2025年11月24日月曜日

笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

 

笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

 

 

FB(Meta)で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。

 

後記 Metaが「ヘイト」と指摘する理由は、どうもイスラエルや米批判を問題としているらしい。

 

・「イスラエルのガザ人に対する虐殺も同様。差別や侮蔑があるから殺せるのだ。」(任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017101

・「こんなに立派な人道的言辞を述べながら、なぜ米は日本全土を空襲し、原爆を投下したのか。復讐か。」(笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025053

 

 

019 大山特攻隊自爆事件

 

193777日に偶発的に始まった盧溝橋事件が、現地で停戦協定が成立した7/11とき、内地の軍部*(武藤章、田中新一)では戦争継続論(華北分離工作1936*推進)が強く、7/10、軍部は中国を叩く案をまとめ、7/11、閣議決定・政府声明(北支事変、中国の呼称は華北戦争)となった。

 

*参謀本部と陸軍省。

*傀儡政権「冀東防共自治政府」が、すでに1935年に、北京と天津との間に成立していた。これは中国側が当時の力の差を考慮し、当面は日本とすぐに正面から戦うという方針を避けていたから可能だった。満州事変後の「不抵抗主義」024

 

驚きだがこのとき、石原莞爾・参謀本部第一部長や、河辺虎四郎・参謀本部第二課長らは、近衛首相とともに、秘密裏に中国側と停戦交渉(日華停戦条件をまとめ、船津辰一郎が国民政府の高宗部と交渉)を進めていた8/7, 8のだが、海軍では戦争拡大に動いていた。そこで持ち出されたのが大山勇夫による自滅的な中国陣地への突入、つまり特攻的な自死行為8/8,9であった。それはお上(大川内伝七・上海海軍特別陸選隊司令官)から命令されたもの*だった。その間の事情は『大山勇夫の日記』に書いてある。命令は口頭でなされ、記録はない。

大山勇夫は前日8/8の朝に斎戒沐浴し、身辺整理し、書類を焼却し、夕方にも風呂に入り、新しい下着に着かえ(旧部下の回想)、8/8付の日記には遺書が挟まれていた。その遺書は「家人曰く忠義を尽くせ」と書かれた半紙であるが、その半紙には大山の切った髪と、母親が出征時に送った千人針が挟まれていた。大山勇夫の当日8/9の日記「雑念を去れ、敵を見詰めよ。士魂。任務は力なり。」

 

*「お国のために死んでくれ。家族のことは面倒をみる」「こちらからは攻撃するな」

*大川内伝七はその上司の長谷川清・第三艦隊司令長官から伝えられていた。

 

大山勇夫は89日の夕方、ピストルを着用せず、陸戦隊員も連れず、国民党軍の虹橋(こうきょう)飛行場を目指して出かけ、正門近くで射殺された。中国側は大山が陸戦隊を先導していると思った。

 

海軍(軍令部)は、この自滅的な大山事件を中国側による虐殺行為とでっち上げ、その解決のために無理な条件を中国側につきつけ8/11、戦争を挑発した。対する蒋介石も8/12、応戦を決意した。日本のマスコミも中国に対する国民の戦意を昂揚させた。

 

蒋介石もそれまでに軍備を整えていた。蒋介石の作戦は、日本との戦争は自力では勝てないので、欧米やソ連を巻き込む持久戦に持ち込むことであった。中国はドイツの指導で軍備を整え、英米からは航空機を調達していた。

 

*日本による対中国戦闘行為は、中国の主権と独立を認める九か国条約1922や不戦条約1928に違反していた。

 

025 大山事件の翌日の8/10、軍令部と海軍省は、陸軍二個師団を上海に投入する閣議決定を求めた。

 

8/12、伏見宮・軍令部総長は、長谷川清・第三艦隊司令長官の上海攻撃を認め、長谷川は南京空襲を命令し、12日夜から出撃態勢に入ったが、13日は台風のために延期され、(8/13の陸上での海軍陸戦隊による日中戦争勃発を受けて)14日、15日に空襲を実施した026, 031, 032, 033, 034。九州(長崎の大村の木更津航空隊)や台湾(台北の鹿屋航空隊)から、海軍航空隊が渡洋爆撃をした。済州島に帰着。

 

8/12の夜、米内海相は、近衛首相、杉山元陸相、広田弘毅外相に、陸軍の上海派兵(上海派遣軍・松井石根司令官)を認めさえた。

 

8/13、日中戦争開始。日本海軍陸戦隊と中国軍第88師が、中国側の閘北(ざほく)と日本側の虹口の境界で戦闘開始。(第二次上海事変)

 

海軍の「九六式陸上攻撃機」とは同機が制式採用された1936年、紀元2596年の下二けたを取って命名。同機は山本五十六が考案し、三菱重工が製造。1935年に完成。1936年に制式採用。中型攻撃機(中攻)とも言われる。

 

 

傲慢な昭和天皇の檄文193794日、衆議院開会式

 

「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだ)りに事を構え*、遂に今次の事変を見るに至る。朕これを憾(うら)みとす。今や朕が軍人は、百艱(かん)を排してその忠勇を致しつつあり。是一に中華民国の反省を促して速やかに東亜の平和*を確立せんとするに他ならず。朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、忠誠*公に奉じ、和協心を一にして賛襄(さんじょう、君主を助ける)もって所期の目的を達成せんことを望む。」

 

* 「事を構え」ているのは日本の方では。

* 「東亜の平和」を乱しているのは日本では。

* 国民(臣民)に自身に対する忠誠を誓わせている。

 

 

 

ハーグ陸戦条約「開戦に関する条約」1907違反

 

・海軍は宣戦布告なしに首都南京を空爆した。036

・海軍は非武装都市を空爆した。052 ということはアメリカも同条約に違反していたということか。

 

053 イギリスは国際連盟に日本の軍事行動を非難する決議案を提出し、928日、連盟総会は「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を全会一致で採択した。

 

「日本航空機による支那における無防備都市の空中爆撃の問題を緊急に考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめたるかかる行為に対しては、何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す。」

 

(こんなに立派な人道的言辞を述べながら、なぜ米は日本全土を空襲し、原爆を投下したのか。復讐か。)

 

1937105日、米大統領フランクリン・ルーズベルトは、国際社会の健康を守るために(日本を)隔離すべきだとする所謂「隔離演説」を行った。

 

「戦線の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子を含む一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは、平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである。」

 

石射猪太郎(いしいいたろう)1887-1954 戦前にも常識的な人がいた。森島守人1896-1975もそんな感じがした。石射猪太郎の「南京アトロシティーズ」(外交官の一生298)という感覚が正常だ。本書でも10/4付日記「日本の新聞はもう駄目だ」05210/7付日記「憂うべきは日本自体の無反省だ」054

 

 

感想

 

弁当を持たない日本軍の戦争のやり方 著者笠原十九司も言うように、日本軍、特に上海・南京占領軍は、食料を自前で用意せず、最初から中国人のご家庭からいただく方針であった。066,069,079,080,081,084,085相手国に攻め込んでおきながら「ご飯を分けて下さい」と言うわけにもいかないから、武力で強奪した。そのような状況だから、食糧の掠奪以外にも、様々な悪行(強姦、虐殺)が当然出てくる。

 

軍と中央政府・軍指導部との乖離 満州事変の画策や満洲国の樹立において、関東軍が中央政府の方針と乖離していたように、上海派遣軍も中央政府の方針(上海獲得で停戦)を無視して、南京へ向かった。勝てばいいじゃないか。勝ってそれを既成事実にし、中億は首都南京が落ちれば、屈服するだろうと、南京へ突き進んだ。

 

 

メモ・感想

 

081 石川達三「生きている軍隊」(1938.3、中央公論)は、日本軍(第16師団の歩兵第30旅団第33連隊)が上海から南京に進撃する過程で、中国人婦女の凌辱、捕虜・投降兵・敗残兵の虐殺、民間人の殺害、略奪、放火、民間人の連行と使役などの不法行為を描写して発禁処分となり、石川達三は禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けた。また「牧原日記」は、前記の第16師団第19旅団の歩兵第20連隊に所属した牧原信夫上等兵の日記であるが、それも上記の不法行為を描写している。

 

私のお父さんやお祖父さんの悪行を認めたくないという右翼諸君の心情は理解できるが、その悪行を否定すれば、被害を受けた相手中国の気が済まない。

 

085 上官は「兵士の元気をつくるに却って必要」と強姦をやらせていた。「中国女性を征服し」「力づくで女をものにする」という戦場の役得としての性暴力が、兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された。

 

092 倪塘村虐殺事件 日本軍は逃げ遅れた本村民とよそから避難してきた中国人40余人を倪安仁という村民の家に押し込めて放火して焼き殺した。翌日も捕虜や他村からの村民80名を機関銃掃射した。1人の女性を男8人で輪姦し、最後に村に放火した。本多勝一「南京への道」は目撃者からの聞き取りに基づく。

 

094 放火後の感想「気持ちがせいせいした。」

 

104 「膺懲」という言葉そのものの中に中国に対する侮蔑・蔑視がある。

 

大日本帝国も国際条約(ハーグ陸戦条約104)を批准し、それを守った部隊もあったようだが、上海・南京侵略軍はそれを取り締まる組織をもたなかった。ハーグ陸戦条約では投降兵、敗残兵、捕虜の殺害は禁止されていた。

108 陸軍刑法1908でも、その第九章 略奪の罪 第86条は「戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を略奪したる者は、1年以上の有期懲役に処す。前記の罪を犯すに当たり、婦女を強姦したるときは、無期または7年以上の懲役に処す」としていた。

ところが中支那方面軍は食料の現地調達=掠奪を強いた。これは陸軍刑法に違反する行為の強要だった。

115 日本軍は部隊によって軍紀の乱れが様々だった。非戦闘員を殺害しない部隊もあった。

 

 

感想 南京事件における中国人の死因の多様性 日本軍による虐殺も当然あるが、中国軍同志の討ち合いや、揚子江に入水した人たちもいた。

 

中国軍同志の撃ち合いの事情とは以下の通りである。中国南京防衛軍の敗色が濃くなり、南京を脱出することになったが、中国軍指導部は一般兵士に、南京城西方の長江沿岸の下関(挹江門)から長江を渡って対岸の浦口へ逃げるのではなく、日本軍に向かって正面突破して「逃げる」ように命令した。しかしそれはますます敗色が濃くなってゆく状況では不可能であった。それにもかかわらず中国軍指導部は下関(挹江門)に逃れて来る軍人や民衆を実力で阻止するよう第36師に命令していた。そのため下関に逃げようとしていた民間人や兵隊が道路に滞留した。(当時の南京城区の民間人は50万人と言われる124

その状況を武力打破したのが、戦車を伴って下関に逃げてきた中国人部隊144だった。それを阻止するよう命令されていた第36142と打ち合いになった。

後者が負けると、それまで下関に逃げようとして道路に滞留していた民間人や兵隊が、どっと揚子江沿岸に押し寄せた。しかしそこには船はなかった。軍指導部の情報を知っていた運輸司令部司令と参謀長144は、自ら船で対岸に逃げていたからである。そこで民衆は筏や丸太、板切れなどで揚子江を渡ろうとした146が、冬の冷水に体力を消耗して死んだ人が多かった。揚子江の幅は1.5キロあった。

揚子江が渡れないと分かった中国軍人は、南京城内に戻って「安全区」に集まり、民間人の服を求めて軍服を脱ぎ捨てたが、民間服(平服)は不足し、中には下着になった人もいたという。日本側から「便衣兵」とされた人たちがこれなのだろう。147

 

正面突破撤退作戦の失敗の一因は、中国軍指導部の撤退指示が遅れたことにある。中国軍が潰滅しかけたときに同指令を出したからである。しかしその遠因は日本軍にあることに変わりはないが。

 

 

感想 南京大量虐殺の諸相

 

前回、中国軍相互による撃ちあいについて述べたが、南京大量虐殺事件のメインは、投降兵の殺害であったようだ。日本軍との戦闘中の死傷者はわずか(2%弱)だった。日本軍は中国軍が総崩れした後に投降した大軍を、日本軍の損害を少なくするために一旦は捕虜として受け入れつつ、もともと捕虜に食べさせる食糧はなかったから、最終的に「処分」された。1213日に、第16師団だけでも殺害した投降兵・敗残兵の数は23千人をこえた。162

もともと日本軍には食糧がなかったから、捕虜はとらず、「処分」する方針だった。第114師団歩兵第127旅団第66連隊第一大隊戦闘詳報によれば、

 

163 「旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は(少しずつ)十数名を捕縛し、逐次銃殺してはいかん。…各中隊(第一、第三、第四中隊)に捕虜を等分に分配し、監禁室より50名宛連れ出し、第一中隊は路営地南方(死体を埋めやすいように)谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地において刺殺せしむることとせり。…各隊とも午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後730分刺殺を終わり(その間2時間半)、連隊に報告す。…捕虜は観念し恐れず、軍刀の前に首を刺し伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出して従容としおるものありたるも、中には泣き喚(わめ)き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

 

これはハーグ陸戦条約の規則第33条の戦闘中の禁止事項とされる「敵国または敵軍に属する者を背信の行為(捕虜にしてやると言っておきながら殺す)をもって殺傷すること」に当たる。

 

 

165 揚子江沿岸と揚子江攻撃 第16師団歩兵第30旅団の佐々木到一少将の私記によれば、「江岸(揚子江の岸)に蝟集(いしゅう、大勢が一か所に集まる)し、あるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮15千発の弾丸を射ち尽くした。」

揚子江攻撃 第16師団歩兵第30旅団歩兵第33連隊の「南京附近戦闘詳報」によれば、「江上の敵を猛射すること2時間殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。」

166 中州への攻撃 歩兵第41連隊第12中隊「江興(心)州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」によれば、「長江上の江心洲の捕虜は後刻処置するを以て、それまで同島において自活せしめよとの命令あり。捕虜2350人。」

 

空爆175や軍艦168からの攻撃もあった。揚子江上を筏で逃げる人々を攻撃した。揚子江の中州に逃げた人々を殺した。

 

172 「最後まで南京を守った支那兵は約10万人、うち8万人が剿滅され、揚子江を浦口へ逃げられたものが2万人、筏で逃げて揚子江上で撃たれた者が1万人に達せりという。」(支那方面艦隊軍医長兼第三艦隊軍医長泰山弘道が19371219日に第三号掃海艇の大谷法主艦長から聞いた話。『上海戦従軍日誌 巻ノ九』)

 

 

173 第87師第261旅長・陳頤鼎によれば、南京防衛戦のために紫禁山東南山麓に配属された第87師第261旅の部隊員数は4000人で、その中の死傷者は15%の600人、うち重傷者は1%の50人であった。

175 下関で烏合の衆となった兵士を日本軍機が爆撃し、莫大な死者が出た。

177 揚子江上の八卦洲に漂着した中国人は何千人といた。

178 第87師第261旅(旅長・陳頤鼎)の部隊員4000人中、江北に逃げられたのは100人で、戦死傷者700人(1.7%)、うち戦死者は200人(0.5%)、負傷者500人だった。(戦傷者400余人は置き去りにされ、日本軍に機銃掃射され1人を除いて殺された174というから、残りの3200人(80%))2900人(72.5%)はその後に殺されたことになる。

 

 

184 英海軍レディーバード号事件 Wikiでは松井石根の宣誓口述書を根拠として、中国軍が外国国旗を掲げていたとか、同艦が国民党軍の船団の中にいたとか、濃霧だったとか、様々な言い訳をして誤認して砲撃したとしているが、濃霧ならどうして命中したのか。

 

185 米艦船パナイ号の「誤爆」撃沈事件では、国内では日本国民がこぞって米大使館に謝罪し、誤爆だったとごまかそうとしたらしいが、米側は謝罪と賠償は受け入れたが、誤爆だったとは受け取らなかった。

 

 

191 『東京日日新聞』19371215

 

「大戦捷! 歓喜の熱風 来たぞ! 世紀の祝祭日 師走の街に十七日早く“お正月” 帝都は旗、旗、旗の波」

 

「一億国民待望の「南京陥落広報」に接した十四日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄み切った太陽が燦燦とそそぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新聞配達の足音が各家を訪れた時、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨(りゅうりょう)たるラッパの音とともに臨時ニュースを発表した時、全国民は歓呼の声をあげた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。クリスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂浪士が本懐をとげた日と同じうして到来した。

 

192 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉(19371215日)

 

「中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃を行い、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。

 

 

194 松井石根は自らが策定した「南京城の攻略および入城に関する注意事項」126を守るどころか、それを無視して、17日の入場行進を安全にするために南京城内外周辺の掃蕩を急がせた。朝香宮鳩彦王の身にもしものことがあったら首が飛んだ。また速やかな入場行進の挙行は、日本国民に対する自らのアッピールとなったからだ。

 

208 難民区では敗残兵とみなされた6000人くらいの若者が銃殺や手榴弾で殺された。敗残兵の中に市民も含まれていた。「難民区」が安全かといえばそうではなかった。難民区は外国人が組織し、南京市に集まって来る難民を市役所の役人のように面倒をみた。

 

 

メモ

 

210 遅れてきた山田支隊は、12/13の夕方から12/1412/15にかけて、下関から揚子江の南岸を下流に逃れて来て投降した中国人将兵や一般人を捕虜として捕らえた。食料がない。南京の司令部に問い合わせたところ、処分せよとのこと。12/16から12/17にかけて銃殺、刺突。最後は石油で燃やして全員の息の根を止め、揚子江に流した。その数約2万(数千)人。作業終了は1219日。このように南京城の外に逃れて来た人達が、犠牲者の主要部分だったと思われる。

 

215 南京防衛軍のうち広東出身の地方軍は、撤退作戦通りに日本軍の正面を突破して西南の安徽省方面へ逃げた。日本軍はおそれをなし、南京城周辺の県城と農村を再度襲撃し殺戮した。各件の被害は小規模だが、合計すると多くなる。

 

217 12/17、松井石根は天皇陛下万歳三唱の2回目は感極まって声にならなかった。「未曽有の盛事、感慨無量なり」(松井石根大将陣中日記)

 

感想 南京侵攻(攻略)は陸軍中央の統制を無視して行われたのだが、昭和天皇はそれを知りながら、南京陥落に祝意を伝えた。また当時の新聞の盛り上がり様も、反省に値する。

 

 

 

戦闘行為中の戦死者を除いた中国人犠牲者数を推計すると 26.9万人~29.9万人

 

260 中国軍人(南京防衛軍) 15万人

 

脱出 5万人 うち帰隊4万人 逃亡1万人 (南京戦直後に収容・集結した将兵 3.5万人)

戦死者 2万人

戦死者+脱出者=7万人 

残り8万人が敗残兵や投降兵、捕虜となって虐殺されたものと推認される。…

 

261 以上の数字は長江渡河中に射殺されたり溺れたりした死者数(万単位)を含まない。…

 

民間人死者数 慈善団体による埋葬記録がこれに当たる。

 

246 18.9万人

262 3万人

 

民間人死者合計 21.9万人

 

 

271 軍民合わせた犠牲者総数 ①+⑤=29.9万人(④を除外すると26.9万人)

 

 

 

258, 259, 260 日本軍資料に基づく推計 8万人~10万人~16万人(-不確定数5万人*=11万人)*処刑の記述がない、重複の可能性2千人など。

この数字は南京防衛隊の資料8万人ともほぼ一致する。

 

 

 

266 金陵大学(現南京大学)社会学教授で米人の社会学者ルイス・スマイスによる南京城内とその周辺の4.5/6県の調査結果 19383月~4月実施 193712月中旬から19383月中旬までの被害状況を調べた。スマイスの調査は南京城周辺の農村部と城内周辺の市部に分けられている。

 

周辺農村(県城は調査対象外)の調査結果 日本軍侵攻以前の推定人口121.1万人

 

・農民の死者 2.7万人or 3万人 …⑥ 7家族に1人の割合 全人口の2.5

・離村したまま帰ってこない人 13.3万人 /121.1万人=11%…

 

268 市内とその周辺の調査結果 市内の調査では、家族構成員がまがりなりにも存在している家庭だけを調べ、全員いない家族や、孤児家庭は調査の対象外。

 

・戦闘行為による死者 3,250 …⑧

・拉致4,200

 

市内と城壁附近の埋葬者集計(一般市民の暴行死者) 1.2万人 ⑩ (⑩=⑧+⑨と思われる。)

 

城内の被害者は城外に比べて少ない。

 

 

野党による反対討論が許されない、衆院予算委での与党自民の質問を、閣議決定と同等に扱い、その内容が教科書の記述で強制されている。そういうことがまかり通っている。小中高生よ、今の教科書には気をつけよ。

 

279 2013410日、衆院予算委員会で自民党の西川京子議員は、山川出版社の日本史教科書における「従軍慰安婦」と南京事件の記述を、「自虐史観」「反日思想」に基づく憂慮すべき記述であると批判した。そして自らが属する教科書議連の「南京事件小委員会」が導き出した「南京で行われたのは、通常の戦闘行為以上でも以下でもなかった」と述べた。

280 西川議員の発言は、自民党の代表質問としての発言であり、それに対して野党の議員は反対発言ができない。西川の南京事件否定説発言は「国会で反対がなかったので承認された」とされた。

20141月、文科省は教科用図書検定基準の改定を行い、「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める」と改めた。この「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的見解」には、前記の「南京で行われたのは、通常の戦闘行為以上でも以下でもなかった」という結論が含まれる。つまり中国人婦女の凌辱、捕虜・投降兵・敗残兵の虐殺、民間人の殺害、略奪、放火、民間人の連行と使役などの不法行為は南京事件から除外されたのである。

 

以上

 

 

2025年11月17日月曜日

岩崎正芳「石蕗(つわぶき)の花」 一人芝居「狭山事件」

 

岩崎正芳「石蕗(つわぶき)の花」 一人芝居「狭山事件」 20251116 日 市民プラザかぞ

 

 

ビデオ 石川一雄さんのこれまでの再審闘争での発言や、冤罪被害者仲間との交流ビデオを公開。大学時代から狭山運動に関わっていた。

 

 

岩崎正芳 同和教育を担当した元中学校の先生 1時間半もの長い台詞をよく覚えられる。

教え子のために公演している。埼玉県での石川一雄冤罪再審請願運動を拡大したい。自治会で公演したい。立教大で一人芝居を計画している。中学校教員時代の学級通信のタイトルは「水脈」という。水脈は僅かでも大きな岩盤を穿つという意味である。

 

 

一夫さん死後に発見された歌 早智子さんが発見

 

次の世も生まれし我は

このむらに

兄弟姉妹と

差別根絶

 

 

南雲 ギターとフルート担当 入間地区の事務局長 一夫さんはいつも前向きだった。梅子(一雄さんの兄の六造の妻)も頑張っている。

 

○○さん 照明と映像担当

 

 

赤嶺さんより

 

検察が11/14の第二回三者会議(検察・弁護・裁判所)で「家令裁判長の任期中に再審の判断をさせない」と宣言。検察は家令裁判長が本再審裁判に同情的なのに反発しているようだ。

 

同和保育教育をやっていた。石川一雄さんは62年間奮闘した。

県議会に働きかけて○○を採択させた。

人権問題では左右の別はない。自民党議員にも伝わる。加須市議会で国への意見書を採択。羽生市議会や行田市議会でも。ネット署名もやっている

 

早智子さんは不眠で食欲不振 15キロやせた。笑顔がない。回復しつつある。空腹を感じるようになった。

 

2025年11月15日土曜日

田川実「極右・排外主義と闘う欧州の左翼 21世紀日本の排外主義に立ち向かう―欧米の経験を踏まえて」

 

田川実「極右・排外主義と闘う欧州の左翼 21世紀日本の排外主義に立ち向かう―欧米の経験を踏まえて」 20251105 土 群馬県公社

 

 

主催者挨拶 小暮 群大医学部卒 外科医 小泉・竹中時代以来非正規雇用が拡大した。

 

講演 田川実 日本共産党国際委員会事務局長 在日外国人の権利委員会責任者

 

ロシア語を修得した。

DSA Democratic Socialists of America「アメリカ民主社会主義者」

日本共産党本部にも外国人が訪問するようになった。

外国人敵視は暴力、ジェノサイド、戦争を導く。

 

P2 「不法滞在者ゼロプラン」における「ルール」の意味は曖昧。外国人敵視を煽る。不法滞在者の中にはやむを得ない事情の人もいる。1975年、国連では「不法」という言葉を使わなくなった。「書類を持っていない」と改めた。

 

P3 経済格差から極右の排外主義が生まれる。リーマンショックの時からである。

ヨーロッパ右翼の中には戦前への復古主義者はいない。それが残っているのは日本だけだ。

P4 世界人権宣言第14条は「国家から逃げる権利」「他国に避難する権利」を定める。

日本国憲法前文に現れる「国民」はpeopleの訳である。本来は「人」と訳すべきである。

P5 知事会の青森宣言では市民的連帯を謳い排外主義を否定している。国は外国人に日本語教育をやれ。外国人労働者の斡旋を民間=私的にではなく、国としてやれ。

 

P9 日本共産党は、川口市議会「不法滞在者ゼロプランの着実な実行等を求める意見書」に対して反対意見を述べた。外国人とトラブルが起こるのは当然である。草加市では外国人を除外しないで祭りをするために、外国人にルールを説明して回った。外国人問題を争点化させないことが重要である。

階級理念に基づき、参政党に投票した人ともつながる。

 

P7 ベルギー共産党は欧州では「進歩的」と評価されている。

P8 日本共産党によるアンケート活動。こちらから壁を作らない。

ニューヨーク市長選では戸別訪問をした。赤旗はそれを報道した。

マルクスは南北戦争時の北軍を支援した。

 

P56 アイルランドはイギリスの最初の植民地だった。

戦前のヨーロッパでは共産党は非合法ではなかった。日本とは異なる。

チリでは過去の非弾圧者に対して年金が出ている。今は共産党が与党に復活した。

日本国憲法97条は基本的人権を規定しているが、基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力struggleの成果として信託conferred in trustされたものである。

 

ベルギー労働党は毛沢東派だった。

「人材」などと人をもの扱いするな。

 

英労働党のコービンは鉄道の再国有化を主張している。労働党から追い出された。今の労働党は労働者の意見を反映していない。

 

以上

 

2025年11月8日土曜日

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

無辜の民衆の虐殺の背景にあるものは弱い者に対する蔑視では

 

・平頂山1932.9.16 井上久士『平頂山事件を考える』

・山東省東周家荘村1937.10.10 『東史郎日記と私』p.23

・南京1937.12.13

・徐州市銅山区閻窩村1938.5.20 宮内陽子『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』p.171

 

これらはみな日本軍による中国の無辜の民衆、子ども、女、老人を大量に虐殺した事件である。口実は抗日中国軍に「協力」したのではないかという「疑い」であるが、その根拠はない。見せしめだったのかもしれない。ただその村の方向に抗日軍がいたらしいということだけである。

 

その背景にあるものは何だろうか。富める者、力ある者の、貧しい者。弱い者に対する蔑視ではないか。イスラエルによる無防備のガザ民衆の殺戮、米による、カリブ海での、裁判によらない麻薬密輸を口実にした乗船員の船もろともに爆撃、破壊、殺害もそうだろう。

 

日本軍は刺突、機関銃掃射、遊び感覚の郵便袋詰め放火殺害(『東史郎日記と私』p.77)などを行っていた。そういう虐殺事件の一つである「南京虐殺事件は存在しなかった」、日本軍はそんな不名誉なことはやらなかった、と戦前の日本軍による帝国主義的侵略を否定する映画*を称賛する人が、今の文科相になっている。戦前の賛美、侵略戦争賛美が、今の高市早苗政権=安倍晋三政権ver.2の恐ろしい真実。

 

*松本洋平・文科相が、「南京『大虐殺』なる歴史の捏造。誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃」とする「日本文化チャンネル桜」代表・水島総監督の映画「南京の真実」2008に賛同していた。おかしい。

 

 

033 河北の「東周家荘」と同様に、上海・南京間の江南地方(揚子江の南岸地方)の「常熟」や「無錫」でも大量虐殺が行われた。

038 大規模な殺戮は上官の命令で行われた。それは「部下が勝手にやった」という日本の右翼の説明とは異なる。「どの壁にも抗日宣伝文が書かれていて、日本兵たちは住民が抗日意識に燃えていると判断した」033というのも虐殺の一つの理由であろうが、日本人はそれ以前から一般的にそう考えていたのだろう。

039 沈秋農『常熟1937』には虐殺や掠奪の記録がある。

044 破廉恥な婦女暴行が大規模に行われた。中国側の資料『無錫史誌』がそれを示す。

 

059 『福知山連隊史』によれば、「19371211日、(東史郎が所属する)大野連隊が、国民政府主席林森の邸宅を占拠した」とある。また東史郎も1212日の日記で、彼等の第3中隊第1小隊が、「張学良の家を占拠した」と書いている。しかしそれを確証することはできない。

062 『中国事変陸軍作戦史』によれば、「南京城壁は、高さ18メートルで、外周に壕が張り巡らされている」とある。

066 20071213日、南京の玄武湖畔で追悼会が開催された。日本の「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会(「銘心会」)」のリーダーで『南京戦』社会評論社2002, 2003の編著者の松岡環が発案準備した「太平門大虐殺記念碑」が落成し、日本側からは「ノーモア南京の会」、「心に刻む会」、「東史郎さんの南京裁判を支える会」、「紫金草合唱団」などが参列した。

 

私は『偽証言的証言』(竹内迅『記憶の暗殺』の中国語版、世界知識出版社2000.9)を日本人の西村秀樹から受け取った。本書は東史郎裁判を詳述している。

067 上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将(裕仁天皇の叔父)が捕虜の皆殺しを命令した。

067 166師団の南京での犯罪は深刻である。16師団長の中島今朝吾は、「佐々木到一旅団が南京で中国軍民十数万人以上を殺した」と言ったとされている。

068 『支那事変 皇国之精華』皇道振興会関西総局1939の中で、日本軍森塚部隊の上等兵栗山基が、義弟・長澤長市あての手紙の中で、「上海から南京まで100万を超す中国軍民の死体を見た」と語っている。

 

 

感想

 

東史郎のように冷静で良識的・自制的な日本軍人もいたが、総じて日本軍人はひどい事をしている。刺し殺す。女は弄んだ後で陰門にビンや箒の竿を突き刺す。沖縄戦では民衆(婦女子)に自決を強要したというが、婦女暴行は日本軍の常識であったから、米軍も同様なことをやると考えたのだろうことがよく推測できる。

 

本書では事件の存在を証明する資料や証言が詳述されていないのが欠点。しかし書かれていることは嘘ではない。被害者に寄り添うべきだ。その点、英米人の映画資料072は厳然としてある。また日本人軍人の戦後のPTSDが間接的にその蛮行の事実を示している。

 

郵便袋事件の加害者西本はその事実を認めているが、それを「正当な戦争行為」1998年だという。限度があるだろうに。たとえ戦争だとしても、遊びで人を殺していいのか。080

 

日本の右翼が中国や北朝鮮を敵視する背景には、戦前の日本軍人の蛮行を謝罪したくないという気持ちがあるのではないか。

 

 

 

081 中島今朝吾16師団長――大野連隊――西崎隊長(歩兵第一大隊)――東史郎

 

088 『ラーベ日記』には日本兵によって蹂躙された大勢の女性の記録がある。

089 『魏特林(ヴオートクリン)日記』はヴオートクリン女史による金陵女子学院での日記であるが、それによると、19391012日、某キリスト教会の修道女8名が29名の赤ん坊を養育していた。そのうちの幾人かは日本兵の子どもであるため、捨てられたのである。

 

 

 

FB(Meta)で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。

 

101 東史郎も言うが、中国人の虐殺は中国人に対する侮蔑が原因。イスラエルのガザ人に対する虐殺も同様。差別や侮蔑があるから殺せるのだ。東史郎「今や兵士たちは、支那人である限り、殺すことに何の躊躇も、何の痛痒も感じていないらしい。人を突き殺す事を、鶏を殺す事ほどに思っていない。」中国人の死体は、豚の死体にも匹敵しない。「豚は食えるから」である。「当時の日本兵の非情な惨殺は、中国人民への蔑視と敵視から出たものだ。」

 

106 思いやりのありそうな東史郎でさえ中国人の首をはね、その様子を子細に日記に記録した。この人も時代の子。東史郎は戦前の自らの行為を恥じて、南京で土下座をしたというが。(任世淦「東史郎は19871213日、南京に来てわが30万同胞の霊前に跪いて謝罪した。iii」)当時の東史郎の感覚は、その日記で見る限り、まるで人殺しの技術者の感覚である。恐ろしいことだ。戦争は人を狂わせる。

 

『東史郎日記』はアマゾンで4600円もする。

 

 

 

110 西本はまた殺人遊戯をした。大伾山(だいひさん)の付近の某村で、二十五、六歳の若者を捕まえて布団にくるみ、石油をかけて火をつけて殺した。

113 被害者の名は王狗不+好という。

116 44日のことであった。

 

111 日本人は1938329日、大伾山(だいひさん)の付近の某村で大虐殺を行った。

 

117 東史郎は彰徳でもまた慰安婦を利用した。

122 東史郎は無辜の中国人を総計4人殺した。1938425日、臨城で孫延年を殺した。

 

 

感想 2025112()

 

日本軍は1937年の日支事変勃発以降、中国大陸の各地で中国軍や共産軍と戦った。中国軍とは通常の撃ちあう戦闘であるが、共産軍とは正面戦争ではなく、日本軍がいないときに攻撃して逃げて行くという形式である。

 

しかし問題なのは、日本軍の、戦闘員ではない一般の中国人婦女子や老人との接し方である。日本軍は一般の中国人男性を苦力=労働力としてあれこれ酷使し、女性は性奴隷にするのだが、最大の問題点は最後には彼らを殺してしまうということである。そして村も焼き払ってしまう。つまり南京大虐殺は中国のあちこちで日常的に行われていたということである。日記の記述から人情味がありそうな東史郎であるが、その東史郎でさえ、刺突を4回行ったようだ。東史郎は戦後南京に出かけ、土下座をして謝ったというが。

 

だから戦後中国から帰還した日本軍人が、戦争について何も語らず、PTSDになった人が大勢いたということは十分に頷かれることである。しかし一方で、そういう暴虐行為をやっておきながら、やらなかったと嘘をつき、平然としている人も少数ながらいる。それが右翼である。

 

 

感想 東史郎が1937年の日支事変以降の従軍日記を公開したところ、そこで描写される郵便袋事件*は事実ではない、名誉棄損だと訴えられ、最高裁もそれを認めて、東史郎は敗訴したという。

 

ちょっと待って。明治以降の日中関係はどうだったのか。どちらの方が攻撃・侵略したのか。戦場になったのは日本ではなく、中国だったのではないか。中国が日本を攻めたのは13世紀の元寇くらいでは。

 

日本は日清戦争では多額の賠償金と台湾を、日露戦争では中国東北地方の鉄道沿線や港町を(それに今問題となっている尖閣を)奪い、満州事変では敢えて戦争をしかけ、満洲国の独立を装って中国の東北地方を奪い、平頂山事件では部落の女や子どもや老人など3000人を、一か所に集めて機銃掃射し、1937年以降の日支事変・日中戦争では、本書で示されるように、部落に取り残された民衆を刺突・強姦し、極端な場合には遊びで人を殺した(*郵便袋事件)。それが名誉ある「皇軍」の正体だったのでは。それに郵便袋事件の当事者は、その事実を認めているらしい。それは正当な戦争行為だと居直って。(1988年、香港テレビのインタビュー)

 

 

 

メモ

 

292 謝罪のために南京を訪れた日本軍兵士は東史郎が最初。1987.12

 

293 石原慎太郎・衆院議員は「南京虐殺はなかった」1990.10と堂々とうそをついていた。その責任は重い。石原慎太郎・衆院議員は、米誌PLAYBOY9010月号、日本語版11月号)のインタビューで「日本軍が南京で虐殺を行ったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。」

294 板倉由明*は、笠原十九司編の教科書『世界史B』一橋出版から、『東史郎日記』からの引用部分の削除を再三要求。一橋出版はそれに屈して19941月、『東史郎日記』からの引用部分を削除した。

 

*板倉由明 元将校の親睦団体・偕行社が刊行する『南京戦史』の編集委員で、『月曜評論』1993.5.17に寄稿している。

 

東京地裁判決(1993~)1996.4は『東史郎日記』を虚構と認定し、東史郎、下里正樹、青木書店の三者に各50万円の支払いを命じた。293

東京高裁判決(控訴棄却)(1996926日~)981222日は、江沢民国家主席の訪日1125日のため、当初の1126日から1222日に突然延期された。272

 

Wikiによれば、元分隊長の「西本」(仮名)は、板倉由明らに唆されて提訴したようだ。

またWikiによれば、一審で東らが敗訴した理由の一つは、東がガソリンや手榴弾をどうやって郵便袋につけたのかを、記憶が薄れてしどろもどろの供述しかできなかったからと思われるとしている。しかし私はそんな小手先のことよりも、時代背景の方が強い要因だったと思う。

 

294 19938月、日本で初めて侵略戦争を認めた首相は細川護熙だった。「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している。」それが村山談話1995.8.15へと引き継がれたはずだ。また細川護熙首相以前に、日本の首相が侵略戦争を認めてこなかったことこそがおかしいのでは。

そしてこの細川侵略発言に反発して、産経新聞に意見広告が掲載された。「細川首相の歴史認識に疑問があります。日本は侵略国ではありません!」(19939月)

 

295 筆者任世淦は、自転車で中国各地を回り、『東史郎日記』の中国版(江蘇教育出版社993月)の記事と、各地の生き残りの人々の証言とを突き合わせ、『東史郎日記』の事実を検証した。

 

笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

  笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書 2025     FB(Meta) で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。   後記  Meta が「ヘイト」と指摘する理由は、どうもイスラエルや米批判を問題としているらしい...