2020年2月3日月曜日

『東京裁判への道』 粟屋憲太郎(1944-) 講談社学術文庫 2013  要旨・感想


『東京裁判への道』 粟屋憲太郎(1944-) 講談社学術文庫 2013

本書の原本は、『東京裁判への道』(上下巻)講談社選書メチエ2006である。

IPS = International Prosecution Section 国際検察局
SCAP = 連合国最高司令官

東京裁判における多数意見判決とは米側の判決であり、少数意見書とはインドのパール判事の判決を指す。012 パール判事は、東京裁判被告全員の国際法上の無罪を主張した。

国際軍事裁判方式を望んだのはソ連だった。ソ連は即決処刑に反対した。029 ニュルンベルク裁判は、米英仏ソ四大国の対等な形式で実施されたが、調整にてこずった。極東軍事裁判所は、連合国11カ国の協定で成立したものではなく、マッカ-サーが一方的にその設立を宣言し、米国が連合国各国に参加を求めた。015
アメリカにある極東国際軍事裁判関連資料が見られる場所は三ヶ所ある。011, 018
①米国立公文書館(NA)ワシントン市
②ワシントン・レコーズ・センターメリーランド州スートランド
③マッカーサー記念館バージニア州ノーフォーク

東京裁判の全面否定を唱える「勝者の裁き」論、「大国」日本を歴史的に正当化するために、東京裁判という「屈辱」を払拭しようとする、「東京裁判史観」批判の情念が強まっている。017

1975 国際検察局の機密文書が公開された。
1992 国立国会図書館(NDL)が、NAに発注していた東京裁判の国際検察局の資料の複製が完成した。
 日中戦争初期からアジア太平洋戦争の中期まで、日本軍が中国各地で毒ガス戦を敢行していたことがこの文書から判明した。021
また、公爵徳川義親(よしちか)の十数年分の日記の原本も見つかった。そして内務省関係重要資料も見つかった。

第一章 日本敗戦と戦争犯罪問題

1 連合国の対応
オーストラリアは天皇が責任を取るべきであるとイギリスに伝えたが、イギリスは日本国民を支配するための各種資源を節約するために、天皇の玉座を利用することを望んでいると返答した。026

以下の記述はドイツに関することを含む。
1942.1 ロンドンのセント・ジェームズ宮殿に、ドイツに国土を占領された亡命政府九カ国が集まり、戦争犯罪に関する連合国間の最初の国際会議が開催され、戦争犯罪処罰の宣言を発表した。
1943.11.1 米英ソ三国首脳の名で「ドイツの残虐行為に関する宣言(モスクワ宣言)」が発表された。
1943.10 ロンドンに連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)が設置された。028
アメリカのスティムソン陸軍長官は、共同謀議罪を適用することによって、効率よく裁判を進行させようと提案した。つまり共同謀議罪を適用すれば、個々の犯罪行為に対する主観的要件を必要とせず、犯罪全体の計画に対する関与があれば、それだけで犯罪の成立を認めることができるとし、それが実際ロンドン協定1945.6で採択された。029
1945.6 ロンドン会議で、米英仏ソ四国代表は紛糾したものの、「通常の戦争犯罪」に「平和に対する罪」と「人道に対する罪」とが追加され、国際世論もそれを支持した。

1943.11のカイロ宣言が、日本の戦争責任処罰に関する、連合国による最初の共同声明であった。
 1944.5 ロンドンの連合国戦争犯罪委員会は、中国大使の提案で、その支局として重慶に極東・太平洋小委員会を設置した。
1945.7.26 ポツダム宣言が公表された。宣言は第六項で、「無責任な軍国主義を駆逐する」 「世界征服の過誤を犯させたものの権力と勢力は永久に除去されるべきだ」とした。032
また第十項では、「俘虜を虐待したものを含む戦争犯罪人に厳重な処罰を加える」とした。

日本に関する国際的議論の場は、ワシントン、ロンドン、重慶、東京、モスクワにあった。034
アメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が東京裁判を主導した。
ニュルンベルク裁判で活躍したR・H・ジャクソン判事は、アチソン国務次官に対し、「ドイツの場合の経験から、他国との協調はなかなか困難な側面もあり、裁判所の設置と施行規則や、戦争犯罪概念の規定は、連合国間の協定によるよりも、マッカーサーが決定したほうが迅速にできる」と表明していた。035
またマクロイ米陸軍次官補らも、判事の任命は、マッカーサーが、各国から指名されたうちから任命する方式を要請した。036
SWNCC極東小委員会は、9月12日、極東におけるBC級を含めた戦争犯罪人の逮捕、処罰に関する基本方針(SWNCC57―3)を作成した。
バーンズ米国務長官は、10月18日、9月2日の降伏文書に調印した、英中ソ豪蘭加仏ニュージーランド各国の在ワシントン外交機関に、SWNCC57-3のうちの「極東における戦争犯罪人の逮捕、処罰に関する米国の政策」を示し、極東国際軍事裁判所の要員として、将校または文官の指名を要請し、その中からSCAPが、判事など適当な人物を任命すると通告した。

一方、ロンドンの連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)ライト委員長(豪)は、連合国共同で戦争犯罪政策を具体化することを要望し、アメリカがそれを引き延ばしたが、8月29日、「日本の戦争犯罪と残虐行為に関する勧告」を採択した。038
しかし、米はSCAPの権限に抵触する文章を削除させ、解釈の幅の広い抽象的な表現に改めさせた。そして米英は、その勧告を実施するための動きをみせなかった。
またライト委員長は、東京にUNWCCの小委員会の設置を提案したが、実現しなかった
1946 オーストラリア代表は、戦犯裁判の核心となる戦犯指名の最終権限を、UNWCC、後には、極東委員会(FEC)に確保しようと提案したが、米の反対で結実しなかった
そしてその間、日本においては、SCAPによる戦犯裁判実施のための既成事実が積み重ねられていった。
トルーマンは、11月29日、キーナンを、日本戦争指導者の戦争犯罪の捜査、訴追のための法律顧問団の団長に任命し、マッカーサーは、12月8日、SCAP直属の国際検察局(IPS)を設置し、キーナンを同局長に任命した。
またアメリカ国務省は、メモランダムを、英中ソ豪加仏蘭ニュージーランド各国の駐米外交機関に送付し、米の方針をのませた。これは既成事実の上に立ったアメリカの一方的な通告であった。つまり、

・「平和に対する罪」に関する裁判の設置、施行規則の決定、判・検事の任命はSCAPの権限である。
・検事団首席は、すでにSCAPのIPSの局長としてキーナンが任命されており、このほかの参与検事として、上記八カ国インド・フィリピンから指名されたものの内からSCAPが任命する。
・判事は、降伏文書調印九カ国により指名されたものより、SCAPが、裁判長と共に任命する。040

ソ連はアメリカの一方的な裁判参加の要請に疑念を表明し、代表を派遣するのを遅らせた。041

第二章 国際検察局の設立

1 望まれなかった東京裁判
米国の決定的主導の下で 東京裁判は連合国間の協定によらず、連合国最高司令官(SCAP)としてのマッカーサーが単独で、極東国際軍事裁判所憲章(条例)を公布し、判・検事の任命を行った。法廷の判決を最終的に審査し、減刑する権限もマッカーサーの手中にあった。042
 A級戦犯を裁くのは誰か 米国政府は、日本の戦争指導者を「主要戦争犯罪人(A級戦犯)」として、戦時国際法に規定された「通例の戦争犯罪」に加えて、侵略戦争の計画・準備・遂行などを犯罪とする「平和に対する罪」、戦前または戦時中の一般国民に対する非人道的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という戦争犯罪概念で訴追し、国際裁判方式をとるとの意思を固めていた。043
 また米国政府は、裁判所の設置と施行規則、戦争犯罪概念の規定は、連合国間の協定によるよりは、マッカーサーが決定する方針も固めた。
044 1945.10.2 米国のSWNCC国務・陸軍・海軍三省調整委員会が米の方針を決定し、トルーマン大統領の承認をうけた。
1945.10.6 統合参謀本部(JCS)がこれをマッカーサーに通達した。(JCS1512)その通達は、米国単独の「BC級」の軍事裁判の方針も規定していた。
 ところがマッカーサーは、10月7日以来、拘禁されている東条英機とその閣僚を、宣戦布告なしで真珠湾奇襲を実行した責任者として、ただちに米国単独の軍事裁判にかけたいと執拗にワシントンに送った。
045 マッカーサーは、「通例の戦争犯罪(B級)で東条らをアメリカの軍事法廷で裁きたいとの執念を燃やした。ワシントンも、他の連合国が非協力的な場合、一国ベースの裁判を進める可能性を留保した。
マッカーサーは単独裁判に固執したが、11月13日、パターソン陸軍長官は、国際裁判にするか米国裁判にするかの決定権は、キーナンにあると、マッカーサーに釘を刺した。






2018123() 感想
 政治家はどの時代でもどんな立場に置かれてもずるがしこく権力者(GHQなど検察局)の御慈悲にすがって自らの保身に努めるものだ、ということがわかる。
 吉田茂、鳩山一郎、それぞれの運命は、GHQによって彼らが提供した資料が採用されるか否かにかかっていた。吉田の場合は採用され、鳩山のは採用されなかった。それは、鳩山の資料は、天皇訴追に繋がるからだった。
 吉田はGHQに嘘をついた。田中義一内閣時代に自らが満州で重要な役職にあったことを伏せるために、嘘の供述をして、自らの中国侵略に加担していたことを言い逃れようとした。吉田は、鳩山同様、対中国侵略主義者むき出しであった。


 近衛が戦争に反対し、戦争終結しに動いたというのも、一部は嘘である。
近衛は、岩淵辰雄118が言うように、自らの政治姿勢を貫く勇気がなく、軍部の傀儡であったと評価するのは間違いである。
 近衛は第一代戦以後の「英米本位の平和主義を排す」1918とし、平和主義とは持てる国・英米の希望から出たもので、正義人道とは関係ない。ドイツと同じく持たざる国である日本は、英米本位の平和主義にかぶれるのは間違いであり、自己生存の必要上、現状打破の挙に出なければならなくなろう、と主張していた。119
 歴史の真実は、敗戦とGHQからの生き残りの為に、歪曲されて伝わるものだということがよくわかる。
近衛は、満州事変や、対中国侵略戦争においては、軍部と全く一致していた、というよりも、軍部よりもその方針において「先手」することを主張していたのだ。119

その点を近衛派閥は、言い逃れようとして、戦争といえば、太平洋戦争前の東条内閣成立以降のことを念頭に置き、それ以前のことは頬かむりしている。
 
 



東京裁判はニュルンベルク裁判と違って、第二、第三のA級裁判は行われず、裁判が行われず拘留されていた被告たちは、無罪釈放されたかのように出獄してきた。そしてそのことを日本人も咎めなかった。そこにはアメリカの方針として、あまり裁判を長引かせないようにという要因がある。ニュージーランドもその考えだった。また、残った被告たちをA級で裁くことをやめて331、B・C級で裁くことにしたところ、第一次東京裁判25名の判決を判例とすると、B・C級*に該当する判例がわずかしかなく、そしてそれを全くないかのように解釈され、全員を無罪としてしまった。安倍晋三さんのおじいさんなども、そのことによって、晴れて「無罪釈放」となったのである。336
 また中国が被告を引き取って中国で裁判すると中国側は当初は言っていたが、内乱でそれもかなわず、東南アジアの国々も、独立運動で忙しかったので、告発する暇などなかった。

*訴因54・55(戦争の法規と慣例に違反)に抵触する軍人以外の被告は広田弘毅と重光葵しかいなかったのだが、それが全くいないこのように解釈された。


化学戦争や細菌戦争禁止は、日本も調印していたが、その国際法*346を破って、日本は、化学・細菌戦争を中国やビルマでやっていた。ところがこれはアメリカの方針で告発されることはなかった。その理由は、告発しないという条件で、日本の細菌・化学戦の実態を解明したかったというものだ。しかし、CICによって所在を突き止められた責任者の石井四郎348は、人体実験については語らなかった。

*第一次大戦後のベルサイユ条約の締結をめぐって、毒ガス禁止が論議され、日本は同条約に調印した。346
毒ガス禁止に関するハーグ宣言1899.7
毒ガス・細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ議定書1925.6

 検察局は日本の毒ガス戦や細菌戦に関してある程度知っていたが、十分ではなかった。そして細菌の人体実験については知らなかった。だから石井を尋問する必要があった。しかし、アメリカは、第二次大戦後も、自らが細菌戦や毒ガス戦の技術を向上する必要があったので、日本の毒ガス戦・細菌戦を咎めないように検察局に命じた。
 日本の371部隊による細菌の人体実験の事実が知られるようになったのは、日本人のシベリア抑留であった。ソ連は、抑留者の中の731部隊関係者12人を裁判にかけ、細菌による人体実験を公表した1949.12.2530, 1950のである。それまでは、アメリカによって隠されていたのである。380
 これ以前、アメリカも、ソ連による石井らの尋問要求*1947.1を契機として、石井らを再尋問し、人体実験の事実を初めて知った。
*十分な尋問はできなかった。

 アメリカが日本の細菌戦・化学戦を追求しなかった理由には他に、1925年のジュネーブ議定書を日本と同様にアメリカも批准していなかったことがある。368

 著者は真崎甚三郎398をけなす。真崎は二・二六事件でボスに祭り上げられた人物だ。真崎は国際検察局に無実を哀願する。真崎は二・二六事件の時もなんとか命拾いした。

 大川周明409は、訴追されたただ一人の右翼である。連合国側の右翼についての知識が不足していたためらしい。
 笹川良一414は俗物という印象を受けた。

 著者は松岡洋右421に対しては同情的なようだ。松岡が結核を病み、病の悪化をも恐れず自らの主張を貫徹したことを褒めるのだろうか。松岡の考え方は観念的だ。八紘一宇は世界平和をもたらすというのだ。この辺の感覚が私にはわからない。松岡は実務的なのだろうか。松岡自身の言説自体がその時々に応じて豹変して、周囲のものを戸惑わせたという。松岡の考えは、ソ連を含めた四国協商によって、米に日本の中国政策で譲歩させようとするものらしいのだが、独ソ開戦によってそのビジョンも潰えてしまった。
 松岡は近衛と仲たがいして、第二次近衛内閣の総辞職という形で外相を辞任した。松岡が外相着任の条件としていた、外交の一本化方針を、松岡が訪欧中に、近衛らが対米交渉を進めていたことに腹が立ったようだ。松岡は国際連盟を脱退し帰国した時、日本国民から歓迎されたというが、三国同盟や日ソ中立条約を締結したことに対する自負があったようだ。420


 広田弘毅は近衛の罪を被って罪が重くなった(=死刑)のではないか447、と筆者は考えている。広田弘毅の死刑判決は不当であると、訴追した当事者(オランダのレーリンク判事444)でさえも思ったとのことだ。玄洋社が活動したのは日露戦争の頃であったのに、検察側は広田が加盟していた玄洋社を過大評価した。広田は他人の悪言を自分になすりつけられた。446広田は城山三郎の言とは異なり、よくしゃべった。442
 岸信介が訴追を免れたのは、先輩=星野直樹450が罪を被ったからだ。アメリカは、真珠湾攻撃を仕掛けた東条内閣の全閣僚を訴追したかったが、国際検事局執行委員会の方針はそれと違って、分野ごとの訴追を考えていた。裁判をアメリカが主導したのに、このことがどうして起ったのか、あまり説明はない。450


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