教育修身研究『現代教育教授思潮大観』春季臨時増刊 日本教育学会 分担執筆者 平塚盆徳、生井武久、三木壽雄、宗像誠也、佐野朝男、山田彌、白井今朝晴各学士 昭和7年1932年
感想 本書巻末の解説つき人名索引をWikiも参照しながら読んでの感想なのだが、呪縛を感じた。本書のタイトルには「教育」とあるが、教育学の思想的根拠は哲学や心理学であった。この人名索引を読んでいて当時の西欧哲学界の研究対象で頻繁に見受けられるものはカント(認識論)やヘーゲルであった。ところでWikiのデューイの項を読んでいて西欧哲学の呪縛に関してこんな記事が載っていた。私もこんなことではないかと思っていました。
リチャード・ローティは「デューイは我々をプラトンとカントの呪縛から解放した。17世紀の哲学者がスコラ哲学に対して革命を興したように、デューイが「正確な表象」というそれまでの知識理論を拒絶した点で、ウィトゲンシュタインとハイデッガーに並ぶ」とする。デューイはヘーゲル的な観念論を、経験と反省の世界に引き戻し、市民的な思考の道具として「考える」ことを再構築した。
以上の通り人名索引を読んでいて西欧思想の呪縛、プラトン、神学、カントのすさまじさを感じたものです。
しかしそういう思想的本流のわきに、一風変わった流れもあったような気もします。つまり「子ども中心主義」とか「子どもの主体性・自主性」とか「作業教育」とか「労作教育」とかである。ルソー、ペスタロッチ、フレーベルなどである。そして本書が出版された昭和7年当時、その流れが「新教育運動」として世界を席巻していたようなのです。日本の教育界もそれに影響されたようですが、結局は全体としては根付くことがなく、その影響は一部にとどまったようです。思想統制して本格的に戦争に突入する前の昭和7年当時でも、すでに教育勅語や国体観や諸学校令などの力が強く、西欧の文物を貪欲に吸収する大学関係者である本書の執筆者たちも、その教育勅語体制を批判することもなく、先験的に受け入れていたように見受けられます。20221027
付録 現代哲学・心理学・教育学者一覧(Wikiの記述も含む)
317 イエルサレム・ウイルヘルムWilhelm
Jerusalem1854.10.11—1923.7.15
ドイツ(オーストリア)の(ユダヤ人)哲学者・教育学者。「哲学入門」「批判的観念論と純粋論理学」「心理的及び論理的判断論」などの著書がある。ウイーンのギムナジウム大学教授。その哲学の傾向は実用主義・進化主義であり、コーエンの論理主義やブレンターノの先験論とは真逆である。聾盲教育論を書き、ヘレン・ケラーと文通したが、直接面会したことはなかった。
イゼリン・イザック(イサーク・イセリン)Isaak Iselin 1728.3.7—1782.7.15
スイスの教育家、経済学者、歴史や政治の哲学者。商家に生まれる。ゲッティンゲン大学卒。著書「教育論」「人類の発達(歴史)」ペスタロッチの第一の後継者。
ロイス・ジョサイヤJosiah Royce 1855.11.20—1916.9.14
アメリカの哲学者。著書「近世哲学の精神」「忠loyaltyの哲学」「善・悪説研究」ヘーゲル哲学者として実用主義のジェームズやデューイに反対した客観的観念論者。ハーバード大学教授。
ロスミニ・セルヴァンティ・アントニオ(アントーニオ・ロズミーニ・セルバーティ)Antonio Francesco Davide Ambrogio Rosmini-Serbati 1797.5.25—1855.7.1
パドウア大学に遊ぶ。宗教、政治、教育で活躍。ローマ・カトリックの司祭、哲学者。実在的観念論者で、「本有的」な存在観念を立てた。この存在観念は一切の判断と認識内容に先行し、他の一切はこれから誘導されると説いた。著書「観念の起原についての新論」「社会正義による組織」
318 ローゼンクランツ・カール Karl Rosenklanz 1805.4.23—1879.7.14
ドイツの哲学者。ヘーゲル中央党(派)の代表人物。著書「ヘーゲル哲学」「ヘーゲルの生涯(伝)」「論理的観念学」1859
ロッツェ・ヘルマン
Hermann Lotze 1817.5.21—1881.7.1
ドイツの哲学者。ライプチヒ大学で哲学と自然科学を研究した。1839年、母校の私講師。1844年、ゲッティンゲン大学教授。1881年、ベルリン大学に転じる。著書「小宇宙論」1856—64、「哲学体系」1874—79
その哲学は自然科学的思潮と理想主義とを綜合したものであり、新理想主義に寄与した。ドイツ観念論、新カント派。
ロマシノ・ジアン・ドメニコ(ジャン・ドメニコ・ロマニョーシ)
Gian Domenico Romagnosi 1761.12.11—1835.6.8
イタリアの哲学者、経済学者、法学者、統計学者。コルフ大学教授。唯物論を奉じ、自由貿易論を認め、ある程度の国家の干渉を主張した。
パウルゼン・フリードリッヒ(フリードリッヒ・ポールセン)
Friedrich Paulsen 1846.7.16—1908.8.14
ドイツの新カント派の哲学者、倫理学者、教育者。エルランゲン大学で神学を学び、ベルリン大学で哲学を学んだ。1875年、ベルリン大学の講師になった。著書「哲学と科学との関係」1877、「論理学体系」1899、「哲学概論」1892 彼は哲学を学的認識論の総内容であるとし、世界は精神的な全生命の現象であり、自然法則は神的意志の普遍的現象形式であるとした。また倫理学の研究上目的観的完全説を採った。
319 バウエル・ブルノ―(ブルーノ・バウアー) Bruno Bauer 1809.9.6—1882.4.13
ドイツの神学者・哲学者・歴史学者。青年ヘーゲル派。無神論に基きキリスト教・ユダヤ教などの宗教を批判した。マルクスはバウアーの下でヘーゲル哲学を学んだ。ブルーノ・バウアーは「暴かれたキリスト教」1843の中で神への拝跪による思考喪失を批判し、キリスト教からの人間解放を主張したところ、同書は発禁処分となった。以上Wiki
ベルリン大学やボン大学の私講師。(当初は)有神論的ヘーゲル右派を奉ずる。その説が過激だったため、講義を禁止され、後にヘーゲル左派に転じた。著書「福音書の批判」
バルト・パウル
Paul Barth 1858.8.1—1922.9.30
ドイツの教育学者で「教育は社会の繁殖である」とした。哲学者、社会学者。シレジアのバルートBarutheに生まれた。ライプチヒ大学に遊び、その間ブレスラーやヴントの指導を受けた。1890年、母校で私講師。「科学的哲学、社会学四季報」Quarterly Journal for Scholarly Philosophyの編輯者。彼はその教育学では心理学よりも社会教育学を重視したと言われる。哲学では実証主義論者である。独創的学者というよりは綜合的な学者であると言われている。
Wikiでは、著書“Philosophy of History as
Sociology”1897が有名とのこと。
ハリソン・フレデリック
Frederic Harrison 1831.10.18—1923.1.14
イギリスの哲学者、社会事業家。ロンドンに生まれる。ロンドン大学教授。著書「歴史の意義」「国民問題と社会問題」「実証論と観念論」「秩序と進歩」
1880年、英国実証派委員会を起こし、コント哲学を継いだ。1909(Wikiでは1905)年、その総裁を辞した。
Wikiでは、法学者、歴史家。
バークレー・ジョージー(ジョージ・バークリー)
George Berkeley 1685.3.12—1759(本文中では1752,
Wikiでは1753.1.14)
イギリスの哲学者・聖職者。アイルランドに生まれる。21歳の時、ロック哲学の欠陥とその補正に気づいた。(ジョン・ロック1632.8.29—1704.10.28)
320 1709年「視覚新論」1710年「人知原理論」
1713年「対話」本書は学会に一大センセーションを巻き起こした。
1713年—1721年、フランスとイタリアに遊ぶ。
1722年、デリー副監督
1723年—1732年、渡米。伝道に従事し、宗教学校を建設しようとしたが、失敗。
1734年、アイルランドのクロインの監督。
1752年、オックスフォードで死亡。
Wikiによれば、彼は聖職者として主観的観念論を説いた。つまり、例えば、机をたたいて硬さを認識しても、それは机自体を認識しているのではなく、机の知覚として認識しているのであるとし、知覚する精神と神だけを実体とした。
バルディリ・クリストフ・ゴットフリード
Christoph Gottfried Bardili 1761—1808
ドイツの哲学者。理性論的実在論を唱える。彼は世界は思想の表象に他ならないと言った。この学説は後にフィヒテ1762--1814やヘーゲル1770-1831に伝わった。著書「第一論理学綱要」1800
ハルトマン・カール・ロベルト・エデュアルト・フォン
Karl Robert Eduard von Hartmann 1842—1906
ドイツの哲学者。シェリング、ショーペンハウエル、ヘーゲルの哲学を綜合し、諸科学の成果の上に、帰納的自然科学的方法に従って思弁的哲学体系を建てた。
著書「無意識哲学」1869、「認識論の根本問題」「形而上学史」
ハルトマン・ニコライ
Nicolai Hartmann 1882—1950
ドイツ現代の哲学者。マールブルヒ(ク)大学教授。本大学の新カント派に属したが、後に自らの研究に専心した。その哲学は批評主義と現象学との綜合である。(Wikiでは批判的実在論的存在論)
近時「認識形而上学」を説く。著書「哲学史方法論」「認識形而上学概要」「先験的認識論について」
321 ニーチェ・フリードリッヒ・ヴィルヘルム Friedrich
Wilhelm Nietzsche 1844-1900
ドイツの詩人・哲学者。ショウペンハウエル派の哲学に親しむ。
1869年、バーゼル大学ギリシャ語教授。
1889年、発狂し、精神病院で死す。
著書「黎明」「悦ばしき知識」「ツァラツストラ」
ポザンケット・バーナード(バーナード・ボサンケー)
Bernard Bosanquet 1848—1923
イギリスの新カント派の哲学者で、批判哲学に基づく絶対的唯心論を説く。Wikiによれば、ヘーゲルの追随者で、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルなどから影響を受けたとある。
オクスフォードのハローとバリオル・カレッジで遊ぶ。
オクスフォードの教授からセント・アンドルーズの道徳哲学教授に転ず。
著書「知識と実在」「社会的及び国際的理想」
ボストレーム・クリストファー・ヤコブ
(クリストファー・ヤコブ・ボストレム)Christopher Jakob Boström 1797—1866
スウェーデンの哲学者。合理的観念論者。一切の経験に反対し、ライプニッツ流の唯心論的人格説を説いた。ウプラサ大学教授。著書「哲学の基礎」「宗教論」
ホッジソン・シャドワース・ホルウェー(シャドワース・ホルウェイ・ホジソン)
Shadworth Hollway Hodgson 1832—1912
イギリスの哲学者。カントの哲学を学ぶ。経験の分析を哲学的思索の出発点とし、批判主義に立ちつつ唯現象論的内在哲学に接近して行った。著書「時間と空間」1865、「哲学と経験」1885、「経験と(Wikiでは「経験の」)形而上学」1898(「唯現象論」。現在では単に現象論という。人間が認識できるのは現象だけで、現象の背後にある本体は認識できないとする立場。)
ホール・グランビル・スタンレー030 Granville Stanley Hall 1846—1924
アメリカの実験心理学者。ドイツに留学する。ロッツェ、フェネル、ヴェント(ヴント)等に学ぶ。クラーク大学教授、同大学総長。アメリカ最初の心理学研究所の創始者。著書「近世心理学の建設者」
ボルツァノ・ベルンハルト(ベルナルト・プラシドゥス・ヨハン・ネポムク・ボルツァーノ)
Bernard Bolzano 1781—1848
ドイツ(チェコ)の哲学者、数学者、論理学者、宗教学者、牧師、宗教学の教授、著述業者。ライプニッツの影響を受け、心理主義を排し、純論理主義の先駆となった。著書「科学論」
Wikiによれば、反カント哲学の立場から、客観主義的な論理学や哲学を打ち立て、その結果、フランツ・ブレンターノやエトムント・フッサールらに影響を与えた。国家や社会についても論じ、サン・シモン主義的な共産主義国家を構想していた。
ペスタロッチ・ヨハン・ハインリッヒ
Johann Heinrich Pestalozzi 1746—1827
スイスの教育家。チューリヒ大学卒業。1774年、貧民学校を建て、作業主義に基づいた教育を始める。1801年、ブルグドルフに私立学校を建てる。1804年から20年間、イフェルテンで「ペスタロッチ教育法」を実施した。著書「隠者の夕暮」「ゲートルートは如何にしてその子を教えるか」
ベック・ヤコブ・ジギムンド
Jakob Sigismund Beck 1761--1840
ドイツ(ポーランド)の哲学者。ロシュトックRostock大学教授。著書「批判哲学の基礎」
カントの哲学を学んだが、カント哲学の不徹底(Wikiでは矛盾)を除こうとして主観的観念的立場をとるようになった。
ヘフディング・ハーラルト
(ハラルド・ヘフディング)Harald Höffding 1843—1931
デンマークの哲学者・神学者。コペンハーゲン大学教授。著書「近世哲学史」「心理学」
ドイツ哲学から受けた先験的ローマン主義と英仏哲学から受けた進化論的実証主義とを綜合して一種の哲学体系を樹立した。
323 ベルンハイム・エルンスト Ernst Bernheim 1850—1942
ドイツの哲学者・歴史家。ハンブルグに生まれた。グライスヴァルト大学教授。非自然科学的方法を主張する歴史哲学者。著書「歴史的研究と歴史哲学」「歴史的方法論」
ユダヤ人であったため、1935年、ドイツの市民権を剥奪され、晩年は不遇だった。
ベーン・アレキサンダーAlexander Bain 1818—1903
イギリス(スコットランド)の哲学者・教育者。アバーディーンに生まれた。1860年から1881年まで同地の大学の論理学教授となる。後同大学の総長となった。
ジョン・スチュアート・ミルと共にイギリスの連想心理学派の最新傾向を代表する。著書「感情と意志」「精神と道徳科学」「論理学」
ドイッセン・パウル(パウル・ドイセン)
Paul Deussen 1845—1919
ドイツの哲学者、東洋学者、仏教学者。プロシャのオーベルドライスOberdreisの聖職者の家に生まれる。1889年、キール大学教授。
Wikiによれば、ニーチェの友人。ドイセンは夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する東洋哲学者・八木独仙のモデルではないかと、杉田弘子が『漱石の「猫」とニーチェ』の中で指摘する。
彼の哲学はカントとショーペンハウアーに負うところが大きい。著書「形而上学原理」「ベダンタ体系」(「ヴェーダンタの大系」インド哲学の研究書)、「一般哲学史」「ニーチェの回顧」
ドリーシュ・ハンス
Hans Driesch 1867—1941
ドイツ現代の哲学者、生物学者。ハイデルベルヒの哲学教授。(Wikiではライプチヒ大学の哲学教授)機械的原因に目的原理の支配を認め、新活力説(新生気論)を主唱する。著書「認識論の基礎」「自然概念と自然判断」「新活力論」「自然科学に対する二つの提案」
Wikiでは、当初ダーウィン主義者のエルンスト・ヘッケルに動物学を学んだが、後に批判的になり、新生気論を主張したとある。
ドルネル・アウグスト・ヨハネス
August Johannes Dorner 1846—(Wikiで見当たらない)
ドイツ現代の宗教哲学者。ケーニヒスベルグ大学教授。
彼の哲学はカントの影響を受けた。著書「カントの倫理学原理について」「宗教哲学」「個人論理学と社会論理学」「哲学百科全書」
トレルチ・エルンスト
Ernst Troeltsch 1865—1923
ドイツの哲学者、宗教哲学者、ルター派神学者。1914年、ベルリン大学哲学教授。1919年、プロシャ議会議員、学芸教育部省の参事官。
宗教史学派と通ずる。著書「プロテスタント派キリスト教と現代の寺院」「宗教の本質と宗教意識」「倫理学の根本問題」「歴史主義とその問題」
Wikiによれば、マックス・ウエーバーと交わり、その宗教社会学に神学的な基礎づけを与えた。当初第一次大戦を熱狂的に支持したが、後にその誤りに気づき早期終戦を唱えた。
トレンデレンブルヒ・フリードリア・アドフル(フリードリヒ・アドルフ・トレンデンブルグ)
Friedrich Adolf Trendelenburug 1802—1872
ドイツの哲学者。ベルリン大学哲学教授。1847年、歴史哲学会の終身書記官となる。
アリストテレスの説を奉じて新論理学を立てる。著書「アリストテレス論理学の原因」「論理学研究」「倫理の根本に基く自然法」
トワルドスキー・カージミル(カジミェシュ・トバルドフスキ)
Kazimierz Twardowski 1866—1933
現代オーストリアの哲学者。レンベルヒの教授。彼の哲学はブレンターノ派に属す。著書「表象の内容と対象について」
Wikiによれば、彼はルヴフ=ワルシャワ学派の礎を築いた。偉大な教育者で彼の熱っぽい講義は絶大な人気を博し、早朝から聴講のために場所取りをする学生がいたという。
チーグレル・テオバルト(テオバルト・ツィーグラー)
Theobald Ziegler 1864—1918
ドイツの現代の哲学者、教育者。ストラスブルヒ大学教授。
彼の哲学は一種の実証主義に属す。社会問題に関する著書も多い。著書「信仰と知識」「感情論」「個人主義と社会主義」
325 チルンハウゼン・エーレンフリート・ヴァルテル・フォン (エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス)Ehrenfried Walther von Tschirnhaus 1651—1708
ドイツ(ポーランド)の哲学者、数学者、物理学者、生理学者。ライデLeidenに出て数学と哲学を修めた。1614年、南欧諸国に旅行し、帰国してからサクソニーの数か所にガラス製造所を建て、レンズを製造し、凹面反射鏡を発明した。
哲学上は彼は数学的・帰納的方法を用い、理性論と経験論を調和させた。
チンメルマン・ロベルト Robert Zinmermann 1824—1898
ヘルバルト派の哲学者・美学者。ウイーン大学に遊び、1861年、ウイーン大学教授となった。ライプニッツの影響を受け、ヘルバルトの「実有」をライプニッツの単子論と結びつけ、単子論を唱えた。著書「ライプニッツの単子論」「哲学入門」「人類学概論」
Wikiによれば、チェコ生まれのオーストリアの哲学者。数学者で哲学者のBernard
Bolzanoの、数学の哲学的根拠である「量の理論」の完成を任されたが、彼は数学よりも哲学に興味があったのでそれを放置した。Kazimierz Twardowski324は彼の学生の一人である。
リッカート・ハインリヒ
Heinrich Rickert 1863—1936
ドイツ現代哲学バーデン学派。1863年、ダンチヒ(グダニスク)に生まれる。ベルリン、ストラスブルグ、チューリヒ等の大学で学ぶ。ストラスブルグ大学でヴィンデルバントWilhelm Windelbandに就いた。1891年、フライブルグ大学私講師。1896年、同大学正教授として哲学を講じた。1915年、ヴィンデルバントが死に、その跡を継いでハイデルベルグ大学に至り、現在に至る。
彼の立場は先験的観念論である。著書「生の哲学の大系」
Wikiによれば、ポーランドのグダニスク(ダンチヒ)に生まれる。新カント派。西南ドイツ学派。
認識とは多様な現実の中から知るに値するものだけを選択して把握することである。(価値判断、価値哲学Weltphilosophie)
327 リツケルト・ハインリヒ Heinrich Rickert 1863—1936
彼の師ヴィンデルバントも西南ドイツ学派。リツケルトはカントの先験哲学を承けて価値哲学を採る。ヴィンデルバントの規範意識をさらに展開し、フィヒテの目的観的方法や歴史哲学を消化吸収し、文化科学を樹立した。こうして彼は規範的意識が認める当為や価値の存在を承認し、このような価値の実現に必要な文化活動の諸形式を批評闡明しようとする。
著書「文化学科と自然科学」1915、「価値体系」1913、「哲学の基礎」1921
325
リット・テオドール
Theodor Litt 1880—1962
ドイツの教育学者、文化教育学者、哲学者、現象学派。1880年、デュッセルドルフに生まれる。ボン大学、ベルリン大学に学ぶ。卒業後フリードリヒ・ウイルヘルム高等学校の教授。1918年、ボン大学の員外教授。1920年、シュプランガーの後任としてライプチヒ大学教授として教育学を講じている。
ディルタイの流れを汲む。ヘーゲル主義者。シュプランガーもリットもナチスに屈しなかった。
326 リボー・テオデュール・アルマン(テオデュール・アルマンド・リボー) Theodule
Armand Ribot 1837(Wikiでは1839)—1916
フランスの哲学者・心理学者。コレージュ・ド・フランスの心理学教授。「哲学評論」を創刊。実験心理学者であるが、米独の実験心理学が感覚や観念を重視することに反対し、情意方面を重視した。著書「衝動論」「感情心理学」
リール・アロイス
Aloys Liehl 1844—1924 (WikiではAlois Adolf Riehl)
ドイツ(オーストリア)の新カント派哲学者。グラーツ、フライブルヒ、キール、ハルレの諸大学教授を経て、ベルリン大学教授となる。ベルリン派。
カントの批判哲学の問題を数学的自然科学に限り、その方法を一切学術に応用し、忠実にカント哲学の復興に努めた。主著「批判哲学とその実証科学に対する関係」は1876年から1887年の間に著された。
リード・トマス
Thomas Reid 1710—1796
スコットランド派哲学(スコットランド常識学派の創始者)。マリミヤル・カレッジに学ぶ。1736年、オクスフォード、ケンブリッジ、ロンドンに遊ぶ。1752年、アバーディーンのキングス・カレッジ哲学教授。1763年、グラスゴーの道徳哲学教授。
経験論や唯物論や懐疑論に反対し、常識を根本原理とする理性的直観説を主張。著書「人間精神の研究」「人間知力論」「人間行動力論」
リトレ・エミール
Emile Littlè 1810—1881 (Wikiによれば、Émile Littlé 1801--1881)
フランスの哲学者、哲学教授、言語学者、辞書編集者、国会議員、アカデミー会員。実証主義者でコントの哲学を継承する。しかし、コントComteの宗教的方面は採らず、理論的方面を発展させた。著書「実証哲学の理論的分析」
327 リツケルト・ハインリヒ Heinrich Rickert
1863—1936 325頁に既出
彼の師ヴィンデルバントも西南ドイツ学派。リツケルトはカントの先験哲学を承けて価値哲学を採る。ヴィンデルバントの規範意識をさらに展開し、フィヒテの目的観的方法や歴史哲学を消化吸収し、文化科学を樹立した。こうして彼は規範的意識が認める当為や価値の存在を承認し、このような価値の実現に必要な文化活動の諸形式を批評闡明しようとする。
著書「文化学科と自然科学」1915、「価値体系」1913、「哲学の基礎」1921
325 リッカート・ハインリヒ Heinrich Rickert 1863—1936
ドイツ現代哲学バーデン学派。1863年、ダンチヒに生まれる。ベルリン、ストラスブルグ、チューリヒ等の大学で学ぶ。ストラスブルグ大学でヴィンデルバントWilhelm Windelbandに就いた。1891年、フライブルグ大学私講師。1896年、同大学正教授として哲学を講じた。1915年、ヴィンデルバントが死に、その跡を継いでハイデルベルグ大学に至り、現在に至る。
彼の立場は先験的観念論である。著書「生の哲学の大系」
Wikiによれば、ポーランドのグダニスクに生まれる。新カント派。西南ドイツ学派。
認識とは多様な現実の中から知るに値するものだけを選択して把握することである。(価値判断、価値哲学Weltphilosophie)
327
ルーゲ・アーノルド Arnold Ruge 1802—1880
ドイツの哲学者。ヘーゲル学派左派、革命家。ハ(ル)レ、イエナ、ハイデルベルヒの諸大学で言語学と哲学を学ぶ。1831年、ハルレ大学美学教授。1837年、「ハルレ年報」(「ドイツの学問と芸術のためのハレ年誌」1838—1843青年ヘーゲル学派の機関紙)の編輯者となったために職を失い、パリやスイスに逃れ、ライプチヒに止まった。1848年、ドイツ議会(フランクフルト国民議会議員)に選ばれた。1849年、欧州民主主義委員会を組織。著書「美学入門」
Wikiによれば、1824年、禁止された秘密結社のメンバーとして逮捕され、有罪判決(禁錮15年)を受けた。その前の1821年、ハレ大学のブルシェンシャフト(学生同盟。自由主義運動を主導。メッテルニヒに弾圧され挫折した)のメンバーになる。1830年、国王に恩赦され監獄から出る。1844年、マルクスと『独仏年誌』を出版するが、訣別。1844年の夏、シュレージェンで職工が蜂起。ルーゲはこれを単なる局所的革命と捉えたため、マルクスから批判された。ビスマルク体制を支持。
ルヌヴィエー・シャール (シャルル・ルヌーヴィエ)Charles Renouvier 1815—1903
フランスの哲学者。数学、哲学、経済学を学ぶ。19世紀フランス学会の重鎮。新カント派。コント、ライプニッツ、ハミルトンなどの哲学を加味してカント哲学を変え、新批評主義を採る。著書「一般批評論」「道徳学」
カツシーラー・エルンスト Ernst Cassierer 1874—1945
ユダヤ系のドイツの哲学者。ベルリン大学私講師からハンブルヒ大学の哲学教授に。新カント派。マールブルヒ学派。ライプニッツ研究家。認識論史家。著書「批判的観念論」1907、「実体概念と機能概念」1910
328 カント・イムマヌエル(イマヌエル・カント) Immanuel
Kant 1724—1804
ドイツの哲学者。両親ともに敬虔派の信者で、家庭は落ち着き、平和であった。母親の影響力が大きく、善の種が母親から植え付けられた。
1732年、敬虔派の中学校に入り、ラテン語を学ぶ。1740年同地の(ケーニヒスベルク)大学に入り、貧困と戦いながら自然科学、数学、哲学を学んだ。卒業後8年間家庭教師をし、1754年、求職論文を書いて母校(ケーニヒスベルク大学)の講師となる。1770年、母校の論理学と形而上学の正教授となる。1786年から2回(ケーニヒスベルク)大学の総長となる。1787年、ベルリン王立学士院会院に推挙された。1790年老衰に向かい、1797年、学校を退いた。
批判哲学。カント以前にロックの経験論やヒュームの懐疑論的実証主義があったが、カントは理性論と経験論を調和させた。認識論でコペルニクス的転回を行い、主観によって客観を基礎づけようとした。また独断論と懐疑論の間違いを人知の盲信に起因するとし、人知の性質を検して、批判哲学を樹立した。そして経験知の基礎に論理的先験性を置いた。著書「純粋理性批判」(1781、認識について論じた)、「実践理性批判」(1788、本体論と倫理学について論じた)、「判断力批判」1790
ヨールド・フリードリヒ(フリードリヒ・ヨードル)
Friedrich Jodl 1849—1914
ドイツの哲学者。形而上学に反対し、経験主義的実証論を採る。さらにこの実証論を倫理学に応用して実践倫理観念論を立てる。ヘフデイングやテ(ン)ニースと共にドイツ論理的文化協会を起こし、倫理運動に加わった。著書「倫理学史」1882、「経済学と論理学」1886、「心理学教科書」1896、「ルドヴィヒ・フォイエルバッハ」1904、「科学と宗教」1909
Wikiによれば、ローマ・カトリック教会の影響に反対する運動を行った。
コトバンクのブリタニカ国際大百科事典小項目事典によれば、ヘフディングHöffding, Harald 1843—1931 はデンマークの哲学者。批判的実証主義の立場に立ち、形而上学や直観主義に反対した。
Wikiによれば、フェルディナンド・テンニースFerdinand Tönnies 1855—1936
は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの社会進化論を提唱した。労働運動や協同組合運動に参加。フィンランドやアイルランドの独立運動を支援した。ナチズムと反ユダヤ主義を公然と非難し、キール大学名誉教授の地位を奪われた。
329 レーノー・ジャン(ジャン・レイノー) Jean Reynaud
1806—1863
フランスの哲学者、社会主義者、枢密院議員。サン・シモン主義の継承者。著書「神と世界」1854
Wikiによれば、1830年の蜂起で一時逮捕された。
ツァイジング・アドルフ
Adolf Zeising 1810—1876
ドイツの哲学者・美学者・心理学者。ヘーゲルの影響を受けた。著書「美学研究」「宗教と科学」「国家と寺院」
Wikiによれば、数学と哲学に関心があり、黄金比golden ratioが宇宙的な法則として作用していると考えた。
ツェーラー・エドゥアルト
Eduard Zeller 1814—1908
ドイツの哲学者、哲学史家、神学者。ベルリン大学哲学教授。ヘーゲル哲学からカント哲学に赴き、カントへの復帰運動の先駆となった。観念論と実在論とを調和しようとした。著書「ギリシャ哲学史」「哲学の任務」「ライプニッツ以後のドイツ哲学史」
Wikiによれば、日本の学界に影響を与え、ドイツに留学した井上哲次郎や桑木厳翼はツェラーに直接師事した。
ナトルプ・パウル
Paul Natorp 1854—1924
ドイツの新カント派のマールブルヒ学派の哲学者。ベルリン、ボン、ストラスブルヒ大学に学ぶ。1885年、マールブルヒ大学教授。教育学者。
彼の哲学はコーエンの思想を継承し、カントの先験的観念論に立脚し、論理主義を採る。純粋思惟説を説き、思惟は一切の数や実在や規律の根元であり、それらを生み出すものであるとし、根元の学理を思惟の活動に求めた。
社会思想については、一種の社会主義的見地に立って社会理想主義を立て、真の社会主義は真の個人主義と一致し、かつ各々は他の者を自分自身の必要な補充として求めると説く。
教育学では社会教育学を説き、教育の社会的条件を論じた。
著書「デカルトの認識論」1882、「社会教育学」1899、「一般教育学」「ペスタロッチの理想主義」「社会理想主義」1920
330 ラインホルト・カール・レオンハルト Karl Leonhard
Reinhold 1759(Wikiでは1757)—1823
ドイツの哲学者。ウイーンに生まれる。イエナ大学教授後キール大学に移る。当初カントの説を紹介していたが、後にその基礎を与えようとしてカント哲学の二元性を改造し、単元哲学(Wikiでは根元哲学Elementarphilosophie)あるいは基礎哲学を立てた。著書「人間表象能力新説」1789
ラスク・エミル
Emile Lask 1875—1915
ドイツの哲学者。エステルライヒに生まれる。ハイデルベルヒ大学助教授。
新カント派の中でも西南ドイツ学派(バーデン学派)に属した。価値哲学の重鎮。
欧州大戦に出征し、1915年に戦死した。著書「フィヒテの観念論と歴史」1903、「哲学の論理学と範疇論」1911、「判断論」1912
ランゲ・フリードリヒ・アルベルト
Friedrich Albert Lange 1828—1875
ドイツのカント哲学者、社会学者。ボン大学の私講師。1872年以降はマールブルヒ大学哲学教授。「カントに帰れ」運動を起こした。
批評的観念論に立って唯物論的思想を点検し、批評的方法論的唯物論の価値を認めると共に、他方では唯物論的世界観の僭越性を非難し、新カント学派の先駆となった。その著「労働問題」で経済学でも有名となり、マルクスの価値論や搾取説に反対した。著書「労働問題」1865、「唯物論史」1866
Wikiによれば、ランゲは1862年、「ラインとルール新聞」Rhein-und Ruhr-Zeitungの編集者となったが、これは政治的・社会的改革のためであった。その前の1858年、ランゲはDuisburgで教師(校長)をしていたが、政府から教師は政治活動をしてはならないとされ、教師を辞めていた。ランゲ(のceterum censeo)はBismarckの辞任を求めていたようだ。
ランゲはマルクス主義的唯物論を拒否し、倫理的改良的社会主義を望んだ。死後にランゲの影響を受けたEdward Bernsteinは、科学的社会主義を捨てて新カント派的倫理的社会改革を公言した。
331 ラッド・ジョージ・トランブル George Trumbull
Ladd 1842—1921
アメリカの哲学者、教育者、実験心理学者、神学者。エール大学哲学・倫理学教授。日本にも数度渡来した。
精神主義を採り、宗教的一元論を建設し、精神生活の核心を意志に求めた。著書「精神哲学」「知識哲学」「行の哲学」「信仰論」
Wikiによれば、1892年に日本に招かれて心理学を講演し、松本亦太郎を教えた。ラッドは伊藤博文と面会し、1907年朝鮮を訪問し、併合以前の朝鮮の実情を紹介した。
ウエーバー・マックス(マックスはマクシミリアンの省略形)
Max Weber 1864—1920
ドイツの政治学者、社会学者。社会学方法論で新機軸を打ち出し、理解的社会学を樹立した。エルフルトに生まれる。当初は政界で活躍しようとしたが、病身のために経済学を専攻した。1894年、フライブルグ大学経済学教授。1897年、ハイデルベルグ大学に転じた。ミュンヘンに没した。
Wikiによれば、弟のアルフレート・ヴェーバーも社会学者。
マックス・ウエーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」1904--1905の中で、西欧近代文明が他の文明と区別される根本的原理は合理性、つまり呪術からの解放であるとした。これは宗教を上部構造とするマルクス唯物論に対する反証でもあったため、論争を引き起こした。
ヴィーゼ・レオポルド・フォン
Leopold von Wiese 1876—1969
シレジアのグラーツ(Wikiではポーランドのクウォツコ)に生まれる。社会学者、経済学者。ベルリン大学卒。専門学校教授として各地に転任。1919年、ケルン高等商業学校教授。1920年、同校は大学に昇格。同大学内のケルン社会科学研究所理事を兼任。彼の社会学はジンメルの学派を奉じ、経済学は新自由主義。1928年、シェラーの後任として同研究書所長。社会学を関係学として建設しようとしている。1923年以来「ケルン社会学四季年報」の主宰。彼の名はWiese und Kaiserswaldauとも称す。
ヴィンデルバンド・ウイルヘルム(ヴィルヘルム・ヴィンデルバント)
Wilhelm Windelband 1848—1916(Wikiでは1915)
ドイツの哲学者。近世バーデン学派(西南ドイツ派)に属する新カント派の哲学者。イエナ、ベルリン、ゲッティンゲンの諸大学で学び、クノー、フィッシャー、ロッツェ等の感化を受けた。諸大学の教授を経て、1882年、ストラスブルグ大学の総長。1903年、フィッシャーの後を承けてハイデルベルヒ大学教授。
彼の哲学はカントの先験的観念論を継承し、さらにそこから新しい各種の認識論を考察しようとする。しかし新カント派の他の一派マールブルヒ派が論理的認識論に走ったのに反して、彼はさらにその範囲を非合理的な芸術、道徳、宗教などの文化的領域にまで及ぼし、真善美聖の普遍妥当的な価値を探求しようとする。彼は単なるただの事実つまり必然性を欠いた偶然的事実を取り扱う個々の科学と、普遍妥当な当為の学つまり普遍的な規範や範疇の学である哲学とを区別する。
著書「プレリェーデイエン」1833*、「近世哲学史」1878—80、「哲学概論」1914
彼の著書の多くは日本語に翻訳され、あるいは紹介されている。
*Wikiによれば、“Präludien. Aufsätze und Reden zur Einleitung in die Philosophie.” 1884『序曲 哲学入門のための論文集と演説集』 präludienは序曲の意。 河東涓、篠田秀雄訳『プレルーディエン』岩波書店1926—1927
332 ウルリチ・ヘルマン Hermann Ulrich 1806—1884
ドイツの哲学者。ハルレ大学とベルリン大学で法律、文学、哲学を修めた後にハルレ大学の哲学教授。彼の哲学は半ばはヘーゲル派に属するが、自然科学の成果を重んじ、唯心論と実在論とを折衷しようとする。著書「哲学の根本問題」「ヘーゲルの原理と方法」「神と自然」「応用美学としての美術史論」
オイケン・ルドルフ
Rudolf Eucken 1846—1926
ドイツ近代の哲学者。新理想主義。1871年、バーゼル大学教授。1874年、クーノー・フィッシャーの後を継いでイエナ大学教授。彼の新理想主義は20世紀になるとベルグソンの哲学と並んで世界に名声を馳せた。
彼の哲学の根本思潮は、19世紀後半から世界に「蔓延」する唯物主義・現実主義に反抗してフィヒテやヘーゲル等の古典的ドイツ哲学の精神を継承し、永遠無窮の「精神王国」に向かって掲げるべき新しい理想を明らかにしようとしたことである。
著書「大思想家の人生観」「宗教の真諦Der Wahrheitsgehalt der Religion(宗教の真実の内容),
1901」「現代の精神的主潮Geistige Strömungen der Gegenwart(現代の精神的傾向)」
333 クーザン・ヴィクトル(ヴィクトル・クザン) Victor
Cousin 1792—1867
フランスの哲学者、政治家。1827年、ソルボンヌ大学教授。1840年、文部大臣。
彼は経験論的唯物論を奉ずるコンジャック主義に反対し、唯心論を奉じ、プラトン、メイヌ、ドウ、ビラン、コラール等の説にカント、シェリング、ヘーゲル等のドイツ哲学を加えて、折衷学派を打ち立てた。過激主義や伝統主義を排して、精神の自発性と意志の自由を高調し、歴史を精神の進展や理性の発揚と見て、その歴史的世界観の上に、政治上の自由主義を基礎づけた。
著書「自由論」
クローチェ・ベネデット
Benedetto Croce 1866—1952
現代イタリアの哲学者、歴史学者。
彼は当初ローマ大学教授アントニオ・ラブリオラに就いてマルクスの資本論を研究した。著書「マルクスの唯物史観と経済学」を著した後に哲学界に入り、「精神科学」の大系を樹立した。彼は新ヘーゲル主義者であり、かつヘーゲルの理解者とされる。彼はヘーゲルの影響を受けるとともにカントの批判哲学から学ぶところも多く、自己の哲学を「精神科学」と呼んでいる。
著書「美学」「論理学」「実践哲学」「歴史学の理論と歴史」
Wikiによれば、クローチェは当初ムッソリーニ政権によるテロ行為(1924年、統一社会党のジャコモ・マッテオッティが暗殺された)を支持していたが、後に(1925年)反対に回り、「知識人の反ファシズム宣言」を起草し、『クリティカ』誌で批判し続けた。1929年、ムッソリーニとローマ教皇との政教和約(ラテラノ条約)に反対して議員を辞職した。
マイノング・アレキシュウス(アレクシウス・マイノング)
Alexius Meinong 1853—1920
現代オーストリアの哲学者、心理学者(実験心理学)。グラーツ大学教授。グラーツ学派。ドイツ・オーストリア学派。対象論を組織した。彼はブレンターノの哲学から出発し、対象の本質的研究を深め、対象性の構造論を説いた。
著書「仮説論」「対象論と心理学についての研究」
マイモン・ザロモン(ザーロモン・マイモン)
Salomon Maimon 1754(Wikiでは1753)—1800
1790年、「先験哲学論」を発表。彼はカント哲学を継いだのだが、「カントの物自体は絶対的に矛盾した概念である」とし、初めてカント哲学から物自体の概念を排除し、純粋観念論を観念論として樹立しようとした第一人者である。彼はライプニッツの叡智的直観の概念と数学的説明(微分)を借用し、「物自体とは単に認識到達の極限の意味であり、決して独立した超越的実在の意味ではない」と説き、すべての実在論的矛盾を排除し、カントの先験的観念論を純粋化した。
著書「新論理学研究」「アリストテレスの範疇」
Wikiによれば、リトアニア出身のドイツの哲学者。物自体は意識に現れる現象の内部にあるとする。回転する円盤の中心は速度がゼロで回転しておらず回転現象を越えているが、回転現象を支えている。
モイマン・エルンスト Ernst Meumann 1862—1915
ドイツの実験心理学者、実験教育学者、美学者。ハンブルヒ大学教授。「一般心理学文庫」の編輯者。ヴントの高弟で、ヴントの説を発展させた。
著書「心理学と美学研究」「実験教育学序説」「現代美学論」
マールブランシュ・ニコール Nicole Malebranche 1638—1715
フランスの哲学者。パリの富豪の家に生まれる。初め神学を学んだが、後デカルトの著書に動かされ、生涯を哲学研究に捧げた。哲学と宗教との調停に努めた神秘的学者で、デカルトの物心二元論を発展させ、「機会原因論」を完成した。
著書「真理の探究」「道徳論」
Wikiによれば、オラトリオ会修道士。「機会原因論」とは「すべての事物を神においてみる」ことである。運動は神が引き起こしている。「新たなデカルト派」として、経験論、感覚論、唯物論などの新たな思想思潮と対決。
マルクス・カール Karl Marx 1818—1883
以下、昭和7年当時の若い日本人研究者のマルクス観の息遣いを感じるために、要旨としてまとめず、原文のままを書く。
ユダヤ人、1818年プロシャ州トリエルに生る。論文「エピクロス哲学」に関する研究を完成し、1841年学位を受く。翌年、ライン新聞の主筆となる。1864年第一インターナショナルを創設し、数多の同志と共に之に奔走す。爾来19年間、即ちその間に於ける貧困と、過労と、加ふるに妻の死により精神的大打撃を受けて、1883年彼が死に至る間は極めて多忙であり、戦闘的であり、又悲惨なる生涯を送った。然し、彼の名は革命家として、全世界のプロレタリアートの間に永久に生きてゆくだらう。
要するに彼は、無産階級の国際的革命運動の理論確立者であり、科学的社会主義の創設者であり、「唯物論哲学」の祖である。
335 マイノング・アレクシユス (アレクシウス・マイノング)Alexius
Meinong 1853—1920
実験心理学者、哲学者(対象論)、グラーツ学派。1853年、ウイーンに生まれる。ウイーン大学でブレンターノに薫陶を受け、1878年、同大学を卒業。同時に同大学の私講師になり、1882年から8年間同大学員外教授。1889年、グラーツ大学に転じ、教授になった。その後同大学にオーストリア最初の心理学実験場を建てた。
ケラー・ウォルフガング(ヴォルフガング・ケーラー)
Wolfgang Köhler 1887—1967
ドイツの心理学者。1887年、エストニアのレーヴァルに生まれる。チューリンゲン大学、ボン大学、ベルリン大学等に学び、1909年、ベルリン大学卒業。翌年1910年からフランクフルト社会科学研究所の助手となり、私講師を勤め、ウェルトハイマーの下で研究。後カナリア島のテネリッフェ類人猿研究所長。1920年、ベルリン大学教授。1921年、同大学心理学研究所長。1921年から1922年までゲッティンゲン大学心理学教授。その後再びベルリン大学教授。1925年から2年間米国のクラーク大学の訪問教授。
フリッシュアイゼン・ケラー・マックス007, 153(マックス・フリシャイゼン・ケラー)
Max Frischeisen-Köhler 1878—1923
ドイツの哲学者、教育学者、心理学者。1878年、ベルリンに生まれる。ベルリン大学、フライブルグ大学で哲学、自然科学、数学を学ぶ。大学時代からディルタイの影響を受け、後年文化哲学的立場をとった。1906年、ベルリン大学講師。1915年、ハルレ大学助教授。1921年、同大学正教授となり、哲学と教育学を講じた。教育学に関する著述よりも哲学に関するものの方が多い。「哲学と教育学」「陶冶と世界観」
336 フロイド・シグモンド(ジークムント・フロイト)
Sigmund Freud 1856—1939
ウイーン大学精神病学教授。精神分析法の創始者。1856年、チェコスロバキア(当時はオーストリア帝国・モラヴィア辺境伯国のFreiberg、現チェコ・プシーボル)に生まれる。ウイーンで勉強する。1875年、ウイーン大学医学部を卒業。直ちに同大学生理学実験所勤務。6年後臨床医となる。その後パリに行き、神経病学を学び、精神病学の診断方法論を究め、ヒステリーの研究を発表。自由連想を基とした精神分析法を創始した。
フイエ・アルフレッド Alfred Fouillèe 1838—1912
フランスの社会学者、哲学者。1838年、フェーズに生まれる。1872年頃から高等師範学校で哲学を講じた。彼は観念力の学説を立てたが、それはプラトンの観念論をダーウィンの進化論によって科学的に発展させたものである。1912年、モントンで永眠した。
Wikiによれば、明治19年1886年、中江兆民がフイエの翻訳を始めた。明治時代後半から大正時代にかけて主として国民教育論の視点からフイエが紹介された。その著書にはスペンサー流の社会進化論的見解が含まれている。
ファイヒンゲル・ハンス(ハンス・ファイヒンガー) Hans Vaihinger
1852—1933
ドイツの哲学者。ハルレ大学教授。彼は「アルス・オップ哲学」(かのようにの哲学Die
Philosophie des Als Ob)の主導者。「カント研究」の発行者。カント協会の創立者。「アルス・オップ哲学」とはカントの立場から導き出された一種の実用主義的哲学である。著書「アルス・オップ哲学」
Wikiによれば、「アルス・オプの哲学」とは、人間は根底的現実を知ることはできないから、思考体系を構築し、それが現実に適合すると仮定している。つまり「あたかも」世界が人の作ったモデルに適合するかのように振舞っているというもの。
ブッセ・ルドヴィヒ(ルートヴィヒ・ブッセ) Ludwig Busse
1862—1907
ドイツの哲学者。ヘルマン・ロッツエ(形而上学)を奉ずる「批判的実在論」者。彼は1882年に我が国に来朝し、東京帝国大学で5年間哲学を講じた。帰国してからケーニヒスベルヒ、ミュンステルベルヒ、その他の大学で教授として勤めた。
著書「哲学と認識論」「精神と身体」
Wikiによれば、ブッセは「主観的思考は客観的な実在である。原理、事実、価値など、あらゆる存在は絶対的・神的な存在を源泉としている」とする。西田幾多郎はその時のブッセの教え子である。ブッセが帰国する折に夏目漱石が英文で別離の挨拶を認めた。
ブラウン・トーマス Thomas Brown 1778—1820
スコットランドの「常識哲学」者、心理学者、詩人。カークマルベック(カークマブレック)Kirkmabreckに生まれる。哲学と文学を学び、デュルド(デュガルド)・スチュアートDugald Stewartとの親交を得、1810年、エディンバラ大学の道徳哲学教授になった。「新連想心理学」の創始者。
著書「人間精神の哲学論」「倫理学」
Wikiによれば、1792年、エディンバラ大学でDugald Stewartからmoral philosophyを教えられたとある。
337 フレーベル・フリードリッヒ Friedrich Fröbel 1782—1852
ドイツ19世紀の教育家、幼稚園の創始者。1801年、森林局書記。1805年、フランクフルトの小学教員。ペスタロッチに教育学を学び、1811年、ゲッティンゲン大学に入学、翌年1812年、ベルリン大学に転じたが、1813年、プロシャ義勇軍に投じて出征した。1816年、イルムに学校を開く。1838年、世界最初の幼稚園を開いた。しかし、1844年、政府の誤解により幼稚園は閉鎖された。
彼の教育論は汎神論から出たものである。
著書「人の教育」1826
コフカ・クルト Kurt Koffka 1886—1941
ドイツの心理学者。形態Gestalt心理学者。1886年、ベルリンに生まれた。ベルリン大学、エディンバラ大学に学ぶ。1908年、ウェルトハイマー、ケラー等と共にフランクフルトで研究。1910年、ギーセン大学私講師。1918年~1927年、コーネル大学教授。最近、米国のスミス・カレッジのウイリアム・アランネルスン研究所教授として心理学を担当している。
Wikiによれば、ユダヤ系心理学者。ゲシュタルト心理学の創始者の一人。ゲシュタルト心理学を発達心理学に応用した。彼の「行動的環境」behavioral environmentや「心理的環境」とは、人は物理的・地理的環境に対して行動しているのではなく、自らが認知した主観的環境に対して行動しているというものである。
コーエン・ヘルマン Hermann Cohen 1842—1918
ドイツの哲学者。新カント派マールブルヒ学派の創立者。ユダヤ人。1861年、ブレスラウ大学で、1864年、ベルリン大学で学ぶ。1873年、マールブルヒ大学講師。1876年、その師アルバート・ランゲの後を承けて哲学の正教授。
彼は19世紀後半における当時の哲学と科学との混同を否とし、一度「カントに還って」科学から哲学を区別し、その本領を明らかにしようとする。そして彼は端的にカントの論理的認識論に立脚し、この思想を特殊の方面に発達させて、主として数学と自然科学に根本的な基礎づけを与えた。
著書「カント経験論」「純粋経験の論理学」
338 コント・アウグスト Auguste Comte 1798—1857
社会学の祖。1798年、南フランスのモンペリエに生まれた。年少の頃パリの工科学校に入学したが、中途で(卒業を前に騒動の首謀者とされ)放校され、(数学の)個人教授をしたり、一時1817は社会主義者サン・シモンの弟子となったりした。1826年、自己の思想(実証哲学)を自宅で講じたが、家庭上の不幸と過労とで精神異常となり、自殺を企てた。1829年、健康を回復して講義を再開し、「実証哲学(講義)」を執筆。晩年は孤独の生活を送り、1857年に淋しく死んだ。
Wikiによれば、社会学者、哲学者、数学者、総合科学者。サン・シモンとは1824年に「喧嘩別れ」した。1841年から1847年までジョン・スチュワート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始した。生涯を在野の学者として過ごした。
サン・シモンから得た思想を体系化し、革命と王政復古後のフランスの混乱の再建を志し、1822年に『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』を執筆した。人間の知識が段階的に神学的、形而上学的、実証的の三段階を経るとした。
ゴンペルツ・テオドル(テオドール・ゴンペルツ) Theodor Gomperz
1832—1912
オーストリアの哲学者。ウイーン大学教授。哲学史家。ギリシャ哲学史家。
著書「ギリシャ思想家」
エルゼンハウス・テオドル(セオドア・エルセンハウス) Theodor
Elsenhaus 1862—1918
ドイツ現代の心理学者、倫理学者、新カント派哲学者。ドレスデンの実科高等学校教授。心理学を認識論の基礎の上に置く。倫理学とは道徳意識の学であり、良心が即ち人間が本有する道徳意識であるとする。
著書「心理学と論理学」「心理学における自己内省と経験」
ディルタイ・ウイルヘルム(ヴィルヘルム・ディルタイ) Wilhelm Dilthey
1833—1911
哲学者。現代の哲学界で主流の精神科学派の祖。カントと共に近世哲学の祖。1833年、ドイツのライン河畔ビイブリッヒに牧師の子として生まれた。ゲッティンゲン大学とベルリン大学で哲学を学び、1864年、ベルリン大学の私講師となる。間もなくバーゼル大学に転じ、次にキール大学、ブレスラウ大学等の哲学教授を歴任。1882年、ロッツェの後を承けてベルリン大学哲学教授。1911年、ホーツェンで死す。学会におけるその功績はあまりに有名である。
Wikiによれば、記述的・分析的心理学を標榜し、その流れは了解心理学につながる。ヤスパースやハイデッガーに影響を与えた。
339 テンニース・フェルジナンド(フェルディナント・テンニース)
Ferdinand Tönnies 1855—1936
ドイツ社会学会のオーソリティーである。1855年、シュレスイヒ州(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)に生まれる。フースムHusumのギムナジウム卒業後、ライプチヒ、ボン、ベルリン、キールの諸大学に遊ぶ。1881年—1912年の間に私講師としてキール大学に務め、1913年から同大学の正教授。
彼の哲学研究の傾向は「批判的主意論」であり、この方面から「意志結合」としての社会学を創設した。著書「共同社会と利益社会」1887はドイツ社会学会の最高の傑作と称される。現在77歳の高齢にもかかわらず壮者をしのぐ旺盛な攻学心を持ち、続々と研究を発表している。現ドイツ社会学会会長である。
Wikiによれば、労働組合運動や協同組合運動に積極的に参加し、フィンランドやアイルランドの独立運動を支援した。1932年~1933年、ナチズムと反ユダヤ主義を公然と非難し、キール大学名誉教授の地位を奪われた。
ゲマインシャフト(共同社会)からゲゼルシャフト(利益社会)へと歴史的に発展すると説く。
デューイ・ジョン John Dewey 1859—1952
米国哲学会の第一人者。1859年、バーモンド州に生まれた。教育者の必読の書として知られる「デモクラシーと教育」の著者である。1884年、ジョンズ・ホプキンス大学で学位を得た。1888年、ミネソタ大学教授、後年シカゴ大学教授。シカゴ大学に世界新教育運動の動機と称せられる実験学校を建設し研究した。哲学研究や心理学研究の傾向はプラグマティズムを奉じ、実践的研究を主張した。1904年、ニューヨーク市のコロンビア大学教授。1931年退職。
Wikiによれば、機能主義心理学。進歩的民主・民衆主義者。
リチャード・ローティは「デューイは我々をプラトンとカントの呪縛から解放した。17世紀の哲学者がスコラ哲学に対して革命を興したように、デューイが「正確な表象」というそれまでの知識理論を拒絶した点で、ウィトゲンシュタインとハイデッガーに並ぶ」とする。ヘーゲル的な観念論を、経験と反省の世界に引き戻し、市民的な思考の道具として「考える」ことを再構築した。
ミシガン時代(1884年ミシガン大学講師、1886年同大学助教授、1889年同大学教授)にヘーゲルやドイツ観念論を研究していたが、1891年に留学先のドイツから帰国しミシガン大学の講師になったジョージ・ハーバート・ミードとの交友によってヘーゲルから抜け出した。
問題解決学習。人間の自発性を重視する教育。
デソアール・マクス(マックス・デソワール) Max Dessoir 1867—1947
ドイツ現代の美学者、心理学者。心理学者としては「二重意識」を唱え、美学者としては「芸術は美を固有するものではなく、美的表現である」とする。
著書「二重自我論」「近世ドイツ心理学史」「潜在意識論」「美学と一般芸術科学」
Wikiによれば、デソワールは自伝『回想録』の中で自身をクウオーター・ユダヤ人としている。1933年、ナチス党はデソワールの教授活動を禁止した。
340 アヴェナリウス・リヒャルト Richard Avenarius 1843—1896
ドイツの実証主義哲学者。パリに生まれる。ライプチヒ大学卒業後、同校の講師。1877年、チューリヒ大学哲学教授。
純粋経験の原理を力説した経験的批判論の創始者。
著書「純粋経験の批判」「人間の世界概念」
アルデイゴ・ロベルトー(ロベルト・アルディゴ) Roberto Ardigò
1828—1920
イタリアの実証哲学者、社会学者。イタリア社会学の開祖。彼の著述の全ては「哲学研究」10冊1882に収められている。著書「社会学」1879
Wikiによれば、ローマ・カトリックの司祭から1869年、神学と信仰を放棄した。
アドラー・アルフレッド Alfred Adler 1870—1937
オーストリアの精神病学者。1870年2月、ウイーンに生まれる。同地の大学でフロイドに就いて精神病学を専攻し特に自我の研究に専心する。研究上の立場からフロイドから離れ、現在はウイーン大学で心理学を講義する。同時にレニングラード科学及精神病学アカデミーの名誉会員を兼ねる。
Wikiによれば、精神科医、精神分析学者、心理学者。パーソナリティー理論や心理療法を確立した。第一次大戦前の息の詰まるような伝統的な権威主義的な教育に反対した。児童相談所を設立した。
しかし批判もされ、1919年、ポッパーはアドラーが自身の劣等感理論で、話に聞いただけで診たこともない小児の症例を分析する方法を、ニセ科学だと批判した。
キュルペ・オスヴァルト Oswald Külpe 1862—1915
ドイツの心理学者、哲学者。ライプチヒ、ベルリン、ゲッティンゲン、ドンバトの各大学に学び、ブントの心理学実験室の助手。ボン大学哲学教授。
彼の哲学は批判的実在論とも称すべきもので、その認識論では理性論を採り、思惟の意義を力説する。心理学、論理学でも独特の思想を持つ。
著書「心理学綱要」「哲学概論」「現代ドイツ哲学」「認識論と自然科学」
ミル・ジョン・ステュアート John Stuart Mill 1806—1873
イギリスの哲学者、経済学者。ロンドンに生まれる。
彼は社会哲学者としてベンサムやコントの影響を受け、その最大幸福を理想とする功利説は、彼の中心思想であったばかりでなく、彼の全生涯を通ずる道念(求道の心)であった。彼の性格は謹厳にして正直、常に道徳を固守し、グラッドストンを嘆ぜしめた。
著書「論理学体系」1843、「経済学原理」1848、「自由論」「功利主義」1863、「自叙伝」1873
Wikiによれば、自由主義、リバタリアニズム、社会民主主義、ラッセルの分析哲学などに影響を与えた。
ミュンステルベルヒ・フーゴー(ヒューゴー・ミュンスターバーグ) Hugo Münsterberg 1863—1916
ダンチヒに生まれる。ライプチヒその他で哲学と自然科学を学ぶ。1892年招聘されて渡米し、ハーバード大学心理学教授。
「活動説」という生理的心理学説を唱え、これをフィヒテの主意的観念論と結びつけ、一種の価値哲学を建設した。
著書「心理学と人生」「心理学原理」「永久的価値」
Wikiによれば、ドイツ出身のアメリカの心理学者・哲学者。その産業心理学では、心理的・社会的要因が作業効率に与える影響を考察した。
ミューラー・フライエンフェルス・リヒァルト Richard Müller-Freienfels 1882—1949
ベルリン国民専門学校、中央教育研究所の教授。心理学、美学。1882年、バッド・エムズBad Emsに生まれる。ミュンヘン、ベルリン、ウイーン等の大学で哲学や心理学を専攻。心理的美学を研究。後ベルリンの音楽学校教授、美術学校の美学講師。最近現在の地位についた。
シュテルン・ウイリアム William Stern 1871—1938
ハンブルグ大学の心理学及び哲学教授。応用心理学、青年心理学。1871年、ベルリンに生まれる。1892年、ベルリン大学を卒業。1897年、ブレスラウの専門学校教授。1898年、同地の大学の私講師。爾後18年間心理学と哲学を講義した。1916年からモイマン教授の後を継いでハンブルグ大学に転じ、今日に至る。同大学の哲学研究所と心理学実験所の主任。「教育心理学及び実験教育学雑誌」を主宰。
Wikiによれば、IQという概念の創始者。ユダヤ人のため1933年、ナチス政権を逃れてオランダからアメリカに移住。米のデューク大学で講師から教授に。
342 シュペングラー・オスワルト(オスヴァルト・シュペングラー)
Oswald Spengler 1880—1936
ドイツの哲学者。文化哲学者として1917年、極めて突如として欧州特にドイツで流行したシュペングラーは、多年ドイツのライン地方のミュンヘン高等学校で、密かに哲学と数学の研究と上記の結果を齎す大著述に従事していた。1918年、「西洋の没落」を発表してから一躍有名になった。
Wikiによれば、文化哲学者・歴史学者。『西洋の没落』1918, 1922は、当時のヨーロッパ中心史観・文明観を痛烈に批判した。
国民的な「血の共同体」による社会主義は、貨幣とその政治的武器である民主主義の独裁を打ち破り、「貨幣は、血によってのみ克服され、支配され得る」とし、国民社会主義は資本主義に勝利するとする。(『西洋の没落』第二巻1922に見られるナチズムとカエサル主義)
社会主義はプロイセンの伝統的特性であり、ドイツを19世紀イギリスの唯物論と実証主義の産物であるマルクス主義から解放すべきであるとする。(「プロイセン的特性と社会主義」1919に見られるプロイセン的社会主義)
感想 危険な人物だ。
シジウイック・ヘンリー Henry Sidgwick 1838—1900
イギリスの実用主義哲学者、倫理学者。ケンブリッジ大学教授。彼は学生時代からミルの感化を受け、グリーンと密接に交わった。
彼はミル、カントの倫理説から出発し、功利的倫理説を唱え、直覚説をその基礎に置いた。
政治学、経済学、文学などにも造詣が深く、実際の政治問題や女子教育、社会問題にも尽くした。
著書「倫理学説批判」「経済学原理」「政治学要講」「実践倫理学」「哲学の目的と限界」
ジェームス・ウイリアム(ウイリアム・ジェームズ) William James 1842—1910
最近のアメリカが生んだ最大の哲学者。ニューヨークに生まれた。幼くしてヨーロッパに渡り、ロンドン、パリで家庭教師に就いて学び、スイスのジュネーブ大学で暫く学んだ。19歳のとき、ハーバード大学で動植物学を学び、1873年、同大学教授となった。1880年、哲学教授、1889年、心理学教授。1897年以後専ら哲学教授となった。彼の根本思想は実用主義と徹底的経験論である。
著書「心理学原理」「信仰の意志」「多元的宇宙」
Wikiによれば、哲学者、心理学者、プラグマティスト。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ。
ウイリアム・ジェームズは心理学の父。西田幾多郎や夏目漱石に影響を与えた。「超常現象を疑う人にはそれを信じるに足る証拠はない」とする。
シュタインタール・ハイマン Heymann Steinthal 1823—1899
ドイツの心理学者、言語学者、文献学者。ベルリン大学教授。彼は義弟のモーリツ・ラツアール(ラーツァルスMoritz
Lazarus)と共に「民族心理学及び言語学雑誌」を発行し、共に民族心理学を創始した。
著書「言語の起原」「文献学」「一般倫理学」「聖書及び宗教哲学論」
Wikiによれば、言語哲学的研究。心理学的方法を言語研究に導入。社会心理学の先駆。ユダヤ教学の確立に加わった。
シュッペ・ヴィルヘルム Wilhelm Schuppe 1836—1913
ドイツの哲学者。1873年、グラィスヴルト(グライフスヴァルトGreifswalt、ドイツ北東端のハンザ都市)大学教授。
バークレーの唯心論とカントの観念論を継ぎ、一切の存在は意識に内在すると説き、内在哲学と意識一元論の創唱者となる。
著書「倫理哲学と宗教哲学の根本」「内在哲学」「心理主義」「倫理学の規範的性質」
Wikiによれば、フッサールの現象学を発展させた内在哲学の創始者。
シラー・エフ・シー・エス F. C. S. Schiller (Ferdinand Canning Scott
Schiller) 1864—1937
現代イギリスの実用主義哲学者。オクスフォード大学教授。彼は実用主義を奉ずるが、自己の学説を人本主義と名づけ、実用主義よりさらに広い。認識問題だけでなく、倫理、社会、その他一切の人間経験を人間中心的に証明する。人間は万物の尺度であると。
著書「人本主義研究」「人本主義」「形式論理学」
Wikiによれば、ドイツとイギリスの哲学者。生まれはドイツ。晩年南カリフォルニア大学で教えた。
ジンメル・ゲオルグ(ゲオルク・ジンメル) Georg Simmel 1858—1918
ドイツの新社会学者として最も有名な人である。即ち彼は綜合社会学がエンサイクロペディア式であることに反駁し、社会の形式を研究する新社会学としての形式社会学の創説者である。
1858年、ベルリンに生まれた。彼は多彩な思想を持ち、その学術的見解と様式は、哲学、社会学、経済学、芸術学の各方面に渡り、現世紀初めのドイツ哲学界を風靡した。1914年、ストラスブルグ大学教授。1918年、60歳で同地に没す。
Wikiによれば、ニーチェと同様生の哲学である。
シュプランガー・エドワード(069, 094, 144, 153等多数個所で言及、エドゥアルト・シュプランガー)
Edward Spranger 1882—1963
ドイツの教育学者。1882年、ベルリンの近郊グロス・リヒターフェルド(Wikiでは単にリヒターフェルデLichterfelde)(「グロス」は「大」großか)に生まれた。ベルリン大学で哲学を学び、特にディルタイに師事した。1905年、同大学の哲学の私講師。1911年、モイマンの後を承けて、ライプチヒ大学教育学員外教授。1912年、同大学正教授。1920年、ベルリンに帰り、同大学で教育学を講じ、現在に至る。文化教育学の創説者。日本でも多くの著書が翻訳されている。
Wikiによれば、1936年~1937年の間客員教授として来日したが、これは彼がヒトラーに批判的であったため、冷却期間とするためだった。郷土科、職業教育学、人間の6類型(理論型、経済型、審美型、宗教型、権力型、社会型(社会奉仕や福祉))
344 ウェーヴェル・ウイリアム(ウイリアム・ヒューウェル)
William Whewell 1794—1866
イギリスの哲学者。1794年、ランカスターの貧しい家庭に生まれる。奨学金を得てケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに学ぶ。1824年、ケンブリッジのトリニティー・カレッジの道徳学教授。1841年、学長。1855年、副大法官。
カントの認識論をイギリスに導入した。直覚的倫理学者、帰納法研究者、数学者、物理学者。
著書「帰納科学の哲学」「道徳原理」
Wikiによれば、科学者、科学史家、科学哲学者、司祭、神学者。カント流の合理主義的科学哲学者。英語で「科学者scientist」という言葉を発明した人物。
スターリング・ジェームス・ハチンソン(ジェームス・ハチソン・スターリング) James
Hutchison Stirling 1820—1909
スコットランドの観念論哲学者。ドイツで哲学を学び、帰国してヘーゲルの哲学をイギリスに紹介した。カントとヘーゲルの哲学を密接に関係づけようとした。その著「ヘーゲルの秘密」をクローチェが称賛している。
著書「原形質について」「カント哲学入門」「思惟とは何ぞや」
Wikiによれば、イギリスにおけるヘーゲル主義者。イギリス伝統の経験論に対抗した。
スピノーザ・バルーフ(バールーフ・スピノザ) Baruch Spinoza
1632—1677
オランダの哲学者。ユダヤ人。1670年、無名で著書「神学的政治策」を出版し、聖書の歴史的批評を試み、信教の自由を論じ、宗教家やその他の人々に嫌われた。彼の生涯は恬淡(心静かで無欲)寡欲、しかも迫害と非難の中で静かに自己の哲学を編み、真理を闡明した。
著書「エチカ」「神学的政治論策」「知的改良論」
Wikiによれば、近世合理主義哲学者。その汎神論は新プラトン主義的な一元論であり、後世の無神論や唯物論に影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。デカルトを引き継ぐ。神即自然という自由意志を避ける徹底的な決定論。『エチカ』は幾何学のように演繹的に論述される。意志は必然であって、自由はないとする。
裏表紙の書籍の宣伝文句
文学士 永野芳夫『論理学概論』菊版最上製540頁 定価金三円八十銭 送料十八銭
真理はやはり命そのままのものであらう。ピクピク動くやうな、血の出るような生きた真理を私は見たい。と著者は言ふてゐる。
本書は普通論理学の全般を含む上、更に新傾向の一切を概説し殊に認識論的論理学は特異な深き研究である。懇切平易を旨として叙述したれば至難と言われてゐる斯学研究の最良書である。
東京市本郷区蓬莱町六六 日本教育学会 電話小石川六〇五三
定価金壱円五拾銭
以上