()

 

 歴史に進歩がなく、昔も今も、日本書紀の時代も現代も全く同等であると考え、その中でも中世の宗教的価値観の時代を最も重視するとすれば、それはアナクロニズムというのではないか。引用される中世の文献は、当時としては先進的だったのかもしれないが、現代から見ると幼稚な感を否めず、宗教に捉われた人間の姿を映し出すのみだ。

 

感想 2021517()

 

 本章を読んでいて、筆者が偉大なものを信奉する宗教者(福井県平泉寺白山神社宮司)なのだということを改めて感じる。筆者は一般の人でも優れた人のことを「偉大な」とか「一流の」とか、かなり大げさな形容詞を冠して褒め称えるし、マルクス主義者がマルクス主義を「信奉する」という。

また科学に対して不信感を抱く。それは科学が宗教的信仰にまつわる不合理性を批判するからなのだろう。そして科学には審美眼がない、科学は真理で以てすべてを断罪すると不満を漏らす。

筆者が中世を重視して研究するのも、中世が宗教的「聖」の時代だからなのだろう。

 

感想 2021516()

 

 本論文で最初唐突にポアンカレの科学論とマルクス主義批判が出てくるが、それは2ページにわたるだけで、それ以降は本書第五章の「日本精神発展の段階」に引き続き、その中世部分を補強したものである。

 文献学である。論理の深化は見られない。

 

マルクス主義は経済学で以てすべてを判断すると批判している118が、それは著者が『資本論』の当該部分を読んだ上での発言か。おそらく読んでおらず、世評の耳知識に基づいての発言のように思われる。だとすれば学者としての資質を疑う。

 

 

要旨

 

117 近代の数学者でありかつ物理学者であったアンリ・ポアンカレは「科学の価値」の緒論の最初でこう言った。

 

「私の活動の目的は真理の発見でなければならない。私の活動の目的はこれ以外にない。私は先ず人生の苦痛を軽減することに務めなければならない。それは疑いのないことだ。人類がその物質的不安からますます脱することができるようにと私が願う理由は、このようにして回復された自由を、真理の研究と考察に振り向けるためである。(原文は田邊元による翻訳だが、それをわたしが要約した。)

 

ポアンカレによれば、真理の他に麗しきものはなく(そこまでは言っていないのではないのか。)、真理の発見以外に、私たちが目的とする価値あるものはない。(同前)ポアンカレがここで真理というのは、専ら科学的真理だけであり(同前)、それは彼の注釈から明らかだ。(彼は道徳をこれと並行させようとしているが、これについては別に考察する。)(ポアンカレは道徳についても述べているではないか。)

118 ポアンカレのこの言葉は、近代精神の率直で大胆な一つの表現である。今や科学はその全盛を極め、他の一切の文化財を足下に蹂躙し(これは言い過ぎ)、昂然として文化価値の王座を占めている。

 ところで今や数学や物理学などの「純正」科学だけでなく、一切の文化に対して科学的方法による研究を加え、科学的解釈を下そうとしているが、その傾向の極端(科学は信教に手をつけないでくれと筆者は言いたいのだろう)に走り、その勢いが激するところの、(私はよく読んでいないが)「所謂」唯物史観がある。彼らは「所謂」マルクス主義を「奉じ」(マルクス主義は信教か)、経済関係を一切の社会現象の基礎と「断じ」、政治も法律も、文学も美術も、哲学も宗教も悉く、経済関係によって成立するとし、また、その変形するところの「影」に過ぎないとし、歴史は、経済関係によって生じる不断の階級闘争と見る。

 

 しかし、このような見解は、科学の「万能」を信じ、科学の全盛に「酔う」現代の特徴であり、あるいはその余燼(余沫)に過ぎない。それが言うところは「幾多の真理」を含み、新たな示唆に富む(どんな真理や示唆なのかはっきりして欲しい。読んでいないから言えないのでは。)とはいえ、これを以て「唯一の解釈」とし(そこまでは言っていないのでは)、「絶対の真理」(同前)とすることはできない。

 

119 時代の推移によって人生観は異なり、その要望する対象も変遷し、その目的とするものも異なる。

 

 昔、山鹿素行*は「謫(たく)居*童問」でこのことについて次のように説いた。

 

*山鹿素行1622—1685、江戸前期の儒学者、軍学者。

*謫居とは罪せられ、流されること。

 

「古今が相隔たると、その風俗は大いに異なる。大概百年で世間は大きく変わる。五十年、三十年には中くらい変わる。このことを考えず数十年以前のことを今日に合わせようとすることは、大きな間違いだ。但し、変わらないことと変わることとで、それぞれ損益があるから、その実智(実際の状況)がはっきりしないと、事情を知ることができない。

 

古今文化の相違を子細に吟味し、人心の趣向を検討すれば、ポアンカレの科学的精神の絶対価値説すら、一時代の熱狂と見られないわけにはいかない。ましてやマルクス主義のような危激極端の論はなおさらだ。

 

 私は先に我が国の文化史上の時代精神の相違を指摘した。古代の純から始めて、上代が美を、中世が聖を、近世が善を、現代が真をそれぞれ最高の文化価値とすると概論し、日本精神の発展の段階を概略した。(史学雑誌 昭和3年、1928年4月)

120 ここでは現代から遡って中世に及び、もっぱら中世文化の基調を説く。それは時代の価値批判、価値要望、価値実現の相違を明らかにすることは、文化史の真の理解のためにも、現代批判の上でも、最も必要だからだ。

 

 現在多くの史家は虚心に歴史的事実を採取しようとし、一部の間では歴史的事実をもっぱら経済的に説明しようとし、極端な一派の論者は歴史を単に経済関係による階級闘争と見る。

 

 しかしちょっと遡って近世に戻れば、史家の態度は全くこれと異なる。彼らは歴史において名分を正し、綱常(こうじょう*)を立てようとし、事実を描写するにも、一見して善悪がおのずから明らかになるように努めた。

 

*綱常 三綱と五常。人倫の道。

 

 徳川綱條(つなえだ、1656—1718光圀の養子、大名)が大日本史の序の中で、先人の光圀の言を記している。

 

「歴史が事実を記録する所以であるが、事実に拠って書を直せば、勧善懲悪が自ずから見えてくる。…善を以て法と為し、悪を以て戒めと為すべきで、乱賊の徒に恐れるところを知らしめ、まさに以て世に教える上で有益で綱常を維持しようとする。」

 

安積澹泊(あさかたんぱく、1656—1738、江戸中期の儒学者)は、平玄中に与えた書のなかで、大日本史を賞賛してこう言った。

 

「序中所謂乱臣落胆。下の者が望んではならないことを望む心を改め、賊子は頭が天に触れるのを恐れて背を曲げて歩き、地がくぼむのを恐れて抜き足で歩く。不王の跡、地を掃くのは、ここに至り、方(まさ)に庶幾(しょき、願望)すべきだ。」(意味不明)

 

121 このような倫理的褒貶は中世の史家が望む所ではなかった。倫理的見地からみれば中世の史書は(近世の史家にとって)取るに足らないものであった。三宅観瀾(かんらん、1674—1718、江戸中期の儒学者)は、保建大記の序の中で、中世の史書が言うに足らない点を説いて次のように述べた。

 

「詞(ことば)や理が俚(いなかびて)浅い。敷衍(説明)が攙(ざん、混ぜる)雑で、真偽が倶昧である。これは要するに、朝報吏案のみ、伝奇小説のみで、是其事を叙しても、且つ体を成さず。なおなんぞよく善を勧め悪を懲らしめ、以て百代の袞(こん、礼服)鉞(まさかり)があろうか。」

 

 これは近世的見地からの批判である。近世の倫理的褒貶を主とする見地から言えば、中世の史書は無価値であるが、中世の史家は、この点で独自の特異の立場がないとはしない。ここで近世的傾向を聚楽物語*に見て、中世的態度を「保暦間記」*にみると、次のような対照が現れる。

 

*聚楽物語 1624--44刊行。豊臣秀吉の甥秀次の謀反事件を扱った小説。

*保暦間記 ほうりゃくかんき。南北朝時代に成立した歴史書。成立は14世紀半ば、延文元年1356以前。作者不明だが、南北朝時代の足利方の武士と推定される。『群書類従』第26輯雑部所収。

 

 聚楽物語の序説は次のように言う。

 

「朝に栄え夕方に衰えることはみな世間の常識である。国を治め天下を保つことも、その治者の身の賢愚によらず、天が与え給うものであるが、そうは言っても、君臣の礼儀を失い、父子の慈孝がないときは、必ずその家は滅びるだろう。君臣に礼をなすとき、つまり、臣は君に忠を尽くし、父は子に愛をなし、子は父に孝行をなすときは、身が治まり、家は斉(ととの)い、必ずその国は栄えるようだ。ここに前の関白秀次公は、伯父の太閤秀吉卿の重恩を忘れ給いて、あまつさえ逆心を含み給いしかば、天罰をいかで逃れ給うべき。御身を滅ぼし給うだけでなく、多くの人を失い給う。その御心の程こそあさましけれ。」

 

122 これに対して保暦間記の末尾で説いていることは次のとおりである。

 

「これを見て無常菩提心を起こさないことは口惜しいことだ。ところがもともと仏門に入る人の多くが還俗することがあるのだが、昔はこのようなことは非常に聞かなかったことだ。…ただこれを思うに、執着がやまないからだ。さればこの執着心がやまず、我も人も空しく月日を送り、罪業の種を三途の旧里に殖(う)え、業報の罪は逃れがたく、何にもこの念留めがたいので、弥陀の本願に乗って、不退(不退転、もはや悪趣に逆戻りしない)の土に生まれ、仏を見て法を聞き、この着心を永く止めるべきだろう。…一切の有為の法は夢幻のようだと言う。常住の着心などあるはずがない。…願わくはこれを見る人が先ずこの記(本書)の中の亡霊や法界・衆生のために、光明真言阿弥陀の名号(みょうごう、仏菩薩の名)を唱え、回向させていただきたいと云々。」

 

 近世の史家が、歴史を専ら倫理的に批判したのに対して、中世の史家は専ら宗教的に考察した。前者はこれを読む者が、悪を去って善に赴くことを希望し、後者は一見の人々(初心者)がこの世の無常を悟り、菩提心を起こすことを要望している。

123 中世に現れた史書の大半は、いずれもこのような宗教的な態度で著されている。歴史的事実の取り扱いも宗教的で、古代・上代の史書に対する解釈も宗教的である。慈鎮の愚管抄*はこのような態度の最高潮を示す。

 

*愚管抄 鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。承久の乱の直前、朝廷と幕府との緊張が高まった時期の承久2年頃成立したが、乱後に修訂が加えられた。

 

「遠くは伊勢大神宮と鹿島の大明神と、近くは八幡大菩薩と春日の大明神と、昔今ひしと議定して世をば持たせ給うなり。」

 

この歴史の宗教的信頼は、慈円の兄、兼実の日記「玉葉」に屡々現れる、世運の転変に際しての神仏の憑依と一致し、当時の史観の一面を物語る。

 この特色ため、中世の史書は近世の史家の無下な一蹴を拒むことができる。中世人は近世人とは異なった価値判断をなし、異なった理想を持ち、その目的に到達するために異なった努力をし、つまり異なった世界に住んでいた。

124 中世には上代の伝統を追う公家文化が、その一部の憧憬を夢の中に継続し、また、近世の先駆をなす武家文化が、新興の勢いとして既に活発に働いていたが、この両者に一世を蔽う力はなく、一代を照らす光もなく、それ自身においてさえ、十分の充足もなく、おのずから安んずることができなかった。これら二つの流れよりも力強い底流として、この二つを否定し、この二つを吸収したのが宗教文化であった。この前二者を否定し、自らにおいて人生の趣向を示す様子を日蓮において見てみよう。

 

「雲上に交わり、雲の髪は鮮やかで、雪のたもとを翻すとしても、その楽しみを思えば、夢の中の夢である。山のふもとの蓬のもとは、終の住処である。玉の台錦の帳(とばり)も、後世の道に何の役に立つか。小野小町や衣通姫の花の姿も、無常の風に散り、(秦末・漢初の武将)樊噲(はんかい)・帳良(ちょうりょう)の武勇に達したとしても、獄卒の鞭を悲しむ。そうであれば、心ある古人が言うように、哀れなり、鳥辺野山の夕方の煙を送る人でも、(この世に永久に)留まることができるだろうか、末の露は元の雫ではないか、世の中が遅れ先立つためし(例)なるらん。先亡後滅の理を始めてのように驚くべきにあらず。願っても願うべきものは仏道であり、求めても求めるべきものは経教なり。」(聖愚問答鈔)

 

125 また道元はその荘重超脱の風姿を以て、這箇(個、しゃこ、這箇とは「これ」の意)の理を次のように道破した。

 

「しかあれば、すなわち、惜しいことに、たとい百計千万を以てすると言えども、ついにこれは塚中一堆(墓の中の一山)の塵と化すものだ。いたずらに小国の王民に使われて、東西に馳走するあいだに、千幸万苦し、いくばくの身心をか苦しめるという義により身命を軽くする。それは殉死の礼を忘れないようなものだ。恩に仕える前途は、暗頭の雲霧である。小臣に使われ、民間に身命を捨てる者は昔から多いが、惜しむべき人身である。道器となりぬべき故に、今正法に会う。百千恒沙(恒河沙ごうがしゃ、ガンジス川の砂。多数。)の身を捨てても、正法を参学すべし。いたずらなる小人と、広大深遠の仏法と、いずれのためにか身命を捨てるべき。…しかあれば、祖師(宗派の元祖)の大恩を報謝しようとすることは、一日の行持(ぎょうじ、仏道を修業し怠らないこと)なり。自己の身命を顧みることなかれ。禽獣よりも愚かな恩愛を惜しんで捨てないようなことがあってはならない。たといそれを愛惜するとしても、長年の友とすべきでない。芥(あくた、ごみ)のような家門を頼んで止まることなかれ。またたとい止まるとも、それは終(つい)の幽棲ではない。昔仏祖は賢かった。皆が七宝千子を投げ捨て、玉殿朱楼を速やかに捨てることを涕唾のように見る、糞土のように見る。これみな古来の仏祖が、古来の仏祖を報謝してきた知恩報恩の儀である。(正法眼蔵行持)

 

 恩愛は禽獣よりも愚かであり、家門は塵や芥のごとくである。玉殿朱楼は涕唾に似て、糞土のようである。忠孝節義すらも、死後将来の暗澹(あんたん)をどうできるのか。公家の文化もここに覆り、武家の文化もここにたじろぐ。それらは究極的に無価値である。価値あるものはただ宗教だけだ。宗教こそ広大であり、深遠である。宗教こそ無價(価)の宝珠であり、無上の光明である。これが中世を支配した思想だった。

 

126 この宗教思想が中世において他の文化にどのように働きかけたのか。他の文化がこれによってどう屈折したのかをつぎに見る。

 

中世における公家文化に対する宗教の影響

 

 第一に公家文化である。上代に栄えた公家文化は美を最高の価値とした。当時源氏物語がもてはやされたのは、その主人公の容貌が美しく、情緒が優しく、小説の筋が美しく、文章も美しいためであった。ところが中世になり、宗教文化が威圧するようになると、それらの美はすべて涕唾(ていだ)のように、糞土のように、それ(美)だけでは独立して価値を主張することができなくなった。ここに源氏物語は節を屈して、その中に宗教的寓意があるとしてようやく名誉を維持できた。このことについては私が前論文で説いたところだが、ここでは夢浮橋の巻の名の解釈を例示する。中世の中頃四辻善成*の著した河海抄(かかいしょう)に、夢浮橋の巻の名の字義について次ように説明している。

 

*四辻善成(よつじよしなり)1326—1402 南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。順徳天皇の曽孫。

*河海抄 室町時代初期に成立した『源氏物語』の注釈書。四辻善成著。

 

127 「大方この物語が起こる志は、全く色にふけり言を飾ることではない。ただ無常迅速の理(ことわり)を表し、盛者必衰の趣を知らしめんがためなり。今の題目を案ずるに、先ず、「夢」と云うのは、空しき心を意味する。有無の諸法がいずれも夢にあらということはない。(夢である)涅槃経では「生死無常はなお昨夢のごとし」と説き、大円覚経では「衆生が本来成仏するということを初めて知る。生死や涅槃はなお作(昨)夢の如し、善男子は昨夢の如し。だから、まさに生死と涅槃が、無起無滅無来無去ということを知るべし。」とあり、唯識論でも「未だ常所(いつも住んでいる所)が夢中だということを真に覚え得ないから、仏は生死が長夜だと説き解す。」とあり、内外の経書に、この夢について様々の解釈がある。…次に「浮橋」というのは、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊尊が、天浮橋の上で共に夫婦になり、陰陽を定め、州国を生じたという我が国の始まりである。これはみな男女の習いから起こったものだ。…だから浮橋は生死の始まり、煩悩の根元である。夢とは世間出世の法であり、皆幻のようで夢のようだという意味だ。つまり無相の理である。これは菩提である。煩悩即ち菩提であり、生死は即ち涅槃の意味であるが、その意味がこの名前に表れている。作者己燈の分すでにここに明らかだ。」(意味不明)

 

 またこの夢浮橋の名が、詞から取らず、歌から出たものでもないことについて、次に現れた一条兼良*が、その著「花鳥余情」*で四か条にわたって説明している。

 

*一条兼良(いちじょうかねよし、かねら)1402—1481 室町前期から後期にかけての公卿、古典学者。

*花鳥余情(かちょうよせい)1472 『源氏物語』の注釈書。

 

128 「凡そ五十四帖の巻の名に、四つの意味がある。一には詞をとり、二には歌をとり、三には詞と歌との両方をとる。四には歌にも詞にもないことを名としている。天台の教えに四諦の法門がある。一は有門、二は空門、三は有かつ空門、四は有でも空でもない門である。一切の言教はこの四諦から出ない、これにより四諦外別立法性とも説明する。真実の道理は言教の外にあるべきである。」(意味不明)

 

 これらの説は河海抄や花鳥余情だけのものではなく、その前後の源氏物語の注釈書の多くに共通している。これは源氏物語が上代の意味においては権威を失ったことを物語っている。

 

 源氏物語と同じく白楽天の白氏文集*も権威を失った。白氏文集は源氏物語と並び、否それ以上に上代ではもてはやされ、常時文集と言えば白氏文集を指し、貴族が頻りにこれを愛唱し多くを暗記していた。光源氏は須磨への流謫(るたく)の際にも、琴に添えて白氏文集を手放さなかった。それほど尊重された白楽天も中世になり、宗教の光に照らされると、

 

*白氏文集 初版発行824年 白居易の詩文集。

*白楽天(白居易) 772—846 

 

129 「しかあれども、(白氏文集は)仏道には初心なり、晩進なり。いわんやこの諸悪莫作衆善奉行(ほうこう、旨を奉じて行うこと)の宗旨を、夢にも未だ見ざるがごとし。」

 

と(道元に)批判された。白氏文集は、未だ仏法を踏まず、仏法の力のないもの、憐れむべき愚かな至愚なりと破斥された。(正法眼蔵諸悪莫作)源氏物語がこのように退けられないためには、上述のように必ず宗教的な寓意をその中から持ってこなければならぬ。源氏物語が近世の初めに別の立場(儒教的な道徳)から一気に排斥されてしまったことと、これとを対比すると、時代の相違が明らかになる。近世の代表としてここに山鹿素行と山崎闇斎を挙げる。山鹿素行は「武教小学」*の末尾で次のように言う。

 

*武教小学(ぶきょうしょうがく) 江戸前期の山鹿素行の著書。1665年刊。武士道の入門書。

 

「近世の俗が女子に教える学問は皆源氏物語や伊勢物語などの俗書を以てするが、これは甚だ嘆息すべきことだ。これらの書は浮跌(ふてつ)のことを以て楽と為し、悠艶のことを以て専らとする。女子が別の夫に通じることを書いたり、人情の及ぶところを記したりする。…決してこれは玩味させるべきでない。」

 

また山崎闇斎は「大和小学」*の序で次のように言う。

 

*「大和小学」は中国朱子学が示す学問入門課程の「小学」各章の問題が、日本の故事ではどれに当たるかを提示しようとした。

 

「世の人の戯れが、行ったままで帰る道を知らないようなことになってしまったのは、源氏物語や伊勢物語があるからではないか。源氏物語は男女の戒めのために作ったという、戯れて戒めようとするとのことだが、それは非常にあやしいことだ。清原宣賢*が「伊勢物語は好色のことを書いているが、礼儀を含むものも、義を含むものもある。孔子・孟子と業平と、その地(立場)を替えればみなしからん(同じだろう)」と言うが、このようなひがごとの、良し悪しを言うのも口惜しいことだ。つちのえいぬ(戊犬)の年に、東に遊び、藤のなにがしさんのもとで、かの物語を私が非難したら、よくぞ言ってくれたとほほ笑み、「(大和)小学こそ人のあるべき姿であるから、男だけがこれを習うべきだろうか。まな(真名、漢字)をしらぬ女が読みたがるだろうから、文体を仮名に和らげて欲しい。」と強いられた。筆の力もなく袋に一巻も携えないが、ちょっとだけ立教、明倫、敬身の目を立てて、大和、高麗、唐土(もろこし、中国)のことを思い出すに任せて書きつけました。」

 

130 上代が美を追求し、中世が聖に帰趣し、近世が善に朝宗した様子はこの一点で明瞭だ。

 

武家文化の宗教的変容

 

 第二に武家文化を見よう。勇躍進むを知り、死を恐れず、死してなお且つ敵を滅ぼそうとする猛気は武士の本分とするとこである。平清盛は最期に臨んで遺言して次のように言った。

 

「今生の望みは一事も思いおくことはない。ただ思いおくことは、兵衛佐(すけ)頼朝の首を見なかったことが、何より本意でないということだ。私が死んでどうなろうとも、死後仏事孝養をすべきでないし、堂塔を建てるべきでもない。急いで討手を下し、頼朝の首をはね、私の墓の前に懸けよ。それこそが今生の後世の孝養である。(平家物語)

 

131 このように清盛は言ったのだが、中世人はこれに安んずることができず、平家物語はこの清盛の言葉を「いとど罪深く聞こえた」と評した。また楠木正成の最期での七生報国*の誓いも、太平記の記者はこれに宗教的色彩を加え、「そもそも最後の一念により、善悪の生を引くというが、九界*の間に何が御辺(あなた)の願いか。」と言い、また「罪業深き悪念なれども」と言っている。また結城宗広*は最期に次のように述べた。

 

*七生報国 何度生まれ変わっても国のために尽力するの意。

*九界 この世の迷いの境界を九つに区分し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩。これに悟りの境界である仏界を加えて十界という。

*結城宗広1266—1339.1.1 武将。

 

「我既に齢70歳になり、栄花が身に余るようになったが、今生において一事も思い残すことがない。ただ此度罷り上がっても遂に朝敵を滅ぼすことができず、空しく黄泉の旅に赴いてしまったことは、多生昿劫(こうきょう、広く空しい長い年月)までの妄念となってしまったと思う。されば愚息である大蔵権少輔が、我の生を弔おうと思うならば、供仏施僧という作善をやるべきでないし、さらに称名読経の追賁(ふん、飾る)もすべきでない。ただ朝敵の首を取り、私の墓前に懸けて並べてみせるべきだ。

 

と言って刀を抜いて逆に持ち、歯ぎしりして死んだが、太平記はこれを評して次のように述べた。

 

「罪障深重の人が多いとはいえ、終焉にこれほどの悪相を現すことは古今未だ聞かないことだ。」

 

132 と言い、結城宗広を「地獄に堕ちた」としてしまった。

 

 これらはいずれも武士以外の者の批評であるが、武士である熊谷次郎直実は入道して蓮生坊となり、遠藤武者盛遠は出家して文覚となり、北条時頼時宗以下の者の多くが剃髪して仏道に入り、武田信玄上杉謙信等はいずれも入道して、軍陣の間に頻(しき)りに願文を神仏に奉ったというし、また足利尊氏は内心の不安に堪えず、切に神仏の冥護を祈り、宗教にすがって安心を得ようとしたことなどは、中世における武士文化が宗教文化に抗敵する力がなかったことを明らかにする。

 

 刑罰が保元以降急に過酷厳烈となったことから、武士的文化の進展を想像できるが、同時に武家の法律が神仏の冥鑑*(みょうかん)を目標において定められ、裁判に当たって湯起請*(ゆきしょう)や火起請*(ひぎしょう)が盛んに用いられたことは、宗教的勢力の強大さを示す。

 

*冥鑑 人々が知らぬうちに神仏が衆生を見ていること。

*湯起請 熱湯に係争当事者の手を入れさせ、その予後に基づき当否を決する神明裁判。

*火起請 赤く焼けた鉄を手に持たせ、歩いて神棚の上まで持ち運ばせ、その成否で主張の当否を判断した。

 

 また中世に入って教訓書が急に多く現れたことは、意志的な時代精神を反映するものだが、それらの教訓書ですら宗教に吸収されがちであったことが、十訓抄に表れている。

 

133 「全て凡夫はさる事にて、仏神によく信を致し奉るべし。不信の者、昔より災殃(さいよう、殃は災いの意)に当たる類多し。」

「かかれば、二世(二代目)の望みを遂げんこと、直しき心には、しくべからず。」(意味不明)

「この思いをしも道しるべにして、真の道に入るということこそ、生死は涅槃(煩悩を去った悟りの境地)と同じく、煩悩は菩提と同一なりける理、違わなかったと考える。」

 

 (十訓抄の)末尾の文章における宗教味の横溢した様子は方丈記を思わせる。「夢なり幻なり、古人去りて帰らず」と言い、「常なく移り行く世の中を聞き見るに、滝つ岩瀬の浪の、速やかに流れ行きてとまらざるに異ならず」と言い、「あだなる仮の宿なれば」と言うのを見れば、思い中ばに過ぎるものがある。(考えてみて思い当たることが多い。)また、蛤(はまぐり)の草紙を見ると、その最後は、

 

「後々でもこの草子を見給いて親孝行になれば、このように富み栄えて、げんとう二世の願いがたちどころに叶うだろう。まず現世では七難がすぐにもなくなり、障害もなく、しゆにん愛敬があり、将来繁昌するだろう。また後の世には必ず仏果が得られることが疑いない。ひたすら親孝行のために、この草子を人にも読み聞かせてもらいたい。」

 

134 ここでは親孝行の道徳でさえ、それだけでは飽き足らず、必ず宗教的効果を期待していることがうかがえる。

 

 武家の興隆は中世の最も重大な現象であったが、その意志力を主とする独特の文化も、常に宗教文化に威圧されがちであり、宗教に朝宗して初めて十分の満足を見い出した。それが宗教文化から独立した、いやむしろそれを威圧して勝利したのは近世である。

 

宗教の平民文化に対する影響

 

 第三に平民文化について見る。平民文化は近世に発展したが、中世でもその曙光が認められる。これから中世の平民文化と近世のそれとを比較してみよう。

135 近世における平民文化の一例として浄瑠璃を取り、その先駆である中世の「浄瑠璃姫の物語十二段草子」を取る。

 

 中世の「浄瑠璃姫の物語十二段草子」で注目すべき点は、宗教味が横溢していることだ。主人公が峯の薬師の申し子であることが宗教的であるし、浄瑠璃御前や文珠御前の名も宗教的であり、ことに美しさ、賢さの最高級の比喩は、すべて宗教界の例を取っている。

 

「嵐に花が誘われて汀の波に浮いたのを物によく喩えると、八功徳水*(はっくどくすい)の池面の百千万種の宝蓮華も、いかでかこれに勝るべき。」(二段花ぞろへ)

*八功徳水 極楽浄土にあり、八つの功徳を備えている水。

「孔雀や鳳凰が桐竹に舞い遊びければ、さながら極楽世界もかくやらんと覚えけり。」(同上)

「月が西山に傾けば、光も影もかすかにて、花は木の間に散り敷きて、色も匂いもみちみちて琵琶の音、琴の音が澄み渡り、悪業煩悩の雲が晴れて、極楽浄土このようだろう、天人も天降り、菩薩もここに影向*なるかと思われ、」(四段そとの管絃、絃は弦)

*影向(ようごう) 神仏の本体が一時応現する。

「あらあやしや、此とのは観音勢至*の化身かや、普賢文珠の再来かや、釈迦の御法か、おぼつかな。筆を取ってのたやすさは、弘法大師と申すとも、これにはいかで勝るべき、」(六段使のだん)

 

136 また義経が帯びる刀の装飾を見て、

 

「御腰の物の結構には、腰胴金*(こしどうがね)を入れさせて、表の目貫(めぬき、目釘)は正八幡とおぼしきに、裏の目貫は北野の天神、」(五段笛のだん)

「御佩(はかせ)刀*の結構には、…表の目貫の結構(つくり)には、八月十五夜の月のくまなきに、倶利迦羅*(くりから)を彫らせたり、裏の目貫の結構には、九月十三夜の月の光のくまなきに、鞍馬の毘沙門天を彫らせたり、」(同上)

*御佩刀 貴人の身に着ける刀。

 

 また中世の浄瑠璃御前の居間の光景については以下の通りである。

 

「あたりを静かに眺めれば、数々の聖教どもを散らしている。まず一番に天台は六十巻、俱舎は三十巻、噴水経は四十巻、浮土の三部経、華厳、阿含(あごん)、方等、般若、法華と見え、数を尽くして置かれている。草子としては、古今、万葉、伊勢物語、源氏、狭衣、恋尽くし、和歌の心をはじめとして、鬼が読んでいる千島文まで、おっとり散らして置かれている。朝夕読んでいると思われ、白銀の机に、金泥の法華経は、一部八巻二十八品、なかでも五の巻には、女人成仏と説かれている。殊に提婆品*とて要文あり、六の巻には寿量品、七の巻には薬師品、八の巻には阿羅尼品があそばしかけてぞ置かれける。」(七段しのびのだん)

 

殊に第八段の枕問答で義経が浄瑠璃御前を口説く所においては、恋愛も宗教の是認を求めなければならなかった。

 

137 「いかにや君、仏も恋を召さるればこそ、…男女和合の情けをば、いかでか背き給うべき、煩悩すなわち菩提となる、生死即ち涅槃なり、一仏皆善根土と説くときは、谷が朽ち、木も仏となる、万法一如と聞くときは、峯の嵐も法の声、諸法実相と観ずれば、仏も衆生も一つなり、仏法になぞらえて多くの詞を尽くされける、」

 

 ところが近世の代表的作家近松門左衛門は、同じ題材を扱って、「源氏十二段長生島台」を作ったが、それにはこのような宗教的色彩は殆どなく、口説きのところで少し宗教的弁証を襲用しているが、それも次のように直ちに打ち消す。

 

「女房達は後ろより、さてさてまだるや(じれったい)便々(だらだらしている)と、それは昔の忍びの段、今この粋(いき)な世の中に、何かは入らぬこれこれと、冷泉十五夜しかたにて、もどかし(じれったい)がれば、」(意味不明)

 

 時代の相違はここに明白である。中世では浄瑠璃は宗教に引きずられ、近世に入ると、宗教から独立した。そして宗教に代わって近世の浄瑠璃を特色づけたものは、勧善懲悪の道徳的意向である。同じ近松の作の「日本武尊吾妻鏡」では、改心して両眼を抉(えぐ)った皇子に向かって、武彦が、

 

138 「眼があっても善悪が分からないものを、盲目になって何の徳か。」

 

と言うと、皇子は、

 

「尤々(ゆうゆう)身の悪行を顧み、本心を改め、曇った眼をくり捨て、世間は長夜の闇だけれども、心は冴えた月夜のごとく、善も悪も見分けられる今こそ本当の目明きである。…と、鬼畜を欺く邪見心、初めて萎(しお)れ、先の非を悔い、わっと叫んで入り給えば、さては誠の善心ぞと、皆々袖をぞ絞りける、」

 

などあり、さながら倫理道徳の宣伝とさえ見られる。

 

 袈裟御前の哀話が、平家物語では宗教的に取り扱われたが、林羅山では道徳的に扱われたことについては前論文で述べたが、近松もその「鳥羽恋塚物語」でこれを道徳的に脚色して、袈裟を孝行貞節兼備の女性とし、

 

「さて、はかないことだ。貞女の道を立てようとすれば、母の命を取ろうと言う、また、孝行の道を立てようとすれば、深い妹背(いもせ、夫婦の仲)の道が立たない。とすれば、かくあり、かくすればあない(案内)知られぬ我が身だなあ。ああ恨めしいことは憂き世の中、所詮ただ自らが夫(つま)の渡の身代わりに立つより他はないだろう。」

 

と決心させている。

 

139 まとめ

 

 中世に流れた種々の文化の系統のどれもが自ら安んずることができずに宗教に参入して宗教の色彩を帯び、信仰の口調をもって初めて自己存在の意義を確認し、自他ともに満足した。

 

 現代が科学の万能を叫び、ひたすら真の発見に熱中し、近世が道徳の至上を説いて専ら善の実現に努力し、上代が芸術を尊重して美を最高の価値とし、古代は真善美聖が未だ分岐せずに、渾然として統合融和した純粋な精神であったのに対して、中世は聖を以て最高無限の価値とする宗教全盛の時代だった。宗教的思想は中世において最も力強く文化の底を流れ、最も絢爛たる光を文化一般に投げかけた。中世は聖を以て最高至上、絶対無比の価値とする文化世界であった。それは実に神秘(くしび)の夜に咲く青い草であった。

 

昭和3年、1928年12月

 

以上 2021521()

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

斎藤幸平『人新世の「資本論」』2020

  斎藤幸平『人新世の「資本論」』 2020       メモ     西欧による東洋・中東・ロシア蔑視     マルクスは当初「西欧型の高度な資本主義段階を経なければ革命はできない」 173 (進歩史観 174 )としていたが、ロシアのヴ...