教育修身研究『現代教育教授思潮大観』春季臨時増刊 日本教育学会 分担執筆者 平塚盆徳、生井武久、三木壽雄、宗像誠也、佐野朝男、山田彌、白井今朝晴各学士 昭和7年1932年
感想
東大や京大の教育学部は戦前は文学部哲学科の中に位置づけられていた。1967年ころの京大教育学部の襟章はP(Pädagogik)であり、そのことからドイツの哲学や教育学の影響の強さがうかがえる。本書でも第一章は教育に関する哲学を扱っている。戦前は教育学と言えばまず哲学だったようだ。だから仏教も研究対象であり、1967年ころの京大教育学部に上田閑照という仏教哲学者がいたように記憶している。
本書は昭和7年1932年の出版であるが、当時の教育学者は欧米の哲学や教育学を熱心に研究していたようだ。またソ連にも頻繁に行ってプロレタリア教育学・哲学を研究した。戦中一時期の国体暗黒時代を経た戦後になって欧米の諸学が盛んに研究されたのも、この昭和10年代ころまでの欧米研究が系譜的基礎をなしていると思われる。マルクス主義の研究も盛んで、マルクス主義の立場に立って研究をしていた人が何人もいたようだ。本書でも山下徳治、浅野研真、堀秀彦、屋井参市、本庄陸男などの名前が出て来る。
マルクス主義哲学・教育学が従来の哲学・教育学をこっぴどく批判したから、マルクス主義以前の研究をしていた人に気に入られないことはよく分かる。本書の執筆者もマルクス主義研究者のことを「彼ら」と言ってよそ者扱いしている。マルクス主義の階級差別撤廃といういい面には触れないで、こっぴどく批判されたことに対して言い返そうとすることが目に付く。
感想
10年の違いでこうも変わるのか。10年後の1942年には大東亜共栄圏建設のための教育学が叫ばれ、我も我もとその研究発表を競っていた。(『日本諸学研究報告第十八篇(教育学)』1943)ところがその10年前の本書発行のころは、例えば本書の筆頭ではディルタイの生の哲学に基づく教育学(文化教育学)が紹介されていた。それが尋常である。苦し紛れで排他的な自国一辺倒ではない。
感想
筆者はマルクス主義の教育観に及ぶとがらりと態度を硬化させ、批判的言辞が多くなり、マルクス主義のいい所については一切取り上げず、あら探しばかりやる。分担執筆者として7人*を挙げているが、文責を明らかにしていないので誰が書いたのか分からない。想像するに筆者は経済的に余裕がある支配的富裕層に属していたに違いない。
確かにマルクス主義は生まれてからまだ新しいから成熟していない面もあっただろうと推測されるが、マルクス主義の肯定的な面についても触れて欲しかった。
しかし批判は自由だからそれでいいのだが、弾圧の対象になるとまずい。マルクス主義が弾圧の対象になる一因としてこれら執筆者の反マルクス主義的な冷たい態度もあったのではないか。
それにしても当時マルク主義に基づいて教育学を研究していた教育学者もいたことは初耳だった。山下徳治は『新興教育』の中で「ブルジョワ教育学の非現実性」や「プロレタリア教育の構成のために」を、また『プロレタリア科学』の中で「プロレタリア教育の本質」を発表し、浅野研真は『新興教育』の中で「プロレタリア教育の基礎問題」を発表していた。
概説的論調のため、いまいち内実がよく分からないところもある。
第一章は教育学の哲学的基礎を述べたものである。
感想
ケルシェンシュタイナー1854-1932の教育論は全体主義と親和性があり、ヒトラーの全体主義にとって都合のいい教育論であったかもしれない。またそれが日本の1940年ごろの国民教育における「行の教育」や「錬成教育」にも影響しているかもしれない。当時の日本の論文を読むと、主知主義を批判して実践を強調するが、それはケルシェンシュタイナーの教育論と一致する。ケルシェンシュタイナーは個人主義を否定し、個人は全体社会があってこそ存在するのだから、個人は全体社会のために尽くさなければならないとする。
感想
本論文は西洋の概説書を勉強した結果かもしれない、あるいは日本の先学者から学んだものかもしれない。それを初心者向けにまとめたようだ。ヘロドトスがヘドロスとはびっくりした。各西洋学者の文献に直接当たってはいないのだろう。
感想
各章ごとの分担執筆かなと思っていたら、章の中に語彙の揺れが見られるから、各章も分担執筆していたのではないかと思われる。その理由としてもう一つ、第一章各節の配列の系統性のなさや、重複記述が目立つこともある。語彙の揺れとしては、シュタイナーをスタイネル038としたり、ベルゲソンがベルグソン037になったりしているが、これは単なる誤植とも思われない。
感想
「現象学的教育学は、純粋かつ典型的で、現代教育学の『革命的な』学である。」048と現象学的教育学の節を終えているが、何か変だ。これは学者として真摯な態度と言えるだろうか。これ以前でも全くわけの分からない文章で終えているところ(体験的教育学042)があったが、分からないのなら分からないとするのが真摯な態度ではないか。ペダンティズムを感じる。
感想055
筆者が指摘するマルクス主義の家庭観はプラトンの「国家」のようであり、家庭教育を否定し、子供は寮に入れられる。むむ。今のマルクス主義者もこう考えているのだろうか。
Wikiでエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』の解説を読んでみた。エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』の中で、家族に関してはフェミニズムの観点から、男による支配からの女の解放を語っているが、筆者が指摘するような「人格陶冶の否定」などの表現は見当たらなかった。
また「唯物史観が自然科学に基く」と理解するのも間違っているのではないか。エンゲルスは当時の民族や人種などを研究する人類学や古代史の研究成果を参照しながら『家族・私有財産・国家の起源』を構成しており、物理学や化学などの自然科学を援用することはないように見受けられるのだが。
感想
私はマルクス主義の本質は差別に対する闘いだと思うのだが、筆者はその本質からは目を背け、マルクス主義の側の粗(あら)と思われそうな部分を見つけてきてはそれを批判しようとすることに汲々としている。差別に対する闘いに目を背けるのは、筆者自らが現在の安泰な立場に居座り続けたいという気持ちがあるのだろう。マルクス主義の政治教育を批判するが、今の体制における教育自体がすでに体制擁護の政治教育であることには目を伏せる。
Edwin Hoernle エトウィン・ヘーンレ1883—1952 ドイツ共産党員。
1910年、社会民主党に加入し、ローザルクセンブルグの支持者となった。第一次大戦に賛成する党幹部を批判して譴責処分を受けた。1916年、反戦を主張するスパルタクス団に加入し、戦争中は反戦運動を行った咎で前線に送られた。1918年、ドイツ共産党創設に関わる。1922年ころ詩を出版した。モスクワのコミンテルンに執行委員として参加した。
山下徳治057
山下徳治1892-1965 教育学者。結婚して森徳治と妻の姓に改姓1941。戦前の新自由教育運動の下で、欧州やソビエト連邦に留学し、労働教育理論を移入した。筆名は村上純。
1920年、成城小学校教諭。1923.4-1927、独ソを訪問し、ドイツではナトルプの指導下でペスタロッチを研究した。1929.10、プロレタリア科学研究所員。
1929年暮れから1930年の初めまでの1か月半、2回目のソ連訪問。『新興ロシアの教育』1929.12
1930年8月、科学教育研究所(新興教育研究所)を創設し、所長に。
1930年、日本教育労働者組合結成準備、同機関誌『新興教育』発行1930.9-1933.6。1930.12、朝鮮での新興教育研修所支局準備会の件で検挙。
1932年8月、『日本資本主義発達史講座』の「教化(育)史」を執筆。発行禁止。
1933-34、科学教育研究所弾圧・解体。
1937年、城南中小企業徒弟教育要項を編集。
1944年、教育科学研究会(1937年発足)に関して検挙・拘置。
浅野研真 アサノ ケンシン
昭和期の教育運動家,仏教者
明治31(1898)年7月25日--昭和14(1939)年7月7日
出生地 愛知県
経歴
中学卒業後、京都の大徳寺修業僧となり、のちに函館刑務所教誨師となるが、退職して日大に進む。卒業後、日大の社会学研究室助手のかたわら、大正14年1925年、東京労働学校を開設、教頭主任となった。昭和3年1928年、文部省留学生として渡仏。日本の教育運動を国際的な教育労働者組織エドキンテルンと結びつけた。昭和5年1930年、新興教育研究所創立に参加し、中央委員となり、プロレタリア教育の理論化に尽力した。昭和7年1932年、浄土真宗の教化事業に従事。友松円諦の仏教法政経済研究所の活動に参加した。
全日本仏教青年同盟主事、日華仏教協会理事を歴任。著書に「プロレタリア教育の諸(基礎)問題」「仏教社会学研究」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
シュタイナーとケルシェンシュタイナーとは別人である。
シュタイナー学校のシュタイナーはルドルフ・シュタイナー1861-1925, Rudolf
Steinerであり、ケルシェンシュタイナーは、ゲオルグ・ケルシェンシュタイナー1854.7.29-1932.1.15, Georg Michael Anton Kerschensteinerである。
いずれも教育者という共通点はあるが、シュタイナーが神秘主義的・ドイツ観念論的であるのに対して、ケルシェンシュタイナーは理系(数学・物理学)で、労作学校(後の職業学校)を創始し、それを国民学校と兵役の中間に位置づける。
マックス・アドラー055 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)によれば
Max Adler(1873―1937)
オーストリア・マルクス主義の代表的思想家。第一次世界大戦後から1934年までのオーストリア社会民主党左派の理論的指導者。ウィーン大学員外教授。
新カント派哲学やマッハの影響を受け、マルクス主義を社会学として理論的、方法論的に定式化を企て修正し、オーストリア・マルクス主義の科学哲学論を展開した。
第一次世界大戦後、政治理論の分野でも注目すべき著作を発表し、とりわけケルゼンHans
Kelsen(1881―1973)やヘラーとの国家論論争や「社会的民主主義」論などで、プロレタリア独裁の必要性を理論的に認めたが、ボリシェビキ政権に対してはその非民主性と暴力性を批判した。
究極目標である社会主義は、人間の意識が社会主義的に変えられて初めて、すなわち「新しい人間」がつくりだされて初めてその実現に近づきうるという考えから、社会主義的文化、教育論を展開し、成人教育運動の分野でも指導的役割を果たした。
マックス・アドラー「マルクス主義の国家観」「カントとマルクス主義」世界大思想全集42三松堂書店1980円(日本の古本屋)
7人の著者に関してネットで調べてみた。
・Wikiによれば、
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。(平塚益徳は『日本諸学研究報告第十八篇(教育学)』1943でも「アメリカの対支教育活動に就いて」広島高等師範学校教授 平塚益徳(ますのり)と題して講演している。)
来歴
上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、水戸高等学校卒、東京帝国大学卒。
広島高等師範学校教授、九州帝国大学教授、1953年九州大学教育学部長。60年日本人初のユネスコ本部教育局長。63年国立教育研究所長。同研究所長に学者として就任し、大学に比肩する研究体制の構築を図った。『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
1962年文学博士(九州大学)。論文の題は「旧約智恵文学に現われたイスラエルの教育・倫理思想の研究
」[1]。
著書
『旧約聖書の教育思想 知慧文学を中心として』目黒書店、1935
『イスラエル民族の女性観と女子教育』基督教モノグラフ叢書 日独書院、1935
『日本基督教主義教育文化史』基督教教程叢書 日独書院、1937
『近代支那に於ける基督教々育の概況』興亜院、1940
『近代支那教育文化史 第三国対支教育活動を中心として』目黒書店、1942
『日本のゆくえ ハドソン河畔の旅窓から』洋々社、1956
『旧約聖書の教育思想 智慧文学の研究』日本基督教団出版部、1957
『ヨーロッパの道徳教育』民主教育協会 IDE教育選書、1958
『日本のゆくえと道徳教育』福村書店、1959
『教育の民主主義 バランスの原理』民主教育協会 IDE教育選書、1960
『こども・家庭・社会 教育の民主主義 その2』民主教育協会 IDE教育選書
、1961
『日本教育の進路 道徳教育の根本問題』広池学園出版部、1964
『民主主義社会の青年 その特色とあり方』広池学園出版部 れいろうブックス、1967
『お茶の間の教育学 つみ重ねられた人間の智慧』広池学園事業部、1969
『価値ある人生 かく信じかく訴える』広池学園事業部、1976
『日本の運命と教育』広池学園事業部、1976
『序文 人生の真実を求めて』教育開発研究所、1978
『日本教育の大勝利 日本の教育史から観た現状と将来』カルティヴェイト21、1981
『平塚益徳講演集』平塚博士記念事業会編、教育開発研究所、1985
『平塚益徳著作集』全5巻、教育開発研究所、1985
第1巻 (日本教育史)
第2巻 (中国近代教育史)
第3巻 (西洋教育史)
第4巻 (宗教・道徳・家庭教育)
第5巻 (教育時論)
共編著
『人物を中心とした女子教育史』編著、帝国地方行政学会、1965
『教育事典』沢田慶輔,吉田昇共編、小学館、1966
平塚勇之助『慈川余香』平塚道雄共編、広池学園出版部、1967
『世界の教師 養成・地位・生活』編、帝国地方行政学会、1967
『現代の教師に訴える』上田薫ほか共著、明治図書出版 明治図書新書、1968
『進路指導実践講座』第1-2
沢田慶輔共編、文教書院、1968-69
『日本の家庭と子ども 今日における家庭の教育機能を探る』編、金子書房、1973
翻訳
J.A.ラワリーズ『科学・道徳・モラロジー』監訳、モラロジー研究所、1976
参考
『神によりてやすし、平塚勇之助自伝』ヨルダン社、1989 (平塚勇之助は平塚益徳の父親)
生井 武久
・国会図書館サーチによれば、
タイトル 「へき地教育の問題点--研究の態度と教育活動の方途について」
著者 生井 武久
出版地(国名コード) JP
出版年(W3CDTF) 1960-12-00
件名(キーワード) 僻地教育
掲載誌名 新潟大学教育学部高田分校研究紀要
・日本の古本屋(丸三文庫)によれば
『英国に於ける現今の教育学説』生井 武久
出版社 目黒書店 刊行年 昭5
三木 寿雄
・amazonによれば
『教職への道』 (1967年)
1967/1/1 三木 寿雄 (著)
出版社 : くろしお出版 (1967/1/1)
発売日 : 1967/1/1
『くずれゆく民主教育―大学生の見た学校教育の実態』 (1958年) 1958/1/1 三木 寿雄 (編集)
くろしお出版
(1958/1/1)
発売日 : 1958/1/1
・日本の古本屋(丸三文庫)によれば、
『実際の教育 教員を志す人のために』三木
寿雄 著
出版社 有信堂 刊行年 昭32
・ヤフオクによれば、
『教師よどこへ』三木寿雄 「人間不在の教育」1964年
宗像 誠也
・Wikiによれば、
宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 1970年6月22日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。
人物
東京生まれ。父は講道館訓育指南や旧制畝傍中学校校長を務めた宗像逸郎。1926年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業(勝田守一とは同級生)。東京帝国大学文学部教育学科卒業。阿部重孝門下。
戦前は1930年代に岩波書店刊行の雑誌『教育』を間にはさみ成立した児童学研究会に参加[注釈 1]。さらに留岡清男らとともに教育科学研究会の結成に尽力、教育科学運動を推進する。立教大学講師及び一時期東京文理科大学教授を務めた。
戦時中は「心身が異常でない限り、少し位からだが弱くても凡て兵役に取ってはどうか。実践的な国民的信念、国民的教養を作り上げる精神教育をすることは勿論だ。身分も職業も学歴も問わず、全部が共同の営舎生活を一定期間するということは国民性格を錬成するのに必要な、また極めて有効な手段だと考えられる」(昭和十六年1941年十一月『改造』誌掲載「臨戦体制は教育を圧迫するか」)と徴兵による国民教育を唱えていた。
戦後、東京大学教育学部教授に就任、戦時中に分解した教科研の再建にあたる[注釈 2]。教育行政学を専攻し、同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、戦後教育学界に大きな与えた、東大の「3M(スリー・エム)」と称された。
学問研究を大学や書斎の中にとどめず、教育現場に出向いて研究し、理論と実践の統一に努め、反権力に徹し、人間の尊厳の確立のための教育づくりに努めた。
国家の教育統制は、ハード面のみに限定さるべきであり、ソフト面、ことにカリキュラム編成に関しては、それは「真理のエージェント」としての教師の専任事項であるとする「内外事項区別論」を提唱する。こうした宗像の所論は、後の堀尾輝久の公教育論に大きな影響を及ぼす一方、勤評、学テ、教科書検定など各教育闘争における民側の理論的背景となった。
宮原誠一、梅根悟、矢川徳光ら、戦前・戦中期に活躍した教育学者には、戦後、戦時中の戦争協力を煽った論文や文書や業績を省略・削除・隠蔽する者がいたが[1][2][3]、自ら、戦時の体制賛美、戦争協力の過去を悔悟し、その慙愧の念を公に発表し、それを「戦後教育学」の再建へと昇華させようとした宗像は、稀有な存在であると言える。
著書
青木書店から、『宗像誠也教育学著作集』(全5巻)が刊行されている。
論文
「國民敎育最低標準設定の規準」『教育科学研究』第1巻3号 (1939)
「『時間的空間的文化生活體制』と『社會科』」『教育科学研究』第2巻5号 (1940)
注釈
1^ 研究者と実践家が集まり開かれた定例研究会。のちに成立した教育科学研究会の保育問題研究会に組み込まれた。
2^ 教科研事件において、かつての常任幹事の中で山田清人と宗像のみが検挙を免れた。山田清人『教育科学運動史―1931年から1944年まで』国土社、1968年 p.242
出典
1^ 長浜功『教育の戦争責任』明石書店、1984年
2^ 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社、2002年
3^ 竹内洋「革新幻想の戦後史」『諸君!』2008年9月号
佐野朝男
・CiNiiによれば、
「佐野朝男先生の御退職におもう」収録刊行物 立正大学文学部論叢
『新しい幼児教育』佐野朝男
学陽書房 1973
『現代教育教授思潮大觀』佐藤武,平塚益徳,生井武久,三木寿雄,宗像誠也,佐野朝男,山田彌
日本教育學會 1932 これは本書。
白川今朝晴
・日本の古本屋(丸三文庫)によれば、
『現代新教育大観』白川今朝晴/他 著 出版社 日本教育学会 刊行年 昭9 文生書院
・国会図書館サーチによれば、
『統計から見た教育の機会均等と女子教育』白川今朝晴
タイトル 『統計から見た教育の機会均等と女子教育』
著者 白川 今朝晴
出版年(W3CDTF) 1949-10
掲載誌名 文部時報 = The
monthly journal of Monbusho / 文部省 編
・山田彌については見当たらない。以上。
要旨
序
教育学は広範な研究対象を持つ新しい科学である。これからの教育はこの科学に基かなければならない。本書によって現代の教育研究の進歩を概観できる。本書は我が国の官公私立の大学で教育学、心理学、哲学等を講ずる教授の著書に負うところが多い。昭和7年1932年5月15日
第一章 現代教育思想
第一節 文化教育学
一、文化教育学の史的発展
001 文化教育学とは、ウイリー・モーグがその著「現代教育学の根本問題」の中で述べた文化教育学Kultur Pädagogikを指す。
文化教育学の思想的源泉は新人文主義者のウイリアム・フォン・フンボルト1767-1835に遡ることができる。彼の人文的思想は、ギリシャ思想の美的陶冶や人性の調和的発展を教育の理想とし、個性に基礎を置き、個性は自然と歴史との接触によって普遍性と全体性を獲得すると説く。
文化教育学の源泉とされるもう一人はシュライエルマッヘル1768-1834である。彼によれば、思索と体験、歴史と系統、個性と社会が結合することによって全体観が得られるとする。この全体観という考え方はフンボルトと共に文化教育学の中心課題である。
002 文化教育学の最近の学者は、パウルゼン1846-1908とディルタイ1833-1911であり、この二人はスプランガーの師である。パウルゼンは教育の目的を理想的文化の伝達であるとし、教育学は実際的学問であるとともに哲学的学問であり、社会的教育学と個人的教育学とは相補うべきであるとする。
ディルタイの哲学は「生」の哲学である。「生」の哲学は、知的・論理的「立場」でも、道徳や芸術でもなく、それらの根本としての「全体的な精神的構造関連の世界」である。また彼は歴史的、社会的、文化的立場を重視し、それらは精神生活つまり「生」の構造関連を解く鍵となる。方法論的には体験主義であるが、それは体験が「全人活動」による実在の把握方法であるからである。
ディルタイは精神科学的心理学を樹立した。彼は「精神の全一性・具体性」を把握しようとし、従来の自然科学的心理学に対立する。自然科学的心理学は主として「自然意識」を研究するが、精神科学的心理学は、宗教、道徳、法律等の「文化や価値の意識」を究めようとする。
ディルタイには組織的教育書はないが、「普遍的教育学の可能について」という論文の中で、個性と歴史と現実とを教育の主要素とした。
この思想的発展がスプランガーなどの文化教育学となった。
二、文化哲学
003 文化教育学の哲学的基礎は文化哲学である。
新カント派は、文化とは将来造るべき文化であり、また文化一般、価値一般として普遍的法則の下に文化を考える。一方ディルタイ派における文化とは、主観的精神が過去から現在まで創造した客観的精神としての文化である。ディルタイ派の一人であるケーラーは「文化は順応の結果でも、自主的な精神活動を伴わない自然事象への服従でも、自然に対する精神生活の抵抗でもない。文化は人間的及び超人間的現実を含む精神原理の進化と活動である。(意味不明)文化は「世界精神」の「段階的発展」であり、「自然的・神的存在の調和」が完成する世界史的過程である。(空想的)生活にはそれ自体で「永遠な」意味があり、その意味は「彼岸」にではなく現在において「物の秩序構成の充実」と「生成の向上」を含む。自然(物)と歴史(人)とは相互交渉のない対立ではなく、文化の精神生活は全世界にわたる生活の連続、向上、開明である。(こうなると手に負えない)現実と理想、存在と価値、必然と自由との一致は、無意識的生成の中にも意識の発達の中にも見られる」と言う。ディルタイ派は現実と理想、必然と自由、存在と価値との両方から考える。
文化哲学は「生」の哲学、生命の哲学である。それは思惟や認識によって人生の真理をつかもうとするのではなく、生命や生活を出発点とし、思惟以前の意識における事実、つまり思惟よりも具体的・直観的な体験を出発点とする。
004 ディルタイ派の体験とは外面的知覚でも概念的把握でもない具体的な経験である。(意味不明)それは知情意の全一的活動である。認識ではなく了解である。(説明になっていない)
三、精神科学的心理学
精神科学的心理学は文化教育学の基礎となる心理学であり、文化哲学的心理学、精神構造の心理学、文化意識の心理学などとも呼ばれている。
この心理学はディルタイに発する。ディルタイによれば、従来の心理学は心理現象を要素に分析し、その研究法は自然科学の方法と同じで、意識の現象を個々の要素に分析し、実験的・統計的に考察する自然科学的心理学であった。実験心理学はその代表である。
それに対してディルタイの心理学は綜合的である。ディルタイは精神構造から出発する。精神構造とは何か。学問、道徳、芸術、宗教、政治、経済などの文化財は歴史的文化・客観的精神として存在するとともに、真善美聖権富などの文化価値は規範的精神や人間の理想・目的として人生を指導する。そしてこの理想に指導され、この価値を摂取し、享受するところの素質は人間個人の中に存在する。これが精神構造である。
精神構造は意義複合体であり、目的、意義、価値によって活動する。意識現象を感覚や感情などの要素に分析してみるのではなく、精神を、真を理想とする活動、美的評価の活動、宗教的認識、経済的評価の活動などの働き、すなわち綜合的な活動として見る。精神生活を全一的な実在と見る。全一的な精神活動即ち体験的事実をそのままに内面に直接に明らかにしてゆく。こうして精神生活の姿を明らかにすることができる。
従来の分析的で説明的な心理学では、精神現象を自然現象として理解できるかもしれないが、自然現象とは本質的に異なる人間の精神現象は、自然科学的分析では明らかにできない。精神科学的立場では、認識ではなく「了解」とする。(第三章構造心理学参照)
四、文化教育学の主張
005 文化教育学は文化哲学と文化哲学的心理学とを基礎とするが、学者によってその学説は多少異なり、テオドール・リットやエルンスト・クリークは現象学的である。しかし、いずれも文化、生活、体験を力説し、文化哲学と構造心理学に基づく。スプランガーはこの派の総帥と言われる。
スプランガーの思想はディルタイから発展したが、ジンメルやフッセルの影響も受けた。スプランガーは心理的なディルタイから論理的・規範的方向に進んだと言われる。
スプランガーによれば、教育学は国民生活から生まれるべきであるとする。つまり教育学は国民生活の中の学問、芸術、経済、社会、政治などを考慮すべきであるとする。その教育学的立場は功利的でも理想的でもなく、両者を結合すべきであるとし、教育学は文化の諸方面を考慮して構成されなければならないとする。
006 教育学の課題 教育学は、教育の理想を論究し、陶冶性や教育の社会的方面を論究しなければならない。
教育は国民生活を離れては存在しない。国民意識の形成は教育の重大な任務である。教育は現実生活を批判してその上に建設されるべきであるが、同時に古代文化の保存と移植をしなくてはならない。古来の宗教や道徳、価値あるものは教育によって護持・発展されなければならない。
スプランガーはその著「青年期の心理学」で名声を博した。スプランガーは青年と文化を力説する。現代の青年は自然科学的興味よりも人間の形式や文化関連の知識を愛好する。青年は人間について、民族について、時代について、文化について知らなければならない。そのためには構造の見地から、生活関連・文化関連を文化の領域で明らかにすべきである。「内面的・必然的で意義が充実した関連」を見る(発見する)ことが了解Verstehenである。
了解とは「意義充実の結合」である。つまり、価値関係に帰することによって精神現象を解釈することである。精神現象の了解は複写ではなく、「人間の意識に於ける精神的・歴史的世界」から出て来るものである。
了解は広義に解されなければならず、「生活に於ける人格や文化客観の内容的・精神的了解」でなければならない。
以上の通り、スプランガーは人間に関する方面を力説し、自然に関する方面をおろそかにする欠陥があるが、了解、意義、文化などを対象や方法として人文的教育を主張する。
007 スプランガーの著書は以下の通りである。「ウイルヘルム・フンボルト人文的理想」1909、「生活形式」1922、「青年期の心理学」1925、「文化教育」1922などである。
スプランガーと同様な思想を持つ文化教育学者には、ギーセン大学講師のエーリッヒ・ミュテルン、ライプチヒ大学教授のテオドール・リット、ハルレ大学教授だったフィリッシュアイゼン・ケラー、ケルシェンシュタイナーらがある。
五、文化教育学の特徴
入澤博士*によれば文化教育学の特徴は、
一、教育本質観 文化教育学は歴史的文化と文化価値とを中心にして教育を考える。教育とは歴史的文化価値を受容し、それをさらに発展させて創造するために、「発達する精神構造体」(子供)に対して行う愛の活動である。教育学は文化財を媒介とするから、文化財に関する専門的知識がなくても、その意義と価値を認めてそれを体得していなければならない。またそれと同時に教育の対象である児童に対する献身的な愛がなければならない。
二、教育目的論 従来の教育学では文化の見方と「被教化性」の見方が偏していたが、文化教育学では全体的な見方をする。人格的教育学における目的論は理想的方面を重視するが、実際的・経済的方面を忘れている。ところが文化教育学は理想的な文化価値も、現実的な文化価値も、公平にそれぞれの教育学的価値を認め、現実(存在の価値)と理想を包摂し結合する。
008 三、生活と現実の重視 文化教育学は理想と規範を重視しながらも、政治や経済など現実的価値を力説し、教育学は国民生活から建設されなければならないとする。生活や現実を離れれば抽象的になり、教育の内容とはなり得ない。
四、心理学的研究の重視 文化教育学は従来の心理学の成果を踏まえ、精神科学的方法による心理学を重視する。しかも心理主義に偏せず、目的価値と交渉する。
五、反合理主義 文化教育学の哲学的・心理学的基礎は反主知主義・反合理主義である。これは「新人生派」に属し、そこに現代的意義が認められるが、単なる浪漫主義ではなく、現実や個性を忘れない反合理主義である。(意味不明)
*入澤宗壽らしい。日本諸学振興委員会の昭和十七年度教育学部臨時委員をしている。
Wikiによれば、
入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885年12月23日 - 1945年5月13日)は、日本の教育学者。鳥取県日野郡宮内村(現日南町)生まれ。1911年東京帝国大学哲学科卒業後、神宮皇学館教授を経て、1932年東京帝国大学教授に就任。大正新教育運動の旗手の一人。専門は欧米教育思想史。新学校あるいは体験学校と名付けた実践的研究を行った。また、新教育協会を設立した[1]。
1929年、東京大学文学博士。論文の題は「汎愛派教育思想の研究」[2]。
1945年5月13日、東京帝大小石川分院で死去[3]。
著書
『近代教育思想史』、弘道館、1914年
『輓近の教育思潮』、弘道館、1914年
『現今の教育』、弘道館、1915年
『教育的論理学』、弘道館、1917年
『欧米教育の新潮』、弘道館、1920年
『教育新思潮批判』、隆文館、1921年
『最近教育学』、日進堂、1921年
『新教授法原論』、敎育研究會、1922年
『新教育方法の研究』、内外出版、1923年
『新教育の哲学的基礎』、内外出版、1923年
『国民教育の思潮(修身訓練の根本問題)』、敎育研究會、1923年
『構案法に依る新地理教育』(山崎博と共著)、敎育研究會、1924年
『教育史概説』、内外書房、1924年
『新教育法講話』、天地書房、1924年
『現代文化と教育』(厨川白村、深田康算、上野陽一、沢柳政太郎、阿部重孝と共著)民友社、1924年
『教育史図表』、内外書房、1924年
『体験教育に於ける個性及個性教育の実際』(山崎博と共著)、内外書房、1925年
『論理学』(武政太郎と共著)、内外書房、1925年
『新制論理学』(武政太郎と共著)、東京開成館、1925年
『文化教育学と新教育』、敎育研究會、1925年
『ディルタイ派の文化教育学説』、広文堂、1926年
『体験教育と体験学校』(城島勘一と共著)、内外書房、1926年
『教育思想問題講話』、右文書院、1926年
『文化教育学と体験教育』、同文館、1926年
『汎愛派教育思想の研究学校教育論』、敎育研究會、1929年
『入澤教育辞典』、敎育研究會、1932年
『日本教育の伝統と建設』、目黒書店、1937年
『教育史概説』、帝大プリント聯盟、1938年
『合科教育原論』、明治図書、1939年
『貝原益軒』、文教書院、1943年
脚注
1^ 『入澤教育辞典』、敎育研究會、1932年。
2^ 博士論文書誌データベース博士論文
3^ 『朝日新聞』 1945年5月17日
第二節 価値教育学
一、価値教育学の発展
009 最近教育思想で自己活動が力説され、それが教育運動となって種々な新教育法が生まれた。
自己活動の原理は誤解されがちで、中には(自己活動という)形式の採用で新教育であるとする空虚なものもあった。哲学の主張が認識論から形而上学へ、そしてさらに価値論へと転向するに従って、生命哲学や文化哲学などが、生命や生活を目的として、それらを価値実現の過程と見て、文化価値の追求をその任務とするようになり、それに伴って教育学でも生活教育が主張され、文化教育学が高調されて価値の点から教育を眺めるようになり、価値教育学が重視されるようになった。
教育活動の目的や、どんな知識を授けるべきかを問題にするとき、価値が問題となる。教育理想論でも教材論でも価値が予想される。しかし従来の教育学は価値を予想するだけで、その基礎を明らかにしなかった。ただし、スペンサーが経験主義の見地から知識の価値を論じ、デユルが教育価値論を唱えたが、教育思潮の主流にはならなかった。
最近価値哲学が台頭し、価値教育学が起った。
価値教育学は理想主義の産物であるが、現実から遊離して価値を高調し、理想だけを説くのではない。また形式を捨てて内容だけを問題とするのでもない。生活教育では価値を説くが、それは教育する(教育の対象となる)現実生活が価値に満ちていなければならないというのであり、形式には内容のある価値がなければならないというのである。文化教育学が価値を説き、生活が価値ある生活と考えられるとき、この価値は文化価値であり、その生活は文化生活であるとされる。
つまり現実的立場から価値を見るところに価値教育学の特色がある。(意味不明)
二、価値教育学の哲学的基礎
010 価値は事実や存在と対立し、価値に関する哲学は理想主義的である。しかし、現実主義でも価値を説くことがあり、プラグマティズムでは真理の価値が実用(功用)で決まるとする。デューイは経験において「直接の内実的価値」を持つものを価値という。デューイは主観的・現実的価値を見るが、客観性を見ない。自然の生活がそのまま価値を持つ。児童の活動がそのまま価値があるとする「実学主義的」教育説が生じる。
理想主義的立場に立って価値を説くものに二者がある。新理想主義のオイケンと同じ新理想主義のリッカートであり、両者とも現実に対する理想の世界に価値を見る。オイケンによれば、「主観客観を超越」し「自己を全体の中に結合」し、「小人間性」を超越することによって価値を見出すことができる。精神生活の内容は、学問、道徳、芸術、宗教であり、この四つが、価値あるものである。この精神生活は「生命の転向」によって獲得できるとする。一方リッカートによれば、価値は存在と全く異なり、超越的なものであるとする。(同義反復で説明していないに等しい)
010 価値教育学に最も近い哲学はディルタイ派と現象学派であるが、両者は価値が「超越的な客観的存在」であるとし、リッカートとは異なって、価値は存在と結合することができる。ディルタイ派のスプランガーは価値の本質についてリッカートの考えと一致するが、価値実現の形式を重視するところに特色がある。
現象学派に属するシェラーはスプランガーに近く、価値体系を立て、快不快、生活価値、精神価値などの種類を挙げ、そのうちで最下級の価値が快不快であり、それから生活価値、精神価値へと高級になり、聖を最上のものとする。
三、価値教育学説
従来の教育価値論の欠陥が価値を予想しただけで、評価の根拠を示さなかったことは既に述べた。
理想主義的立場のブッデは教育的価値を三段階に分け、第一、人文的価値、第二、社会的価値、第三、職業的価値であるとし、(第一の人文的価値を)宗教的価値、道徳的価値、芸術的価値、学問的価値に四分し、それらに向かって教育することが教育の目的であり、こうして精神生活が獲得されるとする。
012 同じく理想主義的立場のシュレーブスによれば、「宇宙に於ける」唯一の恒久的価値は真善美聖(宗教)の価値である。教育の目的はこの真善美聖の理想を実現することである。(キリスト教から抜け出ていない)この価値は人間の生活の「事件(事柄)」を指導・構成するところの理想目的である。
新カント派も理想主義であるが、価値の絶対的普遍性・妥当性の主張に特色がある。ヨハンゼンは精神科学的立場を取り、自然と文化、歴史と価値との関係を見る。ヨハンゼンによれば、我々は物に対して意義だけを了解する。そして意義は価値なしに成立しないから、価値と無関係な存在は意義を持たない。(同義反復)教育の価値もしかり。教育の意義としての活動内容や教育内容の妥当価値は、教育価値が構成する。教育価値は客観的意義を持たねばならない。教育の価値論だけが教育の内容を明瞭にする。教育は純客観的意義において価値範疇・文化範疇である。この客観的意義が教育内容を構成する。教育概念の意義内容に、範疇的・綜合的文化機能の価値部分として活動した時、教育価値となる(意味不明)。教育は意義充実の行動である。教育は価値の世界に置かれることなしに不可能である。
以上の通りヨハンゼンは価値を強調するが、心理的基礎即ち評価作用等を軽視する傾向がある。
ディルタイ派の教育的価値論の代表者はスプランガーである。スプランガーによれば、教育価値の典型は理論的、経済的、芸術的、社会的、宗教的である。これらの教育価値は「根本的精神活動」をそれら各方面で形成するが、その精神活動は内容上の価値を持つか、個性の状態に適合するかによって生じてくる。(文章の乱れがあるかも)教育的価値は陶冶性に関して考えられるべきであり、この陶冶性は心理学によって了解されるべきである。
013 スプランガーは価値の概念を、価値の本質と価値の対象と価値の作用とに分ける。教育は価値付与である。体験の当為を現実の個性的当為体験に変えようとする作用である。未発展の価値可能性への「帰向」である。こうして精神生活一般の意義や道徳的任務を受容的にしようとする。全体的価値受容性と価値構成力を、内部から開発しようとするものである。教育者は未発展の価値可能性と生活の客観的意義・価値に対して、最大の愛を向けなければならない。
以上の通り、価値を受容して文化意志を強くする個性が、スプランガーの関心の中心である。
感想 翻訳調で意味不明。解説書を翻訳したのだろうか。それぞれの哲学者の原典を読んだとは思われない。国粋主義者に翻訳調だと批判されるだけのことはある。それでも凡そ雰囲気は分かる。雰囲気だけは。
第三節 勤労教育学
一、勤労教育の沿革
プラトンは「法律」の中で遊戯の教育的価値について述べているが、作業主義が教育上問題となったのは近世に入ってから、特に啓蒙時代以後のことである。
17世紀、フランケは教育に於いて実科を重んずべきことを悟り、手工科を設けた。ジャンジャック・ルソーは「エミール」の中で教育上経験が必要であることを述べている。バセドーやペスタロッチなど十八九世紀の啓蒙学者は作業主義の教育思想を唱えた。ペスタロッチはスイスに学校を経営し、作業主義教育に従事した。
しかし実際は作業主義教育は広まらず、ドイツでは19世紀の末でも小学校や中学校は書本学校であり、授業の基礎を書籍や絵画、口授などに置き、組織的な手足の労作は見られなかった。米国やスイスの学校で漸く手工教育が行われるようになった。
014 当時書本学校に対する反対の気勢が漸く強くなり、生徒の自己活動によって自発的教育を施すべきだという主張が盛んになった。またフレーベルの心理学をはじめとして、従来の主知主義的心理学に対して、主意主義的心理学が唱えられるようになり、さらに十七八世紀に旺盛を極めた個人的教育学が廃れ、社会的教育学に代わった。これらの思潮は直接間接に作業主義を助長し、作業主義教育が発展する機運に恵まれた。
1885年、チューリヒ大学の教授ザイデルが「勤労教育は社会上・教育上必要である」と題する一書を公にしたが、これは現代の勤労教育運動の先駆である。1908年、チューリヒでの「ペスタロッチ第162年誕生祭」の席上、ミュンヘンの学務監督官1895-1919ケルシェンシュタイナー1854.7.29-1932.1.15が「未来の学校、勤労学校」と題する講演を行い、以後勤労教育Arbeit unterricht(授業)が叫ばれるようになった。その半年後、ザイデル博士は「未来の学校、勤労学校」というパンフレットを発行してケルシェンシュタイナーの講演を批判し、勤労学校思想の「優先権」は自分にあると主張した。「勤労学校」Arbeit Schuleはドイツの流行語になった。
ケルシェンシュタイナーは翌1909年、「ドイツ青年の公民教育」を著し、1910年「学校組織の根本問題」を公にし、1912年「勤労学校の概念」、1916年「戦時及び平時におけるドイツ学校教育」を著した。一方ザイデル博士は1909年「社会政策家と社会教育家たる未来のペスタロッチ」を、1910年「勤労学校、勤労主義・勤労方法」を著した。
015 ドイツに起った勤労学校運動は次第に全世界に波及し、1919年、ドイツの新憲法は勤労科を学校教科の一部と規定し、勤労教育を国民教育の根本原則とした。またロシア革命以後、「勤労農露国」が勤労教育の原理に基づいて学制を樹てていることも注目に値する。(ここではえらい肯定的な表現だ。)
二、勤労教育学の動因
勤労教育学の動因(起因)は思想のほかに、主意主義の心理学がある。フレーベルは印象と発表との関係を活動衝動に結合した。ブントは観念中心の従来の主知主義的心理学から一転し、意志活動中心の主意主義的心理学を唱えた。米国のジェームスやデューイは活動的影響を持たない心理作用はないという。これら主意主義的心理学は心的作用と身体動作との関係を主張し、勤労教育学に理論的根拠を与えた。
また教育界では講義を記憶・学習する詰込式暗記教育に対する反対が熟し、生徒の自己活動と自己創作などの能動的活動が行われるべきだと主張された。この主張は作業主義を採用して勤労教育学を促した。
016 さらに勤労教育学の目的に関連して社会的教育学がある。社会的教育学は未熟者を社会の一員とするために教育が行われなければならないとするが、この主張は17、8世紀に旺盛を極めた理想的人格の養成を目的とする個人的教育学を駆逐し、19世紀に重きをなすに至った。社会の一員としての完全な人格は社会的有用人物を意味する。社会的有用人物になるためには技能を要するとともに、自己や他人の労働についての理解を要する。実用的作業を通して技能を鍛錬し、共同作業を通して自己の分担と他人の労働の理解を深める。勤労学校は社会的教育学の主張を満たした。
さらに産業革命によって大工業が勃興し、実生活に世人の関心が向けられ、労働を尊重するようになった。この労働尊重の思想は勤労教育学を促進した。
三、勤労教育の主張
017 勤労教育学は学者によって主張が異なる。以下にケルシェンシュタイナーの手工主義とこれに反対するガウティッヒの活動主義を説明する。
ケルシェンシュタイナーによれば、人は自治体や国家など「有機体」の中でその一部として生活するのだから、学校は各人の「使命」とともに「国家の使命」を理解する公民に教育しなければならない。今日の学校は年少の子供に多くの知識を詰め込み、答えを暗記させるが、このような知識は2、3年で忘れてしまう。真の知識は生涯役立つものでなければならない。
理想的人格は一時代一国民の観念で作られるから、真の人間は国民的産物であり、理想的人間は、(国家に)有用な人間でなければならない。有用な人間とは自己の労働と国民の労働を認識し、それを行う意志と力を持つ人である。職業教育は人間教育の最初に授けるべきものである。職業教育と普通教育との矛盾を除くものは、生産的勤労である。
勤労学校では職業教育を行うことができる。手で活動することを根本とし、学校を作業共同団体とし、生徒は自分の作業を全体から委任されたものとして行う。人生の意義は支配ではなく奉仕である。共同作業を通して共同の任務を感じ、服従の必要を知る。(私は嫌だ)作業共同団体によって忍耐・細心・精確・勇気・計画心を養成し、肉体的・道徳的陶冶を行う。勤労によって児童に国家の目的と福祉を悟らせ、感謝して公共に貢献する人間に教育しなければならない。
018 ガウティッヒによれば、児童はその本性からして活動している時が幸福である。教育はこのことを利用し、活動の上に立たねばならない。作業は児童の本性と現代の生活状態や遊戯からくる。作業の任務は精神と身体の活動を内面的に関連させることである。
手工教授だけでなく、共同作業、遊戯、言語、書籍などによって経験を広める。学校課業の中心は手足の活動ではなく、自己活動を尊び、創作機能を養成し、心身の活動によって人格を陶冶することである。
多くの勤労教育学者の意見を総合すると以下の通りである。
教育方法論から見ると、従来の学校が書物を中心とした書本学校であり、生徒が教師の講義を聞いて受動的に学習する学習学校Lehr Schulであることに反対し、生徒の自己活動を尊重し、自発的に作業を行わせる。これによって生徒に観念を注入して成人の立場から児童を強制する従来の教育の弊害を除くことができる。
教育の終局の目的の点では、従来の個人的教育学に反対し、社会の一員として完全な人格を養成することを目的とする。児童に実用的作業を課して社会に有用な技能を鍛錬し、共同作業によって共同の任務を自覚させ、将来社会の一員として忠実に自己の任務を果たし、感謝の念を以て公共のために奉仕する有用な人格を養成する。(これは勤労教育学者の意見の総合ではなく、ケルシェンシュタイナーの説)
四、勤労教育の学者
019 教育上作業の重要性を認めている学者には、17世紀のロック、コメニウス、フランケなどがいる。フランケは既述013の通り、実科の教育的価値を認め、自らが経営した教育場に木工や土工などの手工科を設けた。
18世紀ではルソー、ペスタロッチ、ザルツマンなどがいる。既述の通り、ペスタロッチは自らが経営する学校で作業を重んじ、ルソーはその著「エミール」で経験の必要性を説いた。ザルツマンは直観と共に児童の自発性・自動性を重んじ、自己観察・自己研究の必要性を強調した。フィヒテが唱えた「新教育説」も作業の重要性を認めている。
19世紀ではフレーベルが自己活動の立場から作業が教育上必要であると説いた。またペスタロッチ学派のペッシェは、現代の小学校が理論に走りすぎているとし、国民生活の芸術的・工業的要素を加えるべきだと説いた。ウイーンのゲオルゲンスは実際教育の立場から小学校に教育的に整理された作業実習を行うべきだとした。
それから時代を下って既述のケルシェンシュタイナーやガウティッヒが続き、ザイデル014は社会的教育学の立場を発展させ、公民教育としての勤労主義教育を説いた。マールブルヒのナトルプは社会的理想主義の立場から、勤労主義を説いた。ロシアのブロンスキーは経験主義的・物質主義的立場から勤労教育を主張した。その勤労学校は生産学校と言われる。
020 米国のジョン・デューイはその著「明日の学校」の中で自然発達の原理を主張し、フェアホープのジョンソン夫人は児童に児童として意味のあることを経験させ、身体・精神を自由に発達させるとし、ジェー・エル・メリアムはジョンソン夫人とほぼ同じ考えで、児童自身の生活に立脚した遊戯、物語、観察、手仕事の四つで勤労教育を行っている。
第四節 個人的教育学
一、個人的教育学の沿革
個人的教育学は個人主義思想と相伴う。個人主義思想は古代ギリシャ・ローマ時代に見られたが、中世になるとキリスト教の偏向的普汎(普遍)主義の勢力が盛んで、個人主義は現れなかった。文芸復興以降個人主義が勃興し、個人主義教育はその後行われた。
近世の宗教改革運動や人文主義運動は最近の個人主義思想を喚起した。スピノザは言論や思想の自由を唱導し、ロックやレッシングは信仰の自由を主張し、モンテスキューやルソーは人権を尊重すべきと説き、政治上の個人主義を絶叫した。個人主義は17世紀から19世紀にかけて思想界と政治界を風靡した。
021 個人主義思潮は人間性を研究した。自我観念の覚醒に基き、個人の完成を教育の終局目的とする個人的教育学が発生した。16世紀の人文主義者からその後の汎愛学者、啓蒙学者へと発展し、17世紀から19世紀の前半まで個人的教育学は全盛を極めた。
ところが19世紀に社会学や民族心理学が発達し、全体的・団体的見解が次第に醸成され、未成熟者を社会の一員として完成させることを教育の目的とする社会的教育学が現れ、個人的教育学は19世紀後半以降衰微した。現在は社会的教育学の反動として二、三唱えられているにすぎない。
二、個人的教育学の基礎をなす思想
個人的教育学の基礎をなす思想は個人主義思想である。
古代ギリシャにおいて、国家が隆盛に赴き、文化が進展し、個人の知性が開発され、従来の神話や伝説などの荒唐無稽を悟り、宗教や道徳がその権威を失い、個人の感情によって一切を解釈するようになった。ソフィスト派の主我主義、破壊主義はその急先鋒である。プロタゴラスは、人は万物の標準であると言ったが、これはソフィスト派の主観主義、個人主義の表示である。彼らは国家共通の「結滞」を破り、地方的固着心を捨て、習慣も法律も便宜的なものであり、絶対的権威はないとした。
022 またキレネー派の快楽主義の主張も、ソフィストの主我主義の流れを汲む。
中世では理性は信仰に囚われ、哲学は宗教の奴隷となり、個人主義的傾向は教会の普汎主義の下に圧迫された。
近世の神秘主義・宗教改革運動と人文主義は人間を発見した。個性的感情の発揚や個人的理性の解放は、近世思想の根幹である個人主義思想を形成した。デカルトは我思うゆえに我在りと自我を一切の確実の根拠とした。ホッブスは、人は本来孤立的存在であり、我欲を主とすべきである。社会は契約集合に過ぎないとした。進化論の発達とともに、適者生存の根本主義から、ニーチェは道徳の根源を自己主張に求めた。アダム・スミス、ベンサム、ミルは個人主義の立場から公衆の幸福を説いた。
以上のように個人主義の立場から様々な説がなされたが、その主張する所は、一切の個人は平等の価値と権力を持つから、各個人にその能力を発揮する自由を与えなければならない、人生の目的は幸福である、この目的のために社会は構成され、一切の経営や制度はこの目的のために設けられた。従って社会は個人の契約によって成立する。その一切の事物は個人の意志に帰すべきであると主張する。
個人主義思想は17,18,19世紀にわたり一世を風靡し、宗教、思想、政治上の各種運動の根柢をなした。
三、個人的教育学の主張
023 個人的教育学の主張は実利主義、自然主義、人格主義、調和的発達主義に大別できる。
実利主義は個人の幸福を教育の理想とする。人生の目的は結局個人の幸福にある。教育の目的は人に生活の各方面で完全な準備(幸福な生活に対する準備)をさせることである。この主張はスペンサーを初めとして、英国の功利主義者や汎愛派の学者によって唱導された。
自然主義は人間自然の性情が本来善であるとし、この自然性を尊重して十分に発展させるのが教育の目的であるとする。これはルソーに発し、エレン、ケイによって発揚された自然教育学の主張である。
人格主義は感覚的自我を克服し、努力によって人格的自我(人格)を完成させることが教育の理想であるとする。人の本質には人格的自我と感覚的自我とがあり、人格的自我を発展させ、感覚や情欲などの感覚的自我を支配するようにするのが教育の目的であるとする。ブッデ・リンデやフェルスターなどが人格的教育学を主張した。
調和的発達主義は、人の享有する諸能力を調和的に完全に発達させることが教育の目的であるとする。この主張は個人主義教育学の中で最も勢力がある。
024 個人的教育学は教育の目的が個人の本性を発揚し、理性的人格とすることであると説く。人を人として教育せよ。人固有の諸能力を調和的に発達させ、完全な人としての人格を得させることが教育の理想であるとする。
個人的教育学はどこでも平等に行われるとし、時代と場所の制約や社会的環境を考慮せず、個人的人格の完成を理想とする。この点で社会的教育学と区別されるが、両者は根本的に対立しない。個人的教育学も、とりわけ調和的発展主義は、社会的教育学と連携する余地がある。また社会的教育学も個人の性能を全く度外視できない。(わざわざ妥協点を見つけようとする必要はないのではないか。)
四、個人的教育の学者
エラスムス、メランヒトン、トロツェンドルフ、ネアンデル、スツルムらによって個人的教育学が唱導され、コメニウス、スペーネル、フランケ、モンテスキュー、ロック、ルソーらによって唱和された。ペスタロッチ、ヘルバルト、ベネケ、デイツテスなどもこの流れを汲む。ペスタロッチやヘルバルトには社会的教育学的痕跡が少しあるが、理論的根拠の中心は個人主義人生観に基く。その後社会的教育が発展しても、教育の目的が個人以外には考えられないとする「反動的」立場から個人的教育学を説く学者として、チラー、オットー、ウイルマンなどがいる。
025 その他、人道主義者Humanistenの教育主義は、社会や国家を眼目としない点で、個人的教育学と考えられる。
その他東洋の孔子や思子*の思想や、宋儒の理気学、陽明の良知説も、個人主義と考えられる。
*思子(子思) 中国春秋時代の儒者。孔子の孫。尊称は子思子。
第五節 実験教育学
一、実験教育の沿革
025 実験教育学Experimentelle Pädagogikは最近生まれたが、学として存在するのか議論がある。
実験教育学の淵源は生徒の過労問題であった。19世紀初頭に自然科学の応用が進歩し、欧州各国間の交通が頻繁となると、中等学校では従来の主要科目であるラテン語やギリシャ語の外に、近代語や自然科学が加わり、生徒の負担が増えた。医師社会がこの生徒の過労問題を提出し、1860年代に教育界で大問題となった。そして生徒の過労状態に関する客観的査定が実験的に企画され、生徒の精神的労作の衛生問題や学校衛生問題へと発展し、1870年代から1890年代にかけて多くの実験的研究が発表された。
026 この実験的研究に(が)刺激を与えたのが、凛賦論(りんぷ、ひんぷ、生まれつきの性質)である。生徒の過労調査は知能の低い児童に対する特別配慮の必要を認め、先天的能力を検定する必要が生じ、稟賦論が提出された。精神病学者が大きな寄与をした。ガルトンやシャルコーは精神病医として臨床的実験で貢献した。
この稟賦論は児童に関する観念型の研究や、児童の性癖に関する研究、そして記憶の心理的研究を促した。
他方実験心理学が進み、記憶や連想に関する研究が実験的に行われ、文字を学び読み書きするうえでの原理が実験的に確立した。実験心理学の研究とそれに伴う実験的研究方法は実験教育学に貢献した。
児童研究はカント派の思想によって一時閉塞していたが、1880年代になって再び盛大になり、児童心理に関する研究が行われた。児童研究は一般心理学を離れた特殊被教育者の心理研究である。こうして実験教育学は実験心理学から独立するようになった。
1903年、バーテン公国のカールスルーユの第二師範学校教諭のアウグスト・ライは「実験教授学」を著した。1905年以来ケーニヒ大学のエルンスト・マイモン教授はライと共に雑誌「実験教育学」を刊行し、それを「実験教育学研究会」の機関とした。
027 現今世界各国の教育研究所や心理学実験所で、児童の心理と教育に関する実験的研究が行われているが、その研究はこの実験教育学の発生地であるドイツや北米合衆国で最も盛んである。
二、実験教育学の基礎をなす科学
実験教育学の基礎となった科学は生理学と衛生学である。学校衛生の問題として中等学校生徒の疲労度が測定された。ミュンヘンのクレツペリンはこれに関与した一人である。イタリアのモツソーは海鳥の疲労を研究した。児童の成長に関する研究、低能児の精神的労作の衛生的研究が行われ、音声の研究から言語や読み方の研究が行われた。
実験心理学は精神物理学や生理的心理学から起こり、1870年代のブントの研究によって独立の科学と認められた。記憶、連想、読み書きに関する実験を行った。実験教育学は実験心理学の応用部門として発達した。児童心理学は実験教育学を実験心理学から分離独立させた。1770年代から80年代に児童研究が起こり、バセドーやカンペなど汎愛主義者が担当した。しかし次第に趣味的となり、カント派哲学に圧されて衰微した。
1880年代プライヤーが児童心理学を再興し、実験教育学として独立する動機となった。
近世の統計的研究法も実験教育学の動因と考えられる。
三、実験教育学の主張
シュルチェは言う。教育学は子供の発達に影響を与えるのだから、規範を基にして方法を決めるべきではなく、方法は実験による確実な基礎の上に立てなければならない。実験教育学は精神・身体の能力が外部からどのようにして教育されるのかを実験によって究める。この方法を精緻にして多くの実験を行い、経験的事実を積み重ねるべきであると。
029 モイマンもシュルチェと同様である。従来の教育学は規範を与えることに努めたが、その規範の科学的基礎を欠いている。実験教育学は問題を児童に基いて決定し、教育学の経験的基礎を形成する。
実験教育学の範囲に関し、モイマンは実験教育学は教育学の全分野を扱うのではなく、教育学の基礎である叙述部分に限り、教育学に研究の材料を与えるとする。一方ライは実験教育学は観察と統計と実験の上に立ち、それらの経験的事実の上に系統を立てるとする。これは一般教育学と範囲が異ならない。
要約すると、従来の教育学は個人の意見を重視し、演繹的に教育学を建設したが、その基礎は不確実であり、空漠とした論究であった。それに対して実験教育学は実験に基いて明確な解答を与え、確乎たる科学的教育学にする。
しかし実験教育学を教育学の全分野に及ぼすことは過信である。実験教育学から目的は生まれない。目的規範の材料を提供するに過ぎない。
四、著名なる実験教育学者
030 ライ、モイマン、シュルチェについては既に述べた。ライは正字法や計算を研究し、「実験教育学」を著した。モイマンは個性を研究し、「実験教育学入門講義」を著した。ケムジースは疲労や記憶を研究し、雑誌「実験教育学」を主宰し、ライやモイマンと協同した。
ビネーは知能検査を行い、エビングハウスとステフェンスは記憶を研究し、スタンレーとホールは観念を研究した。シュテイン、ロブジェン、マリングハウゼンは疲労を研究した。
世界各国の教育研究所や心理学実験所で児童心理と教育に関する研究を行っている。その主要なものは、ドイツでは、ライプチヒ教育協会の教育学心理学研究所にシュラーゲルとハンドリックがいる。ライプチヒ大学児童心理学教育学研究所にブラーン、メーデがいる。ブレスラウにシテルン研究所があり、チュービンゲンにドイヒラー博士の研究所があり、ハンブルグではかつてモイマンがいた研究所にアンシュツ、ビショツフケールがいる。ベルリンにはスツンプ教授の研究所と、シテルンとリップマンの応用心理学研究所がある。
その他、シテリング教授(ボン)、コーン教授(フライブルヒ)、エヌ教授とハッハ教授(ケーニヒスブルヒ)、キュペル博士(ミュンヘン)、フェリクスとクリューゲル(ハレ)、イエンシュ(マールブルヒ)などがいる。
ベルギーではアンブールにスコイトンの教育学児童研究所があり、ブリュッセルにヨテイコがある。ロシアではアレキサンデル、ネチャイエフ、セレブレニコフがいる。イタリアではローマにトレブスとセルギーがいて、チェーリンにキエソフがいる。英国ではギンチ、スピールマン、バードなどがいる。
031 北米合衆国ではシカゴの教育局やワシントンの教育省は児童の心理と身体を調査している。学者としてはティチェナー、その門下のホイッブル(ニューヨーク)、スタンレーホール、カッテル、ジャッド、カメロン(シカゴ)、ストラットン、バグレイ、故ミェンスターベルヒ(ハーバード大学)、エンジェル、ゴッダート(ニュージャージー)、ベアード、ラドッサルイエイッチ(コロンビア大学)等がいる。
第六節 社会的教育学
一、社会的教育学の沿革
社会的教育学は個人的教育学に対して起こったが、教育上の社会的考察の歴史はもっと古い。
プラトンは「国家論」の中で、教育とは理想的国家の公民が持つべき習慣を養成することであり、未来の哲学者を養成して、不完全な社会を理想的社会にする力であるとする。アリストテレスの教育論も社会的見地に立つ。その著「政治学」の中で、教育は国家組織によって定まると同時に国家組織を支持する。どんな国にもその国独特の習慣があり、国家組織はこの習慣の上に立てられる。その習慣の保存によって国家組織は保存され、習慣の改善によって国家組織も改善される。この習慣の保存と改善は教育の任務であるとする。
032 中世では宗教的社会考察が行われ、17世紀のラチヒウスやコメニウスはキリスト教的国家の福祉増進が教育の目的だとした。
文芸復興によって個人主義思想が起こり、教育も個人本位の教育となり、社会的見解は忘れられた。これは17世紀から19世紀まで続いた。
この間ペスタロッチやヘルバルトは個人的教育学の立場に立ちながらも、教育の社会的考察も行った。19世紀の初頭ナポレオンに蹂躙されたドイツを再興しようとフィヒテは講演「ドイツ国民に告ぐ」の中で有為な国民を養成するための教育意見を述べた。しかしフィヒテには組織的体系はなかった。その後シュライエルマッヘルが社会的教育学を大成した。彼は教育の個人的任務と社会的任務とを認め、個人の人格の発展とともに、個人が属する(社会を)道徳的社会にまで養成する任務もあると説いた。
他方、当時オーギュスト・コントによって提唱された社会学が盛んになり、ラツアルスやシュタインタールによって創められた民族心理学も流行し、包括的・全体的観察の風潮が醸され、この風潮に乗って社会的教育学が発展した。1868年、ローレンツ・フォンは社会的見地から教育制度を論じ、シュタインは「行政考」を発表した。従来の個人的教育学は偏狭だとされ、19世後半以後、社会的教育学は個人主義教育学に取って代わった。
二、社会的教育学の主張
033 社会的教育学説は諸氏によって様々だが、演繹的哲学の立場のナトルプと帰納的・経験的立場のベルグマンについて述べる。
ナトルプによれば、教育の目的は意志の陶冶である。子供の意志を陶冶し、衝動の段階を越えて、理知的意志の段階に到達させるのが教育の目的である。個々の人間は物理学の原子のようなもので、孤立的人間は存在しない。人は社会において社会の一員としてのみ人間となる。人間の意識内容は社会的である。社会にまで高めるのが、自己の拡張である。
ベルグマンは言う。我々はほとんど同じ条件の下に生活していて(これはどうかな)、相互に影響し合っている。(社会から隔絶した)個人は現実には存在しない。人は社会なしには人となれない。教育は社会の中で初めて可能となる。教育は社会のために行われるべきものである(どうかな)。教育の目的は教師の手で社会の一員として堪能な人を作ることである(どうかな)。この教育学には批判哲学の仮定は不要である。教育の原理は経験的事実の結果として得られると。
034 要約すると、社会的教育学は、人は社会の中で生まれ、社会によって人となり、社会の中で生存するのだから、未成熟者を社会の一員にするように教育が施されなければならないとする。個人的教育学が個人本位の立場から個人の人格完成を教育の最終目的とするのに対して、社会的教育学は社会的立場から被教育者を社会人として準備することが教育の終極の目的であるとする。(社会的教育学は最低限の必須の段階にとどまり、個人的教育学はそれを越えて人格の完成を目指すのだから、個人的教育学の方が理想的ではないか。)
個人の自由から教育を立てるのは誤りである。個人的教育学が個人を孤立したもの(それは誤解)と考えるのに対して、社会的教育学は教育とは未熟者を導いて社会の一員とする社会的活動であるとする。これは学説上の一大進歩である。(むしろ退歩ではないか)
三、社会的教育学の基礎をなす科学
社会学 1830年コントが「実理哲学体系」(『実証哲学講義』Cours de philosophie positive, 1830-42)を著したが、古くはプラトンの社会改良論、アリストテレスの政治学、ヘドロス(ヘロドトスHerodotos)の歴史がある。19世紀の歴史哲学、文明史、人類学は社会に関する研究を促した。デユルケーム、ル・プレー(Pierre Guillaume Frédéric Le Play, 1806-82)、タルド(Jean-Gabriel de Tarde, 1843-1904)(仏)、スペンサー、タイロール(英)ギディング(米)、ジンメル(独)などがコントを継承した。
035 社会学は人間の社会性を発見し、その団体的・社会的見解は教育に影響し、教育を社会的に考察するようになった。
民族心理学 英国のプリチャードは人類と民族の精神を研究し、ラボック(Sir John Lubbock, 1834-1913)やタイロールは文明の起源や原人の物質的・心理的境遇を人類学的に研究した。旅行家や探検家が野蛮人の風俗・習慣を報告し、その結果蛮人の風習と原人の風習との比較研究が行われた。ドイツのゾイツはその一人である。アドルフ、バスティアン、マックスらは民族の言語、風俗、習慣を研究した。
この時ラツアルスとシュタインタールが民族心理学を唱導した。ラツアルスは民族の芸術、言語、慣習、社会生活の形式を研究し、シュタインタールは言語から精神の進化を説明した。この二人は共同して1860年から1870年にかけて「民族心理学と言語学雑誌」(1870年以降「民族学会雑誌」と改称)を刊行した。
036 当時の民族心理学は広義の社会的心理学とも言うべき漠然とした内容を持っていたが、民族心理学は、人間の団体と結合して起こり発達する精神作用を研究することから、必然的に団体的・全体的考察へと発展し、また教育の社会的観察を促進し、社会的教育学を発生・発達させた。
社会的教育学の学者
社会的教育学は19世紀初頭のフィヒテの思想に胚胎し、19世紀後半以降隆盛を極めた。ギルマントイシェル、ナトルプ、チグレル、ドェーリング、ケムジース、トリューベル、バルト、ベルグマンなどの学者がいる。
ナトルプとベルグ(ゲ)マンについては既に述べた。デ(ド)ェーリングは幸福が教育の最終的目的であるとし、個人の幸福と、理想的社会の幸福と、この両者の調和と、この三つを教育の目的とする。パウル・バルトはその著「教育史」の中で社会的見地から教育史を考察した。
パウルゼンは教育が社会的作用である以上、教育学は社会的教育学であるとする。彼は個人の要素を度外視せず、社会的教育学と個人的教育学とは対立するものではなく相補うものだとする。ミュンヒは社会的見地が教育の唯一の見方であるとする。
デュルケームは、時代や場所の制約つまり社会的環境を無視して教育が平等に行わると考えるのは間違いであるとし、教育の目的を社会がつくるという。ディルタイは社会の理想は時代によって異なり、教育はその社会の理想を目的とすべきであるとする。
037 デューイは児童中心主義であるが、世間では学校を個性の立場から見がちだが、社会から見るべきである。社会は、共同に働き、共通の精神を持ち、共通の目的に向かって働く(そうかな)民衆の集合体である。現代の学校が「社会的単位」から組織されないのは誤りである。社会生活の準備としての学校教育は社会的基礎の上に立たねばならないとする。
第七節 体験教育学
一、体験教育学の誕生
ディルタイが心理主義を唱えてから生命哲学や価値哲学が哲学の主流になった。体験哲学もこれらと主張を同じくし、それを基礎とする体験教育学もこれと共に起こった。
ベルグソンとオイケンは体験について述べたが、体験の重視はルソーに遡ることができる。しかしルソーにまで遡るのは妥当でないとも言われる。ベルグソンは生命の本質の把握は概念を以てしてはいけない、本能の直観を以てするべきだというが、これは認識よりも体験を重視すべきだということである。オイケンも精神生活の獲得は情意の活動によるべきだという。これらは皆体験哲学である。
ディルタイ派やフッセル派が用いる体験の中心概念は、ゲーテの体験の概念であると言われる。
038 教育上で体験の語を初めて用いたのはコールラウシュ1818と言われる。「体験によって物語ができるだけ近くに感じられなければならぬ」「児童はたくさんの体験を助成されるべきだ」という。フィルマー1848は「体験したものや経験したものに対する愛好と自ら生活し経験する力」を力説し、ヒルデブランド1867は「内面的体験」を説いた。ルソーまで遡るのは妥当でないとも言われる。
最近教育思想として体験が重視されるようになったのは、ディルタイが「体験と詩」1906を著してからのことだと言われている。その後1925年ノイベルトが「教育学における体験」を著し、1923年ヒルカーが「芸術と学校」を著し、スプランガーやケルシェンシュタイナーがしばしばこの語を用い、芸術、宗教、歴史学などを体験の基礎概念から考える体験教育学が生まれた。
二、体験の意義
体験の概念は不確定である。クナイゼルは言う。精神科学特に、文学、芸術、宗教、哲学、世界観などは系統的・歴史的考察の根本概念となりつつあるが、この語(体験)はそれらの批判として使われ、流行語になったと。
ディルタイは哲学を、生活を基準として情意的に見るが、体験についてはこう考える。宗教、芸術、人類学、形而上学などは体験が基礎となっていて、体験には感情的要素がある。それは反主知的、反概念主義的であると。
039 体験は内面的・直接的である。それは与えられたものではなく直接に「有する」ものである。体験が対象的になるのは思惟されて初めて現れる。体験は「関連的で統一的」である。体験できるものは一つの関連をつくる。目的的に統一している。
ディルタイの思想に追従するノイベルトは、体験についてこう語っている。以下入澤博士から引用する。
「体験の根本性質は、第一に、概念即ち思考する悟性の成果に対して、個体の生活を把握する直接性である。ディルタイは言う。体験は現実性が人に対してそこに存在する一つの特異な種類である。体験されたものは、知覚されたものや表象されたものとして入って来るのではない。それは与えられたものではなく、直接に意義のあるものとして内面的となったためにそこに存在する。体験は与えられない。考えられたものでもない。直接に現れて来る現実性であると。(これは危険な考え方だ。)宗教家、哲学家、芸術家は体験によって創造する。永遠的なものは、この直接の経験においてのみ把握されるからだ。体験されたものは対象的になる。思考の任務は起こったことを説明し、解釈するだけである。(一面的では)概念は体験と了解の結果である。あらゆる学問は、体験において与えられる経験の分析と解釈である。
第二に、体験は分節的統一である。そのため思考的解明が可能になる。体験は混沌とした形象ではない。全体的現実性における生活過程の一部分である。具体的である。統一をそれ自身の中に持つ。
第三に、この体験の統一は単なる分節されるものではない。多方面に緊張関係をもつ。この緊張関係の第一は体験の全体性である。各体験は精神の基礎方向(芸術、道徳、宗教、形而上学等)に働くだけでなく、各精神活動で精神生活の全部、つまり意志し、感じ、表象する働きをなす。個々の過程が体験における精神生活の全体に包含される。
第二の緊張関係は、主客関係である。体験する主観は、意識の同一性による精神現象の全経過によって関係づけられ、精神状態としては、環境世界の対象性に関して、個性的体験の中に主客が関係づけられる(個性が主で、環境世界が客ということか)。
体験に於いて、生活の新意義が起こり、従来不問に付されていたものが明瞭になった。そこに普遍と個性との間に働く第三の緊張関係がある。すべての人間が愛、運命、死などの大きな体験を経験するように、個々の体験の精神関係の中にもすべての個性に通ずる要素がある。各人は苦痛と嘉悦とを同じ仕方で体験する。しかも各体験は民族と性、社会階級と職業によって個性の情況を異にし、内容と形式で一定の体験方法がある。
第四に、個性は与えられたものではなく、精神生活は発達する。体験には歴史的性質(歴史性)という特徴がある。各体験は革新的に働く。価値決定が生活の理想を統一する。(説明不十分)
第五に、この歴史性は体験を発達させる。発達によって自己実現し、全き経験となる。この体験充実への努力によって動的統一が生じる。(意味不明)
第六に、体験が主観から抜け出て、意義を得るためには、体験の客観化動向(発表性)がある。刺激に対する感覚的・表象的反応や意志の衝動は、発表と行動の二形式がある。
第七に、体験の創造力は、生活→発表→了解という関連とその逆の道を(心の)内外・交互に行うことに基く。創造されたもの、価値充実のもの、行動、発表、自己客観化は追体験される。」(入澤宗寿博士著「現代教育主潮」)
041 体験とは現象性に制約されて我々に現れるものが意識される状態である。体験とは自分のものにするということである。思惟を否定しないが、思惟以前に体験がある。体験は直接的である。自分自身があるものを獲得するからである。このあるものは吾々の意識内容である。体験はAからBに、BからCにと作用し、そこに追体験としての了解の連続がある。教育の本質はこのように認識されなければならない。
三、体験の教育的意義
教育に於ける体験の意義づけは「極めて重要である。」最近体験学校が教育上の新しい運動として台頭し、内外で体験学校が創設された。しかし体験の概念には明確なものがない。中には体験の「物理的」解釈や常識的な解釈をして体験教育であるとしているものもある。
体験を教育に導入するためになすべきことは、児童に体験の術を教えることであり、児童の体験の刺激に答え、児童の生活を高めなければならない。
体験の意義を教育的に解釈するときは「広義に」行うべきである。主観的態度だけを見て価値内容を考えなくてはいけない。感情を力説し、主観的態度を重視することに意義がある。価値内容を重視しなくてはならない。体験教育が直ちに作業教育であるとするのは誤りである。作業と体験は相互に関係するが、体験では感情を主とし、その意志活動は自由に現れる芸術的性質を帯びる。ところが作業は心身の自己活動である。(意味不明)
042 体験は思考においても作業においても「広く」なされなければならない。社会体験も必要である。「気分教授」や「抽象的教授」は体験教育から排除されるべきだ。抽象と概念と形式にとらわれた教育を打開して救済するものは「真の意味の」体験教育である。(尻切れトンボ)
第八節 現象学的教育学
一、現象学の誕生
042 現象学は最近ドイツで誕生した哲学で将来性がある。ドイツでは新カント派も隆盛である。新カント派には二派があり、一つは西南学派で、もう一つはマールブルヒ学派である。西南学派にはウインデルバンド、リッカート、ラスク、コーン等が、マールブルヒ学派にはナトルプ、コヘン、カッシーラー等がいる。
新カント派の主張はカントの認識批判的精神を復興し、哲学の問題を価値問題に限定しようとする。 新カント派は、「事実存在」を説明せず、問題を理想や価値に限定する。体系的説明は整然としているが、「生命に満ちた現実」の意識生活を説明することができない。抽象的である。純学問的立場からは要求を満たせるが、「人生全体の要求」は満たされない。そこで意識を「如実に」説明しようとする要求が現れた。それが現象学である。
043 ナトルプはエドモンド・フッサールEdmund Fusserl1859-1938以前にフッサールと同様の主張をした。ナトルプは価値を「動的」に見て、意識を「具体的に」説明しようとした。「心理学第一巻」を著したが未完に終わった。
フッサールはナトルプとは出発点が異なるが、ナトルプの影響を受けている。
現象学は今の哲学の「主流」である。現象学は種々の学問に適用された。倫理学・宗教哲学のマックス・シェラーMacs Scheller、美学のガイゲルGeiger、社会学のフィアカントVierkant、教育学のクリークKrieck1882-1947(ヘルバルトの当為を批判し、「教育過程は共同社会がその成員を類型的に同化していく過程である」とし、ヒトラーに利用された。コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)などである。
二、現象学の特質
現象学は難解である。フッサールには特有の熟字が多い。その体系は大きく、平明に解説することは無理である。次に概略的で常識的なその体系の特質を述べる。
現象学という語は現象Phainomenonと学Logosで構成されている。Phainomenonの語根Phainoは「明るみに出す」とか「光」を意味する。現象は光を与えることである。ロゴスは学であり、理である。現象学は事物に、それ自身の理を自ずから語らせる学である。
フッサールはブレンターノに基くと言われる。ブレンターノは独墺学派の祖であり、心理学者である。ブレンターノによれば、精神現象は物理現象と異なって対象を「内在的に指向する」し、「内部知覚」によって真理を知るとする。
044 フッサールは体験の中に反省によって永遠の真理つまり本質を見出す。この立場はカントやカント派の哲学と異なる。カント派は、哲学は存在する事実に関する学ではなく、存在す(ある)べき理想や価値に関する。意識の作用は存在し、意識は心理主義が考察するから排去すべきであるとする。一方フッサールによれば、意識体験の中に永遠の真理つまり価値が含まれているとし、体験の反省によって本質を発見できるとする。フッサールの本質はプラトンのイデアに相当する。それは意識の中で作用する本質である。しかしプラトンのように形而上学的ではない。フッサールの現象学は「心理主義」でも形而上学でも批判学でもない。体験を「先験的」に考察する。
フッサールは科学を本質学と事実学とに分ける。事実学は自然科学、経験学である。本質学は本質に基き、「先験的に」「本質から把握する」先験学である。(自己中的臭さ)科学は本質を持つ。その本質を研究するのが本質学である。今日の科学は経験の領域を研究するとき、本質の研究を軽視してきた。自然科学は現れた自然現象の経験を対象として扱った。しかし「成立」の根本である「物質とは何か」を研究しなかった。教育学も「教育学とは何か」という根本概念について研究しなかった。現象学は「純粋な経験」の上に立ち、「純粋に自我の立場」から見る。科学の根本概念を研究する。科学の本質を反省し、「純粋自我」つまり「純粋体験」から見る。「純粋経験」とは「自我の無限な経験」である。(意味不明)「自己の無限な反省」である。「純粋意識」「純粋自覚」である。たとえば「時」を考えるとする。「時」がどこから始まったのかなど考えない「今」を中心に「時」を考える。「今」を中心に過去と未来が無限に連続する。「今」の自我が「無限の自我」と「連絡」する。
045 「純粋意識」とは自己を中心に広がる無限の連続である。(分かったようで分からない)「純粋意識」の根本特質は「反省」である。(意味不明)反省によって体験は過去と未来に連なる。体験を反省し続けて行くとき、「絶対的純粋体験」にたどり着く。(神がかり的。なぜこんなのが流行ったのか。)
三、現象学的教育学の本質
現象学的教育学は未完成である。教育の全分野に渡って体系的に研究されていない。教育学に「新しい科学性」を与えようとする。
教育学は従来学的形式を持たなかった。教育の対象とは何か、教育とは何かなどの本質論について明確な学ではなかった。現象学的教育学がそれに挑戦した。
現象学的教育学は「教育の現象」を研究の出発点とする。教育の現象とは何か。絵画に美が現象する。カンバスは美ではない。絵の具は美ではない。教育として現れたものではなく、「現れ」そのものが研究対象である。この現象がどうして起こるのか、何が成立させるのか、なぜ起こるのかなどは問題でない。それでは教育の現象が抽象化されて、まずい。
046 現象学的教育学は在来の学説を批判する。教育は成熟者が未熟者に及ぼす伝達作用であるとの説はいけない。伝達は教育者と被教育者とを予想する。それらは教育現象の背後のものであり、現象そのものではない。絵画での美の現象は、画家でもカンバスでもない。
また現象学的教育学は「了解説」を否定する。了解説は教育の本質把握に向けて一歩進めるが、伝達説以上のものではない。了解は了解者と反了解者とを予想するが、それは必要ない。現象としてはただ了解があるだけである。
現象を直観すると言っても、傍観していただけでは学は成立しない。現象学は現象を「絶対的存在」として受け入れず、事実の中に、個別的でも偶然的でもない「何物か」が実現されつつあることを認める。(曖昧)この現象から出発し、その現象の本質を把握する。
それはどのように可能か。教育現象を「凝視」することである。それを「直観」という。
047 一つの「教育事実」がある。それは時間的・空間的に一定の位置を占め、個別的に生起し来る現実の存在である。それは一時的・偶然的のことである。直観はこの一時的のことから「永劫の相」を見る。(神がかり的)直観することによって個々の事実を離れて事実の本質を見る。一つの教育事実を「純粋に直観」することによって、個々の事実を離れて個々の事実の本質を見る。個別的偶然的から普遍的必然的に移行する。(夢物語)そこに事実直観が本質直観に変わる可能性がある。
教育の本質は事実を抽象化・一般化することによっては得られない。思惟によってはできない。事実を前にして見いだされるべきである。事実以前に本質がある。(自分の思い込みが本質になる恐れもあるのでは)本質の発見は「直観」による。
事実の直観と本質の直観とを区別しなくてはならない。本質直観では存在は考慮されない。教育の本質は教育の事実とは直接(問題)関係ない。個々の事実は本質の類例である点で事実と本質とは相関するが、事実の累積・帰納からは本質は産み出されない。現実の存在を「中断」しなければならない。それを存在の立場の括弧づけによる止揚という。(御勝手に定義してください)
現象学的教育学は哲学としての現象学と異なる点がある。哲学は歴史や発展を考慮する必要がない。(そうかな)哲学は数理や論理で現わされた純粋普遍的意味をその本質とし、その本質を「作用的方面」の「反省的止揚」によって純粋意識の世界に還元し、これを「純粋記載的に」分析することで哲学的基礎を確立する。しかし教育はその対象が人間生活である。人間生活は発展成長を予想する。教育における現象学的方法は、意味と存在、本質と事実の接触面を考察しなければならない。(意味不明)
048 現象学的教育学は教育学の「自主的独立」を主張する。それは哲学としての現象学が「事態そのものへ」を標語とするのと同じである。従来の教育学は諸種の科学や方法・概念に依存して寄木細工のような観があるが、その現状を打破し、自主的な科学にしなければならない。他の学に負うことなく、基礎を教育の現象そのものに置かなければならない。(それは間違い)現象学的教育学は、純粋で典型的で、現代教育学の「革命的な」学である。(おかしい。これは学者として真摯と言えるか。)
第九節 プロレタリア教育学
一、プロレタリア教育思想の沿革
現在プロレタリア教育理論として主張されているものは主として共産主義的である。日本の「極左文化運動」が教育問題を取り上げたのは比較的最近のことである。各所説に関する「彼ら」相互の批判は区々であり、その理論を正確に系統づけることは困難であるが、二つの系統がある。
「左翼教育理論」の一は、マルクスの唯物史観を根柢とし、全く「器械的」にそこから教育論を生み出した「正統派」である。これはマルクスやエンゲルスの文献から教育に関係する意見を取り出して敷衍・発展させたものである。現在ロシアのルナチャルスキー、ピンケビッチ、ピストラークなどがいる。最も系統的に理論を展開した者はドイツのヘルンレEdwin Hoernleである。
他の一系統は純粋教育学的立場から「左翼的」傾向に「走った」もので、マックス・アドラーを中心とするオーストリア派マルクス主義者である。彼らの教育論はロバート・オウエン、フィヒテ、ウイネッケン等の理想主義的教育論から出発し、それをマルクス化させたものである。「修正派」の教育論はこれに属する。
049 以上二傾向は共に理論が実践的で社会的熱情を持つ。ペスタロッチやヘルバルト等の人間論的・心理学的教育論はプロレタリア教育論と「交渉する」ところがほとんどない。(なぜそう断定できるのか)
マルクスとエンゲルスには「教育論」がない。社会教育の「根柢」となる家庭教育の破壊、労働教育、国家主義的国民教育への反対などについて断片的に述べている。マルクスはこう言う。
「家族と教育について、両親と子どもを結びつける甘い靱帯について、ブルジョワの説教が盛んになるほど、大工業はプロレタリアの全ての家庭的靱帯を引きちぎり、児童を単なる商品労働用具に「普形」(変形)する」これは家庭教育破壊に対する理論的根拠である。次はドイツの国家主義国民教育に対する反対を述べている。
「平等の国民教育?一体この言葉は何を意味するのだろうか。ここでは今日の社会だけを考えることにするが、今日の社会で教育はあらゆる階級にとって平等であり得ると信ずるのか。それとも上流階級の教育も強制的に、賃金労働者の経済関係だけでなく農民の経済関係にも適合する小学校程度の普通教育に引き下げようとするのか。…ドイツ帝国では国家が、国民によって荒療治の教育を受ける必要がある」(「ゴータ綱領批判」)(この引用だけではなぜマルクスが反対しているのかが見えない。次の橋本努の引用によって、マルクスが経済差別的教育制度を批判していることが分かる。)
橋本努「経済思想」「ドイツ労働者党綱領(ゴータ綱領)評注」より
◆教育問題 Gはゴータ綱領、Mはマルクス
G「ドイツ労働者党は、国家の精神的、道徳的基礎として次のことを要求する。1.国家による普通平等の国民教育。一般的就学義務。無料教育。」
M「教育がすべての階級にとって平等でありうるとでも信じているのであろうか。それとも、家計状態から見るかぎり賃金労働者だけでなく農民にとっても負担できる唯一の普通教育――つまり小学校の教育――の水準に、それより上層の諸階級の教育も強制的に引き下げなければならない、と要求するのか。/……合衆国のうち二、三の州では『より上級の』教育施設も『無料』になっているが、それは事実上、より上層の諸階級が自分たちの教育費を一般の税金から支弁することを意味するに過ぎない。……/学校に関するパラグラフでは、少なくとも小学校と結びついた工業学校(理論的および実際的な)を要求すべきであった。」(56-57)
050 マックス・アドラーは社会主義教育の萌芽的形態(註一)が既にフィヒテに見られるとし、その根拠としてこう述べている。フィヒテはその著「現代の特徴」において、「哲学的考察が一切のものをその関連において追求し、何物をも孤立的に観察しないために、一切のものを必然的に善とし、存在するものはより高い目的のために存在すべきだから、あるがままに受け入れられるのだとすること――これこそ哲学的考察がもたらした最大の報酬である。これはマルクスの必然的・存在論的歴史観と一脈通じ、「商業封鎖国」では、人間の労働の義務と、社会での経済問題を桎梏としない」と説き、マルクスの計画経済に基く社会を理想としている。さらにアドラーはフィヒテの言う国民教育は現在の国民教育とは異なり、全民衆に対する教育を指すとし、フィヒテを社会主義教育者としている。
マックス・アドラーはさらに、ドイツ理想主義の教育学者グスタフ・ウイネケンを賞賛し、ウイネケンが精神の社会性と家庭教育の反動性を説いたとし、ウイネケンも社会主義教育者だとする。
アドラーのプロレタリア教育論は理想主義的であり、人格の発展(二)を条件に社会主義教育を説く。これはアドラーが「カント的修正派」と呼ばれる所以である。
しかしアドラーが社会教育、階級教育、政治教育に関して述べる時、それは「極左教育論」と変わりがない。(すごい決めつけ)アドラーは社会民主主義者だとして排斥されるが、それはアドラーの唯物史観の解釈やドイツにおける政治的立場によるのだろう。アドラーの考える唯物史観は、経済関係を人が物に対する関係、つまり経済関係を人間の精神によるものとみなし、マルクスの目的は経済関係を精神の支配によるものとする。(三)アドラーは歴史を社会の経済条件によるよりも、人間の精神によると説く。「理論と実践の弁証法的統一」についてアドラーは、理論上も彼の政治的実践においても、明らかにしていない。アドラーは「現実を超えた理想」(四)という立場を取り、政治的現実にこだわらない。アドラーは社会民主党員であるが共産党に入らない。アドラーの主義は、「理想の問題はひとまずおいて現実の中から現実のために闘う共産主義」とは相いれない。(これからすれば、明らかにアドラーは唯物論者とは言えない)
レーニンは「断片的」だが、プロレタリア教育論に「実践的色彩」を与えた。レーニンは1920年、共産青年同盟第三回全露会議で共産主義教育の根本問題に触れ、次のように述べた。
「労働者・農民諸君よ、我々が自分の力で自分を防衛し、新社会を建設できると示したとき、その日から新たな××(共産)主義教育が生まれるのだ。搾取者との闘争における教育、利己主義者や小地主に反対するプロレタリアートの団結における教育、「自分は自分自身の利益だけを追求する。それ以外のことにはまったく興味がない」というような心理と習慣に反対する闘争における教育が生まれる。」(五)
この立場はアドラーとは対立的である。このレーニンの立場に立つ者は、ルナチャルスキー、ピンケビッチなどのロシアの教育者である。エドウイン、ヘルンレ等はこのような立場から系統的・組織的にプロレタリア教育論を説いた。
次の「二、本質的諸問題」でヘルンレ説を中心にこの教育論を検討するが、現在ではヘルンレの教育説に対して、次の三点に関して「極左」側からの非難がある。
一、社会民主主義者に対する決定的闘争がない、
二、資本主義社会の教育には精神的活動性に資する点が全くないと説き、
三、プロレタリア独裁の実現以前では少年の組織は困難であると説いている。
*(註六)が欠落しているが、おそらくここが(註六)に当たるのだろう。
(註六)ヘルンレ『プロレタリア教育の根本問題』屋井参市訳 訳者序文 Edwin Hoernle, Grundfragen der proletarische
Erziehung 1929
二、本質的諸問題
052 「彼ら」の教育論の出発点は、彼らが他の文化諸部門に対してなすのと同様に、現代の教育論や教育制度に対する唯物史観的批判である。
彼らの現代教育学への批判の前提は、「ブルジョワ教育学はその本質において、実践から遊離した観念論哲学をその根底としている」(七、山下)ということである。(彼らは)現代における教育の目的を(一)知識、習慣、能力の伝達と見ている。山下徳治によれば、これは個人的立身出世を理想とする資本主義的自由思想の産物である。このような自由思想は精神人格の発展を目的とする観念論哲学に基づく。(二)教育の目的を「文化の伝達」と見ることは、社会発展の歴史的・弁証法的見解の欠如、歴史の発展段階での文化の発生に関する歴史的・発生的考察の欠如を示す。そして教育の目的をこのように定立するのは「社会発展の客観的法則が段階的に質的変化を伴い、非連続的で飛躍を含む革命的発展であることを拒否するからである。…
観念論者としてのブルジョワ教育学者は既成文化そのものの相互的関係を分析研究するが、ブルジョワ文化がどういう基礎工事の上に建設されたかを克明しない。社会発展の歴史的道程の根本原因は生産諸力の発達である。」(八、山下)
053 社会発展の歴史的道程の根本原因は生産諸力の発達に伴うから、社会現象としての教育も生産関係や労働に対する認識・方策なしには論じられない。人間性の発展や「人格の自由」を説くことは教育の目的に反し、被支配階級を欺瞞し、階級的自覚を眠らせる「ものとさえなる。」「唯一の」真理は歴史を「自然科学的に見た」唯物史観であり、それに規定された史的必然性に従うことが「唯一の正しいこと」である。正しい教育学はこの必然性に沿って未来社会(共産主義社会)の建設に役立つことをその目的とする。教育は「人間を教育することではなく、」共産主義社会建設に適応する人間を「実践的に訓練する」ことである。教育(の目的)は共産主義理論の「注入」と、その闘争を担う闘士の養成である。社会的教育と科学的教育は前者(注入)に属し、労働教育、階級教育、政治的教育、道徳教育は後者(養成)に属する。以下それについて説明する。(反感の上に曲解していないか)
社会的教育 共産主義社会とは、生産と分配の社会化に伴って「すべて個人的なものを廃棄した社会」である。個人本位のあらゆる形態だけでなく、その延長である社会内で非社会的に一単位をなす家庭も破壊されなければならない。
唯物史観によれば、生産の社会化は資本主義によってもたらされた。家族形態の崩壊も資本主義社会の産物である。それにもかかわらず資本主義社会ではなぜ家庭教育が声高に叫ばれるのか。そこに支配階級の政治的・経済的意図があるからである。従って我々は家庭教育に反対し、社会意識を持たなければならないとする。
モスクワ第三インターナショナルの児童部指導者ドユヘスネは1922年「ソビエトロシアにおける社会的教育」について、雑誌「プロレタリア児童」の中で次のように述べている。
054 「社会的教育の問題は、既に革命当初に提出された。…それゆえ、××(共産)党の綱領の中に児童の社会的教育についての問題が提出された。××主義者は、どんな家庭も児童を本当の××主義者に教育できないことを知っていたから、この点がますます必要になった。家庭では児童を本当の××主義者に教育できないというのは、そこでは訓令が教育するのではなく、生活状態が教育し、家庭の利害が社会の利害と必ずしも一致しないからである。」
社会的教育の目的から言えば、「個々のプロレタリア家庭の利害は、必ずしも全階級とプロレタリア国家の利害と一致しない。全然一致しない場合もある。従ってプロレタリアの家庭も、プロレタリア国家であっても、××主義的教育の支持者ではあり得ないのである。」(九、ヘルンレ)
教育の単位としての家族は、資本家的生産形式が発達するに伴って崩壊してゆく。「ブルジョワジーは、家族関係の涙を催させるセンチメンタルなベールを引き裂き、純粋な金銭関係に還元する。」(一〇、共産党宣言)このことは貧困なプロレタリア家庭になるほど厳しい。ヘルンレによれば、「中間階級の妻も俸給労働の他に(を通して)職業の中に入り、親愛な家庭から、子供や夫から引き離される。夫の支配はもはや必然ではなく、負担となる」(一一、ヘルンレ)
「教育団体としての家庭は全く死滅させられた」「両親が我が子に教育しようとしても、家族には教育の可能性がない。」(一二)現代諸国では家庭教育の振興を叫び、「資本主義が古い小ブルジョワ的家族を経済的に社会的に破壊すればするほど、法律的・宗教的・哲学的支柱を具え(与え)ようとする」(一三)それはブルジョワジーが「この小ブルジョワ的家庭組織の支持に政治的・経済的関心を持っているからである。」
055 「教政(共生)的家族組織は、ブルジョワ的階級国家の縮小した摸像である」(一四)とヘルンレは言う。家庭内の夫妻・親子間の従属関係は、プロレタリアートに、階級間の従属関係を無意識的・運命論的に肯定させる摸像となり、経済的には、家庭の支配力は、家庭を「廉価で従順な労働力の生産所」にする。婦人と子どもは、資本主義的生産に最も廉価な労働力を提供するが、夫と両親の強権によって労働に動員されるからである。「教育の社会的・階級的性質を、家族におけるよりも巧みに隠蔽するところはどこにもない。」(一五、ヘルンレ)だから反動的力としての家庭や家族主義は、資本主義を没落から救うのである。
マックス・アドラーも「家庭と家庭教育からの離絶こそ社会主義教育にとって最も必要である」(一六)と言う。彼らの理想的将来の家はどんなものであろうか。ヘルンレによればそれは「大きな愉快な近代の技術の全てを獲得してつくられ、組合的に管理された大きな家である。…その中では仲間だけが幸福と思う。教育の基礎としては、ただ利己的な衝動と個人主義的心構えを呼び起こすに過ぎない「親愛なる家庭」の代わりに、集団的な生産所、学校と公共生活と密接に結びついた組合的な大きな家(一九)」である。
感想
プラトン的である。むむ。今のマルクス主義者もこう考えているのだろうか。
Wikiでエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』の解説を読んでみた。エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』の中で、家族に関してはフェミニズムの観点から、男による支配からの女の解放を語っているが、「人格陶冶の否定」などの表現は見当たらなかった。
山下は「資本主義的自由思想は精神人格の発展を目的とする観念論哲学に基づく」と言っている052が、この山下の考えの前後関係は、次057に詳しく示されている。
また「唯物史観が自然科学に基く」と筆者が理解するのも間違っているのではないか。エンゲルスは当時の民族や人種などを研究する人類学や古代史の研究成果を参照しながら『家族・私有財産・国家の起源』を構成しており、物理学や化学などの自然科学を援用することはないように見受けられるのだが。
政治教育 アドラーは「どんな教育も本来政治と無関係に存在しえない。社会主義教育では政治と教育との関連は最も深い意味で結合されている。社会主義はより良い未来社会の政治的建設を志向する。」(一八)と言う。彼らの政治教育は政治に参与するための知識を与えることではなく、政治的訓練課程である。レーニンは第三回全露共産青年同盟大会で「学校における行動、教育、教養、授業を、搾取者に対する労働者の闘争と結びつけなければならない」と説き、ヘルンレは「政治的に教育することは、政治的に説くことではなく、政治的行動に導き入れることである」(一九)とする。
056 山下徳治*は「プロレタリア教育の本質」の中で、最近日本で力強く実施された政治教育であるところの公民教育を批判する。
「教育の任務とされた『公民たる準備』について…それは社会民主主義者が一般人類の同時的救済が可能であると、科学の真理に対する詭弁と毀損を犯してまでして、主張している教育界の改良主義者つまり、教育万能主義者のでたらめな夢に過ぎない。…社会民主主義者の自由思想はブルジョワ文化の核心であり、労働者・農民の声を窒息させようとし、他の方向に導こうとする安全弁の役割に過ぎない。一般的公民への準備教育を今日の転形期に考えることは抽象的であり詭弁である。」(二〇)
彼らは現代においては政治教育は行われていないとする。彼らは現代の教育は政治的はでなく、教育と政治との分離を理想としているが、それはブルジョワ教育の利益のための欺瞞であるとする。マックス・アドラーは「階級教育論」の中で「文部当局が教育と政治との交流を意識的に拒斥してきたことは、両者の具体的関係を彼らが認識していたということを裏付ける。教育は社会現象であり、そして一切の社会現象が当該社会の政治・経済と関連する限り、教育だけが政治的・経済的関係から独立した社会事象だと主張することは、無知の暴露であり、さもなければ意識的な欺瞞である」(二一)とする。
057 また山下徳治は「プロレタリア教育の構成のために」の中で、我が国の情勢について次のように述べている。
「商業資本主義の発達に照応する自由民権運動が、板垣退助等の土肥藩閥政治家によって進展するとともに、皇室中心主義の薩長系官僚軍閥の政治的進出によって、そこに封建的遺制として絶対君主制が復活され、正当に持ち出された。そこに、新しい統一国家を形成し始めたとき、当初××の階級(薩長皇室支配階級)か(が)(意味不明)、自由民権運動の抑圧とともに、新しい文化建設と当来(未来)の社会建設者たるべき未成員の養成とを重要任務とする教育者を恣意的に操縦するために、政治的疎外に、政治的暗愚に導くために欺瞞的政策をあえて行ったことは容易に推定される。政治的疎外の代物として教育者に与えられたものは、修養とか、人格とか、道徳とかの、美しいが幻想的にすぎない言辞であった。その後倫理的五道念を教育の目的とするヘルバルト教育学が輸入されたが、それも当局の計画的意図に過ぎなかった。…現実の具体的社会関係が政治的に制約され、真理が常に具体的普遍であるならば、教育者の眼はもはや真理に対して全く蒙昧にされた。」(二二)
以上要約すると、プロレタリア教育の政治教育は政治的実践であり、彼らの言うブルジョワ教育の非政治性とは、現代教育が政治的知識を与えても、(マルクス主義的)「政治行動を制限」することである。
階級教育 レーニンは共産党青年同盟第八回全露会議で次のように語った。
「従来の学校は多方面に教養のある人間を創ることを目的とし、一般に(的)知識を与えるとされてきた。しかしこのことは全くの虚偽であった。全社会は、搾取者と被搾取者という階級への人物(人間)の分裂にその基礎を置いている。すべての従来の学校は階級的精神によって貫かれているから、ブルジョワジーの児童にだけ知識を与えることは自然なことである。彼らの全ての言葉はブルジョワジーの利益のために止め(限定され、向け)られた。」
058 従来の教育はブルジョワジーのための階級教育であった。全国民の名においてする教育も、「人間性の発展」を目的とする教育も(二三、ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」)、被圧迫階級を欺瞞するための手段に過ぎないとする。そして彼らの目指す教育は、階級教育の廃止ではなく、「プロレタリアのための階級教育」である。プロレタリア独裁という政治形態を経ることなしに人類の同時的救済は不可能であるとするが、それは彼らの独断である。
プロレタリアの階級教育とは、浅野研真「プロレタリア教育の基礎問題」によれば、「ブルジョワ教育が隠蔽的階級教育であるのに対して、プロレタリア教育は、それが明確に階級教育であることを公言し、徹底的に階級教育でなければならない」(二四)とする。マックス・アドラーの「階級教育論」によれば、「教育は、ブルジョワジーの掌中にある、支配のための階級的手段から、プロレタリアートの自己擁護のための手段とならねばならない。」(二五)プロレタリア教育は被教育者に「プロレタリアイデオロギーを注入」し、被圧迫階級の児童に「未来社会の建設者」という「楽観的幻想」を抱かせるために階級的自覚を促す。
労働教育 社会主義の理想は、資本主義時代に醸成された「労働の社会化」を基礎にしたその止揚形態と言うべきものであり、教育では労働が重視される。労働の社会化は生産物の社会的領有の前提となる。資本主義社会のこれ以上の維持は、歴史の逆行である。
マルクス「資本論」第四編第十三章によれば、「男女ならびに種々の年齢の個々人による労働総員の結成は、労働者を生産過程のために存在させ、生産量を労働者のために決めるのではなく、自然発生的で残酷な資本主義形態の下での腐敗と奴隷状態の害毒の源泉である。しかしそれが適当な事情の下に置かれれば、人間味ある発達の源泉となる。」(二六)ここで「適当な事情」とは社会主義社会である。
059 「学校と知識が生産から離れている」間は社会主義社会の実現は不可能であり、学校と労働とが、つまり知識と生産過程とが結びついて実施されねばならぬ。
労働教育は「工編(芸)的」労働教育である。山下徳治「プロレタリア教育の本質」によれば、「学校では、労働を中心として自然科学や社会科学の研究がなされ、道徳的に訓練され、各科の研究は原理的関連において研究される。労働が工芸学的であるところにプロレタリア教育の特質がある。」(二七)
クルプスカヤは「マルクス主義と教育問題」94頁で、「労働者に、彼の職業とその職業の重要性と社会に対する価値の大きいことを教え、彼の日々の仕事、彼の職業の歴史、仕事の歴史、過去の社会の様々な形態の生産の歴史とつながる科学の理論的知識を与える。この知識は、労働者が他人のために生産するための機械に過ぎなかった時代には必要なかったが、今や彼は、彼自身のために、そして彼が生活している自由な社会のために、働いている。」(二八)
ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」によれば、「プロレタリア独裁だけが、社会主義的工業の基礎の上に、そしてさらにその発展とともに、この問題を解決する」(二九)(「この問題」とは何かを示すように引用しないと事情が分からない)
このような教育方法が現在のロシアの義務教育過程である八年制単一労働学校で採用されている。山下徳治「プロレタリア教育の本質」によれば、「プロレタリア教育における労働は、現在の(日本の)流行的労作教育とは本質ここで「適当な事情」とは社会主義社会である。的に異なり、自然と社会における自己の位置を理解させる。労働を通じて自然と交渉し、自然と親しみ、自然を研究し、そ(自然)の生産への利用を効果的にする。」(三〇)社会的・生産的な生産過程と学校教育とが結びつくこの教育方法を「複式斜線(制度)コンプレックス・システム」の教育方法と彼らは呼んでいる。
060 科学的教育 プロレタリア教育は科学的教育である。マルクスの唯物弁証法を「唯一の」*科学的方法と考え(本当か)、そ(マルクスの唯物弁証法)の社会科学を「唯一の」社会科学と考える。マルクスによれば、科学的であることは必然的法則の変(発)見であり、それに伴う将来の予見に基いて行動することである。(*「唯一の」と筆者は言うが、マルクス主義者が実際そう言っていたのか、疑問)
観念的で目的的に歴史や社会を見ることは非科学的であり、ブルジョワ的である。これは「自然科学」の方法を社会科学や文化科学に持ち込むことである。アドラーの「階級的教育論」によれば、社会の未来を予言するものは「社会とその発展法則についての科学的知識である。」そしてこの科学知識とは「近代社会主義の基礎理論である唯物論である。」(三一)
プロレタリア教育の科学的教育とは、唯物史観とその方法による社会の見方を教えることである。アドラーの「階級教育論」によれば、「未来への社会過程は我々自身の参加なしに成立しない。この人間の参加自体が人間に関する科学の一つの対象である。…これはマルクス的社会科学の認識がもつ強みである。」(三二)科学的教育は被教育者を政治行動に導くことを合理化する。唯物史観の「唯一の」発見は歴史を階級闘争の歴史であると発見したことであるが、このことは階級闘争にも合理性と必然性を与える。
唯物史観は無神論である。宗教は、支配階級が被抑圧階級へ、その支配の手段として与えたアヘンである。宗教は克服されなければならない。科学的教育は反宗教教育である。佐野学訳レーニン「唯物論・無神論」pp. 347-8によれば、「宗教は、他人のための永久的労働によって困苦と孤立に抑圧されている人民大衆をあちこちで重圧する精神的圧迫である。…宗教は民衆のためのアヘンである」(三三)河野・林訳エンゲルス「反デューリング論」553頁によれば「ブルジョワ経済学では…個々の労働者は失業や貧困から免れることができず、依然として『人間は思惟し、神(すなわち資本主義的生産方法の外部的支配)が指導する』のである。」(三四)
061 宗教は迷蒙であり、なくすべきである。科学的教育を行う上で最も妨害的なものは、非科学的宗教的思想である。ドイツのエルンスト・ヒーアル*は反宗教教育を説く。(浅野研真訳編「新興教育学」181頁)「上述の方法(マルクス主義的教育方法)を用いて、既に小さな子供の中で歴史的に発展する力を、宗教との混和から解放し、そこ(宗教との混和)では、宗教と宗教類似の教育は、伸びない発展の枝に成るから、それを抑制し、追及しなければならない」(三五)
道徳教育 レーニンは共産主義道徳について第三回共青全露大会で次のように述べた。
「近代青年の養成は(共産)主義道徳の「年期奉公」の中に要約される。…××(共産)主義道徳は存在する。…ブルジョワジーは、吾々××××(共産主義)者はあらゆる道徳を否定すると宣伝している。これは民衆の眼に砂を撒いて思想を混乱させるものだ。われわれはブルジョワ的意味でのそれ(道徳)を否定する。その道徳性は神の命令から出たものだとされている。…我々は超人間的で超階級的な道徳を否定する。…我々の道徳はプロレタリアートの利益と階級闘争の要求に服する。我々の道徳はプロレタリアートの階級闘争の要求から引き出される。」
プロレタリアの道徳とは、ヘルンレの「プロレタリア教育の根本問題」によれば、「プロレタリア階級によって、その階級の解放と社会主義建設の利害の中に持って来られ、そこで護られる××(共産)的で連帯的な行動の法則を意味する。」(三六)これは労働者の革命的団結をつくるための「強制力」であり、社会主義社会建設のためにその成員を「鉄のような規律の下に強制する」力である。そこでは「服従の美徳」が正しいとされる。レーニンの言う革命的労働道徳とは「社会主義勝利のために目的意識的に『犠牲を提供する』労働大衆のヒロイズムの養成」「怠惰の克服」「利己主義の克服」である。(引用が示されない)
062 家庭における夫妻の服従関係は、経済制度に基づく封建的・資本主義的遺物であり、共産社会では、労働者と被抑圧階級の経済的解放と同時に、同じ理由で、婦人も夫への服従から解放される。婦人も男子と同様に社会の成員として政治的・経済的活動に参与する。婦人だけに与えられた妊娠のような負担から自由にならねばならぬ。ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」によれば、「プロレタリア道徳は、避妊特に妊娠中絶に忌むべきこととしない。成長しつつある胎児の時期に取り除くのは母の権利である」「婦人は断じて子供を生む機械ではない」(三七)
教育の方法 レーニンは「共産主義左翼の小児病」の中で、「党は共産主義の主要な学校であり、常にそうあらねばならない。」と言っている。彼らは共産主義教育を施すことができるものは共産党「以外にない」と言う。「教育者という特別の技術者を要せず、」(そこまで言っているのか疑問)政治団体である共産党が教育を行う。ヘルンレは「プロレタリア教育の根本問題」の中で「共産党はプロレタリアートの前衛、プロレタリア××(独裁)の組織者であるだけでなく、プロレタリアートの教育者でもある。」(三八)と言っている。
「これは児童を幼時から階級闘争の実践の渦中に入れ、政治闘争に参加させることを意味する。共産主義教育は共産党での訓練である。」(そこまで言っているか疑問)そして「児童をプロレタリア的大衆運動や示威運動に参加させ、…成人の行列の先頭に立たせる。」ヘルンレによれば、「児童にとって階級闘争の一員であると自覚させられることは、喜ばしいことだ。また子供らしい楽天主義は、成人を自由のための闘争で疲れさせない。」
三、批判と結び
063 プロレタリア教育論が、従来の教育学的見地からすれば、幾ばくの価値もないことは今更説くまでもない。(冷たい)プロレタリア教育論は教育を文化領域の上層建築と見て、それ(教育)独自の目的を閑却し、「教育は共産主義的理論と実践の指導訓練に過ぎない。」(そこまで言っているか疑問)プロレタリア教育論の目的は共産党員を養成することである。現在のロシアでの教育はこの理論に基づいて施しているが、「漸く教育学的に見て述べる点もある。」ロシアでは五か年計画の成功とともに、教育学的に見直そうとする傾向も見えてきた。
プロレタリア教育論の間違いは次の三点である。
第一、「自然主義的」誤謬 社会現象を「自然法則によって、」「自然的法則に当て嵌めて見る」ため、存在を「全て」正しいとする。家族主義は腐敗した資本主義の下では確かに崩壊の道をたどるかもしれず、家族制度が実際崩壊してきているが、家族制度が「崩壊すべきものだ」(そこまで言っているか)とは言えない。また大工業生産は労働を社会化するが、労働の社会化が「労働万能時代」を齎すべきだとも言えない。(意味不明)
第二、目的と手段の誤謬 彼らは共産主義社会の実現を目的とするが、実際はただプロレタリアートが優越する独裁国家を実現しようとする。共産主義社会実現の過程としてプロレタリア独裁が必然だとしても、教育論ではこの二つ(共産主義社会の実現とプロレタリア独裁と)を区別すべきである。ルナチャルスキーはモスクワの教育会議で「我々の新しい学校は万民平等の学校である」と言ったが、これとプロレタリアの階級教育との理論的脈絡がない。ロシアの現状に対してだけ行われるべき施設や教育を、共産主義社会実現のための一般的要請と混同している。労働教育は、文化社会の建設を必要とするが、日本の明治初期のように、現在のロシアにだけ当てはまる第一の教育条件とすべきであり、理想的共産社会ではそれほど重要だろうか。社会人の資格として労働を習うことは別問題である。(意味不明)
064 第三、彼らは人為的な計画社会の実現を目的とするが、それは「人間の自然」をゆがめ、(人間の自然を)観念的に考え、理想の犠牲にする。それは観念論的・抽象論的誤謬である。児童を「強制的に」政治行動に入れ、「労働者の無知に基づくヒロイズム」を助長し、婦人の解放を説いて婦人の妊娠という「自然事象」を、男女平等という社会理想のために「強いて歪める。」これは「人間に対する反逆」と言わねばなるまい。(セックスは自然事象であって人為的行為ではないというのか。)
以下プロレタリア教育論の研究上参考となる書籍を挙げる。
一、マックス・アドラー「階級教育論」堀秀彦訳 Max Adler, Neue Menschen, Gedanken über
sozialisitiche Erziehung, 1926.
二、エドウイン・ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」屋井参市訳 Edwin Hörnle, Grundfragen der proletarische
Erziehung, 1929
三、「新興教育学」浅野研真訳
四、山下徳治「新興ロシアの教育」1929.12
五、ヘルンレ「プロレタリア階級とその児童」本庄陸男訳(発禁)
六、「マルク主主義と教育問題」浅野研真訳編
七、雑誌「新興教育」
八、雑誌「プロレタリア科学」
九、野上荘吉「日本教育暴露記」
一〇、田部久「プロレタリア綴方指導理論」
註
(一)マックス・アドラー「階級教育論」堀秀彦訳 p.228 Max Adler, Neue
Menschen, Gedanken über sozialisitische Erziehung, 1926. 「階級教育論」としているが、直訳すれば、「新しい人間、社会主義的教育についての考察」
(二)同書 p.50
(三)同書 p.92
(四)同書 p.78 以下同書を「階」と記す。
(五)「マルクス主義と教育問題」浅野研真訳 p.73
(六)エドウイン・ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」屋井参市訳 訳者序文 Edwin Hörnle, Grundfragen der
proletarische Erziehung, 1929
(七)山下徳治「ブルジョア教育学の非現実性」「新興教育」第一巻第二号
(八)山下徳治「プロレタリア教育の本質」「プロレタリア科学」第二年第十号。1930.10
(九)エドウイン・ヘルンレ「プロレタリア教育の根本問題」屋井参市訳 p.171 以下この書を「プ」と記す。
(一〇)マルクス、エンゲルス「共産党宣言」
(一一)「プ」p.48 (一二)「プ」p.74 (一三)「プ」p.64 (一四)「プ」p.65
(一五)「プ」p.70 (一六)「階」p.84 (一七)「プ」p.64 (一八)「階」p.88
(一九)「プ」p.186 (二〇)(八)と同所 (二一)「階」p.9
(二二)山下徳治「プロレタリア教育の構成のために」「新興教育」創刊号
(二三)「プ」pp.2-8
(二四)浅野研真「プロレタリア教育の基礎問題」「新興教育」第二巻第二号
(二五)「階」p.22 (二六)「資本論」改造社普及版、第1860 第四編第十三章
(二七)(八)と同所 (二八)「マルクス主義と教育問題」浅野研真訳p.94
(二九)「プ」p.182 (三〇)(八)と同所 (三一)「階」p.91 (三二)「階」p.94
(三三)レーニン「唯物論、無神論」佐野学訳p.347-8
(三四)エンゲルス「反デューリング論」河野、林訳p.553
(三五)「新興教育学」浅野研真訳編p.181
(三六)「プ」p.193 (三七)「プ」p.204 (三八)「プ」p.214
(三九)ヘルンレ「プロレタリア階級とその児童」本庄陸男訳p.17
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