福原麟太郎 「歴史は書かれた」 東條英機の「最後の日記」評 「文芸春秋」にみる昭和史 1988
ある人は道徳心が足りないと言い、ある人は魔術に取りつかれていたと言う。私は東條が、アプリオリーに、反共で、天皇=日本のやった戦争は正しかったと考えていたと評したが、福原麟太郎さんは謙虚である。「東條さん」と呼びかけ、「東條元大将」と敬意を表し、「一国の運命をひとりでひっぱって行く」と絶賛し、自分については「駄犬を愛して無事に老いを迎えたという経験しかない」と謙遜するのだが、最後の方で、東條の演説口調について述べるのだが、ことばの最初を高音にする独特な言い回しで、東條が「戦争の勝敗は学生諸君の双肩にかかっている」と言うのを聞いているとき、「ああこの人は貴族だなと思った」と語っていることが気にかかった。ここで彼の東條に対する真の評価が述べられているような気がするのだが、それは私の邪推かもしれない。戦前の人が皆そうだったかは知らないが、福原さんは謙虚で、あまり自己主張はしない人のようだ。
ウイキペディアによれば、
福原麟太郎1894.10.23—1981.1.18 英文学者、随筆家。東京高等師範学校卒1917、同校助教授1921、東京文理科大学(東京教育大学)助教授1931、教授1939--1953
以下、抜粋的要約
096 これは「一国の運命をひとりで引っぱって行くだけの自信と剛勇とを持っていた人の最後のことばだ。私などとは背負った荷物の重さや大きさが段ちがいであった。ただこういうものかと思って読むだけである。」
「(1948年)11月12日…のたぶん夜、ラジオを通じて刑の宣告の声を聞いたのであった。
死刑になる方の名の後では「デス・バイ・ハンギング」Death by hangingというそっけもない英語が極めて事務的に続いて読まれた。ただ瞑目して固唾をのむよりほかいしたし方もなかった。そのたびに「そうか」と思った。いわば私たちは、戦争の非情というものに慣れていたのであろう。」
097 「東條家は大名に仕えた能役者の家柄であるということを聞いている。」
「(東條のこのような)平常心が生まれるまでには、花山信勝師の説教が与って力があったろうとも思われる。」
098 「(1943年、)昭和18年10月21日、…寒冷な朝であった。神宮競技場は各大学高専の学生で埋められていた。彼らはおのおの隊伍を組んで校旗を捧げ持ち、この場からすぐ出陣するところであった。正面の壇上には陸軍大将の軍服を凛々しく着た東條首相が立っていた。
学生の一斉敬礼に答えて彼は一場の送別演説をした。私は大学の代表教師として彼のわりあいに近くに立っていた。彼はふっくらとした瓜実顔(うりざねがお)をし、皮膚は白く、豊かな命令者の表情を持っていた。
私は彼の、いつもラジオなどで聞き慣れた、あらゆることばの語頭にアクセントを置く日本語、皇国の興廃はいまや学徒の双肩にかかる、といった発音がすぐそばでなされるのを聞きながら、つくづくその横顔を眺めて、ふと、この人は貴族だなと思った。」
「そして最後に私の思うことは、歴史は書かれたということである。」
1963年、昭和38年11月
以上 2020年6月18日(木)
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