2020年6月9日火曜日

新・韓国現代史 文京洙 岩波新書 2015 要旨・抜粋・感想

新・韓国現代史 文京洙 岩波新書 2015

 

 

感想 軍や警察の政治への介入は怖い。韓国では朝鮮戦争で、日本では明治以来敗戦までの戦争で、軍や警察など実力組織の発言力が高まった。そして、それが現在でも力を発揮しているのだ。韓国では朴槿恵保守政権下での国情院による証拠でっち上げによって、スパイ罪容疑でソウルの某市民が拘束され、政党(統合進歩党)の国会議員・李石基が、内乱陰謀罪で逮捕され、統合進歩党自体も解散させられてしまった。現職の国会議員が、そして国民に選ばれて国会に議員を送っている現実の政党がですよ。朴槿恵政権の最初の1年間だけでも、国家保安法容疑での立件が129件にも上る。282, 283日本の自衛隊幹部も、思想信条の相違から、場合によってはクーデターを起こすのを躊躇しないと豪語している。(『自衛隊の闇組織』石井暁)恐ろしい限りだ。政治家や民衆は、そういう軍や警察の動きに敏感になり、それを阻止しなければならないと思った。2020531()

 

感想 解放直後の朝鮮は、すでに米ソの約束1945.8.10で、米ソによる南北の分割占領が決められていたのだが、ソ連の方が出足が早く、米軍は日本降伏後すぐには韓国にやって来ず、米軍がソウルに到着する1945.9.9までの間、南側では朝鮮人自身が自治政府をつくり始めていた。それが建国準備委員会(米軍到着直前には人民委員会=人民共和国)である。人民委員会は1945年10月、米軍によって否定される1945.10.10ころまで続いたが、その指導者は解放前に民族独立運動に参加し、日本共産党と共に活動していたから、韓国の解放後のスタートは共産党的であったといえる。建国準備委員会をつくった呂運亭(穏健左派)は、朝鮮総督府から敗戦後の日本人の保護を依頼された人で、植民地時代には民族独立・反植民地闘争をしていた。

 

感想 世界史の潮流を受ける韓国解放後の歴史を二分するとすれば、冷戦時代と、その後の、冷戦時代の底流を残しながら、WTOIMF体制に巻き込まれる格差・貧困の時代とに分けられるのではないか。

さらに細かく分類すれば、①解放から李承晩・戦争時代(人民委員会・米軍政・大韓民国成立と戦争・戦後=李承晩独裁時代)、②1年間で終わった民主化の期間、③朴正煕のクーデターと恐怖独裁時代、④朴正煕の暗殺後の、これまた短期間の民主化の時代、⑤全斗煥独裁時代、⑥オリンピックを控えた1987年の六月抗争による民主化の期間、⑦新軍部の流れを汲むが、一時的に民主的なポーズを取った盧泰愚時代、⑧初めての文民政権の金泳三時代、⑨民主派が主流となったが、IMF格差に組み込まれた金大中・盧武鉉時代、⑩保守派が復活した李明博・朴槿恵時代、そして⑪現在の、民主派が復権したが、依然として軍の流れを汲む検察との闘いの精算を課題とする文在寅時代。

 韓国では朝鮮戦争を経験したことから軍部が肥大化し、軍部の流れが後々まで尾を引いている。今でも検察権力が政権に対峙するほど保守的イデオロギーを代表してしぶとく残存しているのも戦争の名残と考えられる。日本でも、戦争に負けてアメリカに制度を変更させられるまでは、政治を軍が左右していたし、今の自衛隊・警察・消防は保守的体質を残し、警察は、慰安婦問題でも戦前の秘密文書を公開せずにいる。

 IMF=新自由主義経済政策は、経済競争を重視し、非正規や格差を生み出した。これは今の世界の大きな問題だ。経済競争一辺倒でいいのだろうか。皆が車やスマホや持ち家を持つことが、本当に幸せなのだろうか。田舎で農業をやって、のんびり過ごしていたほうが幸せなのではないだろうか、などと私は考えるのだが、皆さんはどうでしょうか。

 

感想 反共以外のことは口にできないような、建国や戦争後の韓国であったが、1980年代、堂々とマルクス主義や北朝鮮の主体思想を主張することができるようになり、それを主張する団体(運動圏177、主思派=NL派、CA派=PD158)ができたが、彼らは、五月闘争177のように、焼身自殺を武器として、他者を手ぬるいと批判するばかりで、金大中や金芝河らに批判されたという。このことは日本の全共闘運動が、他党派を批判する点で、なるほどと思わせるところもあったが、飛行機を乗っ取ったり、空港で銃を乱射したり、ビルに爆弾を仕掛けたりするようになると、大衆運動としては、時期を間違っていて、ついていく人がいないのではないか、と思われるが、韓国でも運動圏の人々は、大衆的な応援を得られなくなったようだ。しかしそれでも韓国の運動圏の人々は、行動面で大衆運動に関与しつづけ、その運動を推進する力になり続けたとのことだが、日本では残念ながらそうならなかったようだ。

 

追記 2020520() 新軍部を継承する盧泰愚政権は、六月抗争後一旦は民主主義的譲歩を見せる(「六・二九民主化宣言1987.6.29160)が、ソウルオリンピック1988が終わり、議会で新軍部政権期の罪状を糾弾されるようになると、公安を強化し、学生や労働者、教員などに暴力を振るった。学生が私服警察官に殴り殺され、労働者が拘束中に死亡し、教員が首にされ、拘束された。これに怒らない人がいるだろうか。しかし全国的な大きな闘争にはならなかった。これが失敗した五月闘争である。確かに学生が飛び跳ねていたことはある。つまり、焼身自殺者が一人どころか十二人もいた。これではついていけないという感情を人々に起こさせたことだろう。また学生は軍隊まがいの武闘訓練をしていた。しかし、盧泰愚政権や保守マスコミが、道徳訓話めいた批判(総理代行に対する卵つぶてを「人倫の破綻」とし、民主労組の組織化を「思想的に不純」とする)をすると、運動が冷却したとのことだが、理解できない。また金大中が、運動圏の盧泰愚退陣要求を批判して選挙を奨め、金芝河が自殺を批判する。自殺批判や選挙の推奨はいいとしても、もし二人が盧泰愚政権の暴力的弾圧の再発に目をつぶっていたとしたら、それは片手落ちではないか。本書ではその詳細について触れていない。

 

感想 朴正熙やハナ会(全斗煥・盧泰愚・金復東)137は、なぜクーデターを起こしたのか。恐らく自らが朝鮮戦争を戦った反共韓国軍の中で育ち、共産党的勢力の復権の兆しに身震いしたからなのだろう。また韓国軍は戦争を通して肥大化して、政治に影響を与えられるだけの実力を自認していたからなのだろう。彼らは冷戦の落とし子なのだ。しかし時代が冷戦からニクソンによる中国承認の時代132になると、反共一色では時代遅れになってしまった、つまり米国から見放されたということだ。

韓国の民衆(釜山・馬山136・光州140)の力はすごい。殺されてもひるまない。それだけ日常的に抑圧されていたのだろう。

三菱が朴正熙の選挙を資金面で支援(120万ドル)していた。1971年の金大中との一騎打ちとなった大統領選である。114

朴正熙の時代に結ばれた日韓条約は、韓国軍が米軍を支援してベトナムに軍事介入するための日本からの経済的軍事援助であり、米韓日は軍事的・経済的に深く結びつきあっていた。107

 

感想 朝鮮戦争の元は、朴憲永のゼネスト方針だったように思われる。047ゼネストが、暴動に発展し、収拾がつかなくなり、左右の力の対決が取り返しのつかないほど、行き着くところまで行ってしまった感がする。050一方米軍政にも責任がある。共産党系の出版社を業務停止にしたり、共産党幹部に逮捕令を出したりした。050

米ソが南北に積極的に戦争をやれやれとそそのかし、所謂代理戦争をさせていたかというとそうではなく、アメリカもソ連も南北の首脳(李承晩・金日成)を抑えていた。065時期が少し遡るが、金日成ですら朴憲永に、対決するのではなく、統一戦線的なやり方をするように説得したという。049

 朝鮮戦争の導火線は、中国革命の成功や南朝鮮の山中でのパルチザン活動であった。065また朝鮮戦争はいきなり始まったのではなく、一年前からかなり大規模な小競り合いがあり、そういう練習の積み重ねの結果のような感がある。064, 066

 さてどうすべきか。中庸などと言いたくない。聞く耳のない者に対しては、聞く耳のないものを孤立させるべく、人々に理解させる言葉でもって外堀を埋めることか。ゼネストや暴動はだめだ。それは対立や反感を招くだけだ。朝鮮戦争の渦中での虐殺事件の多発をみてもそう思う。068, 069, 070

 

 

はじめに

 

i 安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、2012年12月の第二次政権発足時から、従軍慰安婦への軍の関与を公式に確認した「河野談話」1993や、植民地支配と侵略戦争に対する「痛切な反省」と「心からのお詫び」を述べた「村山談話」1995の見直しの意向を明らかにしていた。韓国の激しい反発などで「見直し」は撤回されたが、村山談話は、有識者会議(二十一世紀構想懇談会)の諮問を経て発表された戦後70年の「安倍談話」2015.8によって上書きされた。

 「村山談話」を踏襲するものとされ、「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」といったキーワードは盛り込まれ、1930年代の「満洲事変」以降の日本について「進むべき進路を誤り、戦争への道を進んだ」と反省が述べられるが、台湾や朝鮮の植民地支配についての実質的な反省が巧妙に回避され、むしろ日本は「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、…日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とするが、それは「脱亜」によって特徴づけられる近代日本の達成を、誇りをもって振り返ろうとする「歴史修正主義」の語り口と軌を一にしている。

ii 1910年の韓国併合が日露戦争の直接の帰結であったことを思う時、そうした歴史感は韓国人にとってはとうてい受け入れ難いし、村山談話からの逸脱だ。

 旧版の『韓国現代史』は戦後60年に刊行されたが、その時、韓国では盧武鉉政権2003.2—2008.2により、主として韓国社会の過去の清算が行われていて、日韓関係に衝撃をもたらさなかった。内閣府の調査によれば、W杯の日韓共催2002、韓国ドラマブーム2004の頃の、日本人が韓国に親近感をもつ割合は57%で過去最高だった。その後竹島(独島)問題で下降したが、また反転し、2009年には63%となった。

 しかし、「安倍談話」に象徴されるように、90年代の歴史認識や他者意識の到達点を消し去る機運が目立ち、韓国に親近感をもつ割合も、2012年の39%、2014年の31%と過去最低を更新した。

iii 本書では日韓関係の過去、現在、未来にまつわる記述を重視したい。

 また、グローバル化に伴う社会的リスクが、この10年間で日韓両国とも問題となっている。就労困難、未婚者増加、離婚率上昇、出生率低下、家庭崩壊、自殺、ホームレス急増などの社会病理と両極化である。日本の失われた歳月の雇用不安、家族やコミュニティの解体による孤立や鬱屈した感情などが、嫌韓や嫌中という排外的な他者意識の追い風となっている。韓国でも社会的リスクの拡大・深化が、投票行動や社会運動に影響を及ぼしている。李明博・朴槿恵両政権下の政治や市民社会の動向を、社会的リスクをもたらすグローバリゼーションの視点で検証したい。

 日韓が共通の社会問題を抱え、ライフスタイルや価値観を共有している中で、市民活動や地域再生をめぐる日韓の学びあいや連携も進展している。市民社会レベルでの学び合いや連携が、歴史の和解をめぐる対話と結びつく時、日韓の和解や協力、ひいては東アジアの地域協力の可能性が開かれるのではないか。

 

序章 東アジアの近代と朝鮮

 

1 近世東アジアの地域システム

 

華夷秩序

 

002 日本は近代化の過程で終始欧米列強の利益を代弁し、他のアジア諸国の犠牲の上に、近代国家としての自立(条約改正=不平等条約からの脱却)を果たそうとした。

003 日本の近代化以前の東アジアは、中国を中心とする、朝貢・冊封(さくほう)の華夷秩序の下にあった。これは15世紀初めに確立し、通商に影響を及ぼした。江戸幕藩体制もその国際秩序のなかにおかれた。江戸幕府の鎖国は、国家権力による対外関係の独占・編成を意味した。

 西ヨーロッパの19世紀の近代は、市場をめぐる競争や相互の力のせめぎ合いの中で、単位社会を国民国家に編制していく。

004 一方、中華世界における単位社会の統治の方式は、中央との関係の粗密による。つまり、その粗密の形態は、「地方」「土司・土官」「藩部」「朝貢」「互市」など*があり、その統治原理は「名分」「安定」であり、単位社会は分散的に存在し、領域の境界は曖昧で、その意味で自立的だった。

*「地方」から「互市」に向うに従って、関係が粗になる。出典:浜下武志「近代東アジアの国際体系」図Ⅰ 中華世界(清代を中心に)

 朝鮮は中国に対する朝貢国であった。朝鮮の対外関係は、「事大」と「交隣」だった。朝鮮王朝1392—1910は、明に対して「以小事大」の礼を取り、日本、琉球などに対しては「伉礼」=対等の礼による「交隣」関係であった。「事大」は大国に対する卑屈な追随であるが、それは建前であり、朝鮮は、「声教(国王による国民感化教育)自由」の国として、独立が認められていた。

 

日本型華夷秩序と朝鮮の小中華思想

 

 日本と朝鮮との「交隣」関係は、中華秩序を介した、対等で友好な関係と思われがちだが、実は違う。

005 国交回復の為の使者、将軍の代替わりや世継ぎの誕生を祝す、朝鮮から送られた江戸時代の「通信使」は、親善関係の象徴として、明治の征韓論的状況と対比されるが、「倭乱」(文禄の役1592、慶長の役1597)と、明から清への勢力交代1644の後では、日本の幕藩体制は、自らの「武威」と天皇の存在を自らの「華」の根拠とする「日本型華夷秩序」とも言うべき自己中心的な対外関係の枠組みをつくった。それは、メトロポリス=華としての日本を中心に、琉球、アイヌ、中国、オランダをサテライト=夷として捉える世界観であった。

 徳川政権は古代律令国家以来の国家イデオロギーを伝承することによって朝鮮を「一等下」と見なし、朝鮮との戦後処理と講和にあたり、国書に「大君号」を設定し、それを朝鮮に認めさせた。「大君号」の設定とは、朝鮮国王と徳川将軍は対等だが、将軍の上に天皇がいるのだから、幕藩体制国家全体としては日本が朝鮮の上であることを意味し、朝鮮通信使も、徳川将軍に対する「御礼」または「入貢」(日本への朝貢)と見なされた。

006 一方、朝鮮も「小中華思想」を作り出した。明・清交代後、朝鮮は自身を中華文明の真の継承者と自称し、自らを「華」とし周辺諸国を「夷」とする世界観を深めた。朝鮮は清から二度侵攻を受け(胡乱)その冊封を受け入れたが、かえって自らの文化的優越意識を高めた。宋時烈(ソンシヨル)は朝鮮後期朱子学のイデオローグで、朱子学伝来以後、鄭夢周(チョンモンジュ)から始まる道学が朝鮮で継続していることを根拠に、今や明が滅亡したのだから、朝鮮こそが唯一中華文明の伝統を維持しているのだと考えた。

 朝鮮は清を、君父としての明を滅ぼした宿敵であり、文化的に劣等な「蛮夷」だと見下した。日本についても朝鮮の多くの官吏や知識人は、「礼分と規範」を重んじる立場から、日本を不誠実、異常と見なしていた。

007 朝鮮は日本を、辺境異民族を制御するという意味の「覊縻(きび)政策」の対象と見なし、「一等下」に置いた。

 通信使の時代に再建された日朝関係は、表向きは対等で友好的な「交隣関係」として出発したが、朝鮮の「小中華思想」と日本の「日本型華夷秩序」の対立という矛盾をはらみ、通信使の形式や将軍の呼称、聘礼(へいれい、人を招く時の贈り物)改革などをめぐり、確執が表面化することも少なくなかった。

 日本は中国と直接の国交関係はなかったが、清は日本を「互市国」*と見なしていた。他方日本も江戸期には直轄地長崎を通じて、また朝鮮や琉球を介して間接に、中国と交易し、経済発展や海外情報の蒐集に役立てていた。

*互市国とは元来、中国が外国との貿易のために辺境に設置した開市場を意味するが、中国の商人と外国の商人が交易することから、日本、カンボジア、オランダ、フランスなどを「互市」諸国と見なしていた。004

 

西洋の衝撃

 

008 19世紀、特にその後半、欧米資本主義世界では、国民国家が発展し、世界を制覇した。

18世紀末、林子平は『海国兵談』(寛政3年、1791)の中で、ロシアなど西洋諸国の日本侵略の危険性を警告し、琉球、蝦夷の内地化と朝鮮侵略の必要性を示唆した。林は蘭学的教養を身につけていたが、「神武帝、始めて一統の業を成りて人統を立て給いしより、神功皇后*、三韓を臣服せしめ、太閤の朝鮮を討伐して…」(『林子平全集』)と、皇統にまつわる日本中心的意識とそれと表裏一体の差別的朝鮮観を抱いていた。

 

*神功(じんぐう)皇后は、日本書紀に現れる人物。ウイキペディアによれば、「神功皇后が妊娠中に新羅に出兵すると、新羅の王が『吾聞く、東に日本という神国あり。また天皇という聖王あり。』と言って白旗を上げ、戦わずして降伏し、朝貢することを誓った。…これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。」ウイキペディアは、実在説と非実在説とが並存すると、所謂両論併記をしているが、実在すると主張する人物とその根拠を示せ。明治から敗戦まで学校の教科書で実在の人物として教えていたという。紀元3世紀頃とされる話らしい。

 

19世紀半ばの欧米の脅威に対抗する中で、天皇は日本の優位性の拠りどころとされた。皇国の価値の再発見と体系化・絶対化の試みが熱を帯び、逆に皇国の秩序の埒外にありこれを脅かす他者に対する蔑みと敵意を高めた。華の内実としての皇国の優越性と、皇国外存在の全否定としての攘夷論が高揚した。

吉田松陰は、尊王攘夷論を素材として、幕藩体制の身分秩序を打破し、皇国を新たな「一君万民」体制として定式化した。吉田は「国体」を発見した。つまり、天皇を儒学的規範から解放し、天皇を無条件で自足的な価値として示した。天皇の存在をあらゆる価値や規範の源泉とすれば、旧社会の身分秩序の根拠が失われ、皇国に生まれついた皇臣は、天皇への忠誠を尽くす限りみな平等になる。天皇を絶対化する観念は、力と法の二元論からなる近代的国際社会の中で、強烈な自己主張の論理となる。吉田は体外的な主権国家の確立と、内的な国民形成の論理を、天皇制イデオロギーの下で体系化した。その天皇観の転換が徹底すればするほど、交隣国・朝鮮の、日本にとっての地位の転換も徹底する。

 

征韓論と斥和洋

 

010 明治新政府の樹立を伝える王政復古の告知書を不遜として反発する朝鮮王朝との交渉が行き詰まると、朝鮮蔑視観が顕在化した。(王政復古の告知書には、旧幕府時代の文章には用いられていなかった「皇」や「勅」の文字が用いられていた。)その朝鮮認識は、記紀神話に基づき、朝鮮を「頑冥固陋」「無礼・侮日」とし、中国と列強間の軋轢に乗じて朝鮮攻略を主張したり、ロシアの朝鮮への野心を強調して、朝鮮を綏服(すいふく)すること、つまり、支配・服従させることが「皇国保全の基礎にして、後来(=将来)万国経略進取の基本となす」としたりした。(外務大丞柳原前光「朝鮮論稿」『日本近代思想体系12』)

 日本で幕末から明治初期に「征韓論」的な風潮が高まっていたころ、朝鮮では衛正斥邪論が、政策指針となっていた。衛正斥邪とは、連綿とした朝鮮朱子学の学統を正学とし、その純潔性をまもり、邪学たるキリスト教を斥けるという考え方であり、その思想は、キリスト教徒に対する流血の弾圧と断固とした内修外攘政策を取る大院君政権の政策指針であった。

 衛正斥邪派は、明治維新後の日本の文明開化は、洋夷=西欧への屈服だとし、交隣国日本が「和夷」へ転身したものと受け止めた。王政復古の告知書に対する朝鮮の拒否反応は、日本への不信感を背景としていた。日本の征韓論に対して、朝鮮は和洋一体、斥和洋論を対置した。(「和」=日本)

 

脱亜入欧

 

011 日本の明治維新後の政策により、朝鮮問題は、中国中心の朝貢体制の維持にとって問題となった。つまり、王政復古の告知書や、対馬藩を通じて行われていた対朝鮮外交の外務省への一元化などで生じた征韓論、台湾出兵、琉球処分、朝中間の宗属関係を否定する、1876年の日朝修好条規の締結などである。特に1879年に日本が軍事力を背景に琉球を沖縄県としてその帰属問題を決着したことは、清朝の洋務派官僚に深刻な危機意識を与え、日本やロシアに対抗する上で、朝鮮の戦略的価値が急浮上した。中国は、日本やロシアを牽制すべく、米英独仏を朝鮮に引き入れる「夷以夷制」(敵をもって敵を制する)政策を取り、朝鮮に対しては伝統的宗属関係の維持を迫った。

 朝鮮王朝では、衛正斥邪派と、近代化を主張する開化派とが対立した。1882年、日本の浸透に反発する保守派の軍人反乱(壬午軍乱)が起り、1884年、近代化を進めようとする金玉均(キムオツキュン)ら急進開化派のクーデター(甲申政変)が起った。福沢諭吉は「彼の国勢果たして未開ならば之を誘うて之を導くべし」(「朝鮮の交際を論ず」1882)とし、金玉均を支援していたが、清朝の軍事干渉によって開化派の試みが失敗すると、「ただ<脱亜>の二字あるのみ」とした。

012 明治政府は、国家間の関係で、条約関係に基づく万国公法を遵守したが、19世紀の国際法秩序の背後に潜む力の論理を見抜いていたし、法規範そのものが、未開国に対する主権の制限や植民地化を正当化する根拠となっていたことを知っていた。岩倉使節団の米欧回覧は、劣亜の自覚を強め、富国強兵・文明開化を基本とする脱亜入欧を加速した。

 日本が万国公法・条約関係の追及に性急であるのに対して、朝鮮・中国は伝統の枠組みの中で事に当たろうとしたため、朝鮮・中国と日本との乖離は深まった。「停滞」「野蛮」「怠惰」「卑屈」という「偏見のカタログ」的アジア観に対する、「進歩」「富強」「独立」というプラスイメージの西洋観という、対外観がこのころの日本人に植え付けられ、その後の日本国民や日本文明の中味を規定することになった。

013 朝鮮は「未開」「野蛮」として貶められ、「神功皇后御一征」008の地として「国威宣揚」のターゲットとされた。日本人のこのような朝鮮への眼差しは、その後の日本人の心を呪縛することになった。

 

 

2 植民地下の挑戦社会

 

日清戦争

 

 1890年代初めの露仏同盟1891—94によって、普仏戦争1870—71以来、ドイツのビスマルクが露仏両国を離しておく国際秩序が崩壊した。ドイツのウイルヘルム二世の「世界政策」や、帝政ロシアの「東進政策」には、この国際関係の行き詰まりを外部世界に転嫁する意図があった。(江口朴郎『世界史の現段階と日本』)この時期は列強の世界分割の最終局面であり、日朝中の東北アジアが残されていただけで、この地域は1890年代の国際政治の焦点となった。

014 19世紀末、覇権国イギリスの地位が低下し、イギリスはいくつかの列強の中の一つに転落し、世界各地で欧州大陸諸国の挑戦に晒された。東北アジアでロシアがイギリスに挑戦した。ドイツはロシアの矛先をそらすためにロシアを応援し、フランスはロシアの同盟国としてロシアを応援した。一方イギリスは南アフリカで難題を抱え、19世紀を通じて「名誉ある孤立」を続けたイギリスは、ロシアの脅威に対抗し、東アジアの民衆反乱を自身に代わって抑えてくれる同盟国を探した。

015 朝鮮半島南部を中心に起った東学党の乱(甲午農民戦争)という農民反乱に、日本は列強の干渉を恐れながら出兵し、清との開戦に踏み切ったが、これは英露間の対立を見越してのことであった。(陸奥宗光『新訂 蹇蹇(けんけん)録』)

 日清戦争は、朝鮮をめぐる覇権争いだけでなく、日中の生き残りをかけた戦いでもあった。敗戦後清朝は列強の勢力分割の対象となり、半植民地化が進んだ。勝利した日本は、賠償金と領土を譲り受け、強国への足がかりを得た。またこの戦争は、日本人としての一体感の形成に役立った。

 

韓国併合

 

 日本は中国北部で起った民衆反乱(義和団事件1900)の鎮圧で主要な役割を演じた。日本は、イギリスとの同盟関係1902の下で、ロシアと戦い1904—05これに辛勝し、アジアで唯一の自立した国民国家としての地位を決定的にした。日本は、甲午農民戦争、義和団の乱の鎮圧など、東アジア民衆の列強への抵抗を抑える軍事力として機能した。日本の近代国家としての出発は、列強の東アジアでの利害を代弁し、民衆の抵抗を抑える軍事力として承認され、初めて可能になった。

016 朝鮮王朝は国号を大韓帝国と改め1897、「光武改革」(光武は年号)により近代国家への道を模索し、日露が開戦すると、局外中立を宣言したが、日本はこれを無視してソウルに軍を進め、その圧力の下で大韓帝国は「日韓議定書」を調印した。さらに日露戦争中の「第一次日韓協約」を経て、日露戦争後は、大韓帝国の外交権を奪う「乙巳保護条約」(第二次日韓協約)を、ソウルに乗り込んだ全権大使伊藤博文によって強いられた。これに対して大韓帝国側は、教育や産業の振興を通じて国権回復を目指す「愛国啓蒙運動」や、地方の両班や儒学者による「義兵闘争」、国王高宗(コジョン、1863--1907)によるハーグ密使事件1907*、安重根による伊藤博文暗殺1909などの抵抗を続けた。

*朝鮮国王がハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、朝鮮の独立を脅かす日本の横暴を訴えた。

017 日露戦争を経た20世紀の初めは、列強諸国による世界分割が完了し、世界は、一握りの帝国主義国とその支配下に置かれた圧倒的多数の地域の人々に二分される時代だった。日本は、他の列強諸国と権益を分かち合い、共同して植民地や半植民地での抵抗を抑圧する体制の一翼を担った。日本はイギリスと第二次日英同盟1905を締結し、アジアでの互いの権益を認め合い(英=インド、日本=朝鮮)、フィリピンを支配するアメリカとも同様の協定(桂・タフト協定1905.7.29)を結び、1907年、日仏協約を締結し、中国とその周辺地域での互いの権益を認め合い、列強諸国の承認の下に朝鮮の植民地化(韓国併合)を断行した。

 

踏みにじられた封建王都ソウル

 

 朝鮮王朝歴代の支配層は、壇君(紀元前2333年に即位したとされる古朝鮮の王)の開闢以来の歴史に根ざす、民族としてのプライドや一体感づくりに励んできた。ソウルは、朝鮮王朝のプライドや世界観を体現する都であった。

018 日本はソウルの名称を漢城府から京城府に変え、首都としての地位を格下げし、京畿道の一部とし、風水説*に裏打ちされたソウルの王都としての相貌を一変させ、朝鮮支配の拠点である朝鮮総督府を景福宮(キョンボックン)の敷地内に建設した。景福宮の敷地内には、高宗が天神(檀君)に皇帝への就任を告げる祭祀を行うために建立した円丘壇*があったが、日本はこれを打ち壊し、その場に地上三階、地下一階の華麗な総督府鉄道ホテル(後の朝鮮ホテル)を建設した。

*風水説とは地勢、方位、地脈、陰陽の気などを考えて、都市や住宅・墳墓などを作る、中国の自然観の一つ。

*円丘壇とは、空(天)は丸く、大地は四角だという陰陽論に基づいて作られた祭壇であり、檀君を天神とし、三国時代の始祖や高麗太祖などが祭られている。

大院君(テウオングン)*は、1394年のソウル遷都とともに建設され、豊臣秀吉の侵略時に破壊されたままになっていた景福宮を再建した。大院君は、封建秩序を立て直し、鎖国攘夷を断行し、朝鮮王朝再建のシンボルとして景福宮を再建した。(1868年竣工)大院君の失脚後、この景福宮は閔妃暗殺*の舞台となり、韓国併合後、日本は、当時では東洋一と言われた総督府庁舎の造営地を景福宮の敷地に定めたが、これは風水説の地脈の切断を考慮しての位置取りであったとも言われる。同じ頃、日本は、天照大神と明治天皇を祭神とする官幣大社朝鮮神宮を造営した。「戦前のソウルは、北のほうには北岳山を背景に威圧的な総督府が君臨し、南のほうには南山の中腹から朝鮮神宮が旧王都を見下ろす寸法になっていた。」(姜在彦『世界の都市の物語7 ソウル』)

*大院君は高宗の父で、即位当時の国王が幼かったことから、1873年まで摂政の立場で実権を握った。

*閔妃は高宗の妃。閔氏一族の勢道(権勢)政治によって大院君を失脚させ、日清戦争以後、ロシアに頼って日本に対抗したが、景福宮を襲撃した日本の公使・三浦梧楼が率いる日本軍人、大陸浪人らによって殺害された。近年、韓国で再評価の機運があり、「閔妃」よりも「明成皇后(ミョンソンファンフ)」と呼ばれるようになっている。

 

植民地近代化と湖南財閥

 

 ソウルは植民地下で近代的な商工業が興隆する大都市に成長した。「土地調査事業」*は徹底して行われ、土地との慣習的な結びつきを絶たれた多くの農民が、都市の低賃金労働者として、また辺境の開拓民や火田民として、流浪を余儀なくされた。

*土地調査事業とは、朝鮮の植民地化と共に進められた土地の所有・価格・地形などについての調査事業で、1918年に完了した。国有地の創出や日本人地主の進出に道を開き、地主的土地所有を再編・強化した。

020 20世紀初めの日本資本主義は、綿工業が中心で、機械製品の大半は欧米諸国からの輸入であったが、第一次世界大戦後は、ヨーロッパ列強がアジア市場から後退したことから、日本の綿製品の需要が高まるとともに、日本は機械生産に向かった。

 日本の重化学工業化は、日本の大都市とその周辺の工業地帯に人口の流れを生み出した。1918年、米騒動があり、朝鮮での「産米増殖計画」1920—34はその解消策とされた。朝鮮では農民の階層分化と没落農民の流出が始まり、1920年から1930年の間に農村部(郡域)からの流出人口は77万人となった。(堀和生『朝鮮工業化の史的分析――日本資本主義と植民地経済』)その行き着く先は、ソウルの過剰人口として滞留するか、日本などの海外であり、1930年には30万人の朝鮮人が日本にいた

021 1930年代、世界経済がブロック化し、日本帝国内では分業が模索され、朝鮮でも北部で化学工業が、ソウルでは機械工業と紡績業が進んだ。農村部からの人口流出が271万人に達し、うち150万人が日本や中国東北地方などの海外に向った。ソウルの人口は1920年代初めには30万人だったが、1944年には105万人になった

 京城紡績は、湖南(全羅道)の大地主金性洙(キムソンス)が起こした。金性洙は、総督府や日本の金融資本と結びつき、「民族ブルジョアジー」となった。1920年、金性洙は『東亜日報』を創刊し、同じく湖南出身の民族主義者宋鎮禹(ソンジヌ)をその社長にし、1932年、普成(ポソン)専門学校(後の高麗大学校)を引き受け、その校長になった。金性洙をリーダーとする「湖南グループ」(東亜日報グループとか普成グループとも呼ばれた)は、右派民族主義の政治勢力となり、左派の民族主義勢力である朝鮮共産党*など社会主義勢力と、解放後渡り合うことになった。

*1925年、金在鳳(キムジェボン)ら18人によって結成され、翌年1926年、コミンテルンに承認されたが、1928年の弾圧で、事実上壊滅した。

 

他者認識の諸相

 

022 湖南地域は穀倉地帯であったが、ここは、日本による土地収奪と搾取が最もひどかった地域であった。1918年、土地調査事業が終わったが、この時の湖南地域の小作人の比率は77%、日本人による土地占有率は43%であり、これは他地域と比べて突出していた。人口流出も激しく、1930年から1940年までの朝鮮全体の人口増は、2044万人から2355万人へと、プラス15%だったが、湖南地域では、376万人から416万人へと、増加率は10%であった。(堀和生、前掲書)植民地の工業化も、朝鮮北部やソウルが中心で、南部では、ソウルと釜山を結ぶ地域に限られ、この開発格差は、解放後の地域格差の原因となった。

023 済州島は人口流出が最もひどかった。1920年代から30年代にかけて、済州島は大阪東部の工業地帯の労働力の供給源となった。済州島は土地が痩せ、農民層の分解も進まず、1938年で自作農の比率が65%(全国平均18%)であった。(済州島庁『済州島勢要覧』)君が代丸*が周航した翌年の1924年から1934年の間に、在日済州島人は、1万人から5万になったが、これは在日朝鮮人全体の10%を占める。1930年代の半ばで、島の人口の4分の1が日本にいた

*君が代丸は、大阪済州島間の直通航路で、尼崎汽船会社が1923年から運航した。「阪済交通機関の革命」とも言われ、同じ航路にその後、朝鮮郵船、鹿児島郵船、朝鮮人独自の東亜通航組合が参入した。

 朝鮮人の日本への渡航・定着は、「不潔」「無知」「嫉妬深い」「怠惰」「粗暴」という日本社会の朝鮮人観を生んだが、それはこの時に始まったわけではない。朝鮮人は日本の近代化の過程で、「未開」「野蛮」「神功皇后御一征の地」008の民として差別的に定義される存在だった。朝鮮人と接する機会をほとんど持たなかったたいていの日本人が、そういう観念を植え付けられたにすぎなかったが、日本人の日常世界に朝鮮人が現れたことによって、この観念はより具体化した。

024 朝鮮人同士の相互認識においてもこのことが言える。朝鮮王朝末期から植民地期にかけての半世紀の間に、激しく人口が流動化し、多様な出会いがもたらされた。1940年代の戦時動員は別にして、1940年の時点ですでに日本に120万人、中国東北地域に130万人など、300万人が海外に在住した。植民地時代の初めのころから、海外移住者では、慶尚南道出身者が多く、日本でも慶尚南道出身者が多い。土地との結びつきを失った慶尚道の農民は、近隣の釜山や大邱に、江原道の炭鉱に、そして海外へと移住した。

 一方南西部の湖南の農民は、忠清道の炭鉱やソウルを目指したと言われる。ソウルでは、僅かな職場や商権をめぐって新旧の住民同士が入り乱れて争った。湖南の農民たちは、都市で親睦会や同窓会、契(ケ、朝鮮式の頼母子講(たのもしこう、無尽ともいう講組織による民間金融組合))などの扶助組織に結束せざるをえなかった。そのような湖南人の姿は、ソウルや忠清道の人々に、差別的な湖南イメージを広く植え付けた。

025 植民地化の歪(いびつ)な近代化とそれに伴う社会変動や人口の流動化は、戦後の韓国社会での反目や抗争となって現れた。

 

戦時下の動員と被害

 

 中国侵略から太平洋戦争へと向う戦時体制下に、創氏改名、強制連行、慰安婦としての戦地への動員など、植民地朝鮮の人々の被った心理的・肉体的犠牲は甚だしかった。

 創氏改名は単に名前を日本式に変えることだけではなく、これは皇民化政策の一環であり、朝鮮の父兄血統に基づく親族集団*の力を削ぎ、戸籍を単位とする日本の家制度を導入し、天皇への忠誠を引き出そうとするものだった。

*密陽・朴とか、安東・権とか、一族の発祥地と苗字で示される。

 創氏改名は、表向きは「強制するものではない」とされながら、氏の創設は、「内鮮一体」として語られた天皇の「大御心」によるものであり、これを拒否するものは「非国民」であるとされ、有形無形の様々な圧力が朝鮮人に加えられた。これは「朝鮮総督府あげての『督促』であり、強制であった」(水野直樹『創氏改名』)

026 「強制連行」は、日本政府による労務動員計画に沿って、企業による「募集」1939.9—に始まり、「官斡旋」1942.2--、国民徴用令による「徴用」1944.9—へと、戦局悪化につれてその手荒さがエスカレートした、強制若しくは半強制の戦時動員であった。「募集」と「官斡旋」は、形式的に通常の求人・求職による雇用契約によるものとされたが、その実態は、内務省の役人が、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的略取拉致の事例が多かった」(1944年7月31日付、内務省管理局長宛内務省嘱託小暮泰用の「復命書」 水野直樹編『戦時期植民地統治資料』)

 労務動員被害は70万人とされ、人権侵害はもとより、一家の柱を奪われ残された家族に重い負担を強いた。「労務動員は恐れられ、それに対する抵抗が広がり、戦争末期には行政当局の統制も危ういほどに朝鮮社会は動揺した」(外村大『朝鮮人強制連行』)

 この間「従軍慰安婦」に関して、「強制性」が大きな争点となった。1993年の河野談話は「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」ことを認め、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」としている。

027 これに対して、安倍晋三首相は、第一次安倍政権時代の2007年3月5日、参議院で「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行くという、そういう強制性はなかった」と河野談話を批判した。

 慰安婦問題に関しては、労務動員の場合と違って、日本の軍や警察が、暴行や脅迫によって朝鮮女性を慰安所に連行したことを示す資料は発見されていない。(資料的に確認できる事例として、オランダ人女性が連行されたインドネシア・スマラン慰安所の事例などがある)安倍首相は、そのことを逆手にとって慰安婦に対する「強制性」はなかったとしている。だが、慰安婦問題の核心は、軍慰安所で強制があったかどうかであり、女性たちの慰安所に至るまでの過程はひとまず措くとして、軍の施設である慰安所で、軍人・軍属の性の相手を強制されたことは否定しがたい。その意味での強制性を示す証言や資料は数多い。

 ときに脅迫や暴力を伴った慰安婦の募集について、軍の要請を受けた業者が主に当たったとされているが、軍や警察による連行を示す証言も少なくない。日本での慰安婦裁判の記録や証言集・刊行物に証言が記録されている元慰安婦のうち朝鮮人は52名で、そのうち「両親の留守中に家に来た軍人・巡査に連れ出された」「釜山の海辺にいたところを日本軍人に押えられトラックに乗せられた」「10人くらいの軍人に手足を捕まえられ、トラックに乗せられた」など、軍人・警察によって拉致・誘拐まがいの方法で連行されたとする元慰安婦が8名に上る。(西野瑠美子「被害証言に見る「慰安婦」連行の強制性」)「河野談話」は、インドネシアなどでの事例も踏まえて、こうした証言に信憑性を認めて、「甘言・弾圧」による慰安婦の連行についても「官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」としたものと思われる。

028 また敗戦の年、日本には200万人の朝鮮人がいて、広島・長崎への原爆、沖縄戦、東京大空襲などの被害に巻き込まれた朝鮮人も少なくなかった。韓国原爆被害者支援協会によれば、朝鮮人被害者は、広島5万人、長崎2万人で、被爆死した朝鮮人は広島3万人、長崎1万人と言われる。

 

 

第一章 解放(ヘバン)、分断、戦争

 

1 日本の敗戦と分割占領

 

「一撃講和論」と朝鮮の分断

 

030 米軍は1944年10月、レイテ島に上陸した。レイテ沖海戦で日本は、戦艦武蔵など連合艦隊の主力を失う大敗北を喫した。1944年11月、東京が初めてB29の空襲をうけ、日本の敗北は動かし難い形勢となり、日本政府内には早期講和を模索する動きが現れた。1945年2月、近衛文麿が天皇に戦争の早期終結を上奏した。「近衛上奏文」である。

 「最悪なる事態は遺憾ながら最早必死なりと存ぜらるる」と始め、「国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴ふて起ることあるべき共産革命なり」とし、天皇に軍部首脳部を刷新して「一日も速やかに戦争終結の方途を講ず」るように迫った。

031 これに対して昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と近衛の上奏を退けた。(木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』)

 昭和天皇や軍首脳は、米国に一撃を与えて動揺させ、有利な条件の下で講和を引き出すという「一撃講和論」に固執していた。そこに「国体の護持」がかけられていた。

 ソ連は駆け込み参戦し、満洲・朝鮮北部で民間人が犠牲となり、シベリア抑留が行われた。

 

疑問 「ソ連の駆け込み参戦」という評価であるが、ソ連は、「二、三ヵ月後」の最後の3ヶ月経って初めて対日参戦した。またこの参戦は、日本に対する雪辱をそそのかされ、領土的ご褒美をつけてローズベルトに約束させられたことだった。

 

 戦争が長引いたことがソ連の参戦を招き、朝鮮半島の分割占領、南北分断につながった。

 

疑問 いずれにしても、朝鮮はドイツと同様、分断を免れなかったのではないか。必ずどこかに米ソの境目ができなければならなかっただろう。日本が早期に、例えばドイツと同じ時期に、降伏していても、どこかに米ソ両勢力の境目ができたはずだ。朝鮮は、カイロ会談で、後の信託統治を予見させる、力の緩衝地帯として扱われていたようで、もし統一した緩衝地帯案が不可能なら、分割統治が、力の論理からすれば安易で妥協的な方法だったと想像できる。

 

 日ソ中立条約が1941年4月に締結され、その有効期限は5年、つまり1946年4月までとなっていた。1945年2月、米英ソ首脳によるヤルタ会談で、スターリンはローズベルトに、ドイツ敗北から三ヶ月以内に(「二、三ヶ月後」が正しいようだ)対日参戦することを密約した。

032 日本の軍部はストックホルム駐在の陸軍武官からの情報でこれを察知していたが、天皇や政府や外務省に伝えなかったと言われる。(NHKスペシャル『終戦 なぜ早く決められなかったのか』2012.8.15

 ソ連はヤルタ密約に従い、ドイツ降伏1945.5.7のちょうど3ヵ月後の8月8日深夜、日ソ中立条約を廃棄して、*中国東北地域で怒涛の進撃を始めた。

*疑問 ソ連は1945年4月5日に、日ソ中立条約の破棄を宣言しているから、8月8日に破棄したのではない。

 

唐突な「解放」

 

 1945年8月15日正午、玉音放送が朝鮮でも放送された。ほとんどの朝鮮人にとって日本の支配の幕切れはあっけなく、唐突であった。咸錫憲(ハムソッコン)は平安道の新義州(シニジェ)で解放の日を迎えたが、その日が「盗人のように不意に訪れた」と言い、「このことを早くから分かっていた」としながら「この解放を盗もうとする奴等」を非難した。(『苦難の韓国民衆史――意味から見た韓国歴史』)

033 解放を主導的に迎えた独立運動の指導者はほとんどいなかった。金日成は中国東北地域で抗日遊撃戦を繰り広げたが、1940年ごろ、関東軍の討伐にあって、ハバロフスクに逃れた。金日成がソ連の庇護の下に元山にたどり着いたのは1945年9月19日だった。

国内派の共産主義者の大物・朴憲永(パッコニョン)は、三度目の獄中生活を終えた1939年以降は、煉瓦工をしていた。朴はろくに闘いもせず、「棚からぼた餅といった体で解放を迎えた」と率直である。(朴明林『朝鮮戦争の勃発と起源Ⅱ』)

 李承晩(イスマン)は臨時政府*の承認を求めて米国務省や関係筋に日参していた。李承晩が31年間の亡命生活を経て帰国したのは1945年10月16日だった。

民族主義者の金九(キムグ)は臨時政府の主席として「大韓民国」の名で日本に宣戦布告したが、日本の敗北を「私にとってはうれしいニュースというよりは、天が崩れるような感じの事だった。…心配だったのは、われわれがこの戦争で何の役割も果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろうということだ」と述べた。(『白凡逸志(ペクボムイルジ)――金九自叙伝』)

*正式には大韓民国臨時政府で、臨政(イムジョン)と呼ばれていた。1919年の3・1運動後に上海で李承晩を首班として組織されたが、1925年、内部分裂で李承晩が免職され、金九が国務総理としてリードした。太平洋戦争勃発後、李承晩はこの臨時政府のアメリカによる承認が、独立後の右派の主導権掌握に重要であると考えるようになっていた。

034 国内での解放への準備と言えるのは、呂運亭(ロウニョン)*が1944年8月に組織した朝鮮建国同盟くらいだろう。呂は穏健な人柄で、人望を集め、解放と同時に総督府から行政権を譲り受け、安在鴻(アンジェホン)*らとともに建国準備委員会(建準)を立ち上げた。建準の指導者たちは、大衆を奮い立たせたが、全国に噴出した草の根の住民組織は、この建準によって上からつくられたものではなかった。

*呂運亭 穏健左派の独立運動家。1885年生まれ。1920年高麗共産党に入党し、翌年1921年モスクワの極東人民代表者大会に参加した。獄中生活1929—31の後は、言論活動で名声を博した。1947年暗殺された。

*安在鴻 穏健右派の独立運動家・歴史学者。1891年生まれ。社会主義者と民族主義者の統一戦線組織として結成された新幹会1927—31の総務幹事などを務め、民族運動の統一に努めた。

 

下からの革命

 

035 1945年8月9日の深夜、日本はポツダム宣言の受諾を決めた。8月10日、ソ連はアメリカの提案、38度線分割占領案を受け入れた。9月8日、米軍が仁川に至り、9月9日、ソウルに進駐した。9月から10月にかけて(米軍の)戦術部隊が朝鮮南部の各地に派遣され、暫定的な業務に当たり、11月から12月にかけて、民政業務の専門的訓練を受けた軍政部隊が派遣され、本格的な軍政に着手した。(金錫俊『米軍制時代の国家と行政』)

036 8月12日、ソ連軍が沿海州近くの雄基(ウンギ)の日本軍を敗退させ、8月24日、平壌に進駐した。10月3日、北朝鮮の実質的中央政府=民政部(Soviet Civil Administration)が成立した。

 八・一五(パリロ)直後、朝鮮半島には解放空間が出現し、各地で住民の自治組織が噴出した。「朝鮮史上空前絶後の農民による直接政治参与」とブルース・カミングスは『朝鮮戦争の起源』*第2巻の中で述べている。*アマゾンで金8000円也。ちょっと高価。

 平安道では平壌を中心に反日的プロテスタントの民族主義者が自治組織を主導した。平安南道では解放と同時に曺晩植*(チョマンシク)を委員長に、平安南道治安維持会が結成され、この委員会は、17日、平安南道建国準備委員会に移行し、主要ポストをプロテスタントの民族主義者が占めた。

037 同日17日、朝鮮共産党平南地区委員会がつくられたが、金日成など有力な社会主義者はまだ海外に留まり、影響力は限られていた。平安道は、日本が強要した神社参拝を拒み、多くの殉教者を出した。新義州を中心とする平安北道も、このような民族主義者によって自治組織がつくられた。北東部の咸鏡道では労働運動や社会主義運動が強く、またソ連の進駐時期も早く、人民委員会は上から組織された。中西部の黄海道では、民族主義者と左翼が対立した。

 

*曺晩植は「朝鮮のガンジー」と呼ばれた無抵抗主義者の独立運動家。1882年生まれで、新幹会平壌支会長や朝鮮日報社社長を歴任。日本が強要した神社参拝をキリスト者として拒否した。

 

 ソ連軍は平壌進駐時に「朝鮮人民よ、ソ連軍隊と同盟国軍隊は、朝鮮から日本略奪者を駆逐した。朝鮮は自由国になった」「解放された朝鮮人民万歳!」とする布告文を発した。この布告文は、マッカーサーの、占領者として服従を命じる布告文と対比されるが、ソ連軍の占領政策の中身が、その布告で示されたほど米軍の布告文と隔たっていたかどうかは疑わしい。ソ連軍は上級レベルの人民委員会の組織に介入し、平壌に進駐したソ連軍は、平南建準を解体し、新たに平南人民委員会を立ち上げた。曺晩植を委員長に留めたが、32人からなる委員会の構成を、民族主義者と共産主義者との半々にした。8月29日、ソ連軍は新義州に至り、そこでも同じような介入をした。9月11日、ソ連軍は黄海南道の海州に進駐し、左派中心の黄海道人民委員会を立ち上げ、右派の抵抗を力ずくで斥けた。

 

南の人民委員会

 

 南ではソウルの呼びかけに応じて各地で住民の組織化が進み、8月中に145の建準支部がつくられた。(金南植『韓国現代史資料叢書』12巻)ソウルの呂運亭らは、建準を国に格上げして、「人民共和国」の樹立を宣言した。地方でも、9月末から11月初めにかけて、米軍の戦術部隊の派遣に合わせて、建準から「人民委員会」へ改編を進めた。その改編は主に左派のイニシアティブによって進められ、右派の多くが離脱し、右派は、米軍政との協調の道を探り始めた。米軍の戦術部隊は、広域行政単位の道レベルで、人民委員会を解体し、軍政を立ち上げた。しかし、市、郡、邑、面レベルでは、治安維持や民政問題の多くを人民委員会に依存した。

039 人民委員会は、「その存在を人民自身の組織化への衝動以外の何ものにも依拠しない」自治的な統治組織だった。(アーレント『革命について』)委員会は、組織・宣伝・治安・食糧・財政などの部署をそろえ、労使関係や小作料、帰還同胞の受入れ部署を備える場合もあった。その綱領には、日本人の財産没収、土地の分配や工場の管理・所有、男女平等など、日本支配の清算と民主化項目が掲げられた。委員会をリードしたのは、保守派も含む地方の名士や、日本などで学び故郷に帰った学生、釈放された政治犯などであった。米戦術部隊の到着により、右派の脱落が目立ち始めたが、原則的にオープンで、親日派(日本支配と結びついた地方の役人・警察・地主)以外の全ての階層が網羅された。それは、解放と同時に噴出した、労働・農民・宗教、さらに青年・女性など、全ての分野別・階層別の大衆組織や運動とも結びついていた。

 

人民委員会の各地での盛衰

 

040 人民委員会の強さと持ちこたえた期間は、植民地期での人口移動や近代化のレベル、農民運動や労働運動の経験、ソウルからの距離や交通・通信の整備の程度、戦術部隊が派遣された時期や規模などによりまちまちだった。ソウルの人民委員会は、早い時期から政党組織として姿を変えざるをえなかった。(早期脱落)嶺南や湖南の人民委員会は強力で、長期間持ちこたえたが、ソウルに近い京幾道や忠清南北道では、早期に解体した。太白山脈西側の江原道(カンウオンド)や、慶尚北道の沿岸地域(襄陽(ヤンヤン)、江陵(カンヌン)、三陟(サムチョク)、蔚珍(ウルジン))など、交通機関が整備されない辺境では、強力な人民委員会が存続した。しかし、江原道の道庁所在地・春川は、日本人引揚者の中継地点であったことから、日本人が米軍到着まで行政権を維持した。

 全羅北道は、湖南グループの拠点であったが、各郡に強力な人民委員会が存在した。金堤郡人民委員会は1946年1月まで持ちこたえたが、米軍部隊と郡警察に鎮圧された。金堤の南の井邑(チョンウプ)郡や裡里(イリ)市、そして金性洙021の地元である高敝(コチャン)郡などは、湖南グループの地主的企業家が優勢で、軍政への移行はスムーズで、韓国民主党の地方支部が早い時期につくられた。

 全羅南道では八・一五直後、建準指導者選出のための選挙が行われ、鉱山のある和順郡では鉱夫が中心を占めたが、たいていは地主を含む地方名士が中心をなし、また親日派に牛耳られる建準支部もあった。9月中旬に始まる人民委員会への改編の過程で、左右の対立が深まり、右派が離脱した。珍島海南(ヘナム)、莞島(ワンド)、康津(カンジン)など南端の辺境郡では、米軍の到着が遅く、米軍は1946年初めまでこれらの地域の人民委員会に手をつけることができなかった。済州島は全羅南道に属していたが、人民委員会が最も長期に存続した。

 軍政統治が軌道に乗り始めると、米軍政は人民委員会を疎んじ始めはっきり敵対し、力ずくで解体することもあった。その過程で日帝下の行政警察機構と人員が軍政の庇護の下に息を吹き返し、左派の圧倒的な攻勢に身を潜めていた右派や保守勢力が勢いづき始めた。湖南グループは早い時期から右派勢力の結集を謀り、宋鎮禹を事実上の党首とする韓国民主党を立ち上げていた。1945.9彼らは親日的な負い目から金九など臨時政府系の要人の取り込みをはかったが果たせず、李承晩に接近するようになった。李承晩は派閥や党派を超えた存在を自認し、帰国すると直ちに自らが中心となる朝鮮独立促成中央協議会を結成した。1945.10.26

042 1945年10月10日、米軍政は朝鮮人民共和国を否認し、中央の左派勢力は、呂運亭の朝鮮人民党朴憲永の朝鮮共産党などそれぞれ独自の組織活動に乗り出した。地方の大部分の人民委員会も、1945年末から1946年初めにかけてほぼ消滅し、民主主義民族戦線(民戦、1946.2結成)という統一戦線組織に移行した。(後052, 053に触れられる左派の三者とは、この朝鮮人民党、朝鮮共産党、民主主義民族戦線の三者を言うようだ。)

 

2 米軍政下の支配と抵抗 ―― 10月抗争と四・三事件

 

信託統治

 

 1943年12月(ウイキペディアでは11.22—11.26)、米英中三国は、カイロで対日戦への方針を明らかにしたが、そのとき朝鮮について、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて(in due course)朝鮮を自由かつ独立たらしめる」とした。信託統治は、そのin due courseの具体化として、ローズベルトが発案し、スターリンがそれに同意し、1945年12月のモスクワでの米英ソ三国外相会議で確定した。

043 「なぜ朝鮮人は大国の信託統治の下に置かれなければならないのか。」と多くの朝鮮人は思っただろう。強力な左派勢力に手を焼いた現地の米軍政は、そういう人々の思いに便乗し、右派のテコ入れをはかった。信託統治案は、政策や利害の異なる米ソ両国が妥協して、統一した朝鮮民族国家を建設するために合意したものだった。ローズベルトはソ連とのパートナーシップを重んじていた。

 1945年4月、ローズベルトが死去した。分割占領は、ソ連の南下を阻もうとするアメリカの戦略的な意図が働いていた。またソ連は、38度線が旧ロシア帝国以来の伝統的な利益線と認識していた。東欧諸国並みに友好的な政府をここに樹立することは、ソ連の安全保障上の死活問題と意識されただろう。それは朝鮮半島全域をカバーする必要はなかった。

044 モスクワ外相会議は、朝鮮人自身による統一的な臨時政府の樹立と、米英ソ中の四大国による5年間の後見制という信託統治を確定したが、内実は心もとないものだった。

 信託統治案は、朝鮮半島の人々に、賛否をめぐる激しい対立と混乱をもたらした。北では、曺晩植がこれを拒み、平安南道人民政治委員会議長の地位を投げ出した。南では金九が臨時政府を母胎とする独立国家の即時樹立を掲げて反対した。これに李承晩ら反ソ・反共右派が合流し、さらに親日派も便乗した。

 当初反託の立場を示していた左派は、朴憲永が秘密に平壌を訪問1945.12.28してから、信託統治支持(賛託)に変更した。つまり人民共和国という独立国家構想をあきらめたのだ。そのため地方の主権機関としての人民委員会も存在意義を失い、共産党・人民党・民戦という政治組織の地方支部に生まれ変わっていく。

045 この態度変更は、左派内部に混乱をもたらし、10月抗争の発火点となった大邱の左派勢力は、中央で賛託方針が出た後も、半年近くの間、反託を掲げる右派との協調を模索した。反託はその後も左翼非主流派の代名詞となった

 

北朝鮮の民主改革

 

 ソ連軍の関心も北朝鮮地域での親ソ政権の樹立であり、ソ連軍は「過酷なまでに徹底的に、非左派の政治的反対勢力を排除」した。(B・カミングス『現代朝鮮の歴史――世界の中の朝鮮』)

 1946年2月、北朝鮮臨時人民委員会が北朝鮮の中央権力機関として設立されたが、それは民族主義者を排除した左派の単独支配だった。その内訳は、中国東北で抗日闘争を戦った金日成らパルチザン派、中国延安の朝鮮義勇軍朝鮮独立同盟として抗日戦争を戦った崔昌益(チェチャンイク)、金枓奉(キムドウボン)らの延安派、そしてソ連国籍を持ち、対日戦に加わったり、朝鮮に派遣されたりした許哥而(ホガイ)らのソ連派である。中国共産党員として抗日戦を戦った延安派は、朝鮮に帰ってから朝鮮新民党をつくり、その一部は、1946年末以降、中国東北地域で国民党軍との内戦に加わった。

046 北朝鮮臨時人民委員会は、人民民主主義革命という民主改革を断行した。土地改革などの民主改革は、自前の土地と平等を求める人々の要求に見合う進歩を意味したが、改革のやり方は民主的手法でなかった。土地改革は、親日的な大地主ばかりでなく、勤勉と質素によって小・中規模の地主に成長していたプロテスタントたちも打ちのめした。打ちのめされたクリスチャンたちは、朝鮮戦争で米軍を十字軍と呼び、米軍の占領下で、北の住民をサタンだとして殺戮した。民主改革は報復の悪循環を起動させたのだ。

 民主改革は民主基地路線としても定式化された。それは全朝鮮の人民民主主義革命のための根拠地建設を意味した。「この時期には、中国の内戦と朝鮮での革命は、一続きのものと意識されていた。」(和田春樹『朝鮮戦争』)それは、戦後の東アジア革命の一大拠点の建設を意味し、信託統治の想定する臨時政府の中身を越えて進んだ。

 北朝鮮臨時人民委員会の社会革命は、植民地下で蓄積された社会矛盾の解決というよりも、北から南への矛盾の流出でもあった。つまり、北から南への人口流出、越南民が増大した。解放から1948年1月にかけての2年5ヶ月間に、80万人が北から南に流入した。(国防部戦史編纂委員会編『韓国戦後史』)そしてその多くは徹底した反共主義者として、警察や右翼による左翼攻撃の先頭に立った。西青(ソチョン、西北青年団)などが済州島に投入され、島民への迫害をほしいままにした。

 

朴憲永の新戦術

 

047 米軍政も、信託統治の枠組みの中にありながら、事実上、これとは別の政策を始めた。米国政府は、現地の米軍政に、四大国による信託統治への移行を準備するように指示していた。(「初期の基本司令」1945.10.13)しかし現地の米軍政関係者は、全国各地で草の根的な社会革命の気運を目の当たりにし、朝鮮総督府の人員と機構を継承して、そのようなうねりに敵対し始めた。米軍政は、ワシントンの公式方針に反して、事実上右派と結んで反託世論を煽った

 1946年3月20日、米ソ協同委員会第一次本会議が始まったが、(予備会議が1月16日から2月5日まで行われていた。)臨時政府樹立に向けて占領軍と協議する「朝鮮の民主的政党および社会団体」の定義をめぐって紛糾し、5月8日の24回をもって、無期延期となった。5月18日、米軍政は、共産党系の朝鮮精版社に、偽造紙幣を印刷したとして業務停止にした。また呂運亭や金奎植*(キムギュシク)など左右の穏健派に働きかけ、彼等を臨時政府の基礎にしようとした。(左右合作運動)(これは、前段落で述べられていた、米軍政の反託世論を煽った行動と矛盾しないか。)

 この左右合作運動から排除された李承晩は、6月、所謂「井邑(チョンウプ)演説」を行い、南朝鮮だけの単独政府づくりの方向を打ち出した。また左右合作運動は、呂運亭ら穏健左派と、朴憲永らの急進左派との関係に楔を打ち込んだ。両者はそれまで建準、人民共和国、賛託と、共同歩調を取って来た。7月26日、朴憲永は、米軍政と右翼の共産党攻撃に対して逆攻勢を掲げた新戦術を打ちだした。

 

 解放後、朝鮮共産党は、左派勢力を束ねてきた。1945年9月11日、朴憲永など火曜派(再建派)は、李英(イヨン)らのソウル青年会系(長安派)を吸収合併した。この共産党組織は、北朝鮮を含む全国組織として発足し、朴憲永の権威は圧倒的だった。1ヶ月遅れて成立した北朝鮮の共産党組織も、当初は、分局(朝鮮共産党北朝鮮分局)を名乗り、形式的にはソウルの共産党に服属した。

 朝鮮共産党は、1945年末までに、全評(全国労働者評議会)、全農(全国農民組合総連合)、婦総(朝鮮婦女総同盟)、そして青総(全国青年団体総同盟)など各種外郭団体を立ち上げ、各分野の大衆運動をリードした。そして1946年2月、民戦を結成し、賛託運動の南朝鮮での中心になった。しかし、北の民主基地路線の進展は、南北共産主義者の主導権争いで、金日成の立場を決定的に優位にした。

 元労働党幹部の徐容奎*(ソヨンギュ)の証言によれば、朴憲永は、新戦術の発表に先立って秘密裡に北に入り(1946.6.27—7.12, 7.16—22)、金日成と会談した。また7月初め、二人はモスクワに赴き、スターリンとも面談した。スターリンはその面談の席で、朝鮮革命の指導者が金日成であることを示唆したとのことだ。朴憲永と金日成との会談では、左翼政党の合党による大衆政党への転換や、米軍政や左右合作への対応問題が話し合われた。朴憲永が対決路線を主張したのに対して、金日成は、統一戦線を重視した柔軟路線を主張し、朴を説き伏せた。(朴鐘晟『朴憲永論』)

050 しかし、朴憲永は金日成との合意どおりに行動しなかった。北朝鮮の共産党は、8月28日、延安派の新民党045を吸収し、北朝鮮労働党を立ち上げたが、南でのそれ(労働党)は、人民党の呂運亭ら左右合作派の反発で難航した。9月6日、米軍政が朴憲永ら共産党幹部に逮捕令を発したため、金日成の言う柔軟路線は採りにくくなった。また共産党内にも、合党をめぐり党大会開催を要求する反朴憲永派(大会派)と朴憲永らの「幹部派」との対立が生じ、朴憲永らは、より強硬な戦術を取り、目に見える成果を誇示したかった。

 

10月抗争とその帰結

 

 解放1年後の南朝鮮社会は、日本との経済関係が杜絶し、北朝鮮や海外からの人口流入などにより、インフレ、失業、食糧難に悩まされた。工場の稼働率や生産の落ち込みが激しく、100万人の失業者が都市に溢れた。農業生産は減少しなかったが、米軍政が米穀の自由販売制をとったため、価格が高騰し、都市部で飢餓が現実となった。一転して配給制が取られたが、低価格で供出を強いられる農民の不満を募らせた。1946年3月からの無償没収・無償分配方式の北朝鮮での土地改革が、南の農民を刺激した。復権した警察機構や旧親日派は、越南してきた青年や失業者をかき集め、まるでギャングのように、労働者や農民の異議申し立てを「アカ」呼ばわりし踏みにじった

051 共産党幹部に逮捕令が出た三日後の1946年9月9日、朴憲永はゼネストを指示した。これは9月に党大会を予定していた党内非主流派を牽制する意味もあった。(駐韓米軍司令部情報参謀部週間報告、1946.10.26)ストは釜山の鉄道労働者(23日)に始まり、ソウル、仁川、全州、大邱など主要都市で発生した。出版、交通、逓信、食品、電気など、全評049加盟の産別労組を中心に、30万人の労働者が参加した。食糧や待遇ばかりでなく、「民主主義的愛国者」に対する指名手配の解除やテロ反対などの政治的要求も掲げられた。ところが釜山、仁川、全州などは非主流派の地元であり、ストライキは早期に収束した。主流派のソウルでも30日、2000人の武装警察と右翼数千人が、鉄道スト団本部(龍山機関区)を襲い、ストを鎮圧した。ゼネストは大邱を中心とする慶尚北道だけで、激烈にそして長期に闘われ、9月30日、30の企業で5000人がストを闘っていた。

052 大邱を中心とする慶北は、三・一運動以来の宗教人の抵抗や、学生運動、新幹会034, 037、赤色農民組合など、抗日運動のメッカの一つで、闘い方も柔軟で結束力があった。

 9月半ば、中央の強硬路線が大邱に浸透し始めた。ソウルのように左派内部の分裂はなかったので、三党合党*がスムーズに進んだ。(丁海亀『10月人民抗争研究』)

*朝鮮人民党、朝鮮共産党、民主主義民族戦線の三者を言うようだ。042, 044

 1946年10月1日、1万5000人のデモ群衆が大邱駅前で警察とにらみ合い、小競り合いの末警察が発砲し、一人が死亡した。この日からゼネストは民衆抗争に発展した。抗争は、米軍の米穀徴集や小作制維持政策に反対する農民の「秋収暴動」とも結びつき、大邱から慶北の各地に、そして慶南の都市・農村に波及した。この局面を共産党はコントロールできなかった。暴動は、10月末から11月初めにかけて、ソウルなど京畿道と全羅南道に、さらに12月には全羅北道と忠清南道に時差をおいて波及した。慶北だけでも70万人、全国で100万人の群衆が警察や右翼を襲撃した。

053 米軍政は戒厳令を布告し(10月2日)た。慶北の地元警察3300人、忠清北道など他道からも1100人が振り向けられ、さらに右翼青年団員3000人や、名うてのスト破りが80人投入された。慶北だけでも136人の死者(警察官など軍政側63人、一般人73人)が出た。左派指導者が逮捕され、山に逃亡した。朴憲永は10月半ば北に逃れ、北朝鮮の海州(黄海南道)に留まり、三党合同など南朝鮮での党活動やパルチザンの指導に当たった。朴憲永は、その後も北にあって、朝鮮民主主義人民共和国の創建(1948年9月)後は、ナンバー・ツー(副首相兼外相)となり、朝鮮戦争中は、金日成と共に戦争指導に当たったが、戦後、「米帝のスパイ」として処刑された。

 10月抗争は南朝鮮での左派と軍政・右派との対立を決定的にした。米軍政は、抗争参加者を軍法会議にかけて、断罪し、警察と右翼は心置きなく報復テロとアカ狩りに奔走した。10月抗争は、信託統治や左右合作運動の社会的基盤も損ねた。左右合作運動は、現実的な基盤を見い出せず、1947年7月、米ソ協同委員会第二次会議の決裂(10日)と呂運亭の暗殺(19日)によって立ち消えとなった。

 

済州島の人民委員会

 

054 本土の10月抗争は済州島に及ばなかった。済州島の人民委員会は、村社会に根ざす自治組織で、米軍政当局とも「緊密な実務関係」を保っていた。(ジョン・メリル『済州島四・三蜂起』)島民たちの多くは日本など島外での生活経験を持ち、近代教育の水準も高かった。自立的で、ときに排他的とも評されるが、ソウル中央の左派の影響も限られていた。建準から人民委員会への移行は、本土では左派が主導したが、済州島では脱イデオロギー的な構成だった。

 済州島の左派は、10月抗争に参加しなかった。それどころか10月に実施された過渡立法議員選挙(29日)に参加し、全国で唯一左翼系の二人が当選した。この選挙は左右合作の制度化として、米軍政が推進したもので、全国の左派勢力はボイコットしていた。

055 1947年3月1日、済州邑(現在の済州市洞地区)で、三・一独立運動の記念集会が開かれ、その集会後のデモに軍政警察が発砲し、10数名が犠牲となった。この「三・一節事件」は、四・三事件の出発点であり、また済州島に本土の左右対立が持ち込まれる転機でもあった。三・一節事件に先立つ1週間前に、本土から済州島に100名の警察隊が増派されていて、デモ隊に発砲したのもこの派遣された警察隊だった。彼らは済州警察への不信と、済州島は「アカ」との先入観を抱いていた。また10月抗争での経験から、デモ群衆に対して過敏であった。

 三・一節事件は、米軍政庁と島民との間に亀裂を生んだ。3月10日、軍政庁の職員をはじめとする島内の官公署が、発砲事件に抗議してゼネストに入った。金融、通信、教育、企業、食糧機関など、島内160の機関・団体が参加し、一部の警察官も含め、軍政庁官吏の75%が参加した。米軍政は本土から400人の応援警察を派遣し、2000人を検挙し、66人の警察官を罷免し、3人を拷問死させた。さらに西青(ソチョン、西北青年会)を中心に北朝鮮から追われた極右の反共集団も大量投入され、警察官の法的制約もなく、テロ行為、ゆすり、脅迫、婦女暴行など非道の限りを尽くした。

056 三・一節事件後、済州島の伝統的な村社会に根ざした自治組織は両極化に投げ込まれ、四・三を主導する、若く急進的な指導者層が台頭した。

 

四・三事件の勃発

 

 1947年3月12日、トルーマン・ドクトリンが発表されるなど、この時期は、米ソの対立が深まる時期であった。中国共産党が反攻に転じ、1947年4月、3万人の朝鮮人部隊が、北朝鮮から中国東北に移動し、国民党軍との戦闘に参加した。第二次米ソ共同委員会の決裂1947.7後の、1947年8月、アメリカは信託統治の合意を反故にして、朝鮮問題の戦後処理を国連に委ねた。国連は全朝鮮での総選挙の実施を決めたが、北側がこれを拒み、南だけの単独選挙が1948年5月10日に設定された。北側は金九など民族主義者を平壌に招請し、打開を計ろうとしたが、南北分断は動かし難かい情勢だった。

 済州島四・三事件は、1948年5月10日の単独選挙に反対する武装反乱として始まった。1948年4月3日未明、旧式の銃や日本刀、竹槍などで武装した「山部隊」(武装隊)の300名が、島内の警察支署や右翼団体の要人宅を襲った。国防警備隊は蜂起勢力の鎮圧に消極的だった。

 米軍政は、増援部隊を済州島に投入したが、民心の離反と、武装隊の阻止闘争で、島内三ヶ所の選挙区のうち二ヶ所で選挙無効となった。陸地部でも単独選挙阻止闘争が行われたが、無効になったのは済州島だけだった。選挙後、米軍政は、水原の連隊規模の兵力(国防警備隊第11連隊)や500人の警察官を済州島に投入し、討伐作戦を準備した。

058 1948年8月、大韓民国が成立し、米軍政期が終わるが、済州島での討伐戦で前面に立つ韓国軍の指揮権は、引き続き米軍のもとに置かれた。*北側も独自の立法機関と政府づくりをめざし、南北両地域での統一選挙を打ち出した。南では地下選挙で選ばれた代表者が北朝鮮の海州に集まり、人民代表者会議を開き、代議員を選出することになり、7月、済州島でも地下選挙が行われ、8月初め、武装隊司令官・金達三(キムダルサム)など5~6人の南労党幹部が人民代表として北に向った。海州会議8.21—26で金達三は演壇に立って、済州島での戦果を誇らしげに報告し、満場の喝采を浴びたという。

*1948年8月24日、韓米軍事安全暫定協定が結ばれ、韓国軍の指揮権は駐韓米軍司令官が引き続き掌握した。26日、駐韓米軍顧問使節団、その傘下に臨時軍事顧問団(PMAG)が置かれ、駐韓米軍が撤退する1949年6月末まで、韓国軍の指揮権は駐韓米軍司令官が握った。

 済州島の武装蜂起は、分断阻止という民族的大義を掲げていたが、右翼や警察の横暴に対する自衛的反抗の性格もあった。武装隊指導部の越北と海州会議への参加は、四・三事件を、南北両政権の正統性をめぐる争いに変えた。

059 この海州会議から9月にかけて、韓国政府は大規模な討伐戦を準備した。済州島での討伐は、国際冷戦の最前線で生まれた南北の分断政権が交えようとしていた「熱戦」の前哨戦であった。10月17日、済州島の討伐に当たっていた宋堯讃率いる第9連隊は、「全島の海岸線から5キロメートル以外の地点、および山岳地帯の無許可通行禁止」を布告し、焦土化作戦を開始した。

 

麗順(ヨスン、麗水・順天)反乱

 

 1948年10月19日、討伐戦に差し向けられた麗水駐屯の十四連隊が、済州島への出動を拒み、反乱を起こした。麗水・順天地域は、全羅南道の他の地方と違い、穏健左派の強い地域で、南労党の影響は限られていた。ところが十四連隊は、左翼の将兵が多く浸透していた光州の四連隊を根幹に編制され、警察への反発も強かった。四・三事件以後、粛軍(軍隊内の左翼摘発と処分)が、この十四連隊にも及び、左派将兵が追いつめられていたことが、反乱の背景にあった。(麗水地域社会研究所『麗順事件実態調査報告書』)麗水で始まった反乱は、2500人の将兵に民間左翼や学生が合流し、順天や近隣各地に広がった。

060 反乱軍に占領された地域では、警察や右翼に対する「人民裁判」が行われ、戒厳司令部の数字によると、麗水だけで1200人が殺害された。

 1948年10月22日、戒厳令がしかれ、23日艦砲射撃が始まり、1ヶ月間の陸海軍の鎮圧作戦と、2ヶ月間の特殊警察による関係者摘発が行われた。米軍事顧問・ハウスマン(James H. Hausman)が鎮圧作戦を指揮したが、鎮圧過程で民間人を含む犠牲を伴った。*

*全羅南道保健厚生部発表では犠牲者数が2634人であるが、麗水地域社会研究所による調査では884人で、そのうち反乱軍・左翼によるものが、155人、軍警・右翼によるものが、410人となっている。

 反乱軍とこれに同調した左翼・学生の一部は山に逃れ、すでに山にこもっていて小規模で分散的なゲリラ活動をしていた野山隊(ヤサンデ)と合流した。麗順事件は、江原道(カンウオンド)の五台山(オデサン)から、太白山(テペクサン)、智異山(チリサン)を経て済州島の漢拏山にいたる山岳地帯での武装闘争を本格化させるきっかけとなった。特に湖南地域には、智異山を背景にパルチザンの一大根拠地が構築された。

 済州島の事態と国軍の反乱は、新政権の正統性に関して危機感をつのらせ、済州島での焦土化作戦を一層過酷にした。「通行禁止地帯」、つまり「敵性地域」とされた中山間地帯の村々は焼かれ、老人、乳飲み子、妊婦にいたるまで殺戮の対象となった。そのため住民はさらに山に逃れ、難を逃れて入山した者も武装隊と見なされ、その家族は探し出されて、殺された。

061 四・三事件の始まりから焦土化作戦までの犠牲者は1000人前後であるが、大半の犠牲者は焦土化作戦時のものである。討伐戦は、1949年4月の李承晩の済州島訪問、5月の再選挙実施を挟んで、1949年の前半まで続いた。1949年6月、金達三の後を継いで武装隊の司令官になった李徳九(イドック)が戦死し、組織的な武装蜂起としての四・三事件が終わった。

 1年の小康期を経て朝鮮戦争が始まると、四・三事件の関係者やその親族の討伐・処刑・虐殺が行われた。漢拏山の禁足令解除1954.9を経て、1957年4月、武装隊最後の一人と言われる呉元権(オーウオングン)が逮捕された。

 四・三特別法に基づく調査結果をまとめた『済州島四・三事件真相調査報告書』(2003.10確定)は、四・三事件の犠牲者数を2万5000人から3万人と推定している。これは住民の1割に当たる。

062 犠牲者のうち軍警討伐隊による被害が80%を越えるとされるが、残虐行為は武装隊によっても行われた。

 四・三事件は済州島民の昔ながらの気風を打ちのめした。暴徒の家族として子や孫に至るまで日陰者扱いされた。連座制が陰に陽に幅を利かせるなかで、*反共団体に身を投じたり、権力に過剰に忠誠を示したりして「アカ呼ばわり」から逃れようとする被害者の親族も少なくなかった。

*韓国政府は1984年12月、連座制を廃止したが、暴徒の家族であることは、公務就任や昇進などで、その後も事実上効力を持ったといわれる。

 民主化以前の韓国では、反共を国是とする一糸乱れぬ「国民」化が至上命題であった。その意味で済州島四・三事件は、これ以上にない「逸脱」の記憶が負い目となって人々を圧し続けた。

 

 

3 朝鮮戦争とその社会的帰結

 

開戦までの状況

 

063 李承晩政権は不安定だった。南での単独選挙による制憲議会(200議席)の多数派は、少壮派(ソジャンパ)という改革志向の無所属議員たち(85議席)だった。李承晩系の大韓独立促成国民会は55議席、韓国民主党が29議席、李範奭(イーボムソク)らの右翼が18議席だった。*

*右派=55+29+18=102、左派=85ということか。否、次の記述を読むと、少壮派は左翼ではなく、民族主義者ではないか。もともと左翼は選挙をボイコットしていたから、左翼議員がいるはずがない。

 李承晩は憲法作成の際、自分に有利な大統領制を主張し、それをもぎ取った。しかし、大統領の選出権は国会にあった。李承晩は韓国民主党と提携関係にあったが、国務総理の指名問題で決裂した。

 少壮派は、駐韓米軍撤退、反民特委*による親日派の断罪、(南北)統一問題などで李承晩に攻勢をしかけた。新政府の行政、法曹、警察に、日帝時代の下級官吏7万人が再登用され、政府の要職に、反民特委の告発対象となる植民地時代の高級官僚30人余がいた。(白ウンソン「李承晩統治の評価――分断と民主主義」)

*反民特委は反民族行為特別調査委員会の略で、1948年11月、国会で制定された反民族行為特別調査機関組織法によって設置され、1949年2月から、植民地時代の親日的行為や反民族的活動に対する調査活動を開始していた。

064 李承晩は1949年6月、ソウル市警に反民特委を襲撃させた。また少壮派議員13名が南労党の工作員だとでっち上げて逮捕した。(「国会フラクション事件」)李承晩はその後、政敵を追い落とすために、この手の共産主義との内通のでっち上げや、警察や右翼による力づくなどによる封じ込め手法を多用した。1949年6月の金九暗殺事件も李承晩の指示によるものらしい。*1948年11月、「国家保安法」が制定され、反共の名目で政敵を合法的に追い落とすことができるようになっていた。

*下手人はアメリカのCICではなかったのか。「1948年6月26日金九は、駐韓米軍防諜隊CICの要員とされる人物に暗殺された。」(文京洙『済州島四・三事件』2008, 126、本書が2015年の刊行だから本書で訂正したのか。)

 

 智異山に立てこもった3500人から6000人と推定されたゲリラは、全羅道から慶尚道にかけて遊撃戦を繰り広げていた。38度線でも南北の正規軍による小競り合いや陣取り合戦が絶えなかった。当時は南側に属していた開城(ケソン)付近での戦闘1949.5や、西海岸の甕津(オンジン)半島での戦闘1949.9などが、数千人規模で行われた。

065 38度線を越えた奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった。李承晩は「北進統一」を叫び、北を挑発したが、アメリカは「北進統一」を阻んだ。アメリカは1949年6月に軍事顧問だけを残して朝鮮半島から撤退していて、事が起こるのを望んでいなかった。

 1949年3月、金日成はモスクワを訪れ、「全国土を武力解放する」ための「機が熟した」とスターリンに進言したが、スターリンは「ソ連と米国との間に、今でも38度線分割協定が有効であり、これに我々が先に違反すれば、米国の介入を防ぐ名分がない」と反対した。(和田春樹『朝鮮戦争全史』)1949年、北朝鮮の民主基地の基礎が固まり、智異山での遊撃戦や中国内戦の状況が、北朝鮮を「解放戦争」に誘引していた。

 1949年10月、中国革命が勝利し、金日成の「解放戦争」への情熱が高まった。1949年7月から10月にかけて中国内戦で実戦経験をつんだ精鋭の朝鮮人部隊が北朝鮮に帰ってきた。さらに1950年2月から3月にかけて、4万から5万人が帰還した。(B・カミングス『現代朝鮮の歴史――世界の中の朝鮮』)1950年4月から5月にかけて、金日成と朴憲永はモスクワと北京を訪問し、建国以来の悲願である「解放戦争」開始の許可をスターリンと毛沢東から受けた。

066 1950年6月25日午前4時、北朝鮮人民軍が甕津半島で攻撃に出たことから朝鮮戦争がはじまったが、これは不意打ちと言うよりは1年以上に及ぶ「低強度戦争」が本格的内戦に移行したとも言える。

 

朝鮮戦争下の虐殺・テロ

 

 6月25日、甕津(オンジン)から始まった攻撃は、日が昇る頃には開城、春川など38度線上の主要地点に及び、人民軍は破竹の勢いで南進し、韓国軍は総崩れとなって敗走した。人民軍は4日目に、ソウルを占領し、3ヵ月後に、韓国の90%、人口の92%の地域を占領し、大邱・釜山を囲む慶尚道の一角だけが残された。アメリカは、中国の代表権問題でソ連がボイコットしていた安保理の決議を得て、国連軍の名のもとに参戦し、9月15日、米軍を主力とする国連軍は、261の艦船と7万5000人の兵力で仁川に上陸し、9月28日、ソウルを奪還し、10月28日、平壌を占領し、人民軍を中朝国境付近まで追いつめた。

067 10月19日、中国軍(人民志願軍)18万人が参戦し、11月には12万人が追加され、12月6日、平壌を奪い返した。1951年1月4日、ソウルを占領したが、37度線付近で戦線が膠着した。

 マッカーサーは原爆の使用や台湾軍による中国侵攻を主張して、解任された。1951年3月14日、米・韓軍はソウルを奪還し、38度線付近で一進一退となった。1951年6月、ソ連が休戦を提起したが、休戦交渉は、李承晩が北進統一に固執し、また捕虜の送還問題もあり、2年引き伸ばされ、1953年7月27日、停戦協定が調印された。

 朝鮮戦争は3年余続いたが、人的・物的被害は大きかった。犠牲者は300万人と推定されるが、資料によってまちまちである。

068 人口センサスから割り出した和田春樹の算定によれば、北朝鮮側の死者、行方不明者、南への難民などによる人口損失が272万人、韓国側は133万人である。(和田春樹『朝鮮戦争』)米軍の犠牲者(死者)は公式発表で3万3629人、国連側は、中国軍の戦死・行方不明・捕虜などが90万人と推定している。離散家族は一千万人と言われる。

 多くの非戦闘員が巻き込まれた。戦争の初期に、政治犯、左派の経歴のある予備検束者、左派の懐柔や統制を目的につくられていた国民保導連盟のメンバーが犠牲になった。韓国軍は、国民保導連盟員を韓国のほぼ全域で虐殺したが、正確な数字は分からない。忠清北道だけでも国民保導連盟員1万人のうち3000人が殺害された。全国で国民保導連盟員として登録されていた人は33万人だった。(韓和希「1949~1950年、国民保導連盟結成の政治的性格」)

 1950年7月初め、大田刑務所に収監されていた政治犯1800人が集団虐殺された。大邱、釜山、の刑務所でも同様に虐殺された。早期に人民軍が掌握したソウルや仁川などの刑務所以外では、虐殺があった可能性が高い。同じ頃、忠清北道永同郡では、米軍が避難住民に機銃掃射し、数百名を殺した老斤里(ノグリ)事件も起った。

069 北朝鮮占領地域では、これら国民保導連盟員や政治犯の大量虐殺に対する報復として、粛清や報復テロが行われた。逃げ遅れた韓国政府や民間右翼団体の関係者は、「反動」として「人民裁判」や「粛清」の対象となり、さらに、「革命的テロが少数の反動(者)を越えて、一般人にまで拡大する組織化されたテロに変質した。」(朴明林『韓国1950――戦争と平和』)韓国の広報処理局『6・25事変被害者名簿』によると、「残忍非道な傀儡徒党」(人民軍と左翼)に殺害された「非戦闘員」の数は、6万人に及ぶとする。

 国連軍が参戦した1950年8月ころ、洛東江付近で戦線が膠着し、人民軍は補給線が絶たれた。米軍は、ソウルを爆撃し、韓国側の資料で4000人が死亡した。この時金日成は、「部隊内で混乱を引き起こし、武器を捨て、命令なしに戦場を離れる者は、職位の如何を問わず、すべて人民の敵であり、その場で死刑にする」と命令を下した。(萩原遼『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの陰謀』)

 国連軍の仁川上陸後、北に敗走する人民軍は、韓国軍の捕虜や「反動分子」を大量に虐殺した。数字は定かでないが、平壌で1800人、元山で500人、咸鏡道の咸興一帯で1万2700人が虐殺されたそうだ。(朴明林『韓国1950――戦争と平和』)

070 北朝鮮側も、米・韓軍の北朝鮮への侵攻と占領にともなって、10万人以上の住民が各地で虐殺されたと主張している。黄海南道の信川(シンチョン)郡では住民の4分の1にあたる3万5383人が米軍によって虐殺されたという。しかし、近年、この信川虐殺事件は、米軍によるものではなく、反共右翼によるものだとの説が有力だ。作家黄皙暎(ファンソギョン)は、この信川虐殺事件を素材に作品『客人』を著し、住民を悪魔として大量殺戮したプロテスタントたちを描いている。

 韓国軍は住民虐殺を行った。人民軍残留兵やパルチザンの討伐作戦をしていた韓国軍第十一師団は、山清(サンチョン)、咸陽(ハミヤン)、居昌(コチャン)などの各地で住民を虐殺し、「共匪討伐」の戦果とした。慶尚南道居昌郡では、14歳以下の子ども385人を含む719人が殺害された。(居昌事件

071 最大の民間人虐殺は、米軍の無差別爆撃だったかもしれない。北朝鮮は1950年7月には制空権を失い、ソウルはB29による猛爆を受けた。(戦争の最終段階に)38度線付近で戦線が膠着し、休戦交渉が始まった1951年以降も、米軍による北朝鮮地域の空爆が行われた。

 

抜粋改憲と四捨五入改憲

 

 1952年、国会による第二代の大統領選出が予定されていた。李承晩は、国会内の一部会派と、院外の官製大衆団体とを糾合して自由党を結成し、大統領直選制改憲を試みたが、この自由党は、改憲に反対する院内自由党と、(賛成する)院外自由党とに分裂し、改憲案が一旦は否決された。李承晩は臨時首都釜山一帯に戒厳令を布き、警察、憲兵、右翼などを動員して、反対派の国会議員を脅迫し、テロを加え、連行した1952年7月警察によって包囲された国会で、一旦否決された改憲案から一部を抜粋した改憲案を通過させた。(釜山政治波動、抜粋改憲

072 1950年、韓国民主党063は、その他の反李承晩勢力臨時政府系)を結集し、民主国民党になっていたが、この釜山政治波動で敗北を被った。(李承晩は当初韓国民主党と提携関係にあったが、国務総理の指名問題で決裂していた。063)大統領選出権を奪われた国会の権威は低下し、この時から行政府優位の憲法体系が定着した。

 李承晩政権を支えたのは、植民地期から引き継いだ警察官僚機構、北朝鮮出身者などを含む右翼組織、戦争によって10万人から60万人に肥大化した軍隊であった。これに帰属財産*の払下や援助に寄生する権力型の新興財閥がやがて李承晩を支えることになる。

*植民地期に蓄積された日本の産業施設や不動産などの資産で、1947年7月以降、民間人に低価格で払い下げられた。

 1952年8月に実施された大統領選挙で李承晩は、520万票(74%)を獲得し、第二次大統領に再選された。(1952年8月にはもう戦争は実質的にやっていなかったのか。1951年6月、ソ連が休戦を提起したころから、実際の戦闘は止めていたのかもしれない。)李承晩は、警察・右翼の力を得て選挙に介入し、また農民の支持も得た。農地改革や戦争によって保守化・脱政治化し始めた農民たちが李承晩の受動的な支持基盤となった。(金イルヨン「農地改革をとりまく神話の解体」)(農地改革を農民が嫌ったということか。073

 1954年5月の第三代国会議員選挙で、自由党は改憲に必要な議席数(3分の2)を獲得し、「初代大統領に関してのみ、憲法の三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。しかし、実際の改憲支持は203議席中の135票に留まり、3分の2に1票だけ不足だったため、改憲は一旦否決された。ところが二日後、自由党は、203の3分の2は正確には135.33であり、四捨五入すれば、135であるとして、この結果を覆し、改憲案を通過させた。(四捨五入改憲)

 

戦争と社会

 

073 朝鮮戦争による経済的被害は、4123億ウオン(当時の公定レートで70億ドル、市場レートでは23億ドル)であり、ソウルでは30%の製造業が損壊した。生産部門を中心とする土着の中小企業は、戦時の急激なインフレや、莫大な援助物資(5億ドル)によって打撃を被った。韓国工業に占める生産財部門の比率は、1948年の42%から、1953年の27%に落ち込み、国民所得の48%が流通部門で占められた。(李大根『韓国戦争と1950年代の資本蓄積』)

 湖南財閥を中心とする旧支配層も打撃を受けた。開戦直前に実施された土地改革*によって、大地主の階級としての存立が危うくなっていた。湖南財閥の主力企業である京城紡績は、設備の40%を失い、戦時下の金融統制によって代理政党への資金供給を阻まれた。(木村幹『韓国における「権威主義的」体制の成立』)戦争は、北から南への、また農村から都市への大規模な人口移動をもたらし、伝統的な支配を支えてきた価値観や身分秩序を弛緩させた。半封建的な身分意識や倫理観に代わって、近代的な合理主義、なりふり構わぬ金儲け主義、実利を優先する態度が蔓延した。

*地主が小作させている土地と三町歩以上の所有地が、小作や零細農民に分配され、分配された土地の年間生産高の15割つまり1.5倍を、5年で分割して償還するというもの。売却地代として地主に地価証券が与えられ、産業資本への転出が計られたが、戦時中のインフレによって大半の地主が没落した。

 旧支配層に代わって台頭したのが、酒、売春、高利貸、汚職など「人の絶望につけ込んで儲けたならず者」(B・カミングス『現代朝鮮の歴史――世界の中の朝鮮』)や、軍需や援助物資の流通に寄生して富を蓄積した新興資本だった。軍事政権下で経済開発の主役となる現代(ヒョンデ)の鄭周永(チョンジュヨン)も、米軍関連施設の建設で大儲けし、大財閥への基礎を築いた。三星(サムソン)の李秉喆(リビョンチョル)は、屑鉄の日本への輸出から始め、砂糖、肥料、衣類などの輸入で稼ぎ、援助物資を加工する製糖業(1953年8月、第一製糖株式会社を設立)に進出した。(洪ハサン『李秉喆VS. 鄭周永』)

075 朝鮮戦争は、済州島人同様のレッド・コンプレックスを韓国人に植え付け、それが韓国の歴代権威主義体制を支えた。戦争中の虐殺やテロは、トラウマや憎悪を南北双方の住民に与えた。戦争後の韓国社会で、反共は社会的倫理規範として定着した。「北の脅威」という安全保障上の言説が、人権や民主主義など社会的価値の上位に置かれた。

 解放後の8年間に育てられた自治や共和の精神は打ちのめされた。自立し、和解しあう心はどうしたら育てられるか。

 

4 四・一九革命

 

李承晩の独裁政治

 

 1950年代の韓国のほとんどの政治的事件は、反共を名目に執権を引き伸ばそうとする李承晩によってもたらされた。この時期の韓国は「反共国家でなければならないが、同時に民主主義体制を持たなければならないという」という「アメリカの限界線」の枠内にあった。(崔章集(チェチャンジップ)『元大韓国の政治変動』)つまり建前や制度面では、自由や民主主義を侵す独裁化や権力乱用は許されなかった。それはアメリカが朝鮮戦争を戦う上での大義でもあった。

 1950年代後半、韓国社会内部でも民主主義を支える基盤や要素が整い始めた。1960年の都市人口は1945年の1割から3割(33.2%)になり、ソウルの人口は250万人になり、植民地時代に失っていた中心性を回復し、経済・マスコミ・教育の一大センターになった。

077 大学レベルの教育機関も1945年の31から1960年の62に、学生数も4倍の10万人になった。1960年ころ、115の日刊紙と1500の定期刊行物があった。(金珉煥『韓国言論史』)このころ韓国は経済的には最貧国だったが、教育やマスメディアでは、ヨーロッパなみだった。

 李承晩は農民を中立化させることはできたが、学生・知識人・ジャーナリストなどの都市の中間層を手なずけることはできなかった。朝鮮戦争で左翼は一掃できたが、反共という枠内で、民主主義や進歩を唱え、反独裁を訴える野党は健在だった。1956年5月、第三代の正・副大統領選挙で、野党が躍進した。李承晩は野党候補申翼熙(シンイッキ)の急死で三選を果たしたが、副大統領選挙では、自由党の李起鵬(イギブン)が破れ、民主党新派張勉(チャンミョン)が勝利した。民主党は1955年9月、反李承晩の「保守大同」を掲げて結成された寄り合い所帯で、旧民国党系の旧派と、官僚出身者からなる新派に分かれていた。1956年の大統領選でも、大統領候補の申翼熙(シンイッキ)が立候補し李承晩に迫ったが、遊説中に脳溢血で急逝した。

078 この申翼熙に代わる、進歩党曺奉岩(チョボンアム)は、得票率30%を得て李承晩を脅かした。曺奉岩は、朴憲永ら「火曜派」に属する共産主義者の経験があったが、解放後は朴憲永と一線を画し、新政権の初代農林部長官や国会副議長を歴任し、1952年の大統領選にも出馬していた。1955年の保守大同には参加せず、反共という枠内で、進歩と平和統一を掲げた。

 李承晩と自由党は、1956年9月張勉暗殺を計り、1958年2月曺奉岩をスパイ容疑で告発し、進歩党を解散に追い込んだ。張勉の狙撃は未遂に終わったが、曺奉岩は大法院(最高裁)で死刑が確定し、1959年7月に死刑が執行された

 保守野党による李承晩の追及が続いたが、李承晩は1958年12月、国会に警官を配備し、国家保安法を改悪し、(保安法波動1959年4月、激しく政府を批判した『京郷新聞』を廃刊措置にし、政敵を追い落とし、批判勢力を封じ込めた。しかしそれはアメリカの限界線を越えており、民主主義の規範や制度を内面化した学生・知識人の怒りが爆発した。

 

アメリカのコミット

 

079 李承晩は、朝鮮戦争の停戦や対日関係をめぐって米国と対立することが多かったが、経済的には米国に依存していた。米国は、李承晩政権期に30億ドルを援助し、1960年ごろ、韓国の国家予算の50%は米国の無償援助に依存していた。(米の傀儡国家になる資格は十分にあったと言える。)

 朝鮮戦争以後の李承晩政権は、アメリカにとってお荷物だった。「アメリカの政策立案者たちは、朝鮮戦争中何回も李承晩を取り換えようと」たくらんでいた。(B・カミングス『現代朝鮮の歴史――世界の中の朝鮮』

 アイゼンハワー政権1953—60の安全保障戦略は、通常兵器による武力侵攻を抑制し、費用と人員を削減することであり、通常兵器ではなく、敵の中心都市に核攻撃し、一挙に決着をつけるというものだった。しかし、それが可能な条件は、敵味方がはっきり分かれていることや、敵(ソ連)がアメリカ大陸を射程とする大陸間弾道弾を持っていないことだった。

080 「大量報復」と呼ばれたアイゼンハワーのこの戦略は、「財政保守(均衡)主義」に基づく「安上がり戦略」であり、韓国へは最小限に関与しようとした。「米国にとって最も重要な地域はヨーロッパであり、アジアは二次的な重要性しか持たない周辺に過ぎなかった」(李鐘元『東アジア冷戦と韓米日関係』)それに対して李承晩は、社会主義中国の脅威をヒステリックに叫び、韓国の戦略的重要性をアッピールした。また米軍も中国の封じ込めや日本の防衛の観点から、韓国の戦略的価値を重視していた。(前述の最小限関与方針と矛盾していないか。)1953年10月米韓相互防衛条約が結ばれたが、その翌月の米国家安全保障会議NSC154-1は「力の立場の強化」、つまり、国連軍の継続的駐留と韓国軍の強化、経済復興支援、民主的制度・政治の強化を確認した。

 1955年、このころは朝鮮戦争や第一次ベトナム戦争が一段落していたが、バンドン会議が開かれ、近代世界の周縁の地域が、自立し連帯し合うようになり始めた。

081 それはアジアの冷戦を軍事的観点からだけ見ていたアイゼンハワーの戦略を揺るがした。さらにスターリン死後のソ連は、エジプト・インド・インドネシアなど非社会主義国との結ぶつきを強め、第三世界の経済発展をめぐる「体制間競争」に、アメリカも関与せざるをえなくなった。体制の優位や正統性が、軍事力やイデオロギーの観点よりも、第三世界の経済発展にとってどちらの経済制度が合理的かという観点から問われていた。こうして、韓国も「自由主義経済」のショーウインドウとしての役割が与えられた。

 この頃の韓国は最貧の農業国であり、ネイサン調査団*は、韓国の戦災の復興と再建計画の立案を託されていたが、多少なりとも有望な輸出産業として、米(こめ)しか見い出せなかった。対韓戦略援助は冷戦対策であったが、それは、米からの援助物資を加工する加工産業(原糖、原麦、原綿を加工することから三白産業と呼ばれた)などの工業化をもたらしたが、1950年代末には、国内市場が狭かったため立ち往生してしまった。

国連韓国復興局の委嘱を受けた米国ロバート・R・ネイサン協会の調査団である。1954年から1959年までに一人当たりの国民所得を70ドルに引き上げる計画を作成した。

082 1957年の経済成長率は8.7%と高い水準を示したが、1958年7%、1959年5.2%、1960年2.1%と急落し、一人当たりの国民所得も、1957年77ドル、1958年80ドル、1959年・1960年とも82ドルと低水準だった。都市は失業者や貧民で溢れかえり、アメリカの援助による余剰農産物の流入で、農業生産が圧迫され、春先の「絶糧」を意味する「ポリッコゲ」(麦の峠の意味)に陥った。

 一方帰属財産の払下やアメリカからの援助物資に便乗した特恵財閥が急成長して、富が偏在し、人々の不満を募らせた。1950年代末にはそのような不満を吸い上げる政治の回路もほとんどなく、李承晩政権下の選挙は民意を反映していないと人々に思われた。

 

四月学生革命

 

1960年3月15日の大統領選挙に向けて、民主党旧派趙炳玉(チョビョンオク)を候補に立て、張勉を引き続き副大統領候補とした。ところが2月25日、趙炳玉が病気治療で訪れていたアメリカで急逝し、選挙の争点は副大統領候補をめぐる張勉と李起鵬の争いとなった。

2月28日、張勉は大邱で選挙演説を予定した。大邱は政治都市で、野党の支持基盤だった。この日は日曜日だったが、市内の中高生に登校の指示が出された。民主党の遊説に学生が参加するのを阻止するためだった。高校生たちはこれに怒り、学園の政治利用や弾圧に抗議し、街頭デモを行った。

韓国は1950年以来6・3・3・4制であるが、戦乱のため、高校生と言っても20歳を過ぎた人もいた。儒教社会の根強い教育観もあり、解放後、中等教育進学者が急増した。高校生の数は1945年7819人、19校が、1960年27万3000人、640校に増えていた。

084 大邱のデモは全国に波及し、3月5日ソウル、8日忠清南道の大田、10日忠清北道の清州、京幾道の水原など、全国の主要都市で、学生たちが街頭に進出した。3月15日の選挙は、前代未聞の不正選挙であった。*馬山の学生・市民は不正選挙無効を叫んで街頭デモを行い、警察と衝突し、警察が発砲し、7名が死亡した。一時デモは鎮まったが、4月11日、右目に催涙弾を打ち込まれた金朱烈(キムジュヨル)が遺体で発見され、馬山の市民は怒った。李承晩は馬山のデモの背後に共産主義者の介入があると威嚇したが、効果はなかった。

*内務部長官・崔仁圭らは、官憲を動員して不正選挙を計画したが、それはその後暴露された。四割の事前投票、腕章部隊の有権者への脅し、幽霊有権者のでっち上げ、棄権の強要、代理投票、投票箱のすり替えなどが行われた。

 4月18日高麗大学校の学生がデモに立ち上がり、これに自由党系の政治ゴロが襲い掛かり、乱闘の末、学生1人が死亡、50人が負傷した。翌19日、ソウルのほとんどの大学生が決起し、10万の学生・市民が光化門前広場を埋めた。大統領府に迫ったデモ隊に対して警察が発砲し(血の火曜日)、デモはその日に全国に波及した。死者はソウルで100人、全国で186人となった。19日、ソウル、釜山、大邱、光州、大田に戒厳令が布かれたが、戒厳軍とデモ隊との衝突は慎重に回避された

085 李承晩は副大統領の当選取り消し、拘束学生の釈放などに転じたが、25日、全国27の大学の大学教授がソウル大に会合して、デモに及んだ。26日、李承晩は退陣し、アメリカも李承晩を見放し、5月29日、李承晩はフランチェスカ夫人と共にハワイに亡命し、1965年7月に死去して国軍墓地に埋葬されるまで、祖国の地を踏むことはなかった。

 

短命な第二共和国

 

 1960年4月26日、李承晩が下野して、自由党政権が倒れ、許政(ホジョン)の選挙管理内閣が成立し、後に民主党政権へつながった。旧自由党系の官吏や政治家は「反革命分子」として糾弾され、自由党は瓦解した。

086 民主党の悲願であった内閣責任制改憲が実現し、7月に総選挙が行われ、民主党が、民議院(日本の衆議院に相当)で233議席中175議席を獲得して圧勝したが、首班(国務総理)指名をめぐって新・旧両派が対立し、結局、首相張勉(新派)、大統領尹潽善(ユンボソン)となった。派閥間の確執は残った。この第二共和国は半年間で三度の改閣を行い、1961年5月のクーデターで終わった。

 民主化は歴史の掘り起こしと再解釈を伴った。5月23日、国会は居昌事件070など朝鮮戦争時の「良民虐殺事件」の調査団を設置し、居昌、山清(サンチョン、慶尚南道)、済州島に調査団を派遣した。済州島の学生や道議会を中心に、四・三事件の真相糾明に動いた。済州大学校では7人の学生が「四・三事件真相究明同志会」を作り、地元紙『済州新報』も真相究明に動き出し、被害申告の受付を始めたが、事件の直接の体験者の多くは沈黙した。異議申しての主体は学生であり、これにジャーナリストと道議会に議席を持つ地元有志が加わったに過ぎない。『済州新報』による被害申告数は1475人に留まった。

087 四月革命は反共・親米の枠内の民主革命で、南北の分断体制を超えるものではなかった。民主党政権も四月革命をこの枠内にとどめようと、「反共法」や「デモ規正法」の制定を試み、革新勢力と対立した。革新勢力は、急進化した学生、大邱の教員労組を中心に組織された韓国教員労働組合総連合会(7月結成)、韓国労働総連盟(11月)、進歩党の流れくむ社会大衆党韓国社会党などで構成された。

 1960年8月15日、金日成が、南北連邦制を統一への過渡的な措置として南側に初めて提起した。北朝鮮は指導体制を確立し、千里馬(チョルリマ)運動という経済建設で躍進していた。1957年に始まる五カ年計画も二年半で達成し、国民所得2.1倍、工業生産3.5倍、農業生産1.5倍を実現し、自信を持って平和攻勢に転じた。

 金日成の南北連邦制の提起は、韓国内の民族主義を刺激し、9月、大邱や釜山での革新勢力を中心に、民族自主統一中央協議会(民自統)がつくられた。各大学に民族統一連盟が組織され、1961年、南北学生会議を提起した。1961年5月13日、民自統と学生組織が共同して、「南北学生会談歓迎、および統一促進決起大会」が開かれ、「行こう、北へ!来たれ、南へ!」のスローガンを叫んだ。(この日の3日後に朴正熙のクーデターが行われた。)

088 だがこの運動は都市部の学生・知識人に限られ、農村部は呼応せず、7月の総選挙086でも、革新勢力は5議席しか取れなかった。

 

 

第二章 軍事政権の時代と光州事件

 

1 朴正熙の登場

 

五・一六クーデター

 

090 1961年5月16日未明、主に陸士五期生と八期生からなる青年将校たちを中核に3500人の部隊が漢江を越えてソウル中心部に進撃した。抵抗は僅かで、程なく中央庁舎、陸軍本部、放送局、発電所などを占拠し、軍事革命委員会の名で、革命公約を宣布し、同委員会の布告令として全国に戒厳令を布いた。(軍隊も抵抗しなかったのか。)革命公約は、反共体勢の立て直し、アメリカとの連携、腐敗と社会悪の排除、自立経済の確立などだった。国連軍の作戦指揮権をもつマグルーダー司令官は、クーデターに反対する声明を出したが、大統領尹潽善(ユンボソン)086がクーデターを承認し、翌日、身を隠していた張勉首相も戒厳令布告を認め、19日、アメリカも早期に民政移管を求める声明を出し、軍の権力奪取が既成事実となった。(尹潽善政権には腰がない。)

091 軍事革命委員会は国家再建最高会議に移行し、立法、司法、行政の三権を掌握し、最高会議議長に、張都朠(チャンドヨン)陸軍参謀総長がついたが、これは名目で、クーデターを計画し、指揮したのは、朴正熙(パクチョンヒ)陸軍少将だった。朴正熙は45歳、陸士八期生の金鐘泌(キムジョンピル)は35歳だった。

 韓国軍は「アメリカが十分に資金を注ぎ込み、訓練・指導を行い、深い関心をむけながら、長時間その影響力を首尾よく行使している唯一の機関」だった。(G・ヘンダーソン『朝鮮の政治社会――渦巻型構造の分析』)韓国軍は、組織の形成・維持・管理などで近代的だった。李承晩はこの軍隊を私物化し、自身の執権延長に利用したため、韓国軍の内部に、権力と癒着する集団と、それから疎外された集団とを生み、昇進の不満や社会道義から、軍内部に不満を募らせた。朴正熙のクーデターはその不満を解決しようとした。(それだけではないと思うのだが。反共が一番大きな動機だったのではないか。「国家再建」と自称しているではないか。)

 

朴正熙とは

 

092 朴正熙は1917年、五男一女の末っ子として慶尚北道で生まれた。父の家柄は両班だったが、没落して、妻の実家の小作をしていた。青年期に高木正雄を名乗り、満洲軍学校陸軍士官学校で学び、関東軍の陸軍中尉として、「革新派」将校たちの「昭和維新」の思想に心酔したそうだ。満州国崩壊後武装解除され、北京に逃れ、1946年5月、釜山経由で郷里に戻った。1946年9月朝鮮警備士官学校(後の陸軍士官学校)に二期生として入学し、1946年12月、三番の成績で卒業し、少尉となり、その後、朝鮮警備士官学校の中隊長となった。

 朴は、南労党に入党していた経歴がばれて、逮捕されたことがあった。朴の兄は抗日運動に参加し、麗順事件の反乱軍に加わり死亡した。朴はこの兄を敬愛していた。兄の遺族の面倒を診てくれた南労党員の勧誘で南労党に入党した。そのことが発覚し、本来なら極刑を免れないところだったが、朴は軍内部の南労党組織を密告し、フラクションの摘発・粛清に寄与し、また軍内の満州軍の人脈が救命運動をしてくれたおかげで、現役罷免となったが、刑執行は免れた。その後文官として情報局で勤務し、この時クーデター主役の金鐘泌ら陸士八期生と知り合いになった。

093 アメリカは、朴が南労党員だったという経歴に関して、朴のクーデターを不安に思った。1961年6月19日、池田勇人首相がワシントンでケネディと会談し、韓国との関係改善に期待を表明し、朴に対するアメリカの疑いを解消しようとした。前任者の岸信介が満州国官僚の出身であり、満州国人脈の朴が権力を掌握すれば、曲折を重ねていた日韓会談を軌道に乗せられると池田は期待した。

 7月4日、朴は反共法*を公布し、29日、アメリカは政府として公式に朴軍事政権を承認した。11月14日、朴はワシントンでケネディと会談し、日韓会談を推進し、韓国軍のベトナム派兵を提案した。(資金目当てか)1962年11月、金鐘泌中央情報部長と大平正芳外相とでメモ(金・大平メモ)が交換され、(韓国側の主張する)「対日請求権」(日本側の主張する「経済協力」)の額、無償3億ドル、有償2億ドルを取り決めた。

*反共法 共産主義に関係する活動に加担したり、その活動を「賛陽・鼓舞」したりする者を処罰する法律であり、1949年に制定された国家保安法が一般的な反国家行為に対する処罰を定めていたのに対して、この反共法はそのうちの共産主義の活動についてだけ規定した処罰法で、国家保安法の特別法である。反共法は1980年に廃止されたが、その規定のほとんどが国家保安法に盛り込まれた。

 

アメリカの「二つの戦線での闘い」――米国内の貧困と米国外の共産主義に対する、積極財政による闘い

 

094 1957年10月、ソ連が大陸弾道弾の実験と人工衛星スプートニク打ち上げに成功し、アイゼンハワー政権の、核戦力優位を拠りどころにした「安上がり戦略」(=大量報復戦略)が破綻した。

 アメリカの産軍複合体は、アイゼンハワーの財政安保政策に圧力を強めた。(もっと金を出せということか。)1960年、アメリカで大統領選挙があり、トルコ*、日本、韓国などのアジアの親米諸国やキューバで、政治不安政変があった。アメリカ経済では1957・58年と1960・61年と不況があり、失業率が6%と高止まった。(大島清編『現代世界経済』)

*トルコでは1960年5月27日、軍事クーデターが起り、メンデレス民主党政権が崩壊した。

 1961年、ケネディは政権についたが、「ニュー・エコノミクス」とか「財政革命」とか言われる積極財政を用いて、国内の貧困と国外の共産主義の脅威という「二つの戦線での闘い」に乗り出し、東アジアでは、中国・北朝鮮・北ベトナムを囲む前線諸国(韓国や日本や台湾などか)に、アメ=経済開発援助とムチ=特殊戦争・限定戦争(ベトナム戦争か)を用い、全面的に介入した。その結果アメリカは通貨・財政危機に陥り、70年代の世界の多極化・再編という結果をもたらしたが、一方で、黄金の60年代(金をふんだんにばら撒いたのか)と言われ、韓国経済が興隆するための条件となる資本主義世界の活況をもたらした。

 

第三共和国――強い国家を目指して

 

095 朴正熙は、李承晩時代の貧困を解消し、経済開発をしたかった。軍事政権と資本主義世界の正統性もその成功にかかっていた。朴は日本の戦前の「国家主義」を採用し、経済運営の中枢に超官庁Super Ministry)としての経済企画院を創設し、中央銀行だけでなく市中銀行も、事実上政府の政策金融の窓口機関にされた。

 1963年、朴は軍人を降りて、第三共和国の大統領になった。新憲法民政移管に先立って制定され、議院内閣制*を否定し、強い権限を持った大統領中心制を復活させた。

*1960年、民主党の悲願であった内閣責任制改憲が実現していた。086

 1961年6月、韓国中央情報部(構成員数37万人)を創設し、また民主共和党をつくり、それを国民動員や利益配分・誘導のための機関とした。西欧化された技術官僚集団を旧体制から引き継いだ。反対勢力は革命裁判政治活動浄化法で排除し、保守野党は、民政党、民主党、自由民主党などに分裂した。1950年代の援助経済に寄生して成長した民族資本(三白産業*081)は、不正蓄財処理と見なされて恫喝され、軍部の支配下に置かれた。

*米国からの援助物資を加工する加工産業で、原糖、原麦、原綿を加工することから三白産業と呼ばれた。

軍政3年間で、市民社会は去勢され、強大な軍部・官僚が支配する権威主義国家が聳え立った。

 第三共和国の技術官僚は、集団・階層の利害や圧力に煩わされず、「純粋な経済合理性」から経済開発を立案・実施でき、世界銀行や新古典派のエキスパートは、韓国の経済建設を熱いまなざしで見つめた。

 

輸出指向工業化

 

097 朴政権も、第三世界の指導者のように、当初は「自立的」なあるいは「内包的」な*開発戦略をとった。

*ここで「自立的」とか「内包的」とかいうのは、朴がその後推進することになる、国内消費のための産業育成を無視し、輸出一辺倒の産業形態で、国内消費は輸出産業による儲けで輸入すればよいというやり方に対比する、国内消費のための産業育成も考慮に入れた経済戦略という意味なのだろう。

 「自立的」「内包的」な開発戦略では、資金調達や市場の面で現実的でなかった。(つまり、先に低価格で大量に作ってきて実績のある先進国の産業に太刀打ちできないということなのだろう。)朴軍事政権は、国内の社会勢力から自立できたが、アメリカや国際金融機関の意向を無視できなかった朴は1964年から65年に、「経済の安定化」や「市場メカニズムの正常化」(どういう意味か)を求めるアメリカの援助当局やIMFの要請を受け入れ、韓国経済を(アメリカを盟主とする)世界経済にリンクさせるべく、均衡財政の確立と、金利・為替の「現実化」(どういう意味か)などの改革を行った。つまり輸出指向工業化、IMF協調路線に転換した。

 しかし、途上国の工業製品が世界市場に参入することは簡単ではない。ネオ・マルクス主義の経済理論が言うように、世界市場に組み込まれた途上国は、工業化で行き悩んできた。自立工業化も外向的工業化もいずれもたやすくない。しかしその中でも韓国が成功した理由は、政策決定が、非政治化された技術官僚の迅速な政策対応によってなされたことが一つの要因だ。

098 朴は軍事戦略のように、輸出振興に向けて国民を動員した。「輸出拡大会議」を設け、輸出拡大に貢献した企業を「愛国企業」として表彰した。「産業の保護育成が、これほど徹底して輸出優遇奨励に焦点を合わせて行われた例は他にない」(川上忠雄「世界史のなかの韓国工業化」)と言われた。

 1960年代後半の韓国の経済成長が目覚しかった。GNP成長率は、1963年と64年に10%、1966年では12.7%、1967に始まる第二次五カ年計画も好調で、1969年には14%となり、五カ年計画期間中の年平均成長率は10%に迫った。(韓国経済企画院『主要経済指標』)(アメリカ帝国主義者の言うことを聞いていれば、いい子になれるということか。)

 

ベトナム戦争における韓国軍

 

099 韓国の1960年代における飛躍は、アメリカの「二つの戦線での闘い」094が作り出した国際環境が原因の一つである。資金調達で、1966年から1972年にかけて韓国は、40億ドルの外資に恵まれた。それは韓国が社会主義と直接対置する前線国家として、インドシナ戦争を戦うアメリカの有力な同盟国家であったからだ。日本が憲法上の制約で、インドシナ戦争への直接的軍事協力が、基地提供に限られる中、韓国の存在は目立っていた。韓国はインドシナ戦争が本格化した1965年から73年に至る期間、アメリカの要請を受け、(常時)5万人、延べ31万人の実戦部隊を、インドシナに派遣した。その規模はオーストラリアやニュージーランドを含むSEATO(東南アジア条約機構)諸国全体の派兵数の4倍だった。

 青龍・白虎・猛虎などと名づけられた韓国軍部隊は、ベトナム中部沿岸地域に駐屯し、全1170回の大隊級以上の大規模作戦と、55万6000回の小規模部隊の作戦を遂行し、4万1400人の「敵軍」を射殺したとされる。韓国軍はその残忍さから米軍以上に恐れられていたといわれ、韓国軍によるベトナム住民に対する虐殺行為は、ベトナム政府ばかりか、韓国のマスコミ、NGO団体、日韓の研究者によって明らかにされている。(伊藤正子『戦争記憶の政治学』)ベトナムの文化通信部は、韓国軍によって集団虐殺された住民の数を5000人としているが、『ハンギョレ21』2000.6.15の調査によれば、80件、9000人と推定している。

100 精神病理学者の野田正彰が調査したハミ村(クアンナム省)では、韓国軍が虐殺の数日前から村人にパンを配って安心させ、その日もパンで村人を集めた上で、囲んで皆殺しにしたという。村人135人が虐殺され、そのうち大半の98人が女性で、生後すぐの赤ん坊を含む10歳以下の子どもが57人、60歳以上の老人が14人いた。(合計すると169人になるが。)野田は「ソンミ村のアメリカ兵による虐殺に比べても、極めて几帳面な虐殺である」としている。(『熊本日日新聞』2014.1.12

 アメリカはこうした韓国軍の派兵の見返りとして、韓国が導入した外資の半分を直接負担し、その他の外資(導入)についても、アメリカの働きかけや斡旋によるところが大きかった。またインドシナ戦争に参加した技術者・軍人の送金や、建設者や用役軍納などの貿易外特需が7億4000万ドルあり、アメリカの軍事援助(1960年代の後半の5年間で17億ドル)も、韓国の外貨をうるおした。(朴根好『韓国の経済発展とベトナム戦争』)

101 ただし今でも問題が残っている。ベトナムに派兵された韓国軍人は、枯葉剤による後遺症で今でも悩み、韓国軍の残虐行為は、今でもベトナム人の心に深く刻まれている。

 

2 日韓条約と維新体制下の韓国

 

戦後日本の歴史認識

 

 1966年から72年にかけて韓国が得た外資40億ドルのうち、半分はアメリカが負担し、4分の1は日韓条約の「経済協力」を含んだ日本の11億ドルで、残りの4分の1は西ドイツなどヨーロッパ諸国の負担10億3000万ドルだった。

102 日韓会談は1951年10月の予備会談から始まり、1965年まで15年かかった。当初から植民地支配の評価をめぐって激突した。韓国は韓国併合が無効(null and void)だとし、植民地支配の償いを求めたが、日本側は、植民地期に朝鮮で築いた日本人資産の返却を求めた。

 日本は「西側の一員」として単独講和(1952年4月発効)を締結し、独立を回復した。敗戦は英米との戦争の敗北であり、国民の間で侵略や植民地支配への反省は薄く、近代日本の「脱亜」の体質はほとんど問われなかった。

 GHQも旧植民地出身者を「解放国民」としたが、日本人のアジア観や朝鮮人観と大同小異だった。日本人の大半が敗戦をアメリカへの敗北と考えたように、米軍も日本に対する勝利が、アメリカの勝利だとし、中国やアジアの日本への抵抗は、軽視された。「戦争責任」も、開戦責任や米英系の白人兵士への虐待が主であり、アジア侵略への責任はほとんど問われなかった

103 「五族共和」や「大東亜共栄圏」下で築かれた戦前の多民族帝国の崩壊は、「生粋の日本人」からなる「小国主義」や「一民族一国家」観を高揚させた。閉鎖的な同質社会を前提に、内部の他者に対して、同化と排除でしか考えられないような他者意識が、日本人民衆の間で再生産された。戦後も日本に留まった朝鮮人は、日本人が意識する唯一の他者であった。

 鄭大均は「この時期の日本人の朝鮮観は極めて否定的だった。それは朝鮮半島の朝鮮人というより、在日朝鮮人を念頭に置いたものであった」と述べている。(『韓国のイメージ――戦後日本人の隣国観』)「解放民族」を自認し、闇市での抗争や街頭での示威行動など、脱線しがちな在日朝鮮人に日本人は気圧されたことだろう。敗戦直後の「焼け跡」の時代に思春期を過ごした日本人の中には、在日朝鮮人の生活ぶりや言動を、その朝鮮人観の原点として刻み込んだ人が多い。

 1952年1月、韓国政府が「李承晩ライン」*を宣言し、日本漁船の臨検・拿捕・抑留が相次ぎ、日本社会の韓国への反発が強まった。植民地時代の反省どころか、敗戦から日韓条約までの日本人の朝鮮観は、最悪だった。

104 敗戦をはさんで「日本人学生の諸民族に対する好悪」についての調査によれば、朝鮮人に対する好感度は、1939年の16民族中5位から、1949年の15位に転落した。(鈴木二郎『人種と偏見』)

*李承晩ライン 正式には「大韓民国隣接海洋の主権に関する大統領宣言」で、韓国では「平和ライン」と呼ぶ。日韓基本条約の締結にともなう日韓漁業協定の成立1965によって廃止されるまで、韓国による日本人抑留者は、3929人、拿捕された船舶数は328隻に及んだ。

 

久保田発言

 

 1953年10月、第三次日韓会談の日本側主席代表・久保田貫一郎は次のように述べた。

 

「韓国が賠償を要求するなら、日本はその間、韓人に与えた恩恵、すなわち治山、治水、電気、鉄道、港湾施設に対してまで、その返還を要求するだろう。日本は毎年二千万円以上の補助をした。…当時を外交史的に見たとき、日本が進出しなかったら、ロシア、さもなくば中国に占領され、現在の北韓のように、もっと悲惨だったろう。」(「第三次韓日会談請求権委員会会議録」)

 

105 この「妄言」に韓国側は激怒し、日韓会談は、その後5年近く中断された。李承晩は反日を生きた「国父」であることをその正統性の根拠にしていて、日本に対して臨む姿勢は硬かった。この久保田発言が当時の日本人の平均的な歴史認識だったことが問題である。今でも多くの日本人は、朝鮮に対する日本の植民地支配は「良い面もあった」「近代化に貢献した」、19世紀後半の弱肉強食の国際社会への明治国家の対応は、何ら恥ずべきことではないと考えている。そうした歴史認識は韓国・朝鮮人にはとうてい容認しがたい。

 独裁者李承晩に対する反発もあり、日本の左翼や革新と言われた人をふくめほとんどの日本人は、日韓会談での日本側の主張をもっともなものと考えた。韓国との交渉を、近代日本の負の歴史の清算ととらえた日本人は少なかった。1960年代の日米安保改定反対闘争を支えた国民の意識も、「唯一の被爆国」としての戦争体験、戦争の被害者としての国民的体験であり、侵略者・加害者としての視覚は乏しかった。1960年代に入り、ベトナム反戦運動や全共闘運動が、年長世代の「感傷的な被害者意識を批判して加害を強調」*したが、その影響力は小さかった。

*小熊英二『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズムと公共性』

 

日韓条約の締結

 

106 1958年、日本側は、米の圧力により、自国の請求権と久保田発言を撤回し、会談が再開された。朴正熙が日本との交渉をバトンタッチした。朴は国家最高会議議長に就任した後の記者会見1961.7で、「日韓会談を年内に妥結させる」と表明した。

 1960年の日本での安保闘争は、日本の軍事的大国化にブレーキをかけ、日本の経済大国化路線(所得倍増路線)を定着させた。このことはアメリカのアジア政策の中での韓国の軍事的役割を大きくした。1962年11月、金・大平会談(金鐘泌中央情報部長・大平正芳外相会談)で、請求権(経済協力)問題が、無償3億ドル、有償2億ドルで妥結した。

107 個人補償は、韓国政府が実施するとされたが、請求権なのか、経済協力なのかという供与資金の名目については決着しなかった

 1963年、米は、ベトナム問題を抱え、日韓会談を妥結させようと圧力をかけた。しかし、韓国では学生を主体に反対運動が起こり、1964年春、学生のデモに野党や言論が同調した。日本でも革新政党や労働組合を中心に、条約反対闘争が高揚した。

 しかし、日韓会談は1964年12月の第七次会談で妥結し、1965年2月仮調印、6月本調印、12月批准となった。

 日韓条約はアメリカからすればインドシナ戦争の後方支援であった。韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支えることが、この条約の狙いだった。日本経済は資本財と耐久消費財双方の機械製品の海外市場を必要としていた。資本財はアジア向けで、耐久消費財は欧米向けである。借款や輸出信用の形で日本から韓国へ資本財や中間財がもたらされ、韓国では、輸入代替工業化*を迂回して、輸出指向の生産力基盤を拡充した。

*分かりにくい表現なのだが、輸出した儲けで、必要な物は輸入すればいいということか。

日韓条約は、1960年代の軍事や経済をめぐる米日韓の利害の一致を反映した。しかし日韓両国民の和解の前提となる歴史問題は、置き去りにされた。

108 日韓基本条約は、植民地支配について、その第二条で、韓国併合条約以前に結ばれた「条約および協定は、もはや無効である」とされただけだった。韓国側は、併合条約は当初から違法・無効であると解釈したが、日本側は、併合条約そのものは有効であり、第二次大戦後の大韓民国建国によって無効になったと解釈した。5億ドルの資金供与の名目は、日韓基本条約と合わせて結ばれた協定で、「財産請求権及び経済協力」と併記された。しかも請求権の問題は、「完全かつ最終的に解決された」とし、その後の請求権の見直しや補償問題を封じるという取り返しのつかない禍根を残した。個人補償は韓国政府が実施するとされたが、条約締結後に韓国政府が支払った補償金は、死亡者一人当たり30万ウオンだった。

 「久保田発言」は形の上で撤回されたが、1965年1月、高杉晋一・第七次交渉主席代表は、次のように述べた。

「36年間は搾取したのではない善意でやったわけである。…36年間の統治について「あやまれ」と言うが、国民感情としてあやまるわけにはいかないだろう。…日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏改名もよかった。朝鮮人は同化し、日本人と同じく扱うために取られた措置であって、搾取とか圧迫とかいうものではない。」(『アカハタ』1965.1.12

 

日韓条約反対運動の論理

 

109 1964年3月9日、野党や学生・知識人など在野勢力は「対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会」に結集し、3月24日、クーデター以後初めて抗議デモを行った。6月3日、学生を中心としたデモ闘争は、「朴政権下野」を掲げた。(六・三事態)デモ隊は青瓦台(チョンワデ、大統領官邸)付近まで進出したが、朴政権はソウル市一帯に非常戒厳令を宣布し、1200名を逮捕した。8月14日中央情報部は、「六・三事態を背後操縦した人民革命党を摘発した」と発表し、(第一次人革党事件)国内の反対勢力を北の浸透・工作と結びつけて弾圧・威嚇した。

110 学生の宣言文や総合雑誌『思想界』*によれば、条約反対の論理は、次の三点である。

 第一は、植民地支配の精算が棚上げされたこと。1965年5月の『思想界』は「現行韓日会談を粉砕しよう」と題した巻頭言で、「日本軍国主義と帝国主義の対韓侵略行為をきれいに精算するという基本的目的が明文化されなかった」点を最大の問題点とした。第二に、請求権や、「平和ライン」(李承晩ライン)問題で、朴政権の「低姿勢」が「屈辱的」「卑屈」と批判された。そもそも賠償であるべきものが、請求権に矮小化されたことが批判された。第三は、「経済協力」の美名の下の日本の経済侵略が「新日本帝国主義」「新植民地主義」として批判された。(大田修『日韓交渉――請求権問題の研究』)

*1953年に創刊された人文社会系総合雑誌で、李承晩・朴正熙の独裁政治に一貫して批判的であったが、1970年5月号に掲載された金芝河の「五賊」が筆禍であるとして廃刊とされた。

111 日本側の植民地支配肯定論は、歴史研究者から批判された。「新植民地主義」は、主に学生や比較的リベラルな言論人や研究者が主張した。一部では、会談に介入する米国の批判や、ベトナム派兵批判も登場した。それらの議論は、1980年代になって、急進社会運動(運動圏)の思想や理論を先取りしていたが、当時はあまり広がりがなかった。「反共」や「北の脅威」論が、人権や民主主義、過去の問い直しなどを簡単に棚上げしてしまい、「反米」は、「容共」、不道徳、国是に反するとされた。

 日本で社会党や共産党が主導した日韓条約反対闘争は、新植民地主義批判や反米*に力点があり、植民地支配の精算はや加害者責任の論点は霞んだ。

*ベトナム介入を本格化させた米国主導の日米韓軍事同盟批判

 朝鮮史家の旗田巍は、日韓条約推進派も反対派も、「日本の植民地支配の責任をどうするかという点が見逃している。…こういう考え方は、意識の底に深く根を張っている日本人の朝鮮観につながっている」と批判した。(『朝鮮研究月報』1963.6

 

南北共同声明と維新体制

 

112 1967年5月の大統領選で、朴正熙は対立候補で、1960年7月の大統領選で当選した尹潽善(ユンボソン)086に対して110万票差の、569万票を獲得し、再選を果たした。(不正はなかったのか。)しかし、このころはインドシナ戦争が戦われており、南北関係は緊張していた。1968年1月、北朝鮮の武装ゲリラがソウルに侵入して市街戦となった。(一・二一事件)また、同じ頃の1月、アメリカの情報収集艦が北朝鮮に拿捕された。(プエブロ号事件)1969年、朴正熙は、国家安保の大義をかかげて、大統領の三選を禁じた憲法を改正するための国民投票を強行し、1971年の大統領選挙では、野党・新民党の金大中と一騎打ちとなった。

 1970年代初め、韓国では、インフレや借款企業を中心とした財政の悪化、対外債務の急増など矛盾が噴出していた。1970年11月ソウル平和市場の労働者・全泰壱(チョンテイル)が、劣悪な労働条件の改善を求めて焼身自殺し、朴政権の「先成長後配分」という経済論理の陰を明るみにした。また朴執権の延長に対して学生が反発した。

 新民党は1967年の第六代大統領選挙を控えて、クーデター以来分裂していた保守野党を統合してつくられた政党である。金大中は1925年に全羅南道新山で生まれ、1961年の補欠選挙で初当選し、金泳三とともに有力若手議員の一人だった。

 金大中は、急激な産業化のもたらす社会的ひずみや強権政治を批判し、四大国保障による南北関係改善や、内需優先の大衆経済論を掲げて選挙を戦った。1971年4月18日、ソウルの奨忠壇(チャンチュンダン)公園の金大中の演説では、30万人(80万人説もある)の聴衆を集めた。それに対して、朴正熙は、反湖南感情を煽り、独裁対民主という争点をずらした。これは地域感情を政治に利用した最初のケースだった。

 朴の選挙方法は官権選挙であり、朴陣営が投じた選挙資金は、700億ウオン、その年の国家予算の13%にあたった。政治資金は、ガルフ(300万ドル)、カルテックス(500万ドル)、三菱(120万ドル)など外国企業からも集められた。

114 朴正熙は三選を果たしたが、その差は95万票で、ソウルでは金大中の得票率が58%、朴39%で、逆に朴の地元の慶尚北道では、朴130万票、金41万票で圧倒した。朴は、この1971年の選挙を通して、直接選挙によるこれ以上の政権維持には限界があることを悟った。

 1970年代の初めは、世界経済ではアメリカの「二つの戦線での闘い」*の無理がたたり、スタグフレーションになり、韓国は輸出も外資導入も難しくなった。

*アメリカの「二つの戦線での闘い」とは、米国内の貧困と米国外の共産主義に対する、積極財政による闘いをいう。094

 ニクソン訪中1972、日中国交回復1972、米地上軍のベトナム撤退とパリ和平交渉などの新たな展開があり、経済、政治、国民統合などで、東アジアの冷戦や熱戦に頼ってきた朴体制には不利な状況となってきた。

 1971年10月、朴政権は、ソウルに衛戍令*(えいじゅれい)を発動し、「学園秩序に関する大統領の特別命令」を公布し、12月、「国家保衛に関する特別措置法」を公布し、学生を中心とする民主化勢力を封じ込めた。

*衛戍とは、軍隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛すること。

1972年、朴正熙は一転して民族統一を掲げ、5月、腹心の李厚洛(イフラク)と北の朴成哲(パクソンチョル)第二副首相とが、秘密裡に平壌とソウルを相互訪問し、統一原則について話し合った。7月4日、南北両政府は、平和・自主・大同の三原則による「南北共同声明」を発表し、世界を驚かせた。

115 1972年10月戒厳布告第一号を宣布し、国会の解散、政党・政治活動の禁止、大学の閉鎖を行った。その上で国民投票を実施し、維新憲法を確定し、大統領の選出を、統一主体国民会議による選挙とし、これによって朴は野党候補と難しい選挙戦を闘う必要がなくなった。(「維新」とは、民主的システムを無視した純然たる独裁を意味するらしい。)

 

捏造された人革党事件

 

 維新体制下では、選挙はほとんど無意味になり、政権批判は、宣言・声明を発表したり、デモをしたり、時には機動隊に火炎瓶を投げつけたりなど非合法手段に訴えるしかなくなった。これに対して維新体制は、超法規的な緊急措置を発動し、制度外の抗議活動も封じ込めようとした。1974年の民青学連事件などを含めて、9号まで発動された緊急措置によって、1086人が拘束され、1975年、キャンパス内に学徒護国団が、民間では民防衛隊がつくられ、社会の兵営化が進んだ。

116 ジーパン、生ビール、フォークギターなど若者文化も成長したが、軍事文化がこれを圧倒した。ミニスカートや男子の長髪は取締りを受け、1975年、金敏基(キムミンギ)の「朝露」をはじめ225曲の大衆歌謡が発禁処分となった。1978年、四・三事件体験者の内面世界を描いた『順伊おばさん』が発禁処分となり、作者の玄基榮(ヒョンギヨン)は、三日三晩の拷問と、1ヶ月の拘留を受けた

 金大中拉致事件1973.8、民主化運動に加わった学生の徴兵東亜日報などへの言論弾圧1974—75三・一民主救国宣言事件1976など、人権蹂躙事件が多発したが、その中でも人革党事件は、最も凄惨な拷問によるでっち上げ事件であった。人革党は、日韓会談反対運動に対して、中央情報部が、これを公安事件と結びつけて威嚇するためにでっち上げた架空の地下政党だった。この第一次人革党事件1964は、担当検察官が、拷問によるでっち上げであることを暴露し、起訴を拒んで辞表を提出した。(「司法波動」)結局当初逮捕された41名のうち2人が別件で2年と3年の懲役刑に処せられた。

三・一民主救国宣言事件は明洞事件とも言われる。明洞聖堂での三・一節ミサで、民主化や民族統一を訴える宣言が朗読されたことを、政府転覆の扇動だとして、前大統領尹潽善(ユンボソン)086、咸錫憲、金大中、文益煥(ムニッカン、牧師138, 173)など在野の有力者18人が逮捕された。

117 それから10年後の1974年4月、ソウルの主要大学が民青学連(全国民主青年学生総連盟)を組織し、維新体制の撤廃を求める「民衆・民族・民主宣言」などのビラを配布した。これに対して朴は、「政府転覆による労農政権の樹立」を企んだとして緊急措置第四号を発動し、日本人2名を含む253人を逮捕した。逮捕者は学生だけでなく、尹潽善前大統領をはじめ、政界、宗教界、学界、労働界、文芸・出版界などに及び、非常軍法会議は、金芝河(キムジハ)、李哲(イチョル)など14人に死刑を宣告した。内外の批判を浴び、10ヵ月後に大半が釈放されたが、「人革党再建委員会」をつくり、民青学連を背後で操縦したとされる23人は「内乱予備陰謀および内乱扇動」罪で起訴された。1975年4月8日主犯とされた8人の死刑判決が確定し、翌日早朝までに全員の死刑が執行された。

118 この事件は、軍事政権に抵抗する大邱の革新系人士の人脈を根絶し、民主化勢力への見せしめのためにでっち上げられたと言われる。(金源一『青い魂』)

 

 

3 変貌する韓国社会と地域感情

 

重化学工業化――漢江の奇跡

 

 1973年6月、朴正熙は特別声明を出し、南北のクロス承認と国連同時加盟、開放善隣外交などを提起したが、北朝鮮からも中国からも拒絶された。北朝鮮にしてみればそれは七・四共同声明*からの後退を意味し、分断の固定化を目論むものと見なされた。

*七・四共同声明とは、1972年7月4日午前10時に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が同時に発表した朝鮮半島の南北対話に関する宣言文章である。7月4日、南北両政府は、平和・自主・大同の三原則による「南北共同声明」を発表し、世界を驚かせた。114

 

 朴正熙は1973年1月、「重化学工業化開発政策宣言」を発表し、5月、鉄鋼、化学、非鉄金属、機械、造船、電子などを重点開発部門に指定し、そのために財政・金融政策を手直しした。(金元重「韓国――“開発独裁”と重化学工業化建設政策」)この頃は、中東の建設需要もあった。浦項(ポハン)総合製鉄所、大韓造船公社、現代造船所、蔚山(ウルサン)石油化学コンビナートなどの拡張と各期工事の完了、起亜(キア)産業、現代自動車による国民車の生産などが行われた。

 1977年、韓国は輸出100億ドルを達成し、建国以来始めて国際収支の黒字(1000万ドル)を実現した。1978年OECDは、『新興工業諸国の工業生産・貿易への影響』の中で、韓国をNICsつまり新興工業国の一員として位置づけた。

 

「慶尚道天下」――成長の嶺南、停滞の湖南

 

 朴正熙時代の韓国の変化は、その規模とスピードの点で、伝統から近代へ一気に駆け抜けたと言える。1962年から79年まで経済成長率は10%、国民所得は1600ドルとなり、農業部門の比率は20%にまで減少し、工業における重化学工業部門の比率は50%を越えるようになった。ソウルと釜山を結ぶ高速道路が1970年に竣工し、全国を1日で結ぶ道路網が韓国中を縦横に走り、1980年には電話、テレビがほぼ各家庭に行き渡りつつあった。

 済州島でも「道、水、電気の革命」というインフラ整備を中心に、一大変革の過程にあった。島民は飢餓から解放され、蜜柑を中心とした換金作物の栽培や観光産業、そしてセマウル運動*によって生活環境が改善された。

*セマウル運動とは、70年代に朴正熙の呼びかけで、農漁村の「自助・自立・協同」をスローガンに、生活環境の改善や所得の増大を目的に進められた官製の社会運動であり、「セマウル」とは「新しい村」を意味する。70年代半ば以降は、都市や労働現場でも進められた。

 韓国の工業化は、中心と周縁で不均衡を生んだ。ソウルは今ではピークを越えて衰えの兆しを見せ、嶺南は重化学工業基地として開発されたが、今では一部産業が空洞化しつつあり、湖南は開発から見放されて過疎に苦しみ、江原道や済州島は、観光など特殊な役割を振り当てられた。この不均衡と多様化の原因は、輸出指向工業化のための基盤整備や、支持基盤確保のための利益誘導などのための、工業化と国土政策である。1970年、首都圏と嶺南の成長地帯(国土面積25%)の人口は50%で、製造業の83%がここに集中した。

 1972年、国土開発政策が定まり、その「第一次国土開発総合計画」1972—81は、1960年代に顕在化しつつあった首都圏への人口集中や開発格差を訂正することはなかった。

122 1973年「重化学工業化宣言」が打ち出されて「産業基地開発促進法」が制定され、1960年代の蔚山に次いで、浦項、亀尾(クミ)、昌原(チャンウオン)など、東南海岸工業ベルトの重化学工業団地が造成され、交通網も首都圏とこの東南海岸工業ベルトを結ぶ鉄道や道路建設に力点が置かれた。1970年代を通じて重化学工業投資の集中した嶺南は、製造業の従業員数や生産額で全国の4割を占める韓国最大の重化学工業地帯に変貌した。これに対して湖南は、同じ数値で全国の1割と低迷し、農村部の人口流出と過疎化が進んだ。

 嶺南への優遇策は人事にも現れ、1972年現在で大企業のオーナーであった56人中、嶺南出身者が22名(40%)であるのに対して、湖南は5人(10%)に過ぎなかった。70年代以降は、政治社会のエリートのリクルートが嶺南に目立ち、1980年代には嶺南天下となった。朴政権末期の一人当たりの住民所得も、全北・全南が最低で、京畿・慶南に比べて30~40%の格差があった。

123 図9 1980年代エリートの出身地別分布

 

ソウルの変貌

 

124 工業化により都市化が爆発的に進んだ。朴政権期、都市は、首都ソウルと、釜山直轄市、一般市からなっていた。直轄市は、今では広域市というが、人口100万人以上の大都市に指定され、釜山は1963年に慶尚南道から分離・昇格した。1981年に大邱・仁川が、1987年に光州が、1988年に大田が、直轄市に昇格した。(1997年に蔚山が広域市に昇格した。)一般市は人口5万人以上で、都市的産業従事人口が50%以上の地域を言う。朴政権下に、農村人口が7割の伝統社会から、都市人口が6割の近代社会に変貌した。

 1960年頃のソウルは、人口245万人で、これは全人口の1割に当たったが、中産層はまだ薄く、一握りの飛びぬけた金持ちと、圧倒的多数の貧民がソウルを構成した。中心地のソウル市庁前にも貧相な露天商が軒を連ね、物乞いやチューインガム売りの子どもが群がっていた。東大門から東西に伸びる清渓川(ヨンゲチョン)は、悪臭を放つどぶ川で、その両側にタルトンネ*(山の斜面や河川敷で不許可住宅が軒を連ねる貧民地区)が、果てしなく広がっていた。

タルトンネ달동네は「月の町」の意味。坂道を登りきった場所や丘の上のような月に届くほど高い場所にある貧民街をさす言葉。

 そこはスラム、物乞い、物売り、売春、疾病がひしめく貧困地帯だった。

 朴政権になると、ソウルは劇的に変貌し、1963年、市域を拡大し、漢江の南と北部郊外が新たに組み入れられ、ソウルの面積は2.3倍になった。漢江の南はかつて桑畑だったが、重化学工業化の進展した1970年代には、工業団地、中産層の住宅団地がここに建設され、汝矣島(ヨイド、漢江の中洲)は、行政・金融の中心地となった。その間ソウルの人口の年平均増加率は4.1%であった。1974年、地下鉄が走り始め、ソウル駅から清涼里(チョニャンリ)を結ぶ1号線、ソウルを循環する2号線が、1978年に着工された。清渓地区にはもう川はなく、暗渠となり、その上に一般と高速の二層の道路が走った。(2005年9月、川は復元されて、市民の憩いの場となった。)

 清渓地区のスラムは、31階建ての三・一ビルディングや、平和市場と呼ばれる無数の工場群によって周辺に押しやられた。1970年に劣悪な労働条件の改善を労働庁に訴えて焼身自殺した全泰壱(チョンテイル)は、この平和市場で働く縫製工場の裁断士だった。70年代のソウルは、農村での口減らしや仕送り目当てに都市にやって来た若い労働者の街でもあった。男子はたいてい工場で働き、やや蔑みの意味を込めて「コンドリ」*と呼ばれた。工場にも勤められず、「ノガダ」(日本語語源、土方か)つまり日雇い労働者になる者も多かった。女子は、女工、食母(シンモ*、お手伝い)、バスの車掌などになり、それぞれ軽蔑的に「工(コン)スニ」「食(シク)スニ」「車(チャ)スニ」と呼ばれ、合わせて「三(サム)スニ」と呼ばれた。これ以外に歓楽街の「ホスティス」や「売春婦」に転落する者も多かった。*食母(シンモ、お手伝いさん、婢女(はしため)

127 工スニは、男子の三分の一から半分の賃金で、息の詰まりそうな職場で14~15時間の労働を強いられた。劣悪な労働に消耗しきって、「平和市場の女工は、嫁にいっても三年ともたない」と言われた。食スニは「当時、多少なりとも裕福な家では必ず備えなければならない“装飾品”であり、現代版の“家事奴隷”であった」(「韓国生活史博物館12」)70年代のソウルでは通勤時間帯には、ぎゅう詰めに人を乗せたバスに乗り、オーライ、ストップと叫びながら、曲芸のように乗降口にしがみつく車スニの姿が見られた。時には車スニが落ちて死ぬ事故も起った。

 

政治に利用された地域感情

 

 1960年から1980年までの都市人口増加の半分は、他地域からの移住であった。1960年代のソウルの人口増加の他地域からの移住の占める割合は70%で、仁川では114%であった。朴政権期の都市への移住は、京仁地域(ソウルと仁川か)と釜山・蔚山・浦項など嶺南の新興都市が中心であった。ただし嶺南の人口移動は、主に地域内の農村からのものであった。湖南からソウル・仁川地域へは、1965年から1980年にかけて、毎年10万人が移住し、ソウルだけでもこの15年間で120万人が移住した。

 ソウルに移住した湖南人の多くは、日雇いや飲食業に従事した。1980年ころ、ソウル市の低所得層に占める湖南人(全北+全南)の割合は30%である。湖南人は同郷同士で結束したため「信用できない。何を考えているのか分からない」と言われた。(朴常勲「地域亀裂の構造と動揺」、崔榮眞『韓国の地域主義とアイデンティティの政治』)

 1970年代半ばの18歳以上の男女463人を対象にしたアンケートによれば、60%が、湖南出身者を、結婚相手や友人・仕事仲間にしたくないと答えた。調査対象の中に含まれる湖南人を除けば、70%が湖南人への拒否感を表明している。1980年代のアンケートでも同様の結果だった。

129 湖南人を「裏切者、反逆者」とする「十訓要」*以来の言い伝えがある。麗順反乱や智里山での遊撃戦が、全南道党や全北道党と結びつき、湖南人は「不穏」「思想不純」というイメージを定着させた。また湖南財閥の衰退や、嶺南中心の開発が、湖南人イメージを悪化させた。

*十訓要 訓要十條훈요10、信書十條신서10、十訓십훈高麗の太祖王建が子孫だけ(重臣も)に示した教訓。第八条に「チアヒョン以南の人は統合された恨みを抱いて乱を起こす心配がある。官職を与えないこと。」とある。

 

 

<高麗時代> 훈요10 訓要十條) plaza.rakuten.co.jp

 

신서 10(信書十條) ·십훈(十訓)ともいう

 

太祖王建が用いていた重臣である 박술희(朴述熙)殿に読んで、彼にあげたと伝えられていて、「高麗史」「高麗史節要」で伝えられている。

 

왕실 가전(家傳) 심법(心法)으로서 태조가 그의 후손에게만 전하기로 되어 있었고, 신민에게 공개될 유훈은 아니었다.

王室の家伝の心法として、太祖が彼の子孫にだけ伝えたとされていて、臣民に公開された遺訓ではなかった。

 

 

1 우리나라가 대업을 이룬 것은 부처가 지켜 주었기 때문이다. 뒷날 간신이 정치를 하면 승려들이 청탁을 하여 사원 쟁탈이 일어날 것이다. 이를 금지하라.

 

1条 我が国が大業を成したことはお釈迦様が守ってくれたからである。 後の日に奸臣が政治をすれば僧侶が請託をして寺院の取り合いが起きるであろう。 これを禁止しなさい

 

 

2 모든 사원은 도선이 산수의 순역을 가려 개창한 것이다. 사원이나 부도 등을 함부로 증설하지 말라.

 

2条 すべての寺院は道詵(新羅時代末期の僧侶。風水地理説の大家)が山水の水域を選り分けて開創したのである。 寺院や墓塔などをむやみに増設しないこと。

 

 

3 맏아들에게 왕위를 물려주라. 만약 맏아들이 불초하면 둘째 아들에게 물려주라. 둘째도 불초하면 형제 가운데 신하들이 추대하여 대통을 계승하게 하라.

 

3条 長男に王位を譲りなさい。 もし長男が不肖すれば二番目息子に譲りなさい。 二番目も不肖すれば兄弟の中臣下が推戴して王の系統を受け継がせなさい。

 

 

4 중국 제도와 풍속을 배워야 하지만 반드시 똑같게 필요가 없다. 거란은 짐승 같은 나라이다. 본받지 말라

 

4条 中国制度と風習を学ばなければならないが必ずまったく同じにさせる必要がない。 契丹は獣のような国である。 模範とするな

 

 

5 서경은 우리나라 지맥의 근본이며 만대에 전할 땅이다. 반드시 100 이상 머물도록 하라.

 

5条 西京は我が国の支脈の根本で万代に伝わる地である。 必ず 100日以上とどまるようにしなさい。

 

 

6 연등은 부처를 모시는 것이고, 팔관은 하늘, , 강을 섬기는 것이다. 행사를 줄이지 말라.

 

6条 燃灯はお釈迦様にお仕えするもので、八かん(土俗神に仕える儀式)は空、山、川に仕えるのである。 二つの行事を怠らないこと。

 

 

7 신하와 백성의 마음을 얻도록 해라. 간언을 따르다. 때를 맞춰 부리고 세금을 가볍게 해라.

 

7条 臣下と民の心を得るようにしなさい。 諌言に従うこと。 時を合わせて使って税金を軽くすること。

 

 

8 차현 이남 사람은 통합당한 원한을 품고 난을 일으킬 염려가 있다. 벼슬을 주지 말라.

 

8条 チァヒョン以南の人は統合された恨みを抱いて乱を起こす心配がある。 官職えないこと

 

 

9 관료의 녹봉을 함부로 가감하지 말라. 공이 없는 친척이나 친구를 등용하지 말라.

 

9条 官僚の禄俸をむやみに加減するな。 公がない親戚や友達を登用するな。

 

 

10 언제나 마음을 가다듬어 조심하고 널리 경사를 읽어 일을 거울 삼아 오늘날을 경계하도록 해라.

 

10条 いつも心を整えて気を付けて広く慶事を読んで昔の事を模範として今日を警戒するようにしなさい。

 

 

130 1960年代までの湖南差別は、日常世界での好き嫌いに留まり、投票行動や政治対立にまで至らなかったが、1971年の大統領選挙で金大中の人気に危機感を感じた朴正熙は「全羅道大統領」「仲間内だけで固まる全羅道人」という生活世界での情緒を喚起した。「湖南人よ、団結せよ」というビラが嶺南地域で張り出されたという。「今度の選挙は百済、新羅の戦いの再現だといって全羅道人が団結しているのだから、われわれも団結しよう」と嶺南地域の有権者に朴陣営が呼びかけたという。(朴常勲「地域亀裂の構造と動揺」)

 湖南人への偏見は1970年代に選挙にまで持ち込まれ、偏見を広げ深めた。このことは1980年の光州での悲劇にも影響した。

 

4 光州事件

 

きしむ韓米関係

 

131 1960年代後半、韓国はベトナム戦争でアメリカの忠実な傭兵国家となった。しかし、1968年のテト攻勢以後アメリカの旗色が悪くなった。1969年ニクソン共和党政権が成立し、ニクソンはアジアへのコミット削減の方向を打ち出し、米中和解・デタントを推進し、アジア諸国に自前の軍事力強化を説き、米軍削減を打ちだした。1969年11月のニクソン・佐藤(首相)共同声明は、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」という「韓国条項」が盛り込まれ、ニクソン・ドクトリンは、「アジア人をしてアジア人と戦わせる」とし、日本による安全保障上の役割を期待した。

132 これを受けて朴政権は自主防衛を打ち出し、重化学工業化を推進し、1974年、誘導ミサイルの開発を宣言し、アメリカの反発を招いた。さらに秘密裡に核兵器開発に乗り出し、1975年、アメリカはこれを察知し、プルトニウム再処理施設を提供しようとしたフランスを牽制し、原子炉や燃料の継続供給などを条件にして、(核兵器開発を)断念させた。

 1976年10月、アメリカのロッキード事件調査の過程で、朴東宣(パクトンソン)事件*が発覚した。

*コリア・ゲート事件とも言われ、1970年代初め、在米韓国人の実業家・朴東宣が、(韓国)中央情報部員と共に、対韓軍事援助を増額し、執権延長への批判を鎮めるために、アメリカの政界に対して行われたという買収工作である。

 1977年、カーター政権が誕生し、カーターは人権外交と在韓米軍の削減を唱えた。アメリカ社会では、維新体制成立の頃から、新聞が韓国の人権問題を取り上げ、議会でその批判が高まった。カーターは、維新体制による人権抑圧に不快感を示し、明洞事件*で逮捕された金大中らの釈放を求め、YH貿易事件(後述)や、野党指導者に対する弾圧など、人権抑圧のたびに朴政権を非難する声明を出した。

133 1979年6月のカーター訪韓以後、人権問題に関する韓米の軋轢がピークになった。金泳三は、アメリカに頼って反朴闘争を広げた。*三・一民主救国宣言事件(明洞事件)1976, 116

 

YH貿易事件

 

 1970年代末、維新体制の綻びが目立ってきた。物価高騰や技能・技術者不足、重化学工業分野での無理な加重・重複投資などからくるコスト高が競争力を損ね、韓国経済は下降し、1979年のイラン革命による第二次オイルショックもこれに禍した。

 緊急措置九号で押さえ込まれていた学生運動や在野の運動が盛り返した。学生たちは「カミカゼ闘争」という維新体制への捨て身の示威闘争を敢行し、在野勢力は、1978年2月、第二の民主救国宣言*を発し、1979年3月、宗教界・言論界・政界など在野の有力者と13の団体が総結集し、「民主主義と民族統一のための国民連合」を結成した。*三・一民主救国宣言事件(明洞事件)1976, 116

134 1978年12月の国会議員選挙で、野党・新民党が、得票率33%、61議席と躍進した。当選議席では与党・共和党の68議席に及ばなかったが、得票率では1.1%上回った。1979年5月、「鮮明野党」の旗印の下、反朴強硬路線の金泳三が、日和見主義者の李哲承(イチョルスン)を抑えて(新民党)総裁になり、維新体制の撤廃を求め、統一のためなら金日成と会うと宣言した。1979年6月末カーターが訪韓し、経済発展に見合った人権尊重を朴に求めた。

 1977年から1978年にかけて、都市産業宣教会*に支援された東一紡績の女子労働者が、籠城して争議闘争を行った。1979年8月YH貿易の女子労働者170人が、会社の経営正常化と生存権保障を要求し、野党・新民党本部庁舎で籠城した。(YH貿易事件)1979年8月9日深夜、1000人の警察官が乱入し、籠城する女子労働者や野党議員を引きずり出した。女子労働者1人が死亡し、新民党議員と記者数名が重軽傷を負った。その後、朴政権の常軌を逸した疾走が始まった。

*都市産業宣教会とは、宗派を超えたキリスト教の社会活動団体であり、1963年に設立された。1970年代以降の軍事政権期に、草創期の労働運動の支援や組織化に重要な働きをした。

 

金載圭(キムジェギュ)の凶行(朴正煕射殺)

 

 1979年9月、金泳三が朴に楯突くと、苛立った朴は金泳三を逮捕し、政界から抹殺しようとした。(趙甲済『朴正熙の最後の一日』)9月8日、ソウル民事地裁は、情報部の差し金による一部新民党議員の金泳三総裁の職務停止仮処分の申請を受け入れた。金泳三はニューヨーク・タイムズとの会見で、「アメリカはイランのパーレビのような轍を踏んではならない」と警告した。10月4日、与党は、国会で金泳三議員除名の決議を強行採決したが、情報部の分裂工作にもかかわらず、野党議員たちはこれに応じなかった。

136 10月16日から20日にかけて、釜山や馬山を中心に、市民・学生が反政府の示威・暴動を起こした。(釜馬事態)不況、生活苦の下、地元選出の金泳三に対する政府の仕打ちに反発したのだ。派出所・共和党庁舎・放送局など、維新体制を支えた主要機関がターゲットとなり、釜山は一時無政府状態になり、非常戒厳令がしかれ、馬山・昌原には衛戍令がしかれ、軍隊が出動した。

 10月26日夜中央情報部長官・金載圭が、宴席で、朴正熙とその側近の車智澈(チャチチョル)大統領警護室長を射殺した。「野獣の心で維新の心臓を撃ち抜く」覚悟での凶行だったと、事件後、金載圭は証言した。

 金載圭は同郷の朴正熙に引き立てられ、1976年、朴正熙に次ぐ権力者と言われた情報部長官の地位まで上り詰めた。朴正熙や車智澈が反政府運動に対してあくまでも強硬策を言い張るのに対して、最悪の流血を回避したかったと金載圭は後に語った。

 

ソウルの春

 

 朴の死後、金大中・金泳三などは民主化への期待をしたが、統一できなかった。射殺事件の翌日1979年10月27日、済州島を除く全国に非常戒厳令が宣布された。同日、崔圭夏(チェギュハ)国務総理が大統領権限を代行したが、水面下で、軍内部での暗闘が始まっていた。鄭昇和(チョンスンフア)陸軍参謀総長ら上層部は、維新体制からの転換を考えたのに対して、全斗煥・保安司令官など軍中堅の「ハナ会」勢力がこれに対立した。

 ハナ会は、全斗煥、蘆泰愚、金復東(キムボクトン)など嶺南出身の陸士11期生を中心に秘密に組織された非公式の組織だった。ハナ会は維新期に朴正熙に引き立てられ、大統領警護室、国軍保安司令部、首都警備司令部などの要職についていた。12月12日、このハナ会を中心とした新軍部が、鄭昇和らを、朴射殺に関与したとして逮捕し、軍内での実権を握った。米国務省は、「韓国の状況展開に憂慮を表明」したが、(『ニューヨーク・タイムズ』12.13)結局この12月12日のクーデターを追認した。

 1980年2月29日崔圭夏政府は、元大統領の尹潽善(ユンボソン)086や金大中など687人を復権させた。(ソウルの春)しかし、金泳三と金大中は対立し、金鐘泌も次期政権に意欲を見せ、三人の金が鼎立した。(三金時代)1980年4月21日、江原道の舎北(サブク)炭鉱で組合執行部に不満を持つ炭鉱労働者と市民3000人がデモを行い、このことを契機に労働争議が全国・全産業に及ぶ兆しが見られた。学生運動は、学園の民主化を要求し軍事教練に反対し、5月13日から15日までデモを行った。14日、ソウル市内の主要大学21校、5万人の学生が、戒厳令の解除と早期改憲を求めてデモを行った。地方の10都市11大学もデモを行った。15日、10万人の学生がソウル駅前に集結したが、市民の反応は少なく、軍隊移動の噂も飛んだ。この時、指導部である総学生会の会長団は、当局に学生の意志が十分に伝わったとして矛を収めてしまった。(ソウル駅回軍)

 1980年5月17日、戒厳司令部は非常戒厳令を、済州島を含む全国に拡大し、18日金大中、文益煥(牧師116, 173)、金鐘泌、李厚洛(朴正煕の腹心114)など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。さらに政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などの戒厳布告を発表した。(五・一七クーデター)全斗煥ら新軍部がこれを主導した。彼らは12・12クーデターを決行した頃からこの機会をうかがっていた。

 

抵抗の都市・光州

 

139 全羅南道の光州は、維新体制下でも、学生運動、在野運動、農民運動の有力な拠点だった。1978年頃、新旧キリスト教系の農民会やYMCAなどの宗教団体、韓国アムネスティの光州支部、民主青年協議会などの在野の青年学生団体が、「うわべは分立したまま、内部ではお隣同士のサランバン(舎郎房=客間を兼ねた書斎)のように結びついた議論空間を確保していた」(全南社会運動協議会編『死を越え、時代の闇を越え』)国立全南大学校は、ソウル大、慶北大とならぶ全国的な学生運動の拠点であり、民青学連事件*では、18人の大学生が逮捕されていた。

*1974年4月、ソウルの主要大学が民青学連(全国民主青年学生総連盟)を組織した。117

 1978年、「民主教育指標事件」*があり、全南大教授11名が解職され、学生24人が無期停学や除籍処分を受けている。

*11人の全南大教授が、非民主的な教育の現実と、教育者としての姿勢の確立を訴えた「われわれの教育指標」を発表して、連行された。学生たちはこれに抗議しデモを行った。

140 1980年1月、この学生たちが復学措置によって大学に戻り、分散していた学生運動が、総学生会に束ねられた。5月、光州でも民族民主化聖会期間8日から14日まで設定され、非常戒厳令解除などの要求を出した。最終日の14日、7000人の全南大学生がデモを行った。15日もデモが行われ、16日、学生・市民5万人が「民族民主化聖会のためのたいまつ大会」(民主大聖会)を開催した。(ソウルでは15日に収束していた)

 17日、デモはなく、各大学は閑散としていたが、ソウルの全国総学生会長団会議のメンバーが警察の急襲を受けたとの知らせが入った。この時全国の学生指導者のほとんどが逮捕されたが、光州の学生会長団は逃走した。

141 18日未明、第七空挺旅団の33大隊と35大隊が全南大と朝鮮大に配置された。空挺部隊は北朝鮮との非正規戦遂行のために訓練された部隊だった。18日の、この空挺部隊と学生とが全南大校門前で衝突した。学生は200人で、指導部不在の自然発生的衝突だった。学生は蹴散らされたが、光州駅前広場で隊列を整え、道庁に向うメイン・ストリート(錦南路、クムナムノ)をデモ行進し、今度は機動隊と衝突した。午後、空挺部隊が市内各所に配置され、学生たちを手当たり次第殴打し、服を剥ぎ取り、下着一枚にしてトラックに押し込んだ。この日400人以上の学生が連行され、80人が負傷した。19日デモの主体は、激昂した市民たちに替わった。第11空挺部旅団が急派されたが、市民は角材、鉄パイプ、火炎瓶などで渡り合った。午後デモ隊は2万人に膨れ上がった。

 衝突は21日まで連日続いた。警察署が占拠され、MBC放送の建物が焼き討ちされ全焼した。その間MBCは戒厳軍の一方的声明のみを伝え、市民の怒りを買っていた。21日、空挺部隊が一斉射撃を開始し、駅前広場は血の海となった。市民たちは羅州や木浦の武器庫を襲って武装し、市民軍となった。空挺部隊は市の郊外に後退し、市民は道庁を接収した。しかし市外への電話や列車、高速バスなど全てのルートが断たれ、光州は軍によって完全に封鎖された。テレビは連日光州市民を暴徒呼ばわりし、この騒乱がスパイや不純分子の策動によるものだと報じた。新軍部は湖南への差別的な眼差しに便乗し、反政府運動への見せしめとして光州を打ちのめそうとしていた。

 

自治共同体と最後の炎

 

142 市民は自治を始めた。1980年5月22日の朝、市民たちは錦南路の片付けと清掃に取り掛かった。抗争指導部は、放置された遺体を収拾し、身元確認の作業を始めた。封鎖のため、日用品不足が懸念され、買占めや売り惜しみを防ぐ手立てがとられた。握り飯、パン、牛乳、ドリンク剤などが主婦や店主たちによって市民軍に提供された。市民軍と学生たちは治安維持のために破壊行為を防ぎ、重要施設の警備を受け持った。その他、車両統制班、医療班、銃器回収班など自治のための機能が整えられた。道庁前の噴水台では連日のように「民主守護汎市民決起大会」が開かれ、23日、5万人の市民が終結した。道庁前広場は「光州市民の共同体的な討議と集会の象徴的場となった」(『聖地巡礼案内者教育資料集』)これは解放直後の人民委員会の再現であり、「革命から生まれた唯一の新しい統治形態」(アーレント)を想起させた。

 自治共同体の執行機関として、市の有力者や学生による市民収拾対策委員会がつくられ、委員会は戒厳軍と交渉し、武装解除の条件として、連行者の解放、過剰鎮圧を認めること、死亡者への補償などを求めた。しかし戒厳司令部は「金大中内乱陰謀罪」の中間捜査結果を発表し、光州市民を激昂させた。同日(23日か)、韓米連合軍司令官ウイッカムは、麾下の第20師団の兵力移動を承認した。これは米軍がこの光州での残忍な鎮圧作戦の共犯者であることを物語る。

 収拾対策委員会は、武装解除をめぐって、穏健派と闘争派に分裂し、25日、闘争派を中心に10人からなる新しい執行部が作られた。執行部は学生、会社員、運転手、教師、信用組合の職員からなり、年齢は20代半ばから30代の初めだった。

144 26日、第五次民主守護汎市民決起大会が開かれ、最後まで闘うことが決議され、10人の女性を含む250人が道庁に立てこもり、錦南路のYMCAビルにも30人余が立てこもった。翌朝27日、未明から散発的な銃撃戦があった後、午前4時、降伏の呼びかけがあった。市民軍が道庁を照らすサーチライトを銃撃したのをきっかけに、空挺部隊の一斉攻撃が始まり、上空から武装ヘリが空挺部隊を援護した。空挺部隊は、投降して道庁前広場に出た市民軍8人を容赦なく射殺した。交戦は1時間ほどで終わり、5時10分、道庁は軍に占拠された。YMCAビルにも空挺部隊が投入され、2名が死亡、29人が拘束された。

 この日に投入された兵力は6172人、市の外郭での作戦行動まで含めると、2万人を越えた。2001年までに韓国政府が確認した光州事件での犠牲者(死者)数は、民間人168人、軍人23人、警察4人で、負傷者は4782人、行方不明者は406人に達した。

 

 

第三章 民主化の時代

 

1 六月民主抗争

 

新軍部政権の成立

 

 1980年、全斗煥は国保委(国家保衛非常対策委員会)を立ち上げた。国保委は、大統領の諮問機関とされたが、事実上は憲法さえも越える権力機関だった。光州事件の真実は、国保委によって封印され、金大中のような「不純分子」によってそそのかされた「内乱陰謀」だと宣伝された。多くの人はこれを鵜呑みにし、多少の情報通も、嶺南政権の持続をめぐる地域間の覇権闘争程度の理解だった。(康俊晩『湖南つぶし』)そしてこのような無理解は、湖南人とその他の地域の人々との溝を深めた。

 1980年8月名目上の存在だった崔圭夏大統領が辞任し、統一主体国民会議で、2525票中2524票を獲得した全斗煥が最高権力者となった。新大統領は、10月新憲法を国民投票で採択した。それによると、大統領の選出は、選挙人団による間接選挙とされ、これにより全斗煥が1981年2月に選出された。(第五共和国)

147 この第五共和国は出自からして正統性を欠き、安企部(国家安全企画部)や保安部(保安司令部)が恐怖政治を布いた。金大中は死刑を宣告され、国際世論の圧力でその執行は免れたが、海外での亡命生活を余儀なくされた。金泳三は自宅軟禁され、政治活動を制約された。

 新軍部は「社会悪一掃」と称して、暴力団、娼婦、民主化運動関係者、労働運動関係者など6万人を連行し、うち4万人を三清(サムチョン)教育隊という軍隊に入れ、過酷な訓練や虐待をした。今でもこの時の後遺症で悩む人が少なくない。民主化後の国政監査で、国防部は、この三清教育隊で54人の死者を出したことを確認した。このように政治的反対派を暴力団と一緒にして「浄化」する手法は、1961年の五・一六クーデター直後でも行われたが、今回はこれよりも大規模かつ過酷に行われた。

 反政府デモの温床になる大学に対して、課外(クワウエ、学習塾)の禁止、入試の廃止、卒業定員制を断行した。卒業定員制とは、卒業に関門を設けて、学生を大学に封じ込めるものだった。

148 労働運動に対しては、「第三者介入禁止条項」「労使協議会法」などを設け、都市産業宣教会などの労働運動団体が、企業別の単位労組に関わることを禁じた。さらに、ブラックリストの作成、身元照会の徹底、労組設立の妨害・遅延、労組の解散、御用化などを断行し、朴正熙時代の労使協調的粉飾もなくなった。

 

侍女となった言論

 

 市民社会がある程度成熟しつつあった時期に政権についた全斗煥政権は、言論を掌握することが重要だと考えた。1980年5月のソウルの春以前に、新軍部は、保安司令部に言論対策班を設置し1980.3、「全斗煥大統領づくり」のための言論懐柔工作を展開した。(K(King)工作)『朝鮮日報』は率先してK工作のお先棒を担ぎ、5月25日、光州の抵抗勢力を「分別を失った群衆」とし、道庁が戒厳軍によって制圧された翌日(5月28日)には「慎重に慎重を重ねた軍の労苦を我々は忘れない」とした。『朝鮮日報』は新軍部と癒着して、売り上げを1980年の161億ウオンから、1988年の914億ウオンに伸ばした。(玄武岩『韓国のデジタル・デモクラシー』)

149 政権掌握後の言論統制は、言論界の体質改造とも言うべきものであった。『東亜日報』『朝鮮日報』『韓国日報』など韓国の主要言論は、1974年10月の自由言論実践宣言などにみられるように、大量広告解約などの言論統制に屈せず、維新体制に抵抗した経験があったが、新軍部は、維新政権期の報道内容の検閲・統制の次元を越えて、報道機関の体質改造に踏み込んだ。反政府的言論人11人を解職させ、『創作と批評』など172の定期刊行物を廃刊措置にした。また全国紙の主要日刊紙への統合、地方新聞の一道一紙への統合、放送メディアの、KBS(韓国放送)、MBC(文化放送)ネットワークへの二元化などの統廃合を断行した。定期刊行物の取り消し条項を含む言論基本法が制定され、政府が合法的に新聞を廃刊させることができるようになった。言論は体制批判を許されないばかりか「公益性」の名のもとに新政府の広報役を担わされた。テレビは毎朝9時の時報とともに「今日は大統領閣下におかれましては…」に始まる大統領のその日の日課を知らせた。人々はこれを「テン全(チョン)ニュース」(テンは時報の擬声語)と呼んだ。

 

新冷戦から新共存へ

 

150 カーターの「人権外交」は、光州事件に沈黙した。イラン革命1979.2、ニカラグア革命1979.7など同盟国の政変は、人権外交と安全保障上の利害とのディレンマをもたらした。また1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに進駐した。韓国で新軍部が権力を奪取すると、米議会はこれを批判し、韓国への借款4億5000万ドルを保留しようとしたが、カーターは「安保が人権に優先する」とした。

 1981年、レーガン政権が誕生し、韓国新軍部政権は、「新冷戦」の流れに乗ることができ、駐韓米軍の撤退は白紙になった。1982年に登場した中曽根政権は、韓米日の安保協力関係構築に意欲を燃やし、韓国に40億ドルの借款供与をした。1983年、(ソ連による)大韓航空機撃墜事件1983.9.1(大韓航空機爆破事件1987.11.29とは違う)や、ラングーン事件1983.10.9*があり、緊張が増した。

*ラングーンのアウンサン廟で発生した爆弾テロ事件。北朝鮮工作員により、ビルマを訪問中であった全斗煥大統領一行の暗殺を狙った事件。司令部は、工作員が多数配置されていた、クアラルンプールの在マレーシア北朝鮮大使館とされる。オリンピック参加を要請するための訪問だったが、北朝鮮の外交的孤立をも狙っていた。ソ連のブレジネフは、北朝鮮に暗殺中止をさせたが、ブレジネフが死去し、後任のユーリ・アンドロポフが、有事の支援を約束し、金日成が、暗殺の実行と、南進する計画を立案した。(ウイキペディア)(もっともらしい話だ。)

150 経済政策では、レーガン政権やIMFが求める新自由主義的構造調整が断行された。緊縮財政、賃金凍結、為替レート切り下げなどマクロ経済の安定化施策や、重化学工業部門の統廃合、金融改革、貿易・投資部門の自由化などをすすめた。このため韓国経済は極めて高い成長率を示した。1981年、経済のどん底から脱して、6%の経済成長を実現し、1980年代半ばには、三低現象(低油価、低金利、低レート)という国際経済の幸運に恵まれ、1986年、12.9%の経済成長率を達成し、国際収支の黒字は、46億ドルに達した。

 1978年にOECDレポートで、NICsとして、韓国と共に位置づけられたメキシコ、ブラジルは債務で躓いていたが、韓国は、台湾、香港、シンガポールとならんで、東アジアNIEs(新興工業経済地域)とされた。

 しかし、四半世紀以上の軍事政権下での社会変化は、軍事政権を掘り崩した。1980年代半ば、ソ連のゴルバチョフ政権が、東西関係を「新共存」に変えると、韓国の新軍部政権はその存在理由を問われた。

 

社会運動の転換

 

152 光州事件以後、民主化運動が停滞する中の1982年3月、文富軾(ムンブシク)らが、釜山米文化センターを放火し、1982年4月、江原大学校学生が星条旗を燃やしてデモをするなど学生運動だけが捨て身の戦いをした。

 光州の悲劇は、体験者の口コミや運動歌謡「ニムの行進曲」などを通じて外部に伝えられた。体験談や目撃談を伝え聞いて「憤怒して涙を流し、社会の現実に無知であった自身を恥じ、また罪責感にさいなまれ、学生運動に参画していったものも数知れない」(真鍋祐子『光州事件で読む現代韓国』)1985年5月、全国29大学1万人の学生による「光州事態の真相究明および責任者処断」を求めるデモがあった。このころまでには光州での出来事は、学生運動や運動圏*(ウンドングオン)の中で共有されていた。光州事件を通じて、一般的には湖南人への偏見や恐怖心が深まったと言われるが、運動圏では、五・一八(オーイルパル)(光州事件)を、三・一運動や四・一九革命の文脈に位置づけ、光州は民族民衆運動の聖地とされた。

*運動圏とは、光州事件以後に台頭するマルクス主義や北朝鮮の主体(チュチェ)思想などを指導理念とする急進的社会運動の潮流をさす。

153 光州事件は韓国の社会運動に二つの点で教訓を与え、それが1980年代という民主化時代の底流を形作った。一つは、「非和解性」の教訓である。新軍部による情け容赦ない鎮圧は、両者が和解することは難しいことを教えた。また「ソウル駅回軍」の判断が光州の学生市民を孤立させたという反省は、この非和解性の感覚をいっそう強くした。この非和解性は、階級対立を非和解的であるとするマルクス主義の観点にも通じた。

 二つ目は、空挺部隊の光州への投入を容認し、その後も新軍部政権を支えたアメリカに対する認識である。これは民族的教訓といえる。運動圏では反米自主化のナショナリズムが台頭し、それに基づいて北朝鮮の主体思想が受容された。この認識は、1983年末に始まる新軍部政権側の宥和局面で、公開討論となって、社会運動全般に広がっていった。この論争は学界も巻き込み、1980年代は論争の時代となった。

 

蘇る社会運動

 

154 1983年末から1984年初めにかけて、新軍部政権は「和合路線」と称して、反政府勢力に対する宥和措置を発表した。(ラングーン事件1983.10.9などが影響しているのか。)光州事件以後の除籍学生の復学、学園の自律化、政治活動規制の解禁などである。これは、アジア大会1986やソウル五輪1988開催地としての正統性の樹立、有力政治家や宗教人など批判勢力の取り込みと体制内化、急進学生の孤立化などを目論んでいた。

 この「和合路線」は、民主化運動を一気に活気づけた。学生運動は、学園自律化推進委員会総学生会などを復活させ、1984年11月、全国の55大学で構成される全国学生総連盟を結成した。1985年4月、この全国学生総連盟が、62の大学を網羅する全国学生総連合(全学連)に発展した。この過程で急進的な階級路線を主張する三民闘(民族統一・民主争取・民族解放闘争委員会)が台頭し、彼らは、1985年5月、ソウルの米文化センターを占拠・籠城した。

155 社会運動の階級論的観点は、1980年代半ばの労働運動の進展に後押しされていた。東一紡績、元豊毛紡、清渓被服など、1970年代に活躍した企業労組が復活した。1985年4月大宇自動車でストライキ闘争があり、これは重工業部門での労働運動の台頭を促した。1985年6月大宇アパレルを中心に、ソウル九老工団労働者の同盟ストライキが行われた。この企業の枠を超えた連帯闘争の成果の上に、1985年8月、解雇されていた労働運動家などを中心に、ソ労連(ソウル労働運動連合)が結成された。

 教育、文化、言論界でも、1983年4月、後に民芸総(ミネチョン、韓国民族芸術人総連合1988結成)に発展する、民衆文化運動協議会が、6月、新軍部の言論統廃合で犠牲となった記者たちを中心とする解雇言論人協議会が、12月、70年代に維新体制反対闘争を行い、1980年5月以来活動を停止していた自由実践文人協会などが再出発した。光州に設立された全南民主青年運動協議会や、仁川、釜山、大邱、全羅北道、忠清南道など地方レベルの民主化運動も再建されようとしていた。

 分野別・階層別の諸団体・運動を統合する全国組織の形成も行われ、1984年6月民衆民主運動協議会が、10月、個人参加の民主化統一国民会議が結成され、1985年5月、後者(民主化統一国民会議)の主導で両者が統合し、民統連(ミントンニョン、民主統一民衆運動連合)が結成された。この民統連は、1989年1月全民連全国民族民主運動連合)に統合されたが、それまでは、民主化運動の全国センターとして機能した。六月民主抗争も、組織的にはこの民統連と、新民党系の民推協(民主化推進協議会)と、宗教運動団体とが連合して1987年5月に結成された、国本(民主憲法争取国民運動本部)によって主導された。

 

主思派(チュサパ)とPD

 

156 民青連(ミンチョンニョン、民主化運動青年連合)は、1983年9月、「闘争性の回復」を旗印に、金槿泰(キムグンテ)を初代議長として結成されたが、上記の社会運動の中心となって、路線論争をリードした。この民青連には様々な世代と潮流が入り混じっていたが、主流としてなっていくのが、NDR(民族民主主義革命論)であった。NDRは、マルクス主義に基づき、久しくマルクス主義がタブー視されていた反共社会では新鮮に受け止められた。NDRは、学界での社会構成体論争*や学生運動に影響を与えたが、運動圏内部の論争の過程で非マルクス主義者が追い出されていった。

*北海学園大学の水野邦彦「韓国社会構成体論争と韓国社会科学」によれば、マルクス主義理論を土台とした、韓国資本主義論のようだ。

157 1986年初めのソウル大学総学生会選挙の過程で、NDRに飽き足らないで、反帝闘争・反核反戦闘争を訴える学生(NL派)が台頭した。反帝闘争、つまり民族的課題を一義的とするNL論(NLPDR、民族解放民衆民主主義革命論)である。NL派の公開組織である自民闘(反米自主化反ファッショ民主化闘争委員会)は1986年4月に結成されたが、その機関誌『解放宣言』などを通して、NL派の考え方が急速に広まり、学生運動と運動圏で多数派を占めるようになった。(文京洙「韓国における社会変革論争――マルクス主義の復権から再検討へ」)彼らは韓国社会の半封建制(半資本主義性)を強調し、北朝鮮の民主基地論に立脚し、北朝鮮の「南朝鮮革命」論を受容し、北朝鮮の指導理念である主体思想を基礎とすると主張した。(主思派、チュサパ)

 主思派=NL派に対する非主流派は、学界で優位を占めつつあった「新植民地国家独占資本主義論」を基礎とする階級的原理主義者であり、直接選挙制改憲よりも「制憲議会の招集」を求め、CAConstitutional Assembly)派と呼ばれた。

158 両者とも過激な闘争方式を持ち、大衆の共感を得られなかった。NL派=主流派は、1986年10月、全国愛国学生闘争連合結成集会が開かれた建国大学校で籠城し、1500人が連行され、壊滅的打撃を受けた。NL派はこれを極左的偏向だったと自己批判し、六月抗争では、直選制改憲を大衆との接点とし、改憲民主化闘争に変更した。

 CA派は後にPD派(民衆民主主義派)に合流した。1980年代後半の論争はNLPD論争と呼ばれる。学生・青年運動ではNL派が大勢で、学界ではPD派と結びついた「新植民地国家独占資本主義論」が優勢だった。両者の葛藤は、三八六世代*が各分野で中堅として活躍している今日まで続いている。*30代、80年代大学入学、60年代生まれの世代。

 NL派もPD派も、その理論構成をロシア革命や中国革命を基にする農村型理論であり、都市型の段階に入った1980年代の韓国で、その農村型理論が生まれたことは、冷戦分断国家韓国のアイロニーである。

 

六月民主抗争

 

 1980年代半ばの韓国では、大統領直選制改憲を求める民主勢力と、現状維持を図ろうとする新軍部政権とが攻防した。1987年6月の民衆デモが、この改憲政局を実力で突破しようとした軍事政権をねじ伏せた。

 4月13日、全斗煥は現行憲法維持を表明した(四・一三護憲措置)が、その直後から学生が動いた。五・一八光州事件追悼会に全国の62の大学が参加し、27日国本(クッポン)が成立し、野党と学生・運動圏の足並みが揃った。6月13日、ソウル大生拷問致死*への抗議と改憲を求める国民大会が抗争の始まりだった。この日から26日の「民主憲法争取国民平和大行進」までの間、野党政治家、在野人士、教育、言論、宗教の各階関係者、タクシードライバー、バス運転手、サラリーマン、OL、主婦、商店主、露天商、子どもまでが街頭に進出し新軍部を包囲した。

*1987年1月、朴鐘哲(パクチョンチョル)を警察が水責めや電気拷問で死なせた事件。他の手配中のソウル大生の居所を警察が拷問して追及していたときのことである。警察は当初ショック死と偽ったが、検死医などの証言で暴露され、国民の怒りを買った。

 6月29日、新軍部政権は、直接制改憲、拘束者の釈放、言論の自由の保障、地方自治制の実施、大学の自律化、反体制運動家の赦免・復権を盛り込んだ「六・二九民主化宣言」を発表した。翌年ソウル五輪を控え、軍の投入による流血事態に至らなかった。

 アメリカ議会も全斗煥を非難し、憲法改正について政府と野党が対話することを要請する決議をしていたし、レーガン政権も、全斗煥に対し、街頭デモに過剰反応(overreact)しないように圧力をかけた。(『ニューヨーク・タイムズ』6.18)光州事件以来、1982年3月の釜山米文化センターをはじめ、光州、大邱、ソウルなどの米文化センターが放火されたり、爆弾を仕掛けられたりしていた。釜山では1986年にも、学生による占拠事件が起っている。

 四半世紀に及ぶ軍部の強権支配が退けられた。(1987-25=1962)六月抗争を組織的にリードしたのは、国本民主憲法争取国民運動本部だったが、戦闘警察=機動隊と真っ向から対峙し、デモ闘争を主導したのは、学生たち、とりわけNL派の青年・学生たちであった。デモ隊と警察との衝突は激烈で、延世大学の李韓烈(イハンニョル)は催涙弾の直撃を受けて重傷を負い、7月5日に死亡した。

 六月抗争は韓国の現代史上最大規模の反独裁民主化運動であり、都市型社会の上に築かれた市民社会の異議申し立てであった。その中心はソウルだったが、六月抗争の出発点となった6月10日の国民大会や抗議デモは、22の都市で、24万人が参加する全国規模の運動であった。

162 この日、城南(京畿道)、大田(忠清南道)、木浦(全羅南道)、群山(全羅北道)など韓国の西部地域で大規模な集会があった。6月15日には全国で59の大学が参加するデモがあり、大田、釜山、大邱でのデモは大規模だった。6月18日は「催涙弾追放の日」とされ、14の都市でデモがあり、釜山では10万人規模のデモが行われ、釜山駅付近の幹線道路が4キロ、6時間にわたり学生に占拠された。19日から20日には、デモの中心は光州や順天など全羅南道の地方都市に移った。20日夜の光州のデモには、20万人が参加し、1980年5月の光州が再現された。6月26日の国民平和大行進は六月抗争のピークであるが、34の都市と4つの郡で100万人以上が参加した。この運動を支えたのは1980年の光州事件以後に積み重ねられた地域運動の経験だった。

 鄭根植(チョングンシク)によれば、そういう地域運動の「形成過程には光州抗争の経験から得た“地方の発見”、“地方による中央の包囲戦略”が内在していた」という。六月抗争は、ソウルを運動の中核としながらも、「同時に全国の各地域、とりわけ、1979年の釜山・馬山抗争の精神を継承しようとする釜山中心の民主化運動の流れと、1980年5月の光州民衆抗争以後、周期的に再生してきた5月運動の流れとが合流したもの」であったという。(鄭根植「民主化、地域主義と地方自治」)

163 しかし六月抗争は、労働者の組織的な参加を欠いていた。新軍部政権の下での厳しい労働統制が、労働者の組織運動を困難にしていた。しかし7月から8月にかけて、この労働者が争議やデモを全国的に行った。7月5日の現代エンジン労組(蔚山)の結成を初めとして、7、8月の二ヶ月間で全国に3311件もの労働紛争が起り、120万人の労働者が参加した。(ハーゲン・クー『韓国の労働者――階級形成における文化と政治』)この「七・八月労働者大闘争」は、争議の規模の大きさ、新規労組の大量結成(2300)、重化学工業部門の男子労働者が紛争の主役となった点で画期的だった。

 

先進国型経済社会への変貌

 

 1987年6月頃の韓国は、「檀君以来最大の好況」と言われる「三低(ウオン安、原油安、国債金利安)景気」に恵まれていた。この三低景気は1986年から始まっていて、1988年のソウル五輪の年まで続き、自動車、家電製品など耐久消費財の国内での大量消費が経済成長を牽引するような先進国型の経済パターンとなった。

164 1960年代後半から1970年代にかけての「漢江の奇跡」と言われた高度経済成長の牽引役は、米国などの外国市場だった。大量の外国借款に恵まれ、これを国の政策金融を通して手にした財閥企業は、低賃金労働を利用し、海外に廉価な商品を売りさばいて、経済成長を果たした。機械や原料の形で導入される外国からの大量の原資(借款)と、農村部から都市にやってくる良質で豊富な労働力の存在が重要だった。軍部中心の強権体制は、外国借款を財閥に優先的に配分し、労働者の基本権を抑え、過酷な低賃金と長時間労働を強いるなど、輸出指向経済の上部構造として機能した。

 このような輸出経済のための原資は、日韓条約1965による日本からの経済援助や借款、ベトナム戦争を戦うアメリカや西側諸国からの戦略援助によって賄った。1970年代、オイルショック以後に急膨張したユーロダラーが韓国に注がれ、これを利用した重化学工業化がすすんだ。(金俊行『グローバル資本主義と韓国経済』)製鉄、造船、石油化学コンビナート、国民車生産など、重化学産業が1970年代に建設された。

165 この“奇跡”は1970年代末になると、重化学工業での過重・重複投資や第二次オイルショックによって頓挫した。政策金融や低賃金労働による輸出ドライブ政策には限界があったと見るべきだ。朴正煕の強権政治を引き継いだ新軍部も、輸出ドライブ政策を強行した。

 1980年代初めの構造調整期の韓国は、400億ドルの累積債務を、安全保障がらみで日本から供与された40億ドルの借款で凌いでいたが(中曽根1982, 150)、この苦境を救ったのが三低景気だった。1985年のプラザ合意による円高・ドル安(=ウオン安)、これと同時に進行した国債金利の下落、原油価格の急落が、韓国経済を軌道に乗せた。半導体、自動車、家電、鉄鋼、造船など重化学工業製品中心の輸出が好調となり、1986年から1989年まで、年間50億ドルから145億ドルの経常収支の黒字を実現し、累積債務から一挙に外貨保有国の仲間入りができた。

166 1989年、輸出の増加が頭打ちとなったが、内需が好調で、経済成長を下支えした。これは韓国経済にとってこれまでに見られなかった現象であった。

 賃金水準も1981年を100として、1990年に294と約3倍になり、同賃金指数で、1985年の150から、1990年の294へ、この6年間で賃金が倍になった。

 勤労者の耐久消費財需要に加えて、盧泰愚政権の住宅200万戸計画による建築ブームが、国内需要を支えた。金融・サービス部門で働く中堅層の消費拡大が続き、この大量消費は、製造業部門の労働者にも及んだ。三低景気の急激な経済拡大の時期を経て、「マンション、家電製品、自動車をワンセットとする外形上の西洋的生活様式が、韓国の中間層家庭の標準的な消費スタイルとして確立した。」(愈チョルギュ「1987年以降の経済体制と経済危機」)

167 このころ都市人口が70%を超え、モータリゼーション、タルトンネ*の撤去、高層アパート群の建設が進んだ。家電製品の普及、住宅改良、道路舗装などにより、農村部にも都市的な生活スタイルが行き渡った。

タルトンネ 山の斜面や河川敷で不許可住宅が軒を連ねる貧民地区124

 1980年代の急速な構造変化は、政府と、経済発展を牽引する財閥大資本との関係を変えた。1980年代のIMF構造調整プログラムによって、貿易・投資の自由化、公共部門の民営化が進み、証券市場、社債などの直接金融や海外CB(転換社債)*、第二金融圏(総合金融*、証券会社、投資信託、保険会社)など、企業独自の資金調達が多様化・拡大した。韓国の上位財閥は、「これまでの政府・銀行による統制から解き放たれて、設備投資と海外投資を拡大できる条件を手に入れた。」(高橋秀『韓国経済システム』つまり大資本が、国の産業・金融政策から自立できた。こうして、国家・市場・市民社会が、それぞれ独自の原理で存立し牽制しあう近代社会のダイナミズムが、韓国社会を動かすようになった。

CB(転換社債) 「新株予約権」により、社債を株式に転換することができるような社債のことをCBというようだ。

*総合金融 規制緩和の流れの中で生まれた、金融機関の巨大化=総合化を指すようだ。例えば、銀行が投資信託を販売できるようになるなど。

 

第六共和国憲法

 

168 六月抗争の結集軸は、市民社会の自立を担保する制度的な民主主義(直選制改憲)の実現であり、盧泰愚の六・二九民主化宣言160はこれを大筋で受け入れた。1987年7月、宣言どおりに、金大中をはじめ2335人が赦免・復権し、357人が釈放され、270人が指名手配を解除された。10月、与野党合意による新憲法が採択され、10月27日、国民投票を通じて第六共和国憲法が確定した。この憲法は今日に至るまで韓国憲政史上最長記録を更新している。

 新憲法は、維新体制や新軍部政権下で辛酸を嘗めてきた野党勢力の体験や意向をかなりの程度取り入れた。つまり、単に直接選挙による大統領や議員の民主的な選出に留まらず、適法手続の保障、逮捕理由の告示義務など、情報組織や検察・警察などの行政・司法権の乱用を防ぎ、言論や結社の自由をより実質的なものに変えた。さらに新たに憲法裁判所を設け、軍事政権のもとでつくられた、人権や人身の自由を侵す各種の法令が、違憲審査の対象になった。北朝鮮の体制や指導思想を「鼓舞・賛揚・同調」することを禁じた国家保安法は残されたが、結社・言論の自由は拡大した。

 国家の言論支配の根拠となっていた言論基本法が1987年11月に廃止され、放送は放送法、新聞は定期刊行物登録に関する法律に従うことになった。放送は依然として国家が許認可権を持ち人事やプログラムに介入できる状況が続いたが、新聞の自由化は前進し、基本的には自律言論による自由競争の時代になった。

169 公共的なことをめぐって自由に議論し、妥当性や同意を競い合うことができるようになりそうだった。しかし、結集軸を失った民主化運動の退潮や分裂は避けられず、1987年の、七・八月労働者大闘争は、労働者だけの闘争に終わり、六月抗争の一翼をなしたネクタイ部隊=新中間層は、戦線を離れていた。また民主化宣言は地域的情緒を顕在化し、釜山と光州との関係に亀裂が生まれた。

 

2 三党合同と五月闘争

 

地域主義の台頭

 

 1987年暮の大統領選挙では、金大中・金泳三候補の一本化が出来なかった。金大中は保守的民主主義であり、金泳三は進歩的民主主義といわれた。結局、新軍部を引き継ぐ盧泰愚が37%の得票を得て大統領になった。盧泰愚は大邱で71%、慶北で66%を獲得し、金泳三は、釜山で56%、慶南で51%を獲得し、平民党の金大中は、光州で94%、全北で90%、全南で83%を獲得したが、首都圏(ソウル・仁川・京畿道)と済州を除くほとんどの地域で10%未満の得票率しか得られず、湖南候補に対する他地域の拒否反応が目立った。

170 差別と疎外にさいなまれてきた湖南住民は、この地域と運命を共にするかのように軍事政権に迫害されてきた金大中との一体感をこの選挙で示した。盧泰愚陣営は湖南住民の恨(ハン)につけこみ、湖南・嶺南の対立感情を煽り、金大中の釜山での遊説では、300人の暴徒が金大中のスタッフを襲い、平民党員15人が負傷した。一方、金泳三は光州での演説で投石を受けたが、少なくとも光州での投石は、保安司令部の工作によるものであるとの関係者の証言が得られている。(康俊晩『韓国現代史散策』)NL派を中心とする運動圏は、地域主義を超えて金大中に対して批判的支持をしたが、金大中の得票率は27%で、金泳三の28%にも及ばなかった。

 新軍部の地域分割戦略は、湖南住民の光州事件などでの迫害や周縁化など、歴史に根ざす共同体的一体感を、利益誘導的、身内優先的、主従関係的な地域エゴの問題にすり替えた。1988年4月の第13代国会議員選挙は、地域主義的分割を明らかにした。慶尚北道を基盤とする盧泰愚・民主正義党忠清道を足場とする金鐘泌・新民主共和党慶尚南道を基盤とする金泳三・統一民主党、湖南の金大中・平和民主党の四つの勢力の地域主義的割拠が明白となった。嶺南・湖南の対立に煽られるように、忠清道の住民までが、地域的投票行動をした。

 新軍部を引き継ぐ盧泰愚も民主化に見合った政治スタイルをとり、1988年1月、光州事件を「民主化のための努力」であったと評価し、“内乱陰謀”とか“暴徒”という従来の評価を変えた。また北方外交(共産圏外交)や南北共存の方向を打ち出し、冷戦後の国際関係に対応しようとし、1990年~92年にかけて、中ソ両国との国交正常化や南北国連同時加盟を果たし、南北基本合意書*や朝鮮半島非核共同宣言を採択した。

*正式には「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」といい、互いの体制の尊重、内政不干渉、交流・協力の推進を明示した。七・四共同声明1972, 115は統一の原則にかかわるものであったが、これは南北交流・協力の具体的指針を示した。

 

社会運動の噴出

 

173 NL派は大統領選挙1987.12での挫折で一時沈滞していたが、総選挙1988.4後に息を吹き返し、南北交流や統一を提起し、韓国社会のタブーに挑戦した。1989年3月文益煥(ムニッカン116, 138)牧師が北朝鮮を訪問し、6月、林秀卿(イムスギョン)が平壌世界青年学生祝典に参加し、統一運動が高揚し、主思派は全盛期を迎えた。これは近代社会への過渡期に特有の“巨大談論”(大きな物語)であり、社会主義体制が崩壊寸前であったときにこれが起ったことは、冷戦分断国家韓国の特徴と言える。

 変革的ナショナリズム(どういうことか)は文化・芸術運動で顕著に現れ、1988年11月、民芸総(ミネチョン、韓国民族芸術人総連合)が結成された。これは、1980年代半ばの民衆文化運動協議会民族美術協議会の経験に基づき、文学、美術、演劇、映画、音楽、舞踊、建築、写真などの分野の839人の発起人で出発した。

174 六月抗争を契機に教育の民主化も始まった。教員労組結成の準備として、全国教師協議会が組織されたが、この分野も、統一問題同様、分断体制に関わる問題であり、これに政権が厳しく対応した。1989年5月、「民族・民主・人間化教育実践のための真の教育(チャムキョユク)運動」を掲げ、全教組(全国教職員労働組合)が全国10地域、1万5000人の発起人で結成された。これに対して文教部(文部省か)は、全教組の言う「真の教育」とは「左傾意識教育」であるとし、中心メンバーと目す54人を罷免し、9月、脱退勧告に応じなかった1512人の教員を罷免し、42人の教員を拘束した。全教組が合法化されるのは結成から10年後の1999年のことだった。(民主化したと言えど恐ろしいことだ。)

 1990年1月、ソウル、大邱、釜山など14の地域別労組協議会と、11の業種別労組協議会が統一し、全労協(チョンノヒョプ、全国労働組合協議会)が結成された。地域別労組協議会は製造業部門の基幹産業を中心とし、業種別労組協議会は主として、言論、大学、病院、金融などのホワイトカラーや専門技術職からなっていた。全労協は民主的労組のセンターを標榜し、現在の民主労総全国民主労働組合総連合、1995年結成)の母体となった。

 1989年1月、以上の民主化運動の全国センターとして、全民連(チョンミルリョン、全国民族民主運動連合)が結成された。

175 この全民連は、文益煥牧師116, 138, 173, 240の平壌訪問1989.3や、合法政党結成(民主化運動の政治勢力化)問題(新軍部政権を引き継ぐ盧泰愚政権に敵視された運動圏が、国政に参加するかどうかということか)など、路線対立で瓦解し、1991年全国連合民主主義民族統一全国連合)に改編された。反独裁という結集軸を失い、こうしたマンモス組織の存在は難しくなっていた。

 民主化にもかかわらず、朝・中・東(『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』)など保守言論は、メディア世界を牛耳っていた。その中で『ハンギョレ新聞』(後に『ハンギョレ』と改称)が1988年5月、軍事政権期に解職された言論人を中心として「権力と資本からの自由」を掲げ、「国民株主」方式で創設された。(国民株主数2万7000人)また、1988年、月刊誌『マル』が創刊され、分断体制に挑戦した。

 

三党合同――少数与党から巨大与党へ

 

 六月抗争後の二つの選挙(大統領選挙と第13代国会議員選挙170)を通じて表面化・構造化した地域主義は、金大中や金泳三などをその支持地域に封じ込めたばかりか、盧泰愚政権の地域的基盤をも大邱・慶尚北道TKに封じ込めた。盧泰愚は、金泳三の嶺南、金大中の湖南、金鐘泌の忠清に包囲され、国会運営が難しくなった。多数派の野党は、国会で与党攻勢を強め、1988年6月、「五共(第五共和国)政治権力型不正調査特委構成決議案」を採択し、この決議に基づき、憲政史上初めて国政調査権を発動し、11月、「五共不正問題」(新軍部政権の政治資金や政経癒着問題)、「光州民主化運動」、「言論問題」などの国会聴聞会がそれぞれ五回ずつ開かれ、政財界の有力者が多数召喚された。証言の様子は韓国のメディア史上初めてテレビで生中継され、新軍部政権期の不正や人権弾圧が次々に暴かれて国中が騒然となった。このとき国会が国民に開かれた審議の場として初めて機能したと言える。学生や在野勢力は、全斗煥の証人喚問逮捕求めたが(実現しなかったのか)、全斗煥の弟(全敬煥)が、セマウル運動に関連する疑獄事件で逮捕されるに留まった。11月13日、全斗煥は国民に謝罪し、江原道の百潭寺(ペクタムサ)で隠遁生活に入った

 一連の聴聞会で追いつめられた盧泰愚政権は、1989年3月、文牧師の訪北などを口実に、公安合同捜査本部を設置し、在野の民主勢力への反撃を開始した。民主労組づくりを「思想的に不純」だと非難し、使用者側のいう「無労働無賃金」「労組専任者賃金不支給」などの主張に同調し、攻勢に乗り出した。この「公安政局」は1991年まで続いたが、この間、政府は戒厳状態さながらの強硬措置で運動圏の封じ込めを計った。

177 政権与党の民正党は、1990年1月、野党の金泳三・民主党金鐘泌・新民主共和党との保守連合による民自党(民主自由党)を立ち上げ、少数与党は一転して224の定数のうち160議席を占める巨大与党になった。これは「軍部執権勢力と穏健野党との大妥協」と言われた。(崔章集『現代韓国の政治変動』)この三党合同は、これまでの「TK(大邱+慶尚北道)対反TK連合」から「湖南対反湖南連合」への転換を意味した。民自党の結成は、六月抗争以前の権威主義時代への逆行として受け止められ、政府と運動圏との関係が緊迫した。

 

五月闘争の敗北

 

 1991年4月26日、明知大生・姜慶大(カンギョンデ)が、デモの最中に白骨団の鉄パイプで殴打され死亡した。白骨団とは私服警官である。翌日から、学生を中心に糾弾大会が連日開かれ、運動圏は「公安統治終息と民主政府樹立のための汎国民対策会議」(以下汎国民会議)を組織した。これが五月闘争である。

178 1991年5月6日、韓進重工業労組委員長・朴チャンスが獄中で不審死を遂げ、労働運動もこの五月闘争に合流した。5月9日、汎国民会議は、第一次の「民自党解体と公安統治終息のための汎国民大会」を開いた。全国42の市・郡で、20万人が参加した。同日5月9日、98の労組、4万人が、「故チャンス獄中殺人真相究明、及び労働運動弾圧粉砕」を掲げ、ゼネストに突入した。18日、148の労組9万人が時限ストを断行した。(『九一年五月闘争と韓国の民主主義』)

 五月闘争では抗議の焼身自殺が相次いだ。5月14日、姜慶大の葬儀を兼ね第二次国民大会が開かれ、全国15の都市で、15万人が参加したが、この時3人が焼身自殺した。この年で12人が自殺した。これに対して保守言論は、背後勢力による「死の政治利用」、「そそのかし」だと非難した。また金芝河(キムジハ)は「死のショーを止めよ」という論評を『朝鮮日報』1991.5.5に発表し、運動圏を非難した。(保守言論に負けたのか)

 5月25日、「公安統治・民生破綻・盧泰愚政権退陣第三次国民大会」が開かれ、成均館大生の金貴井(キムギジョン)が催涙弾を逃れる時に圧死した。6月3日、鄭元植(チョンウオンシク)総理代行が韓国外国語大で、学生たちに小麦粉や卵のつぶてを浴びせられた。このことに関して保守言論は「人倫の破綻」とキャンペーンを張り、そのため、運動が急速に冷却した。(韓国は道徳主義的要素が支配しているのか)この間、明洞聖堂で籠城闘争を続けていた汎国民会議の指導部は、6月29日、籠城を解かざるを得なくなった。

179 運動圏が五月闘争を主導した。運動圏は、87年体制を、保守政党の妥協から生まれた「上からの保守的民主化」とし、五月闘争は公安当局や三党合党への反撃を越えて、「下からの急進的民主化」を求めた。つまり、六月抗争は未完であり、その完遂を求めた。しかし、五月闘争には中産層など一般市民が参加せず、野党も当初は汎国民会議に参加していたが、運動圏が盧泰愚政権打倒や民主政権樹立を掲げると、離れていった。(不可解)金大中も運動圏と一線を画し、次のように述べた。

「国民大多数が不道徳で無能な盧政権の退陣を求めているが、国民はその一方で選挙による政権交代を望んでいる。従って、在野・学生による盧政権退陣の主張には同意できないことを明確に表現する。(『ハンギョレ新聞』1991.5.7

 五月闘争を主導したのは学生運動や労働運動、それに在野の運動圏の統一戦線組織の三者だった。六月抗争は、労働者の組織的な参加を欠く運動だったが、五月闘争は、労働者・農民など基層民衆の運動であり、これは運動圏がかねてから標榜していたことだった。しかし、労働者の参加は、「労組幹部を中心とした先進層」に限られていた。5月18日のゼネストも、参加したのは全国で16の事業所だけだった。運動圏の統一戦線組*は、1989年1月全民連155として統一運動を主導したが、政府の攻勢と運動圏の政治政党化をめぐる内部亀裂*で弱体化していた。(運動圏が国政に参加するために合法政党をつくるべきかどうかということか)

180 焼身自殺は、運動圏特に学生運動からの一般の人々の離反を引き起こした。全大協(チョンデヒョプ、全国大学生協議会)に結集した学生運動組織は、戦闘警察との攻防を「聖戦」と呼び、軍隊のような内部規律と決死隊の編成など、一般市民や一般学生の間に拒絶感を呼び起こし、そのため学生運動が衰退した。

 五月闘争は韓国の現代史の中で大して評価されていないが、体験者は今でも辛い思いを抱いている。

 

3 九十年代の韓国――「文民政府」から「国民の政府」へ

 

市民運動の時代

 

 「1991年の5月闘争以後、改良主義的運動が台頭し、市民運動が活性化した」と徐仲錫は述べている。(『韓国現代史60年』)運動圏は民衆権力の樹立を目指し実力闘争をも辞さない「決断の運動」を提起し、市民運動を、体制の枠内にとどまる「改良主義」だとか「修正主義」だと非難していた。しかし1990年代半ば以降の韓国では、市民運動が社会運動の主流を占めるようになり始めた。韓国の市民運動は、YMCAなど宗教界の社会改良の試みを含めれば、長い歴史を持つが、民主化以前の民間団体は政府の御用組織か非政治的な運動に限られていた。

 1987年の民主化は、労働、女性、都市貧民、環境など様々な課題を掲げる社会運動を噴出させた。全体としての運動圏の中の部門運動から自己を峻別し、市民運動として明確に打ち出したのが、経実連経済正義実践市民連合、1989年7月結成)であった。公正な分配と腐敗の追放を掲げ、生活世界のあらゆる問題に介入し、結成1年で、5000人の会員と6都市に地方組織を持った。

 1990年ころは貧困層を中心に住民運動が、教会の奉仕・宣教活動の枠を超えて、展開された。1991年、地方議会選挙が30年ぶりに実施され、託児所、貧民地区の再開発や不許可住宅の撤去問題、医療福祉、地域児童センター(勉強部屋、コンブパン)、オモニ学校(識字教育)、信用組合、生活協同組合、生産協同体運動など住民の自発的組織が大都市を中心に各地につくられた。ソウル外郭の貧困地域で取り組まれた日雇労働者を中心とする生産共同体運動は、スペイン・バスク地方のモンドラゴン協同組合にそのモデルを発する労働者協同組合運動の韓国でのはしりであり、後の国の福祉政策にも影響を与えた。

 ソウルで五月闘争1991が行われていた頃、済州島では、島の開発に向けた特別立法(済州道開発特別法)をめぐり、住民運動が展開された。

183 この立法は、中央政府が陸地財閥主導の開発を進めることを目指したものだが、反対運動が、島民全体を巻き込んで、1990年代半ばから1年半続いた。島民主体、環境保護、地元産業育成の論理が対置された。

 江原道では、1993年ごろから舎北(サブク)、古汗(コハン)など廃坑の町の地域再生を目指した住民運動が行われ(三・三運動)、それは1995年にピークを迎えた。政府も「廃坑地域開発促進特別法」を制定し、代替産業育成や住民主体の町づくりの支援をした。

 済州・江原はこれまで産業化から取り残されてきた地方である。1990年代は「市民運動の時代」と呼ばれたが、運動圏の市民派とも言うべき流れを吸収した進歩的市民運動がこの頃から行われるようになった。

 1994年9月に結成された参与連帯はその代表である。「国民の自発的な参与により国家権力を監視し、具体的な政策と対案を提示し、実践的な市民行動を通じて、自由と正義、人権と福祉が正しく実現する参与民主社会を建設すること」、市民参加による下からの民主化、不徹底に終わった六月抗争の完遂を目指したが、これは運動圏の課題を引き継いだものとも言える。しかし、それは資本主義的市場経済を否定したり、体制変革を目指したりするものではなかった。

184 参与連帯は、権力と市場の民主化を目指す総合的または百貨店型の市民運動である。これは欧米の新しい社会運動と比較されるが、経実連も百貨店型の運動といえる。

 運動圏は、街頭のデモや籠城に大衆を動員する活動をしたが、市民運動は、専門組織化した運動体の取り組みやアピールへの、個々市民の賛同を、会員形式で間接動員する「市場型運動組織」と言われる。(趙大燁・金喆奎『韓国市民運動の構造と動学』)参与連帯は結成当初の会員数はわずか166人だったが、落薦・落選運動を展開した2000年には、会員1万人を超えた。

 

文民改革

 

185 三党合同の「反湖南覇権連合」(曺喜昖『韓国の国家・民主主義・政治変動』)は、1992年、金泳三を候補に立て大統領選挙に望み、金大中との一騎打ちになった。三党合同は、嶺南以外の地域的結束を弱め、金大中は忠清道でも26%から30%得票し、嶺南以外での金大中に対する拒否感は薄まった。しかし結局、金泳三が金大中に200万票差で当選し、第14代大統領になった。30年ぶりの文民政権である。1992-30=1962金大中は大統領への三度目の挑戦に破れ、失意のうちに政界からの引退を表明した。

 金泳三政権は、新軍部や守旧勢力との野合政権だったが、初期の改革は目を見張るものがあった。ハナ会所属の軍人を粛清し、軍部の政治的影響力を制度的・人的に精算し、安全企画部の改革、選挙法改革、高官の資産公開、金融実名制*を断行し、民主化を進めた。

*金融実名制 金融取引の際に実名を使用することを義務づけ、政治と経済との黒い癒着を解消し、活力溢れる資本主義を目指した。

金泳三は一時期80%の支持率を得て、嶺南を越えた全国的指導者に脱皮するかに見えたが、国土の不均衡には手をつけなかった。中国との対岸貿易がブームとなり、韓国西南部(湖南)の開発が叫ばれたが、この地域への資源配分は十分でなかった。人事面でも釜山・慶南地域出身者への偏りが目立ち、1994年ごろ、財閥や官僚層など「既得権勢力」の抵抗に直面し、改革は進まなかった。1995年初め、忠清道を基盤とする金鐘泌が民自党を離れ、自民連(自由民主連合)を創設し、政局は、嶺南、湖南、忠清をそれぞれの支持基盤とする三金の競り合いとなった。

 

核疑惑と逆コース

 

 1992年、北朝鮮は核疑惑をもたれ、1993年2月、IAEA(国際原子力機関)が特別査察を求めると、これを拒み、NPT(核拡散防止条約)から脱退した。1990年、日本の自民党・社会党と北朝鮮の朝鮮労働党の三党共同宣言によって日朝交渉が始まっていたが、この日朝交渉は北朝鮮のNPT脱退で頓挫した。1994年3月、朴英洙(パクギョンス)北朝鮮代表は、南北実務者会議の席上、「戦争が起ればソウルは火の海になる」と言った。米クリントン政権は、北朝鮮攻撃を用意したが、カーター元大統領が訪朝して金日成と会談し、危機が回避された。

187 この時、金日成はカーターに南北首脳会談開催の意志を示し、金泳三もこれに応じたが、7月8日、金日成が急逝し、実現しなかった。一方、韓国内では、民主党・李富榮(イブヨン)議員が、北朝鮮の弔問外交にともない、国会で北朝鮮への弔問を示唆したことに反共保守勢力が反発し、反動攻勢を強めた。(「弔問波動」)金泳三政府は、訪北弔問を厳しく禁じた。1994年、10月米朝枠組合意*が実現し、クリントン政権と金正日政権との関係は一旦安定したが、韓国内では冷戦期の反共政策が再燃し、運動圏への思想弾圧が強まった

*米朝枠組合意とは、北朝鮮が核開発を中断する代償に、アメリカが軽水炉を提供するというもので、ジュネーブ合意とも言われる。枠組合意(Agreed Framework)という形式は、議会の批准を要する条約や協定を避けるために用いられた。

 

「世界化」の罠

 

188 1990年代半ば、金泳三政権は、グローバル化への対応で、農民や労働者と対立を深めた。韓国経済は、国内では賃金コストが上昇し、国外では東南アジアの後発工業国が追い上げる、世界市場の競争激化に直面していた。1993年末ウルグアイラウンド交渉が妥結し、韓国政府は米(コメ)を含む「例外なき関税化」(非関税化ではないのか)を受入れたが、これに対して、1993年12月7日、ソウル駅前広場に3万人が集結し、コメ市場開放反対汎国民大会が開かれた。しかしWTO(世界貿易機関)の発足を1995年に控え、コメ自由化は既成事実化し、1995年以降、農産物の大幅な市場開放が行われた。

 1993年11月、金泳三は、世界が「無限競争の時代」にあるとし、競争力の向上を最大目標とする国際化を基本戦略とすると宣言した。金泳三は「政府は企業家」「公務員はセールスマン」と言い、経済政策担当者を新自由主義的エコノミストで固めた。翌年1994年11月、産業の合理化・競争力強化のための国家戦略は、「世界化」戦略であると定式化し、改革や南北関係以上に、グローバル化に対応する競争力強化を最優先課題とみなした。文民政策は失速し、創業者支配の古い体質が問題化していた財閥企業には手をつけず、農産物の市場開放や労働者のリストラによる合理化を進めた。1993年、現代自動車の争議で労使が激突したとき、金泳三は「第三者介入禁止」条項を適用し、労組幹部を逮捕・指名手配した。「韓国病」*「生産的福祉論」*「集団的利己主義」「労働者責任論」という1980年代の日米欧の新保守主義政権のレトリックがよく用いられた。

*韓国病とは「火病」か。火病とは、よくキレる人を侮蔑的に評したもの。韓民族特有といわれる恨(ハン)の情念と怒りの激情がもたらす。

*生産的福祉論 金大中政権時代の社会福祉政策を支えた理論。サービス供給体系の多元化・市場化により、福祉サービスの生産性を向上させるという考え方である。

 

189 1996年暮、金泳三政権は、雇用主に整理解雇権臨時職労働者の雇用を許す新労働法を抜き打ち採択した。これに対して民主労総韓国労総合同のゼネストが、300万人の労働者を動員して闘われた。ILOOECDICFTU(国際自由労連)が韓国政府に代表団を派遣し、新労働法に抗議した。問題の新労働法は再度国会で審議されることになり、与野党合意の修正法案が3月に採択された。修正案には、整理解雇制の二年間の実施猶予民主労総の合法化などが盛り込まれた。しかし、「朝鮮戦争以来初の全国的規模のゼネスト」(ハーゲン・クー『韓国の労働者』)と言われるほどに、労働者の得たものは少なかった。企業倒産が増え労働市場の改革や柔軟化は不可避だという社会的合意が生まれつつあった。

190 1995年、韓国は国民所得を1万ドルにし、1998年OECDに加盟し、「世界化」戦略は功を奏したかにみえた。しかし1997年、企業倒産が続出し、金融機関の不良債権が増大し、1997年7月、タイ・バーツ危機に始まり、東アジアにおける、ヘッジファンドの投機的攻撃や短期債務の取り付け*などで、韓国経済は危機に陥った。

*取り付け 預金者が預金を引き出すこと。

 1997年11月21日、政府はIMFに救済を仰ぎ、金大中政権が発足する1998年、経済成長率がマイナス5.8と前年度から10ポイント下落した。1万ドルだった一人当たりのGNPも、6823ドルに下落し、失業率は6.8%に跳ね上がった。

 危機の原因は、クローニー・キャピタリズム(身内資本主義)といわれる財閥大企業体質や、政権末期の大統領が実権を失い、危機を先送りしたことだと主張されたが、最大の原因は、金融のグローバル化と金融自由化措置であった。(高龍秀『韓国の経済システム』)金泳三の「世界化」は、先進国への無理な背伸びであった。

 

金大中の薄氷の勝利

 

191 1997年12月、第十五代大統領選挙があり、自民連金鐘泌候補と手を結んだ国民会議新政治国民会議、1995年結成)の金大中候補が、ハンナラ党の李会昌(イフエチャン)候補を破り、勝利した。金大中にとっては4度目の大統領への挑戦だった。李会昌との差は39万票、薄氷の勝利だった。選挙は地域主義の中で戦われた。金大中は光州、全羅南北道で90%以上得票したが、嶺南の5つの地域(慶尚南北道、釜山、大邱、蔚山)では、いずれも10%台だった。

 勝因は李仁済(イインジェ)候補が嶺南票を分散させたことだった。李仁済は京畿道の出身で、1995年京畿道の知事になり、与党・新韓国党(後のハンナラ党)の大統領候補競選(予備選)に名乗りを上げたが、李会昌候補に敗れていた。李仁済はこれを不満として国民新党をつくり、大統領選に出馬した。

192 金大中は保守勢力の分裂に乗じて勝利した。守旧派(自民連)との野合は改革の足枷となると懸念された。しかし、金大中は湖南・嶺南以外の地域で前回よりはるかに善戦した。これはこの10年間の民主化の拡大を物語るといえる。

 「国民」の政府(金大中政権)は、迫害された人々の政府だった。

 

 図14 地域主義の時代の政党構造の変遷 各政党の離合集散を含む系統図

 

構造調整――金融危機の克服

 

193 1997年12月現在ですでに、韓国政府はIMFとの間で資金支援などの合意覚書を交わし、韓国政府はIMFの管理体制下に置かれていた1997.11IMFは韓国政府に対し、マクロ経済安定*に関わる構造改革を求め、その見返りとして、IMF自身の210億ドルを含め、583億5000万ドルの資金援助を約束していた。

*マクロ経済安定 マクロ経済学で、経済の安定化は、景気変動の平準化や物価変動の安定化を意味する。マクロ経済学は巨視経済学とも訳され、一国の経済全体を扱う。国民所得、失業率、インフレーション、投資、貿易収支などの集計量(変数)の決定と変動に注目する。

194 金大中政権はIMFの提示したプログラムにおおむね忠実に対応した。金融分野では、新たな金融監督機構(金融監督委員会)を設置し、金融機関の整理統廃合、公的資金投入による不良債権の整理を行った。2001年までに5つの銀行が認可取り消しとなり、9つの銀行が合併され、30社の総金(総合金融会社)*が3社に縮小された。その間に投入された公的資金は、155兆ウオンで、GDPの30%に及んだ。外国人の投資制限が完全に撤廃され、資本市場が自由化され、銀行・証券など金融機関での外資流入が目立った。

*総合金融会社とは、銀行業務と証券業務とを含めた総合的金融業務が許された金融機関で、金泳三政権期に設立認可が乱発され、無理な海外借り入れが問題とされていた。

 企業(財閥)改革では、結合財務諸表*の導入や、五大財閥の系列会社の縮小とビッグディール*などが断行された。

*結合財務諸表 連結財務諸表とは、親会社と全子会社など企業グループ全体の財務諸表を結合し、一つの財務単位として財政状況・経営内容を示したもの。

*ビッグディールとは、“蛸足”と言われるほど過剰に多角化された財閥経営を整理統合するために行われた大規模な企業交換である。

 しかし、「財閥問題の核心といえる総帥*の所有と経営監督の問題は手付かずだった。」(張サンファン「経済危機と構造調整――争点と課題」)韓国重工業の売却などの民営化や、公共部門のリストラも進められ、2000年までに13万人が削減された。

*総帥 「現代財閥総帥」196とあるように財閥のボスだろう。組織全体を指揮する人。本来は全軍を指揮する人。

195 IMFが強く求めた労働市場の柔軟化は、労使政(ノサジョン)委員会(以下、委員会)という、労働者・使用者・政府間のコーポラティズム*的合意システムをつくって推進された。1998年1月15日、第一期委員会が大統領諮問機関として発足し、労働界から韓国労総・民主労総の両ナショナルセンターが参加し、労使政代表からなる社会的合意システムとなることが期待された。委員会は整理解雇の法制化をめぐって議論し、1月20日、「経済危機克服のための労使政間の公正な苦痛分担に関する合意文」を発表した。2月6日整理解雇制・派遣勤労制を導入し、公務員・教員労組の承認労組の政治活動の容認など、10項目の合意文書が発表された。

*コーポラティズムとは、政治・経済分野での共同体概念。国家や社会などの集団の、有機的な関連性と相互の協調を重視する。政府の経済政策の決定や執行の過程に、企業や労働組合を参加させる考え方や運動のこと。多元主義や二元主義に対する協調主義。

 整理解雇制が法制化されると、使用者側によるその乱用や不当解雇が目立つようになり、労働者が委員会を批判し、争議が続発した。民主労総はついに委員会をボイコットし、1998年5月、ゼネストを決行した。韓国労総もこれに続き、経営者側も見切りをつけ、委員会は瓦解した。

 1999年5月、政府は「労使政委員会の設置および運営に関する法律」を通過させ、9月、改めて第三期委員会を発足させたが、労働側の参加は韓国労総だけで、民主労総は参加せず、民主労総が参加できるための合意作りは、次期盧武鉉政権の課題として引き継がれた。

 

太陽政策

 

196 1998年2月、金大中は対北朝鮮政策の三原則(太陽政策)を明らかにした。①朝鮮半島での一切の武力徴発を許さない。②北朝鮮の吸収・統一を排除する。③南北間の和解協力を推進する。

しかしこのころの北朝鮮は金日成死去後の喪が1997年7月に明け、1997年10月、金正日が党総書記に就任し、1998年9月、憲法改正と国防委員長再任など、体制固めに忙しく、また外交的には対米外交を重視した。

 現代財閥総帥の鄭周永(チョンジュヨン)が1989年に訪北し、金剛山事業を提起したが、新軍部(盧泰愚)政権が成立1987.12したため、頓挫していた。鄭周永は、江原道の北朝鮮側の通川(トンチョン)で生まれ、1998年6月、500頭の牛を引き連れて、板門店を越え、10月、501頭の牛と自社車をもって北を訪れ、国防委員長に再任されたばかりの金正日に会い、金剛山観光への同意を引き出した。11月、141人を乗せた船が南から金剛山に向った。

 1999年6月、南北の警備艇が西海(ソヘ)で武力衝突(西海交戦)したが、2000年3月、南北の特使が会談し、首脳会談の合意がなり、2000年6月13日、金大中が平壌を訪問し、分断以来初の首脳会談が実現した。6月15日南北共同声明が発表され、統一原則、親族訪問、非転向長期囚問題などの人道問題の解決、南北の多角的交流、当局間の対話の開催などが合意された。この声明は七・四共同声明1972や南北基本合意書1991の時代と違い、朝鮮戦争以来の韓国の民主化や分断体制克服の努力の上に実現した。太陽政策は盧武鉉政権で「和解と協力」政策として継承された。

 

4 日韓新時代

 

謝罪派と嫌韓論

 

198 1970年代の初め、日本経済はアジア市場に進出するために、1972年の日中共同声明で「過去において日本国が中国国民に重大な損害を与えたことについて責任を痛感し、深く反省する」という認識を明確にすることが求められた。1974年に東南アジアを歴訪した田中角栄首相(首相在任期間1972.7.7—1974.12.9)は、各地で反日デモに会ったため、福田赳夫政権は、軍事大国化を否定し、「心と心の触れ合い」を謳った「福田ドクトリン」を打ち出し、アジア外交を手直しした。

 日韓条約後の日本人の朝鮮観は、北朝鮮支持派と韓国支持派とに分かれ、維新体制成立後の1970年代では、「独裁」「民主化」「帝国主義」「連帯」「主権侵害」「腐敗」などの政治的言説を用いて韓国について語った。日本の革新勢力は韓国の民主化や韓国との連帯を叫び、自国の対韓経済進出を「新植民地主義」として非難し、過去の植民地支配についての反省や補償を求めた。それは日韓条約反対闘争での両国の運動の溝を埋めるためであった。(謝罪派1982年文部省が教科書検定で「侵略」を「進出」と書き換えるよう指示し、中国・韓国から非難を浴びたが、この時も謝罪派は世論を喚起した。

199 1970年代の日本の高度経済成長は、人々の脱政治化や脱イデオロギー化、脱歴史化を推し進め、1980年代、日本は世界のGNPの一割を占める経済大国になり、日本の成功物語が目立った。韓国への眼差しも、韓国の政治・経済や歴史認識に加えて、韓国の娯楽や大衆文化も受容されるようになった。

200 韓国も1970年代は都市型の消費社会が登場し、1987年の民主化は、人々の自己表現を広げ、文化情報が拡大した。両国は、ビジネス、留学、エンターテインメントなどの場で出会うようになった。関川夏央『ソウルの練習問題』1983や四方田犬彦『あんにょん・ソウル』1988は、韓国の日常を描いたが、それまでの日本人は、韓国の日常生活を見落としがちだった。韓国を「普通の外国」として見る戦後世代の体験が、ソウル五輪のころの第一次韓国ブームの基調だった。

 1980年代、嫌韓論が始まった。経済評論家の長谷川慶太郎は、韓国人の過度の個人主義や「“断絶”という思想」について語る。「担当者が転職、あるいは職場内の人事異動で交代した場合、この“断絶”の思想が露骨に姿をあらわす。『前任者との間にどんな話があったか、知りません』と言われてしまえばそれで終わりなのだ」(『挑戦する韓国』1984)ジャーナリストの室谷克実は、韓国の消費者は、「性能や機能が若干劣っていても、表面の装飾が華やかな方が選考される」と言う。そして中小企業は「機械の一部を更新するよりも、道路に面した工場の外壁の塗り替えに資金を投じる」。さらに「商取引や職場の上下関係で軋轢が生じたときは、『実は私の思い違いで』と、実直な説明や謝罪をするより、『いや私はちゃんとしたが』に始まり、道路渋滞が悪いとか、急な仕事を持ち込んだ第三者が悪いとか、『したがって私には責任がない』とするすり替え論がまかり通る」(『「韓国人」の経済学』1987)という。(これを韓国に特有な国民性だとするのは間違いではないか。)

 このような議論は、敗戦のダメージから立ち直り、繁栄の時代を迎えた日本人の自負や大国主義とも結びついていた。日本文化の「肯定的特殊性の認識」(青木保『「日本文化論」の変容――戦後日本の文化とアイデンティティ』)のように、日本人や日本文化の独自性や優位性が語られ、それが浸透し、そのことが“嫌韓”や“厭韓”の言説に影響を与えた。

 吉野耕作は、1970年代から1980年代前半にかけて広く議論された「日本人論や日本人の特殊性についての議論は、“普遍的な”文明に対する日本独自の文化的な違いについての議論」(Cultural Nationalism in Contemporary Japan – A Sociological Enquiry)であったという。つまり、「日本人」という民族の枠組の厳格な境界設定を前提に、その境界の外にある他者に対するanti-imageとして、日本の特殊性や優位性を確定しようとするものであった。そしてその「他者」とは「普遍としての西欧」であることが暗黙のうちに前提とされていた。このころの韓国文化論は、確定し定着しつつあった日本文化を引証基準とする、それとの「違い」や「劣性」に関する議論であった。つまり、底にあるのは、西欧的普遍に対する日本文化の特殊性と優位性の認識、そういう日本文化を暗黙の引証基準とする、中国や韓国の文化のいたらなさの確定である。

 

ハングル世代の反日論

 

202 1980年代、日本人の「売春観光」や教科書問題、政府高官の「妄言」などのため、韓国人の日本への苛立ちも鬱積していた。植民地経験を持たない20代や30代(ハングル世代)の日本への反感が高まったが、全斗煥、レーガン、中曽根などのタカ派トリオにより米日韓軍事同盟が強化され、新軍部政権の恐怖政治が支配した1980年代前半は、ストレートな対日批判が難しかった。その中で『朝鮮日報』は「克日の道・日本を知ろう」と題するシリーズを長期連載した。(朝鮮日報編『韓国人が見た日本――日本を動かしているもの』)これは、植民地支配の苦しみを二度と経験しないためには、支配国たる日本以上に富強な国にならなければならない、というものであった。

203 この克日論は、建前として反日を掲げても実質は「癒着」と論難されるほど日本を受容する新軍部政権のもとで鬱積する反日感情の“ガス抜き”であった。その内容は「反日」というよりはむしろ経済成長を高く評価する「追いつけ」型の日本観だ。

 このような政府公認の「克日」論に飽き足らない厳しい日本観が韓国社会の底流に生じ始めた。光州事件の衝撃を受けた1980年代、朝鮮戦争以来の反共・親米観が転換し、若い世代の他者認識が大きく変化した。新軍部政権を支えた米国に対する見方が変わった。米国文化センターなど、米国関連施設に対する学生の占拠や放火が相次ぎ、世界で最も親米的な国とされてきた韓国は、若い世代の反米色の最も強い国に変わった。

204 そういう「運動圏」にとって、日本は「米帝国主義」の従属的同盟者とされ、日本の経済侵略や売春観光(妓生観光)は厳しく断罪された。「性欲解消のために、汚い日本帝国主義者たちが、蜂の群れのように、この地の女性を、いくばくかの円を代価に、好き勝手に蹂躙している」(民主化運動青年連合『民主化の道15』)こういう日本批判は、新軍部政権の公の言論世界ではほとんど封じられていて、日本に伝えられることもほとんどなかった。歴史の責任への自覚を欠き、ひたすら米国に追随する戦後日本の否定的なイメージは、「経済侵略」や「売春観光」というキーワードと共に、このころの運動圏世代(三八六世代)の心に深く染み込み、今なお容易に払拭されない

 韓国の民主化は、日韓条約以来封じられてきた日本に対するストレスを噴出させた。1990年代初め、元従軍慰安婦が日本政府を相手取り補償を求めるに及び、対日批判が沸騰した。田麗玉の『日本はない』(日本では『悲しい日本人』として1994年に出版)が、100万部のベストセラーになり、韓国の出版界は「反日特需」に沸き立った。

 『日本はない』は、日本人の歴史意識を問う伝統的な日本批判に加え、「ウサギ小屋」「マイノリティや外国人差別」「個の自覚を欠いた集団主義」「冷戦に便乗した経済成長」という欧米による日本批判から、左翼による日本批判に至るまで、戦後世代(ハングル世代)のありとあらゆる反日論を代表した。寛大で率直、豊かで柔らかく、年長者を敬い、家族思いの韓国人の「民族としての特性」が、小心で日和見、他人への思いやりを欠く日本人の至らなさのanti-imageとして強調された。

 しかし、こういう「反日論」の流行にもかかわらず、消費生活や娯楽・大衆文化の面では、“日本”の流入が著しかった。韓国の都市型の情報・消費社会の形成は、日本の情報・消費文化への傾斜を伴った。1991年の調査によると韓国人の多くは、日本商品の広告や衛星放送については「文化侵略」だとして強い拒否感を示すが、その性能についての信頼度はきわめて高い。(非常に良い48%、やや良い39%)ラジカセ、CD付きステレオ、カメラなどは輸入が事実上禁止されていたが、日本製の普及率は60%から70%に達していた。(山本武利編『日韓新時代――韓国人の日本観』)「文化侵略」に対する規制があるにもかかわらず、長渕剛や浜田省吾、サザンオールスターズなどのJPOPの海賊版が大流行した。1989年、村上春樹の『ノルウエーの森』(韓国語タイトルは『喪失の時代』)は、韓国で出版され、その年だけで30万部という、外国書籍としては空前の販売部数を記録した。消費生活や文化の受容面では「本音がタテマエを突き崩す傾向」が著しく(山本武利編著、前掲書)、『日本がない』は、そういうなし崩しの日本化に抗して、民主化の時代にふさわしい自画像を確定しようとする模索だったのかもしれない。

206 『日本はない』などのハングル世代の反日論に対して、1994年末、徐賢燮の『日本はある』が出版され、これもベストセラーになった。『日本はある』(日本語タイトルは『日本の底力』光文社、1995)は、「反日」ブームに違和感を覚えた「知日」派の議論を代表していた。徐賢燮は『週刊朝鮮』に掲載された田麗玉(『日本はない』の著者)との対談で、「日本人は相対的価値観を志向し、融通も利くが、韓国人は絶対的価値観を志向し、一つの事に執着する、韓国人はそういう日本人の良さを学ばなければならない」と述べている。こういう知日派の言説は、『スカートの風』(三交社、1990年)の呉善花の議論のような、韓国人自身による韓国文化批判の言説につながった。そしてそれは1990年代後半の日本の国民意識の建て直しやナショナリズムの復権の波に乗って、日本人の嫌韓論の中に取り込まれていった。

 

“韓流”“日流”

 

207 1980年代後半、韓国では民主化の時代を迎えつつあったが、日本ではアジア系の外国人労働者などを受け入れ、彼等が地域社会の日常に浸透し、また日本人自身も海外体験を増やした。1990年頃は、冷戦体制が崩壊し、湾岸戦争が起り、日本は経済大国に見合った国際貢献を求められたが、「国際貢献」は、日本の軍事大国化を懸念するアジア諸国の反発が必至であり、そのため過去の問い直しが求められた。

 1991年、海部首相は、シンガポールで「多くのアジア・太平洋地域の人々に、耐え難い苦しみと悲しみをもたらした我国の行為を厳しく反省する」と語った。1993年、従軍慰安婦への「軍の関与」を公式に確認する「河野(官房長官)談話」が実現し、8月に成立した非自民連立内閣細川護熙首相は、所信表明演説で「過去の侵略戦争と植民地支配」について、首相としては異例なほど踏み込み「反省とお詫びの気持ち」を述べた。1994年、村山富市社会党党首を首班とする自民党・社会党・さきがけの連立政権が成立し、戦後50年を迎えた翌年1995年、植民地支配と侵略戦争に対する「痛切な反省」と「心からのお詫び」を述べた「村山談話」(内閣総理大臣談話)が発せられた。村山談話は、「久保田貫一郎発言」104「高杉晋一発言」108以後の日本人の歴史認識の変容の到達点であった。

208 1998年、金大中大統領が訪日し、小渕恵三首相と共に「日韓共同宣言――21世紀に向けた新たなパートナーシップ」を発表し、日本側は改めて「痛切な反省と心からのお詫び」を述べ、韓国側は、日本が戦後の国際社会で果たした役割を高く評価し、未来志向の関係構築を謳った。金大中政権期に日本の大衆文化の段階的な開放措置が取られ、2004年までには、映画、音楽、ゲームなどが完全に開放された。

 2002年、W杯を日韓で共催し、2004年、ドラマ「冬のソナタ」が日本でヒットし、“韓流”と言われる韓国の大衆文化が受容された。「冬のソナタ」は2003年4月からNHK衛星放送で放映されたが、放送終了後、視聴者から再放送の希望が殺到し、NHKは衛星放送の再放送に続いて、翌年2004年、地上波で放映した。主演俳優のペ・ヨンジュンが来日した時は、羽田空港で5000人のファンが殺到した。韓国ドラマはこれまで日本の文化市場の片隅に久しく追いやられてきたが、この時はじめて韓国ドラマが日本人の心を激しく揺さぶった。

209 一方韓国でも“日流”が起った。1999年、日本映画が解禁され、岩井俊二監督の『ラヴレター』は140万人の観客を動員し、日本での動員数を上回った。オダギリジョー、上野樹里、妻夫木聡などが出演する『ハウルの動く城』や『風の谷のナウシカ』などのジブリ映画が、韓国の若い層を中心に人気となり、韓国人の生活意識や世界観に影響を及ぼした。韓国文学は停滞していたが、村上春樹、江國香織、奥田英朗などがベストセラーになった。

 韓国では日本文化は久しく「俗悪」「卑猥」「サルまね」「暴力的」などの理由で流入が禁じられてきたが、日流ブームは、日本文化に対するイメージを変えた。ただし、この“日流”が韓国人の日本に対する信頼や好感度を上昇させることはなく、歴史意識のギャップの解消もなされなかった。「日本文化の開放と植民地の記憶は関連性がない。」(李盛煥「植民地の記憶と日本の大衆文化の流入、そして日韓関係」)文学や映画が日本から出ても、韓国ではそれを「日本的なもの」とは受け止めない。“韓流”“日流”にもかかわらず、日韓の相互認識や歴史認識のギャップは、2000年代以降広まるばかりだった。

 

 

第四章 グローバル時代の韓国政治と社会

 

1盧武鉉の挑戦

 

金大中改革の光と影

 

212 1982年から1985年まで金大中はアメリカで亡命生活を送ったが、このころは、アメリカ経済が謳歌された時代で、金大中は市場経済の重要性をこのとき学んだと言われる。金大中政権も、金泳三政権に始まる新自由主義路線を引き継ぎ、“IMF事態”を推し進めた。

 しかし、金大中は「民主主義なしに市場経済の発展は望めない」と強調した。これは軍事政権による迫害に基づくだけでなく、民主主義的な参加や透明性が、市場経済を機能させることを金大中が重視したためである。金大中政権時代、民主化や市民参加が大きく前進した。

213 GDP成長率は1998年のマイナス6.7%から1999年プラス10.9%へと回復し、2000年も8.9%を記録した。貿易収支も、1999年284億ドル、2000年166億ドルと黒字となり、外貨保有額も、2000年に1000億ドルまで持ち直し、製造業の稼働率も70%台を回復し、失業率も一時8%だったのが、2000年には3.8%まで下がった。(統計庁『韓国主要経済指標』2002年)

 1999年、金大中は光復節(クアンボクチョル、8月15日)の祝辞で、IMF時代の卒業を宣言し、2000年6月、歴史的な南北首脳会談を実現し、12月、金大中自身がノーベル平和賞を受賞した。

 しかし、改革の代償も大きかった。階層、地域、民族、世代間の差別が生まれていた。雇用構造改革は所得格差を拡大し、都市勤労世帯上位10%の月平均所得は、下位10%の6.7倍1997、から9.1倍2001へと格差は高まった。利子・配当などの資産所得が格差感覚を高めた。1998年から2000年までの間で、所得が半減した人は、「所得急落世帯」(全人口の12%)と呼ばれるが、その人たちの所得に占める賃金の割合は70%だったが、その期間に所得が5倍以上増えた人「所得急増世帯」(全人口の3%)の所得に占める賃金の割合は8%で、つまり、所得に占める利子・配当の割合が高かったということだ。(崔ベグン『デジタル世代の経済学』)

214 深夜のソウル駅構内はホームレスで溢れ、ビニールハウス、コンテナ、テントなどに住む極貧家庭は、2001年、7000世帯に及んだ。(建設交通部調査)IMF時代以後の新しい社会現象であるホームレス(ノスッチャ、野宿者)は、2000年4月、6000人に達した。その頃の日本のホームレス2万人(1999年12月現在)に比べて少なかったが、(尹イルソン『都市開発と都市不平等』)かつては親族同士の絆や助け合いが都市部でも根強かったのに、このホームレス現象は、その安全弁が解体しつつあることを物語っていた。

 韓国は世界的にもトップレベルの高学歴社会であったが、“白手233(白骨団177は私服警官)とか「88万ウオン世代」(年収か)とか呼ばれる、20代や30代のワーキングプアが急増し、晩婚化が進み、未婚者が増え、少子高齢化を加速した。『悲しい日本人』(韓国版の『日本はない』204)の作者田麗玉は、IMF事態直前の1996年に日本で刊行した『新悲しい日本人』(『日本はない』の続々編)で、日本を、「女性差別の反動として、子どもが生まれない国」とした。日本の1994年の出生率は1.5人であったが、韓国では、IMF事態以後出生率が激減し、2002年には1.17人、2005年1.08人と、世界最低水準となった。

 1991年、産業技術者研修制度が導入され、中国国籍の朝鮮族を含む外国人労働者が急増し、2002年、62万7000人に、そのうち、劣悪な労働条件と人権問題が危惧される不法滞在者が29万人に達した。この多民族化は、底辺の貧しい労働者や農村部で目立った。

 

福祉国家への模索――国民基礎生活保障法

 

 新自由主義的金融・経済改革による失業や格差拡大に対して、金大中政権は、行政主導による公共勤労事業(ワークフェア)を行い、また失業・老齢・労災(産災)・健康等の保険制度を拡充した。これまで30人以上の事業所にだけ適用されていた失業保険労災保険が、臨時職やパートなどを含む全事業所に適用されるようになり、年金も、都市自営業者にまで拡大し、国民皆年金制度が整った。日本のように職域・地域・会社ごとの医療組合が運営する組合方式の健康保険を改め、国民保険公団が全てをカバーする全国単一方式に統合し、組合間の格差を解消した。

216 1961年に制定され、1982年に改定された韓国の公的扶助制度は、植民地期の1944年に制定された朝鮮救護令*のような、国による施し・恩恵という社会保障観を前提とし、労働能力を失った者にのみ低い水準の保護を与えるものだった。

*1929年、日本で制定され、1932年、施行された救護法を朝鮮に適用したもので、施行は1945年1月だった。

217 公的扶助制度の刷新は、参与連帯(チャミョヨンデ)を中心とする市民団体が提起したものだった。参与連帯は、「国民福祉基本線確保」を最重要課題として掲げ、社会保障に関する既存制度の不備を突いて訴訟を連発し、勝訴を勝ち取ってきた。構造改革にともなう大量失業によって、労働能力のある稼動層が職を失い、貧困の淵に陥っていた。国民の最低限の生活保障について国が責任を負う制度が求められた。

 参与連帯は1998年3月から、グローバル化時代のセーフティ・ネットづくりを目指す公聴会や、専門家との共同声明を通して、7月、民主労総医療保険連帯など19のNGOと連合し、「国民基礎生活保障法(国基法)制定のための国民請願および制定要求大会」を開催した。1999年3月、経実連182韓国労総189, 195, 266, 274もこれに加わり、労働、宗教、女性、法曹、貧民団体などのNGO団体を網羅した「国基法制定推進連帯会議」をつくった。同会議は、公聴会などで企画予算局や労働部などと渡り合い、デモや署名の“大衆動員運動”と、大統領や政党に対するロビー活動である“上層部運動”を行った。官僚がこれに抵抗し、保守言論が反発したが、金大中大統領の意思と決断により、1999年8月、国会での立法が成立した。

218 国基法は憲法の言う最低限の「人間らしい生活を営む権利」(ナショナル・ミニマム)を具体化し、それに対する国の責任を明確にした。官僚の抵抗で、適用範囲は絶対貧困層に限定され、ワーキングプアの大半が位地する「次上位層」*の生活保障や自律の問題は解決できなかった。しかし市民団体は、課題の設定や対案の提示を行いつつこの法律をつくり上げた。

*国基法の適用対象は、最低生活費(2008年、4人家族、126万6000ウオン)以下の層で、国民の3%(140万人)だった。「次上位層」は、最低生活費の120%(151万9000ウオン)までの層(30万世帯・200万人)である。

 

落薦・落選運動

 

 六月民主抗争によって法・制度が民主化され、市民社会が国家から自律し、自由が確保されたが、政党政治の体質は旧態依然としていた。1990年代の金泳三や金大中の政党は、建国期の韓国民主党に起源を持ち、地主や名望家の政党(幹部政党)であった。少数のボス政治資金や候補の公認(公薦)の権利を独占し、党運営や人事で、地縁・血縁・学閥などのコネや情実が幅を利かせていた。

 一院制と小選挙区制(全国区比例代表が46、小選挙区256)が、それに一役買っていた。民主党やハンナラ党は、保守から革新までの広い層を対象とし、学生運動や運動圏出身の急進派(の議員)でさえ、この二大政党制の論理に基づいて、その理念を実現しようとした。

 経済、言論、法曹、官僚、政治、学界など、社会全般に人脈をもつ三星(サムソン)グループなどの巨大財閥や、「政治は政党に主導される以前に、言論によって枠づけられる」(崔章集『民主化以後の民主主義』)といわれるほど、政治の世界に影響力を持つ巨大言論が、政党政治の改善を妨げていた。

220 2000年の第16代国会議員選挙で、市民運動団体による落薦・落選運動の母体となったのは、総選連帯(チョウンソンヨンデ、2000年総選市民連帯)である。ここに参与連帯など400の市民団体が結集した。

 総選連帯を担ったのは三八六世代が主導する市民団体であり、この世代は80年代の民主化の時代の荒波にもまれ、相互に共通認識を持っていた。冷戦後の民主主義の普遍化・世界化は、この三八六世代と、朝鮮戦争以前生まれの「既成世代」とを、価値観や生活意識の点で対照的にした。三八六世代はネットを中心とする情報通信革命を利用し、大手マスメディア中心のヘゲモニーから自由で、自ら情報を選択し、相互に意思疎通した。

 2000年の総選挙で、市民団体は有権者に大きな影響を与えた。総選連帯の落選運動は、有権者の36%(ソウルでは43%)に影響を与えた。全体の落選率は70%で、首都圏では落選対象者20人のうち、1人を除いて全て落選した。しかしハンナラ党の牙城である嶺南では、落選率は46%に留まり、ハンナラ党の第一党としての地位も揺るがなかった。しかし、この運動は1990年代の政党政治のボス支配や、縁故主義の核心である政党公薦にメスをいれ、その後の政治の刷新に貢献した。

 

盧風(ノプン)

 

 2002年暮の大統領選で盧武鉉が勝利したが、これも新しい世代の価値観の変化を反映していた。2002年初頭、盧武鉉は与党・民主党の7人の候補の一人に過ぎず、民主党の主流は、1997年の大統領選挙で実績のある李仁済(イインジェ)を推したが、それは李の地元の忠清道と、全羅道とソウルという地域主義に基づいていた。

 盧武鉉の頼りは若いネチズン(ネット市民)だった。盧武鉉は1980年代、運動圏寄りの人権弁護士で、民主化後、野党指導者だった金泳三陣営から出馬し、1988年に初当選(国会議員か)したが、盧武鉉は三党合同に反発し、1990年代に金大中陣営に加わった。盧武鉉は金泳三陣営の牙城の釜山で、第十四代1992、第十五代1996の総選挙に、そして1995年の釜山市長選に出馬し、いずれも落選していた。1998年、ソウルの鐘路(チョンノ)区の補欠選挙で再選を果たし、2000年の総選挙では、ソウル選挙区を離れ、釜山選挙区で4度目の挑戦をしたが惜しくも敗れた。

222 盧武鉉は地域主義の打破に努め、繰り返しチャレンジすることによって、既成政党政治に愛想をつかしていた若い層を引き付け、2000年4月の総選挙の頃から、ノサモ(盧武鉉を愛する人々の集い)というネット支援の輪が広まった。韓国はこのころブロードバンドの普及で世界一だった。対等で開かれたコミュニケーションの輪が、地域主義や縁故主義の閉鎖的政治慣習を突き破る可能性があった。

 2002年3月、盧武鉉は光州での予備選挙*で勝利した。この「光州の選択」によって、ライバル李仁済を破り、盧武鉉はその後の予備選挙を待たずに民主党の大統領候補になった。盧武鉉は嶺南出身だったが、光州で、しかも党内主流派が推す候補=主流既得権勢力を破ることによって、政治パラダイムを変換した。

*予備選挙は国民競選とも呼ばれ、3月9日の済州島から4月27日のソウルまで、16の道・広域市の全てで実施された民主党の大統領候補選出のための地区選挙である。選挙人団7万人のうち50%を一般有権者から募る市民参加型のイベントとして実施された。

 

223 しかし、ネチズンは移り気で、5~6月、日韓共催のW杯が行われ、選挙への関心が薄れ、7月の世論調査での盧武鉉の支持率は35%と下落し、予備選挙のやり直しを求める声も出てきた。10月、W杯を利用して「国民統合21」を結成した、鄭夢準(チョンモンジュン)*が大統領選に名乗りを上げた。盧武鉉はこの鄭との候補一本化作戦で難局を乗り越えることにした。

*鄭周永前現代重工業会長の六男、FIFA(国際サッカー連盟)副会長で、W杯の日韓共催を実現した。

 ところが、11月、米軍事法廷が、女子中学生を轢死(れきし、ひき殺す)させた米兵に無罪判決を下し、ネチズンを激怒させ、数万のろうそくデモが全国主要都市で展開された。5ヶ月前、女子中学生二人が米軍装甲車によって轢死し、米軍は駐韓米軍地位協定SOFAを楯に加害米兵の引渡しを拒み、米軍軍事法廷に処分を委ねていた。

224 韓国のネットサイト百科(トゥサン百科)によれば、ろうそくデモは、1992年にネットサービス網ハイテルの有料化に反対して起ったのが始まりとされ、これが、民主化時代の集団的・平和的意思表示の方法として、ろうそく集会・デモが示威文化として定着するきっかけとなった。11月のろうそくデモ後、盧風が吹き荒れた。

 投票日の前日、鄭夢準が盧武鉉支持を撤回するというハプニングがあったが、投票日、盧武鉉の苦戦を知った支持者グループがネットや携帯メールで投票を訴え、盧武鉉が勝利できた。李会昌候補の得票は47%、盧武鉉は49%だった。

 李会昌はハンナラ党候補で、5月、「わが社会を支配してきた合理的メイン・ストリームが、2002年の選挙でも新しい判断をしてくれるであろうと信じる」と語っていたが、盧武鉉の勝利は、分断と権威主義のメイン・ストリームに対する勝利だった。

 

大統領弾劾とネチズン

 

 盧武鉉の勝利は、巨大保守言論の、垂直的で一方的なコミュニケーションに対する、水平的で自由なコミュニケーションの勝利とも言える。韓国社会の情報メディアを牛耳ってきた『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』など大手メディアは、保守イデオロギーを代表する機関としての機能を十分に果たせなかった。「課題(アジェンダ)設定の権限が、テレビ討論を通じて候補者に、インターネットを通じて有権者に移っていた。(朴東鎭「インターネットと第十六代韓国大統領選挙」)

 2003年末の100人当たりの超高速インターネット加入者数は、韓国が世界一で、23人、二位が香港で18人、三位がカナダで15人、日本は7位で12人だった。これは韓国でネットが用いられ始めてから十数年の出来事だった。六月抗争以後の下からの異議申し立てや討議の文化と共にネットが成長した。

226 2004年4月、国会議員選挙が行われたが、この選挙で、それまで50議席に過ぎなかったウリ党が、保守政党を撃破し、国会で過半数を制し、ウリ党の急進派議員は、2000年代半ばの過去清算関連法の制定に貢献した。(後述)

 この第17代国会議員選挙の1ヶ月前の2004年3月12日、盧武鉉大統領の事前選挙運動や、側近の不正、経済破綻などを理由に、大統領弾劾訴追案を国会が可決し、盧武鉉大統領は、憲法裁判所が審判を下すまで職務停止となった。*この時の国会の構成は、定員273、欠員2、ハンナラ党137、千年民主党(旧与党、民主党)61、ウリ党(開かれたウリ党、千年民主党から分かれ前年2003年11月に結成)49、自民連(金鐘泌首班)10であった。弾劾案はハンナラ党と民主党を中心に、3分の2以上(193)の支持を得て成立した。

*憲法裁判所は、5月14日、大統領の違法行為を一部認めたが、「弾劾に相当するほど重大なものではない」として、訴追を棄却した。

227 大統領弾劾訴追案の可決は、国会議員選挙の争点を、弾劾か否かという単純な図式に変え、弾劾批判の世論を巻き起こした。KBS(韓国放送)、MBC(文化放送)、SBS(ソウル放送)などのテレビ局が弾劾関連の情報を報道し、弾劾反対の世論を広め、ハンナラ・民主両党の支持を下げた。

 ネチズンたちは2002年大統領選挙で、ノサモなどのネット・サークルや、オーマイニュースなどのネット言論で、重要な役割を果たしていたが、2004年の国会議員選挙では、ダウムDaumやネイバーNAVERなどのポータルサイト*につくられた、カフェなどのネット・コミュニティが大きな役割を果たした。弾劾案可決直後から、弾劾反対の書き込みに応えて汝矣島や光化門前で連日連夜デモや集会が行われ、2004年3月20日、ソウルの汝矣島を中心に、全国で35万人がろうそくを点し、弾劾反対や旧政治家の退陣を求めた。3月20日までに、600のカフェ・コミュニティに、12万人が集い、デモへの参加表明など、情報交換や弾劾反対の呼びかけが行われた。

*ポータルサイトとは、玄関・入口の意味。Google, Yahoo! など。

 

国会の刷新

 

228 第十七代総選挙を控えて選挙法が改正され、街頭演説や演説会は制限するが、インターネットによる選挙運動は許した。

 150を越える候補者の擁立が不可能とされていた与党・ウリ党は、議席を3倍の152議席に伸ばし、過半数を獲得した。

 野党ハンナラ党は朴槿恵を代表にし、16議席減の121議席に留まったが、旧与党の民主党は9議席と惨敗した。(保守勢力は相変わらず健在で、ネット選挙でも動じなかったというべきか。)自民連では比例代表一位の金鐘泌が落選し、6議席を失って4議席となり、金鐘泌は政界を引退した。これは、金大中・金泳三とともに1987年の民主化以降の三金政治137, 185の終わりを意味した。

229 韓国唯一の革新政党・民労党(民主労働党)は、10議席を確保し、財界や大企業の肝を冷やした。これまでの労組や運動圏による労働運動や大衆運動など、独自の政治勢力化が実を結んだと言える。

 議員の63%188人が新人で、二選まで含めると80%になり、ウリ党では当選者152人中108人が新人だった。1987年の民主化以前からの国会議員(6選以上)は一人だけとなった。これで多選議員のボスが党運営を牛耳り、党運営の足を引っ張ることはなくなった。299議員の平均年齢は51歳で、改選前より8歳若返り、60歳代以上が49人で、前回(32%)の半数の16%に減り、40歳代が106人で、前回(66人)の6割増しとなった。全体の84%が50代以下となり、1970年代から1980年代に街頭で民主化運動を闘った世代が大半を占めた。

230 2004年の総選挙は、1990年代の地域主義選挙を変えた。ハンナラ党は朴槿恵を代表にし、朴正煕時代以来の嶺南の地域感情に訴え、大敗を免れ、湖南・嶺南で以前のような地域的な偏りが見えるが、80%以上が同一政党を支持するような極端な“没票”は見られない。ウリ党は嶺南でも当選者を出した。民労党も全国で満遍なく得票し、地域感情や地域利害に捕らわれない理念政党・政策政党への可能性を示した。

 

岐路に立つ市民運動

 

231 2004年、参与連帯が「インターネット参与連帯」を立ち上げるなど、市民運動団体はオンライン化した。2004年、参与連帯を中心に、総選市民連帯が再組織され、109人を公薦不適格候補に指名した。

 2005年、“市民運動の危機”が叫ばれた。2001年の参与連帯の会員数は1万5000人に達したが、2005年には1万人に急減した。

232 盧武鉉政権は“参与”政府を名乗った。1990年代以降の市民運動は、下からの民主化、つまり不徹底に終わった六月抗争の完遂を目指した。参与政府=盧武鉉政権の実現(出現)は、この課題をかなり達成できたことや、行政府が民主化の担い手になるような時代の到来を意味した。盧武鉉政権時代には、委員会制度が活用され、そこに市民運動団体の活動家や学者が大挙して参加し、国の意思形成に直接影響力を及ぼした。しかしそのことは市民運動の活力を奪うことになった。

 市民運動がよって立つところの社会的前提が変化した。金大中政権の新自由主義的経済改革は、盧武鉉政権にも引き継がれ、韓国社会は、能力主義、リストラ、40代定年、非正規雇用などのストレス社会に変貌し、グローバル時代に特有の社会的リスクが深化した。

233 盧武鉉政権期、就業していない高学歴の青年層“白手”(NEET: Not currently engaged in Employment, Education or Training)という言葉が流行した。大学進学率83%2007という超高学歴社会になりながら、この白手が200万人*に達し、大企業や公共部門の安定的な職場に、修士・博士や、公認会計士や弁護士などの資格を持った人が殺到し、この狭き門が、教育の過等競争・教育費負担増大をもたらし、格差や疎外感、鬱屈した感情を募らせた。また、盧武鉉政権下に、4歳未満の人口に対する65歳以上人口の比率=高齢化指数は、2000年の34%から2007年の55%へと上昇し、自殺者は毎年1万人を越え、2003年から5年間の自殺者は6万7000人であった。また外国籍住民が100万人となり、地域社会や家族関係の価値観が失われつつあった。

*2006年の朝鮮日報と現代経済研究院の共同調査によれば、失業統計に現れない15歳から29歳までの非労働力人口(NEET)が、220万人存在し、うち、無職が128万人、就職準備が53万人、育児・家事をする男性が15万人、ボランティアが24万人であった。(『朝鮮日報』2007.8.14

234 韓国の市民社会はこれまで外国(日本)支配、南北分断、独裁権力など、生活世界の外部からの脅威に身構え、そのことを通して自らのアイデンティティを形成してきたが、今や韓国の市民社会内部の脅威、アイデンティティの揺らぎや危機に直面している。人々は内向きになり、民主化や改革よりも、住宅・食料・雇用・医療・教育・文化など日常生活をめぐる“生活政治”に感心を持つようになった。人々はますます中道志向*となり、この中道志向は、2004年の総選挙では左へ向い、2007年の大統領選挙では右へ向うなど、揺れ動いている。

*世論調査によると、有権者の中道志向は、1997年の12%から、2002年の32%へ、2006年の37%、2007年の40%へと増加してきた。(『月刊マル』2008.1

 韓国社会が都市中心の産業社会へ変貌したとき、運動圏の「巨大談論」はその神通力を失ったが、それと同様に、グローバル化・脱産業化*へと変動する時、アドボカシー*や権力監視・異議申し立てに励んできた韓国の市民運動は、それとは違った新たなアジェンダや運動スタイルの開発が求められている。

*脱産業化社会 情報・知識・サービスなど第三次産業の占める割合が高まった社会。

*アドボカシー advocacy 「支持」「推薦」「弁護」「擁護」

 2000年代になると、このような行き詰まりを打開するための模索が様々に取り組まれてきた。朴元淳は参与連帯の事務局長として1990年代の市民運動をリードしてきたが、2002年、「美しい財団」「美しい店」を創設した。寄付文化に基づいた市民活動を支えることを目標にした「美しい財団」は、2007年、125億ウオンの募金を集め、また、社会的企業の先駆的実践であるリサイクル・ショップ「美しい店」は、110億ウオンを売り上げた。

235 朴元淳は2006年「希望製作所」(The Hope Institute)を立ち上げ、日常生活の中の新たなアジェンダを見つける「社会創案センター」や、地域の再生・活性化を促す「プリ(根)センター」など5つのセンターと、オルタナティブな(大企業に対抗しそれに取って代わるようなという意味か)小企業育成を目指す「小企業発電所」など、ソーシャルデザイン(社会事業)とイノベーション(変革)を目指すシンクタンク、つまり市民運動のための中間支援組織の創設を提起した。

 「希望製作所」は、市民運動が、グローバル化の下で深まったリスク社会に対処するためのガバナンス*(統治、支配、管理)の一翼を担うようになったことを示している。

*ガバナンス 行政・企業・市民団体などの社会の主体が協力してガバナンスに当たるという意味で、ガバナンスのことを韓国では“協治”と言う。

 

社会的就労

 

236 リスク社会に対応するため、盧武鉉政権期に、委員会制度による、政権と市民社会との“協治”(ヒョプチ)が推進された。高齢化に備えた公共扶助方式の「基礎老齢年金制度」や「長期老人療養保険制度」(介護保険制度)が実現し、失業や貧困対策の「社会的就労」政策が取り組まれた。

 「社会的就労」とは、貧困層やハンディキャップを持つ層など脆弱層の就労を促進し、自立や社会参加を支援するものであるが、それを担ったのは、介護など社会サービス部門を担当する非営利の市民団体だった。金大中政権期は社会保険の拡充に力点をおいたが、盧武鉉政権期は、人的資源の開発と雇用を重視する「社会投資国家」的方向を追求した。

 社会的就労は1990年代初めの都市再開発地域での貧民運動に発する。そのころスペインのモンドレゴンなどの労働者協同組合の取り組みが聖職者を通して伝えられ、地域社会の貧困問題を“共同体”方式で解決しようとした。建設や縫製などで生産共同体が取り組まれたが、事業としては成功せず、ほとんどが倒産・解散していたが、この取り組みは、金泳三政権時1993.2—1998.2の1996年から始まる自活支援事業で生かされることになった。この自活支援事業では、全国5ヶ所に自活支援センターが設置された。(金弘一「生産共同体運動の歴史と自活支援事業」)

237 自活(支援)事業関係者を中心とする貧民運動や失業運動のグループは、日本の労働者協同組合にも学び、IMF事態のときには、介護、森林整備、清掃、縫製、リサイクルなどの公益事業を協同組合方式で行い、貧困層の自律を支援した。

 自活支援事業は国基法(国民基礎生活保障法217、生活保護)に盛り込まれ、各基礎自治体に自活後見機関(自活支援センター)を設け、貧困層のうちの労働可能な者のための職業教育・訓練・斡旋、生業のための資金融資の斡旋、自営創業支援、技術・経営指導、自活共同体(労働者協同組合)の設立・運営支援などを行った。自活支援センターの運営は、法制定以前から貧困層のためにコミュニティづくりや協同組合運動に取り組んできた市民団体に委託した。

 2000年代初め、イタリアやスペイン、日本などの協同組合や社会的企業などを含む社会的就労社会的経済が、構造改革に伴う大量失業と貧困への対処策として紹介された。朴元淳の「美しい店」もそのような中で取り組まれた。盧武鉉政権も、2003年7月から73億ウオンを投入し、社会的就労事業を開始した。その内容は、民間の非営利団体が地方行政や民間企業と連携する社会サービス事業体が、脆弱層雇用の人件費を支援するものだった。

238 2003年の韓国の経済成長率は名目3%であったのに、雇用は前年の60%から59%に減少した。(雇用衝撃)2004年から政府の各部が社会的就労事業を実施した。2007年、20万人の雇用に対して1300億ウオンが投入された。

239 これは2008年施行の「社会的企業育成法」*や「協同組合基本法」(2012年公布)**制定につながった。

*社会的企業とは「社会的弱者に社会サービスまたは雇用の場を提供し、地域社会の公益に合致する営利活動を行う企業」である。「社会的企業育成法」は、非営利団体などが運営するその種の事業体を一定の基準の下に、定期的に、社会的企業と認定し、これを行政が、人件費や販路開拓・税制・金融などで支援することを定めた法律である。

**農業や林業、水産業など一次産業と一部金融・消費分野に限られていた協同組合を、全ての事業領域で、協同組合の設立を可能にした法律である。出資額に関係なく、5人以上で、製造業やサービス業でも設立することができる。

 

2 過去への眼差し

 

光州と済州島

 

 民主化によって、金泳三の文民政府も、金大中の国民の政府も、過去の歴史を再評価した。金泳三政権は光州事件を解決した。

240 民主化直後、光州事件(5・18)の真相に迫ろうとする国会聴聞会が開かれたが、三党合同による国会構成の変化のため、中途半端に終わった。その後、学生や在野の運動団体が追及し続け、1995年7月5・18民衆運動連合が、全斗煥など58人を告訴した。しかし検察は「成功したクーデターは処罰できない」として不起訴処分にした。歴史の見直しは文民政権の正統性に関わった。金泳三は、文民政権発足直後に、5・18特別談話を発表し、「光州での流血は民主主義の礎であり、現政府はその延長線上の民主政府である」と述べた。

 1995年10月、盧泰愚の不正資金口座が暴露され、検察は2700億ウオンの収賄容疑で11月、盧泰愚を、12月、全斗煥を逮捕した。民自党から金鐘泌の自民連が離れ、与党が新韓党(新韓国党)となった12月、国会は5・18特別法(5・18民主化運動等に関する特別法)と、公訴時効特例法を可決した。この5・18特別法は、反民特委*の一件以来、韓国の国会が初めて過去と正面から向き合おうとした立法であった。

 

*反民特委は、反民族行為特別調査委員会の略で、1948年11月、国会で制定された反民族行為特別調査機関組織法によって設置され、1949年2月から、植民地時代の親日的行為や反民族的活動に対する調査活動を開始していた。063

 

 5・18特別法は、憲政秩序に対する破壊行為については、例外なく、つまり、成功の如何に関わりなく、処罰することを明文化し、5・17*のような軍事反乱や内乱罪について、刑事訴訟法上の公訴時効の適用を排除し、類似のクーデターなどへの抑止効果を持った。

 

1980年5月17日、戒厳司令部は、非常戒厳令を、済州島を含む全国に拡大し、18日金大中、文益煥、金鐘泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。さらに政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などの戒厳布告を発表した。(五・一七クーデター)全斗煥ら新軍部がこれを主導した。彼らは12・12クーデターを決行した頃からこの機会をうかがっていた。138

 

1997年、大法院はこの5・18特別法を適用し、全斗煥に無期懲役、追徴金2205億ウオン、盧泰愚に懲役17年、追徴金2268億ウオンを宣告した。(同じ年の暮れに実施された大統領選挙の直後に、全斗煥・盧泰愚は(金大中の)特別赦免によって釈放された。)

241 同じ1997年、「光州民主化運動関連者被害補償等に関する法律」が制定され、犠牲者の名誉回復と被害補償が規定された。光州市は中央政府の支援を受け、望月洞(マンウオルトン)の5万坪の敷地に5・18墓地を造成し、犠牲者をここに移葬した。

 5・18は、新軍部に対する運動圏の反独裁民主化運動の理念的基礎である。1980年代以降、5月になると、光州は勿論、全国の大学街で、真相究明と民主化を求める集会やデモが続けられてきた。光州の経験は、対抗文化としての五月文化を形成した。(『歴史的記憶と文化的再現――四・三と五・一八文化運動』)

 民主化後、5月18日は、国家記念日とされ、望月洞の5・18墓地には、壮大なオブジェが立つ。国民の政府(金大中政権)の時代には、湖南出身の大統領を戴き、これまで国家から周縁として差別され迫害されてきた光州は、韓国の精神の中心となった。

242 一方、四・三事件は、建国の基礎となる制憲議会選挙(5・10単独選挙)に反対する武装蜂起に始まっていたため、四・三蜂起を正義の“抗争”と位置づけることは、韓国の国家としての正統性を揺るがしかねないものだった。

 六月抗争以後、済州島でも急進的社会運動が台頭し、運動圏勢力は、様々な分野で論議を本格化させたが、六月抗争時点での済州島民の心は凍りついていた。1987年の大統領選挙で、四・三事件の真相究明を訴えた金大中の済州島での得票率は19%(全国27%)に過ぎなかった。

 文民政権が成立する頃1992には済州島民の心も和らぎ始め、1993年3月、済州道議会は四・三特別委員会を設置し、調査や慰霊事業を開始した。四・三特別委員会は、2年間の調査で、1万1700人の犠牲者名簿を掲載した「四・三被害調査第一次報告書」を発表した。その間、地元紙の『済州日報』は、1990年代の10年間、連載企画「四・三は語る」を通して、四・三の体験を掘り起こした。

243 1994年4月、これまで分裂開催されてきた慰霊行事が、四月祭共同準備委員会四・三遺族会による合同慰霊祭として、道議会の仲介で実現した。その際、左右のイデオロギー的見方を棚上げし、無辜の犠牲者の観点や受難と和解の精神に立つことが、合同の前提となった。

 1998年、金大中政権が始まり、50周年を記念し、済州島、ソウル、東京、大阪で記念行事が開かれた。1999年、済州島の官民が一丸となって、特別法制定促進に動き出し、1999年12月16日四・三特別法案が国会で議決され、2000年1月大統領によって制定・公布された。

 四・三特別法はその第三条で「済州島四・三真相究明および犠牲者名誉回復委員会」(以下委員会)を国務総理の下に設置し、2000年8月、この規定に基づいて20名からなる委員会が発足し、その下に真相調査報告書作成のための企画団が構成された。企画団は2年の調査に基づき、2003年3月、四・三事件の犠牲に対する「国家公権力」の過ちを認めた『四・三事件真相調査報告書』を作成した。これについて委員会内部で反発もあったが、10月15日、『報告書』が最終的に確定し、これを受け、盧武鉉大統領が済州島を訪れ、四・三事件の犠牲者遺族と島民に謝罪した。

 

過去清算

 

244 2005年8月15日の光復節に、盧武鉉大統領は過去清算について次のように語った。

「国民に対する国家機関の不法行為によって、国家の道徳性と信頼が大きく毀損された。国家は自ら率先して真相を明らかにし、謝罪し、賠償や補償の責任を尽くさなければならない。…国家権力を乱用し、国民の人権と民主的基本秩序を侵害した犯罪に対して、そしてこのために人権を侵害された人々の賠償と補償について、民事・刑事の時効の適用を排除し、適切に調整する法律をつくらなければならない。」

 2004年、韓国の国会は、過去清算に関する立法を多数可決した。2月、朝鮮戦争時の民間人虐殺の被害者救済に関わる法律(韓国戦争前後民間人犠牲者事件真相糾明名誉回復などに関する立法)、植民地期の強制連行などに関わる特別法(日帝強占下強制労働犠牲等に関する特別立法)、甲午農民戦争に関する特別法(東学農民革命軍の名誉回復などに関する特別法)、4月、親日精算法(日帝強占下親日反民族行為真相究明特別法、これは与野党間の難しい調整を経て可決された)が制定された。

245 すでに、5・18特別法1995.12、四・三特別法1999.12などもあり、2004年の段階で13の特別法が効力を持っていた。しかし、これらの特別法は、真相究明や補償規定などでバランスを欠き、人革党事件など軍事政権下での人権抑圧事件に関する立法がまだ為されていないという懸案もあり、これらの特別法を総括する母法として、植民地期から軍事政権期までのすべての事案に適用され、真相究明・責任の追及・補償などを効率的に実施できる特別法が、2005年5月過去事法(真実・和解のための過去事整理基本法)が成立した。この法律は、植民地期の独立運動、解放から朝鮮戦争に至る時期の民間人の集団虐殺、建国後不当な公権力行使によって発生した疑問死、大韓民国の正統性を否定するテロ行為など、近現代史の人権蹂躙・疑問死・テロなど全てを対象とした。

 この法律の調査対象となる案件が、朴正煕政権期の人権抑圧事件を多く含むため、朴槿恵を代表とするハンナラ党の抵抗が予想された。ハンナラ党は、真相調査の範囲に関連して、反国家行為に関する事項(「大韓民国の正統性を否定したり、敵対的な勢力、あるいはそれに同調する勢力によるテロ・人権蹂躙、暴力、虐殺、疑問死」)を盛り込むことに固執した。与党のウリ党は、この規定から「同調する勢力」という部分の削除を求め、ハンナラ党と対立した。

246 ところが、3月から4月にかけて、島根県議会による「竹島の日」の決議や、扶桑社の歴史教科書問題が起り、対日批判が盛り上がり、これが過去に向き合おうとする国民意識を喚起し、ハンナラ党がその機運に圧されて譲歩した。(「同調する勢力」という部分の削除に同意したということか)

 

乖離する日韓の歴史意識

 

 盧武鉉政権は、政権発足時には「日韓パートナーシップ宣言」で表明された金大中政権期の日韓関係の基調を堅持する姿勢を明らかにしていた。この姿勢は2004年7月に済州島で実施された小泉純一郎首相との首脳会談でも現れた。盧武鉉は歴史問題をめぐる両国国民の感情や認識の違いを踏まえ、自身の任期中は歴史問題を公式の議論や争点にしないと約束した。

 盧武鉉は金大中政権の新自由主義的通商戦略を継承し、中国・日本など周辺経済大国とFTAを締結し、韓国が東アジアの平和・繁栄のハブ国家になるという構想を描いていた。2004年に盧武鉉政権がまとめたFTAロードマップで、日本は最優先とされ、次いでASEAN・中国の東アジア諸国、そしてアメリカやEUは、中長期的な対象国とされていた。さらに北朝鮮には宥和政策(太陽政策)をすすめ、これを通じて東アジアの国際関係の安定と協力を進めるためにも、日本との協力が欠かせないと考えていた。

 しかし、核やミサイル問題で北朝鮮に対する圧力よりも対話を重視する韓国と、2002年9月の小泉訪朝以後、拉致問題をめぐって対北朝鮮政策が硬化した日本との開きが生じた。また小泉首相が就任直後から毎年靖国神社を参拝し続けたことにも、韓国人は穏やかでいられなくなった。そして島根県が、独島(竹島)の島根県への編入100周年にあたる、2005年2月22日を、竹島の日とする条例案を県議会に上程したとき、盧武鉉をはじめ韓国側の対日批判が一挙に噴出した。日本大使館などへのデモが頻発し、一部には焼身による抗議行動もあった。日本人を信頼できると答えた者が、2002年には24%だったが、2005年には10%を切り、9割が日本人は信頼できないと答えた。(『韓国日報』2005.6.9

 竹島の日本領土への編入は、1904年の日韓協約から韓国併合に至る植民地化の過程と重なり、韓国国民にとっては受け入れ難いものであった。韓国側の激しい反発にも関わらず、島根県議会は、2005年3月に、<竹島の日>条例案を採択した。(竹島は韓国人にとって韓国滅亡の象徴的存在なのかもしれない。)さらに2005年4月、竹島を日本の領土とする中学用教科書が増えた。これに対して盧武鉉は対日批判を展開し、6月、小泉首相がソウルを訪問した時の二時間の会談の大半を歴史問題に費やした。(趙世朠『日韓外交史――対立と協力の五〇年』)

248 この2005年、日本では漫画『嫌韓流』(山野車輪)が刊行され、刊行から半年で45万部売れた。すでに1993年の河野談話の頃から、靖国神社の国家護持を掲げる日本遺族会や、自民党内の保守派の巻き返しが激しかった。村山談話1995後の1996年、自民党保守派など100人の議員が、「<明るい日本>国会議員連盟」をつくり、「自虐的な歴史認識や卑屈な謝罪外交には同調しない」と宣言した。1995年、「自由主義史観研究会」が、また1997年、「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)が発足し、歴史修正主義が台頭した。

249 この歴史認識の逆流は、村山談話は日本の“近代”そのものの否定であり、日本人のアイデンティティを揺るがすという危機感に発し、バブル崩壊後の1990年代の日本社会の困難や不遇感・孤立感にも影響されている。1980年代に日本文化の優位性を謳歌した「日本文化論」は力を失い、格差や雇用不安を背景にしたとげとげしい空気が漲り、「漠然とした嫌悪感や“うざい”などという拒否感を持つ人々が、右傾化、自虐史観反対、保守化などの波にもまれ、『つくる会』に引き付けられた」(鄭夏美「文化交流を阻む無理解と非友好的心性」)

 その後の日韓関係は、実用主義的外交を掲げる李明博の登場2008や、日本での民主党政権の登場2009によって一時好転するかに見えたが、独島領有権問題や歴史問題は依然として残った。2012年、李明博大統領が突然独島を訪れ、日韓関係は日韓条約締結以来最悪と言われるまでになった。

 

ニューライト

 

250 歴史認識の逆流は、2000年代の韓国でも起った。「親日精算法」は、植民地時代の対日協力者の系譜に列なる政治・経済・言論各界の実力者に動揺と反発を与えた。盧武鉉政権期の過去精算が朴正煕・全斗煥軍事政権期に及んだことから、「記憶の内戦」が引き起こされた。韓国の保守言論『東亜日報』は、「親日真相糾明法」に関して、「人民裁判の親日糾明」「二分法的断罪」2004.3.3と反駁し、『月刊朝鮮』の趙甲済(チョガプチェ)は、「親日派の精算を叫ぶことによって、親北派は、自分たちの民族反逆性を隠そうとしている」と攻撃した。彼らは、過去清算を推進する盧武鉉政権を「親北左派政権」と決めつけ、過去精算の取り組みを、対北朝鮮政策や反共の論理にすり替えて非難した。

 保守言論とならんで、ニューライトが2000年代半ばに台頭した。1990年代に社会主義体制が崩壊し、経済や人権をめぐる北朝鮮の疲弊が明らかになる中、主に運動圏勢力から離脱した学者や活動家が、「自由主義連帯」(2004年結成)や「ニューライト全国連合2006などを組織した。彼らはOld-right(保守右派)やOld-left(保守左派)と自らを峻別し、減税・教育自由化・規制緩和・公企業民営化など、経済、行政、教育の自由主義改革と世界化(貿易の自由化)を主張する。反北朝鮮である点で旧来の保守(守旧勢力)と変わらないが、旧保守勢力が反共と既得権の保持以外に系統的な論理や思想を提示できなかったのに対して、ニューライトは韓国の資本主義的達成を踏まえて、より体系的な論理や歴史観を提示しようとしている。ニューライトは、日本から10年遅れた韓国版の歴史修正主義であり、「自虐史観」など進歩派を非難する用語や手法も、その借り物が多い。

 「自由主義連帯」代表の申志鎬・元ハンナラ党国会議員は、『東亜日報』のコラム2004.9.15の中で、「現執権勢力は自虐史観の所有者である。いまや戦線の性格ははっきりしてきた。(右派の)大韓民国の歴史を愛する人たちと、それを憎悪する人達との一大会戦、この国の運命は、その結果にかかっている。」

 ニューライト勢力は、新しい歴史教科書*の編纂に取り組んだが、その一部は日本の「つくる会」や『産経新聞』などとの結びつきを強め、植民地支配肯定論に踏み出した。(これこそ「自虐史観」ではないのか。)

*教科書フォーラム編『代案教科書 韓国近現代史』2008

252 自由主義連帯共同代表で高麗大学名誉教授の韓昇助は、『正論』2005.4に寄稿し、盧武鉉政権を、「左派政権」と批判し、「日本の韓国に対する植民地支配は、むしろ千万多幸であり、呪詛することよりもむしろ祝福」だとした。かつてマルクス主義的な経済史学に立脚して「植民地近代化論」*を主張した安秉直・ニューライト財団理事長は、2006年12月、MBCテレビの「ニュース現場」で、慰安婦問題について「強制動員されたという一部慰安婦経験者の証言はあるが、韓日両国にはどこにも客観的な資料はない」とした。(燃やしてしまったからあるはずがないし、警察が全ての資料を公表していない。)

*植民地支配が近代化に貢献したという説のようだ。

 しかし韓昇助の「カミングアウト」を、同じ自由市民連帯の若手会員は次のように批判した。「自由主義国家とはいえ、国と民族を抑圧した日帝植民地を美化する自由まではない。…(自由市民連帯の)指導部全員が辞退し、韓教授の共同代表職は勿論、会員資格も剥奪せよ。」(河棕文「反日民族主義とニューライト」)街頭では軍人が韓教授を「売国奴」と非難してデモをした。『東亜日報』は「“韓昇助史観”は受け入れられない」と論評し、植民地正当化論と一線を画した。2005.3.7安秉直も批判された。2006年12月8日、ニューライト全国連合は、「安秉直理事長の誤った歴史観を憂慮する」という声明を発表した。こうしてニューライトは反植民地感情によって粉砕された。

253 韓国人の8~9割は、植民地支配が強占であり、隣国がもたらした災いだと考えている。逆に日本では村山政権や民主党政権でも、植民地支配は不当であったが、合法的であり、補償(請求権)は法的に決着済みという立場だ。そのため韓国人はいつまでも、日本の謝罪は不十分で、信頼できないと考える。日本のこの姿勢に変化がない限り、教科書や領土をめぐって反日感情が噴出し、小康状態が打ち破られる。

 

3 保守回帰の時代――李明博政権から朴槿恵政権へ

 

李明博政権の登場

 

254 李明博は貧しい境遇から現代建設の社長に登り詰め、ソウル市長時代2002--2006には清渓川を復元し、2008年2月25日、ハンナラ党から、第17代大統領に就任した。李承晩から数えて10人目の大統領である。日本の政界や財界は、これまで盧武鉉の、靖国、独島、教科書など歴史問題をめぐる対応に手を焼いていたので、李明博に期待した。就任式に、福田赳夫首相、中曽根・森元首相が出席し、天皇からも「李大統領の成功と幸福、貴国の繁栄を祈る」というメッセージが届いたが、これは盧武鉉大統領の就任式にはなかったものだ。(天皇の政治利用)

 李明博は大阪生まれで、就任後初の首脳会談に福田赳夫首相を迎え、2005年を最後に中断していたシャトル外交を再開し、また日韓経済閣僚会議を復活した。

255 第17代大統領選挙は、地域主義への回帰が目立った。李明博の湖南での得票率は10%、与党候補の鄭東永の大邱や慶尚北道での得票率は、それぞれ6%や7%に留まった。理念や世代が、投票行動にあまり作用しなかったとも言える。韓国有権者の中道志向が顕著となり、固定的政党支持を持たない層が増大していた。

256 ネチズンの2004年当時の盧武鉉に対する人気も失速した。2006年5月統一地方選挙で、広域自治体の16市長・知事選で、ハンナラ党候補に12の首長を奪われ、ウリ党候補は、全羅北道の知事を守ったに過ぎなかった。首都圏の66の基礎自治体選挙でも、ハンナラ党が60選挙区を獲得し、各地でもハンナラ党候補が40~60%得票し、ウリ党候補は20%に留まった。その後ウリ党(国会議員の)離党・脱党が続き、離党したグループは、2007年5月、中道改革統合新党を結成し、6月、民主党と合流したが、再度、大統合民主党と民主党に分裂し、2007年8月、親盧武鉉のウリ党残留派大統合民主党に合流し(結局もとのウリ党になったということか)、さらに2008年2月、民主党がこれに合流し、統合民主党を結成した。これは金大中時代の与党・新千年民主党の構成と同じである。

257 第17代大統領選挙でも、それまで盧武鉉やウリ党を支持してきた20代から30代の若者の40%が李明博を支持した。これはIMF危機後の労働市場における「雇用なき成長」が、若い世代を直撃したからだろう。20代賃金労働者367万人の53%は、非正規である。(2007年現在か)

 非正規は2003年の783万人から2006年の845万人に増加した。また全就業者の32%を占める自営業主732万人のうち400万人が月収100万ウオン以下である。(韓国雇用情報院『産業職業別雇用構造調査』2009)そして350万人の農民は、農産物市場開放で疲弊していた。

 2004年の総選挙で、民主労働党(民労党)は13%得票し、10人の国会議員が当選したが、この第17代大統領選での民労党候補・権永吉の得票率は3%に過ぎなかった。229 1997年の大統領選で権永吉候補は1.2%を獲得し、2000年に民主労働党を結党し、「進歩の中の進歩」を自認し、2001年当時、全国40支部1万6000人の党員を擁し、2004年の総選挙で大躍進し、2007年、党員9万5000人、地区党員200人にまで拡大したが、2006年の統一地方選では、民労党の牙城蔚山で敗退した。民労党は、民主労総に結集した工業地域の正規職労働者以外の労働者や農民の支持を得られなかった。民労党は、第17代大統領選挙で敗退し、党を構成する運動圏の二大勢力NL派とPD派は分裂しそうになった。

 

ろうそくデモ

 

258 李明博大統領は、経済再建に向けた国家競争力の強化や行政改革を行い、これまで進歩派政権が取り組んだ、人権、過去清算、南北和解などの政策を帳消しにし、金大中・盧武鉉時代に進んだ、統合システム(ガバナンス=協治262か)と市民社会との間の、垣根を超えた相互浸透やコミュニケーションを断絶させた。李明博による経済再建への期待から、発足当時の李明博の支持率は80%だったが、李明博はそれに驕り、侮り、権威的な政策運営政府要職の情実人事が目立った。一方、大統領選挙で敗れた野党・市民団体・労組・運動圏なども、内輪もめに終始した。

259 ところが、中高生、青年、“白手”(20代や30代のワーキングプア)214、専業主婦などが立ち上がった。李明博大統領が、米国キャンプ・デイビッドにブッシュ大統領を訪問する2008年4月19日の前に、韓米両政府は牛肉交渉で最終合意した。牛肉市場開放を韓米FTA批准の条件とするアメリカ側の要求を受け入れ、韓米両政府は牛肉交渉で最終合意したが、これが、BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)の危険性を考慮しない全面解禁に近い妥結内容だったことをテレビ報道などが明らかにし、不安や憤りが韓国中に広がった。

260 2008年5月2日、ろうそくの灯を掲げた1万5000人の青少年とネチズンが、米国産牛肉の輸入条件緩和に抗議してソウルの清渓(チョンゲ)広場を埋めた。そしてこれが李明博政権の政策全般に対する異議申し立てや、大手保守言論への批判につながった。角南圭祐は次のように報告した。

ろうそくデモは中高生を中心とする非暴力主義の「ろうそく文化祭」として始まり、警察の弾圧に対応するように暴力化したが、カトリックや仏教など宗教勢力の参加で再度非暴力化した。どの団体も主導権を取れず、大衆的・自然発生的であり、夜通しぐるぐる歩き回る消耗する闘いで、また簡単に警察に制圧された。「船頭多くして船、山に登る」という毎日だった。就任2ヵ月後の大統領の弾劾デモを行うなど、矛盾をはらみながらの行き当たりばったりの運動だった。(「民主化後の新しい反政府運動 ろうそくデモの現場から」)

 

261 このろうそくデモは、既存の市民団体や進歩勢力を巻き込みながら、巨大化し、大統領が謝罪し政策を変更するまでになった。(どういうことか)このろうそくデモは、2008年6月10日の100万人集会をピークに、3ヶ月間続いた。

 ろうそくデモや集会は、明白な対案を持っていなかったが、受験、就職、昇進などの競争圧力に締めつけられる不安や不満が、ちょっとしたことがきっかけで爆発しうることを示した。

 ハンギョレ新聞はこれを「新しい運動主体の台頭」と評したが、これは、従来の保守・進歩の枠組を超えた、人々の価値観や生活意識の変化の現われだった。

 

ソウル市長となった朴元淳

 

262 朴元淳は、参与連帯、美しい財団、その傘下の美しい店、市民参加の社会企画・革新をする希望製作所(フィマンチェジャッソ)を立ち上げていたが、李明博政権に対しても、当初は「実用政権として成功しうるだろう」と行政との連携が可能だと考えていた。

 朴元淳は、希望製作所の運営を通じて、それまでの支援運動を超えた新たな課題や運動形態を模索していたが、その一つが「ガバナンス=協治(ヒョプチ)」、つまり、政府=国や地方自治体、企業=市場経済、市民社会=非営利組織・団体の三つが、問題解決に向けて協力し合う過程・形態であった。

 ガバナンスは、福祉の担い手が国家だけではないことを想定する。従来の韓国の社会運動は、異議申し立てや立法運動により、国家政策を変換することで、福祉が可能だと考えていたが、欧米や日本でも、そして韓国でも、政府の能力は低下し、行政は、市民社会との協力が必要になってきた。

263 そして進歩派政権は行政と市民との協力を可能にした。経済界でも企業活動のモラルや社会的責任(CSR)に取り組むようになってきた。希望製作所の小企業発電所(ソギオプパルチョンソ)は、ハナ銀行から300億ウオンの資金を得て、公益目的の地域産業や、社会的企業への融資を始めた。また行政自治部の委託を受けてソウル中区のプレスセンター内に設置された地域広報センターは、国・地方自治体・市民団体の提携による、地域産品の展示や情報提供、資金調達に役立った。2007年11月、地域広報センターの開所式が行われたが、その時、行政自治部長官や呉世勲(オセフン)ソウル市長が参加した。

 李明博は保守政治家だが、民主化時代の地方行政の長として(ソウル市長2002--2006)の経験から、こうした協治を知っているはずだし、企業家的なプラグマティズムの観点からも、市民社会の活力を利用するだろうと朴は考えていた。実際、李明博はソウル市長時代、その給与の全額を美しい財団に寄付していた。

264 しかし、ハナ銀行が資金支援の約束を反故にし、行政安全部*は3年契約の運営委託を1年で解約した。朴元淳は憤激し、これを政府による圧力だと察知し、2009年6月、検察・国情院(国家情報院)の中立性・独立性の保障や、反市民社会的政策の中断などを求める時局宣言を発表した。また週刊誌『ウイークリー京郷』のインタビューで、ハナ銀行の支援中断や地域広報センターの運営委託解約の背後に国情院の介入(民間査察)があったことを暴露した。

*2008年、行政自治部が、中央人事委員会などを統合して、行政安全部となった。

国情院は、かつて国家の中の国家と言われるほど絶大な権力を振るった韓国中央情報部KCIA(新軍部政権期には安全企画部に改組)を継承する諜報機関だった。民主化が進展し、10年に渡る進歩派政権のもとで、その役割や機能が著しく縮小していたが、その国情院が久しぶりの保守政権の下で復権を目指し、市民団体や野党関係者の「民間査察」(スパイや諜報や尾行などか)によって保守政権への忠誠ぶりを誇示しようとした。

265 朴元淳の暴露に対して国情院は、2009年9月、「大韓民国」の名で、朴元淳個人を相手に、2億ウオンの名誉毀損訴訟を起こした。翌年2010年9月、ソウル中央地裁は国情院敗訴の判決を下したが、その間に希望製作所は甚大な被害を蒙った。国情院の訴訟を受けて、希望製作所を後援していた大部分の企業が手を引き、100人いたスタッフも大幅な縮小を余儀なくされ、プロジェクトの多くも中断せざるを得なかった。

 朴元淳は、権威主義的体質を引きずる保守政権の下で、市民社会の側から協治ガバナンスを推進することの限界を感じたが、その時、呉世勲ソウル市長が、ソウル市議会の決定した学校給食無償化に反対して住民投票に訴え、これに呉が敗れて市長を辞任した。補欠選挙が2011年10月に実施されることになり、朴元淳は、これに立候補した。朴は、ソウル議会で多数派を占めていた野党民主党と、韓国ベンチャー業界の第一人者で、既成政治の刷新を主張していた安哲秀(アンチョルス)の支持を取り付けた。朴は当選し、第35代ソウル市長になった。

266 朴元淳は、ソウル市長就任直後から社会投資財団*の推進や、社会的企業や地域社会事業などの推進を目指す社会経済委員会を設置し、従来の再開発事業とは異なる、住民、商店街、社会的企業などがあまねく参加する地域社会復元事業など、ガバナンス=協治に関わる政策や構想を打ちだした。

*ソウル市と民間企業が共同で出資し、毎年1000億ウオンの基金で、青年、失業者、低所得者の就労支援や創業支援に当てるための財団。

 市長選で朴は、安哲秀や、各選挙区に基盤を持つ民主党組織に依存した。当選後朴は、民主党を中心に、市民統合党*や韓国労総(ノチョン、韓国労働組合総連合)などが合流した民主統合党275に入党した。cf. 統合民主党256とは違うようだ。

*文在寅元大統領秘書室長や、李海瓚(イヘチャン)元国務総理、韓明淑(ハンミョンスツ)元国務総理など、盧武鉉大統領の下で要職を務めた親盧武鉉派の政治家が、2011年9月に結成した野党統合推進機構の「革新と統合」が、新たな統合政党に合流するステップとして結成した院外政党。

 

“七四七ビジョン”の挫折

 

267 李明博政権はスタートから、経済成長率7%、国民所得4万ドル、七大経済強国入りという七四七ビジョンや、朝鮮半島を貫く大運河計画を打ちだしたが、出だしからろうそくデモ(2008年6月10日)や、2008年9月の、リーマンブラザーズ破綻から始まる世界経済危機に見舞われた。韓国経済は盧武鉉政権末期から国際収支が悪化し、2008年9月に償還時期を迎える短期対外債務を返済できないと噂されたていた。リーマンショックにより韓国の通貨ウオンは10月末、1ドル1466ウオンと下落し、企業特に中小企業が損失を被った。

 これに対して、李明博政権は海外投資を制限し、大規模な財政出動をし、2009年、財政支援による社会的就労を拡大し、社会福祉関連支出を増やした。12兆ウオンの法人税・所得税の減税を行ったが、過大な支出と財政収入減で、2009年には過去最悪の51兆6000億ウオンの財政赤字となり、減税策も「金持ち減税」と批判された。2010年、財政支出の抑制を行ったが、一層の金持ち減税を強行し、財政赤字をさらに悪化させ、李明博政権5年間の累積赤字額は、98兆8000億ウオンになった。これは、盧武鉉政権期の財政赤字額10兆9000億ウオンの9倍である。

268 七四七ビジョンの論理は、減税で投資・消費意欲を刺激するとともに、大運河計画などの大規模公共投資をすることによって、経済成長率と国民所得を引上げ、七大経済強国入りを果たすというものであり、リーマンショック中でもこれを押し通したが、結果は、減税で大企業の収益は拡大したが、パイの拡大やトリクルダウンはほとんど起らなかった。

 李明博政権期の平均経済成長率は2.92%で、前政権期の4.42%、大規模な通貨危機に見舞われた金大中政権期の4.3%を下回った。国民所得では、2007年の2万165ドルが、2008年と2009年は2万ドルを割り込み、2010年、11年に2万ドルを越えたが、11年の2万2500ドル程度に過ぎなかった。国民経済規模の世界順位は、2008年の15位から変わっていない。

260 大運河(テウナ)計画は、漢江と南東部の洛東江(ナットガン)を結ぶ京釜運河(キョンブウナ)を中心に、最終的には韓国と北朝鮮を貫く17本、全長3100キロの運河をつくって大物流網を構築するというものだったが、野党や市民団体の反対ばかりでなく、与党内の親朴槿恵派の合意も得られず、2009年6月、完全撤退を宣言した。しかし、これに代わる「グリーン・ニューディール政策」と銘打った、四大河川(漢江、洛東江、錦江(クンガン)、栄山江(ヨンサンガン))整備事業が、22兆ウオンを投入して推進されたが、環境団体から「有史以来の国土破壊」と評され、釜山大の経済学者から「地方中小建設業者の受注率が40%に過ぎず、景気浮揚、地域経済活性化効果はなかった」とされた。潤ったのは、大型建設会社だけだった。

 

天安艦事件と延坪島砲撃事件

 

 李明博政権の対北朝鮮政策「非核開放3000」は、北朝鮮の非核化と開放を前提に、10年以内に北朝鮮の一人当たり国民所得を3000ドルに引き上げるという構想だが、北朝鮮を開放に導く方法は、和解協力ではなく、圧力や封じ込め一辺倒であった。

270 李明博政権の対北朝鮮政策は、進歩派10年の北朝鮮包容政策が開放に導くのに失敗したという前提に立っていた。(金煉喆「北朝鮮変化の原因と展望」)李明博政権は、北朝鮮が1990年代半ばのように、経済がマイナス成長で、食料供給量が500万トンを下回り、大量の餓死者を出していると推測していた。また2007年、金正日国防委員長の健康不安のため、後継者問題で自滅するという観測もあったので、李明博政権は強気に出ていた。

 李明博政権は発足当初から、盧武鉉政権期2007年10月の南北首脳会談の約束である開城工業団地の二期工事の着手などの経済協力事業や、離散家族再開事業の拡大などを事実上反故にし、その後も、「一貫して北朝鮮変化先行論に固執し、北朝鮮が先ず譲歩し、屈服することが問題解決の開始であると見なした。」(金根植「李明博政府の対北朝鮮政策の評価と次期政府の課題」)

271 こうして南北関係が悪化し、南北対話は公式・非公式とも途絶えた。2010年3月、韓国哨戒艦天安(チョナン)が、朝鮮半島西海岸の北方限界線(NLL)付近で、船体が二つに切断されて、沈没し、46名が犠牲になた。李明博政権は、これを「北朝鮮の軍事挑発」と断定し、5月、北朝鮮船舶の韓国海域での運航禁止、南北間交易の中断、韓国民の北朝鮮訪問の原則禁止、対北朝鮮新規投資の禁止などの制裁措置を発表した。(五・二四措置)

 2010年11月、北朝鮮人民軍が、北方限界線を越えた延坪島(ヨンピョンド)に向けて砲撃し、これに韓国軍が応戦し、韓国海兵隊員2名と民間人2名が死亡した。朝鮮戦争以後初めての領土攻撃と民間人犠牲となった。その後李明博政権はますます北朝鮮崩壊論に傾いた。

 2011年12月、金正日国防委員長が死去し、金正恩体制へ遅滞なく移行し、内部崩壊の兆しは見られなかった。北朝鮮は、2009年4月、弾道ミサイル(北朝鮮は人工衛星と主張)、5月、二度目の核実験、2012年4月と12月に弾道ミサイル打ち上げなど、核武装を推進した。12月のミサイル(光明3号二号機)は、初めて衛星軌道への投入に成功した。北朝鮮は中国への依存を深め、朝中間で東北三省開発計画など開発協力プロジェクトが進んだ。

272 李明博政権の対北朝鮮強硬政策は、その後の南北関係の改善を極めて難しくした。

 

第18代大統領選挙

 

 2008年、李明博政権への支持率が低下する中で、盧武鉉の人間性や率直な政治スタイルを回顧し再評価する機運が高まった。ところが、盧武鉉人気をかき消そうとするかのように、盧武鉉大統領時代の秘書官や兄の盧建平(ノゴンピョン)などの側近が、収賄や横領容疑で相次いで逮捕された。検察の捜査は盧にも及び、2009年4月、検察は600万ドルの収賄容疑で盧を事情聴取した。盧武鉉はこのような集中的な標的捜査に追いつめられ、5月23日、慶尚南道金海市の自宅近くで自死した。

273 盧武鉉の死は李明博の支持率を一層低下させた。2004年の盧大統領弾劾以来、親盧派と金大中派の対立で離合集散していた野党の中で、親盧派が復権し、野党再編の軸となった。2010年6月2日統一地方選挙で、ハンナラ党は広域首長戦で、ソウル・京畿道で再選を果たしたが、保守の牙城の江原道や慶尚南道で敗れ、16人中12人の首長が6人に半減した。一方、野党民主党は、仁川など広域首長が7人、野党統一(野圏単一化(ヤグオンタニルア))が実現し無所属で出馬した慶尚南道を含めると8人が当選した。

274 基礎自治体についても、ハンナラ党は議会では3分の1減に踏みとどまったが、首長は半減した。これは、韓国の進歩勢力にとって、2004年の盧武鉉大統領弾劾政局下の国会議員選挙でのウリ党の大躍進後、2006年の統一地方選挙、2007年の大統領選挙、2008年の国会議員選挙と敗北を続けてきた末の6年ぶりの勝利だった。与党ハンナラ党は、2010年5月20日の選挙運動開始日に、「天安艦沈没事件の調査結果」を発表し、対北朝鮮安保に対する不安感を掻き立てようとした(北風)が、効果はなかった。2010年12月、民主党と、親盧武鉉の市民連合と、韓国労働組合総連合(韓国労総(ノチョン))が合同し、民主統一党を結成し、そこで親盧派が中心となった。

 李明博政権の支持率は政権末期に20%台に落ち込み、2012年8月10日、突然独島を訪問して35%に回復したが、9月、大統領退任後に備えた土地購入疑惑で捜査を受け、支持率を下げた。

 朴槿恵は1998年地元大邱での補欠選挙で初当選して政界入りし、父親の後光もあってハンナラ党の副総裁を歴任した。2002年一旦ハンナラ党を離れ、北朝鮮を訪問し、金正日と会見した。朴槿恵は、母陸英修(ユギョンス)婦人が1974年に不慮の死を遂げた後、朴正煕大統領のファーストレディ役を務め、政界の経験も豊富で、政治手腕は卓越していた。2004年の盧武鉉大統領弾劾政局でもハンナラ党代表として惨敗を最小限に食い止め、「選挙の女王」と呼ばれた。

275 朴槿恵は、第17代大統領選挙の予備選で李明博と接戦し惜敗した。党員+有権者+世論調査を合計した得票率で、李が49.8%、朴は48.1%だった。朴は、レームダックの李明博の政策と差別化する選挙戦略を立てた。(浅羽祐樹『したたかな韓国――朴槿恵時代の戦略を探る』)朴槿恵は李明博の大運河計画に反対した。

 ハンナラ党はソウル市長補欠選挙で敗北した後、朴槿恵が非常対策委員会委員長に選出され、政権与党のイメージを払拭した。党名をセヌリ(新しい世の中)党に変え、2012年4月国会議員選挙で、152議席を獲得し、前回の162議席を下回ったが、民主統合党の127議席を大きく上回った。7月、党内の予備選挙で、83.9%を獲得し、二位の金文洙*(キムムンス)を圧倒した。

*金文洙は運動圏出身で、1980年代まで労働運動に携わって来たが、金泳三政権期の1996年の国会議員選挙で、与党から出馬して初当選し、政界入りした。2006年の統一地方選挙で京畿道の市長に選出された。

276 格差や貧困の拡大が、反朴民主化勢力の失敗と受け止められ、その反動から朴は、漢江の奇跡を実現した朴正煕の再評価と郷愁に支えられた。朴槿恵は、福祉、財閥改革、格差解消など進歩派が唱えてきたフレーズをなりふり構わず選挙公約に取り入れ、経済成長や大財閥優先とされた李明博との差別化を目指した。

 一方、文在寅は、2012年8月民主統合党の予備選挙で56.5%を獲得し、大統領候補になった。文在寅は、1980年代、弁護士として盧武鉉とともに歩み、盧武鉉政権期には大統領秘書室長を努め、盧武鉉の国民葬の葬儀委員会常任執行委員長を務めた。

277 安哲秀は、コンピューターのアンチ・ウイルス開発で成功し、ソウル大学校融合技術科学大学院長、製鉄会社ポすコの社外取締会議長を歴任し、2011年初めのテレビトークで、その生き方や価値観が、青年の関心を集めた。その後「青春コンサート」と称して各地でトーク・コンサートを企画し、競争社会や正義・公正社会について考える若者の指導者として人気があった。安は、2012年9月の次期大統領選に向けた世論調査では、朴槿恵40.6%を抜いて43.2%を獲得した。

 2012年9月、安が大統領選への出馬を表明した。民主党は安に候補一本化の交渉を呼びかけ、民主党が、政治刷新を求める安の要求を、李海瓚代表以下民主党指導部の総退陣で応え、一本化協議が始まったが、統一候補選びの方法で難航し、一致点を見い出せないまま、安が辞退し、結果的に文在寅への一本化が実現した。安も政権交代に協力すると表明したが、しこりが残った。

 

鍵を握った50代の有権者

 

278 2012年12月、第十八代大統領選挙が行われ、与党セヌリ党の朴槿恵が、第一野党の民主統合党の文在寅を108万差で破った。投票率は75.8%で、前回の63%より関心が高かった。朴は大邱と慶尚北道で80%を獲得し、文は光州で92%、全羅南道で89%、全羅北道86%を獲得し、地域主義的だったが、他の地域では大きな差はなかった。

 テレビ3社の出口調査によると、若い世代は進歩派を支持し、これは2008年のろうそくデモ以来定着した。50代は、韓国の民主化をリードしてきた世代だが、文支持は37%しかなかった。金根植(キムグンシク)は、安哲秀陣営の慶南大学校教授で、対北朝鮮政策で安哲秀の指導者と言われたが、文の敗因について次のように語った。

第一の敗因は、文が候補単一化を信じすぎたことだ。2002年の大統領選挙のとき、盧武鉉が鄭夢準との一本化に成功した記憶が災いした。必要な戦術や戦略を怠った。

第二の敗因は、選挙戦を主導するテーマや課題を提出できなかったことだ。安全保障、経済民主化や福祉でも、朴の政策との差別化に失敗した。李明博審判論が提起されたが、それはすでに朴がやっていたことだった。

第三の敗因は、50代に、親盧派への憎悪や嫌悪感があったことだ。50代は、大学時代に独裁政治に苦しみ、10年前に盧武鉉に投票したが、老後の不安を抱える。投票日午前中の文有利の報道に危機感を覚えた彼等が、午後、投票所に向った。つまり朴に投票した。

281 朴は進歩派政権の失敗につけ込んだが、進歩派は李明博の失敗に付け入ることができなかった。また、進歩勢力内部の確執と離合集散がしこりとなっていた。

 

セウオル号沈没事故と韓国社会の行方

 

2012年暮の韓国社会は、新自由主義の経済政策により、家族や地域の靭帯が衰え、核家族や一人世帯が社会の大半を占め、子育てや老後に関する中産層の不安・不満が充満していた。進歩勢力は大統領選挙に敗北し、精神的に崩壊し(メンプン)、南北関係は行き詰まっていた。

282 朴新政権は、公共、労働、金融、教育を中心に構造改革を進め、「基礎のしっかりした社会」づくりを目指すとしている。しかし、参与連帯に言わせれば、朴改革は、財閥・大企業に有利な規制緩和や民営化を進め、国民の生活と安全を脅かしながら格差や亀裂を深くしているとされる。(参与連帯『福祉動向』2015.2

 大統領選挙の過程で国情院がネットの書き込みやツイッターを利用して、世論操作をしていたことが明らかになった。さらに、ソウル地方警察庁が、この世論操作に関する捜査を矮小化し、偽りの中間捜査結果を発表していたとされる。2014年4月国情院による証拠のでっち上げによって、ソウル市の職員がスパイ罪で逮捕されるという事件が発覚し、大統領と国情院院長が謝罪した。

 朴槿恵政権1年目の国家保安法に基づく立件は129件で、この10年で最多である。(統計庁)2013年9月、左派政党の統合進歩党*の李石基(イソッキ)議員が、「内乱陰謀罪」で逮捕された2014年12月、統合進歩党も「民主的基本秩序に反する」政党だとして、強制解散の処分を受けた

(恐ろしい!)国情院や検察・警察が、国家安保の名目で、反対派を「従北左派」とか「親北左派」と決めつけ、政治に介入することを、「低い水準のファシズム」と非難する研究者もいる。(金東椿「朴槿恵政権の『国情院政治』」)野党や市民団体から、「公安統治」の再来との批判も聞かれるようになった。

*民主労働党(民労党)と何らかの関わりがあるのかもしれない。

 2014年4月16日、大型旅客船セウオル号が沈没した。安山市の高校の修学旅行生を含む476人を乗せたセウオル号が、3倍以上の過積載や荷崩れ、急旋回のため、全羅南道の珍島(チンド)沖で横転沈没した。完全に沈没するまでに50時間以上あったにもかかわらず、避難誘導や救助活動のミスや遅れから、死者が312人、犠牲者のほとんどが高校生だった。日本から買い入れた中古船に積荷を少しでも増やすために無理な改造が何度も加えられ、船の復元性が低下していた。船員はほとんど非正規で事故当時操船していたのは三等航海士の新人であった。乗客は船室で救助を待つことを指示されたが、船長をはじめ多くの船員は真っ先に船外へ逃げ出していた。船会社はもとより、救助すべき海洋警察も、政府当局も、事故に関するあらゆる制度・機関のずさんさや無責任が複合していた。

284 事故は2014年の韓国社会のいびつな自画像として深い衝撃を与えた。軍部中心の権威主義体制の時代に、社会の上層・下層を問わず根を張るようになった権威的で無責任な体質、真っ当なコミュニケーションの欠如、新自由主義的な競争圧力から生じる社会の歪みという、建国以来幾重にも積み重ねてきた歪みとほころびが事故を通じて露になった。「権力や政策をめぐるエリートの競争としての民主化の限界」や、一人ひとりの民意に寄り添うことを忘れた、エリートモデルとしての社会運動の限界が明らかになったとも言われる。(金翼漢「セウオル号事件後の市民運動の新地平」)

 

おわりに

 

285 私が10年前に書いた『韓国現代史』は、2000年代前半までの、民主主義や人権が謳歌される時代までを描写し、ハッピーエンドで終わっていたが、それからの10年間に、背後にあった逆流が始まった。反共を楯に人権や民主主義を抑圧してきた旧時代の潮流が、しぶとく生き続けていたのだ。盧武鉉時代にリスク社会の拡大・深化に歯止めがかけられなかったことが、保守政権の復活を許し、息を潜めていた旧時代の亡霊たちを蘇らせた。盧武鉉が自死し、いまや歴史の逆流は止まるところを知らない。

286 日本ではすでに1990年代からそういうバックラッシュが目立ち始めた。今では特定秘密保護法や安保法制の制定など、平和と民主主義をめぐる戦後日本の達成が揺らいでいる。それは隣国の人々にも不安を抱かせる。歴史認識に関して、村山談話や河野談話の線からの後退は、韓国人には許しがたことである。朴槿恵でさえ「加害者と被害者という歴史的立場は、千年経っても変わらない」と意地を示した。

 亡父朴正煕元大統領は、歴史の清算を棚上げして、日韓条約を推し進めたが、それは朴槿恵大統領にとっては負い目のはずだ。法的にも、憲法裁判所が慰安婦問題をめぐる韓国政府の不作為は違憲だ2011.8としている以上、朴槿恵にとって安易な妥協はできないはずだ。

 朴槿恵政権は、中学・高校の歴史教科書を、検定制から国が単一の教科書を編集・発行する国定制に変えるという時代錯誤の政策を打ち出し、朴正煕時代に対する歴史の評価権を国が独り占めし、亡父を偉大な指導者に蘇らせようとしているのかもしれない。国定制に対して、野党や歴史学者、それに高校生からも反発が激しくなっている。

287 本書は旧版になかったこの10年間を、逆流や反動の時代としてだけ描いているわけではない。逆流の時代にも、新しい時代への営みが着実に積み重ねられていることも示している。

2015年11月  文京洙

 

 

288 大韓民国憲法の沿革

289 参考文献

略年表 1910—2015

 

以上 2020531()

 


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