2025年11月8日土曜日

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

無辜の民衆の虐殺の背景にあるものは弱い者に対する蔑視では

 

・平頂山1932.9.16 井上久士『平頂山事件を考える』

・山東省東周家荘村1937.10.10 『東史郎日記と私』p.23

・南京1937.12.13

・徐州市銅山区閻窩村1938.5.20 宮内陽子『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』p.171

 

これらはみな日本軍による中国の無辜の民衆、子ども、女、老人を大量に虐殺した事件である。口実は抗日中国軍に「協力」したのではないかという「疑い」であるが、その根拠はない。見せしめだったのかもしれない。ただその村の方向に抗日軍がいたらしいということだけである。

 

その背景にあるものは何だろうか。富める者、力ある者の、貧しい者。弱い者に対する蔑視ではないか。イスラエルによる無防備のガザ民衆の殺戮、米による、カリブ海での、裁判によらない麻薬密輸を口実にした乗船員の船もろともに爆撃、破壊、殺害もそうだろう。

 

日本軍は刺突、機関銃掃射、遊び感覚の郵便袋詰め放火殺害(『東史郎日記と私』p.77)などを行っていた。そういう虐殺事件の一つである「南京虐殺事件は存在しなかった」、日本軍はそんな不名誉なことはやらなかった、と戦前の日本軍による帝国主義的侵略を否定する映画*を称賛する人が、今の文科相になっている。戦前の賛美、侵略戦争賛美が、今の高市早苗政権=安倍晋三政権ver.2の恐ろしい真実。

 

*松本洋平・文科相が、「南京『大虐殺』なる歴史の捏造。誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃」とする「日本文化チャンネル桜」代表・水島総監督の映画「南京の真実」2008に賛同していた。おかしい。

 

 

033 河北の「東周家荘」と同様に、上海・南京間の江南地方(揚子江の南岸地方)の「常熟」や「無錫」でも大量虐殺が行われた。

038 大規模な殺戮は上官の命令で行われた。それは「部下が勝手にやった」という日本の右翼の説明とは異なる。「どの壁にも抗日宣伝文が書かれていて、日本兵たちは住民が抗日意識に燃えていると判断した」033というのも虐殺の一つの理由であろうが、日本人はそれ以前から一般的にそう考えていたのだろう。

039 沈秋農『常熟1937』には虐殺や掠奪の記録がある。

044 破廉恥な婦女暴行が大規模に行われた。中国側の資料『無錫史誌』がそれを示す。

 

059 『福知山連隊史』によれば、「19371211日、(東史郎が所属する)大野連隊が、国民政府主席林森の邸宅を占拠した」とある。また東史郎も1212日の日記で、彼等の第3中隊第1小隊が、「張学良の家を占拠した」と書いている。しかしそれを確証することはできない。

062 『中国事変陸軍作戦史』によれば、「南京城壁は、高さ18メートルで、外周に壕が張り巡らされている」とある。

066 20071213日、南京の玄武湖畔で追悼会が開催された。日本の「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会(「銘心会」)」のリーダーで『南京戦』社会評論社2002, 2003の編著者の松岡環が発案準備した「太平門大虐殺記念碑」が落成し、日本側からは「ノーモア南京の会」、「心に刻む会」、「東史郎さんの南京裁判を支える会」、「紫金草合唱団」などが参列した。

 

私は『偽証言的証言』(竹内迅『記憶の暗殺』の中国語版、世界知識出版社2000.9)を日本人の西村秀樹から受け取った。本書は東史郎裁判を詳述している。

067 上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将(裕仁天皇の叔父)が捕虜の皆殺しを命令した。

067 166師団の南京での犯罪は深刻である。16師団長の中島今朝吾は、「佐々木到一旅団が南京で中国軍民十数万人以上を殺した」と言ったとされている。

068 『支那事変 皇国之精華』皇道振興会関西総局1939の中で、日本軍森塚部隊の上等兵栗山基が、義弟・長澤長市あての手紙の中で、「上海から南京まで100万を超す中国軍民の死体を見た」と語っている。

 

 

感想

 

東史郎のように冷静で良識的・自制的な日本軍人もいたが、総じて日本軍人はひどい事をしている。刺し殺す。女は弄んだ後で陰門にビンや箒の竿を突き刺す。沖縄戦では民衆(婦女子)に自決を強要したというが、婦女暴行は日本軍の常識であったから、米軍も同様なことをやると考えたのだろうことがよく推測できる。

 

本書では事件の存在を証明する資料や証言が詳述されていないのが欠点。しかし書かれていることは嘘ではない。被害者に寄り添うべきだ。その点、英米人の映画資料072は厳然としてある。また日本人軍人の戦後のPTSDが間接的にその蛮行の事実を示している。

 

郵便袋事件の加害者西本はその事実を認めているが、それを「正当な戦争行為」1998年だという。限度があるだろうに。たとえ戦争だとしても、遊びで人を殺していいのか。080

 

日本の右翼が中国や北朝鮮を敵視する背景には、戦前の日本軍人の蛮行を謝罪したくないという気持ちがあるのではないか。

 

 

 

081 中島今朝吾16師団長――大野連隊――西崎隊長(歩兵第一大隊)――東史郎

 

088 『ラーベ日記』には日本兵によって蹂躙された大勢の女性の記録がある。

089 『魏特林(ヴオートクリン)日記』はヴオートクリン女史による金陵女子学院での日記であるが、それによると、19391012日、某キリスト教会の修道女8名が29名の赤ん坊を養育していた。そのうちの幾人かは日本兵の子どもであるため、捨てられたのである。

 

 

 

FB(Meta)で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。

 

101 東史郎も言うが、中国人の虐殺は中国人に対する侮蔑が原因。イスラエルのガザ人に対する虐殺も同様。差別や侮蔑があるから殺せるのだ。東史郎「今や兵士たちは、支那人である限り、殺すことに何の躊躇も、何の痛痒も感じていないらしい。人を突き殺す事を、鶏を殺す事ほどに思っていない。」中国人の死体は、豚の死体にも匹敵しない。「豚は食えるから」である。「当時の日本兵の非情な惨殺は、中国人民への蔑視と敵視から出たものだ。」

 

106 思いやりのありそうな東史郎でさえ中国人の首をはね、その様子を子細に日記に記録した。この人も時代の子。東史郎は戦前の自らの行為を恥じて、南京で土下座をしたというが。(任世淦「東史郎は19871213日、南京に来てわが30万同胞の霊前に跪いて謝罪した。iii」)当時の東史郎の感覚は、その日記で見る限り、まるで人殺しの技術者の感覚である。恐ろしいことだ。戦争は人を狂わせる。

 

『東史郎日記』はアマゾンで4600円もする。

 

 

 

110 西本はまた殺人遊戯をした。大伾山(だいひさん)の付近の某村で、二十五、六歳の若者を捕まえて布団にくるみ、石油をかけて火をつけて殺した。

113 被害者の名は王狗不+好という。

116 44日のことであった。

 

111 日本人は1938329日、大伾山(だいひさん)の付近の某村で大虐殺を行った。

 

117 東史郎は彰徳でもまた慰安婦を利用した。

122 東史郎は無辜の中国人を総計4人殺した。1938425日、臨城で孫延年を殺した。

 

 

感想 2025112()

 

日本軍は1937年の日支事変勃発以降、中国大陸の各地で中国軍や共産軍と戦った。中国軍とは通常の撃ちあう戦闘であるが、共産軍とは正面戦争ではなく、日本軍がいないときに攻撃して逃げて行くという形式である。

 

しかし問題なのは、日本軍の、戦闘員ではない一般の中国人婦女子や老人との接し方である。日本軍は一般の中国人男性を苦力=労働力としてあれこれ酷使し、女性は性奴隷にするのだが、最大の問題点は最後には彼らを殺してしまうということである。そして村も焼き払ってしまう。つまり南京大虐殺は中国のあちこちで日常的に行われていたということである。日記の記述から人情味がありそうな東史郎であるが、その東史郎でさえ、刺突を4回行ったようだ。東史郎は戦後南京に出かけ、土下座をして謝ったというが。

 

だから戦後中国から帰還した日本軍人が、戦争について何も語らず、PTSDになった人が大勢いたということは十分に頷かれることである。しかし一方で、そういう暴虐行為をやっておきながら、やらなかったと嘘をつき、平然としている人も少数ながらいる。それが右翼である。

 

 

感想 東史郎が1937年の日支事変以降の従軍日記を公開したところ、そこで描写される郵便袋事件*は事実ではない、名誉棄損だと訴えられ、最高裁もそれを認めて、東史郎は敗訴したという。

 

ちょっと待って。明治以降の日中関係はどうだったのか。どちらの方が攻撃・侵略したのか。戦場になったのは日本ではなく、中国だったのではないか。中国が日本を攻めたのは13世紀の元寇くらいでは。

 

日本は日清戦争では多額の賠償金と台湾を、日露戦争では中国東北地方の鉄道沿線や港町を(それに今問題となっている尖閣を)奪い、満州事変では敢えて戦争をしかけ、満洲国の独立を装って中国の東北地方を奪い、平頂山事件では部落の女や子どもや老人など3000人を、一か所に集めて機銃掃射し、1937年以降の日支事変・日中戦争では、本書で示されるように、部落に取り残された民衆を刺突・強姦し、極端な場合には遊びで人を殺した(*郵便袋事件)。それが名誉ある「皇軍」の正体だったのでは。それに郵便袋事件の当事者は、その事実を認めているらしい。それは正当な戦争行為だと居直って。(1988年、香港テレビのインタビュー)

 

 

 

メモ

 

292 謝罪のために南京を訪れた日本軍兵士は東史郎が最初。1987.12

 

293 石原慎太郎・衆院議員は「南京虐殺はなかった」1990.10と堂々とうそをついていた。その責任は重い。石原慎太郎・衆院議員は、米誌PLAYBOY9010月号、日本語版11月号)のインタビューで「日本軍が南京で虐殺を行ったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。」

294 板倉由明*は、笠原十九司編の教科書『世界史B』一橋出版から、『東史郎日記』からの引用部分の削除を再三要求。一橋出版はそれに屈して19941月、『東史郎日記』からの引用部分を削除した。

 

*板倉由明 元将校の親睦団体・偕行社が刊行する『南京戦史』の編集委員で、『月曜評論』1993.5.17に寄稿している。

 

東京地裁判決(1993~)1996.4は『東史郎日記』を虚構と認定し、東史郎、下里正樹、青木書店の三者に各50万円の支払いを命じた。293

東京高裁判決(控訴棄却)(1996926日~)981222日は、江沢民国家主席の訪日1125日のため、当初の1126日から1222日に突然延期された。272

 

Wikiによれば、元分隊長の「西本」(仮名)は、板倉由明らに唆されて提訴したようだ。

またWikiによれば、一審で東らが敗訴した理由の一つは、東がガソリンや手榴弾をどうやって郵便袋につけたのかを、記憶が薄れてしどろもどろの供述しかできなかったからと思われるとしている。しかし私はそんな小手先のことよりも、時代背景の方が強い要因だったと思う。

 

294 19938月、日本で初めて侵略戦争を認めた首相は細川護熙だった。「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している。」それが村山談話1995.8.15へと引き継がれたはずだ。また細川護熙首相以前に、日本の首相が侵略戦争を認めてこなかったことこそがおかしいのでは。

そしてこの細川侵略発言に反発して、産経新聞に意見広告が掲載された。「細川首相の歴史認識に疑問があります。日本は侵略国ではありません!」(19939月)

 

295 筆者任世淦は、自転車で中国各地を回り、『東史郎日記』の中国版(江蘇教育出版社993月)の記事と、各地の生き残りの人々の証言とを突き合わせ、『東史郎日記』の事実を検証した。

 

2025年11月4日火曜日

崔善愛(チェソンエ)「在日朝鮮人と天皇制 指紋押捺拒否の闘いから」

 

崔善愛(チェソンエ)「在日朝鮮人と天皇制 指紋押捺拒否の闘いから」

wamセミナー 天皇制を考える(18

 

20251103 月 140016:00 AVACOチャペル

 

崔善愛さんが指紋押捺拒否闘争の半生を語る。

 

 

感想 2025114()

 

・崔善愛さんの人生の転換契機は、妹の断乎たる指紋押捺拒否への決意だった。また父の影響もある。

・崔善愛さんは言う。日本人は「天皇制に抗する」と思っていても、それを敢えて口にする人は少ない。口にしなければならない。そう我々に提起したように思えた。

 

 

メモ

 

 

司会 渡辺

 

天皇制にまつわる祝日を祝日として祝わない取り組みを始めて今日はその18回目である。崔善愛さんは昭和天皇死去時の恩赦は、指紋押捺闘争をやめさせるものであると考えた。

 

 

崔善愛

 

朝鮮人に関して三つ呼称がある。私は今は「在日朝鮮人」を採用する。

 

1在日朝鮮人

2在日韓国・朝鮮人 「韓国」と「朝鮮」とをなぜ分けるのか。

3在日コリアン 最近の呼称

 

「朝鮮人」という呼称は差別語であると某韓国人が私に言ったが、差別語だとみなされないようにと思って「朝鮮人」の呼称を使う。

 

私は195912月に宝塚市で生まれ、9年後の1968年に小倉に移住した。そこの父の教会に参加する人たちは全てが朝鮮人だった。教会にはハングルが書かれていた。

 

「重荷を背負う」とはどういうことか。それを自覚していない。

 

私にとって教会と小学校とは別世界だった。幼稚園で私のことを「さいぜんあい」と呼ばれてショックを受けた。ピアノを弾く時だけほっとできた。

 

 

2 14歳 市役所で外国人登録をさせられた。出頭し、市役所の奥へ連れていかれた。「本籍地、…」最後に「指紋を押してね。」回転式で3枚指紋を取られた。悪人と見られていると感じた。

 

「和名 こと 朝鮮名」

 

指紋押捺は3年ごとに行われた。2回目は17歳の時だった。3回目は20歳で大学生だった。愛知県立大でピアノを学んでいた。

 

14歳の妹が「指紋を押さない」と言った。「友人は誰も押していない」私「押さないと違法だよ。」と言ったものの、妹の固い決意に動かされた。

 

1年後輩の学友に「私は部落出身だ」と告白された。「告白したら結婚を考えている彼が離れてしまう」しかし「言わないわけにいかない」と悩んでいた。

 

「この辺は部落だったんだって」などと何気なく言う人がいる。私はこの時、怒りを学んだ。その後輩の親は「隠し通しなさい」と言った。

 

部落は制度上はないが、実際はある。人々がそれに対して何もしないことにより部落差別が引き継がれてゆく。天皇制も同様だ。

 

 

20歳の時、私は指紋押捺をおかしいと思った。19811月、21歳の時、私は市役所で指紋押捺を拒否した。指紋押捺拒否裁判を開始した。

 

父は人権運動の活動家で、私の指紋押捺拒否という事実が公表(報道)された。私は公表されたくなかったのだが。「21歳が指紋押捺を拒否」と報道された。

 

拒否者の最初はハン・ジョンで、次が父、その次が私だった。

 

小倉検察庁に呼び出され、父のことを聞かれて、ペラペラしゃべってしまった。そのとき「指紋を押して5000円払ったら、なかったことにしてやる」と言われた。私は告発された/し、裁判になった。地裁では1万円の有罪判決。高裁でも有罪判決「外国人は公共の福祉の観点から人権が制限されてもやむを得ない。」

 

198316千人が指紋押捺を拒否した。当時の法相「外国人になめられている。」その時報復措置として「再入国拒否制度」が生まれた。「また日本に帰って来てもいいですか。」指紋押捺を拒否すると再入国できなくなる。

 

大学4年のとき、留学したかった。日本を出たかった。

 

韓国に親戚がいるが、言葉が通じない。ソウルは、外国であると感じた。日本に帰りたかった。

 

私はピアノの公演は嫌いだった。

 

 

1986年~89年 再入国不許可のまま米国へ留学。26歳~29歳。再入国不許可取り消し訴訟。

 

1988年 特別永住資格から「180日在留」へ。10年間不安定な在留資格更新。

19891月、昭和天皇死去に伴う「恩赦」 29歳 恩赦拒否。

 

1998年、39歳、再入国取消&永住資格確定確認訴訟 最高裁棄却

1999年、参院法務委で参考人招致。指紋押捺制度廃止。2007年復活

 

 

日本を出たかった。20 or 26歳で日本を出た。日本に帰れないと分かっているのに。朝鮮(韓国?)から給付型の奨学金を貰った。韓国人パスポートでは行ける国が少なかった。永住権がなくなるのに日本を離れようと決意した。

 

米はビザを出すのだろうか。日本への再入国不許可なら亡命とみなされる。米大使館へ行った。「人権、キリスト教信者だから、ビザ発給を求めるには議会の承認が必要だ。」米領事館からビザを貰った。アフリカ系米国人が対応したが曰く、「あなたは日本で生まれて、両親が日本にいるのだから、この国はあなたの国だ。」

 

5月、成田で恐ろしいことになった。箱崎バスターミナルでは「ここでは扱えない。成田へ行け」と言われた。家族は無言だった。パスポートには「再入国許可」の印がなかった。係官から「外国人登録を置いていけ」と言われた。イエローカード。そして「サインせよ」と言われた。すると父がサインするなと言った。父のアピール(抗議文)「国際人権規約に帰国の権利が認められている。再入国がないのはおかしい。」

 

米へ行った。父が心配で心筋梗塞に。父は遺書を書いた。私はホームシックになった。眠く、力が入らなかった。ピアノも弾けなかった。

 

その後、父は回復した。2年後に法律が変更され、一旦指紋押捺した人は再入国を許可されることになったが、これは法律制定前の人には適用されなかった。

 

米での2年経過後の1988年に、ロスへ行った。「再入国規定がないから乗れない。」と言われ、ニューヨークへ行った。私は日本に帰りたかった。そこで「旅行者としてなら72時間ならトランジットで日本で過ごせる。」ことが分かり、1週間後、大韓航空から「韓国へなら行ける」と言われた。「成田経由のソウル行きに乗りなさい」と。1988628日、私はロスから大韓航空機に搭乗し、成田に朝6時に着いた。法相と父の話が新聞に掲載された。私は入国手続きで外国人向けレーンに並んだ。一番最後に並んだ。「崔善愛さんですか。待っていました。」と別室で6時間取調べ。「拒否すれば、牛久の収容所へ○○」午後4時、法相からファクス「180日間特別在留許可」永住許可はなくなっていた。

 

その後14年間、2002 or 2004年まで、在留を更新し続けた。不安定な身分なので仕事はできなかった。(横浜の)中華街の入国管理局へ行った。混雑していた。パスポートを持てずに1年間○○ 私は裁判をやっていたので差別された。(書類の発行に)3か月待たされた。つまり在留許可のない状態が続いた。それを「申請中」という。期限が切れれば不法滞在者となる。判決で勝つしか方法がなかった。福岡高裁で初めて勝ったが、「行き過ぎである、やり直しなさい。」とされ、最高裁で1978or 1998年、敗訴。在留許可申請をくり返すしかなかった。19984月、敗訴が判例として残った。ところがその半年後、金大中訪日時に、指紋押捺が廃止となる。1998年〇月のことである。しかしそれは遡って適用されなかった。父母とはこのとき死別していた。ハーグ国際法廷に提訴したらと言われたが、私は国内が変わらねばと思った。

 

翌年の1999年、参院法務委に参考人として呼ばれた。議員は誰もこの指紋押捺問題について知らなかった。このころ公明は野党だった。公明、社会、共産が助けてくれた。このとき自民議員からは「裁判については触れるな」と言われた。ところが空気が変わり、法相が(私に「永住資格を)出せ、申し訳ない、永住資格申請をすればもとにもどす」と言った。彼らは裁判に勝利しさえすればそれでよかったのである。

 

1999年に指紋押捺制度は廃止されたが、そのために戦った人は無視された。

 

 

一般永住と特別永住 特別永住は日韓協定が根拠となっている。

 

 

 

1999年、法が制定され、指紋押捺制度が廃止された(が、この年「国歌国旗法」が制定された。)

2000年、同法が施行された。

2004年 私は特別永住権を取り戻した。私のかつての「永住資格」は「永住」だったのにいとも簡単にはぎとられた。

 

 

 

1975年、父は、在日の参政権に関して公開質問状を出した。NHKに対して自身の名前の呼称に関して人格権訴訟を起こした。名前には人格権がある。罪状を社会的○○汚名…

 

 

 

私はシュタルケルの下でピアノを学んだ。シュタルケル「あなたは怯えている。一番大好きな歌を歌いなさい」と言われ、「夕焼け小焼け」を歌った。「ショパンもそのように弾きなさい」と教えられた。

 

TCジャクソンに会う。

 

国境がなくなることを望む。ドイツ憲法は「故郷に戻る権利」を規定している。

 

昭和天皇死去による恩赦拒否 私は象徴天皇憲法を認めたくない。日本人になりたくない。天皇の侵略責任を隠している。そう思う日本人もいるが、表立って敢えて告白しない。

 

以上

 

2025年10月28日火曜日

守島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950

 

守島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950

 

 

感想 20251023()

 

戦前といえど各人各様。全く軍国主義的ステレオタイプの人たちばかりではなかったようだ。

その中でも関東軍は突出していた。関東軍は若手「右翼」思想と結託していた。関東軍参謀長・板垣征四郎(1885-19481931年当時46歳)は1931年当時大人だったはずだが、若手(石原莞爾1889-19491931年当時42歳。板垣とさほどの年齢差はないか。)「右翼」と迎合していた。

「右翼」とは何か。他人の意に介さない自己中でしかも暴力的だから、全く手に負えない人たち。

一方著者は官僚だった。外交官である。著者も戦前的思考という大枠の中で育ったという制約があっただろう。しかし関東軍の連中程自己中ではなかったようだ。本書が戦後の著述だからそうなのかもしれないが、著者は物事を客観的に見る人だったようだ。戦後1950だから言える自己保身的自慢話かもしれないが。

 

 

要旨

 

 

はしがき

 

001 私は終戦当時リスボンにいたが、昭和2119464月、マッカーサーの命に基づいて帰朝して外務省を去った。

私の外務省生活はワシントン会議1922の随員を振り出しに、30年間続いた(24年間では)。この20年間、東京とベルリンでの短期間勤務を除いては、奉天を振り出しに、ハルビン、北京、上海と続き、昭和141929年、ワシントンとニューヨークへ、そして戦争中の3年半をリスボンで過ごした。その間、満州事変、華北事変*、太平洋戦争など重要な場面に際会し、対外的折衝に当たった。

昭和21年の夏、検事の召喚により極東軍事裁判で証人台に立った。

 

002 この20年間は日本の興隆から没落に至る過程だった。日本の針路は平和的な通商的発展に向かわず、帝国主義的で政治的・領土的発展に向かった。また総じて軍部の支配下に、本当の意味の外交は姿をひそめ、日本の外交なるものは、要するに、事務的外交の域を出なかった。時には対米・対ソ国交の調整の試みはあったが、大体その時々の外相の個人的思いつきに出たもので、政府の全体としての確定的方針かどうかは疑問であり、外交方針としての統一性と継続性に欠けていた。

 

 チャーチルは「近代生活に対する民衆の影響」と題して、

 

「偶然が人生や国民の歴史を変える。偶然の命令、攻撃、馬の転倒、列車との遭遇などが運命を変える。またそれによって他の人達の運命も変える。だからより剛い人たち、例えば大思想家や大発明家、軍司令官の周辺に起る偶然の出来事は、大きな影響を与えるに違いない。」(昭和2419493月号「心」)

 

003 日本政府の取った無造作な決定や、出先(軍隊)の専断的行為が、日本の運命に至大な影響を与えた。私ら外務省に勤めたものは、より強く、より正しかるべきだったと、過去を顧みて自責の念に堪えない。

 

 私自身のメモ等すべて処分済みだが、記述した事実は事件が事件だけに、今なお私の脳裏に深刻な印象を印しているので、その正鵠なことは確信している。

 

昭和2519501月 森島守人

 

 

 

一 田中外交の全貌

 

001 当時の国民は幣原外交を軟弱・追随だと批判し、南京事件*や満洲での排日事件に刺激されていた。国民は国際事情に疎く、(政府が)強がりさえ言えば(政府を)礼賛していた

 

*南京事件1927.3.24 蒋介石の国民革命軍が日米英の施設を攻撃した。

 

首相となった田中は「東方会議」を開催した。世人は積極的強硬外交に転ずるだろうと、田中の自主政策を謳歌していた。田中首相や森恪(かく)政務次官の経歴や人となりから、大陸政策推進だと人々は了解した。

 

田中は満蒙での静謐=治安の維持を目指し、満蒙を中国本部から切り離そうとした。

二度の山東(済南)出兵19271928権益擁護を目的としたものであった。政友会内では出兵論が強硬で、強気な森次官が陸軍と呼応し、内外の反対を押し切って出兵した。しかしその結果は中国全土に抗日風潮を激成した。

 

田中の満蒙での治安維持政策 田中だけでなく、日露戦争後の「日清善後会議」でも小村は「満洲における施設の改善、治安の確保に関する保障」を議事録の中に確保した。ウイルソンもメキシコに出兵した。この措置は国際法上「干渉」として認められているが、田中の方針はそれから外れていた。出兵は臨機的措置であるべきだが、田中は最初からそれを外交の原則とし、初めから内政干渉を前提としていた。満蒙の治安は中国の内政事情に左右されないと田中は考え、その恐れがある時は何時でも出兵すると予め宣言した

 

田中義一は、満蒙(東三省)を中国本部とは異なる政体と看做した。張作霖は東三省の独立を唱えていたが、張学良は中国本部との結合を唱えていたのだから、張学良の時代になっても田中が満蒙を独立したものとみなし、それと条約を結ぼうとするのは間違っていた。

 

井上弘貴『トランプを生み出した思想家たち』新潮選書1705円、柳沢田実(たみ、1973- キリスト教思想) 

 

TBSラジオ 20251027月 午後7:00-7:50

 

井上弘貴『トランプを生み出した思想家たち』新潮選書1705円、『アメリカ保守主義の思想史』青土社2020円 神戸大

 

柳沢田実(たみ、1973- キリスト教思想) 

 

米の「ニューライト」 今まで脇に置き去りにされてきた右翼が台頭してきた。反リベラルでしかも反ネオコン。

2010年代(オバマ時代2009.1-2017.1)に反発し、反多様性を唱える。

2000年代(ブッシュ時代2001.1-2009.1

 

自由・民主主義、専制攻撃に反対。反グローバリズム。反ネオ・リベ(ラリズム)

文化・政治に口を出す。政府は分配に関与しない。⇒政府は経済に介入すべきだ。

 

オレンキャスト

給付型減税策など「改革保守」、移民排斥

第一次ニューライト

第二次大戦後

1930年代、ニューディール政策に税金泥棒だと反対。

 

戦後ライト 反共 レーガン政権1981.1-1989.1まで キリスト教の世俗化

 

1960年代、70年代 マイノリティーに反対する 第二のニューライト

 

 

第三のニューライト キリスト教に基づく 反リベラル

 

1 パトリック・デニー『なぜリベラルは失敗したのか』自由を捨てなければならない。格差を作りだした。文化を軽視した。バンスに近い。

2 タッカー・カールソン かつてFOXのアンカー(ニュース解説者) MAGA トランプ支持

 

世界に介入しない。移民を追い出せ。製造業を取り戻す。

 

『リアルメイキング…』 テック(技術)右派 反民主党 反規制 親イノベーション 加速主義 キリスト教と合体。

 

3 ピーター・テール テック・ビジネスを信奉 反多様性 キリスト教 AfDのアリス・ワイデル『ゼロトウワン』ゼロから一を生み出す。

 

以上

 

2025年10月26日日曜日

治安維持法100年群馬集会

 

治安維持法100年群馬集会 20251026 前橋総合福祉会館 81人参加

 

司会・開会 大川正治

主催者 治安維持法100年群馬集会実行委員長 吉村駿一

日本共産党群馬県委員長 渋沢哲男

 

 

JNN報道特集『暴走した悪法100年 弾圧された女性たち』 YouTubeで見られる。

 

高知の反戦運動 「草の家」

小松とき 1929年、入党。1932年、反戦ビラをまき、50人検挙。大きく報道された。

槇村○○ 26歳で死亡。映画「人間の〇」1978 夫・益吉、子・仲哉

 

米沢市戦争資料館

 

菱谷さん 北海道の人。

 

 

原田完75 『レジスタントの京都 治安維持法の青春』日本機関紙出版センター2025.7 1980円(1003人の被害者名簿CD付)

 

1969年、桐生工業高校卒業後、京都の染物会社に就職。18歳で入党。労働争議により12か月で解雇。退職金100万円もらった。民商へ。1970年代中頃。商店街関連の活動。府会議員。議員を辞めてから京都の「ノーサイor NOSAI」部長、国民救援会会長などを勤める。

 

4 or 9/22、毎日新聞の取材を受けた。『前衛』に寄稿。

 

高市早苗は村山談話に関して「教育勅語のどこが悪いか」と問い詰めたらしい。

 

母・山田寿子(としこ、1911.1-1998.2)は1929年、19歳の時、芝浦製作所田町工場に就職し、関東金属労組に参加。1930年入党。4回拘留。7年の実刑。

1回目 19293月、山宣葬儀デモ

2回目 山田隆(後の夫、193711月、結婚)が捕まってしゃべり、捕まったが、逃げられた。

3回目 特高から性加害。くるぶしに鉄球を打たれたのが耐えられなかったという。

4回目 7年の実刑。

 

193210月、検挙、市ヶ谷刑務所。

1933年、転向上申書・保釈。

1936年、栃木刑務所に収監。(5年とは1932-37のことか)

193711月、仮保釈。山田隆と結婚。

 

山田寿子さんの著書『長い旅路』

 

 

思想は自白しか証拠がない。

 

拷問の種類

 

1 肉体的

2 精神的 第三者に拷問するのを見せる

3 性的

 

戦前は女性には相続権がなかった。

 

 

 

スパイ防止法 神谷「共産党は最後は暴力だ」

 

農業予算は嘗ては4兆円だったが、今は2兆円に、防衛予算は嘗ては2兆円が10兆円に。

 

以上

質疑・感想

 

『群馬県警察史』

 

おとといの上毛新聞に共産党の大沢綾子県議の収支報告書に多額の金額が書かれていたが、それは大沢個人のものではなく、西毛地区委員会のものである。誤解を招きやすい報道であった。

 

以上

 

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

  任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会 2017   無辜の民衆の虐殺の背景にあるものは弱い者に対する蔑視では   ・平頂山 1932.9.16  井上久士『平頂山事件を考える』 ・山東省東周家荘村 1937.10.10  『東史郎日記と私』 p.23 ...