2020年6月30日火曜日

大正天皇御臨終記 入澤達吉 1953年、昭和28年1月 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・抜粋・感想


大正天皇御臨終記 入澤達吉 1953年、昭和28年1月 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988


感想 筆者は律儀で従順な下僕であり、自らの感想を一言も語らない。下僕であることを誇りとしているかのようだ。例えば、「余は後に改めて召されて聖上のお口に綿にしめしたる水を捧ぐ、皇后宮侍立しおられ、永々日夜御苦労なりとのお言葉を賜る。」021筆者はこの時内心では歓喜の涙を流していたのではないか。個人として自立せず、共同体の責任を上司に任せ、自らは責任を負わない、これが戦前も戦後も変わらない日本人の典型なのではないか。2020630() 

しかし、ウイキペディアを読むと、これは誤解だったかもしれない。1894年、筆者は宮内省侍医局での東宮附きに任じられたが、2ヵ月後に依願退職し、開業している。東宮附きなどの閑職よりも、むしろ実践や研究に興味があったのかもしれない。御用掛1920--24や侍医頭1924--27についても、進んでなったというより、やらされたというのが正しいのだろうか。また、筆者は1926年、日独協会理事長になり、フライブルク1926やハイデルベルク1936から名誉学位を贈呈されるなど、ドイツ医学会との交流に意欲的で、また、様々な学会の名誉職に推されていたようだ。2020630()


『週刊金曜日』で竹田恆泰が「調和を重んじる日本人」の従順さ=奴隷根性がコロナ渦を終息させたと言っているらしいのを知り、また、この入澤達吉の一文を読んで、日本の現在の右翼が、戦前のように皇室がその栄光と絶対的な権力を誇っていた時代の再来を夢見ているのではないかと想像した。
皇室の安泰を維持するものは、敬語と制度や儀式かもしれない。

本文は1953年、昭和28年に文芸春秋に公表されたというから、1926年、大正15年当時は、公にされておらず、昭和28年頃に文芸春秋の記者が発掘したのだろうか、それとも筆者本人が公表を望んだのだろうか。

敬語の濫発で読みにくい。「聖上」「拝診」「御体温」「御平生」「御病中」「御寝具」「御寝室」…

侍医は入澤の他にも何人かいたようだが、入澤が大正天皇の侍医の中で中心人物(侍医頭)だったようだ。
筆者は皇室から大金を貰っている。
「6月18日、御内儀より御満那料(金300円)および白絽(ろ、織り目の透いた薄い絹織物)一疋を下賜せらる。澄宮および高松宮より賜物あり。(澄宮35円、高松宮50円)定例の中元賜物なり。017
12月16日、皇后宮より金750円及び反物を賜る。」019
官位制度が整っている。
即位の儀式が素早い。大正天皇が死んだその日12月25日(午前)「3時15分、新帝践祚(せんそ、即位)および剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀式あり、数分にてすむ」とある。また「昭和」の年号についても、「12月25日(午前)5時過ぎ、新帝と新皇后が車で本御用邸に向い、これからすぐに枢密院で年号を制定する会議に臨まれるとのこと。その前に内閣は閣議を開いていた」とある。021

葉山から原宿まで汽車で来て、原宿駅から宮城に戻る大正天皇の棺を、国民が垣根のように大群をなして迎えたとのこと。(「堵(と、垣根)のごとし」)また天皇の病状や死を報道機関にも定期的に伝えていた。017

死後、水で湿らせた綿を口に含ませる儀式があるのを初めて知った。
人は死ぬ間際は、脈拍が数えられないくらい多くなり(頻脈)、体温が40度以上になり、呼吸が激しくなり、ついに息絶えていくようだ。021


ウイキペディアによると、
入澤達吉 1865—1938  1865年、越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として南蒲原郡今町(現見附市)に生まれた。1877東京大学医学部予科入学。1883年、同大学同学部本科に進級。1889年、東京帝国大学医科大学(学制変更による改名)を卒業し、ベルツに師事し、内科無給助手となる。1890年、ドイツへ私費留学。1894年、帰国後の同年3月7日、宮内省侍医局で東宮附きとしての勤務を任じられたが、同年5月30日、依願退職し、開業。1895年4月21日、医術開業試験医院に命じられ(翌年依願退職)、10月12日、東京帝国大学医科大学助教授となる。1897年、足尾銅山事件調査委員に任命される。1901年、東大教授に昇進。1912年5月、満州からシベリア鉄道でヨーロッパを、1913年、アメリカを訪問。1913年5月、帰国し、東大教授に復帰。1920年12月、宮内省御用掛に任ぜられる。(大学評議員1919から医学部附属医院長1921、医学部長1921など大学の役職を兼任していたようだ。)1924年、宮内省御用掛を免じられ、宮内省侍医局侍医頭を命じられる。1925年東大医学部教授を退任。1926年、日独協会理事長となる。同年、ドイツ・フライブルク大学名誉学位を贈られる。1926年、葉山での本文の件があり、1927年宮内省親任官の待遇を賜い、8月勲一等瑞宝章を授与され、9月侍医頭を辞任する。1928年、日本医史学会創立に参加した。1930年ドイツ赤十字第一等名誉賞を賜う。1936年ドイツ・ハイデルベルク大学名誉学位を贈られ、日独協会名誉会員となる。同年、科学ペンクラブを石原純らと創設する。1938年脳溢血で死亡。
筆者は大正時代、東大での60歳定年制を主張した。「赤門の空気を一洗し、優秀な学者を多数集めておくには、定年制に限ると思う。」「今日の如き、駆け足で欧米の先進国に追随する過渡的時代には、なるべく働き盛りの活気の多い年代のみを利用して、少し老朽の傾きある時は、直ちに壮年有為の者と更迭せしむるが良いと思う。それには60歳の停年が妥当な制限である」と主張した。筆者が閑職を嫌う理由はここにも現れているように思われる。


メモ

015 編集部注からのメモ
 
大正天皇の名前は「嘉仁」といい、大正15年12月25日になくなった。当時、次の第124代天皇(昭和天皇)に即位することになる裕仁親王(当時の皇太子)は、摂政をしていたようだ。
「昭和」の意味は、『書経』の中の「百姓昭明、協和万邦」からとられ、その意味は“万民安寧、世界平和”とのことだが、現実がその意味とは逆の結果になるとは皮肉なものだ。

本文からのメモ

1926年1月30日(土)若槻礼次郎が内閣総理大臣に任ぜられた。
2月17日(水)スイス在の秩父宮が麻疹に罹ったという電報を受けた。
2月19日(金)東宮女嬬で元赤十字の看護婦の佐藤ゑいと、赤十字看護婦の逸見ソメを、皇后職御用掛として「奏任待遇」*で任用した。
*任官にも格式があるらしく、「奏任」は太政官が補任者を天皇に奏上して任命する。勅任・奏任・判任の順に位が下がる。ただし、明治時代では、天皇が内閣の奏薦によって任命することをいう。
4月14日(水)東瀛(とうえい)詩選を一冊借りて写本をさせた。(当時はコピー機がないから手書きで写したようだ。)
大正天皇は病気のためお風呂に入れなかったらしく、百十余日ぶりにお風呂に入ったと書かれている。
夜の8時半からの蜂竜での宴会に幣原外務大臣に招かれて行った。その会に同仁会支那行の人を招待した。
当時は気温を華氏を用いていたようだ。017
8月3日(火)住友で5000円を引き出し、丸善で買い物をする。
(妻の)常子が本郷4丁目の東京貯蓄銀行に1万円を6ヶ月間の定期預金に預けた。
9月11日(土)大正天皇はたびたび脳貧血のような発作(失神)を繰り返していたが、9月11日、はその3回目であった。2回目は5月11日、1回目は12月19日で、その時、新聞紙に発表した。
 山川、荒井、筧と私など侍医は不寝番をした。
016 12月16日、脈が弱くなり、皇后を呼んだ。正午から夜の12時まで2時間ごとに容態を発表した。西園寺公望、東郷平八郎、その他元帥各大臣および大臣待遇者ならびに宮内官の一部が礼拝に来る。皇后宮、皇太子殿下、妃殿下、後列に四内親王が起立していた。私は夜を徹して翌朝の4時まで寝室にいた。
019 臨時汽車が東京から葉山まで出た。東京で新聞の号外が続々と発行された。
12月17日、今日から4時間ごとに容態を発表した。
東宮(皇太子)、妃殿下、東京の照宮様(満1ヶ月)が来たが、夜、御本邸に帰った。
内親王*(竹田、北白川、朝香、東久邇)が交互に来た。
*天皇の姉妹および皇女(天皇の娘)のことだが、明治以降は、皇室典範で、嫡出の皇女および嫡男系嫡出の皇孫(天皇の孫)である女子をいう。
12月19日(日)、毎日、総理大臣、元帥、大官連、宮内大臣がやって来る。枢密顧問官も東京に帰らないで、日蔭の茶屋に、国務大臣は養神亭に、各宮様は逗子ホテルに詰切りである。葉山は大混雑だ。
12月21日午後三時、毎日例の如く山本権兵衛、後藤新平が、侍医室にやって来る。
12月22日、16日から玄関脇の八畳の間に四人で寝ていたが、平均三、四時間しか眠れないので、今夜から御用掛3人のうち2人は交代で長者園に宿泊し、私は診察室用の六畳の間で寝ることにした。11時に就寝し、翌朝4時半まで快眠できた。
12月23日(木)今夜から鼻腔からの栄養を一時中止し、滋養浣腸を始めた。呼吸、脈、体温とも多いため、夜、西園寺公、若槻総理大臣等が集まったが、急変しないと見て退出した。今日、荒木寅三郎が来た。
021 12月24日、12月25日、晴、朝から容体が悪い。報告を出した。
 昼から容体がさらに悪化した。午後1時30分、非常召集の準備をする。元老、大官、宮様方みな参集し、東京の枢密顧問官等を招致した。
 午後2時から一時間毎に報告を出す。体温が上がり、脈や呼吸も増悪する。カンフルなどの注射をする。体温は40度から最高41度に達する。呼吸は80以上、脈は数えられない。翌日1時25分、心音がやみ、呼吸も止み、ただちに危険の発表をした。
 皇后宮に、締切(こときれ)を伝えた。
 皇后宮、両殿下、高松宮、内親王が小綿棒に水を浸して口元に当てた。つづいて女官も水を捧げた。私は八代侍医ともう一度検診し、崩御を確認し、最後の発表文に、私と御用掛、侍医の姓名を連記し、一木宮内大臣に渡した。一木大臣はそれから皇后宮に様々な要件を話した。
3時15分、新帝の践祚(せんそ)と剣璽渡御の儀式があった。数分で済んだ。
 内大臣、宮内大臣以下が決別の礼をした。私は改めて招かれ、水を捧げ、皇后宮から「永々日夜ご苦労なり」との御言葉を賜った。(筆者はこれが言いたかったのではないか。)
 5時、牧野内大臣、一木宮内大臣が共に侍医寮に来られ、侍医や御用掛一同の多大なる尽力を謝す。5時過ぎ、新帝と新皇后は車で本御用邸に向った。これからすぐに枢密院で年号を制定する会議に臨まれるとのことだ。その前に内閣は閣議を開いていた。
 侍医一同で、硼酸アルコールで身体を洗って拭いた。7時過ぎに別荘に帰った。
 鼻、口、肛門に綿をつめた。後で氷袋50個に氷をつめ、身体をその上に載せる用意をした。
 別荘に前夜から常子が来ていた。入浴し、朝飯を食べ、新聞を読んで、9時過ぎに寝た。昼飯前に眼を覚まし、午後常子や利平と散歩をした。
022 夕方新聞記者が来たが、何も語らなかった。記者から年号が「昭和」になったと初めて聞いた。夜早く寝た。
12月26日(日)皇后宮自身の願いで「南無妙法蓮華経」の文字を一枚の紙に48個認めたものを多数作った。
夕刻5時、御舟入の式があった。「綿と灯芯と茶」を入れた5尺4寸の袋詰めを多数お棺に入れ、氷袋を多数入れ、7時、附属邸を「霊柩御出門あり。」
 馬車の霊柩車に移し、供奉はみな徒歩、皇后宮だけが自動車で本御用邸に移動した。
 一時間通夜し、夜10時すぎ別荘に帰った。
12月27日、朝10時、附属邸に至り、後、本御用邸に至り、大臣に面会する。霊柩の安置されている部屋の隣で一時間座る。
 皇后宮も部屋に座られた。午後3時、新帝と皇后宮が東京に向った。午後4時40分、大行*天皇霊柩は葉山御用邸を出発し、皇太后宮(先帝の皇后)は自動車で同行し、一同も供奉(同行)し、逗子駅を5時30分出発。霊柩車内に霊柩を移す。7時5分、東京原宿宮廷用の停車場に到着した。行列を皇族の一部や大官が出迎えた。
*大行(だいぎょう)は、真宗で、阿弥陀仏から衆生に与えられた称名念仏またはその仏の名号をいう。
 馬車で宮城へ向う。沿道奉迎するもの堵(と、垣根)のようだ。私は徳川侍従長、奈良武官長と同車した。
 8時5分宮城に到着。南御車寄せで皇族や外交官等が出迎えた。霊柩を滑り台に載せ、御座所(居間)、鏡の間に安置した。豊明殿の次の間で夕飯を食べた。総理大臣、宮内大臣以下みな食事をし、夜9時すぎ帰宅した。
 博愛は、二重橋前の広場で奉迎したと帰宅してから聞いた。

1953年、昭和28年1月号


2020年6月27日土曜日

教科書問題を考える 林健太郎 1986 「文芸春秋」にみる昭和史 第三巻 1988 要旨・抜粋・感想


教科書問題を考える 林健太郎 1986 「文芸春秋」にみる昭和史 第三巻 1988


感想 著者は、東京裁判(おそらく民族国家の否定)を否定し、日露戦争は(日本民族の)自衛のための戦争であり、列強に抑圧された諸民族の解放戦争だったとし、その根拠として「時代性」=歴史的状況という用語を用いているようだ。しかしそれでは一人孤立させられた植民地の韓国や台湾は面白くないだろう。
著者の言う「国際主義」もご都合主義である。著者は、民族主義(おそらくそれは天皇を中心とする大和民族の民族主義)と国際主義とは矛盾しないと言うが、教員組合や「左翼」が語る国際主義による「歴史の裁断」には反対する。著者は、左翼が語る国際主義は、国家(おそらく大和民族)や自由民主主義を危うくすると言う。そして歴史学は歴史的事実に道徳的講釈をすることを任務としないとして、列強による植民地への侵略は歴史的事実として認めよなどとも言い、矛盾だらけだ。
著者を理解するためのキーワードは、「天皇を中心とする大和民族」のようだ。自己中愛国なのだ。

2020627()


ウイキペディアの「現実主義者」という評はピッタリだ。著者の聡明さを物語る、広範囲に目配りできたそつのない文章だ。ウイキペディアによれば、著者は戦後、マルクス主義から転向したとのことだが、戦後の激しい労組運動から離れて、思想的に自由に(あるいは勝手気儘に)振舞いたかったのだろうか。

一晩寝て考えて見た。著者は聡明である。また東大総長(学長ではなく総長というらしい)1973--1977とか、自民党の参院議員1983.6—1989.6とかの肩書きを持っている。
彼の民族愛、国家主義、東京裁判否定、天皇制擁護、教育勅語肯定、マルクス主義や教員の労組運動に対する反感は、自己保身や自己愛に基づくのではないかと寝ながら夢想した。
彼は歴史的進歩観に対して単刀直入な言い方をせず、肯定と否定を織り交ぜて語り、右往左往するのだが、結局はやはり、進歩観を否定し、19世紀の大日本帝国の植民地主義を肯定する立場に立っているように思われる。彼は、教員労組運動や進歩的歴史観が、19世紀以来の日本の国家主義を否定・断罪すると非難し、結局は戦前の国家主義を擁護する。彼は聡明だから、それを一部では否定し、満州事変以後の日本の進路を批判するが、それはカムフォラージュのように思える。自己矛盾なのだ。彼のような聡明な人で、しかも肩書きを持っている人のずるいところだと思う。
彼が東京裁判を否定するのなら、女性の参政権を否定し、共産党員を牢獄に閉じ込め、治安維持法を擁護し続けるのだろうか。


ウイキペディアによると、
林健太郎1913.1.2—2004.8.10
旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科卒1935、旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、(この間1944年、31歳の時に徴兵され、海軍の一等水兵となった。)1954年、東京大学文学部教授。


初読の感想・疑問点

初読と二度目とでは受け止め方が変わることがよくあるものだ。二度目は初読の時よりも著者の真意がよく分かり、感想が初読の時と違うことが多いが、初読時の感想も、直感的で素直なものだ。それはともかくとして、以下初読時の疑問点や感想を述べる。

小堀桂一郎ら9名によって書かれた高校用の日本史教科書、原書房版「新編日本史」では、天皇に対して敬語を使っている。その点に関して著者は、「悪くはない」とし、「朝日新聞の言うように、非難すべきことではない」としているが、違和感を覚えた。613 以下、著者の言である。
・「新編日本史」は教育勅語の全文を掲げ、それを「評価」している。教育勅語は、天皇が自らを神格化して道徳の根元たらんとしているのではなく、古今東西に通ずる普遍的な人倫思想を祖先の遺訓として提出し、天皇が臣民と共にそれを「遵守しよう」と述べているのであって、…その内容は決して日本の他国に対する優越性を誇示しているものでもなければ、いわんや他民族への支配を説こうとしているものでもない。教育勅語は、所謂超国家主義や軍国主義とは無縁なのである。(以上のように著者は言うのだが、確か、教育勅語には、「いざという時にはお前たちは私のために命を捧げて戦え」と言っている筈だが、著者は肝腎のその点については触れていない。)615
・技術化・大衆化が著しい現代社会で人々が解放され、そのためにかえって不安になるとき、人間としての存在根拠が求められるようになる。それを解決してくれるのが「共同体」であり、その共同体が育み我々の心を内から支えてくれる文化が不可欠である。それは民族的立場といえる。この立場がなければ我々は生きることができない。616(私はそれほどまでに民族的立場が不可欠とは思わない。)
・しかしそういう民族的な立場と同時に、世界的な歴史認識も必要であり、それを欠けば、民族的立場も危うくなる。
・世界史を一つの、人類の歴史とみるか、それを多くの文明の集まりと見るか、という二つの見方がある。前述の民族的立場とは、民族を文化の担い手としてとらえる。日本は一民族が一文明を形成する世界で数少ない例である。*この民族的立場は、人類史的立場につながる。(どうつながるのか。)(*揚げ足を取るようだが、アイヌや沖縄のことは眼中にないようだ。)
・知力の向上や自由や民主主義への進展という進歩史観は、現代の基準で過去を裁断する「歴史否定」の態度を生み出す恐れがある。この進歩史観の誤りは退けられねばならない。歴史は単なる進歩の過程ではなく「不変の人間性を写す鑑」である。人間は「かくも善くかくも悪く、かくも高貴でかくも獣的で、かくも洗練されかくも粗野であり、かくも永遠に向っていると共に瞬間に縛られている被造物である」(ランケ)617(何だかよく分からない。何を言いたいのか。)
東京裁判からの脱却も、私がこの「新編日本史」の著者の立場に賛同するところである。戦勝者が戦敗者を裁くということは国際法上認められていないから、この裁判は法的根拠をもたない。(コソボの国際裁判2002は非合法か。)サンフランシスコ条約で日本はこの裁判を受諾しているが、その刑の執行を無効にしないという意味であって、その判決の内容に承服するという意味ではない。(かなりこじつけで強引ではないか。それではファシズムを正当と考えるのか。後でまずかったと自ら言っているではないか。自己矛盾)判決がこの戦争を日本の首脳部の共同謀議とするのは事実に反する。(共同謀議でなければ他の何か。)618
・しかしそれはこの戦争に至る日本の政策を正当化すべきだという意味ではない。我々はそれを外国人の裁判によってではなく、自己の裁判によって厳しく批判すべきである。(賛成、それが日本人には足りなかったのではないか。)
日本にとってそれ(植民地争奪戦)は民族の独立のために必要な行動だったそれを放置すれば、それは日本の独立を危うくすることが明らかであったからだ。(本当にそう言えるか。第三の選択肢はなかったのか。)日露戦争は日本にとって民族自立のための防衛戦争であり、その勝利は、未だ西洋列強の覊絆下に置かれていた諸民族に多大の鼓舞を与えた。(朝鮮や台湾の人はそうは思わないだろう。明らかな間違い。)619
・歴史上の各時代には独自の課題があり、価値基準があり、それぞれに意味をもつ。(帝国主義をみとめよということか。)後世の価値基準で過去の事実を裁断できない。619
・満州事変1931のときは、私が旧制高校の最後の年で、今日で言えば大学1年生にあたる。柳条湖事件は中国人の仕業だと公表されたが、実はそうではなく、日本軍によるものらしいということは、まもなく噂として広まってきた。三年前に、時の首相が「満州某重大事件」の責任を取って辞任したのも、何か悪いことをしたことの証拠ではないか、国家行為としてどうしてこんなことが許されるのかと私は考えた。
・当時でも反軍演説を行った人もいて、彼らの中心に天皇の存在があった。(どういう意味か。)一方、超国家主義者や軍国主義者は、日本民族の文化的伝統を受け継がず、ドイツのナチズムに共鳴したり、末期にはソ連共産主義に異常な関心を示したりした。622
・外国(韓国や中国)からの(日本の教科書の内容に関する件での)申し入れに対して、外務省当局は、なぜ「事実を調査の上で返事をする」と答えなかったのか。
・今年の3月19日、家永裁判の東京高裁控訴審判決があった。判決は「国は憲法上国民の信託を受け、教育政策上の権能を持っているから、国の関与ないし介入は、教育の内容や方法に関するものであっても、容認できる」としたが、これは私のこれまでの考え方と一致する。
・戦後の日本では「敗戦という特殊事情」により、国家を否定し自由民主主義体制を無力化しようとする思想が、組合運動の力によって、教育界に異常な勢力を張った。(「国家を否定する」とはどういうことか。「自由民主主義体制の無力化」とは共産主義ということか。)623
・「新編日本史」の中の、満州事変以後の中国への「進出」や太平洋戦争への過程の記述に、近隣諸国から誤解を招く記述が、「原稿本」の中にあったが、「内閣本」ではそれが訂正されたので、教科書検定はその役目を果たしたと言える。624

以下要旨と感想

611 編集部の注 1982年の夏、社会科教科書の記述をめぐって、中国と韓国から抗議がなされたが、外交上の決着を見た。1986年の夏、『新編日本史』や文部大臣藤尾正行の発言をめぐって、再び国際問題となった。

以下著者の本文の要旨と感想

 この夏の参議院選挙では自民党が大勝した。
 5月24日、朝日新聞が、文部省検定に提出された高校用の某日本史教科書について、「“復古調”の日本史教科書。検定審内部にも異論」というセンセーショナルなタイトルで、記事を掲載した。*この教科書は5月27日の検定審(教科用図書検定調査審議会)を通過したが、その翌日朝日新聞は「“復古調日本史”合格に。異例の激論3時間半も」という記事と、大江志乃夫氏の「露骨な偏向検定、国定教科書さながら」という批評文を掲載した。
*1986年の時点ですでに朝日新聞は右派にマークされていたことが分かる。また著者は一見論理的に見えて、実は情緒的な人だ。ここでは論旨に関係ない修飾語句をカットしているが、感情的な語彙が多い。
 韓国の各新聞がこの問題を取り上げ、日本攻撃の論陣を張り、韓国政府は日本政府に申し入れを行った。中国も6月4日、この教科書について「歴史事実を歪曲し、侵略戦争を美化するもの」という意見を発表し、ついで北京駐在の日本代理大使に、日本政府への要求書を伝達した。
 日本政府はこれに対して、当該教科書が検定中であると答え、国内では文部省に対して、この教科書の内容を再検討することを命じた。
612 このため5月27日の検定審を通過した内容に、文部省はさらに4回にわたって修正要求をし、執筆者はその大部分を受け入れ、7月7日、検定審の最終的審査を経て、この教科書が合格した。
 高橋史郎が「諸君!」8・9月号で、この件に関して二つの論文を書いた。またこの教科書の執筆者の一人である小堀桂一郎が「正論」8・9月号で二つの論文を書き、さらに、この教科書の発議者である「日本を守る国民会議」事務局長の椛島有三が、本誌先月号で「『新編日本史』を襲った外圧と内圧」という文章を発表した。
 以上の三氏は朝日新聞の報道態度を不当だとし、また、既に合格が決定していた段階で外圧に従って更に修正を要求した政府の行為を外交上の一大失政と見なし、検定制度の再考を要求している。
 この教科書「新編日本史」は、小堀桂一郎他9名によって作成され、原書房によって出版された。
 朝日新聞は「復古調」「教育勅語礼賛、建国神話、三種の神器も」「神武天皇の建国伝承を紹介」との見出しで紹介した。大江志乃夫は「戦前の国定教科書さながら」と評した。
613 「新編日本史」には、最終的な「合格本」と、5月27日の検定時の「内閣本」と、最初の「原稿本」の三種類がある。朝日新聞の検定審内部に関する記事は事実に反していると高橋氏が指摘した。大江氏の批評はまったく間違っている。(言いぱなしでなく、どの点でかを説明してもらいたい。)
 戦前は、国定は小学校の教科書しかなかった。現在の高校に匹敵する戦前の中学校の国史教科書は国定ではなかった。戦前は記紀の建国神話は史実として述べられ、紀元は神武紀元だけが用いられていた。神武紀元が西暦より660年長いことや、天皇に当たる倭の五王が中国に朝貢していたことや、歴史時代になってからの皇族間の争いである壬申の乱などの事件は、触れられていなかった。
 「新編日本史」は、先土器文化、縄文文化、弥生文化などの考古学的記述をし、次に「漢書」「魏志」などの中国の史書によって当時の日本の状況を説明する。その次に記紀の物語が出てくる。それは1ページに渡って、神話、伝承として扱い、前記の、戦前伏せられていたことも記述されている。それは原稿本のときからそうだ。(だからといってこれが「復古調で戦前の国定教科書さながら」でないとは言えないのではないか。この教科書が唯一、戦前に限りなく近づいているのは否定できないのではないか。)
 「新編日本史」には戦後のこれまでの教科書になかったものがある。記紀の国生み神話、建国伝承である。また天皇や皇室関係の記述が多く、(三種の神器の記述は、内閣本で消えた。)さらに天皇や皇室に対して敬語を用いているのは本教科書が初めてである。しかしこれは果たして悪いと言うべきか。(これは居直りではないか。)
 古事記、日本書紀、万葉集は、「日本国民」の大事な古典であり、「民族神話」であり、「民族の心の表現」であり、人々の心の中に生きている。文化的伝統を重視すべきだ。どの民族でも事情は同じで、それは国際標準になっている。だから古事記、日本書紀、万葉集は、教育に取り入れられるべきだ。(古事記、日本書紀、万葉集は、天皇家の文化ではないか。それを日本人全体の文化といえるのか。)
614 米軍による占領時代、記紀の神話は、皇室支配の由来を語り、超国家主義・軍国主義に利用されたことが批判され、教育の場から追放されたが、今は占領時代ではないのだから、記紀の神話を教育の場で採用すべきだ。(御都合主義)
 戦前、津田左右吉は古事記や日本書紀を研究し、8世紀の作為性を強調した。確かに古事記、日本書紀は8世紀に編纂されたが、それ以前の帝記、旧辞などの伝承をもとにしている。その編纂の意図は、天皇家と皇室を中心とするが、「日本人」が国家としての意識を持ったとき、事実として皇室がその中心にあった
 皇室はその後も国民の生活の中心であり続けた皇室の存在は、「歴史の連続性を保証し」「社会の安定と統一の基礎となってきた。」現憲法で天皇が「日本国民の統合の象徴」とされているが、それはこの歴史的事実に基づいている。(事実ならたとえどんなに悪でも正しい。従って支配は正しいと言っているように聞こえる。)
 国民会議の椛島は「これまでの教科書は階級史観に立ち、天皇の記述を避けてきたが、天皇は歴史上欠かせないから、教科書に記述すべきだ」と言っているが、今日の高校日本史教科書で階級史観に立って、天皇の記述を避けているものは少ない。山川出版社の「詳説日本史」は、人物を中心にして書いている。天皇の記述も「新編日本史」同様に多い。しかし、天皇に敬語を使ったのは「新編日本史」が初めてで、天皇の写真や肖像も他より多い。朝日新聞によれば、他の教科書の平均が2枚であるのに対して、「新編日本史」は8枚である。
615 坂本太郎は「歴史を愛する心」を説き、「天皇でも歴史上の人物になっている場合は、敬語はあまり使わない方がよい」(「諸君!」九月号)と言うが、朝日新聞のように非難すべきではない。(どう違うと言うのか)
 「新編日本史」は教育勅語の全文を掲げてそれを評価している。教育勅語は天皇が自らを神格化して道徳の根元としようとしているのではなく、古今東西に通じる普遍的な人倫思想を祖先の遺訓として提出し、天皇が臣民と共にそれを遵守しようと述べているのである。(教育勅語は天皇自らが書いたものではないのではないか。)教育勅語の内容は、日本の他国に対する優越性を誇示しているのでも、他国への支配を説こうとしているのでもなく、超国家主義や軍国主義とは無縁である。(どうかな、おかしいな。あなたはそう信じたいだけではないのか。「事(=戦争)があれば、私のために命を捧げよ」と書いてあるのではないか。)
 
 考古学の発掘が、神話や伝承が事実であることを立証している。聖書考古学がキリスト教信仰と矛盾しないように、歴史の科学的研究は、神話伝承と共存する。(もはや信仰だね)
 私は「新編日本史」を、危険どころか、「時代の要請」に答えるものとして、高くその価値を評価する。小中学校の社会科教科書では「左翼イデオロギー」の浸透が著しいが、高等学校の日本史教科書はその傾向が強くない。「諸君!」八月号「教科書は狙われている」の中で、粉川氏は「『新編日本史』に拍手を送る」とし、彼が教科書の「左翼偏向」として挙げる例は、小中学校の社会科教科書である。

616 1982年夏、文部省がその年の教科書検定で、「侵略」を「進出」と書き改めさせたという報道を日本の新聞が行い、それに基づいて中国や韓国が日本に抗議した。その後この報道が誤りであることが明らかになった。(変だな。*)それが「誤り」であることが分かる以前に、外務省は遺憾の意を表明し、政府は官房長官談話で、「近隣諸国との外交関係に配慮する」ことを検定基準に新たに追加した。このとき教科書の内容の改訂はなかった。(変だな。*)翌年の教科書では「侵略」の文字が増えた。今回の検定の追加も、この官房長官談話を根拠にして、政府からの要求で行われたが、 中国や韓国は、今回日本の教科書に関して、古代史や天皇に関することではなく、日中戦争や韓国併合に関して抗議した


* 私はこの件について何も知らず、当初は、火のないところに煙は立たないと思い、文部省が当初の検定の目論見をもみ消したのではないのかとか、申請本の教科書では「侵略」としていたものを文部省が「進出」と改めさせようとしたが、それを新聞社にかぎつけられて、「侵略」のままで許したのではないかなどと推測したのだが、ウイキペディアを見て、愕然とした。

 文部省は1955年、昭和30年ごろから「侵略」という表現をできるだけ使わないようにさせ、「進出」「侵入」「侵攻」という表現に変えさせようとしていたようだ。著者が新聞社の「誤報」というのは重箱の隅をつっつくような「誤り」であり、右派はこの問題を「誤報」で済ませようとしたかったのだと思う。その背景には秦郁夫が言うように「国益」があるのだと思う。

 「誤報」というのは華北への日本軍の「侵略」を、「進出」ではなく、「侵入」「侵攻」と書き換えさせたから「進出」ではない、という意味での「誤報」であり、また、実際、実況出版「世界史」では「侵略」を「進出」に書き換えられ、帝国書院版では「侵略」を「軍事行動」に書き換えられていた。(ウイキペディア)

そして、東南アジアへの場合は「侵略」を「進出」と改めさせていた。

すでに1978年から「侵略」が「進出」に変わっている具体例がある。

また、韓国の三一独立運動を「暴動」とし(このことでは韓国から批判された)、古代の天皇に敬語を用い、自衛隊成立の根拠を明記し、(“自衛隊合憲”の記述を定着させ、)明治憲法の長所を記述していた。これが大きな流れであるのに、著者はそれに触れない。そこには何らかの意図が潜んでいて、欺瞞的・政治的である。

この時点ではさほど大きな国際問題となっていなかったが、7月23日、小川平二文部大臣が、「外交問題と言っても、内政問題である」と発言し、また松野幸泰国土庁長官が、日韓併合に関して「韓国は日本が侵略したことになっているようだが、どちらが正しいかわからない」と発言し、これらの発言がもとで、中国や韓国に激しく批判されるようになった。また、「日本は過去の戦争への責任を全く忘れているのではないか」という批判は、中国や韓国だけでなく、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどからも起った。

小川文相は教科書の訂正を容認し(=書き換えたことを認め)、「日中戦争は侵略」との旨の発言をするようになり、8月26日、「日本は過去において韓国・中国を含むアジアの国々に多大の損害を与えた」(「侵略」の語はない)とする政府見解(宮澤喜一官房長官談話)を発表し、9月26日、鈴木善幸首相が中国を訪問した。

 吉田裕の説明文がこの間の事情をよく説明していると思う。以下吉田裕の評である。

「1982年6月25日、文部省は翌年4月から使用される高校用教科書の検定結果を公表し、翌日の新聞各紙はその内容を詳しく報道した。ところが、この報道によって、文部省が日本の対外侵略を「侵入」や「進出」に、朝鮮の三・一独立運動を「暴動」などと書き直させていた事実が明らかになると、アジア諸国は敏感に反応し、中国や韓国では厳しい対日批判がまきおこる。教科書検定の国際問題化である。この時の初期の報道の一部に「誤報」があったのは事実だが、「侵略」という表現を排除する検定が一貫して行われてきたのは確かである。」

右派を代表して、秦郁彦の評を次に掲げる。

秦郁彦は、歴史教科書問題について和田春樹が「韓国と中国の批判が、我が国の反動派、右派に痛撃を与えてくれた」と1983年3月に発言したとし、「日本人としての『国益意識』がほとんど見られない」「こんな心がけで、運動を広げられては、我が国益は害される一方と思う」と述べた。

 加害の事実を認めずそれを隠蔽することが「国益」に資するのだろうか。真の国益とは、加害の事実を認めて謝罪し、その上に立って国際協調外交に努めることではないか。


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 古典や文化的伝統は、現代のように技術化や大衆化が著しいなかで、解放が不安をもたらしている時、人間としての存在根拠を求める上で重要だ。共同体、そしてその共同体が育み、人の心を支える文化は、「民族の立場」といえる。この民族の立場なしに人は生きられない。(私はそこまで思わない。習慣の問題ではないか。)
民族の立場は、人類の立場や世界の立場と(しばしば対立するが、)本来対立しない。人は人類的・世界的な歴史意識を持つべきだ。それを欠くと民族の立場も危険なものとなる。
617 世界史を一つの人類の歴史と見る見方と、多くの文明の集まりと見る見方*とがある。(*トインビー)先述の「民族の立場」は、民族を文化の担い手と見なす。日本は一民族が一文明を形成する世界で数少ない例である。(アイヌや沖縄人は日本人か。)この「民族の立場」は、一つの人類史的立場につながる
 人類史的立場は、世界の歴史を、全体としての人類の進歩、発展の過程として把握する。つまり、経済の進歩、知力の向上、自由の発展、民主主義の進展などとして把握する。しかし、近年この考え方に疑いがもたれるようになった。「進歩の影の暗い半面」が気づかれるようになったからであり、この進歩史観が、現代の基準で過去を裁断する「歴史否定」の態度を生み出したからだ。(相対主義、過去礼賛か。)
 進歩史観は退けられるべきだ歴史は進歩の過程ではなく不変の人間性を写す鑑である。(人間は変化しないということか)しかし、同時に歴史における人間の進歩は否定できない。(どうなってんの)進歩の兆候としての、生活の向上、知識の拡大、自由と民主主義の進展などのマイナス面はあるとしても、その積極面は評価されねばならない。人間は善悪など両面を持つ矛盾した存在だ。(ランケ)人間には進歩もあるが、退歩もある。

 今日の教科書問題の国際的な側面、つまり、近隣諸国からの抗議を惹き起こした問題は、専ら「太平洋戦争」に至る近代日本の対外政策である。それに対抗して、「国民会議」の椛島は、「新編日本史」編纂のねらいとして、東京裁判史観からの脱却を追加している。
618 戦勝者が戦敗者を裁くことは国際法上認められていないから、この裁判は法的根拠を持たない。サンフランシスコ条約で日本はこの裁判を受諾したが、それは刑の執行を無効にしないという意味であって、裁判内容に承服するという意味ではない。(歴史修正主義。コソボ裁判は非合法か。)また東京裁判の判決は、この太平洋戦争を日本の首脳部の共同謀議によるものとしているが、それは事実に反する。(どう事実に反するのか)
 東京裁判の価値判断に従うべきではない。(女性の参政権、共産党員の監獄からの解放、治安維持法廃止、農地解放などすべきでなかったということか)しかし、この戦争に至る日本の政策を正当化すべきだという意味でもない。(どうなってんの)外国人の裁判によってではなく、自己の判断で厳しく批判すべきだ。(それには賛成だが、それを自力ではできなかったのではないか。今でもできていない。)
 四年前、中国や韓国が「侵略」という字にこだわったのはこの点を問題にしていたのだろう。(韓国は満州事変以後ばかりでなく、日韓併合を問題にしている。)「ヨーロッパ諸国は植民地を所有し、他民族を支配していた。日本だけが悪いというのは不公平であり、それは自虐史観である」という意見があるが、この考え方は「時代性を無視」*している。(*そう言いながら、結局最後では「自虐史観」批判を肯定しているのではないか。)日本は列強の中国植民地化争奪戦の最後に登場したが、それは日本にとって民族の独立のために必要だった。(そこが他の国の行った植民地化と違う点だと言いたいのだろうか)当時ロシアは朝鮮に圧力をかけていて、それを放置することは、日本の独立を危うくすることが明らかだった日露戦争は日本にとって民族自立のための防衛戦争だった。(第三の選択肢を考えられなかったのか)日本の勝利は、未だ西洋列強の覊絆下におかれた諸民族に多大の鼓舞を与えた。(朝鮮や台湾がこれを聞いたら面白くないだろう。著者の言う「時代性」とは、日露戦争=自衛戦争らしい。)
619 列強の行動は侵略であったが、歴史学は歴史的事実に道徳的講釈をすることを任務としない。客観的事実を明らかにし、それぞれの時代の状況や傾向を認識することが歴史学の任務だ。歴史の各時代には独自の課題があり、価値基準があり、それぞれに意味を持つ。後世の価値基準で過去の事実を裁断することはできない。(相対主義、過去の悪行の容認か。そう言っておきながら著者は後述のように日本の満州事変以後を断罪する。自分の論理構成に都合の場合に、あれこれの論理を採用する。)
 しかし、歴史の進歩は、確かにある。(また両論併記か)20世紀世界の国際政治には進歩があった。列強間の抗争が世界戦争という災厄をもたらしたことから、国際間の紛争を武力に訴えるのではなく、協力し合い、平和を維持すべきだという認識を固め、さらにそのための具体的手段を講じ、国際連盟を結成し、不戦条約を締結した。
 1920年代は国際主義と世界平和が価値基準として形成された時代だった。この人類の到達点に敢えて挑戦し、歴史を退歩させたのが1930年代の日本の大陸政策やナチスの政権掌握だった。
 これは現代につながる問題だから、今の価値判断を適用してよい。(ずるい。日本にとって当時は正当だったことを、現代の価値判断で裁断しているのではないか。)これに対して、当時の日本のおかれた状況に対する理解を欠くと反論する人もいるだろうが、それは間違いだ。
620 1931年9月18日の柳条溝事件は中国人の仕業だと公表されていたが、それは日本軍の手によるものであるらしいことは噂として広まっていた。また3年前に時の首相が満州某重大事件の責任をとって辞めた。そして東大法学部の横田喜三郎教授は、帝国大学新聞で満州事変を批判した。
 国内では当時、自由と民主主義という20世紀の進歩に反対する政治変革が行われた。
 満州は日本の生命線であり、それを守ることは民族の生存のために必要だったという反論が出るかもしれない。しかしそれは「歴史的視野」を欠いている。
 第一次大戦後、植民地地域におけるナショナリズムが台頭した。イギリスはエジプトやインドの自治に向って譲歩し、フランスはモロッコ問題に腐心した。(一方日本は治安維持法で朝鮮人を弾圧し、台湾人も弾圧し続けた)個人意識の覚醒は民族意識を覚醒する。19世紀に生まれた先進諸民族のナショナリズムは、第一次大戦後、後進諸民族にも起ってきた。
 自分の利益だけを考えて他人の利益を無視すれば、結局自分の不利益に跳ね返ってくる。(これには賛成)当時、倫理的にも、現実の力関係でも、そうなっていたが、日本の陸軍はそれを敢えて認めようとしなかった。
621 満州事変後暫くして、イギリスの文豪HG・ウエルズは、「日本が満州から北支、全支那へと限りなく侵略を進めていかざるを得ないだろう」と述べたことが日本の新聞に掲載された。
 この戦争が自衛のためだったと言う人がいる。ABCD包囲網、つまり、アメリカの石油禁輸やハル・ノートは事実上の日本への最後通牒であったと言って日本の行動を正当化する。しかし、日本がとめどなく侵略を続ければ、それを阻止する動きが起るのは当然だ。日本が他民族を支配するのは正当で、他民族がそれに反対するのは不当だと言えるか。北部仏印から南部仏印へ進駐すれば、それに対する対抗措置がとられるだろうことははっきりと予知されていた。
 経済力においてはるかにまさるアメリカに戦争を仕掛けて勝つと考えるのは驚くべき知力の低さである。緒戦の戦闘に勝てば、向こうが和平を申し込んで来ると考えるのも甚だしい無知である。政治指導者の無知は、罪悪だ。このような知力の低さを以て今日の歴史認識の基準にするのは明らかに間違いである。
 当時でも戦争が自衛の途ではなく、日本を滅亡に導くと考えた人は少なくなかった。日本のこの戦争は歴史の必然ではなく、日本人が一致して望んだものでもなかった。
 1920年代の日本は、大戦後の新しい時代の傾向に即した歩みを始めていた。議会政治が軌道に乗り、国際協調、他国の民族主義への理解も緒につき始めていた。しかしこの方向に向っていた人々を軍部が圧服した。勝田龍夫『重臣たちの昭和史』は、軍部勢力の跳梁に抗争した人々の思想と行動を述べている。斎藤隆夫、浜田国松、津村秀松らは、帝国議会で反軍演説を行った。彼らは武力と組織を持つ軍部に勝てなかったが、孤立していたわけではない。彼らの行動は国民の良心と良識を代表していた。そしてその中心に天皇がいた。(本当か)
622 先述の「民族の立場」は民族利己主義を意味しない。当時の超国家主義や軍国主義を推進した人々の中では、日本民族の文化的伝統が少しも受け継がれておらず、彼らはナチズムに共鳴したり、末期にはソ連共産主義に異常な関心を示したりした。日本民族の文化的伝統は、かえって彼等に反対した人々の中に生きていた。(本当か。これが、「民族の立場が民族利己主義を意味しない」理由か。)
 中国が教科書問題で非難したのは、「歴史事実を歪曲し、侵略戦争を美化する」という理由である。具体的に言えば、「日本の中国侵略戦争を日本軍がやむなく応戦したものと書いている、日本軍の南京大虐殺の真相を、意識的に覆い隠している、日本がかつて『太平洋戦争』を行った目的を、『欧米列強の支配からアジアを解放し、日本の指導の下で大東亜共栄圏を築く』ためと言いくるめている」と中国は非難した
 「新編日本史」はどうか。満州事変の発端について、張作霖の殺害も鉄道の爆破も、日本人の仕業であったと書いてある。日中戦争の始まりについて「突如日中両国軍が衝突」し、その後「中国側の戦意と現地日本軍の積極的華北戦略との対立は厳しく」(原稿本)と書いてあり、在留邦人や上海陸戦隊将校の殺害があったことを取り上げている。後者について内閣本では「現地日本軍の積極的華北戦略と中国側との対立」と順序が逆になったが、その後の検定では「現地日本軍は、積極的な軍事行動をとった。そのため中国側は激しく抵抗し」となって、また日本人殺害事件は削られた。私は後者(その後の検定かそれとも内閣本か)のほうがいいと思う。というのは北京の近郊に日本軍が駐屯して演習を行うこと自体が問題だからだ。しかし、前者(内閣本かそれとも原稿本か)でも「やむなく応戦した」とは書かれていない。侵略戦争を美化してもいない。(個々の事項を反証として使って弁明するのでは説得力がない。全体のトーンがこの教科書の問題なのではないか。)
 南京の事件は、これまでの検定でも問題となった。中国側の数字が誇大であることは間違いない。(具体的な個々の数字が問題なのではなく、虐殺の事実が変わらないことが問題なのではないか。)日本が米英との戦争を、東亜解放のための大東亜戦争と称したのは事実である。(事実だから正当化してよいのか。)
623 教科書問題の真の問題点はこういうことではない。中国も韓国も、最初にこの教科書を問題にしたとき、教科書を見ておらず、4年前と同じく、日本の新聞記事や、現地駐在新聞記者の質問に対する反応であった。(それではまずいのか。全体としては「誤報」ではなく、正しい指摘だったのではないか。)
 また外国からの申し入れに対して、外務当局は、「事実を調査の上返事をする」と答えるべきだった。外務省は直ちに文部省に連絡して実情の把握をすべきだった。しかし外務省は、4年前と同じく、事実を確かめず、遺憾の意を表明した。
 中国や韓国の態度を内政干渉だと言う人もいるが、彼等がかつての日本の支配から苦痛を蒙ったことは事実であるから、敏感であり、無理からぬことだ。外国が何か言って来たらすぐ教科書を改めさせたり、教科書の発行をやめさせたりするのは、「国家の自立」を害し、「教育の根本」を傷つけることだ。(誤りを正すことで国家の自立が失われるのか、「教育の根本」とは一体何か。)
 家永裁判で検定違憲論を唱え、教科書の自由化を唱えた「左翼」の人たちは、今度はこの教科書の出版に反対し、検定の強化を要求した。(当然ではないか)一方、かつて家永教科書の検定に際して文部省を支持した人々は、今度の検定に反対して教科書の自由化を説くようになった。
今年の3月19日、家永裁判に対する東京高裁控訴審判決は、「国は憲法上国民の信託を受け適切な教育政策を樹立、実施する権能を有しているから…必要かつ合理的と認められる関与ないし介入することは、教育の内容、方法に関するものであっても容認できる」とした。(もったいぶって権力を振りかざしているに過ぎない判決だ)
 戦後の日本は敗戦という「特殊事情」のために、「国家否定」そして「自由民主主義体制をできるだけ無力化させようとする思想」が、組合運動の力によって教育界に異常な勢力を張るという状況が生じた。それがなお存在する限り、国家による検定の制度は必要である。検定を行うのは検定審がその責任を負うが、現実的には限られた数の教科書調査官という文部省の役人である。人間のすることだから不適切や間違いがあるだろうから、検定を批判する必要もある。
624 今回の「新編日本史」での検定で、理由が分からないところもあったが、改悪ではなかったと思う。
 「新編日本史」は初めて記紀の伝承を採用し、「天皇に関する必要な事項」を十分記述し、日露戦争に関して大山巌東郷平八郎の名を挙げ、「この戦争の世界史的な意義」を述べていることは評価すべきだ。しかし、満州事変以後の日本の中国への「進出」や太平洋戦争への過程の記述の中には、近隣諸国からの「誤解を招く恐れがある部分」が原稿本にはあった。(誤解ではなく真意なのでは)
 原稿本は「事実を歪めたり、戦争を美化したりしてはいない」(どうかな)(原稿本の中で)「侵略」という字を使えとか、いちいち「悪かった」と謝れと私は言うつもりはないが、「勘ぐられるとまずいな」というところはあり、その点を調査官が修正している。(「勘ぐられる」という発想は惨めだな)しかし、内閣本以後の改定には、無理があり、その点を椛島も指摘している。椛島は、「左翼」に対する検定には理由があったが、この教科書に対する修正には守るべき検定基準がなかったと言っているが、それは支持できない。

(1986年、昭和61年10月)

以上 2020626()


2020年6月22日月曜日

旭ヶ丘の「白虎隊」 京都旭丘中学事件 臼井吉見 1954 「文芸春秋」にみる昭和史 1988 要旨・抜粋・感想


旭ヶ丘の「白虎隊」 京都旭丘中学事件 臼井吉見 1954 「文芸春秋」にみる昭和史 1988


私は旭丘というと名古屋の旭丘高校のことかと思っていたら、京都の中学だということを、恥ずかしながら、初めて知りました。この臼井吉見さんの一文やウイキペディアの「京都旭丘中学事件」を読み、この事件にすでに全共闘運動のさきがけみたいな雰囲気があることに気づき、もし、私がこの事件の当時者だったらどちらにいただろうか、それまでのいきさつ次第で、どちらにでもついていたかもしれないなどと想像しながら、無定見な自分を恥じるばかりだ。読んでいてまた憂鬱な気分になってしまった。
臼井吉見さんは、ウイキペディアで見る限り、左翼運動にかかわった人ではないようだが、旭ヶ丘中学の教育を「観念が先走りしている」*と評しているが、傍から見ればそうなるのだろう。しかし、観念のない運動などあるのだろうか。
*正確には「事件の根本は、複雑な国際政局のせめぎ合いのなかにある平和擁護のスローガンを、観念的に義務教育のなかに持ち込んだところにある。」277
 問題の発端は「父兄」の批判だというが、その父兄とは恐らく右翼、つまり左翼が嫌いな人なのだろう。もしその批判がなければ、旭ヶ丘中学の教育はそのまま行われていただろうし、そのままでいいのじゃないかと思う。また生徒が作成した学校新聞で、修学旅行の行き先である東京の各名所の批判ばかりしていると臼井さんは言うが、私なら目を瞑るだろう。「偏向」というが、それなら「中庸」な生徒像とは一体どんな生徒なのだろうか。右派の京都勧業館での補習授業と、左派の旭ヶ丘中学での自主管理授業とで、生徒を奪い合い、その生徒数の比がおよそ2対1くらいとウイキペディアにはあるが、それから考えてみると、この運動が決して浮いていたわけでもないようにも思える。
 1954年は、朝鮮戦争1950.6.25—53.7や、サンフランシスコ単独講和1951.9と日本の独立1952.4.28の後で、日本が再び軍隊を持ち始め、右傾化が進行していた時期である。

 三人の教員、北小路昴教頭、寺島洋之助教諭、山本正行教諭を懲戒免職処分にし、警察導入に言及してまで恫喝し強行する手法などに見られるように、弾圧は強烈で、平和教育運動は気に入らない、何としてでも潰してしまえ、という意図が明白だ。要は気に入らないということだ。

ウイキペディアによれば、転補(他の官職に補せられること)と懲戒免職撤回を求める裁判闘争が1974年まで続いたが、最高裁は懲戒免職を認める判決を出した。
1954年3月24日、京都市教育委員会が三人の異動を内示したが、父兄や生徒から反対行動が起った。
結局、懲戒免職対象の三人の教員以外の教員が他校に転勤する(三人は懲戒免職5.5となる)ことで和解が成立6.1した。
教育二法(5.29成立)とは、政治的なデモや集会に公立学校教育関係者*が参加すること、また生徒に参加を呼びかけることを規制し、これに抵触した場合は懲戒処分とするというものである。

ウイキペディアによれば、
臼井吉見1905—1987 小説家、編集者、評論家
長野県安南曇郡三田村(現・安曇野市)出身。東京帝国大学文学部卒業1929、旧制伊那中学教員、松本女子師範学校教員、東京女子大学教員、『展望』編集長、文芸評論家

要旨

276 ぼくが京都の旭ヶ丘中学校を訪れた時期は、京都市教員組合と京都市教育委員会とが第三者の調停斡旋を受け入れ、分裂授業を打ち切った(1954年)5月20日だった。
 ぼくは図書室で北小路昴教頭から話を聞いた。
記者会見が開かれ、寺島洋之助や山本正行教諭から「ファシズムから平和と教育をまもるための父兄大会」が夕方7時半から開かれると聞いて、私は「異様だ」と感じた。
277 山本教諭は「平和を守ることがどんなに大切で難しいことか、生徒も分かったと思う」と述べた。
寺島教諭は「日本国民はファシズムの暴力から平和を守ろうとしている。敵の手段は予想以上に悪辣卑劣である。」と述べた。
北小路教頭は「今日が生徒との最後だなどと考えていない」と記者の質問に答えた。というのは、第三者の斡旋を受け入れる上での覚書に、「京教組は懲戒免職になった三教諭に出校しないようにする」という一項があったからだ。
北小路教頭は続けて「市民として学校に出入できる。教育は教室の中だけではない」と答えた。(これは甘いのではないか。何年ももたない。新しい生徒とのつながりがなくなり、存在を忘れられてしまうからだ。)

ぼくはここへやってくる前から今度の事件の根本は、複雑な国際政局のせめぎ合いの中にある平和擁護のスローガンを、観念的に「義務教育」の中に持ち込んだところにあるのではないかと思っていたが、この見当に誤りはなかったらしい。
 北小路教頭のぼくに対する説明は、「平和教育という名称は偏向教育という非難に対して押し出されたものだ。紛争の平和的解決、社会のあり方、国際協調などを教材にし、生徒に考えさせたい。
278 しかし、現実は、教育予算が限られ、父兄の給料は不況で押し下げられているのに、税金は取られ、再軍備のための費用として流れている。こうして社会の矛盾、政治への疑問に目が向けられ、自覚が生まれる。
 生徒は毎朝新聞の政治面を読んでいる。我々は生徒の考える力を伸ばしてやりたい。」というものだった。
ぼくは「若い教員は生徒の心理を知らないので、偏向教育と言われるときもあるのではないか」と北小路教頭に言ったら、北小路教頭はそれを肯定した。
 問題はそこにある。中学生が新聞の政治面を読んで嘆き憤ることは変態で望ましくない。中学生がそのようなことを自覚するような不幸や矛盾は確かに社会にあるが、子供をそこまで連れて行くのは「別の問題」だ。(ではどういう問題なのか。)

市教育委員会側が「補習授業」を行っている岡崎勧業館を訪ね、指導主事に話を聞いた。指導主事は「旭ヶ丘中学の教育は偏向教育ではない*と市教育委員会は考えている。しかし、誤解を招くようなことがあった。昨年(1953年)12月15日、父兄の有志(=右翼)が、偏向教育が行われていないか、調査・監督を申し入れてきた。そしてその書類には80数項目の具体的(偏向)事例が書かれてあった。(*市教委は偏向教育が行われていると実質的に考えているのではないか。)以下はその一例である。

・校舎建設対策委員会に、生徒代表を、教員、父兄と同等の資格で参加せしめていること
・「左翼文化団体」である洛北民主協議会に、同校の新聞班が、校長の許可もなく、生徒会の承認も経ずに参加していること
・学習教材に「教室内で」「アカハタ」を扱ったこと
・学校新聞が(政治的)時局を風刺したものが多く、「中学生の新聞としては多面的でなさ過ぎること

279 教育長は校長を呼びつけ、教育計画の「整備」、指導方法の「妥当性」、その他を要求した。これが事件のきっかけらしい。

 1953年9月17日発行の「旭ヶ丘新聞」には、大阪で行われた関西平和祭に参加した生徒の手記、洛北平和祭の記事、南山城水害現地ルポ、映画「ひろしま」の解説、東京バス案内などが掲載されている。この東京バス案内はバス・ガールの口調を擬して語られ、現代社会や政治を風刺したものである。「戦争とコカコラが飯より好きだという不思議な国」からやって来た兵隊さんをからかったり、東京中央郵便局については、「ここの待合所は多くのブローカーの無料共同事務所になっております。そして吉田さんがフリゲート艦を貸してもらうために書いた有名な吉田書簡も、ここから出されたのであります」と説明され、楠正成の銅像に皮肉を浴びせ、中央気象台については、「明日は晴天の模様ですが、曇ったり、雨が降ったり、風が吹いたり、吹かなかったりするかもしれませんというふうに、役に立つ天気予報をしてくれるありがたいお役所」という説明が加えられている。国会議事堂については、「ここは国の政治を議するところ、ということに一応なっておりますが、中身は田舎まわりの大根役者やバクチうちどもが集まって、恥ずかしいような漫才や茶番劇をやっています。この間座頭が、バカヤローと怒鳴ったことがもとで、一座は解散しましたが、再び旗揚げ興行が行われることになり、この間中の馬鹿囃子やふれ太鼓によって、きまった一座をもって、相変わらずの漫才やストリップが演ぜられることでございましょう」といった調子だ。
 上野動物園になると、「さっきご案内申し上げた国会に集まる議員さんたちを、この動物園のオリの中に全部収容して、みなさまがたの見物に供しようという国民運動が目下着々と進められ…そうすれば、オリの中でバカヤローと言おうと、ケンカをしようと、小便しようといっこうにかまわないわけでございます。では、動物たちはどこへ行くかと申しますと、さっきの国会議事堂に全部入れて、日本の政治をやらせるのでございまあす。そうしますと、真面目な動物のことですから、よからぬことをたくらんだり、待合に行ったり、戦争の準備をしたりなどいたしませんから、今よりきっといい政治ができるでしょう。」
280 この国会議員と動物との入れ替えなどの着想は、清水崑や近藤日出造の政治漫画だったら使いものになるが、中学生の修学旅行の参考としてはどんなものか。東京中央郵便局や中央気象台などに対する冷やかしは、教育的にはニヒリズムを植えつける以外ではあるまい。(私は中学生がこんなにレベルの高いことを書けることに感心した。私が中学生の時は、田舎だったせいもあるかもしれないが、こんなに意識が高くなかった。)
 楽しみしていた修学旅行で、東京までやって来て、眼に見えるものことごとくをこのように罵られケチをつけられ、冷やかされる(これは修学旅行中の話ではなく、修学旅行前の話ではないのか。修学旅行中は学校新聞のことなど忘れているだろうし、そもそも学校新聞自体を読んでいない生徒も大勢いるのではないか。)のを、新聞の第一面の「異常な」愛読者であるという中学生たちは、わが意を得たりとしたのであろうか。そうだとすれば、われわれの想像を絶する、「おどろくべきグロテスクな中学生というほかない。こういう教育のどこが「平和教育」であり、進歩的なのであろう。

 修学旅行で東京を訪れる中学生たちの、いたずらざかりで元気な顔の中に、こういうグロテスクな中学生を想像することは、ぼくにはできそうもない。かてて加えて、新校長に対する、さながら人民裁判を髣髴たらしめるような辞職強要の場面5.7を考えると、いよいよ困惑を感じないわけにはいかぬ。
 5月20日の京都新聞に、辞職を強要された北畑校長の「私が辞表をかくまで」という手記が載っている。それによると北畑校長は、4月7日、知人の中学校長に介添役として付き添われて旭ヶ丘中学に赴任したという。新校長が赴任する場合は、学校の代表者が迎えに来るのが慣例になっているが、自分の場合はそんな旧式(?)なことはなかったので、単身赴任したが、見るに見かねて、知人の校長が介添役を買って出てくれたそうだ。
 PTAの役員が待っていて、北畑校長は質問状を突きつけられ、これをのんだら挨拶を受けようと言われた。質問状には「あなたは三先生を守るために共にたたかいますか」と書かれていたという。その1ヵ月後の5月7日、校長は強要されて辞表を書いた。

(以上のとおり、筆者は校長が人民裁判のように辞職を強要されたと書いているが、ウイキペディアによると、大分事情が異なる。筆者はその意味で読者に誤解を招き、犯罪的でさえある。以下、ウイキペディアを要約する。

異動は41日付で発表されたが、3教員は転任を拒否し、旭丘中に出勤する。47日に後任の北畑紀一郎校長が着任すると、教職員から「三先生を守る」ことを確約するよう求められ、押し切られた北畑校長は「三先生を守るために共にたたかう」ことを誓約した。
55日、臨時の京都市教育委員会において3教員の取り扱いについて議論が行われ、5人の委員の内京教組の推薦で当選した2人が処分に反対して大モメになったが、最終的に2人が「処分決定を前提とする委員会なら退席する」とコメントして退室。残りの3人で決を採り、「職務上の命令に服しない」ことにより、3教員の懲戒免職処分を決定する

着任した北畑校長は、1ヶ月間3教員に対して転任を勧告する側に回り、「紛糾したら市教育委員会と相談し警察権の導入も考える」と言い放ったため、前述の人事異動に応じない3教員に対する教育委員会による懲戒免職処分とあわせて、糾弾されることになった。1954年5月6日昼から7日未明まで、保護者代表、教員、生徒会代表ら70名との団交が行われ、警察権発言の撤回と3教員の授業続行の許可を要求した。またこのとき、4月22日に行われた、校長着任後の懇談会の二次会で、北畑校長が若手教員十数人をサロンに連れて行き、金品を渡して京教組サイドから離反するように働きかけていたことが暴露された。団交が終了し、北畑校長が帰宅後、生徒大会が開かれ、そこで校長辞職決議が議決された。午後3時頃北畑校長が登校すると、校長は、教職員、生徒、保護者ら100人に取り囲まれ、生徒が罵声を浴びせる中で、辞表と辞職理由書を書かされた。以下は辞職理由書である。

一 4月22日の懇談会のあと、サロン菊水に出入したことは、教諭として面目を汚したこと、更に、学校の先生を誘い入れたことは、甚だよろしくないことを認めます。
二 三教員を守ることが出来なかったこと。
三 平和と民主的自由をその教育方針とする学校の教師として相ふさわしくないため
四 自主的な行動を第一義とする中学生の指導者として不適任である。

教育委員会は強要されたものとして辞表を受理することを拒み、週末(8日土曜日、9日日曜日)をはさみ、10日から休校、教員の自宅研修命令を、北畑校長名で通達した。しかし、教職員は休校命令を無視して自主管理授業を強行した。10日、在校生の7割が登校し、京教組や総評傘下の労働組合の名入りの赤旗が校庭に林立した。(これはやりすぎだったか。)教育委員会側はこれに対抗して11日から京都勧業館で補習授業を開始した。市教育委員会が生徒をバス30台で京都勧業館へ輸送しようとする際、生徒の奪い合いが怒声の中で行われた。20日、京都府教育委員会が斡旋に乗り出し、20日限りで休校とすることで合意した。

 (ここで本文に戻る。)

281 5月7日に校長を吊るし上げて辞表を書かせたのは、自然の勢いらしい。当日、市教委の指導主事、校長、京教組幹部、PTA役員、生徒役員らが出席していた。校長が三人の教員に懲戒免職が発令されたのだからとして、警察権力によってでも三教員の退去を求めたため、「興奮のあまり」「校長の非行」を暴く者が出てきて、一挙に校長への辞職強要に発展したという。校長の非行とは、新校長の着任に際して、教職員の懇談会があり、その二次会に新校長が若い教師12、3名を誘って、菊水というカフェの二階に上がり、札束を見せて、「酒を飲むなり、女と遊ぶなり、おおいにやれ」と言ったとかで、*憤慨した教師たちが校長を街頭に担ぎ出すという事件があったが、それをいう。
*著者は、ウイキペディアの指摘する、京教組からの脱退勧告については触れず、エッチな話だけに限定し、事実を歪曲している。
 校長は、戦争中は、元陸軍大尉の肩書きを持ち、予備役将校であったため、「孤身敵中」に踏み込み、軍隊式手法を講じたものと僕は想像している。
 「金と酒と女で先生を誘惑する」と、生徒たちは当日の生徒大会ですでに校長の辞職要求を決議していた。
それで「人民裁判」に「突き進んだ」というのが真相らしい。生徒たちは校長に向って「オッサン、ヤメロ! ヤメロ!」と叫んだそうだ。この生徒たちの言動は、グロテスクに相違ないとぼくは思う。
 この話は不愉快だが、客引き同然に生徒を奪い合ったのはそれ以上に不愉快だ。

 話は戻り、教育長が橋本前校長に警告を発した頃、自由党の教育二法案が提出されていた。橋本校長は年度末に辞表を出したが、市教委の言うところによれば、自分は無力で、監督指導できないという理由だった由。橋本前校長は、あのままの教員組織では新校長もロボットになるよりほかあるまいからという理由で、三教師の他校への転任を年度末定期異動に繰り込み、自分の辞表と同時に内申したという。これは市教委が前校長に強要して決行した、予定の計画だと教組側は考えているが、いずれにせよ校長と市教委との話し合いの結果だろう。市教委側は、左遷という印象を与えないようにするため、市内一流の三条中学、四条中学、柳原中学への転任を内定していた。教委側が旭ヶ丘中学の教育を偏向教育だと断定しなかったのは、市教委の中に二名の「革新派」の委員が存在したからだろう。
282 三教師はこの転任を拒絶し、全校揚げて前校長の退職に反対した。それを認めれば、偏向教育を認めることになるからであり、それは教育二法案の通過を促し、教師の口が封じられ、戦争に突入しなければならぬことになるし、卒業生の就職にも障害になると教員や父兄は言う。しかし、ぼくはこの論理に納得できない。教育二法案はぼくも大反対で、あらゆる手段を尽くして阻止しなければならぬものと信じている。(自己矛盾ではないか。)
 三教師が転任すれば、偏向教育と認められ、教育二法案の通過を促し、日本の戦争突入の機縁になるという「直線的」論法に、ぼくはどうも納得できそうもない。ぼくは旭ヶ丘中学の「進歩的」勢力の中に、自由党の秘密党員が潜入しているのではないかという疑惑を消し去ることができない。奇怪な事件が起っている昨今、それはありうることではないか。これがぼくの妄想だとしても、いずれにせよ、今度の旭ヶ丘中学の事件は、自由党の思うツボではないか。京教組は何かに憑かれている。「全国の先生に明るい希望を与えた」と言う山本教諭は、何かに憑かれている。
283 三教師は転任して、新しい環境でその信ずる教育を推し進めたらどうか。*問題が大きくなり、自由党に利用されている中を、三教師が旭ヶ丘に止まることが、日本の平和につながるという論法が、理解できない。
*それでは運動がつぶれる。知っていて言っているのだろう。
 生徒が可愛そうだと思う。新聞は「罪のない生徒を事件に巻き込んだ」と書くが、そのことに生徒は憤慨しているという。
 生徒は自主的に判断し行動しているというが、20日正午の生徒大会を見て、ぼくは自主的判断が働いていなかったと思う。
 午後7時半からの「ファシズムから平和と教育をまもるための」学校側の父兄会を傍聴したが、その中で出席者は「敵」側の陰謀を説き、「職を脅かされ、アカと呼ばれる」と発言する人がいたが、アカならもっと筋道の通った話をするはずだ。(挑発的)
 市教委側が主催する補習学級の父兄たちは口をそろえて、「三教員は勿論、全教員が去ってほしい」と言っていた。そして山本、寺島両先生に生徒がなついているのは、「あの人たちのであろう」という父兄もいたが、ぼくはこれらの先生が本気で生徒のことを考え、教育を考え、日本の社会のことを考えていると思う。ぼくはその真意を疑わない。
284 市教委側の補習学級が日増しに生徒を獲得し、旭ヶ丘に残る生徒は100名を割るだろうとの一般の予測を裏切り、最後まで509名の生徒が居残ったのは、三先生の人望のせいだろう。しかし、三教員が観念的なものにとり憑かれていることは間違いないと思う。
 北畑校長の手記によれば、「政治問題と教育とを直結し、職制の無力化民主化と考え、子供を統一行動に引きずり込むが、それは中学校教育での妥当性を欠き、実に寂しい思いだ。あるべき中学校教育という一点に勢力を結集すべきではないか。」という。
 京教組、日教組は、もっと冷静に考えるべきだ。卑屈な事大主義から教師を守ることのほうが緊急かつ主要だとぼくは思う。この3月、ある高校生で君が代を歌わせることに疑問を持ち、その理由を質問したが、有無を言わさず退校*させられたという。教組の全組織を揚げて教育と教師を守るために戦うことが大事ではないか。そしてそれが平和につながると思う。*退学ではなく下校か。
 週刊朝日5月23日号は、旭ヶ丘問題についての「京都在住の代表的文化人」の意見なるものを掲げている。湯川秀樹氏は「まったく意見はありません」とし、末川博氏は「PTAの一部有志が、偏向教育だなんだと騒ぎ出すのが問題だ」と言い、「いわば京大事件の戦後版だ」と語っている。また桑原武夫氏は、「教育二法案が成立し発効した時に、その取り締まり対象の第一号にされやしないかと心配だ」と言っている。
 ぼくは失礼ながら、これら京都文化人は、是は是、非は非で以て問題の核心に迫ろうとしていないと思う。ぼくは「京大事件の戦後版」などと思っていない。(1954年、昭和29年7月)

以上 

教育二法


・教育二法とは、「教育公務員特例法の一部を改正する法律」(昭和二十九年法律第百五十六号、195463日公布)および「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(昭和二十九年法律第百五十七号、195463日公布)をいう。


教育公務員特例法の一部を改正する法律

教育公務員特例法(昭和二十四年法律第一号)の一部を次のように改正する。
第十一条第二項中「同法第三十一条から第三十八条まで及び第五十二条」を「第二十一条の三第一項並びに地方公務員法第三十一条から第三十五条まで、第三十七条、第三十八条及び第五十二条」に改める。
第二十一条の三を第二十一条の四とし、第二十一条の二の次に次の一条を加える。
公立学校の教育公務員の政治的行為の制限)
第二十一条の三 公立学校の教育公務員の政治的行為の制限については、当分の間、地方公務員法第三十六条の規定にかかわらず、国立学校の教育公務員の例による。
2 前項の規定は、政治的行為の制限に違反した者の処罰につき国家公務員法第百十条第一項の例による趣旨を含むものと解してはならない。
附則
1 この法律は、公布の日から起算して十日を経過した日から施行する。
2 地方公務員法(昭和二十五年法律第二百六十一号)の一部を次のように改正する。
第二十九条第一項第一号中「この法律」を「この法律若しくは第五十七条に規定する特例を定めた法律」に改める。
第三十六条第二項但書中「公立学校(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に規定する公立学校をいう。以下同じ。)に勤務する職員以外の職員は、」及び「公立学校に勤務する職員は、その学校の設置者たる地方公共団体の区域(当該学校が学校教育法に規定する小学校、中学校又は幼稚園であつて、その設置者が地方自治法第百五十五条第二項の市であるときは、その学校の所在する区の区域)外において、」を削る。
第五十七条中「公立学校」を「公立学校(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に規定する公立学校をいう。)」に、「学校教育法に」を「同法に」に改める。


義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法
法令番号              昭和2963日法律第157
効力       現行法

概要

教育基本法(平成18年法律第120号)の精神に基き、「義務教育諸学校における教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り、もつて義務教育の政治的中立を確保するとともに、これに従事する教育職員の自主性を擁護すること」を目的として制定された。

3条で教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体(以下「特定の政党等」)の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもって、学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならないと規定している。

3条に違反した者は1以下の懲役又は3万円以下の罰金に処すると第4条で規定されている。


昭和二十九年法律第百五十七号
・義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法
(この法律の目的)
第一条 この法律は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の精神に基き、義務教育諸学校における教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り、もつて義務教育の政治的中立を確保するとともに、これに従事する教育職員の自主性を擁護することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「義務教育諸学校」とは、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に規定する小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部若しくは中学部をいう。
2 この法律において「教育職員」とは、校長、副校長若しくは教頭(中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部若しくは中学部にあつては、当該課程の属する中等教育学校又は当該部の属する特別支援学校の校長、副校長又は教頭とする。)又は主幹教諭、指導教諭、教諭、助教諭若しくは講師をいう。
(特定の政党を支持させる等の教育の教唆及びせん動の禁止)
第三条 何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体(以下「特定の政党等」という。)の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて、学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む。)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。
(罰則)
第四条 前条の規定に違反した者は、一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する。
(処罰の請求)
第五条 前条の罪は、当該教育職員が勤務する義務教育諸学校の設置者の区別に応じ、次に掲げるものの請求がなければ公訴を提起することができない。
一 国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第二十三条の規定により国立大学に附属して設置される義務教育諸学校又は地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第七十七条の二第一項の規定により公立大学に附属して設置される義務教育諸学校にあつては、当該大学の学長
二 公立の義務教育諸学校にあつては、当該学校を設置する地方公共団体の教育委員会
三 私立の義務教育諸学校にあつては、当該学校を所轄する都道府県知事
2 前項の請求の手続は、政令で定める。
附 則
この法律は、公布の日から起算して十日を経過した日から施行し、当分の間、その効力を有する。
附 則 (昭和三一年六月三〇日法律第一六三号) 抄
(施行期日)
1 この法律は、昭和三十一年十月一日から施行する。ただし、第一条中地方自治法第二十条、第百二十一条及び附則第六条の改正規定、第二条、第四条中教育公務員特例法第十六条、第十七条及び第二十一条の四の改正規定、第五条中文部省設置法第五条第一項第十九号の次に二号を加える改正規定中第十九号の三に係る部分及び第八条の改正規定、第七条、第十五条、第十六条及び第十七条中教育職員免許法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理に関する法律附則第三項及び第四項の改正規定(附則第五項の改正規定中教育長又は指導主事に係る部分を含む。)並びに附則第六項から第九項までの規定は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和三十一年法律第百六十二号)附則第一条に規定する教育委員会の設置関係規定の施行の日から施行する。
附 則 (昭和四九年六月一日法律第七〇号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して三月を経過した日から施行する。
附 則 (平成一〇年五月八日法律第五四号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成十二年四月一日から施行する。ただし、第一条中地方自治法別表第一から別表第四までの改正規定(別表第一中第八号の二を削り、第八号の三を第八号の二とし、第八号の四及び第九号の三を削り、第九号の四を第九号の三とし、第九号の五を第九号の四とする改正規定、同表第二十号の五の改正規定、別表第二第二号(十の三)の改正規定並びに別表第三第二号の改正規定を除く。)並びに附則第七条及び第九条の規定は、公布の日から施行する。
(罰則に関する経過措置)
第八条 この法律の施行前にした行為及びこの法律の附則において従前の例によることとされる場合におけるこの法律の施行後にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
(政令への委任)
第九条 附則第二条から前条までに定めるもののほか、この法律の施行のため必要な経過措置は、政令で定める。
附 則 (平成一〇年六月一二日法律第一〇一号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成十一年四月一日から施行する。
附 則 (平成一五年七月一六日法律第一一七号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成十六年四月一日から施行する。
(罰則に関する経過措置)
第七条 この法律の施行前にした行為及びこの附則の規定によりなお従前の例によることとされる場合におけるこの法律の施行後にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
(その他の経過措置の政令への委任)
第八条 附則第二条から前条までに定めるもののほか、この法律の施行に関し必要な経過措置は、政令で定める。
附 則 (平成一八年六月二一日法律第八〇号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成十九年四月一日から施行する。
附 則 (平成一八年一二月二二日法律第一二〇号) 抄
(施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
附 則 (平成一九年六月二七日法律第九六号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して六月を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。ただし、次の各号に掲げる規定は、当該各号に定める日から施行する。
一 第二条から第十四条まで及び附則第五十条の規定 平成二十年四月一日
附 則 (平成二七年六月二四日法律第四六号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成二十八年四月一日から施行する。
附 則 (平成二八年五月二〇日法律第四七号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、平成二十九年四月一日から施行する。

以上


ILO勧告 


・韓国の場合

国際労働機関(ILO)の「協約および勧告適用専門家委員会」(以下、専門家委員会)が、教師・公務員の政治活動を禁止した韓国の国家公務員法第65(政治運動の禁止)は、政治的見解に基づいた差別を禁じる国際労働機関協約111号協約違反という判断を下した。(ハンギョレ新聞2019-02-14 08:57


1958年の差別待遇(雇用及び職業)条約(第111号)
雇用及び職業についての差別待遇に関する条約
(第42回総会で1958625日採択。条約発効日:1960615日。基本条約の1つで最新の条約)

日本の批准状況:未批准 ◆批准国一覧(英語)

条約の主題別分類:差別の禁止(雇用及び職業)/女性  条約のテーマ:機会及び待遇の均等

[ 概 要 ]
基本条約の1つで、労働分野が中心ではあるものの、より一般的な人権保障条約としての性質を持つ。
この条約は、雇用と職業の面で、どのような差別待遇も行われてはならないことを規定する。ここにいう差別待遇とは、「人種、皮膚の色、性、宗教、政治的見解、国民的出身、社会的出身などに基づいて行われるすべての差別、除外または優先で、雇用や職業における機会または待遇の均等を破ったり害したりする結果となるもの」をいうが、特別の条件を必要とする特定の業務についての差別・除外または優先は、差別待遇とはみなされない。また、国の安全を害する活動について正当に嫌疑を受けている者やこの活動に従事している者に対して行われる措置も、差別待遇とはみなされない。
批准国は、差別待遇廃止のため必要な政策をとり、この政策を促進していく上で労使団体の協力を求め、反差別待遇の法律を制定し、教育計画を進め、この政策と一致しない法令の条項を廃止し、政令・慣行を改正しなければならない。
関連勧告として、同名の勧告(第111号) が同時に採択された。     

以上

2020622()



大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...