2021年5月15日土曜日

八 国家護持の精神 昭和3年、1928年11月 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 要旨・感想

八 国家護持の精神 昭和3年、1928年11月 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 2021513()

 

 皇国史観 信仰の押し付け、敬語の連続、論理の貧困、退屈そのもの。念仏に等しい。

 よく戦前の人はこんな単調でつまらない念仏に耐え忍んだものだ。

 

感想 2021512()

 

 正に皇国史観そのもの。天皇のため、国のために死ね。負けると分かっている戦争でも、「義」のために死ね。それが大日本帝国の繁栄をもたらした。

これは負けると分かっていても対米戦争に突き進んだ太平洋戦争を彷彿とさせる。そのための思想は既にここで準備されていた。

 楠正成や北畠親房は負けると分かっていたが、後醍醐天皇のために自らの命をささげた。一方、足利尊氏は常に勝つ側に身を寄せ、信条を持たなかったカスだという。

 

 これは国家とその存在根拠としての天皇に関する哲学というよりは、信仰ではなかろうか。またそれは著者の文献学的学知とも縁はない。著者の場合、両者の使い分けができていて、何らその断絶に疑問を持たないようだ。五章「日本精神発展の段階」から本論八章「国家護持の精神」への突然の変化を考えて見よ。著者は実にやすやすと変身しているが、信じられないことだ。国家神道が学問ではなく信仰だから、そういう突然の変身ができるのだろう。

この宗教的国家神道は、歴史的に対外交流や対外戦争などの経験が少なかったことによる狭小な自己完結性を原因とし、突然の対外問題(幕末や第一次大戦後の欧米との軋轢)が発生した際、その問題解決(欧米との対決とそれからの自立)のために発展したのではなかろうか。

 

この国家神道論は、時代の新旧を問わず、新旧が一つの精神でつながる同一のものと見なしている。

この時代の政権は、歴史を遡って歴史上の人物に贈位することにより、現政権の価値観に基づき歴史を評価している。

 

 

要旨

 

146 今や今上陛下(昭和天皇)が御即位の御大礼を挙げられ、我々国民はこれを慶賀し奉り、歓呼の声が四海に溢れている。

 

*即位礼1928.11.10、大嘗祭1928.11.1415

 

嘗ての国歩艱難(かんなん、苦しみなやみ)の時に、生命を捨て君国のために尽くした忠臣志士を今ここで思い起こしたい。それは我国体の尊厳がこれらの人々によって護られてきて、我が国現今の隆盛はこれらの人々の力によって得られたからだ。それらの忠臣を追憶し、その精神を復活し、これを継承しなければならない。

 己を空しくして公に奉じ、生命を捨てて国家のために尽くす精神は、我が国の歴史を貫き、三千年の久しきにわたり儼存(げんぞん、おごそかに存在する。厳存)している。国家の成立、繁栄は単なる武力、財力によって得られるものではなく、至誠奉公の念、国家護持の精神を持たねばならない。我が国家の成立も、その存続も、その発展も、全くこの精神による。この精神は一日も欠くことのできないものであるが、時代により盛衰があった。この精神が最も力強く現れたのは、近くは明治維新の前後であるが、艱難の甚だしさ、精神の正大さ、熱烈さ、歴史上の意義の重大さの点から言うと、建武1334.1.9—1335(南朝)(--1337北朝)・延元1336.2.29--1339(南朝)(暦応1338.8.28--1341北朝)のころ、後醍醐天皇のために尽くした忠臣を推したい。

 

忠義を重んずるや否や 楠正成対足利尊氏

 

147 後醍醐天皇の忠臣は数多いが、代表的で典型的なものとして、文官では北畠親房、武官では楠木正成を挙げたい。この二人は非常な悪戦苦闘をし続け、遂に戦に敗れ、本望を達せず、亡くなった。楠木正成の赤坂千早での苦戦から湊川での戦死に至るまでの経路、また北畠親房は、その長男顕家――顕家は21歳で戦死したが、傑物であったようだ――の戦死後、隠居の身でありながらやむを得ず自ら采配をとって戦争をし、常陸で6年間孤軍奮闘して具(つぶさ)に困苦をなめ、計画がすべて失敗して遂に吉野で薨去するまでの経路などは有名だ。

148 この二人の戦は、勝つ見込みで又は万一の幸運を得ようとして戦ったのではなかった。そういうバクチを打つような気持ちは少しもなかった。この二人は、勝つ見込みのない戦であったが、義のあるところやむにやまれぬ「大和魂」に差し招かれ、敢然として(死に)赴いた。足利側の、戦の勝敗を考え自分の利害を打算しての行動とは天地雲泥の相違がある。

足利方の武士はどういう目標のもとに戦ったのか。武家の幕府を立てるというのが目標ならば、なぜ初めは後醍醐天皇に味方して北条氏を攻め、鎌倉幕府を滅ぼしたのか。北条の強い間は北条の下について後醍醐天皇を攻め、官軍が優勢になると天皇に降参し、朝廷からの恩賞が思ったよりも少ないと、これに背いてまた幕府を立てようとした。これは火事泥棒根性と大差がない。

149 武士の中で武士らしい武士は鎌倉幕府と共に死に、足利の下についているのはカスばかりだ。鎌倉で北条高時に殉死したのは870余人、近江で北条仲時に殉死したのは430余人、博多で北条英時に殉死したのは340人、これらは義を思う武士であるが、この時北条に背いて官軍に降参し、また官軍に背いて朝敵となったのは、武士の風上に置けない奴で、足利尊氏はその親分だ。この連中の動くのは利害損得の打算による。

 一方楠木正成の態度は立派だ。建武中興の時に論功行賞があったが、誰が見ても正成が第一等の功績を立てているにもかかわらず、正成自身は菊池武時を推薦し、

 

150 「元弘1331—33時代の忠烈者で労功の輩が多いとはいえ、いずれも身命を存する者である。独り勅諚(天皇の仰せ)により一命を墜とした者は菊池入道である。菊池の忠は厚く、尤も第一と為す。」

 

と後醍醐天皇に申し上げた。実に潔い心持であります。また北畠親房は常陸での苦戦の最中に、結城親朝に手紙を送って、

 

「私のような老身に至る者は一瞬の間でも忠義を全うして余命を以て先の天皇に報いたいと思うばかりだ。大義の成否は必ずしも意思に係わらず、運命が云うとおりに極るものであり、一命を失う他にすることはない。さらに遺恨と為すべからず。」

 

と言っている。利害を考えず、損得を度外視しての純粋活動であることは明瞭だ。

 これに反して、足利方は皆恩賞目当てのバクチである。一国又は数国の守護職を望んだり、将軍その他の官職を望んだりする働きであり、希望が叶えば味方し、叶わなければ謀反する。当時の世の中は皆それであった。北畠親房はそれを戒めてこう言っている。

 

「凡そ王土に生まれ忠を致し命を捨てることは人臣の道である。必ずこれを身の高名と思うべきでない。」

 

と言い、また、

 

151 「もし臣下が一国ずつを望めば、66人で皆塞がってしまう。一郡ずつとしても、日本は594郡あるから、594人は喜んでも、千万人は喜ばない。いわんや日本の半分を志し、皆がそれを望めば、帝王はどこを統治できるだろうか。」

 

楠正成や北畠親房の精神は全く利害を超越し、義勇を公に奉じようとするものであり、実に国家護持の精神そのものであったのであります。

 

幕末維新の礎となった江戸期の忠君歴史研究

 

 楠正成や北畠親房の奮闘は失敗に終わったが、真に失敗だったのか。当時は失敗だったが、二三百年後の江戸時代の初めになり、その精神が復活し、楠正成や北畠親房の事蹟を研究し、その精神に感激する人が輩出した。

今度の御大典で従三位を贈られた(ずいぶん昔の人も叙勲している。歴史の評価か。)榊原忠次1605--1665.5.14は、その最も有力な先駆者の一人である。榊原忠次は南朝の事蹟を研究し、長慶天皇13431394.8.2南朝第3代の天皇)が在位したことを確認し、関城書*を発見するなどの功績があった。

 

*譜代大名。遠江(とおとうみ)横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白川藩主、播磨姫路藩主。

*関城書(かんじょうしょ)南北朝時代、常陸国関郡の関城(現・筑西市)に籠城していた北畠親房が、南朝方の武将結城宗弘の子である親朝に宛てた書状約70通のこと。親朝を南朝側に味方するように説得していた。

 

152 それに次いで水戸光圀1628.7.11—1701.1.14が出て高潮に達した。光圀は湊川に「嗚呼忠臣楠氏之墓」を立て、朱舜水*の賛をその裏面に彫った。

 

「忠孝が天下に現れ、日月は天に麗しい。天地に日月なければ即ち晦蒙(暗くて見えない)否寒(否塞(ひそく)の間違いか。否塞は閉じ塞がる。不幸せになるの意。)する。人心が忠孝に廃れれば即ち、乱賊が相尋ね、乾坤は反覆する。(ひっくり返る)」

 

*朱舜水1600—1682 明の遺臣。清に仕えず、日本に亡命し、水戸光圀の賓客となった。

 

また、水戸光圀は大日本史を編纂し、その中に関城書も取り入れ、特に神皇正統記の精神に沿って南朝を正当と見なし、国体を明らかにしたのであります。その後いやしくも学問をするもので、南朝の歴史に感激し楠正成などの人物を敬慕しない者はいなくなり、詩や歌に歌われ、文章につづられ、絵に描かれたものは数多い。

ことに頼山陽1780.1.21—1832.10.16日本外史とその詠じた詩は、この風潮の最高点を示し、灼熱して沸騰点に達した。幕末維新の志士は皆これに感激して起こったと申して過言ではないのであります。

 

153 幕末維新 幕末維新の志士はその思想の源泉を我が国の歴史の中から汲んでいるが、このことは今日の滔々たる世間のいわゆる改造論者とは性質を異にしている。

横井小楠(しょうなん、1809.9.22—1869.2.15暗殺、武士、儒学者)は今度の御大典で正三位を贈られたが、非常にハイカラで急進的だと言われ、そのためしばしば異端視された。しかし、その小楠が、

 

「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす。」

 

と言っている。また橋本景岳(左内、1834.4.19—1859.11.1小塚原刑場、福井藩士)は、

 

「器械芸術は彼に取り、仁義忠孝は我にある。」

 

と言い、吉田松陰は、

 

「人を人となす所以は、忠孝を本となす。」

 

と言い、また、

 

「凡そ皇国に生きる者は、宜しく我が宇内(うだい、天下)で尊ぶ所以を知るべし。…君臣一体、忠孝一致、唯(ただ)我国が然りと為す。」

 

154 と言っている。今日のいわゆる改造論者が歴史を顧みず、歴史に「反逆」し(どういう意味か。)我(国)を全く失い、外国の思想を鵜呑みにし、しかもそれをなまかじりのまま、我が国家社会を改造しようとすることは、真の改造ではなく(どうしてか。)ただ擾乱に終わるだろう。一方維新の志士は、その思想の根本を我が国の歴史の中から得ている、つまり建国以来脈々として流れている国家護持の精神が表面に発露している。橘曙覧の歌に、

 

「古書のかつかつ物を言い出す

御世をつぶやく死眼人(古書)」

 

この歌が示すように、維新の仕事は古い書物の仕事であった。古事記や日本書記、万葉集、神皇正統記、関城書、職原抄、太平記などが動き出してあの大業を成した。例えば、楠木正成や北畠親房の場合、その霊魂は永久に朽ちず国家を護持し、幕末の藤田東湖、吉田松陰、橋本景岳、その他無数の志士に引き継がれた。その精神が何であるかについて、吉田松陰が極めて簡単に力強く説いている。

 

155 「我が国体が外国と異なる所以の大義を明らかにし、国の為政者は国政のために死に、藩の為政者は藩政のために死に、臣は君のために死に、子は父のために死ぬ。そういう志が確乎であるなら、どうして緒蛮族を恐れる必要があろうか。願わくは諸君とここに従事しよう。」(講孟剳(とう)記)

 

まとめ 今私は楠木正成、北畠親房と吉田松陰、橋本景岳などだけを例示したが、明治維新の大業は彼らのような代表的で最も著しいものだけでなく、志を同じくする無数の志士たちによってなされた。楠木正成や北畠親房は多数の無名の部下の士卒(士官と兵卒)によって支えられた。

両者(建武中興の志士と明治維新のそれ)をつないだものは忠次や水戸光圀、頼山陽など無数の学者であり、建武中興の先駆は承久の忠臣――今回の御大典で従一位を贈られた藤原光親、源有雅や従二位を贈られた藤原宗行などはその主な人である――である。

 

それらの人々はなんらの利益を求めず、名誉に目もくれず、甘んじて国家のために死んでいった。

156 その数多くの「捨て石」の力によって、今日の我が国の隆盛、我が国体の尊厳を見ることができる。その捨て石が真によく国家を護持して来たことが明らかになれば、捨て石は捨て石ではなく(これは靖国精神に通じる。)、国家を支持する有力な土台石であり、抜き差しならない楔子(くさび)である。今や御大典に際して、多くの捨て石が贈位の恩典に浴し、新たに光を発するようになった。私は冥々のうちに(自然に心に感じられるように、知らず知らずのうちに)我が国家を護持するこの無数の崇高な霊魂を、我が心の中に呼び起こしたいと願う。

 

昭和3年、1928年11月

 

以上 2021515()

 

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