昭和天皇の終戦史 吉田裕 岩波新書 1992
要旨・感想
序 「天皇独白録」とは何か
「独白録」は、その英語版006があったことからもわかるように、東京裁判対策であった。秦郁彦005
米ワシントンDCの国立公文書館の戦犯容疑者の尋問調書の中で、日本人容疑者は、戦争をいささかも弁護することなく、戦争責任者として特定の人物を名指ししている。006
Ⅰ 開戦をめぐる宮中グループの動向
宮中グループつまり天皇の側近は、有力な政治力をもっていた。011, 012
大正末期以降ただ一人の元老となった西園寺公望が天皇に後継首相を推薦することが慣例となっていた。
宮中グル-プは、十五年戦争の過程で軍部に同調していった。
近衛文麿は、米が主張する中国大陸からの日本軍の撤兵という要求を受け入れ、対米戦を回避しようとしたが、陸軍の東条らの反対で、第三次近衛内閣は、1941年10月に総辞職し、主戦派の東条英機陸軍大将が内閣を組織した。014
陸軍の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」は、対英米開戦を決意し武力発動の時期を12月初旬と定めた11月5日の御前会議の前後における天皇の言動を、「お上のご機嫌うるわし、参謀総長、すでに御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す」「御上もご満足にてご決意ますます鞏固を加えられたるがごとく拝察せられたり」と記録している。015
天皇は裁可に至る内奏の段階では、積極的に自己の意志を表明した。017
近衛文麿と東条英機との闘い
戦況が悪化してきた1944.6、近衛や岡田啓介などを中心とする重臣グループは東条を退陣に追い込んだ。020
近衛を中心とするグループ*は戦争を終結させようとした。
*この中には、吉田茂、殖田俊吉、鳩山一郎ら戦後の保守政治をになう政治家がいた。019
戦争終結の一つの方法として、昭和天皇退位論があった。1945.1.25、近衛らは、天皇の退位と落飾(出家)について相談した。021
近衛は敗戦に伴って「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するのを回避すべく、直ちに戦争を終結することを上奏した。ところが天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこたえている。(『木戸幸一関係文書』)
天皇が木戸内大臣の進言を受けて戦争終結に動いたのは、ドイツの無条件降伏1945.5.7後であった。023
ポツダム宣言1945.7.26受諾の際、一条件(国体護持)受諾案と四条件(国体護持・自主的な武装解除・戦争犯罪人の自主的な処罰・保障占領否定)受諾案との二案があったが、御前会議8.9--10を利用して一条件受諾案に決定した。御前会議を利用するという案は前々から用意されていた。026
026 松平康昌は、A(陸軍)に政権を持たせ続け、その限度に来た時、HM(His Majesty)が登場し、転換を迫り、Aが引っ込む、という想定をしていた。
8月10日の御前会議は、一条件受諾案を連合国側に提案したが、バーンズ国務長官から、「天皇や日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従属し、日本の最終的な政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思により決定されるべきである」という回答があった。これは天皇の地位が保証される可能性があることを示唆した。
028 この回答に日本側は国体護持に確信が持てないとして、受諾慎重論が台頭し、14日に再度御前会議が開催され、聖断で受諾が決定された。
028 これ以上戦争を継続すれば「国体」が内部から崩壊するという危機感が強かった。軍部、政府、天皇に対する批判が高まった。(内務省警保局の内部文書、『日本憲兵正史』)
030 終戦は国体護持のためであった。大井篤は「国家の運命以上に皇室の安泰を考える」傾向があったと指摘している。
木戸や天皇が四条件受諾案に傾いた時もあった。そのとき近衛や重光葵、高松宮信仁(のぶひと)は一条件受諾案を推した。
031 ポツダム宣言の即時受諾を主張した人には、松平康昌、迫水久常、加藤俊一、高木惣吉らがいた。彼らは戦後天皇免責でも大きな役割を果たした。
032 また、昭和天皇の退位に備えて、皇太子を天皇に担ぎ出そうとする画策もあった。八月十日、東宮(皇太子)職が新設され、翌日の新聞は、皇太子明仁の写真が掲載された。
終戦に当たって、天皇の戦争責任をなくそうとする画策が為された。
玉音放送は、詔書と内閣告諭とアナウンサーのニュース解説からなっていたが、国民が理解できたのはニュース解説だけだった。解説曰く、033
「大御心に副(そ)い奉る事もなし得ず、自ら戈(ほこ)を納むるの止むなきに至らしめた民草を御叱りもあらせられず、かえって、「朕の一身はいかがあろうとも、これ以上国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」と宣わせられ、国民への大慈大愛を垂れさせ給う大御心の有難さ、忝(かたじけ)なさに、誰か自己の不忠を省みないものがありましょうか」
このように、ニュース解説では、天皇の「聖断」による平和の回復という点が、居丈高とも思えるような口調で強調された。(『玉音放送』)
033 詔書の中には天皇の責任については何の言及もなかった。
034 近衛は、戦争責任の全てを軍部、とくに陸軍(東条)に押し付け、皇室の責任を緩和しようとした。
036 当時は天皇個人を絶対化・神聖化する傾向が強く、平沼騏一郎は、「今上陛下の戦争責任が問われるなら、臣下の分として看過できないから、戦争をあくまでも続行する」と考えていたが、近衛は、天皇個人と天皇制=国体とを区別していた。そこから天皇退位による国体護持という発想が生まれた。
Ⅱ 近衛の戦後構想
041 間接統治、天皇制の温存の方針が決まったのは、1945.8.11~22の間であった。(中村政則『戦後史と象徴天皇』)
042 アメリカ政府は、天皇制と天皇個人とを区別し、天皇の訴追や退位がありうると考えていた。
043 日本では、戦犯裁判を甘く処置するために、「自主裁判」を構想したが、アメリカは1946.3認めなかった。
045 フィリピンでの「バターン死の行進」司令官本間雅晴中将は「礼遇停止」処分となったが、アメリカの軍事裁判では死刑の判決を受けた。
047 東久邇宮稔彦(なるひこ)首相「国体護持は理屈や感情を超越した、かたいわれわれの信仰である」「敗戦は国民の道徳のすたれたのもその原因の一つだ」「全国民総懺悔はわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」1945.8.30
048 国民の多くは東条に対して反感を抱き、戦犯逮捕に際して、大きな反発を見せなかった。
050 外国人記者は天皇の責任を追及した。
首相になった幣原喜重郎は、満州事変当時、対英米協調外交を行った。アメリカは天皇の真珠湾攻撃の責任を追及した。
052 幣原内閣の閣議決定「大東亜戦争は、やむを得なかった」「天皇は対米交渉での和平を御軫念(しんねん)あらせられた」「天皇は憲法の慣例にそって(立憲君主)、大本営、政府の決定を却下しなかった」「天皇は真珠湾攻撃前に交渉打ち切りの通達で努力した」と天皇擁護一心であった。
053 しかし、閣僚の一人田尻愛義(あきよし)は、天皇の道義的責任はあるとして、天皇の退位と皇室財産の下付を主張した。
この閣議決定の戦争責任とは、戦争を開始した責任だけであって、戦争遂行行為や満州事変、日中戦争の責任は考慮外だった。
054 幣原内閣が設置した「大東亜戦争調査会」11.24も同様の考え方をし、満州事変や日中戦争を除外した。真珠湾奇襲攻撃だけを問題とする米国人(フェラーズ准将)もいたが、国際世論は、満州事変や日中戦争を問題視していた。
055 幣原、吉田茂外相は、明治憲法を維持し、天皇の退位がなくても乗り切れると考えていた。
056 一方、近衛グループは、国体護持のためには、明治憲法の改正と天皇の退位が必要と考えていた。近衛は「皇室や財閥は、軍閥を抑制した、そして日本の赤化を防ぎ、民主国家を建設するためには、軍閥排除と皇室勢力と財閥の温存が必要だと、マッカーサーに説いた。1945.10.4
057 近衛はAP通信記者に天皇退位構想を明らかにしたが、それに幣原が抗議し、天皇の「御下問」もあり、近衛は釈明を余儀なくされた。
058 近衛は日米戦争開始の責任者として東条を米(マックス・ビショップ)に突き出し、そのとき天皇が積極的に介入すれば回避できたはずだとした。そして自らは天皇の命令を期待していたと述べた。11.6-7
059 近衛は憲法改正作業を担当したが、天皇は近衛を好まなかった。天皇は今後の首相選定方針について、五人の重臣*の意見を聞きたいとしたが、その中に近衛は入っていなかった。
*岡田啓介、米内光政、木戸幸一、牧野伸顕、安倍信行
060 近衛は11.9アメリカ戦略爆撃調査団によって、日中戦争での首相としての政治責任を追及された。
対敵情報部(CIC)のノーマンは、日本のファシズム化での近衛の責任を追及し、近衛は戦犯容疑者とされ、12.6逮捕命令が発せられ、近衛は出頭予定日の十二月一六日未明、服毒自殺をした。
近衛は対米責任だけを追及されると思っていたのだが、GHQは近衛の対アジア責任を問題にした。近衛はアジアに対する戦争責任に対して無自覚であった。
061 近衛の死後、近衛手記が『朝日新聞』に連載され、その中で、天皇が対米戦回避の為にもっと積極的に行動すべきだった、とした。
政府には統帥権はなく、政府と統帥権との両方を抑え得るものは、陛下ただ一人である。陛下が消極的であることは障碍が起こる。日米交渉時に、軍事と政治外交とが一致しないという経験をした。1945.12.30
062 天皇は「近衛は自分にだけ都合のいいことを言っている」と語った。
063 統帥部に対する内閣の政治統制が機能した事例も少なくなかった。その一例は、日中戦争の初期、ドイツを仲介とした中国との和平交渉=トラウトマン工作の継続を、参謀本部が、戦争の長期化を恐れて主張したが、大本営・政府連絡会議の場で、近衛は交渉の打ち切りを強引に決定した。
天皇は1941.9.6御前会議で対米戦に関して不安を表明したが、近衛は何も積極的に軍部強硬派を抑えることはせず、黙過した。
064 しかし天皇が対米開戦やむなしという気持ちに傾いていった時、近衛が天皇の積極的な支援を受けられなかったことも確かである。
Ⅲ 宮中の対GHQ工作
067 共産党は天皇制打倒を正面から掲げた。宮内省の機能は縮小され、皇室財産は凍結された。
067 1945.9.27 天皇・マッカーサー会談。
068 豊下楢彦や松尾尊兊(たかよし)は天皇がマッカーサーに次のように言ったと推定している。
宣戦布告に先立って真珠湾攻撃を行うつもりはなかった。戦争回避の為に極力努力した。(これはウソ)開戦のやむなきにいたったことの責任は日本の君主たる自分にある。
069 1945.11.24内大臣府が廃止されたことに伴い、内大臣秘書官長から宮内省内記部長に転じた松平康昌109は、英語が得意で、GHQ関係者を御内儀費で*接待し、情報を収集した。(*侍従次長木下道雄の『側近日誌』)
070 運送業や土建業で財をなした任侠右翼の安藤明は、GHQの民間情報教育局(CIE)のケン・ダイク局長から、実際の政治から切り離した天皇制の存置という方針を聞きだし、宮中に伝えた。(木下侍従次長『側近日誌』)
安藤は「大安クラブ」(1945.10設立)でGHQ要人を接待した。
071 田中清玄は共産党員だったが、獄中で転向し、1945.12.21天皇に拝謁した。
072 高松宮宣仁(のぶひと)は、当初対米戦止むなしの立場だったが、戦局の悪化に伴って、反東条・早期和平派に転じた。近衛文麿の娘婿の細川護貞を政治秘書として用い、天皇のすぐ下の弟、秩父宮雍仁(やすひと)が肺結核のため、天皇の退位、皇太子の即位の事態には、摂政の候補に擬せられていた。
074 高松宮は天皇と不仲であった。天皇は輔弼の責任を持たない皇族の政治関与を嫌った。
075 天皇「高松宮は開戦論者であり、軍の中枢にいたから、摂政には不向きである」1946.3.6(木下道雄侍従次長『側近日誌』)
076 高輪の高松宮邸は、GHQ関係者の接待の場所であった。高松宮邸には、松前重義の仲介で、安藤明も出入りしていた。
077 米駐在の経験を持つ鎌田銓一は、高松宮にGHQの情報を伝えた。
高松宮は、戦略爆撃調査団やCIEの勤務経験のある、オーテス・ケーリから「天皇制は従来どおりではいけない、今のままだと退位を迫られる、世界の世論がそれを求めている。したがって、天皇と国民との距離を縮めるように、天皇がもっと身近な存在になるように」との示唆を受けた。(「ひらかれた皇室」)1945.12.16
078 その結果、高松宮は天皇の人となりにについて『朝日新聞』のインタビューで語った。1946.1.1
1945.11マッカーサーは、「天皇の退位は必要でない」と、米内光政海相に伝えた。
1945.11.29アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーに、天皇の戦争責任問題に関する証拠資料の収集を指示した。080
1945.12.2皇族の梨本宮守正が戦犯容疑で逮捕された。
1946.1.1GHQのケン・ダイクCIE局長の「日本天皇の存続確立」の意向が、安藤明を通して天皇に伝えられた。
1946.1.4GHQが「公務従事に適さざる者の公職よりの除去に関する件」を指令し、軍国主義者や国家主義者を公職から追放した。
080 天皇は冷や冷やしていた。
1946.1.25マッカーサーは、ドワイト・アイゼンハワー陸軍参謀省長あてに、「天皇が政治決定(戦争)に関与した形跡がない、受動的な国事への関わりであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけだった」と打電した。
081 マッカーサーはさらに「天皇を訴追すれば、日本で騒乱が起きるおそれがある」と付け加えた。
しかし当時GHQが天皇に関する資料を収集していた形跡はない。これは天皇を占領に利用しようとする政治判断だった。
082 1946.1.1天皇の詔書「人間宣言」が発せられた。
朕と爾等国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものに非ず。
この人間宣言の原案を書いたのは、CIE顧問のハロルド・ヘンダーソンであった。(高橋紘「昭和天皇と『側近日誌』の時代」)英国人教師レジナルド・ブライスも関与した。
「民主化された天皇」のイメージは、国際世論とくにアメリカの世論にアピールする必要に迫られたものだった。
Ⅳ 「天皇独白録」の成立事情
2018年1月3日(水) 備忘録 1.昭和天皇は陸海軍の総指揮官だったが、立憲君主を装い、責任を逃れようとした。しかるに日本では議会で多数を占めた政党の首班が首相を勤めるという慣行はほんの一時期にしかなかった。それ以外の時期は立憲君主制とは言えない。*1 2.東京裁判の記録文書がアメリカにあるというが、それは翻訳されているのか。3.東京裁判では広田弘毅を除いて自己保身の発言が多く、裁判はそのために長引いた。なぜ、潔く「私が対米戦を敢行した」と言えないのか。*2丸山真男もそのことは指摘していた。
*1 160 松平は戦前の日本の政治システムが完全な議会主義的君主制であるかのような言い方をしているが、1932年の五・一五事件によって「憲政の常道」が崩壊し、1940年10月の大政翼賛会の成立のよって、議会は形骸化した。
*2 今の自己中の右派の連中も、所詮その程度の人間の、犬の吠えのような、日本国内でしか通用しないような人たちの発言でしかないのかもしれない。恐ろしいことだ。日本という国は。
2018年1月3日(水) 「穏健派」と言われる宮中グループは、当初は、対英米協調路線と政党内閣制を支持し、軍部=陸軍との距離をとりながらも、次第にそれと一体化し、協力していったのだが、敗戦になると責任を軍部=陸軍に押しつけ、自らを守った。一九四八年十月の第二次吉田茂内閣はその現れである。229
また宮中グループは、武家、公家、皇族などの封建的特権支配階級と、新興の藩閥政治家、官僚、財界とが姻戚関係で結びつき、一つの大きな情報ネットワークをつくっていた。(岡部牧夫「日本ファシズムの社会構造」)そして駐日米国大使ジョセフ・グルーは、戦中からこの人脈と密接に結びついていた。226
そして彼らの政治的スタンスは、アジアの盟主として、日本の利権の維持・拡大のためには、軍事力の行使も辞さないと考えていた。228
そして反共主義で国体至上主義であった。228
087 1946.2.27 東久邇宮は、天皇が戦争責任を引き受け、退位したいと言っている、とAP通信東京特派員ラッセル・ブラインズに語った。
088 外務省政務局長の田尻愛義は、1945.9天皇の退位と皇室財産の民間への下付を東久邇宮首相進言し、偶然、東久邇宮も同意見だった。
089 1946.2.27 枢密院本会議で、天皇の三番目の弟である三笠宮嵩仁(たかひと)が、天皇・皇族問題について断然たる処置をとるべきだと発言した。
090 枢密院本会議の記録が、敗戦から1947.5の廃止に至るまでの間の議事録が公表されていない。この時期に親王(天皇の兄弟など)が本会議に出席を希望し出席するようになり、直宮(じきみや、天皇の子や兄弟の宮)がかなり自由に発言していた。
091 東久邇宮の発言はGHQにとって打撃となった。
1945.12.6 アメリカ検事団が来日した。
1946.2.2 イギリス検事団が来日した。
092 キーナン首席検察官はかなり早い時期から天皇の免責と不起訴を決意していた。
1946.4.8 オーストラリアのアラン・マンスフィールド検察官は、天皇の訴追を正式に提議した。検察局のアメリカ人スタッフの中にも、天皇を証人として喚問すべきだという人は存在した。
1946.3.6 ボナ・フェラーズ准将は、重臣の米内光政と会見し、こう語った。
ソ連は全世界の共産化を企図しているが、その際、日本の天皇制とマッカーサーの存在が邪魔になっている。またアメリカ国内にも天皇を戦犯者として挙げるべきだとする意見が強い。
天皇に罪のないことを日本側が立証してくれると好都合だ。近々行われる予定の東京裁判で、東条に全責任を負わせ、東条にこう言わせるべきだ。「たとい陛下が対米戦争に反対されても、自分は強引に戦争まで持っていく腹を既に決めていた」と。(「新出史料からみた『昭和天皇独白録』」)
094 米内もそれに同意した。米内は海軍内の「良識派」として知られる人物だった。
095 1945.9.25 ニューヨーク・タイムズ記者フランク・クラックホーンは天皇に拝謁した。
東条大将は真珠湾の騙まし討ちを行うために天皇の宣戦の大詔を利用したが、それは陛下の御意図だったでしょうか。天皇「その意図はなかった」
096 内閣情報局は朝日新聞など各紙のこの報道を発禁処分にしたが、GHQは発禁処分の取り消しを日本政府に命じた。
ところが天皇の回答の正文には東条の件はなかった。
097 この東条責任論は、アメリカの世論対策であったらしい。(松尾尊兊(たかよし)「考証 昭和天皇・マッカーサー元帥第一回会見」)
日本政府や天皇側近グループは、東条に全ての責任をなすりつけることには逡巡した。
丸山真男「天皇制は自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たす」
重光葵はこの天皇の「政治的中立性」を意識していた。
098 そのため、東条責任論は、天皇自身の発言によってではなく、重臣や側近の発言によって、GHQや国際検察局との接触の場という密室の中で、具体化された。
099 木下道雄『側近日誌』によれば、1946.2.25 「陛下の(戦時下の)御行動につき、手記的なものを用意する必要なきやにつき御下問あり」
100 米内・フェラーズ会談の内容は、松平康昌か松平慶民(よしたみ)かのいずれかによって宮中に伝えられたと思われる。
101 木下道雄『側近日誌』によれば、『独白録』作成のため、天皇からの聞き取りが始まった。五人が聞き取った。つまり、
宮内大臣(1946.1就任)(宗秩寮*総裁(1945.8時))松平慶民、
侍従次長木下道雄、
宗秩寮総裁松平康昌、
内記部長(1946.2就任)稲田周一、
宮内省御用掛寺崎英成
の五人である。(「五人の会」)
*100宗秩寮(そうちつりょう)は皇族等に関する事務を扱う部局。
102 「独白録」は1946.6.1に最終的に文章化された。聞き取り日について、「独白録」前言には、3.18, 20, 22, 4.8(この日は二回)計五回とあるが、側近日誌にある4.9についての言及がない。
103 寺崎英成(1900—1951脳梗塞)は、外務官僚として上海、北京、ワシントンで勤務した。『マリコ』は、柳田邦男が寺崎の娘の半生を描いたものだが、それによると、寺崎は、アメリカ人の妻を持ち、日米の平和の架け橋となり、対米開戦に反対した自由主義者として描写されているが、実は、寺崎には別の顔がある。
浅井信雄は、日本の駐米大使館宛の外交電報を分析し、寺崎が、近衛首相に直属し、南北アメリカの諜報活動を統轄し、米国内の反ローズベルト勢力や労働団体、黒人団体と接触し、米国内の世論の分断を画策した。(「日米開戦前夜における寺崎英成の役割」)
104 そのため戦後、寺崎の公職追放が検討された。
105 藤山楢一は、『側近日誌』の解説の中で、寺崎が頭山満の右翼団体玄洋社から影響を受け、尊皇家であり、国粋主義者だったとしている。また寺崎は、満州事変を容認し、ロシアに対して深い恐れを抱いていた。(妻の寺崎グエン著『太陽にかける橋』)
106 寺崎は、日本の平和意図を偽装するための外交活動をしていたようだ。(浅井信雄)
寺崎は太平洋戦争の開戦と同時に、アメリカ政府に抑留され、1942.8 交換船で帰国した。1946.2.20 寺崎は宮内省御用掛となり、GHQと宮中とのパイプ役となった。寺崎は、1946.1に来日した国際検察局の捜査課長ロイ・モーガンとは旧知の間柄だった。妻のグエンはフェラーズ准将の遠縁に当たった。(『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』)
108 粟屋憲太郎によれば、寺崎はGHQの「極秘の情報提供者」confidential informant=密告者だった。(「東京裁判への道」)寺崎の兄の寺崎太郎(外務次官1946.5)も極秘の情報提供者だった。戦争を推進した日本人を検察局に売っていた。兄太郎は、松岡洋右を「領土拡張主義者」としてモーガン捜査課長に売っていた。1946.2.21
またこの兄弟は、逆の情報を宮中に提供していた。(藤樫準二『天皇とともに五十年』)
109 松平康昌と加瀬俊一(外務官僚)は高松宮のGHQ接待の人選を担当した。(加瀬俊一「高松宮の昭和史」)
『天皇家の密使たち』によると、松平自身もGHQ関係者を自宅で接待した。そしてその料理は宮内省大膳寮のコックが当たった。
110 秋山徳蔵は主厨長で「天皇家の料理番」と言われた。(『秋山徳蔵選集1』)
松平は国際検察局の尋問に積極的に協力した。「橋本欣五郎、星野直樹、永野修身(おさみ)、大島浩、嶋田繁太郎、鈴木貞一らは対英米戦を支持し、広田弘毅は為すべき時に何も為さず、自らの責任を回避した、松岡洋右はドクマティックで大アジア主義を実現するために三国同盟を支持した、などと国際検察局に協力した。ただし、東条に対する言及はない。1946.5.20
111 多くの人々が国際検察局に「協力」した。田中隆吉(元陸軍省兵務局長)、牛場友彦、岩淵辰雄、殖田俊吉(牛場から近衛人脈)、木戸幸一などである。
殖田俊吉は、78人の戦犯リストを提出し、木戸幸一は自らの日記を提供した。(『木戸幸一日記』)田中隆吉は、公判廷でも検察側の証人になり、「日本のユダ」と呼ばれ嫌われたが、その証言は虚偽ではなかった。(島内龍起『東京裁判』)また田中は弁護人にもなり、重光葵や東郷茂徳外相の弁護で、その証言は有効だった。(ジョージ・ファーネス「東京裁判の舞台裏」)
113 田中隆吉と江口航(新聞記者)は、天皇に罪がかからないように、また被害者をできるだけ少なくしようとして、一部の人だけに罪をなすりつけようとした。(『田中隆吉著作集』『日本の曲り角』)
松平康昌は田中隆吉とともに、天皇に罪が及ばないようにした。(「かくて天皇は無罪になった」)1947.12.31 東条英機は「陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」と証言したが、キーナンは田中隆吉・松平康昌に働きかけ、松平は拘留中の木戸幸一に東条説得を依頼した。すると東条は、1948.1.6前言は「国民としての感情を述べたものであって、責任問題とは別だ」と証言した。田中隆吉は天皇からジョニーウォーカー・レッドラベルをいただいた。
(田中隆吉の息子田中稔談)
115 加瀬俊一は松平康昌の人脈であり、戦前は松岡洋右外相の秘書官を勤め、戦後は内閣情報局と外務省を兼任し、マッカーサーの依頼を受けて、 “A Brief Account of the Critical Period Preceding the Termination of the War, with Particular Emphasis upon the Role Played by H.I.M., the Emperor”をまとめた。(『加瀬俊一回想録』)
これは戦争終結に果たした天皇の役割や、同様のイニシアティブを開戦時に取れなかったのは、憲法上の制約があったことなどを強調した。
116 一方、加瀬が松岡外相の秘書官として戦犯の疑いがあると、IPS文書の中に残されている。
以上、「独白録」は、天皇に戦争責任がないことを論証するためにつくられた政治的文書であったことがわかる。
117 寺崎英成は、フェラーズ准将と会談し、天皇の退位問題に関するマッカーサーの意向を打診した。これは木下道雄侍従長からの依頼に基づくものであった。フェラーズはこう述べた。
極東委員会参加国の中には天皇を戦犯とする考え方があるが、マッカーサーにはその考えがなく、もし天皇を戦犯とすれば、日本は混乱し、治安維持に多くの人員を要する。また退位に関しても後継者問題で同様の混乱を来たすとし、マッカーサーは退位にも賛成でない。(『側近日誌』)
4.30 起訴状が公表されたが、そこに天皇の名はなかった。
118 天皇が証人として出廷することが恐れられたのは、天皇が公衆の面前にさらされると、権威に傷がつくこと、また天皇が戦争責任を回避すると、東条などの戦争責任を明言しなければならず、それは天皇と国民との精神的靭帯が断ち切れるおそれがあることなどのためであった。
119 1946.4.29 天長節の記念式典で、南原茂東大総長は、「今次の大戦で陛下に政治上、法律上の責任のないことは明白である。しかし肇国(ちょうこく)以来の完全なる敗北で国民を悲惨な状態に陥れたことについては、宗祖にたいして、また国民に対し、道徳的、精神的な責任を最も強く感じていられるのは、けだし陛下であろうと私は拝察する」と述べた。
これは実質的に天皇の退位を促したものである。南原は後日、これは「一億総懺悔」として為政者の責任をとらないことに対する批判であった、と回想している。
120 南原は高木八尺(やさか)とともに「国体護持」だけを条件とした戦争の即時終結を、木戸内大臣に献策した。
安倍能成(よししげ、幣原内閣の文部大臣)も、牧野伸顕に天皇の退位を申し入れている。1946.2.20
安倍は牧野の意見を取り入れて退位論を撤回しているが、これらは国体護持退位論である。
121 東久邇宮の天皇退位論は、日本国憲法制定を早めた。マッカーサーは極東委員会に占領行政を拘束されることを嫌い、日本政府に憲法改正を急がせ、GHQ作成の憲法草案を強引に受け入れさせた。(『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』)
天皇退位はマッカーサーの意図とは異なるので、マッカーサーは、日本に民主化憲法を制定させ、天皇制反対の世界の空気を防止せんとし、日本国憲法の日本政府案作成を早めさせた。(木下侍従長『側近日誌』)
Ⅴ 天皇は何を語ったか
125 「独白録」は「聖談拝聴録原稿」の要約である。「聖談拝聴録原稿」は、木下道雄の『側近日誌』に収録されている。
「独白録」冒頭で「大東亜戦争の遠因」として、第一次大戦後の平和条約で、日本が主張した人種平等案が容認されなかったこと、カリフォルニア州で移民が拒否されたこと、青海還付を強いられたことなどをあげ、それに対して日本軍・日本国民が憤慨したとしている。
126 「独白録」では「聖談拝聴録原稿」から削除された部分がある。
「私が英国親善のために訪問した直後に、日英同盟が廃棄され、日本の軍備縮小を列国から迫られ、青島還付を強いられ、また支那における排日教育は、弱者に対する列国の同情のもとに、強固なものとなり、日支関係は悪化した。」
127 「独白録」には近衛公日記と迫水久恒の手記が添付されていたが、今回出版されたの「独白録」にはない。
迫水の手記とは「降伏時の真相」と題する『朝日新聞』連載1946.1.13--のことを指すらしい。そこで迫水は、八月十日と十四日の御前会議の件など、戦争終結における天皇の尽力を述べている。*
*迫水は1945.11.9駐日政治顧問部のマックス・ビショップにそのことを強調した。Foreign Relations of the United States, 1945, Vol. VI. 128
128 迫水は重臣岡田啓介の娘婿で、鈴木貫太郎内閣(1945.4.7—1945.8.17)の内閣書記官長だった。
迫水は1946.2.6天皇が太平洋戦争開戦に反対していたとビショップに述べた。
迫水は『機関銃下の首相官邸』『大日本帝国最後の四ヶ月』などを著した。
1961年の講演で迫水は、八月十日の御前会議についてこう述べた。
「陛下のお姿には後光がさしていたと申す他はありません。もし絵に写すのなら、その尊い有難いお姿は、後光を書きそえて表すほかはないでありましょう。私は陛下におすがりすることによって、そのお力によって救われると思いました。」(『終戦の真相』)
130 「近衛公日記」は、「近衛公手記」のことらしい。「近衛公手記」は、1945末に『朝日新聞』に公表された。近衛の手記は、天皇の開戦責任の告発であり、ここでこの手記を載せたのは、それに対する反証のためらしい。
2 「独白録」の論理構成
132 1928年の張作霖爆殺事件*1で、天皇は田中義一に辞表提出をせまり*2、田中内閣は総辞職した。
*1 関東軍参謀の河本(こうもと)大作がやった。天皇は語る。
久原房之介がこの件で「重臣ブロック」という造語をつくり、これは宮中の陰謀だ、と触れ回った。これ以来私は内閣の上奏には自分が反対でも裁可を与えることにした。
*2 天皇は、これは「vetoではなく、忠告だ」と弁解しているが、このとき天皇は、牧野伸顕(のぶあき)内大臣や鈴木貫太郎侍従長らと、田中内閣を総辞職に追い込もうと意思統一していた。(『牧野伸顕日記』)134
133 太平洋戦争開戦段階で、天皇は語る。
私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、滅茶苦茶な戦争論が支配的になるだろうと思った。
134 ところが天皇は、実際は内奏や御下問で自分の意志を政策決定過程に反映させることができた。木戸は、天皇が「時には強い御意見を述べられることもあった。天皇のご意見を充分考慮した上でもう一度考え直す場合があった」としている。(『木戸幸一日記 東京裁判期』)
135 軍部に戦争責任があったことは自明のこととされ、軍部に同調した政治家は誰か、軍部の戦争政策を阻止できなかった政治家は誰かとして、戦争責任を松岡洋右と近衛文麿に向けている。
松岡は、三国同盟締結*1940.9の件で、三国同盟は日米関係を破局に導かない、と主張したとされ、天皇は「半信半疑で同意した」としている。そして「吉田善五海相が松岡の日独同盟論に賛成したのは騙されたのだ」「松岡はドイツびいきになり、ヒトラーに買収されたのではないか」としている。
*三国同盟は、武力南進・英米との対決に転換させた。
136 また天皇は「三国単独不講和確約は、日本の対連合国和平工作を不可能にし、日本に害をなした。これは大島浩駐独大使の責任が重い」としているが、これはウソで、天皇は木戸に「対米英戦を決意する場合には、独の単独和平を封じ、日米戦に協力せしむることにつき、外交交渉の必要あり」と語っている。(『木戸幸一日記』)
近衛については、天皇は「確乎たる信念と勇気に欠け」と評し、1941.11.29*に近衛が「交渉がうまく行かなくても、すぐ開戦する必要があるだろうか、臥薪嘗胆して打開の道を見い出せるのではないか」と開戦反対の意見を述べたが、天皇はこれに対して「極めて抽象的」だとしている。
*このとき政府も天皇も開戦を決意していた。
また1945.2に戦争の即時終結を求めた近衛上奏を天皇は「極端な悲観論」としている。
138 「独白録」では、満州事変や日中戦争に関する責任論が欠落している。ただ次のような言及があるだけだ。
1932年の第一次上海事変で、天皇が白川義則上海派遣軍司令官に停戦を命じたこと、満州事変の張本人として石原莞爾関東軍参謀の名が挙げられていること、日中戦争で板垣征四郎中将を陸相に起用し戦争の終結を図ろうとした近衛の判断ミスなどだけである。
国際連盟脱退に関しては触れられていない。
139 日米交渉に尽力した第三次近衛内閣を倒壊させた張本人の東条陸相になぜ組閣を命じたのかに対して、天皇は「東条は陸軍部内の人心を把握していて、陸軍を抑えられる」とするが、近衛内閣倒閣の原因には触れない。
東条をなぜ更迭しなかったのかに対して、天皇は「倒閣が宮中の陰謀だと言われたくないし、東条よりも力のある人物がいなかった」とした。また「東条は一生懸命に仕事をやる」と好意的であった。
140 GHQは諸悪の原因を東条のせいにして、天皇の訴追や退位を阻止しようとしたが、天皇は東条を強く支持していたので、東条をあっさり切り捨てることはできなかった。
そこで「独白録」は、立憲主義的な慣行のために天皇は閣議決定を承認せざるを得なかったとして、東条の責任を間接的に示唆し、天皇が東条を支持したことの釈明を行った。
141 聖断の陥穽 天皇が「聖断」によって戦争を終結させたという論法は、それならなぜ、その力を発揮して開戦を阻止できなかったのか、という疑問を生じさせる両刃の剣であった。
このことは、加瀬俊一のGHQへの報告書や「独白録」で問題とされ、その回答例は、「独白録」では、「開戦の際は立憲君主だったから、私の一存で裁可の可否を決定できなかった。もしそうしたら、私は専制君主と看做されただろう。一方、終戦の際は廟議がまとまらず、鈴木総理が裁断を私に求めたのだ」というものだ。
142 しかしこの立憲君主だからという論理には無理がある。
第一は、国務大臣の輔弼に基づく、天皇の大権行使という論理は、それだけで立憲君主制とはいえない。立憲君主制と言われる為には、国務大臣によって構成される内閣が、国民代表議会に基づく必要がある。
143 ところが、明治憲法では、国務大臣の任免は、天皇の大権に属し、議会の権限とは無関係だった。また、大正デモクラシーの時には確かに、議会で多数を占める政党の党首が内閣を組織するという「憲政の常道」という慣行があったが、それが機能していたのは、一九二四年六月の加藤高明内閣から一九三二年五月の犬養毅内閣崩壊の時までの八年間でしかなかった。したがって太平洋戦争開戦時の天皇を立憲君主と呼ぶことはできない。
大元帥としての天皇 第二は、明治憲法下では、限定された意味での立憲主義の原理すら機能していなかった領域があった。陸海軍の動員や作戦に関する統帥事項で天皇を補佐するのは、陸軍では、国務大臣である陸軍大臣ではなく、参謀総長であり、海軍では、海軍大臣ではなく、軍令部総長であった。
またこの両者は天皇を補佐する幕僚長であって、憲法上の輔弼責任者ではない。
144 家永三郎によれば、
国務大臣は、天皇の意思が違法または国家の為に不利と考える場合には、天皇の意思を変えさせる努力を尽くす任を帯びている。一方、参謀総長・軍令部総長は、天皇を頂点とする上命下服の体系の最高幕僚長にすぎないから、天皇と意見を異にしても、その命令に服従する義務があった。つまり軍に関しては、天皇は専制君主=大元帥だった。
攻撃命令の責任者は、天皇しかいないということだ。
山田朗によれば、天皇の下には重要な軍事情報が集中し、天皇も作戦に積極的に意思表示をした、としている。(『昭和天皇の戦争指導』)
145 「独白録」は、天皇の戦争責任の弁明の書であったし、対米責任のみに集中し、親米英を強調した。
3 「独白録」の中の天皇像
146 天皇の非立憲的言動 1939.8 天皇「私は梅津(美治郎)または侍従武官長の畑(俊六)を陸軍(陸相)に据えることを阿部(首相)に命じた」*
1940.1 「米内(光政)はむしろ私のほうから(首相に)推薦した」
天皇に情報が集中していた。
*天皇が陸相人事に介入した理由について、天皇「当時政治的に策動していた板垣系の有末(精三)軍務課長を追い払う必要があった。」(有末はイタリア・ファシズムの信奉者であった。)
147 また天皇は、満州事変が日本の軍人の謀略によって開始されたことを知っていた。(倉片衷(ただし)『戦陣随録』、1932.9)
148 好悪の情の激しさ 「宇垣下一成(かずしげ)のような人は総理大臣にしてはならぬ」「平沼騏一郎は狡猾で二股かけた人物だ」
平沼騏一郎は、観念右翼のリーダーであり、1939.1 首相に就任した。
149 某将軍(おそらく宇垣)に関して、天皇「あれは政治的野心があって」(藤樫準二『天皇とともに五十年』)
1945.10 宇垣は敗戦の責任を取って官位勲等の拝辞を上奏したが、天皇「宇垣は少なくとも一年間謹慎し公職を辞すならそれを許すが、今後代議士や会社社長になるだろうから」と、天皇はその申し出を拒否した。(『秘録宇垣一成』)
高松宮への反感 天皇は広田弘毅に対しても厳しい評価をしている。
また、「高松宮は日独同盟以来戦争を謳歌しながら、東条内閣では戦争防止の意見となり、開戦後は悲観論で、陸軍に対する反感が強かった」と「毒」が感じられる。
そして侍従の入江相政も、高松宮には厳しかった。「例によって、主旨はご自身の聡明さを誇示しようというのに尽きている」1947.3.19
田島道治宮内府長官も「高松宮については心配だ。何しろ頭がよくて*****」と述べた。(『芦田均日記2』)
151 このような天皇のむき出しの好悪の情の表明は、天皇個人に畏敬と親愛の情を抱いてきた人々の間に、波紋を投げかけた。
経団連会長の平岩外四は、「独白録」は「生々しすぎます。傷つく向きへの配慮も欲しいものです。『独白録』の公開は昭和が終わってからにすべきだ」とした。
天皇を「非政治的な存在」とみなす一般国民は多い。それは「公平無私な人」というイメージに連なる。
152 ところが「独白録」の中の天皇は、政治判断と政治的嗜好を持った存在である。「立憲主義者」という非政治的な人物ではない。
天皇の満州事変観 「独白録」はアメリカを意識しており、中国に対する加害者意識は希薄である。
153 日中戦争勃発直前、日中両国の妥協の方策を考えたが、その理由を天皇は「これは満州は田舎であるから、事件が起っても大したことはないが、天津・北京で起ると、必ず英米の干渉がひどくなり、彼我衝突の虞(おそれ)があると思ったからである」とした。
天皇は満州事変当初は、政府の「不拡大方針」を支持していたが、欧米列強が対日融和政策をとって、満州の軍事占領を事実上黙認するようになると、満州事変そのものを容認するようになった。
「満州問題はこれまでよくやってきた。今後も、十分慎重に事に当たり、九仞(きゅうじん)の功を一簣(き)に欠かぬように*」と閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)参謀総長に指示している。(『木戸幸一日記』)
*非常に高い築山を築く時、最後の簣(もっこ)一杯の土が足りなくて完成しないこと。
154 日中戦争への態度 天皇「そのうちに事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛び火した以上、拡大防止は困難と思った」「二ヶ師(二箇師団)の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので、私は盛んに兵力の増加を督促したが、石原(莞爾)はソ連を恐れて満足な兵力を送らぬ。私は威嚇すると同時に平和論を出せと云うことを常に云っていた」
1937.8.18 日中戦争直後に天皇は「諸方に兵を用うとも戦局は長引くのみなり。重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて、我の公明なる態度を持って和平に導く方策なきや。即ち支那をして反省せしむるの方途なきや」と伏見宮博恭(ひろやす)軍令部総長と閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)参謀総長に下問した。(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』)
155 1932 第一次上海事変で天皇「上海で戦闘地域をあの程度に食い止めたのは、奉勅命令によったのではなく、私が直接白川(義則)大将に事件の不拡大を命じておいたからだ」
奉勅命令とは天皇が参謀総長・軍令部総長を通じて発する作戦命令である。ここではそれを飛び越えて直に大将に命じたということである。
4 「独白録」・その後
156 「独白録」の内容はGHQに伝えられていた。「陛下より『メモアル』(memoir, 回想録)を伺いたることを(GHQ外交局のG・アチソンに)云う。」(『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』)
157 「彼(=天皇)の考えを述べさせて、文書化することに成功した。」(『知られざる日本占領』、GHQ参謀第二部(G2)部長で反共主義者のウィロビーの回想)
ウィロビーが引用した文書は、「独白録」を底本とした、松平康昌の手記「天皇陛下と終戦」だった。それには英文版もある。(『「昭和」の履歴書』勝田龍夫、勝田はこれをペンシルバニア州のゲッティスバーグ・カレッジ図書館で発見した。)
158 松平康昌の手記「天皇陛下と終戦」は、「独白録」に修正を加えたものであり、平和主義者としての天皇が強調されている。「平和は陛下の御信念であります」
また「天皇と終戦」では、「近衛公手記」に対する反論が明確にされている。「近衛公手記には、陛下の消極的な御態度の為に、政府が戦争を阻止できなかったかのように書かれているが、これは総理大臣としての輔弼の責任を忘れた、公の惜しむべき過誤である」としている。
159 また「東条首相は平和政策の眞精神を理解することができなかった」とし、「独白録」と違って、東条に対する批判が前面に押し出されている。
また、「独白録」以上に、歴史的事実の歪曲が目立つ。1945.2 重臣たちのうち近衛だけが即時戦争終結を天皇に訴えたのだが、松平手記は「誰も明確な御答をした者はありませんでした」としている。天皇はこのころいまだに陸海軍による決戦に大きな期待をかけていた。
160 開戦決定に関して、松平は「憲法、議会制度下の一国の元首として、議会の支持を有する政府が、全閣僚統帥部首脳を網羅する御前会議全会一致を経て決定した開戦の廟議を拒否することは到底考え得ない所であります」
松平はここで戦前の日本の政治システムがあたかも完全な議会主義的君主制であるかのような言い方をしているが、1932年の五・一五事件によって「憲政の常道」が崩壊し、1940年10月の大政翼賛会の成立によって、全既成政党は解党し、議会が形骸化した。
第一次上海事変での天皇の指示に関して、松平康昌は「陛下は(白川義則)大将に全く個人としての希望だと仰せになり(英文版as a personal request)、租界の安全を回復する目的を達したならば、速やかに兵を撤収して、決して長躯奥地に進撃することのないようにと、親しくお話になり」と説明している。これは天皇に、軍司令官に直接停戦を指示できる実際上の権限があったと解釈されるのを恐れて、「独白録」の内容を言いかえたものである。
161 松平康昌の手記は、天皇の平和志向を強調し、弁明的色彩が強い。
「五人の会」のメンバーで、十五年戦争の時期に天皇を間近に補佐したものは松平を除いていない。その松平も、内大臣秘書官長に就任したのは二・二六事件後の、一九三六年六月である。松平は満州事変期の出来事について「私の記憶をたどって陛下の平和に対する御信念がよく現れていると思われる二、三の御事蹟を申し述べることに致しましょう」などと言っているが、これは伝聞に過ぎない。
162 GHQのG2から翻訳を指示された連合軍翻訳通訳部(ATIS)がこの手記を受け取った日付は、1948年8月23日となっているが、これが最初の翻訳なのかどうか判然としない。
5 「独白録」をめぐる人脈
163 フェラーズ准将は、共産主義の防波堤として天皇制を利用しようとした。(米内光政への談話1946.3.6, 093)
同様の趣旨をフェラーズは安倍能成文相に語っている。神谷美恵子がそのときの通訳をしている。「ロシアに対する共同戦線を張ってくれ」「日本の若い世代が共産主義にはっきり対立して自由主義運動を起こし、天皇御自らその先頭に立ち給うこと、そのために天皇の御側近に米国・西洋の事情に明るい有力な自由主義者を置くこと」を希望した。(『神谷美恵子著作集10』)
164 次に、キーナン首席検察官は、弁護団の池田純久に「天皇を裁判にかけないように、また証人としても出廷させないように努力する。そして日本の再軍備を勧める。日本の軍備を全廃すれば、アジアの赤化は明らかだ。」(『日本の曲がり角』)
反ソ・反共主義は、アメリカの「親日派」「知日派」の特徴である。ジョセフ・グルーもその一人である。彼は、戦前駐日大使をつとめ、1944年12月、国務大臣に就任した。
しかし、彼らのような反ソ・反共主義は、対日政策立案者の主流ではなかった。「ルーズベルト時代からトルーマン時代の初期において、米最高政策グループの中では、米英の友好関係に、米ソの友好関係を優先的に重ね合わせてまずいことは一つもない、という考え方が支配的であった」(藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』)
165 反ソ・反共主義路線が、アメリカの対日政策の中心にすえられるのは、1948年からである。1948年10月9日、国家安全保障会議は、冷戦体制への移行を前提とした対日占領政策への転換を公式に承認した。(NSC文書13―2)
日本側の反共主義 寺崎英成は、反ソ・反共主義者だった。「戦後の共産党の急速な成長に対して、なんら対抗手段がとられなかった、とテリー=寺崎英成は憂慮していた。テリーは総司令部が日本共産党に対して余りに寛大すぎるのは危険だと強調していた。」(GHQ外交局長のウィリアム・シーボルト『日本占領外交の回想』)
166 天皇も冷戦型思考に近く、ソ連を警戒して、戦争の即時終結をためらった。「(天皇は)全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ。それをやるなら最後まで戦う、との御言葉で、武装解除をすればソ連が出てくる、との御意見だったが、…最近、二つの問題もやむを得ぬとのお気持ちになられた。」(木戸内大臣『高木海軍少将覚書』、1945.5.5, ここで木戸は近衛に説明している)
天皇は寺崎英成を通して、米軍による沖縄の軍事占領継続を、マッカーサーに求めた。(「沖縄メッセージ」1947.9.20)天皇は「彼ら(日本国民)は、ロシアの脅威を懸念しているだけでなく、占領終結後に右翼や左翼が事件を引き起こし、それをロシアが利用し、日本の内政に干渉するするかもしれない」としている。
167 しかしこの段階では、アメリカ国務省にも、ソ連にも、相互協調路線が存在していた。(進藤栄一「分割された領土」)それにもかかわらず、天皇は、冷戦と日本の対米協力を先取りするような発言をしていたことになる。
G2との関係 GHQと宮中とを結ぶパイプは二つあった。一つは、松平康昌とキーナン首席検察官とのパイプ、もう一つは、宮内次官のあと侍従長を勤めた大金益次郎や寺崎英成とGHQ参謀第二部(G2)とのパイプである。(皇室担当記者の岸田英夫『侍従長の昭和史』)
168 G2は、民主化政策を進めたGS(民生局)と対立していた。そしてG2の部長は、ナチス礼賛者で反共主義者のウィロビー少将であった。
Ⅵ 東京裁判尋問調書を読む
1 ニュルンベルク裁判との相違
173 東京裁判は「文明」の名において「重大戦争犯罪人」を裁いた。1946.5.3に開廷し、1948.11.12に刑の宣告を行った。この裁判では日本の保守勢力の積極的な協力があった。
174 一方ニュルンベルク裁判は、1945.11.20から1946.10.1まで開かれ、大戦後の早い時期におこなわれ、米ソ英仏の協調が保たれていた。そして裁判長、検察委員会議長は、輪番制であった。
それに対して東京裁判は、冷戦への転換の過程とほぼ並行して行われ、裁判の主動権を握ったアメリカの対日宥和政策が影響を及ぼした。また七三一部隊の戦争犯罪は、アメリカの軍事的必要性から免責された。そして第二、第三の継続裁判を想定して拘禁されていた多数のA級戦犯容疑者が、つぎつぎに不起訴処分になり、釈放された。
175 裁判長や首席検察官の任命は、マッカーサー元帥の権限に属し、アメリカの国益が反映しやすかった。
東京裁判では裁判官は、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、カナダ、オーストラリア、オランダ、ニュージョーランド、ソ連、インド、フィリピンから計11名が任命された。
機密文書の湮滅(いんめつ) ニュルンベルク裁判では、ドイツ国内に進攻した連合軍が押収したドイツ側の文書の中から、ナチスの犯罪を立証できる証拠書類を入手できたが、東京裁判では、連合軍の日本本土への侵攻直前に「終戦」となり、ポツダム宣言の受諾決定から最初の米軍先遣隊が厚木飛行場に到着する八月二八日までのほぼ二週間の間に、日本側は軍関係文書を焼却した。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から、全陸軍部隊に対して、機密書類焼却の依命*通牒が発せられ、市谷の黒煙は、8.14から16までつづいた。」(元陸軍大佐の服部卓四郎『大東亜戦争全史』)
*文書などによる代理権による命令。
176 憲兵司令部は、8.14・15日、「秘密書類の焼却」を各憲兵隊に通牒を発し、8.20日、再度通牒を発し、「引き出しの奥」「机の脚の下等に挟んだもの」「棚の奥または下等に落下したもの」「焼却場に焼き残りたるもの」「参考書に綴じ込みたるもの」「床下に散乱せるもの」「家宅捜査を考慮して各自の私宅に所有しある書類ならびに手紙類にいたるまで全部調査焼却すること」と徹底した。(「極東国際軍事裁判速記録」第148号)
177 軍の焼却命令は、市町村レベルの兵事文書にまで及び、警察のルートを通じて、陸海軍の動員関係の書類の焼却が、各市町村の兵事係に命じられた。そして動員関係以外の兵事文書まで全て焼却してしまったようだ。(『村と戦争』)
また軍は、各新聞社に対しても、「戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力」をかけ、毎日新聞社などを除く多くの新聞社で、フィルムや乾板の処分が行われた。(『新聞カメラマンの証言』)
証言に依存する裁判 このように証拠がなかったから、検察側は、日本人への尋問から得られた情報や証言に依存した。
日本人側は、尋問や検察側証人として協力し、被告の選定や判決の行方に影響を及ぼした。
178 そのため裁判の進行が遅れ、日本側は冷戦の進行を利用することができた。
1947年4月の日中戦争に関する弁護側立証では、日本側は、日中戦争の反共的性格を実態以上に強調しようとした。
「弁護側はしばしば議事を妨害した。いろいろな動議を出し、裁判を長引かせ、連合国側の意見の不一致を生じさせ、またそのために日中米がソ連に対抗することによって、被告人の主張を強化しようと考えた。」(UP通信記者のアーノルド・ブラックマン『東京裁判』)
1947年5月からの対ソ侵略問題に関する弁護側の立証では、弁護側に有利な資料が証拠として採用された。
179 公文書がほとんど存在しなかったから、天皇の免責を決めていたGHQにとって、天皇無罪を論証する証拠を、日本人関係者の供述や証言から自由に選択できた。
アメリカ戦略爆撃調査団は、対日戦略爆撃の効果を判定するため、1945年9月から調査活動を開始したのだが、公文書が存在しなかったため、700人の日本人関係者を尋問した。その日本人たちが調査に協力的だったことに調査団は驚いた。「我々が望む全ての経済的データを、日本人の官僚は、我々に進んで提供した。けだし、彼らは自分の存在を認めてもらいたかったのだろう。」(トーマス・ビッソン『ビッソン日本占領回想記』)
180 アメリカ戦略爆撃調査団の報告書 “Japan’s Struggle to End the War” は、日本人関係者の供述だけを基礎としているから、ポツダム宣言受諾の方向に動いた天皇を中心とした人々の「平和への努力」を高く評価した。そこで迫水久常の証言は大きな影響を与えている。
2 尋問への協力
181 粟屋憲太郎は、1970年代の半ばに公開された、膨大な国際検察局(IPS)の内部資料を読み、近衛グループや木戸幸一、田中隆吉などが、IPSの尋問に協力し、被告の選定に影響を及ぼしたことを明らかにした。(粟屋憲太郎「東京裁判への道」)
IPS文書の中には300ほどの被尋問者のファイルがある。また「内閣」「企画院」などの件名別のファイルの中にも、多数の関係者の尋問調書が綴じこまれている。したがって、尋問を受けた日本人は400人を越えるだろう。
182 重臣グループの供述 重臣とは一般に首相経験者や枢密院議長をいうが、侍従長や内大臣を含めることもある。以下、岡田啓介と米内光政について述べる。
米内光政(海軍の提督)は1946年3月と5月に尋問を受けている。天皇は太平洋戦争開戦に反対していた、開戦が内閣の一致した結論だったから、やむなく開戦決定を承認した、としている。そして、陸軍の中堅将校が好戦派であり、満州事変と三国同盟の責任者は、土肥原賢二(絞首刑)と板垣征四郎(絞首刑)であり、ファシズム化の推進者は武藤章(絞首刑)であり、武藤は陸軍中堅層の政治的代弁者だったとし、政治家の中では松岡洋右(公判中に病死)が陸軍の影響下にあったとした。これは「独白録」同様に松岡を名指ししているが、東条は名指しされていない。
183 米内はIPSと関係が深かった。「キーナン首席検事は、米内のよき理解者だった」(緒方竹虎『一軍人の生涯』)
岡田啓介(海軍の提督)は、1946年2月から3月にかけて尋問された。その中で、1941年10月17日の重臣会議で、陸軍の若手将校を統制できる人物として、すべての重臣が東条を推薦したとした。これは「独白録」と一致する。
184 また天皇や重臣の多くが太平洋戦争の開戦に反対だったが、陸軍と衝突してまで阻止しなかったのは、衝突すれば、陸軍が天皇に退位を強要し、全権を掌握する可能性があったとしている。
また海軍が侵略政策に一貫して反対であったとし、陸軍に全責任を転嫁しようとした。しかし、尋問官は、そのウソを見抜き、1934年12月の、ワシントン海軍軍縮条約1922の廃棄通告(第二次ロンドン軍縮会議の予備交渉中に閣議決定1934)問題をとらえ、海軍の軍拡政策を追求している。
186 海軍の提督グループ 福留繁中将は、連合艦隊参謀長だった1944年4月、フィリピンのセブ島で抗日ゲリラの捕虜となり、重要機密書類を奪取されたのに、出世した。海軍上層部は、下には厳しいが自らには甘い。
187 福留繁は1945年12月に尋問を受けた。それによると、海軍は対米開戦に反対であり、満州事変・日中戦争・三国同盟にも反対した。陸軍の佐藤賢了(終身禁錮)や武藤章(絞首刑)など中堅将校が戦争を推進した。東条英機(絞首刑)は、彼らの代弁者だった。また東条の協力者として、岸信介*と星野直樹(終身禁錮)という二人の文官と、陸軍中将で元企画院総裁の鈴木貞一(終身禁錮)などの名前を上げている。
*岸信介は、731部隊の毒ガスと人体実験の資料を渡し、アメリカのCIAの工作員となり、死刑を免れた。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
外務官僚 重光葵(禁錮七年)と東郷茂徳(禁錮二十年)は、有罪だったが比較的刑が軽かった。
188 重光葵は東久邇内閣の外相だった。重光は言う。「陛下と国民に責任はない。指導者はなんらかの責任を負っている。それを避ければ内乱になる。指導者が責任を取れば、国体は維持される。陛下は、自らの責任がないことを語ってはならない。」(『重光葵手記』)
重光は、クラックホーン記者の天皇との会見記事(095)に批判的だった。
189 1946.4.29 重光に逮捕命令が出るが、その直前、重光は、外務省のMr. Kase(加瀬俊一か)を通じてIPSに接触し、自ら情報の提供を申し出た。その中で重光は「満州や中国に膨張政策を推進した政治的軍人リーダーとして、荒木貞夫(終身禁錮)、小磯国昭(終身禁錮)、板垣征四郎(絞首刑)、東条英機(絞首刑)をあげ、クーデター計画に関与した疑いのある将軍として、宇垣一成*、南次郎(終身禁錮)、小磯国昭(終身禁錮)をあげ、三国同盟締結責任者として、大島浩(終身禁錮)と白鳥敏夫(終身禁錮)を激しく非難した。
*主席検察官キーナンは、宇垣、米内光政、若槻礼次郎、岡田啓介らを「ファシズムに抵抗した平和主義者」と賞賛し、パーティーに招待した。宇垣は、三月事件(クーデター未遂事件)に関与した。Wikipedia, 宇垣一成
また、「新興財閥」が戦争を挑発したとし、近衛が軍国主義者と激しく闘争したとしている。
東郷茂徳(禁錮二十年)は、1946.2~4に尋問をうけ、自分は対米戦回避の為に努力した、東条は日米交渉に強硬な姿勢をとった、戦争に直接責任があるものとして、東条、嶋田繁太郎海軍大将(終身禁錮)、鈴木貞一企画院総裁(終身禁錮)、東条内閣書記官長の星野直樹(終身禁錮)などの名前を挙げている。
また木戸幸一(終身禁錮)は、天皇に大きな影響力を持っていたとした。
190 東郷は対米戦回避のために日米交渉で尽力したが、ハル・ノート1941.11.26提出以来、戦争支持に転じた。
外務省顧問の佐藤尚武(1882—1971, 駐フランス大使を辞任1936。 対中国対等の話し合い解決、対ソ平和の維持を主張した1937。 軍部や右翼から軟弱外交と非難を浴びた。Wikipedia)も、「戦争に導かんとする東郷外相の態度に反抗して、顧問の職を辞した」と1941.12.2重光に述べている。(『重光葵手記』)
吉田茂への尋問は1946年4月に行われた。吉田は個人に関わる言明を意識的に避けたようだが、 自分が近衛と親しくしたこと、東条組閣の大命は、木戸の助言によるものであること、財界は戦争には無関係であることなどを語った。
191 政党人・財界人 政党人への尋問は、十五年戦争時に彼らが権力の中枢にいなかったためか、あまり多くない。
鳩山一郎は政友会の幹部で、翼賛議会では反主流派であったが、戦後は日本民主党・自由民主党の総裁となった。
金光庸夫(かねみつつねお)は、おなじく政友会の代議士だったが、翼賛政治会常任総務として、翼賛議会の中心人物だった。戦後は自由党の顧問となった。
二人とも戦犯容疑者として逮捕されなかったが、公職追放された。
鳩山への尋問は1946年8月に、GHQの対敵諜報部(CIC)によって行われ、そのレポートがIPSの鳩山ファイルに綴じこまれている。鳩山は、大政翼賛会創設時の主導権を握った軍国主義者として、東条陸相、武藤章(絞首刑)・陸軍省軍務局長をあげ、政党政治を攻撃した人物として、大川周明(精神障害で免訴)と松岡洋右(公判中に病没)をあげた。また政党政治を内部から右傾化させた政治家として、政友会の中島知久平(ちくへい、1884—1949, 中島飛行機の創始者、海軍軍人、A級戦犯指定1945.12.2、公職追放1946, Wikipedia)を非難した。
192 鳩山は供述の中で、日中戦争の原因を、中国内の、日本との提携を一切拒否する部分があったことをあげ、また日本は、中国にも満州国のような、共産主義の侵入に対する緩衝国家を創出する必要があったとし、中国への侵略を肯定している。
金光庸夫(かねみつつねお)に対する尋問は、1946年6月に行われた。それによると、自分は第二次近衛内閣の厚生大臣になったが、日本経済のナチ化に反対し、計画経済へ移行する経済新体制に反対し、東条陸相や星野直樹(終身禁錮)企画院総裁などと対立したとした。
実際は金光は翼賛政治を推進していたのだが、1945年12月、マッカーサーに釈明の手紙を送っている。
193 財界人への尋問は数が少なかったが、藤原銀次郎(三井財閥の中心人物、東条内閣の国務大臣)、池田成彬(しげあき、三井、西園寺公房から首相を打診されたが、陸軍が阿部信行を推して流れた)、小林一三(いちぞう、阪急電鉄)などが尋問され、三井・三菱の戦争責任を否定した。
尋問への対応の特徴
(1)天皇を擁護し、戦争責任を東条や武藤など少数の陸軍軍人とその協力者に担わせた。
しかし、実際は、多くの人々の協力、黙認、傍観が彼らを支えたのであり、そのことの責任にはまったく口を閉ざしている。
194 主要な戦犯容疑者の間では、鈴木九萬(ただかつ)公使などが中心となって、天皇の訴追を回避するために意思統一をしていた。鈴木は戦犯裁判の日本側の事務を担当していた、終戦連絡横浜事務局の担当だった。「戦犯の逮捕が始まった頃、鈴木九萬*らが、天皇の責任を一言半句口にすべからず、という決意を促す連絡を取った。」(『田尻愛義回想録』)*鈴木の後任は、中村豊一、太田三郎両公使である。
(2)ほとんど全部の日本人関係者が、太平洋戦争の正当性を否定し、自分はその戦争に反対だったと供述している。東条英機、嶋田繁太郎の二名だけが、太平洋戦争を「自存自衛」のための戦争、あるいは「大東亜共栄圏」建設のための戦争として、正面から日本の立場を擁護した。
195 公判廷でもそうだった。大川周明は言った。「東条一人が戦争を始めたようだ。皆が東条に反対したが、戦争は始まった。馬鹿馬鹿しい。日本を代表するA級戦犯の連中は、実に永久の恥さらしどもだ。」(『大川周明日記』1947.12.20)
尋問の過程は、日本の保守派による、日本の社会や政治システムに関する、IPS関係者の教育の場であった。
3 公判廷における証言
196 重臣グループの証言 公判廷においても検察側の証人として協力する人がいた。「親英米派」「現状維持派」などと言われた幣原喜重郎、宇垣一成などの政治家や若槻礼次郎、岡田啓介などの重臣グループであった。
アメリカは、重臣グループと組み、軍部の侵略政策を告発した。
197 荒井信一は、「アメリカの日本に関する歴史認識は、日本の支配層が、極端な軍国主義者と穏健な政治指導者とに分けられ、前者には軍人や右翼的な政治家が、後者には外交官、経済官僚、重臣、財界人などが含まれる」としている。(『第二次世界大戦』)
豊田隅雄は第二復員省(旧海軍省)で戦犯裁判関係の業務を担当していたが、「鈴木貫太郎、岡田啓介、米内光政らに証言してもらうと、法廷での心証がよくなった」としている。(『戦争裁判余録』)
キーナン主席検事は「穏健な政治指導者のグループ」を擁護した。キーナンは1947.10.17 若槻礼次郎、岡田啓介、米内光政、宇垣一成の四人を自宅のカクテル・パーティーに招き、「四氏が日本の平和の為に戦ってきたことに敬意を表する」と言った。(『朝日新聞』1947.10.19)189注参照。
198 米内は日記に「こそばゆき感じしたり」と記した。
キーナンの、この四人を「平和愛好者」とする発言は、政治的である。
宇垣は言う。
(イ)正当防衛に基づく日清、日露の両戦果を没収するは不合理なり。
(ロ)自存自衛の切要に基づき起りし満州事変を侵略行為なりと曲解して、日本の平和文化の諸施設までを強奪するは不法なり。
(ハ)台、鮮、満の原住民族の開発や幸福の増進に尽くし来たりし効果を毫末(ごうまつ)も顧慮せず無視するは不都合、不公平なり。(『宇垣一成日記3』1946.7.29)
199 米内光政は盧溝橋事件の勃発当初は政府の不拡大方針を支持していたが、上海に戦火が及ぶと、8月14日の臨時閣議で「日支問題は今や中支に移れり」と南京の攻略を提言し、賀屋興宣(かやおきのり)蔵相の財政上の憂慮に対して、「海軍としては必要なだけやる考えである」と述べた。(臼井勝美『昭和史の軍部と政治2』)
200 判決の波紋 東京裁判は1948年4月16日に結審し、六ヶ月の休廷後、11月4日に再会され、11月12日に刑の宣告が行われた。
有罪となった25人中、陸軍の軍人は15人、海軍の軍人は2人、残る8人は文官だった。死刑となったのは広田を除きすべて陸軍軍人だった。陸軍軍人は怒りを押えきれなかった。
202 武藤章(絞首刑)は「日本歴史は公卿の罪悪を掩蔽(えんぺい)し、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。1948.9.25」「岡田啓介首相は、検事側証人として独善的証言をしていた。1948.10.21」(武藤章の日記『比島から巣鴨へ』)
畑俊六(終身禁錮)は「東京裁判で陸軍のものが六名も極刑(=絞首刑)となったのに、海軍は一人もいないとは誠に妙だ」とした。(畑俊六の獄中手記1950, 『続・現代史資料4』)
木戸幸一(終身禁錮)の心境 都留重人(つるしげと)は木戸に「(木戸)内大臣が有罪になれば、陛下も有罪ということになる」(『木戸幸一日記』(下))と言ったので、木戸は自分の日記を検察側の証拠書類として提出し、一貫して軍国主義者と闘ってきたことを法廷で強調した。
「木戸日記」と木戸の法廷での証言は、陸軍の被告にとっては大きな打撃となり、両者の感情的対立は極点にまで達したが、木戸はひるまなかった。
木戸は、1945.8.29 「ご退位を仰せ出さるると云うが如きは、皇室の基礎に動揺を来たしたる如くに(人々が)考え、その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼び起こすの虞れもあり」(『木戸幸一日記』(下))としていたが、長期的には天皇の退位が必要だと考え、「国内に対する戦争責任は、天皇にもおありになると申し上げ、」平和条約締結の際に退位することを進言した。(『天皇の終戦』)そして木戸は松平康昌を通して1951.9 サンフランシスコ講和条約が調印された時、天皇に退位を勧めた。
ポツダム宣言を完全にご履行になりたる時、皇祖皇宗に対し、また国民に対し、責任をおとり遊ばされ、ご退位遊ばるるが至当なりと思う。これにより、戦没、戦傷者の遺家族、未帰還者、戦犯者の家族は何か報いられたるが如き慰めを感じ、皇室を中心としての国家的団結に資することは頗る大なるべしと思わる。(『木戸幸一尋問調書』解説所引)
また木戸は同じA級戦犯容疑者の安倍源基に「陛下は少し行幸が多過ぎる。少し謹慎されなければならぬ。」と語った。(『巣鴨日記』)
木戸は法務省のインタビュー1964.7に対して「陛下は私のスガモ入り後は、私への直接のご連絡は何もなかった」としている。
206 「穏健派」(戦後の呼称)の責任転嫁 東京裁判に積極的に協力した人々は、軍部強硬派とは一定の対立関係にあり、太平洋戦争の開戦には反対ないしは消極的だった。また太平洋戦争のある段階で戦争に見切りをつけ軍部の徹底抗戦派と対立した。
彼らは満州事変や日中戦争に対するみずからの責任を曖昧にし、十五年戦争の全責任を、陸軍を中心とした軍部に押し付けることに成功した。
南次郎大将(終身禁錮)は「及公(だいこう、私)は(太平洋戦争)開戦の責任はないから、戦犯になることはない」とし、自らが満州事変勃発当時の陸相であったことは眼中にないようであった。(美山要蔵大佐への発言1945.8.12『廃墟の昭和から』)
207 東京裁判は内外の圧力もあって、起訴対象期間は、一九二八年一月一日から一九四五年九月二日までに及んだ。
木戸は言う。東京裁判での「支那事変関係の防御が、一番弱点だった」(『木戸幸一日記 東京裁判期』)木戸の弁護人は満州事変や支那事変を想定していなかった。
穏健派の対アジア責任は不問にされ、その責任は起訴された25人に押し付けられた。
Ⅶ 行動原理としての「国体護持」
1 陸軍との対立
211 天皇の評価をめぐって 一般に「穏健派」は、平和主義者とされ、天皇もその一人とされているが、昭和天皇を平和主義者と看做す人と、A級戦犯と看做す人とに分かれている。
212 陸軍との対立 天皇・宮中グループと軍部強硬派とは対立関係にあった。
天皇は陸軍の中堅幕僚層に対して警戒していた。天皇は、田中義一、宇垣一成、小磯国昭など陸軍出身の政治家を信用していなかった。(田中については『牧野伸顕日記』)小磯は繆斌*(みょうひん、中国人の名前。言葉そのものの意味は、偽りの美しさ)工作を継続し、天皇はそれを信用せず、それが理由の一つとなって、小磯内閣は総辞職した。
213 *繆斌工作とは、中国の繆斌を仲介とした対中国和平交渉をいう。繆斌は汪兆銘政権の要人で、重慶の国民政府とも連絡があるとされ、小磯は、繆斌を東京に招き交渉を続けようとした。
小磯総理は、緒方竹虎と共に繆斌との交渉を続け、1944.4 天皇に会ったとき、天皇の反対にも関わらず自らの方針を貫き、天皇の不興を買った。(『重光葵手記』)
海軍への信頼 天皇・宮中グループは、海軍を高く評価する。鈴木貫太郎・岡田啓介・米内光政ら重臣グループは、海軍将官であった。牧野伸顕(のぶあき)は、天皇から信頼されていたが、鈴木貫太郎を高く評価した。(『牧野伸顕日記』)
214 また入江相政(すけまさ)も陸軍に対する敵意と海軍に対する共感を表明した。(『入江相政日記』1)
海軍は、イギリス海軍に倣ったため、英米的で、貴族的であった。
また「大元帥」という自意識の強い天皇は、中央部の統制が比較的行き届き、幕僚将校の下克上や出先の軍の独走などが相対的に少ない海軍の方が信頼しやすかった。
2 英米との協調の重視
215 協調と侵略とは、英米との協調を、天皇をはじめとする宮中グループが重視していながら、中国に対する日本の権益を維持・拡大する方針を日本の国是(侵略)としていた、ということである。
天皇は満州事変の際、国際連盟や列強による経済制裁を恐れていた。(「奈良武次侍従武官長日記」)
その一方で天皇は「満州は田舎だから事件が起っても大したことはない」とし、中国への軍事介入を容認した。
自由主義者牧野伸顕も同様である。牧野は、戦争の拡大と長期化に対して慎重ではあったが、対中国戦争を、過剰人口と食糧不足に悩む日本の生存のための戦争として、あるいは中国側の組織的な反日運動に対する反撃として正当化した。(『牧野伸顕日記』、国際検察局(IPS)による尋問調書1946.3)
216 協調政策の転換 協調政策とはヴェルサイユ(1919)=ワシントン体制(1921, 1922)であり、大国間の協調政策である。それを武力によって打破する道を開いたのが、軍部であり、宮中グループでは、近衛文麿(日中戦争まで)であり、木戸幸一(武力南進政策以後)であった。天皇も木戸と一体となって、その方針を受け入れた。
217 入江相政は当初対米開戦に危惧と不安を抱いていたが、侍従武官から勝算があると聞かされ、開戦支持に転じた。入江相政は言う。「大東亜戦争の戦果による将来の帝国の振振(しんしん)乎たる発展を思い、全く感慨無量である。みたみ(御民)われ、生けるしるしありと思い、かくも栄ゆる御代に会えるとは思わなかった。もうどんな辛抱でもする。帝国民族一万年の計を樹立して、東亜の天地、世界の天地に盟主として君臨しなければならない」(『入江相政日記1』1941.12.31)
天皇の政治関与 このような宮中グループの軍部への接近と共に、天皇の政治関与が増大した。
218 1925年から1936年にかけて、内大臣が天皇に面会する頻度が増加した。(入江相政『天皇さまの還暦』)ただし、天皇の摂政時代や昭和初期には、内大臣や侍従長が、政治過程に深く入り込んでいた。
1936年の二・二六事件以後、天皇に面会する首相と内大臣との面会時間が増加した。また内大臣は、天皇に面会した国務大臣から報告を求めるようになった。(侍従岡部長章『ある侍従の回想記』)
3 国体至上主義
「国体護持」の使命感 天皇は国体護持を自分の使命と感じていたようだ。
天皇は、国家神道的な国体観念を振りかざす「精神右翼」や「観念右翼」の、平沼騏一郎や「皇道派」系の将軍に対して批判的ではあったが、皇祖皇宗に対する使命感を抱いていた。
220 皇族内閣によって対米戦を回避しようとする考えに対して、もし、戦争が起れば皇族が責任を取らなければならなくなるからとして反対した。
また1945.8.12の、ポツダム宣言の受諾について了解を求めた皇族会議で、国体護持がなければ戦争を継続することは当然だと朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)に答えている。(『独白録』)
牧野伸顕は対英米戦に慎重だったが、その理由は、戦争が長期化して、累を皇室に及ぼす虞があるからというものだった。(『海軍大将小林躋造、(せいぞう)覚書』)
神権主義的統治者意識 神権主義とは神意を体現する宗教的人格による政治支配である。
231 1946.1.1の人間宣言に際して、天皇は自らが「現御神」(あきつみかみ)であることは否定したが、自分が「神の裔(すえ)」であることにはこだわった。つまり天皇は自らの統治の正統性を天孫降臨神話に求めていた。
天皇がポツダム宣言を受諾した理由は、敵が伊勢湾周辺に上陸すれば、皇位の正当性としての、三種の神器の移動の余裕がなく、それでは国体護持が難しいからだった。(『独白録』)三種の神器は、歴代の天皇が継承してきた三つの神宝、八咫(やた)の鏡、草薙(くさなぎ)の剣、八坂瓊(に)の勾玉(まがたま)であり、うち伊勢・熱田両神宮には、鏡と剣が祀られている。
222 天皇が三種の神器にこだわったもう一つの理由は、自らの血筋が正統ではなく、神器の力に頼らなければならないという都合もあった。
幕末の水戸学や国学は、南北朝時代の南朝を正統とし、明治政府もこの立場をとったが、天皇家は北朝である。1935年の天皇機関説問題のときに、本庄繁侍従武官長は、天皇の前で南朝正統説を唱えたところ、湯浅倉平宮内大臣が「三種の神器を受け継がれたる処を正しとす」と答えた。(『本庄日記』)
223 「皇祖皇宗」への責任意識
0 件のコメント:
コメントを投稿