ジュネーブの機密室 相馬 仁 1935年、昭和10年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988
感想
満州事変は張学良による破壊工作だと国家によって嘘をつかれ、小学生や中学生が(日本)頑張れと出航する松岡を応援し、本文の新聞記者が日本愛国主義的な論調で語り、イギリスがアメリカ重視の態度を見せるなど、こういう一連の出来事を私自身が当時見聞きしていたならば、私が日本の当時の行動に異議を唱えることができただろうかと不安になるほど、日本愛国的ムードが当時の日本人を取り巻いていたようだ。そして、国際連盟の表決を待っていたかのように、日本軍は熱河に侵攻したという。
国際連盟での日本と諸外国との決裂の原因は、内田外相の方針だったようだ。内田は、イギリスがアメリカを会議に引き入れようとすることに反対した。
相馬仁に関するウイキペディアの記述はない。相馬は日本人的立場にしか立てず、その意味で、日本人を煽る役割もしている。
メモ
編集部注
スイス・ジュネーブのレマン湖畔の平和宮(国連本会議場)で演ぜられた国際外交戦は、まさに日本が主役だった。(文芸春秋編集部1988も愛国主義的論調)これは当時の新聞特派員が報ずるその内幕である。1932年、昭和7年11月の松岡全権が乗り込んでから以降の部分を掲載する。
本文
179 敦賀で小学生、女学生、中学生が、ウラジオ行きの天草丸甲板上の松岡全権に向って「全権しっかりやって下さい!」
それに対して松岡は泣きながら、「皆さん――どうぞ勉強して――えらいものに――なって下さい!」
僕は全権と一緒に日本を発った。
180 僕の東京への新聞電報「(ジュネーブ11月20日発)帝国の国運を賭して闘う連盟理事会はいよいよ明日の11月21日午前11時(日本時間午後7時)より、日支両当事国に14理事国代表の出席の下に開かれる。松岡全権の根本方針は、昨年1931年9月18日以来の我が行動(満州事変)が、まったくやむを得ざる自衛権の発動に基づくものなることを説明し、連盟をして満洲の現状を承認せしめるにあり。我が牢固たる決意は一寸の譲歩も許さぬ背水の陣だ。」
「国際連盟理事会の陣容は、議長アイルランド首相デ・ヴァレラ、大国側は、英国外相サイモン、ドイツ外相フォン・ノイラート、イタリアはムッソリーニ外相の副大臣アロイジ男爵、フランスはボンクール陸相であり、小国側は、スペインはズルエタ、チェコスロバキアはベネシュ、ノルウエーはブランドランド、ポーランドはベックで、4人とも外相である。」
松岡代表の秘書は鈴木崧(たかし)と朴錫胤(ぼくしゃくいん)である。
総会二日目の12月8日(の夜)、ケイ・ウイルソンのカバレ・キュルザールで、日本代表部主催により、満洲映画が上映された。フランスのボンクールやスイス大統領のモッタなども鑑賞した。
昼の公開会議では、松岡代表が、満州国否認の四小国決議案(スペイン、スエーデン、アイルランド、チェコ提案)撤回の動議を出した。
映画会の後は舞踏会で、スイス国旗と日本国旗が交叉された下で、各国の随員や記者たちが踊った。
181 その晩(12月8日)、近所の英国代表部で、重大提案が審議されていた。
英国は連盟に70%の勢力をもっていた。英国は当初から「実際的」解決を図ってきたが、このころ対日硬化し始めた。その原因は対米関係だった。英国は満洲問題の解決に米国の参加を希望していた。
(これより2日前の)12月6日夜9時、ホテル・メトポールに、フランス首相エリオーが、松岡に帰国の挨拶にやって来た。エリオーは英国首相マクドナルドと共にパリへ発った。対米債務問題をパリで交渉するためだった。それは満洲問題と関係していた。
前年1931年、フーバー・モラトリアムによって延期されていたアメリカへの戦債支払期限がその年1932年12月15日に差し迫っていた。ドイツがパニックで賠償を支払えなくなったので、フランスにとっては大問題だった。英首相のマクドナルドは、英国は支払うと決めており、フランスにも米に払うように勧め、対米支払の共同を促した。英米協調は不変の鉄則だったから、英国は米仏協調とともに、日本にも対米協調を勧めた。
東京では(12月)13日、英国大使リンドレーが内田外相に、「満洲問題の和協的解決の為、和協委員会に米国を招請することを承諾されたい」と申し入れた。内田外相は、(11月の連盟理事会での)13対1(の採決)以来の(日本の)国民的感情を述べて、米国の参加を拒絶した。
英国の目論見は、①米国を入れた(和協)委員会に満洲問題を移せば、連盟のような多数の国からなる会議でやるより円満に解決できるという日本への好意と、②その頃噂されていた、将来日本軍が熱河経略からさらに北支に進出することが起る場合、英米協調が必要だという功利的策略と、③世界市場における日本品の跋扈に対する報復などであり、さまざまな意味が込められていた。しかし、内田がそれを蹴ったので、日米協調は不調になり、また、日本と連盟との衝突はこの時不可避になった。
英仏の対米協調に同意したフランスのエリオー首相は、12月15日、ケー・ドルセーの信任投票に敗れ、エリオー内閣は総辞職し、結局、英仏協調は破れた。また日英協調も難しくなり、英国は米国に接近した。
その同じ12月15日、ジュネーブでは、イーマンス議長が、日本の反対にもかかわらず、英国案の非連盟国米国招請をいれた決議案と、日本の反対にもかかわらず、四小国案を取り入れた満州国不承認の理由書草案を可決した。(これは後述の十九人委員会らしい。)
182 その夜(12月15日の夜)、メトロポールの会議室で、十九人委員会の決議草案について(日本の)代表部会が開かれていた。午前2時、松岡代表が出てきた。
日本代表部は連盟案に対してすぐに修正案を出した。両者対立の形勢は緩和されず、クリスマス休会となった。
英米は共同戦線を張った。連盟50余カ国はそれを後援している。
二つの勢力が満州事変以来抗争してきた。米国招請と満州国否認が問題の焦点だ。
「『満洲の事態が進行中であるから、今すぐ不承認決議をすることを避け、非連盟国(米国)の招請は明文上から削除し、追って必要な場合は、日支直接交渉を援助する意味で、干渉を排除するように権限を定めておくならば、考慮してもよい』という外交工作による外はない。それは理事会に(米国を)オブザーバーとして参加させるのとは全く違うから、さしつかえない」と松岡代表は考えた。
1月になってからの杉村・ドラモンド交渉も同様の趣旨で進められた。つまり、松岡や杉村は、連盟の空気を察知し、「脱退するつもりがないならば、この程度で和解するのが最後だ。これ以上要求すれば、満州国不承認と手強くやってくるから、日本にはこの方が痛いし、そうなると、どうしても脱退する外なくなる。和解するなら今だ」と見限りをつけたのだ。その案は1月13日に請訓*された。(*政府に訓令を要求すること。)
ところが本国の内田外相からは、「大体よいが、米国の招請はどんな意味でもいけない。まだ脱退の肚が決まったわけではないが、米国の参加は無害であっても、とにかく米国の参加というだけでもう受諾できぬ。だから連盟には、(米国の)全面削除まであくまで押してみよ」という訓令が来た。
1月16日、十九人委員会が再開した。委員たちは杉村・ドラモンド交渉に関して、「我々の留守中、ジュネーブで交渉するとはけしからぬ、事務総長(ドラモンドらしい)の越権である」と主張し、クリスマス休暇前に十九人委員会が、議長と事務総長と日本側との連絡を保つことと決定していたことを忘れ、杉村・ドラモンド交渉の試案を否認した。
さらに、日本本国からは米国招請をあくまで削除せよというのだから、その趣旨に従って修正案を十九人委員会に提出すると、委員会は、「日本は満州国否認より、米国招請の方を重大視して、削除を要求するのか。それなら日本の(米国排除の)要求をいれる代わりに、12月15日の草案の他の(残りの)部分、つまり、満州国不承認を受諾せよ」とした。これで(日本の)ジュネーブ代表部が作り上げた空気は打ち壊しになった。
1月18日、十九人委員会は、和協の道は閉じないとしつつ、第15条第4項による、日本の諾否に拘わらず押し付ける勧告の起草に取り掛かった。
183 松岡全権が脱退の他なしと見極めたのはこのころではないか。内田外相が欲を出しすぎたため、脱退しないで済ませられるように代表部が仕上げてきたものを、脱退の方向に向けてしまった。そのころ東京の肚はまだ脱退とは決まっていなかった。脱退の動機を作ったのは内田外相で、松岡は和協したかった。
その後、熱河進撃の報に英国の態度は硬化し、和協工作はますます困難になり、2月21日、採用(表決)のための総会が開かれることになった。代表引き揚げの訓令はこのころようやく到着した。
2月24日、脱退(退場)の日の総会で、午後1時25分、リスアニア、ベネズエラ、カナダ三国代表の演説が終わり、カナダ代表が降壇すると、イーマンス議長が、「これより日支紛争に関する規約第15条第4項による報告並びに勧告案の表決を行う」と宣言し、「出席者は当事国を入れて44カ国」と付け加え、報告した。
正面一段高い壇上に議長イーマンス、その隣にドラモンド、その後ろに杉村次長が見える。(一緒に退場したのか。おそらくしなかったのではないか。)
各国代表席のモッタ、マダリアガ、ノイラートらは「それ見たか日本」というような顔をしている。
184 ボンクールの顔も見える。松岡、長岡、佐藤の三代表と代表部の人達も見える。
壇上で書記官が、ABC順にロールコールをする。各国代表は「イエス」「ウイ」の連発だ。
「ジャポン」に対して、「ノー」と松岡が叫んだ。議場に振り上げた松岡の剣のきらめきが光った。午後1時25分だ。
「イエス」「ウイ」が続く。当たり前のことを当たり前のように片づけたという感じがしたので、一種の悲しみを僕に感じさせた。
突然「アブスタンシオン(棄権)!」という声がした。隣のデルソーに訊くと「シャムだよ」とのこと。後で訊くと、パドラデアジという若い書記官が、本国の訓令で答えたのだ。
日本の反対宣言よりもこの方が一般にショックを与えたらしい。
「評決の結果、賛成42、反対1を以て報告並びに勧告案を可決します。」と議長が宣言した。
それに続けて「日本代表ムッシュ松岡!」と議長が松岡代表の発言を許した。午後1時半だった。
「…日本政府は日支紛争に関し、国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない!」荘重な言辞だった。
185 議場は松岡に呑まれてしまった。松岡は報告書反対の宣言の朗読演説を終え、壇上から議場内を見下ろし、一言日本語で「さようなら」と付け加えた。
日本の全権席から松岡全権を初め、三代表が立ち上がった。三人は一列になって議場の間を抜けて廊下に出た。僕は松岡らを追いかけた。
議場に戻ると、ひときわ目立って元気そうに見える支那代表の顔恵慶の一行が出てきた。皆無理に賑やかにしているように、僕には感じられた。
その翌日の2月25日、10万の満州軍が三路に分かれて堂々と熱河に進撃を開始した。
1935年、昭和10年4月号 (1932年の出来事なのに、その3年後に発表している。なぜか。)
以上 2020年8月25日(火)
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