2025年2月19日水曜日

埼玉県議会で国への意見書採択をめざす県民集会 埼玉共済会館 2025年2月11日(火)13:30—15:40

 

埼玉県議会で国への意見書採択をめざす県民集会 埼玉共済会館 2025211()13:30—15:40

 

 

挨拶

 

・黒川みどり 静岡大学名誉教授

 

・鎌田慧 熊本典道裁判官著『デユープロセス』

人の命を大事にする民主主義的司法制度が今求められている。

非識字者が脅迫状を書くはずがない。エリート層の検事にはそれが想像できず、脅迫文の誤字や当て字を「教養がない」と単純に判断する。彼らは司法の顔をした殺人鬼である。石川さんら冤罪被害者が死ぬのを待っている。

 

・袴田ひで子 死刑囚の家族としてつまはじきにされてきた。死刑制度賛成から反対に転じた。

 

・山崎俊樹 袴田さんが狙われたのは、ボクサーとよそ者だからである。74日、警察はすでに袴田さんをターゲットにし、早くも捜査を開始した。「パジャマ」は袴田さんが任意に提出したものなのに、警察は「血染めのパジャマ発見」とする。

 

・石川早智子

 

・解同の片岡○○

1時間目のペン習字の授業で書いた。インクはジェットブルー。

鴨居の上から発見された万年筆を、中田家に持って行くと、兄は「似ている」と言った。そしてその万年筆で兄が数字を書き、その書いた紙が、2016年に証拠としてようやく開示され、それが無罪の決め手となった。インクで書かれた文字に光を当てると、インクの成分が分かる。蛍光X線。

 

2018年、その鑑定書を(裁判所に)提出した。ところが警察は鑑定することに反対した。

その後、裁判所が、警察に鑑定するように勧告し、警察庁で、警察の立ち合いのもとに、鑑定を実施した。そして改めて12月に新たな鑑定書を(裁判所に)提出した。

 

次は鑑定人証人尋問をやるかどうかである。

20253月、三者協議

20255月、鑑定証拠の採用決定(予定)

 

休憩 頻脈で退席

 

その後の予定は、

 

・埼玉弁護士会

・埼玉県議会議員各会派

 

2025年2月17日月曜日

細川嘉六『世界史の動向と日本』伊藤書店 人民群書1946 初版は、「改造」1942

 

細川嘉六『世界史の動向と日本』伊藤書店 人民群書1946 初版は、「改造」1942

 

 

 

感想 2025217() 本論文は、細川嘉六や、本論文を出版した出版社の社員ら60名が、1942年から3年間、牢屋に閉じ込められる(横浜事件)原因となった論文である。彼は序文の中で自身の拷問については触れていないが、出版社社員らは、鬼畜のような拷問を加えられ、身に覚えのない「共産党再建」治安維持法違反の罪を、「自白」させられ、敗戦直後の米軍の上陸を前に、そそくさと執行猶予つき有罪判決を受けさせられ、お茶を濁されてしまった。

 

本書は1942年初版の改造社版ではなく、戦後の1946年の伊藤書店版であるが、日焼けしていてまた文字も小さく、非常に読みにくかったが、PDFにしてブログに載せました。(予定)細川嘉六の文体をお楽しみください。また私の本書の要旨(部分的)もブログに載せました。

 

本書を軍部が気に入らなかったというのは頷けます。現体制を大胆に批判し、ロシア革命の先進性や民族自決運動の正当性を推奨しているからです。しかし本書の出版だけを以て細川嘉六らが共産党を再建しようとしていたとはとても言えないでしょう。軍部は現体制を批判し、ロシア革命を推奨したら、即共産党再建だ、と直情的に判断するほど、硬直した頭脳をしていたのでしょう。

 

当時ソ連は誕生して間もない時期だったので、――ただし本書も党派闘争や粛清について一言だけ触れていますが――それが植民地民族の独立運動に影響を与え、世界史の流れから見て理想的なものとして、好意的に細川も捉えている。だからと言って細川が共産党を再建しようとしていたわけではなく、単に学者的誠実さに基づいた発表にすぎないのですが、そのように理解するゆとりは当時の軍部にはなかったようです。

 

 

 

感想 202529() 表現が大上段に構えて尊大な言いぶりだ。断定調。

 

 

序 軍事的・警察的絶対専制による自由主義的・民主主義的出版の弾圧を批判。細川嘉六は3年間も牢屋に監禁された。「大和民族」の将来はどうあるべきか、という民族主義に思いを致す口調は、当時の時世を反映しているのか。

 拷問は受けなかったのだろうか。牢屋に3年入れらていたとはあるが、拷問についての記述がない。『横浜事件と再審裁判 資料集成』でも、誰かは拷問を受けなかったようだ、という記述があったような記憶があるが、ひょっとしたらこの細川嘉六なのかもしれない。大学教授の和田洋一も拷問を免れている。何らかのステータスのある人物には拷問を加えなかったのかもしれない。

 

一 反戦を基調とする。二点指摘したとあるが、どれが二点だったか分からなかった。

 

二 レーニンの『国家と革命』を想起させる。加速度的な工業生産技術の向上を伴った資本主義的生産によって、生産物が増加して市場の争奪合戦となり、戦争を惹起する、というもの。

 

三 人間の生き方を含めた万物を支配する絶対的な神と、アリストテレス的な自然主義を融合した中世スコラ哲学の桎梏から脱したルネサンス以降の西洋自由主義・民主主義の理想は、科学の進歩に伴う資本主義的過剰生産によって、第一次世界戦争という悲惨な状況に変貌したが、ソ連では人間を賛美している。いったいどうしてなのか。

 

019 デンマークの哲学者ハロルド・ヘフデイングはルネサンスの変革の意義を説く。

 

020 「抜都」バトゥはチンギス・ハンの孫。チンギス・ハンの長男のジョチの次男。ジョチ家の2代目当主。Wiki

13世紀前半、チンギス・ハン(カン)成吉斯(思)汗及び抜都の南ロシア及び中央ヨーロッパへの侵入…

 

022 超自然と自然とを融合するスコラ哲学が破産し、人間性に目覚めた。

024 ジョン・マックマレーは、宗教改革とフランス革命が、科学技術の発展をもたらしたという。

026 ロックやルソーは下層民による民主主義を唱え、ベンサムは平等を説いた。

027 ダーウインは有機体の進化・発展を説き、マルクスは人間社会の発展を説いた。

029 ソ連のイリンは「人間の歴史」の中で人間を賛美しているのに対して、シュペングラーは孤独な原始人を賛美し、ラッセルは資本主義以前の社会を憧憬する。030

031 1932年、アルフレッド・イーヴィング卿は科学者の破産と懊悩を述べている。

033 ジョセフ・カイヨーは、機械が人類を蚕(蠶)食しつつあるから、科学を抹殺せよという。

033 ヒトラーは「我が闘争」の中で、アーリア民族は神の寵児であるとする。

 

四 国際連盟設立の際に、ソ連はウイルソンに要望を提起した。ソ連は本来理論的には対立するはずの資本主義国と連携した。

 

035 19181024日、ソ連の外相チチェリンは、その覚書の中で、ウイルソンが提唱した国際連盟構想に注文をつけた。

 

・国際連盟の民族自決構想の中に、ポーランドやセルビア、ベルギーなどは含まれているが、アイルランドやエジプト、インド、フィリピンぜ含まれていないのは遺憾である。

・国際連盟は戦債支払いの拒否を基礎とすべきである。

・国土を戦禍に見舞われたベルギーやポーランド、セルビアなどの復興にソ連だけでなく、戦争によって傷つかずして巨富を獲得したアメリカ資本も、全力を尽くすべきことは当然である。

・将来の戦争を回避するためには、資本家から収奪すべきである。アメリカの資本家が中国やシベリアを併合・搾取しつつあり、日本を圧迫するために軍備を増強していることをウイルソン君も知っているはずだ。

 

 しかし国際連盟はベルサイユ条約の一部であり、結局、独逸等同盟国側を粉砕した。

 

また理論上はソ連と資本主義国とは対立するはずだが、現実はそうではなかった。つまり、1935年、ソ連は仏やチェコスロバキアと相互援助条約を締結し、1939年、独逸とは友好不可侵条約を締結し、米国は、(ソ連を承認しても)利益が少なく、また理論的根拠に基づいて10数年間不承認だったが、日本との対立の激化により、1932年、ソ連を承認した。1934年、ソ連は英仏の招待に応じて国際連盟に加入し、第二次大戦中にソ連は英米と同盟関係にある。

 

五 ソ連邦礼賛。ソ連は技術的・文化的に遅れた辺境民族に対してもその主体性を重視し、産業や文化を推進する主体者として当たらせ、当該民族を長い目で教育した。

 少数民族を教育し、対等に扱い、大事にするということはいいことだ。植民地や半植民地の民族自決を応援するのもいいことだ。ただ、粛清についてはまだ詳しい実態が分からなかったのだろうか。その記述はさらっと触れるだけで、通り一遍である。

 満鉄や外務省がソ連のデータをきちんと調べていたとは驚きだ。

 

039 資本主義国が(第一次大戦などの)戦争に埋没していた反面、ソ連邦は発展し、また植民地・反植民地での民族独立運動が昂揚した。ソ連邦の発展は、植民地・反植民地の独立運動に影響を与えた。ソ連邦の誕生も植民地の独立も、第一次世界大戦後の世界情勢の影響を受けている。ボリシェビキは帝国主義に対立するものとして現れた。列強諸国はソ連がその武力干渉によって制圧されるものと観察していたが、それがソ連勤労大衆の反撃によって失敗すると、今度は、理想は理想だが、数年後には資本主義制に逆戻りするだろうと観測していた。ソ連の1920年頃の工業生産は、戦前の約2割に落ち込み、1921年にジェノア会議が開催され、(ソ連の)社会主義建設を損なわないで、連合国からソ連への資本投資が得られると期待していた。しかし連合国側は社会主義建設を不可能にする条件を出してきて、また連合国側内部の意見対立もあり、期待外れの結果となった。

 

 ソ連は戦時共産主義から新経済政策へ転換した。その転換によってネツプマンやクラークなどの中小資本家地主層が成長し、これについてソ連指導部内部で賛否が割れた。また先進諸国内部での共産党の組織化はうまくいかず、ドイツ、ハンガリー、イギリスなどでの共産主義運動は弾圧された。

 

1928年、ソ連は第一次5カ年計画を断行した。資本主義国側はそれを「統計遊戯」として嘲笑したが、結果は大成功だった。

 

某アメリカ金鉱技師が言う「血の粛清」は、大ロシアだけでなくキルギス、ウヅベツクなどの辺境でも起こり、トロツキー、ジノビエフ等の元元勲も極刑に処せられた。

 

第三次五カ年計画まで遂行され、工業が発展した。農業が機械化され、総工業生産量で独米に追いつくほどだった。ただし、国民一人当たりの工業生産量では劣る。

041 満鉄調査部「ソビエト連邦国民経済第二次五カ年計画の実績」によれば、全連邦で、1937年の工業生産額は、1932年比220%であった。

 

042 スラブ民族が重大な役割を果たしたが、後進民族を近代勤労層に育て上げる努力もした。管理部門でも構成員の半分はその地域の土着民にさせ、企業ばかりでなく、政治的・社会的・文化的方面でも土着民の採用が行われた。

043 アラスカの金鉱技師リツページ曰く「1928年以降、ソ連邦政府は、法律で人種的偏見は刑法上の犯罪とした。」実際、少数民族自治共和国の各種産業の成績は悪かった。リツページ「ヨーロッパ・ロシアの民衆と同様に、彼らにも学校、療養所、図書館が与えられた。共産党員は、全ての種族がその潜在力は同等だと信じている。同じ機会が与えられれば、誰でも同程度に達しうるという信念である。」(リツページ「ソ連の十年」筒井訳)

044 そのため大ロシア人の負担は大きかった。少数民族による反抗もあった。しかし辺境地域での初等中等学校の生徒数は増加し、外務省調査部「ソビエト連邦社会主義建設」によれば、193839年の、191415年比で、4倍となった。また、ソ連邦年鑑1941年によれば、9歳以上の既教育者の全人口に対する割合は、例えばウクライナでは、1926年の57%が、1939年には85%になった。

 

少数民族の中でもソ連内での一般的状態を示す人口約100万人のキルギス共和国を例に取ろう。ソ連のキルギスへの投資額は、1932年の4,200万ルーブル(留)から、1936年の10,000万ルーブルへ増加し、石油、石炭、砂糖、煙草、皮革、印刷等の大工業生産額は、同期間に5,900万ルーブルから11,400万ルーブルに増大した。

またキルギスでは民族文学を持たなかったが、ラテン文化を共有するようになり、キルギス語の新聞が36種、その発行部数は87千、出版書籍は百十余種、その発行部数は73千となり、共産党員数は15千人で、うちキルギス人が60%、コムソモール(青年団)構成員数は4万人で、うちキルギス人69%である。

 

047 ソ連の東部地方への投資額は、第一次五カ年計画期間内に、従来の10倍の2700万ルーブルであり、第二次五カ年計画では、予算額405800万ルーブルに対する実績は、80億ルーブルであった。1932年頃、人口約200の黒龍鉄道沿線の某駅は、1937年には、人口3万のピロビジアン工業都市となり、コムソモリスク市は、同期間内に、53戸から人口7万の都市に転化し、極東の一大工業都市となった。

 ソ連の東部地方の学校総数は、1922年の987校から、1936年の2553校になり、それにはロシア人だけでなく、朝鮮人、中国人、コリヤーク、カムチャダル、オロチオンなどの民族学校も含まれている。人口8000のコリヤーク民族管区では、革命前は一つも病院がなく、就学者数は200人にすぎなかったが、革命後から1936年の間に、学校数は50になった。つまり、中学校5、師範学校1、病院11、産院20と躍進した。

048 ソ連では、勤労階級に近づきやすいソビエト組織を政治の基礎とし、また全民族の平等と自決を基礎とした。後進諸民族が工業化によって鍛錬・教育されなければ、ツアリズム時代から継承された特権的地位、その専横、それがもたらす民族間の対立葛藤は持続され、国際関係の激烈な対立競争のうちに瓦解していただろう。

 ソ連の民族政策は成功した。「内容においては社会主義だが、形式においては民族主義」というのがソ連の指針である。工業化と後進民族の旧式文化とは葛藤対立しがちだが、旧式文化を人為的に変化させようとするのではなく、工業化という大枠が、諸民族の融和と運命共同感を醸成するという政治的効果をもたらした。

 

049 1936年の改正憲法は、上述の諸民族の発達を表現している。1924年憲法でも、民族自決権と諸民族の平等権を確認しているが、現在のような経済的・文化的発達に基礎づけられてはいなかった。旧憲法は「民族会議の組織は、全体として(の)ソビエト社会主義共和国連邦ソビエト大会に承認されなければならない」としていたが、新憲法はそれを廃した。旧憲法は、「民族会議は連邦会議と共に最高中央権力を構成する」と認めながら、この規定のために、ソビエト大会で最大多数を占める大ロシア共和国の影響を受ける、という制限を残していた。改正憲法はこれを廃し、「民族会議は連邦会議と平等の権限を持つ」とし、両会議の合同会議の議長は、それぞれの会議長が交互に交代する、と規定した。民族会議と連邦会議の代表者数はほぼ同数で、1937年末の最高会議選挙の結果は、前者への代表者数574名、後者への代表者数469名であったし、連邦会議代表者中に大ロシア人の占める割合は60%であり、民族会議代表者中にその(大ロシア人の)占める割合は24%であった。

 

 民族会議の構成

 

050 新憲法によって、加盟共和国数は、1922年の4から1936年改正憲法後の11に増えた。その代表者数は平等に25名であり、各自治共和国の代表者数は各11人、各自治州は各5名、民族管区の代表は各1名を、民族会議に選出している。人口8千のコリヤーク族は、民族会議に1名の代表を選出し、自己の主張をなす機会を与えられている。

 

050 民族間の融和 ソ連には200の民族がいる。「アジア種族は未だ自分たちの生活を固持している。共同の集会等に参加して喜んでいるが、それは政策的であって、純粋なものとは思われない。それがロシア人の人種的偏見によるものだとは私は思わない。ロシア人は人種的偏見を持っていない。アジア種族は、共産党員も他のロシア人と同様に、彼らの上に何かを被せようとしていると思っている。」(リッツルページ著 筒井訳『ソ連の十年』)

 これは1938年までのリッツルページの見解である。ツアリズム時代に後進民族が被った抑圧と搾取から生じた不信と懐疑心を一掃するのは容易なことではない。

 

独ソ開戦当時、ソ連内には複雑な民族問題があり、ソ連は瓦解するのではないかと思われていたが、その考え方には根拠がない。

051 ヒトラーはソ連で意外な抵抗にあっている。トランス・オツエアン通信社の報道によれば、「ドイツ軍の包囲作戦は、独ソ戦で優れた結果を実証した。…しかし包囲されたソ連軍は敗北を承認せず、数千、数万の(自国の)軍隊を見殺しにした。ボルシェビズムは人間の魂を殺した。ボルシェビズムの国には、生存の権利や個性をもつ権利は存在しない。死後についての認識はなく、従って恐怖心がない。独ソ戦争は撲殺行為と化している。西部戦線では霊魂が一種の役割を演じ、オランダ軍やベルギー軍は、形勢が絶望的になると降伏した。」(194181日、東京朝日夕刊)

 ドイツ人の従軍記者は「ソ連兵はどの民族も、独逸人に対して劣等感を懐いている。狡猾な手段が彼らの戦法である。…ソ連兵は挺身して死を恐れず、我々の背後から射撃し、負傷兵も武器を持って死に物狂いの抵抗をした。ドイツの第一線が30キロ進んでいるのに、後方の町ではまだ家の窓や屋根から狙撃する。(ドイツ軍が)ブレスト・リトウスクの村を占領した後でも、夜間はもちろん白昼でも、窓や屋根から執拗に射撃した。街路で行き会う市民たちは我々を親しげに迎えるが、女たちは次の瞬間には、背後から我々を狙撃した。」(194172日、東京朝日新聞)

 

052 ツアリズムの時代には(ロシアは)「民族の監獄」とも言われていた。200に近い種族や民族は互いに敵視し合いっていたが、現在のソビエト・ロシアでは「どの民族も、男子も女子も、死後どうなるかについての認識がなく、恐怖心もない。」抵抗して、敗戦が続いてもめげずに抵抗する。その精神はどこから生まれたのだろうか。

 

 国内の対立を解消できなかったベルギーやオランダ、フランスは、「霊魂が役割を演じて」十分な準備をしたドイツ軍を前に惨敗した。ソビエト・ロシアの共産主義者が、人間の霊魂を荒廃させて野獣化したことを、ドイツの東西にわたる戦争が示した。一般に戦争に負けると、政権のせいにして暴動に発展するが、ソ連指導部はこの20年間、世界史上空前の改革を断行して、文盲をなくした。「霊魂の荒廃」を言うよりも、この事実を冷静に研究すべきではないか。

 

053 ソ連の国内建設について異論もあるが、ソ連はその建設的努力の成果を確信している。資本主義世界では過去25年間対立し、(他国に)武力干渉を続けたが、ソ連はそれを免れ、国内改革に専念できた。ソ連だけでなく、トルコ、イラン、アフガニスタン、中国、特に新疆省などのアジア地域の諸民族も、国内改革に成功した。

 

 

六 生産過剰を避けられない資本主義の行き詰まりとしての帝国主義戦争=第一次大戦をよそに、ソ連とその指導を受ける植民地における民族主義運動は、ソ連が力で植民地を制圧するという方式ではなく、各民族の自主性が認められながら自律的に成長していく。その具体例として、トルコ、インド、中国、新疆、中国共産党自治区の取り組みを解説する。

 この論理は私腹だけを肥やそうとする資本家にとっては耳の痛い話であるが、それをどんなに弾圧しても、またいかに帝国主義を国家主義・天皇制で粉飾しようとしても、今でも通用する論理である。

 

053 植民地・半植民地国は、第一次大戦とソビエト・ロシアの影響を受け、近代的革新の軌道に乗った。1919年~21年にかけて、トルコ、ペルシャ、アフガニスタンが、1924年に中国が、ソビエト・ロシアと平等条約を締結し、列強に対する反帝国主義と、民主主義あるいは新民主主義革命を進めた。

 

 トルコはソ連以外のアジアでは最も輝かしい成果を収めた国である。1920年、連合国によってセーブル条約を締結させられたトルコは、サルタンによる専制政治の積弊と、敗戦の結果による窮状に陥った。しかしこの存亡の危機に際して、約半世紀にわたるトルコ革命の結果、英傑ケマル・アタチュルクらが立ち上がった。彼らは英仏等連合国の勢力を廃除するために、革命ロシアと提携し、19213月、モスクワで「帝国主義に対する闘争」で、トルコとソ連との連帯、両国利益の共有を強調した和親条約を締結し、列強の排撃と、サルタン専制政治に対する革命に邁進した。

 しかし、この年1921年の2月、トルコの旧式の外交官ベキル・サミ・ベイは、ロンドン平和会議で、「イギリスが列強によるトルコ占領を断念させられたら、トルコをボルシェビキに対する緩衝地帯とし、帝国主義の奴僕になることに甘んじよう」と申し出たが、英首相には爆笑された。このようにトルコの国内における革新の遂行は容易でなかった。

054 ケマル・アタチュルク党のトルコは、結局列強の干渉を抑え、列強のトルコへの接近は、トルコの自主独立の条件下で許容されることになった。これはソ連と取り結んだトルコの対外政策の成功であった。

 反帝国主義の遂行とともに国内革命も遂行された。この革命の根本は、幾百年にもわたる神政政体・僧侶国家を打破して現代民主主義国家に転化することであった。僧侶階級は、政治、法律、教育、慣習など一切の支配者であり、近現代の文明・文化の発展に対する深刻な妨害者であった。この旧弊に対してケマル・アタチュルク党は大胆不敵な斧鉞(ふえつ)を加え、その目的の達成に成功した。こうして赤帽子、纏(てん、まとう)頭布、婦人の面紗が廃止され、アラビア文字に代って容易なラテン文字が国字とされ、1926年、女子の家庭や社会における正当な地位が保証され、女子は男子と同じく、一個の人間、一個の国民として待遇され、1930年、市町村議会議員の選挙権と被選挙権が与えられ、1935年、21歳以上の女子に国会議員の選挙権と被選挙権が与えられた。(日本よりも早い。しかも自力で行った。日本は戦争に負けて米軍に与えられた。)

055 この文化建設と並行して、経済建設も断行された。鉄道の敷設、農耕技術・経営の改善、保健衛生設備の普及などである。トルコは先進列強の援助を求めず、ソビエト・ロシアの支持を得て、武器工場の設立など、国内産業の工業化で成果を収めた。1934年、ソ連の信用と技術家の派遣を得て、鉱業、工業、農業、道路建設、鉄道の五カ年計画の立案・実行が進められた。

 軍隊が改造され、1939年ころのトルコ軍の平時員数20万人に対する士官数は2万人―士官の多くは下士階級―で、動員がしやすくなった。

 

 イランやアフガニスタンにおける反帝国主義運動も、ソ連の支持を得て成功し、トルコほどには達しなかったが、近代化が進んでいる。詳細は省略する。

 

 さて、中国の新疆省は(国民党の)重慶政府に属するが、もし重慶政府の政策が宜しく、国際環境にも恵まれてその革新が全支那で実現されていたら、東亜の情勢は現在とは全く異なっていただろう。

 

 新疆省の革新は、馬仲英*の反乱当時、満州事変で苦酸を嘗めて同省に逃げ込んだ盛世才を中心として、ソ連の支援を得て遂行された。

 

*馬仲英は1934年、盛世才の反撃に会って敗れ、ソ連空軍に入隊した。

*盛世才は1939年、ソ連共産党に入党。1949年、台湾に逃亡。

 

この変革を「赤化」と称してぼかすことは、新たにアジアに展開しつつある民族問題の本質的解決を誤まらせる。1935年、同省新政権樹立第二周年記念会の席上、督弁(とばん)の盛世才は「省政府においては諸民族の親和を計り、新疆から奪取しようとするあらゆる分子と抗争した結果、今や新疆を中国の主権下に確保する最大の使命が遂行された。省政府が、ソ連には何らの侵略的野心がないことを信じて、これと親善関係を結んだことは、使命の遂行上、多大の貢献をなした」と述べている。

盛世才は1931年―4年の内乱鎮定に当たり、ソ連の支援を受けながらそれに成功した。ソ連は内乱鎮定のための武力や資材だけでなく、内乱中に始まった建設でも、物質的・文化的側面で支援した。

 

 この間に盛世才は省内の実情に基づき、一、民族平等の実行、二、信仰の自由の保証、三、農村救済の実施、四、財政の整理、五、吏治の革正、六、教育の拡充、七、自治の推行、八、司法の改良という八項目の宣言を行い、さらにこの八項目を実現するための保障としての六大政策、即ち、一、帝国主義側からの進出を逃れるための反帝国主義、二、帝政と搾取階級がなく、領土に対する野心もないとする親ソ政策、三、政治・文化における漢人の独占打破のための民族平等政策、四、官職を致富の道とする旧弊打破のための吏道刷新政策、五、五年に一小乱、三十年に一大乱という不安を除くための平和政策、六、農業、工業、交通、電力、学校、病院等に関する近代的建設政策を確立した。

 

 これを遂行するための計画は、ソ連の技術者による同国の五カ年計画の経験を参考に、新疆の実情に即してなされた。計画遂行の局に当たるものは、ソ連の技術者の援助は受けているが、新疆人であった。新疆は(ソ連から)技術と資材を補充された。盛世才は建設専用に、ソ連から500万ルーブルの借款を、年利4分で得た。

 

感想 2025213() ソ連に領土的野心がないと著者は度々言っているが、この3年後の千島列島の占領はどう説明するのか。ソ連なら核兵器を持ってもいいという論もあったが。

 

 新疆はソ連の影響を受け、その民族政策で成果を収めた。上述のように同省は五年に一小乱、三十年に一大乱と言われるように、争乱が絶えない多民族社会であった。ウイグル族60.0%、中国人12.0%、蒙古人8.7%、カザック族7.7%、東干人*6.0%、満州族2.0%、キルギス族1.6%、その他ロシア人、タジク人、ウズベックス人、インド人、タタール人、ジブシー族などが2.0%を占める。

 

*東干人、ドンガン人 主に中央アジアのカザフスタン、キルギス領内のフェルガナ盆地に居住する中国系ムスリム。

 

ところが中国人と東干人を合わせた18%が、他の84%(82%)の異種族に対して、旧支那式の専制政治を行っていたことが問題の種であった。盛世才党はこの旧弊を改め、省政府の副主席と数個の副廳(庁)長にウイグル人を任命し、同種族が多数居住する地方の特長その他上級官吏に、同種族出身者を任命し、省政や県政で、各民族の代表者からなる民族協議会が随伴することとし、政治的に諸種族の利害が代表されて民族融和が図られた。

 革命前には旧支那式愚民政策により、ごく少数の上層の子弟二千数百人が、60余の学校で不完全な旧式教育を享受していたのに対して、絶対多数の民衆は幾百年の文盲と愚昧のうちに沈淪していた。この積弊は革命政府によって掃蕩され、溌溂とした広汎な教育制度が民衆のものとなった。各民族の文化促進会の組織や各民族の文化的向上が支援・奨励され、各民族語によって教育が行われ、民族語によって書かれあるいは翻訳された教科書が編輯されるようになった。1934年~35年以来の努力の結果、中等以上の学校数10、その学生数1,398人、小学校数215、その生徒数1,738人、家庭の会立と私立の学校数1,558、その生徒数150,000人へと躍進した。その他軍隊の新たな教育編成、士官学校等が設立され、産業開発ではソ連の五カ年計画の経験が取り入れられた。

 

058 世の多くの人たちはこのような新疆を「赤化」というが、それは事実に反する。「赤化」とは一般観念では、「共産主義の実現、あるいはその実現のための勤労階級による政治権力の獲得」を意味するが、新疆の実際は、土着資本や地主層の利害だけでなく、各民族民衆に基づく新たな民主主義的発展であり、同時に、先進強国の抑圧の下に屈する列強世界の法則に鑑み(の観点からは)、反帝国主義的発展である。

同省が赤化しているかどうか半信半疑で同省を視察旅行した蒋政権の中国人宋応精はこう断言している。「新疆の建設は、ただソ連の物資と技術上の援助を運用するだけであり、政治的条件は包含していない。(世人は)軍事政治の大権がソ連の手中に握られているのではないかというが、一体(それは)どんな技師や教官を指すのか。私の見た所では、たしかに、牧畜の技師はソ連人で、官立薬局の薬剤師もソ連人で、軍官学校と航空隊の教官もソ連人で、三年計画建設の専門家もソ連人であるが、これは、軍事政治の大権が我が国人(中国人)の手中にないという証明になるのか。もし新疆がソ連の傀儡になったとするのなら、何のために白系ロシア人の軍隊が依然として(新疆に)存在しているのか。」「新疆の各小学校は三民主義の教科書を編んでおり、各学校や各機関は、いずれも青天白日旗と孫総理の肖像を掲げている。もし総理が存世されて新疆の話を聞かれたならば、総理は必ず喜ばれ、『ああ私の遺嘱(死後のことについての依頼)は、新疆で初めて本当に実現した』と言われるであろう。」(「蒙古」同人論文「新疆の政治経済の状況」19405月号)

 

 最後に中国とインドが、第一次世界大戦とその後の世界情勢の影響を受けてどんな変化をしたか、さらに現在世界によってどんな発展を示すであろうかを見ていく。まず第一の問題について略述する。

 

19241月、国民党の改組に際し、孫文は以下のような演説をした。

 

「私は嘗て北方に対する南方の勝利は、帝国主義に対する革命の勝利であり、これに反して北方のために南方が敗北することは、革命自体の敗北であると考えていた。しかし、全支の学生が革命思想の側に獲得された今日、もはや我々は従来のように、中国の他の半分に対する闘争という立場に立ち止まっていることはできない。我々の党はもはや異なる勢力から、つまり外部から、来るのではなく、内部から、動く勢力から、即ち革命思想に対する国民大衆の精神的賛同から、支持を受ける必要がある。今日から、この賛同こそ我々の一切の事業の基礎とすべきである。単なる武力によって達成される成果は決して永続するものではないから、なおさらである。(大衆からの精神的賛同の価値はある。)」

 

「今日まで我々の革命はその目的を達成できなかった。なぜか?それは我々に一つの力が欠けていたからである。いかなる力か?それは国民の正しい同情である。即ち革命は今日に至るまで源泉のない川であり、根のない樹木であった。我々を敵に対する勝利にまで導くことのできる唯一の道は、何よりも全国民衆の心を獲得することである」(ウイットフォーゲル「孫逸仙」3134頁)

 

ここに支那民族独立運動の新たな発足があり、辛亥革命以来、孫文革命党が嘗めた絶望的窮状からの脱出と一大躍進とがある。北伐は、幾百万幾千万の中国農民・勤労者・都市小市民層を、民主主義的・反帝国主義的要求の貫徹に向けて、邁進させた。この強烈な革命的勢力の勃発を前にして、資本家地主層は恐怖し、結局1927年、国共分裂を齎し、革命は頓挫し、列強の干渉と進出を導き入れた。こうして国共両党の対立抗争は持続した。

 

 薄弱な旧南京政府(蒋介石1928/10/10-1031/12/15)は、勤労民衆の利益を顧みず、形ばかりの国内建設を遂行し、そのため益々民心から遠ざかった。この虚に乗じた共産党は、その急進政策を是正し、江西省を中心に、強力に発展した。列強は旧南京政府の建設に参画し、それぞれの金融資本的支配を中国に拡張しようとし、中国に重大な利益をもつ日本との抗争を激化し、それと同時に、旧南京政府も日本との対立を激化した。

 こうして満州事変、支那事変が勃発し、日本と中国との致命的な戦闘状態が惹起・持続された。そしてこの中国の危機が、国共両党の合作を齎した。

 

 この新たな国共合作は、現在支那民族の独立運動にどんな効果をもたらしているか。中国共産党は江西省で、その極左的傾向のために辛酸をなめた後に、中国の現実に即した考え方や政策を習得し、日支抗争の激化とともに、三民主義によって中国革命を推進すべきだと決定し、三民主義を根本原則として、国民党と提携した。対日抗戦を続行する以上、共産党の影響下に、国民党は益々広範に民衆を動員しなければならない必要から、好むと好まざるに拘わらず、共産党と共に、新民主主義的改革をせざるを得ない。そしてこの支那事変の継続によって必要となった民衆の動員は、単に軍事上の問題だけなら重大な問題とはならないだろう。事実は、民衆の(軍事的)動員だけでなく、政治・経済・文化等に重大な恒久的変化を与えている。

 

 農業国中国における民衆動員の対象の89割は農民であるが、中国共産党は国民革命における農民の力量を高く評価した。農民の革命力は、中国のこれまでの歴史からみても、現在の国民革命への参加においても強大である。問題はただ良い指導者のもとに目的と組織を集中することであると(中国共産党は)考えている。このような評価は、今日に限らず、1926年の北伐当時においても、中国共産党が考えたことである。現在同党の活動が、この同じ評価に基づきながら、前時代と異なる点は、前時期の急進的突撃の苦い経験の上に立ち、農民の既成観念や既成組織を利用し、無理を押し通すことなく、これを新しい目的と組織に転化させるという老練な手腕によっている点である。

 同党は日本の攻撃を目前にした農民に対して、国家防衛の義務を直ちに説かず、先ず家郷防衛の義務を説き、旧来の保甲制度を活用し、農民の視野と活動を自衛と国防に展開させている。

 この保甲制度は、「抗戦建国実施綱領」の中で掲げられている民衆組織の調査充実方策、すなわち「管、教、養、衛」制を、保甲制度の運用の中に適用している。つまり、管は、官が民を管理することだけでなく、人は自らを管理すると同時に責任者を監督すべきであり、教は、学校教育だけでなく、民衆訓練であり、自治、自衛、自養の精神を涵養させることであり、養は、国防抗戦の生産だけでなく、民衆の自給自足を計ることであり、衛は、郷村だけを守ることではなく、同じく連なる全地方、さらに全国家を衛ることであると説き、同党の新民主主義で実行している。こうして地方に存する旧制度の中に、且つ各地民衆の生活慣習を尊重しながら、新たな政治・経済・文化・軍事の目的と組織を発展させつつある。中国共産党の運動は、支那社会の革新にとって最も重大な一つの原動力となっている。

 

061 このような共産党の活動は全ての地方で均一に実施されているわけではないが、おおよそこの方針で行われている。(中国共産党の抗日根拠地である)晋察冀(しんさつき)辺区の定県では、25歳以上の、陝甘寧辺境(区)では、16歳以上の男女に普通選挙権が与えられ、保甲人名簿に基づいて選挙人名簿が作成され、保民大会で30人につき1人の村長選挙人が選出され、村長選挙人の間で村長と副村長が互選される。

 土地政策では、地主の土地を没収するとか、小作料を極端に引き下げるとかの従来の急激な方策は廃止され、その代わりに、救国公糧、救国公債などによって、土豪劣紳(地主や資産家)の負担を過重にし、他方、租税の減免、利子の引き下げなどによって、農民の負担を軽減している。農業生産の向上のために、耕地を持たない農業労働者や貧農、難民、失業者などに、官業荒地や私荒地などの荒蕪地を開放して自由に開墾させ、そうしてできた開墾地には地租負担を免除している。また開墾に必要な農具は、従来のように地主・富農から没収するのではなく、地主・富農の農閑期に貸与させている。合作社運動も、農業生産を増大するために、消費・生産・配給において行われている。農民の低い文化水準を昂揚させ、農民を現代化し、抗戦意識を高めるために、文盲退治のための識字教育や技術教育等の啓蒙運動が、抗日国難教育訓練として行われている。

 

 中国共産党のこのような老練な方策が着々と収めた効果は、国民党支配下の諸地域に影響を及ぼさざるをえない。重慶政府が(日本に対して)抗戦を続ける限り、民衆の動員に成功しないわけには行かない。そのためには共産党のように、民衆の生活に即し、その生活の向上を計り、国民的愛国心を発揚させないわけにはいかない。しかし重慶政府と国民党は、民衆が隆起することは、自分たちにとって不利だとみなし、どうにかしてこれを抑制しながら国家統一を求めて来たのだが、緊迫した事態によって、従来通りにするわけにはいかなくなり、やむを得ず共産党の民衆興起策に追随せざるを得なくなった。過去において、民衆動員に関して、この国民党的方策によって郷村地方行政の改革を行い、それに最も成功したと言われる広西省では、嘗て50万の壮丁を揚子江方面に派遣して抗日戦に参加させることができたのだが、この方面で敗戦し、さらに多量の壮丁の軍事的動員が必要となり、従来のような程度の改革では農民の興起は難しくなり、現存の政治体制を変革せざるをえなくなった。抗日戦の持続のためには、広西省の指導層が共産党をどんなに憎悪していても、同党の方策に追随せざるを得なくなった。抗日観念の強烈な小ブルジョワ層の青年や下級青年官僚や労働者などの活動に頼るためには、やむを得ずその方向に向かっている。共産党の活動は、間接的に、国民党支配下の全中国諸地域に及んでいる。

062 重慶政権は「日本が中国経済を封鎖することは、(却って)中国経済の復興のための機会である」と確信し、財政・金融・農工・文化の各般において、画期的な革新政策を樹立・遂行しているが、この革新政策には、中国民衆の民族と民生の発展が一貫している。

例えば、19394月に開催された全国生産会議大会の宣言で「農産物価の高低は、直接的には農民の利益に影響し、間接的には農業の生産に影響する。だから価格を高めることは、生産を増加する上で最も有効な方法である。…我が国の農民は資金の欠乏のために、充分に肥料や労力を使用して生産を増加できない。農業金融機関によって速やかに長期・中期・短期の貸し出しを行うべきである。農業生産技術の改進も、生産を増加させる方法である」とある。

また最近、農業部長の陳濟棠(とう)も、農業工作について「農民の地位を改善し『耕作者有其田』という孫文や国民党の主義を実現せざるをえない。土地の公平な分配がなければ、生産の増高は決して実現できない」と述べている。

19406月に重慶政権が発布した「非常時期人民団体組織機構」は、「第三条、人民団体は、民権の精神に違反したらいけない」、「第六条、組織は下から上への縦的組織であり、上級組織は、下級団体の半数以上の参加によって成立する」、「第七条、人民団体は民衆を基礎とし、合法の保障を与えることができる」と規定するように、(日支)事変以前の民権や民主に対する反動的な態度を、蒋介石政権が一変したことを証明している。重慶政権が戦争によって被った破壊だけに目を向けるのではなく、上述のような建設的な方面にも目を向けるべきである。重慶政権の画期的な新政策は、実際的動員を齎したのである。

スタッフォード・クリップスは1940年の論文「中国における民立制度」において、「事変以来、自治的に組織された幾千の農業合作・工業合作・合作金庫などが、軍需品や民需品の生産を増大させて避難民や失業者に仕事を与えただけでなく、中国において民主政治の永久的一大組織の基礎を築いた」と指摘している。これは日支事変によって強圧的に成立された国共合作の成果に他ならない。

 

感想 ロシア革命政府は1917年に生まれたばかり。本論文の執筆は1942年だから、1917年から25年しか経っていない。ロシア革命政府は領土的野心を持たず、ブレスト・リトウスク条約1918では、ドイツに対して領土的に大幅に譲歩した。また建国理念も理想主義的だった。だからそれが世界に与えるインパクトは大きかったに違いないと想像される。今のプーチン・ロシア政権とは大いに異なる。プーチンを見習おうなんて考える人は少ないだろう。だから、本論文がその理想を推奨する文体になるのもやむを得ないのではないか。それをやっかんで、その推奨者たちを牢屋に入れて拷問し、弾圧するなんてみっともない。共産主義者でなくてもロシアのすばらしさを論ずることは理解できる。

 

 国共合作は、外観上は両党の地盤争いのために今にも分裂しそうに見えるが、実際は、数年間の抗争を通して持続している。それは抗日戦を持続せざるを得ない重慶政府の立場上止むを得ないことであるが、両党の対立抗争は、主義原則の対立というよりも、勢力範囲の争いであり、支那事変後に共産党に対して有利な地位を得ようとする重慶政府の意図から出ている対内問題である。むしろ国共間の抗争は共産党の民衆動員の効果と、その重大性を証明している。

 

 さらに抗日戦持続の必要に駆られた国民党と共産党との民衆動員における対立抗争と、後者の前者に対する感化力の蔓延について留意すべき他の一面は、支那少数民族に対する主義・方策に関してである。中共六中拡大委員会において主張された代表的意見によれば、中国共産党を多数の党派やグループに分裂させようとする計画に対する闘争において最も重要な任務は、各種民族全体を単一の抗日戦線に統一することである。

第一に、蒙古族、回教民族、西蔵族(チベット族)、苗族(ミャオ族、中国の西南山地に住む。モン族)、猺族(ヤオ族、湖南省、広西チワン族自治区、広東省、貴州省、雲南省などの山地に広く分布している)、夷族(雲南省、四川省、貴州省、広西チワン族自治区からベトナム、ラオスに居住)、番族(台湾族?)その他の諸民族は、漢人と同等の権利を持たねばならない。これらの諸民族は、抗日戦の条件として自決権を取得し、単一国家内の埒内で、諸民族との統一を継続しなければならない。第二に、少数民族が漢人と雑居している地方では、地方政権は、この地の少数民族の代表者からなる委員会を組織しなければならない。そして同委員会は省や県政府の機関となり、これに自民族内行政の指導をさせ、またこれらの少数民族に対して、省や県政府機関での参政権を付与しなければならない。第三に、各少数民族の文化や宗教、習慣を遵守しなければならない。また彼らに漢文・漢語の習得を強制すべきではなく、彼らの自民族語、自民族文化の研究発達に対して援助を与えるべきである。第四に、漢民族にその大漢人主義を放棄させ、各少数民族と漢人との平等権を確保し、彼らに対する侮蔑的態度や、彼らの言語や文化に対する侮蔑的態度を禁絶しなければならない、と少数民族に対する特別の注意を与えている。

064 この中国共産党の民族政策における主張は、単に理論に止まらず、実際の政治上に活用されている。既に1939年には西北支那に、中国回教救国連合会が組織され、西安事件以後は大いに拡大され、甘粛、青海、寧夏、新疆、河南、山東各地域での少数民族との連携はますます緊密になり、民族統一の綱領が伝播された。同連合会は省と県委員会を置き、各県の委員会は、各地に支部を持ち、抗日戦に回教民を動員している。これに対抗して重慶政府も、中国回教民救国協会を持ち、諸地域で抗日戦に回教民を動員している。両党の対立抗戦は、両党の民族政策の真価によって決定されるだろう。

 

 上述の支那民族の独立運動の発展とともに、隣国インド4億の民衆は、現在の世界大戦の発展に乗じて、立ち上がっている。過去約300年間にわたるイギリス帝国の抑圧を一掃し、支那同様に、現代文明・文化に即応した新民主主義革命を目指している。第一次大戦後のインドにおける勤労民衆と土着支配層とは相呼応して英帝国主義反対の国内改革を断行し、熾烈な闘争を行ったが、その経験が現代世界大戦を好機として拡大強化されている。

 

065 この運動の大指導者ジャワハルラル・ネールは、その獄中の陳述の中で、

 

「私たちはインドの名においてインドの心を語る。個人としての私たちがどんなに取るに足りないとしても、インド大衆の代表者としての私たちは偉大である。これら人民の名において、私たちは人民の自由を求める権利を主張し、また人民自らの行動を決定する権利を要求した。私たちはこの権利を認められたことがなく、さらにインド人民に対して何らの責任をもたない個人や集団が、その意志を人民に強制し、インドの人民あるいは人民の代表になんら図ることもなく、インド数億の民を、求めていない巨大な戦争の坩堝に投げ入れる権利はなかったはずである。しかもこれが、戦争の名目となった、自由・自治・民主主義の名の下になされたということは、まさに驚くべき事であり、また意味深いものである。」(綜合インド研究室「綜合インド」七月報第四号10頁)

 

この主張は、現在英帝国主義による参戦要求に反対するインド民衆の確信である。それと同時に英帝国が真実にまた現実にこの要求を容れるにおいては、もし枢軸諸国の、後進民族に対する政策に変化がないとすれば、英帝国と共に現世界戦争に参加する覚悟をあらわすものである。*

 

*インド人が戦争=第二次大戦に参戦するというのか?「世界史の窓」によれば、反帝国主義、反ファシズムの旗は掲げられながらも、ボースのように日本(ファシズム)との協力による対英独立論もあったようだ。また回教派も別行動を展開することもあり、インド内も一枚岩ではなかった。

 

西ヨーロッパに戦争が勃発するとともに、事実、反帝国主義と反ファシズムを、インド民衆は宣言した。同じくネールは1936年、ルックナウにおける全インド国民会議党大会において、支那民衆運動に感激して、

 

「東亜において戦雲は地平線上に現れている。世界的諸勢力に向かって、人間の自由を擁護し、政治的・社会的束縛を打破しようとする諸勢力に向かって、我々は抗争する。彼らの闘争への我々の完全なる協働を申し込む。我々は我々の闘争が共同の闘争であることを確信している。」

 

066 現在の世界大戦の過程の中で、インド民衆の反ファシズム・反帝国主義と国内革新は、今後どんな発展をするのだろうか。インド民衆は現在、1936年~37年の北伐に際して展開した中国民衆の革命的勢力に類する勢力を展開しようとしている。中国と隣接国インドとが呼応連環する巨大勢力は、アジア問題解決のための決定的な地位を占めようとしている。世界情勢の発展と変化は、中国・インドだけでなく、すでに新民主主義の革新に入ったトルコやアフガニスタン等にも影響し、彼らはインド民族と同様の民族的主張を貫徹しようとしている。このように世界が一大転化を出現していることは、深く省察・留意せざるを得ない世界的事態である。

 

 

七 感想 大言壮語で何を言っているのか意味不明と最初は思ったが、文明と文化に関する論はよく分からないが、ここで細川嘉六が言おうとしていることが分かった。つまり、日本国民は世界史の流れから取り残された現体制を打破するくらいの若さを持ち、世界史の新民主主義と民族主義の流れに貢献するような世界的発信をしなければならない、と言っている。

 

 現代世界に、文明と文化との調整問題が提起されている。その問題の解決如何によって、人類社会は前進あるいは後退し、はたまた崩壊するかもしれない。資本主義世界の指導者たちはこの問題に当惑し、科学技術家、哲学者、企業家、政治家等は、科学技術の圧殺か、血を犠牲にする民族戦争か、文明の崩壊か、を以てこの宿命的な世界問題に対処した。

 その結果第一次世界大戦に続く現在の世界戦争が勃発した。第一次世界大戦後の二十年間における世界情勢の展開の特徴は、資本主義社会における止まるところのない対立の激化と、これに呼応した、同世界(資本主義世界)から敵視され、無視されたソ連、トルコ、イラン、インド、中国等の挙国的反帝国主義、新民主主義運動の発展とである。この二方向は文明と文化との調整問題解決の二方向である。

 

067 現在の世界戦争はどんな世界的変貌を齎すか。現在の世界戦争は第一次大戦とは異なり、すでにドイツの占領地の政府は分裂してナチス・ドイツにとって有利ではない、一方、英米でも労働争議が勃発して人民の権利を伸長する方向を向いており、英米の指導層が長期抗戦とその成功を追求する限り、全民衆の支持を必要とし、その結果民衆の新民主主義的な要求に対して譲歩するだろう。また中国、インド等における全民族による反帝国主義・新民主主義も興っている。これらは資本主義の行き詰まりの結果であるが、またそこには新たな人類社会の発展が内包されているかもしれない。

 

 過去二十年間の世界情勢が、独善・独断的ではなく冷静・科学的に考究されなければ、哲学も政治も生まれないだろう。八紘一宇の説明が各方面からなされているが、それは東亜諸民族を納得させられるであろうか。またそれは日本の民族的思潮になり得るだろうか、疑問だ。内政問題や民族政策は具体的・効果的に解決されなければならない。

068 現在の世界情勢において軽視できない傾向は、ルネッサンスを経験したことのない日本人に理解されているかは疑問である。某科学者曰く「全てのことは二つの観点から考察される。一つは、普遍的流通性、機能概念、学問的認識、冷静さなどであり、愛国憂国の感情を冷却する。もう一つは、固定的停滞性、本体概念、信仰的愛着の情、歴史的探究から汲みだされ、熱情的で、科学的態度を破壊する。国家・民族等に関して、学者は理論的だが、反愛国的になり、他方、愛国者には理論がない。学問が進むと愛国・愛郷心は消失し、他方、愛国者の多くは無学者の間から輩出する。」(「理想」昭和1019353月号、松永材「日本国民主義の意義」61頁)

科学と愛国心とが両立しないという考え方は、アリアン民族以外に世界を導き文明と文化を発展できる民族はない、という考え方の亜流である。愛国者は市井無頼の徒から輩出するとは、何のことか。それは蒲生君平、高山彦九郎、林子平のような偉大な愛国者を辱める考え方でなければならない。

 現代の科学は、自然科学と社会科学の区別を消滅し、人間社会を、さらには人格さえも、物質同様に分析する。マックマレーは現代精神についてこう語っている。

 

「我々は今、文化的伝統における新しい破局に直面しているのではないか。つまり、我々は今、科学の進歩を生活条件の統制に適用しようとする出発点に立っているのではないか。今まで科学を人間世界の外においていた禁制が、今取り除かれつつある。科学的心理学が発達しつつある。自然が文化的世界の興味の中心的焦点であることをやめ、物質と機械が登場しつつある。これからの未来はどうなるのか。文化から物質に転落した以上、それ以上転落することはないし、科学が人格の世界に有効に侵入したばあい、それ以上科学が侵入できる世界はないだろう。大戦の終末とともに我々が入り込んだ段階がその進路を走った場合―その進路における速度は速いだろう―、ヨーロッパ精神の発達段階が完了するだけでなく、中世の終わりに出発した全過程が完全に終わるだろう。この進路が最後の目標に達すると、それはヨーロッパ的であることをやめ、世界的なものになるだろうと見通すことができる。

 近代精神はヨーロッパ的進歩の中で発達してきた。しかし今この精神は近代世界の精神になろうとしているようだ。今後どうなるかを推量することはできないが、それは科学の成果に立脚した統一的な世界文明になるかもしれないし、或いは、近代精神がそれだけで作り上げる新しい文化かもしれない。なぜなら、人間の肉体が食物なくしては餓死してしまうのと同じように、人間の精神は文化なくしては餓死するほかないだろうし、中世期が蓄積した伝統的文化という資本、即ち近代精神がそれによってその工場を建設し、機械を据え付けた資本は、もはやほとんど使い果たされているからだ。」

 

感想 心の中にまで入り込んできた科学の進歩によって近代精神は餓死するしかないということか。

 

070 この論断は、今の世界情勢とソ連との影響下に、トルコや新疆等で発展した欧亜の新たな情勢を勘案しながら冷静に、かつ科学的に、味読されるべきである。真実な科学に基づかないでは、この欧亜にわたる新情勢の意義は理解できないし、アジア10億の諸民族を指導すべき日本的思想(八紘一宇)も政策も、発展できない。新しいトルコの革新は、どんな精神と政策によってもたらされたのか。ケマル・アタチュルクはこう語る。

 

「一切の偉大な運動は国民精神の深いところから流れるものでなければならない。国民精神は一切の力と偉大さとの源泉である。この国民精神の昂揚によって、吾等はこの国をトルコの名に値する誉れある国としなければならない。トルコはその言葉の完全な意味において、文明国とならねばならぬ。そのために吾等はトルコ本来の文化を培養する。同時に進んで外国の文化も学ぶだろう。一切をトルコ的に考え、トルコ的に見ることによって、あくまでもトルコ精神の独立を護持しつつ、アジアとヨーロッパからその最上のものを摂取するだろう。」

 

感想 「八紘一宇」など日本の価値観だけに立脚していては、世界を導くことはできない。どの国のナショナリズムも尊重されなければならない、と言いたいのだろう。

 

 この精神に基づいた革新が、トルコ絶対専制の神聖政体を打破し、文明文化の発展程度を計る尺度とされる、女子の地位を男子と平等にし、女子に、市町村会議員や国会議員の選挙権と被選挙権を与えたのである。この精神の新民主主義的部面について、新トルコの偉大な指導者アタチュルクは、以上のことを述べたのである。また某学者はこのことについて以下のように述べている。

 

「トルコの女子、特にアナトリアの農婦たちは、このような男女平等の待遇を受けるにふさわしい勲功を、独立戦争のときに立てた。サカリア会戦のとき、トルコの一将校が、負傷した三人の女子の傍らに立っている兵士を見た。『なぜ戦線に女子を伴っているのか』との訊問に、兵士はこう答えた。『私が連れて来たのではなく、彼女らが無理についてきたのです。今日私が最近配られたモーゼル銃を肩に戦線に向かおうとすると、私の母と娘が、私の猟銃を持って一緒に行くと言うのです。私は厳しく禁じたが、両人は、何としても承知しません。しまいに母は怒り出し、お前をこの世に産んでやったのはこの母ではないか。この母はお前の指図は受けぬ、と言って、遂に一緒に戦場に出たのです。』このようなことは、この母子だけに限ったことではなかった。幾多の農村の女子が、男装をして男子とともに戦った。弾薬や糧食を担い、輜重の任務に当たった。一農婦は険しい山道を馬車で弾薬を運んでいたが、馬が脚を折って斃れたので、付き添っていた二人の子どもと力を合わせ、自らその車を引いて戦線に弾薬を届けた。だからこそアンゴラのムスタファ騎兵隊の台座に、大砲の側に跪くアナトリアの農婦の姿が刻まれている。ムスタファは彼女らの勲功の報いたのである」

 

 日本民族の(八紘一宇のような)雄渾かつ適切なる思潮と政策は、少なくとも先ずトルコ等一連の諸民族の実相と動向の学問的研究と理解なくしては、展開・樹立されるはずがない。わが軍は緒戦では大戦果を挙げたが、現在の世界戦争は単なる武力で最後の目的に到達できるものではない。イギリスのマレー少佐は、その著「クラウゼビッツへの手引き」の中で、近代戦における輿論に関するクラウゼビッツの評価について、適切にこう述べている。

 

「戦争中における三大目的の一つとして、輿論を我が物にすることの重要性を説いたクラウゼビッツの、ほとんど予言的な―彼の時代でもそうであったが―考えは、根本的なものである。彼の著書を永久的価値あるものにする所以は、近代国民戦争の発展に対する彼の洞察の稀有なことによる。何となれば、彼の時代以来、欧州は益々大実業国民を生じ、民力と人民の感情と戦争における輿論とは、益々重要となったからである。事実、輿論を得ることは近代の大国民戦争では、政治家の主要な仕事となった。政治家にとって、戦争と実業との関係について、また彼が統括する、また統括するかもしれない数百の実業家との関係について、専念して研究する必要が生じてきたのである。」

 

072 アジア、殊に我が国に近接する諸国・諸民族は、それぞれの民族的発展の諸条件に応じた新たな民主主義革命を遂行するために、全努力を傾倒している。このような現代アジアにおける、世界史上未曽有の世界的事業を、我が全国民は明確に納得しなければならない。同時に、このような世界的事実を納得するためには、我が全国民は支配階級のために蔽いかぶさっている帝国主義的支配を打破するほどの国民的若さを取り戻すことが根本的条件である。尾崎行雄翁はその著「日本憲政史を語る」において、日本は明治20年代に、その若さを失ったと慨嘆し、北一輝はその著「支那革命外史」を一貫して、日支の問題は日支諸民族の革命的提携によって解決されるべきことを主張し、同じく、日本朝野が若さを失っていることを痛論し、さらに、その最後まで日支提携を求めてやまなかった孫逸仙も、日本支配階級の老朽を慨嘆している。全日本国民は、自己とアジア諸民族の偉大な発展をもたらすべき雄渾適切な政策を樹立するためには、どんな苦難を嘗めても、最も溌剌たる若さを、―内政における真実な大革新なくしては(その若さは)実現できない―獲得しなければならない。この国民的若さとは、現代世界の歴史的根本問題である文明と文化との調整を大胆不敵に解決する国民的意力である、と断ぜざるをえない。これこそ我が全国民が、世界の大勢に乗じ、真実に偉大となるために、まずもって達成すべき、当面の最も根本的な任務である。

 

以上

 

2025年2月9日日曜日

狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977

 

狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977

 

 

 

001 はじめに

 

 

19741031日、東京高裁が無期懲役判決を下す。

1976128日、上告趣意書を提出。現在最高裁で係争中。

 

002 広津和郎松川事件の被告たちの獄窓からの文集真実は壁を通して』を読み、松川事件に取り組むようになったが、「これはウソが書ける文章ではない」と感じたという。

「世にも不思議な物語」の著者宇野浩二は、(松川事件の)「被告たちの顔があまりに明るく、その目があまりにも澄んできれいであったことから、無実を確信し、救援活動に参加した」と述べている。

 

 第一部 山上益朗弁護士が、石川一雄君との出会いの印象を語っている。

003 第二部 自供調書と、被害者に父親と警察官に宛てた詫びの手紙

第三部 川越の萩原佑介氏と部落解放同盟前委員長の浅田善之助氏に宛てた手紙

第四部 石川君の生い立ち 彼自身が二審75回公判で述べた証言

 

逮捕当時の新聞記事

 

「『あんな好青年が…』――近所の人もびっくり」毎日

「まさかあの人が――複雑な地元民の表情」サンケイ

 

「『底知れず不気味な』石川」朝日

「友達もなく内向的――頭は悪くないが小学校はずっとビリ」サンケイ

「常識外の異常性格――なまけ者でギャンブル狂」埼玉新聞

 

004 野間宏『狭山裁判』上・下 岩波新書

青木英五郎『「狭山裁判」批判』辺境社

狭山弁護団「石川さんは無実だ――狭山裁判の真相」部落解放同盟

 

 

 

序 事件・裁判のあらまし

 

 

011 事件・捜査の経過

 

昭和38193651日、狭山市大字上赤坂100番地、中田栄作の四女中田善枝は、この日満16歳の誕生日を迎え、その朝家族は赤飯を炊いてお祝いをしたという。善枝はいつものように自転車で、この春入学したばかりの川越高校入間川分校へむけて家を出た。

 

 しかし夕刻の6時を過ぎても帰宅せず、篠突く雨も降り出したので、650分ころ、兄の健治が自宅の小型貨物自動車で家を出て、学校や入曽駅などを探したが、730分ころ、空しく家に戻り、740分、夕飯を済ませたそのとき、今しがた自分が開けて入って来たばかりの入り口のガラス戸に、白い封筒が挟まれているのを発見した。つまり730分から740分までの間に、封筒が届けられたと推察される。

 

 封筒の表と裏に「中田江さく」と乱暴に書かれ、封をしたあと、明らかに引きちぎった跡があった。中を取り出そうとすると、善枝の身分証明書がパサッと土間に落ちた。それとは別に四つに折りたたんだ大学ノート一枚が入れてあり、そこに横書きで

 

「子供の命がほ知かたら五月二日の夜一二時に金二十万円女の人がもツてさのやの門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせ。時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい――刑札には名知たら子供は死。気んじょの人にもはなすな。子ども死出死まう。」

 

と書かれていた。

 

 父栄作と兄健治は午後8ごろ、堀兼駐在所に(被害を)届けた。その際(何時ころか)、健治が(妹を探しに行って)帰った時にはなかった善枝の自転車が、物置の前に濡れたまま置かれているのを発見した。

 

012 犯人が指定した52日の夜は、白い月の光が一面にさし、雨上がりのせいもあり、「猫の足音さえ聞こえるほどに静かな夜であった」(当時のPTA会長増田秀雄談)

 

 県警本部大谷木警部ら40名は、犯人指定の佐野屋周辺に張り込んだ。PTA会長の増田秀雄に付き添われ、途中まで健治の見送りを受けた、被害者の姉登美恵が、風呂敷に包んだ偽の20万円を小脇に抱えて、佐野屋の店頭に立った。時に52日午後1155分頃であった。

それから約10分過ぎたころ(125分ころ)、月が陰り始めて闇があたりを暗くし始めたとき、佐野屋の東方30mの道路茶畑(道路茶畑とはどうい意味か)の中から、「おい、おい、来てんのか」という犯人の低い声がはっきり聞こえてきた。登美恵と犯人は10分、とぎれとぎれに問答をかわしたという。その間犯人は「ケイサツに話したんべ、そこに二人いるじゃねえか」と言い、「おら帰るぞ」という台詞をあとにぷつりと声が切れ、その瞬間「白っぽく人影らしいものが動いた」(登美恵の法廷での証言)

 

 警官たちは笛を吹いて一斉に飛び出したが、犯人は逃げ失せた。これはその年3月末の義典ちゃん事件に次ぐ警察の大失態だった。「あらぬ方向」(どういう意味か)で犬の遠吠えがしたという。

 

疑問 姉の登美恵は犯人の声を聴いているのだから、石川一雄の声との違いは分かるはず。その点どうだったのだろうか。

 

53日、特別捜査本部が設置され、県警刑事部長の中勲警視正を本部長とする計165名の大捜査網が張られた。

53日の朝、捜査員が、佐野屋付近で、犯人の足跡と認められるものを発見し、石膏で型を取った。

013 他方、地元消防団員を含む百数十名が山狩り捜査隊となり、53日から8日にかけて、善枝の通学路とされる薬研坂付近の山林や畑を捜索した。

 54日の午前10時ごろ、捜索隊は、入間川2950番地先の新井千吉所有地内の農道から、埋没された被害者の死体を発見した。鑑定の結果、死因は扼殺(手で首を絞め殺した)で、精液Bを検出し、姦淫されていることが判明した。

 

 一方捜査員は、54日に死体が発見される以前から、筆跡に関する「資料」を集め始めていた。中勲は法廷で「54日より前から筆跡を収集する作業を始めていた」と証言している。法廷に証拠として提出されている筆跡に関する資料によれば、筆跡調査の対象となっている人々が、極めて限定されていたことが分かる。当局が、被差別部落民である石田一義さんが経営する養豚場に出入りする人達の中に容疑者がいると睨んでいたのは(この筆跡調査の対象から)事実であった。

警察は56、「石田一義方からスコップ1丁が紛失している」という聞き込み情報をキャッチしたとされ、その数日を経た511、入間川東里2927番地須田ぎん所有の小麦畑から、スコップ1丁が発見された。県警鑑識課の鑑定によれば、死体発見現場の土壌と同質の土壌が、スコップに付着していたという。ここで犯人は石田一義方に出入りする者に限定された。521、そのスコップは石田一義によっても、自分のものだと確認された。

 

014 捜査員は521、石川一雄宅を訪問し、51日のアリバイに関する上申書を石川一雄に書かせた。別紙写真参照。

 

上申書                                                                                                                昭和38…2

 

狭山市入間川2908

石川一夫 24

 

はたくしわほん年の五月一日のことにツいて申し上ます

五月一日わにさの六造といツしよにきんじよの水村しげ

さんのんちエやねをなしにあさの8晴ごろからごご4

ごろまでしごとをしましたのでこの日わどこエもエでません。

でしたそしてゆうはんをたべてごご9晴ごろねてしまい

ました

 

昭和38521日 狭山けいさつしよちようどの

 

右 石川一夫 指印

 

523日早朝、石川一雄は、善枝に関する恐喝未遂、別に、暴行、窃盗容疑で、別件逮捕された。その日警察は狭山署で石川一雄に吸わせたピースの吸い殻を領置(取り上げて保管)し、これを鑑定資料とし、(石川一雄の)血液型はB型と鑑定された。この(血液型の判定)結果が出たのは、逮捕後の614日である。

 

 石川一雄と善枝とを結ぶ物的証拠、例えば、指紋、犯行の目撃証人などは全く存在しない。石川一雄が恐喝未遂で逮捕されたのは、(アリバイに関する)上申書の筆跡と脅迫状の筆跡とが似ているという理由によるのだが、筆跡についての鑑定結果が出たのは逮捕5/23後である。一通は61日付、もう一通は610日付である。しかも捜査当局は、筆跡鑑定に証明力がないことをよく承知していた。それは、勾留満期で613日に別件で起訴されたが、(善枝に対する)恐喝未遂は証拠不十分として起訴できなかったことからも明らかである。

 

 石川一雄は別件ではすべて530日までに認めている。しかし中田方に脅迫状を届けたこと、強姦殺害したこと、死体を農道に埋めたことについては「やっていない」と否認し、真実を守り通した。証拠によればこの否認は、523日に逮捕されてから622日まで続いた。30日間にわたる否認の意義は大きい。しかし、「殺したと言えば、十年で出してやる」という捜査官・長谷部警視の偽計と自白の強要に屈服し、遂に嘘の自白をさせられた。そして「自白により」621日にが、624日に万円筆が発見され、72日には、「自白した」場所の付近から、女ものの時計を民間人が発見して駐在所に届け出た。そしていずれも被害者遺族は、それらを善枝のものと確認した。

 

015 公判の経過

 

昭和38196394日の第一回の裁判の日、検察官は勿論、新聞も、石川が容疑を否認するに違いないと予想していた(その根拠は?)が、石川は「私がやりました」とあっさり犯行を認めた。第一審の審理は、実質的に8回だけで打ち切られ、昭和391964210日、検察官が論告に入り、死刑を求刑した。それに対して弁護人は、被告人の自白維持を重視し、無罪の弁論を行い(有罪だと本人は自白していたのに、なぜ無罪を主張するのか?)、万一にそなえ、有罪であるとしても刑を軽くしてほしいと訴えた。ところが内田裁判長は311日、弁護人の主張を一蹴して死刑を宣告した。

世間は悪夢のような事件が、公正な裁判によって解決したとしてほっとし、中田家は霊前に死刑判決を報告し、一日も早く忘れようとした。

 

 石川は、弁護人と相談せず、控訴の手続きを取っていた。弁護団はもとより世間一般も、死刑事件では控訴するのが当然であるように、石川もまたそうしたと受け取った。

 

 石川は昭和39196491日、東京高裁での第1回の裁判の日に、裁判長の制止を振り切って「お手数をかけて申し訳ないが、私は善枝さんを殺してはいない。このことは弁護士さんにも話してはいない」と申し立て、自白を撤回し、これまでの自白は捜査官の誘導・強制による嘘の自白であると申し立てた。法廷にいた関係者はびっくりした。事件が振り出しに戻ったばかりか、「弁護士にも相談していない」の一言は、事件の本質に迫る奥深いものを感じさせた。

 

 016 さらに石川は弁護人に追い打ちをかけるように、第一回の検証が実施されたあとの第二回検証が予定された日の直前、すなわち昭和401965326日、全弁護人を解任した。この解任の背景には第三者の介在があるが、石川が中田直人弁護人を信頼していなかったことを物語る。

石川は刑を軽くしたいとは考えていなかった。それは真犯人にはできないことである(この論理が理解できない)。しかし同年1965430日、(全弁護士が)再任され、第二回公判以降は、弁護人は石川の無実を明らかにしていった。

公判は29回重ねられ、その間5回の検証、数回の被告人質問、のべ30人に達する証人調べ、血液型鑑定書などの証拠調べなどが実施され、昭和4319681114日の第29回公判で結審する予定だったが、その間際に、筆圧痕問題が発見され、被告人自らが描いたという図面が、実は捜査官がつけてあった筆圧痕をなぞって書いたものであることが暴露された。

 

感想 202522()

 

時代の影響を感じる。悪く言えば60年代末からの一時期は、ファッショ的な時代だったと言えないか。また部落差別と冤罪とが混同されていないか。つまり、部落差別問題の方が大きく扱われていないか。石川さんは牢屋の中に閉じ込められた情報が少ない中で、外部の働きかけに素直に応ずるしかなかった。二度にわたる弁護士解任問題も、そこから生じている。石川さんは時代に翻弄されたともいえる。石川さんに限らず誰しも、時代に翻弄されるということは避けがたいことであるが。戦争中お国のために戦った多くの日本人もそうだったように。

 

文責を明らかにして欲しかった。悪く言えば文章に対して無責任がまかり通る結果になるし、逆に、個人名を記せば、却って筆者が尊敬されることにもなるのではないか。文章の中に誇張や論理の飛躍を感じる場合があるのだが。

 

昭和4319681126日の第32回公判で、筆圧痕に関する弁護人側の鑑定請求が採用され、弁護団は、昭和451970421日の第36回公判から430日の第38回公判にかけて、無罪を改めて主張するとともに広範な証拠調べを請求した。この弁論を通じて弁護団は、「自白によって」発見されたとされる三つの物証の発見経過や、足跡の鑑定、筆跡の鑑定などのいずれもが、自白が虚偽であり、架空であることを裏づけていることを論証しようとした。

017 昭和461971213日の第42回公判で、脅迫状の訂正箇所で使われた筆記用具が、ボールペンかそれとも万年筆であるかを明らかにするように求める弁護人側からの鑑定請求が採用された。それは後に秋谷鑑定となり、その鑑定結果から、自白の虚偽が科学的に暴露されることになった。(結局どうだったのか)

 

 第36回公判から井波七郎が裁判長に就任した。井波は、弁護人に追及されて返答に窮した捜査側証人(当時の捜査官)を助けたり、被告人に不利な誘導尋問を行ったりした。一方、弁護団側は部落解放同盟の援助を受けて、6つの科学的鑑定書を作成した。井波は「自分が(有罪)判決したい」と言ったが、弁護団側は6つの鑑定書の証拠調べを請求して、死体鑑定作成人の上田教授の証人採用を迫り、「自分の手で(有罪)判決をしたい」という井波の陰謀は許さないと決意した。井波は「鑑定人の証拠請求はしないはずだった」と抵抗したが、結局世論に押されて上田証人の採用を決定した後の昭和47197291日の第68回公判を最後に退官した。

 

 この後に裁判長になったのが寺尾正二である。寺尾は昭和4819731127日の公判から裁判長を勤めたが、この日寺尾は開口一番、被告人に向かって「健康状態はどうですか」とやさしく問いかけ、「審理が長時日にわたることが予見される」からとして和田啓一裁判官を補充裁判官に就かせた。また寺尾は弁護団を判事室に招き、「弁論は立派だ。また鑑定はこれ以上のものは考えられない」と褒め上げ、弁護団の追及の手を緩めた。そして弁護団もせっかく勝ち取った前述の上田証人の採用を取り消すことを当然のこととして受け入れた。

018 そして寺尾は、一人の証人調べもせず、一度も現場検証もせず、(就任半年後の)昭和491974322日の第75回公判で、最終弁論期日を指定した。その後弁論は197493日の第76回公判から第81回公判まで、これまでの証拠調べ、特に秋谷鑑定など6つの鑑定を中心に、無実を科学的に明らかにするとともに、本件が部落差別に基づく権力犯罪であることを論証した。

 

 弁護団、部落解放同盟、労働者・学生・市民は無罪判決を信じていた。ところが寺尾は(就任1年も経たない)19741031日に、無期懲役を言い渡したのである。

 

 弁護人数は200名、上告趣意書は150万字に及び、多くの人達が寺尾判決に憤激した。「狭山闘争」は幅広い国民の支持を受け始めた。

019 全国の学者、文化人、労働者、市民、学生は、最高裁が口頭弁論を開き、弁護人の提出した新証拠である、死体、足跡、筆跡、スコップの土壌、筆圧痕についての鑑定書を証拠として調べ、弁護人の弁論を法定で直接聞き、原判決の誤りを指摘するよう要請している。

 

 

 

 

第一部 獄中日記

 

 

023 「石川一雄君との出会い」 狭山事件弁護団事務局長 山上益朗(1928--2003.12.10享年75歳 1981年、故・青木英五郎弁護士の跡を継いで主任弁護人となった。― 解放新聞2003.12.22-2150

 

1970年春、山上益朗は部落解放同盟の推薦を受けて石川を弁護をするようになり、面会に行った。その時石川は、関源三のことを問われると「関さんは知ってくれていると思いますね。一緒に手をとりあって泣いちまったもんね」と言って顔を赤らめたという。

024 また石川は「関さんが万年筆を置いたとは思いませんね。だって関さんは野球もよくしてくれたし、よっく世話してくれてたんですよ」と言う。そして山上との話の途中に「その点は、先生、誘導じゃないですよ。自分で考え出して言ったと思うね」とも言う。つまり、石川は無実の立証に役立つものなら何でもいいという態度を取らなかったのである。

 

025 しかしそういう人のいい石川も、二審寺尾判決の法廷では、立ったまま「そんなことは聞きたくない」と抗議した。

 

 

026 獄中日記 19659月――19663

 

 

 

047 19694月――19703

 

047 1967101日の第29回公判で事実調べが終わり、最終弁論の期日が決められたが、その後の最終弁論の準備中に、中田主任弁護人が、石川君の書いた「自供図面」に筆圧痕があるのを発見し、最終弁論は中止され、19671114日の第30回公判での石川君に対する尋問で、筆圧痕をなぞって図面を書かされたという、自白誘導の手口が明らかになった。

次の第31回公判で取調官の青木警部と遠藤警部補の証人尋問を行ったが、二人は筆圧痕をなぞらせて自白図面を描かせたという誘導を強く否定した。そこで図面についての検証と鑑定を行うことが決定された。

その後、鑑定人選びや鑑定作業が続き、また、裁判長が、久永、津田、江崎、井波ところころ変わり、裁判は2年近く足踏みした。

 

048 1970421日、江波裁判長の下で審理が再会された。

この間に、弁護人は関西の和島、青木弁護士等、全国から多くの弁護士が参加した。運動面では1967年に「石川一雄君を守る会」が結成され、196970年、部落解放同盟が全国運動を開始した。筆跡や死体等に基づく無罪立証方針や、捜査・自白をめぐる部落差別に関する権力や裁判のあり方を問う方針が採択された。

 

049 196941日(火) 「狭山事件を守る会」の会員からの差し入れに感謝。

050 1969411日(金) 当時の私は、どうしても中田善枝さんを殺して背負わなければならなかったのだ。おそらく、私ではなく誰であっても、あのようにされたら、警察官の言う通りにならざるをえなかったであろう。

 兎に角、口では言い表すことの出来ないようなことをされたのである。

051 417日(木) 八海事件 

 

大阪のMさんは尼崎工業高校の教師で、「尼崎工業高校教育ジャーナル第11集」の中で、八海事件裁判の杜撰さを取り上げるとともに、無実を訴える石川一雄の手紙も掲載したが、その書籍を石川に郵送した。

 

大阪のMさんが、私が無実を訴えていることを知ったのは、日本国民救援会中央本部会長・難波英夫先生が「死をみつめて」という本の中に、私の訴えを載せて下さったので、知ったとあった。

 

狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977

 

053 「弁護士は嘘をつくが、警察官は嘘をつかない」と言って、弁護士に対する不信感を植え付けて自らの方になびかせた上で、「殺人を認めれば10年で出してやる」と騙して殺人犯に仕立て上げ、挙句の果てには死刑判決に導き、公判では「10年で出してやる」なんて言っていない、とうそぶく長谷部梅吉警視に対する憎しみがここに現れている。

 

 

 

055 420日 私は中田善枝さんを殺していないのであるから、裁判が長引こうとも死刑はぜったいにないし、…

 

056 421日 母とは6カ月ぶりに、弟の清と2年ぶりに会った。妹の美智子から預かったという1000円を受け取ったが、返金するつもりだ。

057 無実の一雄が死刑になるはずがない。

 

061 514日 各棟には何舎という号がついているが、それを記することは禁じられている。

私の独房だけに鉄の網が窓に張り巡らされているが、雑居房にはそれがない。浦和拘置所でも網はなかった。

062 雑誌を外部に送ることを禁じられている。宅下げもできない。

救援会長の難波先生が『前衛』6月号を送ってくれた。

430日に雑誌『部落』を送ってくれた某氏が面会に来てくれるとのことそして彼は私の姉一枝に会い、私が塩焼きせんべいが好きなことを知って塩焼きせんべいを送ってくれた。

064 626日 石田弁護士が面会に来た。10分後に中田弁護士もやって来た。

白鳥事件の例もあるので安閑としていられない。

064 白鳥事件の被告村上国治 無実の罪で20年の刑で服役中 弾丸は1年以上土の中に埋もれていれば腐る鑑定 検察が証拠として保管している弾丸は新品の弾丸であったのに、再審を棄却した。

 

727日、28日長野県と兵庫県で大会があり弟の清が出席し私の事を訴えてくれることになっている。

066 難波英夫日本国民救援会中央本部会長に手紙を送る。

無罪の暁には、私と同くする冤罪の方々の力になってあげよう。

 

067 姉一江と妹雪江が面会に来るが、雪江の子どもは入れたが、姉の子どもは7歳で面会を許可されず表で待たされている。

 

073 私には過去は無いんだ、私にあるのは今日と明日である。さあ、今日も元気でがんばろう。勝利へ向かってはばたこう。

068 青木英五郎、沢田脩、熊野勝之、原滋二各弁護士から葉書が来る。

070 東京拘置所では今日購入しても手元に来るのはその日ではない。中一日おいてくる。腹が減っても間に合わない。

071 本『橋のない川』をいただく。

私は長谷部梅吉のために一切自由を奪われ、寝ても起きても監視の中にさらされている。

日記帳の郵送にはその前に検閲期間が45日ある。

死よりもっともっと苦しい獄の日々、私は怒りを押さえて獄中の日々を送っている。

072 弁護士が言うには「裁判長がまた代る。これで5人目である。無実であるいくつかの証拠が出てきた。現在鑑定中の図面如何で、一枚でも二重であるという図面の鑑定が出てきたら、今の裁判を打ち切って判決へ持って行って無罪は間違いない」と言う。

殺害された状況等、図面に書いて示せ、等と責め立てられたが、中田善枝さんを殺していない私は、書いて教えることはできなかった。すると警察官が自ら、先に二枚の紙を重ねて書いて、その下に薄く映った跡へ、私に書け、と言われて書いた図面であるから、二重になっている線はあきらかであり、随って鑑定の結果を待つ迄もないが、肉眼で分かっても、鑑定はやらざるを得ないそうだ。

073 大阪部落解放研究所から「差別、牢獄の中より兄弟に訴える」と題して寄稿依頼がある。

 

 

081 「現地調査」に愛媛県から学生二人がやって来て、石川宅で泊った。9/16

082 ひんやりとした窓辺によって、無心に虫の音を聞いていると、心の底から自分の味わっている、惨めな月日に対する怒りと悲しみに震えてくる。9/18

083 権力によって奪われた自由、この自由を取り戻すことが私に与えられた仕事であり、使命でもある。9/20

085 差し入れで、食糧以外の金銭などは、その日うちに手元に届かない。「本部」に善処をお願いしよう。9/24

085 925日に面会に来た姉の高松一枝が、日刊スポーツ新聞を差し入れてくれた。9/29

086 家にいる時は自由に寝たいときには寝られるのに、ここでは勝手にできない。少々の風邪くらいでは横になることを許してくれない。9/30

089 目はよくなったが、眩暈(めまい)10/5がした。10/7

090 日記帳は書き終わると手元に置いておくことができない。10/7

091 石川一雄さんは結構短気だ。「いい加減な住所を置いていくような人とはもう会いたくない」などとその相手に言っている。実は転居して郵便が戻ってきただけなのに。10/8

 

 

感想 この日記は1969年に書かれた部分を読むと、逮捕から6年しかたっていないのに、逮捕当時の小学校1年生程度の日本語文字能力が信じられないくらいに上達している。漢字もふんだんに使っている。びっくり。字引はいつも座右に置いておけるようだ。それに執筆時間がすごい。朝の8時から夜の9時まで書き続けている。それも洋式トイレの便座に腰かけて流しを机代わりに猫背で書いているようだ。悲惨

 

 

130 年賀状が300通も来る。1969年の頃は部落解放同盟や共産党も支援していたらしく、石川さんものんびりして居られなかったようで、毎日手紙の返事を書いている。1970/1/1, 1/3 共産党からは雑誌『前衛』が送られて来る。

133 視力が悪くなったのに、眼鏡も買えない。悲惨。

134 「死にたい」、周囲の激励、真実を明らかにするまで闘うという気持ちが混在している。

134 三鷹事件の竹内は獄死した。「竹内のようになってはならない」と支援者に励まされる。

135 監獄は不都合な部分を他人の日記だと言うのに検閲して消去している。135頁では440字、138頁では500字、141頁では何字消されたかは書かれていない。

147 また拘置所は事件については面談のときに話すなという、これはおかしい。

147 東島明という人物が出て来るが、どういう人物なのだろうか。不明。友人とのこと。

148 「領置」といって、品物が届いてもすぐに手元によこさず、検閲しているらしい。例えば運動のビラなど。

154 眼鏡を部落解放同盟から買ってもらう。

156 冬でもマフラーや手袋は不可とのこと。非人道的。

 

 

狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977

 

ネット「狭山事件と救援会」19953月 日本国民救援会中央本部 zir.sakura.ne.jp

 

概要 石川一雄が解同や中核派などに扇動され、中田直人弁護士らを公然と批判するようになり、中田らは弁護活動から手を引かざるを得なくなった1975.2らしい。だからそれまでは解同と中田弁護士らは、共に石川一雄を支援していたことになる。本書掲載の日記が書かれたころ、196566年と196970年は、65年は中田らだけが支援していた時期であり、69年は、両者と国民救援会も加わって三者が支援していたことになる。

 

救援会中央本部の難波英夫会長は、解同東京都連会長でもあった00619683月、川越市での「狭山事件の真相を聞く会」に難波英夫が迎えられた。その後「守る会」1968.3も各地に生まれるようになった。002

 

年表

 

1968 1963年の5年後に国民救援会が石川支援を開始。

1969.3 解同が石川裁判を(単に冤罪事件ではなく)「差別裁判」と規定し、石川事件に対する方針を変更。それまでは「本人が自白を維持している」と中田からの支援要請を拒否していた。そしてこの19693月の解同全国大会で、共産党代表の挨拶を拒否した。

1973 石川が中田弁護人を拒否。

1974.11.22 八鹿高校事件

1975.2 救援会や守る会は石川支援から手を引いた。そのまま現在に至っているのだろうか。

 

 

 

感想 2025131()

 

 1965年と1969年の日記を比較すると、1969年には外部の支援団体関係者との接触が頻繁に行われ、石川が面会や礼状書きなど多忙になったことが伺われる。つまり1969年には、主として解放同盟の働きかけが活発になったことが分かる。

 

 石川一雄さんの性格 石川さんの日記を読んでみて石川さんの性格を判断すると、石川さんは律儀で、悪く言うと固くて融通が利かない生真面目な感じを受けた。おそらく根が真面目なのだね。

 

 獄中の努力は、苛酷な環境でありながら、超人的である。1965年の日記でも、すでに漢字を交えた文章を書けるまでになった。つまり1963年の逮捕時には、殺人を否定する調書で見られるように、ほとんど漢字を書くことができなかったのに、わずか12年で、漢字交じりの文章を書けるまでになったとは驚異的である。そして1969年の頃は、洋式トイレの便座に腰かけて流しに向かい、背を曲げながら書くという不自然な姿勢で1日中書き物をし、目を悪くするほどであった。

 

注 022によれば、編者が「石川の日記の誤字を訂正し、脱字を埋めたところもある」としている。また本書で掲げた日記は、中田直人前主任弁護人の元にあったものである。日記は他にも拘置所内にあるが、拘置所外に出すと、拘置所が墨で消去するので、持ち出していないという。

 

 

 

無罪証拠

 

171 石川が少女を連行したとされる農道のすぐそばの畑で、二人の農民が農作業をしていたが、その二人は被害者と犯人が通りすがるのを目撃していない。自白調書の不合理性。

 

石川が牛乳を買ったとされる駅前のすず屋の女主人は、「石川君に牛乳を売っていない」と証言している。自白調書の矛盾。

 

石川が描いた図面による犯行経路では、張込みの警官と4か所で遭遇することになる。自白調書の不合理性。

 

身代金を要求した佐野屋付近の現場に残された足跡の位置も、自白と一致しない。自白調書の矛盾。

 

上告趣意書で、現場の足跡は十文三分であるが、石川宅から押収された地下足袋は、九文七分で一致しない。(井野鑑定書)自白調書の矛盾。

 

172 自白調書では、脅迫状の訂正(「五月二日」「さのヤ」「中田江さく」)をボールペンで行ったとされるが、二審の秋谷鑑定書は、「訂正部分はインクによるもの」であることを明らかにした。自白調書の矛盾。

 

自白調書では、誘拐身代金略取の動機としての競輪の金欲しさから、誘拐金20万円を算出しているが、石川は競輪で、月3回、12000円くらいしか使っておらず、それは自分の収入で賄える額である。自白調書の不合理性。

 

173 誘拐身代金略取の動機としての父親への借金が、7万円7/2から、7/6には、いきなり13万円に変更になっている。また父親は借金の返済を求めていない。自白調書の不合理性。

 

 また76日付の自白調書で、誘拐身代金略取の動機が、競輪の金欲しさ6/24から、父親への借金に豹変している。自白調書の不合理性。

 

「善枝ちゃん187, 182, 188, 189, 190, 192, 198, 206, 207, 210, 213」「善枝さん204, 208」の呼称の揺れ。同一人物に対する呼称が変更するのだろうか。不思議。自白調書の不合理性。

 

 

 

警察・検察による犯人でっち上げ工作 詫びの落書きや手紙、関源三宛手紙

 

 

220 検察の嫌らしさ 二審で検察は、石川の関源三警官宛の手紙を証拠として突然提出した。石川が殺人を反省・悔悟し、警察を信頼しているという証拠としてである。

 

219 警察(河本検事)は、「父親が『中田家に詫びに行くからお前も書け』と言っていた」と嘘をついて、石川に、中田栄作宛ての詫び状を書かせた。これは有罪の証拠固めである。

 

217 長谷部梅吉警視が、石川に「善枝ちゃんに詫び状のしるしがあるか」と挑発し、石川がそれに乗ってないのに「ある」と言い、「狭山署の留置場の便所の上に詫びの文句の落書きをした(書いてきた)」と事実とは違うことを言った。

218 そこで川越署では(長谷部に叱られると思って)詫び状を書いた。そのとき長谷部に、切り絵で「中田」の書き方を教わった。(「中田にしエさんゆヨしてください。」196379日川越警察署巡査 村松定夫撮影)

 

 

 

168 本書の著者は、裁判での自白調書の信頼性の根拠を列挙している。

 

1 自白が物証・客観的事実と整合している。これも警察が自由に捏造できる。

2 自白が、真犯人しか知ることが出来ず、第三者は知ることのできない事情をのべているか。これも警察が捏造した例がある。

3 自白に「重要な事実」を述べていないところがないか。

4 自白に変遷がないか、首尾一貫していないか。

5 自白に矛盾がないか。

6 自白に社会常識に反した不合理や不自然はないか。

 

 

 

第三部 自白はいかになされたか

 

 

229 萩原佑介氏宛書簡 19651122日、p. 240の日付は1966222日となっていて矛盾している。いずれにしても二審開始1964.9.101年あるいは1年半後の書簡。自白に至る詳細が書かれているが、分かりにくい。

 

 萩原佑介 亀井トム『狭山事件 権力犯罪の構造』によると、

 

萩原佑介は事件当初から石川の救援に奔走した川越市在住の部落民である。

 

19637月、被害者の家族である中田家を訪れた池田首相夫人に対して抗議文を送付した。

196311月、警察による拷問を(内田武文)裁判長に具申した。

19643月、浦和地裁判決3/11を前に、東京高裁に対して「人身保護、判決言渡執行停止、身柄釈放」という訴えを起こした。

196412月、上田埼玉県警本部長を「不法逮捕、拷問、脅迫、自白強制、傀儡証人偽証使嗾(しそう、指図)、部落民虐殺謀略」等で告発した。

19653月、国会裁判官訴追委員会に、内田武文一審裁判長の「罷免訴追請求状」を提出した。

 

 

230 逮捕されるまでの行動

 

私は昭和14114日生で、現在26歳である。(このことから本書簡を書いたのは昭和401965年となる。従って19651122日に書かれたのが正しいのかもしれない。)事件当時は24才であった。

 

1963年昭和3851日、父には「仕事に行く」と嘘をつき、五目飯の弁当を持って午前720分ころ家を出て、入間川駅に行き、同728分発の急行西武新宿行きに乗り、西武園で下車し、2時間余暇を潰した。その後、所沢へ行ってトーバクでパチンコをやり、午後23時ころ入間川に戻った。余り早く帰ると父がうるさいので、貨物小屋(通称荷小屋)で23時間遊んでから帰宅した。飯を食べて風呂に入り、テレビを見て午後10時ころ就寝。しばらくしたらあんちゃんが単車に乗ってずぶ濡れで帰って来た。

 貨物小屋にいる時の午後4時ころ、中学生と思われる男女20人くらいが、それぞれ自転車に乗って、私の家の方に行くのを見た。また午後5時ころ、正確には電車が出た午後459分に、石田豚屋さんの車が残飯を積んでジョンソンの方から私の家の方へ行くのを見た。私が石田さん方で仕事をしていた頃は、土日以外は、5時ころ上げて来たことは一度もなかったので、今では変だと思う。

 

 52日、朝起きて犬小屋を拵えていたら、家の前の○○さんがやって来て映画を見に行こうと誘ったので、午後1時ころ、3人で入間座に行った。こまどり姉妹の『未練』と、もう一本を見て、午後6時に映画館を出た。こまどり姉妹の『未練』は可哀想で泣けちゃった、とお母ちゃんにも勧めた。10時就寝。10時半ころ兄が帰宅。

 

231 3日、○○日で勤め人が休みなので、午前中、入間川小学校で野球をし、午後から兄のコンクリ(家の造築)を手伝う。

 

4日、午前9時ころ近所の人達56人と入間川に釣りに行った。午前11時頃帰宅途中で、○○おばさんが「入曽の山で女が殺されているとよ」と言ったので、私は○○さんを自転車の荷台に乗せ、○○さんは○○さんを乗せて行こうとしたら、また○○おばさんが、「入曽の山ではなく、四本杉(通称茂さんの山)の方だよ」とのこと。行ってみると黒山の人だった。午後12時ころになっても土を掘る様子もないので、一旦家に帰り昼食を済ませてからまた見に行った。しばらくして死体を掘り出したが、死体は布などがかけられて見えない。そこで死体の穴を見ようとサクをくぐって穴に近づいたら、刑事さんに「ここの畑は君の家のか」と言われたので、「違います」と答えたら、「それではサクから出ろ」と叱られたので、仕方なく帰った。

 

 51213日ころ、兄と○○さんの家の仕事をしていたら、父がやって来て、私に「石田豚屋の○○さんが警察に連れて行かれたとよ、一雄は51日は何処の仕事をしてたっけ」と聞くので、しかたなく「弁当持って遊んでいた」と答えたら、父から「一雄も○○さんの所に半年もいたのだから、警察で聞きにくるかもしれないから、来たら兄ちゃんの所で仕事をしてたと話とけ」と言われた。

 

突然の逮捕

 

232 昭和381963523日、午前45時頃、裸で寝ていたら突然布団をまくられてびっくりしたら、警察官に変な書類を見せられ、手錠をかけられ、狭山警察署に連行された。善枝さんを殺したのは私だと言われたが、勿論知らないと答えた。

数日後捕まるまでに、これまでの悪いことを全部話したが、一件だけ、どうしても話すことができなかった。それは三人でジョンソンのパイプを盗んだことである。この事を話すと後の二人には子どもさんがいるし、私が警察を出てからおっかない○○さんに殺されるのではないかと恐れた。

 

 同日頃、見知らぬ刑事さんが、市長さんが会いたいからと、呼びに来た。いつも取り調べられる部屋に行ったら、市長さん一人がいて、私にこう尋ねた。「わしは狭山の市長だが、君は石川一雄君かね。石川君は中田善枝さんを殺したのかね。もし殺したのなら、わしに話してくれないかね。家の者にはわしからようく伝えてやるからどうだね。」と、10分くらい話した。私は殺していないことをきっぱり言いました。そしたら「本当に殺してないのだね」と言いながら出ていった。その人の特徴は、眼鏡をかけ50歳くらいで、背丈が大きく、面長で、優しそうな方だったと思う。

 

 65日、弁護士さんだという人に会った。この人も「善枝さんを殺しているのなら話してくれ。わしは弁護士だから誰にも言わないから教えてくれ」と言ったが、勿論殺してないことを言った。

 

 また同日頃、いつも調べに当たっていた刑事さんとは違う人が、三人で調べた。顔に傷のある人が私の肩を叩いたり、髪を引っ張ったりしながら「石川、お前が善枝を殺した事くらいは、とうの昔に知っているのだ。だが、石川が殺したと言ってくれれば、罪が少しはかあるくなると思って甘く見ていりゃーいい気になりやがって、この野郎不逞野郎だ。」と怒鳴りながらやられた。

 

 また同日ころ、いつものように尋問されていたら、知らない刑事さんが「石川君、噓発見器が来たのでかかってくれないか。この器械にかかれば、石川君が殺したか、殺していないのか、すぐわかる」と言うので、私は喜んでかかった。そして数日経って、その発見器の先生が来たので、「わかりましたか」と聞くと、「もう一度かかってくれ」と言うので、私は前に来た時すぐ分かるようなことを言われたので、頭にきて、そばにあった灰皿を先生にぶつけてやった。そしたら刑事さんは「今度は必ず分かる」というので、二度もかかった。

 

233 616日の夕刻、署長さんと関源三さんが会いたいというので行ったら、署長さんが、「石川君、関君も(石川のことを)心配して来たのだから、善枝さんを殺したと話してくれないか。私は狭山の署長だし、石川君も狭山なので、悪いようにはしないから(殺したと)話してくれ。それとも18日の裁判が済んでから話してくれるかい。今日話してくれれば、明日一日(取り調べないで)寝かしてやるから話してくれ」と言ったので、私は「18日の裁判が済んだら三人でのことを教える」と約束した。しかし翌日6/17再逮捕されて川越署に移されてしまった。三人のことを教えると約束したのは、どうせ分かってしまうので、ジョンソンでパイプを盗んだことを話してしまった方が良いと思ったからである。以上が狭山(署)での主な出来事である。

 

再逮捕され、川越署分室に移される

 

617日、川越分室に移され、一旦留置場に入れられてからまた出されて尋問された。

同日頃、長谷部さんにこう言われた。「(私が)石川君を殺してどこかの木の根にでも埋めて、お父さんには『うっかりして逃げられた』と言えば、我々は警察官だから『逃げられた』と言っても(警察官は)嘘をつかないと(お父さんは)思うだろうから、殺して埋めちまいましょう、遠藤さん」と言った。

そしてこの日の夕方からだと思うが約6日間、私は飯を食べなかった。

 

 また同日頃、「裁判所からわざわざ来たのだから会え」と知らない刑事さんが言うので行ったら、裁判所の人が「石川一雄君だね。中田善枝さんを殺していますか」と言うので、「殺してません」と答えたら、「18日の裁判が済んだら三人のことを教える、と狭山の署長さんに(あなたが)約束した、と(署長から)聞いたのだが、その三人というのは何かね。私は裁判所の○○だが、(名前を承ったが忘れた)三人のことを話してくれないかね。」と言われた。私が「裁判所に連れて行ってくれるなら話す」と答えたら、「(三人で殺したというorパイプを盗んだというor裁判所に連れて行ってくれるなら話すという?)書類を出して名前と拇印を押してくれ」と言うので、押してやったら帰って行った。

 

234 623、取調室に遠藤、青木、斉藤さんたちがいるところで、長谷部さんが、「石川君、いつまで強情張っているのだい。『殺した』と言わないか。そうすれば(殺したと言えば)10年で出してやるよ。石川君が(殺したと)言わなくても、(殺人以外に)九件も悪いことをしているのだし、どっちみち10年は出られないのだよ。(嘘)石川君は野球が好きだと聞いたが、刑務所でも(野球が)できるよ。それに字が書けないのだから、(字でも)大工でも習えるようにしてやろうか。そうすれば、(牢屋から)出たとき、兄さんと一緒に(大工仕事が)できるだろう」と言った。

私としても殺してはいないが、私の近所の人から「単車を盗んで(も)8年とか勤める」とか聞いていたし、9件も(殺人以外の悪事=軽犯罪を)やっているので、(殺人以外の罪で)10年も勤めるなら、殺したと言っても同じ(10年)ことだから、言おうか言うまいか、迷っていた。

そしたら遠藤さんが、「課長(長谷部)さんが10年で出してやると言っているうちに、殺したと言った方が良いど」と言ったら、長谷部さんが「我々は警察官だから、中田弁護士みたいに、『18日に裁判がある』などと嘘はつかないよ。(その18日というのは、狭山署にいる時、(18日に)窃盗等の裁判をする予定だったそうだが、再逮捕のためにできなかったことである)我々が嘘をついたら、すぐに首だからな。石川君、必ず10年で出してやるから、(殺したと)言ってくれ。」と言った。

そして知らない刑事さんが「課長(長谷部)さん、狭山の関部長がこちらに来るそうです。」と言うと、長谷部は「そうか、それでは石川君、関君に言ってくれ。男同士の約束だ。」と(長谷部は)私の手を握った。しばらくして関さんが「石川君、元気かい、今(狭山署の)署長さんから『この前(616日の夕方のこと)『18日の裁判が終わったら三人でのこと(殺したことと想定している)を教える』と約束しているのだから、聞いて来い』と言われたので、来たのだが、俺に話してくれ」と言いながら、いきなり私の手を握って泣きついたが、私は三人の事を話さなかった。そしたら関さんが「石川君、教えないなら帰るど」と立ち上がったところ、長谷部さんが、「石川君、殺したと言ってくれ。吾は必ず10年で出してやるからな。関君、(石川が)今話すそうだから待ってくれ。我々が(この場に)いては(石川が)言いづらいだろうから、外に出ましょうか、遠藤さん」と言って皆出て行った。そしたら(関は)また泣きながら、「石川君、殺したと言ってくれ」と(私の)手を握ったので、私もつられて泣いてしまい入曽、入間川と私の三人で(善枝さんを)殺したと言った。(なんとまあ人のいい。これが分水嶺)またこのとき関さんは「入間川の人は(犯人だと)分からなかったが、入曽の人は私(石川)が捕まる前から(犯人だと)分かっていた」と(私に)教えた。(よくそんなウソを言えるものだ)

 

感想 202523()

 

石川さんは人がいい。「殺人犯になってくれ」と泣きつかれ、殺人犯を引き受けてしまう。警察もあの手この手。「殺すぞ」という脅し、ヤクザ刑事による暴行、「殺人を認めれば10年で出してやる」という詐偽、最後は「殺人犯になってくれ」という泣き落とし。

 

235 624日、月曜日、長谷部さん達に尋問されているところへ、関さんが「昨夜は疲れたろう」と入って来たので、私が「昨夜自供中に入曽の人は(殺人犯人だと関さんが)すでに分かっていた」と言っていたが、今朝はもう捕まえて来たのですか」と尋ねたところ、関さんは「入曽の人は暫く泳がせておくのだよ。それより入間川の居所を教えてくれよ」と言うので、私は「俺に聞いても教えないよ。知りたかったら、入曽の人を捕まえて、その人から聞けばいいのに」と言ってやった。

 

以下、長谷部が犯人三人説を変えて、石川単独犯説を裏付ける自供をつくり始める。まずは鞄から。

 

そしたら、長谷部さんが「入曽も、入間川も教えなくて良いから、のことを教えてくれよ」と言うので、狭山署にいる時に発見器にかかった際、先生に(被害者の)が出た所の地図を見せられていたので、その山(の地図)を描いて関さんに渡した。そして関さんが探しに行ったのだが、長谷部さんが、「今関君に渡した地図のところで間違いないのかい。吾はが出た所のようなにあるような気がするが(意味不明。山ではなく川の周辺だということか)、恐らく「見つからない」と関君が怒って来るど。もし「ない」と戻ってきたら、このの所を(この時(長谷部は)狭山地図に指を指していた)描いてみないか」と言うので、(私は言われるとおりに)描きました。そしてしばらく経って(長谷部の言う通り)本当に「見つからない」とブツクサ言いながら関さんが戻って来たので、(さっき長谷部に言われた通りに描いた)二枚目の地図を(関さんに)渡したら、午後6時頃だと思うが、今度は「見つかった」と連絡があった。それで長谷部さんが「吾の勘は皆当たるのだから、嘘をついても駄目だ」と言うので、私は謝った(お人好し)。一度目に地図を描く時は青木一夫さんはいなかったが、二枚目(を描くときは)のときはいた。

 

次は万円筆

 

236 625日の火曜日の朝頃、

 

長谷部「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないかなぜ今まで(俺に)教えなかったのだ。

私「本当に知らなかったのです。」

長谷部「…嘘をつけ知らない物が見つかる訳がないだろう。(被害者の万年筆が石川宅の中から見つかったと)家の者に知れると石川君が困る(だろう)と思って、(捜査員はその万円筆を)ここ(警察署)に持って来てないそうだよ。石川君の友達で誰か家に上がれる人がいるかい。もしいたら、その人に持って来てもらいたいのだが、いるかい。」

私「私の友達はいないが、弟(清)の友達なら、忠男さんが、毎日遊びに来てたから、家の者に気づかれないように持って来られると思います」

長谷部「それで石川君は忠男さんを知っているのかい。」

私「親戚です」

関「忠男さんとかいう人は何処に住んでいるのだい。」

私「関さんの家の前の家です」

関「何だタマチャンのセガレさんか」と言って、関さんはどこかへ出て行ったようだった。

長谷部「善枝さんを殺してから、風呂場の方の入口から(自宅に)入った」と(石川が)言ったが、その時鴨居の上に置いたのではないのか。何でもそのあたりから見つかったと(捜査員が)言ってたよ。」

私「それでその時シキイ(鴨居)の上に五円のカミソリが20本くらいあったのですか。」

長谷部「そんなことは吾らには分からないが、(とにかく鴨居の)地図を描け」と言うので(私は鴨居の図を)描いた。

 

 626日 単独犯決定、縄

 

長谷部「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう、車で運んだのかい。」

私「入曽や入間川から何も聞いてないから分からない。」

長谷部「いつまでそんなこと(三人の共犯)を言っておると、10年で出してやらないよ。吾が裁判所で死刑にしてくれと頼めば、すぐ死刑にされるのだよ。嘘だと思うのなら、遠藤さん達に聞いてみな。」

遠藤「石川君、死刑にされて良いのか、いやだろう」

 

 私は入曽や入間川の人も知らないし(これはおかしい)、教えることもできないので、「一人で殺した」と言った。そしたら長谷部さんは「吾も石川君が一人でやったと思っていたよ。そこで善枝さんの死体になどがついていたが、その縄をどこのを盗んで来たのか覚えているかい。吾は死体が見つかってすぐに、自殺した源さんの近くのだと分かったよ。吾の鼻は犬より良いからな、どうだい当たったろう。」

私「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです。」

長谷部「なに、忘れた。自分で殺したくせに、忘れるわけがないだろう。よく考えてみろ。」と怒鳴ったので、私は泣いてしまいました。そしたら、「泣いていたのでは分からないではないか。」と長谷部に叱られたところへ、運よく関さんが「夕飯を運んできたので、寄ったのだが、家に何か言伝でもあるか」と入って来たので、助かった。

そこで私が長谷部さんに「関さんと二人だけで話したいことがあるので、出てもらえないでしょうか」と頼んだところ、案外快く受けて、皆外に出てくれた。そのとき私は関さんに「今関さんが来るちょっと前、『一人で殺した』と言ったのですが、死体に縄などがついていたそうだが、俺には分からないので、長谷部さんに、源さんの所の縄だと教えられたのですが、忘れたので分からないと答えたら、長谷部さんに怒鳴られたのです。関さん、縄が何処にあったのか、知っていたら私を助けると思って教えてください。」と頼んだところ、関さんも分からないそうで、長谷部さん達の言う通りにした方が私のために良い」と言うので、私もそうすることにした。

そこでしばらくして皆が入って来て、長谷部さんが「関君どんな話をしたのだい。我々に分かってはまずい話だったのかい。」関さんは「別に」と言って帰った。

長谷部「縄のことは後でいいから、先に吾の鼻の良い所を見せてやるから、そこにある湯呑茶碗を五個とも盆の上に載せてくれよ。そしたらその中の一個だけ指一本で(石川が)触ってくれないか。そして吾が五分くらい涼んできて、もし当てたら吾の言う通り何でも聞くな。」と外に出たので、私は五個の中の一個を動かさぬように触った。そしてこの触った湯呑を、青木さん、遠藤さんに覚えてもらった。長谷部さんはしばらくして入って来て、犬みたいに鼻をならしながら、一個ずつ嗅いでいたと思ったら見事当ててしまった。そこで遠藤さんが、「課長(長谷部)さんには嘘をつけないことが分かったろう。だから、課長さんは鞄も縄も当てたのだ」ということで、私も「源さんの所の縄だ」と言った。

 

感想 脅しとトリックの呪縛。自白したのは「人がいい」からだけではない。「あのような状況に置かれたら。誰もが自白するだろう」と、本人も言っている(獄中日記)ように、生易しい取調べではなかったことが想像できる。殺すという脅し、顔に傷のあるヤクザ風情の刑事が暴言とともに髪の毛を引っ張るという暴力、1週間ハンストをしたくなるような不味い飯。本人も「午前2時まで取り調べられた」(狭山事件の真実)と言っているように、まる一日中と思われる長時間にわたる尋問は、「今日自白すれば、明日はのんびりさせてやる」という刑事の言葉からも想像できる。一方、旧知の関を動員して和ませ、泣きを入れる。実に巧妙な犯人づくりである。

 

 

238 腕時計

 

627日、誰が尋問したのかは忘れたが、某警官が「善枝さんの腕時計は何処に捨てたのか」と問いただしたのに対して、私が「質屋に入れた」と言ったが、信用されず、「田中へ捨てた」と言ったら、「地図を描け」というので描いた。

そしたら翌日の夕方だと思うが、知らない刑事さんが「課長(長谷部)さん、時計が見つかりました」と言って持ってきた。私が長谷部さんからその腕時計を借りてはめて見たら、私の腕にピッタリ合ったので、「善枝さんも案外太かったのだな」と私が言ったら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのようなことを言えば、笑われるど」と言ったので、皆で大笑いした。

 

以上が川越での出来事である。先ほど「一人で殺した」と言ったが、その際に「四本杉で殺した」と話したことを書き落としていた。

 

 

内田幸吉様

 

(内田様は)地裁で、私石川一雄が、「善枝さんの家を尋ねるために拙宅(内田宅)へ寄った」と証言をなさったが、私に何の怨みがあってそのようなでたらめを言ったのですか。それとも実際に誰かがお宅に寄ったのですか。そんなはずはない。多分警察に頼まれて、私が貴宅へ寄ったと言ってくれと言われたのではありませんか。それとも今まさに流行している、いわゆる消防団自らが、人の家に火をつけて、それをいかにも自分で見つけたようにして、表彰されるというようなことをしたのでしょうか。そうでしたら、私は善枝さんを殺していないのに、(死刑となって)殺されそうなのでお助けください。またあの当時、私は知らないと言えばよかったのですが、警察の人が10年で出してやると言っていて、10年で出れば35歳で出られるので、(内田様は)何をでたらめを言っているのだ、くらいに思っていたのですが、今は内田様の真実の証言を待つばかりでございます。

 

以下16行、拘置所から日記を宅下げする際に切り取られている。

 

 

萩原様

 

239 私に代って、地裁の内田武文(裁判長)を綿密に調べた上で、裁判を起こして私同様に死刑にして下さい。その理由は次のとおりです。

簡単に(単に)、私は、死刑を言い渡された時に、「善枝さんを殺していない」と即時に訴えればよかったのですが、長谷部課長さんが「10年で出してやる」と約束していたので、(死刑判決を下されるとは)まさかと思いました。また私は長谷部さんが裁判長より偉い方だと思っていたので、必ず10年で出してくれるものと信じておりました。ところが私が拘置所に帰って来ても笑っていたら、同房の人が「石川さんは今日死刑にされたそうだが、おっかなくないのかい」と言うので、私が「警察の人が10年で出してくれるから平気だ」と言った。そしたら同人が「10年だなんて、嘘だよ。死刑にされちまうど。俺たちが嘘だと思うなら、明日運動に出たら聞いてみろ」と言うので、翌日皆に聞いてみたら、「本当に死刑になる」と言うので、運動の際、霜田区長さんに皆に言われたことをありのまま話したら、「そんなことはない」と言いながら、私に死刑だと教えた人が45人、転房されてしまいました。だから同房の人が「そうれ見ろ、刑務所と検察官とはぐるだからな」と言うので、「それなら東京(高裁)へ行って、警察に騙されたことを言うから、○○さん達も、(拘置所を)出たら、俺の裁判を見に来いよ」と言った。こうして私は無実を訴えるようになったのでした。

 また内田武文は、私が中田善枝さんを殺していないことを知っていて、警察とグルになって裏で小細工をし、いかにも私の自供に基づいて(被害者の所持品を)何でも見つけたように見せかけたこと(の嘘)がばれてしまった。また私は川越署では口では表せられないほどひどい目に会いました。萩原様はご存じだとは思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げてください。また長谷部、関の両人も、死刑にしてもらいます。この二人は私が出てからやりますから、取り調べに当たった人の写真を全部送ってもらいたいのですが、警察に頼んでみてください。内田武文は是非死刑に。(この手紙を)出来たら父にも見せてください。なお、内田武文の書面の理由が分かりませんでしたら、御面倒でもお手紙ください。説明します。

 

昭和411966222日午前7時発

石川一雄

萩原佑介様

 

 

 

感想 202524()

 

内田武文一審裁判長や、長谷部、関を死刑にしてやる、という発言には、当局もビビッてどんなに無罪でも出したら危険だと思った可能性は否定できないのでは。

 

 

 

浅田善之助氏宛書簡(1970924日)

 

浅田善之助 1969年以降、(解同の)中央執行委員長として「狭山差別裁判糾弾要綱」を決定し、「狭山事件の真相」「狭山差別裁判」などを発行。

 

1 関源三巡査について

 

242 事件以前のつき合い関係、知り合いになった経緯

244 どのようなことから関源三巡査を信用するに至ったのか

245 関源三巡査と(に)嘘の自白をするに至った事情

 

246 623日、関は「石川君、打ち明けてくれ、善枝さんを殺したのだな、話してくれなくてはわしは帰ってしまうぞ。それでもいいかい」というようなことを、(私の)手を取って涙を流して申すのでした。

 私が「三人でやった」と関に対して初めて認めると、関は「他の二人は何処に住んでいるのか」と尋ねたので、私がいい加減に「入曽と入間川」と答えたら、関は「わしもその入曽の人が、石川君が捕まる前から臭いと思っていたし、課長さん(長谷部)達、きっと石川君が犯人だなんて思っていないと思う。石川君が法廷に出ている時に(その入曽の人を)捕まえるのではないかな」などと、私の方こそびっくりするようなことを言った。それで私は、もしかしたら警察が真犯人をすでに知っているのかと思ったほどだった。

 

感想 関はすごいペテン師。石川に殺人を自白させておきながら、石川が犯人ではないなどと言う。

 

翌日の624日、関に「入曽の人の居所を確かめたのですか」と尋ねたら、「昨夜は入曽の人が真犯人ではないかと思うと言ったが、石川君が入間川の人のことを言ったので、その人のことを聞いてから捕まえるつもりでいる」と言う。

 

またそのとき側で聞いていた長谷部は、「私は(殺人を)認めなくては殺すなどと言っていない、他の人に聞いてみろ」と言い(とぼける)、他の刑事たちも「そんなことは言わない」と口を合わせてしまう。

 

その後の取り調べはまるでデタラメだった。「殺人を認めたのだから、善枝さんの鞄などの捨て場も知っていないわけがない、自分の思うところの図面を描いてみろ」とか、狭山市の地図を前に出して、「この辺を地図にしろ。」(と警官の方から場所を指定する。)私が書けないでいると、「死刑にされるかもしれないぞ」と言って無理やり描かせた。教えてもらった場所の図面を書いて渡したら、30分ほどして、「発見された」と電話で知らせて来たので、さらにびっくりした。

 

私も(警察の責め苦に)忍耐しきれない頃に、どうせやったと言わなくてはならないのなら、少しでも(人柄を)知っている関さんに言ったほうがいいと思った(心理的にすでに警察の虜になっている)。その後脅かされながら、一人でやったことにされてしまった。

 

警察は私に図面を書かせ、他の調書もある程度揃うと、今まで以上に高圧的になり、私が質問に「わからない」と答えると「いつまでも世話をやかせると、裁判官に頼んで死刑にしてもらう」と言って脅した。

 

248 一審判決後における関源三巡査との関係について

 

浦和拘置所にいるころ私は、読み書きが全くできず、関からの手紙への返事は、担当看守の森脇に書いてもらった。(となると221頁の関宛の手紙は、自分で書いたのではないのかもしれない。)

東京拘置所へ移されたのは昭和391964430日で、同年910日の二審第1回公判で無罪を訴え出した半年後には、関からの書簡は全く来なくなった。

関は一審第一回公判後以降、手紙だけでなく、食べ物や衣類、そして金まで送ってくれた。

 

 

2 萩原佑介氏との関係について

 

249 1964910日の二審第1回公判の10か月後の、昭和401965326日、全弁護人を解任し、その後再度選任したが、それには萩原佑介氏の影響がある。

 

萩原佑介氏は二審第1回公判の1か月前の19648月に、東京拘置所に訪ねて来た。

萩原氏とは昭和41196612月ごろから昭和4519703月までの3年半の間、全く音信不通であった。

 

250 弁護士を解任するに至った動機と萩原佑介さんとの関係について

 

 私は東京高裁で弁護人全員を解任したが、萩原さんから直接解任するように言われてはいない。萩原さんは、無能な弁護人がほとんど「ためすことなく」、警察や検察のペースにはめられたと看做し、私の家を訪れて父に弁護人の解任を勧め、父は考えを変えた。父も私もまた他の家族も、弁護人の役目や弁護人の良し悪しの判定法を知らなかった。私は(弁護士に対する)警察官の介入や中傷のために、弁護人は嘘つきだという印象を持っていたので、父親が「解任しよう」と言ったとき、私は反対しなかった。私は弁護人の職務とは何かについて、ほとんど知らなかった。私は父親に勧められるままに、解任のための上申書を裁判所に提出した。確かに私には弁護士に対する漠然とした不信感があった。また萩原さんには悪意はない。

 

感想 202525()

 

無知、お人好し。解任後他の誰かを選任したのだろうか、それとも弁護士自体が不要だと考えていたのだろうか。

 

 

現在の萩原さんとの交渉について

 

 萩原さんとの交渉は19648月から12)年間続いた後の、昭和41196612月ごろから途切れていたが、本年19703月ころから手紙が来るようになった。

本年3月以降の萩原さんは厳しくなり、裁判長に対する無罪判決要求や、現在の弁護人の活動に対する非難などがほとんどであり、裁判所に提出した、私の釈放要求無罪判決要求などを送付してきた。そして「現在の弁護人を解任しないと裁判に勝てない」と繰り返し力説している。

私は萩原さんの声援に感謝するとともに、全国民に対して私の事件の冤罪の真相が広められるようになったことなどを伝えたが、弁護人の解任については、できるだけ触れないようにしている。

以前萩原さんの勧めなどで弁護人を解任したが、そのことの意味を私は理解していなかった。私は解任後すぐ同じ弁護人を選任したが、そのときも私にしっかりした考えがあったわけではなかった。父が兄の六造に弁護士解任について話すと、兄はびっくりして私の所へ来て、「俺に相談もせずに解任した。中田弁護士たちを解任するなら、構ってやらない」と怒られ、私は板挟みで困った。私は1週間後に解任した弁護士たちを再任した。萩原さんとの文通が途絶えたのもこれが理由なのかもしれない。

 

3 弁護士との関係について

 

 私は最初の別件逮捕のときから二審までを通じて、弁護士とあまりなじまなかった。

 

254 再逮捕された当時の弁護士に対する気持

 

 私は当初弁護人が敵なのか味方なのかさえ分からなかった。

別件逮捕のとき、中田弁護人が、昭和38613日ころに狭山署に訪ねて来て、「同年618日に裁判が開かれる」と教えてくれた。私は裁判所は正しい人のために味方になってくれるという印象を持っていたので、裁判所に、窃盗についてはありのままに話して詫び、中田善枝さん殺しの容疑については、はっきりと「私ではない」と申し上げ、そのことで受けていた警察による責められ方を申し上げようと期待していた。

しかしその裁判が開かれる前日の617日に、中田善枝さん殺しの容疑で逮捕状が出て、開かれる予定だった裁判はついに開かれずに終わった。私は失望し、かつ腹立たしかった。今にして思えば、再逮捕された容疑とともに最初の窃盗容疑などが併合され、まとめて裁かれることになったのでしょうが、当時の私にはそれが分からず、長谷部課長に訪ねても「俺たちはそんなことは知らん。弁護人が言ったことじゃないか」と取り合ってくれなかった。私は弁護人のいい加減な言葉を恨めしく思った。616日には狭山署の署長と関さんが見えて、私に刑事部屋で、「愈々裁判日が明後日になった」と言っていたのに、私は不信でならなかった。

 

255 その後川越署で私の善枝さん殺しの責めは続き、623日に関さんに「自白」をする少し前に、長谷部課長から、

 

「我々はお前を犯人と断定している殺しを認めるまでは一歩も出してやらん。どのみち9件もの事件があるのだから、10年は出られない。どうだ、(殺しを)認めても全部の罪を合わせても10年で出られるようにしてやる。俺は中田弁護人とは違って嘘はつかん。中田弁護人は618日に裁判があると言っていたが、嘘をついたではないか。俺が嘘をつけば、警察官だから首になってしまうんだ。だから嘘はつけん。お前も(責められながら)いつまでもここにいたくないだろう10年で必ず出られるように男同士の約束をするから、認めてしまえ。」

 

と言われ、なるほど中田弁護人は私に嘘をついた。弁護人なんて嘘つきだ、と思いこむようになった。そして常に近くにいる警察官の方が(弁護士よりも)信じられるようになっていた。今にして思えば、中田先生は会いたくても接見禁止などによって、いつでも自由に会えなかったのである。

 

 私が弁護人に対して不信を懐くようになった理由がもう一つある。それは私が再逮捕される前の62日ごろ、狭山署にいたときのことである。いつものように取調室に連れて行かれると、「お前に弁護士が会いに来たから、次の部屋で会ってこい」と言われた。その部屋は鏡がついているマジックミラー部屋で、中には色の青黒い50歳前後の眼鏡をかけた人がいて、優しそうな声で、

 

「私は石川君、あなたのために弁護を任された者です。私達弁護人はみんな石川君の味方なのですよ。そして依頼人の秘密は絶対に守りますから、何でも話してくださっても構いません。良いこと、悪いことも、石川君のためになるように計るのが私の役目なのです。聞くところによりますと、中田善枝さんが殺害された当日に、石川君が東島(明)君(狭山市柏原の部落出身で、私の友人)と一緒に、花嫁学校(通称山学校)付近にいるのを見た、と届け出た人がいるそうだが、その人がまさか嘘をついているとも思えないし、石川君たちは善枝さんと会うまでは(花嫁)学校のどの辺にいたのですか。それに、もし善枝さんを殺しているのでしたら、その対策を考えなくてはなりませんので、戸外に絶対漏らしませんから話してくれませんか。」

 

などと言われた。私はその人には初めて会ったのだが、いつもは大勢の刑事たちに囲まれていたのに、その時はその人だけと二人きりになっていたので、何かほっとする気持ちになったが、私に殺してもいない善枝さんのことをひつこく聞こうとしているので、私は嫌になり、「私は殺していません」とはっきり申し上げた。後になってこの人のことを中田弁護人に話したら、中田先生は全く知らないと言った。その人は二度と私の前に現れることはなかった。

 

256 さらに弁護人ではないが、その23日前(531日ころか)に、狭山市長の石川求助と名乗る人が会いに来た。やはり前記の弁護人と名乗った人と同じ面通しの部屋で、560歳ぐらいの人と30分くらい話した。

 

「あたくしは石川君と同じ石川という姓で、名前は求助といい、狭山市の市長を努めている者です。石川君が中田善枝さん殺しの容疑で逮捕され、善枝さんを殺しているのに、未だ「自白」していないようなことを新聞などで読んだが、もし善枝さんを殺しているのなら、私からお父さんや家の人達によく話してあげましょう。私は市長だから、決して石川君の不利になるようなことはしません。だから話してくれまいか」

 

私が「私は自分の犯した数々の悪事は全部警察の人に話してしまっており、これ以上は何もしていませんし、ましてや中田善枝さんなどは殺してなんかおりません」とはっきり申し上げたら、その人は「本当に石川君は殺していないのですか」と念を押して帰って行った。

 

ところでこの石川求助さんと狭山署で会った件を、昭和40196510月ころ、萩原さんとの面会で話した。萩原さんが、(その後)狭山市長の石川求助さんに会い、私にあった経緯について問いただしたところ、市長は「私は石川一雄と会ったことがない」と否定したそうだ。私に会いに来た人は実は市長と偽って、私の心の中を探りに来た警察の手先だった。私は恥ずかしながら狭山市に住んでいながら、市長の名前も顔も全く知りませんでした。

 

257 警察は私の心の中に何か隠しているものがあるのではないか、あるいは中田善枝さん殺しを認めるきっかけができるのではないかと、私が字も満足に読み書きできないのと、世間的な常識もないことを利用し、あらゆる騙し方をしようと試みたのだ。これは、今全ての経緯を顧みて、事件の全貌を通して苦しんだ末に、やっと分かりかけて来たカラクリであるが、当時の私には、全てが知らないこと、新しいことばかりで、そのような裏のあることは分かりようもなかった。

 

 

一審公判までの弁護士に対する気持

 

 はっきりせず、また謎の多い弁護人の態度や言葉に不信を抱いた私は、長谷部課長の「警察官ゆえに嘘はつけない、男同士の約束だ」という言葉を信じ、どうせ10年は努めなくてはならないのだから、中田善枝さんを殺したことを認めても構わない、と思うようになった。私は「618日に裁判が開かれる」と言った中田弁護人の言葉に強く期待していたのに、それが取りやめになった経緯が分からず、警察でも何も教えてくれなかったので、却って「中田弁護人が嘘をついているのだと」常に警察に言われていたので、(中田弁護人は)信用できない人だと思い込んでいた。

 

258 私は中田善枝さん殺しの犯人として起訴され、浦和拘置所に移され、一審の裁判が始まっても、その間ほとんど弁護人との親密な交渉もなく、(10年で出してやるという)警察での約束事なども弁護人に明らかにせず、警察で教えられた通りの態度を取っていた。その理由は、

 

 私は中田弁護人が私に嘘をついたことにこだわり、腹を立てていた。警察も中田弁護人についてさんざん悪く言っていたので、私は中田弁護人に会うことがいやで、浦和拘置所に昭和38196379日に移されてから10数回、中田弁護人との面会があったが、いつも短い時間で帰ってもらうようにしむけた。弁護人と会う時は拘置所の職員の立ち合いがないので、面会所に行く途中、係の職員に「弁護人とはあまり会いたくないから、できるだけ早く帰るように伝えて下さい」と言ったが、職員はそれはできないと答えた。私は弁護人との面会で立ち合いがないことを「薄気味悪く」感じていた。

 

 

無実の訴えは弁護士との相談なしにやった

 

259 私は一審の裁判において、嘘の自白を終わりまで維持し続けた。10年で出られるのに、なまじ弁護士に警察との約束を話したら、裁判が崩れてしまう、と恐れていた。自分の殻に閉じこもっていた方が、自分のためになると思っていた。しかし、この事は、私を現在の窮地に追い込むことになった。私が中田弁護人を恨んだ、中止になった公判は、警察や検察の手続き上の都合で一方的に中止されたのであり、中田弁護人の責任ではなかった。

 

一審死刑判決後の浦和拘置所の同囚から、はじめて私が騙されていたらしいことを教えられたが、それでも私は長谷部課長が嘘をついていたなどとは考えられなかった。一緒に野球をした関源三さんも一緒にいたし、「警察官であるがゆえに嘘はつけない」という言葉を私は信じていた。ところがどうも浦和拘置所の皆さんの話を聞いていると、変なことばかりなので、誰を信じていいのか分からなくなり、最後の頼みである判事さんに、直接私が犯人でないと申し上げる以外にはないと思うようになり、第二審の最初の公判廷で、事前に誰とも相談せず、自分の考えだけで、手を上げて無罪を訴えたのである。その後弁護人を解任したり再任したりしたように、私は混乱していて、事情が理解できるようになるまでには相当の時間を要した。

 

その後の弁護士との関係について

 

260 私は自分が受けて来た警察での仕打ちや、(騙されて)中田善枝さん殺しの犯人に仕立て上げられてきた経緯を、苦しんで苦しんだ末に理解し、警察の恐ろしさを知らされたとき、そして、中田先生以下の弁護団に抱いていた、私の間違えが分かったとき、私はこの独房の中で声を上げて泣きました後から後から募り来る口惜しさに溢れる涙は止まらず、これほどまでに見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました。誰を対象に恨めることではありませんが、神や仏の存在すら、私は怒りをもって否定しました。

そして私の馬鹿さ加減もさることながら、中田先生たちに抱いていた私の心の狭さを、とても申し訳なく思ったのでした。なぜあの618日に裁判が開かれなかったのか、ということも今ではよく分かり、そして何よりも中田先生たちに、私の態度をお詫びすることができました。そして少しずつ事件のカラクリが分かってくるにつれ、また事件の真相が広く国民の前に知られるようになるにつれ、私も一つ一つ利口になり、中田先生たちの御指導によって、自分自身を取り戻すことができるようになったのです。

現在、弁護士の方たちは、事件の真相を余すことなく究明するために、本当に一生懸命に尽くしてくださっております。私もこれからはもう迷うことなく、着実に真相の伝達に、訴えに、執筆することに専念してゆく決意であります。

 

19709月24日 木曜日                                                                    東京拘置所内 石川一雄

 

 

感想 202525()

 

石川さんだけが無知ではない。これだけ手の込んだトリックを使われたら、誰しも「自白」してしまうだろう、と私は思った。何と言っても脅しがひどい。警察ならではの、なんでもありの脅しの手段である。「密かにお前を殺す」、「いい加減に白状せい」という暴言や、髪の毛を引っ張り回すという暴力。警察はいったん尻尾(言葉尻)を捕まえたら離さない。

 

 

 

第四部 生い立ち

 

 

1974523日、逮捕からちょうど11年目に当たる日の二審第75回公判で、石川一雄は青木英五郎弁護士の質問に答える形で陳述した。以下はそれを部落解放研究所の高村三郎が独語体に改めたものである。

 

 

わが生い立ち

 

バラック八畳一間に七人

 

265 私達家族7人(両親、兄、姉、私、弟、妹)は、八畳一間の古いバラック建てに住んでいた。古いバラック建ての家が風で倒れないように、山から木を切って来て、裏側と西側につっかい棒をしていた。畳はなく、全部薄縁(うすべり、御座ござ)だった。昭和21年から23年まで、東京の伯父(父の兄)が空襲で焼け出されて来て加わり、計8人となった。しかも伯父は上半身不随の寝たきりだった。便所は独立した掘っ立て小屋になっていて、私は家の中にいるときよりも、便所にいる時の方が、立派な家の中にいるように思えた。

 

水くみ

 

266 現在の私たちの家は、畑を売った45万円で、昭和331月ごろ建てたものである。風呂場ができたのは昭和25年ごろだったが、それまでは、姉が嫁いだA家か、母の実家のB家へ、月23回、家族そろってもらい湯をしに出かけた。家族全員が虱に悩まされた。

新しく出来た家の風呂は、ドラム缶の風呂(五右衛門風呂)で、板を湯に浮かせて入るのだが、うまく乗れずにひっくり返り、よくやけどをした。

井戸はなく、本家のC家にある共同井戸へ水くみに行った。それは「前っ原」地区の123軒が共同で使用していた。井戸の出が悪く、しょっちゅう井戸掘りをしていた。井戸が渇れて出なくなると、家から800mの所にある白山神社の境内にある井戸まで行かなければならなかった。1度ではなく何回かに分けて水くみに行かなければならなかった。それは5歳くらいから上の子どもたちの日課だった。水道が引かれる昭和35年までそれが続いた。

 

267 私たちの居住区は「菅原四丁目」と呼ばれ、それは私の家がある13軒ほどの「前っ原」と、30軒ほどある「新宅」地区とで構成され、両地区は「新道」という道路で隔てられていた。「前っ原」地区の家のほとんどは一間しかなかったが、「新宅」はそれよりましだった。「前っ原」地区でも、私の家とDEF家の4軒は一番みすぼらしかった。

 

父は昭和19年頃から狭山市入曽の大谷くにみちさんが経営するお茶工場で茶葉の乾燥などの仕事をしていた。その仕事は1か月おきくらいの不安定な仕事で、父はその仕事がない時は、日雇の百姓仕事をしたり、篠刈りをしたりしたようだ。父の日給は、私が10歳だった昭和24年頃は、日雇百姓で日給120円くらいだった。

 母は目が悪くて1日中ほとんど家にいた。家人たちは辛いとか苦しいとも思わず、みんなで力を合わせて生きていこうとする団結心があった。自分で働いて生きていく、という気持ちがそれぞれにあった。

 

一家で一食にうどん三束

 

268 子供心に生々しく残っている記憶は、食糧事情の酷さである。私は昭和25年ころ、12歳のころから、あちこち奉公に出てそこで食事をいただいたが、それ以前の昭和19年から25年までの貧しい食糧事情の原因は、父が一生懸命に働いても、一家族が普通に食べるには不足していたことだ。父の日給ではうどんの束が5つくらいしか買えなかった。一食で3束食べてしまう。うどんはごちそうだった。

 米や麦の配給はあったが、買えなかった。昭和21年から23年ころが一番ひどく、うどんは勿論、穀類はほとんど口にできなかった。ざらめという黒っぽい砂糖が配給になると、それを湯で溶かして湯のみじゃわんに一杯ずつ飲んで、それを一日分の食事代わりとした。

 米の代わりの主食は、とうもろこし、大豆、ジャガイモ、サツマイモなどであった。芋は価格が安いので、家の畑では野菜ばかりつくっていて、芋は近所から買っていた。さつまいもは当時1貫(4キロ)20円だったと記憶している。さつまいもをふかした後に鍋の底にできる甘い汁は、子どもたちにとって重宝な甘い水だった。

 

フスマ(麩)の団子

 

269 サツマイモやジャガイモも食べられないときは、麩をこねて団子にして食べた。麩は小麦を粉に挽くときにできる穀肉の皮である。よく食べた。舌がものすごく痛かった。私たちの地方の方言では「スマ」という。「スマ」は一般的に鶏のエサだと言われているが、私たちにとっては主食のコメ代りであった。麩を一回蒸かして団子状に固めてから、それを焼く。いがらっぽく、食べている最中でも後でも、舌がものすごく痛い。

 その他に「あかざ」「のびる」「サツマイモのつる」「せり」「なずな」などの野草を摘んできて食べた。「にら」を沢山つくっている近所の家からもらったこともある。「はこべ」も食べた。これは鶏が食うものとされているが、春の七草の一つで、春に白色の小花を咲かす越年草である。これは野草類の中でも一番アクが強かった。一、二回どころか何回も茹でて、醬油か塩、当時は醤油がほとんどなかったので塩をいっぱい混ぜて、なるだけしょっぱくして食べた。

 

小学校二年から百姓仕事 石川さんは小4から本格的に仕事を始め、そのため小学校にはほとんど行かなくなった。

 

270 鍋釜 釜はあったが鍋はなかったように思う。そのため、進駐軍が使い捨てた大きな缶詰の空き缶を取って来て、両端に穴を開けて針金で吊るして釣鍋代わりにした。それは水くみ用のバケツ代わりもした。青竹を天秤代わりにしてそれをかついで運んだ。また家には水瓶がなかったので、この空き缶4つくらいに水を入れておいた。子どもは水くみの他に雑木林に行って燃料用の薪や柴を取って来た。兄と二人でやった。前っ原の子どもたちは皆これをやった。

 私は昭和21年、22年(8歳、9歳)ころから、畑仕事を始めた。敗戦後、元飛行場の敷地だったところの払い下げを受け、私たちの家では畑が3反歩あった。そのうちの1反歩はどこかに分けてやり、残りの2反歩を、兄と私が百姓仕事をした。父は日雇仕事に出ていたからである。小学校2年生のころ、前っ原の子どものうちでは、私が一番百姓仕事が上手だった。

 作付けした主なものは、ねぎ、ほうれん草、大根などの野菜類であったが、自分の家で食べるのは少しで、大根などは全て一畝いくらで、八百屋に売った。

 

271 家でする仕事は小学校3年生のときまでで、小学校4年生ころからは、通称山学校(花嫁学校)と言われていた、高橋四郎さんの家の百姓仕事に、父と二人で出かけた。ジャガイモの収穫時期になると、高橋さんの女中が呼びに来る。私は勿論学校を休んで山学校へ行く。父の日給は120円くらいで、私はたしか30円から50円だったと思う。

 その頃父は大谷くにみちさんのお茶工場にも行っていて、私も父と山学校の合間に出かけた。また山へ篠を取りに行った。近くの雑木林ではなく、私の家の北方片道3キロの所にある柏原の方の、山本クロース、入間川のすぐ裏の山まで行った。篠は籠を編むときに使うらしい。

 

 私にとって、学校が片手間で、仕事が主になったのは、小学校4年生ころである。父がお茶工場に行っているころは、水くみや薪拾い、兄と一緒の畑仕事をしながらほぼ学校へ行けたのだが、山学校や山仕事があるときは、学校を休んで父と一緒に働きに出るようになった。私にできる仕事が増えて来るにつれ、学校を欠席することが多くなった。

 

ノートが買えない

 

 私の家には傘が1本もなかったので、雨が降ると決まって学校に行かなかった。また学校でPTA会費など金を徴集する日も、払えないから欠席した。先生に「明日は図画で写生がある」とか、「習字がある」とか、「社会の何やらで、画用紙や半紙や藁半紙などを明日買って来なさい」と言われると、それが買えないので翌日は欠席した。ノートも課目別に5冊くらい必要だったが、私は1冊も持っていなかった。先生から「ノートを買って来なさい」と言われた翌日は学校を休んだ。

272 鉛筆も1本も持っていなかった。消しゴムも、下敷きもなかった。教科書だけは近所の1年先輩の人から使い古しを貰い受けて持っていた。ランドセルも石田さんという家からもらった古いのを持っていた。

 小学校3年生くらいまで着物を着て登校した。ちゃんちゃんこで行ったこともある。「前っ原」の子どもは皆同じで、学生服は買ってもらえなかったのである。他の地域の子どもたちは皆学生服を着ていた。また着るものがなくなって、「新宅」の人からもらった着古しの着物を着て学校へ行ったこともある。それには破けた跡に継ぎを当ててあったりし、一般の同級生や上級生から「きたない」とか「継ぎを当てた着物を着てる」とか言われ、さんざんいじめられた。

 夏の間は履物がもったいないので、ほとんど裸足で通学した。5月から10月ごろまでのことである。「前っ原」の子はみんな私と同じ裸足だった。草履も何も履かなくて平気だった。寒くなるとゴム長靴を踵当たりで切ったような短靴を履いた。一般の子どもたちはズック靴を履いていた。当時長靴や短靴は配給だったが、ズック靴は個々に勝っていた。私たちは配給の短靴でさえようやく買えたので、ズック靴を買う金はあるはずがない。だから夏の間もその短靴を履くのももったいなくて裸足で通ったのである。

273 学校に弁当も持って行かなかった。米飯さえなかったのだから、昼食時は学校から1キロちょっとの自宅まで帰って飯を食い、また学校に戻った。前っ原の子はほとんど皆そうだった。

 仕事のない日は学校に行き、仕事があればいつも学校を休んでいたので、授業はほとんど分からなかった。ともかく毎日食い物を得るために追われていた気がする。学校へ行くのも、勉強しに行くのではなく、学校で勉強したという記憶がほとんどない。学校で興味を持って好きだった学課は一つもなかった。休み時間に大勢で遊べるのが楽しく、それだけに惹かれて学校に行った気がする。

 学校に行って本を読んだという記憶は一度もない。私の席はいつも前だったが、先生は一度も私を指名して読ませようとしたことはなかった。私は小学校に行っている間はまったく字が分からなかった。

 

ほったらかしの教師

 

 今考えてみると、先生は私など全くほったらかしていたと思える。私が少しも字が分からないのに、先生は助言は勿論、何も文句も言わなかった。「勉強しなさい」と言われたこともない。「ノートを買って来なさい」とか「藁半紙を買って来なさい」などとなぜ注意したのか、不思議でならない。先生は無責任だったと思う。私は上級生になると登校日の約半分は休み、6年生の時には3分の2以上欠席した。小学校6年間で、登校した日よりも休んだ日の方が多かった。また学校の先生から一度も家庭訪問を受けたことがない。先生が家の近くまで来たことがあったかもしれないが、いつも家にいた母から(先生が来たと)聞いた記憶がない。先生から訪問したいと言われたこともない。

274 早退もよくした。朝父母から何時頃こういう仕事があるから帰ってこいと言われると、先生に断って早退した。登校しても途中で家に逃げ帰ったことが何回もあった。授業が面白くなかったからだと思う。

 

小学校を追い出されて奉公に

 

 昭和20年以前に生まれた「前っ原」の子どもたちで中学校へ進めた子はほとんどいなかった。小学校の途中でほとんどが奉公に出た。私の兄も小学校の5年生の時に奉公に出た。兄の場合は奉公先がずっと一か所だったが、私は転々と変えた。姉も小学校を終えると東京に奉公に出たが、幸運にも奉公先が中学校に行かせてくれた。本家のC家にも男の子が6人いたが、全員が中学校には行けなかった。

 私は小学校6年生の途中で学校をやめ、百姓家に住み込む子守の奉公に出た。慣れなくてすぐに逃げ出した。当時父は大谷くにみちさんのお茶工場に勤めていた。私はその工場も、大谷の本家も、「十一軒」というところにあるのを知っていて、奉公先も「十一軒」にあったので、大谷の本家に逃げ込んだ。名前を聞かれ、父が大谷のお茶工場に勤めていると言ったら、その主人が父のいるお茶工場まで連れて行ってくれた。家に父と一緒に帰ったのだが、二、三日してまた奉公先に連れ戻された。

 

わけもなくいじめられ

 

 私が「菅原四丁目」の「前っ原」に住んでいる子どもであるために差別されるということを、はっきりと部落差別として意識したのは、この裁判に控訴していろいろ勉強してからのことである。それまではさまざまな人から白い目で見られたことをはっきりと感知していたが、それが部落差別であるという認識はなかった。

 部落外の子どもたちから違った目で見られ、侮辱的な言葉を浴びせられたのは、小学校に入学と同時だった。それまでは「菅原四丁目」以外には全く遊びに出て行かなかったから、外部の子どもたちと接することもなかった。小学校の1年生になるとすぐに、「汚い」と言われた。普通の人は学生服を着ているのに、私たちだけは着物を着ていて、それも汚れているうえに、継ぎが当たっていた。風呂にもあまり入れなかったので、首の周りに垢もついていたから、そう言われたのだろう。「汚い」と言ってくるだけでなく、一方的に殴りかかってきた。

 また「かわだんぼ」とも言われた。以前は「上新田のカワダンボ」<坂上、即ち菅原四丁目のこと>とも言われた。牛馬の肉や皮革などの採取や加工を職業とした者たちの部落という意味である。同級生や上級生からしょっちゅうそう言われたが、それがどういう意味か全く分からなかった。肉や皮革を取り扱う職業に従事している家が、20数軒の「前っ原」に4軒あった。クラスの生徒で「前っ原」に二人、「新宅」に二人の計4人がそう言われた。いじめられ、殴られ、泣いて帰ったことが、一年生の時には何回もあった。どうして自分たちだけがわけもなく苛められるのか、さっぱりわからなかった。

276 しかし四年生になったころには、もう面と向かっては言わなくなった。私が鍬などを使って畑仕事をするようになって力がつき、けんかをしてもほとんど負けないようになったからだ。「汚い」「臭い」と言ってかかってくるやつを、今度はあべこべに殴り返せるようになった。

 また菅原四丁目から1キロほど離れた入曽地区の子どもたち15人ほどが、徒党を組んで、「かわだんぼ」と叫びながら、駆けつけて来て、四丁目一帯に石などを投げつけたことがあった。それは小学校3年生のころだったが、そういうことが何度もあった。父にそのことを何回も言ったが、「かもうな、かもうな」と言うだけで、まったく取り合ってくれなかった。私たちも何人かで対抗したが、人数が足りないので、負けてばかりだった。兄たちはそういう反撃をしようともしなかった。

 小学校に入っている間、部落外の子どもたちを遊んだ経験はない。部落外の子どもたちが「汚い」「臭い」と言って受け付けなかったからである。私たちはいつも「前っ原」や「新宅」の子どもたちとだけで遊んだ。

 

「列車転覆事件」でも嫌疑をかけられた

 

277 同じく小学校34年生のころ、クラスの誰かのPTA会費120円が紛失するという事件が起こった。先生はすぐさま「新宅」のGに嫌疑をかけた。ところが紛失が発覚した時間である休み時間には、Gと私はドッジボールをしていたのである。しかしGは水がいっぱい入ったバケツを両手に持たされ、認めるまで職員室の前に立たされていた。翌日Gは親と一緒に来て、金を払ったようだ。Gは私とドッジボールをしていたのだから盗めないはずだと今でも思っている。

 

 また13歳のとき、山学校に父と百姓仕事に行っていたが、「電車転覆事件」が起ったらしく、狭山警察署がすぐ私に嫌疑をかけて私を連行した。

私にとって警察はとてつもなく怖い存在だった。私達兄弟がどこかの柿の実を盗んで来たことがあった。そうすると父や母は、そういうことに対して非常に潔白すぎるほどのたちだったから、「そういうことをするとお巡りさんに連れて行ってもらうぞ」とか「お巡りさんに縛られるぞ」などと言って、よく叱った。大きくなってもその怖さは変わらない。

 

昭和20年から25年のころ、「前っ原」に戸籍調べの警官が1か月に1回から2回やって来た。1年に1回というのが普通だと後で知った。父や母はいつも「警察の旦那様」とか言ってペコペコ頭を下げた。昭和34年ころまでは「前っ原」の人たちはほとんどがそんなふうで、警察に反感を持つことなどなかった。

 

 私は(列車転覆事件は)未遂というわけで、三通くらい調書を取られた。私はでたらめの自白をし、全部認めてしまった。そういうとき、髪を引っ張られて拷問を受けるのが普通だったが、当時私は坊主頭だったから、小突かれた。とても痛かった。現場写真を見せられ、これがそうだったと、簡単に認めてしまった。ところが昼になり、取調官が飯を取りに行ったすきに、私は逃げ出した。翌日父と一緒に出頭したら、山学校の高橋四郎さんが「雇用者名簿」を持っていて、その日は働いていたというアリバイを証明してくれた。嫌疑が晴れた日は、入間川警察から狭山警察に名称が変わる日だった。

 

床屋がいちばんひどく侮辱

 

278 狭山市内では、子どもでも大人でも、「かわだんぼ」といえばほとんど「菅原四丁目」の人だということを知らない人はいなかった。桶屋も、部落民の風呂桶をつくるのを嫌がった。手桶や小さい樽の歪んだのを直すのも嫌がった。隣の菅原三丁目に桶屋が一軒あったが、「どこから来た」の問いに「四丁目」と答えると、もう「駄目だ、よそに持っててくれ」と断られた。結局、遠い所の桶屋に行かなければならなかった。

 

279 床屋が一番ひどく侮辱した。忘れられない。完全にとらわれたまま、思う存分に観察され、私は侮蔑の言葉を言われ続けた。昭和19年~25年ころまでのことだ。床屋に行くたびに言われた。風呂にあまり入れないので首筋が汚く、理容師の人が、「きたないね」と言うと、その隣で毛を刈ってもらっているどこかの小僧さんみたいな人が、「かわだんぼだものな」と言って合わせた。そのことを父に言うと、「その床屋にもう行くな」と言う。それで1キロ離れた入間沢の方の遠い床屋に行くようになった。父は抗議せず、ただ「床屋を変えろ」と言うだけだった。

 

もらっていたのは小遣いだけ

 

 逃げ帰ってから二、三日してまた連れ戻された子守の奉公先の百姓家は、私たちの家から3キロくらい離れたところにあった。三歳の子どもを背負って、ねんねこを着て、近所をぶらぶらとほっつき歩いているだけである。言われた授乳の時間に帰ればよかった。百姓家は晩飯が遅い。私はあまりに腹をすかして、うどんを八杯も食べて笑われた。家にいる時の食事が悪すぎたのである。ここでは麦飯を腹いっぱい食べることができた。半年してまたこの子守奉公先から逃げ帰った。

 今度はもう連れ戻されず、母の兄がやっていた国分寺の靴店に奉公に出た。また住み込みで、朝早く起きて店を掃除することから始まる。修繕する靴の底をたわしで洗う。当時は皮革が不足していて、二枚重ねて使う皮の隠れる方には古い皮をあてがってごまかす。その古い皮に混じっている石を取ってきれいに洗う。伯父の奥さんから「菅原四丁目から来たことは絶対に近所に言わないように」と言い渡された。またお婆さんとその奥さんから、言葉遣いも注意された。私たちは「けむし」のことを「けんむ」と言っていたが、隣近所にうまくないから「「けんむ」ではなく、「けむし」と言え、と何回も注意された。ここには半年いた。

 

280 次は狭山市会議員をしていた南水野の宮岡万平という家に奉公に行った。たくわんや福神漬け、らっきょうなどの漬物屋だった。私の他に「新宅」からももう一人が来ていて、その人と交替で、朝4時と7時に起きていた。牛の乳を搾るために湯を早く沸かさなければならない。朝のうちに乳しぼりをし、昼は野菜の根を切ったりした。ここではよくカネをもらった。仕事は一番つらかった。朝早くから夜は11時ごろまで、毎日働きづめだった。以上述べた奉公先では給料をもらっていたかもしれないが、私が直接もらったのではなく、父がいくらかもらっていたと思う。私は小遣いをもらっただけだ。名古屋万平というところで月1500円ほどもらったのが、一番多かったと記憶している。

 

奉公をやめて

 

 16才になると奉公に出るのは止めて家にいて、18歳まで、主に土方仕事をし、土方仕事がない時は山学校へ行って、百姓仕事をした。土方仕事は通いの時も、住み込みの時もあった。ようやく一人前の給料を自分で手にすることができた。

281 半年ほど東京の江東区東雲町一丁目のゴルフ場で、住み込みの土方仕事をした。ゴルフ場の芝を刈ったり、土管を埋めたりする仕事だった。当時そこに軽飛行機が飛び降りる滑走路があって、コンクリートでなかったので、雨が降るとよく穴ができた。そこに土を入れる仕事である。ゴルフ場は港の側に在り、でかい船が入って来て、荷の積み上げとか、船体の修理など、様々な仕事をした。日給は350円から400円だったが、最後の3か月間は賃金が不払いになり、家に帰って来た。

 進駐軍の雑役をしたこともあったが、半年で整理された。夕方4時ごろに仕事が終わり、日給が600円から700円で、かなり実入りがよかった。それに土日が休みなので、遊んでいてはもったいないので、遠藤中将と呼ばれる家に仕事に行ったこともあった。

 請負で土方仕事をしたこともあった。「ねぎり」といって、土管を埋めるために穴を掘る仕事である。請負を「こまわり」というが、私たちは力仕事なら二人前以上でき、一般の人と一緒にやると損をするので、「こまわり」をさせてくれと頼んだ。それには歩合がついて、日に3000円から4000円になる。そのかわり、朝の6時ころから真っ暗になって目が見えなくなるまで働いた。日曜と雨の日は休んだが、月3万円になった。1万円は家に入れ、残った2万円のほとんどは、進駐軍に勤めていたときに覚えた野球の道具を買うのにつぎ込んだ。

 

菅四ジャイアンツ

 

282 私は進駐軍で野球を覚えた後の昭和32年頃、「菅原四丁目」の野球チームに加入した。その後そのチームに「菅四ジャイアンツ」の名称がつけられた。それは18歳から30過ぎまでの約15名のチームで、日曜日ごとに入間川小学校と入曽小学校の校庭を1日借り切ったり、山本製作所のグランドを借りたりして、練習や試合を続けた。「菅四ジャイアンツ」は狭山市社会人野球連盟に加盟し、公式試合が年12回あった。それ以外には狭山市外のチームとたまに試合をするくらいで、試合相手のほとんどは柏原部落のチームであった。市内の一般チームに試合を申し込んでも、予定があるからと断られてばかりだった。またその一般チームからの試合の申し入れは一度もなかった。

 

 関さんと部落の青年たちの「菅四ジャイアンツ」とはほとんど関係がなかった。菅四ジャイアンツが試合をしている時に余った4人の青年は、部落の子どもたちを集めて、野球の仕方やプレーの指導を続けた。昭和35年ごろからその場に関さんも加わって来て、日曜日ごとに子どもたちの練習のコーチを、青年たちを一緒にしてくれるようになった。毎年56回、その練習成果をためすために、野球大会が行われた。四丁目の子どもたちを6チームに分け、子どもたちだけでは人数が足りない場合、青年たちも混じって参加し、関さんはいつも審判役をしてくれた。この日は四丁目商店街から提供される参加賞が沢山あり、子どもたちは大いに喜んだ。私はキャッチャーが得意で、仕事で右手の人差し指の怪我をしたり、親指をつぶしたりしたときでも、左手で投げていた。私は左利き用のグローブも買っていた。

 

人より倍力仕事

 

283 東鳩という会社に、昭和333月から369月末まで勤めた。日勤と夜勤の二交代制で、一週間交代だった。仕事は、もち米やメリケン粉を練った生地をローラーで伸ばし、せんべいの型にするというごく簡単なものであった。入社したころの日給は450円くらいで、毎日8時まで残業したので、月2万円にはなった。そのうち1万円を家に入れ、1万円を小遣いにした。このころ私より後に入社した咲村という同僚から競輪を教えられ、夜勤の日には競輪場まで行った。

 東鳩を辞めてから、西川土建屋で約1年勤めた。土管などを埋める仕事である。私は力仕事をするとき、人より倍やりたいと思っていたので、進んで何でもやった。

 その後石田豚屋に勤め、昭和38228日に辞めた。仕事はジョンソン基地に残飯をあげに自動車に同乗して行ったり、豚に餌をやったり、豚の糞尿をさらったりすることだった。給料は三食付きで18千円だった。住み込みだったが、寝る場所は豚小屋の電気もつかないところで、豚の番をしながらだった。

284 その後少しの間、入曽の「たはら」というところで、基礎コンクリート打ちの仕事をしたが、すぐ家に戻り、同じような職種の兄のとび職の手伝いをした。普通住宅の基礎コンクリート打ちが主だった。給料は、仕事をしている兄が家にも入れなければならないので、小遣いとして1万円から2万円もらった。家にいる時は野球をやめたので、その金は女友だちと遊びに行ってつかった。

 

市役所で困る

 

 私は小学校をやめてから別件で逮捕されるまでの間、文字の読み書きがほとんどできなかった。本を読もうともしなかった。家で兄がスポーツ新聞をとっていたので、野球の試合のスコアとか、チームの成績や、打撃十傑とかいう欄の何割何分何厘という数字だけを見ていた。野球選手の名前は、背番号がふってあるので分かったし、テレビを見ていて、3番が長島、1番が王というぐあいに、すぐに覚えられたが、書くことはできなかった。車券を買う時も、目で買っていたので、文字を読む必要はなかった。漫画なども、炬燵の中で妹が見ていたので、一緒に見た記憶があるが、全部ひらがながふってあれば、一人でも読めるが、漢字が一つでもあると、素通りをした。

285 土方仕事をしたり、東鳩で働いたりしている時でも、仕事上、文字の読み書きは、ほとんど必要なかった。東鳩では記録する必要があったが、油を何回出して使ったかという個数を覚えていて、責任者が来た時その数字を言えば、その人が書くので、読み書きができなくても、仕事上差支えなかった。(鎌田慧『狭山事件の真実』によれば、文字の読み書きができずに失敗して首になったのではなかったか。)

 当時の私は本が全く読めず、世の中の常識も知らず、友達などと世の中の動きについて話し合うこともできなかったが、さして不自由は感じていなかった。仕事はがむしゃらに二人前以上も働いたし、たまに競輪にいくことで満足していた。映画も好きで、とくに石原裕次郎主演の映画は上映されるたびにほとんど皆見に行った。そういう生活に満足していた。

 字を習って本を読んでみようという気持ちはなかった。葉書も手紙も自分では一度も書いたことがなかった。書く必要もあったが、その時には後に姉の夫になるAさんに代筆してもらった。

 だが困ったことがなかったわけでもなかった。市役所や職業安定所に行ったときである。係員に書類を渡されてこれに書き込んでと言われても、私はどうすることもできず、紙切れを握りしめたまま立ち竦んでいた。それに懲りて近所のHに頼んで、いつもいっしょに連れて行って、書いてもらった。東鳩に入社するときの履歴書は、Aさんに書いてもらった。他のところでは住所と氏名さえ書けば、ほとんで用が足せた。

 

「石川一夫」

 

286 住所と名前は大体書けたが、住所の「菅原」は難しくて覚えられないので、「四丁目」とだけ書いた。名前の「雄」も難しいので「夫」と書いた。平仮名だけはほとんど書けたが、漢字はいつも見慣れている少しの文字以外はほとんど書けなかった。選挙の投票には何回も行った。私の家の風呂場の板壁に選挙ポスターが貼られるのだが、それを見て、父に勧められる人の名前を何度も書いて練習してから投票所に行った。数字は分かったが、広さや長さ、重さの単位であるアール、メートル、キログラムなどは全く分からなかった。別件で逮捕された昭和38年時分は、ほとんど文字が分からなかった。兄のとび職を手伝ったときも、指示された仕事はできたが、長さの単位が分からないので、基礎工事で何度も間違え、つらい記憶として残っている。

 

弁護士を信用できなかった

 

 私が昭和38523日の朝に別件逮捕された後に中田弁護士が私に面会に来たが、私はこの人が自分を助ける仕事で来たのだと考えることができなかった。私は弁護士という言葉自体も知らず、それがどういうことをする職業なのかを知らなかった。私のそれまでの生活で弁護士は不要だったこともある。だから弁護士と自分が話し合ったことの全てを警察官にしゃべってしまった。また自分を助けると言って偽弁護士が面会に来て「善枝ちゃん殺しを認めろ、白状しろ」と言い、偽市長もやって来た。そしてその直後に中田・橋本の両弁護士がやって来ても、信用できなかった。中田弁護士が別件の第一回裁判が618日にあると言っておきながら、善枝さん殺しの容疑で再逮捕され、警察側がその裁判を流してしまったのを、弁護士のせいにしてしまった。私は無知だった。

 

287 私は長谷部警視の「男同士の約束」という言葉を信用して嘘の自白をしたが、それは、ほとんどの警察官が長谷部さんにペコペコ頭を下げるのを見たり、周囲の人が長谷部さんに「警視さん」などと言っているのを聞いたりして、長谷部さんが非常に偉く見えたからである。私は最初3人でやったと言っていたが、長谷部さんが「お前は一人でやったと言わなければ、どのみち九件もあるから死刑にできるんだぞ」と言うから、長谷部さんは「死刑にできる」ほど偉いのだと益々思うようになった。控訴した後でも、しばらくはそう考えていた。

 

 控訴審の第一回公判(昭和399月)の最後に「私はやっていません」と言ったが、弁護士を信用していれば、そういう前に相談していただろうが、まったく自分勝手に言ってしまった。同囚の皆さんからいろいろ話を聞き、自分でも刑法総論などという本を読み終わったあと、しかもそれを暗記できるようになったときに、やはり弁護士は自分の権利を守ってくれる人なのだと思えるようになった。

私は自分の考えが間違っていたことが分かった時、独房の中で声を上げて泣き伏したことを忘れることができない。あとからあとからつのるくやしさに溢れる涙でした。これほどまでみごとに警察権力の罠に陥ってしまった自分の無知さ加減を恨んだ。そしてこの事件のカラクリが分かって来るにつれ、私も一つひとつりこうになって来るように思われた。それは昭和43年ごろのことである。(昭和38年の逮捕から5年後のことである。)

 

自分自身の手で無罪を訴えるために

 

288 その前の昭和42年ころから、私は文字の読み書きを、拘置所の中で独力で始めた。控訴審(昭和39年)になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、自分自身の手に頼るしかないと思って猛勉強した。そのころは外部から手紙をもらうようになった。当初はそれが読めないので、担当の看守に読んでもらったが、返事は書けなかった。母に「少年手紙宝典」という本を差し入れてもらい、また拘置所にある、仮名を振った本を私専用に貸してもらって、読み書きを勉強した。

 

 別件逮捕された狭山署で、私はコピーでとったような文章を見せられ、「写して勉強しろ」と言われ、横書きの文章を何度も書き写したことがあった。当時の私は読み書きが全くできなかったので、何の文章なのかもわからず、ただ言われるままに書き写していたが、それは脅迫状だった。(警察は石川の筆跡を、脅迫状の筆者の筆跡に似せようとしたと思わわれる)私は他人の脅迫状のコピーの文章を意味も分からず、まだろくに書けない字で、ただ書き写していたのである。

 

 別件逮捕される前でも、夜警察官が私の家にやって来て、Iとかいう人が書いた見本を見せ、書く練習をさせたことがあった。その通りに書こうとしたら、横から「そうじゃなくこうだ」と指図されながら、わら半紙に56枚書いて出した。

 

289 東鳩にいた時も、私は決まりきった早退届の文章すらろくに書けず、他人の文面を懸命に引き写して書いた。逮捕された後でも私はまるで選挙の投票のように、「脅迫状」のコピーの文章を、内容も分からずに一心に書き写す練習をしていた。その時はまだ「石川一夫」と書いていた。私が親からつけてもらった名前を正確に書けるようになったのは、別件逮捕され、再逮捕され、起訴されてからだった。拘置所からは、一字間違っても出ることができないので、正確に書くように教えられ、昭和389月の(一審の)第一回公判の始まる前になってようやく、「石川一雄」と書けるようになった。

 

以上

 

 

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