細川嘉六『世界史の動向と日本』伊藤書店 人民群書1946 初版は、「改造」1942
感想 2025年2月17日(月) 本論文は、細川嘉六や、本論文を出版した出版社の社員ら60名が、1942年から3年間、牢屋に閉じ込められる(横浜事件)原因となった論文である。彼は序文の中で自身の拷問については触れていないが、出版社社員らは、鬼畜のような拷問を加えられ、身に覚えのない「共産党再建」治安維持法違反の罪を、「自白」させられ、敗戦直後の米軍の上陸を前に、そそくさと執行猶予つき有罪判決を受けさせられ、お茶を濁されてしまった。
本書は1942年初版の改造社版ではなく、戦後の1946年の伊藤書店版であるが、日焼けしていてまた文字も小さく、非常に読みにくかったが、PDFにしてブログに載せました。(予定)細川嘉六の文体をお楽しみください。また私の本書の要旨(部分的)もブログに載せました。
本書を軍部が気に入らなかったというのは頷けます。現体制を大胆に批判し、ロシア革命の先進性や民族自決運動の正当性を推奨しているからです。しかし本書の出版だけを以て細川嘉六らが共産党を再建しようとしていたとはとても言えないでしょう。軍部は現体制を批判し、ロシア革命を推奨したら、即共産党再建だ、と直情的に判断するほど、硬直した頭脳をしていたのでしょう。
当時ソ連は誕生して間もない時期だったので、――ただし本書も党派闘争や粛清について一言だけ触れていますが――それが植民地民族の独立運動に影響を与え、世界史の流れから見て理想的なものとして、好意的に細川も捉えている。だからと言って細川が共産党を再建しようとしていたわけではなく、単に学者的誠実さに基づいた発表にすぎないのですが、そのように理解するゆとりは当時の軍部にはなかったようです。
感想 2025年2月9日(日) 表現が大上段に構えて尊大な言いぶりだ。断定調。
序 軍事的・警察的絶対専制による自由主義的・民主主義的出版の弾圧を批判。細川嘉六は3年間も牢屋に監禁された。「大和民族」の将来はどうあるべきか、という民族主義に思いを致す口調は、当時の時世を反映しているのか。
拷問は受けなかったのだろうか。牢屋に3年入れらていたとはあるが、拷問についての記述がない。『横浜事件と再審裁判 資料集成』でも、誰かは拷問を受けなかったようだ、という記述があったような記憶があるが、ひょっとしたらこの細川嘉六なのかもしれない。大学教授の和田洋一も拷問を免れている。何らかのステータスのある人物には拷問を加えなかったのかもしれない。
一 反戦を基調とする。二点指摘したとあるが、どれが二点だったか分からなかった。
二 レーニンの『国家と革命』を想起させる。加速度的な工業生産技術の向上を伴った資本主義的生産によって、生産物が増加して市場の争奪合戦となり、戦争を惹起する、というもの。
三 人間の生き方を含めた万物を支配する絶対的な神と、アリストテレス的な自然主義を融合した中世スコラ哲学の桎梏から脱したルネサンス以降の西洋自由主義・民主主義の理想は、科学の進歩に伴う資本主義的過剰生産によって、第一次世界戦争という悲惨な状況に変貌したが、ソ連では人間を賛美している。いったいどうしてなのか。
019 デンマークの哲学者ハロルド・ヘフデイングはルネサンスの変革の意義を説く。
020 「抜都」バトゥはチンギス・ハンの孫。チンギス・ハンの長男のジョチの次男。ジョチ家の2代目当主。Wiki
13世紀前半、チンギス・ハン(カン)成吉斯(思)汗及び抜都の南ロシア及び中央ヨーロッパへの侵入…
022 超自然と自然とを融合するスコラ哲学が破産し、人間性に目覚めた。
024 ジョン・マックマレーは、宗教改革とフランス革命が、科学技術の発展をもたらしたという。
026 ロックやルソーは下層民による民主主義を唱え、ベンサムは平等を説いた。
027 ダーウインは有機体の進化・発展を説き、マルクスは人間社会の発展を説いた。
029 ソ連のイリンは「人間の歴史」の中で人間を賛美しているのに対して、シュペングラーは孤独な原始人を賛美し、ラッセルは資本主義以前の社会を憧憬する。030
031 1932年、アルフレッド・イーヴィング卿は科学者の破産と懊悩を述べている。
033 ジョセフ・カイヨーは、機械が人類を蚕(蠶)食しつつあるから、科学を抹殺せよという。
033 ヒトラーは「我が闘争」の中で、アーリア民族は神の寵児であるとする。
四 国際連盟設立の際に、ソ連はウイルソンに要望を提起した。ソ連は本来理論的には対立するはずの資本主義国と連携した。
035 1918年10月24日、ソ連の外相チチェリンは、その覚書の中で、ウイルソンが提唱した国際連盟構想に注文をつけた。
・国際連盟の民族自決構想の中に、ポーランドやセルビア、ベルギーなどは含まれているが、アイルランドやエジプト、インド、フィリピンぜ含まれていないのは遺憾である。
・国際連盟は戦債支払いの拒否を基礎とすべきである。
・国土を戦禍に見舞われたベルギーやポーランド、セルビアなどの復興にソ連だけでなく、戦争によって傷つかずして巨富を獲得したアメリカ資本も、全力を尽くすべきことは当然である。
・将来の戦争を回避するためには、資本家から収奪すべきである。アメリカの資本家が中国やシベリアを併合・搾取しつつあり、日本を圧迫するために軍備を増強していることをウイルソン君も知っているはずだ。
しかし国際連盟はベルサイユ条約の一部であり、結局、独逸等同盟国側を粉砕した。
また理論上はソ連と資本主義国とは対立するはずだが、現実はそうではなかった。つまり、1935年、ソ連は仏やチェコスロバキアと相互援助条約を締結し、1939年、独逸とは友好不可侵条約を締結し、米国は、(ソ連を承認しても)利益が少なく、また理論的根拠に基づいて10数年間不承認だったが、日本との対立の激化により、1932年、ソ連を承認した。1934年、ソ連は英仏の招待に応じて国際連盟に加入し、第二次大戦中にソ連は英米と同盟関係にある。
五 ソ連邦礼賛。ソ連は技術的・文化的に遅れた辺境民族に対してもその主体性を重視し、産業や文化を推進する主体者として当たらせ、当該民族を長い目で教育した。
少数民族を教育し、対等に扱い、大事にするということはいいことだ。植民地や半植民地の民族自決を応援するのもいいことだ。ただ、粛清についてはまだ詳しい実態が分からなかったのだろうか。その記述はさらっと触れるだけで、通り一遍である。
満鉄や外務省がソ連のデータをきちんと調べていたとは驚きだ。
039 資本主義国が(第一次大戦などの)戦争に埋没していた反面、ソ連邦は発展し、また植民地・反植民地での民族独立運動が昂揚した。ソ連邦の発展は、植民地・反植民地の独立運動に影響を与えた。ソ連邦の誕生も植民地の独立も、第一次世界大戦後の世界情勢の影響を受けている。ボリシェビキは帝国主義に対立するものとして現れた。列強諸国はソ連がその武力干渉によって制圧されるものと観察していたが、それがソ連勤労大衆の反撃によって失敗すると、今度は、理想は理想だが、数年後には資本主義制に逆戻りするだろうと観測していた。ソ連の1920年頃の工業生産は、戦前の約2割に落ち込み、1921年にジェノア会議が開催され、(ソ連の)社会主義建設を損なわないで、連合国からソ連への資本投資が得られると期待していた。しかし連合国側は社会主義建設を不可能にする条件を出してきて、また連合国側内部の意見対立もあり、期待外れの結果となった。
ソ連は戦時共産主義から新経済政策へ転換した。その転換によってネツプマンやクラークなどの中小資本家地主層が成長し、これについてソ連指導部内部で賛否が割れた。また先進諸国内部での共産党の組織化はうまくいかず、ドイツ、ハンガリー、イギリスなどでの共産主義運動は弾圧された。
1928年、ソ連は第一次5カ年計画を断行した。資本主義国側はそれを「統計遊戯」として嘲笑したが、結果は大成功だった。
某アメリカ金鉱技師が言う「血の粛清」は、大ロシアだけでなくキルギス、ウヅベツクなどの辺境でも起こり、トロツキー、ジノビエフ等の元元勲も極刑に処せられた。
第三次五カ年計画まで遂行され、工業が発展した。農業が機械化され、総工業生産量で独米に追いつくほどだった。ただし、国民一人当たりの工業生産量では劣る。
041 満鉄調査部「ソビエト連邦国民経済第二次五カ年計画の実績」によれば、全連邦で、1937年の工業生産額は、1932年比220%であった。
042 スラブ民族が重大な役割を果たしたが、後進民族を近代勤労層に育て上げる努力もした。管理部門でも構成員の半分はその地域の土着民にさせ、企業ばかりでなく、政治的・社会的・文化的方面でも土着民の採用が行われた。
043 アラスカの金鉱技師リツページ曰く「1928年以降、ソ連邦政府は、法律で人種的偏見は刑法上の犯罪とした。」実際、少数民族自治共和国の各種産業の成績は悪かった。リツページ「ヨーロッパ・ロシアの民衆と同様に、彼らにも学校、療養所、図書館が与えられた。共産党員は、全ての種族がその潜在力は同等だと信じている。同じ機会が与えられれば、誰でも同程度に達しうるという信念である。」(リツページ「ソ連の十年」筒井訳)
044 そのため大ロシア人の負担は大きかった。少数民族による反抗もあった。しかし辺境地域での初等中等学校の生徒数は増加し、外務省調査部「ソビエト連邦社会主義建設」によれば、1938年39年の、1914年15年比で、4倍となった。また、ソ連邦年鑑1941年によれば、9歳以上の既教育者の全人口に対する割合は、例えばウクライナでは、1926年の57%が、1939年には85%になった。
少数民族の中でもソ連内での一般的状態を示す人口約100万人のキルギス共和国を例に取ろう。ソ連のキルギスへの投資額は、1932年の4,200万ルーブル(留)から、1936年の10,000万ルーブルへ増加し、石油、石炭、砂糖、煙草、皮革、印刷等の大工業生産額は、同期間に5,900万ルーブルから11,400万ルーブルに増大した。
またキルギスでは民族文学を持たなかったが、ラテン文化を共有するようになり、キルギス語の新聞が36種、その発行部数は8万7千、出版書籍は百十余種、その発行部数は7万3千となり、共産党員数は1万5千人で、うちキルギス人が60%、コムソモール(青年団)構成員数は4万人で、うちキルギス人69%である。
047 ソ連の東部地方への投資額は、第一次五カ年計画期間内に、従来の10倍の2700万ルーブルであり、第二次五カ年計画では、予算額40億5800万ルーブルに対する実績は、80億ルーブルであった。1932年頃、人口約200の黒龍鉄道沿線の某駅は、1937年には、人口3万のピロビジアン工業都市となり、コムソモリスク市は、同期間内に、53戸から人口7万の都市に転化し、極東の一大工業都市となった。
ソ連の東部地方の学校総数は、1922年の987校から、1936年の2553校になり、それにはロシア人だけでなく、朝鮮人、中国人、コリヤーク、カムチャダル、オロチオンなどの民族学校も含まれている。人口8000のコリヤーク民族管区では、革命前は一つも病院がなく、就学者数は200人にすぎなかったが、革命後から1936年の間に、学校数は50になった。つまり、中学校5、師範学校1、病院11、産院20と躍進した。
048 ソ連では、勤労階級に近づきやすいソビエト組織を政治の基礎とし、また全民族の平等と自決を基礎とした。後進諸民族が工業化によって鍛錬・教育されなければ、ツアリズム時代から継承された特権的地位、その専横、それがもたらす民族間の対立葛藤は持続され、国際関係の激烈な対立競争のうちに瓦解していただろう。
ソ連の民族政策は成功した。「内容においては社会主義だが、形式においては民族主義」というのがソ連の指針である。工業化と後進民族の旧式文化とは葛藤対立しがちだが、旧式文化を人為的に変化させようとするのではなく、工業化という大枠が、諸民族の融和と運命共同感を醸成するという政治的効果をもたらした。
049 1936年の改正憲法は、上述の諸民族の発達を表現している。1924年憲法でも、民族自決権と諸民族の平等権を確認しているが、現在のような経済的・文化的発達に基礎づけられてはいなかった。旧憲法は「民族会議の組織は、全体として(の)ソビエト社会主義共和国連邦ソビエト大会に承認されなければならない」としていたが、新憲法はそれを廃した。旧憲法は、「民族会議は連邦会議と共に最高中央権力を構成する」と認めながら、この規定のために、ソビエト大会で最大多数を占める大ロシア共和国の影響を受ける、という制限を残していた。改正憲法はこれを廃し、「民族会議は連邦会議と平等の権限を持つ」とし、両会議の合同会議の議長は、それぞれの会議長が交互に交代する、と規定した。民族会議と連邦会議の代表者数はほぼ同数で、1937年末の最高会議選挙の結果は、前者への代表者数574名、後者への代表者数469名であったし、連邦会議代表者中に大ロシア人の占める割合は60%であり、民族会議代表者中にその(大ロシア人の)占める割合は24%であった。
民族会議の構成
050 新憲法によって、加盟共和国数は、1922年の4から1936年改正憲法後の11に増えた。その代表者数は平等に25名であり、各自治共和国の代表者数は各11人、各自治州は各5名、民族管区の代表は各1名を、民族会議に選出している。人口8千のコリヤーク族は、民族会議に1名の代表を選出し、自己の主張をなす機会を与えられている。
050 民族間の融和 ソ連には200の民族がいる。「アジア種族は未だ自分たちの生活を固持している。共同の集会等に参加して喜んでいるが、それは政策的であって、純粋なものとは思われない。それがロシア人の人種的偏見によるものだとは私は思わない。ロシア人は人種的偏見を持っていない。アジア種族は、共産党員も他のロシア人と同様に、彼らの上に何かを被せようとしていると思っている。」(リッツルページ著 筒井訳『ソ連の十年』)
これは1938年までのリッツルページの見解である。ツアリズム時代に後進民族が被った抑圧と搾取から生じた不信と懐疑心を一掃するのは容易なことではない。
独ソ開戦当時、ソ連内には複雑な民族問題があり、ソ連は瓦解するのではないかと思われていたが、その考え方には根拠がない。
051 ヒトラーはソ連で意外な抵抗にあっている。トランス・オツエアン通信社の報道によれば、「ドイツ軍の包囲作戦は、独ソ戦で優れた結果を実証した。…しかし包囲されたソ連軍は敗北を承認せず、数千、数万の(自国の)軍隊を見殺しにした。ボルシェビズムは人間の魂を殺した。ボルシェビズムの国には、生存の権利や個性をもつ権利は存在しない。死後についての認識はなく、従って恐怖心がない。独ソ戦争は撲殺行為と化している。西部戦線では霊魂が一種の役割を演じ、オランダ軍やベルギー軍は、形勢が絶望的になると降伏した。」(1941年8月1日、東京朝日夕刊)
ドイツ人の従軍記者は「ソ連兵はどの民族も、独逸人に対して劣等感を懐いている。狡猾な手段が彼らの戦法である。…ソ連兵は挺身して死を恐れず、我々の背後から射撃し、負傷兵も武器を持って死に物狂いの抵抗をした。ドイツの第一線が30キロ進んでいるのに、後方の町ではまだ家の窓や屋根から狙撃する。(ドイツ軍が)ブレスト・リトウスクの村を占領した後でも、夜間はもちろん白昼でも、窓や屋根から執拗に射撃した。街路で行き会う市民たちは我々を親しげに迎えるが、女たちは次の瞬間には、背後から我々を狙撃した。」(1941年7月2日、東京朝日新聞)
052 ツアリズムの時代には(ロシアは)「民族の監獄」とも言われていた。200に近い種族や民族は互いに敵視し合いっていたが、現在のソビエト・ロシアでは「どの民族も、男子も女子も、死後どうなるかについての認識がなく、恐怖心もない。」抵抗して、敗戦が続いてもめげずに抵抗する。その精神はどこから生まれたのだろうか。
国内の対立を解消できなかったベルギーやオランダ、フランスは、「霊魂が役割を演じて」十分な準備をしたドイツ軍を前に惨敗した。ソビエト・ロシアの共産主義者が、人間の霊魂を荒廃させて野獣化したことを、ドイツの東西にわたる戦争が示した。一般に戦争に負けると、政権のせいにして暴動に発展するが、ソ連指導部はこの20年間、世界史上空前の改革を断行して、文盲をなくした。「霊魂の荒廃」を言うよりも、この事実を冷静に研究すべきではないか。
053 ソ連の国内建設について異論もあるが、ソ連はその建設的努力の成果を確信している。資本主義世界では過去25年間対立し、(他国に)武力干渉を続けたが、ソ連はそれを免れ、国内改革に専念できた。ソ連だけでなく、トルコ、イラン、アフガニスタン、中国、特に新疆省などのアジア地域の諸民族も、国内改革に成功した。
六 生産過剰を避けられない資本主義の行き詰まりとしての帝国主義戦争=第一次大戦をよそに、ソ連とその指導を受ける植民地における民族主義運動は、ソ連が力で植民地を制圧するという方式ではなく、各民族の自主性が認められながら自律的に成長していく。その具体例として、トルコ、インド、中国、新疆、中国共産党自治区の取り組みを解説する。
この論理は私腹だけを肥やそうとする資本家にとっては耳の痛い話であるが、それをどんなに弾圧しても、またいかに帝国主義を国家主義・天皇制で粉飾しようとしても、今でも通用する論理である。
053 植民地・半植民地国は、第一次大戦とソビエト・ロシアの影響を受け、近代的革新の軌道に乗った。1919年~21年にかけて、トルコ、ペルシャ、アフガニスタンが、1924年に中国が、ソビエト・ロシアと平等条約を締結し、列強に対する反帝国主義と、民主主義あるいは新民主主義革命を進めた。
トルコはソ連以外のアジアでは最も輝かしい成果を収めた国である。1920年、連合国によってセーブル条約を締結させられたトルコは、サルタンによる専制政治の積弊と、敗戦の結果による窮状に陥った。しかしこの存亡の危機に際して、約半世紀にわたるトルコ革命の結果、英傑ケマル・アタチュルクらが立ち上がった。彼らは英仏等連合国の勢力を廃除するために、革命ロシアと提携し、1921年3月、モスクワで「帝国主義に対する闘争」で、トルコとソ連との連帯、両国利益の共有を強調した和親条約を締結し、列強の排撃と、サルタン専制政治に対する革命に邁進した。
しかし、この年1921年の2月、トルコの旧式の外交官ベキル・サミ・ベイは、ロンドン平和会議で、「イギリスが列強によるトルコ占領を断念させられたら、トルコをボルシェビキに対する緩衝地帯とし、帝国主義の奴僕になることに甘んじよう」と申し出たが、英首相には爆笑された。このようにトルコの国内における革新の遂行は容易でなかった。
054 ケマル・アタチュルク党のトルコは、結局列強の干渉を抑え、列強のトルコへの接近は、トルコの自主独立の条件下で許容されることになった。これはソ連と取り結んだトルコの対外政策の成功であった。
反帝国主義の遂行とともに国内革命も遂行された。この革命の根本は、幾百年にもわたる神政政体・僧侶国家を打破して現代民主主義国家に転化することであった。僧侶階級は、政治、法律、教育、慣習など一切の支配者であり、近現代の文明・文化の発展に対する深刻な妨害者であった。この旧弊に対してケマル・アタチュルク党は大胆不敵な斧鉞(ふえつ)を加え、その目的の達成に成功した。こうして赤帽子、纏(てん、まとう)頭布、婦人の面紗が廃止され、アラビア文字に代って容易なラテン文字が国字とされ、1926年、女子の家庭や社会における正当な地位が保証され、女子は男子と同じく、一個の人間、一個の国民として待遇され、1930年、市町村議会議員の選挙権と被選挙権が与えられ、1935年、21歳以上の女子に国会議員の選挙権と被選挙権が与えられた。(日本よりも早い。しかも自力で行った。日本は戦争に負けて米軍に与えられた。)
055 この文化建設と並行して、経済建設も断行された。鉄道の敷設、農耕技術・経営の改善、保健衛生設備の普及などである。トルコは先進列強の援助を求めず、ソビエト・ロシアの支持を得て、武器工場の設立など、国内産業の工業化で成果を収めた。1934年、ソ連の信用と技術家の派遣を得て、鉱業、工業、農業、道路建設、鉄道の五カ年計画の立案・実行が進められた。
軍隊が改造され、1939年ころのトルコ軍の平時員数20万人に対する士官数は2万人―士官の多くは下士階級―で、動員がしやすくなった。
イランやアフガニスタンにおける反帝国主義運動も、ソ連の支持を得て成功し、トルコほどには達しなかったが、近代化が進んでいる。詳細は省略する。
さて、中国の新疆省は(国民党の)重慶政府に属するが、もし重慶政府の政策が宜しく、国際環境にも恵まれてその革新が全支那で実現されていたら、東亜の情勢は現在とは全く異なっていただろう。
新疆省の革新は、馬仲英*の反乱当時、満州事変で苦酸を嘗めて同省に逃げ込んだ盛世才を中心として、ソ連の支援を得て遂行された。
*馬仲英は1934年、盛世才の反撃に会って敗れ、ソ連空軍に入隊した。
*盛世才は1939年、ソ連共産党に入党。1949年、台湾に逃亡。
この変革を「赤化」と称してぼかすことは、新たにアジアに展開しつつある民族問題の本質的解決を誤まらせる。1935年、同省新政権樹立第二周年記念会の席上、督弁(とばん)の盛世才は「省政府においては諸民族の親和を計り、新疆から奪取しようとするあらゆる分子と抗争した結果、今や新疆を中国の主権下に確保する最大の使命が遂行された。省政府が、ソ連には何らの侵略的野心がないことを信じて、これと親善関係を結んだことは、使命の遂行上、多大の貢献をなした」と述べている。
盛世才は1931年―4年の内乱鎮定に当たり、ソ連の支援を受けながらそれに成功した。ソ連は内乱鎮定のための武力や資材だけでなく、内乱中に始まった建設でも、物質的・文化的側面で支援した。
この間に盛世才は省内の実情に基づき、一、民族平等の実行、二、信仰の自由の保証、三、農村救済の実施、四、財政の整理、五、吏治の革正、六、教育の拡充、七、自治の推行、八、司法の改良という八項目の宣言を行い、さらにこの八項目を実現するための保障としての六大政策、即ち、一、帝国主義側からの進出を逃れるための反帝国主義、二、帝政と搾取階級がなく、領土に対する野心もないとする親ソ政策、三、政治・文化における漢人の独占打破のための民族平等政策、四、官職を致富の道とする旧弊打破のための吏道刷新政策、五、五年に一小乱、三十年に一大乱という不安を除くための平和政策、六、農業、工業、交通、電力、学校、病院等に関する近代的建設政策を確立した。
これを遂行するための計画は、ソ連の技術者による同国の五カ年計画の経験を参考に、新疆の実情に即してなされた。計画遂行の局に当たるものは、ソ連の技術者の援助は受けているが、新疆人であった。新疆は(ソ連から)技術と資材を補充された。盛世才は建設専用に、ソ連から500万ルーブルの借款を、年利4分で得た。
感想 2025年2月13日(木) ソ連に領土的野心がないと著者は度々言っているが、この3年後の千島列島の占領はどう説明するのか。ソ連なら核兵器を持ってもいいという論もあったが。
新疆はソ連の影響を受け、その民族政策で成果を収めた。上述のように同省は五年に一小乱、三十年に一大乱と言われるように、争乱が絶えない多民族社会であった。ウイグル族60.0%、中国人12.0%、蒙古人8.7%、カザック族7.7%、東干人*6.0%、満州族2.0%、キルギス族1.6%、その他ロシア人、タジク人、ウズベックス人、インド人、タタール人、ジブシー族などが2.0%を占める。
*東干人、ドンガン人 主に中央アジアのカザフスタン、キルギス領内のフェルガナ盆地に居住する中国系ムスリム。
ところが中国人と東干人を合わせた18%が、他の84%(82%)の異種族に対して、旧支那式の専制政治を行っていたことが問題の種であった。盛世才党はこの旧弊を改め、省政府の副主席と数個の副廳(庁)長にウイグル人を任命し、同種族が多数居住する地方の特長その他上級官吏に、同種族出身者を任命し、省政や県政で、各民族の代表者からなる民族協議会が随伴することとし、政治的に諸種族の利害が代表されて民族融和が図られた。
革命前には旧支那式愚民政策により、ごく少数の上層の子弟二千数百人が、60余の学校で不完全な旧式教育を享受していたのに対して、絶対多数の民衆は幾百年の文盲と愚昧のうちに沈淪していた。この積弊は革命政府によって掃蕩され、溌溂とした広汎な教育制度が民衆のものとなった。各民族の文化促進会の組織や各民族の文化的向上が支援・奨励され、各民族語によって教育が行われ、民族語によって書かれあるいは翻訳された教科書が編輯されるようになった。1934年~35年以来の努力の結果、中等以上の学校数10、その学生数1,398人、小学校数215、その生徒数1,738人、家庭の会立と私立の学校数1,558、その生徒数150,000人へと躍進した。その他軍隊の新たな教育編成、士官学校等が設立され、産業開発ではソ連の五カ年計画の経験が取り入れられた。
058 世の多くの人たちはこのような新疆を「赤化」というが、それは事実に反する。「赤化」とは一般観念では、「共産主義の実現、あるいはその実現のための勤労階級による政治権力の獲得」を意味するが、新疆の実際は、土着資本や地主層の利害だけでなく、各民族民衆に基づく新たな民主主義的発展であり、同時に、先進強国の抑圧の下に屈する列強世界の法則に鑑み(の観点からは)、反帝国主義的発展である。
同省が赤化しているかどうか半信半疑で同省を視察旅行した蒋政権の中国人宋応精はこう断言している。「新疆の建設は、ただソ連の物資と技術上の援助を運用するだけであり、政治的条件は包含していない。(世人は)軍事政治の大権がソ連の手中に握られているのではないかというが、一体(それは)どんな技師や教官を指すのか。私の見た所では、たしかに、牧畜の技師はソ連人で、官立薬局の薬剤師もソ連人で、軍官学校と航空隊の教官もソ連人で、三年計画建設の専門家もソ連人であるが、これは、軍事政治の大権が我が国人(中国人)の手中にないという証明になるのか。もし新疆がソ連の傀儡になったとするのなら、何のために白系ロシア人の軍隊が依然として(新疆に)存在しているのか。」「新疆の各小学校は三民主義の教科書を編んでおり、各学校や各機関は、いずれも青天白日旗と孫総理の肖像を掲げている。もし総理が存世されて新疆の話を聞かれたならば、総理は必ず喜ばれ、『ああ私の遺嘱(死後のことについての依頼)は、新疆で初めて本当に実現した』と言われるであろう。」(「蒙古」同人論文「新疆の政治経済の状況」1940年5月号)
最後に中国とインドが、第一次世界大戦とその後の世界情勢の影響を受けてどんな変化をしたか、さらに現在世界によってどんな発展を示すであろうかを見ていく。まず第一の問題について略述する。
1924年1月、国民党の改組に際し、孫文は以下のような演説をした。
「私は嘗て北方に対する南方の勝利は、帝国主義に対する革命の勝利であり、これに反して北方のために南方が敗北することは、革命自体の敗北であると考えていた。しかし、全支の学生が革命思想の側に獲得された今日、もはや我々は従来のように、中国の他の半分に対する闘争という立場に立ち止まっていることはできない。我々の党はもはや異なる勢力から、つまり外部から、来るのではなく、内部から、動く勢力から、即ち革命思想に対する国民大衆の精神的賛同から、支持を受ける必要がある。今日から、この賛同こそ我々の一切の事業の基礎とすべきである。単なる武力によって達成される成果は決して永続するものではないから、なおさらである。(大衆からの精神的賛同の価値はある。)」
「今日まで我々の革命はその目的を達成できなかった。なぜか?それは我々に一つの力が欠けていたからである。いかなる力か?それは国民の正しい同情である。即ち革命は今日に至るまで源泉のない川であり、根のない樹木であった。我々を敵に対する勝利にまで導くことのできる唯一の道は、何よりも全国民衆の心を獲得することである」(ウイットフォーゲル「孫逸仙」3134頁)
ここに支那民族独立運動の新たな発足があり、辛亥革命以来、孫文革命党が嘗めた絶望的窮状からの脱出と一大躍進とがある。北伐は、幾百万幾千万の中国農民・勤労者・都市小市民層を、民主主義的・反帝国主義的要求の貫徹に向けて、邁進させた。この強烈な革命的勢力の勃発を前にして、資本家地主層は恐怖し、結局1927年、国共分裂を齎し、革命は頓挫し、列強の干渉と進出を導き入れた。こうして国共両党の対立抗争は持続した。
薄弱な旧南京政府(蒋介石1928/10/10-1031/12/15)は、勤労民衆の利益を顧みず、形ばかりの国内建設を遂行し、そのため益々民心から遠ざかった。この虚に乗じた共産党は、その急進政策を是正し、江西省を中心に、強力に発展した。列強は旧南京政府の建設に参画し、それぞれの金融資本的支配を中国に拡張しようとし、中国に重大な利益をもつ日本との抗争を激化し、それと同時に、旧南京政府も日本との対立を激化した。
こうして満州事変、支那事変が勃発し、日本と中国との致命的な戦闘状態が惹起・持続された。そしてこの中国の危機が、国共両党の合作を齎した。
この新たな国共合作は、現在支那民族の独立運動にどんな効果をもたらしているか。中国共産党は江西省で、その極左的傾向のために辛酸をなめた後に、中国の現実に即した考え方や政策を習得し、日支抗争の激化とともに、三民主義によって中国革命を推進すべきだと決定し、三民主義を根本原則として、国民党と提携した。対日抗戦を続行する以上、共産党の影響下に、国民党は益々広範に民衆を動員しなければならない必要から、好むと好まざるに拘わらず、共産党と共に、新民主主義的改革をせざるを得ない。そしてこの支那事変の継続によって必要となった民衆の動員は、単に軍事上の問題だけなら重大な問題とはならないだろう。事実は、民衆の(軍事的)動員だけでなく、政治・経済・文化等に重大な恒久的変化を与えている。
農業国中国における民衆動員の対象の8、9割は農民であるが、中国共産党は国民革命における農民の力量を高く評価した。農民の革命力は、中国のこれまでの歴史からみても、現在の国民革命への参加においても強大である。問題はただ良い指導者のもとに目的と組織を集中することであると(中国共産党は)考えている。このような評価は、今日に限らず、1926年の北伐当時においても、中国共産党が考えたことである。現在同党の活動が、この同じ評価に基づきながら、前時代と異なる点は、前時期の急進的突撃の苦い経験の上に立ち、農民の既成観念や既成組織を利用し、無理を押し通すことなく、これを新しい目的と組織に転化させるという老練な手腕によっている点である。
同党は日本の攻撃を目前にした農民に対して、国家防衛の義務を直ちに説かず、先ず家郷防衛の義務を説き、旧来の保甲制度を活用し、農民の視野と活動を自衛と国防に展開させている。
この保甲制度は、「抗戦建国実施綱領」の中で掲げられている民衆組織の調査充実方策、すなわち「管、教、養、衛」制を、保甲制度の運用の中に適用している。つまり、管は、官が民を管理することだけでなく、人は自らを管理すると同時に責任者を監督すべきであり、教は、学校教育だけでなく、民衆訓練であり、自治、自衛、自養の精神を涵養させることであり、養は、国防抗戦の生産だけでなく、民衆の自給自足を計ることであり、衛は、郷村だけを守ることではなく、同じく連なる全地方、さらに全国家を衛ることであると説き、同党の新民主主義で実行している。こうして地方に存する旧制度の中に、且つ各地民衆の生活慣習を尊重しながら、新たな政治・経済・文化・軍事の目的と組織を発展させつつある。中国共産党の運動は、支那社会の革新にとって最も重大な一つの原動力となっている。
061 このような共産党の活動は全ての地方で均一に実施されているわけではないが、おおよそこの方針で行われている。(中国共産党の抗日根拠地である)晋察冀(しんさつき)辺区の定県では、25歳以上の、陝甘寧辺境(区)では、16歳以上の男女に普通選挙権が与えられ、保甲人名簿に基づいて選挙人名簿が作成され、保民大会で30人につき1人の村長選挙人が選出され、村長選挙人の間で村長と副村長が互選される。
土地政策では、地主の土地を没収するとか、小作料を極端に引き下げるとかの従来の急激な方策は廃止され、その代わりに、救国公糧、救国公債などによって、土豪劣紳(地主や資産家)の負担を過重にし、他方、租税の減免、利子の引き下げなどによって、農民の負担を軽減している。農業生産の向上のために、耕地を持たない農業労働者や貧農、難民、失業者などに、官業荒地や私荒地などの荒蕪地を開放して自由に開墾させ、そうしてできた開墾地には地租負担を免除している。また開墾に必要な農具は、従来のように地主・富農から没収するのではなく、地主・富農の農閑期に貸与させている。合作社運動も、農業生産を増大するために、消費・生産・配給において行われている。農民の低い文化水準を昂揚させ、農民を現代化し、抗戦意識を高めるために、文盲退治のための識字教育や技術教育等の啓蒙運動が、抗日国難教育訓練として行われている。
中国共産党のこのような老練な方策が着々と収めた効果は、国民党支配下の諸地域に影響を及ぼさざるをえない。重慶政府が(日本に対して)抗戦を続ける限り、民衆の動員に成功しないわけには行かない。そのためには共産党のように、民衆の生活に即し、その生活の向上を計り、国民的愛国心を発揚させないわけにはいかない。しかし重慶政府と国民党は、民衆が隆起することは、自分たちにとって不利だとみなし、どうにかしてこれを抑制しながら国家統一を求めて来たのだが、緊迫した事態によって、従来通りにするわけにはいかなくなり、やむを得ず共産党の民衆興起策に追随せざるを得なくなった。過去において、民衆動員に関して、この国民党的方策によって郷村地方行政の改革を行い、それに最も成功したと言われる広西省では、嘗て50万の壮丁を揚子江方面に派遣して抗日戦に参加させることができたのだが、この方面で敗戦し、さらに多量の壮丁の軍事的動員が必要となり、従来のような程度の改革では農民の興起は難しくなり、現存の政治体制を変革せざるをえなくなった。抗日戦の持続のためには、広西省の指導層が共産党をどんなに憎悪していても、同党の方策に追随せざるを得なくなった。抗日観念の強烈な小ブルジョワ層の青年や下級青年官僚や労働者などの活動に頼るためには、やむを得ずその方向に向かっている。共産党の活動は、間接的に、国民党支配下の全中国諸地域に及んでいる。
062 重慶政権は「日本が中国経済を封鎖することは、(却って)中国経済の復興のための機会である」と確信し、財政・金融・農工・文化の各般において、画期的な革新政策を樹立・遂行しているが、この革新政策には、中国民衆の民族と民生の発展が一貫している。
例えば、1939年4月に開催された全国生産会議大会の宣言で「農産物価の高低は、直接的には農民の利益に影響し、間接的には農業の生産に影響する。だから価格を高めることは、生産を増加する上で最も有効な方法である。…我が国の農民は資金の欠乏のために、充分に肥料や労力を使用して生産を増加できない。農業金融機関によって速やかに長期・中期・短期の貸し出しを行うべきである。農業生産技術の改進も、生産を増加させる方法である」とある。
また最近、農業部長の陳濟棠(とう)も、農業工作について「農民の地位を改善し『耕作者有其田』という孫文や国民党の主義を実現せざるをえない。土地の公平な分配がなければ、生産の増高は決して実現できない」と述べている。
1940年6月に重慶政権が発布した「非常時期人民団体組織機構」は、「第三条、人民団体は、民権の精神に違反したらいけない」、「第六条、組織は下から上への縦的組織であり、上級組織は、下級団体の半数以上の参加によって成立する」、「第七条、人民団体は民衆を基礎とし、合法の保障を与えることができる」と規定するように、(日支)事変以前の民権や民主に対する反動的な態度を、蒋介石政権が一変したことを証明している。重慶政権が戦争によって被った破壊だけに目を向けるのではなく、上述のような建設的な方面にも目を向けるべきである。重慶政権の画期的な新政策は、実際的動員を齎したのである。
スタッフォード・クリップスは1940年の論文「中国における民立制度」において、「事変以来、自治的に組織された幾千の農業合作・工業合作・合作金庫などが、軍需品や民需品の生産を増大させて避難民や失業者に仕事を与えただけでなく、中国において民主政治の永久的一大組織の基礎を築いた」と指摘している。これは日支事変によって強圧的に成立された国共合作の成果に他ならない。
感想 ロシア革命政府は1917年に生まれたばかり。本論文の執筆は1942年だから、1917年から25年しか経っていない。ロシア革命政府は領土的野心を持たず、ブレスト・リトウスク条約1918では、ドイツに対して領土的に大幅に譲歩した。また建国理念も理想主義的だった。だからそれが世界に与えるインパクトは大きかったに違いないと想像される。今のプーチン・ロシア政権とは大いに異なる。プーチンを見習おうなんて考える人は少ないだろう。だから、本論文がその理想を推奨する文体になるのもやむを得ないのではないか。それをやっかんで、その推奨者たちを牢屋に入れて拷問し、弾圧するなんてみっともない。共産主義者でなくてもロシアのすばらしさを論ずることは理解できる。
国共合作は、外観上は両党の地盤争いのために今にも分裂しそうに見えるが、実際は、数年間の抗争を通して持続している。それは抗日戦を持続せざるを得ない重慶政府の立場上止むを得ないことであるが、両党の対立抗争は、主義原則の対立というよりも、勢力範囲の争いであり、支那事変後に共産党に対して有利な地位を得ようとする重慶政府の意図から出ている対内問題である。むしろ国共間の抗争は共産党の民衆動員の効果と、その重大性を証明している。
さらに抗日戦持続の必要に駆られた国民党と共産党との民衆動員における対立抗争と、後者の前者に対する感化力の蔓延について留意すべき他の一面は、支那少数民族に対する主義・方策に関してである。中共六中拡大委員会において主張された代表的意見によれば、中国共産党を多数の党派やグループに分裂させようとする計画に対する闘争において最も重要な任務は、各種民族全体を単一の抗日戦線に統一することである。
第一に、蒙古族、回教民族、西蔵族(チベット族)、苗族(ミャオ族、中国の西南山地に住む。モン族)、猺族(ヤオ族、湖南省、広西チワン族自治区、広東省、貴州省、雲南省などの山地に広く分布している)、夷族(雲南省、四川省、貴州省、広西チワン族自治区からベトナム、ラオスに居住)、番族(台湾族?)その他の諸民族は、漢人と同等の権利を持たねばならない。これらの諸民族は、抗日戦の条件として自決権を取得し、単一国家内の埒内で、諸民族との統一を継続しなければならない。第二に、少数民族が漢人と雑居している地方では、地方政権は、この地の少数民族の代表者からなる委員会を組織しなければならない。そして同委員会は省や県政府の機関となり、これに自民族内行政の指導をさせ、またこれらの少数民族に対して、省や県政府機関での参政権を付与しなければならない。第三に、各少数民族の文化や宗教、習慣を遵守しなければならない。また彼らに漢文・漢語の習得を強制すべきではなく、彼らの自民族語、自民族文化の研究発達に対して援助を与えるべきである。第四に、漢民族にその大漢人主義を放棄させ、各少数民族と漢人との平等権を確保し、彼らに対する侮蔑的態度や、彼らの言語や文化に対する侮蔑的態度を禁絶しなければならない、と少数民族に対する特別の注意を与えている。
064 この中国共産党の民族政策における主張は、単に理論に止まらず、実際の政治上に活用されている。既に1939年には西北支那に、中国回教救国連合会が組織され、西安事件以後は大いに拡大され、甘粛、青海、寧夏、新疆、河南、山東各地域での少数民族との連携はますます緊密になり、民族統一の綱領が伝播された。同連合会は省と県委員会を置き、各県の委員会は、各地に支部を持ち、抗日戦に回教民を動員している。これに対抗して重慶政府も、中国回教民救国協会を持ち、諸地域で抗日戦に回教民を動員している。両党の対立抗戦は、両党の民族政策の真価によって決定されるだろう。
上述の支那民族の独立運動の発展とともに、隣国インド4億の民衆は、現在の世界大戦の発展に乗じて、立ち上がっている。過去約300年間にわたるイギリス帝国の抑圧を一掃し、支那同様に、現代文明・文化に即応した新民主主義革命を目指している。第一次大戦後のインドにおける勤労民衆と土着支配層とは相呼応して英帝国主義反対の国内改革を断行し、熾烈な闘争を行ったが、その経験が現代世界大戦を好機として拡大強化されている。
065 この運動の大指導者ジャワハルラル・ネールは、その獄中の陳述の中で、
「私たちはインドの名においてインドの心を語る。個人としての私たちがどんなに取るに足りないとしても、インド大衆の代表者としての私たちは偉大である。これら人民の名において、私たちは人民の自由を求める権利を主張し、また人民自らの行動を決定する権利を要求した。私たちはこの権利を認められたことがなく、さらにインド人民に対して何らの責任をもたない個人や集団が、その意志を人民に強制し、インドの人民あるいは人民の代表になんら図ることもなく、インド数億の民を、求めていない巨大な戦争の坩堝に投げ入れる権利はなかったはずである。しかもこれが、戦争の名目となった、自由・自治・民主主義の名の下になされたということは、まさに驚くべき事であり、また意味深いものである。」(綜合インド研究室「綜合インド」七月報第四号10頁)
この主張は、現在英帝国主義による参戦要求に反対するインド民衆の確信である。それと同時に英帝国が真実にまた現実にこの要求を容れるにおいては、もし枢軸諸国の、後進民族に対する政策に変化がないとすれば、英帝国と共に現世界戦争に参加する覚悟をあらわすものである。*
*インド人が戦争=第二次大戦に参戦するというのか?「世界史の窓」によれば、反帝国主義、反ファシズムの旗は掲げられながらも、ボースのように日本(ファシズム)との協力による対英独立論もあったようだ。また回教派も別行動を展開することもあり、インド内も一枚岩ではなかった。
西ヨーロッパに戦争が勃発するとともに、事実、反帝国主義と反ファシズムを、インド民衆は宣言した。同じくネールは1936年、ルックナウにおける全インド国民会議党大会において、支那民衆運動に感激して、
「東亜において戦雲は地平線上に現れている。世界的諸勢力に向かって、人間の自由を擁護し、政治的・社会的束縛を打破しようとする諸勢力に向かって、我々は抗争する。彼らの闘争への我々の完全なる協働を申し込む。我々は我々の闘争が共同の闘争であることを確信している。」
066 現在の世界大戦の過程の中で、インド民衆の反ファシズム・反帝国主義と国内革新は、今後どんな発展をするのだろうか。インド民衆は現在、1936年~37年の北伐に際して展開した中国民衆の革命的勢力に類する勢力を展開しようとしている。中国と隣接国インドとが呼応連環する巨大勢力は、アジア問題解決のための決定的な地位を占めようとしている。世界情勢の発展と変化は、中国・インドだけでなく、すでに新民主主義の革新に入ったトルコやアフガニスタン等にも影響し、彼らはインド民族と同様の民族的主張を貫徹しようとしている。このように世界が一大転化を出現していることは、深く省察・留意せざるを得ない世界的事態である。
七 感想 大言壮語で何を言っているのか意味不明と最初は思ったが、文明と文化に関する論はよく分からないが、ここで細川嘉六が言おうとしていることが分かった。つまり、日本国民は世界史の流れから取り残された現体制を打破するくらいの若さを持ち、世界史の新民主主義と民族主義の流れに貢献するような世界的発信をしなければならない、と言っている。
現代世界に、文明と文化との調整問題が提起されている。その問題の解決如何によって、人類社会は前進あるいは後退し、はたまた崩壊するかもしれない。資本主義世界の指導者たちはこの問題に当惑し、科学技術家、哲学者、企業家、政治家等は、科学技術の圧殺か、血を犠牲にする民族戦争か、文明の崩壊か、を以てこの宿命的な世界問題に対処した。
その結果第一次世界大戦に続く現在の世界戦争が勃発した。第一次世界大戦後の二十年間における世界情勢の展開の特徴は、資本主義社会における止まるところのない対立の激化と、これに呼応した、同世界(資本主義世界)から敵視され、無視されたソ連、トルコ、イラン、インド、中国等の挙国的反帝国主義、新民主主義運動の発展とである。この二方向は文明と文化との調整問題解決の二方向である。
067 現在の世界戦争はどんな世界的変貌を齎すか。現在の世界戦争は第一次大戦とは異なり、すでにドイツの占領地の政府は分裂してナチス・ドイツにとって有利ではない、一方、英米でも労働争議が勃発して人民の権利を伸長する方向を向いており、英米の指導層が長期抗戦とその成功を追求する限り、全民衆の支持を必要とし、その結果民衆の新民主主義的な要求に対して譲歩するだろう。また中国、インド等における全民族による反帝国主義・新民主主義も興っている。これらは資本主義の行き詰まりの結果であるが、またそこには新たな人類社会の発展が内包されているかもしれない。
過去二十年間の世界情勢が、独善・独断的ではなく冷静・科学的に考究されなければ、哲学も政治も生まれないだろう。八紘一宇の説明が各方面からなされているが、それは東亜諸民族を納得させられるであろうか。またそれは日本の民族的思潮になり得るだろうか、疑問だ。内政問題や民族政策は具体的・効果的に解決されなければならない。
068 現在の世界情勢において軽視できない傾向は、ルネッサンスを経験したことのない日本人に理解されているかは疑問である。某科学者曰く「全てのことは二つの観点から考察される。一つは、普遍的流通性、機能概念、学問的認識、冷静さなどであり、愛国憂国の感情を冷却する。もう一つは、固定的停滞性、本体概念、信仰的愛着の情、歴史的探究から汲みだされ、熱情的で、科学的態度を破壊する。国家・民族等に関して、学者は理論的だが、反愛国的になり、他方、愛国者には理論がない。学問が進むと愛国・愛郷心は消失し、他方、愛国者の多くは無学者の間から輩出する。」(「理想」昭和10年1935年3月号、松永材「日本国民主義の意義」61頁)
科学と愛国心とが両立しないという考え方は、アリアン民族以外に世界を導き文明と文化を発展できる民族はない、という考え方の亜流である。愛国者は市井無頼の徒から輩出するとは、何のことか。それは蒲生君平、高山彦九郎、林子平のような偉大な愛国者を辱める考え方でなければならない。
現代の科学は、自然科学と社会科学の区別を消滅し、人間社会を、さらには人格さえも、物質同様に分析する。マックマレーは現代精神についてこう語っている。
「我々は今、文化的伝統における新しい破局に直面しているのではないか。つまり、我々は今、科学の進歩を生活条件の統制に適用しようとする出発点に立っているのではないか。今まで科学を人間世界の外においていた禁制が、今取り除かれつつある。科学的心理学が発達しつつある。自然が文化的世界の興味の中心的焦点であることをやめ、物質と機械が登場しつつある。これからの未来はどうなるのか。文化から物質に転落した以上、それ以上転落することはないし、科学が人格の世界に有効に侵入したばあい、それ以上科学が侵入できる世界はないだろう。大戦の終末とともに我々が入り込んだ段階がその進路を走った場合―その進路における速度は速いだろう―、ヨーロッパ精神の発達段階が完了するだけでなく、中世の終わりに出発した全過程が完全に終わるだろう。この進路が最後の目標に達すると、それはヨーロッパ的であることをやめ、世界的なものになるだろうと見通すことができる。
近代精神はヨーロッパ的進歩の中で発達してきた。しかし今この精神は近代世界の精神になろうとしているようだ。今後どうなるかを推量することはできないが、それは科学の成果に立脚した統一的な世界文明になるかもしれないし、或いは、近代精神がそれだけで作り上げる新しい文化かもしれない。なぜなら、人間の肉体が食物なくしては餓死してしまうのと同じように、人間の精神は文化なくしては餓死するほかないだろうし、中世期が蓄積した伝統的文化という資本、即ち近代精神がそれによってその工場を建設し、機械を据え付けた資本は、もはやほとんど使い果たされているからだ。」
感想 心の中にまで入り込んできた科学の進歩によって近代精神は餓死するしかないということか。
070 この論断は、今の世界情勢とソ連との影響下に、トルコや新疆等で発展した欧亜の新たな情勢を勘案しながら冷静に、かつ科学的に、味読されるべきである。真実な科学に基づかないでは、この欧亜にわたる新情勢の意義は理解できないし、アジア10億の諸民族を指導すべき日本的思想(八紘一宇)も政策も、発展できない。新しいトルコの革新は、どんな精神と政策によってもたらされたのか。ケマル・アタチュルクはこう語る。
「一切の偉大な運動は国民精神の深いところから流れるものでなければならない。国民精神は一切の力と偉大さとの源泉である。この国民精神の昂揚によって、吾等はこの国をトルコの名に値する誉れある国としなければならない。トルコはその言葉の完全な意味において、文明国とならねばならぬ。そのために吾等はトルコ本来の文化を培養する。同時に進んで外国の文化も学ぶだろう。一切をトルコ的に考え、トルコ的に見ることによって、あくまでもトルコ精神の独立を護持しつつ、アジアとヨーロッパからその最上のものを摂取するだろう。」
感想 「八紘一宇」など日本の価値観だけに立脚していては、世界を導くことはできない。どの国のナショナリズムも尊重されなければならない、と言いたいのだろう。
この精神に基づいた革新が、トルコ絶対専制の神聖政体を打破し、文明文化の発展程度を計る尺度とされる、女子の地位を男子と平等にし、女子に、市町村会議員や国会議員の選挙権と被選挙権を与えたのである。この精神の新民主主義的部面について、新トルコの偉大な指導者アタチュルクは、以上のことを述べたのである。また某学者はこのことについて以下のように述べている。
「トルコの女子、特にアナトリアの農婦たちは、このような男女平等の待遇を受けるにふさわしい勲功を、独立戦争のときに立てた。サカリア会戦のとき、トルコの一将校が、負傷した三人の女子の傍らに立っている兵士を見た。『なぜ戦線に女子を伴っているのか』との訊問に、兵士はこう答えた。『私が連れて来たのではなく、彼女らが無理についてきたのです。今日私が最近配られたモーゼル銃を肩に戦線に向かおうとすると、私の母と娘が、私の猟銃を持って一緒に行くと言うのです。私は厳しく禁じたが、両人は、何としても承知しません。しまいに母は怒り出し、お前をこの世に産んでやったのはこの母ではないか。この母はお前の指図は受けぬ、と言って、遂に一緒に戦場に出たのです。』このようなことは、この母子だけに限ったことではなかった。幾多の農村の女子が、男装をして男子とともに戦った。弾薬や糧食を担い、輜重の任務に当たった。一農婦は険しい山道を馬車で弾薬を運んでいたが、馬が脚を折って斃れたので、付き添っていた二人の子どもと力を合わせ、自らその車を引いて戦線に弾薬を届けた。だからこそアンゴラのムスタファ騎兵隊の台座に、大砲の側に跪くアナトリアの農婦の姿が刻まれている。ムスタファは彼女らの勲功の報いたのである」
日本民族の(八紘一宇のような)雄渾かつ適切なる思潮と政策は、少なくとも先ずトルコ等一連の諸民族の実相と動向の学問的研究と理解なくしては、展開・樹立されるはずがない。わが軍は緒戦では大戦果を挙げたが、現在の世界戦争は単なる武力で最後の目的に到達できるものではない。イギリスのマレー少佐は、その著「クラウゼビッツへの手引き」の中で、近代戦における輿論に関するクラウゼビッツの評価について、適切にこう述べている。
「戦争中における三大目的の一つとして、輿論を我が物にすることの重要性を説いたクラウゼビッツの、ほとんど予言的な―彼の時代でもそうであったが―考えは、根本的なものである。彼の著書を永久的価値あるものにする所以は、近代国民戦争の発展に対する彼の洞察の稀有なことによる。何となれば、彼の時代以来、欧州は益々大実業国民を生じ、民力と人民の感情と戦争における輿論とは、益々重要となったからである。事実、輿論を得ることは近代の大国民戦争では、政治家の主要な仕事となった。政治家にとって、戦争と実業との関係について、また彼が統括する、また統括するかもしれない数百の実業家との関係について、専念して研究する必要が生じてきたのである。」
072 アジア、殊に我が国に近接する諸国・諸民族は、それぞれの民族的発展の諸条件に応じた新たな民主主義革命を遂行するために、全努力を傾倒している。このような現代アジアにおける、世界史上未曽有の世界的事業を、我が全国民は明確に納得しなければならない。同時に、このような世界的事実を納得するためには、我が全国民は支配階級のために蔽いかぶさっている帝国主義的支配を打破するほどの国民的若さを取り戻すことが根本的条件である。尾崎行雄翁はその著「日本憲政史を語る」において、日本は明治20年代に、その若さを失ったと慨嘆し、北一輝はその著「支那革命外史」を一貫して、日支の問題は日支諸民族の革命的提携によって解決されるべきことを主張し、同じく、日本朝野が若さを失っていることを痛論し、さらに、その最後まで日支提携を求めてやまなかった孫逸仙も、日本支配階級の老朽を慨嘆している。全日本国民は、自己とアジア諸民族の偉大な発展をもたらすべき雄渾適切な政策を樹立するためには、どんな苦難を嘗めても、最も溌剌たる若さを、―内政における真実な大革新なくしては(その若さは)実現できない―獲得しなければならない。この国民的若さとは、現代世界の歴史的根本問題である文明と文化との調整を大胆不敵に解決する国民的意力である、と断ぜざるをえない。これこそ我が全国民が、世界の大勢に乗じ、真実に偉大となるために、まずもって達成すべき、当面の最も根本的な任務である。
以上
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