2025年6月19日木曜日

『平沼騏一郎 回顧録』1955

 

『平沼騏一郎 回顧録』1955

 

 

機外開館談話録

 

本書は1955年刊行であるが、平沼騏一郎が1942年のころ、平沼は186710月の生まれだから、75歳のころ、数人の聴衆を集めて、自らの人生を振り返って口述筆記させている。

 

第一回の口述1942.2.10で、平沼は自分の家の家系が徳川家であると自慢しているのかと思ったら、それも半分そうかもしれないが、実は、封建の家臣関係を現代の君主制の時代にも生かせ、ということであった。それは臣下の君主に対して敬意を表する行動となって現れねばならない、つまりそれは「行」とならねばならないということらしい。そしてこの「行」は、当時の国民学校教育論にも通じる。しかも平沼自身が、行を重んじる「修養団」の団長だった002とのことである。ところでこの修養団は現在でも存続していて、大企業の新入社員教育で採用されていて、寒中、伊勢の川の中に入り、ふんどし一つで水をかけあって雄叫びをあげるらしい。戦前は反省もなく続いているのである。しかもそれを内閣府がお墨付きを与えているのである。Wiki

 

 

 第二回口述1942.2.17 一回目の一週間後。まとまりのない逸話が多い。御祖母さんが教育熱心で、どこかで漢詩を覚えて来て、騏一郎に教えたという。

 

 

メモ

 

009 明治天皇は維新当初幼少であったが、政治を神武天皇つまり祭政一致に戻すと詔書に書いた。

010 また教育では、大学令で、倫理は東洋*に求め、神典・国典は皇道国体を尊重し、理屈や利用は西洋に求めるとする。*大学令の原文には「東洋」云々は書かれていないと思われるが。

ところが明治5年の学制改正で、西洋の学問特にフランスの学問をまねしたことがよくなかった。「万機公論に決すべし」は、西洋の民主主義とは違う。

 

感想 なぜ神武天皇の神話がよくてフランスなどの西洋が駄目なのかについての説明はなく、ただそう断定するだけである。

 

011 家庭教育にまつわるエピソード。

013 果し合いという武士の作法。妙な話。一部途中論旨が通らない。

016 幕府は非だが、悪いとは言えない。鎌倉幕府が成立するころ、公卿は堕落していたからである。公卿は空威張りであった。大江廣元など、頼朝は京都に行って天子を助けるべきだという考えもあったが、公卿に陥れられる恐れがあった。鎌倉幕府は政治(権力)ではなく、検事総長のようなものである。

017 私の藩には学者が多かった。宇田川玄髄、玄真、榕庵の祖孫三代、箕作阮甫などは、いずれも蘭医だった。

018 西洋をまねて精神を捨てたのはまずかった。

 

 

感想 2025419()

 

「新しい戦前」の「戦前」とはどういう意味なのでしょうか。それは尊皇攘夷である、と本書の中の平沼騏一郎の言葉の端々から感じます。平沼の凝り固まった西洋排斥と自画自賛を感じます。

 

欧米を嫌う。それはそれまで大事だと思っていた封建君主や天皇の尊厳をないがしろにするからである。江戸時代においては、武士は君主のためなら命は惜しくないと考えていた。そして天皇はその上に立ち、肇国神話とともに祭り上げられていた。また自分の名誉のためには命をかけても決闘するという命が軽視されていた時代でした。

 

自分達がこれまで享受していた権威のよりどころとしての天皇を批判する外来思想である共産主義は、自らの権威を貶めるものとして、断固粉砕の対象となった。そこには合理的な理由はなく、権力者としての自らの立場の維持・存続しか念頭にない。

 

 

 

途中飛ばして…

 

 

第七回 幸徳事件 1942421

 

感想

 

これは犯罪事実に基かない思想弾圧そのものである。取調べの中心であったと思われる平沼騏一郎自身も、犯罪事実がないのに処罰していいものかと逡巡していたようだが、何としても天皇の身の安全を考えて、犯罪事実もなく、死刑を宣告したのである。そして事件は極秘にされ、ごく少数の関係者だけが裁判に関わった。

 

また取り調べの過程で幸徳に対してその思想・主張を変えさせているが、それこそ思想弾圧である。つまり天皇に対して敬語を使わせようにしている。

 

幸徳事件の直前のころから司法の実権が検察に集中し、平沼らだけで本裁判を進行できるようになっていたことも、平沼らが本裁判を恣意的に進めるうえで好都合だったようだ。

 

 

057 大逆事件の一番首領は幸徳秋水である。(根拠のない決めつけ。)

秋水は日本の政治組織を破壊するには皇室を破壊せねばなるぬと大逆を企てた。(前半はその通りかもしれないが、後半の「大逆を企てた」という証拠はない。)熊本、紀州(新宮)など諸所に連累がいた。信州で爆弾の製造1910.5.25をしていた。三家重三郎が長野の検事正で、この爆弾製造を探知して(私の所に?)飛んで来た。三家も「ひょっとするとかつがれるかも知れぬ」(このことは確たる証拠がないことを示している)と云って、(云うが、)そのままにする(不問にする)のも、(もしそれが本当(天皇の爆破)なら)大変である。それだけの端緒(某の爆弾製造・実験)があれば取り扱わねばならぬと(私は)考えた。

 

大逆事件は検事総長の主管である。その指揮を受けねば検事は働けぬ。そこで事件をどう扱うかということを評議した。

事件が本当であれば(天皇を爆破するという計画があれば、ということだが、その事実はなかった)秋水は首魁に違いない(これは事実に基かない臆測にすぎない)。先ず幸徳を捕えなえばならぬ。(警察に)聞くと温泉地にいるという。逃げるといけぬから顔見知りの警察官を遣した。秋水は果たして逃げる計画で、馬車に乗って逃げようとしていた(悠長に馬車に乗ることが、どうして逃げると言えるのか。逃げるのなら警官を避けようと走って逃げるのではないか)。それを捕えた。幸徳が逃げるようなら事件は確かである。(手配した馬車に乗って、宿から帰路に就こうとしていたことを、たとえ逃げたと解釈しても、逃げることでは犯罪事実を証明できない。)そこで熊本、紀州、信州など多方面に亘って検事を派遣し、一味を一斉に検挙した。(これは以前から尾行していたということだ。)

 

その時の総理は桂太郎(第二次桂太郎内閣1908-11)で、内務大臣は平田東助、司法大臣は岡部長食であった。下手に各府県が手柄争いをしてつつくと困るから、「各府県知事は検事総長の指揮によれ」と内務省から訓令を出し、秩序よく運んだ。(シナリオ通りに裁判を遂行したい、という意図が汲み取れる。)

 

予審は大審院でするのであるが、大審院判事では心もとない。そこで東京地方裁判所長の鈴木喜三郎に通じて大審院に命令させ、潮垣太郎を予審判事としてやらした。

 

この事件の進行を知っていたのは、岡部長食司法大臣、平田東助内務大臣、警保局長、司法省では民刑局長の私と次官、大審院では板倉松太郎検事、地方裁判所では小林芳郎検事正、それに潮垣太郎だけで、他には誰も知らなかった。(ここでもシナリオ通りの裁判をやりたいという意図が伺われる。)

 

本件に関係したのは検事の小山松吉であり、小原直も少し関係した。予審を始めてから終結まで8カ月、大審院の特別公判が終わるまで10カ月。あんな大事件が10か月(の短時日)で(首尾よく)済んでいる

 

 あの事件について検事総長が総指揮官であるが、中途でチフスに罹り、私が大審院検事でやった。(平沼が実質総指揮官だったことが分かる。)小林芳郎検事正の部屋を本部とした。(私が)報告を聞いて翌日の手配をする。大事件は(私一人が)総指揮をせねば、事件をチヤチヤポチャにする。大きな事件を(私以外の)各検事が勝手な事をしては洩れる。(裁判をシナリオ通りに進めるための秘密主義)帝国人絹(事件)の如きがそれである。

 

059 大逆事件は内容が大事件であるから記録が葛籠に一ぱいあった。普通にやれば弁護士は事件謄写に一年かかる。私は弁護士花井卓蔵に「予審が終結したから君が弁護してくれ」と話した。…

 

私は(花井弁護士に)「彼ら(幸徳ら)の信念が(犯罪の)動機である」と論じた。(信念や思想は犯罪事実とは異なる。それを犯罪と結びつけることの中に、すでに思想を犯罪とする治安維持法の前触れが見られる。)花井は「そうではない。官憲が圧迫するのが原因である。これを防止するなら官憲が圧迫せぬようにせねばならぬ」と論じた。

 

官憲の圧迫というのは、これより前に赤旗事件があった。いかに官憲が圧迫したからとて、陛下に危害を加えることは問題にならぬ今のように(従来のようにという意味か。)あんな大事件を取り扱ったら漏れて纏まるかどうかわからぬ。10年くらいかかるだろう。

 

 あの事件で私が深く注意したことは後に「みっともない」(被告が天皇に敬語を使わないこと)証拠を残したくないと考えたことである。彼らは「天皇陛下」という敬語を一切使わない。そこで「敬語を使うまで「説得」(=拷問)せよ、敬語を使わぬ調書は取るな」と(部下に)注意した。初めはなかなか強情だったが、(拷問を加えると)後には敬語を用い出した。終には「陛下御聖徳はよく知っている。我々の主義は通っても陛下は無事である。しかし政治上の権利は用いられないように」と言った。

060 (最初は)「陛下の御聖徳は知っているが、倒さねばならぬ」と、(幸徳は)ひどいことを言っていたが、後には「倒さなくとも主義さえ通ればいい」と言っていた。

 

紀州の(一味の)親が言うところの息子の言葉は信用できないし、証拠にならない。検事が親に無理に言わしたのだから、いい参考になるが、裁判では用いられない。小林(地方裁判所の小林芳郎検事正)は強いことが好きだから、親に言わせたのを(証拠として採用して)いいとしたが、最終的に私の意見に同調した。

 

 司法大臣の岡部(岡部長食)は地方巡廻していて裁判に関与しなかったことがあったが、私は是非一緒に当たってくれとは言わなかった。

 

 桂太郎首相は非常に心配し、私は毎朝6時に私邸に呼ばれ、前日の事(裁判の経過)を報告した。桂は司法大臣経由でなく私から直接様子を聞きたがった。桂は「あの事件(死刑判決)は大丈夫だろうな」と言った。(やはり桂首相も幸徳有罪に自信がなかったのだ。)私が「間違っていたら腹を切る」と言ったら、桂も「お前が切るなら俺も切る」と言った。陛下には始終桂総理から申し上げていた。

 

061 桂首相は私に「天皇(陛下)が判決結果を誰よりも先に知りたがっている」と言ったが、(私は)「判決の言い渡しは憲法で傍聴禁止にできぬ。判決が済むと(済んだら)電話で知らせる」と言った。あの当時は厳重であった。(これはどういう意味か。憲法遵守が厳重という意味か。)

 

 被告は死刑にしたが、中に三人陰謀に参与したのかどうか判らぬのがいる。(他の全員もはっきりしなかったのではないのか。)死刑を言い渡さねばならぬが、ひどいと云う感じを有っていた。陛下に減刑の御沙汰の気配はないかと、桂さんから申し上げてみた。そして特赦することになった。陛下はこの三人は特赦してよかろうが、他にはもうないかと仰せられた。他にはないと申し上げた。それならよかろうと仰せられ、三人特赦と定まった。その中の忠臣の一人は「自分は第二の爆弾を投げる役であるが、私にはできません。その時には平伏します」と言っていた。(忠臣という作り話ではないか。爆弾を投げる役まで決まっているなら、死刑相当ではないのか。)

 

感想 2025422() 平沼騏一郎は下々を見下す冷酷な男。治安維持法制定時1925の首相は加藤高明だったが、平沼など司法官僚の意向が反映された。頷かれる。思想弾圧犯だ。よりどころは天皇(陛下と呼ばないと気に入らないらしい)。平沼は軍部や右翼に礼賛されたが、首相になったのは遅れて1939年である。1939.1.5-1939.8.30

 

検事総長 1912.12.21-1921.10.5 9年間

大審院長 1921.10.5-1923.9.5 2年間

司法大臣 1923.9.6-1924.1.7 4か月間

 

内務大臣 1940.12.21-1941.7.18 7か月間

内閣総理大臣 1939.1.5-8.30 僅か8か月間

 

 公判で被告(幸徳秋水)は大人しかった。(大人しくさせられていたからではないか。)(幸徳は)反駁はするが礼儀を以てした。私は「日本臣民としての心得違い、悪い(英仏の)教育を受けた結果、陛下の赤子でかくなったのは憐れむべき事だ」と(幸徳に)述べた。最後まで幸徳は罪を逃れたがった。(罪を逃れようとしたのではなく、濡れ衣だったからでは。)公判で(幸徳は)「私の主義が行われても皇室は御繁栄を願う。しかし政治上の権利はお捨てになるように」と言った。

 

062 今の検事や警察官に注意すべき点はここである。今は悪い者は(を)無性に叩く(拷問)。これでは(内心だけでなく)形(表面)の上でも(被告は)服さぬ。(公判前に被告を)罵倒すれば、公判でひどい事(拷問されたこと)を言う。これを教育せねばならぬ。自分が怨まれるのはいいが、しかし陛下の命でするのであるから、これは惹いて陛下を怨嗟することとなる。自分の事のみ考えてはいかぬ。(拷問ではなく優しく教育せよということか。本当か。)

 

 また一面から考えると、どんな悪事をした者も、陛下の赤子である。陛下が特赦のとき、「他にないか」と仰せられたように、(陛下には)洪大無辺のお慈悲がある。(それは有難いのではなく、当然のことである。)

 

 大逆事件は骨が折れた。自分は勲章を辞退した。自分は(勲章を貰うなんて)絶対にいかぬ。他の者にも御辞退になることを忠告したい。この事件は国民全体がお上に対して恐懼措く能わざる処である。これで勲章を貰うことはできぬ。(もったいぶる。)

 

 あの事件では骨折りの賞与があった。(私は)「大審院長は、部下の(が)公判をしたのに、(大審院長に)賞与を多くやりたいならやるがいい。しかし検事が一番骨折っている。表面は公判が中心であるから互いに賞与を与えるのはいいが、検事や予審判事より多くやるのはいけぬ」と言った。私などもこの時は多くの賞与を貰った。

 

 私はあの事件でも考えた。どうしても教育が大切である。幸徳は漢学ができ、国学が出来、フランス語、英語もできた。(フランス語や英語はやらないで)漢学だけで終わっていたら、ああいうこともなかったであろう。(タコつぼ教育の兆候はすでにここにある。)

 

063 後に議会で質問があった(された)。司法大臣は答えなかった。桂さんが平沼を呼んで来いと言われたが、私はちょうど他所に行っていたので、桂さんが答弁をした。

 

 取調べの時、菅野スガ子が武富検事に灰皿を投げようとした。後に菅野は武富に対して、「そんな調べ方をしてはいけません、私は何度灰皿を投げようとしたか知れません、そんな調べ方をしていると、命を失いますよ」と言った。(何を言いたいのか。検事が苦労したと言いたいのか。)

 

以上、幸徳事件終わり

 

 

 

第九回 1942519

 

 

平沼は(日本における第二次大)戦後の「思想戦」を予測しているが、その(「赤」=共産党や民主主義との)思想戦に(自らが確信する国家観が)勝利するためにはどうしたらいいのか、平沼自身がよく分かっていないようだ。平沼は戦後に起り得る思想戦に恐怖感を懐いているとさえ言える。そしてその恐怖感のために平沼は治安維持法制定に献身した。普選導入がそのテコとなった。普選を推進する犬養が賛同を求めてやって来た時、平沼は犬養に治安維持法制定への賛同を約束させた。

 

平沼は「日本で赤い思想を防ぐに就いて効果があったのは、治安維持法があったからである」と語っている079。このことは「思想戦」に勝つためには弾圧しか方法がないと認めていることを意味するものであり、したがって言論による思想戦そのものでは、すでに降参していたと言える。

 

079 私は司法省にいる時(治安維持法制定について)考えていた。欧州では共産党の結社を認めていたので、日本にも(共産党が)できると思い、法律で厳禁することが大切だと(司法)大臣に言ったことがある。しかしこれはなかなか行われなかった。行われる機会を得たのは普選実施の時である。それは山本内閣の時で、(加藤高明では?)犬養が普選の主張者だった。犬養は議論が巧みで、山本も之を排斥することができなかった。犬養は私が(普選に)反対すると思って私の処へ来た。その時はどうしても普選になる事情であった。そこで私は「それ(普選)に同意してやるが、(私が)共産党の結社を禁ずる法律を出すが賛成するか」と言うと、「賛成する」と答えた。かくして次の若槻内閣(田中義一では?)の時普選となった。このとき枢密院で(私が)「共産党の結社禁止をやらねば普選に同意せぬ」と言ったので、遂に若槻が同意した。

赤は悪い、撲滅せねばならぬと言いながら、それを増長するようなことをしている。共産主義を蛇蝎の如く嫌いつつもそれを行っている。有識者階級に於いて…。独逸の国家社会主義を実行すればそうなる。独逸人自身でも(国家社会主義は)赤とそう違いはないと言っている。

 

 

第二次山本権兵衛内閣1923.9.2-1924.1.7

清浦奎吾内閣1924.1.7-1924.6.11

加藤高明内閣1924.6.11-1926.1.30

第一次若槻禮次郎内閣1926.1.30-1927.4.20

田中義一内閣1927.4.20-1929.7.2

第一回普選1928.2

 

平沼は政治家や学者が西洋かぶれだと嘆いている。「今後思想戦がどう展開するか。どうも日本人は西洋かぶれをしたがる。殊に地位に在る人――政治家と云われる人、学者と云われる人がそうである。」077

 

禊(みそぎ)の「行」なるものを推奨したのは平沼だった。平沼は修養団の第二代団長をしている。禊の行は、平沼が推奨する思想を錬成するための方法であるという一種の思い込みなのだろう。またその錬成方法に一定のやり方がある訳でもないようだ。

 

平沼が推奨する思想とは、漢学や儒教に根ざした「日本固有の国体」思想らしい。073

平沼は「義理」、「信念」、「本当の処」などとしきりに言う。それに対するのが、平沼が「考証」と言うところの実証的な学問方法であるようだ。平沼によれば、義理を研究したのは宋学、朱子学、陽明学であり、それは日本では江戸時代に相当する。

日本では1880年から1887年までの平沼が幼少のころ、民主主義がしきりに言われ、天皇主権は陳腐だとして人民主権が唱えられたと平沼は不満を述べている。074

平沼は理屈が嫌いのようだ。「理屈ばかりが達者になっても困る」075

ナチスへの傾倒もあったようだ。「一時は民主説とか国際説とかにかぶれた。近頃は英米崇拝をやめて独逸崇拝となり、ナチスにかぶれている」077

「国家社会主義はソ連の赤とそんなに距たりがあるものではない。日本の国体に反する点はほとんど同様で共々に害を流すものと思う」078

平沼は自らの国対思想に関して「国体と祭政一致」という所見を書いた。078

 

 

「理屈ばかりが達者になっても困る」075という表現の中に、討論や話し合いなどの議論を好まない態度が現れている。

 

平沼は独善的である。禊の行を重視すると言っておきながら、「自分の言う通りにしないとだめだ」=「いい指導者でないと有害だ」077と独善的である。また同じ文脈で、実行重視といっておきながら、実行すれば「真似事や、はやり事ではだめだ」、「自慢するような座禅は有害だ」などと細かい。

 

 

第十二回 1942613日 

 

海軍軍縮問題、統帥権問題、治安維持法死刑改正、不戦条約文言「人民の名において」の削除。

 

当時平沼は枢密院にいたらしい。

 

検事総長   1912.12.21-1921.10.5 9年間

大審院長   1921.10.5-1923.9.5 2年間

司法大臣   1923.9.6-1924.1.7 4か月間

貴族院議員  1924.1.9-1924.2.7

枢密院副議長 1926.4.12-1936.3.13

枢密院議長  1936.3.13-1940.12.21

内閣総理大臣 1939.1.5-8.30 僅か8か月間

無任所大臣  1940.12.6-1940.12.21

内務大臣   1940.12.21-1941.7.18 7か月間

 

枢密院は天皇の補佐機関。それに対して貴族院は議会であり、皇族、華族、勅撰議員などの特権階層の議員で構成。

 

 

(治安維持法の死刑改悪1928や、潜水艦問題があるからロンドン軍縮会議1930.1.21-4.22だろう。ワシントン軍縮会議1921.11.11-1922.2.6では前過ぎる。)海軍軍縮会議の時の総理1929.7.2-1931.4.14は浜口雄幸で、「なかなか面倒であった。」「浜口は遂にこの為に狙撃された。」(テロの擁護か。)

 

若槻禮次郎が全権で、財部彪海軍大臣)が副だった。最初海軍(加藤友三郎*)は英米の提案に「手を付ける」つもりだった(文句を言うということか)。私は海軍に招かれてその時間(会議に)いた(同席した)。新聞にもそう(英米に反論するように)書かせた。加藤寛治・軍令部長が「どうしてもこれでは戦ができぬ」と言い出した。(私は)この時の財部彪(副全権)の態度はおかしいと思った。(英米に)譲るように見えた(からだ)。

 

*加藤友三郎

 

第一艦隊司令長官(日露戦争時か)

海軍大臣 1915.8.10-1923.5.15

ワシントン軍縮会議全権大使 1921

内閣総理大臣 1922.6.12-1923.8.24 在職のまま死去。

 

なぜ加藤友三郎を括弧の中に書いたのか。加藤は昔の人なのに。19238月に死んでいる。

 

私共もそんな屈辱の条約を結ぶことはいかぬと思った。ところが途中で方針が変わり、英米の言いなりになった。(もし)枢密院で条約を否決すれば、内閣と枢密院が衝突し、内閣が倒れるか、枢密院が総辞職となる。またこれに関連して統帥権の問題も起こった。

093 浜口は(軍縮条約を)明らかに内閣が決めるものだといい、統帥部は兵力の問題は統帥部できめるものだと主張した。

 

 ところが陸軍当局は最初は強く言っていたが、後に弱くなった。

あの時加藤軍令部長が、陛下に意見を申し上げようとしたが、鈴木貫太郎*が「そういうことはできぬ」と阻止した。(*鈴木貫太郎は海軍大将)

 

 この条約を(英米に対して)蹴ると、(英米との)製艦競争になる。そこで方針を変更し、新聞にその旨を盛んに書かせた。(この問題が)枢密院にかかった時には、軍令部も同意した。(その理由は)比率は英米の言うままにしておくが、こういう設備(潜水艦)をすれば(英米に)対抗できるという条件をつけた(英米に了解させたということか)。今日の潜水艦はその時に設けられた。

 東郷は(英米に対して)強硬だったが、会議の時には、「その条件(潜水艦)をつければいい」と言った。

 

 私は枢密院で統帥権について浜口さんに謝らせた。(統帥権は統帥部にある、と謝らせたということらしい。)

世間は枢密院があくまで反対すると思っていた。(英米の兵力比案に対して反対という意味か)

 この時、伊東巳代治は内閣を罵詈(ばり)した。

 

 

1930年から少し時代を遡って19286月に)治安維持法を、「日本の国体を変えようとすれば死刑に処す」と変えた。原嘉道司法大臣*は(死刑に高めようと)熱心に考えたものだ。当然だ。しかし民政党が改正を阻止しようとし、内閣を倒そうと、枢密院に手を回した。そのため我々と同意だった者も意見を変えた。伊東(巳代治)は出てこなかった。おそらく手を回されたのだろう。*原敬司法大臣1918.9.29-1920.5.15だとすれば時代が合わない。原嘉道司法大臣1927.4.20-1929.7.2である。

 

 

094 (1年遡って1927年、)台湾銀行問題で、枢密院が(第一次)若槻内閣1926.1.30-1927.4.20を倒した。(若槻は)議会に出すのが面倒で、閉院式後に緊急勅令を出したので(枢密院が)否決した。そのため内閣は辞職した。(Wiki第一次若槻内閣参照。)

 

 田中義一内閣1927.4.20-1929.7.2のとき、不戦条約1928.8.27の約文中の「人民の名において」という一句を削除して批准した。

 

私は田中に「あれではいかん。」田中「みんながいいと言っているではないか。」私「取れ。」田中「皆が取れというのか。しようがなければ取るか。お前の周囲の連中は判らぬ連中だな。」

 

この時は伊東巳代治をつかまえればいい。それで通してもらおうとした。伊東もやかましかったが、下相談すると弱くなった。(意味不明)

 

「人民の名において」という一句を削除した。条約は全部批准するか否決するかのどちらかである。一読会*だけで二読会はしないものだが、今回は二読会した。例のないことである。(*三回の読会のうち第一回目の読会。議案の大体について討議する。現在の国会法にはその規定はない。)

 

 

枢密院で幣原外務大臣が発言しようとすると、若槻首相がそれを抑えて、自分が発言した。

 

第一次若槻禮次郎内閣 1926.1.30-1927.4.20

第二次若槻禮次郎内閣 1931.4.14-1931.12.13

治安維持死刑法1928.6.29

不戦条約 1928.8.27

 

感想 「人民の名において」という文言の削除。よっぽど「人民」が嫌いらしい。

 

 

第十七回 昭和181943223

 

感想 鎌田慧さんが、大杉栄『叛逆の精神』平凡社ライブラリー2011の解説の中で、平沼騏一郎らによる、幸徳秋水らに対する言論弾圧の例として取り上げていた言葉を遂に発見。

 

「我々の任務は赤を逞しう出来ぬやう、撲滅するやうにしなければならぬ。」121

 

これは平沼騏一郎の言葉だった。『平沼騏一郎 回顧録』1955 機外開館談話録 第十七回 昭和181943223

 

 

メモ

 

115 いつも世の中の変わり目には悪い者が出て伝統を壊す。明治維新のころの排仏希釈がそれだ。仏教も儒教も皇道を輔翼したのだ。

 

116 儒仏は日本化したが、西洋思想は日本化されなかった。明治維新前後に西洋に留学した人々は、西洋に感服した。西園寺や松田正久がそうである。松田正久は日本をスイスのようにしなければならないと言っていた。後では変わったが。これは皇室を無視している日本人には伝統の血が流れているから、こんな(西洋の)思想を逞しくすることはできない。西園寺も(最近は)皇室を尊ぶようになってきたが、「ああいう輩」は害を流している

 

 私が子どもの頃の日本は、共和政治がいいと考えていた。

 西洋思想、特にソ連の共産思想は、始終攪乱している。耶蘇教の中には天子の写真を拝まないころもあった。共産主義は、皇室などけしからぬと考えていた。しかしそれは今日までカムフォラージュされている(から要注意だ)。

 

117 欧州大戦(第一次大戦)のとき、日本の知識階級はデモクラシーインターナショナルを信奉し、国家主義は古いとされ、国際主義が唱えられ、皇室はあってもいいが、デモクラシーでなければならないとされた。それに真っ向から反対したのは私だ。人々は皇室を「置物」にしようとした。一方私は皇室の神聖を説いた。西園寺は私のことを頑迷だと評した。

 国際連盟協会ができたとき、著名人は皆評議員になったが、私だけはそれに参加しなかった。杉村陽太郎は私が参加しないことを良しとした。

 私は来日した汪兆銘に、「世界平和のためには道義が必要であり、今のように独逸を生殺しにしていれば、後日の動乱の原因となる」と汪兆銘に説明した。謀略戦争に基く平和ではいけない。

 

 「今日の日本の事態」を引き起こしたのは西園寺と政党である。両者は喧嘩をしているが。

 

118 私は「武力でなければ平和は齎せない武力の平衡が必要だ」と言った。しかし西園寺と政党は「事なかれ主義」の、円満な国際関係と平和を唱えた。

 

 満州も「あの通り」(西園寺や政党の言うような、武力を伴わない平和主義)なら、失っただろう。張学良のような小僧にまで見くびられた。

 

 満州事変を起こした動機はよくなかったが、満州事変は「弱い政治」をしたために起った。満州事変は、日本の政権を馬鹿にしたことに乗じたものである。

 

 高橋是清も宇垣一成も、政党に迎合して軍備を縮小した。高橋は「(軍事費のために)8億の公債をつくれば国が亡ぶ」と言った。私は公債を募り、軍備を増強すべきだと思った。「言うことを聞かなければ撃つぞ」と周辺諸民族に言わなければ、日本の権威は保たれなかった。あのとき軍事費を増強しなかったのは残念だ

 

 満州事変の前に私は西園寺に会い、「今のような軟弱な政策をとっていると何かが起こりますよ」と警告したが、西園寺は聞かなかった。「事なかれ主義」(=平和主義)が、満州事変を起こした。山縣が存命中は山縣が尊ばれ、死後は西園寺が尊ばれた。

 

119 私は山縣に「英米追随ではいけない。白色人種は有色人種を仲間に入れない。民族間の戦争が起こるだろう。白人種は有色人種を征伐するだろう。それに対抗するのは日本民族だけだ」と言った。山縣は私の意見に同調したが、それは表向きは言えないことだと返した。

 

 日本はロシアと戦争をしたが、その時勝算はなかった。ただ「緩めてはいけないので、冒険的にやった」にすぎない。(日露戦争のことか。)その反動で満州事変が起った。(意味不明。)満州事変を起こした軍人の思想は私と反対だ。彼らは満州事変を契機に「国内改革」(多分全体主義化)をしようとした。軍人(の)横暴(的行為)は、佐官階級がした。上の者はこれを制すことができない。将官はロボットとなって出世した。

私は「支那事変が拡大するのはいけない」と参謀本部で言ったが、実際は拡大した。拡大しないと「国内改革」ができないからだ。

 

 東条は戦争遂行を唱えるが、腹の中ではそうではない。(東条は)「国内の改革」だけできればいい(と考えている)。東条は戦争名目で、人民を統制しようとする。それは満州事変後に計画していたものである。

 

 軍の一部の考えでは、戦争は目的ではなく、戦争で「国内を攪乱」し、「赤の思想」を普及しようとする。今それをやっている。近衛公はこれに乗ぜられた。近衛公がやめて私がその後を継いだ。近衛公は或る者に乗ぜられた。大政翼賛会を政党として利用し(赤の思想を普及し)ようとした。大政翼賛会に入っているものの中に赤がいた。軍人の中にも赤がいた。

 

120 米内内閣はそのために倒れた。米内内閣は「こういう傾向」を止めようとした。「これ」を壊そうとした。米内は気づかず、「これ」をはねた。ところが二の矢が陸軍からやって来た。畑俊六である。あの時は近衛公も共謀した。これで米内内閣が倒れて近衛公が(内閣に)出た。やがて近衛公は(赤に)気づいて困った。そこで仕方なく私が出た。

 

米内内閣→近衛内閣→私(内務大臣らしい)

 

 私は近衛公に「日本は赤になった。武力革命かどうかは分からないが、革命ではないか。大政翼賛会の天下になれば。皇室は廃止となる。そうなればそれはあなた(近衛)の責任だ」と言った。すると近衛公は「私にはできないので、あなたがやって下さい。翼賛会を率いてやって下さい。(大政翼賛会の)総裁は総理がやるからあなたにはできないが、あなたは副総裁としてやってください」と言った。私は「できない」と突っぱねたが、このままではいけないので、内閣に入ってやろうとした。近衛首相は国務大臣をつくって私をそれに当てた。近衛公は「国務大臣はあなたを内閣に入れるためにつくった」と言った。近衛公は今は堅実になった。

 

 近衛公の失敗のもう一つは三国同盟を締結1940.9.27したことである。私が内閣(総理大臣)のとき三国同盟を計画したが、これは赤の思想を撲滅するためであった。(三国同盟を締結すれば)場合によっては英米を敵にすることになるかもしれないが、その骨子はソ連を相手にするものだった。ところがドイツが(赤の)ロシアと和睦した。私が(三国同盟締結の前に)陛下に申し上げたこと(赤の撲滅)が壊れた。陛下は「お前が悪いのではない」と私を慰めた。

 

121 今日心配なのは戦争の勝敗よりも赤である。東条(自身)は「革命」などしているつもりはないが、分からないからそう「革命」をさせられている。東条にはそのことが分からない。

 

 この前の近衛内閣の時は危なかった。私は内務大臣になると、赤を潰すことと涜職官吏を征伐することに集中した。その時一番働いたのは萱場軍蔵、橋本清吉、村田五郎、太田耐造などだった。陸軍が、萱場軍蔵、橋本清吉などをやめさせろと言ったが、私は彼らに功績はあるが、罪はないと返した。陸軍は内務省を廃止しようとした。

 

 我々の任務は赤を逞しう出来ぬやう、撲滅するやうにしなければならぬ。私は民間にいてそれをやろうと思う。先ず青年層の教育である。500万の中には、赤の方が多い。

 

 

内閣変遷

 

近衛文麿第一次1937.6.4-1939.1.5

平沼1939.1.5-1939.8.30

阿部信行1939.8.30-1940.1.16

米内光政1940.1.16-1940.7.22

近衛第二次1940.7.22-1941.7.18 平沼は内務大臣。国務大臣(無任所)から転任。安井英二を内務大臣から蹴っている。

近衛第三次1941.7.18-1941.10.18

東条1941.10.18-1944.7.22

 

 

感想 平沼は「事なかれ主義」だと「えらい事」になるぞ、と(某政治家を)脅したとのことだが、この「事なかれ主義」とは欧米との「事なかれ主義」、つまり欧米と波風を立てないこと、武力に訴えない事であり、「えらい事」とは、満州事変など「軍部が不満を募らせて事変を起こすぞ」とか、五・一五事件や二・二六事件などが起こるぞ、という意味である。つまり、平沼はそう言って欧米との平和協調外交を止めるように、(政治家を)脅しているのである。

 

「満州事変は起こしたのではないが、事なかれ主義は事の起こる原因である。猫も杓子も西園寺詣でをし、山縣がいたころは山縣の処へ行き、山縣がいなくなると西園寺に行く」118(満州事変は起こしたのに、起こしたのではないと嘘をついている。)

117

 

 

第十九回 1943323

 

平沼は自分の考えが暴論だ132と自覚しながら、ユダヤ陰謀論を唱える。ユダヤが金銭や資本主義・自由主義を通して欧米を支配しているという。ヒトラーのドイツは違うが。

 

平沼は日本という国家だけを愛する。その中心はいつも皇室である。そして、その定義は明らかでないが、「相対的・絶対的」という対比の下に、日本の皇室は西欧の皇室に比べて絶対的なのだそうだ。

 

 

メモ

 

129 私は国本社の運動をしている頃、ユダヤ陰謀説を唱えた。ユダヤは欧米では先ず経済から入り、次に政治に影響力を持つようになった。英米がそうである。英米がヒトラーを憎むのは、彼がユダヤを憎むからである。

ユダヤは世界を動乱に導いた。

ユダヤは自由主義・資本主義を通して浸透した。米国に金があるのは、ユダヤ人のせいである。

130 日本も西洋の真似をして資本主義・自由主義に入り、それが一時財界や政界を支配したが、我々はそれに反対して憎まれた。

 資本主義・自由主義は日本を支配することはできない。彼ら(ユダヤ人)は日本の皇室を知らなかった。欧州の皇室は、資本主義・自由主義に倒れた。

 ユダヤ人は共産主義と資本主義の両刀を使う。ロシアでは共産主義を用いた。

 日本では皇室と結びつき、「皇室中心主義の共産主義」でもって日本を潰そうとした。

 今日の日本は資本主義・自由主義に負けていない。今日ではユダヤ人は共産主義・赤化主義を手段としている。

131 世界動乱はユダヤ人の魔の手で動いている。欧米の政治家にはユダヤ人が多い。

 

 日本は今統制経済を敷いている。英米もそうである。

 紙幣の価値が高まるように、民衆が物を買い占めるのを止めさせなければならない。今紙幣は金(きん)に交換できない。日本の唯一の(貨幣の)信用は、皇室のあることである。

 今生産してもできるだけ市場に出さないという悪弊がある。それがユダヤ人の考える事である。金(貨幣)を無価値にするのだ。日本がユダヤの陰謀にかからないようにするには、国体を明らかにして、皇室中心主義で国民が一致して働くことである

 金(貨幣)が無価値になれば、民衆は公債を買う気にならず、貯金もしなくなる。それでは戦争ができない。

132 金を貯めて平和になってからその金を使うように、国民を導かねばならない。生産して金を貯めるようにしなければならない。

私の考えは暴論かもしれないが、今までよく当たっている。杞憂になれば幸いである。

 国体を明らかにし、革新をはからねばならない。

 

 私が東条君に統制経済を緩和すべきだと言っても、東条君は動かない。今度(東条君の)顧問ができた。東条君の考えは消えて行われないが。これを断行できるのは東条君が一番だ。自分が一番偉いと思わずにやればいい。

 

133 大体支那人を増長させねばいい。日本に武力があれば、(支那人を)増長させぬようにできる。(中国で)治外法権を撤廃すれば、中国の司法官が何をするかわからないが、自由にさせないようにしなければならない。(今の中国では)赤化運動が一番怖い

 治外法権を撤廃すれば、これまで悪いことをしていた日本人が少なくなるだろう。日本の信用のためにも、治外法権の撤廃を断行しなければならない。

 

 今後日本の製鉄所はスクラップなしでやる。これまで学者に良い発明はなかった。行き詰まったから何とかなる。

 

 

国本社 1921-1936 右翼団体・政治団体。会長は平沼騏一郎。

 

平沼騏一郎も1945814日の御前会議には出席していたようだ。白川一郎画鈴木貫太郎御前会議。ヒストリア前橋絵画展にその記述があった。202555() 

 

 

第二十一回 1943420日 祭政一致の日本

 

137 謙譲の徳を養え。138 慢心では進歩しない。自分より勝った人を憎んではならない。

137 原敬は傲慢で奏任官の頃は人を凌いだ(これは身分序列社会の必然。)が、地位が上がるにつれ謙虚になった。

 

138 ヒトラーやムッソリーニ、蒋介石のような独裁者=天子=君主は日本にはいない。

日本の国政は神慮=天子が握る。臣下は輔翼するだけで、天子になろうとする人はいない。日本では自分の意志で政治をしない。忠義をつくすだけだ。政治家が神慮と合一するためには、禊と行が必要だ

140 藤田東湖は経綸の基礎は敬神だと言った。日本では神と天子とは一体であり、神慮と大御心は一体である。

山岡先生は日本武士道の神髄は思いやりだと言ったが、それは謙譲と一致する。

日本には君主独裁や共和はない。君主は独裁しない。菅公(菅原道真)や大楠公はそれを理解していたが、頼朝や清盛は理解していなかった。

日本には横暴な政治家は出たが、天子になりたがった人はいなかった。

 

 

 

巣鴨獄中談話録 1952424日から同年728日(これは平沼が死ぬ1か月前である)まで 巣鴨刑務所での談話 龜本哲筆記

 

 

メモ

 

第一回 部落差別解放に尽力 部落民は徳川氏は憎んでいたが、皇室は非常にありがたく思っていた。

 

155 四民平等の宣によって「気の毒な村落」に対する差別がなくなりました。(大げさな嘘)

私が役人になって(188821歳ころ)から「中央融和事業協会」ができ、救済することになりました。

156 私が50歳位のとき、その会長になり随分骨を折りました。

私はお願いして、気の毒な村落の人で村落の為に骨を折った人々を(観桜の御宴に)御招き下さるようにお願いしました。

 御召を受けた人々なんぞは泣きまして、「今日はこの我々の如き者を御召しになって、真にありがたい。御菓子を賜ったのを持って帰って皆に分けてやる」と言っていました。

彼らは徳川氏は憎んでいたが、皇室はこのように非常にありがたく思っていた。

 

異議あり これは差別を前提としたお恵みである。対等な関係ではない。部落民を高所から見下している。

 

 

第二回

 

157 西園寺公は明治初年ころフランスに留学した。

だから民主主義は明治初年ころから日本にあった。アメリカと戦争をして(負けて)から民主主義が起ったのではない。

そのため日本の良い所を忘れてしまった。その反動で皇室中心主義が起った。

 松岡政賢は政友会員だったが、明治初年のころは、日本をスイスのようにしなければいかんと言っていた。後には彼は皇室中心主義になったが。

 福沢諭吉は偉い学者ですけれど、西洋と交流するようになってから思想が乱れた。何でも西洋でなくちゃならんと思うて、楠公父子の討死は権助の首縊りと同じだと言った。その当時は学生達もそうだといっていたんです。随分人を侮辱した話です。そんなことを勝手に言ったもんです。

158 西園寺公はフランス革命の思想を受け継いだ。帰ってから、そういう説を唱えて雑誌等にも書いていましたが、宮内省から叱られて止めました。(言論統制)

 

 それで段々議会を開かんならんという声が盛んになってきた。つまり民主政治にせんならんということです。

 

 

第三回 

 

 

160 女性蔑視 「女に政治をまかせたらろくなことはない」と言いつつ、差別はしていないと言い切る。

 

「日本は男尊女卑だと西洋人はいう。しかし日本は昔から、違った意味で女の人格も地位も認めているので、それは軽蔑しているのではない。政治には関係しないように(女に)戒めていた。女が政治のことに出しゃばるとろくなことはありはしない。それは軽蔑したのではない。今(戦後)は(女が)政治に関与しているが、その時代(戦前)は女を政治にも兵隊にも使わなかった。

 今では女なんか(を)兵隊にしますが、女では何もできない。何も軽蔑してはいない。男尊女卑といいますけれど、実際の事とは違っております。まあ西洋ではそういった(男女同権)でしょうから、少し女なんぞも外に出すのがよかろうというので(鹿鳴館時代には)ダンスをやった。我々の先輩は真似をしようという訳で、真似をしたんです。」160

 

162 「とにかく条約を改正するために、法律や服装、風俗などを西欧化したのだが、その効果はなく、武力(国力)の重要性に気づいた」というのだが、それ以前の日本は武力に頼らない平和愛好の国際協調国家だったとでもいうつもりなのか。

 

「初めは西洋人に屈従して恥をかいても条約改正だけはやらんければならんといってやったんですけれど、いくら踊りを踊ってみせても、法律を改正しても、(欧米は条約改正を)やってはくれない。そこで考え出して国力(武力)を充実しなければならぬということになった。」162

 

メモ

 

159 治外法権の撤廃には殊に英国が反対した。英国は日本が未だヨーロッパの文明に遅れており、風俗が白人と違っていて、法律が東洋流で、ヨーロッパ人をそれで裁かれては困るといったが、それは口実だった。

 

 日本の要路におった人々は、ヨーロッパの言うように、法律をヨーロッパ風に変え、風俗はヨーロッパ人に嫌がられぬように、政治、社会、学事、教育の方面も、それに順応するように仕向けて行った。

 それが鹿鳴館時代で、明治178年、1884年、85年ころである。盛んにダンスを始め、ヨーロッパのやるような交際ぶりを奨励した。西洋人も一緒にやった。伊藤さんなんぞ盛んにやったもんだ。山縣さんなんかも鹿鳴館に行って、仮装何とか言って芝居みたいなことをやった。チョンマゲのかつらをかぶって大小を差して行かれた。その時から山縣さんは顔をしかめる癖がついたということです。

 

160 日本の男尊女卑批判(既述)

 

161 法律は大化のときに支那の制度に倣ってできたので支那風である。一番西洋人が心配するのは刑法であるが、それは支那のままではない。支那のままであった新律綱令を改めて、改定律令を定めた。これは余程西洋流になっとります。それから西洋人を雇って改正に務めた。

 

 仏人ボアソナードを顧問に雇って、民法はフランスを手本にしてつくった。ナポレオン・コードである。ボアソナードは顧問であったが、実際は編纂主任だった。

 

 それから司法省に法律学校をつくった。アッペルというフランス人が一切教えていた。フランス語で教えた。私なども、大学では英語で説明された。本でも教材でもみな英語だった。私はその時分はで(英語が)きたが今は駄目です。読むことは読めますが…

 司法省の法律学校も予科から本科までフランス語でやっとった。刑法は明治141881年に改正になった。それが今の刑法の前身のまた前進位のものです。大体ヨーロッパ風の刑法です。

 

162 法律の改正は条約改正のためにやるのが主な理由だった。法律取調委員の主管は最初外務省に置いたが、後に司法省に移した。私どもが司法省に入ったころには司法省にあった。(既述)

 

条約改正のための国力(武力)の充実(既述)

 

気づくのが遅かった。最初の(ヨーロッパ人の)機嫌を取る方がよいという考えも、そう悪くはいえませんが、どうしても武力がなくてはならない。陸軍を拡張し、海軍も艦をつくった。艦は最初は小さいもので、支那の艦隊にもかなうようなものはできていない。この支那との関係は難しくなってとうとう日清戦争になった。

 

 

第四回 大津事件

 

敗戦7年後の1952年、平沼騏一郎は巣鴨刑務所内で、恐らく仲間や部下に対して回顧談を語ったようだ。文体からして、取調べではないように思われる。

戦後になっても、彼の皇室崇拝の精神構造は変わらないが、「赤」に対する攻撃性は弱まったようである。というのはそういう内容の回顧談が今のところ出てきていないからなのだが。

 

この回顧談の中で大津事件に関する回顧談は詳しい。これは基本的に皇室美談であるが、逆の観点からすれば、皇室が存在するがために却って政治家自らの自主的な判断能力の育成が遅れた、ともいえるのではいか。

大津事件1891.5.11は、恐ろしい強国ロシアの皇太子殺傷事件であった。事件後伊藤は周囲に怒りまくり、政治家・官僚は右往左往するばかりだったが、結局天皇の意見を聞いてそれに従い、天皇が京都に出向いて皇太子に面会して問題が解決する。

その後天皇がロシアの軍艦から招待されたとき、政治家や官僚は恐れをなして行かない方がいい、いや行ったほうがいい、と喧嘩騒ぎをするばかりだったが、結局天皇が行くと言ってそれで解決。

政治家や官僚の中にも自主的な判断ができた人もいただろう。それはこの文章では、大審院長だったと思われる。大審院長は犯人に対する量刑に関して、検事総長が大逆罪並みに死刑を主張したのに対して、ロシア皇太子は民間人として、無期刑にした。

この事件は平沼がまだ駆け出しの官僚だったころのようだ。平沼騏一郎(18671025日-1952822日)が弱冠23才のときである。平沼は1888年、司法省の参事官試補として入省、1890年、判事補となり、その後判事となったとWikiにあるから、判事補か判事だったころだろう。

 

 

メモ

 

163 露国の皇太子が日本に見学か視察に来られた。この方は後にロシア共産党に殺され、お祖父さんもロシア虚無党に殺された。その皇太子が、津田三蔵という(皇太子警衛の)巡査に刀で傷つけられた。

大津の道が狭くて、皇太子は馬車でなく、人力車に乗っていた。

 そのころロシアの脅威はひどかった。

 皇太子の接伴役は有栖川宮と、海軍にいた威仁親王で、終始皇太子と一緒にいた。藤井較一は有栖川宮の御付武官で、後に海軍大将になった人だが、当時は少佐か大尉だったろう。その時の事情をよく知っている。私はその人からよくその時の事情を聞いた。

 

164 有栖川宮は事件直後明治天皇に電報を打った。東京が震駭した。ロシアは口実をつけて何かをやるつもりでいた。実際そうだった。

 

 天皇に夜電報が届き、内閣の大臣が皆集まった。その時私は書生上がりだった。宮中は心痛し、御殿の中は何処もひそひそ話をしている。照憲皇太后即ち皇后は泣いていた。

 総理大臣は松方正義、西郷従道は確か内務大臣で、伊藤博文は小田原にいた。電報を受けた伊藤は深夜だったが、乗り込んできて、そこら中をあたりちらし怒るばかりだった。

 

165 伊藤はイタリア公使を呼んで、その意見を聞いた。こういうことはお上に願うより外に仕方がない臣下ではどうにもすることができない。松方だか伊藤だかが、お上にそのことを願った。明治天皇は「よろしい、この次に発する一番早い列車で京都に行く」と言った。

 ロシア皇太子は京都にいた。内閣の大臣は大勢いてもどうすることもできないで、陛下にお願いするより外なかった

 今の人はそういうことは知らないけれども、天子様に願わんければ出来ないことがあるのですから、民主主義も良いけれど、アメリカ人が天子様を押し込めて政治に関係できないようにして終まうとは、一体日本人は怪しからんもんだ。事が起きたら臣下で出来ないことは、天子様に御願いすることがあるので、いくらアメリカに押しつけられたといっても、随分日本国民は怪しからんです。(右翼の思想がよく現れている。)

 

 陛下はすぐ皇太子の旅館に行った。

166 皇太子は包帯をしてウイスキーかなんかを飲んで太平楽に怒り返っていたが、陛下がいらっしゃるというので、緊張して、態度を改めた。

陛下はお詫びの言葉は一言も言わなかった。「誠に不慮のことで、お気の毒です。つきましては早く東京にお出でなさい。東京にお出でになるには、私も御一緒ですから心配はありません。」だけだった。

皇太子は「お言葉真にありがとうございます。東京に参りとうはありますけれど、国の母親がこのことを聞いて大変心配していますので、とにかく一度国へ帰りとうございます。」「それなら御随意になさい。」

 それだけだった。それで事は全く治まった。

当時はロシアの軍艦が二艘か三艘か来ていて、陸軍の将校も軍艦に乗っていた。(ロシア)陸海軍の将校は軍艦に帰ったが、皇太子付の某は「どこの国でも狂人がおるもんです」と言い、本国に電報を打つのにも再三補筆訂正した。

 

167 皇太子が軍艦に帰ると、今度は皇太子の方から陛下を軍艦に招いた。大議論が始まった。すぐ行った方がいい、軍艦に乗せられて引っ張って行かれたらどうする。これも陛下御自身にお伺いすることになった

 「いかがなさいますか」「直ぐ行く」「危険だ」「いや、行く。」晩餐か午餐かを共にして、無事に帰って来た。

 

 全国が震駭した。各家庭では主人が腕組みして沈んでいる、奥さんは主人の前に出て、「如何相成るものでしょうか、女の身でよくは分かりませんから、只心配するばかりですが」と問うても、主人はうんともすんともいわない。

168 各団体、即ち社会事業とか社会教育、法律等の団体が、お詫びの署名をして京都に行った。大学の法律研究会(今の法学協会)も(その件で)相談した。

 挙国一致という言葉、あの時くらい挙国一致の出来たことはない

 

 恐露病は維新以来の日本の病だった。この事件以後ますます恐露病になった。

 

 大津事件の下手人津田三蔵の処分について議論が起こった。政府の考えは死刑。これは刑法「天皇、三后(太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を加え、また危害を加えんとしたる者は死刑に処す」に基づくが、これは日本の天皇、三后、皇太子をいったことは明白である。しかし政府の方は西洋の皇室にもこれを適用すべきだとした。政府は死刑にしなければおさまりがつかない、と思ってそう主張した。

 ところが裁判所はどんな事情があっても法律を枉げることはできない、外国の皇太子でもこれは日本の皇太子ではない、それに未遂だったので無期にした。普通の殺人の条文を適用した。大審院を大津で開いた。(Wikiによれば本来なら大津地裁がやるべきだったとある。)

169 皇室に対する裁判は大審院が行う。地方裁判所ではやらない。検事総長はそれで起訴した。その時の検事総長は三好退蔵で、政府の命令に従って、先ほどの条文で起訴し、死刑に処すべき、と論告した。一方、大審院は普通の殺人の条文を適用して無期にした。その時の大審院長は児島惟鎌だった。彼はどうしても頑張って政府のいうことを聞かなかった。大審院長と大臣が別れる時は喧嘩のようだったという。

 

 ロシアからは何ら苦情はなかった。何も起こらなかった。津田三蔵は牢で死んだ。皇太子を乗せていた車夫は津田三蔵の剣を奪って傷つけた。それでロシアから日露戦争が終わるまで年金を貰っていた。

 

 今の人は我々の先輩が非常に苦労したことを知りません。それでいて何も知らないので、先輩を馬鹿にする。昔の人はいろいろ苦心もし、功績も上げている。

170 今の人は何でも少しお役に立ったことをすれば、すぐに勲章をもらうことばかり考えている。大津事件を処理してそれで勲章を賜るというようなことがあったら、それは大変な間違いだと、その時代の人は思うでしょう。ところが今なら賜ります。政道の乱れた証拠です。

 

 

感想

 

「おらが」「おらが村の天皇は特別だ」というまさに自己中そのもの。そういう自己中を恥ずかしいと思わないのだろうか。恥ずかしく思わない根拠は、おそらく、彼らが日本の社会の中で特権階級だったという自尊心なのだろう。それではしかし人々との共存はできない。

 

平沼が戦後入れられた巣鴨牢屋での生活は優雅だったようだ。牢屋の中でも部下らに自らの考えを口述させることのできる環境に置かれていた。それは戦前共産党員や民主主義者が置かれていた牢屋生活とは雲泥の差がある。

 

 

13回国会 衆議院 法務委員会 59 昭和27529

https://kokkai.ndl.go.jp › simple › detail

 

016・押谷富三

○押谷委員 収容者の中には平沼さんであるとか南元大将であるとかいつたたいへん老齢者がいらつしやるわけですが、こういう老齢者に対しては、特に老齢者なるがゆえにということで何かの特典でも行われておるのであるかどうか、その点を伺います。

発言のURLhttps://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101305206X05919520529/16

 

017・川上悍

○川上説明員 老齢者につきましては、大体六十歳以上は作業免除ということで仕事についておらないのであります。そのうち特に老齢者の万、これは平沼さんと南さんでありまして、平沼さんは八十六歳、南さんは七十九歳ですが、このお二人は病院の方におつて治療とはいわないのですが、病院の方でごめんどうを見ておるようなわけであります。なお平沼さんは近ごろ弱られた様子もありますので、どこか外部の病院で手当をしていただけばと思つて、近いうちにその手続をしたいと思つております。

発言のURLhttps://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101305206X05919520529/17

 

 

第五回 勲章は尊い。

 

171 勲章の制を定められたとき、維新の功臣に賜った。

 

山岡鉄舟は元幕臣だったが、維新の時に功があり、宮内省で陛下の侍従をしたが、後に役人を辞めた。山岡に勲四等旭日小授賞を賜るという御沙汰があった。否、太政官から内報があった。勲二等を授かった者には葬式で儀仗兵がつけられた。当時瑞宝章はなく、旭日章だけがあった。

 

山岡は辞退し、岩倉右大臣は、もう陛下に奏上してある、と困った。

 

172 榎本武揚は明治維新のとき朝敵となり、函館で兵をあげた。維新の戦乱が済むと許されて、海軍中将となり勲二等を賜った。山岡「私は朝廷と幕府の間に立って忠節を尽くした。榎本が勲二等で私が勲四等では朝廷の御為にならない。」

 

元老院で議官をしていた井上馨は岩倉に頼まれて山岡を説得した。井上馨「息子に洋行さしたらどうだ。お金なら出す。またお金が要ればいくらでも都合してやる。」

後に山岡「一万円この使の者に渡してくれ。」その時の一万円は大変である。井上は宮内省から借りて山岡のところに持たしてやった。山岡はその日に「実は入用がなくなったので直ぐにお返しする。」

 

勲四等は当時は尊い。後になって「勲四等は何だ」というのは怪しからん。

 

 

第六回 陸奥宗光美談

 

174 馬関の有名な旅館、春帆楼で、日清講和の談判が始まった。陸奥宗光はこの間までおった陸奥広吉の親父で、偉い人だった。陸奥は馬関での談判中、娘が大病で「談判が済むまでは家のことは言ってよこすな」と家人に言っていた。伊藤「談判が済んだからとにかく帰り給え。」

 

陸奥は西郷の乱に加担して禁錮の刑を科せられ、長く監獄におった。それを伊藤が起用して外務大臣にした。

 

 

第七回 平沼、領事裁判権条約改正後の初適用で采配をふるう。

 

175 条約改正のとき、私は東京の控訴院で上席検事をしていた。条約改正の当日、横浜の料理屋でミラーという水夫が女を殺した。これは横浜地方裁判所の検事の担当である。逮捕して監獄に入れた。西洋人を裁く初めての案件である。東京の控訴院の検事長が横浜地方裁判所を管轄していた。検事長は横田国臣で、後に検事総長、大審院長になった。私は横田に指図してこいと言われた。零時前なら領事裁判であり、もし日本が裁判をすれば、日本が法を犯したことになる。ところがよく調べてみると、犯行は零時10分頃だった。

ミラーは死刑になったが、東京控訴院に控訴した。私はその控訴院の検事だった。

 

 

第八回 板垣の皇室尊崇の念

 

177 板垣さんは藩閥に対抗するために自由民権を唱えた。(どうかな。)

今の内閣をつくる前のことだった。板垣さんが土佐からの上京中に、岐阜の宿屋で暗殺を受けかけた。明治15188246日のことである。後藤新平は若かったが名古屋の病院長をしていて、すぐ宿屋に行って治療をした。後藤は後に私に言った「板垣という人は自由民権を唱えて藩閥に対抗したけれど、皇室に対する勤王の志は昔とちっとも変っていなかった。」

 勅使が御派遣になるという沙汰があった。板垣輩下の林有造や片岡健吉は「藩閥の策略だ。ポイ返せ。」と言っていたが、勅使が来ると、板垣さんは端座して、「聖恩退助の身に及ぶ」と言って涙を流された。

 

 

第九回 三浦梧郎の切腹覚悟の真剣さ。命を粗末にすることを「真剣」というのかね。また、ルール違反とはいえ、天皇に話す=直訴することは、命をなくすほどの大罪なのだろうか。

 

179 大隈が外務大臣の時に条約改正の話があった。

 

その時三浦梧楼中将は現役を退き、学習院長だった。後に枢密顧問官となった。

 

 学習院長は宮内大臣の輩下にある。三浦は明治天皇の勅命で学習院長になった。三浦は宮内大臣より先輩である。明治天皇は秩序に喧しく、宮内省の所管事項については凡て宮内大臣を経由でなければ奏上できなかった。例えば、侍医頭は医者の役所の長官で、侍医寮の長官であるが、事務は宮内大臣を通した。

三浦は学習院のことでは何でも天皇に直接話してもよろしいという御沙汰があった。三浦は今の大隈の条約改正のことでありながら「学習院のことについて申し上げたい」と言って拝謁を願った。三浦は大隈の条約改正の案は国家のためにならないと考えていた。陛下を欺き奉ったのであるが、陛下はお許しになった。

その時侍講で侍補の元田永孚(ながざね)は漢学者だった。侍講は学問を、侍補は道徳を天皇に教えた。また副島種臣や宮島誠一郎(大八の親)も天皇の側近だった。

明治天皇は三浦が自殺するだろうから自殺しないようにすぐ行けと元田に言った。

 

その時分の人は真剣ですから…。今のようないい加減のものではありません。

 

 

第十回 日露講和暴動で暗躍する政友会の政治家たち

 

182 明治3819059月、日露講和条約に対する国民の不満が高じて暴動が起こった。東京で焼き討ちを始め、内務大臣の官舎を襲撃し、電車を焼くなど、各所で暴動が起こった。

 芳川顕正が内務大臣だったが、責任を感じてすぐ辞めた。警視総監も無論辞めた。戒厳令が敷かれた。私は司法省の勅任参事官検事も兼ねていた。

 

 暴動を起こした張本人は政友会の中にいた。起訴した。小川平吉はその中に(暴動の首謀者として)いて、河野廣中と共に起訴された。

倉富勇三郎が東京控訴院の検事長で、検挙を担当した。それは検事正の主管であるが、大きな事件だから自ら指揮した。戒厳司令官と連絡を取った。

桂内閣は明治3919061月に辞職した。その後に政友会内閣が出来た。西園寺内閣である。政友会内閣は桂内閣の敵であり、起訴された暴動を起こした者を保護する傾向があった。松田正久はその司法大臣で、政友会内閣だから、有罪判決にならないように密かに希望した。

 

183 私はその時、局長にもなっておらず、勅任官の参事官だった。次官や局長は別にいた。私は松田司法大臣に「政治上のことについては述べないが、処分しなければいけない」と述べた。

 

 裁判所が無罪にした。その後、検事が控訴すべきかという問題が起った。倉富検事長は控訴すべきだとし、私は倉富を支持したが、司法省として結局控訴しないことになり、みんなが無罪になった。

 

 松田司法大臣は政友会の重要人物で、「有罪になれば政友会にも大事になりますから、」小川平吉なんかはそうで(大事になる張本人で)あった(から無罪になった)。

 

 倉富検事長に対する政友会の方からの攻撃はずいぶん盛んだった。一般(国民)の意見は強い方につくもので、(検察)当局者を非難して失脚させようとする。私は(その後)すぐに洋行したから、その後の事は判らないが、倉富は検事長を辞め、朝鮮統監部の司法大臣のようなものになった。伊藤が(朝鮮の)統監になったときである。

 

 

第十一回 社債信託法案作成の自慢話

 

185 第三次桂内閣1912.12.21-1913.2.20の末期に、財政の困難や、民間実業家の事業遂行で支障が起った。民間の資金調達で、現民法や商法の都合が悪いのである。

 

 会社が株で資金を募ることが当時の事情でできなかった。払い込みをさせるのも同じことでできないので、社債で必要に応じることになる。

 

 社債募集には抵当が必要となる。担保がないと社債公募に応ずる者が少なくなる。かといって株を募ることも自由にできない。社債を募るしかない。

 

 桂公や大蔵大臣は心配で、何とかして社債に担保をつけなければならないが、担保をつけようがない状況だった。そこで司法省が、その問題を解決しなければならないことになった。

 

186 ドイツやフランスの法律では解決方法がない。それらに倣ってできた民法や商法では解決方法がない。

 ところが私はイギリスの法律を大学でやっていた。イギリスの法律だと方法がある。イギリスのトラストという制度である。今では信託という。私はそう意見を述べた。私は「社債信託法案」をつくった。

 

 社債募集において、会社から出す担保を信託する社債権者信託を受ける。それを受託者という。社債権者は利益者になる。法律で何百人も一々担保者にはできない。受託者を一人こしらえ、担保権を持たせる。つまり債権者のためにその権利者になる。受託者と債権者は権利の実質を持つから、これを受益者という。担保を供する方は金を借りる方であり、これを信託者という。それは表向き権利者だが、その権利は受益者のためにこれを持つ。

 

187 お寺に寄付する。寄付するのは、寺にやってしまうのではない。寺がその所有者にはなるが。例えば土地を寺に寄付する。これは自分のために使う。日本で言えば祖先の祭祀のためにこれを使う。 寺にやってしまえば、寺の所有になるから、寺が勝手に使う。寺にやるが、寄付者のために使う。寺はその寄付を売ることはできない。

 

 イギリスの制度では、担保権者は受託者になるが、勝手に(担保を)処分できない。債権者のためにこれを持つ。その運用については規定を要する。

 

 司法省でイギリスを研究したのは私一人だった。試補の池田寅二郎、後に大審院長になった人だが、この池田がイギリスの法律を専門にやっていて、この人と私は法律をつくった。

 

 法制局長官は一木喜徳郎で、参事官の中には理屈を言う人が多い。法制局の審査を受けた。質問をし、ケチをつける。

 私は衆議院でも貴族院でも政府委員となって答弁した。富井成章議員がそれを記録した。

 

189 穂積陳重はこの件に関して私に論文を書かせようとしたが、私は洋行前だったので池田に代わりをさせた。私が西洋にいるころ(穂積が私に)博士号を送ってきた。

 

これは戦争の結果生じたことである。

 

感想

 

 知の独占。他人が知らないと思って煙に巻く。けしからん。驕り。そして「西洋から学ぶものはない」と言っておきながら、この件(社債信託法)ではイギリスから学んでいるではないか。自己矛盾。

 

 

信託社債

 

信託社債と社債の違いは何ですか?

 

Q3:信託社債の元本と利息を支払う責任は、社債と同じく発行体にあるのか? A. 信託社債の元本償還及び利息支払いは、“信託財産”を原資に行われます。 社債とは異なり、発行体である(三井住友)信託銀行は、償還責任を負っていないため、「信託財産に内包するリスク」をご理解頂くことが大切です。

 

 

 

第十二回

 

フランスでは犯人に向かって警官がムッシューをつけて呼んでいたという。警察は犯人を悪人視するだけでいいのだろうか。「罪は憎むが、人は憎まない」と言うではないか。197

 

西洋旅行をしながらなぜ西洋の良い点を学ぼうとする気がないのか。平沼は西洋に行って日本の良い点ばかりを発見する。その良い点とは親孝行なのだが、親孝行とは親に対する子の服従の強制だったのではないか。また養老院の必要性を、産業構造や職業の観点から考えなかったのか。当時西洋では大家族主義は成り立たなくなってきていたのではないか。208

 

 

メモ

 

190 明治391906年の西園寺内閣1906.1.7-1908.7.14の時に私は民刑局長になったが、間もなく外国へ派遣された。

 

 小村寿太郎は外務大臣をやめてイギリスの大使をしていた。(機外会館談話録第十五回参照)小村曰く「西洋の真似をする法律をやるのは止めにしようではないか。今までは条約改正のためにやっとったんだが、今度からは西洋の気に入らんような法律をこしらえろ。」

 

(日本ではすでに)民法や刑法ができていた。私は独仏英の三国を調べた。

 

191 ドイツでは刑について研究した。

 ドイツにはリストとビルクマイヤーという刑法学者がいた。リストは新しい刑の原理を唱えていた。日本は刑法改正でリストを参考にした。二人はベルリンの大学で講座を持っていた。

 

 司法省に行った。司法省の局長やラート(参事官)の世話で監獄を調べた。

 

 プロイセン、バイエルン、ミュンヘンで調査をしたが、大して調べる程のことはなかった。シュッセルはドイツ人領事だった。

 

193 ドイツではプロイセンとバイエルンが一番大きい。バイエルンはプロイセンの下に立つことを嫌っていた。

 

 (ドイツの)裁判制度では、ランデスレヒト(地方裁判所)、その上にオーバーランデスレヒト(控訴院、上等地方裁判所)があるが、日本の大審院にあたるものがない。

 

 ザクセンにはライヒスゲリヒト(帝国裁判所)があるが、プロイセンにはない。他の州にはオーバー・ランデスゲリヒトがある。バイエルンだけにはオーベルステン・ランデスゲリヒト(最高地方裁判所)がある。

 

ドイツでは裁判所や監獄の中を歩いて回った。

 

 フランスでは警視庁に行き、無政府主義の取締りについて調べた。欧州大陸は無政府主義者の活動に弱らされていた。彼らは火つけ、破壊、人殺し、暗殺をしていた。

 

 無政府主義は相互扶助を理想とし、そうすれば安穏に生活でき、政府は要らないという理屈である。なぜ乱暴をするかというと、無政府主義を実現するためには、500年や1000年を要するから、なるべく早く実現するためには、現状を破壊しなければならない、どんなことでも破壊できるは何でもやる、帝王を葬る、金持ちを殺す、設備を壊す、放火する。それは責任であり、好んでやるのではないと書物には書いてある。

 

194 パリ府庁に、今の日本の警視庁のようなものがある。パリはセーヌ県(ディパートメント・セーヌ)という。そこの東京府にあたる、セーヌ県パリ府=プリフェクチュア・ディ・ディパートメント・セーヌに、警視庁(プリフェクチュラル・ポリス・ディ・デイパートメント・セーヌ)がある。日本はパリをまねたようなものです。

 

 今の(パリ)府庁はセーヌ県の府庁がやっていて、ある特別の事項の他は(警察事項に)関係しない。日本も後に、東京府知事は自分の主管事項について、東京の中で警察官を指揮する権を一時持っていたが、これは特別事項に限り、(警察事項の)大体(大部分)は、警視庁がやっていた。これはパリの警察制度をまねたものである。パリ警視庁の管轄はセーヌ県だけで、即ち日本では東京府だけである。日本では高等警察が日本全国に力が及ぶ。今は制度が変わっているが、元は国家警察が全国にわたっていた。東京に警視庁、各府県に県知事が、東京の警視庁と同じように(警察事項に関して)指揮を取っていた。

 

195 西洋ではこの自治警察である。市長や町長の上に警察官がおる。日本は自治警察をやっている。西洋は自治警察で、憲兵が国家警察をやっている。

西洋では都に憲兵がいない。都には警視庁がある。日本のように都に憲兵と警視庁との両方があることはない。西洋では田舎に憲兵がいる。西洋では、日本の在来の制度のように、国家警察が全国にわたっておらず、西洋の地方では、国家警察のことを、憲兵がやっている。

 

警察制度は日本が一番良いと西洋では言っている。

 

 強制警察(リプレッシブ・ポリス)は強制力を持っている。司法警察が犯罪人を逮捕し、強制警察の一番主な業務である強制警察権を、国家警察がもっている。

日本の特別警察に相当するものに、パリの警視庁移動警察(ブリガード・モビール)がある。これは全国に活動し、無政府主義者の取締りをする。

 

196 私は無政府主義者の取締りを研究するためにフランスの移動警察を学んだ。無政府主義者は全国で活動を展開しているからだ。

 移動警察は毎晩私服で隊伍を組んでパリの市中を歩く。繁華街では夜通しやっている。道楽者は料理屋に毎晩来るから、移動警察は毎晩料理屋を襲撃する。私は夜明け前に帰る。

 

 人権尊重とかなんとか言うが、フランスの警察官は人権など尊重していない。犯罪団体アッパーシュが毎晩悪いことをする。人殺しや火つけなどを移動警察が担当した。それは制服警官にはできない。制服警官は現行犯は捕らえるが、それ以外は私服がやる。制服警官はサーベルをつっている。

 

197 フランスのような富裕なところでも、ストライキや同盟罷業に悩まされていた。

 

フランスの警察は刑事被告人を蹴とばすが、言葉は丁寧で、どんなならず者にもムッシューといい、上官に向かって罪人を指してスー・ムッシュー(this gentleman)という。蹴とばしたり、ぶん殴ったりするが、言葉ではそうだ。訓令が出ていて、たとえ刑事被告人でも、ムッシューと言う。

 

英国は大陸や日本と異なる。

 

犯罪人の逮捕の現場を学ぶために、繁華なピカデリーを夜、警察官と歩いた。英国では犯罪人を叩いたり蹴とばしたりしない。英国の巡査は世界の模範となっている。巡査が書いた報告書は文章も上手で、立派である。犯罪人を警部と警視が調べる。そしてすぐにその晩か翌朝には治安裁判所(ジャスティス・オブ・ピース)で調べる。判事は玄人ではなく、書記がいて、よく法律を知っている。小さな犯罪は迅速に処理する。

治安裁判所である犯罪人が「警察官が強制して言わせた。そこのジェントルマン(私)がよく知っています。」判事「そんなバカなことを言う。」

罪の軽い者には「ご苦労だった」と言って、菓子をやってすぐ釈放する。罰金はその時取る。小さな犯罪は面倒な手続きはしない。

ロンドンの巡査は世界の模範となっていた。文章も上手で、大陸の巡査にはそういう人は一人もいない。しかし道を尋ねて礼に金をやると受け取る。

 

199 ロンドン市はロンドンの一部で、今の王宮のあるところは郡になる。我々が考えているロンドンは郡である。ロンドン市は自治権を持っている。

 

 ロンドン市は、ロンドン警察(グレート・スコットランド・ヤード)の管轄外である。ロンドン市は自治で、警察も別であり、警察や国の干渉を受けない。ロンドン警視庁の管轄範囲は、郡にとどまる。ロンドン市は警視庁の管轄外である。

 

 英国には憲兵がいない。憲兵は大陸で発達した。ちなみにパリのガード・ヅゥ・リパブリックは陸軍の軍隊である。騎兵一連隊と歩兵一連隊がいて、立派な服装をしていて、騒動を鎮圧する。これは陸軍の軍隊であるが、半面警察官でもあり、陸軍の管轄外のことをやっている。監獄もそれが担当している。

 また消防本部の隊長は陸軍の大佐で、警視総監の輩下にある。

ガード・ヅゥ・リパブリックは憲兵ではない。パリには憲兵はいない。ガード・ヅゥ・リパブリックは、兜に毛がついて後ろに垂れている騎兵の兜をかぶっている。歩兵もきれいな服を着ているが、普通の歩兵は汚い服を着ていて、赤いズボンをはいているが、汚い破れかかったものだ。一方、ガードはきれいなのを着ていた。

 ガード・ヅゥ・リパブリックは、元はガード・ヅゥ・ロワイヤルと言っていた。王の警衛だったのだろう。今はリパブリックと直した。フランスでは王朝時代のものを共和制になっても踏襲したものが多い。

 

ドイツの警察のやり方はフランスと非常に違っていた。ドイツは規則づくめである。私がベルリンに行くとすぐに警察から呼び出され、年齢や身分を調べられた。

201 フランスではその点違う。パリに行って二、三日して警視庁に行くと、私の写真、年齢、身分などをすでに知っていた。年齢が違っていたのでそういうと、これは想像で書いたものだとのことだった。

 フランスでは交通警察が目に付く。パリの交通警察は模範的である。強制はしない。

 

202 私は英国で指紋制度を調べた。指紋は余計なことと思われていたが、犯罪捜査には必要である。指紋を取ることは今は日本でも慣れて、警視庁、裁判所、警察署で上手にやっている。ずっと後のことだが、枢密顧問官が日本の警視庁に見学に行って、私もいっしょに行った。指紋係が「どうも平沼博士の前で講釈するのはなんですが、…」と言って説明した。

 

指紋はロンドン警視庁グレート・スコットランド・ヤードのサア・エドワード・ヘンリーが最初インドでやった。イギリスでは新しいことはみなインドでやった。ヘンリーは英国に帰って警視総監になり、20年経っていたが、指紋の初めはロンドンだけだったが、次第に全国に広まった。

人間の顔は同じのがある。違った人間かと思っていた者が同一人物であることもある。指紋だと同じのは一つもない。

203 皆違うと断定できないかもしれないが、200万人違えば違うと言っていいのではないか。皆違うと断定できないというのは小理屈だ。

 

 指紋は監獄、検事局、警視庁で取り、司法省と警視庁と大阪の警察本部で保管している。

 

 前科がすぐ分かる。指紋を調べるのは大変ではない。両方の手を取ってあり、分類方法がある。分類の規則に従って配置してあるから、見つけるのは早い。一分とはかからない。どんなに込み入っていても三分以上はかからない。指紋制度は偉大な効果があった。

 玄人がみればすぐわかる。ただし指紋の変態がある。中には指紋を破毀しているものもある。

指紋のない時代は髪や鼻の形態、口、顎などで区別していた。これはフランスのベルチオンがやった。フランスでは指紋と両方でやっている。

 

204 日本では私が日本に帰ってからすぐにやった。英国の分類は混み入っていた。南米あたりで研究して分類していた。日本では日本の分類方法を研究した。今やっているのがそれである。

 どういうところを写せばいいかよくわかっている。指紋が高い方と低い方では違う。血が混じると低い方が写ることがある。

 

205 昔は犯罪人名簿を作ったが、浩瀚で経費だけかかって、誰も見ない。私が日本に帰ってからやめた。

 

感想 イギリスからは信託社債や指紋など、いろいろお世話になっているじゃないの。小村寿太郎の提言だったが、もう西洋からは学ぶべきものがない、などと言っていたのはどうしたことか。190

 

 

英国の社会政策(社会教育) 不良少年、養老院

 

どこの国でも古臭い人がいるために、新しいことができないが、英国が特にひどい。(日本もそうではないか。)

 

 警視庁はグレート・スコットランド・ヤードが担当していたが、社会政策はニュー・スコットランド・ヤードが担当していた。

 

 社会政策とは不良少年の取り扱いと養老政策である。

 

206 宗教家が社会政策を担当していた。

 

 一体西洋人というものは、少し地位のある人は良い服装をし、昼でもフロックコートを着ていました。私はネクタイや服を新調しろと言われた。ところがあそこら(社会政策関係)の役人は質素な身なりをしていた。私は服をロンドンで新調したので、向こうの(社会政策関係の)役人から立派な服ですねと言われた。

 

 不良少年の感化は日本でもやっている。英国では旧習に墨守しているため、それに異議を唱える人もいた。

 

 (不良少年を扱う施設の)子どもが、私が訪問すると喜んで部屋をノックすると、施設の役人は「この人はお前たちの感化のことを研究しに日本から来られ、英語も流暢でワンダフル。」

 

207 (英国の社会政策で)日本が採用すべき点はなかった。英国では旧套を墨守しているからだ。

 

便所も全部が水洗というわけではなく、砂の中にやっている。肥料にするとのこと。社会事業関連の人にはスマートな人はいない。

 

 宣教師にお茶に呼ばれた。御菓子はまずく、質素だった。

 

 養老院での体験 日本人には解せないことがあった。私はよぼよぼの爺さん祖母さん夫婦に会った。「年を取り働けなくなったので食べて行けない。」と言うが、息子は高給取りの歯科医師だった。院長は息子に親を養う義務はないという。私は「日本では親を養う責任がある。親を養わないのは不道徳だ」と院長に日本の家族制度のことを話すと、院長は「個人主義が行き過ぎました」と言った。

 

 私は日本に帰って穂積陳重さんにそのことを話したが、穂積さんも同じ経験をしたとのことである。

 

 日本では段々個人主義を鼓吹する人が多い。幸徳秋水も親孝行だった。しかし無政府主義では親孝行は悪行である。(本当か)そこで幸徳は親不孝になろうとした。何でも西洋の真似をすればよいと思っている人がいるが、困ったもんだ。

209 日本には古来からの教え「人より取ってもって善をなす」「取於人以為善」がある。日本は古来の伝統精神をどこまでも喜ぶばかりでなく、他の国の良いことは取り入れなければいけない。(えらい成長したでは。)困るのは悪いことも良いことも一緒に入れることだ。

 儒教や仏教が伝来し、日本の文化が進んだ。西洋の良い点をとりいれるのはいいが、個人主義が日本に発達するのは、外国の悪いことを入れるからである。(どうかな)政治家は注意すべきだ。

 民主主義や自由主義も良い(よいとは思っていないのでは)が、「はき違い」が多い。この弊害は非常なもので、将来の日本の政治を担当する人が理解しないと、とんでもないことになる。(どういう意味か)

 

国家警察と自治警察

 

パリやベルリンなどの都会地では国家警察で、地方では自治警察である。警視庁は国家警察で、地方の国家警察の機能は憲兵がやる。

 

210 衛生は自治警察で可能だが、強制警察リプレッシブ・ポリスは、自治体にはできない。例えば治安維持は自治体にはできない。憲兵は軍隊組織であり、リプレッシブ・ポリスには軍隊組織が必要である。警視庁は警察官を軍隊組織にする。警察官の中に大佐、中佐、少佐を設ける。ベルリン警視庁の前では番兵の巡査は兜を被り、サーベルを抜いて立っている。

 

 終戦前の日本の警察は全国に国家警察を敷いていた。警視庁だけでなく、各府県の知事が国家警察を統括し、知事の下に警察部長、警視、警部がいた。警察署長を警視や警部がやり、その下に警部補、巡査部長、巡査がいて、みな帯剣し、必要なら武装する。これは西洋では都の他にはなく、都の他では憲兵がやっている。しかし憲兵ではだめだ。(日本の戦前の)警察官でなければいけない。西洋でも日本の警察組織は良いと言われている。

 

211 それを終戦後に叩き潰して今の警察制度にした。それでは「仕方がない」ので予備隊をつくった。

 

 (今の日本で)自治警察と国家警察に分けたのは滑稽だ。衛生は別にしても、治安維持では命令系統が必要だ。それは戦いと同じだ。自治体の村長や市長に警察の命令権を持たしても「駄目だ」。戦前は内務大臣が統括していた。

 

 自治警察と国家警察の費用 自治警察は地方費で支弁し、府県会にかける。実際の事務系統と費用の支出とを混同しないようにすべきだ。府県知事が主宰する各府県の警察は国家警察である。昔でも国庫支弁でない警察官経費があった。強制警察以外のことは自治体が扱っていた。

 

治安維持に関することは国家警察がやる。戦前は各府県の知事は両方を持っていた。しかし東京は知事の主管することと、警視庁が主管することとが分離していた。大部分の警察権は警視庁が握っていた。東京府知事はそれ以外を担当し、警察署長を指揮した。

 

212 共産党 戦前の警察は共産党の内部を知っていたが、今は全く知らない。戦前に共産党の知識のあった者を戦後に首にした。徳田球一を捕まえようとしても捕まえられない。今は何でもないと人は言っているが、共産党の組織がだんだん発達してくれば、今でも追いつかないのに、大変なことになります。(共産党敵視)「向こう」は戦術を知っている。それをロシアが教えている。「こちら」の警察は素人がやっている。(共産党員が)共産党を標榜しとる者だけと思うのは間違いで、労働者にも、会社員にも、役人にもいる。よく訓練しているから、会社や役所にいても、上官の命令を聞き、職務に忠実を装い、実際能力もあり、役にも立つから、素人の警官はすぐ騙される。共産党の取締りは考えているでしょうが、その方法は知らない。全員が知らないという訳もないだろうが。

 

 同盟罷業 私は西洋から帰って来た時、実業家たちに話をした。その時分も、今のようにひどくはなかったが、日本にも同盟罷業があった。私は無政府主義や同盟罷業の話をした。ヨーロッパではこれに苦しめられていた。第一次大戦前のことであった。

 その時分の日本の経済社会は、西洋のように裕福ではなかった。その時分に今やっているような大げさな同盟罷業がやられれば、実業家への大打撃だ。実業家はそんなことは日本では起らないと言った。英国でもストライキをさほど苦にしていなかったが、間もなく炭坑のストライキが起った。日本でも私が帰ってからすぐに大きなストが起きた。(…未完の感じで終わる)

 

 

第十三回 共産党批判、ベルギー訪問

 

感想 マルクスが『資本論』の中で語るイギリスの悲惨な労働者に対する思いやりなどみじんもなく、資本家を擁護することしか考えていない。恐らくマルクスを読んでいないのだろう。法律家の考えは狭小だ。以下平沼のアンチ共産党発言を紹介する。しかもこれは敗戦から7年経った、1952年の平沼の発言である。

 

「近頃は朝鮮人を使ってデモをやっている。今度は破壊をやる。自動車を焼いたりするだけで止まりやあしない。その方の戦術は「向こう」で心得ているんですから…。

それあ秘密を保つことの訓練は非常に行き届いている。お互いの中でも知らんことが多い。たとえば五人いると一人の長がある、他にまた五人いてその長がある。それを五つ重ねると長が五人になるが、その五人の連絡は取れていても、下の方は上の組織を知らぬ。それが倍あれば十人になり、十人に一人この長になる人がおり、長になる者に連絡が取れている。内部の者でも組織を知らない。下っ端の者が知っとると直に洩れるから…。

それから訓示を出すにも洩れないような方法を尽くしている。例えば訓示を持っていくが、伝令使にも知らせない。伝令使は知らないが、持ってゆけばそれで目的を達する。どういう風にやるかといえば、背中に訓令文を書いてゆかせるんです。訓令を受ける者には見えるが、伝令使は知らない。しかもその訓令文は時間が経つと消えるようにしている。裸の背に書いておくんです。」214

 

 

メモ

 

214 もとの(戦前の)警察には訓練を受けた人がいた。これを高等警察といったが、これを何だか悪魔のように思うとる。この間警察の者が(監房に)来たので「復活したらどうだ」と言ったら、「いやとても駄目です。今まで命がけでやったのに、みんな首を切ったり、パージにした。あれらには意地がありますから。」

 実業家は私の言うことを馬鹿にして信用しない。それでいざという場合に、家を焼かれたり、人殺しをやられる。共産党はきっとやります。誰も私の話を信用しない、馬鹿なことを言うと。しかし今でもそうです。内閣大臣始め世間がそうです。これで日本の将来がどうなるか、と私は心配です。今共産党の力が及ばないのは農村だけです。

 

 

 ベルギーは小国で、日本にも当てはまることがある。ベルギーの人は日本のことをよく知らない。ドイツやフランス、英国の人は日本のことを知っているが、ベルギーでは一般の人は勿論、役人もあまり知らない。

 ベルギーは永世中立国で、軍備はあるが、大きな軍隊は必要ない。軍事費が要らないから裕福で、(よく分かっているではないか。)平生でも金貨を使っている。

216 役所の設備はみな立派で、監獄は建築も設備も立派であり、取締(の手法)よりも設備を自慢する。私は付き添いの司法省の局長に「監獄は宮殿ではないからね」と言ってやったら、「その通りです」が返って来た。ベルギーの都ブリュッセルの警察には、パリやベルリンと違って憲兵がいる。隊長が憲兵隊の組織をしきりに自慢するので、付き添いの課長が隊長に「日本の方が憲兵組織は立派なんだよ」とささやき、大笑いした。

 ベルギーは中立国で強国の間に挟まっているから、外交のことで日本が調べるには都合がいい。(よく分かっているではないか。)

 

私は一年間海外にいて、明治411908年に帰国した。

 

 

第十四回 戦前の司法部と中国との親密な関係

 

217 中国の人は日清戦争後は日本の力を認め、向こうの有力な人は、万事日本に頼ってゆきたいと思っていた。殊に(中国の)陸海軍がそうだった。万事日本のやり方に倣ってゆくというという考えが先方の有力者の考えだった。中国は戦争に負けたけれども、日本に対してそう感情は悪くなかった。

 私は当時局長をしていた。司法の主要部について、沢山中国から見学に来た。日本側から中国に顧問を派遣した。司法部との関係では中国との関係はよくなった。中国は当時圧制ばかりで、裁判も公平でなかったようだ。日本でも司法官に対して非難はあったが、それはやり方においてであり、大体は良かった。私は中国の公使館と始終行き来していた。他の方面、特に陸海軍などでも、最初はうまく行っていたのだろうが、次第に悪くなってきたようだ。

 

218 司法部だけは友好関係を続けた。公使館の書記官が私に「(中日)関係が面白くなくなる傾向になってきたが、司法関係だけは悪くならないからご安心ください」と言った。

 

 中国の西太后という途方もない婆様は、女だがなかなか有力な人であり、策略家でもあり、巧いことを言っても、実際の腹の中は分からない人だった。「今は日本と仲を悪くすればよくないので、よくしているが、後で日本をやっつけてやる」という考えを持っていただろう。

 

 

第十五回 競馬賭け事禁止したら軍馬が育たないと悪者にされた。

 

219 第二次桂内閣1908.7.14-1911.8.30は、明治431910年まで続いた(1年違っている)が、その時競馬が非常に盛んになった。それは陸軍の計画で、軍馬を充実するために起った計画のようだった。また陸軍だけでなく農商務省も、畜産を盛んにしなければならないと言い、宮内省の主馬寮も競馬に熱心だった。ところが競馬は博打をやらないと成り立たないので、馬券の売買が始まった。

 

 競馬に行く人のほとんどが博打をやる。博打は刑法で禁じていたので、博打を公然と許すことはできない筈だった。

 桂内閣で大逆事件が「済んだ」後で、そのころ私はやはり民刑局長をしていた。競馬を盛んにして軍馬を充実するということは必要だが、そのために博打を公然とやるということは風教上困るという訳で、司法省の方針としてはやらすまいと決めた。

 

220 「又平沼の奴が余計なことを言って邪魔をする」と言われた。宮内省の主馬頭の藤波は、公爵で子爵だった。馬が上手で、明治天皇の幼少の時から側近にいた。私は藤波を良く知っていた。

「平沼君、またやかましいことを言うそうだが、競馬をやらないと、馬の充実ができない。」「競馬馬は恰好ばかりよくて戦いの役に立たないのでは。」「競走馬は足が細く、恰好が良く、走りは速いが、大砲を引く戦いの役には立たない。しかし、あれを作らないと、戦いの役に立つ馬が出来なくなるのだ。馬を仕立てるには、軍馬ばかりをつくることはできない。あの馬(軍馬)のはけ口を作らなければ、軍馬ばかりという訳に行かない。競馬馬のできそこないが戦いの役に立つ。博打を許さなければ、競馬は成り立たない。」(競馬をやらなくても遊ばせておけばいいのでは)「その議論には負けたが、博打をやると人間が悪くなる。」「人間は悪くなっても、競馬はたいしたこと(悪で)はない。」

政府にとっては競馬は財源になった。表向きにはできないが、競馬は政治家の収入にもなる政党も内閣も政治資金を集めるのに競馬は有用だった

 

221 鳴尾競馬事件 私はその頃年も若いし大人しくなかったので、兵庫県の鳴尾の大きな競馬場で公然と博打をやっているのを、神戸の検事正小山松吉に「構わないからあれを差し止めてしまえ。俺が引き受ける」と言った。小山「それじゃ現行犯でひっぱってしまいましょう。」小山は検事と警察官を連れて引捕らえた。やかましくなるのは覚悟していたが、とにかく一度やらなくちゃ、人を馬鹿にして公然とやっているのでは、…

 

 桂内閣は困った。桂さんは大逆事件の関係でよく会っていたので、私を呼びに来た。平田東助が内務大臣だった。総理大臣官舎には、平田内務大臣、農商務大臣、書記官長の柴田家門もいた。柴田は長州人で、後に文部大臣になった。柴田はいきなり「君はひどい事をやるなあ。」「やるのは当たり前だ。」「そんなことをしたら馬の増殖なんかできない。もとのようになおしてくれ。」内務大臣も「あれは困りますね。」桂さんは不在だったが帰ってくると「あれはいかんかね。いけませんよ。」

そのころ刑法は新しいのが出来たときで、刑法を議会で説明するとき、倉富富三郎と私は両院で説明し、「競馬に賭けをすることは罪である」と言った。いまさら司法省としてこれが博打でないとは言えない。議会の速記録にも書いてある。桂「今翻すことにはゆかんわい。」内務大臣や書記官長「それはこまります。」桂「いや、それでは困る。」

 

 桂さんは妥協主義者で、内務大臣や書記官長のように理屈を言って罵るようなことはしない。桂「しようがない。刑法で決まっている以上は競馬の博打をやめなければならない。」「鳴尾のはいけない。外に二か所あるが、これも今止めるのは結果としてよくない。鳴尾のことはまあこれだけにしておいて、あとの二か所を鳴尾のようにやられると困る。」私は妥協しなくちゃいけないと思い「今後一切競馬の博打は止めて下さい。」「それはそうだ」と桂さんは言って、内務大臣に「すぐにやめるように訓令を出したまえ。」あと二つは、千葉県だったが、これはやらしておくことにして、爾後博打は相ならんことになった。

 

 桂さんはニコポン主義で、いつも妥協されるので、和睦した。それ(外の二か所)だけやっとけば内閣は困らない。収入は得られるので…。

 

223 次に、東京市の自治体の腐敗、海軍事件(シーメンス事件)、台湾の彩票富籤について語る。

 

 

第十六回

 

224 自治体の腐敗はその極に達した。殊に東京市はそうだ。市会議員の横暴はひどかった。星亨が殺されたのもそれが理由である。伊庭想太郎(いばそうたろう)が殺した。伊庭は漢学仕込みである。

 

星亨1850.4.8-1901.6.21 政治家。英学を学び、186919歳で、神奈川県三等訳官。知事陸奥宗光の知遇を受け、明治5187222歳で、横浜税関長。イギリスに留学し、法廷弁護士の資格を得て帰国。代言人を経て、弁護士となる。

188131歳、自由党結党後入党し、『自由新聞』の経営に参加。新聞『自由の灯』を発行。官吏侮辱罪などで入獄21887年の在野各政党の大同団結運動を推進。

189242歳、衆院議長1893年、後藤象二郎とともに取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名。議長解任の決議を無視して数回登院。

日清戦争1894-95後、大韓民国の法律顧問。陸奥の斡旋で189646歳、駐米大使に。

189848歳、大隈重信、板垣退助の憲政党内閣(隈板内閣)ができると帰国して憲政党を分裂させ、190050歳、伊藤博文と組んで立憲政友会を結成し、同年10月、第4次伊藤内閣の逓信大臣となるが、東京市会疑獄事件の中心人物を見られて辞任。

19016月、元東京市四谷区学校委員伊庭想太郎に刺殺された。

読書家で、蔵書1万冊は死後慶應義塾図書館に寄贈され、星文庫となった。

 

伊庭想太郎1851.10-1907.10.31 元唐津藩士。心形刀流10代目。教育者。四谷区に私塾文友館を開き、館長。東京農学校校長、四谷区議、日本貯蓄銀行頭取、相談役。

1901年、星亨を公衆の面前で暗殺。天下のためであると怒号し、斬奸状を読み上げた。無期徒刑、1902年、小菅監獄に入獄し、1907年、胃がんで死亡。

 

 

森久保作蔵(もりくぼさくぞう、1855.8.9-1926.11.4) なかなか面白い人で、道徳は構わない。政友会に属し、自分の党派に都合のよいことは何でも大胆にやり、市長を圧迫した。こういうきつくて強い人が市会には大勢いた。

 

 第二次西園寺内閣1911.8.30-1912.12.21では、松田が司法大臣で、私は次官だった。私は松田に「市会の腐敗、殊に東京市の腐敗がひどい。取締をしないと弊害が助長される」と、腐敗の状態を話した。

225 これは政友会の横暴でもある。当時西園寺が(立憲)政友会の総裁で、松田と原は政友会の有力党員だった。私が「これを矯正しなくては」と松田に進言すると、松田も「(政友会は)もっとひどいことをやっている」と呼応し、「しかし司法処分では大変な騒ぎになる。内閣の運命にも関することだ。結局そうしなければならないときにはやるが、今すぐは困る。」

私は「あなたは現内閣の副総理格で、司法大臣でもある。あなたの地位で矯正ができる。政友会の有力な分子を集めて、「在来のやり方を止めなければ、追放処分にする。今後はそうしないと誓わせる。在来のことに関する処分は見合わせる、さもなければ司法処分する」と言えばどうか」と提言した。すると松田はそれをすぐやった。

226 松田には誠意があった。桂も誠意でやるが、政略が加味された。皆松田に脅かされて閉口し、皆遠慮するようになった。それまでは公然とやっていた。

 

 森久保は、その説諭がなければ、私は捕らえるつもりだった。森久保は他人にはうまい汁を吸わせるが、自分は吸わない。問題が一段落した。

 

その後私は森久保に会った。川面凡児は神道家であったが、儒教や仏教も、西洋哲学もやった。川面教の信者も多かった。彼らは迷信家ではない。川面の教会があり、森久保がそこに来ていて、私が会ったときは、好々爺になって、和やかだった。

 

*森久保作蔵(もりくぼさくぞう、1855.8.9-1926.11.4) 農業経営者、自由民権家、衆院議員。

 

台湾の彩票(宝くじ) その次に西園寺内閣の時*に起った問題は、台湾の彩票である。*第二次西園寺内閣1911.8.30-1912.12.21

 

これは後藤新平という人が始めた。後藤は台湾統治で非常に功績があった人である。後藤はその時表向きは統治に関与していなかったと思うが、以前の関係から、万事背後で画策していたようだ。

台湾の統治には金が必要だ。金を集めるために彩票を公許した。競馬より露骨である。籤に当たれば金をやるというものである。徳川時代にもやっていた。藩の収入になるからである。維新政府もこれをやり、大きな収入になった。西洋でも許すどころか奨励した。砂糖に蟻がつくようなものだ。

 

228 台湾だけでやっていれば、台湾では内地の法律が及ばないからよいのだが、台湾だけでは十分金が集まらないとして、内地でもやる。芸者までが買っている。

台湾の彩票は台湾の大元でやるが、買うのは内地が主である。私が司法次官の時だった。黙って見ておれなかった。

 その時後藤は私を知らなかった。後には懇意になったが。

 後藤は私を罵倒した。「これをやらなくちゃ台湾の統治はできない。法律一点張りでなく政策のことも考えるがよい。」私は「台湾限りでやれば、内地の法律は及ばないから、構わない。内地に輸入するのは競馬より悪い。内地を腐敗させては困る。」

229 後藤さんはああいう人だから聞きやあしない。松田司法大臣も困って、私に「花柳界でやってるのを知らないのか、と内閣で大臣に笑われた。」私「そうですか」と同調した。

 

 取次は三井がやっていた。これを処分すると事が大きくなるので、皆罰することはできない。それで、今までは帳消しにして将来は禁止することになった。

 

 後藤新平は怒った。その後私は後藤にあったが、彩票のことは一言も話さなかった。

 

 

第十七回 飛ばして…

 

 

 

余禄

 

 

日独伊三国同盟論(獄中手記)

 

 

感想 平沼騏一郎の文章は理路整然としている。さすが東大。しかし戦犯としてか、全体的に弁解がましい論調で、大局を見ていない。「八紘一宇」に関する論は、政治と宗教とを混同しているように思われる。松岡外相の発言を政府見解ではなく個人的な発言とするが、本当なのだろうか。またそんな言い訳が通るのだろうか。

 

 

要旨 私が首相だったころに締結した三国防共協定は、道徳的なものであり、軍事的な意味はなかった。私は陸軍と海軍との意見の相違を調整するために何度も協議を重ねた。

 

 

メモ

 

243 三国防共協定1937.11の趣旨 共産主義がソ連以外に普及することは世界平和を害し、国家(大日本帝国)の安寧秩序を危うくする。三国防共協定目的は防御にある。

 三国防共協定の目的は(米英の)民主主義に抗するものではない。また日本の国是は(独伊のような)全体主義ではない。そのことは宇佐美弁護士に渡した意見書にも書いてある。

244 三国防共協定は軍事同盟ではない。それに付随した秘密協定も、相手国にソ連との紛争が起こった際に、(日本は)ソ連に援助しないということである。

検察団論告の序文は、三国防共協定が、中国における日本の軍事行動を加速し、日独伊の統一戦線に言及するが、それは根拠のない疑惑にすぎない。

 

三国軍事同盟1940.9.27 三国軍事同盟の始まりは、第一次近衛内閣の時、陸軍が駐独伊大使館付武官を通して交渉し、それが外相に受け継がれたが、近衛内閣は道半ばで辞職し、私の内閣に引き継がれた。これは軍事同盟である。

陸軍は賛成し、海軍は反対した。国内の右派は陸軍に賛成し、反対者を「親米英」と攻撃した。私は二・二六事件の再来を恐れた。

そこで私は優柔不断と批判されながらも、五相会議を数十回開いたが、表面上はともかく、両者の真意は変わらなかった。私は外相を通じてヒトラーとムソリーニに私の意見を表明した。

その要点は、(三国同盟は)世界平和という道徳的精神に基づき、利害の打算ではない。そして一国が第三国から打撃を受けても、経済的・政治的援助はするが、軍事的援助はできないというものであった。これに対する両国の回答はなかった。

陸軍は軍事同盟を望んだが、私は拒否した。

その後ドイツがソ連と不可侵条約を結び、防共協定とその秘密条約の意味がなくなり、わが国は三国同盟の協商を打ち切る、と独伊に通達し、英米にも通達した。

その数日後私は辞表を奉呈して聴許され、後継に阿部大将内閣となった。

 

246 第二次近衛内閣が三国軍事同盟を締結

 

私の内閣の後に続く阿部、米内の両内閣を経た第二次近衛内閣のとき、松岡外相が、新たに日独伊同盟条約の協商を開始した。近衛首相、松岡外相、陸相、海相の意見が一致し、ドイツのスターマー総領事(後公使)を来朝させ、松岡氏と協議して締結した。

 

247 これは平沼内閣当時に行われた協商の継続ではない。平沼内閣の動機は道義であり、打算ではなかった。即ち精神的であって、合目的ではなかった。一方、近衛内閣は、その動機の目的を明示した。つまり、独伊はこれ(同盟)によって、全体主義を基礎とし、欧州の指導権を確立し、日本はその「固有の精神」を以て、東亜の指導権を確立するという趣旨であった。一国が数国に対して指導的位置を得ようとすること、つまり、一民族が異民族に対して指導者になろうとすることは、制覇である。独伊が全体主義を以て欧州を指導しようとすることは、覇業を遂げようとするものである。日本が独伊との同盟により東亜の指導者となろうとすることは、覇者と結託して覇道を行おうとするものである。覇道は、名目は道義であっても、力で他を制圧しようとすることである。一方、我が日本の固有の精神は、道義により、他と和合するというものである。他方の覇道は、我が(国の)固有の精神に反する。近衛内閣と平沼内閣の同盟の動機は全く異なる。

 

八紘一宇の本当の意味 松岡は「八紘一宇」を東亜指導の精神としているようだ。八紘一宇は我が国の指導層の多くが盛んに唱えている。しかしこれらの人々はその言葉の真意を知らないようだ。多くの人は八紘一宇を世界統一の意味であると妄信している。世界統一は力で世界を征服するという意味であり、帝国主義の実現を意味する。それは乱心した無学者の大言壮語であり、それを妄信する人は、愚か者で、憐れむべき愚人だ。八紘一宇の本当の意味を次に述べる。

 

248 「八紘一宇」は元来神武天皇の詔勅「八紘為宇」と同義と解すべきである。「八紘を以て宇と為す」とは和合の意味であり、統一の意味ではない。人類がその生まれた住宅己の家とすることは自然である。同様におのれの生まれた地方を己の家とする。己の生まれた国もしかり。この世界に生まれたものはその世界を己の家とする。大宇宙もしかり。そして一家にいる者が皆その家を己の家とするから、一家は和合して争いがない。このことは地方や国、世界、宇宙についても同様である。

和合は「統一」の源である。(「統一」とは覇権的な意味があったのでは。)和合による統一は力による統一とは異なる。(ご都合主義的!)和合による統一は「大自然の状態」である。(宗教的)

 

 大自然の状態は人力で左右できない。(宗教的。どういう意味か。)だから和合による統一は「永遠」である。力による統一は、力が続く限り続くだけで、他の力で破られる。だから一時的である。

 

249 ローマ帝国や、中葉(中世?)欧州、アジアで覇を唱えた強大国の興亡を考えてみよ。大自然を基本とする大宇宙の大原理を示し給うた神武天皇の詔を(覇権的な)統一を意味すると考えるのは不当である。(そうあなたが思い込んでいるだけでは?)

 

 八紘一宇は八紘為宇と同義である。(両者が別の意味だと多くが誤解しているということか。)しかし、八紘一宇の場合、「一宇」に拘泥し、統一の意味に解釈する恐れがある。松岡は八紘一宇と言った。そして八紘一宇を「東亜指導の基本」とした。「東亜指導」とは、日本が他の諸国に対して優越の地位を占め、人為的に他の国家や民族をその勢力下におくことを意味する。それでは独伊が全体主義を基礎に欧州を指導しようとする野心に、松岡が共鳴していると解釈されても弁解の余地がない。松岡は「不用意」であり、他(の列強)から疑いを受ける原因となる(なった)ことは遺憾である。(松岡にも罪はないということか。)

 

250 松岡の考えが、「世の短見者」のように独伊と同一で、彼らと力を合わせて東亜を支配しようとすることならば、それは神武天皇の深謀遠慮に背反する。

 

 近衛内閣が決定した三国同盟は「公明」でない。(どういう意味か?)そのために列国が我が国に疑いをもったのは遺憾である。(松岡は実は正しかった、列国が誤解しただけだということか。)

私は第二次近衛内閣の三国同盟に反対の意見を持っていたが(それは言わなかったということらしい。)、私は当時政界に関与していなかったので、全くその経緯を知らなかった。私が第二次近衛内閣の一員になったのは、194012月であり、それは同盟締結の数か月後であった。意見を述べる余地はなかった。また私がそれに入閣したのは、大政翼賛会の、ナチス的ファッショ化を防止するためであった。そのことは宇佐美弁護士に交付した書面に記載されている。(全体として松岡に罪を擦り付け、自分は無関係だったと弁明する。しかも大政翼賛会にも反対だったと、言葉巧み。)

 

 三国同盟締結の、日本の東亜政策や、日ソ関係、対英米関係への影響

 

日本の東亜政策について独伊が一層好意的になった。これは同盟の効果であるが、そのために日本の(東亜)政策が変更したことはない

 

251 三国同盟締結が対ソ関係に及ぼした影響 対ソ関係でも変更はなかった。近衛は三国同盟を締結する以前に、ソ連との友好関係を強化しようとしていた。ドイツのスターマーもそれに賛成し、「『(日本がソ連と友好関係になっても)ドイツは異議ないだろう』とスターマーは明言していた」と近衛は言った。しかし独ソ開戦となり、近衛の希望は達せられなかった。

 

 松岡がソ連と中立条約を結んだ後に、(駐日)ソ連大使に「日本は独伊との同盟を政策の基礎とする。ソ連との中立条約に関わらず、ソ連に対して敵対行為をすることを保せず(=しないという保証はない)」と言ったが、これは松岡一人の意見であり、日本政府の意見ではない。

 

英米との関係 近衛内閣は英米との親善関係を回復しようとした。松岡は、ドイツ滞在中に、米国との協商について、野村(吉三郎駐米)大使(1940.11.27任命)に訓令を発した。松岡はドイツからの帰途に、モスクワで、駐ソ米国大使とこの点について内談した。他方松岡は、ドイツ滞在中に、同国(ドイツ)当局者と会談したが、その際に、対英戦争に言及し、シンガポール攻略の意思を表明したようだ。しかしその際松岡はこれを極秘扱いにし、日本の当局にも洩れないように希望し、もしこれが日本当局に洩れたら自分の地位が危うくなるだろうと言ったが、そのことは、その独逸人との談話の筆記に書いてある。つまり、松岡のシンガポール攻略論は、松岡だけのものであり、政府の意思ではない。また松岡のドイツ滞在中に、(駐日)オットー大使が、当時の(日本の)参謀総長に「シンガポール攻略を決行してほしい」と懇請した。(これはおそらくリッペントロップ(外務大臣)の訓令によるものだろう。)ところが参謀総長は、「その時期ではない」とそれを拒否した。

従って三国同盟が対英米戦の前提になったということはできない。つまり後に起った太平洋戦争は三国同盟とは無関係であり、外の動機による。もし米内内閣のときに、外務と陸海軍の属僚間の談話を引用して、三国同盟と対英米戦争とを関係づけることは間違いである。米内内閣の時、政府の当事者は三国同盟に反対していた。そして当時の有田外相は、英米との親善を説き、三国同盟に反対の演説をした。その際に、その属僚の外務省官吏が、三国同盟と対英米戦争とを結びつけた談話を交換したことは、政府とその属僚との意見の食い違いを示している。

松岡の帰朝後、私は松岡に「独伊との同盟は既定事実であるから簡単に変更はできないが、そのために英米との関係を悪化してはいけない」と言った。条約締結の目的は、東亜の指導権を獲得することであった。

 

 平沼内閣の時の条約締結のための協商と、第二次近衛内閣の時の三国同盟の締結とは動機を異にし、連絡はない、と松岡も枢密院で言明した。

 

 

 

 

徳治論 雑誌『国本』大正14192591日 58

 

 

感想 神(天皇)がかり的。外国嫌い。マルクス主義・アナキズム嫌いから外国嫌いになったようだ。外国嫌いの元をただせば、幼いころの儒教や仏教の教養があるようだ。外国嫌いを合理化するために天皇制の利用にとたどり着いた。それが自身のエリート主義と重なり、すごく尊大である。自分以外に国家的危機を救える者はいないと豪語するかに見える。本論の最後のところで「現代に徳治を憶ふもの豈に不肖のみならんや」と言いつつ、国本社への加入を勧める。

 

権力ではなく道徳だ、覇道ではなく徳治だ、と言いつつ、最後では権力を肯定する。権力を持たないかのように装いつつ権力を持つというのは欺瞞的である。

 

メモ

 

254 最近「政治は力なり」と高唱する人が多い。確かに政治は力を欠いては成り立たない。秩序や治安、国威、平和などを維持するためには権力が必要である。しかし、力は末であり、本ではない。政争と政治を混同し、金力と腕力で政権を取得することを第一に考え、国是国策を考えないのではいけない。徳が本である。政治は徳治でなければならない。権力は徳治を全うするためである。

 

人道の究極はである。仁は万物を生み育てる。人は天地のを受ける。仁は自然の中にある心性である。仁は自己愛から始まりそれを他者に及ぼす。子に慈を、親に孝を与える。それは自然なこと、天性である。一家が親和し、長幼男女がその所に安んじてその本務に努める。これを拡大解釈し、一国の親和、世界の親和となる。それは個人道徳、国民道徳、世界道徳である。

 

三 マルクス主義やアナーキズム批判

255 人道は大路であり、人は素直な人生を送るべきだ。しかし、(マルクス主義者やアナーキストのように)ことさら大路をそれて枝路を選び、道に迷う人がいる。枝道には荊が多く、道は険しく、健脚でも迷路に入り込んで出られなくなる。歴史上、難路を好んで煩悶する人も多かった。

迷路は異端邪教である。述べるだけで作らない。(自己主張するだけで生産しない。)奇勝(平等の共産社会)を希う人もいる。しかし迷路は人心を繋ぐことができない。

 

256 「現代人は口を開けば生活苦を叫ぶ。生活苦の容易ならざるの事実は、不肖の素より否定せんとする所でない。さり乍ら、生活苦の真因を究むるに、その一半の責任は、世の所謂知識階級と称する者の負うべきことは明らかである。(人々の生活苦の原因が、マルクス主義者やアナーキストにあると、本末転倒した主張をする。民衆に真実を知らせないことが、民衆に幸福を齎すと考えているようだ。)彼らは自己当面の一時的苦痛不平に代えて、事理を没却せんとし(その仕組みを詳述して欲しい。)、秩序を破壊して愈々世相の安定を呪わんとするに似たり。(誤解)」その結果は社会の徹底した不仁化である。生活苦の真因が富豪による積年の吸血の罪にあるとしても、あるいは政党者流の年来の悪政のせいだとしても、自己の本性を冒してまでして奇矯な行動に出ることは慎むべきである。(ストライキやデモのことを言っているらしい。それが人間の本性に反すると言いたいようだ。)

知識階級は先ず自己の人格的修養を始め、自然の理勢に順応する対策を講じるべきである。(生活苦)対策の最高権威は仁愛である。仁愛は道学者の夢物語だと言うな。現代の知識人は知識に捉われて明魂を覆ってはならない。知識人が仁愛を無力だとするのは(貧困という)一瞬の現象に捉われているからだ。知識人が大自然の法則を無力だと批判することは無謀の冒険である。大地に立て。大衆に仁を説けば、少数特権者がどんなにもがいても何もできない。(あきらめの宗教的アヘンを推奨。)知識人が問題の根本に触れずに叫んでも、奔命(忙しく立ち回る)に終わるだろう。それは知識人の誇りと言えるか。

 

257 「近時我が国の知識階級と称する者の中(に)、ともすれば唯物思想に基づく僻説邪教心酔して能事(なすべきこと)了れりとするものあること(は)、大に遺憾とせざるを得ない。(自らが取締り側であることを隠そうともしない態度が明白である。本論文は19259月、治安維持法成立時1925.3.19に書かれた。)欧米に流行する思想や文物をいち早く取り入れることだけを心掛け、自らを「天晴新人」と誇称して憚らないとは滑稽である。欧米の長所を採用することは妨げないが、その短所は排斥すべきである。僻説邪教は俗耳に入りやすい。その理由は新奇を求め(ようとす)る人心の弱点に乗じているからである。何々主義、何々運動といい新装を凝らして輸入されている。彼らは新奇即真理と宣伝し、巧みに伝統を破壊して人性を呪詛するのを戦術としている。従って真理は平凡だからとして排斥し、(普通でない)縦眼横鼻を快感とする。それが彼らの真理である。常道を逸し、荒風頽勢に勢いを得ている。全く一国の将来は寒心に堪えない。

 

 学問は本を読み人から話を聞くことを方法とするが、それだけでなく謹んで思いを篤くして行動しなければ真の学問とは言えない。つまり彼らには修養ができていないのである。昭憲皇后(明治天皇の妻、一条美子)の御製に(皇室に依存)

 

かへりみて心にとはば見ゆべきをただしき道に何まよふらむ

 

これは恐らく這般(今日)の消息(思想状況)を喝破したものであり、その御卓見を恐れ察し、感激に堪えない。慎思篤行により正道を踏む。迷路に入ろうとするも、些かの間隙もない。慎思篤行によって道徳が行われ、自然と融合する。こうして真の学問はその目的を達するのである。

 

259 国家存在の基礎について古来欧米の国法学者の間で色々な論議があったが、日本人の見解からすれば、国家存在の基礎は極めて明白である。人類の道徳的理性が国家存在の基礎である。人道を全うし仁愛を全うすることである。仁愛は人性である。人類はすでにこの心性を持っている。孤立でも群居でもなく、共同生活して国家をなす。それは自然で無理がない。そこに道徳的最高峰を仰ぎ見ることができる。

 

 西洋の国家存在の基礎は、生物進化の理法や契約説や、外にも雑多なものがあるが、なるほどと頷けるものはない。我らは日本の国家存在の基礎が人道であると信じる。政治は人道を天下に広めることである。身を修め、家を齊え、国を治め、天下を平らかにすることができる。この修身齊家治国平天下は、自然で変異しない順序である。

 

 政治下に修養を説くことは急務である。ところが修養は教化であり、政治には関しないという政治家がいるが、それは間違っている。教化こそ政治である。政治は政争ではない。政争は危険である。また政治は現実的である。政治家が実践して範を国民に垂れなければ、政治は無力で腐敗する。道徳がなければ人心は去る。

 

 

感想 2025520() 「仁愛」といい「和」といい、「世界の和」を唱える。至極もっともなことであると思われるが、「世界の和」を唱えながら、なぜマルクス主義や無政府主義との和を例外として排斥するのか。同様になぜ西洋の知を例外として排斥するのか。

平沼は当時のマルクス主義を「唯物論」としてとらえているが、それは間違っているのではないか。唯物論なら古代ギリシャのデモクリトスも唯物論である。

平沼は天皇制=家父長制という差別構造をなぜ受け入れるのか。それは宗教である。豚や牛を食べないのと同じレベルである。差別を認めることは民主主義を否定することである。差別も「和」と矛盾するのではないか。

平沼は政治家が「国策」を語らず、政争に走っていると批判するが、それではそのあるべき国策とはいかなるものなのか、を示していない。また政治家の政争を批判するが、政争のどういう点がいけないのかも明らかにしていない。(平沼は政治家の買収を摘発したというが、そのことか。)

 

 

260 論語「之を道(みちび)くにを以てし、之を齊(ととの)ふるにを以てすれば民恥ぢ且格(いた)るあり。」これ即ち徳治である。この反対が現今の法家の学であろう。法だけで天下を治めようとしても、その目的を達することはできない。そのことは歴史が実証している。(例を挙げてください。)「之を道くにを以てし、之を齊えるにを以てすれば、民免(まぬが)れ(逃げて)、恥じることなし。」

 

 徳治があって初めて正義が起り、活発な政道が行われる。支那では周末に大いに乱れ、諸侯が皆力を競った。秦漢以後、明君(めいくん、賢い君主)が世に出なかった。こうして力による革命が展開されることになった。

 欧州近世史におけるルイ14世は、力を以て立国の大本とし、「朕は国家なり」と称したが、革命の機運が激しくなって流血の大擾乱となり、遂に帝政は壊滅した。仁愛による政治では経験しなかったことである。

 ヨーロッパで革命がしばしば起こったのは、力と力の対抗の結果である。革命にならなくても常に争闘を続けた。ヨーロッパの立憲政治は、人民の力が、時の権力者に対して示した力強い反抗や争闘の結果である。日本の立国の大本である一君万民の精神から出発した立憲政治とは全く異なる。歴史は争闘の歴史であるとし、それを普遍的真理とする人は、無知である。唯物史観に立った階級闘争を力説する一派は、少しくらい日本の建国の精神と国史の事実である徳治を学び顧みるべきである。

 

 

261 徳治では名実が一致する。支那やヨーロッパでも徳政が皆無とは言えないが、名を仁に借りて、実際は力を用いることが多い。それは覇道である。一方、王道は徳で天下を治める。王道が行われているのは我が帝国だけだ。(極めて自己中で独善的。)

262 国家としての理想を実現しているのは我帝国(だけ)だ。我が帝国の建国の基礎は「天壌無窮の神勅」だ(すでに宗教)。国民がよく服従してこれに反発しなければ、いよいよ国家は道徳的に完成されるだろう。(民衆は黙って従え。)こうして我が国家の理想を益々向上させ、同胞を精進させ、世界に向かって教示するならば、わが国家の存在理由は一段と光焔を放つだろう。これこそ私たちが我が国本を固くしようと広く同志を求める所以である。(国本社宣言)

 歴史上、我国家と国民は歴代天皇の御仁政の感化を受け、誠に円満かつ無碍(ガイ、じゃま)の発達を遂げてきた。我祖先は皇室を奉体し、補翼の誠を致し、大体において大過なく今日に至った。かくて大和民族の国家は、事実上皇室中心の一大家族として、極めて自然に発展してきた。我国民は生まれながらにして臣民である。過去・現在・未来にわたり、その(臣民としての)関係は絶えることがなく、しかも安心してその生を楽しみながら、確乎として信念を動かすことが出来ないのも、その(臣民である)ためである。わが国には治者対被治者の葛藤や闘争がなく、「君君たらずんば臣臣たらず」というような冷たい関係が起り得るはずがない(宗教的信念)。これは我立国の基礎が力ではなく徳にあることを示している証拠である。

 

 仁徳天皇は高い家屋に登り、「百姓の貧しきは朕の貧しきなり、百姓の富むは朕の富めるなり」と言い、限りない「仁愛」を示し給うた。明治大帝も、慶応4314日の御宸翰で、

 

「今般「朝政」一新の時に当たりて、億兆其所を得ざる(良い地位や境遇を得ない)時は、皆朕が罪なれば、今日の事、朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、列祖の尽くさせ給ひし蹝(しょう、跡)を履(ふ)み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じ、億兆の君たる所に背かざるべし」

 

これは徳を一貫しようとする大御心であり、これを読んで、臣民の誰が感涙しない者があろうか。

 

 中世藤原氏の後、武門が跋扈し、覇道が行われたが、これらは一時の変体にすぎない。武家の政治はほとんどが覇道であったが、政治の大本に通じて仁政を施した者が少なかったともいえない。最明寺入道時頼*はそれであろう。(武家が)朝廷を蔑にした罪は許されないが、民政に力を尽くした点は、国家存在の大本を念としたものであり、名を仁に借りて私利を謀るものではなかった。

 

*鎌倉幕府の第5代執権北条時頼1246-56は、1252年、第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放し、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。親王将軍の始まりである。Wiki

 

 

感想 2025521() 率直に言って、天皇信仰は非常に奇妙ではないか。もし自分が天皇にされ、べたべたと他人から愛を注がれたら、気持が悪くなるのではないか。他人に愛を注ぐ人も、同性同士なら、ホモと言ったら差別用語かもしれないが、私はそんな風に同性を愛したくないな。気持ちが悪い。

 

 

263 徳治には権力が必要であるとし、「徳治」と言いながら、それが徳治を口実にした覇権にすぎないことを暴露している。国本社という国民運動の提唱は、マルクス主義運動に対抗することから生まれたようだ。

 

上述の通り政治の根本は徳治であるが、徳治は「力」がなければ成り立たない。力(国家権力)がなければ秩序を維持できず、泥棒が横行して民(富者)が安心できない。また無道の外患が襲ってきたとき、武力がなければ徳治は発揮できない。(外交努力はしないのか。)

 

 崇神天皇時代に「布教」の詔勅があった。四道将軍派遣*の詔勅である。それは徳を本とし力でこれを完うするという趣旨であった。感激に打たれる。

 

*日本書紀に登場する皇族の4将軍。北陸、東海、西道、丹波に派遣。「教えを受けない者は兵を挙げて伐て」と命令。崇神天皇は3世紀から4世紀の人とされる。

 

明治の世では、世界平和を念としたが、「無道の国」がその欲を逞しくし、東洋の平和を乱そうとしたために、やむを得ず兵力でこれに臨んだ。(清露が平和を乱したというのか。自らのことは考えないのか。)

 

264 我が国は古来尚武(軍事重視)の国である。「尚武とは力を以て徳を完うすることである。尚武は仁愛と相通じそれと不可分である。」(これは平沼の勝手な論理。)国民は尚武の「真意義」を理解し、自分の使命(兵隊としての使命)が軽くないことを思い、ますます尚武の気風を養成すべきだと自覚すべきだ。(命令)

 

法制も徳と力の関係を重視せよ。法の本来の意義は人を責めることではない。法は人道に基く。道徳は法律の内容である。ところが世人は、法律を力だと誤解し、強制力を高唱するが、法の強制力は道徳を完うすることである。

 

現代において徳治を憶ふ者は、不肖(自分)だけだろうか。国本社は(マルクス主義のために)この「国家多難な時」に、「国民精神」の基づくところに従い、「挙国的大運動」に出ようとしている。国本社は時弊が「容易ならざる」ことを察知したために、国民の道徳的自覚を促そうとしている。同志諸氏の蹶起を待つ。

 

 

 

 

建国精神と国本社の使命 昭和41929317日、62歳のとき、前論文の4年後、群馬県新田における国本社支部設立発会式での講演

 

 

 

感想 2025522() 平沼騏一郎は言う。当時白色人種たちは有色人種を対等な人として扱わず、私利をほしいままにして資源を奪った。ロシアは中国や朝鮮に進出して来ており、その勢いは日本にまで攻め込んでくるのではないかと恐れられた。だから日本はロシアに戦争を仕掛けた。日本が戦力では劣勢だと分かっていたのにと。

 

 結果は日本が勝った。それは日本精神のお蔭だというのは後づけの論理だろう。負けていたらそんなことは言えないだろう。さらに日露戦争での日本の勝利が、それまでの白人至上主義に一石を投じたというのも、後づけの論理だろう。同じく負けていたらそんなことは言えないだろう。

 

 

日本は戦争によらない解決策を何故選ばなかったのか。戦力で負けているし、戦争すれば、日本だけでなくロシアも、人命を失い、それまでにつくられてきたあらゆる文物を失って何の益にもならないと分かっていたはずだ。それを何故戦争という手段に訴えたのか。これは再考すべきである。

 

日露戦争は侵略戦争だと当時も列強から批判され、それは納得できない、と平沼は言うが、戦争をしかけて物事を解決しようとしてそれに勝利すれば、そういう行為はりっぱな侵略行為なのではないか。

 

それと日本は宣戦布告もせずに2/6に戦争を仕掛けた。宣戦布告をしたのは4日後の2/10のことである。

 

またもし戦争に負けていたらどうなっていたか。それこそお望みどおりに、日本はロシアの植民地にされていたかもしれない。そういうことは考えなかったのだろうか。ただ好戦的な分子に振り回されたということか。負けるかもしれない戦争をなぜ始めたのか、不可解だ。日本精神があるから勝てるなどというのは、後づけの論理だ。

 

 

 

メモ

 

先ほどの岸本少尉の話は実に恐ろしいと感じた。毒ガスは非常な威力を持つ。各国は絶えずその研究を怠らない。毒ガスの研究が進めば、戦争のために世界が破壊されるかもしれない。それは異論のない所だ

 恒久平和はこの上ない幸福である。それには異論がない。しかしながら、実際宇内(世界)の形勢を観察すれば、遺憾ながら、世界の恒久平和は事実上到底望むことができない

 先年の(第一次)世界大戦は未曽有の大戦であった。各国は、国として個人として、非常な脅威と災害を受けた。脅威と災害を受けた直後は、誰もが戦争を避けたいと心の底から考えたしかしながら、咽喉元過ぎれば熱さを忘れるといわれるように、いつの間にか忘れられ、戦禍を引き起こした利害の衝突が原因となって再び戦争が起こらないと誰も保証できない状態となっている。これは人間の歴史を考えてみても明らかなことである(戦争必然歴史観)。世間には「国際連盟というものが出来た。もう戦争はなかろう」と言う人がいるが、これは実に愚の骨頂である列強の今日やっていることをよくよく御覧なさい。先ほどの少尉の話のように、アメリカは勿論、その他の国々も、盛んに戦争の研究をしている。毒ガスの研究をしている。今では虫を殺すためにやっている。いくら条約で毒ガスの使用を禁止したところで、そんな条約は戦争が始まれば何の役にも立たない。(国際協調の精神が端からない。)わが国は勿論平和を尊ぶ。建国以来の我が国の歴史がよくそれを証明している。(戦争を好むのは欧米だと言いたいようだ。それにまた神話の援用。)しかしながら国家を防御し、正義を全うしようとするその大目的のために戦争も必要である。(戦争不可避論の居直り。)この大目的を前にして徒に戦争を回避すべきではない。言葉の上の平和は空想である。

 

日露戦争は西洋人からは日本の侵略主義、今日称えられている帝国主義のためにした戦争であると解釈され、日本は戦争好きの国民であると宣伝されてしまった。外国人は何かの為に盛んにそう宣伝したのだろうが、日露戦争当時の我が国の状態、ことに当時の世界の情勢を詳知している者(日本人)から見れば、それは誤解であり、わが国は全く痛くない腹をさぐられたのである。そもそも日露戦争には侵略という意味は少しもなく、実にやむを得ない戦争であり、正義人道の為に戦ったのであるということは、当時戦争に参加した(日本の)人々は勿論、当時官職に在ったすべての(日本の)人達が悉く了解している。若い人は学校でこのことを教えられているかもしれないが、このことは我々国民としてよく承知しておらねばならない。

 

267 当時の世界情勢はどうであったか。日露戦争までは世界は白人専制の世界であった。当時色の白い人種は、「文明は我々の独占である、異色人種は劣等人種である、我々は優良な人種である、色の変わった人種は総て劣等民族である」と、自分達の優越を確認し、有色民族を蔑視していた。従って彼ら白色人種は、「国際法は白色人種間に行われるべきものであり、異色人種はこの利益を享受することはできない」と考え、異色人種に盛んに圧迫を加えしかもそれが正義に反するとは決して考えなかった。白色人種が誇りとするものは物質文明であるが、その物質文明を形作る資料は、彼らが蔑視している異色民族の土地へ行って、異民族を脅迫し、もしくは欺瞞し、その資料を奪い、それによって彼らの物質文明をつくる材料とした(それは事実)。これは争うべからざる事実である。そして我大和民族も、彼らから見れば、異色人種である。日本人も彼らが異色人種に対して加えた圧迫から免れることはできなかった。そしてその最も直接に圧迫を加えたのがロシアだった(三国干渉か)。ロシアは支那に対しても、朝鮮に対しても、圧迫を加えた。その最後の目的は日本即ち我帝国に対する圧迫であった。満洲がロシアの領土となれば、次に朝鮮がその領有に帰することは明々白々の道理でありそれがさらに大日本帝国の領土にまで及ぶことは明々白々の道理である。このようにもしロシアの蹂躙のままに任せたら、「東亜の平和」は全く攪乱され、ひいては「我帝国の存立」を危うくするに至ることは、明白な道理である。

どうしてもこれは早いうちにロシアを征伐しなければ、「東亜の平和」は維持できない、「我帝国の存立」を全うすることはできない、というのが当時の事態だった。このことは明々白々、一点の疑いを容れる余地もない。(別の選択肢は考えなかったのか。)

 

268 その当時の彼我の勢力を比較してみると、数字の上では彼のほうが勝り、我は劣っていた。(無謀な戦争だった。)戦争が始まったときの欧州人の観察は、「日本は到底ロシアには勝てまい」と一致していた。その当時のロシアは、欧州の列国からも恐れられ、その陸軍は欧州列国の驚異の的であった。

我国内においても、必勝を期してはいなかった五分五分も非常に難しいと識者は考えていた。しかし勝目が薄いからといって、また戦争をしたくないからといって、戦争しないわけにいかなかった。(太平洋戦争と同じ論理。)もし彼のなすままに任せておけば、「東洋の平和」は全く攪乱させられる。「日本の存立」が危ぶまれる。日露戦争は侵略主義ではなかった。正義のため、人道のために敢然と起たねばならなかった。已むに已まれなかった。日露戦争は、早くロシアの恐るべき覊絆(きはん、つなぎとめる、足手まとい)から免れねばならぬという国家的必要から起こった戦争である。

 

 幸いにして畏くも明治天皇陛下の御稜威(尊厳な威光、また天皇神話)と、我国民の一致協力により、勝つことができた。物質論からすればロシアの方が優っていたが、わが国上下一致の精神、この精神力によって光輝ある結果を治めた(精神主義)。それは尊いことだ。

直接的にはロシアからの圧迫から、大きく言えば白色人種の異色人種に対する圧迫から解放されるために我々は戦った。日露戦争は「我帝国の安全」のために、また「東亜の平和」(後出しの論理では)のために、さらに有色人種の解放のために義によってやむを得ず起こした戦争であった。

 このことは日露戦争までの我が国の国是であった。この国是の下に、国民の上下が一致協力して、奮闘努力し、日露戦争に勝利した。勿論当時国内で種々の争いがあったが、この大きな目的に対しては挙国一致であったことは明白であり(それは史実に反するのでは)、この挙国一致が、数字上では劣っても、精神の力で勝った。戦争直後、ロシアの全軍司令のクロパトキンは「数字上は日本に負けることはないと確信していたが、ただ一つ見落としたことは、日本国民の大和魂であった、これを計算に入れなかったために敗北した」と言ったと、私は日露戦争直後に聞いたことがある。日露戦争はこのように意義のある堂々とした戦争だった。その結果は、世界の歴史に一大新紀元を画し、白色人種の迷夢を覚ました。我大日本帝国自身からしても意義のある戦争であり、東亜のため、異色人種の為、世界全体の為に、歴史に一新紀元を画すべき有意義の戦争だった。(尊大な東亜の盟主観)

 

 

感想 人種差別があるからとして対ロ戦争を始めるかどうかはともかくとして、平沼が言うように、西欧が自らのルール(国際法)を作り、西欧以外の国々(地域・人種)に対しては、そのルールの適用から除外し、差別的搾取の対象としたことは確かなことだろう。

今だってそうだ。自らのルールを作り、その物差しで脅す。トランプを見よ、トランプの南ア大統領に対する態度を見よ。明白なことである。しかし現在ではその大国の横暴に対して、戦前の日本やドイツのように戦争に訴えるのではなく、それ以外の平和的な方法を考え出そうと模索するように進化してきているのではないか。当時の日本人にはそういうゆとりはなかったのか。

 

ロシアから戦争を仕掛けられていないのに、日本が対露戦争を始めたということは、それなりの勝算があったに違いない。平沼はロシアに比べて日本が戦力において劣っていたというが、格段の差があったわけではあるまい。

 

 

 

271 我が国は日露戦争後列国から一等国の待遇を受けることになり、我国民もそう信じているが、それは欧米から物質文明を輸入して富国強兵を図ったからだけではなく、我々の祖先以来伝統的に保持してきた大和魂という固有の民族精神の発揮に他ならないのであり、物質文明の輸入の如きは、たまたまそれを時代的に発揮する機縁になったに過ぎない。(日露戦争の勝利は、物質(武力)とは無関係で、精神力の成果のみによる。)

 

 国家の地位をここまで向上させる上で最も必要であった大和魂が、日露戦争後、遺憾ながら、消磨しつくされたのではないかと危惧する。今日の国内事情で間違いが多い。

 政治家が私欲を捨て、国家に関して議論するのは至当であるが、もし一党一派のことや個人の利益打算を基礎に争うとすれば、それは許すべからざる罪悪である。今日のすべての政治家が国家のことを考えていないというわけではないが、党利党略や私利私欲のために為す論議争奪が全くないわけではない。

経済界についても同様である。一国の経済を好い方向に導こうと努力するのが経済の本筋であり、実業家の任務である。勿論実業は利益を得ることが本位であり、一国の利益とともに個人の利益も増進させることは立派なことであるが、国家の利益を外にして、ただ個人の利益から打算して相争うなら、由々しきことである。

 学者でも、互いに原理を研究して相手の議論をよく消化するなら結構であるが、ただ己の門戸を張り、自己本位の動機から議論すれば、互いに他を陥れることだけに没頭し、学問の進歩を阻害することになる。以上のように政治家、実業家、学者において、不純な争いが絶えないなら、国家の前途は憂うべきである。

 

 日露戦争以前に我が国に存在した共同一致の精神、即ち一定の国是の下に、総ての国民上御一人を奉戴し、国家のために精進努力し、臥薪嘗胆身命を擲って公に奉じる精神が消磨しているとは言わないが、だんだんと薄らいでいる、と私は多くの人と共に憂えている。各国は虎視眈々としている。国民はなお一層の奮発努力をすべきではないか。表面上の一等国や、世界戦争で金儲けができただけでは誇るに足りない。我帝国が全世界に誇り得るものは、建国以来養ってきた大和魂である。

 

273 維新 最近多くの人々が「昭和維新」というが、それはどういう意味で、何を意味させねばならないのか。支那人の書いた書物に『周雖旧那其維新』とあるが、「維新」はこれから出た。それは、支那人の考えでは、「新たに国を建てるのは天命に依る。年が経過して邦が古くなっても、天命は常に新しく建国の時と変わらない」という意味である。ものは古くてもそのは新しいということである。

 

一国の精神は建国の際には実に健全で立派だ。しかし国が古くなると、汚れがしみついてくる。個人の場合も同様で、赤子は純な真直な精神を持っているが、世に出ていろいろな境涯を経て、いろいろな人と交わると、純真な立派な精神に汚れや垢が付く。人間は常にその汚垢を拭い消毒して、心鏡をきれいにしておかねばならない。これが個人の修養である。同様に国も、古くなると汚れがつくから、之を消毒して当初の清浄に還らねばならない。これが即ち維新である。明治維新も同様で、国家の大掃除をして、我が建国の大精神に還ったのである。大化の維新もしかり、建武中興もしかり。金甌無欠(きんおうむけつ、甌はかめ)の我が国体は徹頭徹尾誇るべきであり、基本筋に変わりはないが、世の経過とともに汚れがついたり、濁ったりする。その汚濁を一洗して再び元の新しさに還すことが維新の意気である。そして今日、明治維新後かなり年月が経ち、汚れがついたので、これを拭い去って、元の新しい所へ還す、これが昭和維新の本当の意義である。

 

274 今日の国内の状態を観察すると、日露戦争まで我々国民の間にあった国民精神、つまり一定の国是の下に欣然(よろこんで)身命を擲(なげう)って奉公努力するという尊い国民精神が、今日全然なくなったわけではないが、大分汚れがついた。今のままに抛っておけば、汚れが深くなり、遂に誇るべき民族精神も消磨してしまうかもしれないという恐れがある。だから今これを元に還す、常に新鮮で、常に明朗なものへ戻す、つまり我大和魂の本体へ還って確乎としてそれを把握する。昭和維新の本義はそれである。我日本国は、天地の大道が現れ、それが我が建国の精神となった。我々人類(人類と言っても日本人だけをさす)は天地の徳を受けた。天地と同じ精神で進むことが人のであり、正義であり、人道である。わが国存立の目的は、この正義人道を地上に宣べ行うことにある。即ち天業恢弘(天皇の事業を広く大きくする)の大義を天下に遂行することは、建国以来道義を以て国を建てている我が国家の使命である。(尊大)

 

 故に我が国の政治も、道義に立脚することを基本筋としなければならない。この本筋を離れた政治は悪政である。もし政治が、個人の利益や一党の利益にのみ立脚して互いに相争うなら、本当の政治ではなく、横道の政治である。

 

 「政治は力なり」という人がいて、何でも曲がったことでも力づくで押し通して行くと考えている。確かに力も必要で、力は正義を全うし人道を遂行するために必要なものであるが、力は政治の全体ではない。力や多数の力で押し通して圧迫するのは間違っている。

 

我々は微力ながら、聖代に御奉公しまして、大君の為に、国家のために尽くす以上、この根本の精神を理解して、一意専心、建国の精神に則って、道義的政治を遂行するよう努めたい。支那人の言葉を借りれば、を全うしなければならない。仏書では大慈大悲を全うするという。政治は人類相互の愛(本気でそう言っているのか。)、同胞相愛の大精神を全うし、実現することである。これが天業恢弘の道にそうことである。

 

 

 

276 日本の建国の精神を世界に実現するために、実力=軍事力と勇猛心を持て。というアジ演説。非常に自己中。

 

 我々は世界全体の平和を保証するつもりだ。それは究極の理想であり、我建国の大精神であり、我国の使命であり、明白な道理であり、国家の正義であり、国民としての人道である(大げさな大風呂敷)。

 

277 ただ誤解してはならない。徳は力を全く度外視するものではない。徳は力を以て初めて徳となる。(徳と言いながら、それは武力だと居直っている。)

 立派な精神も力がなければ、徳の働きをなさない。講釈だけではいけない。実行しなければだめだ。仮に先述の大使命を持つ日本に対して反抗するものがあれば、先ずこれを諭し、肯んじなければ、それを抑制しなければならない(自分勝手)。また陛下に対して無道を致すもの(ソ連共産党?)や、弱い敵を相手に世界の平和を破るような非道をなすもの(旧ロシア)があれば、わが国は敢然としてそれを抑制しなければならない。道義立国の精神、つまり建国の精神を全うするためには、机上の議論だけではだめだ。如何なる障害があっても、これを突破し、正義のためには毫も己の主張を枉げず、あくまでもこれを遂行し、実現しないではいられないという勇猛心と実力を平生十分に具備することが最も大切である(アジ演説)。

 

 

五 力と精神(大和魂) 大正天皇の「精神作興の詔勅」1923

277 今日のハイカラ者流の中には、「国家は不用であり、国際主義でなければならない、国際連盟がある以上は、連盟とともに行動すればいい」という人がいるが、それは浅薄な愚論である。世界の恒久平和を実現し、世界全体が相信じ相協同することは、我々が最も希望するところだが、この希望を実現し、保全して行くためには、力が必要だ(力で以て一方的にねじ伏せるという平和論)。人類の共同目的に向かって妨害するものがあれば、征服しなければならない。(そういう目的は人類の共同目的とは言えないのではないか。そんなことが分からなかったようだ。)

その力とは先ず武力である。それは化学戦ばかりでない。日本から武力を取ったら誇りとするものはなくなる。日本の武力は矛だけではなく、悪者を征伐して平和を保つことでもある。この尊い精神があるから、日本は尚武の国として自らを誇り、他からも称されている。(どこの国が称賛したのか。)この精神の下に、それを発揮する力を備えたものが、大和魂である。どんなに物質面で進歩しても、根本の精神が緩やかであってはならない。しかしまた物質面でも研究を怠っては戦争に負ける。同様にどんなに立派な機械があっても、肝心の大和魂が消磨していては、その機械は何の役にも立たない。

 

279 この精神を十分に発揮し、充実し、豊富にするためにはどうすべきか。これは一大事であり、昭和維新の真意義をなす。国本社存立の趣旨も全くここにある。先ほど奉読した「精神作興に関する詔書」1923.11.10に先帝陛下(大正天皇)は、

 

「浮華放縦の習漸く萌し軽佻詭激の風(共産主義)も亦生す今に及ひて時弊を革めすむは(ずんば)或は前緒を失墜せむことを恐る」

 

 我々はこの詔を拝して恐れ入り、国民として相済まぬことであるとその当時深く感じた。私は当時台閣の末班に列していた。このように宸襟を悩まし奉ることは恐懼に堪えぬことであり、これは何としても我々臣子の分として、身命を擲って、一日も速やかに聖慮を安んじ奉らねばならぬと深く考えた。(そんなに有難がることもないと思うのだが。)

 

 

六 国本社設立の趣旨

279 (関東大)震災以後の我が国の状態は、日露戦争以後漸次消磨しつつあった民族の精神が、前述の大正天皇の詔勅によって復興されたとは考えられなかった。今日の我が国は、奢侈淫蕩の風が益々盛んである。富豪や貴族は今少し倹素の風を養ったらどうか。東京その他の都会地を歩くと、いまいましい奢侈淫蕩の風が至る所に耳目に映ずる。また昨年1928年検挙された共産党事件は未だ全部が発表されていない(検挙されていない、416に弾圧)が、生をこの国に享けながら我国体を呪い、ロシアのソビエト政府を祖国とする*など、実に乱臣賊子のような輩が出て参った。先帝陛下がお戒めになったことは実にここにある。先帝陛下は、

 

「今に及ひて時弊を革めすむは(ずんば)或は前緒を失墜せむ」

 

と仰せられた。誠に悲痛な詔である。畏れ多いお言葉だ。「もしこのままで行ったら、明治大帝の皇謨(こうぼ、天皇が国を治める計画)も全うすることができないだろう」と仰せられている。我々は何としても感奮一番して、この詔の御趣旨に副い奉るように心掛けねばならない。

 我々は先帝の御在世中に宸襟を安んじ奉ることができず、泣いて先帝の轜車(じしゃ)をお送り奉った。

 

281 しかし今日徒にこのことを悔んでも致し方ない。昭和維新の大精神を発揮して先帝にお詫びしなければならない。国本社設立の意義もここにある。

 

 ここに国本社新田支部が出来た。先刻話のあった新田義貞公は、建武中興の率先者であった。また高山先生は明治維新に大きな功労があった。皆さんが建国の精神を発露し、昭和維新の実を挙げるためにご尽力下さることを願う。

 

(昭和41929317日、群馬県新田における国本社支部設立発会式当日の講演)

 

 

感想 2025529()

 

*共産党員が「ソビエト政府を祖国とする」と平沼はいうが、あり得ない大げさなデマである。「祖国」という意味が、「人が生まれた国」だとすれば、日本共産党員も日本が祖国であることに変わりはない。

 

 

 

昭和維新の意義  雑誌「国本」に掲載されたものを「中等国語読本」(巻九)に採録したもの。

 

282 「維新」は詩経の大雅に出て来る。これを明治中興に使用した意味は「建国は古いが、その命は維(こ)れ新にして、溌剌とした生気があり、徳澤は祖宗百代に光り、功業は子孫万世に垂れ給う」ということであり、天皇の丕績(ひせき、大きい功績)を賛美したものである。明治維新はその根本精神を神武天皇の創業に則ったから、王政復古となる。

 百度維新と王政復古とは矛盾しているようだが、実は盾の両面にすぎず、維新にして王政復古である。いずれも正しさに返ることであり、撥乱反正(乱れた世を治めてもとの正しい状態にかえす)という意味で一致する。つまり古道に復すことにより、国家の面目も一新することであり、国家政治の汚点を洗い、陋習を破り、坦々たる王道の古に立ち返り、面目を一新することである。それが維新であり、復古である。

 

 我が国の歴史で維新もしくは復古としての実例が二度あった。それは大化の改新と明治の維新である。

283 大化の改新は、蘇我氏や物部氏などの豪族が自家の勢力に恃み、互いに軋轢し、特に蘇我氏は、代々横暴を極め、国政を紊乱し、朝廷を蔑(ないがしろ)にしたので、中大兄皇子が蘇我氏を仆(たお)し、その横暴を制し、真の天朝の政道を回復した。

また明治維新も、七百有余年間武門が政権を専らにして我が国体があるまじき状態であったのを、これを打破して天皇御親政の正道に戻した。これが維新にして復古の理由である。

 

 昭和維新もこの意味でなければならない。今日天皇親政の下で国運が発展して来て、氏族政治や武門政治は今日では見られない。しかし国政は一旦改革しても、長い間にはあちこちが弛緩し、弊害が生まれるものである。

 

 大化の改新も、本筋では復古・反正(正しい状態にかえす)の大綱に変わりはなく、その補助作用としての細目の政治でも、時勢の推移や環境の変化に合った変革・創設の必要性を知り、時弊を矯正するために改革した。

ところが新制を採用することでは、先進国の範を求めることが便利・至当であったので、その範を先進国の支那に倣った。即ち唐政に則って新政を布いた。しかし唐様になり過ぎて、わが国固有の美点が閑却され、改新の光沢を減殺した。そこで天武天皇が旧制に復した。

 

284 明治の維新も同様である。長い鎖国政策のために文明開化に立ち遅れたために開国進取した。天智天皇の唐政模倣と同様に、制度文物を西洋から学んだ。これはやむをえない事だった。むしろ至当なことでもあった。勿論建国の精神は確立されていたのだが、西洋趣味が勝ちすぎた。これは開国進取の趣旨を一般の人々がよく理解していなかったためであり、何でも西洋から学ぶのが良いとされ、西洋かぶれになり、その弊害が後で現れた。

 

285 今日の我が国は、その隆盛が前古未曽有であり、一躍世界の列強の班に列し、世界の問題についても有力な発言権を得るに至った。わが国はもはや明治初年の日本ではなく、どこから見ても押しも押されぬ世界の一等国であるから、従来のように西洋の物まねをして喜んでいる場合ではなく、あくまでも日本固有の精神を基礎としてこれを拡充・発揮し、逆に西洋諸国に対して政治の模範を示して行くべきである。

 

 ところが西洋模倣の流弊が今や社会の各方面にわたり、幾多の悪影響を及ぼしている。殊に最近西洋流の唯物論に基づく一種の社会思想侵入し、将来我が国の運命を担うべき青年・学生の間に相当危険な感化を及ぼしつつあるが、これは誠に恐るべき戒めるべき傾向である。

私は外国のものは何でも排斥せよという頑迷固陋の見解を支持しているのではない。しかし徒な西洋模倣から生じる弊害は、今根本的に除去しなければならない。彼の長所を取って我が短所を補い、国家の生命の培養に資するべきである。明治天皇の開国進取の聖謨も、この精神に基づき、それは今なお依然として我国民に針路を示し給う。

 

286 わが建国の精神をますます発揚し、我が国体を永遠に維持して行く大目的の下に、適宜かつ冷静に、西洋の思想、学術、制度文物を輸入し、よくそれを咀嚼し、陶冶し、自国の栄養とすることが今後とも必要である。

 

反共主義者。

 

 

皇典講座開講式式辞 於鹿児島県 皇典講究所副総裁 男爵 平沼騏一郎 19435月 全国各地で古事記や日本書紀など日本の皇室関係の古典を講師を招いて講習していたようだ。

 

287 万邦無比の我が国体の由来、即ち尊厳な肇国以来の歴史は、多くの古典によって伝えられている。国体の精華を語っても、その歴史を知らなければ、国体の淵源を知らず、国体の精華を顕すことができない。

 

 50年前、オーストリアの著名な某国法学者が、わが国の国学者から皇国の歴史や、その君臣関係を聞いて、次のように述べたという。

 

「日本は古い国で、このような立派な歴史があるから、万世一系の皇統連綿の大事績が保たれた。今世界は開け、揉まれ(戦争をし)、争い疲れ、最後は世界平和を希望するようになるだろう。そのとき世界を指導する国は、必ず日本のような立派な伝統をもつ国でなければならぬ。天は人類のためにこのような国を作っておいた。」

 

288 日本人は勿論、外国人も、我が国体の尊厳を承知しているが、古典に通じないと何故尊厳なのかを理解できない。

 

 古事記と日本書紀は我が国の二大宝典である。古語拾遺、万葉集、祝詞、宣命も、わが国の淵源、精華、皇室や国家の由来、国民と国土の発展などを詳述している。この他に、民族関係、祭祀儀礼、改元、頒暦、山陵、宮殿、舞楽、兵制、学政、農事、服飾、医薬などが先祖以来伝来している。そして大化改新や明治維新、明治憲法は、皇祖皇宗の遺訓に基くものである。

 

288 古典を正しく解釈して現代に生かさねばならない。

 大東亜に新しい秩序を建設することは、橿原奠都(てんと、祀る、定める)の大詔に書いてある。今や皇威は八紘に輝き渡り、諸民族にその居場所を与える段階になっている。

 皇典講究所は創立以来60年になる。皇典講座を全国各地で開催し、其の界の権威を講師に招き、国体を講明し、道義を宣揚する上で、私も聊か尽力したい。

 

感想 日本を盟主とする大東亜共栄圏が世界平和を意味するという自己中。この当時の日本人は、日露戦争に勝って世界の一等国になったとうぬぼれて有頂天になっていたのかもしれない。そうでないと、「世界平和に寄与する大東亜共栄圏」などという誇大妄想は起り得ないのではないか。これは敗戦2年前の言葉である。

 

 

 

 

「極東裁判・平沼個人最終弁論 主任弁護人 宇佐美六郎、フランクリン・N・ウォーレン」及び「平沼騏一郎氏の為めの嘆願書 中央大学教授、退職大審院検事 樫田忠美 極東国際軍事裁判 裁判長 ウエッブ閣下」

 

 

感想 202564()

 

 ここで平沼騏一郎は「デモクラシー(民主主義)」の為に尽力した333と述べられているのだが、敗戦前に平沼が述べたことを想起すると、とても信じられない。そもそも天皇神とその臣民=民衆という関係に基づく大日本帝国憲法が、民主主義的な憲法と言えるだろうか。日本の法曹関係者or知識人の御都合主義を感じる。戦争に負けたら命乞いし、戦前も日本は民主主義国家であったと恥知らずに述べるのだ。

 

以下、平沼が戦前の1929年に講演した国本社の趣旨説明と、敗戦後の嘆願に現れる「民主主義の為に尽力した」とする原文を紹介する。比較されたし。

 

 

国本社設立趣旨説明「建国精神と国本社の使命」1929317

 

266 「世間には『国際連盟と云ふものが出来た、もう戦争はなからう』と云ふことを申す人があります。之は実に愚の骨頂であります。列強の今日やって居ることをよくよく御覧なさい。先刻も御話のあった通り、アメリカは勿論其他の国に於いても、盛んに戦争の研究をしてゐる。毒瓦斯の研究をして居る。今では虫を殺す為めにやって居るのである。或は他の国で毒瓦斯を用ひたらこちらも之を用ゐねばならぬと、かう云う口実の下にやって居ります。いくら条約で毒瓦斯の使用を禁止た所で、そんな条約などと云ふものは、戦争が始まれば何んの役にも立たないのであります。我国は勿論平和を尊びます。建国以来の我国の歴史がよくそれを証明して居ります。然し乍ら国家を防禦し、正義を全うせんとする其大目的の為には、戦争も必要である。此大目的を前にして徒に戦争を回避すべきではないのであります。唯言葉の上で平和と云った所が、是は一種の空想にすぎない。」

 

277 「今日の所謂ハイカラ者流の中には、国家と云ふものはもう不用だ、国際主義で行かねばならぬ、国際連盟ある以上は、連盟と共に行けばそれで宜しい、斯う云ふ様な浅薄な議論を致すものがあります。けれども是程の愚論は余計はありません。只今申した通り、世界恒久の平和を実現して、世界全体が互に相信じ、互に相共同して行くことは、吾々の最も希望する所でありますが、然し此希望を実現し、之を保全して行くためには、先づ力がなければならぬのであります。(力で以て一方的にねじ伏せるという平和論)。即ち人類の此共同目的に向かって妨害を試みるものがあったならば、之を征伐しなければならぬ。(そういう目的は人類の共同目的とは言えないのではないか。そんなことが分からなかったようだ。)征伐するにはそれだけの力がなければならぬのであります。」

 

 

「極東裁判・平沼個人最終弁論」 (194810月ころか)

 

293 「我々は平沼が一時国本社の総裁をしていたことを否定するものではありません。併し検察側の主張に係る本団体の目的及其の他の事柄は全く無害のものであります。

 検察側が本団体に関して平沼を糾明せんとせば何かもっと具体的な事を立証しなければなりません。何となれば日本に於て右翼主義者であるということは様々な異なった意味に使われるからであります。

 天皇の祖先の神性に関する伝統的国民信念を擁護する場合もありましょう。又国内に於ける共産主義に対する抗戦に全力を向ける場合もありましょう。かかる行動は何等犯罪ではありません。本法廷の憲章により起訴せらるべきものではありません。

 平和を追求する世界の各国は原子力こそ平和の先駆者であると信ずるものあり、同時に共産主義こそ唯一の平和の福音であると信ずるものもあります。かかる信念が侵略又は征服の手段に使われぬ限り犯罪とはならず、かかる信念の持主は処罰を受けることはありません。」(戦前の為政者が、治安維持法により、共産主義を信じていただけで逮捕・検挙・投獄したのは忘れたのか。)

 

328 「平沼の生涯は、国家間の意見の不一致は交渉によって解決されるべきであって武力抗争によって解決されるべきでないという原則に捧げられました。」

 「平沼の生涯の間に(英米人だけでなく日本人も含めた)我々は既に一つの世界戦争(第一次大戦)を、世界を民主主義の為に自由にする為戦いましたが、数年の後には地球上の凡ゆる国民の運命に影響を与えるようになった世界動乱(第二次世界大戦)に突入する結果になったのでありました。」

 

 

「平沼騏一郎氏の為めの嘆願書」

 

332 人権 「氏が…道義の昂揚、人権の尊重、言論の自由、正義を説示することに余念がなかったことは、…等しく認めるところで此等の文献は今日保存されています。」

 「国本」の意味 「平沼氏は…率先して雑誌「国本」(国民の基礎の意味)を発行し国民の各層にこれが読者を求め、国民思想の純化に尽力したのでありました。(国本とは「国民の基礎」か。「国家の基礎、国家の根本という意味ではないのか。」

333 ナチスとの相違 「天皇を中心として政治の運営が行はれて居た国家は、…昔からの日本国の伝統的信念の表現として高唱されてきたのであります。他国の利害得失を顧みず自国の発展拡張の為に国民を圧迫し、これを犠牲にし、他の国家を排撃攻撃し、領土を侵害するを目的とするナチス若しくはファッショの思想とは似て非なるものであります。」

 人権とデモクラシー(民主主義) 「平沼氏の思想は天皇を中心とする政治体型を基として、…世界平和の招来を大理想とし、正義、公平、自由、人権思想を国民に力説することにあって、この点英米の政治体型に流れているデモクラシーの思想と同一歩調をとるべき旨を説明してゐるものに外ならない。」

334 「若し「国本」の思想がファッショ、ナチスの類型であったと仮定するならば、これら(平沼が発行した雑誌「国本」の愛読者であった)判検事は今日の如き冷静な態度であり得る筈はない。彼等はよく三権分立の思想を把持し、司法権の独立を守り、戦争の渦中に捲き込まれず欧米のそれと同様の矜持を保ちつつ今日に至ったのは何よりの証拠であります。」

 

 

 

 

「極東裁判・平沼個人最終弁論 主任弁護人 宇佐美六郎、フランクリン・N・ウォーレン」

 

 

メモ

 

293 国本社関係

 

 本団体の目的やその他の事項は全く無害である。

 日本における「右翼主義者」には様々な意味がある。天皇の祖先の神性に関する伝説的国民信念を擁護する場合や、国内における共産主義に対する抗戦に全力を向ける場合があるが、これらの行動は犯罪ではなく、本法廷の憲章によって起訴されるべきものではない。

 

294 平和を追求する世界の各国(皮肉)は、原子力こそ平和の先駆者であると信じるものもあり、また共産主義こそ唯一の平和の福音であると信じるものもあるが、このような信念が侵略や征服の手段に使われない限り犯罪とはならず、その信念の持主は処罰されることもない。(治安維持法ではどうだったのか。)

 

 検察側は右翼団体である国本社が犯した犯罪を立証しなかった。

 検察側の唯一の証拠は原田日記*であるが、これは余りに曖昧であり、犯罪を証明する事実とは言えない。

 

*『原田熊雄日記』 原田熊雄1888-1946 華族・政治家、西園寺公望の私設秘書。『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』岩波書店、全8巻、別巻1、新版2007、初版1950、口述。没後軍部が危険視して、原稿整理が中絶した。

 

 ある人にとって正当と思われるどんな政治上・宗教上の信念を持つことは、奪うことの出来ない基本的権利である。このような信念を実行したからといって、神に対する罪や人類に対する罪にはならない。他人を平穏な手段で説得することは犯罪にならない。ただ強力と強制手段によって他人を自分の理想に縛りつけようとしたときだけ処罰に値する。(しかし、その思想が自国中心の戦争行為となって現れたのでは。)

 

 

枢密院関係

 

検察側は、「侵略政策においてその公務上行われたなら、その言論で訴追されることはない」とし、さらに「法律上の最終の義務あるいは責任を被告が課せられていたかどうかは、日本の政治機構を検討する必要がある」とする。

 

 枢密院の責任に関して検察側はこう述べている。

 

「枢密院はその管轄内のことを審議し通過させる権限を持っていた。つまり法令で同院に回付されたもの、法案や憲法に関して疑義のある点で、之を補足する勅令、及び憲法第8条及び第70条に規定する勅令。そして国際条約の締結、戒厳令の布告、教育に関する重要勅令、行政各部内の組織に関する勅令、及びその他特に同院に回付された総ての件など、全ての重要立法は実施前に枢密院の許可が必要であったことは明らかである。」

 

 平沼は1926年から1936年まで枢密院副議長であり、それに引き続いて19393月まで同議長であった。

 

 検察側は1888年の勅令による枢密院の機能を以下のように列挙している。

 

1888年公布の枢密院の権限に関する勅令によると、枢密院は、憲法上の問題、条約・協定に関すること、議会閉会中の緊急勅令の公布、そして政府から議会に提出される通常の法律案の施行前に、天皇が諮詢して進言を求めるための常置的府政であった。…しかし枢密院は議会や国民に政治的責任を負わず、国務全般に大きな勢力を振るい、内治・外交両面で、行政府に対する広範な監督権を持つ第三院となった。議員が提出し、議会の協賛を経た法案についても、枢密院はこれをそのまま承認あるいは全く否認することができた。議会提出前に、内閣から審議に付された法案に対して、同院は拒否できたばかりでなく、意のままに修正することができた。」

 

296 検察側は一般論告と(平沼に対する)個人論告とで、(枢密院に関する)定義が異なっている。一般論告では「全ての重要立法法案は(議会での審議の)実施前に枢密院の許可が必要であった」とするが、個人論告では「全ての法案は議会に提出される前に、枢密院に付託された」とし(大差ないのでは)、さらに「枢密院が広範囲の監督権をもつ第三院となった」とし、枢密院の政治的重要性を誇張している。

 

 1888年の勅令は枢密院の官制と権限を次のように定めた。同勅令第6条はこう定めている。

 

「枢密院は次の事項につき諮詢に応えて審議を行い意見を上奏する。

一、憲法、皇室典範により枢密院の権限に属させた事項及び特に天皇から諮詢された勅令

二、憲法の条項に関する草案と疑義

三、帝国憲法に付随する法律と勅令

四、枢密院の官制と事務規程の改正

五、帝国憲法第8条と第70条の勅令*

六、国際条約の締結

七、帝国憲法第14条の戒厳の宣告

八、教育に関する重要勅令

九、行政各部の官制その他の官規に関する重要勅令

十、栄典と恩赦の基礎に関する勅令

十一、前各号に掲げたもの以外の特に諮詢された事項

 

*第8条 天皇は公安保持上(公共の安全を保持し又はその災厄を避くる為)緊急の必要があり、議会が招集できないとき、法律に代る勅令を発する。

70条 公安保持上緊急の必要があり、議会が招集できないとき、勅令で、(ある処置に対する)財政上の処分ができる。

 

検察が言うところの「全ての重要立法はその効力を発生する前に枢密院の裁可を受けねばならなかった」は、ここにはない。ここには、産業、国防、国家総動員、国家財政に関する立法を含んでいない。通常の法律案が議会提出前に枢密院に回付されるという規定もここにはない。枢密院に付議される法律案は限定的である。

「枢密院が内政外交両面で行政部門に対して広範な監督権を持つ第三院になった」という検察側の主張を裏づける規定や法令は見受けない。

 

検察側はその冒頭陳述でさらに進んで「枢密院は度々内閣の政策問題に反対し、また数回に渡り、議会の信任ある内閣を総辞職させた」とするが、その証拠を提出できず、実際はその反対に、枢密院の反対にもかかわらず、内閣がその方針を強行した一例を次のように立証した。

 

194210月に枢密院で開かれた大東亜省創設に関する審査委員会の記録がある。それによると、提出された政府案に数名の(枢密院)顧問官が疑問を表明し、原案反対の顧問官と各大臣との間で激論が展開されたが、結局顧問官の反対にもかかわらず、政府は法案の修正を拒否し、その方針を強行した。1021日の第八次委員会の記録によると、鈴木委員長より、前回の委員会で決定された原案修正交渉について東条内閣総理大臣と会見したことについての報告があった。つまり「同大臣(東条英機)は原案固執の堅き決意を有し、到底修正に応ずる色なきを以て、本(枢密院審査)委員会としては、審査報告に際し、所信を率直に披瀝するの外なき旨を述ぶ。各委員は委員長の労を多とし、本問題は打ち切ることと決す」とある。

 

さらに(検察側の)証拠文書は、米英に対して開戦しようとするような本当に重大な決定をするときに、天皇によって枢密院の進言が求められていなかったことを示している。

 

1941128日の合衆国と英帝国に対する宣戦の詔勅を議するための枢密院会議は、真珠湾攻撃開始後に召集されたのである。法廷証1241は、枢密院審議会議の記録であるが、これには、この会議に顧問官たちが集まったのは、1941128日午前730分(東京時間)であり、原議長がこの会議の開会を宣言する前に、島田海軍大臣が、米英に対する戦争の緒戦の状況を報告したとある。

 

島田(海軍大臣)はその証言で「若し枢密院がその承認を必要とする法案の承認を拒み、またもしその議案が重要なものであったら、その案は変更され、内閣は総辞職するだろう」と述べたが、その後の再訊問では「その実際の例は記憶にない。(前回の証言は)仮定として申したに過ぎない」とした。

 

感想 202567() このあたり、枢密院「人畜無害論」が続くのだが、1928年、憲法8条を根拠に、勅令によって治安維持法を死刑化したのは、この平沼騏一郎が枢密院副議長の時であった。首相は田中義一。平沼は反共主義者で、幸徳秋水のフレームアップ死刑にも関わっていた。

また枢密院や貴族院の人選は選挙という民主的な手続きを経ずに行われていた。

 

 また藤田証人は「枢密院と国家との関係は、行政と立法の事に関してであり、枢密院会議は多くの新法律案や命令に関する案を、議会に提出する前に修正するというのは正確ではない」と証言した。

299 枢密院事務規程第三条「枢密院は内閣及び各省大臣とのみ公務上の交渉を有し、その他の官署、帝国議会、又は臣民との間に、文書を往復し、又はその他の交渉を有することを得ず」とあるように、枢密院は外界から隔離されていたから、内閣あるいは政府の行政部門を監督するような広大な権力は持ち得なかった。(これはこの結論を導く根拠としては薄弱と思われる。)

 検察側も述べるように、枢密院の進言は天皇からの要求を必要とする(憲法56条)が、枢密院に付議されるべき事項を決定する実際の権能は内閣にあった。既述の枢密院官制第6条(296頁)は枢密院にかけられるべき事項を規定しているが、実際は内閣が諮詢事項を決定する権能を持っていた

 

 枢密院官制第8条「枢密院は行政及び立法のことに関し、天皇の至高の顧問たりと雖も、施設に干与することなし」とするが、その意味は、枢密院は、政策を作る機関ではなく、立法及び行政事項に干渉することができなかった(藤田証言)ということである。そして既述の憲法条項や枢密院官制は非常な熱意を以て厳守され、内閣が決定した事項や政策に干渉しないよう上奏していた。

 

 例えば日満議定書の審議では、調査委員長の平沼や他の顧問官は、一般人民の行動によって(満州国が)独立国になったという内閣の声明の真実性を疑ったとしても、内閣や閣僚以外からは調査(=情報の蒐集)をすることができなかった。それは枢密院事務規程第3によって制限されていた。また枢密院は内閣閣僚の説明に対抗できなかった。つまり、政府が満州国を独立国として扱う決心をしたなら、枢密院はそれに干渉することはできなかった。そして枢密院は真相を調査する合法的手段を持っていなかったし、政策の当否を問題とすることもできなかった。それ故枢密院は、顧問官と内閣閣僚との討議の後に、同案に全会一致で賛成したのである。

 

 この点につき南は、「枢密院は政府の計画案についてその意見を述べ、助言を表明するが、政府に絶対的反対はしない」と述べている。顧問官は政府の政策を信任せず悪法と看做しても、既に樹立された政策に従って公の任務を遂行する人の地位にあった。検察側は本裁判ではそういう人を訴追すべきでないとしているではないか。枢密院の議長、副議長、審査委員会委員長は、審議団体の議長であったから、同一の議決権を持つ構成員からなる会議を司会したに過ぎない。

 枢密院の顧問官は、陸軍部隊や官庁の首長でない。ただ位階や勲等や社会的地位が普通の者より上位にあったという理由だけで、特別の責任を負わすべきでない。

 

 次に枢密院に関する法規を根拠として、枢密院が広範な権限を持つ事を許されなかった憲法上の慣習から生じる政治的理由を述べる。

 

 東條は首席検察官の問いに答えて「合衆国、英国、オランダに対する戦争は、自分の内閣当時に決定した。その戦争は天皇の意志に依ったものではなかったかもしれないが、天皇は自分(東條)及び統帥部の奏請によって、不本意ながら本戦争に同意した」と述べた。

302 また木戸は、キーナン氏の問いに答えて、「日本の制度に於いては内閣及び統帥部が決定した事柄に対して天皇は拒否できなかった。それは長い日本の憲法上の習慣であった」と述べている。(どうかな)

このことから、枢密院が内閣及び統帥部の政策に関して、天皇以上の権力を行使することは絶対的に不可能である。従って平沼が枢密院にあった期間中に起った事件に関して検察側が取り上げた平沼に対する起訴事実は合法的な根拠がない。次にそのうちの一件だけを取り上げる。

 

検察側は「平沼は1938111日*の御前会議に出席した」とする。

 

1938116日「国民政府を相手とせず」(第一次近衛声明)、1938113日「日中戦争の目的を東亜新秩序の建設と表明し、和平交渉再開を中国に呼びかけた。(第二次近衛声明)

 

この御前会議に関する記録によれば、「近衛首相は御前会議を行うにあたって、「大部分すでに決定した案を提出し、ただ形式上それを御前会議で決定するにすぎないから、陛下の発言は必要としない」と内大臣に語った」とあり、また「10日の前日の9日に、平沼枢密院議長に、内閣書記官長と外務次官から種々の事情を説明した」とあるが、これは平沼がこの問題に関して熟慮する時間が一昼夜しかなかったことを示している。(平沼は蚊帳の外に置かれていた。)

 

303 また検察側論告は「満洲事件は枢密院で審議された」とするが、一枢密顧問官が、軍の青年将校が取った不適切な行動について質問し、「懲罰問題を曖昧にしておくことは軍紀上極めて不適当である」と言ったところ、陸軍大臣はそれに答えて、「懲罰問題は目下考慮中であり、軍紀維持は当局も重要だと考えるので、本問題は軍に一任されたい」と答弁した。これは枢密顧問官が関係諸大臣に対して無力であったことを示している。

 

 検察側はその最終論告の中で、「19311217日前後の枢密院特別会議で、「満洲四省は日本軍によって占領されねばならない」と決定され、そのために要求された予算を承認した」と言い、その証拠として荒木の答弁を挙げるが、本裁判所はその裁定で、これは平沼に対する正当な証拠ではないとしている。この裁定が定められたとき、検察側は(ヒギン氏)その尋問調書を「尋問を受けた被告(荒木)に対してだけ提出する」と言った。奉天事件に関して、その経費問題が枢密院に提出され、緊急勅令が発布されることについて、意見を求められたことは確かであるが、枢密院が「満洲四省が日本軍に依り占領されねばならない」などと決議したことはない。

 

304 検察側の論告は、平沼が、日蘭間の全ての紛争の司法的解決仲裁裁判及び調停を目的として19351031日に日蘭間に締結された条約の下に設置された常設委員会の日本側代表であったとするが、なぜ本件が、彼を訴追する原因なのかが分からない。その他多くの項で、検察側は、枢密院や平沼と全然無関係な次のことに関する事件を列挙している。

 

国民政府との交渉打ち切りに関する日本政府の声明

スチムソン氏*の声明と、日本外務大臣の保証

溥儀が満洲の摂政の地位を受諾するように誘導された事実

溥儀を満洲皇帝として擁立したこと

天羽*声明とワシントン海軍条約の破棄通告

満洲国における石油専売の開始

日本の14インチ海軍砲制限受諾の拒否

中国における日本の軍事行動に関する国際連盟の第一報告の採用

日本のブリュッセル会議参加拒否

中国政策に対して日本が採用した新立案

北京に臨時中国政府の樹立

ハーサン湖とザオジョルナヤ山で、日本が宣戦布告なしにソ連領土に対して行ったと称する攻撃

東亜の将来に関する日本政府の公式声明の発表

 

これらの事件が枢密院と平沼に対して責任があるとされる理由は、おそらくこれらの事件が外国関係と連関していると検察側が思っているからだろう。そして検察側は、枢密院が、外務に於いて、政府に対して広範な監督権を持つ第三院であったと主張し、平沼にその責任がある、と考えているようだが、枢密院は、国外・国内の国事に関して、政府に対していかなる権力も持っていない。

 

*米のスチムソン・ドクトリン 不戦条約1928に反する手段を用いてなされた事態・条約・協定を承認しないとする主張。つまり日本による満洲占領を認めない。

 

*天羽(あもう)声明 1934417日、日本外務省情報部長の天羽英二が、列強による中国援助に反対すると表明した非公式談話。

 

 

総理大臣関係 平沼内閣1939.1.5-8.30

 

305 この一節は意味不明。検察側の指摘する板垣入閣時の7条件は嘘だと言いたいようだが、その7条件がどんなものかについては触れていない。

 

*グーグルAIによれば、板垣征四郎が入閣した時の条件は、7つの停戦条件と国際調整案とがあり、その停戦条件には、非武装地帯の拡大、軍隊縮小、既存協定の廃止、冀東政権の解消などがあり、また国際調整案には、満洲国問題、防共協定締結、抗日排日の取締りなどがあったとする一方で、特定の7つの条件に縛られるものではなく、彼の政治的才能、陸軍における実績、国政への貢献といういろいろな要素が組み合わさったものであるともする。

 

 検察側は平沼内閣に前陸軍大臣板垣を入閣させる前に七つの条件があったことを立証しようとしてこう結論づけた。「…平沼と板垣が陸軍の長官たちと密約をしていたことが容易にわかる。その密約の条件は既述の七つの条件である。」検察側のこの主張の根拠は山脇*の言葉であるが、山脇のこの証言を板垣は否認している。

山脇の証言によっても、山脇が板垣の入閣に先立ってそのような七つの条件があったとは認めていない。彼が供述したことは、彼が鹽野氏に、板垣留任の条件を書いたものを手渡したが、その条件が検察側が主張する条件を含んでいたかどうかは(山脇は)記憶していないという。さらに(山脇は)組閣の時に「平沼に会えなかった」と言っている。(山脇が)鹽野氏に手渡した文書が、平沼に届いたかどうか、それを立証する証拠はないし、その文書の内容が平沼に届いたという証拠もない。

検察側が基づくところの証拠は新聞記事であり、その新聞記事は反対尋問のときに示されたのだが、それには陸相受諾に対する板垣の条件が含まれている。しかし、山脇は、彼が鹽野に渡した文書の中で概述されていた条件と、法廷の中に現れたそれとが、同一かどうか記憶していなかった。よって検察側の証拠の価値はなく、検察側は板垣の陳述を反駁することはできない。

 

306 検察側は、平沼の対支政策に関する議会演説(1939121日)「抗日を継続するものに対しては断乎として之を潰滅する外に道はない」を攻撃しているが、これは皮相的である。その理由は戦時の政治演説を文字通りに受け取るべきでないからである。だからそれを刑事訴追の基礎にすべきでない。犯罪の基礎(訴追の根拠)は、その時の政治情勢=外交的観点からそういう立場にさせられた当時の状勢とから、求められるべきだ。(英米も悪いのだと言いたいようだ。)演説(それ自体)は敵国を崩壊させることも、敵国民を殺すことはできない。(この論理は間違っている。確かに言葉は武力ではないが、言葉が武力行使を可能にする。)

平沼の対中国政策の真の意図は、1939710の平沼・汪精衛懇談の中に現れている。その平沼の意図は、米国代理大使ユージーン・H・ドウーマン氏との内談にも現れていて、193967付公文書で北米合衆国国務省に伝達されている。1939610の汪精衛・平沼会談で、平沼が「日支の紛争問題を何とか和平の方策を講じたい」としたところ、汪精衛は和平に至る三案を提案し、「その中で日本はどれを選ぶか」と尋ねた。すると平沼は「これは中国の問題だから、中国が最も適当と思う方策に出られる外仕方がない」と答えた。

 

 既述の米国代理大使ユージーン・H・ドウーマン氏が、合衆国国務長官に宛てた公文書(193967日)の中に、平沼がドウーマン氏に言ったことが現れている。(平沼曰く)「合衆国と日本は、欧州が二つの軍事陣営に分かれて行く傾向の結晶することを妨げることに資することができるただ二つの強国である。だが欧州と極東が不安をかもしている世界的な政治的・経済的状況が是正されるまでは、永久平和が建設されそうな確かな希望はない。もし不安をかもせる問題を解決するため、国際会議が召集される運びとなるならば、日本は論議される問題の中に極東の状勢を含めることに同意する用意がある。斯かる会議が召集される前に、英仏独伊への打診がされなければならぬが、もし大統領が欧州の民主主義国家に極秘に近づいてみる用意があるならば、彼(私、平沼)は喜んで独伊に当たって見るであろう。もしこれら諸国家から賛成の回答が来れば、正規の外交関係を通ずる打ち合わせにより協定できる条件のもとに、大統領に会議を召集してもらうことを希望する。」

 

307 「1939117日に(平沼)内閣が、その企画院が起草した生産力拡充案を採用したことは、侵略戦争準備の一歩である」と検察側は言う。検察側はその一般最終論告で、「19376に陸軍省から各省に提出された基本案は、結局第四(案)に具現された。それは内閣企画院で立案され、19391月に(平沼)内閣の承認を得た「生産力拡充案概略」であった。その目的と政策を略述した序文は、事実上第二案のそれと同じ言葉である。」という。

 

 確かに、平沼内閣が承認した「生産力拡充計画案」の起源は、1937に陸軍省から内閣に提出された案であり、その案が1941年を完成年としていたことは認める。19375月と6月に、陸軍省は三つの案を起草した。これは検察側の言う第一案、第二案、第三案に相当する。しかし、平沼内閣が採用した案は、その中のただ一つ、第一案だけである。しかし検察側はこの三つの案を不可分と看做し、それ故、平沼内閣が侵略戦争を準備したと責める。

 

308 第一案は「重要産業五年計画要綱」と名付けられ、それを陸軍省が作成し、1937529日付となっている。第二案は「重要産業五年計画要綱実施に関する政策大綱」と題し、陸軍省によって1938623日付で作成された。証人岡田菊三郎によると、第一案は1937529日かそのあたりに内閣に提出された。

 

 第二案は試案的なものであり、正式に内閣に提案されなかった。その目的は第一案に関連していた。1939年に平沼内閣の企画院によって作成された計画案の基礎となったものは第一案であった。第三案は一度も内閣に提案されなかった。それは岡田証人が立証し、検察側証人のリーベルトは、それが(内閣に)提案されたとは立証していない。第三案を含む文書は、その表紙に「軍事機密」と書かれ、陸軍省の文書課にあった。岡田証人は、第三案の第四「本要綱は既定軍事予算の基礎の上に一応の立脚を求む」の部分は、「この計画案は、軍が1937年から1943年の間に得られると期待した予算額を基礎にしていたという意味だ」と指摘した。彼(岡田証人)はさらに「杉山陸軍大臣の決裁を受けた1937623から二週間後の78日に盧溝橋事件が突発し、第三案は、細部まで実行に移すことができなかった」とし、また「第三案は支那事変の突発によって自然廃棄になった」と証言した。検察側は、その一部が検察側証人リーベルトによって与えられた証拠を無視し、第三案が一度も内閣によって取り上げられたことがなかったことを考慮せず、「仮に先の二計画が、日本を戦争に動員することが目的であったことに疑問があり得るとしても、第三計画案によって解消された」という。さらに「これら三つの計画案は解き得ないほど結合していたので、総て日本の侵略戦争の準備であった」と論じる。第三案は内閣に提案されたことがなく、平沼には知られていなかった。

 

309 1937年の陸軍省内の計画立案者達が、これら三つの案を互いに関連したものとして作成したとしても、その事実は平沼内閣には知られていなかった。平沼内閣は第三案については何事も知らなかった。(平沼が知らなくても、この三つの案は互いに関連していたのでは。)第一案は独立した計画であり、これに追加のいろいろな案があるような疑いを起こさない。(これは三つの案が関連していたとする前言に反する。)

 

検察側は第一案も侵略的だとみなしているらしい。岡田は「第三案(法廷証841号)は、もっぱら軍事的であり、第一案(法廷証842号)は軍事的要素を多分に含むが、本質的には平和経済の建設案であり、(どうかな)しかも当時日本はソ連の飛躍的な「戦力」の発展を知っていて、これに対抗する方策を講じなければならない立場にあり、(だから平和的ではなく軍事的だったのでは)、それで(平沼内閣が)日本の計画案を起草するにあたり、ソ連の第三次五カ年計画の完成期を念頭において作案しなければならなかった」と証言している。

 平沼内閣によって承認された案の根本方針第三項「本計画は主要資源につき、我勢力圏内における自給自足の確立に努め、有事の場合においても可及的(できるだけ)第三国(米英)資源に依存することをなからしめること」(第一案、法廷証842号)は、(逆の見方をすれば)「戦時になっても依然必要な戦略物資の輸入を(米英ブロックからの輸入を)続行するという意味である」と岡田は指摘している。(結果的に第一案に軍事的意図があったということを認めているのでは。)

 

310 リーベルト証人はその調査書の中で、「戦争準備は大概は原料供給や産業生産の趨勢を検査することによって明らかにされる。近代戦を遂行するためには、莫大な量の種々の設備を必要とする」とするが、これは問題とされる計画案の諸条項の趣旨が戦争準備計画であることを示すが、反対尋問ではリーベルトは「この準備計画案が米国に対するものであることを示す言葉があったとは思い出せない」とし、さらに「(私は)ソ連の五カ年計画の細目を知らないし、日本以外の他の国の産業の増進について研究したことはなかった。この(日本の)計画案が侵略戦争準備の為であったと(私が)言った覚えはない」と陳述した。

 

311 我々は1937年の第一案と1939年の平沼内閣の案とが侵略戦争の準備であったという検察側の主張を支持できない。その主張を裏づける証拠がない。検察側はその証拠の欠如を、日本が1941年に米英に対して戦争を行ったことで埋められると考えているようだ。

 

 リーベルトは「(日本の計画案が)一般的な戦争を(目的としたものであると)指摘しようとした。その後で起こったこと(対米英戦争)は歴史の問題である」と述べている。

 彼は全く当惑したようであり、(検察側の)「証人」?が、彼の証言を合理化しようとした。

 

 「リーベルトの証言が裁判所の領域を侵略(侵害)することは許されない」?と裁判所は保証している。1939年の一被告(平沼)の心境を判断する証拠がないことを、1941年に起った出来事(対米英戦争)で補填されるとする検察側の推理に我々は関心がある。なぜならば、平沼の場合は、その(対米英戦争の)前の方の年の政府に(首相として)入っていて、その後の方の年には関係していなかったからである。

 

 検察側は「岡田は該計画がロシアの脅威によって刺激されたものだと述べた」とし、「さらに注意すべきことは(ロシアへの)攻撃が到来した時に、日本はソ連を攻撃せず中国侵略を継続し、中国と東洋での日本の目的を達成する上での二大障害である米英を攻撃したことだ。」「(ソ連に対する戦争)計画の目的が達せられないという事実は、戦争計画を変更して平和計画に変えることはできまい」とする。

 

312 日本がソ連に戦争をしかけなかったことで、該計画案がロシアからの攻撃に対する防御を目的としていたかどうかは判断できない。日本が米英に戦争をしかけ、或る計画案の下の或る準備を(その戦争に)利用したとしても、その計画案がもともと他の目的のために準備されたのだとしたら、その計画案は米英に対する侵略計画案とはならない。その計画案の作成者が他の目的(対米英戦争)の為に使うことをその計画案作成時に自覚していなければ罪にはならない。

 

313 検察側は平沼内閣が採用した重要産業に関する計画案に加えて以下の事項に言及し、これらがその計画案と同様に侵略戦争の準備であったとする。

 

一、国策会社の設立

二、金の強制買い上げ

三、造船事業法の公布

四、総動員業務事業主計画令

五、石炭販売取締り規則

六、陸海軍予算の増額

七、陸軍常備兵の増大

八、強制的な青年訓練所の実施

 

これ等の計画案は支那事変から生じた要求に応えるものであるが、これらが米英に対する侵略戦争準備であったとするのは間違いである。

 

 平沼内閣の最重要の問題は、枢軸関係の強化であった。日独関係強化のための交渉は19381月にドイツが最初に提案したが、それは平沼内閣の終末近くで終わった。ところが検察側はその交渉が日本の太平洋戦争の準備であり、世界制覇を目的とした日本と欧州枢軸諸国との共同謀議であったとする。しかし日本と枢軸諸国との関係は共同謀議者同志の関係ではなく、相互不信に満ち、ドイツは裏切ったという関係だった。(露独不可侵条約締結)また日本国内では諸派間の不一致があり、一方は、枢軸関係を是とし、他方は之を非とした。

 

 ドイツが日本と締結しようとした同盟は世界を相手にした全面的軍事同盟であったが、平沼内閣が締結に同意した同盟は、主としてソ連を目標にしたものであった。そのことは河邉の証言が示しているし、1939426日付のリッペントロップ独外相から東京駐在独大使に宛てた電報でも明らかである。

 

 スターマー証言によれば、「日本は1938年の終わりごろ、殊に1939年の初め日本の内閣が近衛から平沼に更迭した1939.1.5後に、日本が日独交渉を遅らせていたから、ドイツは日本政府が独伊との関係を親密にする関心がないという印象をもっていた。」

 

 193936日付のチアノ*の日記によれば、「ベルリンからの報道によると、日本政府の三国同盟への記名調印に対する反対が確実とのことだが、電話一本でもすぐに変化しやすいような現下の欧州の政界の渦中に、あんな遠い日本のような国を巻き込むことが本当にできるのだろうか」とし、その翌日の記事には「このような遅滞やら日本の万事のやり方では、私は元気一杯なファスステイやナチと、鈍重な日本との有効な協力などできるかどうか、大いに疑わざるを得なくなった」とある。

 

*チアノ 反独で、伯父ムソリーニによって処刑された。Wiki「アドルフ・ヒトラー」より。

 

315 白鳥の記事中に「欧州大戦と日本の態度」と題する論説中で「…私が向こうに発つ迄、この防共関係をさらに一歩進めて軍事同盟にしたらよいということが、かなり国民の間に広く行き渡っていた感情であると見た。…ところが日本が英国と協調することによって日支事変を解決するような形勢となった。そのため独伊側も段々と疑いを持ってきた。(そしてドイツは)遂に(日本を)見限って独ソ不可侵条約を締結するまでに至った。…その経緯で日本は多分に責められるべきところがある。反省すべきである」とする。

 

 英国陸軍少将ピゴットの宣誓供述書は、19396月に平沼が、天津事件*を英国政府と日本陸軍が満足するよう円満に解決した次第を述べている。こうして平沼は日英親善関係の回復に成功し、東京駐在の米国大使館代理大使を通じて米国政府に宛てて、欧州の武装した陣営への分裂を防遏し、同時に日支間の闘争を国際会議に付託する旨の提案をした。

 

*天津事件 1939.1.14-8.20 日本軍が、日本協力者(中国人?)を殺した4人の中国人をかくまっているとして、英国の天津租界を封鎖6/14し、出入りする女性を含めたイギリス人を裸にして身体検査をした。

 

白鳥が述べたとおり、独伊両国が日本に不信を懐き、ドイツをロシアに加盟させた日本の態度は、平沼の態度であった。

 

 スターマー証人は「独ソ不可侵条約が1939823日に締結され、日独交渉が完全に取りやめとなった。そしてこの条約に至る独ソの折衝は、日本政府には秘密にされていた」と述べた。

 

316 平沼内閣は独伊いずれにも信頼されなかった。独ソ不可侵条約締結は、平沼内閣の崩壊をもたらした。

 

平沼内閣内での意見の対立 ドイツが提案する対英軍事同盟に日本が加入するかどうかで、平沼内閣内で意見が衝突したことを検察側も知っているし、また検察側は「平沼は該同盟を(イギリスに対してではなく)ロシアに対して結ぼうとしていたようだ」と述べ、(対英)軍事同盟賛成派として他の被告を挙げている。

 

*以上に関することはWiki「天津事件」に詳しい。

 

原田日記の抜粋が平沼の意図を立証するものとして(検察側から)提出されたが、平沼の真の意図は(平沼と)ユーヂン・H・ドウーマンとの談話の中によく現れている。193969日に(ドウーマンが)米国務長官に送った公文書があり、その中でドウーマン曰く「平沼男爵はこう語っている。「日本がドイツやイタリアとの軍事同盟を考慮していると海外で広く信じられている。」と。そして平沼男爵は日本の独伊に対する同情の根拠を(私に)率直に説明しようと務め、「日本の政策が独伊の政策と一見調和するように見えるのは、三国が同一の経済戦略上の立場にあるということ基づくものだと明言できる」と。個人的には彼(平沼)は「その政府があくまでも皇室の神聖に依存する日本は、その安定が、一個人(天皇?)の継続的存在とその政治上の威力に依存するような(影響を及ぼすような)外国政府と特殊関係を結ぶことはできないという意見である」と語った。」

 

317 検察側は、「(日独間の)軍事同盟の交渉は軍部筋を通じて行われ、日本陸軍は日本政府に対してその意志を押し付けることができた」と言明した。また大島(浩、駐ベルリン大使)も尋問調書の中で「日本陸軍は恐らく(日独軍事)同盟を日本政府に押しつけられるだけの力を持っていた。…そして、これに関して、もし陸軍が(日独同盟の締結を)希望していなかった場合は、恐らくどんな条約もできなかっただろうと言える」と述べている。そして平沼の態度を最も雄弁に語っている事実は、ドイツと、日本国内の親独派の圧迫にもかかわらず、平沼内閣がその存続中に、この同盟問題を議論するために、70回以上開いた五相会議で不断の熟議をし、彼ら(陸軍)の提唱する同盟を承認しなかったことである。

 

 193954日の「平沼声明」に関する検察側の解釈は誤っている。検察側はそれを「或る保留条件付き無制限同盟の受諾」と解釈するが、その「或る保留条件」とは、「しかしながら日本は、四周の状況に鑑みて、現在及び近き将来に於いて、如何なる実際的方法でも、有効な軍事的援助もなすことはできない」ということである。

 これは無制限(軍事同盟)条約の抜け穴である。ドイツの政治家は、このような条件で日本が約束した軍事的援助は、口先ばかりの好意にすぎない、とはっきり分かっていたはずだ。彼らが急いでソ連と不可侵条約を締結したことは何等不思議でない。

 

 検察側の主張によれば、交渉終結後、日本の親独派が日独の親交回復の為の努力を継続したとするが、平沼はその(独ソ不可侵条約締結)後首相の地位を去り、194012月まで官職についていないから、そのような(日独間の親交回復の努力という)情勢とは無関係であり、また平沼が親独派の一員であったという証拠もない。平沼の場合、独ソ間の不可侵条約締結は、(その時)日独間に存在した関係を終了させた。平沼内閣の外務大臣はドイツに対して、「日本政府は、(独ソ)不可侵条約の締結を、イタリアとの間に三か国同盟を結ぼうとする日独間の現行交渉を最終的に終止するものと解す」と、強硬な抗議文を送った。

 

318 検察側は、日本制圧下にあったとされる地域でのアヘン増産に関する平沼の責任を問うが、平沼内閣がその点に関してどんな決定をし、どういう行為を行ったかの実例を示していない。

 

海南島占領に対する平沼内閣の責任はない 検察側は海南島占領に関して平沼の責任を問うているが、これは193811月ごろ、平沼が総理大臣に就任する約2か月前に、海軍軍令部が決定したものであり、近藤証人は「海南島占領問題は、私が海軍軍令部第一部長の職にあったとき(193811月ごろ)に決定された。」「海南島作戦は1939年の大本営命令「海南島を占領すべし」に基づき、海軍と陸軍との共同作戦で行われた。」「海南島の占領は純然たる作戦上の必要に基づきなされた」と証言した。(当時総理大臣だった平沼の責任はないのか。)

 日本における内閣と統帥部との関係は、検察側論告に明瞭に記載されている。検察側は「統帥部は政府から独立し、かつ政府と共に重要政策に参与する権利をもつ」と述べている。統帥部は東條が言うように、非常に強力になり、統帥部が国民を戦争に突入させることを制止する政治機関はなかった。

 検察側はさらに「(統帥部を)牽制する機関は(政府内に)なかったが、政府は軍事費を制限する権力を持つ」という。我々もその見解に同意見である。しかし海南島占領は「純然たる」作戦上の事項であり、またそれが平沼内閣成立前の1938年に海軍軍令部によって決定されていたことは、その作戦実施命令が平沼の総理大臣就任の月(19391月)に発せられたとしても、平沼とは無関係であり、また平沼内閣は緊急事変に対する予算を除き、既に作戦実施命令のあった事項に対し、その決定が1月の平沼内閣成立以前、つまり前年の11月ごろに定まり、軍が所要経費を持っていた場合には、(平内閣は、予算によって軍部を牽制するための)何らの権能も持たない。

 

ノモハン事件1939.5.11-9.16 91日にドイツによるポーランド侵攻(第二次世界大戦)がはじまり、休戦となった。このとき日本は、ソ連は手ごわいと悟り、その後は南進に転じた。

 

検察側はノモハン事件が蒙古人民共和国に対する侵略だとするが、平沼に対する検事による訊問の問答が掲げられている法廷証768Aによると、「この時も陸軍は政府から独立して行動し、平沼には統帥部を左右する力がなかったので、戦闘行為の停止を命令できず、ただ陸軍大臣に対して敵対行為の中止の必要を意見として述べることしかできなかった」とある。これは平沼自身が述べていることである。また平沼はその書証の中で、「総ての争いを戦争の手段によらず平和的交渉で解決しなければならない」と述べている。(これは平沼のこれまでの発言からは信じられないことだ)

 

汪精衛とその「和平運動」に対する平沼の態度は、平沼と汪精衛との1939610日の会見談によく現れている。その要旨についてはすでに引用した。汪精衛が国民党員の自由意思で立てられた政権であるかどうかについてもすでに述べた。

 

平沼内閣時代の日本空軍の活動は統帥部の問題であることについては既に論じた。

 

 

国務大臣関係

 

320 1940126日、平沼は第二次近衛内閣1940.7.22-41.7.18に、無任所大臣1940.12.6-40.12.21として入閣したが、これは第二次近衛内閣成立(1940717日)の約5か月後のことであった。平沼は入閣後間もなく内務大臣1940.12.21-41.7.18に就いた。

平沼は第二次近衛内閣辞職後の第三次近衛内閣1941.7.18-41.10.18でも、再び無任所大臣に就任した。

 

 1941814日、右翼分子の一隊が平沼を暗殺しようとし、平沼はその時に蒙った負傷で19411129日まで休職した。

また平沼は1945815日のポツダム宣言受諾確定会議に参列した直後に、兵士と学生からなる約40名の暴徒に襲撃された。この暴徒の一団は佐々木という陸軍大尉に引率されていた。佐々木は平沼が親英米派の頭目と叫んだ。木戸日記1937531日の記事に、「平沼は国際関係上英国と協力することが必要な政治情勢だから、当時の宮内大臣松平を総理大臣にすることが望ましいという意見であった」とある。

 このことは平沼が終始親英米的感情を持ち、国内では親英米派の指導者として知られていたことを証明する。平沼が英米と親善関係を結ぶ政策や、合衆国と世界政策に於いて協力する政策は、ピゴット少将315の供述書やドウーマン306氏の書簡で証明される。

 

 第二次・第三次近衛内閣の生命は日米交渉問題にかかっていた。

 弁護側の証人御手洗によれば、第二次近衛内閣の辞職は、松岡外務大臣を辞職させて内閣を改造するために決定された。松岡の辞職は、日米交渉を円滑に進捗するために必要だと考えられた。

321 検察側の証拠によれば、第三次近衛内閣では、陸軍は戦争に進もうとし、近衛は交渉の成功が可能だと感じながら、反対派を説得できなかったとされている。近衛内閣分裂の最中でも、平沼の国際紛争の平和解決という信念は動揺せず、平沼に対する検察官訊問調書にもあるように、平沼は親英米だけでなく、根本的に力による政治に反対し、争いは武器によらず、折衝によって解決されるべきだと信じていた。

 齋藤吉衛は(によれば、)19415月、近衛や松岡その他の大臣が列席する閣議で平沼が演説し、「日本はどういう理由があるにしても、戦争してはならない」とし、さらにその理由を「列強が戦争をすれば、世界戦争になる恐れがあることはほとんど避けがたく、人類は悲惨な状態に陥るだろう」と述べた(ということである)。

 検察側は、「東條が組織した新内閣1941.10.18-44.7.22では、「共同謀議」を交渉によって進めたいと思う者には入閣の余地がなく、そのため近衛、豊田、及川、平沼は脱落した」と述べている。

 ところがこれらの被告たちは、侵略戦争をする共同謀議を行い、その結果事実上侵略戦争を行ったとして責任を問われている。ここで我々は検察側に問う。「侵略戦争を行うための共同謀議は、相手国と和平を遂げようと交渉することにより可能なのか。また侵略戦争を、交渉によって進めることができるのか。」検察側は平沼がこのような謀議には参加していなかったと認めるだろうと我々は信じている。平沼は(東條の)戦争内閣と共にしなかったと検察側は認めた。検察側は平沼が係争問題の武力解決には反対したことを認めている。

 

322 検察側は「内閣の閣員を辞職せず閣員に留まれば、いかに内閣の方針に反対し続けても、その政策に対する責任を分担し、その責任を取らねばならない」と言う。国家が戦争に突入するのを防ぐのだと信じて閣内にとどまった人を、戦争責任に問うことは正義なのか。平沼は戦争を阻止することが自らの義務だと考えて近衛内閣にとどまったのだ。

 

 軍用票政策に関して答える。これは軍機密であり、軍票発行の手続きは、首相、陸海大臣、大蔵大臣によって行われることで、当時内務大臣であった平沼には関係なかった。(戦前の閣員は一人ひとりが孤独だったのか。内閣の方針や他の閣僚が行うことに対して責任はなかったのか。)

 

 

感想 2025614() このあたりを読んでいての感想。東條に全責任を押し付け、自分は戦前には意気揚々として自己中の天皇教の全世界への拡散・推進を唱道しておきながら、負けて裁判にかけられると命乞いをするとは、情けない腰のない奴らだ。戦前の思想の軽さがここに露呈している。主人の前では威勢よく吠える犬が、主人がいなくなって形勢不利と分かると、尻尾をまいてすごすごと後ずさりするのに似ている。丸山眞男の言う通りだ。

 

 

重臣関係

 

422 19411129日(真珠湾攻撃一週間前)の重臣会議

 

 検察側は(平沼を断罪する際に)19411129日の重臣会議に関して、岡田啓介の証言を使わないで、東條の証言を用いた。(ところが)検察側は岡田証言を重大な場面で用いていた。岡田証人の反対訊問中、キーナン首席検察官は、「裁判長、検察側は本証人(岡田)を非常に尊敬し且つ信任している」と述べた。

423 この発言は19411129日の重臣会議に関する主訊問の証言が終わり、その反対訊問が行われるまでの間に為された。ところが平沼に対する検察側論告では、岡田に反する東條の発言が、平沼断罪の根拠として引用された。

 

 岡田によれば、19411129日の重臣会議の様子は以下の通りであった。

 

 「(東條)首相1941.10.18-1944.7.22はその時「政府は戦争をすると決定した」とは言わず、また(東條)政府は我々に戦争に賛成するように勧めようともしなかった。しかし重臣は各々出席閣僚に質問した。その質問に対する政府の立場は「(戦争をするための)事実上の根拠が示され、政府の持っている数字が引用・発表されれば、よく了解してもらえるのだが、それは国家の機密だから発表できない」と答えた。重臣は誰も、殊に若槻、近衛、平沼と私は、戦争に賛成したり激励したりはしなかった。あらかじめ相談も議論もしなかったが、我々は政府に問題を十分用心して再考し、敵対行為を招来する恐れがある事柄については極度の警戒をして処理するように勧めた。我々は皆自重論を唱えた。」

 「我々は政府から「戦争することに決定した」とも言ってもらえず、政府が国家機密扱いしている数字に基づく理由も知らされなかったので、深くその問題に立ち入って論ずる機会もなく、又正確な事実に関する知識がなかったので、消極論や自重論を述べるに止める外なかった。」

324 「私はドか貧は、(東條)首相が恐れるヂリ貧より尚更悪いと警告した。そしてこの意見に平沼男爵は全く同感だった。」

 「平沼も含めて我々の大多数は政府当局の説明に満足せず、国家の将来の安泰について深く憂慮し、政府はこの問題を慎重に処理すべきだと言った。」

 「我々はその日から10日も経たないうちに真珠湾攻撃が行われるとは夢にも予想せず散会した。」

 

 (以上の岡田の証言を纏めると、)首席検察官の反対尋問で次のことが明らかになった。1129日の(重臣)会議で、重臣たちは天皇に訳の分かった進言ができるようにするため、その判断の材料として内閣から情報を得ようと熱心かつ執拗に求めたが、その情報は国家機密であるという理由で拒絶された。また重臣たちは、政府が即時に米英蘭に戦争をしかける考えかどうか知りたがったが、これも知らされなかった。また(東條)首相から有益な情報を得られなかったので、重臣は天皇に有益な進言を行うことができず、ただ天皇に、憂慮に堪えぬと申し上げたと岡田は裁判所で陳述した。また万一重臣が、艦隊が確かに真珠湾に向かっていると知ったならば、天皇に戦争の開始を阻止するよう全力を尽くすよう勧めただろう、ということである。

 

感想 天皇は当初は開戦に逡巡していたが、開戦直前頃は開戦に腹が決まっていたらしい、ということをどこかで読んだ記憶があるが、ここでは天皇の開戦の意志について、まるで白紙であるかのような記述になっていて食い違う。

 

 東條の弁護人である清瀬博士の反対尋問により、(前述の)岡田証言に現れた問題点が明らかになった。つまり東條は重臣の質問に沢山返答したが、政府の将来に対する意図(対米英蘭戦争開始)も、現在の行動(艦隊が真珠湾に向かっているということ)も知らせなかった。また東條は、重臣がすでに知っている事件に関する一般的な説明をするにとどまり、重臣たちが真に知りたいことは少しも語らなかった。また、岡田が考えるところでは、鈴木企画院総裁は重臣に対してでたらめな数字を与えたということである。また岡田は、「重臣に対して数字統計を示したなら了解してもらえるだろう」という意味の東條の言葉は、岡田が天皇に対して「午前中の会合は主として政府の説明で終始したが、政府の言うことを聞けば聞くほど心配になる」と申し上げた時に、(東條がor岡田が?)天皇の前で言った言葉である、と証言した。

 

325 再反対訊問の質問中に首席検察官が述べ、それを岡田証人が肯定したように、19411129日の重臣会議は、「単なるジェスチャー・欺瞞」であった。平沼を含めた重臣たちは、(東條)内閣が手際よくやり遂げた欺瞞の被害者だった。首席検察官は「彼ら(東條内閣)は日本国民を欺き、開戦宣言の大詔を発布することにより、陛下が戦争を支持しておられたということを日本国民に信じさせた」と言った。平沼がその際如何なる進言をしたとしても(どういう内容だったのか?)、それは欺瞞によってさせられたものだから、平沼の責任は問うべきではない。

 

 平沼は19411017日の重臣会議には出席していなかった。(というのは)平沼は1941814日から1129日まで公的職務についていなかったからであり、検察側はそのことを認めている。

 

 (東條)戦争内閣が倒れる原因となった決議文を書くに至った会議を(平沼が)他の重臣たちと開催したが、それを平沼が自宅でやったということは注目すべきことである。また平沼が米内海軍大将を(東條内閣以後の新)内閣に入れようとしたことも注目すべきことである。

平沼と他の重臣たちは、(東條)内閣には時局を処理することが出来ないと考えるにいたり、1944717、平沼の家で会議を開いて時局を論じ、その結論を書面(決議文)に書いた。その決議は、(東條)内閣が民意を失ったことが明らかなので採択された。重臣たちは戦争を止めるためには(東條)内閣を退陣させる必要があるという意見であった。この決議は木戸内大臣に渡され、東條内閣は翌日の1944718日に総辞職し、その日に後継内閣首班推薦のための重臣会議が開かれた。

 

326 その決議文中に「一路邁進する強力なる挙国一致内閣を作る」という文章があり、検察側はその(決議文の)前半を、平沼やその決議文を作成した重臣たちの好戦意図を示しているとする。しかし、この決議は重臣たちが前年から取り掛かっていた計画の結晶である。絶大な力をもつ戦争内閣を倒すことは容易ではない。民衆の目は重臣から見て心配していた事柄(敗戦や停戦)が見えないように目隠しされていた。戦争内閣に代わる新内閣を推薦して戦争を止めるように徐々に国(国民)を指導して行くために、重臣は慎重に行動した。重臣は平和招来の真意を、時機に適した調子の高い言葉で覆い隠す必要があった。言葉尻を捕えて判断することは軽率・不公平である。新内閣を作ることによって成就した事柄がものをいう。小磯が(次期首相に)選択されるとすぐに、平沼、岡田、若槻、近衛が相談し、近衛が他の重臣全部の家を訪問し、「天皇の新内閣組閣大命は、米内を海軍大臣に任じ、小磯・米内の二人を降下する(天皇が臣下へ命令する)よう取り決める」ことについて、各重臣の同意を得て、その取り決めを決定した。このような大命は前例のない事だった。米内を海軍大臣に任命した取り決めは、内閣内に戦争反対論者を入れるためであった。

 

 194545日、小磯内閣総辞職の際に開催された重臣会議で、平沼は鈴木貫太郎を後継内閣の首班として推薦した。

327 鈴木内閣は終戦内閣である。平沼が鈴木を首相として推薦した理由は、鈴木が総理大臣になれば戦争を止めることができると考えたからである。平沼はそのことが鈴木を推薦する理由だと岡田に話した。ただし、平沼は会議の席上では真の推薦理由を述べず、却って最後まで戦う人が必要であると言った。しかし4年近くも続く戦争を、しかもその勝敗に国家の運命がかかっている戦争を、国内の分裂なしに止めるには、国民が英雄として崇拝し、指導者として従うような人物が必要である。数年間民衆を戦争に煽り立て、民衆の感情が極度にそそられているとき、これを平和にもってくる人物を推挙することは難しい。岡田証言によれば、平沼は岡田に、「鈴木を任命すれば早期終戦になるが、公然とそう言えば、内閣の成立を妨げるから言えない」と言った。

 

 岡田証言によれば、日本がポツダム宣言の条件を受諾すべきか否かを論議し、その決定をした19458月の御前会議で、平沼は受諾すべきだという意見を支持した。ところが検察側は、平沼が受諾に反対したと立証しようとして木戸の証言を引用した。ここでは首席検察官が敬意と信用をおいた人(岡田)の証言が木戸の証言のために排斥されている。また平沼が降伏条件の受諾により国体が護持できるかどうかについて疑念を懐いたとしても、それは侵略という犯罪ではない。

 

 

結論

 

327 平沼は被告の中で最年長者であり、生涯のほとんどを公務員として過ごした。日本は駆け出しの後進国から世界の強国になり、世界の大虐殺に「投げ込まれ、」打ち負かされ、都市は破壊され、国民は貧窮し、征服者の足下にひれ伏し、世界政局の気まぐれに支配されるに至った。国家間の意見の不一致は交渉によって解決されるべきであり、武力抗争によって解決されるべきではない、という原則のために平沼は一生をささげた。(これはうそ。)この「困難な時代」に、(米英などの)仮想敵国の戦争能力を分析するための武力を持たない国は、会議で押しが利かず、そのために国家保全のためには「諸国民の結合に頼らなければならい」(大東亜共栄圏)と平沼を始め多くの人々は考えていた。そのことのために彼を「戦争扇動者」とすることはできない。

 現在永久的で真の平和を求める(我々)「偉大な民主主義諸国民」の指導者たちは、「平和は強国間の抗争によってのみ解決することができ、小国民の希望によっては達せられない、総ての(諸)国民がその同意に基いて結集し、全人類の福祉のために尽くす諸国民からなる一大共和国を形成するまでは、世界平和は達成できないことを認めている。

 

 第一次世界大戦は、世界を民主主義や自由にするために戦かわれたが、世界はその数年後に地球上のあらゆる国民の運命に影響を与える世界動乱(第二次世界大戦)に突入した。

 平沼はこの戦争を招来する謀略に加わったとして訴追されている。平沼は日本が連合側にいた第一世界大戦が終わったときには成人していて、平和や自由、民主主義の人生観が固まっていた。それが突然謀略の世界観に変わることはない。

 

329 平沼に対する立証は、平沼が戦争願望を促進したとするが、実際は彼や数人は、次第に高まる戦争の風潮に対する唯一の堡塁であった。戦争に反対する人々は暗殺された。平沼が侵略戦争の謀議に加わったとは考えられない。(うそ)

平沼は「表面上は」戦争謀議者に順応したかもしれないが、そうせざるを得なかったのである。またそのために(戦争謀議を阻止するために)、(戦争を推進する)権力を維持した。(ごまかし)しかし、平沼のそういう(隠れ反戦権力者としての)行為の期間は短い。それ(平沼が戦争推進謀議者であったこと)は、この裁判が際立たせただけだ。

そして不幸にも平沼の性格に関する証言は退けられた。そのため当裁判所はピゴット将軍やグルー前大使などの意見を公式には知らないが、裁判所に彼らの証言が提出された事実は考慮すべきである。

 

 ポツダム宣言受諾前の暗黒時に、平沼は平和を求めた。平沼は「日本は「以前のような外殻」ではいけないとは悟っていたが、この戦争を続けると、同胞に一層ひどい悲惨事と窮乏をもたらす」と知っていた。ポツダム宣言の受諾決定の朝、平沼は口汚く罵られ、暗殺されかかり、家を焼かれた。

 

平沼の運命を裁判所の手中にお任せする。

 

 

平沼騏一郎氏の為の嘆願書 中央大学教授・退職大審院検事 樫田忠美

 

 

感想 2025618()

 

司法が公平で独立していたというなら、治安維持法による弾圧は公正だったのか。

卑屈 これまでの大日本帝国臣民としての矜持はどこに行ったのか。

 

 

331 卑屈 「敗戦日本国の治安(念頭にあるのは常に治安)が進駐軍の御庇護により維持せられ、極東軍事裁判法廷に於て戦争犯罪被告人等をしてよく彼等の弁解を述べさせ、よき弁護人をつけ、遮ぎることなく彼等の言はんと欲するところを尽くさしめ、模範的の御審理を進められたことは、「我々日本国民一同」(越権行為)心より感謝感激し、貴官の御努力に対し、深甚なる敬意を捧ぐる次第であります。」

 

 私は司法部に入り33年間検事を奉職した退職大審院検事であり、目下中央大学教授として刑事訴訟法を講義しているから、司法部に植えつけられ展開された伝統的精神を詳しく知っている。

 

 私は戦犯被告人平沼騏一郎氏の人格と思想動向をよく知っているので、これらのことに関して私の意見を上申し、同氏のために寛大な御処置をお願いする参考資料に供したい。

 

 平沼騏一郎氏は明治231890111日、裁判所構成法施行のときから判事に任命され、明治401907年、法学博士となり、明治441911年、司法次官、大正元年1912年、検事総長、大正101921年、大審院長、大正121923年、司法大臣となり、その司法部生活は37年の長きに渡る。また検事総長として約10年(1912.12.21-1921.10.5)勤め、わが国の現行の刑事訴訟法を案出した中心人物であった。

 

332 氏はまた支那の儒教を研究し、これを公私の国民生活に取り入れ、「弛緩した国民精神を引き締め」(尊大)、正義国家・平和国家達成のために指導した。(尊大)

 

 氏は大審院長、検事総長、司法大臣として訓示・演述し、「道義の昂揚」、「人権」の尊重、「言論の自由」(本当か)、正義を説示した。

 

 平沼氏は大正151926年、枢密院副議長となり、同年10月男爵を授けられ、昭和111936年、枢密院議長、その後総理大臣1939.1.5-8.30となり、内務大臣1940.12.21-41.7.18となった。その間「我国司法部の道義的基礎」を固め、政界に道義の観念を広めた。

 

 我が国の文明は徳川時代の鎖国主義の影響を受けて発達が遅延していたので、国民は「欧米文化の美に幻惑され」、主として形式的・物質的方面を取り入れ(これは為政者だけに当てはまるのでは)、精神文化の方面はほとんど閑却した。そのため「我国古来の美点」すら失われ(これは論理の飛躍)る風潮を察知した平沼は、日本国民の将来を憂え、日本の良さを失わず、世界文化の摂取を怠らず(つけたし)、国民の軽佻浮華(尊大)を戒め、「中正」の道を歩むよう指導する必要を痛感し、雑誌「国本」(国民の基礎の意味。国家の基礎ではないのか。ごまかし)を発行し、国民思想の「純化」に尽力した。その意見は日本国の存続発展を念願しつつ、世界平和の維持に寄与(これが自己中大東亜共栄圏)しようとする「道義的国家」建設の必要を力説した。

 

 平沼氏の説くところによれば、

 

333 「古来日本国(の誰が?)は人道主義をとってきた。決して侵略主義はとらなかった。日本国はその肇国の際から天皇が中心となり、天皇は国民を愛撫し、他の国家との共存共栄を念願し、国民は天皇を敬愛し、一丸となって国家の存続発展をはかってきた。歴史の示す如く、わが国の存在を危うする侵害を受けたときのみ、自衛上の戦争をしたのである。」と(これは宗教観)

 

 天皇を中心として政治の運営が行われていた国家は他に類例を見ない日本国特有の歴史上の事実であり、(武士政権は?そう信仰したいだけ。)日本国民がこの歴史を尊重し(実はさせられた)、これを日本国民の思想の中心目標に結び付けてきた運動は、戦時中にだけ行われたものでなく、昔から日本国の伝統的信念の実現として高唱されてきた。(それは、)他国の利害得失を顧みず、自国の発展・拡張の為に国民を圧迫・犠牲にし、他の国家を排斥・攻撃し、その領土を侵害することを目的とするナチスやファッショの思想とは異なる。

 

 雑誌「国本」に掲載された平沼の論文10編余を要約すると、

 

天皇を中心とした政治体型を基本とし、「右に偏せず左に偏せず、」中正の道=仁義の「大道」であり、法に反しないよう教え導く。我国古来の良さを確保し、「外国の美点を取り入れ」(付け足し)、それらを融合一体化し、「(神国日本を中心とした)世界平和の招来」を大理想とし、正義・公平・自由・「人権尊重」を国民に力説する。この点、「英米の政治体型に流れているデモクラシー(民主主義)の思想と同一歩調をとるべきだと説明しているものに外ならず、」国民を犠牲にして戦争に突撃すべき旨を指導するとは認められない。

 

 平沼が多年司法部を指導したことから、判検事のほとんど全部が「国本」の読者となり、その感化を受け、「良き行刑」の参考資料として愛読し、「何ら弊害を醸さなかった。」(治安維持法による弾圧は無視か?)

もし「国本」の思想がファッショやナチスの類型であったとすれば、日本の判検事は今日のように「冷静な態度」ではあり得ない。彼らはよく三権分立の思想を把握し、司法権の独立を守り、戦争の渦中に捲き込まれず、欧米のそれと同様の矜持を保ち、今日に至った。

 

334 平沼は政治家として軍部の行き過ぎを阻止しようとしてその機会を狙っていたが、大洪水のように強圧的に戦争に驀進する軍部をどうすることもできなかった。

 彼はピストルで撃たれ、再度暗殺対象とされ、邸宅を焼かれたが、奇跡的に命を取り留めた。

 

 平沼氏の胸中には道義的国家主義が潜在し、平和を愛して無意味の戦争をすることの愚を避けた。そのため一部の戦争遂行論者や降伏反対論者から襲撃の目標とされた。

 

 彼の希望であった道義国家建設の夢は脆くも破れ、本年82歳の高齢で牢獄の中にあり、どんなにか寂しい思いをしているだろうか。

 丁寧親切公正な御審理が二年有半続けられ、平沼は自己の運命を洞察し、判決の意義を理解できるだろう。

 

 私は高齢者には比較的軽い刑を考慮すべきだと英米の刑事学者の学説から教えられた。彼は被告人中の最高齢者であり、彼に長期の自由刑を科すことは死刑を言い渡すのと同一の結果となる。

 

西暦1948515

 

極東国際軍事裁判

 

裁判長 ウエッブ閣下

 

 

年譜から

 

1945.4.9 任枢密院議長

4.21 王公族審議会総裁被仰付

6.8 補議定官

 

10.15 依願免本官

12.2 A級戦犯に指定、逮捕令発令されたが、老齢のため家居

 

1946.4.29 巣鴨プリズンに入所起訴

 

1948.11.12 終身禁固に処せられる

 

 

1952.6.14 病気静養のため慶応大学病院へ入院

8.22 薨去

8.25 青山斎場で仏式で葬儀

10.18 津山市安国寺で分骨埋葬式

 

 

 

以上

 

『平沼騏一郎 回顧録』1955

  『平沼騏一郎 回顧録』 1955     機外開館談話録   本書は 1955 年刊行であるが、平沼騏一郎が 1942 年のころ、平沼は 1867 年 10 月の生まれだから、 75 歳のころ、数人の聴衆を集めて、自らの人生を振り返って口述筆記させている。...