竹内康人「朝鮮人強制動員 南洋への動員と虐待・虐殺」 20250525 日
新宿区男女共同参画推進センター 新宿区「ヒロシマ講座」主催
「ヒロシマ講座」を2016年1月から月1、2回開催している。「<ヒロシマへ ヒロシマから>」通信を毎日ネットで発信している。責任者 竹内良男(たけうちよしお)
久保田豊は戦後会社「日本工学」を立ち上げ、今は辺野古の工事を受注しているが、かつては朝鮮で電力関連のダム建設工事をしていた。
東南アジアに対する戦後賠償はビジネスでもあり、それで日本企業は儲かった。ダムや道路をつくる「経済協力」は、日本企業を利することでもあった。
2010年代半ばの第二次安倍政権のころ、「強制労働ではない」という言説が横行するようになった。それは戦前の日本の行為を隠蔽するものである。そして彼らはこの強制労働問題を日韓対立にすり替えたが、強制労働は歴史認識の問題である。また安倍晋三は、強制労働被害者の訴えを「国際法違反」だとして被害者を演じた。2015年の安倍談話を見よ。
その流れを受けて菅義偉は、閣議決定を経て、「強制動員」という言葉を教科書から消し去った。ところがおかしな余談だが、山川出版社の教科書は「強制動員」ではなく、「強制的に動員した」として合格している。
これは「歴史修正」ではなく「歴史否定」である。
戦前、朝鮮半島で労働組合活動を禁止し、「決死増産」と銘打って強制労働をさせた。戦前における朝鮮半島での強制労働の事実は、これまでよく知られていなかった。
1939年頃「企画院」が総動員=労働動員計画を企画した。朝鮮の行政単位は、道、郡、面と範囲が狭まるが、その一番狭い「面」、日本では町や村にあたるが、その「面」を単位として労務動員を行った。行政が労働者を集めた。その名目は「土工」だった。彼らは軍の一部(軍属)、つまり施設部隊として集められた。そして逃げたら銃殺された。
東京の芝浦補給部は朝鮮から2万人動員したが、そのうち7000人が死んだ。
1 朝鮮人強制動員とは
彼らは南方に派遣された。
1938年から1945年まで、「軍務」として動員された人は37万人だった。
一方、1939年~45年、集団募集・官斡旋・徴用などで、日本へ「労務」で動員された朝鮮人は、80万人だった。
朝鮮独立運動は治安維持法違反とされた。
2 全羅南道からの強制動員の調査
全羅南道の「益さん駅」前に「少女像」があるが、その少女像は立って日韓合意(文書)を足で踏みつけている。ここは東学農民広場でもある。またその近くに岩石が露出した「月出山」があるが、そこは岩肌の公園ともなっている。
「真相糾明委」への被害申告数は22万8000件。
「光州遺族会」の資料もある。
1000人の訴訟団をつくった。今から34年前のことである。韓国では「1965年の日韓協定は解決ではない」と補償を求める声は強い。1980年代の後半になってそういう抗議の声が出て来るようになった。
①軍務関係
「被徴用死亡者連名簿」は1971年に日本政府から韓国政府に提供された。それによると陸海軍で4100人の前羅南道の人々が軍務動員されたとされる。
②労務関係
「光州遺族会」資料 「光州1000人訴訟」 1269人の動員
3 ミリ環礁での朝鮮人の抵抗と虐殺
到着した800人中200人が死亡。
海軍の朝鮮鮮人が飛行場をつくった。
米軍はここには上陸しなかったが、餓死した。「日本軍に抵抗すれば帰れるぞ」と米軍は朝鮮人に宣伝した。日本軍は死んだ朝鮮人の人肉をクジラの肉だとして食べた。朝鮮人の何人かは脱出しようとしたが、計画がばれて銃殺されたり、自死したり、逃げられたりした。
1991年、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求裁判」が起った。ここにミリ関係者の証言がある。朴鐘元(チョンウン)ら3人が生き残り、証言した。
韓国「真相糾明委員会」2000による調査に基づく資料
李仁申手記「南方紀行」2008、「ミリ島受難記」
「光州千人訴訟」20人
「海軍軍属身上調査票」(海軍軍属履歴原表)は、1993年に、日本政府から韓国政府に提供された。
米軍資料には「193人中68人を救出」とある。1945年3月18日の反乱で、米軍資料では「救出」とあるが、日本資料では「銃殺」とある。実際は銃殺されていなかったことになる。
「海軍軍属身上調査票」から640人分を抽出した。韓国国家記録院ウエブサイトで公開。日本では見られないものが韓国では見られる。厚労省は朝鮮人名簿を公開しない。個人情報が口実だが、北朝鮮と国交が回復していないかららしい。銃殺者は靖国神社には祀られていない。資料統計が全てを網羅しているわけではない。「海軍ミレー島死亡者名簿」は国立公文書館で公開している。
「地獄島 兵士の敗戦記録」式場隆三郎 文苑社1946 「ミレー島日記」には1945年3月の朝鮮人暴動の記述がある。
4 クェゼリン・ルオット集団死(玉砕)事件
「半島工員クェゼリン・ルオット玉砕者名簿」
金玉◎が帰還した。
ウオッジェ銃殺事件について
金沢東勲の備考欄に「20.6.18 叛乱銃殺」と書き込まれている。そして死亡場所及状況の欄に「M地戦没21.12.28」とある。
その他の名簿調査
「半島工員大宮島玉砕者名簿」はグアム島を扱う。
「四施生還者関係」は生存判明者名簿である。戦死とされた人が生き残っていた。
2023年12月、タラワ強制動員死者 崔炳連(内本炳連)の遺骨返還。米軍が崔炳運の遺骨を返還したのである。
私は1957年生まれである。
生還者は「輸送船20号」や米軍のLSTで帰還した。
米国のハワイ収容所資料。
韓国の国史編纂委員会がHPで公開している。
朝鮮人軍属動員労務者は憲兵の管理下にあった。特高も関与。資料「内鮮警察」
「募集者」は、協和会と特高が監視していた。
(朝鮮人)手記5冊分がサハリンに残っていた。豊原警察署にあり、ソ連が没収した。ソ連侵攻時に処分できなかったものと思われる。
給料の未払い金は1965年の日韓協定で帳消しにされた。日本企業は日韓協定の賠償特需を享受した。
韓国調査は被害実態の全体像ではなく、被害だったかどうかを決定しただけである。そしてその決定後に委員会は閉鎖されたから、被害の全体像は未だ不明である。
穴掘りやダム建設に従事する隧道隊として動員されている。
最後にギター弾き語り 追悼歌。死を語り続けたい。
終わり。