網走の覚書 宮本顕治 文芸春秋 1949年(昭和24年)10月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第二巻所収
父の遺品『「文芸春秋」にみる昭和史』第二巻をぺらぺらめくっていたら、宮本顕治の一文が掲載されていて、『日本共産党の50年』や『日本共産党の70年』を読んでいたこともあり、興味を持って読んでみました。歴史書では間接的にしか分からなかった人となりですが、本文を読んでみて、彼が論理的で意志の強い人だという印象を新たにしました。
本文は1949年10月ころに執筆されたと思われるが、この年の1月、共産党が総選挙で躍進し、この年は労働運動も盛んだったようだ。(ただし共産党はこのころあまりストライキ闘争を好まなかったようだ。田川和夫『日本共産党史』070)いずれにせよ、本文からは、宮本のゆとりが感じられる。
次に戦前の拘留中における自身の闘争を、やや自慢して語っていると思われる部分を抜粋する。この宮本の拘留中における闘争に見られるように、宮本が度胸の据わった論理的な人だということが想像できる。
039 「私は、1933年12月検挙当時、麹町警察で特高係長毛利や特高警部山県為三や鈴木の指導のもとに、ひどい拷問をやられ、大腿部を集中的にかしの棒で乱打されて、歩いて監房に帰れなかったことがある。今でも内出血の多かったそこはへこんでいる。麹町の留置場でも看守から真冬に寝具もくれず、手錠足錠をかけて持久戦的拷問をやられた。しかし拷問がききめがないと考えたのか、その後は警察の一年間そうした肉体的拷問は受けなかった。巣鴨の十一年間でも、収容者をなぐることを何とも思っていず日課のように繰り返している看守たちからは、直接なぐられたことはなかった。
私はずいぶんいろんな要求を出し、看守長や所長に面会し、司法大臣に請願書を出し、いわゆる監獄の収容者への「処遇」を改善する行動を不断にやって、その点では「札つき」になっていたが、だいたい合理的にねばって、要求のかなりを実現してきた。もちろん最後まで先方が容れなかった点も少なくないし、報復的な虐待的行為はずいぶんやられたが――例えば、病気でも臥床を許さないなどの――しかし、それらの闘争の中でも正規懲罰を加える口実とすきはつかまれなかった。
網走刑務所では看守のテロは巣鴨よりもっと野蛮だった。「捜検」といって毎日監房の検査を別の係り看守がやってまわるが、…私が入って間もなく、私の房の番号を呼んでこの「捜検」の看守が扉を開けた。私は返事して立ち上がって房外に出たが、いきなりピシャリと平手がとんできた。「なぐるとは何だ!」と私が詰問すると、「その返事は何か」とどなりつけてきた。房から出るときの私が「ハイ」とはっきり答えず、オイという風に聞こえたのがけしからぬというのである。そして、私の名札を見て、それ以上は言わずに行ってしまった。私は早速、看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問したが、「それは悪かった。よく注意しておく」との回答だった。
私は網走ではそれ以後はテロを受けなかったが、一般収容者への殴打はその後も相変わらず珍しくもなかった。」
040 以下は抜粋ではなく、特に印象に残った点だけのメモと感想である。
宮本が巣鴨の東京拘置所から網走刑務所へ無期懲役の刑を受けて向う1945年6月17日のころ、すでにベルリンが攻略されていたのだが、巣鴨の戒護課長が、戦局の不利を悟ったのか、宮本におべっかを使ってこう言っている。「不自由させたが規則だから止むを得なかった。悪く思わないでくれ。どうも君たちの言うようになりそうだ。本土が占領されそうになったら、中立国のソ連に逃げるしかない。その節は宜しく。」
空襲時の処遇は、巣鴨と網走では異なり、巣鴨では政治犯など要注意人物の房には錠をかけたが、網走では近所の山の防空壕に逃げさせられた。
041 8月15日後のある日、網走の看守長が宮本に日本の今後どうなるのかと尋ねた。
そのころ宮本の母は山口の光市にいて、宮本とは手紙のやり取りをしていた。(ちなみに宮本は市川正一と同じ村の出身042である。)宮本の父親は、1938年、宮本が巣鴨の東京拘置所にいる頃に病死した。宮本には弟が二人いて、すぐ下の弟は達治といい、トラックで運送業をしていたが、二度目の応召で広島にいたとき被爆し、行方不明となった。次弟の隆治はオーストラリアへ出征していた。
妻の百合子は宮本と面会するために東京から北海道へ向ったが、連絡船に乗れないで、弟の疎開している福島にいた。妻は1945年9月、(山口県の)島田へ向った。
042 宮本は「歴史は審判する。審判しなければならない。専制主義は打倒されねばならぬ。」と言うが、思っていただけで行動しなければ事態は動かないと思うのだが。
網走刑務所内で「雑役」係をしている無期刑で10年も服役している元強盗殺人犯は「これからはいよいよ万事が民主主義になるそうです」と、新聞の論調を宮本に伝えた。このころ監獄での政治犯に対する警戒もゆるくなってきた。
宮本は検挙後、警視庁の留置場で、2年間の地下活動を検討し、どんな弾圧にもめげず党を大きく成長させられるという確信を強めたという。
「外人記者が豊多摩の予防拘禁所を訪れて、共産党員と会見した。」
「商業新聞も軍国主義と特高警察を暴露しはじめた。」
「このころ政治的自由や信教の自由など基本的人権に対する制限を撤廃する指令が連合軍から出て、特高警察が廃止されそうだという話に聞いた。なるべく頬かむりで通したい政府の甘い予想が食い違い始めていることが分かった。」
宮本に対する刑務所内での待遇も良くなり、建物の中央で日光がいくらか多く差し込む部屋に移された。
043 看守長が宮本に今後の情勢を尋ねたので、ポツダム宣言によれば戦争責任者は処罰されるだろうと宮本は言った。
「佐渡の同志が前夜出獄したことが分かった。」
「東京の予防拘禁にいた同志から電報が届いた。『デタラスグコイ、シユクシヤノヨウイアリ』」
「侵略戦争に反対した唯一の党として、日本民主革命への任務と責任は重大だ。連合国の資本主義的要素と社会主義的要素との比重によって、日本の民主化の速度と性質も影響を受けるだろう。」他力本願。
宮本は「健康の点」もあり、「執行停止」となった。宮本には治安維持法とスパイ査問事件のでっち上げがあった。
宮本が受け取った作業賞与金は5円だった。持参金は300円だった。
「保護会」の人が迎えに来て駅までトランクを運んでくれた。
044 「保護会」の50がらみのおやじさんは、軍国主義糾弾の調子をこめて新聞記事の紹介を始めた。彼から三木清、戸坂潤両君の獄死を知った。
以上 2020年6月10日(水)
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