狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977
001 はじめに
1974年10月31日、東京高裁が無期懲役判決を下す。
1976年1月28日、上告趣意書を提出。現在最高裁で係争中。
002 広津和郎は松川事件の被告たちの獄窓からの文集『真実は壁を通して』を読み、松川事件に取り組むようになったが、「これはウソが書ける文章ではない」と感じたという。
「世にも不思議な物語」の著者宇野浩二は、(松川事件の)「被告たちの顔があまりに明るく、その目があまりにも澄んできれいであったことから、無実を確信し、救援活動に参加した」と述べている。
第一部 山上益朗弁護士が、石川一雄君との出会いの印象を語っている。
003 第二部 自供調書と、被害者に父親と警察官に宛てた詫びの手紙
第三部 川越の萩原佑介氏と部落解放同盟前委員長の浅田善之助氏に宛てた手紙
第四部 石川君の生い立ち 彼自身が二審75回公判で述べた証言
逮捕当時の新聞記事
「『あんな好青年が…』――近所の人もびっくり」毎日
「まさかあの人が――複雑な地元民の表情」サンケイ
「『底知れず不気味な』石川」朝日
「友達もなく内向的――頭は悪くないが小学校はずっとビリ」サンケイ
「常識外の異常性格――なまけ者でギャンブル狂」埼玉新聞
004 野間宏『狭山裁判』上・下 岩波新書
青木英五郎『「狭山裁判」批判』辺境社
狭山弁護団「石川さんは無実だ――狭山裁判の真相」部落解放同盟
序 事件・裁判のあらまし
011 事件・捜査の経過
昭和38年1936年5月1日、狭山市大字上赤坂100番地、中田栄作の四女中田善枝は、この日満16歳の誕生日を迎え、その朝家族は赤飯を炊いてお祝いをしたという。善枝はいつものように自転車で、この春入学したばかりの川越高校入間川分校へむけて家を出た。
しかし夕刻の6時を過ぎても帰宅せず、篠突く雨も降り出したので、6時50分ころ、兄の健治が自宅の小型貨物自動車で家を出て、学校や入曽駅などを探したが、7時30分ころ、空しく家に戻り、7時40分、夕飯を済ませたそのとき、今しがた自分が開けて入って来たばかりの入り口のガラス戸に、白い封筒が挟まれているのを発見した。つまり7時30分から7時40分までの間に、封筒が届けられたと推察される。
封筒の表と裏に「中田江さく」と乱暴に書かれ、封をしたあと、明らかに引きちぎった跡があった。中を取り出そうとすると、善枝の身分証明書がパサッと土間に落ちた。それとは別に四つに折りたたんだ大学ノート一枚が入れてあり、そこに横書きで
「子供の命がほ知かたら五月二日の夜一二時に金二十万円女の人がもツてさのやの門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせ。時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい――刑札には名知たら子供は死。気んじょの人にもはなすな。子ども死出死まう。」
と書かれていた。
父栄作と兄健治は午後8時ごろ、堀兼駐在所に(被害を)届けた。その際(何時ころか)、健治が(妹を探しに行って)帰った時にはなかった善枝の自転車が、物置の前に濡れたまま置かれているのを発見した。
012 犯人が指定した5月2日の夜は、白い月の光が一面にさし、雨上がりのせいもあり、「猫の足音さえ聞こえるほどに静かな夜であった」(当時のPTA会長増田秀雄談)
県警本部大谷木警部ら40名は、犯人指定の佐野屋周辺に張り込んだ。PTA会長の増田秀雄に付き添われ、途中まで健治の見送りを受けた、被害者の姉登美恵が、風呂敷に包んだ偽の20万円を小脇に抱えて、佐野屋の店頭に立った。時に5月2日午後11時55分頃であった。
それから約10分過ぎたころ(12時5分ころ)、月が陰り始めて闇があたりを暗くし始めたとき、佐野屋の東方30mの道路茶畑(道路茶畑とはどうい意味か)の中から、「おい、おい、来てんのか」という犯人の低い声がはっきり聞こえてきた。登美恵と犯人は約10分、とぎれとぎれに問答をかわしたという。その間犯人は「ケイサツに話したんべ、そこに二人いるじゃねえか」と言い、「おら帰るぞ」という台詞をあとにぷつりと声が切れ、その瞬間「白っぽく人影らしいものが動いた」(登美恵の法廷での証言)
警官たちは笛を吹いて一斉に飛び出したが、犯人は逃げ失せた。これはその年3月末の義典ちゃん事件に次ぐ警察の大失態だった。「あらぬ方向」(どういう意味か)で犬の遠吠えがしたという。
疑問 姉の登美恵は犯人の声を聴いているのだから、石川一雄の声との違いは分かるはず。その点どうだったのだろうか。
5月3日、特別捜査本部が設置され、県警刑事部長の中勲警視正を本部長とする計165名の大捜査網が張られた。
5月3日の朝、捜査員が、佐野屋付近で、犯人の足跡と認められるものを発見し、石膏で型を取った。
013 他方、地元消防団員を含む百数十名が山狩り捜査隊となり、5月3日から8日にかけて、善枝の通学路とされる薬研坂付近の山林や畑を捜索した。
5月4日の午前10時ごろ、捜索隊は、入間川2950番地先の新井千吉所有地内の農道から、埋没された被害者の死体を発見した。鑑定の結果、死因は扼殺(手で首を絞め殺した)で、精液B型を検出し、姦淫されていることが判明した。
一方捜査員は、5月4日に死体が発見される以前から、筆跡に関する「資料」を集め始めていた。中勲は法廷で「5月4日より前から筆跡を収集する作業を始めていた」と証言している。法廷に証拠として提出されている筆跡に関する資料によれば、筆跡調査の対象となっている人々が、極めて限定されていたことが分かる。当局が、被差別部落民である石田一義さんが経営する養豚場に出入りする人達の中に容疑者がいると睨んでいたのは(この筆跡調査の対象から)事実であった。
警察は5月6日、「石田一義方からスコップ1丁が紛失している」という聞き込み情報をキャッチしたとされ、その数日を経た5月11日、入間川東里2927番地須田ぎん所有の小麦畑から、スコップ1丁が発見された。県警鑑識課の鑑定によれば、死体発見現場の土壌と同質の土壌が、スコップに付着していたという。ここで犯人は石田一義方に出入りする者に限定された。5月21日、そのスコップは石田一義によっても、自分のものだと確認された。
014 捜査員は5月21日、石川一雄宅を訪問し、5月1日のアリバイに関する上申書を石川一雄に書かせた。別紙写真参照。
上申書 昭和38…2
狭山市入間川2908
石川一夫 24才
はたくしわほん年の五月一日のことにツいて申し上ます
五月一日わにさの六造といツしよにきんじよの水村しげ
さんのんちエやねをなしにあさの8晴ごろからごご4晴
ごろまでしごとをしましたのでこの日わどこエもエでません。
でしたそしてゆうはんをたべてごご9晴ごろねてしまい
ました
昭和38年5月21日 狭山けいさつしよちようどの
右 石川一夫 指印
5月23日早朝、石川一雄は、善枝に関する恐喝未遂、別に、暴行、窃盗容疑で、別件逮捕された。その日警察は狭山署で石川一雄に吸わせたピースの吸い殻を領置(取り上げて保管)し、これを鑑定資料とし、(石川一雄の)血液型はB型と鑑定された。この(血液型の判定)結果が出たのは、逮捕後の6月14日である。
石川一雄と善枝とを結ぶ物的証拠、例えば、指紋、犯行の目撃証人などは全く存在しない。石川一雄が恐喝未遂で逮捕されたのは、(アリバイに関する)上申書の筆跡と脅迫状の筆跡とが似ているという理由によるのだが、筆跡についての鑑定結果が出たのは逮捕5/23後である。一通は6月1日付、もう一通は6月10日付である。しかも捜査当局は、筆跡鑑定に証明力がないことをよく承知していた。それは、勾留満期で6月13日に別件で起訴されたが、(善枝に対する)恐喝未遂は証拠不十分として起訴できなかったことからも明らかである。
石川一雄は別件ではすべて5月30日までに認めている。しかし中田方に脅迫状を届けたこと、強姦殺害したこと、死体を農道に埋めたことについては「やっていない」と否認し、真実を守り通した。証拠によればこの否認は、5月23日に逮捕されてから6月22日まで続いた。30日間にわたる否認の意義は大きい。しかし、「殺したと言えば、十年で出してやる」という捜査官・長谷部警視の偽計と自白の強要に屈服し、遂に嘘の自白をさせられた。そして「自白により」6月21日に鞄が、6月24日に万円筆が発見され、7月2日には、「自白した」場所の付近から、女ものの時計を民間人が発見して駐在所に届け出た。そしていずれも被害者遺族は、それらを善枝のものと確認した。
015 公判の経過
昭和38年1963年9月4日の第一回の裁判の日、検察官は勿論、新聞も、石川が容疑を否認するに違いないと予想していた(その根拠は?)が、石川は「私がやりました」とあっさり犯行を認めた。第一審の審理は、実質的に8回だけで打ち切られ、昭和39年1964年2月10日、検察官が論告に入り、死刑を求刑した。それに対して弁護人は、被告人の自白維持を重視し、無罪の弁論を行い(有罪だと本人は自白していたのに、なぜ無罪を主張するのか?)、万一にそなえ、有罪であるとしても刑を軽くしてほしいと訴えた。ところが内田裁判長は3月11日、弁護人の主張を一蹴して死刑を宣告した。
世間は悪夢のような事件が、公正な裁判によって解決したとしてほっとし、中田家は霊前に死刑判決を報告し、一日も早く忘れようとした。
石川は、弁護人と相談せず、控訴の手続きを取っていた。弁護団はもとより世間一般も、死刑事件では控訴するのが当然であるように、石川もまたそうしたと受け取った。
石川は昭和39年1964年9月1日、東京高裁での第1回の裁判の日に、裁判長の制止を振り切って「お手数をかけて申し訳ないが、私は善枝さんを殺してはいない。このことは弁護士さんにも話してはいない」と申し立て、自白を撤回し、これまでの自白は捜査官の誘導・強制による嘘の自白であると申し立てた。法廷にいた関係者はびっくりした。事件が振り出しに戻ったばかりか、「弁護士にも相談していない」の一言は、事件の本質に迫る奥深いものを感じさせた。
016 さらに石川は弁護人に追い打ちをかけるように、第一回の検証が実施されたあとの第二回検証が予定された日の直前、すなわち昭和40年1965年3月26日、全弁護人を解任した。この解任の背景には第三者の介在があるが、石川が中田直人弁護人を信頼していなかったことを物語る。
石川は刑を軽くしたいとは考えていなかった。それは真犯人にはできないことである(この論理が理解できない)。しかし同年1965年4月30日、(全弁護士が)再任され、第二回公判以降は、弁護人は石川の無実を明らかにしていった。
公判は29回重ねられ、その間5回の検証、数回の被告人質問、のべ30人に達する証人調べ、血液型鑑定書などの証拠調べなどが実施され、昭和43年1968年11月14日の第29回公判で結審する予定だったが、その間際に、筆圧痕問題が発見され、被告人自らが描いたという図面が、実は捜査官がつけてあった筆圧痕をなぞって書いたものであることが暴露された。
感想 2025年2月2日(日)
時代の影響を感じる。悪く言えば60年代末からの一時期は、ファッショ的な時代だったと言えないか。また部落差別と冤罪とが混同されていないか。つまり、部落差別問題の方が大きく扱われていないか。石川さんは牢屋の中に閉じ込められた情報が少ない中で、外部の働きかけに素直に応ずるしかなかった。二度にわたる弁護士解任問題も、そこから生じている。石川さんは時代に翻弄されたともいえる。石川さんに限らず誰しも、時代に翻弄されるということは避けがたいことであるが。戦争中お国のために戦った多くの日本人もそうだったように。
文責を明らかにして欲しかった。悪く言えば文章に対して無責任がまかり通る結果になるし、逆に、個人名を記せば、却って筆者が尊敬されることにもなるのではないか。文章の中に誇張や論理の飛躍を感じる場合があるのだが。
昭和43年1968年11月26日の第32回公判で、筆圧痕に関する弁護人側の鑑定請求が採用され、弁護団は、昭和45年1970年4月21日の第36回公判から4月30日の第38回公判にかけて、無罪を改めて主張するとともに広範な証拠調べを請求した。この弁論を通じて弁護団は、「自白によって」発見されたとされる三つの物証の発見経過や、足跡の鑑定、筆跡の鑑定などのいずれもが、自白が虚偽であり、架空であることを裏づけていることを論証しようとした。
017 昭和46年1971年2月13日の第42回公判で、脅迫状の訂正箇所で使われた筆記用具が、ボールペンかそれとも万年筆であるかを明らかにするように求める弁護人側からの鑑定請求が採用された。それは後に秋谷鑑定となり、その鑑定結果から、自白の虚偽が科学的に暴露されることになった。(結局どうだったのか)
第36回公判から井波七郎が裁判長に就任した。井波は、弁護人に追及されて返答に窮した捜査側証人(当時の捜査官)を助けたり、被告人に不利な誘導尋問を行ったりした。一方、弁護団側は部落解放同盟の援助を受けて、6つの科学的鑑定書を作成した。井波は「自分が(有罪)判決したい」と言ったが、弁護団側は6つの鑑定書の証拠調べを請求して、死体鑑定作成人の上田教授の証人採用を迫り、「自分の手で(有罪)判決をしたい」という井波の陰謀は許さないと決意した。井波は「鑑定人の証拠請求はしないはずだった」と抵抗したが、結局世論に押されて上田証人の採用を決定した後の昭和47年1972年9月1日の第68回公判を最後に退官した。
この後に裁判長になったのが寺尾正二である。寺尾は昭和48年1973年11月27日の公判から裁判長を勤めたが、この日寺尾は開口一番、被告人に向かって「健康状態はどうですか」とやさしく問いかけ、「審理が長時日にわたることが予見される」からとして和田啓一裁判官を補充裁判官に就かせた。また寺尾は弁護団を判事室に招き、「弁論は立派だ。また鑑定はこれ以上のものは考えられない」と褒め上げ、弁護団の追及の手を緩めた。そして弁護団もせっかく勝ち取った前述の上田証人の採用を取り消すことを当然のこととして受け入れた。
018 そして寺尾は、一人の証人調べもせず、一度も現場検証もせず、(就任半年後の)昭和49年1974年3月22日の第75回公判で、最終弁論期日を指定した。その後弁論は1974年9月3日の第76回公判から第81回公判まで、これまでの証拠調べ、特に秋谷鑑定など6つの鑑定を中心に、無実を科学的に明らかにするとともに、本件が部落差別に基づく権力犯罪であることを論証した。
弁護団、部落解放同盟、労働者・学生・市民は無罪判決を信じていた。ところが寺尾は(就任1年も経たない)1974年10月31日に、無期懲役を言い渡したのである。
弁護人数は200名、上告趣意書は150万字に及び、多くの人達が寺尾判決に憤激した。「狭山闘争」は幅広い国民の支持を受け始めた。
019 全国の学者、文化人、労働者、市民、学生は、最高裁が口頭弁論を開き、弁護人の提出した新証拠である、死体、足跡、筆跡、スコップの土壌、筆圧痕についての鑑定書を証拠として調べ、弁護人の弁論を法定で直接聞き、原判決の誤りを指摘するよう要請している。
第一部 獄中日記
023 「石川一雄君との出会い」 狭山事件弁護団事務局長 山上益朗(1928--2003.12.10享年75歳 1981年、故・青木英五郎弁護士の跡を継いで主任弁護人となった。― 解放新聞2003.12.22-2150)
1970年春、山上益朗は部落解放同盟の推薦を受けて石川を弁護をするようになり、面会に行った。その時石川は、関源三のことを問われると「関さんは知ってくれていると思いますね。一緒に手をとりあって泣いちまったもんね」と言って顔を赤らめたという。
024 また石川は「関さんが万年筆を置いたとは思いませんね。だって関さんは野球もよくしてくれたし、よっく世話してくれてたんですよ」と言う。そして山上との話の途中に「その点は、先生、誘導じゃないですよ。自分で考え出して言ったと思うね」とも言う。つまり、石川は無実の立証に役立つものなら何でもいいという態度を取らなかったのである。
025 しかしそういう人のいい石川も、二審寺尾判決の法廷では、立ったまま「そんなことは聞きたくない」と抗議した。
026 獄中日記 1965年9月――1966年3月
047 1969年4月――1970年3月
047 1967年10月1日の第29回公判で事実調べが終わり、最終弁論の期日が決められたが、その後の最終弁論の準備中に、中田主任弁護人が、石川君の書いた「自供図面」に筆圧痕があるのを発見し、最終弁論は中止され、1967年11月14日の第30回公判での石川君に対する尋問で、筆圧痕をなぞって図面を書かされたという、自白誘導の手口が明らかになった。
次の第31回公判で取調官の青木警部と遠藤警部補の証人尋問を行ったが、二人は筆圧痕をなぞらせて自白図面を描かせたという誘導を強く否定した。そこで図面についての検証と鑑定を行うことが決定された。
その後、鑑定人選びや鑑定作業が続き、また、裁判長が、久永、津田、江崎、井波ところころ変わり、裁判は2年近く足踏みした。
048 1970年4月21日、江波裁判長の下で審理が再会された。
この間に、弁護人は関西の和島、青木弁護士等、全国から多くの弁護士が参加した。運動面では1967年に「石川一雄君を守る会」が結成され、1969年70年、部落解放同盟が全国運動を開始した。筆跡や死体等に基づく無罪立証方針や、捜査・自白をめぐる部落差別に関する権力や裁判のあり方を問う方針が採択された。
049 1969年4月1日(火) 「狭山事件を守る会」の会員からの差し入れに感謝。
050 1969年4月11日(金) 当時の私は、どうしても中田善枝さんを殺して背負わなければならなかったのだ。おそらく、私ではなく誰であっても、あのようにされたら、警察官の言う通りにならざるをえなかったであろう。
兎に角、口では言い表すことの出来ないようなことをされたのである。
051 4月17日(木) 八海事件
大阪のMさんは尼崎工業高校の教師で、「尼崎工業高校教育ジャーナル第11集」の中で、八海事件裁判の杜撰さを取り上げるとともに、無実を訴える石川一雄の手紙も掲載したが、その書籍を石川に郵送した。
大阪のMさんが、私が無実を訴えていることを知ったのは、日本国民救援会中央本部会長・難波英夫先生が「死をみつめて」という本の中に、私の訴えを載せて下さったので、知ったとあった。
狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977
053 「弁護士は嘘をつくが、警察官は嘘をつかない」と言って、弁護士に対する不信感を植え付けて自らの方になびかせた上で、「殺人を認めれば10年で出してやる」と騙して殺人犯に仕立て上げ、挙句の果てには死刑判決に導き、公判では「10年で出してやる」なんて言っていない、とうそぶく長谷部梅吉警視に対する憎しみがここに現れている。
055 4月20日 私は中田善枝さんを殺していないのであるから、裁判が長引こうとも死刑はぜったいにないし、…
056 4月21日 母とは6カ月ぶりに、弟の清と2年ぶりに会った。妹の美智子から預かったという1000円を受け取ったが、返金するつもりだ。
057 無実の一雄が死刑になるはずがない。
061 5月14日 各棟には何舎という号がついているが、それを記することは禁じられている。
私の独房だけに鉄の網が窓に張り巡らされているが、雑居房にはそれがない。浦和拘置所でも網はなかった。
062 雑誌を外部に送ることを禁じられている。宅下げもできない。
救援会長の難波先生が『前衛』6月号を送ってくれた。
4月30日に雑誌『部落』を送ってくれた某氏が面会に来てくれるとのことそして彼は私の姉一枝に会い、私が塩焼きせんべいが好きなことを知って塩焼きせんべいを送ってくれた。
064 6月26日 石田弁護士が面会に来た。10分後に中田弁護士もやって来た。
白鳥事件の例もあるので安閑としていられない。
064 白鳥事件の被告村上国治 無実の罪で20年の刑で服役中 弾丸は1年以上土の中に埋もれていれば腐る鑑定 検察が証拠として保管している弾丸は新品の弾丸であったのに、再審を棄却した。
7月27日、28日長野県と兵庫県で大会があり弟の清が出席し私の事を訴えてくれることになっている。
066 難波英夫日本国民救援会中央本部会長に手紙を送る。
無罪の暁には、私と同くする冤罪の方々の力になってあげよう。
067 姉一江と妹雪江が面会に来るが、雪江の子どもは入れたが、姉の子どもは7歳で面会を許可されず表で待たされている。
073 私には過去は無いんだ、私にあるのは今日と明日である。さあ、今日も元気でがんばろう。勝利へ向かってはばたこう。
068 青木英五郎、沢田脩、熊野勝之、原滋二各弁護士から葉書が来る。
070 東京拘置所では今日購入しても手元に来るのはその日ではない。中一日おいてくる。腹が減っても間に合わない。
071 本『橋のない川』をいただく。
私は長谷部梅吉のために一切自由を奪われ、寝ても起きても監視の中にさらされている。
日記帳の郵送にはその前に検閲期間が4、5日ある。
死よりもっともっと苦しい獄の日々、私は怒りを押さえて獄中の日々を送っている。
072 弁護士が言うには「裁判長がまた代る。これで5人目である。無実であるいくつかの証拠が出てきた。現在鑑定中の図面如何で、一枚でも二重であるという図面の鑑定が出てきたら、今の裁判を打ち切って判決へ持って行って無罪は間違いない」と言う。
殺害された状況等、図面に書いて示せ、等と責め立てられたが、中田善枝さんを殺していない私は、書いて教えることはできなかった。すると警察官が自ら、先に二枚の紙を重ねて書いて、その下に薄く映った跡へ、私に書け、と言われて書いた図面であるから、二重になっている線はあきらかであり、随って鑑定の結果を待つ迄もないが、肉眼で分かっても、鑑定はやらざるを得ないそうだ。
073 大阪部落解放研究所から「差別、牢獄の中より兄弟に訴える」と題して寄稿依頼がある。
081 「現地調査」に愛媛県から学生二人がやって来て、石川宅で泊った。9/16
082 ひんやりとした窓辺によって、無心に虫の音を聞いていると、心の底から自分の味わっている、惨めな月日に対する怒りと悲しみに震えてくる。9/18
083 権力によって奪われた自由、この自由を取り戻すことが私に与えられた仕事であり、使命でもある。9/20
085 差し入れで、食糧以外の金銭などは、その日うちに手元に届かない。「本部」に善処をお願いしよう。9/24
085 9月25日に面会に来た姉の高松一枝が、日刊スポーツ新聞を差し入れてくれた。9/29
086 家にいる時は自由に寝たいときには寝られるのに、ここでは勝手にできない。少々の風邪くらいでは横になることを許してくれない。9/30
089 目はよくなったが、眩暈(めまい)10/5がした。10/7
090 日記帳は書き終わると手元に置いておくことができない。10/7
091 石川一雄さんは結構短気だ。「いい加減な住所を置いていくような人とはもう会いたくない」などとその相手に言っている。実は転居して郵便が戻ってきただけなのに。10/8
感想 この日記は1969年に書かれた部分を読むと、逮捕から6年しかたっていないのに、逮捕当時の小学校1年生程度の日本語文字能力が信じられないくらいに上達している。漢字もふんだんに使っている。びっくり。字引はいつも座右に置いておけるようだ。それに執筆時間がすごい。朝の8時から夜の9時まで書き続けている。それも洋式トイレの便座に腰かけて流しを机代わりに猫背で書いているようだ。悲惨
130 年賀状が300通も来る。1969年の頃は部落解放同盟や共産党も支援していたらしく、石川さんものんびりして居られなかったようで、毎日手紙の返事を書いている。1970/1/1, 1/3 共産党からは雑誌『前衛』が送られて来る。
133 視力が悪くなったのに、眼鏡も買えない。悲惨。
134 「死にたい」、周囲の激励、真実を明らかにするまで闘うという気持ちが混在している。
134 三鷹事件の竹内は獄死した。「竹内のようになってはならない」と支援者に励まされる。
135 監獄は不都合な部分を他人の日記だと言うのに検閲して消去している。135頁では440字、138頁では500字、141頁では何字消されたかは書かれていない。
147 また拘置所は事件については面談のときに話すなという、これはおかしい。
147 東島明という人物が出て来るが、どういう人物なのだろうか。不明。友人とのこと。
148 「領置」といって、品物が届いてもすぐに手元によこさず、検閲しているらしい。例えば運動のビラなど。
154 眼鏡を部落解放同盟から買ってもらう。
156 冬でもマフラーや手袋は不可とのこと。非人道的。
狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』三一書房1977
ネット「狭山事件と救援会」1995年3月 日本国民救援会中央本部 zir.sakura.ne.jp
概要 石川一雄が解同や中核派などに扇動され、中田直人弁護士らを公然と批判するようになり、中田らは弁護活動から手を引かざるを得なくなった1975.2らしい。だからそれまでは解同と中田弁護士らは、共に石川一雄を支援していたことになる。本書掲載の日記が書かれたころ、1965年66年と1969年70年は、65年は中田らだけが支援していた時期であり、69年は、両者と国民救援会も加わって三者が支援していたことになる。
救援会中央本部の難波英夫会長は、解同東京都連会長でもあった006。1968年3月、川越市での「狭山事件の真相を聞く会」に難波英夫が迎えられた。その後「守る会」1968.3も各地に生まれるようになった。002
年表
1968 1963年の5年後に国民救援会が石川支援を開始。
1969.3 解同が石川裁判を(単に冤罪事件ではなく)「差別裁判」と規定し、石川事件に対する方針を変更。それまでは「本人が自白を維持している」と中田からの支援要請を拒否していた。そしてこの1969年3月の解同全国大会で、共産党代表の挨拶を拒否した。
1973 石川が中田弁護人を拒否。
1974.11.22 八鹿高校事件
1975.2 救援会や守る会は石川支援から手を引いた。そのまま現在に至っているのだろうか。
感想 2025年1月31日(金)
1965年と1969年の日記を比較すると、1969年には外部の支援団体関係者との接触が頻繁に行われ、石川が面会や礼状書きなど多忙になったことが伺われる。つまり1969年には、主として解放同盟の働きかけが活発になったことが分かる。
石川一雄さんの性格 石川さんの日記を読んでみて石川さんの性格を判断すると、石川さんは律儀で、悪く言うと固くて融通が利かない生真面目な感じを受けた。おそらく根が真面目なのだね。
獄中の努力は、苛酷な環境でありながら、超人的である。1965年の日記でも、すでに漢字を交えた文章を書けるまでになった。つまり1963年の逮捕時には、殺人を否定する調書で見られるように、ほとんど漢字を書くことができなかったのに、わずか1、2年で、漢字交じりの文章を書けるまでになったとは驚異的である。そして1969年の頃は、洋式トイレの便座に腰かけて流しに向かい、背を曲げながら書くという不自然な姿勢で1日中書き物をし、目を悪くするほどであった。
注 022によれば、編者が「石川の日記の誤字を訂正し、脱字を埋めたところもある」としている。また本書で掲げた日記は、中田直人前主任弁護人の元にあったものである。日記は他にも拘置所内にあるが、拘置所外に出すと、拘置所が墨で消去するので、持ち出していないという。
無罪証拠
171 石川が少女を連行したとされる農道のすぐそばの畑で、二人の農民が農作業をしていたが、その二人は被害者と犯人が通りすがるのを目撃していない。自白調書の不合理性。
石川が牛乳を買ったとされる駅前のすず屋の女主人は、「石川君に牛乳を売っていない」と証言している。自白調書の矛盾。
石川が描いた図面による犯行経路では、張込みの警官と4か所で遭遇することになる。自白調書の不合理性。
身代金を要求した佐野屋付近の現場に残された足跡の位置も、自白と一致しない。自白調書の矛盾。
上告趣意書で、現場の足跡は十文三分であるが、石川宅から押収された地下足袋は、九文七分で一致しない。(井野鑑定書)自白調書の矛盾。
172 自白調書では、脅迫状の訂正(「五月二日」「さのヤ」「中田江さく」)をボールペンで行ったとされるが、二審の秋谷鑑定書は、「訂正部分はインクによるもの」であることを明らかにした。自白調書の矛盾。
自白調書では、誘拐身代金略取の動機としての競輪の金欲しさから、誘拐金20万円を算出しているが、石川は競輪で、月3回、1回2000円くらいしか使っておらず、それは自分の収入で賄える額である。自白調書の不合理性。
173 誘拐身代金略取の動機としての父親への借金が、7万円7/2から、7/6には、いきなり13万円に変更になっている。また父親は借金の返済を求めていない。自白調書の不合理性。
また7月6日付の自白調書で、誘拐身代金略取の動機が、競輪の金欲しさ6/24から、父親への借金に豹変している。自白調書の不合理性。
「善枝ちゃん187, 182, 188, 189, 190, 192, 198, 206, 207, 210, 213」「善枝さん204, 208」の呼称の揺れ。同一人物に対する呼称が変更するのだろうか。不思議。自白調書の不合理性。
警察・検察による犯人でっち上げ工作 詫びの落書きや手紙、関源三宛手紙
220 検察の嫌らしさ 二審で検察は、石川の関源三警官宛の手紙を証拠として突然提出した。石川が殺人を反省・悔悟し、警察を信頼しているという証拠としてである。
219 警察(河本検事)は、「父親が『中田家に詫びに行くからお前も書け』と言っていた」と嘘をついて、石川に、中田栄作宛ての詫び状を書かせた。これは有罪の証拠固めである。
217 長谷部梅吉警視が、石川に「善枝ちゃんに詫び状のしるしがあるか」と挑発し、石川がそれに乗ってないのに「ある」と言い、「狭山署の留置場の便所の上に詫びの文句の落書きをした(書いてきた)」と事実とは違うことを言った。
218 そこで川越署では(長谷部に叱られると思って)詫び状を書いた。そのとき長谷部に、切り絵で「中田」の書き方を教わった。(「中田にしエさんゆヨしてください。」1963年7月9日川越警察署巡査 村松定夫撮影)
168 本書の著者は、裁判での自白調書の信頼性の根拠を列挙している。
1 自白が物証・客観的事実と整合している。これも警察が自由に捏造できる。
2 自白が、真犯人しか知ることが出来ず、第三者は知ることのできない事情をのべているか。これも警察が捏造した例がある。
3 自白に「重要な事実」を述べていないところがないか。
4 自白に変遷がないか、首尾一貫していないか。
5 自白に矛盾がないか。
6 自白に社会常識に反した不合理や不自然はないか。
第三部 自白はいかになされたか
229 萩原佑介氏宛書簡 1965年11月22日、p. 240の日付は1966年2月22日となっていて矛盾している。いずれにしても二審開始1964.9.10の1年あるいは1年半後の書簡。自白に至る詳細が書かれているが、分かりにくい。
萩原佑介 亀井トム『狭山事件 権力犯罪の構造』によると、
萩原佑介は事件当初から石川の救援に奔走した川越市在住の部落民である。
1963年7月、被害者の家族である中田家を訪れた池田首相夫人に対して抗議文を送付した。
1963年11月、警察による拷問を(内田武文)裁判長に具申した。
1964年3月、浦和地裁判決3/11を前に、東京高裁に対して「人身保護、判決言渡執行停止、身柄釈放」という訴えを起こした。
1964年12月、上田埼玉県警本部長を「不法逮捕、拷問、脅迫、自白強制、傀儡証人偽証使嗾(しそう、指図)、部落民虐殺謀略」等で告発した。
1965年3月、国会裁判官訴追委員会に、内田武文一審裁判長の「罷免訴追請求状」を提出した。
230 逮捕されるまでの行動
私は昭和14年1月14日生で、現在26歳である。(このことから本書簡を書いたのは昭和40年1965年となる。従って1965年11月22日に書かれたのが正しいのかもしれない。)事件当時は24才であった。
1963年昭和38年5月1日、父には「仕事に行く」と嘘をつき、五目飯の弁当を持って午前7時20分ころ家を出て、入間川駅に行き、同7時28分発の急行西武新宿行きに乗り、西武園で下車し、2時間余暇を潰した。その後、所沢へ行ってトーバクでパチンコをやり、午後2、3時ころ入間川に戻った。余り早く帰ると父がうるさいので、貨物小屋(通称荷小屋)で2、3時間遊んでから帰宅した。飯を食べて風呂に入り、テレビを見て午後10時ころ就寝。しばらくしたらあんちゃんが単車に乗ってずぶ濡れで帰って来た。
貨物小屋にいる時の午後4時ころ、中学生と思われる男女20人くらいが、それぞれ自転車に乗って、私の家の方に行くのを見た。また午後5時ころ、正確には電車が出た午後4時59分に、石田豚屋さんの車が残飯を積んでジョンソンの方から私の家の方へ行くのを見た。私が石田さん方で仕事をしていた頃は、土日以外は、5時ころ上げて来たことは一度もなかったので、今では変だと思う。
5月2日、朝起きて犬小屋を拵えていたら、家の前の○○さんがやって来て映画を見に行こうと誘ったので、午後1時ころ、3人で入間座に行った。こまどり姉妹の『未練』と、もう一本を見て、午後6時に映画館を出た。こまどり姉妹の『未練』は可哀想で泣けちゃった、とお母ちゃんにも勧めた。10時就寝。10時半ころ兄が帰宅。
231 3日、○○日で勤め人が休みなので、午前中、入間川小学校で野球をし、午後から兄のコンクリ(家の造築)を手伝う。
4日、午前9時ころ近所の人達5、6人と入間川に釣りに行った。午前11時頃帰宅途中で、○○おばさんが「入曽の山で女が殺されているとよ」と言ったので、私は○○さんを自転車の荷台に乗せ、○○さんは○○さんを乗せて行こうとしたら、また○○おばさんが、「入曽の山ではなく、四本杉(通称茂さんの山)の方だよ」とのこと。行ってみると黒山の人だった。午後1、2時ころになっても土を掘る様子もないので、一旦家に帰り昼食を済ませてからまた見に行った。しばらくして死体を掘り出したが、死体は布などがかけられて見えない。そこで死体の穴を見ようとサクをくぐって穴に近づいたら、刑事さんに「ここの畑は君の家のか」と言われたので、「違います」と答えたら、「それではサクから出ろ」と叱られたので、仕方なく帰った。
5月12、13日ころ、兄と○○さんの家の仕事をしていたら、父がやって来て、私に「石田豚屋の○○さんが警察に連れて行かれたとよ、一雄は5月1日は何処の仕事をしてたっけ」と聞くので、しかたなく「弁当持って遊んでいた」と答えたら、父から「一雄も○○さんの所に半年もいたのだから、警察で聞きにくるかもしれないから、来たら兄ちゃんの所で仕事をしてたと話とけ」と言われた。
突然の逮捕
232 昭和38年1963年5月23日、午前4、5時頃、裸で寝ていたら突然布団をまくられてびっくりしたら、警察官に変な書類を見せられ、手錠をかけられ、狭山警察署に連行された。善枝さんを殺したのは私だと言われたが、勿論知らないと答えた。
数日後に捕まるまでに、これまでの悪いことを全部話したが、一件だけ、どうしても話すことができなかった。それは三人でジョンソンのパイプを盗んだことである。この事を話すと後の二人には子どもさんがいるし、私が警察を出てからおっかない○○さんに殺されるのではないかと恐れた。
同日頃、見知らぬ刑事さんが、市長さんが会いたいからと、呼びに来た。いつも取り調べられる部屋に行ったら、市長さん一人がいて、私にこう尋ねた。「わしは狭山の市長だが、君は石川一雄君かね。石川君は中田善枝さんを殺したのかね。もし殺したのなら、わしに話してくれないかね。家の者にはわしからようく伝えてやるからどうだね。」と、10分くらい話した。私は殺していないことをきっぱり言いました。そしたら「本当に殺してないのだね」と言いながら出ていった。その人の特徴は、眼鏡をかけ50歳くらいで、背丈が大きく、面長で、優しそうな方だったと思う。
6月5日、弁護士さんだという人に会った。この人も「善枝さんを殺しているのなら話してくれ。わしは弁護士だから誰にも言わないから教えてくれ」と言ったが、勿論殺してないことを言った。
また同日頃、いつも調べに当たっていた刑事さんとは違う人が、三人で調べた。顔に傷のある人が私の肩を叩いたり、髪を引っ張ったりしながら「石川、お前が善枝を殺した事くらいは、とうの昔に知っているのだ。だが、石川が殺したと言ってくれれば、罪が少しはかあるくなると思って甘く見ていりゃーいい気になりやがって、この野郎不逞野郎だ。」と怒鳴りながらやられた。
また同日ころ、いつものように尋問されていたら、知らない刑事さんが「石川君、噓発見器が来たのでかかってくれないか。この器械にかかれば、石川君が殺したか、殺していないのか、すぐわかる」と言うので、私は喜んでかかった。そして数日経って、その発見器の先生が来たので、「わかりましたか」と聞くと、「もう一度かかってくれ」と言うので、私は前に来た時すぐ分かるようなことを言われたので、頭にきて、そばにあった灰皿を先生にぶつけてやった。そしたら刑事さんは「今度は必ず分かる」というので、二度もかかった。
233 6月16日の夕刻、署長さんと関源三さんが会いたいというので行ったら、署長さんが、「石川君、関君も(石川のことを)心配して来たのだから、善枝さんを殺したと話してくれないか。私は狭山の署長だし、石川君も狭山なので、悪いようにはしないから(殺したと)話してくれ。それとも18日の裁判が済んでから話してくれるかい。今日話してくれれば、明日一日(取り調べないで)寝かしてやるから話してくれ」と言ったので、私は「18日の裁判が済んだら三人でのことを教える」と約束した。しかし翌日6/17再逮捕されて川越署に移されてしまった。三人のことを教えると約束したのは、どうせ分かってしまうので、ジョンソンでパイプを盗んだことを話してしまった方が良いと思ったからである。以上が狭山(署)での主な出来事である。
再逮捕され、川越署分室に移される
6月17日、川越分室に移され、一旦留置場に入れられてからまた出されて尋問された。
同日頃、長谷部さんにこう言われた。「(私が)石川君を殺してどこかの木の根にでも埋めて、お父さんには『うっかりして逃げられた』と言えば、我々は警察官だから『逃げられた』と言っても(警察官は)嘘をつかないと(お父さんは)思うだろうから、殺して埋めちまいましょう、遠藤さん」と言った。
そしてこの日の夕方からだと思うが約6日間、私は飯を食べなかった。
また同日頃、「裁判所からわざわざ来たのだから会え」と知らない刑事さんが言うので行ったら、裁判所の人が「石川一雄君だね。中田善枝さんを殺していますか」と言うので、「殺してません」と答えたら、「18日の裁判が済んだら三人のことを教える、と狭山の署長さんに(あなたが)約束した、と(署長から)聞いたのだが、その三人というのは何かね。私は裁判所の○○だが、(名前を承ったが忘れた)三人のことを話してくれないかね。」と言われた。私が「裁判所に連れて行ってくれるなら話す」と答えたら、「(三人で殺したというorパイプを盗んだというor裁判所に連れて行ってくれるなら話すという?)書類を出して名前と拇印を押してくれ」と言うので、押してやったら帰って行った。
234 6月23日、取調室に遠藤、青木、斉藤さんたちがいるところで、長谷部さんが、「石川君、いつまで強情張っているのだい。『殺した』と言わないか。そうすれば(殺したと言えば)10年で出してやるよ。石川君が(殺したと)言わなくても、(殺人以外に)九件も悪いことをしているのだし、どっちみち10年は出られないのだよ。(嘘)石川君は野球が好きだと聞いたが、刑務所でも(野球が)できるよ。それに字が書けないのだから、(字でも)大工でも習えるようにしてやろうか。そうすれば、(牢屋から)出たとき、兄さんと一緒に(大工仕事が)できるだろう」と言った。
私としても殺してはいないが、私の近所の人から「単車を盗んで(も)8年とか勤める」とか聞いていたし、9件も(殺人以外の悪事=軽犯罪を)やっているので、(殺人以外の罪で)10年も勤めるなら、殺したと言っても同じ(10年)ことだから、言おうか言うまいか、迷っていた。
そしたら遠藤さんが、「課長(長谷部)さんが10年で出してやると言っているうちに、殺したと言った方が良いど」と言ったら、長谷部さんが「我々は警察官だから、中田弁護士みたいに、『18日に裁判がある』などと嘘はつかないよ。(その18日というのは、狭山署にいる時、(18日に)窃盗等の裁判をする予定だったそうだが、再逮捕のためにできなかったことである)我々が嘘をついたら、すぐに首だからな。石川君、必ず10年で出してやるから、(殺したと)言ってくれ。」と言った。
そして知らない刑事さんが「課長(長谷部)さん、狭山の関部長がこちらに来るそうです。」と言うと、長谷部は「そうか、それでは石川君、関君に言ってくれ。男同士の約束だ。」と(長谷部は)私の手を握った。しばらくして関さんが「石川君、元気かい、今(狭山署の)署長さんから『この前(6月16日の夕方のこと)『18日の裁判が終わったら三人でのこと(殺したことと想定している)を教える』と約束しているのだから、聞いて来い』と言われたので、来たのだが、俺に話してくれ」と言いながら、いきなり私の手を握って泣きついたが、私は三人の事を話さなかった。そしたら関さんが「石川君、教えないなら帰るど」と立ち上がったところ、長谷部さんが、「石川君、殺したと言ってくれ。吾は必ず10年で出してやるからな。関君、(石川が)今話すそうだから待ってくれ。我々が(この場に)いては(石川が)言いづらいだろうから、外に出ましょうか、遠藤さん」と言って皆出て行った。そしたら(関は)また泣きながら、「石川君、殺したと言ってくれ」と(私の)手を握ったので、私もつられて泣いてしまい、入曽、入間川と私の三人で(善枝さんを)殺したと言った。(なんとまあ人のいい。これが分水嶺)またこのとき関さんは「入間川の人は(犯人だと)分からなかったが、入曽の人は私(石川)が捕まる前から(犯人だと)分かっていた」と(私に)教えた。(よくそんなウソを言えるものだ)
感想 2025年2月3日(月)
石川さんは人がいい。「殺人犯になってくれ」と泣きつかれ、殺人犯を引き受けてしまう。警察もあの手この手。「殺すぞ」という脅し、ヤクザ刑事による暴行、「殺人を認めれば10年で出してやる」という詐偽、最後は「殺人犯になってくれ」という泣き落とし。
235 6月24日、月曜日、長谷部さん達に尋問されているところへ、関さんが「昨夜は疲れたろう」と入って来たので、私が「昨夜自供中に入曽の人は(殺人犯人だと関さんが)すでに分かっていた」と言っていたが、今朝はもう捕まえて来たのですか」と尋ねたところ、関さんは「入曽の人は暫く泳がせておくのだよ。それより入間川の居所を教えてくれよ」と言うので、私は「俺に聞いても教えないよ。知りたかったら、入曽の人を捕まえて、その人から聞けばいいのに」と言ってやった。
以下、長谷部が犯人三人説を変えて、石川単独犯説を裏付ける自供をつくり始める。まずは鞄から。
そしたら、長谷部さんが「入曽も、入間川も教えなくて良いから、鞄のことを教えてくれよ」と言うので、狭山署にいる時に発見器にかかった際、先生に(被害者の)本が出た所の地図を見せられていたので、その山(の地図)を描いて関さんに渡した。そして関さんが探しに行ったのだが、長谷部さんが、「今関君に渡した地図のところで間違いないのかい。吾は本が出た所のような川にあるような気がするが(意味不明。山ではなく川の周辺だということか)、恐らく「見つからない」と関君が怒って来るど。もし「ない」と戻ってきたら、この川の所を(この時(長谷部は)狭山地図に指を指していた)描いてみないか」と言うので、(私は言われるとおりに)描きました。そしてしばらく経って(長谷部の言う通り)本当に「見つからない」とブツクサ言いながら関さんが戻って来たので、(さっき長谷部に言われた通りに描いた)二枚目の地図を(関さんに)渡したら、午後6時頃だと思うが、今度は「見つかった」と連絡があった。それで長谷部さんが「吾の勘は皆当たるのだから、嘘をついても駄目だ」と言うので、私は謝った(お人好し)。一度目に地図を描く時は青木一夫さんはいなかったが、二枚目(を描くときは)のときはいた。
次は万円筆
236 6月25日の火曜日の朝頃、
長谷部「石川君の家から万年筆が見つかったそうではないか。なぜ今まで(俺に)教えなかったのだ。」
私「本当に知らなかったのです。」
長谷部「…嘘をつけ。知らない物が見つかる訳がないだろう。(被害者の万年筆が石川宅の中から見つかったと)家の者に知れると石川君が困る(だろう)と思って、(捜査員はその万円筆を)ここ(警察署)に持って来てないそうだよ。石川君の友達で誰か家に上がれる人がいるかい。もしいたら、その人に持って来てもらいたいのだが、いるかい。」
私「私の友達はいないが、弟(清)の友達なら、忠男さんが、毎日遊びに来てたから、家の者に気づかれないように持って来られると思います」
長谷部「それで石川君は忠男さんを知っているのかい。」
私「親戚です」
関「忠男さんとかいう人は何処に住んでいるのだい。」
私「関さんの家の前の家です」
関「何だタマチャンのセガレさんか」と言って、関さんはどこかへ出て行ったようだった。
長谷部「善枝さんを殺してから、風呂場の方の入口から(自宅に)入った」と(石川が)言ったが、その時鴨居の上に置いたのではないのか。何でもそのあたりから見つかったと(捜査員が)言ってたよ。」
私「それでその時シキイ(鴨居)の上に五円のカミソリが20本くらいあったのですか。」
長谷部「そんなことは吾らには分からないが、(とにかく鴨居の)地図を描け」と言うので(私は鴨居の図を)描いた。
6月26日 単独犯決定、縄
長谷部「お寺の所で殺してから四本杉まで運んだのでは大分かかったろう、車で運んだのかい。」
私「入曽や入間川から何も聞いてないから分からない。」
長谷部「いつまでそんなこと(三人の共犯)を言っておると、10年で出してやらないよ。吾が裁判所で死刑にしてくれと頼めば、すぐ死刑にされるのだよ。嘘だと思うのなら、遠藤さん達に聞いてみな。」
遠藤「石川君、死刑にされて良いのか、いやだろう」
私は入曽や入間川の人も知らないし(これはおかしい)、教えることもできないので、「一人で殺した」と言った。そしたら長谷部さんは「吾も石川君が一人でやったと思っていたよ。そこで善枝さんの死体に縄などがついていたが、その縄をどこのを盗んで来たのか覚えているかい。吾は死体が見つかってすぐに、自殺した源さんの近くのだと分かったよ。吾の鼻は犬より良いからな、どうだい当たったろう。」
私「俺ら殺したときおっかなくて忘れちゃったんです。」
長谷部「なに、忘れた。自分で殺したくせに、忘れるわけがないだろう。よく考えてみろ。」と怒鳴ったので、私は泣いてしまいました。そしたら、「泣いていたのでは分からないではないか。」と長谷部に叱られたところへ、運よく関さんが「夕飯を運んできたので、寄ったのだが、家に何か言伝でもあるか」と入って来たので、助かった。
そこで私が長谷部さんに「関さんと二人だけで話したいことがあるので、出てもらえないでしょうか」と頼んだところ、案外快く受けて、皆外に出てくれた。そのとき私は関さんに「今関さんが来るちょっと前、『一人で殺した』と言ったのですが、死体に縄などがついていたそうだが、俺には分からないので、長谷部さんに、源さんの所の縄だと教えられたのですが、忘れたので分からないと答えたら、長谷部さんに怒鳴られたのです。関さん、縄が何処にあったのか、知っていたら私を助けると思って教えてください。」と頼んだところ、関さんも分からないそうで、長谷部さん達の言う通りにした方が私のために良い」と言うので、私もそうすることにした。
そこでしばらくして皆が入って来て、長谷部さんが「関君どんな話をしたのだい。我々に分かってはまずい話だったのかい。」関さんは「別に」と言って帰った。
長谷部「縄のことは後でいいから、先に吾の鼻の良い所を見せてやるから、そこにある湯呑茶碗を五個とも盆の上に載せてくれよ。そしたらその中の一個だけ指一本で(石川が)触ってくれないか。そして吾が五分くらい涼んできて、もし当てたら吾の言う通り何でも聞くな。」と外に出たので、私は五個の中の一個を動かさぬように触った。そしてこの触った湯呑を、青木さん、遠藤さんに覚えてもらった。長谷部さんはしばらくして入って来て、犬みたいに鼻をならしながら、一個ずつ嗅いでいたと思ったら見事当ててしまった。そこで遠藤さんが、「課長(長谷部)さんには嘘をつけないことが分かったろう。だから、課長さんは鞄も縄も当てたのだ」ということで、私も「源さんの所の縄だ」と言った。
感想 脅しとトリックの呪縛。自白したのは「人がいい」からだけではない。「あのような状況に置かれたら。誰もが自白するだろう」と、本人も言っている(獄中日記)ように、生易しい取調べではなかったことが想像できる。殺すという脅し、顔に傷のあるヤクザ風情の刑事が暴言とともに髪の毛を引っ張るという暴力、1週間ハンストをしたくなるような不味い飯。本人も「午前2時まで取り調べられた」(狭山事件の真実)と言っているように、まる一日中と思われる長時間にわたる尋問は、「今日自白すれば、明日はのんびりさせてやる」という刑事の言葉からも想像できる。一方、旧知の関を動員して和ませ、泣きを入れる。実に巧妙な犯人づくりである。
238 腕時計
6月27日、誰が尋問したのかは忘れたが、某警官が「善枝さんの腕時計は何処に捨てたのか」と問いただしたのに対して、私が「質屋に入れた」と言ったが、信用されず、「田中へ捨てた」と言ったら、「地図を描け」というので描いた。
そしたら翌日の夕方だと思うが、知らない刑事さんが「課長(長谷部)さん、時計が見つかりました」と言って持ってきた。私が長谷部さんからその腕時計を借りてはめて見たら、私の腕にピッタリ合ったので、「善枝さんも案外太かったのだな」と私が言ったら、遠藤さんが「石川君が殺したのではないのか、殺した人がそのようなことを言えば、笑われるど」と言ったので、皆で大笑いした。
以上が川越での出来事である。先ほど「一人で殺した」と言ったが、その際に「四本杉で殺した」と話したことを書き落としていた。
内田幸吉様
(内田様は)地裁で、私石川一雄が、「善枝さんの家を尋ねるために拙宅(内田宅)へ寄った」と証言をなさったが、私に何の怨みがあってそのようなでたらめを言ったのですか。それとも実際に誰かがお宅に寄ったのですか。そんなはずはない。多分警察に頼まれて、私が貴宅へ寄ったと言ってくれと言われたのではありませんか。それとも今まさに流行している、いわゆる消防団自らが、人の家に火をつけて、それをいかにも自分で見つけたようにして、表彰されるというようなことをしたのでしょうか。そうでしたら、私は善枝さんを殺していないのに、(死刑となって)殺されそうなのでお助けください。またあの当時、私は知らないと言えばよかったのですが、警察の人が10年で出してやると言っていて、10年で出れば35歳で出られるので、(内田様は)何をでたらめを言っているのだ、くらいに思っていたのですが、今は内田様の真実の証言を待つばかりでございます。
以下16行、拘置所から日記を宅下げする際に切り取られている。
萩原様
239 私に代って、地裁の内田武文(裁判長)を綿密に調べた上で、裁判を起こして私同様に死刑にして下さい。その理由は次のとおりです。
簡単に(単に)、私は、死刑を言い渡された時に、「善枝さんを殺していない」と即時に訴えればよかったのですが、長谷部課長さんが「10年で出してやる」と約束していたので、(死刑判決を下されるとは)まさかと思いました。また私は長谷部さんが裁判長より偉い方だと思っていたので、必ず10年で出してくれるものと信じておりました。ところが私が拘置所に帰って来ても笑っていたら、同房の人が「石川さんは今日死刑にされたそうだが、おっかなくないのかい」と言うので、私が「警察の人が10年で出してくれるから平気だ」と言った。そしたら同人が「10年だなんて、嘘だよ。死刑にされちまうど。俺たちが嘘だと思うなら、明日運動に出たら聞いてみろ」と言うので、翌日皆に聞いてみたら、「本当に死刑になる」と言うので、運動の際、霜田区長さんに皆に言われたことをありのまま話したら、「そんなことはない」と言いながら、私に死刑だと教えた人が4、5人、転房されてしまいました。だから同房の人が「そうれ見ろ、刑務所と検察官とはぐるだからな」と言うので、「それなら東京(高裁)へ行って、警察に騙されたことを言うから、○○さん達も、(拘置所を)出たら、俺の裁判を見に来いよ」と言った。こうして私は無実を訴えるようになったのでした。
また内田武文は、私が中田善枝さんを殺していないことを知っていて、警察とグルになって裏で小細工をし、いかにも私の自供に基づいて(被害者の所持品を)何でも見つけたように見せかけたこと(の嘘)がばれてしまった。また私は川越署では口では表せられないほどひどい目に会いました。萩原様はご存じだとは思いますが、国民の皆様にこの文面を見せてください。そして武文を絞首台に上げてください。また長谷部、関の両人も、死刑にしてもらいます。この二人は私が出てからやりますから、取り調べに当たった人の写真を全部送ってもらいたいのですが、警察に頼んでみてください。内田武文は是非死刑に。(この手紙を)出来たら父にも見せてください。なお、内田武文の書面の理由が分かりませんでしたら、御面倒でもお手紙ください。説明します。
昭和41年1966年2月22日午前7時発
石川一雄
萩原佑介様
感想 2025年2月4日(火)
内田武文一審裁判長や、長谷部、関を死刑にしてやる、という発言には、当局もビビッてどんなに無罪でも出したら危険だと思った可能性は否定できないのでは。
浅田善之助氏宛書簡(1970年9月24日)
浅田善之助 1969年以降、(解同の)中央執行委員長として「狭山差別裁判糾弾要綱」を決定し、「狭山事件の真相」「狭山差別裁判」などを発行。
1 関源三巡査について
242 事件以前のつき合い関係、知り合いになった経緯
244 どのようなことから関源三巡査を信用するに至ったのか
245 関源三巡査と(に)嘘の自白をするに至った事情
246 6月23日、関は「石川君、打ち明けてくれ、善枝さんを殺したのだな、話してくれなくてはわしは帰ってしまうぞ。それでもいいかい」というようなことを、(私の)手を取って涙を流して申すのでした。
私が「三人でやった」と関に対して初めて認めると、関は「他の二人は何処に住んでいるのか」と尋ねたので、私がいい加減に「入曽と入間川」と答えたら、関は「わしもその入曽の人が、石川君が捕まる前から臭いと思っていたし、課長さん(長谷部)達、きっと石川君が犯人だなんて思っていないと思う。石川君が法廷に出ている時に(その入曽の人を)捕まえるのではないかな」などと、私の方こそびっくりするようなことを言った。それで私は、もしかしたら警察が真犯人をすでに知っているのかと思ったほどだった。
感想 関はすごいペテン師。石川に殺人を自白させておきながら、石川が犯人ではないなどと言う。
翌日の6月24日、関に「入曽の人の居所を確かめたのですか」と尋ねたら、「昨夜は入曽の人が真犯人ではないかと思うと言ったが、石川君が入間川の人のことを言ったので、その人のことを聞いてから捕まえるつもりでいる」と言う。
またそのとき側で聞いていた長谷部は、「私は(殺人を)認めなくては殺すなどと言っていない、他の人に聞いてみろ」と言い(とぼける)、他の刑事たちも「そんなことは言わない」と口を合わせてしまう。
その後の取り調べはまるでデタラメだった。「殺人を認めたのだから、善枝さんの鞄などの捨て場も知っていないわけがない、自分の思うところの図面を描いてみろ」とか、狭山市の地図を前に出して、「この辺を地図にしろ。」(と警官の方から場所を指定する。)私が書けないでいると、「死刑にされるかもしれないぞ」と言って無理やり描かせた。教えてもらった場所の図面を書いて渡したら、30分ほどして、「発見された」と電話で知らせて来たので、さらにびっくりした。
私も(警察の責め苦に)忍耐しきれない頃に、どうせやったと言わなくてはならないのなら、少しでも(人柄を)知っている関さんに言ったほうがいいと思った(心理的にすでに警察の虜になっている)。その後脅かされながら、一人でやったことにされてしまった。
警察は私に図面を書かせ、他の調書もある程度揃うと、今まで以上に高圧的になり、私が質問に「わからない」と答えると「いつまでも世話をやかせると、裁判官に頼んで死刑にしてもらう」と言って脅した。
248 一審判決後における関源三巡査との関係について
浦和拘置所にいるころ私は、読み書きが全くできず、関からの手紙への返事は、担当看守の森脇に書いてもらった。(となると221頁の関宛の手紙は、自分で書いたのではないのかもしれない。)
東京拘置所へ移されたのは昭和39年1964年4月30日で、同年9月10日の二審第1回公判で無罪を訴え出した半年後には、関からの書簡は全く来なくなった。
関は一審第一回公判後以降、手紙だけでなく、食べ物や衣類、そして金まで送ってくれた。
2 萩原佑介氏との関係について
249 1964年9月10日の二審第1回公判の10か月後の、昭和40年1965年3月26日、全弁護人を解任し、その後再度選任したが、それには萩原佑介氏の影響がある。
萩原佑介氏は二審第1回公判の1か月前の1964年8月に、東京拘置所に訪ねて来た。
萩原氏とは昭和41年1966年12月ごろから昭和45年1970年3月までの3年半の間、全く音信不通であった。
250 弁護士を解任するに至った動機と萩原佑介さんとの関係について
私は東京高裁で弁護人全員を解任したが、萩原さんから直接解任するように言われてはいない。萩原さんは、無能な弁護人がほとんど「ためすことなく」、警察や検察のペースにはめられたと看做し、私の家を訪れて父に弁護人の解任を勧め、父は考えを変えた。父も私もまた他の家族も、弁護人の役目や弁護人の良し悪しの判定法を知らなかった。私は(弁護士に対する)警察官の介入や中傷のために、弁護人は嘘つきだという印象を持っていたので、父親が「解任しよう」と言ったとき、私は反対しなかった。私は弁護人の職務とは何かについて、ほとんど知らなかった。私は父親に勧められるままに、解任のための上申書を裁判所に提出した。確かに私には弁護士に対する漠然とした不信感があった。また萩原さんには悪意はない。
感想 2025年2月5日(水)
無知、お人好し。解任後他の誰かを選任したのだろうか、それとも弁護士自体が不要だと考えていたのだろうか。
現在の萩原さんとの交渉について
萩原さんとの交渉は1964年8月から1(2)年間続いた後の、昭和41年1966年12月ごろから途切れていたが、本年1970年3月ころから手紙が来るようになった。
本年3月以降の萩原さんは厳しくなり、裁判長に対する無罪判決要求や、現在の弁護人の活動に対する非難などがほとんどであり、裁判所に提出した、私の釈放要求や無罪判決要求などを送付してきた。そして「現在の弁護人を解任しないと裁判に勝てない」と繰り返し力説している。
私は萩原さんの声援に感謝するとともに、全国民に対して私の事件の冤罪の真相が広められるようになったことなどを伝えたが、弁護人の解任については、できるだけ触れないようにしている。
以前萩原さんの勧めなどで弁護人を解任したが、そのことの意味を私は理解していなかった。私は解任後すぐ同じ弁護人を選任したが、そのときも私にしっかりした考えがあったわけではなかった。父が兄の六造に弁護士解任について話すと、兄はびっくりして私の所へ来て、「俺に相談もせずに解任した。中田弁護士たちを解任するなら、構ってやらない」と怒られ、私は板挟みで困った。私は1週間後に解任した弁護士たちを再任した。萩原さんとの文通が途絶えたのもこれが理由なのかもしれない。
3 弁護士との関係について
私は最初の別件逮捕のときから二審までを通じて、弁護士とあまりなじまなかった。
254 再逮捕された当時の弁護士に対する気持
私は当初弁護人が敵なのか味方なのかさえ分からなかった。
別件逮捕のとき、中田弁護人が、昭和38年6月13日ころに狭山署に訪ねて来て、「同年6月18日に裁判が開かれる」と教えてくれた。私は裁判所は正しい人のために味方になってくれるという印象を持っていたので、裁判所に、窃盗についてはありのままに話して詫び、中田善枝さん殺しの容疑については、はっきりと「私ではない」と申し上げ、そのことで受けていた警察による責められ方を申し上げようと期待していた。
しかしその裁判が開かれる前日の6月17日に、中田善枝さん殺しの容疑で逮捕状が出て、開かれる予定だった裁判はついに開かれずに終わった。私は失望し、かつ腹立たしかった。今にして思えば、再逮捕された容疑とともに最初の窃盗容疑などが併合され、まとめて裁かれることになったのでしょうが、当時の私にはそれが分からず、長谷部課長に訪ねても「俺たちはそんなことは知らん。弁護人が言ったことじゃないか」と取り合ってくれなかった。私は弁護人のいい加減な言葉を恨めしく思った。6月16日には狭山署の署長と関さんが見えて、私に刑事部屋で、「愈々裁判日が明後日になった」と言っていたのに、私は不信でならなかった。
255 その後川越署で私の善枝さん殺しの責めは続き、6月23日に関さんに「自白」をする少し前に、長谷部課長から、
「我々はお前を犯人と断定している。殺しを認めるまでは一歩も出してやらん。どのみち9件もの事件があるのだから、10年は出られない。どうだ、(殺しを)認めても全部の罪を合わせても10年で出られるようにしてやる。俺は中田弁護人とは違って嘘はつかん。中田弁護人は6月18日に裁判があると言っていたが、嘘をついたではないか。俺が嘘をつけば、警察官だから首になってしまうんだ。だから嘘はつけん。お前も(責められながら)いつまでもここにいたくないだろう。10年で必ず出られるように男同士の約束をするから、認めてしまえ。」
と言われ、なるほど中田弁護人は私に嘘をついた。弁護人なんて嘘つきだ、と思いこむようになった。そして常に近くにいる警察官の方が(弁護士よりも)信じられるようになっていた。今にして思えば、中田先生は会いたくても接見禁止などによって、いつでも自由に会えなかったのである。
私が弁護人に対して不信を懐くようになった理由がもう一つある。それは私が再逮捕される前の6月2日ごろ、狭山署にいたときのことである。いつものように取調室に連れて行かれると、「お前に弁護士が会いに来たから、次の部屋で会ってこい」と言われた。その部屋は鏡がついているマジックミラー部屋で、中には色の青黒い50歳前後の眼鏡をかけた人がいて、優しそうな声で、
「私は石川君、あなたのために弁護を任された者です。私達弁護人はみんな石川君の味方なのですよ。そして依頼人の秘密は絶対に守りますから、何でも話してくださっても構いません。良いこと、悪いことも、石川君のためになるように計るのが私の役目なのです。聞くところによりますと、中田善枝さんが殺害された当日に、石川君が東島(明)君(狭山市柏原の部落出身で、私の友人)と一緒に、花嫁学校(通称山学校)付近にいるのを見た、と届け出た人がいるそうだが、その人がまさか嘘をついているとも思えないし、石川君たちは善枝さんと会うまでは(花嫁)学校のどの辺にいたのですか。それに、もし善枝さんを殺しているのでしたら、その対策を考えなくてはなりませんので、戸外に絶対漏らしませんから話してくれませんか。」
などと言われた。私はその人には初めて会ったのだが、いつもは大勢の刑事たちに囲まれていたのに、その時はその人だけと二人きりになっていたので、何かほっとする気持ちになったが、私に殺してもいない善枝さんのことをひつこく聞こうとしているので、私は嫌になり、「私は殺していません」とはっきり申し上げた。後になってこの人のことを中田弁護人に話したら、中田先生は全く知らないと言った。その人は二度と私の前に現れることはなかった。
256 さらに弁護人ではないが、その2、3日前(5月31日ころか)に、狭山市長の石川求助と名乗る人が会いに来た。やはり前記の弁護人と名乗った人と同じ面通しの部屋で、5、60歳ぐらいの人と30分くらい話した。
「あたくしは石川君と同じ石川という姓で、名前は求助といい、狭山市の市長を努めている者です。石川君が中田善枝さん殺しの容疑で逮捕され、善枝さんを殺しているのに、未だ「自白」していないようなことを新聞などで読んだが、もし善枝さんを殺しているのなら、私からお父さんや家の人達によく話してあげましょう。私は市長だから、決して石川君の不利になるようなことはしません。だから話してくれまいか」
私が「私は自分の犯した数々の悪事は全部警察の人に話してしまっており、これ以上は何もしていませんし、ましてや中田善枝さんなどは殺してなんかおりません」とはっきり申し上げたら、その人は「本当に石川君は殺していないのですか」と念を押して帰って行った。
ところでこの石川求助さんと狭山署で会った件を、昭和40年1965年10月ころ、萩原さんとの面会で話した。萩原さんが、(その後)狭山市長の石川求助さんに会い、私にあった経緯について問いただしたところ、市長は「私は石川一雄と会ったことがない」と否定したそうだ。私に会いに来た人は実は市長と偽って、私の心の中を探りに来た警察の手先だった。私は恥ずかしながら狭山市に住んでいながら、市長の名前も顔も全く知りませんでした。
257 警察は私の心の中に何か隠しているものがあるのではないか、あるいは中田善枝さん殺しを認めるきっかけができるのではないかと、私が字も満足に読み書きできないのと、世間的な常識もないことを利用し、あらゆる騙し方をしようと試みたのだ。これは、今全ての経緯を顧みて、事件の全貌を通して苦しんだ末に、やっと分かりかけて来たカラクリであるが、当時の私には、全てが知らないこと、新しいことばかりで、そのような裏のあることは分かりようもなかった。
一審公判までの弁護士に対する気持
はっきりせず、また謎の多い弁護人の態度や言葉に不信を抱いた私は、長谷部課長の「警察官ゆえに嘘はつけない、男同士の約束だ」という言葉を信じ、どうせ10年は努めなくてはならないのだから、中田善枝さんを殺したことを認めても構わない、と思うようになった。私は「6月18日に裁判が開かれる」と言った中田弁護人の言葉に強く期待していたのに、それが取りやめになった経緯が分からず、警察でも何も教えてくれなかったので、却って「中田弁護人が嘘をついているのだと」常に警察に言われていたので、(中田弁護人は)信用できない人だと思い込んでいた。
258 私は中田善枝さん殺しの犯人として起訴され、浦和拘置所に移され、一審の裁判が始まっても、その間ほとんど弁護人との親密な交渉もなく、(10年で出してやるという)警察での約束事なども弁護人に明らかにせず、警察で教えられた通りの態度を取っていた。その理由は、
私は中田弁護人が私に嘘をついたことにこだわり、腹を立てていた。警察も中田弁護人についてさんざん悪く言っていたので、私は中田弁護人に会うことがいやで、浦和拘置所に昭和38年1963年7月9日に移されてから10数回、中田弁護人との面会があったが、いつも短い時間で帰ってもらうようにしむけた。弁護人と会う時は拘置所の職員の立ち合いがないので、面会所に行く途中、係の職員に「弁護人とはあまり会いたくないから、できるだけ早く帰るように伝えて下さい」と言ったが、職員はそれはできないと答えた。私は弁護人との面会で立ち合いがないことを「薄気味悪く」感じていた。
無実の訴えは弁護士との相談なしにやった
259 私は一審の裁判において、嘘の自白を終わりまで維持し続けた。10年で出られるのに、なまじ弁護士に警察との約束を話したら、裁判が崩れてしまう、と恐れていた。自分の殻に閉じこもっていた方が、自分のためになると思っていた。しかし、この事は、私を現在の窮地に追い込むことになった。私が中田弁護人を恨んだ、中止になった公判は、警察や検察の手続き上の都合で一方的に中止されたのであり、中田弁護人の責任ではなかった。
一審死刑判決後の浦和拘置所の同囚から、はじめて私が騙されていたらしいことを教えられたが、それでも私は長谷部課長が嘘をついていたなどとは考えられなかった。一緒に野球をした関源三さんも一緒にいたし、「警察官であるがゆえに嘘はつけない」という言葉を私は信じていた。ところがどうも浦和拘置所の皆さんの話を聞いていると、変なことばかりなので、誰を信じていいのか分からなくなり、最後の頼みである判事さんに、直接私が犯人でないと申し上げる以外にはないと思うようになり、第二審の最初の公判廷で、事前に誰とも相談せず、自分の考えだけで、手を上げて無罪を訴えたのである。その後弁護人を解任したり再任したりしたように、私は混乱していて、事情が理解できるようになるまでには相当の時間を要した。
その後の弁護士との関係について
260 私は自分が受けて来た警察での仕打ちや、(騙されて)中田善枝さん殺しの犯人に仕立て上げられてきた経緯を、苦しんで苦しんだ末に理解し、警察の恐ろしさを知らされたとき、そして、中田先生以下の弁護団に抱いていた、私の間違えが分かったとき、私はこの独房の中で声を上げて泣きました。後から後から募り来る口惜しさに溢れる涙は止まらず、これほどまでに見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました。誰を対象に恨めることではありませんが、神や仏の存在すら、私は怒りをもって否定しました。
そして私の馬鹿さ加減もさることながら、中田先生たちに抱いていた私の心の狭さを、とても申し訳なく思ったのでした。なぜあの6月18日に裁判が開かれなかったのか、ということも今ではよく分かり、そして何よりも中田先生たちに、私の態度をお詫びすることができました。そして少しずつ事件のカラクリが分かってくるにつれ、また事件の真相が広く国民の前に知られるようになるにつれ、私も一つ一つ利口になり、中田先生たちの御指導によって、自分自身を取り戻すことができるようになったのです。
現在、弁護士の方たちは、事件の真相を余すことなく究明するために、本当に一生懸命に尽くしてくださっております。私もこれからはもう迷うことなく、着実に真相の伝達に、訴えに、執筆することに専念してゆく決意であります。
1970年9月24日 木曜日 東京拘置所内 石川一雄
感想 2025年2月5日(水)
石川さんだけが無知ではない。これだけ手の込んだトリックを使われたら、誰しも「自白」してしまうだろう、と私は思った。何と言っても脅しがひどい。警察ならではの、なんでもありの脅しの手段である。「密かにお前を殺す」、「いい加減に白状せい」という暴言や、髪の毛を引っ張り回すという暴力。警察はいったん尻尾(言葉尻)を捕まえたら離さない。
第四部 生い立ち
1974年5月23日、逮捕からちょうど11年目に当たる日の二審第75回公判で、石川一雄は青木英五郎弁護士の質問に答える形で陳述した。以下はそれを部落解放研究所の高村三郎が独語体に改めたものである。
わが生い立ち
バラック八畳一間に七人
265 私達家族7人(両親、兄、姉、私、弟、妹)は、八畳一間の古いバラック建てに住んでいた。古いバラック建ての家が風で倒れないように、山から木を切って来て、裏側と西側につっかい棒をしていた。畳はなく、全部薄縁(うすべり、御座ござ)だった。昭和21年から23年まで、東京の伯父(父の兄)が空襲で焼け出されて来て加わり、計8人となった。しかも伯父は上半身不随の寝たきりだった。便所は独立した掘っ立て小屋になっていて、私は家の中にいるときよりも、便所にいる時の方が、立派な家の中にいるように思えた。
水くみ
266 現在の私たちの家は、畑を売った45万円で、昭和33年1月ごろ建てたものである。風呂場ができたのは昭和25年ごろだったが、それまでは、姉が嫁いだA家か、母の実家のB家へ、月2、3回、家族そろってもらい湯をしに出かけた。家族全員が虱に悩まされた。
新しく出来た家の風呂は、ドラム缶の風呂(五右衛門風呂)で、板を湯に浮かせて入るのだが、うまく乗れずにひっくり返り、よくやけどをした。
井戸はなく、本家のC家にある共同井戸へ水くみに行った。それは「前っ原」地区の12、3軒が共同で使用していた。井戸の出が悪く、しょっちゅう井戸掘りをしていた。井戸が渇れて出なくなると、家から800mの所にある白山神社の境内にある井戸まで行かなければならなかった。1度ではなく何回かに分けて水くみに行かなければならなかった。それは5歳くらいから上の子どもたちの日課だった。水道が引かれる昭和35年までそれが続いた。
267 私たちの居住区は「菅原四丁目」と呼ばれ、それは私の家がある13軒ほどの「前っ原」と、30軒ほどある「新宅」地区とで構成され、両地区は「新道」という道路で隔てられていた。「前っ原」地区の家のほとんどは一間しかなかったが、「新宅」はそれよりましだった。「前っ原」地区でも、私の家とD、E、F家の4軒は一番みすぼらしかった。
父は昭和19年頃から狭山市入曽の大谷くにみちさんが経営するお茶工場で茶葉の乾燥などの仕事をしていた。その仕事は1か月おきくらいの不安定な仕事で、父はその仕事がない時は、日雇の百姓仕事をしたり、篠刈りをしたりしたようだ。父の日給は、私が10歳だった昭和24年頃は、日雇百姓で日給120円くらいだった。
母は目が悪くて1日中ほとんど家にいた。家人たちは辛いとか苦しいとも思わず、みんなで力を合わせて生きていこうとする団結心があった。自分で働いて生きていく、という気持ちがそれぞれにあった。
一家で一食にうどん三束
268 子供心に生々しく残っている記憶は、食糧事情の酷さである。私は昭和25年ころ、12歳のころから、あちこち奉公に出てそこで食事をいただいたが、それ以前の昭和19年から25年までの貧しい食糧事情の原因は、父が一生懸命に働いても、一家族が普通に食べるには不足していたことだ。父の日給ではうどんの束が5つくらいしか買えなかった。一食で3束食べてしまう。うどんはごちそうだった。
米や麦の配給はあったが、買えなかった。昭和21年から23年ころが一番ひどく、うどんは勿論、穀類はほとんど口にできなかった。ざらめという黒っぽい砂糖が配給になると、それを湯で溶かして湯のみじゃわんに一杯ずつ飲んで、それを一日分の食事代わりとした。
米の代わりの主食は、とうもろこし、大豆、ジャガイモ、サツマイモなどであった。芋は価格が安いので、家の畑では野菜ばかりつくっていて、芋は近所から買っていた。さつまいもは当時1貫(4キロ)20円だったと記憶している。さつまいもをふかした後に鍋の底にできる甘い汁は、子どもたちにとって重宝な甘い水だった。
フスマ(麩)の団子
269 サツマイモやジャガイモも食べられないときは、麩をこねて団子にして食べた。麩は小麦を粉に挽くときにできる穀肉の皮である。よく食べた。舌がものすごく痛かった。私たちの地方の方言では「スマ」という。「スマ」は一般的に鶏のエサだと言われているが、私たちにとっては主食のコメ代りであった。麩を一回蒸かして団子状に固めてから、それを焼く。いがらっぽく、食べている最中でも後でも、舌がものすごく痛い。
その他に「あかざ」「のびる」「サツマイモのつる」「せり」「なずな」などの野草を摘んできて食べた。「にら」を沢山つくっている近所の家からもらったこともある。「はこべ」も食べた。これは鶏が食うものとされているが、春の七草の一つで、春に白色の小花を咲かす越年草である。これは野草類の中でも一番アクが強かった。一、二回どころか何回も茹でて、醬油か塩、当時は醤油がほとんどなかったので塩をいっぱい混ぜて、なるだけしょっぱくして食べた。
小学校二年から百姓仕事 石川さんは小4から本格的に仕事を始め、そのため小学校にはほとんど行かなくなった。
270 鍋釜 釜はあったが鍋はなかったように思う。そのため、進駐軍が使い捨てた大きな缶詰の空き缶を取って来て、両端に穴を開けて針金で吊るして釣鍋代わりにした。それは水くみ用のバケツ代わりもした。青竹を天秤代わりにしてそれをかついで運んだ。また家には水瓶がなかったので、この空き缶4つくらいに水を入れておいた。子どもは水くみの他に雑木林に行って燃料用の薪や柴を取って来た。兄と二人でやった。前っ原の子どもたちは皆これをやった。
私は昭和21年、22年(8歳、9歳)ころから、畑仕事を始めた。敗戦後、元飛行場の敷地だったところの払い下げを受け、私たちの家では畑が3反歩あった。そのうちの1反歩はどこかに分けてやり、残りの2反歩を、兄と私が百姓仕事をした。父は日雇仕事に出ていたからである。小学校2年生のころ、前っ原の子どものうちでは、私が一番百姓仕事が上手だった。
作付けした主なものは、ねぎ、ほうれん草、大根などの野菜類であったが、自分の家で食べるのは少しで、大根などは全て一畝いくらで、八百屋に売った。
271 家でする仕事は小学校3年生のときまでで、小学校4年生ころからは、通称山学校(花嫁学校)と言われていた、高橋四郎さんの家の百姓仕事に、父と二人で出かけた。ジャガイモの収穫時期になると、高橋さんの女中が呼びに来る。私は勿論学校を休んで山学校へ行く。父の日給は120円くらいで、私はたしか30円から50円だったと思う。
その頃父は大谷くにみちさんのお茶工場にも行っていて、私も父と山学校の合間に出かけた。また山へ篠を取りに行った。近くの雑木林ではなく、私の家の北方片道3キロの所にある柏原の方の、山本クロース、入間川のすぐ裏の山まで行った。篠は籠を編むときに使うらしい。
私にとって、学校が片手間で、仕事が主になったのは、小学校4年生ころである。父がお茶工場に行っているころは、水くみや薪拾い、兄と一緒の畑仕事をしながらほぼ学校へ行けたのだが、山学校や山仕事があるときは、学校を休んで父と一緒に働きに出るようになった。私にできる仕事が増えて来るにつれ、学校を欠席することが多くなった。
ノートが買えない
私の家には傘が1本もなかったので、雨が降ると決まって学校に行かなかった。また学校でPTA会費など金を徴集する日も、払えないから欠席した。先生に「明日は図画で写生がある」とか、「習字がある」とか、「社会の何やらで、画用紙や半紙や藁半紙などを明日買って来なさい」と言われると、それが買えないので翌日は欠席した。ノートも課目別に5冊くらい必要だったが、私は1冊も持っていなかった。先生から「ノートを買って来なさい」と言われた翌日は学校を休んだ。
272 鉛筆も1本も持っていなかった。消しゴムも、下敷きもなかった。教科書だけは近所の1年先輩の人から使い古しを貰い受けて持っていた。ランドセルも石田さんという家からもらった古いのを持っていた。
小学校3年生くらいまで着物を着て登校した。ちゃんちゃんこで行ったこともある。「前っ原」の子どもは皆同じで、学生服は買ってもらえなかったのである。他の地域の子どもたちは皆学生服を着ていた。また着るものがなくなって、「新宅」の人からもらった着古しの着物を着て学校へ行ったこともある。それには破けた跡に継ぎを当ててあったりし、一般の同級生や上級生から「きたない」とか「継ぎを当てた着物を着てる」とか言われ、さんざんいじめられた。
夏の間は履物がもったいないので、ほとんど裸足で通学した。5月から10月ごろまでのことである。「前っ原」の子はみんな私と同じ裸足だった。草履も何も履かなくて平気だった。寒くなるとゴム長靴を踵当たりで切ったような短靴を履いた。一般の子どもたちはズック靴を履いていた。当時長靴や短靴は配給だったが、ズック靴は個々に勝っていた。私たちは配給の短靴でさえようやく買えたので、ズック靴を買う金はあるはずがない。だから夏の間もその短靴を履くのももったいなくて裸足で通ったのである。
273 学校に弁当も持って行かなかった。米飯さえなかったのだから、昼食時は学校から1キロちょっとの自宅まで帰って飯を食い、また学校に戻った。前っ原の子はほとんど皆そうだった。
仕事のない日は学校に行き、仕事があればいつも学校を休んでいたので、授業はほとんど分からなかった。ともかく毎日食い物を得るために追われていた気がする。学校へ行くのも、勉強しに行くのではなく、学校で勉強したという記憶がほとんどない。学校で興味を持って好きだった学課は一つもなかった。休み時間に大勢で遊べるのが楽しく、それだけに惹かれて学校に行った気がする。
学校に行って本を読んだという記憶は一度もない。私の席はいつも前だったが、先生は一度も私を指名して読ませようとしたことはなかった。私は小学校に行っている間はまったく字が分からなかった。
ほったらかしの教師
今考えてみると、先生は私など全くほったらかしていたと思える。私が少しも字が分からないのに、先生は助言は勿論、何も文句も言わなかった。「勉強しなさい」と言われたこともない。「ノートを買って来なさい」とか「藁半紙を買って来なさい」などとなぜ注意したのか、不思議でならない。先生は無責任だったと思う。私は上級生になると登校日の約半分は休み、6年生の時には3分の2以上欠席した。小学校6年間で、登校した日よりも休んだ日の方が多かった。また学校の先生から一度も家庭訪問を受けたことがない。先生が家の近くまで来たことがあったかもしれないが、いつも家にいた母から(先生が来たと)聞いた記憶がない。先生から訪問したいと言われたこともない。
274 早退もよくした。朝父母から何時頃こういう仕事があるから帰ってこいと言われると、先生に断って早退した。登校しても途中で家に逃げ帰ったことが何回もあった。授業が面白くなかったからだと思う。
小学校を追い出されて奉公に
昭和20年以前に生まれた「前っ原」の子どもたちで中学校へ進めた子はほとんどいなかった。小学校の途中でほとんどが奉公に出た。私の兄も小学校の5年生の時に奉公に出た。兄の場合は奉公先がずっと一か所だったが、私は転々と変えた。姉も小学校を終えると東京に奉公に出たが、幸運にも奉公先が中学校に行かせてくれた。本家のC家にも男の子が6人いたが、全員が中学校には行けなかった。
私は小学校6年生の途中で学校をやめ、百姓家に住み込む子守の奉公に出た。慣れなくてすぐに逃げ出した。当時父は大谷くにみちさんのお茶工場に勤めていた。私はその工場も、大谷の本家も、「十一軒」というところにあるのを知っていて、奉公先も「十一軒」にあったので、大谷の本家に逃げ込んだ。名前を聞かれ、父が大谷のお茶工場に勤めていると言ったら、その主人が父のいるお茶工場まで連れて行ってくれた。家に父と一緒に帰ったのだが、二、三日してまた奉公先に連れ戻された。
わけもなくいじめられ
私が「菅原四丁目」の「前っ原」に住んでいる子どもであるために差別されるということを、はっきりと部落差別として意識したのは、この裁判に控訴していろいろ勉強してからのことである。それまではさまざまな人から白い目で見られたことをはっきりと感知していたが、それが部落差別であるという認識はなかった。
部落外の子どもたちから違った目で見られ、侮辱的な言葉を浴びせられたのは、小学校に入学と同時だった。それまでは「菅原四丁目」以外には全く遊びに出て行かなかったから、外部の子どもたちと接することもなかった。小学校の1年生になるとすぐに、「汚い」と言われた。普通の人は学生服を着ているのに、私たちだけは着物を着ていて、それも汚れているうえに、継ぎが当たっていた。風呂にもあまり入れなかったので、首の周りに垢もついていたから、そう言われたのだろう。「汚い」と言ってくるだけでなく、一方的に殴りかかってきた。
また「かわだんぼ」とも言われた。以前は「上新田のカワダンボ」<坂上、即ち菅原四丁目のこと>とも言われた。牛馬の肉や皮革などの採取や加工を職業とした者たちの部落という意味である。同級生や上級生からしょっちゅうそう言われたが、それがどういう意味か全く分からなかった。肉や皮革を取り扱う職業に従事している家が、20数軒の「前っ原」に4軒あった。クラスの生徒で「前っ原」に二人、「新宅」に二人の計4人がそう言われた。いじめられ、殴られ、泣いて帰ったことが、一年生の時には何回もあった。どうして自分たちだけがわけもなく苛められるのか、さっぱりわからなかった。
276 しかし四年生になったころには、もう面と向かっては言わなくなった。私が鍬などを使って畑仕事をするようになって力がつき、けんかをしてもほとんど負けないようになったからだ。「汚い」「臭い」と言ってかかってくるやつを、今度はあべこべに殴り返せるようになった。
また菅原四丁目から1キロほど離れた入曽地区の子どもたち15人ほどが、徒党を組んで、「かわだんぼ」と叫びながら、駆けつけて来て、四丁目一帯に石などを投げつけたことがあった。それは小学校3年生のころだったが、そういうことが何度もあった。父にそのことを何回も言ったが、「かもうな、かもうな」と言うだけで、まったく取り合ってくれなかった。私たちも何人かで対抗したが、人数が足りないので、負けてばかりだった。兄たちはそういう反撃をしようともしなかった。
小学校に入っている間、部落外の子どもたちを遊んだ経験はない。部落外の子どもたちが「汚い」「臭い」と言って受け付けなかったからである。私たちはいつも「前っ原」や「新宅」の子どもたちとだけで遊んだ。
「列車転覆事件」でも嫌疑をかけられた
277 同じく小学校3、4年生のころ、クラスの誰かのPTA会費120円が紛失するという事件が起こった。先生はすぐさま「新宅」のGに嫌疑をかけた。ところが紛失が発覚した時間である休み時間には、Gと私はドッジボールをしていたのである。しかしGは水がいっぱい入ったバケツを両手に持たされ、認めるまで職員室の前に立たされていた。翌日Gは親と一緒に来て、金を払ったようだ。Gは私とドッジボールをしていたのだから盗めないはずだと今でも思っている。
また13歳のとき、山学校に父と百姓仕事に行っていたが、「電車転覆事件」が起ったらしく、狭山警察署がすぐ私に嫌疑をかけて私を連行した。
私にとって警察はとてつもなく怖い存在だった。私達兄弟がどこかの柿の実を盗んで来たことがあった。そうすると父や母は、そういうことに対して非常に潔白すぎるほどのたちだったから、「そういうことをするとお巡りさんに連れて行ってもらうぞ」とか「お巡りさんに縛られるぞ」などと言って、よく叱った。大きくなってもその怖さは変わらない。
昭和20年から25年のころ、「前っ原」に戸籍調べの警官が1か月に1回から2回やって来た。1年に1回というのが普通だと後で知った。父や母はいつも「警察の旦那様」とか言ってペコペコ頭を下げた。昭和34年ころまでは「前っ原」の人たちはほとんどがそんなふうで、警察に反感を持つことなどなかった。
私は(列車転覆事件は)未遂というわけで、三通くらい調書を取られた。私はでたらめの自白をし、全部認めてしまった。そういうとき、髪を引っ張られて拷問を受けるのが普通だったが、当時私は坊主頭だったから、小突かれた。とても痛かった。現場写真を見せられ、これがそうだったと、簡単に認めてしまった。ところが昼になり、取調官が飯を取りに行ったすきに、私は逃げ出した。翌日父と一緒に出頭したら、山学校の高橋四郎さんが「雇用者名簿」を持っていて、その日は働いていたというアリバイを証明してくれた。嫌疑が晴れた日は、入間川警察から狭山警察に名称が変わる日だった。
床屋がいちばんひどく侮辱
278 狭山市内では、子どもでも大人でも、「かわだんぼ」といえばほとんど「菅原四丁目」の人だということを知らない人はいなかった。桶屋も、部落民の風呂桶をつくるのを嫌がった。手桶や小さい樽の歪んだのを直すのも嫌がった。隣の菅原三丁目に桶屋が一軒あったが、「どこから来た」の問いに「四丁目」と答えると、もう「駄目だ、よそに持っててくれ」と断られた。結局、遠い所の桶屋に行かなければならなかった。
279 床屋が一番ひどく侮辱した。忘れられない。完全にとらわれたまま、思う存分に観察され、私は侮蔑の言葉を言われ続けた。昭和19年~25年ころまでのことだ。床屋に行くたびに言われた。風呂にあまり入れないので首筋が汚く、理容師の人が、「きたないね」と言うと、その隣で毛を刈ってもらっているどこかの小僧さんみたいな人が、「かわだんぼだものな」と言って合わせた。そのことを父に言うと、「その床屋にもう行くな」と言う。それで1キロ離れた入間沢の方の遠い床屋に行くようになった。父は抗議せず、ただ「床屋を変えろ」と言うだけだった。
もらっていたのは小遣いだけ
逃げ帰ってから二、三日してまた連れ戻された子守の奉公先の百姓家は、私たちの家から3キロくらい離れたところにあった。三歳の子どもを背負って、ねんねこを着て、近所をぶらぶらとほっつき歩いているだけである。言われた授乳の時間に帰ればよかった。百姓家は晩飯が遅い。私はあまりに腹をすかして、うどんを八杯も食べて笑われた。家にいる時の食事が悪すぎたのである。ここでは麦飯を腹いっぱい食べることができた。半年してまたこの子守奉公先から逃げ帰った。
今度はもう連れ戻されず、母の兄がやっていた国分寺の靴店に奉公に出た。また住み込みで、朝早く起きて店を掃除することから始まる。修繕する靴の底をたわしで洗う。当時は皮革が不足していて、二枚重ねて使う皮の隠れる方には古い皮をあてがってごまかす。その古い皮に混じっている石を取ってきれいに洗う。伯父の奥さんから「菅原四丁目から来たことは絶対に近所に言わないように」と言い渡された。またお婆さんとその奥さんから、言葉遣いも注意された。私たちは「けむし」のことを「けんむ」と言っていたが、隣近所にうまくないから「「けんむ」ではなく、「けむし」と言え、と何回も注意された。ここには半年いた。
280 次は狭山市会議員をしていた南水野の宮岡万平という家に奉公に行った。たくわんや福神漬け、らっきょうなどの漬物屋だった。私の他に「新宅」からももう一人が来ていて、その人と交替で、朝4時と7時に起きていた。牛の乳を搾るために湯を早く沸かさなければならない。朝のうちに乳しぼりをし、昼は野菜の根を切ったりした。ここではよくカネをもらった。仕事は一番つらかった。朝早くから夜は11時ごろまで、毎日働きづめだった。以上述べた奉公先では給料をもらっていたかもしれないが、私が直接もらったのではなく、父がいくらかもらっていたと思う。私は小遣いをもらっただけだ。名古屋万平というところで月1500円ほどもらったのが、一番多かったと記憶している。
奉公をやめて
16才になると奉公に出るのは止めて家にいて、18歳まで、主に土方仕事をし、土方仕事がない時は山学校へ行って、百姓仕事をした。土方仕事は通いの時も、住み込みの時もあった。ようやく一人前の給料を自分で手にすることができた。
281 半年ほど東京の江東区東雲町一丁目のゴルフ場で、住み込みの土方仕事をした。ゴルフ場の芝を刈ったり、土管を埋めたりする仕事だった。当時そこに軽飛行機が飛び降りる滑走路があって、コンクリートでなかったので、雨が降るとよく穴ができた。そこに土を入れる仕事である。ゴルフ場は港の側に在り、でかい船が入って来て、荷の積み上げとか、船体の修理など、様々な仕事をした。日給は350円から400円だったが、最後の3か月間は賃金が不払いになり、家に帰って来た。
進駐軍の雑役をしたこともあったが、半年で整理された。夕方4時ごろに仕事が終わり、日給が600円から700円で、かなり実入りがよかった。それに土日が休みなので、遊んでいてはもったいないので、遠藤中将と呼ばれる家に仕事に行ったこともあった。
請負で土方仕事をしたこともあった。「ねぎり」といって、土管を埋めるために穴を掘る仕事である。請負を「こまわり」というが、私たちは力仕事なら二人前以上でき、一般の人と一緒にやると損をするので、「こまわり」をさせてくれと頼んだ。それには歩合がついて、日に3000円から4000円になる。そのかわり、朝の6時ころから真っ暗になって目が見えなくなるまで働いた。日曜と雨の日は休んだが、月3万円になった。1万円は家に入れ、残った2万円のほとんどは、進駐軍に勤めていたときに覚えた野球の道具を買うのにつぎ込んだ。
菅四ジャイアンツ
282 私は進駐軍で野球を覚えた後の昭和32年頃、「菅原四丁目」の野球チームに加入した。その後そのチームに「菅四ジャイアンツ」の名称がつけられた。それは18歳から30過ぎまでの約15名のチームで、日曜日ごとに入間川小学校と入曽小学校の校庭を1日借り切ったり、山本製作所のグランドを借りたりして、練習や試合を続けた。「菅四ジャイアンツ」は狭山市社会人野球連盟に加盟し、公式試合が年1、2回あった。それ以外には狭山市外のチームとたまに試合をするくらいで、試合相手のほとんどは柏原部落のチームであった。市内の一般チームに試合を申し込んでも、予定があるからと断られてばかりだった。またその一般チームからの試合の申し入れは一度もなかった。
関さんと部落の青年たちの「菅四ジャイアンツ」とはほとんど関係がなかった。菅四ジャイアンツが試合をしている時に余った4人の青年は、部落の子どもたちを集めて、野球の仕方やプレーの指導を続けた。昭和35年ごろからその場に関さんも加わって来て、日曜日ごとに子どもたちの練習のコーチを、青年たちを一緒にしてくれるようになった。毎年5、6回、その練習成果をためすために、野球大会が行われた。四丁目の子どもたちを6チームに分け、子どもたちだけでは人数が足りない場合、青年たちも混じって参加し、関さんはいつも審判役をしてくれた。この日は四丁目商店街から提供される参加賞が沢山あり、子どもたちは大いに喜んだ。私はキャッチャーが得意で、仕事で右手の人差し指の怪我をしたり、親指をつぶしたりしたときでも、左手で投げていた。私は左利き用のグローブも買っていた。
人より倍力仕事
283 東鳩という会社に、昭和33年3月から36年9月末まで勤めた。日勤と夜勤の二交代制で、一週間交代だった。仕事は、もち米やメリケン粉を練った生地をローラーで伸ばし、せんべいの型にするというごく簡単なものであった。入社したころの日給は450円くらいで、毎日8時まで残業したので、月2万円にはなった。そのうち1万円を家に入れ、1万円を小遣いにした。このころ私より後に入社した咲村という同僚から競輪を教えられ、夜勤の日には競輪場まで行った。
東鳩を辞めてから、西川土建屋で約1年勤めた。土管などを埋める仕事である。私は力仕事をするとき、人より倍やりたいと思っていたので、進んで何でもやった。
その後石田豚屋に勤め、昭和38年2月28日に辞めた。仕事はジョンソン基地に残飯をあげに自動車に同乗して行ったり、豚に餌をやったり、豚の糞尿をさらったりすることだった。給料は三食付きで1万8千円だった。住み込みだったが、寝る場所は豚小屋の電気もつかないところで、豚の番をしながらだった。
284 その後少しの間、入曽の「たはら」というところで、基礎コンクリート打ちの仕事をしたが、すぐ家に戻り、同じような職種の兄のとび職の手伝いをした。普通住宅の基礎コンクリート打ちが主だった。給料は、仕事をしている兄が家にも入れなければならないので、小遣いとして1万円から2万円もらった。家にいる時は野球をやめたので、その金は女友だちと遊びに行ってつかった。
市役所で困る
私は小学校をやめてから別件で逮捕されるまでの間、文字の読み書きがほとんどできなかった。本を読もうともしなかった。家で兄がスポーツ新聞をとっていたので、野球の試合のスコアとか、チームの成績や、打撃十傑とかいう欄の何割何分何厘という数字だけを見ていた。野球選手の名前は、背番号がふってあるので分かったし、テレビを見ていて、3番が長島、1番が王というぐあいに、すぐに覚えられたが、書くことはできなかった。車券を買う時も、目で買っていたので、文字を読む必要はなかった。漫画なども、炬燵の中で妹が見ていたので、一緒に見た記憶があるが、全部ひらがながふってあれば、一人でも読めるが、漢字が一つでもあると、素通りをした。
285 土方仕事をしたり、東鳩で働いたりしている時でも、仕事上、文字の読み書きは、ほとんど必要なかった。東鳩では記録する必要があったが、油を何回出して使ったかという個数を覚えていて、責任者が来た時その数字を言えば、その人が書くので、読み書きができなくても、仕事上差支えなかった。(鎌田慧『狭山事件の真実』によれば、文字の読み書きができずに失敗して首になったのではなかったか。)
当時の私は本が全く読めず、世の中の常識も知らず、友達などと世の中の動きについて話し合うこともできなかったが、さして不自由は感じていなかった。仕事はがむしゃらに二人前以上も働いたし、たまに競輪にいくことで満足していた。映画も好きで、とくに石原裕次郎主演の映画は上映されるたびにほとんど皆見に行った。そういう生活に満足していた。
字を習って本を読んでみようという気持ちはなかった。葉書も手紙も自分では一度も書いたことがなかった。書く必要もあったが、その時には後に姉の夫になるAさんに代筆してもらった。
だが困ったことがなかったわけでもなかった。市役所や職業安定所に行ったときである。係員に書類を渡されてこれに書き込んでと言われても、私はどうすることもできず、紙切れを握りしめたまま立ち竦んでいた。それに懲りて近所のHに頼んで、いつもいっしょに連れて行って、書いてもらった。東鳩に入社するときの履歴書は、Aさんに書いてもらった。他のところでは住所と氏名さえ書けば、ほとんで用が足せた。
「石川一夫」
286 住所と名前は大体書けたが、住所の「菅原」は難しくて覚えられないので、「四丁目」とだけ書いた。名前の「雄」も難しいので「夫」と書いた。平仮名だけはほとんど書けたが、漢字はいつも見慣れている少しの文字以外はほとんど書けなかった。選挙の投票には何回も行った。私の家の風呂場の板壁に選挙ポスターが貼られるのだが、それを見て、父に勧められる人の名前を何度も書いて練習してから投票所に行った。数字は分かったが、広さや長さ、重さの単位であるアール、メートル、キログラムなどは全く分からなかった。別件で逮捕された昭和38年時分は、ほとんど文字が分からなかった。兄のとび職を手伝ったときも、指示された仕事はできたが、長さの単位が分からないので、基礎工事で何度も間違え、つらい記憶として残っている。
弁護士を信用できなかった
私が昭和38年5月23日の朝に別件逮捕された後に中田弁護士が私に面会に来たが、私はこの人が自分を助ける仕事で来たのだと考えることができなかった。私は弁護士という言葉自体も知らず、それがどういうことをする職業なのかを知らなかった。私のそれまでの生活で弁護士は不要だったこともある。だから弁護士と自分が話し合ったことの全てを警察官にしゃべってしまった。また自分を助けると言って偽弁護士が面会に来て「善枝ちゃん殺しを認めろ、白状しろ」と言い、偽市長もやって来た。そしてその直後に中田・橋本の両弁護士がやって来ても、信用できなかった。中田弁護士が別件の第一回裁判が6月18日にあると言っておきながら、善枝さん殺しの容疑で再逮捕され、警察側がその裁判を流してしまったのを、弁護士のせいにしてしまった。私は無知だった。
287 私は長谷部警視の「男同士の約束」という言葉を信用して嘘の自白をしたが、それは、ほとんどの警察官が長谷部さんにペコペコ頭を下げるのを見たり、周囲の人が長谷部さんに「警視さん」などと言っているのを聞いたりして、長谷部さんが非常に偉く見えたからである。私は最初3人でやったと言っていたが、長谷部さんが「お前は一人でやったと言わなければ、どのみち九件もあるから死刑にできるんだぞ」と言うから、長谷部さんは「死刑にできる」ほど偉いのだと益々思うようになった。控訴した後でも、しばらくはそう考えていた。
控訴審の第一回公判(昭和39年9月)の最後に「私はやっていません」と言ったが、弁護士を信用していれば、そういう前に相談していただろうが、まったく自分勝手に言ってしまった。同囚の皆さんからいろいろ話を聞き、自分でも刑法総論などという本を読み終わったあと、しかもそれを暗記できるようになったときに、やはり弁護士は自分の権利を守ってくれる人なのだと思えるようになった。
私は自分の考えが間違っていたことが分かった時、独房の中で声を上げて泣き伏したことを忘れることができない。あとからあとからつのるくやしさに溢れる涙でした。これほどまでみごとに警察権力の罠に陥ってしまった自分の無知さ加減を恨んだ。そしてこの事件のカラクリが分かって来るにつれ、私も一つひとつりこうになって来るように思われた。それは昭和43年ごろのことである。(昭和38年の逮捕から5年後のことである。)
自分自身の手で無罪を訴えるために
288 その前の昭和42年ころから、私は文字の読み書きを、拘置所の中で独力で始めた。控訴審(昭和39年)になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、自分自身の手に頼るしかないと思って猛勉強した。そのころは外部から手紙をもらうようになった。当初はそれが読めないので、担当の看守に読んでもらったが、返事は書けなかった。母に「少年手紙宝典」という本を差し入れてもらい、また拘置所にある、仮名を振った本を私専用に貸してもらって、読み書きを勉強した。
別件逮捕された狭山署で、私はコピーでとったような文章を見せられ、「写して勉強しろ」と言われ、横書きの文章を何度も書き写したことがあった。当時の私は読み書きが全くできなかったので、何の文章なのかもわからず、ただ言われるままに書き写していたが、それは脅迫状だった。(警察は石川の筆跡を、脅迫状の筆者の筆跡に似せようとしたと思わわれる)私は他人の脅迫状のコピーの文章を意味も分からず、まだろくに書けない字で、ただ書き写していたのである。
別件逮捕される前でも、夜警察官が私の家にやって来て、Iとかいう人が書いた見本を見せ、書く練習をさせたことがあった。その通りに書こうとしたら、横から「そうじゃなくこうだ」と指図されながら、わら半紙に5、6枚書いて出した。
289 東鳩にいた時も、私は決まりきった早退届の文章すらろくに書けず、他人の文面を懸命に引き写して書いた。逮捕された後でも私はまるで選挙の投票のように、「脅迫状」のコピーの文章を、内容も分からずに一心に書き写す練習をしていた。その時はまだ「石川一夫」と書いていた。私が親からつけてもらった名前を正確に書けるようになったのは、別件逮捕され、再逮捕され、起訴されてからだった。拘置所からは、一字間違っても出ることができないので、正確に書くように教えられ、昭和38年9月の(一審の)第一回公判の始まる前になってようやく、「石川一雄」と書けるようになった。
以上
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