2021年4月30日金曜日

四 渓嵐拾葉集と中世の宗教思想 大正15年、1926年5月 要旨・感想

四 渓嵐拾葉集と中世の宗教思想 大正15年、1926年5月 

 

国史学の骨髄 平泉澄 至文堂 昭和7年、1932年 定価1円80銭

 

 

国史学の骨髄 著述時順配列

西暦

4

T

15

5

192605

2

T

15

9

192609

1

S

2

6

23

192706

3

S

3

2

192802

5

S

3

3

5

192803

8

S

3

11

192811

6

S

3

12

192812

7

S

3

12

192812

9

S

4

1

16

192901

10

S

4

2

1

192902

11

S

4

9

10

192909

12

S

5

3

193003

 

感想 2021416()

 

最初の数ページを読んだ。難解。古文献との格闘を述べる。古書が草書体で書かれていたため、昔の人でも誤読したり、門人でなければ解読できなかったりしたそうだ。

筆者は寺出身だから、幼少のときから多くの古書に出会って興味を持つようになったのだろう。

 本論文は筆者の本書での最初に書かれた論文であるためか、日本愛国主義は前面に出ていない。筆者本来の専門分野である日本中世史に取り組んでいる姿を見ることができる。

 テーマは「渓嵐拾葉集」である。天台宗の僧侶・光宗の「座右の雑記」042とされるが、多くは光宗が師の言説をまとめたもの、学習ノートであり、師の本を筆写したものもある。また光宗自身が書いたものもある。065その内容は、宗教論の他に日常的・実用的な知識(医学、歌道、兵法、農業、算数など)である。

筆者による渓嵐の内容紹介は神仏習合説が多い。それは神道復権への前兆ともとれるが、その内容を「奇妙・不思議だ」と評しているから、神道一辺倒でもない。

渓嵐の文献は各地で書写されたものが発見されている。

「渓嵐拾葉集」とは、天台宗四明(比叡山)の峰の嵐で渓谷に散り布く落葉(のような様々な学智)を拾い集めたものという意味である。

 

 

感想 2021417()

 

 本論文には結論がなく、論旨を追って結論を導くというものではない。だからダラダラしている。本論文の眼目は、古典の紹介である。難解な漢文で書かれた中世(鎌倉・南北朝期)の原典の書写(江戸期ころ)を各地に探し回って紹介している点が本論文の売りなのだろう。つまり文献学である。内容的には他愛のないものである。ちなみに漢文の語順が中国式でなく日本式の語順になっているものもある。

 

追記 2021425() 仏教の僧侶も、鎌倉・南北朝時代のころから、日本書紀などの神典を研究していたことを指摘したいらしい。しかし、そういう結論は、結論として価値があるのだろうか。

 

追記 2021428() 本論文では、中世の寺院における日本書記の研究を取り上げ、仏神習合説について述べているが、最後では、現代人の目からすれば奇異と感じるかもしれない中世人の宗教心をそのままに捉えようとしているともいえる。

 

 

メモ 解読しうるかぎりにおいて

 

 

渓嵐の内容概説

 

042 「渓嵐拾葉集」は略して「渓嵐集」とも単に、「渓嵐」とも呼ばれるが、これは、四明の峰(比叡山四明岳)に吹く風は寒く、落葉が止観の窓(天台宗の学窓)を打つとき、浄几(き、机)(清らかな机)に向かって天台宗の秘奥を究めつつあった学僧が、座右の雑記を整理した書につけた名称である。

 

 天野信景の随筆鹽(塩)尻の巻の十四に渓嵐拾葉集の抜粋が見られる。そこには山王神道の奇妙な説が記されている。例えば、天照太神は「自性法身」(法身(ほっしん)とは仏徳を体得した仏身)であり、素盞鳴尊(すさのうのみこと)は「無明(むみょう、無知)」であり、天の岩戸を閉ざすとは、無明の支配に委ねることであり、太玉命(ふとだまのみこと、天照太神を岩戸から出す方法を占った。)と手力雄神(たじからおのかみ、岩戸から天照太神を引き摺りだした。)とは、定恵(じょうえ、飛鳥時代の学僧)の二法を示すものであり、庭火(神事の庭でたくかがり火)は、方便の教え(衆生を教え導く巧みな手段)を意味するなど、奇妙で奔放な習合説(融合説)が載せてある。

 

 

渓嵐の文献

 

 諸宗章疏録の天台宗の部に、渓嵐集百巻とあるが、手ごろに見られるものは百巻どころか内閣文庫に二冊しか存在しない。その後、島地大等氏の蔵本一冊、大谷大学所蔵本一冊、仁和寺所蔵本一冊などが、知られるようになったが、とても百冊には及ばない。

 

大正11年、1922年の春、山本信哉博士によって比叡山東塔南谷共有本12冊が発見され、またその一冊は数巻を集めたものだったので、渓嵐の全貌が急に明らかになった。

 

043 私自身も方々探してみたが、大正8年、1919年頃、日光の輪王寺の蔵書目録に渓嵐集の名を発見し、それに33冊とあったが、実物にはお目にかかれなかった。ところが、大正11年、1922年の春、比叡山の真如蔵、仏乗蔵、天海蔵の24冊を見ることができ、さらに大正14年、1925年の早春、琵琶湖のほとり西教寺で、正教蔵本25冊を見ることができ、渓嵐集の約半分を見ることができるようになった。以下その概略を記す。

 

044 ここで私は比叡山真如蔵本20冊を中心にして、南谷本12冊やその他の本を参考にした。

 

南谷本

 

南谷本は(江戸時代の)天明5年、1785年、南谷の僧侶が令法久住*のために書写させ、大僧都実霊が校合(きょうごう、照合)したものであるが、これは、(同じく江戸時代の)延寶(宝1673.9—1681.9)・元禄1688.10.23—1704.4.15年間に、横川鶏頭院の阿闍梨厳覚が写した本を典拠にしたものらしい。(なぜらしいというのか。)

 

*令法久住 りょうぼうくじゅう、仏法が永遠に続き、かつ広く信仰されるようにという願い。

 

厳覚は渓嵐集の古写本を蒐集したらしく、鞍馬寺の月性院本や、飯山本坊本正教坊の蔵本などを書写したと奥書(おくがき)にある。南谷本は元禄のころ、厳覚が比叡山やその付近の寺々から古写本を蒐集して謄写し、さらにそれを天明年間1781--1789に書写したものである。

 

真如蔵本

 

真如蔵本は延寶1673—1681の頃に浄教坊実俊らが書写したものらしく、元禄14、5年1701--1702のころ、浄教坊実観の校合を経ている。

またそれは古本も交えている。例えば、「不動口決」は、(室町時代の)永正(えいしょう)6年、1509年の古写本であり、「古人芳語」は文明6年、1474の筆である。

延寶ころの謄写がどんな典拠によったか未詳である。実観は校正に日光山の古本を用いたとしているが、その校合の奥書により、次のことが明らかになった。

045 (一)日光の渓嵐拾葉集は目録だけで実物は見られないが、(比叡山の)真如蔵本がこれ(日光の古本)によって校合しているので、真如蔵本に収められている分以外の巻は、日光にもなかったのではないかと思われる。なぜならばもし真如蔵以外の分があったならば、渓嵐の蒐集に熱心な浄教坊が必ず写していただろうと想像できるからだ。(根拠のない推量では。)

046 (二)実観が校合した奥書から、日光本の多くがいつ頃何処で写されたかを知ることができる。

渓嵐の「求聞持の巻」は日光に全部で5本あるが、一は(室町時代の)永享7年1435、一は嘉吉元年1441、一は延徳4年1492(常陸千妙寺)、一は永正6年1519、一は天文18年1549(千妙寺)の写しである。

 また「序」には大永3年1523本、「法花」には永享10年1438本(上野長楽寺)、「大黒」には寶(宝)徳2年1450(長楽寺)と大永4年1524の2本があり、同じく「大黒」の別の巻には(北朝時代の)文和3年1354本他3種あり、「薬師法」は(室町時代初期の)応永9年1402(越前平泉寺)の古写に係り、その他「不動法」に3本、「十八道」、「青面金剛法」、「法花法」、「修観部」、「行法」、「仏眼法」各1本あり、以上合計、23巻となる。

これは日光本の大部分を占めているだろう。またそれらの中に関西の本もあるだろうが、大多数が千妙寺や長楽寺から出たものであるから、ほとんどが関東所伝の本であったと思われる。

この日光に納められたものは天海僧正の力であると思われるから、今日比叡山の天海蔵に残っている渓嵐神明部抜書が慶長7年1602の写本であり、そこに稲毛の住僧本宰相の識語(奥書)があるから、天海の渓嵐蒐集は主として関東の古寺から求めたものと察せられる。(意味不明)渓嵐が中世において普く台家*の間に行われ、関東でも多くの伝写がされていたことが分かる。

 

*台家 天台宗または公家。ここでは天台宗だろう。

 

047 (三)渓嵐蒐集と天海の山王一実神道との関係 天海が主張した山王一実神道を典拠とする書物は多かったがその中でも渓嵐拾葉集は、中世の山王神道を詳述した。天海の神道は渓嵐集の雰囲気の中で養われただろうと推測できる。

 

西教寺本

 

 次に、琵琶湖畔の西教寺正教蔵本043について述べる。これは最後に発見されたもので、全部で25冊あり、江州(滋賀県)栗太郡芦浦観音寺の舜興が所有するもので、舜興自らが書写するとともに、刑部卿その他の人にも命じて写させたものである。その奥書によれば、筆写の年代は、寛永1624--43・正保1644--47から慶安1648--51・万治1658--60にまで至る。まとまって発見されたものとしては、これがこれまでに発見された諸本の中で最も古い。元禄1688--1703のころに、阿闍梨厳覚044がこれを写し、さらに天明5年1834に、南谷の僧侶がこれを転写したから、南谷本の範囲を出る内容はない。

 

書体

 

048 (比叡山の)真如蔵本の文字は難読難解である。それ以上に古い本、例えば、慶長7年1602天海蔵本はさらに難しい。それは教家独特の草字(草書体)略字を用いているからだ。この種の草字は中世でも、伝統が違う他宗の人には容易に通じなかったようだ。

 臥雲日件録の寛正6年1794正月18日の条に、(筆)記者瑞渓周鳳が法華伝四冊を借覧したとき、「南都教者(が)書く所の字は、皆草書体なので読みにくい」と嘆じているほどである。近世になるとその系統に属する者でも読みにくくなったようで、南谷本の校正者である実霊僧都は、「総じて本書は草書体で写すので写し間違いが少なくない」と記している。

 今日正確に読めない字や今日までに既に読み誤って写し間違いした字が多い。私のこの紹介も誤謬がないとは言えない。

 

構成

 

049 諸宗章疏録には「渓嵐百巻」とあるが、南谷本では冊数が12冊しかないのに、内容は97項ある。また多くの場合一項一巻だったろうし、そのうちの「普通広釈見聞」は元は5巻に分かれていたから、南谷本に百巻がそろっているとみていい。

一方真如蔵本は甲10冊、乙10冊、合わせて83項ある。そのうち南谷本にない内容が20余項あるから、両者(南谷本と真如蔵本)を合わせると120余巻になる。

その他の天海蔵043、仏乗院043、仁和寺043、大谷大学043、島地氏043、内閣文庫043など所蔵の本はほとんど全てこれと重複する。

以上の通りの120余巻でも全部を伝えているとは思われない。というのは「真如蔵本も南谷本も三百余巻の抄である」という後人の奥書があるからだ。

 

著者・編者

 

050 渓嵐拾葉集の全体がまとまって後世に伝わらなかったため、この書は誤解された。まず著者を誤った。

 内閣文庫図書目録は編者を釈円舜としているが、ふつうは(天野信景の随筆)塩尻042により、(鎌倉時代の)正和2年1313興円が著したものと信じられている。

 

釈円舜説

 

釈円舜が編纂したという根拠は、次の通りである。

 内閣文庫本は2部2冊で構成され、一方は渓嵐集記録部の零本*であり、天和2年16822月書写という奥書がある。

 

*零本(れいほん) 一そろいの本の大半がかけているもの。

 

もう一冊はこれと系統が異なり、奥書に次のようにある。

 

「文化15年1818春、京師(けいし、帝都、京都)四条の旅宿で南岳の本を抄出した。 検校 保己一」

 

これは56名の門人に書かせたもので、数ページごとに筆跡も内容も異なり、縁起、弁財天、厳神霊応章などの諸巻の抜粋である。*ここで最初に収められているものは円寂記であり、これは諸家の命日を記録したものであるが、その「寂」の字は古体を用いており、一見「舜」と見間違えやすい。このため後人が渓嵐を「円舜」が記したものと誤解した。(内閣文庫本は編者を釈円舜としている。)

 

興円説

 

 (天野信景の随筆)塩尻が渓嵐拾葉集を興円の著としているのは、興円の記したものが渓嵐集の中に収められているから起こった間違いで、渓嵐集の性質が分かれば、この間違いはたちどころに氷解する。この点については後述する。

 

*この書の系統については、塙氏の奥書に、「南岳の本を以て抄出す」とあり、この中に収められた円寂記や縁起の奥書によって、比叡南山法曼院の本によったものであることが分かる。

 

光宗説

 

 渓嵐拾葉集は従来その著者も分かっていなかったが、実際は光宗の編述である。

 臥雲日件録の(室町時代の)長禄4年1460閏9月28日の条に次のようにある。

 

「本寺の首座がやって来たとき、私が渓嵐拾葉集は誰が作ったのか尋ねたところ、光宗律師が作ったという。私の先生尤相は論神道一冊を写したが、そのほかに何冊もあった。先生は諸宗意趣や世間諸事について論じた。」(意味不明)

 

 また、諸宗章疏録には、渓嵐拾葉集が黒谷の光宗の著としているが、これが正解だ。

 

渓嵐拾葉集普通広釈見聞抄

 

また、「渓嵐拾葉集普通広釈見聞抄」の奥書に、誰が書いたのか明らかでないが、次のように本書の著者を明記している。

 

052 「この抄は、元応寺を開山した伝信和尚の弟子である鷲尾道光上人という人が、顕蜜戒記神道三百余巻の抄を作り、その名前を渓嵐と名付け、その中に普通広釈につけた抄である。求道上人のこの抄がある限り、委細はともかく大体を推測して記録した。道光光宗とは同じだ。ところで製作の文に黒谷沙門とも、迎攝院とも書かれているが、これは作者が当座住まわれた所である。知っておくべきことだ。」(意味不明)

 

 また本書四天王合行法の奥書には次のように書かれている。

 

光宗とは鷲尾の道光上人のことである。道光は恵鎮上人の同朋であるが、(恵)鎭上人の弟子である。この道光上人が作られた書は、皆渓嵐拾葉集と名付けられ、その意味は卑下の言葉である。道光がいろいろな経論の文を拾い集めたものを木の葉に喩えたものだ。後醍醐天皇の時代である。道光の説を聞き、猷星がこれを記録したので、後世の人がそれを参照できるだろう。」

 

 また、記録者の猷星は本書の護法事の奥書に次のように書いている。

 

「時は(室町時代の)応永26年1419巳亥5月13日、播州で書き写す。山中院得仏坊功筆 秀慶

時は応永33年1426丙午7月、同山観で実坊敬染筆 猷星 35歳」

 

 以上のことから、光宗(道光)が応永(室町時代初期)のころの人で、渓嵐が光宗の編述によるもので、光宗が後醍醐天皇の時代の人で、鷲尾の道光上人と呼ばれていたことが分かる

 

光宗

 

053 光宗はまた道宗)和尚とも呼ばれた。元応寺血脈(けちみゃく)に、開山伝信和尚興円、二世慈威和尚恵鎮についで、第三世として道宗和尚光宗を掲げている。また元応寺列祖(代々の祖先)帳には、第三世道崇和尚道光上人とある。

前記の猷星の奥書に、光宗は「恵鎮上人の同朋だが、(恵)鎮上人の弟子でもある」とあったが、この同朋はどういう意味か明らかでないが、おそらく嗣法上の兄弟ということだろう。光宗は学歴では恵鎮の同窓であり、同時に恵鎮の弟子でもあった。同窓というのは、二人とも、伝信和尚に従学したからである。

 

五代国師自記

 

恵鎮の自叙伝である五代国師自記によれば、「恵鎮が28歳のとき、つまり、延慶(えんきょう、鎌倉時代)元年1308から神蔵寺に移り、一人で経行をしていると、翌2年130910月、道光上人(本名性印)が登山してきて12年の籠山を始めた。ところがその翌年1310、恵鎮の師の伝信和尚の発起により黒谷*で結夏(けつげ*)しようとし、恵鎮がそれを承って帰ってくると、神蔵寺では今朝から仏法僧という鳥が鳴き出したと留守の道光上人が言い、恵鎮もそれを聞き、これは円戒*の興行を祝う不思議の瑞和(めでたいこと)だと考え、伝信和尚にこれを話したところ、伝信も大いに喜んで神蔵寺に移り、ここで伝信和尚、道光上人、恵鎮、順観房、通円房の5人が結夏を始めた。」とある。

 

*黒谷が彼らの本拠地元応寺があった地名のようだが、黒谷青龍寺059とある。

*結夏(けつげ) 陰暦4月15日、禅宗の僧や尼が寺で安居(あんご、室内にこもって行う修行)を始めること。

*円戒 円頓戒 円頓とは円満頓速の意で、すべての物事をまどかに欠けるところなく具え、たちどころに悟りに至らせることを言う。戒は戒律。

 

054 この書き方の中で道光上人が重んじられていることに注意されたい。

 

伝信和尚伝

 

 伝信和尚伝によれば、「延慶(えんきょう、鎌倉時代)2年130910月25日、道光大徳は、四明洞の余流を集めて神蔵寺の梵閣(寺)に至り、円観大徳と同宿して12年の籠山を期し、一念不生*の窓の下、中道*実相*の床を並べ、三蜜加持*の壇の前、上乗瑜伽(ユガ、ヨーガ)の座を列ね、その11月6日、黒谷に参り、伝信和尚について円戒を伝受した」という。

 

*一念不生(いちねんふしょう)一念の妄心も起こらない境界。

*中道 二つの極端の対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。

*実相 現象界の真実の姿。

*三蜜加持(さんみつかじ)を結び、真言を唱え、修行者の三蜜が仏の三蜜と本質的に同一であることを体験すること。印(いん)とは、両手の指を様々に組み合わせて宗教的理念を象徴的に表現すること。

*三蜜 密教で仏の身、口(く)、意の働きをいう。人間の思議の及ばないところを密という。また人間の身、口、意の三業(さんごう)も、そのまま絶対な仏の働きに通じるから三蜜という。

*円戒(円頓戒)完全で自在な修業者の保つ戒のこと。

 

 また伝信和尚伝は、(鎌倉時代の)延慶3年13104月16日、神蔵寺で夏安居*を始めた5人をあげ、「(伝信)和尚、道光大徳、円観大徳、順観、通円」と列ねている。延慶のころは、光宗は恵鎮と師を等しくし、窓を同じくしたばかりでなく、むしろ恵鎮よりも先輩として待遇されていたようだ。

 

 

しかし恵鎮はやがて建武中興の前後に仏教界の大立者になり、力量も才幹も抜群だったから、(鎌倉時代の)文保元年1317、伝信和尚が入滅した時、(伝信は)戒家已證の灌頂*を悉く恵鎮に授け、光宗はこの時から恵鎮を師とするようになった。鎌倉の実戒寺に蔵する一心三観血脈相承譜は、(鎌倉時代の)文保2年13182月14日に光宗が署名したものであるが、相承*の順序を、忠尋、皇覚、範源、俊範、義憲、慧鎮光宗とし、光宗が恵鎮から伝授されたとしている。また、穴太流師資相承血脈にも、忠快、承澄、澄豪、慧鎮光宗とあり、光宗が恵鎮を師としたとしている。

 

*夏安居(げあんご)僧が夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修業すること。夏籠り。夏業(げぎょう)

*灌頂(かんじょう)頭に水を灌ぐこと。

*相承(そうしょう、そうじょう、弟子が師から法や学問を受け伝えること。

 

055 このように光宗は恵鎮に及ばなかったが、共に興円(伝信)の高弟であり、恵鎮にも尊敬され、当時の教界で重きをなしていた。

 

 阿娑縛抄末尾の当流代々書籍事によれば、山門真言流が皆伝信和尚を源とするとある。つまり、

 

「京都法勝寺の恵鎮上人や鷲尾の道光上人光宗、良恵僧正などは皆、(伝信)和尚の弟子である。法勝寺や元応寺をはじめとする山の方の律僧は、皆恵鎮や光宗を源とする。」

 

 この記述から、光宗の地位が決して低くないことがわかる。光宗は恵鎮の後継者として期待されていたが、恵鎮に先立って入寂(死亡)したため、表面に名が現れず、一生の事跡もよく伝わらなかった。

 

 法流相承両門訴陳記

 

056 法流相承両門訴陳記は恵鎮の弟子の法勝寺の惟賢と元応寺の恵澄(円昭)との訴訟記録であるが、その中の延文元年1356(北朝)10月×日元応寺衆僧陳状によると、以下の通りである。

 

「とりわけ道光上人は開山遺弟(ゆいてい、師の死後残された弟子、また師の死後門弟になった者)の専一であり、宗門再興の上足(じょうそく、弟子の中で優れた人)に列し、芳約(師との約束)が他(の僧侶と)と異なるため、法流相続させるべきとのことで、委付(ゆだね頼む)されていたが、(道光=光宗の)一期(臨終)の付属*の為に、始終円昭上人があい承けるべきの由。(北朝時代の)貞和(じょうわ)3年1347附法状と同4年1348の重ねての付法状が載(ここ)に明らかである。そして道光上人が先に円寂(死亡)されたため、円昭上人が先師(恵鎮)の意思に任せ、法流を相承ることに、誰が異論をはさむか。その後、(円昭上人は)貞和5年1349ただ一人職位を授かり、顕蜜三学の奥義を究め、先師が存命のときから当寺の住持*を許され、すでに数回歳月を送った。」

 

*住持 一寺の主僧となること。

 

 ここでは、貞和3年13472月29日の、道光上人は以後円昭上人に伝持弘通*すべきという恵鎮の附法状案、同年7月13日の、恵鎮の道光上人宛付属状案、同4年13486月17日の、恵鎮の円昭上人宛付属状案などを証拠として提出している。普通元応寺の開山は、興円050であるが、この陳状では開山も、先師もともに恵鎮のようだ。これによれば、光宗は恵鎮門下の第一の上足として恵鎮に次いで法流を相続すべき人であり、事実、元応寺を付属*されていたが、師に先立って示寂したので、円昭上人がその代わりをした。そして貞和4年13486月17日、恵鎮から円昭上人へ付属状を与えているから、当時光宗は既に死者と見なされていたようである。

 

*伝持 法を受けて維持すること。

*弘通(ぐつう) 仏法を広く世に広めること。

*付属 師が弟子に仏法の奥義を伝授して後の世に伝えるように託すこと。

 

 

 実観渓嵐序

 

 実観044が校合した渓嵐の序に、

 

 「貞和4載(年)1348初冬中瀚阿宇息障院においてこれを書く。拾渓三学を沙門*光宗が示す。」

 

*沙門 僧侶

 

 とある。当時光宗は病で元応寺を退いていたのだろうが、存命中であった。この後光宗の書いたものが見当たらないから、光宗は間もなく入滅したのだろう。

 

 元応寺列祖帳 没年年齢

 

 この想像を元応寺列祖帳が確実にしてくれ、光宗が示寂(死亡)した年月を明示している。元応寺列祖帳一巻は現在では元応寺列祖次第と題し、叡山坂本の来迎寺に伝わっている。開山の伝信和尚から始めて、第74世豪実(江戸時代の文政5年1822入院*)までを記しているが、末の方は後世の書きつぎであり、原本は、室町時代の天正4年1576に入院した第53世の壽興上人の記述らしく、この人が入院したときまでの記事は一筆で書かれており、彼の入滅の記事以後は異筆乱雑である。(元応寺は応仁の乱1467--1477で火災にあい、その後は坂本大聖寺、同金寶(宝)寺に移り、室町時代の天正元年1573から来迎寺に併合した。)

 

*入院 僧が住職(主僧)となってその寺院に入ること。

 

 次に元応寺列祖帳の首部(初めの部分)を抄出する。

 

058 「開山 

 

伝信和尚堯光上人興円和上(僧の師)が、鎌倉時代の文保元年1317丁(ひのと、十干の4番目)巳(み、へび、十二支の6番目)4月26日、55歳で死亡した。

第二

 慈威和尚円観上人が、文保2年1318戊(つちのえ、十干の5番目)午(うま、十二支の7番目)10月15日入院し、恵鎮和上として蒙勅北白川に開闢し、北朝時代の延文元年1356丙(ひのえ、十干の3番目)申(さる、十二支の9番目)3月朔日(1日)、76歳で岡崎元応寺で入滅した。(円観054は恵鎮と同一人か。)

第三

 道崇(道宗)和尚道光上人は恵鎮が関東御下向の間住み、金山院を再興しその住持となり、光宗和上として、北朝時代の観応元年1350庚(かのえ、十干の7番目)寅(とら、十二支の3番目)10月12日、坂本息障院で75歳で死亡した。

第四

 豊信和尚円昭上人は延文元年1356入院し、恵澄056和上として北朝時代の貞治2年1363癸(みずのと、十干の10番目)寅10月15日、岡崎戒場で73歳で死亡した。」

 

 これによって光宗は鎌倉時代の建治2年1276に生まれ、弘安4年1281に生まれた恵鎮より5歳年長であり、二人が初めって会った延慶2年1309には、光宗が34(33)歳、恵鎮が29(28)歳であったことが分かる。(年齢を満年齢ではなく、数え年で計算している。)

 

渓嵐拾葉集奥書 光宗の住所

 

 渓嵐拾葉集の各巻の奥書によれば、光宗の一生の住所は下記の通り、転々としている。

059 応長元年1311 比叡山本院東谷神蔵寺

正和元年1312 同上

同 5年1316 叡山西塔黒谷青龍寺慈眼房

文保2年1318 同上

同 3年1319 同上

元応元年1319 同上

同  年    金戒院

元享2年1321 王城東山金山院

歴応元年1338 江州姨綺屋山阿弥陀寺迎攝(しょう)院

同  年    江州霊山寺密厳庵

康永元年1342 同上

060 貞和2年1346 江州姨綺屋山

貞和3年1347 王城東山金山院

貞和4年1348 阿字息障院

 

 この他前にも述べたが、光宗は一時元応寺052に住んだことがある。金山院については、元応寺列祖帳に「金山院再興住持光宗和上」とあるから、光宗が自ら金山院を再興したことが分かる。光宗が王城東山に在るといい、また光宗のことを鷲尾の道光上人と呼んでいることからして、光宗は洛東祇園の東方、つまり鷲尾にいたと思われる

 また姨綺屋山については、近江八幡の方言で島をイキヤといい(仏乗院僧正の説)、滋賀県蒲生郡島村の長命寺と同村の伊勢寺が共に山号を姨綺屋山といい、この二寺は共に天台宗であるから、光宗が住んだのはこのうちのいずれかであると思われるが、渓嵐山門東寺血脈同異の奥書によれば、

 

渓嵐山門東寺血脈同異

 

「北朝時代の建武5年1338戊寅3月16日、江州姨綺屋山阿弥陀寺迎攝院でこれについて話し、天台沙門光宗これを記す。」

 

 とあり、また、渓嵐鐵(てつ)塔事の奥書によれば、

 

 渓嵐鐵(てつ)塔事

 

 「室町時代の永享11年14396月17日、江州姨崎山阿弥陀寺西谷中学房で弘通*結縁を行い、書写させた。玄覚」

 

*弘通(ぐつう) 仏法を広く世に広めること。

*結縁(けちえん) 未来に成仏する機縁をつくること。

 

061 とあるから、光宗が住んだ寺は阿弥陀寺といい、また迎攝院という院号からして、弥陀を本尊としたであろうと考えられる。今日の長命寺が観音を、伊勢寺が不動を本尊とするから、これらと同一視はできないが、阿弥陀寺がこの付近にあったということは、地方的特色のある山号によって推定できる。(論旨がたどれない。)

 

渓嵐奥書 論文記述年代順

 

 恵鎮の一生には教界においても政界においても花々しい事蹟が多いが、光宗の生涯には取り立てて言うほどの事蹟がない。光宗が研究に価するのは、その著書渓嵐拾葉集のためである。渓嵐は三百余巻あったというが、これは約40年間にわたり書き溜めたものであり、一生の労作である。その奥書により、記述年代の明らかな諸巻を年代順に挙げると次の通りになる。

 

鎌倉時代

応長元年1311 真言宗名目

正和元年1312 大黒、曼荼羅口決、記録部寶幢院

同 2年1313 禅宗教家同異

同 3年1314 修観護法事

同 4年1315 求聞持、十住心説事

文保元年1317 弁財天法、法花

文保2年1318 法花弁天、叱枳(し)尼天不動、不動法、不動口決、大黒口決、聖天秘決、六観音、鉄塔事、二間観音事、

元応元年1319 縁起、三種法花、安養都率、怖魔、真言秘奥、曼荼羅口決、東曼荼羅類集抄、三部経説処

元享2年1321 行法

正中2年1325 求子妊胎法

南朝時代

建武2年1335 行法事、秘密念誦作法

北朝時代

歴応元年1338 大阿闍梨、真言教元由、真言潅頂部、菩提心論、山門東寺血脈同異、尊勝仏頂修瑜伽法

同 2年1339 勝義菩提心

康永元年1342 観智軌道具類集抄

貞和2年1346 不動鎮護国家秘法

同 3年1347 薬師法

 

063 貞和4年1348に序を書いたことは前に述べたが、それは文保2年1318に書いたものを書写して人に与えたものである。

以上の通り、渓嵐拾葉集は、応長元年から貞和3年までの37年間に書かれた。応長元年1311は、彼が神蔵寺に来て恵鎮と共に籠山した延慶2年1309から三年目の36歳のときで、貞和3年1347は入寂の前々年で73歳であった。

 

渓嵐各論文のソース

 

064 序文1318や縁起1319(沿革)を書いた時期が早いが、渓嵐の性質を考えれば不思議ではない。本書は光宗の編述であるが、多くは先輩の説を聞いてそれを筆記し、あるいは先輩の抄をそのまま謄写したものである。例えば法花法秘訣の奥書に、

 

「文保2年13183月8日、天台黒谷で師の説を任じて(引き受けて)これを記述した。天台沙門光宗」

 

 と言い、弁天の奥書に、

 

「文保2年13184月18日、天台黒谷青龍寺学窓で師説を以てこれを記す。 天台沙門光宗これを記す。」

 

 と言い、不動法に、

 

「文保2年13185月10日、天台黒谷で師説を引き受けてこれを記す。 天台沙門光宗記」

 

 と言い、師匠興円(伝信)の説を聞いて筆記したとしている。また、大黒の奥書に、

 

「正和元年1312壬子11年、比叡山神蔵寺の南室で、師匠の本を賜り亥尅計が燈本で筆記した。 天台沙門光宗これを記す。」

 

 と言い、観智軌061に、

 

「康永元年1342壬午6月28日立秋鬼宿*、江州霊山寺059の蜜厳庵で書写する。この抄は東寺流の秘抄である。智證大師の尺意を以て本とし、天台流の宗義が抄された。(記録された。)これは最も秘蔵にすべき本である。 天台沙門光宗これを記す。」

 

*鬼宿(きしゅく)二十八宿の一つ。

 

065 とあり、いずれも先輩の抄を借りて写したとしている。渓嵐が興円(伝信)050の作であるとする誤解は、ここから出ている。(天野信景の随筆)塩尻042で、渓嵐拾葉のことを「正和2年1313壬子6月に山門興円が述べたもの(壬子は元年である。誤りか。)」としているが、この巻は確かに興円が記述したものだが、渓嵐としてまとめたのは光宗であることを知らなかったことから生じた誤りである。

 ただし光宗自身が記述した部分もある。真言教元由061の奥書に、

 

「建武第5天*1338戊寅5月3日、江州の姨綺屋山でこれを集めて記した。 天台沙門光宗これを記す。」*歴応元年

 

 とあるが、それであろう。

 

 渓嵐拾葉集縁起 渓嵐で光宗が師事した人々

 

 渓嵐は光宗自身の思想を記述したものではなく、多くは諸先輩から聞いたことを筆記したものであるから、この書の性質は光宗が師事した人々の性格で決定されるとも言える。

066 光宗は文保3年1319正月、渓嵐拾葉集縁起を記したが、就学の師を明細に列記している。

 

「一、神明潅頂事

公慶僧都 真言院潅頂事

義源僧都 厳神霊応章050 

智円僧都 神書二十七帖 これを准す(拠り所とする)。

已上(以上)

 

一、真言宗依学師事

公慶僧都 恵顗(ぎ)上人 伝信和尚 法円上人 恵鎮上人 忠範僧都 行遍阿闍梨 慶盛阿闍梨

義憲法印 義源僧都 承教法印 智円律師 桓守座主僧正 性総阿闍梨 円信禅師 守源禅師 寶月上人 円快僧都 明観上人 心性上人 豪覚阿闍梨 実眞僧正 仁宗上人 宇多覚舜上人 俊増僧都 宣与註記 最顕立者 専鏡聖人 宗通大徳 尊曜僧都 尋快律師 融慶阿闍梨

 

 以上、職を授け、許可し、教え、得鈔する(筆写させる)など、すべてを掲載した。

 

一 悉曇相承事

公慶僧都 承覚二品親王 智円律師 仁宗上人 澄誉大徳 澄恵阿闍梨

 以上、大綱を習う。

 

067 一 天台宗依学師事

伝信和尚 義教法印 厳深僧都 弁深法印 恵鎮上人 玄慶阿闍梨 静聖上人 承性上人 閑證上人 大鏡上人 尞(下の小がなく、日でなく目。督かも。)乗阿闍梨 義憲法印 義源僧都 忠範僧都 拾円大徳 慈救僧都 道存立者 空観上人 明縁大徳 運盛立者 重朗僧都 能承律師 禅心聖人 頓寂聖人

以上

一 禅宗相観師事

白雲禅師 厳松禅師 本覚禅師 山叟(そう、おきな)禅師 蔵山禅師 白首座 志那聖凝然禅師 玄眞禅師 道顕禅師 事円禅師 守源禅師 実智禅師

 以上、参学し、五燈録などを読み、諸方に遍参した。(意味不明)

一 華厳宗依学事

戒壇院事観上人凝然 同弟子禅明上人

 以上、一宗大綱読

一 三論宗依学事

智通上人 玄通上人

 以上、一宗本書等大旨読

068 一 法相宗依学事

義憲法印 智円律師 義円大徳

 以上、大綱読

一 俱舎宗依学事

義憲法印 智通称人 唯円聖人 智円律師

 以上、大綱読

一 浄土宗事

性海聖人 任心上人 静観上人

 以上、大綱読

一 医法事

行法聖 元一律師 清増聖

 以上、

一 俗事時

公慶僧都 督乗阿闍梨 余賛禅師 智円禅師 智乗大徳

 以上、

一 歌道事

069 余賛禅師 義憲法印 義源僧都 慶盛阿闍梨

一 兵法事

義憲法印 義源僧都 定宗法印 栄俊阿闍梨

 以上、黄石公伝、神明相伝等

一 術法事

公慶僧都 慶盛阿闍梨 観慶阿闍梨

一 耕作業事

通文伝依事林広記 智乗大徳

 以上、

一 工功事

伝信和尚 公慶僧都

 以上、

一 術事(算術か)

公慶僧都 性円阿闍梨 事円禅師

 以上、大綱依学師等」

 

070 以上を見ると、光宗が教えを受けた天台宗の依学師は24人、真言宗の依学師は32人もいる。光宗は教えを受けた人を依学師として記録し、その恩を忘れなかった。

 渓嵐縁起葛川明王堂から発見された古本を写したものだが、その最初の部分は下の方が朽ち損じ、文字を留めず、意味の明瞭を欠くが、光宗が目下の者に尋ねることを恥じず、諸流、諸方に広く学んだことを述べ、とりわけ、康楽寺慈胤法印の「わが師となさずものこれなし」という言葉を引用しており、このことから光宗が篤学の人であったことが分かる。

 

 渓嵐における禅宗の依学の師の特異性 

 

元来叡山は禅宗を異端と見なして排斥し、しばしば暴挙によって禅宗を撲滅しようとしたが、光宗は禅宗の12人の師を仰ぎ、諸方に遍参・参学して五燈録等を読んだ。それら相看(相見る)の師の中には東福寺の人が多い。禅宗相観師事067の中で、白雲禅師が第一に掲げられている。白雲禅師は、有名な白雲慧暁(えぎょう)であり、聖一国師*に就いて禅に入り、文永3年1266に入宋し、帰来(帰って来て)正応5年1292、東福寺第四世の住持となり、永仁5年1297に示寂した。

 

*聖一国師 円爾(に)1202.11.1--1280鎌倉時代中期の臨済宗の僧。東福寺で亡くなった。諡号(しごう、おくりな)は聖一国師。

 

071 光宗が第四に掲げた山叟(そう)禅師067恵雲は、これを継ぎ、東福寺第五世となり、その次の蔵山順空は第六世となった。いずれも聖一国師に就いた人であり、光宗はこれらの人々を通じて聖一国師の話を聞いたのだろうか、渓嵐はしばしば東福寺の聖一房の説を挙げている。しかし光宗が師事した天台宗の諸師は、禅宗を排斥した。禅宗教家同異の巻にこの種の師説が現れている。

 

新仰は言う、禅宗は日本国に以外に盛んだと。(禅宗は)法華経を古年暦としてこれを斥け、念仏を地獄の業として之を捨て、仏法は滅相*だとする。この(禅)宗が盛んになると、仏法がたちまちにして滅亡するだろうことは勿論のことだ。その旨大経(この間の一字が不審)委悉である。仏法が滅亡する時が至れば、この宗が繁昌し、仏法は跡形もなくなるだろう。禅宗は仏法修業を斥けるから、三学修行があるはずがない。見仏聞法にもあるべからず。一捻(じょう、ひねる)の香、弾指*、散花*、聴聞*、一句の善根*など悉くあるべからず。得法人もまた千万一もあるべからず。故に一切衆生悉く出離*期更あるべからず。微々縁もあるべからず。だから一切の衆生、さながら三途に堕ちるなり。人天善趣も生ずることあるべからず。不便なことだ。山王大師能能(よくよく)祈念あるべき事なり。」

 

*滅相 四相の一つ。因縁によって生じた一切の存在を過去の存在として滅し去る原因。

*断指 人差し指か中指の先を親指の腹にあてて音を立てること。敬虔や歓喜、警告、許可などを表す。

*散花(さんげ) 花をまいて仏に供養すること。

*聴聞 説法・法話などを聞くこと。

*善根 諸善を生み出す根本となるもの。

*出離 迷いの境地を離れること。迷いを脱するために仏門に入ること。

 

072 山徒が当時頻りに禅寺破却を企てたのは、このような思想によるものであった。このような雰囲気の中で光宗が進んで東福寺の諸師に問法したことは、光宗の真理探究の志が厚かったものと感じられる。

 光宗は異端視されていた禅宗を学び、華厳、法相(ほっそう)、三論、具舎、浄土等を学び、医学、俗書、歌道、兵法、術法、農業、工業、算術等も学んだ。これは当時の僧侶が宗学を越え、一般国民の普通教育の指導者となり得たことを示している。兵法、術法、農業、工業、算術の依学の師が皆僧侶であることは、これらの学問が仏家に習伝されていたと考えられないか。

 

 渓嵐の雑駁奇怪な神仏習合説

 

 本書(渓嵐拾葉集)の興味深い点は雑駁奇怪な神仏習合説である。本書の神明等事秘々極々の巻に、

 

073 「一、我が国を大日本国と号す事

密談は忠快(天皇に忠であることは快い)と言う。またある人は物語って言う。「大日如来が色界(俗界の上、無色界の下)の頂に成道し、南閻(えん、門)浮提の海中へ天の逆鉾を投下して入海する時、泡沫が固まり州を成すが、これが日本国である。日本国は南州の二つの中州のうちの遮末羅州である。俱舎ては、この州を羅刹婆居という。その羅刹婆は伊勢大神宮である。」と。

私は言う、「これは大日垂迹(せき、あと)である」と。内外宮は因果両部曼陀羅の意であり、滅罪生善の方は、羅刹噉(たん、くらう)食有情を(の)意に似る。日本の遮摩き州と言う証拠は、伝教大師の学生式伝法との遮跋に云々、大日本国を大日の本国と言う。このことゆえ、大師の説とて忠濟が語る。これは極秘のことである。」(意味不明)

 

 ここでは、大日本国は元来大日如来の本国の意であるとし、天逆鉾の神話は、大日如来の行動として伝える。本書はさらに伊勢外宮は社の形が八葉である、つまりこれは胎蔵界を表し、内宮は社の形が獨鈷形であるから、やがて(とりもなおさず)金剛界の象徴であるとし、また三種の神器については、神璽(じ)は蘇悉地の応身にあたり、宝剣は金剛界であって、報身に当たり、神鏡は胎蔵界、即ち法身であると述べ、その他様々な習合説を記している。

 

074 また、天の岩戸の神話は、渓嵐集山王御事の巻で、次のように説かれている。

 

「問う、神明に就いて天の岩戸というが、これは何処(どこ)にあるのか。相伝義が答えて言う。大和国にあり。このような一説は、和州これあるか、所謂大和国に伯馬山の南端の峰である。中央に石崛(くつ)があり、所々に諸神が影向(えいごう、ようごう、(神仏が)この世に現れる)する砌(みぎり、庭)であり、その中に大般若経が安置されている。これを以て天岩戸と名づけるのではないか。また言う。弘法大師秘訣が言うように、大神宮に高社という宮があり、その後ろに岩屋があり、空洞に十八の切り石を並べている。その形が天井のようで、これがつまり十八梵天を表すが、これは金界*の曼陀羅である。地面に十三個の石を並べてあり、これが胎蔵界の十三大院である。これを以て天岩戸と名づける。これは最極上のことであるから、口外してはならない。

 尋ねて言う。天照大神が天岩戸に閉じこもったときの相貌はどんなものか。

 答えて言う。天照大神は日の神であり座っているときの上の方は日輪の形をしているから、天の岩戸に籠るという。また相伝が言うには、天照大神が天から下って天の岩戸に籠るというのは、辰や狐の形で籠り給う。いろいろの畜類の中でも辰や狐は、自ら光を放つ明神である。だからその形を現し給うのだ。

 尋ねて言う。なぜ、辰や狐は必ず光明を放つのか。

 答えて言う。辰や狐は如意輪観音の化身であり、如意宝珠*を以てその体となすから、辰陀摩尼王と名乗る。宝珠は夜光るから、諸々の真言供養の時も、摩尼をもって明かりとなすと言う。思い比べてみよ。

 また言う。辰や狐の尾に三古があり、三古の上に如意宝珠がある。三古は三角の火の形をしていて、宝珠は摩尼燈火である。だからこの神が威光を現し、法界*を明るくするという。

075 また一伝が言う。未曾有経説が言うに、辰や狐を崇めて国王となすというが、これは天照大神をもって百の天皇の元の神であると習う。今、辰や狐の王をして、天照大神の応現習合であるとする。深くこれを思うべきだ。」

 

*如意 思いのままになること。

*宝珠 宝の玉。

*如意宝珠 一切の願いが自分の意のごとく適うという宝の球。民衆の願掛けに対してそれを成就させてくれる仏の徳の象徴。

*法界(ほっかい) 十八界の一つ。意識の対象となるものすべて。

 

075 読者はこのような奇怪で大胆な説に驚かれるだろうが、これは本書の一部に過ぎない。この歴史と常識を超える奇怪で不思議な世界は、本書の中で限りなく展開されている。

 

 神明部の根国底国

 

次に神明部に見える根の国底の国の説明を挙げる。

 

「また言う。大神宮神託が言う。我が教令に順う者には、安国と楽国を渡すべし。我が教令に違反する者は、根国底国に遣るべし。

 私は言う。安国楽国は安養浄土である。根国底国は無間大地獄である。それは凡そ地獄がこの地の中で最も下にあるからだ。このことを深く思うべし。」

 

 以上のことから察せられることは、日本書紀や中臣祓(なかとみのはらえ*)などが、中世の寺院で経典として読まれていたということである。

 

*中臣祓 大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つ。中臣氏が専らその宣読を担当したことから、中臣祭文(なかとみさいもん)とも、中臣祓詞(なかとみのはらえことば)とも、中臣祓(なかとみのはらえ)とも言う。

 

 日本書記神代巻

 

これに関して想起されることは、彰考館*にある日本書記神代巻である。

 

*彰考館 江戸時代に常陸国の水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)。

 

これは金沢称名寺の剣阿が書いたもので、嘉暦(かりゃく)3年1328の奥書がある。その巻第一の分に、

 

「就長和親王が勅請でもって遍照寺法務の秘訣春公和尚に授けた。」

 

という。また、巻第二の分に、

 

「窃以て(盗んで、密かに)体がある者は方会心識であり、心ある者は必ず仏性を備える。仏性怯性は法界に遍く存在し、二つとない。自身は他身である。与一如であり、平等である。云仏云神、性相互体なり、云内云外、忘心別執、而して、我が朝是神国なり。崇神(神を崇めること)を以て朝務となす。我が国はまた仏地なり。敬仏を以て国政となす。これ以って垂仁天皇以来、敬神祭祀の勤めを怠りなく、欽明聖代以来、帰仏信法の儀が最も盛んなり。国はこれによって静かなり。人はこれによって康なり、…相承の秘伝を残さず奉授した。曇春禅師。」

 

 以上の通り、神仏習合の思想から生ずる当然の帰結として、我が国の神典がやがて仏家の間にも宗教上の経典として研究され、秘密に相承伝授されたことが分かる。

 

 古語拾遺

 

 剣阿はこの他にも、丹鶴本日本書記を残しているが、神典研究は日本書紀や剣阿に限らない。私は最近中川忠順先生の厚意で前田侯爵家に秘蔵されている古語拾遺*を三部見ることができたが、いずれも鎌倉時代の末、南北朝の初めに、金沢の称名寺で書写されたものである。これは古語拾遺が盛んに研究されていたことを示すものである。

 

*斎部弘成の歴史書。807年に成る。斎部氏の伝承を記して朝廷に献じた書。

 

その一本の奥書に、

 

077 「我願う、神慮に応じ、仏智に通ずる者は、師伝が弥(行き渡る)に相違ない。求めることにより、早く出現するはずだ。月を逐い、日に随い、類順書記したが、その出来は期せず、専ら素懐(願い)し丹誠を致し、南無、日本国中に諸神が垂れることを祈る。再拝々々。」

 

と言い、また

 

「累日通夜面受臥談、客有り語らず。資師相承」

 

と言う。

 

 このことから古語拾遺が単に古典として研究されただけでなく、宗教上の神聖な経典として厳重に伝授されていたことが分かる。

 

 日本書記

 

剣阿が度々日本書記を書写しているのも同様の意味であった。今日残っている日本書紀諸本のうち、中世の古写本には寺院と関係するものが多い。

熱田神宮に伝わるものは、円福寺の第三代厳阿の斡旋で、四条金蓮寺第四代上人が寄進したものであることが、各巻の永和年間1375--78の奥書や、永和3年1377の副文から分かる。円福寺は熱田にあり、厳阿はこの寺に入ってから金蓮寺に住み、その第三代となり、応安3年1370に入滅した。金蓮寺の第四代重阿といい、重阿が永和5年1379(永和5年は存在しない。)に入滅したことが、四条派の大本山金蓮寺歴代誌譜に見える。これが正しいとすれば、この本は重阿が先代の命により書写し、これを熱田神宮に献納したことになる。

また無窮会が蔵する影写本の原本は、応永年間1394—1427に、志摩梨原の福厳坊で、道祥、春瑜、清恵等の僧侶が書写したものであり、それが依ったところのものは、参州(三河国)鳳莱寺の本や、伊勢の興光寺の本であった。

078 その他、三宝院は室町初期の写本を蔵し、東京帝室博物館本は、応永1394から永享1429—40にかけて沙門良海が写したものであり、桃木氏の蔵本は、嘉吉(かきつ)2年1442円威が書写し、帝国図書館本は、叡山の僧秀存の旧蔵と思われる。また浄土宗の了誉聖囧(けい)は応永中1394—1427に日本書紀の私抄を著した。以上のことは、神典が中世の寺院で尊重され研究されていたことを明示するものだ。

 

 中臣祓

 

 次に中臣祓も、中世の寺院で随分行われていた(経典として読まれていた)ようで、私の家(平泉寺白山神社)にある荒神供略作法は、明応2年1493閏4月9日、叡山華王房で、金剛仏子英存が書写したもので、その奥書があり、その裏に異筆ではあるが、同じころに書かれたものと思われる中臣祓がある。これは中世の末に叡山に伝えられた中臣祓がどんなものだったのかを知るうえで便利である。

 

079 「中臣祓  伝教大師御作

 

高天の原に神が留まります。皇親神(すえむつかみ)が漏伎(ろき)神呂美命を以て、八百万の神たちを集めに集め給い、神は議(はか)りに議り賜い、神は問いに問い賜い、罪と云う罪、咎と云う咎は在らずものをと。掃(はら)い申し清め申すことは、科戸(はしなと)の風が天の八重雲を吹き払うことのように、大津のほとりに繋がる大船小舟の舳艫(ともづな)を解き放ち、大海原に押し放すことのように、祓い申し清め申すことは、彼方の繁木の本、焼鎌の敏鎌(ときがま)を以て、打ち払うことのように、祓い申し清め申すことは、祓い戸にいる八百万の神たち、佐而々の八の御耳を振り立て聞こし食(め)せと申す。再拝々々敬白」

 

中臣祓はこのように非常に省略され、原形とは大変相違するようになり、また終わりに再拝々々敬白という不釣り合いな言葉が加わっていることや、それが伝教大使の作である考えられていたことなどに注意すべきだ。

 

 我が国の神代に関する古典は、中世の寺院でこのように尊重され、宗教上の経典となり、盛んに書写抄出され、秘密伝教となったり、購読注釈されたりし、皆断片的に仏説と習合された。渓嵐拾葉集はこの風潮を最も雄弁に語っている。

 

 本地垂迹*の思想は本書(渓嵐拾葉集)で熟している。

 

*本地垂迹(ほんじすいせき) 世の人を救うために神となって垂迹したその本の仏・菩薩を本地という。神はこの世に仮に姿を表した垂迹身であり、仏・菩薩はその真実身である本体とする。例えば、天照大神の本地は大日如来である。

 

 山王御事の巻 六波羅蜜配当

 

080 渓嵐拾葉集の山王御事の巻によれば、我が国の神明は劫初*から影向*したり、仏法の伝来以前に影向したりするから、正しく仏法の名字*を顕わさないが、神明の本地は皆往古の如来久成の薩埵(た)*であり、そのため、風情を変え、体を改めて、衆生利益の方便を回らすから、熊野参詣の作法も皆仏道修業の方便を示し給うところであると説き、神々を分類する際は、六波羅蜜の範疇によっている。

 

*劫初 劫の初め。この世の初め。

*影向(えいごう、ようごう)神仏が仮の姿を取ってこの世に現れること。

*薩埵 薩埵王子。釈迦の前身と伝えられ、飢えた虎に身を投げて死んだ王子。

 

 六波羅蜜配当のことは神明部にも見えているが、山王御事の巻が最も詳細である。

 

「問う。神道を以て六波羅蜜*に配当する方、如何。

答えて言う。我が国に神明は多いが、四攝(せつ*)の行は出ないと。また言う。仏法において万行諸乗があると雖も、廣まれば十波羅密を出ることがなく、縮まれば六度がある。だから神道の利益は六波羅蜜を出ることがない。

故に第一に且波羅蜜の神とは、稲荷並びに厳島当国竹生島等これなり。皆これ神明の施福の神明である故だ。

第二に、尸(し、しかばね)波羅密の神とは、八幡は不妄語を以て本となすから、正直の頭に宿らんと誓い給う。北野天神もまたかくのごとし。

第三の忍辱波羅密の神とは、賀茂や平野等の神であり、これは忍辱を以て体と為し給うなり。

第四に精進波羅密の神とは、熊野権現これなり。故に参詣の宿願の始まりから下向の喜日に至るまで、精進苦行を以て本となす。

第五に、禅定波羅密の神とは、天照太神これなり。故に神明参詣の作法を、社司・禰宜に至るまで諸事みな寂静を以てこれをなす。これには甚だ深い学習がある。追ってこれを尋ねるべし。

第六の智慧波天密の神とは、春日大明神並びに山王権現である。これは最初から法施を以て本と為し、法門を以て神体と為す。仍(よ)って智慧を以て神通*寿命となす。故に智慧波羅密の神明と号する。已上。

この他我国に神明は多く、或は且度の益を顕し、乃至、智恵の法門の利益を施し給う。これ、六度を以てこれを取るべし。云々。」

 

*六波羅蜜(ろくはらみつ) 大乗菩薩の六種の実践修業。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種で、これによって涅槃の境界に至ることができるとされる。

*攝(せつ) 取る。兼ねる。代わる。統べる。

*神通(じんずう) 無礙(むげ)自在で超人的な不思議な力。

 

 天照大神の本地 神明等事秘々極々の巻

 

 次に伊勢大神宮の本地を何仏としているかを見ると、神明等事秘々極々の巻の本文に、羅刹婆は伊勢大神宮これなりとあり、註に「私は云う。大日の垂迹なり」と言い、また特に伊勢大神宮不云本地事の一節があり、

 

「一説に言う。伊勢大神宮の本地は日神なりと。かの国の風は総じて天照太神の本地と言わない。但し代々異敵降伏を為し、修められるとき、如意輪の行法を勤め仕えられ、並びに二十一社の別宮祈祷を修められ、本地如意輪ということは、一経説見たり。習合事あり。都表如意輪の義軌を説けり。見合うべし。云々。また言う。大神宮は大日遍照尊と習うこと、東寺一流大事なり。神明相伝潅頂事これ思うべし。」(意味不明)

 

 伊勢大神宮の本地を如意輪観音とする説については、この二条前に、

 

「また言う。天照太神はすなわち如意輪観音なり。内侍所の御鏡に、天照太神の御形を写し給うなり。真実には今鏡とは、遍照法界心月輪の全体三昧耶形云々。」

 

 山王

 

 また山王御事の巻では、天照太神と山王権現とは同一神であるとし、

 

082 「尋ねて言う。天照大神が山王権現と一致すると習う方、如何。

答えて言う。五大院の御尺に言う。天照社においては、大日応迹の神明と為し、日吉社に於いては、釈迦応現の明神となし、顕蜜、且(しばら)く殊と雖も、一致幽冥を神明となし、この文を以て天照太神は日吉権現と一体に習合するものなり。口伝云々。」(意味不明)

 

元来が叡山の神道だから山王を中心に考えるのが当然である。神明部には智信阿闍梨山王秘訣を引いて、十方三世の諸仏菩薩は釈尊一仏の分身であり、日本国中の大小の神明は、山王聖の応迹であるとし、一実山王の神徳を称えている。(意味不明)そしてその山王に七重の習ありとして、垂迹山王、本地山王、観心山王、無作山王、三蜜山王、元初不知山王、如影随形山王の七つに分ち、それぞれについて説明している。この問題は山王神道の発達を考えなければならないから、ここでは省略する。

 

 正直

 

 中世の時代思潮として、正直の徳が特に高唱されていた。神明等事秘々極々の巻では、伊勢大神宮について、「鳥居いかき*等まで直に造られていて、これは正直を表すなり」と言い、また「また言う。伊勢八幡等も不妄語を以て体と為すなり。されば、正直が頭にやとらう(宿るように)誓い給うなり。これを思うべし。云々。」と記している。山王御事の巻諸神六波羅密配当の条に、八幡北野を以て正直の神としているが、このことは既に引用した。

 

*いかき(笊籬) 竹で編んだ籠。ざる。

 

 富士

 

083 また富士山に関して説いている。「富士」は実は真言の「布字」の意味である。富士山は四方円満の山で高く秀で、頂上に八葉の形があり、それは不動の頂上の蓮花である。また十九の布字がある。故に布字と名づける。

 また一つの伝えには、我が国に両部の曼陀羅があり、富士は金剛界の曼陀羅であり、故に堅に高く秀でている。他方、武蔵野は胎蔵界*の曼陀羅であり、だから横に平等である。しかも世間の時相を案ずるに、堅なるものは必ず横を兼ね、横なるものは必ず堅に相対する。だから古老の伝にも、武蔵野の峰は皆富士に集まり、富士の谷は皆武蔵野に集まるという。

 

*胎蔵界 密教で説く両部・両界の一つ。大日如来を慈悲または理(真理)の方面から説いた部門。金剛界に対する。

 

 弁天

 

084 弁財天部には弁天に関する伝説が多く載せられている。まず紀州天川について。ここは昔大きな湖水であり、その中に善悪の二龍がいて、悪龍が万民を害した。ここに大汝(おおなむち)小汝(こなむち)の二神が慈悲を発して、悪龍を退治しようとしたところ、大汝は悪龍の毒気にあたり絶え入った。一方小汝は八目矢*を悪龍の口の中を射入れ、悪龍は降伏し、湖から大海に入った。その時湖水が巻き上げられその跡が大岡になった。今の(紀州)天川がこれである。その時の善龍が天川の弁財天であるという。これが日本第一の弁天で、第二は厳島、第三は竹生島であり、この三カ所は穴が互いに通じている。これに相州(そうしゅう、相模国)江島、摂州(摂津国、大阪・兵庫)箕面(みのお)、肥州(肥前・肥後、佐賀、長崎、熊本)背振山を加え、六所弁財天という。このうち江島の縁起も天川に劣らず奇妙であるが、それは省略する。

 

 おわりに

 

 以上が中世の一般宗教思想の種々相である。そこに現れる奇妙不思議な説が中世の姿である。それを今日の我々が見ると、あまりに不調和・不統一であり、でたらめであるが、このように歴史と常識とを超越し、限りなく自由に開展する幻の世界は、かつて存在した中世人の思想であった。そして当時の最大勢力の寺院としての叡山は、その思想の中心をなした。その山陰に庵住し、峰の嵐に渓に散り布く墜葉を集めたものが、この光宗の渓嵐拾葉集である。私は本書数部の発見を喜び、中世宗教思想の研究が進歩を遂げることを期待し、とりあえず紹介した。

 

大正15年19265月

 

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