2025年5月26日月曜日

竹内康人「朝鮮人強制動員 南洋への動員と虐待・虐殺」

 

竹内康人「朝鮮人強制動員 南洋への動員と虐待・虐殺」  20250525 日 

新宿区男女共同参画推進センター 新宿区「ヒロシマ講座」主催

 

 

「ヒロシマ講座」を20161月から月1、2回開催している。「<ヒロシマへ ヒロシマから>」通信を毎日ネットで発信している。責任者 竹内良男(たけうちよしお)

 

 

久保田豊は戦後会社「日本工学」を立ち上げ、今は辺野古の工事を受注しているが、かつては朝鮮で電力関連のダム建設工事をしていた。

東南アジアに対する戦後賠償はビジネスでもあり、それで日本企業は儲かった。ダムや道路をつくる「経済協力」は、日本企業を利することでもあった。

 

2010年代半ばの第二次安倍政権のころ、「強制労働ではない」という言説が横行するようになった。それは戦前の日本の行為を隠蔽するものである。そして彼らはこの強制労働問題を日韓対立にすり替えたが、強制労働は歴史認識の問題である。また安倍晋三は、強制労働被害者の訴えを「国際法違反」だとして被害者を演じた。2015年の安倍談話を見よ。

その流れを受けて菅義偉は、閣議決定を経て、「強制動員」という言葉を教科書から消し去った。ところがおかしな余談だが、山川出版社の教科書は「強制動員」ではなく、「強制的に動員した」として合格している。

これは「歴史修正」ではなく「歴史否定」である。

 

戦前、朝鮮半島で労働組合活動を禁止し、「決死増産」と銘打って強制労働をさせた。戦前における朝鮮半島での強制労働の事実は、これまでよく知られていなかった。

1939年頃「企画院」が総動員=労働動員計画を企画した。朝鮮の行政単位は、道、郡、面と範囲が狭まるが、その一番狭い「面」、日本では町や村にあたるが、その「面」を単位として労務動員を行った。行政が労働者を集めた。その名目は「土工」だった。彼らは軍の一部(軍属)、つまり施設部隊として集められた。そして逃げたら銃殺された。

 

東京の芝浦補給部は朝鮮から2万人動員したが、そのうち7000人が死んだ。

 

1 朝鮮人強制動員とは

 

彼らは南方に派遣された。

1938年から1945年まで、「軍務」として動員された人は37万人だった。

一方、1939年~45年、集団募集・官斡旋・徴用などで、日本へ「労務」で動員された朝鮮人は、80万人だった。

 

朝鮮独立運動は治安維持法違反とされた。

 

2 全羅南道からの強制動員の調査

 

全羅南道の「益さん駅」前に「少女像」があるが、その少女像は立って日韓合意(文書)を足で踏みつけている。ここは東学農民広場でもある。またその近くに岩石が露出した「月出山」があるが、そこは岩肌の公園ともなっている。

 

「真相糾明委」への被害申告数は228000件。

「光州遺族会」の資料もある。

1000人の訴訟団をつくった。今から34年前のことである。韓国では「1965年の日韓協定は解決ではない」と補償を求める声は強い。1980年代の後半になってそういう抗議の声が出て来るようになった。

 

①軍務関係

 

「被徴用死亡者連名簿」は1971年に日本政府から韓国政府に提供された。それによると陸海軍で4100人の前羅南道の人々が軍務動員されたとされる。

 

②労務関係

 

「光州遺族会」資料 「光州1000人訴訟」 1269人の動員

 

 

3 ミリ環礁での朝鮮人の抵抗と虐殺

 

到着した800人中200人が死亡。

海軍の朝鮮鮮人が飛行場をつくった。

米軍はここには上陸しなかったが、餓死した。「日本軍に抵抗すれば帰れるぞ」と米軍は朝鮮人に宣伝した。日本軍は死んだ朝鮮人の人肉をクジラの肉だとして食べた。朝鮮人の何人かは脱出しようとしたが、計画がばれて銃殺されたり、自死したり、逃げられたりした。

1991年、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求裁判」が起った。ここにミリ関係者の証言がある。朴鐘元(チョンウン)ら3人が生き残り、証言した。

 

韓国「真相糾明委員会」2000による調査に基づく資料

 

李仁申手記「南方紀行」2008、「ミリ島受難記」

 

「光州千人訴訟」20

 

「海軍軍属身上調査票」(海軍軍属履歴原表)は、1993年に、日本政府から韓国政府に提供された。

 

米軍資料には「193人中68人を救出」とある。1945318日の反乱で、米軍資料では「救出」とあるが、日本資料では「銃殺」とある。実際は銃殺されていなかったことになる。

「海軍軍属身上調査票」から640人分を抽出した。韓国国家記録院ウエブサイトで公開。日本では見られないものが韓国では見られる。厚労省は朝鮮人名簿を公開しない。個人情報が口実だが、北朝鮮と国交が回復していないかららしい。銃殺者は靖国神社には祀られていない。資料統計が全てを網羅しているわけではない。「海軍ミレー島死亡者名簿」は国立公文書館で公開している。

 

「地獄島 兵士の敗戦記録」式場隆三郎 文苑社1946 「ミレー島日記」には19453月の朝鮮人暴動の記述がある。

 

 

4 クェゼリン・ルオット集団死(玉砕)事件

 

「半島工員クェゼリン・ルオット玉砕者名簿」

金玉◎が帰還した。

 

ウオッジェ銃殺事件について

 

金沢東勲の備考欄に「20.6.18 叛乱銃殺」と書き込まれている。そして死亡場所及状況の欄に「M地戦没21.12.28」とある。

 

その他の名簿調査

 

「半島工員大宮島玉砕者名簿」はグアム島を扱う。

「四施生還者関係」は生存判明者名簿である。戦死とされた人が生き残っていた。

 

202312月、タラワ強制動員死者 崔炳連(内本炳連)の遺骨返還。米軍が崔炳運の遺骨を返還したのである。

 

 

私は1957年生まれである。

 

生還者は「輸送船20号」や米軍のLSTで帰還した。

 

米国のハワイ収容所資料。

韓国の国史編纂委員会がHPで公開している。

 

朝鮮人軍属動員労務者は憲兵の管理下にあった。特高も関与。資料「内鮮警察」

「募集者」は、協和会と特高が監視していた。

 

(朝鮮人)手記5冊分がサハリンに残っていた。豊原警察署にあり、ソ連が没収した。ソ連侵攻時に処分できなかったものと思われる。

 

給料の未払い金は1965年の日韓協定で帳消しにされた。日本企業は日韓協定の賠償特需を享受した。

 

韓国調査は被害実態の全体像ではなく、被害だったかどうかを決定しただけである。そしてその決定後に委員会は閉鎖されたから、被害の全体像は未だ不明である。

 

穴掘りやダム建設に従事する隧道隊として動員されている。

 

最後にギター弾き語り 追悼歌。死を語り続けたい。

 

終わり。

 

 

2025年5月12日月曜日

最高裁主催 全国裁判官による再審研究会の議論に異議あり

 

最高裁主催 全国裁判官による再審研究会の議論に異議あり

 

検察が独占する証拠の開示について

 

・「「ある程度緩やかに」証拠開示を(検察側に)求める」における「ある程度」「緩やかに」は、証拠を「全部ではなく部分的に」開示するということらしい。無罪にできるかもしれない重要証拠を庶民から遠ざけようとする暗闇を感じる。

 

・「請求人から無罪を言い渡すべき新証拠が提出されているのに、なぜさらに(検察側からの)証拠開示を求めるのか、その理由の整理が必要」とは、検察側が独占する証拠の開示を求める理由がないとでもいうつもりなのか。袴田事件の教訓を受け止めているのか。

 

・「(検察側が持っている)証拠の開示の必要性を判断するために、その証拠を裁判所だけが見る」とのことだが、証拠の必要性の判断は、庶民にも公開されるべきで、一部の法曹関係者だけが独占すべきものでないと考える。

 

・「(再審請求は)非常救済手続きであって、第四審ではない。証拠開示をどこまで認めるのか、法的根拠が重要」とは、請求人がアプリオリ(先験的)に犯人であるという前提に立っており、証拠開示を出し渋る口実にすぎない。

 

・「第四審は認めない。無辜の救済との「見極め」=区別が重要」とは、請求人=犯人視を前提とした考えである。

 

感想

 

以上の裁判官の意見の中には、裁判官や検察官が法の番人であり、正義を代表するエリートだという意識が見え見えであり、裁判官は法が正義の全てであると誤解しているのではないか。その誤解を、袴田事件で死刑判決を書いた裁判長のその後の対応が如実に示している。「巌、悪かった。許してくれ」「「私は犯人ではありません」と袴田が毅然として言ったことが終生脳裏から離れなかった。」

正義は犯人とされた被疑者にしか分からない。だから、犯人とされた人の手紙や日記が、法とは別次元で、重要なのである。

 

2025年5月3日土曜日

9条を守ろう!生かそう!広げよう! 5.3市民の集い 2025年5月3日(土) 

 

9条を守ろう!生かそう!広げよう! 5.3市民の集い 202553() 群馬県教育センター 1416

 

 

平和運動センター事務局長倉林誠

 

412日に、相馬ヶ原自衛隊創設66周年記念式典に、木更津からオスプレイが多数やって来たため、前橋周辺で爆音が1日中うるさかった。

本日の右翼街宣車は4台だけで比較的うるさくなかった。来年は本会を音楽センターと同時並行で午前中に開催し、右翼を分散させようかと計画している。

 

 

内田雅敏1945- 愛知県蒲郡市出身 早大法学部卒 弁護士 著書『元徴用工和解への道』『戦時被害と個人請求権』『「戦後補償」を考える』『和解は可能か』 53日憲法記念日講師、群馬県教育会館

 

辺野古に足繁く通っている。

2月にはソウル光化門にいた。若い人が多かった。ノーベル文学賞受賞者のハンガンさんは「死者が現在を動かす」という。つまり、韓国の厳しい過去の歴史が、韓国の今を支えているということだ。韓国では過去の抗争の歴史を「3、4、5、6」で表現する。3は31独立宣言・運動を指し、4は上海臨時政府樹立(19194月)を、5は光州事件(1980518日~27日)を、6は1987610日~29日の民主革命を指す。

 

「未完の憲法」 沖縄問題

沖縄の市民は「○○と刺し違える」と言う。

 

日中民間交流  魯迅は小林多喜二が虐殺されたとき、中国でカンパ活動に取り組んだ。

 

鄧小平の決意表明 1997年の日中共同宣言 小渕首相と江沢民との間で4つの確認と1つの合意。

田中角栄が事前に言うなと言われていた尖閣問題を口にしたのは、日本の右翼から批判されることを恐れていたからである。それに対して中国側(周恩来)は「棚上げにしよう」と提案した。

鄧小平が来日した時も棚上げを提案した。

1879年の琉球処分の時、清は沖縄は中国のものだと言った。その時米が仲裁したが、日本は宮古島以西は中国にやると仮調印までしたが、決裂した。

1945年、ソ連に派遣された近衛は「日本の固有の領土が守られればよい」と譲歩した。

1947年の「沖縄メッセージ」は沖縄を放棄した。その時昭和天皇はその放棄が「日本国民の支持が得られるだろう」と言った。

志位和夫も尖閣は日本のものだと主張する。

 

尖閣の共同開発がよい。

その精神を民主党政権が破壊した。石原慎太郎が尖閣を購入し、そこに基地をつくり、小戦争を起こし、国民の心をひきつけ、その上で改憲に結びつけようとしたのを、民主党政権が阻止しようとしたのだが、その意味は中国には伝わらなかった。

 

1915年の対華21箇条の要求は侵略だったと2015年、中曽根康弘でさえも言っている。

1998年、日中共同宣言のとき、江沢民が早稲田大学にやって来た。大隈重信は対華21箇条当時の首相だった。江沢民は一度受け取ろうとした早稲田大学からの名誉学位を翌日になって断った。

 

ポツダム宣言の第10項に「日本の民主主義復活強化」とあるが、この「復活」とは、日本の自由民権運動や大正デモクラシーを指す。しかし、その日本の民主主義も、外国に向かっては帝国主義であった。

 

島耕作の漫画批判

安倍が米上下両院総会で発言した講演の内容は外務省のHPに載っている。そこで安倍は米軍人の死について触れ、満場の拍手をいただいたが、安倍のシンガポールでの演説は、アジア人の死について触れていない。


基本的人権について規定する憲法11条と97条とは一見重複しているように見えるが、実は当初97条は日本側が削除しようとしたのを、米側に止められたらしい。日本側が削除しようとした理由は、それまでの日本人が、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と言えるほどの努力をしてこなかったのを「成果」とまで言いにくかったからのようだ。


以上

 

竹内康人「朝鮮人強制動員 南洋への動員と虐待・虐殺」

  竹内康人「朝鮮人強制動員 南洋への動員と虐待・虐殺」   20250525  日  新宿区男女共同参画推進センター 新宿区「ヒロシマ講座」主催     「ヒロシマ講座」を 2016 年 1 月から月1、 2 回開催している。「<ヒロシマへ ヒロシマから>」通信を毎...