9条を守ろう!生かそう!広げよう! 5.3市民の集い 2025年5月3日(土) 群馬県教育センター 14~16
平和運動センター事務局長倉林誠
4月12日に、相馬ヶ原自衛隊創設66周年記念式典に、木更津からオスプレイが多数やって来たため、前橋周辺で爆音が1日中うるさかった。
本日の右翼街宣車は4台だけで比較的うるさくなかった。来年は本会を音楽センターと同時並行で午前中に開催し、右翼を分散させようかと計画している。
内田雅敏1945- 愛知県蒲郡市出身 早大法学部卒 弁護士 著書『元徴用工和解への道』『戦時被害と個人請求権』『「戦後補償」を考える』『和解は可能か』 5月3日憲法記念日講師、群馬県教育会館
辺野古に足繁く通っている。
2月にはソウル光化門にいた。若い人が多かった。ノーベル文学賞受賞者のハンガンさんは「死者が現在を動かす」という。つまり、韓国の厳しい過去の歴史が、韓国の今を支えているということだ。韓国では過去の抗争の歴史を「3、4、5、6」で表現する。3は3・1独立宣言・運動を指し、4は上海臨時政府樹立(1919年4月)を、5は光州事件(1980年5月18日~27日)を、6は1987年6月10日~29日の民主革命を指す。
「未完の憲法」 沖縄問題
沖縄の市民は「○○と刺し違える」と言う。
日中民間交流 魯迅は小林多喜二が虐殺されたとき、中国でカンパ活動に取り組んだ。
鄧小平の決意表明 1997年の日中共同宣言 小渕首相と江沢民との間で4つの確認と1つの合意。
田中角栄が事前に言うなと言われていた尖閣問題を口にしたのは、日本の右翼から批判されることを恐れていたからである。それに対して中国側(周恩来)は「棚上げにしよう」と提案した。
鄧小平が来日した時も棚上げを提案した。
1879年の琉球処分の時、清は沖縄は中国のものだと言った。その時米が仲裁したが、日本は宮古島以西は中国にやると仮調印までしたが、決裂した。
1945年、ソ連に派遣された近衛は「日本の固有の領土が守られればよい」と譲歩した。
1947年の「沖縄メッセージ」は沖縄を放棄した。その時昭和天皇はその放棄が「日本国民の支持が得られるだろう」と言った。
志位和夫も尖閣は日本のものだと主張する。
尖閣の共同開発がよい。
その精神を民主党政権が破壊した。石原慎太郎が尖閣を購入し、そこに基地をつくり、小戦争を起こし、国民の心をひきつけ、その上で改憲に結びつけようとしたのを、民主党政権が阻止しようとしたのだが、その意味は中国には伝わらなかった。
1915年の対華21箇条の要求は侵略だったと2015年、中曽根康弘でさえも言っている。
1998年、日中共同宣言のとき、江沢民が早稲田大学にやって来た。大隈重信は対華21箇条当時の首相だった。江沢民は一度受け取ろうとした早稲田大学からの名誉学位を翌日になって断った。
ポツダム宣言の第10項に「日本の民主主義復活強化」とあるが、この「復活」とは、日本の自由民権運動や大正デモクラシーを指す。しかし、その日本の民主主義も、外国に向かっては帝国主義であった。
島耕作の漫画批判
安倍が米上下両院総会で発言した講演の内容は外務省のHPに載っている。そこで安倍は米軍人の死について触れ、満場の拍手をいただいたが、安倍のシンガポールでの演説は、アジア人の死について触れていない。
基本的人権について規定する憲法11条と97条とは一見重複しているように見えるが、実は当初97条は日本側が削除しようとしたのを、米側に止められたらしい。日本側が削除しようとした理由は、それまでの日本人が、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と言えるほどの努力をしてこなかったのを「成果」とまで言いにくかったからのようだ。
以上
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