初めて語る五・一五の真相 古賀清志(不二人1908.4.10—1997.11.23) 1967年、昭和42年6月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想
感想 2020年8月13日(木)
古賀は人を殺したことに対して全く罪悪感がないようだ。そのことに関して何一つ言及がないのだ。恐ろしい限りだ。自分のやったことに関して、世間がどう思おうと「もとより」問題にしない、右翼仲間の評判さえよければいい、というのだ。しかも来年は60歳になろうとして、敗戦後20余年も経っているのに、旧態依然、戦前の価値観のまま、まったくお構いなしだ。右翼とはそういう人種らしい。
感想 2020年8月13日(木)
悪者は藤井斉、大川周明、北一輝、安岡正篤*、頭山満、西田税、井上日召などだ。古賀清志は彼等に入れ智慧された。古賀清志は当時24歳だった。古賀にもエリート意識があって、それが行動をもたらした要素もあったかもしれない。海軍兵学校の制服を着ていれば、人に会うときに紹介状は要らなかったとのことだ。135
しかし60歳近くにもなって、言葉で世界の中の自らの立ち位地を正当化できないとはみじめだ。彼にとって自らを正当化できるものは行動しかないのだ。彼は自分の身の回りの行動と感情しか語れない。
事件後憲兵のお偉いさん(秦憲兵司令官)から「国士として扱え!」と言われ、その後血盟団関係者が罪人から英雄に変化したと自慢げに語るが、自らの社会観を示す言葉がない。
そもそもこの一文は、当時自分の行動が右翼仲間から疑われたが、ここでそれを弁明し、今後も右翼活動家として活躍し続けたいとの弁明書なのだが、それに成功したとは言えない。
*安岡正篤(まさひろ、1898.2.13—1983.2.13 陽明学者、哲学者、思想家。素封家の四男。安岡盛治の養子となる。一高、東大法、『王陽明研究』出版。文部省入省後半年で辞す。1923年、皇居内の社会教育研究所の学監兼教授兼教育部長。東洋思想研究所を設立。大正デモクラシーに対して日本主義を主張。拓殖大学東洋思想講座講師。『天子論及官吏論』出版。1927年、金鶏学院設立。1931年、日本農士学校創設。1932年、日本主義に基づく国政改革を目指すとして、酒井忠正、後藤文夫、近衛文麿らと「国維会」を設立し、「新官僚」(1920年代に現れた擬似右翼的な官僚層。後の新々官僚と区別して、革新官僚ともいう。)の本山となった。政界の黒幕と見られ、2年後に解散。その間1933年2月、機関誌『国維』に「篤農協会」結成を宣言。金鶏学院は二・二六事件の首謀者西田税に影響を与えた。北一輝や大川周明の猶存社のメンバー。1944年、大東亜省顧問。
戦後公職追放。1949年師友会(後の全国師友協会)結成。機関誌『師友』(後に『師と友』)発行。全国講演などで東洋古典思想普及活動。1951年、吉田茂総理兼外務大臣と対談。東洋宰相学、帝王学を説き、陰の御意見番と目された。1958年、岸信介、安倍源基(元特高部長)、木村篤太郎(検察官)らとともに「新日本協議会」を結成し、安保改定や改憲運動を展開。
三菱、近鉄、住友、東電を指南。
血盟団事件に金鶏学院関係者の多数が連座。井上日召は、「安岡が金鶏学院への波及を恐れて、当局に密告し、(自らの)検挙の発端となった」と言っている。安岡は、五・一五事件、二・二六事件の首謀者の一員とされた大川周明や北一輝と、東大時代に親交があった。晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、安岡にその著作を贈呈してもらったことに対して謝辞を書いている。安岡は三島の自決を「結果の如何を問わないなど学問ではない」と批判しているが、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し先師(王陽明)に触れていたら…」と述べたという。安岡は権力者に絶大な発言力を持っていた。名のある大物ほど安岡の教えに心酔し、意見や講演を求めた。
要旨
編集部注 五・一五事件で「決起」した青年士官の指揮を取ったのは、元海軍中尉古賀清志で、三上卓と共に首謀者の一人である。
本文
134 あの時私は24歳で、自分の信念をまっすぐ行動に移した。それだけである。起ったことは歴史に記され、人々の心にさまざまな痕跡をとどめた。(人を殺したことに対する謝罪の念はないのか。)過ぎ去ったことに、いまさら本人が何の注釈を加えることがあろう。(無責任)得意になって吹聴するほどのことをした覚えも私にはない。(全く無反省)
24歳のあの日の信念は、来年1968還暦を迎える私の(人生の)中で、少しも形を変えていない。小菅刑務所に服役中、私は独房で清志の名を不二人(ふじと)と改める手続をした。これは啓示に基づく。過去を捨てて生き残った私が、変わらぬ信念を生かそうとして、新しく出発しなおそうとする意味で、改名は好都合だった。(過去を捨てたのなら、それまでの信念を改めるべきではないのか。実は世間の目をごまかすためだったのではないか。)
135 私は同志たちから疑惑の目を向けられた。もとより世間の評判は気にしないが、同志たちの不信は、何より応えた。私は加齢のためばかりでなく、このために禿げてしまった。
同志たちの疑惑は、世間のいう「五・一五事件の謎」につながる。当日私は牧野伸顕内府官邸襲撃の指揮を取ったが、手榴弾を二個投げただけで引き揚げを命じた。しかも第四次の計画では、犬養首相官邸襲撃の指揮を私が取ることになっていたが、最終計画では、私は牧野邸に回った。計画を立てたのは私一人だけだ。「古賀は最初から牧野を殺すつもりはなかった」と見られても無理もないことだ。
私が国家改造に目覚めたのは、中学三年の時だった。佐賀市の私の育った町から、社会主義者やアナキストが出ている。大震災1923のあった年、市の公会堂で「社会科学講演会」が開かれ、私も誘われるまま出かけた。開会の辞から閉会の辞まで、弁士が口を開くか開かないうちに、臨検の警官から「弁士中止!」と声がかかり、会は果てた。この警察の横暴に対する憤りが私の目を開いた。
海軍兵学校に入り、三年先輩に同郷の藤井斉(少佐、後に上海事変で戦死)がおり、この人に大いに影響を受け、大川周明、北一輝、安岡正篤、頭山満などの家に出入した。西田税ともこのころ知り合った。当時の兵学校の制服の威力は絶大で、紹介状なしに、こういった大物たちのところへ木戸御免だった。
私が霞ヶ浦航空隊の海軍飛行学生となってから、藤井斉を介して井上日召を知るようになった。頭山の持論は、「国家改造運動の第一陣は、民間が一人一殺で引き受ける、失敗を覚悟でのろしを上げる、陸海軍人は連合して、第二陣となるべきだ」というものだった。
この井上の持論に従って、昭和7年2月9日に井上準之助の、3月5日に団琢磨の、血盟団による暗殺が成功した。やがて首謀者の井上日召は獄に繋がれた。
そこでつづく我々が準備を進めなければならない。藤井が上海事変で出征した後は、同志の中で東京に一番近くに住む私が、自然、海軍側の「革新運動」の中心になって計画を練ることになった。霞ヶ浦(航空隊)には、海兵(海軍兵学校)の同期で、同志の中村義雄がいた。私は中村と奔走した。
136 私たちは若輩で、相談相手がいなかった。海軍の同志たちは、舞鶴、佐世保、上海に散在していた。軍艦に乗り込んだものもいた。
事件後予審官はこう言って私を𠮟った。「きさま、こんなに重大なことを計画するなら、なぜもっと厳密にやらんのだ」(肯定的)
予審官ばかりでなく大勢の人たちから同じような批判を浴びせられた。当然のことだと思う。
しかし私の身になって考えて欲しい。(甘ったれるな)与えられた準備期間は二ヶ月しかなかった。(もっと時間をかけてやればよかったのに。所詮、自分が中心になってすることだろうに。)
陸軍、民間の同志と連絡を取り、武器を調達し、「目標」を偵察する。計画を立て、それを散在する同志たちに伝達する。しかもこれを隠密に行わなければならない。
私と中村は周囲から疑惑の眼が向けられているようだった。そこで私と中村は仲間たちの前でわざと殴り合いの喧嘩をして見せた。女に絡んで仲違いしたと見せかけた。東京へ行くにも別々の駅から乗り降りした。
計画は事実に裏切られた。武器は、藤井が上海から持ち出したピストルで、血盟団がこのうちの二挺を使っていた。残り三挺を同志の浜勇治が保管しているはずだったが、浜が所在不明になった。後で分かったことだが、血盟団事件でピストルの出所が分かって、浜は捕らえられ、大津の海軍刑務所にいたところを私は出会った。(これはおそらく作戦実行前のことだろう。)
同志の村山(恪之)が上海から、山岸(宏)が鎮海(大韓民国慶尚南道昌原市の区)から、それぞれ横須賀へ転属し海兵団*付になった。出かけてみると、山岸は軍法会議で調べられていた。海軍から血盟団にピストルが流れたことが発覚し、その嫌疑を受けて、内地に送られたのだった。私も身に迫る危険を感じ始め、早く実行しなければと焦った。
*海兵団とは、海軍の陸上部隊で、軍港の警備防衛、兵員補充、教育などにあたり、鎮守府や警備府に設置された。
137 「霞ヶ浦(航空隊)の古賀と中村を調べて見なければならぬ」という結論が5月14日に出たと後で法務官から知った。「14日は土曜日で彼らは外出しているから、月曜日の朝に引っぱって来ることにしよう」ということになっていたとのことだ。
14日の午後2時半、私と中村は、土浦から、トランクの中にピストル、弾丸、手榴弾を入れて電車に乗った。その電車には、憲兵隊長が乗車していた。
机上計画の挫折はその他にもあった。
井上日召や私たちの計画は、血盟団の後継として、陸海軍の同志が一致して立ち上がることになっていた。私と中村は、大蔵栄一、安藤輝三など、後の二・二六事件の首謀者となる青年将校を訪ね、統一行動を促したが、彼らは時機尚早を唱えて反対した。彼等に絶対的な影響力を持つ西田税も、自重を力説した。私たちが聞き入れないので、西田は私たちを誹謗し始めた。
「海軍の連中は結局何もできないから、奴等の言う事をまともに受けるな」という宣伝を方々へ流し始めたのだ。西田は革新運動のブレーキだと私は思った。今奴を斬ったほうが後継の同志がやりやすくなると考えた。こうして西田暗殺を決意した。
陸軍、海軍、民間の三者が一体となって改新に立ち上がることは、私たちの行動に大義名分を付与するから、苦しんでいる農民が止むに止まれず蜂起したという態勢にする必要があった。この行動が国民に与える影響力が、それで大きく違ってくる。私は愛郷塾の人たちを無理に引っ張り込んだ。
うしろから何者かが自分を突き動かしているような気分だった。それが士官候補生たちの純真な魂を揺さぶったに違いない。それで立ち渋る陸軍の中から彼等が行動を共にすることになった。
138 大川周明は青年を引きつける魅力を持っていた。大真面目で犬と喧嘩を始め、しまいには自分も四つんばいになって、向っていくようなところがあった。
1932年、昭和7年、私は何回か大川の家を訪ねた。大川は十月事件(陸軍中堅幹部による未遂クーデター事件1931)を契機に北一輝と「袂を別ち、」陸軍の青年将校たちのほとんどが、北の下に集まるようになっていた。そのことが私たちの行動に彼を踏み込ませたことと関係があるかもしれない。
私は3月27日に初めて計画を大川に打ち明け、拳銃を依頼した。
「4月半ばから5月半ばの間に、命を賭して政党や財閥の連中(後で首相がターゲットだということに触れるのに、牧野内大臣など内閣関係者が欠落)に一撃を食らわせ、国家改造の気運を促したい。手榴弾を使うが、それは上海の同志から手に入れる。ピストルをできるだけ多く都合して下さい。」と私は大川に言った。
私たちの襲撃計画はこの時まだできていなかった。(3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は、土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。)5月1日、第一段襲撃の主要目標を犬養、牧野と定めた。5月13日に、決行期日を5月15日に定めた。4月29日に、私は最後に大川に会った。(牧野襲撃はこの時未定だったと言いたいのだろう。)
誰よりもまず時の首相を斃すことが、当時の私たちの国家改造運動の象徴であった。大川も私の言葉からこのことを察したに違いなく、拳銃も軍資金も都合してくれると約束し、「何人でやるのか」を尋ねた。私が「17、8人だ」と答えると、大川は、「それじゃあ、総理大臣官邸に全力を注いだらいいじゃないか。その他のことは次にしたらどうだ」と言った。(大川になすりつけか)計画についての大川との会話はそれだけだ。「具体的な計画も分からず、武器や金を都合するわけがない」と人は言うかもしれないが、それは同志の信頼関係を理解しない者の言う言葉だ。同志の間では「事を起こす」それで充分なのだ。
139 大川と牧野伸顕とは以前から親しい関係があったと人は言う。牧野を殺さぬように大川が私(古賀)に示唆したのではないかとも人は言う。同志からも「墓場まで秘密を持っていくつもりか」と言われた。
首相官邸組を指揮することにしていた私が、なぜ最終計画で牧野内府官邸に変更したのか、との問いには答えられない、分からない。(ずるい)
私は牧野襲撃の第二組が泉岳寺そばの茶屋に集まって、その日の行動をはじめて打ち合わせたとき、「牧野は驚かすだけにする。攻撃の重点は第二段の警視庁襲撃に置く」と指示した。
士官候補生たち「どうしてやらないのですか。牧野はいないのですか。」
私「いるともいないとも言えない。分からないのだ。しかし、この方針で行く。」
士官候補生たち(の憤懣)は、上官の命令に服する軍人の本能でおさえることができた。その時の彼らの悲痛な声は、それから後絶えず私の耳に残った。(情に訴える)そしてその日の私の行動には、確乎とした自信がなくなった。(ええ)手榴弾を二発投げ込み、向ってきた警官一人を撃っただけで私たちは牧野内府邸を引き揚げた。
140 いるともいないとも言えないということは、首相官邸の場合も同様だった。(それは攻撃の程度を決定する理由にならないのでは。)首相官邸の偵察は池松(武志、元陸軍士官学校本科生。禁固4年)が受け持っていたが、確証はつかんでいない。いると思ってやった。(牧野の場合も同じようにやったらどうだったの)
手榴弾は上海の陸戦隊の倉庫から、三上(卓)が持ち出して来たものだった。陸軍の旧式のものである。35度以上の角度で放り上げないと破裂しない。五・一五事件で手榴弾の不発が多いのは、使用法の不徹底のせいだ。
私たちは、第二段の警視庁襲撃に重点を置いていた。警視庁は権力者の私兵どもの本拠である。最近新撰組のような特別隊ができた。非常呼集がかけられ、華々しい撃ち合いになるだろうと想像していたが、警視庁は静まり返り、投げつけた手榴弾が破裂しても、窓から首を出してポカンと見ている。玄関に向うと、巡査が寄ってきて「何事ですか」と問いかけた。手ごたえがない。
威嚇のつもりで放った一発が別の警官に当たって倒れるのを後にして、麹町の憲兵隊へ自首した。憲兵隊では大騒動だった。「なんだこいつら、わざわざ日曜日にやりやがって」と文句を言う憲兵もいた。私と中村は渋谷の憲兵隊に身柄を移された。(特別待遇か)秦憲兵司令官は「国士として扱え!」と言った。直ちに銃殺かと思っていたので不思議だった。内ポケットに忍ばせておいたチリ紙に走り書きした「計画書」を、便所で見張りの眼を盗んで、細かくちぎって捨てた。
愛郷塾組の変電所襲撃が成功して全東京が暗黒化すれば、戒厳令がしかれ、残った同志が(誰のことか。自然にそういう人が出てくると思っていたのか。)我々の志をついでくれるだろうと思っていたが、電燈は消えなかった。
141 五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死の他に何をもたらしたのか。国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変わった。国賊と呼ばれていた小沼正や菱沼五郎も国士と呼ばれるようになった。
この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったのではないか。私たちの信念は、確かに歴史の流れに転機をもたらした。(自信満々)私はそれ以来変わらぬ信念を、新しい時代(戦後)の若い人たちに伝えることに全力を注いでいるつもりだ。(やめてくれ。)
1967年、昭和42年6月号
以上 2020年8月14日(金)
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