執政に謁するの記 平野嶺夫 1933年、昭和8年2月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988
感想 2020年8月19日(水)
この文芸春秋の記者・平野嶺夫は一体何様なのだ。男装で華々しい川島芳子を介して、筑紫中将の随員として、満州国執政・溥儀に何とか面会でき、日本国民に溥儀の様子を伝えることができる立場にいて、自分が一般の市民よりも上に位しているのだということを見せびらかしたいのか。
満洲国首都新京(現・長春)のダンスホールや売春、満洲開拓団158, 159に狩り出され、貧富の差を唯一の根拠として、教育と称して暴力的仕打ちを受ける東京からやって来た浮浪者たちの惨状などの描写の中に、彼の差別的態度が現れていないか。
ウイキペディア「平野零児」(平野嶺夫1897.2.6—1961.8.26)を読み、河本大作の「私が張作霖を殺した」の、文芸春秋への寄稿のからくりが分かった。実は河本大作がこれを書いたのではなく、河本の満洲炭鉱株式会社理事長時代に、河本の秘書平田九郎が河本の伝記を作るために、平野嶺夫を満炭の嘱託とし、河本にインタビューして記録させた原稿を平田が手書きにして、それを河本の娘*に渡して、それが記事になった。*同一箇所で、義弟が出版したともある。矛盾。
いずれにしても、河本の満炭時代の口述が、河本が中国共産党に捕らわれている間かそれ以前に何らかの形で日本の親族にもたらされ、それが文芸春秋の手に渡ったのだろう。文芸春秋での発表は1954年12月号であり、平野が帰国したのは1956年である。
平野は河本とともに(ただし、河本は中国の収容所で死んで、日本には帰れなかったが)中帰連の一員でもある。戦後の平野は、本文のような戦前の筆致とは違う書き方に転じたのだろうか、それを願うばかりだ。
平野は東京英語学校卒とのこと。1918年、東京日々新聞入社、その後、中央公論社(現在の中央公論新社)と文芸春秋社の特派員として中国に渡り、中国大陸を舞台にした軍事小説を発表。
1956年に帰国。「人間改造――私は中国の戦犯であった」三一書房1956
以上 2020年8月19日(水)
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