改訂小学読本批判 1933年、昭和8年5月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988
感想 2020年8月19日(水)
斎藤茂吉の文章からは弱々しい印象を受ける。最後にちょっと批判しているだけだ。ものが言えない時代の反映か、それとも斎藤個人の性格のせいか。
斎藤は最初に教科書を褒める、つまり、現政権を褒める。最後にほんのちょっとだけ、批判というよりはむしろ不協和音のようなエピソードを挿入し、斎藤個人としては批判をしているつもりなのだろうか。
自分の子供たちが電話ごっこをして遊んでいる時、なんと、その会話は、「毒ガスが、もうできたかあ」「オーケー!」というのだ。そしてこう付け加える。「彼らは僕の知らぬうちに毒瓦斯のことなどに興味を持って遊んでいるものと見える。」164ただそれだけ。それに関して何の自分の態度も表明していない。
高橋健二のように賢こそうな人には、正直に信念を持って行動してもらいたいものだが、戦時中は大政翼賛会宣伝部長に就任し、ナチ文化を紹介し、軍国主義を扇動しておきながら、戦後、『徹子の部屋』で戦時中のことを尋ねられた際、「あの時代は、あんな風でしたから、何もできませんでしたよ」とだけ答え、大政翼賛会文化部長の経歴には触れなかった。それでは社会はよくならないのではないか。
高橋は戦前・戦後を通じて「ドイツ文学者」とされているが、自身は戦前戦後を通して大きな変化を被っているはずなのに、それを語らない。是非、語ってもらいたかった。
本文中で、高橋はワイマール憲法についてその人権尊重について語り、労働者詩人を教科書に取り入れるドイツの積極的な面を紹介しているが、それは単なる表面的な知識にすぎなかったのだろうか。
「ドイツ憲法の条文にも、全ての人民に人間らしい生存を保証すること、小学校の授業料はただにすることが明示され、失業手当が支給され、社会的施設と教育には特に力を注ぎ、世界中で最も文化の高い国として定評がある。」167
「レルシュのような労働詩人の作まで教科書に入っている。」166
桜井忠温(ただとし)は軍人で作家。日露戦争に従軍して大きな傷害を負い、軍人を続けられなくなったのだろうか。軍人らしい戦争肯定的主張をする。
読本に「兵隊や軍艦や飛行機を入れたことは、『国防観念』からも、もっともいい思いつきだ。こういう時節に生まれた子供に軍事知識を注入しようとする読本の構成は結構なことだ。」168
鈴木文史朗は朝日新聞の記者、政治家。朝日新聞社内の権力闘争で苛められたようで、反緒方竹虎の急先鋒となった。
戦後処理の東久邇宮内閣は、「朝日内閣」と言われるほど、多数の朝日新聞関係者がその要職を占めた。
緒方は1945年12月、A級戦犯容疑者指名、1946年8月、公職追放にあった。
メモ
編集部注
「サイタサイタ サクラガサイタ」の国語教科書は、昭和8年度から登場した。国定教科書の第4期にあたる。四色刷りとなり、皇国意識と国威発揚の傾向が強くなった。この教科書は昭和15年度まで使われた。
「児童のもの」への接近 斉藤茂吉
教科書の挿絵に富士山、軍艦、飛行機(戦闘機)を採用したのは当を得ている。「アヲイソラニ、ギンノツバサ」
東京や大阪などの都市部の子供は色刷りの雑誌を毎月入手できるが、山村僻地ではそういう恩恵に浴することができない子がいくらもいるから、今回の教科書改訂で色刷りとなり、地方の子供たちも喜ぶのではないか。
独逸の小学読本と比較して 高橋健二
164 日独の小学読本の相違点は、
第一に、独逸では日本のように全国一律の国定教科書がなく、各地方区々にそれぞれ必要と環境に応じて工夫したものを出している。
第二に、独逸の教科書が、日本の教科書に比べて無邪気で子供らしく、伸び伸びとした印象を与えるのに対して、日本の今度改訂されたものは、よそ行きで改まりかしこまった感じを与える。そして、日本の教科書の挿絵は、写実的で、線が細かく、色調が薄いが、独逸の一年生の教科書の挿絵は、線が太く、色が濃く、コントラストが強く、模様化されたものが多く、児童の心理に近い。
第三の相違点は、独逸では漢字の障害がないので、二年生の教科書は、文字教育から脱して、国語教育に集中し、ゲーテやメーリケなどの優しい詩が出てくる。さらに以上について補足すると、
第一に、日本でも朝鮮では教科書を特別に編集している。独逸は元来連邦制で、中央集権の傾向が少ないが、ドイツ人の口癖は、「自由と統一」だ。日本は細長い国だから、幾種かの教科書が必要ではないか。日本では仮名遣いが区々まちまちである。また漢字制限をしているが、その効果が出ていない。独逸では標準独逸語が確立している。
第二に、日本の教科書は文章が単純なのに、絵のほうはよそ行きで大人びている。独逸の一年生の授業では、絵について子供に話をさせ、教科書の編集趣旨にも、これが綴り字や発音の入門書ではなく、心理的入門書であると断っている。
日本の教科書の値段は7銭であるが、不況のために7銭でも買えない農村があり、当分は古い本も持たせるとの文部省図書局長の話だ。
感想 本文、初読では感心したが、再読してみると、これといって特に取るものがない。流麗だが内容的に月並な文章だ。筆者がドイツ文学者で、教科書の専門家ではないからなのだろう。
私はこう思う 桜井忠温 省略
「巻一」を通読して 鈴木文史朗
170 今の子供向けの雑誌や絵本は、都会中心であり、それも都会のブルジョアあるいはプチ・ブル階級の子供を対象にしている。子どもはハイカラな流行の洋服を着て、両親も新時代の扮装をし、住宅は恐ろしくモダンである。テーブル、カーテン、椅子などを配置し、葉の浮くような童謡が印刷してある。これは都会の生活としても嘘である。都会の貧困層や田舎の子供たちがこれを見れば、羨望と反感を懐くだろう。教科書についても同様なことが言える。
国定教科書「巻一」には挿絵が40余あり、うち人物が26で、そのうち、桃太郎と舌切り雀の絵が10、残りは16であるが、そのうち、田舎の子供を表した絵は、犬を連れて野原を歩いている子供の絵1つだけである。残りは必ず、描かれている人物の半数かそれ以上が、洋服を着た人で、都会を示している。
僕らが子供であった時代の読本のように、田植え、蓑、傘などを入れて欲しかった。そして、働いている図、例えば、百姓、労働者、新聞配達、鍛冶屋などの絵のほうが、遊楽の図よりも教科書として適切だと私は考える。
昭和8年5月号
以上 2020年8月20日(木)
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