大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990
第一章 枝吉家の人々と副島種臣
第二章 倒幕活動と副島種臣
第三章 到遠館の副島種臣
19世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館026では「国学」の研究が行われていたという。その中心人物は副島種臣の兄の枝吉神陽(経種)であり、神陽は「楠公義祭同盟」を結成1851し、倒幕のための政治運動を展開した。028
その「日本一君主論」とは、幕府の主従関係による君臣関係を否定し、天皇と人民との間での君臣関係しか認めないというものである。しかしそれは倒幕には有効な理論だったかもしれないが、本質的には身分制の承認であり、全く代り映えのないものだった。027
そして現在の右翼も天皇制=身分差別性を後生大事に認めているのだから、いつの時代に住んでいるのか、という感がする。
第四章 政体書と副島種臣086
090 草莽諸隊の粛清
国学の思想に目覚めた豪農・神職・浪人・農民など「草莽の徒」が、官軍による江戸城攻撃1868の先鋒ゲリラ部隊として協力したが、官軍と幕府との妥協が成立するころから、官軍はこれらを「偽官軍」として粛清した。草莽の徒は年貢半減を要求していた。草莽の徒の一つである「赤報隊」は、信州地方の相良総三が率いていたが、江戸城開城前の3月26日に、官軍東山道鎮撫使総督によって、相良総三以下7名が、裁判もなしに首を斬られた。
五箇条の(御)誓文を若干16才の明治天皇が書けるはずはないと思っていたが、木戸孝允が中心となって起草したらしい。1868年4月6日のことである。会議によって決定する、民衆の気持を大事にする、旧習を打破する、世界の知識を求めるなど進歩的である。ちなみにこの日は勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城を談判した日でもある。091
しかしこの五箇条の御誓文と同時に民衆に布告された五箇条の「高札」は、進歩的な五箇条の誓文とは異なり非民主的な内容だった。つまり第二の高札では「一揆をするな、村から逃げ出すな」、第三の高札では「キリスト教は厳禁」というもので、村人を税収の対象として逃がさず、反抗も許さず、信教の自由も許さなかった。092
副島種臣と福岡孝弟(藤次、土佐藩)がまとめたとされる「政体書」による政権の会議のあり方は、アメリカの政体も参照したとされるが、それは形式的なものにとどまり、内実は千数百年前の律令をそのままに復古させた旧態依然としたものであった。
位階制が重視され、実力のない皇室(親王)、公家(公卿)、大名(諸侯)などの一等官が部屋の中に座り、実力はあってもせいぜい二等官までの下級武士は部屋に上げられず、部屋の外の庭に座って意見を述べたという。その様子について、福井藩士で参与だった由利公正(きみまさ)はこう述べる。
「従来、各参与は無位たるため昇殿することができず、正殿の階下砂上に円座を敷いて朝議に列する次第であったが、席上発言を擅(ほしいまま)にするのは主として参与連中であって、上座の公卿は堂縁に出て一々問答せねばならず不便極まりなかったに因るという」101
皇族・公卿・大名の特権は、皇族・華族制度や貴族院として残り、それが敗戦までつづいた。102
政体の変化
1868年6月に発表された「政体書」による太政官体制は半年で消滅し92, 103、1869年8月、大宝律令に基づく「職員令」という新太政官制=絶対天皇制の下での藩閥独裁制106が始まり、各種の合議制は空洞化した。同年9月の「太政官規則」は初めて天皇について規定し、天皇の「神聖で万機独裁」の権力と職務を明確にし、太政官以下の官制は天皇を「輔弼」する任に当たるという思想を明確に打ち出した。つまり官吏は天皇にのみ奉仕するとされたのである。105
この職員令は大久保が中心となり副島も加わって起草され107、1885年明治18年の内閣制度の創設まで続いた。105
国体論の定義
107 岩倉、大久保、木戸は「天皇制の強化こそ危機を乗り切る絶対の方策」と考え、万機親裁の「建国の体」即ち「国体」は、万古不易のものでなければならないが、「政体」は時勢に適した臨機のものであるべきだと論じた。それまで議論百出で明確な定義のなかった「国体」の観念をここで明らかにしたのである。
第五章 明治初期刑事法制と副島種臣
119 基本的人権と刑罰法定主義 津田真道(まみち)訳1866、フィッセリング『泰西国法論』は、「犯罪の人もまた本国の住民にして住民の権を有す。この権は之を敬せずば有るべからず」と基本的人権を唱えた。
123 幕府時代は身分刑法だった。「礼は庶民に下さず、刑は大夫(武士)に上さず」(礼記曲礼)*
*礼記の曲礼は礼記の最初の2編で、日常の礼を述べた。
127 副島種臣は大逆罪に反対し、「新律綱領」1870.12原案における「謀反・大逆の条」を削除させ、その後改訂された「改訂律例」1873.6でもそれは規定されなかった。(穂積陳重(のぶしげ)『法窓夜話』)それが当然。
しかしこの大逆罪が1880年(明治13年)の「旧刑法」で復活した。それは伊藤博文が「刑法審査局」総裁になってからのことだった。旧刑法原案の「天皇の身体に対する罪と内乱に関する罪」の規定は審査で大問題となったが、内閣の議で残り、以後の刑法(今日の刑法の原型)1907*でも踏襲され、敗戦後の1947年まで続いた。
*現行刑法は1907年に制定されたものである。
113 1869年、江藤新平が、ナポレオン法典(コード・ナポレオン)の箕作麟祥(みつくりりんしょう)による翻訳を副島に所望し、三条・岩倉にも請い、「このことだけは私にさせてくれ」と司法省の組み立てのためにこの訳本を持って帰った。(『副島伯経歴偶談』東邦協会会報第44号)
117 プロシャ、イタリア、オランダ、スペインなどヨーロッパ諸国はナポレオン法典によってそれぞれ自国の法律を定め、判例法定主義のイギリスの法律学者も「法律をつくるならばナポレオン・コードによらざるを得ない」と言っていた。
第六章 外交家としての副島種臣130
総論130
その一 マリア・ルース号事件と副島種臣133
明治初年頃の国際関係が分かった。
米国でアフリカからの黒人奴隷輸入が禁止され、その代わりに、アヘン戦争以来敗れ続けた中国の人民、特に南方(浙江省や福建省138)の清国人農民が、準奴隷としてアメリカに運ばれた。134そこで活躍したのが悪どいイギリス商人だった。英米当局は人道主義を唱えるが、実際は中国人奴隷が酷使され、大陸横断鉄道の建設134, 137に使われた。
ちなみに大陸横断鉄道が完成したときに歌われた米国歌スター・スパングルド・バナーThe Star-Spangled Bannerは、米西戦争の勝利にちなんで作詞された。その歌詞の一部は、135
… the rockets’ red glare,
the bombs bursting in air
gave proof through the night that
our flag was still there
中国人奴隷はペルーでも鉄道建設や鉱物(金銀)採掘に使役された。139その奴隷輸送船が小笠原付近での台風のために船体が破壊され、その補修のためにたまたま日本に寄港した。
事件の発端は同船から逃亡した奴隷をイギリス艦船が救助したことで、それをイギリス公使が日本政府に伝え、米公使も加わって日本を指導した。それに応接したのが副島だった。
このマリア・ルース号事件当時、日本では不平等条約が様々なところで結ばされていた。すなわち、
「横浜外国人居留地取締規則」151
第三条「外国人被疑者を逮捕した場合、当該国の領事に引き渡さねばならない」
第四条「神奈川奉行は、外国人取締役の助言および援助と外国領事の助言とをもって、清国人およびその他の無条約国人に対して、刑事上および民事上の裁判権を行使すること」
つまり外国人の裁判は当該国の領事がやり、無条約国人の場合は、日本人裁判官に(英米などの)領事が同伴するというものである。マリア・ルース号のペルーは無条約国だから、外国人取締役や(英米)領事が同伴することになっていたのだが、副島はそれを部下の裁判官(神奈川県県令・大江卓)に蹴らせた。
判決案「吟味目安書」を事前に各国領事に送付したが、147これは文句を言われる前に各国領事に送付しておくという気兼ねからであった。それでも反対されたが、押し切った。
ペルー船船長のヘイエラは賠償金を請求したが、それをはねのけた。150
ペルーの海軍大臣ガルシアが来日し、損害賠償を請求した。153アメリカの斡旋でロシアに仲裁してもらうことになった。155当時二国間の紛争を第三国に仲裁してもらうことが慣例となり始めていた。米独立戦争時の米英紛争解決のためのジェイ条約がそれを規定し、それが欧州にも広まった。155ロシアのアレクサンドル二世156は、農奴解放を断行した啓蒙的専制君主であった。
ペルーから日本の芸妓・娼妓も奴隷ではないかと指摘されたが、当時日本はすでに芸妓・娼妓の廃止に取り組んでいた。しかし結果的に江戸時代以上に公娼が盛んになった。162
総論130
131 1871年10月4日、岩倉具視・外務卿が外遊するのに伴って右大臣に任命され、1871年11月4日、副島種臣が岩倉具視の後を継いで外務卿に任命された。
132 外務省百年史編さん委員会編『外務省の百年』は副島を評価しているが、133 副島の日清外交の「成果」は、その後の台湾・朝鮮への侵略につながっている。
その一 マリア・ルース号事件と副島種臣
134 1865年12月18日、アメリカ憲法修正第13条は「奴隷および本人の意に反する労役は、当事者が犯罪に対する刑罰として正当に有罪の宣告を受けた場合を除き、合衆国内またはその管轄に属する如何なる地域内にも存在してはならない」と奴隷制を禁止した。
135 大陸横断鉄道建設で酷使されたのは(馬鈴薯が不作で飢饉に襲われたアイルランドの貧農136など)アメリカに来たばかりの移民労働者だった。苛酷な労働と不衛生のために、「枕木の数ほど」墓標の列ができたという。また鉄道会社が雇った猟師はバッファローを殺して食糧とし、それと共に暮らしていたインディアンの生活の糧を奪い、労働者の逃亡を監視し、労働組合結成の動きを潰した。
137 現在でもサンフランシスコにはチャイナタウンが、ロスアンジェルスにはリトル・トーキョーがあり、二つの鉄道(セントラルパシフィックとユニオン・パシフィック134)が合流したユタ州オグデン付近には、この鉄道で働いた日本人移民の子孫が多く住んでいる。
138 アヘン戦争1840-42や太平天国の乱1851-64などで疲弊した清国南部の海岸地方の浙江省や福建省などの農民が、白人ブローカーの詐欺に近い甘言に乗せられ、上海、寧波(にんぽー)、香港、アモイなどの港から、米本土に半ば奴隷状態で連れて来られた。この清国人奴隷貿易は1850年代の中ごろから盛んになった。
イギリスは1807年に奴隷売買を廃止し、1833年、西インド諸島での奴隷制度を廃止した。また香港での奴隷貿易も禁止され、奴隷貿易の中心地はマカオに移り、中国人奴隷はマカオ、ペルー、キューバを経由してアメリカに送られた。
奴隷貿易でもっとも経験豊富で悪辣だったのはイギリス商人だった。
(アメリカでは大陸横断鉄道の建設で奴隷が使役されたとのことだが、法的には奴隷制が廃止されたため、清国人奴隷貿易の中継地であるペルーに奴隷が流れたようだ。)
139 ペルーではイギリス資本借款によるグアノ(鳥糞)や金銀の採掘や、アンデス山脈越えの鉄道建設に清国人奴隷が使役された。このころ9万人の清国人が運ばれた。現在でもペルーには中国系子孫が多い。
140 1872年6月初め、ペルー船籍のマリア・ルース号は小笠原諸島付近で台風に会って船が壊れたので、6月4日、横浜に修理のために立ち寄った。当時の神奈川県令は陸奥宗光であった。
マリア・ルース号の船長ヘレイラは、ペルーのリマのアルタウスの依頼によりアモイに赴き、清国人下層労働者苦力(くーりー)231名をペルーに運ぶ密命を帯びていた。
141 横浜入港3日後の6月7日ごろ、付近に停泊していたイギリス軍艦アイアン・デューク号が、木慶(もくひん)という清国人苦力が漂流しているのを救助した。木慶はマリア・ルース号船内で多数の苦力が虐待を受けていると訴えたため、艦長はイギリス代理公使ワトソンに連絡し、ワトソンはこれを座視できないとして神奈川県庁に報告し、木慶の身柄を引き渡した。神奈川県はヘレイラを呼んで事情を聞いたが、虐待の事実を否認したので、木慶はマリア・ルース号に帰された。
ヘレイラは木慶を鞭で打ち、辮髪を鋏で切った。その悲鳴はアイアン・デューク号からよく聞こえた。
数日後、鄧安という苦力がマリア・ルース号から逃げてアイアン・デューク号に救助を求めた。ワトソン代理公使はマリア・ルース号の視察を申し入れたが、ヘレイラは拒否した。
142 ワトソンは米代理公使のシェパードと相談した。二人は、マリア・ルース号の中で非人道的な行為が行われ、同船が奴隷運搬船である容疑が濃厚なので、それぞれの本国の奴隷制度廃止方針に基づき、対処することになった。二人は外務卿副島にマリア・ルース号の真相を報告・勧告した。
「神奈川県には日本の裁判所がある。マリア・ルース号で他国の者に罪人同様の罰を加えるのは明治政府の司法権を侵害するので、糾明する必要がある。マカオとペルー間の船内での苦力は虐待されている。将来日本人にも被害が及ぶ恐れがある。清国と日本とは友好関係にある。これは無視すべきでない。この事件は日本の領土内で起こっているから、日本政府の司法権が発動されるべきだ。証拠を隠滅しないよう監視をつけるべきだ。明治政府が捜査すれば、自分も立ち会って協力する」
米代理公使のシェパードも同趣旨の勧告書面を副島に送った。ワトソンは副島を訪ねて要請した。
座礼・立礼謁見にまつわる副島の対応
143 ワトソンは1871年に日本に赴任し、欧州慣行の立礼で天皇謁見したいと申し入れたが、副島は「使節が外国の礼法に従うことは国際法上当然であり、立礼でなければ謁見を望まないのならそれもよかろう」と答え、ワトソンは謁見を見合わせた。間もなくロシアとアメリカの公使が、立礼・座礼のいずれでもいいから謁見したいと申し入れ、明治天皇は立礼を用いた。ワトソンは再度謁見を申し入れ、天皇は立礼で応接した。
144 司法卿の江藤新平は、「海上の外国船事件に日本の裁判権など及ばない」としたが、副島は三条実美の決裁を得て、事件処理の全権を握った。神奈川県に「特別裁判所」を設置するように神奈川県令の陸奥宗光に命じたが、陸奥は国際問題に発展することを恐れて従おうとしなかったので、陸奥の神奈川県令職を解き、24歳の大江卓を「神奈川県県令」(県令と同じ地位)にし、特別法廷の裁判長にした。陸奥宗光は大蔵省租税頭として地租改正事業で多忙だった。
部落解放運動に献身した大江卓1847-1921
大江卓は土佐藩出身で、倒幕運動に参加し、伊藤博文の推薦で1869年、兵庫県外国事務御用掛となったが、退官して上海へ外遊した。
145 そこで大江は清国人が外国人から差別を受け、職に就けず、道を歩けない様を見て帰国した。また神戸の湊川で部落差別の実態を見た。(雑賀博愛『大江天也伝記全』)大江は穢多・非人を調査し、土佐人で三菱財閥・岩崎弥太郎の援助を受けて上京し、参議・大隈重信邸に寄宿した。
大江は大隈に穢多という呼称の廃止を進言し、1871年1月、大隈の紹介で、民部大輔・大木喬任に会い、その諮問で「穢多、非人、隠亡(おんぼう)を平民となす議」を建議した。
146 大江曰く「天地の通義にもとづき、平民同一の権利を与え、同一の民法に従わしむべきこと当然なり」
1871年8月28日、太政官布告「賎民解放令」が布告された。
「穢多、非人の称廃され候条、自今、身分、職業共、平民同様たるべき事。
同諸府県へ、穢多、非人の称廃され候条、一般民籍に編入し、身分、職業共、都て同一に相成り候様取り扱う可し。尤も地租の他除蠲(けん、除く)の仕来も之有り候はば、引直し方見込み取調べ、大蔵省へ伺出る可き事」
この布告の直前の同年1871年4月に「壬申戸籍」が改定されたが、これは旧幕府がキリシタン禁制のためにつくらせた「宗門人別帳」を基礎にして作成された戸籍で、華族、士族、卒、祠官(しかん、神官)、僧侶、平民に区別し、一般民籍(平民)に新規登録された者に「新」の字を加え、「新平民」として差別を温存した。
大江は副島の支持と、神奈川県が法律顧問として雇ったアメリカ人弁護士ヒルの助力を受けた。
船長ヘレイラの代理人の英人弁護士ディッキンズは法廷でこう主張した。
一、マリア・ルース号は海賊ではないから、船上におけるいかなる行為も、日本の裁判管轄の及ぶところでない。
二、清国人船客とマリア・ルース号との契約はマカオで結ばれているから、ポルトガルの法律に準拠して審理されるべきである。
三、奴隷売買は日本の国法においても禁止されていない。
7月23日、大江は外務省の決裁を得て、事件の概要と判決案をまとめた「吟味目安書」を、各国の領事に送付した。判決案を事前に公表することは当時でも異例だったが、列強の干渉に気兼ねをしたものであった。
148 7月27日、大江裁判長は、この裁判を不正不法とするデンマーク、イタリア、ポルトガル、オランダ、プロシャの領事の抗議を押し切って、判決を言い渡した。
「船長は無罪。マリア・ルース号が自由に出港することを許可する。清国人船客は、日本国内においては、他の在日清国人同様の権利義務を認められ、奴隷的拘束と処罰を受けることはない。」
こうして船客たちは事実上、自由意志により、マリア・ルース号から解放された。
この裁判に関わらなかった清国人船客が他に13人いて、「ペルーで8年間家僕として労働する」契約となっていたが、みな年少者で、契約した覚えもなく、騙されたと申し出て、契約の廃棄を主張した。これについて裁判所は、
「この契約が奴隷売買であるか否かについては議論のあるところだが、当裁判所としてはこれに立ち入らない。しかし船客たちの自由が束縛されたというなら、それについて裁判所として判断する」
と、大江は国際的な奴隷売買が合法か否かの判断を回避し、専ら人身保護の観点で判決したが、
「この契約の合法か否かについては、船長、船客とも裁判所に提訴する権利がある」
と付け加えた。これは後に起る身柄引き渡し要求拒否の伏線となった。
さらに大江は、目安書の中で、
「船長の罪は日本の刑法典である新律綱領では、杖一百の鞭打ちの刑、あるいはこれに代えて罪人の位階に従って、一百の禁錮に相当するが、今回は裁判所の寛典をもって無罪とする」149 「しかし今後もし船長が日本国内で同様の事件を起こしたら、当裁判所は厳においてその不条理を責むべし」
と付言した。
149 ヘレイラは神奈川県庁に保護されている清国人をペルーに連れ帰るためにその身柄引き渡しを要求した。それに対して大江は、
「右、清国人らは、いずれも帰船を拒否し、この奴隷売買契約について規則通りの裁判をした上でなければ帰船できないと裁定している。もっとも目安書で申し渡した通り、この事件の関係者は契約について当県庁に訴えることは自由であるから、いずれ出訴があれば裁判する」
と回答し、身柄引き渡しを拒否した。
ヘレイラはイギリス人弁護士ディッキンズを代理人とし、清国人31名を被告として、移民契約履行請求の訴えを起こした。法廷に証拠として提出された移民契約書の内容は「清国人苦力は、年期8年の間、ペルー国で耕作、清掃、牧畜、その他何の職業にでも、雇い主の命令通りに働く義務を負う」とし、事実上の人身売買契約であった。
150 そしてその訴状には、
「先日の裁判は無効であり、清国人船客らは先に正当に締結された移民契約に背いて帰船を拒んだ以上、賠償金を払うか、帰船するかすべきである。さらに、出港が停止されていた期間の損害や裁判費用も被告らが支払うべきである。またこの裁判には横浜外国人居留地取締規則第四条に基づいて、各国領事の立ち合いがなされるべきである」
とあった。
これに対して被告らはイギリス人弁護士ジョン・デヴィットソンを代理人として次の答弁書を提出した。
「移民契約は清国の法律に反して非人道的であり、手続き上でも被告らに対して欺瞞を用い、威嚇したから無効である。従って帰船も損害賠償の義務もない」
裁判が開始されたが、大江裁判長は原告の要求である各国領事の立ち合いを求めなかった。この点に関してアメリカ公使のディロングから異議が申したてられたが、副島は大江に「この度の裁判には各国領事の立ち合いを必要としない」と指令した。
「横浜外国人居留地取締規則」は英米蘭プロシャの4か国代表が、1867年10月、横浜のイギリス公使館で会談した結果、制定されたものである。
151 そして彼らは横浜居留地行政の監督者として、横浜駐在の英領事館勤務のマーチン・ドーメンを任命し、イギリス公使パークスを代理として、幕府に右規則の制定と、ドーメンの任命を通知した。幕府は同年11月、各国代表あてに、右規則の承認を通告した。(当事者なしの一方的な押しつけ。ひどい)
この規則は7箇条からなる。
第一条 神奈川県奉行所に「土地・警察局」Land and
Police Officeを設け、外国人取締役一名を雇用する。(ドーメンが任命された。)
第二条 居留地行政の広範な権限を外国人取締役に与える。(安政の不平等条約と同じく日本の主権を侵害する)
第三条 取締役は横浜居留地内の安全を維持し、外国人及び日本人は、外国人被疑者を逮捕した場合、当該国の領事に引き渡さねばならない。
第四条 神奈川県奉行は、外国人取締役の助言及び援助と、外国領事の助言とをもって、横浜居留地ならびに神奈川港に居住する清国人及びその他の無条約国人に対して、刑事上および民事上の裁判権を行使する。
これは国際公法上有効であった。ペルーは無条約国であったので第四条が適用されることになるのだが、152 副島は第四条の「外国領事の助言をもって」に関して、助言が必要かどうかは日本の裁判所が判断できる、と大江を激励した。各国領事からも抗議がなかった。
原告代理人のディッキンズは日本の娼妓・芸妓の人身売買を追求し、原告の請求も容認されるべきだとした。
大江は8月25日、二回目の裁判の判決を言い渡した。それは被告の清国人の主張をほぼ認め、原告ヘレイラの請求を棄却した。清国政府から派遣された特使陳福勲に、全員の身柄が引き渡された。横浜在住の華僑たちが外務卿副島と裁判長大江に大旆(たいはい、大きな旗)を贈った。それは中国語の美辞麗句を連ねた感謝の文章で埋められ、今でも神奈川県立文化資料館に所蔵されている。
152 ペルー政府が抗議した。
ヘレイラはマリア・ルース号を放棄し、船員を置き去りにし、密かに一人の清国人少女を連れて上海に戻り、ペルーに帰国した。陳福勲は少女の取り戻しに努力したが、成功しなかった。放棄された船は数年後日本、ペルー、アメリカの合意で競売された。
ヘレイラはペルー政府に明治政府の不当性を訴え、ペルー政府は海軍大臣ガルシアを特命全権公使に、国際法学者フェデリコ・エルモゥレを書記官に任命して日本に派遣した。彼らは1873年2月に来日した。
副島がその交渉に当たった。ペルー側は、
「・公海上で発生したマリア・ルース号事件の裁判管轄権は日本にない、
・清国人船客の意思によらないで、イギリス代理公使の提案を信じて訴訟を提起したことは違法である、
・船長らの関知しないうちに船客を上陸させ、船長らの利益を無視した、
・外務省の指令に基づいて神奈川県の権限で裁判を行ったのは司法権の独立を損ない、行政官による裁判は不当である、
・同裁判所は横浜外国人居留地取締規則第四条に違反し、各国領事の異議を受け入れなかった」
とし損害賠償を請求した。
154 日本側はこれに対して
「・マリア・ルース号事件は日本の領海内で発生した、
・国際法上、公使という身分における発言は、正当な論拠をもつ、
・正当な吟味を行うために、マリア・ルース号の出航を停止しなければならず、裁判において船長らは反証・反論を提出する法律上の便宜を与えられていた、
・この事件が発生した時期に我が国の司法権と行政権の区別が不明確であったのは事実だが、それぞれの国法に照らして適法であるならば、国際法上においても正当な裁判所と認められるはずである、
・横浜外国人居留地取締規則第四条は単なる取り決めにすぎない、またその内容においても、各国領事の勧告を採用するかどうかは、神奈川県令の裁量にある」
と反論した。
この裁判の最中に(の前に)司法卿江藤新平が司法権の独立を図り、1872年9月5日、司法省職制章程を定め、裁判所、検事局、明法寮(法制局)などの制度をつくり、9月7日、神奈川、埼玉、入間の三県に司法省直属の三つの裁判所が開設されたのだが、この事件は引き続き大江の特別裁判所で裁判することになった。
155 両国間に合意は得られず、アメリカ公使ディロングは本事件を国際仲裁裁判所に付するように副島に勧告した。アメリカは1794年にイギリスとジェイ条約を締結し、両国間の紛争が外交交渉で解決できない場合は、仲裁裁判にするとの合意ができていた。
この条約に基づいてアメリカ独立戦争に伴う賠償問題や国境紛争が第三国の仲裁裁判に付され、その後この制度はヨーロッパや中南米諸国に普及した。
仲裁裁判は当事国の合意に基づいて構成される。
156 ペルーと日本はアメリカ公使の勧告を受け入れ、同年1873年6月25日、ロシア皇帝アレクサンドル二世(在位1855-81)に仲裁裁判を依頼した。
アレクサンドル二世は1861年2月に農奴解放令を公布し、土地付きで農奴を解放した啓蒙的専制君主である。
1856年のクリミア戦争でロシアは英仏連合軍にあっけなく敗北し、地主や貴族は農奴制を批判した。ただし農奴を所有する貴族は農奴制廃止に反対した。
ナロードニキは農奴解放を主張する知識人の集団だったが、農奴からは支持されなかった。157 ナロードニキは皇帝に対する爆弾テロを行って弾圧されたが、良心的な知識人や貴族の若者に支持された。日本では「ロシア虚無党」と翻訳され、危険思想だと宣伝された。
アメリカは当時ロシアと友好国だった。1874年、榎本武揚は駐ロ全権公使として、明治六年政変で参議を辞職した副島の後任としてペテルスブルグに赴任した。158 駐ロの榎本から副島宛の書簡によれば、
「閣下は現今政府の反対党であるが、前年、閣下在職中の外交はことごとく宜しく、私にもロシアは優遇すると毎度大臣がいう」
仲裁裁判はペテルスブルグで行われた。明治政府は外務大丞(たいじょう)・花房義質(よしただ)を、ペルー政府は上院議員ド・ラヴァルを派遣した。アレクサンドル二世は1875年5月29日「日本政府はペルー政府に対して信義を欠き妨害を与えた事実はない」と認定し、「日本政府に損害賠償の責任はない」との判決を下した。
このロシアによる仲裁裁判の前の日本での裁判で、原告代理人の弁護士ディッキンズは、日本の芸妓・娼妓の人身売買を指摘し、「日本では遊女売買の約定というもっと惨酷な奴隷制度が有効と認められている」と主張し、証拠として遊女の年期(年季)証文の写しと横浜病院の娼妓検診医治報告書を提出した。その医治報告書には遊女たちの悲惨な性病の実態が暴露されていた。(1872年7月中旬ころ)
大江卓145は「日本政府は近々公娼解放の政令を準備中だ」と答弁し、明治政府は1872年10月2日、「牛馬切りほどきの令」と呼ばれる芸・娼妓の人身売買禁止の法令「太政官第295号」を公布した。この公布は大江の答弁(9月上旬ころか、第二回公判判決は8月25日)から1か月も経っていない。
太政官第295号
「一、人身を売買致し、終身又は年期を限り其主人の存意に任せ、虐使致し候は人倫に背き有ましき事に付き、古来禁制の処、従来年期奉公等種々の名目を以て奉公住為致、其実売買同様の所業に至り以ての外の事に付、自今可為厳禁事。
一、農工商の諸業習熟の為め弟子奉公為致候儀は勝手に候得共、年限七年に過ぐ可からさる事。但双方和談を以て更に期を延るは勝手たる事。
一、平常の奉公人は一ケ年宛たるへし。尤奉公取続候者は証文可相改事。
一、娼妓芸妓等年期奉公人一切解放可致、右に付ての貸借訴訟総て不取上候事。
右之通被定候条屹度可相守事。」
160 この法令は「芸妓・娼妓を一切解放せよ、前借金・身代金については一切取り上げない」とする。つまり棒引きである。この問題点を改正して、政府は1週間後の1872年10月9日、司法省達22号布告を出して補足した。
「一、人身を売買するは古来制禁の処、年季奉公等種々の名目を以て其実売買同様の所業に至るに付、娼妓芸妓等雇人の資本金は贓金(ぞうきん、賄賂)と看做す故に、右より苦情を唱ふる者は取糺(ただし)の上其金の金額を可取揚事。
一、同上の娼妓芸妓は人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず、人より牛馬の物に返弁を求むるの理なし、故に従来同様の娼妓芸妓へ借す所の金銀並に売掛滞金等は一切債る(かりる、貸す、返す)へからさる事。但し本月二日以来の分は此限にあらす。
一、人の子女を金談上より養女の名目と為し、娼妓芸妓の所業を為さしむる者は、其実際上則ち人身売買に付、従前今後可及厳重の所置事。」
161 つまり、娼妓・芸妓の前借金・身代金は一切返さなくてよいというのだが、今日の民法では公序良俗違反や不法原因給付により返還する義務がないことになる。
この法令は1年で実質元に戻った。政府は対外的理由から本法令をつくり、解放された娼妓・芸妓の生活は考えていなかった。本法令公布の2日後の1872年10月4日、東京府知事大久保一翁は、各区長に法令の実施を布達する際に、「解放された女たちが自由意志で従来の営業を続けることは、申請により許可する」とし、162 さらに10月8日には「これまでの遊女屋渡世はすべて貸座敷と心得よ」と布達した。つまり「自由営業に座敷を提供する商売である」とした。これは街頭での客引きや密淫売を増やすことになった。
街頭に出た女たちは行くあてもなかった。もともと娘の実家は娘を売るほど貧困であり、5、6歳で売られて14、5歳から勤めさせられ、手に職もなく、たいていは元の店に舞い戻ったらしい。また店の主人は彼女らにこれまで通りの営業再開を役所に嘆願させた。
江戸時代から遊女屋は金持ちで、岡っ引き(私的に同心(警察)に雇われた刑事)を用心棒に雇い、奉行所の与力や同心に賄賂をはずんで警察権力と結託し、さらに上の政治家とも結びついていたから、その陳情嘆願運動の効果は大きかっただろう。
結局東京府の場合、本解放令は翌年1873年12月、「私娼つまり密淫売の弊害」を理由に、江戸時代の吉原と同じ公娼制度を復活させ、吉原、品川、新宿、板橋、千住の5か所に遊郭の営業を許可した。
163 江戸時代は吉原だけが幕府公認で、他は「岡場所」と言われて非公認の私娼窟だったから、明治政府はそれ以上を公認したことになる。全国各県もこれに倣った。1874年に東京警視庁が発足し、各府県警が(公娼の)許認可権を握り、江戸時代以上に業者と警察との癒着が続いた。1956年の売春防止法制定まで80年間、政府認可の公娼制度が続いた。
その二 「北方領土」問題と副島種臣
18世紀の初めにロシアのピョートル大帝が雇ったベーリングは、デンマークの探検家だった。166「ベーリング海峡」と命名したのはイギリスのクックだった。ベーリングはアリューシャン列島のベーリング島で壊血病のため亡くなった。167このときベーリングとは別の隊が千葉県安房(あわ)や下田沖にまで達した。
江戸時代は将軍が交替すると政治もがらり変わるようだ。田沼意次(10代将軍家治時代の老中)は開国的な考え方だったが、次の松平定信の時代(11代将軍家斉時代の老中)には元の鎖国政策に戻され、その政策が江戸時代末年まで続いた。170
オランダやイギリスは日本に必要以上にロシアを恐れさせた。当時英仏蘭が清国・朝鮮・日本や日本の北方の利権を漁ろうとしていた。ロシアは海軍力では英仏の後塵を拝していたが、日本との領土問題が生じるのはロシアとだけだった。171
「北方四島説」は江戸時代のプチャーチンとの交渉結果に基づくようだ。1853年7月18日、プチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航し、長崎でプチャーチンと、川路聖謨(としあきら1801-68)と筒井正憲とが交渉した。1854年正月にその交渉が終結し、同年12月、「日本国魯西亜国通好条約」が下田で調印された。択捉(エトロプ)島と得撫(ウルップ)島の間を国境と定め、樺太は領土を確定せず、日露混在のままとされた。177
この条約調印直前の安政大地震で露西亜艦隊が駿河湾で難破し、伊豆の西岸戸田(へだ)村で帆船ヘダ号をロシア人の指導の下で日本人船大工につくってもらって一部は帰国したが、一部はプロシャ船をチャーターした。しかしそのプロシャ船はカムチャッカ半島周辺でイギリスの艦船につかまり、クリミア戦争が終わるまでの2年間、イギリスに拘留された。178
ちなみに千島樺太交換条約は、明治8年1875年、榎本武揚とゴルチャコフGorchakov,
A.M.との間で調印された。北方四島論はこれよりも日本側が譲歩した主張である。
その三 日清外交と副島種臣
琉球の清国からの切り離しと日本国への取り込みに、天皇の政治形式(詔書)を利用する。1872年10月、琉球国王の慶賀使尚健を天皇に接見させ、琉球王尚泰を琉球藩主に封ずる詔書を天皇に発令させた。218
明治時代の政治家のもったいぶったきらびやかな服装や大げさな勲章を見よ。
権威を利用した外交。
当時は独ロも君主制だった。今でも英蘭西は君主制だ。
第七章 明治六年政変と副島種臣
232 朝鮮の大院君政権は日本が開国すると、「けがらわしい」として、17世紀初頭から続いていた通信使外交に基づく通商を拒否した。
1868年12月、明治政府の命により対馬藩主宗義達は、朝鮮国礼参判あての書簡を持った大修大差使樋口鉄四郎を釜山に派遣した。ところがこの書簡の中に「皇」や「勅」など、従来東アジアの中国文化圏の諸国間の外交文書では、中国皇帝のみが用いる慣習になっていた文字があること、また、対馬藩主の自称がこれまでの「対馬州太守拾遺平義達」から「左近衛少将対馬守平朝臣義達」に変わっていることなどを理由に、釜山近郊の草梁にいた朝鮮の対日交渉事務官吏の倭学訓導安東晙は、受け取りを拒否した。そしてこのような文書は大院君はもちろん草梁地方を統括する東萊府使にも伝達できないと主張した。
233 1871年7月、日本政府は清国と日清修好条規を締結したのを契機に、朝鮮に強硬に国交を求めたが、朝鮮は「洋夷に屈して開国した」と非難して応じなかった。
この年1871年の廃藩置県によって、対馬藩が担当していた朝鮮との外交通商は、明治政府が専権することになり、政府は自由貿易を唱えて、三井組の手代の多くが釜山に進出した。
朝鮮の「無礼」が伝えられると、国内では士族たちを中心に「征韓論」が高まった。
243 勝海舟『氷川清話』角川文庫の中の、勝が巌本善治と対談する際の発言から、西郷隆盛が明治六年の政変の時に朝鮮を武力で攻撃する意図がなかったことが分かる。
245 日本がアジア諸国を侮蔑するようになったのは、江戸時代後期の国学・皇漢学と明治の天皇制強化以後のことである。それまでは一部を除いてはそのような意識は少なかった。
246 江戸時代の200年間に清国とは国交がなく、琉球や朝鮮とオランダだけが、将軍に使節を送っていた。
勝海舟は日本・清国・朝鮮の三国同盟によって欧米に対抗しようと考えた。
帝国主義者岩倉具視、大久保利通
岩倉具視はプロシャの軍事優先主義を学び、警察組織を整えることを優先した。
252 岩倉具視は遣欧視察でプロシャのビスマルクやモルトケから富国強兵を学んだ。二人は小国が帝国主義列強に伍して生きるための力の論理を説いた。「国際公法などは、列強の帝国主義競争の間では儀礼的建前にすぎず、軍事力のみが最後を決定する」と強調し、「国際間の信義は背景に武力があってこそ成り立つ。局外中立を保って生きるために国際公法のみに頼るのは、武力の弱小な小国であり、大国はもっぱら武力を背景にして権利を達成する。法律・正義・自由などの道理は、国内の人民を保護するには足りるが、これを以て国境を守ることはできない。国家を外国から防衛するのは、ただ軍事力のみである」と力説した。
254 岩倉具視は「鎮台(地方を支配する師団)の武力と警視の威権を両手に引っ提げて人民をして恐怖せしめよ」と主張する専制論者であった。
254 大久保利通も内務省を創設し、その下に警視庁と全国の府県警察を創設して、内政を中央集権化することを重視した。大久保は副島に「自分等欧米列国回覧の使命を奉じて僅かに先日帰朝掛けである。内務一省の纏めを附ける間五十日間だけ征韓論を猶予してくれたなら、自分もまた征韓論貴説に同意しよう」と語った。
255 台湾征討はほとんど外交交渉もなくいきなり軍事行動に出た。
258 『大隈伯昔日譚』
263 当時の官員の月給
勅任官四位以上 400円~800円
奏任官六位以上 100円~200円
判任官九位以上 10円~100円
米1石(1人が1年間食べられる量)明治5年3円80銭、1877年5円50銭
幕府最下級の御家人の年間禄米 10石
最下級の旗本 200石(実収入は100石)
群衆をかき分けながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と言う人力車夫の声は「ゴンサイ、ゴンサイ」と聞こえたが、それは「権妻」=「猫」=花街芸者の妾を同伴する官員が人力車に乗って人込みを通過するときの掛け声であった。
官員の髭は「鯰」(なまず)と呼ばれ、「地震」は官員の転任を意味し、地震のたびに給料が上がった。
264 政商は維新の戦友である。
・三菱会社 土佐出身の岩崎弥太郎
・山城屋和助(野村三千三) 長州藩
・三井 長州の井上と結託 戊辰戦争の戦費を調達 江戸時代以来の商売敵村井家、小野家、三谷家などを没落させた。
第八章 民撰議院設立建白書と副島種臣
269 「征韓党」 明治六年政変のころ、佐賀には反政府の気運が高まり、征韓党が結成され、郷党の人々は副島と江藤の帰郷を求めていた。
271 天賦人権論を表明するが、天皇や国家を愛するという愛国公党の「本誓」(綱領)
「天の斯民(しみん)には動かすべからざるの通義権利がある。それは天が均しく人民に賜うものであり、人力で移奪することができないものである。」
「…即ち君を愛し国を愛するの道なり。」「…以て我日本帝国を維持し昌盛ならしむるの道なり。」
273 ヨーロッパにおける「立憲」は、君主権力の制限を意味するが、愛国公党の綱領にはそれが欠けている。
副島による民撰議院設立建白書草稿の修正
280 イギリスに留学してミルの個人主義・功利主義を学んだ小室信夫・古沢滋が執筆した当初の「君主専制批判」は、副島の反対によって「有司専制批判」に改められた。副島種臣は『副島伯経歴偶談』1898で次のように回想している。
「…畏くももし我が陛下が御自身に神武天皇の御教道を遊ばされたならば、民心悦服して奔命に狂するであろう」
281 当時の民権論者の語る「人民」は、ほとんどが知識人285を意味し、具体的には納税する富裕層、士族、平民の上中284、新興ブルジョワジー、豪商287などを意味し、最下層の民衆は含まれなかったが、大井健太郎289, 291は最下層の民衆を意味した。大井は大阪事件292に関与した。
296 木戸は岩倉使節でアメリカに滞在中に、アメリカ憲法を翻訳させ、ロンドンではプロシャに留学中の青木周蔵を呼びよせて、欧州憲法や宗教を講義させた。青木は木戸の依頼で、プロシャ憲法を参考に「大日本政規」という憲法草案をつくり、木戸はこれを参考にして「憲法制定の建言書」を起草し、帰朝後の1873年7月に政府に提出した。
木戸の指摘するように、その後の政府は教育と軍事だけは天皇の大権として議会の関与を許さなかった。
297 1874年、木戸は台湾征討問題で大久保と対立して参議を辞任した。
298 大久保は「国家には一つの強大な権力が集中した部分がなくてはならない」とし、「天皇が無制限の権限で国政を執行する太政官政府の権力」を強調した。大久保が創設して実権を握った内務省が後々までにぎった絶大な権力は、この思想が実現したものである。
299 警視庁 1874年1月14日、岩倉具視暗殺未遂事件が発生したとき、政府は薩摩人川路利良(としよし)を中心に準備を進めていた警視庁を急いで設置した。
304 副島が滞在していたころ1876-1878の上海は、外国軍隊によって治安が保たれていた。
第九章 一等侍講時代の副島種臣
310 1880年4月、政府は集会条例を布告し、政府を批判する民権運動を弾圧した。
311 1881年10月12日、1890年の国会開設を約束する詔勅と、官民癒着スキャンダルの「北海道官有物払い下げ」の中止と、このスキャンダルを批判していた大隈重信の免官が発表された。(明治14年政変)大隈の免官と同時にその一派も免官となり、岩倉・伊藤政権から追われることになった。その後大隈は立憲改進党を結党した。314
316 樽井藤吉の東洋社会党324
317 旧佐賀藩東松浦郡では農民紛争が多発していた。
318 副島は長女貞子の夫・諸岡正純を樽井藤吉のもとにやってこれを支持した。
319 副島は門人への演説1882の中で「自分を含めた遊食階級は、農民や漁民、大工、壁塗り、豆腐屋等の勤労階級に支えられている」とし、普通選挙を主張した。(柳田泉「『副島種臣伝』の或る一章――その国家社会主義的思想」)
320 副島は『副島氏意見』(鹿児島新聞1882.8)の中で、
「第四…陸軍を民兵とすること、日本は地の利があり、国情があり、外交政策を対他不干渉とすればよい。対他不干渉とすれば、欧州の如き兵備は要らぬ。」大賛成。とはいえ、
321 「第八、日本は天皇中心であるから、苟も天皇の尊栄を侵すもののあることを許さない」
と身分差別には気づかない。
326 樽井藤吉は集会条例に引っ掛かかって1年間刑務所送りとなり、東洋社会党は1か月で終わりとなった。
第十章 三カ月の内務大臣副島種臣
330 枢密院は伊藤が民衆の声を無視するためにつくった機関である。伊藤は初代枢密院議長になった。その議事内容は秘密である。
332 第一回衆議院議員選挙で自由民権派が圧勝した。自由党130名、立憲改進党40名、それに対して政府系(吏党)は体成会など79名。板垣退助を中心に自由党が、大同倶楽部、愛国公党に呼びかけて「立憲自由党」を結成し、「立憲改進党」も立憲自由党との提携を拒否しなかった。(民党)
選挙人資格は直接国税15円以上収める25歳以上の男子で、人口の1%にすぎなかった。被選挙人資格は直接国税15円以上収める30歳以上の男子であった。小選挙区制で記名投票であった。
333 第一回帝国議会の1890年12月6日、山縣有朋首相の国会施政方針演説「利益線演説」「一国の独立は主権線(国境)のみに止まらずして、その利益線(朝鮮半島)を守ることである」
335 松方正義内閣総理大臣の強圧的な国会演説
「民間詭激の徒、往々我が歴史沿革を遺忘し、漫(みだ)りに英国の代議制に心酔して文明至善の政体となし、其の淵源を推究するに遑(いとま)あらずして、直ちにこれを模倣せんことを欲するものあり。其の甚だしきに至っては、政府を怨嗟するの余り、仏国革命の汚流に生じたる極端の説を喜ぶものなきに非ず。啻(ただ)に民間に於いて然るのみならず、政府枢要の地位にあるものと雖も、時に此の如き説に誤られ、付和雷同して憚らざるの勢い」
338 内務大臣・品川弥二郎は、陸軍大臣・樺山資紀(すけのり)335と同じく、民党が、自分たちが命がけで作った国家を破壊する朝敵のような存在と考えていた。
337 軍事予算に反対されて解散した後の選挙で、松方正義内閣は、内務省(内務大臣・品川弥二郎、内務次官・白根専一)の下に、警官、官吏、国民派暴力団を動員した。
339 さらに緊急勅令「予戒令」を公布して、集会に立ち入る権限を地方長官などに与えた。
「予戒令
第一条 警視総監、北海道庁長官、府県知事は、公共の安寧秩序を保持するため左の事項に該当する者と認むるときは予戒命令を為すことを得。
一、一定の生業を有せず、平常粗暴の言論行為を事とする者。(曖昧な表現)
三、公私を問わず、他人の業務行為に干渉して、その自由を妨害せんとしたる者。(曖昧な表現)
341 さらに政府は保安条例(1887年12月25日勅令)も適用した。
「第五条 人心の動揺に由り又は内乱の予備又は陰謀を為す者あるに由り、治安を妨害するの処ある地方に対し、内閣は臨時の必要なりと認る場合において、一地方に限り期限を定め、左の各項の全部又は一部を命令することを得。
一、凡そ公衆の集会は屋内屋外を問わず、及何らの名義を以てするに拘わらず、予め警察官の許可を得ざるものは総て之を禁ずること。
二、新聞紙及びその他の印刷物は、予め警察官の検閲を経ずして発行するを禁ずる事。
感想 早くも、明治初年だというのに、弾圧国家は出来上がっていた。保安条例などどこから学んだのか。絶対に他者の異論を許さないという発想だ。
341 この選挙中に(全国で)死者25名、負傷者388名を出し、特に高知県、佐賀県、石川県で甚だしかった。342 刀剣類が使用され、憲兵・師団兵が出動した。
343 村八分 3月4日付『東朝』によれば、
「高知市と五郡は、巡査駐在所又は反対派(政府派)等に貸した家は、家明け(いえあけ、借家の明け渡し)を要求し、吉凶慶事さへ相往復せざることに結約した。また自由派の商人・農家は一切右らの者へは物品を売買しないこととし、衣服に差し支える有様なり。」
選挙結果は民党・準民党163名55%、吏党137名45%であった。(332 第一回衆議院議員選挙結果は自由党130名+立憲改進党40名=170名70%、それに対する政府系(吏党)は体成会など79名30%だから、今回の選挙では吏党が躍進したと言える。)
344 閣内でも後藤と陸奥が品川を追求し、伊藤も品川の辞職を迫り、黒田・山県は反対したが、品川内務大臣は辞職した。
山県の松方宛書簡「明治政府之末路如何と甚だ憂慮に堪えず」
内務相の後任問題 井上薫は辞退し、河野敏鎌(とがま、元立憲改進党副総理)という伊藤案に、松方が反対し、結局老体64副島が内務大臣を引き受けた。
346 第三回帝国議会 河野広中、島田三郎、犬養剛らが選挙弾圧の責任を追及して政府を非難したが、松方首相は答弁で選挙干渉を合理化した。答弁を求められた副島は「維戎維狄(これじゅうこれてき)」と叫んで降壇し、1892年6月8日、内相を辞任して、枢密顧問官に任命され、逝去までその職にとどまった。349
349 副島の内相辞任後、松方首相が内務大臣を兼任したが、河野敏鎌が内務大臣に就任し、選挙干渉の責任者・白根を解任し、白根派の福岡県知事・安場保和ら数名を更迭した。安場らは樺山海軍大臣や高島陸軍大臣を味方につけて反撃し、閣内不統一で松方内閣は1892年7月30日に崩壊し、伊藤が薩長派の元勲を総動員して組閣した。(強力内閣)
第十一章 最期の副島種臣
358 副島研究者の誤解 東大教授・鳥海靖『日本近代史講義』は、「副島は保守的な君権主義者であり、副島が民撰議院設立建白書に名を連ねたことは奇妙である。逆に言えば建白書の内容が君権主義者でも了解できる内容だったということだ」とし、一橋教授・安丸良夫は「建白書署名者の中には民権論者とは到底言えない副島種臣のような人物も含まれていた」(日本近代思想体系『民衆運動』解説「民衆運動における近代」)とするがそれは間違いだ。
日露戦争前の副島の変節
副島が会頭であった「東邦協会」は、中国大陸や東南アジアへの領土的野心のある団体のように思われるが、研究団体だった。また、右翼玄洋社の頭山満(みつる)が晩年の副島に師事したことも誤解の元である。
しかし日露戦争開戦3か月前に、副島は枢密院に出かけて主戦論を唱えた。日清戦争後、政府は意図的に天皇を頂点とする挙国一致・忠君愛国意識を国民の間に広めた。360 自由主義と平民主義を唱えていた徳富蘇峰も、三国干渉を主唱したロシアに激怒し、帝国主義戦争支持に転向し、361 民主主義や社会主義思想の普及に理解を示した黒岩周六の新聞『万朝報』も、1903年10月、開戦支持に態度を変え、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らが退職し、幸徳と堺は平民社を設立して『平民新聞』を発行した。
2024年9月24日(火) 以上