2020年6月20日土曜日

戦後の道は遠かった 東條勝子 「文芸春秋」にみる昭和史 1988 要旨・抜粋・感想


戦後の道は遠かった 東條勝子 「文芸春秋」にみる昭和史 1988


上流階級の奥様然。この一文は、夫の不倫の弁明のためとしているが、当時の上流階級の実態をさらけ出している。
夫が自殺に失敗し、巣鴨に捕らえられてから、生活にそれほど困ってもいなかったようなのに、静岡新聞の社長・大石光之助から月額1万円の提供を受け1948.3、8年間停止されていた軍人「恩給」も受けられるようになった。長男・英隆は鴨緑江発電に勤め、次男・輝雄は三菱重工業、三男・敏夫は士官学校学生、次女・満喜枝の夫の古賀秀正・陸軍少佐は、近衛司令部に勤めるなどエリートの面々である。(古賀は敗戦直後の8月15日に自害した。)102, 103, 104
 「お国のため」が当然のことのように口から出てくる。上流階級とのお付き合いや、夫のこと、子どものことしか眼中になく、自分より貧しい人々のことに思いをはせることはない。
一つ、私が知らなかった発見があった。東條は敗戦1年前から政界を引退していて、時たま重臣会議に出かける以外は、世田谷の用賀で百姓をしていたという。

 本文でも彼女が日本女子大学の学生当時から東條家に出入していたと言うのだから、相当な家系に違いないと思いつつウイキペディアで彼女のプロフィールを調べてみた。

東條かつ子(勝子は通称)1890.10.8—1982.5.29
福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の長者・伊藤万太郎の娘。小倉高等女学校時代、万徳寺に下宿していたが、万徳寺は東條英機の母の実家であり、日本女子大学校国文科に入学1906した際、東條英機の父・英教に保証人になってもらい、東條家に出入していた。当時陸軍歩兵中尉だった東條英機と学生結婚1909.4.11し、その後も通学したが、中退した。


メモ・抜粋・感想

099 (1964年、昭和39年6月、)戦争が終わって20年近くになる。昨年1963『文芸春秋』に主人の「最後の日記」を掲載してもらった。主人が止むを得ずしておかれた事情を理解してくれた大勢の人から好意あるお手紙を頂戴した。泉下の主人へのいい土産が出来たと思う。
1月27日号の『週刊新潮』に、主人が昭和19年、料亭「嵯峨野」で、吾妻徳穂さんと、戦争をよそに、密会していたという故尾崎士郎先生の一文が載っているのを「嵯峨野」のおかみさんが見せてくれた。尾崎先生は「東條は情味の薄い一事務軍人ではなく、英雄豪傑たるべき条件と資格を備えていた男とわかり見直した」と書いていた。
私は戦場で当時、必死に闘っておられた人達や、戦死なされた方の遺族の方々が、もしこれをお読みになったら…私はいても立ってもいられない心持でした。私たちは今日まで、どんなにことを強いられても黙って過ごして参りましたし、なるべく静かにそう思って暮らしてきましたが。先に逝ったものの真実だけは守りたいと思えてきた。
100 昭和19年1月16日、突然主人が原因不明の高熱で倒れた。主人にとって重要な国会での施政方針演説を前にしていたころだった。主人は東大の権威のある人に見てもらおうとせず、軍医にこだわった。結局、不思議なことに、糾励魂(きゅうれいこん)という漢方薬系の貼り薬を貼ったら直った。
このように大病していたのだから、吾妻徳穂さんとの密会など出来るはずがない。戦争責任を免れようというのではありません。それは罪として主人は背負ってゆきました。けれども、寝食を忘れ、おのれを忘れ、あれほどまでに国のためよかれと努力していた主人が、不徳義漢というような烙印を押されたままでいることは、私には許せないような気がするのです。そう思っていけないでしょうか。
101 昭和19年7月、主人は全ての公職から退いた。総理官邸を引き払い、7月22日、世田谷区用賀の今の自宅に主人は帰って参りました。4年前の7月22日に陸軍大臣官邸へ行ってまるまる4年です。総理官邸と陸相官邸と二つに住んでいなければならない時は、4人までお手伝いさんが増えた。
 私は20歳で、26歳の東條のところに嫁いできた。東條の母はまだ48歳だったが、非常にヒステリックで、とても難しい人で、家中が腫れ物にでも触る思いで、姑に接していた。私はすぐには戸籍に入れてもらえず、どうしてこれだけ苛められるのか分からないと思うほど、痛めつけられました。
104 (1945年)8月15日の御詔勅を聞いて、主人は「終戦までは一死御奉公。これからは陛下のお命令で生き抜いて再建の御奉公。御奉公の方向が違っただけで意義は少しも違わない」と家族の者に教え諭した。(これが戦後の右翼の思いなのだろう。)その直後満喜枝の夫の古賀が自決したという連絡が司令部から入った。
 弔問に訪れた青年将校の中には「城を枕に一戦を交えよう」と言う者もいたが、主人は承詔必勤を訓していたようです。
105 娘4人と孫を九州に行かせた。長男は会社を辞め伊東の三浦義一先生のところに置いていただいた。三男はまだ帰っていなかった。私はねえやのさやさんと東京に残った。9月3日、三男敏夫が戻り、九州へ旅立たせた。このころ書かれた9月9日付けの遺書がある。他に巣鴨で書いた二通の遺書もある。
106 主人は遺書の中で「葬儀を東京ではなく安真木(私の実家の村)で、子どもたちだけで行え」「遺体は政府や敵に渡されるかもしれないから、頭髪や爪で結構だ」「霊は(死刑にされた)その日のうちに安真木に先着しあり」と書いていた。また、「魂は公的には国家とともに、私的には御身(妻)と子供の上にあって守るべし、安心せよ」(死後も国を守ってやるということらしい。)とも書いていた。
9月11日の午後3時ころ外人記者が集まり始めた。私は主人に別れを告げ、さきさんとともに家を離れた。世田谷の鶴巻のある知人のところに逃げることになっていたが、予定を変更して、隣家の庭で様子を見ていた。
107 パンというピストルの音が聞こえると、MPが戸を蹴破って家の中にどかどかと入り込んだ。「ああ、生きている間中忙しく自分の身を忘れて仕事をしておられたのに、最後になって静かに死ぬことが出来ないなんて、あなたという人はなんというお気の毒な方なのか」そう心の底からMPを憎く思ったのでした。
その晩鶴巻の親戚・長谷川さんの家で泊まった。そこで心ばかりのお通夜をしたが、翌朝ラジオで脈拍が云々と放送された。米軍は救急車を用意し、医師も呼ばれていて、その場で手術したとのことである。
108 当時内務省へは、一週間後に東條を連れに行くと、米軍から通告があったそうだが、なぜ内務省は私たちにその通告をしてくれなかったのか、私はそれを怨みに思います。(恐らく米軍は内務省に、秘密にしておけ、東條に自殺されてもらっては困る、裁判で事実を明らかにしなければならない、と考えていたのだろう。)
長谷川さん宅で一晩泊めてもらった後、静岡新聞社長の大石光之助さんが、私たちの九州への旅立ちにお供してくれたが、その日は結局乗れず、大石さんが、主婦の友社の石川社長のお宅を頼んでくれた。
翌日九州にさやさんと旅立った。
新聞記者を避けるためにすぐには実家に戻らず、遠賀川流域の大隈在の親戚に身を潜めた。10月、山を越えて実家に戻った。実家のある村以外からは冷たく見られた。
手紙を全国のいろいろな方からいただきました。慰めのお便りと、憎悪に満ちた手紙と。憎悪の手紙は別にしておき、その上に「憎しみや呪いごとさえありがたきわが師なりけりかえりみすれば」と書いた紙をおいた。(やはり許せなかったのだろう。)
109 満喜枝は古賀へ行っており、下の娘二人は伊藤という戸籍に入れて、福岡の女学校に行っていた。
まず長女が上京し、昭和21年10月、私たち(娘三人とさきさんと共にということか。つまり、4人の娘のうち、長女が先に上京し、次女も古賀家に許されていたということか。)も上京し、「嵯峨野」にお世話になった。主人に面会し、遺書を渡されたが、次女の満喜枝について「古賀の姑上の御同意あらば再婚もよし」とあった。
東京での生活はやはり大変苦しかった。女の子四人、一人は子持ち。(娘を全員上京させたのか)
昭和23年3月、大石さんが突然訪ねてきて、1万円を包んで差し出し、「閣下が一切の責任を引き受け、あんな立場に立って下さったのに、奥さんにあまり不自由をかけては、国民として忍びないことです。毎月、私がこのくらいお手伝いをしますから、そのつもりでいて下さい」と言った。
110 娘たち4人を養っても、1万円はいらいない。それほどの大金でした。
当時、次男の輝雄が長野から引き揚げてきて隣に住んでいた。大石さんの話しは、主人に相談してからとしていたが、主人は面会の折「お礼はいつでもできる。ご親切は受けて生き抜いたほうがいい」と、ドイツでの第一次大戦後のインフレの例を教えながら言った。
8年間停止されていた軍人恩給が支給されるようになり、大石さんに辞退したが、その後も貰い続けた。
111 長女も三女も結婚し、次女の満喜枝も再婚した。「東條」という重荷だった姓から離れて幸せな生活を送れると思います。末娘は国際結婚した。主人の在任中は、人のご好意も一つひとつ検討しなければならない心の貧しさを味わってきましたが、逆境の中のいろいろなご親切は本当にありがたいものでした。(1964年、昭和39年6月)

以上 2020619()



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